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つぶやきすれっど2

1972犀角独歩:2006/03/27(月) 22:51:17

―1971からつづく―

■日蓮聖人持仏は聖人のご自作のこと

「随身仏、この表現はいかん」と、中尾堯先生はいうので、いまは持仏とさせていただきます。
日蓮門会一般の伝承認識として、このお像は伊東配流の際、船守弥三郎から献上されたものだとなっています。
しかし、その成立を日興上人滅後90年、聖人滅から140年目の成立であるとする高木豊師がいう『五人所破抄』では、日蓮聖人自らが刻まれたものであるといいます。すなわち

「五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや云云」

とあります。これを雪仙日亨は訳解して

「五人一同の義には先師日蓮の御奉持になつていた釈迦牟尼の立像仏は・勿体なくも弘長元年伊東御流罪の時に彫刻せられて・弘安五年池上御入滅の時まで御身を離さず奉持せられたもので・あるを・何とて遺弟の身とて容易く彼是と非難をしてよからうや・唯仰いで信敬すべきぢや云云」

といいます。最近は、どうも記憶力が減退し、文献を失念しましたが、船守弥三郎の寄進は浮木であったという文献が確かありました。
この「忝くも」「勿体なくも」は「刻み」に掛かる語ですから、日蓮聖人を指していることになります。ここで刻んだというわけですから、海中出現とは齟齬を来すことになります。実際に古文献を調べても、海中出現を指示するものには当たれなかった記憶があります。

さて、聖人お手製本尊となれば、その崇敬は高いのは当然で、日興上人作とされる『原殿御返事』に

「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」

と‘第二転’とは、つまり、日蓮聖人お手製の仏の第二転という意味であろうと、わたしは考えます。ただ、この日朗上人を記述する文面が、本当に日興筆であるのか、やや疑問は残ります。いずれにしても、日蓮聖人お手製持仏という文献は、以上の如くとなります。

■字像漫荼羅の不動愛染勧請の理由

『不動愛染感見記』は真筆か、という問題は、さておいて、不動愛染が梵字で図示される理由は、富士門流信徒の掲示板に顕正居士さんが宝珠曼荼羅を引きご賢察を示されたわけです。そこから、調べたところ、たしかに摩尼宝珠漫荼羅という真言の曼荼羅がありました。中央、宝珠に脇士は不動愛染です。

ただ、この摩尼宝珠曼荼羅の場合、中央宝珠を、どのような解するのかという点で、日蓮聖人とは異なるであろうと思います。聖人は、もちろん、一念三千を宝珠と考える立場でしょう。『本尊抄』に「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ」という珠の正体は、この文脈からすれば、一念三千に他なりません。そして、この珠は、聖人が虚空蔵求聞持法を修して「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候」という珠と一致するのであろうと、わたしは考えます。そして、一致こそ、顕密相対し、聖人のなかで生じる整合性であるとわたしは拝します。つまり虚空蔵を介する密教宝珠を一念三千と翻訳し、上行所伝の妙法蓮華經の五字と一致させ、ここに法華によって、聖人の密教を開会されたのではないでしょうか。

その宝珠を上行所伝の妙法蓮華經の五字に裏み、霊鷲山出現の宝塔中における四菩薩への附属の儀式を併せて表現したのが、字像漫荼羅であれば、密教に精通した日蓮聖人であれば、宝珠の脇士に不動愛染を置かれるのは、むしろ必然というほかありません。『不動愛染感見記』を引き合いに出すまでもなく、不動愛染の勧請は説明が着きます。


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