[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
つぶやきすれっど2
60
:
アネモネ
:2002/12/22(日) 10:30
モモさん>私がアネモネさんに「(大石寺を)信じない人の理論ではないですか」
この言葉、実はモモさんに言われたのが初めではないのです。所属寺院の方からもよく言われてきた言葉なのです。モモさんのことだけを指して書いたのではありません。そして、私はこの言葉には敏感なんですね。差別という悪意のつもりはないことはわかってますよ。だから、潜在的に…と書いているのです。それが差別になりかねない考え方だということ、なかなか気がつかないものなんです。でも、「差別」という言葉に反応したモモさんは、どこかで私の言ってることも理解しつつあるのではないでしょうか。それこそ潜在的に気づきはじめている。そんな印象も受けます。
それから、「功徳」とは何かということも、オフ会でも出たことですが、確か認識を誤って理解されているといった話が出たのではなかったでしょうか。いま一度、あの場での功徳の話を聞きたい気がします。
乞食信心という表現がありますが、私としては、法華講で当たり前に使われていた功徳という言葉は、どことなく何かの見返りを期待するために功徳を積むという、損得勘定で認識されているような感じをうけ、先にキリスト教を経験している私としては、まさに乞食信心のようで、どうも馴染めないのです。
キリスト教が説く「無償の愛」のほうが、高い境地にあるような気がするんですね。これはキリスト教のほうが正しいという話ではありません。ただ仏教が目差す本当の素晴らしい慈悲の教えが、正しく今日に伝えられていないのではないかと感じるのです。いちりんさんや、独歩さん、そしてみかんさん方が、研究なさってこられた内容を伺っても、感じていることは、そんなに外れたことではないと思うんですね。やはり、原書や文献をきちんと追って、体系立てて勉強していくことは重要なことだと思います。そのうえで、個人的宗教体感というものを全面に打ち出すならば、また聞く側に響くものもあるかもしれません。
どんな宗教にも、個人的体感や奇跡話があるということも、オフ会で出てましたね。個人的な思いでもって、その教えの正しさは結局は、どこまでいっても個人的な体感を超えるものではなく、その教えの正しいを本当に証明することはできないと思います。
しかしだけど、個人がその教えによって、どのような考えを確立し、どのような人格となって、どのような心でどのような行いをしているのか、ということではもしかすると、その教えの素晴らしさを示せるのかもしれません。それが宗教の実践ということなのではないかと思います。その見地からいって、法華講での指導の内容は、私にとっては求めるものが違っていたという気がするのです。しかし日蓮聖人への敬慕、さらに仏教への崇拝を捨てたというわけではないのです。
> 二元論で考えることは有効な思考方法であると同時に危険が伴う場合があると思います
私もこの発言は意味がとれないのですが、私の前のレスの説明が二元論だということなのでしょうか。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板