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つぶやきすれっど2

615みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/06/02(月) 13:58
正しい唯一真正の仏教などないですし、釈迦が生きる上での正しさの源泉・根拠でもありません。そう理解しても生きていくのにまったく支障はないわけですが、信仰者にとってはどこかに正しさの根拠、正しさを保証してくれる権威がないと、生きることに支障が出てくるわけです。もちろんその支障は自分自身が仮につくり出しているに過ぎないものですが。

学問的な意味での思想研究における重点は、もちろん、研究対象の価値としての正しさ(正義)を証明することではありません。研究対象を正確に理解するということです。その際、研究対象が価値として正しいかどうかは普通、問題になりません。研究対象を価値評価することが、思想研究に於いてないわけではありませんが、その場合価値づけする根拠は、研究対象の思想が、この現実世界のより正確な記述・理解になっているかどうか(あるいは、世界を正確に記述できることが不可能であることを明らかにしているかどうか)です。信仰の対象・価値の根拠・権威として「正しい」と言うことを問題にするわけではありません。

そういう意味で、正統派仏教(と研究者本人が思うもの)を基準として、それから外れているからこれは仏教ではない、あるいは仏教として堕落していると批判する研究は、学問研究としてはある面で失格です。それは研究者の信仰告白でしかないから。正統派仏教から本覚思想を批判する研究や、正統派日蓮教学から日寛教学を批判する言説を見かけますが、そういったものは信仰上の営みでしかありません。

本覚思想研究をするなら、それと伝統仏教教説や正統派天台宗教学を較べて価値判断するものであってはいけないと思います。本覚思想それ自体の内在的構造を明らかにするものでなければなりません。その上で、その構造が世界理解として妥当かどうかを問題にすると言うことはあり得ます。

同じように、日寛の思想が正統派仏教と違うから、あるいは日蓮本人の思想と違うから、日寛の思想は間違っているという言説は、あまり意味がありません。日寛本人の思想の内在的な研究になっていないからです。たとえば、日寛が日蓮本仏論にたつのは、釈迦本仏である正統派仏教教説、あるいは日蓮の思想と異なるから「間違っている」というのは意味がありません。(異なるということを指摘することまではある程度意味があります。しかしそれ故間違っているというのには信仰者に取ってしか意味がありません)。釈迦を本仏と呼ぼうが、日蓮を本仏と呼ぼうが、それはいずれも、実際に生存した人間としての実在した釈迦なり日蓮なりとは関わりがないわけです。別のものです。本仏・報身仏への名付けとして仮に、釈迦なり日蓮なりという名前を付けたに過ぎません。それを釈迦本仏だから正義で、日蓮本仏だから誤りであると言うのは信仰者に取ってしか意味がありません。本仏を日蓮と理解するひとがいても何ら問題はないわけです。それは世界理解の一つのあり方でしかありません。その世界理解が世界の記述として正確であるかどうか(あるいは世界理解の限界を明らかにしているかどうか)はまた別に解明しないといけない問題です。

もちろん以上のことは、日寛の思想が価値上の意味で正しい(正義である)ということを意味しているわけではありませんし、日蓮正宗教学が正しい(正義である)ということを意味しているわけでもありません。単に日寛の思想が、自立した思想体系として、日蓮の思想や、伝統仏教の思想とは別のものであるということを言っているに過ぎません。


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