鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
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前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/
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訂正
前スレURL
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世界には多くの政治的指導者や独裁者が現れては消えていったが、皆混乱を増すばかりだったのじゃ。
その者達自身が混乱していたからなのじゃ。
実際には欲しても居ない権力とか理想に取り付かれていたのじゃ。
そのような混乱から混乱を生み出して行ったのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第三章 個人と社会 2
問題を理解したいと願う精神は、問題を完全に、全体的に理解しなければならないだけではなく、それにすばやく付いていくことができなければなりません。なぜなら、問題は決して静止していないからです。問題はいつも新しいのです-飢餓の問題でも、心理的な問題でも、どんな問題でも、です。どんな危機もいつも新しいのです。ゆえに、それを理解するには、精神はいつも新鮮で、明晰で、その追求においてすばやくなければなりません。私が思うには、私たちのほとんどは、内側の革命の緊急性を悟っているのです-それのみが外的なもの、社会の根本的変容をもたらしうるのです。これが、私自身と真剣に意図を持つ人たち皆が専心している問題です。どのようにして社会に基本的、根本的変容をもたらすのかが、私たちの問題です。この外的なものの変容は、内的革命なしには起こりえません。社会はいつも静止しているから、この内側の革命なしに成し遂げられるどんな行動、どんな改革も、等しく静止的になるのです。それで、この常なる内側の革命なしには、希望はないのです。なぜなら、それなしには、外的行動は反復的、習慣的になるからです。あなたと他の一人との間の、あなたと私との間の関係の行動 [・作用] が社会です。そして、この常なる内側の革命、創造的、心理的変容がないかぎり、その社会は静止的になります。それは命を与える性質がありません。そして社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないからです。
あなた自身と、あなたのなかとまわりの悲惨、混乱との[間の]関係は何でしょうか。確かにこの混乱、この悲惨は、それ自体で生じたのではありません。あなたと私がそれを造り出したのです。資本主義の [社会] でも共産主義の [社会] でもファシストの社会でもなくて、あなたと私が、私たちの互いとの関係においてそれを造り出したのです。あなたが中で何であるかが、外に、世界に投影されてきたのです。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常の存在ですることが、外側に投影されるし、それが世界を構成するのです。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との [間] 、私自身と他の一人との [間の] 関係が社会であるからです-社会は、私たちの関係の産物です-私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制限されて、国家主義・民族主義的であるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-3-2b
内側の革命のみが、社会の根本的変容をもたらしうる。社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないから。
自身と、まわりの悲惨、混乱は、それ自体で生じたのではない。私たちの互いの関係においてそれを造り出した。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常することが、外側に投影されるし、それが世界を構成する。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になる。なぜなら、私自身と他の一人との 関係が社会であるから。私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制されるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらす。
(´・(ェ)・`)
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世界とは自らの心が作り出すものであるから、自分の心が悲惨で混乱していれば世界もそう見えるのじゃ。
心から悲惨と混乱が取り除かれれば、世界からもそれはなくなるのじゃ。
世界の変化は自らの心の変化なしには達成できないのじゃ。
自らの心を全体として理解すればそれは達成されるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第三章 個人と社会 3
あなたのあるがままが世界なのです。それであなたの問題は世界の問題なのです。確かにこれは単純で基本的な事実なのではないでしょうか。一人との、または多数との私たちの関係において、私たちはどういうわけか、いつのときもこの点を見過ごしているように見えます。社会を造り出すのは [あなたと私であること] 、自分たちの生き方によって混乱か秩序をもたらすのは、あなたと私であるということを忘れて、私たちは体系をとおし、体系に基づいた観念や価値における革命をとおして、変更をもたらしたいのです。それで私たちは近くから始めなければなりません。すなわち、私たちの生計の立て方に [露呈し] 、観念や信念との関係に露呈している [ところの] 私たちの日常の生存に、日常の思考と感情と行動に、自ら関心を持たなければなりません。これが私たちの日常の生存なのではないでしょうか。私たちは生計の手段に、仕事を得ること、お金を稼ぐことに関心がある。私たちは自分たちの家族と、自分たちの隣人たちとの関係に関心がある。そして観念に、信念に関心がある、ということです。そこで、あなたが私たちの従事していること [・職務] を検討するなら、それは基本的に妬みに基づいています。それはただ生計を立てる手段のみではありません。社会は常なる葛藤・抗争 [の過程] 、常になろうとする過程であるように、構成されているのです。それは貪欲に、妬みに-あなたより上位の人への妬みに基づいているのです。事務員は経営者になりたいのです-それは、彼がただ生計を、生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を取得することに関心があるということを、示しています。この態度は当然、社会に、関係に荒廃を造り出します。しかし、もしもあなたと私がただ生計に関心があるだけであったなら、私たちは、それを得る正しい手段を、妬みに基づかない手段を、見出すでしょう。妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つです。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているからです。それは究極的に政治につながります。両者は密接に関係しています。事務員は経営者になろうと努めるとき、戦争を産み出す [ところの] 武力外交の創造の要因になるのです。それで彼は直接的に戦争に対応する [能力・] 責任があるのです。
私たちの関係は何に基づいているでしょうか。あなた自身と私自身との [間] 、あなた自身と他の一人との [間の] 関係-すなわち社会は、何に基づいているのでしょうか。確かに、愛に [基づいているの] ではありません-私たちはそれについて話をするけれども。それは愛に基づいていません。なぜなら、もしも愛があったなら、あなたと私の間に秩序があるでしょう、平和が、幸せがあるでしょうから。しかし、あなたと私との [間の] その関係には、尊敬の形を装う多大の悪意があるのです。もしも私たちが共に思考において、感情において等しかったなら、尊敬はないでしょう。悪意はないでしょう。なぜなら、私たちは弟子と教師としてではなく、また妻を支配している夫としてではなく、また夫を支配している妻としてでもなく、出会っている二人の個人であるであろうからです。悪意があるとき、支配したいという欲望-すなわち嫉妬、怒り、激情を喚起するもの-があります。そのすべてが、常なる葛藤・抗争を-すなわち私たちがそれから逃避しようとするものを-私たちの関係に造り出します。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出すのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-3-3
社会は常なる葛藤・抗争の過程、常になろうとする過程であるように、構成されている。それは貪欲に、より上位の人への妬みに基づいている。それは、ただ生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を得ることに関心があることを示している。この態度は、社会に、関係に荒廃を造り出す。
妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つ。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているから。
社会は、愛に基づいているのではない。なぜなら、もしも愛があるなら、秩序が、平和が、幸せがあるだろうから。
もしも私たちが共に思考、感情において等しかったなら、尊敬はない。悪意はない。なぜなら、私たちは支配関係ではなく、出会っている二人の個人であるであろうから。
そのすべてが、常なる葛藤・抗争を、私たちの関係に造り出す。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出す。
(´・(ェ)・`)
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うむ。
くまの中の鬼和尚が、くまに語りかけ、
くまの中のケロヨンに、くまは語りかける。
で、ありますね。
(´・(ェ)・`)b
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↑そうじゃろう。
社会の職務でさえ妬みに基づいているというのじゃ。
もっと金や地位のある者への妬みから金や地位をもっと欲しがるのじゃ。
その動機が妬みであるから社会には破壊の関係があるのみなのじゃ。
欲が更なる葛藤を生み混乱と悲惨があるばかりなのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第三章 個人と社会 4
そこで、私たちの日常の生存の一部分である諸観念、信念、定式化に関しては、それらは私たちの精神を歪めていないでしょうか。というのは、愚かさとは何でしょうか。愚かさは、精神が造り出すそれらのものごとに、または手が産み出すそれらのものごとに、間違った価値を与えることなのです。私たちの思考のほとんどは、自己保護的な本能から発生するのではないでしょうか。私たちの諸観念は、ああ、それらのあまりに多くが、間違った意義、それら自体にはないものを受け取らないでしょうか。ゆえに、私たちは宗教的でも経済的でも社会的でも、どんな形でも信じているとき、神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、確かに、間違った意義を信念に与えているのです-それは愚かさを表示しています。というのは、信念は人々を統合せず、分割するからです。それで私たちは、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、平和か抗争を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかるのです。
それで私たちの問題は、静止している社会 [がありうるの] と同時に、この常なる革命が起きている個人がありうるのかどうか、ということなのではないでしょうか。すなわち、社会の革命は、個人の内的、心理的変化から始まらなければなりません。私たちのほとんどは、社会構造に根本的変化 が [起こるのを] 見たいのです。共産主義的な [手段] または他のどんな手段をとおしてでも社会的革命をもたらすこと-それが、世界で起きている戦いの全体です。そこで、社会的革命-すなわち人の外的構造に関する行動-があるなら、その社会的革命がたとえどんなに根本的であるとしても、個人の内側の革命がなく、心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的なのです。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須なのです。というのは、内側の心理的革命のない、たんなる外的なものの変容は、ほとんど意義がないからです。すなわち、社会はいつも凝結し静止的になりつつあるし、ゆえにいつも崩壊しつつあるのです。たとえ法制度がどんなに多く、どんなに賢明に公布されるとしても、社会はいつも衰退の過程にあるのです。なぜなら、革命はたんに外側にではなく、内側に起こらなければならないからです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-3-4
観念、信念、定式化は私たちの精神を歪める。
愚かさとは精神または手が産み出ものごとに、間違った価値を与えること。
神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、間違った意義を信念に与えている。それは愚かさを表示する。というのは、信念は人々を統合せず、分割するから。それで、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかる。
心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須。
法制度がどんな多くても、社会はいつも凝結し静止的になりつつあり、いつも崩壊、衰退の過程にある。なぜなら、革命は外側にではなく、内側に起こらなければならないから。
(´・(ェ)・`)
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社会が変革しても個人の内側に変容が無ければ何の意義も無いというのじゃ。
社会が幾ら変ったとしてもやはり権力闘争は続いてくのであるからのう。
イデオロギーの変化とか体制の変化と言っても実は何も変っていないのじゃ。
個人の心の変容だけが真の変化なのじゃ。
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うむ。
Kは、個人の戦い方の見本を見せたのでありましょうか?oshoと同じでありますね。
(´・(ェ)・`)b
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最初と最後の自由 第一部
第三章 個人と社会 5
これを理解し、おろそかにしないことが重要であると、私は思います。外側の行動は成し遂げられたとき、終わっています、静止しています。個々人の間の関係、すなわち社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、ゆえに彼を等しく静止させ、反復的にするのです。これを悟ると、この事実のとてつもない意義を悟ると、同意や不同意の問題はありえません。社会はいつも凝結し、個人を吸収しつつあること、常なる創造的革命は、社会にではなく、外のものにではなく、個人にありうるだけだということは、事実です。すなわち創造的革命は、個人の関係-それが社会です-においてだけ起こりうるのです。私たちは、インド、ヨ-ロッパ、アメリカ、世界のあらゆる地域の現在の社会の構造が、いかに急速に崩壊しつつあるかが、わかります。そして私たちはそれを、自分たち自身の生の中で知っています。私たちは通りを進んでゆきながら、それを観察できるのです。私たちの社会がぼろぼろに崩れかけているという事実を、偉大な歴史家に教えてもらわなくていいのです。そして新しい社会を創造するには、新しい建築家、新しい築き手がなければなりません。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければなりません。そういう建築家はまだ存在していません。築き手は誰もいません。誰一人、観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させようとしていません。それが私たちの問題です。私たちは、社会がぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのが、わかります。そして建築家でなければならないのは、私たち、あなたと私なのです。あなたと私が価値を再発見して、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築かなければならないのです。なぜなら、私たちは職業的建築家、政治的、宗教的建設者に頼るなら、まさに前と同じ位置にいるであろうからです。
あなたと私が創造的でないから、私たちは社会をこの混沌に陥らせたのです。ですから、あなたと私が創造的でなければならないのです。なぜなら問題は切迫しているからです。あなたと私は、社会の崩壊の原因に気づいて、たんなる模倣にではなくて私たちの創造的理解に基づいた新しい構造を、創造しなければなりません。そこで、これは否定的考えという意味を含んでいるのではないでしょうか。否定的考えは、最高の形の理解です。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならないのです。なぜなら、問題-すなわちあなたと私が、社会の新しい構造を築くために、創造的でなければならないということ-への肯定的接近は、模倣的になるからです。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、私たちはそれを肯定的体系、肯定的定式、肯定的結論をもってではなく、否定的に究明し、検討しなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-3-5
社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、静止させ、反復的にする。新しい社会を創造するには、新しい築き手がなければならない。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければならない。
誰も観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させ、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築こうとしていないことが、問題。
否定的考えは、最高の形の理解。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならない。なぜなら、問題への肯定的接近は、模倣的になるから。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、否定的に究明し、検討しなければならない。
(´・(ェ)・`)
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>>14 そうじゃろう。
人がなすべきことは自らの心を変容させることだけなのじゃ。
それは自らを観ることで成し遂げられるのじゃ。
それだけが真の変容への道なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第三章 個人と社会 6
なぜ社会は、確かにそのとおりなのですが、ぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのでしょうか。基本的理由の一つは、個人が、あなたが創造的であるのを止めたということです。どういう意味なのかを説明しましょう。あなたと私は模倣的になってしまいました。外側でも内側でも、私たちは真似をしています。外側で、技術を学んでいるとき、言葉のレベルで互いに疎通しあっているとき、当然何らかの模倣、真似がなければなりません。私は言葉を真似ます。技師になるには、私は初めに技術を学び、それからその技術を橋を建てるために使わなければなりません。外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければなりません。しかし内側の心理的模倣があるとき、確かに私たちは創造的であるのを止めるのです。私たちの教育、私たちの社会構造、私たちのいわゆる宗教生活は、すべて模倣に基づいているのです。すなわち私は特定の社会的または宗教的定式にはまりこむのです。私はほんとうの個人であるのを止めてしまったのです。心理的に私は、ヒンドウ-教徒のでもキリスト教徒のでも仏教徒のでもドイツ人のでもイギリス人のでも、一定の条件づけられた応答を持ったたんなる反復的機械になってしまったのです。私たちの応答は、東洋のでも西洋のでも、宗教的でも唯物的でも、社会の様式に応じて条件づけられているのです。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣です。そして崩壊する要因の一つは指導者です-その本質そのものが模倣です。
崩壊する社会の本性を理解するためには、あなたと私が、個人が創造的でありうるかどうかを探究することが重要なのではないでしょうか。私たちは、模倣があるとき崩壊があるにちがいないということがわかります。権威があるとき真似があるにちがいありません。そして私たちの精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければなりません。創造性の瞬間、それらのむしろ生き生きした興味のある幸せな瞬間には、反復の感覚がない、真似の感覚がないということに、あなたは気づいたことはないでしょうか。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せなのです。それで私たちは、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-3-6b
社会が崩壊しかけている基本的理由の一つは、個人が創造的であるのを止めたこと。
外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければならない。しかし内側の心理的模倣があるとき、私たちは創造的であるのを止める。特定の社会的または宗教的定式にはまりこむ。個人であるのを止めてしまう。心理的に一定の条件づけられた応答を持った、たんなる反復的機械になってしまった。応答は、社会の様式に応じて条件づけられている。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣。
精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければならない。創造性の瞬間、幸せな瞬間には、反復、真似の感覚がない。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せ。それで、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかる。
(´・(ェ)・`)
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社会は常に崩壊しかけているのじゃ。
それも人々が記憶に依存して同じ行ないばかりしているからなのじゃ。
常に新しい現実に対応できていないのじゃ。
常に死んだように静止しているのが社会なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第四章 自己認識 1
世界の問題はあまりに巨大で、あまりに複雑なので、それらを理解し、そして解決するには、とても単純で直接的な仕方で接近しなければなりません。そして単純さ、直接性は、外側の境遇にも、また私たちの特定の先入観と気分にも、依存しません。私が指摘していたように、解決は、会議、青写真をとおし、古い指導者の代わりに新しい者を用いることなどをとおして見つけられるべきものではありません。解決は明白に、問題の造り手 [にある] 、人間たちの間に存在している過ち、憎しみ、途方もない誤解の造り手に、あるのです。この過ちの造り手、これらの問題の造り手は、個人、あなたと私です-私たちがそれについて考えるような世界ではないのです。世界はあなたと他の一人との関係です。世界は、何かあなたと私から分離したものではありません。世界、社会は、私たちが互いの間に確立する [関係] 、または確立しようと求める関係です。
それであなたと私が問題なのです-世界が、ではありません。なぜなら、世界は私たち自身の投影ですし、世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならないからです。世界は私たちから分離していません。私たちが世界ですし、私たちの問題は世界の問題です。これはいくらひんぱんに反復しても、しすぎることはありません。なぜなら、私たちの精神性があまりに無精であるために、世界の問題は私たちの [関わるべき]事柄ではない、それらは国連により [解決され] 、または古い指導者の代わりに新しい者を用いることにより、解決されなければならないと考えるからです。そのように考えるのはとても鈍い精神性です。なぜなら、私たちは世界のこの恐ろしい悲惨と混乱、この常に差し迫った戦争に応じる [能力・] 責任があるからです。世界を変容させるには、私たちは私たち自身から始めなければなりません。そして私たち自身から始めるにあたって重要であることは、意図です。 [その] 意図は、私たち自身を理解することでなければなりません。他の人たちに彼ら自身を変容するのを [任せること] や、また左翼や右翼の革命をとおして修正された変化をもたらすのを任せておくことではありません。これが私たちの、あなたと私の責任 [・能力] であるということを、理解することが重要です。なぜなら、私たちの生きている世界がたとえどんなに小さくても、私たちが自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく私たちは広く世界に、他の人たちとの拡大した関係に、影響を及ぼすでしょうから。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-4-1
世界の問題は巨大で、複雑。それらを理解、解決するには、単純で直接的な仕方で接近しなければらない。単純さ、直接性は、外側の境遇にも、特定の先入観と気分にも依存しない。
解決方法は、問題の造り手にある。
世界は、私たちが確立しようと求める関係。世界は私たち自身の投影。世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならない。
世界を変容させるには、私たち自身から始めなければならない。そして自身から始めるにあたって重要であることは、意図。その意図は、自身を理解すること。これがあなたと私の責任 ・能力であるということを、理解することが重要。なぜなら、私たちの生きている世界がどんなに小さくても、自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく広く世界に、影響を及ぼすから。
(´・(ェ)・`)
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目覚めた者だけが他人に影響を及ぼせるというのじゃ。
目覚めていない者が革命を起こしてもやはり今まで通りの世界なのじゃ。
目覚めれば世界は自らの心が創ったとわかるのじゃ。
そして他人をも目覚めさせてその世界を変えることが出来るのじゃ。
それだけが真の世界を変える方法なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第四章 自己認識 2
私が言いましたように、私たちは自分たち自身を理解する過程-それは孤立する過程ではありません-を見出そうとしています。それは世界 [・世間] から退くことではありません。なぜなら、あなたは孤立 [の状態]では生きられないからです。有る [・生きる] ことは関係することですし、孤立 [の状態]で生きているようなものはありません。葛藤・抗争、悲惨、闘争をもたらすのは、正しい関係の欠如です。私たちの世界がどんなに小さくても、私たちがその狭い世界で関係を変容させられるなら、それは、いつのときも外側に広大する波のようになるでしょう。その点が-どんなに狭くても、世界は私たちの関係であるということが、わかることが重要であると、私は思います。そして私たちはそこに変容を-表面的ではなくて根本的変容をもたらせるなら、そのとき活動的に世界を変容させはじめるでしょう。ほんとうの革命は、左翼のでも右翼のでもどんな特定の様式にも応じたものではありません。それは価値の革命-感覚的な価値から感覚的でない[価値] 、または環境的影響によって造り出されない価値への革命です。根本的革命、変容、革新をもたらすであろうこれら真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが本質的 [・不可欠] です 。自己認識は英知の始まりです。ゆえに変容や革新の始まりです。自分自身を理解するには、理解しようとする意図がなければなりません-それが、私たちの困難が入ってくるところです。私たちのほとんどは不満です。私たちは突然の変化をもたらしたいと願望するけれども、私たちの不満はたんに一定の結果を達成することに注がれるのです。私たちは不満であると、違った職を求めたり、たんに環境に屈服したりするのです。不満は私たちを燃え立たせ、生を [問わせ] 、存在の過程全体を問わせる原因になる代わりに、 [ 一定の結果を達成することに] 注がれます。よって私たちは平凡になり、存在の意義全体を見出そうとするあの衝動、あの強烈さを失っていくのです。ゆえに、自分たち自身でこれらのものごとを発見することが重要です。なぜなら、自己認識は他の一人によって与えてもらえないからです。それはどんな書物をとおしても見つけられるべきものではありません。私たちは発見しなければなりません。そして発見するには、意図、探求、探究がなければなりません。見出そう、深く探究しようとするその意図が弱かったり、存在していないかぎり、自分自身について見出したいというたんなる主張や思いつきの願いは、ほとんど意義がありません。
こうして世界の変容は、自分自身の変容によってもたらされるのです。なぜなら、自己は人間存在の総合過程の産物、一部分であるからです。自己を変容させるには、自己認識が本質的 [・不可欠] です。あなたが何であるかを知ることなしに、正しい思考のための基礎はありません。あなた自身を知ることなしに、変容はありえません。自分自身をあるがままに知らなければなりません。ありたいと願うように-すなわち、たんに理想であり、ゆえに架空であり非真実であるところのもの-ではありません。変容させられるのは、あるがままだけです-あなたがありたいと願うものではありません。自分自身をあるがままに知ることは、とてつもない精神の鋭敏さを必要とします。なぜなら、あるがままは常に変容、変化を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、どんな特定の行動の様式にも繋がれていてはならないからです。あなたは何かに付いていこうとするなら、繋がれていてはだめなのです。あなた自身を知るには、 [そこに] すべての信念から、すべての理想化からの自由がある [ところの] 気づきが、精神の鋭敏さが、なくてはなりません。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるからです。あなたは自分が何であるかを知りたいなら、何か自分がそうでないものを想像したり信じていたりできません。私は欲張りで、妬んでいて、暴力的であるなら、たんに非暴力の、無欲の理想を持つだけでは、ほとんど価値がありません。しかし、自分が欲張りまたは暴力的であることを知るには、それを知って理解するには、とてつもない知覚を必要とするのではないでしょうか。それは思考の正直さ、明晰さを要求します。ところが、あるがままから離れて理想を追求することは逃避です。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-4-2
自身を理解する過程を見出そうとすることは、世間から退くことではない。有る・生きることは関係すること。葛藤・抗争、悲惨、をもたらすのは、正しい関係の欠如。
ほんとうの革命は、感覚的な価値から感覚的でない価値、環境的影響によって造り出されない価値への革命。真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが不可欠。自己認識は英知、変容や革新の始まり。
理解するには、理解しようとする意図がなければならない。それが困難。
私たちは、突然の変化をもたらしたいと願望するが、不満は、一定の結果を達成することに注がれる。よって存在の意義全体を見出そうとする衝動を失っていく。
自分自身をあるがままに知らなければならない。ありたいと願うようにではない。変容させられるのは、あるがままだけ。あるがままは常に変容を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、行動の様式、理想化からの自由があるところの気づきが、精神の鋭敏さが、必須。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるから。
あるがままの自分を知って理解するには、とてつもない知覚を必要。それは思考の正直さ、明晰さを要求する。あるがままから離れて理想を追求することは逃避。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げる。
(´・(ェ)・`)
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悟りの修行は世間を捨てて世捨て人になることではないのじゃ。
むしろその修行だけが世間の人を救うことができるのじゃ。
全ての社会的な革命が成し遂げられなかったことなのじゃ。
世界が変るのは自分が変わった時だけなのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第四章 自己認識 3
あなたが何であるか [について] の理解は、たとえそれが何であろうと-醜かろうと美しかろうと、意地が悪かろうと邪(よこしま)であろうと-あなたが何であるか [について] の歪みのない理解が、美徳の始まりです。美徳は本質的 [・不可欠] です。というのは、それが自由を与えてくれるからです。あなたが発見できるのは、あなたが生きられるのは、美徳においてだけです。美徳の育成においてではありません-それはたんに体裁 [をもたらす] だけで、理解と自由をもたらしません。美徳があることと美徳を得ることとの間には違いがあります。美徳があることは、あるがまま [について] の理解をとおして訪れます。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すことです。ゆえに美徳を得るなかで、あなたはあるがままに対して直接的に作用することを避けているのです。理想の育成をとおしてあるがままを避けるこの過程が、美徳があると考えられているのです。しかしあなたはそれをきっちりと直接的に見つめるなら、それはそのようなものではないことがわかるでしょう。それはたんに、あるがままと面と向き合うことの延期にすぎません。美徳はあるがままでないものになることではありません。美徳はあるがまま [について] の理解ですし、ゆえにあるがままからの自由です。美徳は、急速に崩壊しかけている社会において本質的 [・不可欠] です。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければなりません。そして自由であるには、美徳がなければなりません。というのは、美徳なしには自由はないからです。美徳を得ようと奮闘している不道徳な人が、そもそも美徳を知ることができるでしょうか。道徳的でない人は決して自由でありえません。ゆえに真実が何なのかを決して見出せません。真実は、あるがままを理解することにおいてだけ、見つけられるのです。そしてあるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければなりません。
その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければなりません。そしてあるがままを理解することは極めて難しいのです。なぜなら、あるがままは決して止まっていない、静止していないからです。それはいつも動き [の状態] にあるのです。あるがままはあなたのあるがままです-あなたがありたいと思うものではありません。それは理想ではありません。なぜなら、理想は架空であるからです。それは現実に、瞬間瞬間、あなたがして、考え、感じていることです。あるがままが現実ですし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とします。しかし私たちはあるがままを非難しはじめるなら、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しないでしょう。私は誰かを理解したいなら、彼を非難できません。私は彼を観察し研究しなければなりません。私は自分が研究しているものそのものを愛さなければなりません。あなたは子どもを理解したいなら、その子を愛さなければなりません-非難してはなりません。あなたは彼と [一緒に] 遊び、彼の動き、彼の性向、彼の振るまい方を見守らなければなりません。しかし、あなたがたんにその子を非難し、抵抗し、咎めたりするだけなら、子ども [について] の了解はありません。同様に、あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければなりません。それが現実です。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではありません。それはたんにあるがままとは他の何かでありたいという願い、架空の願望にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-4-3
あなたが何であるかの歪みのない理解が、美徳の始まり。美徳があることと美徳を得る(育成する)ことには違いがある。美徳があることは、あるがままについての理解をとおして訪れる。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すこと。美徳はあるがままについての理解だし、ゆえにあるがままからの自由。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければならない。そして自由であるには、美徳がなければならない。道徳的でない人は決して自由でありえない。ゆえに真実が何なのかを決して見出せない。あるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければならない。
その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければならない。そしてあるがままを理解することは極めて難しい。なぜなら、あるがままは決して静止していないから。あるがままは理想ではない。なぜなら、理想は架空であるから。あるがままが現実だし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とする。しかし私たちはあるがままを非難しはじめ、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しない。あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければならない。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではない。それはたんに何かでありたいという願い、架空の願望にすぎない。
(´・(ェ)・`)
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宗教板で似非覚者相手に無双するの飽きてきた。
誰か弄りがいのある自称覚者を連れて来てくんない?
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自分が何であるのか理解することが美徳というのじゃ。
それが自由をもたらしてくれるからなのじゃ。
自分を理解することは今ここでしか行えないから難しいのじゃ。
刹那毎に変っていく心の働きを見なければならんのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第四章 自己認識 4
あるがままを理解するには、 [そこに] 同一化や非難のない精神の状態を、必要とします-それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味です。私たちはほんとうに何かを理解したいと願望するとき、その状態にあります。興味の強烈さがあるとき、その精神の状態が生じます。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていいのです。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがあるのです。この気づきの状態は、興味が [あるとき] 、理解しようとする意図があるとき、来るのです。
自分自身の基本的理解は、知識をとおし、経験の蓄積をとおして来ません-それはたんに記憶の育成にすぎません。自分自身の理解は瞬間瞬間です。私たちがたんに自己 [について] の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げるのです。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるからです。世界は私たちと私たちの活動と異なっていません。なぜなら、世界の問題を造り出すのは、あるがままの私たちであるからです。私たちの大多数にとっての困難は、私たちが自分たち自身を直接的に知らなくて、多くの人間の諸問題を解決するため体系 [体制]、方法、作業の手段を求めることなのです。
では自分自身を知る手段、体系はあるのでしょうか。どんな利口な人も、どんな哲学者も、体系、方法を考案できます。しかし確かに、体系に付いていくことはたんに、その体系によって造り出された結果を産み出すだけなのではないでしょうか。私は自分自身を知る特定の方法に付いて行くなら、そのときその体系に必然的に伴う結果を得るでしょう。しかし結果は明白に私自身 [について] の理解ではないでしょう。すなわち、それをとおして私自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、私は自分の考え、活動を、様式に応じて形作るのです。しかし様式に付いていくことは自分自身 [について] の理解ではありません。
ゆえに自己認識のための方法はないのです。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいます-それが私たちが皆ほしいものです。私たちは権威に付いていきます-人物のものでないなら、体系の、イデオロギ-の[権威]にです。なぜなら私たちは結果 [がほしい] -満足できるであろう、私たちに安全を与えてくれるであろうもの-が、ほしいからです。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくないのです。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したいのです。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への [願望] 、確実性への願望から出てきたものです。そして結果は明白に、自分自身 [について] の理解ではありません。私たちは方法に付いていくとき、私たちが願望するものを保証してくれる権威-教師、導師(グル)、救い主、大師-を持つにちがいありません。そして確かにそれは自己認識への道ではありません。
権威は自分自身 [について] の理解を妨げるのではないでしょうか。権威、指導者の庇護のもとで、あなたは一時的に安全の感覚、幸福の感覚を持つかもしれません。しかしそれは自分自身の総合過程 [について] の理解ではありません。権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げます。ゆえに究極的に自由を破壊します。自由においてのみ、創造性がありうるのです。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうるのです。私たちのほとんどは創造的ではありません。私たちは反復的機械 [です] 、私たち自身のでも他の一人のでも一定の経験の歌、一定の結論と記憶を何度も繰り返し演奏しているたんなる蓄音機レコ-ドです。そういう反復は創造的な存在ではありません-しかしそれが、私たちのほしいものです。私たちは内側で安全でありたいから、常にこの安全のための方法と手段を求めているのです。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を [破壊し] 、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊するのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-4-4
あるがままを理解するには、そこに同一化や非難のない精神の状態が必要。それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていい。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがある。
自己の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げる。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるから。困難は、自分たち自身を直接的に知らなくて、人間の諸問題を解決するため体系、体制、方法、作業の手段を求めること。
自分自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、自分の考え、活動を、様式に応じて形作る。しかし様式に付いていくことは自分自身の理解ではない。ゆえに自己認識のための方法はない。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいる。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくない。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したい。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への願望、確実性への願望から出てきたもの。そして結果は明白に自己認識への道ではない。
権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げる。ゆえに究極的に自由を破壊する。自由においてのみ、創造性がありうる。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうる。私たちは内側で安全でありたいから、常に安全のための方法と手段を求めている。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を破壊し、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊する。
(´・(ェ)・`)
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あるがままの観察は意志があれば難しいのじゃ。
どうしても自分の見たものごとを解釈しようとしたりするからのう。
見たものごとをありのままに認める受動的な鋭敏さが必要というのじゃ。
それにはどんな方法もありえないのじゃ。
方法があれば意志がそれを実践しようとするからなのじゃ。
ただひたすら見たものを受け容れる心構えが必要なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第四章 自己認識 5
確かに私たちの困難は、私たちのほとんどがこの創造性の感覚を失ってしまったということです。創造的であることは、私たちが絵を書いたり詩を書いたりして有名にならなければならない、という意味ではありません。それは創造性ではありません-それはたんに観念を表現する能力にすぎません-それを公衆は喝采したり無視したりするのです。能力と創造性は混同すべきではありません。能力は創造性ではありません。創造性は全く違った存在の状態なのではないでしょうか。それは、 [そこに] 自己が不在である状態、 [そこでは] 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、欲望の焦点ではない状態です。創造性は連続的な状態ではありません。それは瞬間瞬間、新しいのです。それは、[そこに] 「私」、「私の」がなく、思考がどんな特定の経験、野心、達成、目的、動機にも集中していない動きです。創造性-そこにのみ真実がありうるあの存在の状態 、すべてのものごとの創造者-があるのは、自己がないときだけです。しかしその状態は構想したり想像したりできません。それは定式化したりまねたりできません。それはどんな体系をとおしても、どんな哲学をとおしても、どんな修練をとおしても到達できません。反対に、それは、自分自身の総合過程を理解することをとおしてだけ、生じるのです。
自分自身 [について] の理解は結果、頂上ではありません。それは関係-財産、ものごと、人々、観念と自分の関係-の鏡において、瞬間瞬間、自分自身が見えることです。しかし私たちは、鋭敏であること、気づくことは難しいことがわかります。そして方法に付いていくことにより、 [諸々の] 権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好みます。それで私たちの精神は疲れきり、疲労困憊し、無感覚になるのです。そういう精神は創造性の状態にありえません。その創造性の状態は、自己-すなわち認識と蓄積の過程であるもの-が無くなるときだけ来るのです。なぜなら、結局、「私」という意識は認識の中心ですし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるからです。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れています。なぜなら私たちは皆、何ものかでありたいからです。小さい人は大きい人でありたい、不徳な者は徳を持ちたい、弱くて目立たない者は力、地位、権威を渇望します。これが精神の絶えざる活動です。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できません。
私たちのまわりの世界-悲惨、戦争、失業、飢餓、階級分裂、全くの混乱をともなうもの-を変容させるためには、私たち自身に変容がなければなりません。革命は、どんな信念やイデオロギ-に応じてでもなく、私たち自身の中で始まらなければなりません。なぜなら、観念に基づいたり、特定の様式への順応における革命は、そもそも明白に革命ではないからです。自分自身に基本的革命をもたらすには、関係において自分の思考と感情の過程全体を理解しなければなりません。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決です-もっと多くの修練、もっと多くの信念、もっと多くのイデオロギ-、もっと多くの教師たちを持つことではないのです。私たちは蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、私たち自身をあるがままに理解できるなら、そのときどのように、精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れるかということが、わかるでしょう。そしてその平静の状態においてだけ、創造性がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-4-5
創造性は全く違った存在の状態。それは、自己が不在である状態、 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、達成、目的、動機、欲望の焦点ではない状態。創造性は連続的な状態ではない。それは瞬間瞬間、新しい。それは、そこに「私」、「私の」がない動き。
創造性があるのは、自己がないとき。
それは、自分自身の総合過程の理解をとおしてだけ、生じる。
自分自身の理解は結果、頂上ではない。それは財産、ものごと、人々、観念と自分の関係の鏡において、瞬間瞬間自分自身が見えること。
鋭敏であること、気づくことは難しいので、権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好む。創造性の状態は、自己が無くなるときだけ来る。なぜなら、「私」という意識は認識の中心だし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるから。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れてる。何ものかでありたい。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できない。
私たちのまわりの世界を変容させるためには、私たち自身に変容が必要。そのためには、自分の思考と感情の過程全体を理解しなければならない。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決。
蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、自身をあるがままに理解できるなら、そのとき精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れる。その平静の状態においてだけ、創造性がありうる。
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一休さん講読会、↓引越しであります。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
(´・(ェ)・`)b
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最初と最後の自由 第一部
第五章 行動と観念 1
私は行動 [・作用] の問題を議論したいように思います。これは、初めはむしろ難解で難しいかもしれませんが、それをよく考えることにより、私たちは明確に論点を見ることができるだろうと、私は願っています。なぜなら私たちの存在全体、私たちの生全体が行動の過程であるからです。
私たちのほとんどは、一連の行動 [のなか]、 見たところ無関係でつながりのない行動のなかで生きています- [それらは] 崩壊、挫折につながっているのです。それは私たち各自に関係する問題です。なぜなら、私たちは行動によって生きていて、行動なしには生はなく、経験はなく、考える [という] ことはないからです。思考は [作用・] 行動です。そしてたんに一つの特定の意識の水準-すなわち外のもの-における [作用・] 行動を追求すること、行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導くでしょう。
私たちの生は、一連の [作用・] 行動、または意識の異なった水準での [作用・] 行動の過程です。意識は、経験すること、名づけること、記録することです。すなわち意識は挑戦と応答-すなわち経験-です。それから用語や名づけ、それから記録-すなわち記憶-です。この過程が行動なのではないでしょうか。意識は [作用・] 行動です。そして挑戦、応答なしに、経験、名づけや用語なしに、記録、すなわち記憶なしには、行動はありません。
さて、 [作用・] 行動は [作用者・] 行動者を造り出します。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じるのです。行動において結果がないなら、そのとき行動者はありません。しかし [終わりの] 目的や結果が視野にあるなら、そのとき行動は行動者をもたらします。こうして行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程です-それは、行動が目的を視野に持つとき、生じるのです。結果に向かう行動は意志です。そうでないと意志はないのではないでしょうか。目的を達成したいという欲望が意志をもたらします-それが行動者です-私は達成したい、私は本を書きたい、私は金持ちになりたい、私は絵を描きたい、と。
私たちはこれら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいます。それは私たちの日常的存在です。私はただあるがままを説明しているだけです。しかし私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめるでしょう。そこで経験を構成するこれら三つの状態-行動者、行動、結果-は、確かに、なっていく過程です。そうでないと、なりゆくことはないのではないでしょうか。行動者がないなら、目的に向かう行動がないなら、なりゆく [という] ことはありません。しかし、私たちが知っているような生、私たちの日常の生は、なりゆく過程です。私は貧しいので、目的-すなわち豊かになること-を視野に入れて行動します。私は醜いので、美しくなりたいのです。ゆえに私の生は何かになる過程なのです。あろうとする意志は、意識の異なった水準で、異なった状態でなろうとする意志です-そこには挑戦、応答、名づけ、記録があります。では、このなることは闘争であり、このなることは苦痛であるのではないでしょうか。それは常なる格闘です-私はこれである、私はあれになりたい、と。
ゆえにそのとき問題はこうです-このなりゆくことのない行動はあるのでしょうか。この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのでしょうか。目的がなければ、行動者はありません。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すからです。しかし目的を視野に持たない [行動] 、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのでしょうか。そういう行動はなりゆくことではありません。ゆえに闘争ではありません。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態があるのです。これはかなり哲学的に聞こえますが、ほんとうは全く単純です。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-5-1
私たちの存在全体、生全体が行動の過程。
行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導く。
意識は、作用・行動。挑戦、応答、経験、名づけや用語、記憶なしには、行動はない。
作用・行動は作用者・行動者を造り出す。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じる。行動において結果がないなら、そのとき行動者はない。行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程。結果に向かう行動は意志。目的を達成したいという欲望が意志をもたらす。
これら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいる。私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめる。あろうとする意志は、異なった状態でなろうとする意志。なることは闘争であり、苦痛。
ゆえにそのとき問題は、この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのか。目的がなければ、行動者はない。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すから。目的を視野に持たない、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのか。そういう行動は闘争ではない。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態がある。これはかなり哲学的に聞こえるが、ほんとうは全く単純。
(´・(ェ)・`)
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認識は経験の蓄積というのじゃ。
それは記憶に基づいているからなのじゃ。
唯識論と同じなのじゃ。
それをあるがままに理解するのじゃ。
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/ (__) パカ
/ ∩(____) やぁ!
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" ̄ ̄ ̄"∪
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最初と最後の自由 第一部
第五章 行動と観念 2
経験の瞬間に、あなたは経験から離れた経験者としての自分自身に気づいていません。あなたは経験の状態にあるのです。とても単純な例を取りましょう。あなたは怒っています。その怒りの瞬間には、経験者も経験もないのです。ただ経験だけがあるのです。しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持ったもの-が、あるのです。私たちは繰り返しこの状態に、経験の状態にあるのです。しかし私たちはいつもそれから出てきて、それに用語を与え、名づけ、記録し、よってなりゆくことに連続性を与えているのです。
私たちは言葉の基本的な意味において [作用・] 行動を理解できるなら、そのときその基本的理解が、私たちの表面的な [諸] 活動にも影響するでしょう。しかし私たちは初めに、行動の基本的本性を理解しなければなりません。そこで行動は観念によりもたらされるのでしょうか。あなたは初めに観念を持って、その後で行動するのでしょうか。それとも行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、あなたはそのまわりに観念を築くのでしょうか。行動が行動者を造り出すのか、それとも行動者が初めに来るのでしょうか。
どちらが初めに来るのかを発見することは、とても重要です。観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけです。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制です。これを悟ることはとても重要です。なぜなら、私たちの社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、わたしたちのすべてにとって観念が初めに来て行動は [後に] 付いてくるからです。行動はそのとき観念の小間使いです。たんなる観念の構築は、明白に行動にとって有害です。観念はさらなる観念を産み育てるし、たんに観念を産み育てることがあるとき、敵対があるし、社会は、観念作用の知的過程でもって頭でっかちになるのです。私たちの社会構造はとても知的です。私たちは、私たちの存在のあらゆる他の要因を犠牲にして、知能を育成しているのです。ゆえに私たちは観念で窒息しているのです。
観念ははたして行動を生み出すのでしょうか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけでしょうか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できません。私たちがこの点を理解することがとてつもなく重要です。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせません。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないからです。社会主義者のでも資本主義者のでも共産主義者のでも色々な宗教のでも、観念作用の [究明] 、観念の築き上げの究明が最も重要なのです-とくに私たちの社会が崖っぷちにあってもう一つの破滅、もう一つの切除を招いているときは [そうです] 。私たちの多くの問題への人間的解決を発見しようとする意図においてほんとうに真剣である人たちは、初めにこの観念作用の過程を理解しなければなりません。
私たちのいう観念とはどういう意味でしょうか。観念はどのようにして生じるのでしょうか。観念と行動はひとまとめにできるのでしょうか。仮に私が観念を持っていて、それを実行したいと願うとします。私はその観念を実行する方法を求めます。そして私たちは思索し、観念がどのように実行されるべきかについてのけんかに、時間とエネルギ-を費やします。それで観念がどのように生じるのかを見出すことが、ほんとうにとても重要です。そしてそれの真理を発見した後で、私たちは行動の問題を議論できるのです。観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がありません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-5-2
経験の瞬間に、あなたは経験(怒り)から離れた経験者としての自分自身に気づいていない。あなたは経験(怒り)の状態にある。
しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持った者がある。
行動は観念によりもたらされるのか、行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、そのまわりに観念を築くのか。
観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけ。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制。これを悟ることはとても重要。なぜなら、社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、観念が初めに来て行動は付いてくるから。行動はそのとき観念の小間使い。たんなる観念の構築は、行動にとって有害。観念はさらなる観念を産み育てるし、敵対がある。
観念ははたして行動を生み出すか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できない。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせない。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないから。観念作用の、観念の築き上げの究明が最も重要。
観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がない。
(´・(ェ)・`)
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行いは観念の後にくるというのじゃ。
先に観念があり、それに基づいて人は行動するからなのじゃ。
観念がおかしければ行動もおかしくなるのじゃ。
それ故に先ずは観念がどのようにして生じるのか理解することが重要なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第五章 行動と観念 3
そこであなたはどのようにして観念を得るのでしょうか-とても単純な観念です。それは哲学的、宗教的、経済的でなくてもいいのです。明白にそれは思考の過程なのではないでしょうか。観念は思考過程から出てきたものです。思考過程なしに観念はありえません。それで私は、その産物、観念を理解できる前に、思考過程自体を理解しなければなりません。私たちのいう思考とはどういう意味でしょうか。あなたはいつ考えるのでしょうか。明白に、思考は、神経的、心理的な応答の結果なのではないでしょうか。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答です。または心理的な、蓄えられた記憶の応答です。感覚に対する神経の即時の応答があります。そして蓄えられた記憶の [心理的応答] 、人種、集団、導師(グル)、家族、伝統などの影響の心理的応答があります。そのすべてを、あなたは思考と呼びます。それで思考過程は記憶の応答なのではないでしょうか。もしもあなたは記憶を持たなかったなら、思考を持たないでしょう。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させるのです。例えば、私が国家主義・民族主義の蓄えられた記憶を持っていて、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶとします。その過去の応答、行動、含蓄、伝統、慣習の記憶の [諸々の] 貯蔵庫が、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒の挑戦に応答します。そして挑戦に対する記憶の応答が必然的に思考過程をもたらします。あなた自身に作動している思考過程を見つめてください。するとあなたはこれの真理を直接的に試せるのです。あなたは誰かに侮辱されました。そしてそれが、あなたの記憶に残っています。それが背景の一部を形作ります。あなたがその人物に会うとき-それが挑戦です-応答は、その侮辱の記憶です。それで記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出します。ゆえに観念はいつも条件づけられています-これを理解することが重要です。言い換えると観念は思考過程の結果ですし、思考過程は記憶の応答ですし、記憶はいつも条件づけられているのです。記憶はいつも過去にあるし、その記憶は挑戦により現在において命を与えられるのです。記憶はそれ自体では命を持っていません。それは挑戦に直面するとき、現在に生き返るのです。そして休眠していても活動していても、すべての記憶は条件づけられているのではないでしょうか。
ゆえに全く異なった接近 [法] がなければなりません。あなたは、自分が観念に従って行動しているのかどうか、そして観念作用のない行動はありうるのかどうかを、内側に自分自身で見出さなければなりません。観念に基づかない行動-それは何なのかを見出しましょう。
あなたはいつ、観念作用なしに行動するのでしょうか。経験の結果でない行動は、いつあるのでしょうか。経験に基づいた行動は、私たちが言ったように制限するし、ゆえに障害です。思考過程-すなわち経験に基づいたもの-が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的です。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味です。それが、 [そこに] 理解のある唯一の状態です。経験に基づいた精神が行動を導いていないとき、経験に基づいた思考が行動を形作っていないとき、です。思考過程がないとき、行動は何でしょうか。思考過程のない行動はありうるのでしょうか。すなわち私は橋を、家を建てたいと思います。私は技術を知っています。技術は私にそれをどう建てるべきかを教えます。それが行動と呼ばれます。詩を書く、絵を描く [行動] 、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動があります。すべてが観念や以前の経験-行動を形作るもの-に基づいています。しかし観念作用のないとき、行動はあるのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-5-3
観念は思考過程から出てきたもの。
まず、思考過程自体を理解する。思考は、神経的、心理的な応答の結果。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答。または心理的な、蓄えられた記憶の応答。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させる。
侮辱された→記憶に残る→それが背景の一部を形作る。→その人物に会う。それが挑戦→応答は、その侮辱の記憶→記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出す
ゆえに観念はいつも条件づけられている。
記憶はいつも過去、その記憶は挑戦により現在において命を与えられる。記憶は挑戦に直面するとき、現在に生き返る。休眠していてもすべての記憶は条件づけられている。
ゆえに全く異なった接近法が必要。自分が観念に従って行動しているのか、観念作用のない行動はありうるのかを、内側に自分自身で見出さなければならない。観念に基づかない行動-それは何なのか。
いつ、観念作用なしに行動するのか。経験の結果でない行動は、いつあるのか。経験に基づいた行動は制限する。ゆえに障害。思考過程が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味。
橋を、家を建てたい→技術を知っている。→技術は私にそれをどう建てるべきかを教える。それが行動。詩を書く、絵を描く行動、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動。すべてが観念や以前の経験に基づいている。しかし観念作用のないとき、行動はあるのか。
(´・(ェ)・`)
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観念は思考過程から出てくるというのじゃ。
思考は記憶から起こるのじゃ。
記憶したものの操作が思考なのじゃ。
記憶も思考も観念も無い時に理解はあるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第五章 行動と観念 4
確かに、観念が止むとき、そういう行動があるのです。そして愛があるときだけ、観念は止みます。愛は記憶ではありません。愛は経験ではありません。愛は、自分の愛する人について考えることではありません。というのは、そのときそれはたんに思考であるからです。あなたは愛について考えられません。あなたは、自分が愛したり献身したりしている人-あなたの導師(グル)、あなたの像(イメ-ジ)、あなたの妻、あなたの夫について考えられるのです。しかし思考、象徴(シンボル)は真実 [のもの] -すなわち愛-ではありません。ゆえに愛は経験ではないのです。
愛があるとき、行動があるのではないでしょうか。その行動は解放するのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。観念と行動の間にあるような隔たりは、愛と行動の間にはありません。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落としています。そして私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとしています。愛があるとき-それは精神作用ではなく、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から [出てきたもの] 、実践された修練から出てきたものではありません-そのとき、その愛こそが行動です。それが、自由にしてくれる唯一のものです。精神作用があるかぎり、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえません。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限されます。これの真理がわかるとき、愛の性質-すなわち精神作用ではないもの、あなたがそれについて考えられないもの-が生じるのです。
この総合過程、どのように観念が生じるのか、どのように行動が観念から発生するのか、どのように観念が行動を制御し、ゆえに、感覚に依存して行動を制限するのかに、気づかなければなりません。それらが誰の観念なのか、左翼からか極右からかどうかは大事なことではありません。私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にあるのです。そのとき私たちはたんに時間の領域に-過去すなわちさらなる感覚を与えるものに、またはもう一つの形の感覚である未来に-生きているだけです。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけです。
観念は真理ではありません。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないものです。それは、あなたが「欲しい」経験ではありません-そのとき、それはたんに感覚にすぎません。観念の束を越えてゆけるとき-すなわち「私」であり、精神であり、部分的または完全な連続性を持つもの-、それを越えてゆけるとき、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態があるのです。そのとき、真理が何であるかを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-5-4
観念が止むとき、そういう行動がある。愛があるときだけ、観念は止む。愛は記憶、経験ではない。愛は、自分の愛する人について考えることではない。そのときそれはたんに思考。あなたは愛について考えられない。
愛があるとき、行動がある。その行動は解放する。それは精神作用の結果ではない。愛と行動の間に隔たりはない。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落とす。私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとする。愛があるとき-それは精神作用、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から、実践された修練から出てきたものではない。そのとき、その愛こそが行動。それが、自由にしてくれる唯一のもの。精神作用、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえない。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限される。この真理がわかるとき、愛の性質。、が生じる。
私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にある。そのとき私たちはたんに時間の領域に、過去または未来に生きているだけ。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけ。
観念は真理ではない。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないもの。それは、あなたが「欲しい」経験ではない。そのとき、それはたんに感覚にすぎない。観念の束を越えてゆけるときだけ、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態。そのとき、真理が何かを知る。
(´・(ェ)・`)
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例えば子供が車に轢かれそうになったら親は何の思考も無く直ぐに助けようと行動するじゃろう。
その時には観念も無いのじゃ。
そのように愛は思考も観念も無く行動を起こすものじゃ。
そのような時今ここにある真理が見いだされるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 1
信念と知識はとても密接に欲望に関係しています。そしておそらく、私たちはこれら二つの論点を理解できるなら、欲望がどのように働くかがわかり、その複雑さを理解できるのです。
私たちのほとんどが熱心に受け入れ、当然のことと思っているものごとの一つは、信念の問題であるように、私には見えるのです。私は信念を攻撃しているのではありません。私たちがしようとしていることは、なぜ私たちは信念を受け入れるのかを見出すことです。そして、受け入れの動機、因果 [関係]を理解できるなら、そのときおそらく、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできるかもしれません。政治的、宗教的な信念、国家主義・民族主義的、他の色々な種類の信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すか [ということ] がわかります-それは明白な事実です。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしないのです。ヒンドウ-教の信念、キリスト教 [の信念] 、仏教の信念-無数の党派的、国家・民族的信念、色々な政治的イデオロギ-があり、すべてが互いに争い、互いに改心 [・改宗] させようとしています。明白に、信念は人々を分離し、不寛容を造り出していることが、わかります。信念をもたずに生きることは可能でしょうか。信念との関係において自分自身を研究できてこそ、それは見出せるのです。信念をもたずに、この世界で生きることは可能でしょうか-信念を変えるのではなく、一つの信念の代わりにもう一つを用いるのではなくて、すべての信念から全く自由であり、そのため毎分、生に新たに出会うことは、です。これが、結局、真理です-過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが。
あなたは考慮するなら、信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れであるということが、わかるでしょう。もしも信念を持たなかったなら、私たちに何が起きるでしょうか。起きるかもしれないことに、とても怯えるのではないでしょうか。もしも、信念-神への、共産主義への、社会主義への、帝国主義への [信念] 、何らかの種類の宗教的定式、私たちが条件づけられている何らかの教義への信念-に基づいた行動の様式を持たなかったなら、全く途方に暮れた気持ちになるのではないでしょうか。そしてこの信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは [無であること・] 何ものでもないことへの [恐れ] 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすことではないでしょうか。結局、カップは空っぽであるときだけ役に立つのです。そして信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神です。それはたんに反復的な精神です。その恐れ-その空っぽ [・空しさ] への恐れ、その寂しさへの恐れ、その沈滞への、達しないことへの、成功しないこと、達成しないこと、何ものかでないこと、何ものかにならないことへの恐れ-から逃避することが、確かに、なぜ私たちがこんなに熱心に貪欲に信念を受け入れるのかという理由の一つなのではないでしょうか。そして信念の受け入れをとおして、私たちは自分たち自身を理解するでしょうか。反対です。信念は宗教的でも政治的でも、明白に自分たち自身の理解を妨げるのです。それは、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕(スクリ-ン)として、作用するのです。そして私たちは信念をもたずに自分たち自身を見つめられるでしょうか。私たちがそれらの信念を、 持っている多くの信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているでしょうか。私たちは、信念-すなわち精神がそれ自身を [それと]同一化してきたもの-を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力があるのです-そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-6-1
なぜ私たちは信念を受け入れるのか。受け入れの動機、因果を理解できるなら、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできる。信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すかがわかる。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしない。信念は人々を分離し、不寛容を造り出す。
信念をもたずに生きることは可能か。
過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが、真理。
信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れ。信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは何ものでもないことへの 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすこと。信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神。それはたんに反復的な精神。信念は、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕として、作用する。私たち信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているか。私たちは、信念を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力がある−そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがある。
(´・(ェ)・`)
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信念そのものが悪いとは言わないのじゃ。
ただそれを理解することが大事なのじゃ。
理解すれば自由になれるのじゃ。
恐れから信念を受け容れたいという欲が起こるというのじゃ。
それが観られれば消えるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 2
それは、この信念と知識の問題は、ほんとうにとても興味深い問題です。それは私たちの生においてなんととてつもない役割を演じるのでしょうか!私たちはいかに多くの信念を持っているのでしょうか!確かに、私がその [霊的という] 言葉を使えるなら、人は知的であるほど、文化的で [・教養が ] あるほど 、霊的 [・精神的] であるほど、理解する能力がないのです。現代の世界においてさえも、未開人は無数の迷信を持っています。思慮深いほど、目覚めているほど、鋭敏であるほど、おそらく信じることがないのです。それは、信念は束縛する [から] 、信念は孤立させるからです。そして、経済的、政治的世界、またいわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、世界中でそうであることがわかります。あなたは神があることを信じています。そしておそらく私は神がないことを信じています。またはあなたは [共産主義者や国家主義者として] あらゆるものごと [に対して] 、あらゆる個人 [に対して] 完全な国家統制を信じています。そして私は [資本主義者として] 民間企業とその他すべてを信じています。あなたは [一神教の信者として] 、唯一人の救い主がいるし、彼をとおしてあなたの目標を達成できるということを信じています。そして私はそんなふうに信じていません。こうしてあなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張しているのです。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をするのです-それは完全に無意味です。なぜなら、現実に信念こそが孤立の過程であるからです。あなたはバラモンです。私は非バラモンです。あなたはキリスト教徒です。私はイスラム教徒です、などです。あなたは同胞愛について話をし、私もまた同じ同胞愛、愛、平和について話をします。しかし現実には、私たちは分離しています。私たちは自分たちを分割しています。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられません。それは明らかでしょうか。それは言葉上はそうであるかもしれません。しかし、あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-6-2
あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張している。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をする−それは完全に無意味。なぜなら、現実に信念こそが孤立、分離の過程であるから。私たちは自分たちを分割している。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられない。あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめる。
(´・(ェ)・`)
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信念に拠って人は孤立するというのじゃ。
政治的なイデオロギーとか宗教の信念で分割されるからなのじゃ。
悟った者はもはや信じることがないのじゃ。
何が事実であるか事実でないのかわかるからなのじゃ。
事実でないか未だ事実と認められないことを事実として扱うのが信念なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 3
欲望 [・願望] の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいないということが、わかります。なぜなら、明白にあなたは経済的、霊的 [・精神的] に [安全であるため] 、また内側でも安全であるために信じているからです。私は、経済的理由のために信じている人たちについて話してはいません。なぜなら、彼らは自分たちの仕事に依存するように育てられているし、ゆえに自分たちのために仕事があるかぎり、キリスト教徒、ヒンドウ-教徒-何でもかまいません-であるだろうからです。私たちはまた便宜のために信念にすがりつく人たちについても議論していません。おそらく私たちのほとんどにおいては、それは等しくそうなのです。便宜のために、私たちは一定のものごとを信じています。これら経済的理由は払いのけて、私たちはその中にもっと深く入らなければなりません。何でも経済的、社会的、霊的 [・精神的] なものを強く信じている人たちを [例に] 取り上げましょう。その裏の過程は、安全でありたいという心理的欲望なのではないでしょうか。そのとき継続したいという欲望があります。私たちはここで、継続があるのかないのかについては、議論していません。私たちは、信じようとする駆り立て、常なる衝動について議論しているだけです。平和の人、ほんとうに人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできないのではないでしょうか。彼は自分の欲望が、安全であるための手段としている働いているのがわかります。どうか反対側へ行って、私が無宗教を説いていると言わないでください。それはそもそも私の論点ではありません。私の論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争いがあるにちがいない、葛藤・抗争があるにちがいない、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということです-それは日常、見られます。それで私が、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、私があれかこれかを信じるべきであるということではなくて、私が安全でありたいという欲望から自由になるべきであるということです。精神は、安全への欲望から自由でありうるでしょうか。それが問題です-何を信じるべきか、どのくらい信じるべきかではありません。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-6-3
欲望の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいない。なぜなら、明白にあなたは安全であるために信じているから。そのとき継続したいという欲望がある。平和の人、人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできない。彼は自分の欲望が、安全であるための手段として働いているのがわかる。論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争い、葛藤・抗争、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということ。それで、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、精神は、安全への欲望から自由でありうるか、何を、どのくらい信じるべきかではない。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎない。
(´・(ェ)・`)
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安全でありたいという欲望から人は信念に縋りつくというのじゃ。
そしてそれを継続したいという執着も生まれるのじゃ。
それから自由でなければならないのじゃ。
それらはただ苦を生み出すだけであるからのう。
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最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 4
精神は、意識的精神は、人は、この安全でありたいという欲望から自由でありうるでしょうか。私たちは安全でありたいし、ゆえに私たちの地所、財産、家族の助力が要るのです。私たちは信念の壁を築くことによって内側で、また霊的 [・精神的] にも安全でありたいのです-それは、この確実でありたいという渇望の表示です。個人としてあなたは安全でありたいというこの衝動、この渇望-すなわち何かを信じたいという欲望に自ずと表現されるもの-から自由でありうるでしょうか。私たちはそのすべてから自由でないなら、私たちが争いの源です。私たちは平和をもたらしていません。私たちは心に愛を持っていないのです。信念は破壊します。そしてこれは私たちの日常の生で見られます。 私はこの欲望の過程-すなわち信念にすがりつくことにおいて自ずと表現されるもの-に捕らわれているとき、私自身が見えるでしょうか。精神は信念から自由になれる-その代用を見つけるのではなくて、それから全く自由でありうるでしょうか。あなたはこれに対して言葉の上で「はい」とか「いいえ」とか答えられません。しかし、あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せるのです。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至るのです。明白に、あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはありません。あなたのささいな小さなものごとを気をつけて見守り、あなたが誰に会うべきか、何をすべきか、どのようにそれをすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたいのです。これは子どもっぽい未熟な考えです。あなたは、偉大な父が私たちみんなを見守っていると考えます。それは、あなた自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎません。それは明白に真実ではありません。真理は何か全く違ったものであるにちがいありません。
私たちの次の問題は知識のそれです。知識は真理の理解にとって必要でしょうか。「私は知っている」と私が言うとき、含まれている意味は知識があるということです。そういう精神は、何が真実なのかを究明し探し出す能力があるでしょうか。さらに、私たちが知っているのは何でしょうか-それを私たちはとても誇りに思っていますが。現実に私たちが知っているのは何でしょうか。私たちは情報は知っています。私たちは [情報と経験、すなわち] 、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちています。あなたは「私は知っている」と言うとき、どういう意味でしょうか。あなたが知っているという認知は、事実の [認識] 、一定の情報の認識であるか、それともあなたがしたことのある経験であるか、です。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成します。そしてあなたは自分の背景、欲望、経験に応じて、自分が読んだものを翻訳しはじめます。あなたの知識は、 [そこに] 欲望の過程と類似した過程が働いている [ところの]ものです。信念のかわりに私たちは知識を代用します。「私は知っている。私は経験をした。それは反論できない。私の経験はそれです。私は完全にそれを信頼する」-これらは知識の表示です。しかしあなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを、見つけるでしょう。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めているのです。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-6-4
人は、安全でありたいという欲望から自由でありうるか。安全でありたい故に信念の壁を築くことにより精神的にも安全でありたい。それは、確実でありたいという渇望の表示。
安全でありたいというこの渇望から自由でないなら、私たちが争いの源。私たちは平和をもたらしていない。私たちは心に愛を持っていない。信念は破壊する。あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せる。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至る。あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはない。あなたを気をつけて見守り、あなたが何をすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたい。これは子どもっぽい未熟な考え、自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎない。それは真実ではない。
次の問題は知識。知識は真理の理解にとって必要か。私たちは情報は知っている。私たちは情報と経験、すなわち、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちている。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成する。あなたの知識は、欲望の過程と類似した過程が働いているもの。信念のかわりに私たちは知識を代用する。あなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを見つける。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めている。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなる。
(´・(ェ)・`)
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信仰や信念も突き詰めれば個人の好みの投影に過ぎないというのじゃ。
そうであるから真理ではないというのじゃ。
そして知識も記憶によるものであるから分離するものでしかないというのじゃ。
知識が増えれば理解する能力もなくなるというのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 5
あなたは今までにこの知識の取得の問題について [考えたことがあるのか] -知識は究極的に、私たちが愛するのを [助けてくれるのか] 、私たち自身に葛藤を [産み出し] 、私たちの隣人との抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのかについて、考えたことがあるのかどうか、私は知りません。なぜなら、野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つであるからです。私たちが互いに平和に生きようとするなら、確かに、野心は完全に終わりにならなければなりません-政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的 [・精神的] 野心も、です。精神が、この知識の蓄積する過程、この知りたいという欲望から自由であることは、いったい可能でしょうか。
これら二つ、知識と信念が、私たちの生においていかにとてつもなく強力な役割を演じるかを見つめることは、とても興味深いことです。見てください、いかに私たちが、莫大な知識と学識を持つ人たちを崇拝するのかを!あなたはその意味が理解できるでしょうか。あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならないのではないでしょうか。それは何か新しいものが見える能力がなければなりません。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでにあなたに知られている情報すべて、あなたの知識すべて、あなたの過去の記憶すべてを持ち込みます。そして明白にあなたは、新しいもの、古いものからではないものを見る能力、受け取る能力が何もなくなるのです。どうか即時にこれを細部へと翻訳しないでください。私は自宅にどう戻るのかを知らなければ、迷ってしまうでしょう。私は機械をどう動かすのかを知らなければ、ほとんど役に立たないでしょう。それは全く異なったことです。私たちはここでそれについて議論しているわけではありません。私たちは、安全への手段として使われる知識、何ものかでありたいという心理的、内側の願望について、議論しているのです。あなたは知識をとおして何を得るのでしょうか。知識の権威、知識の重み、重要性 [・尊大さ] 、威厳の感覚、生命力 [・活力] の感覚、等々でしょうか。「私は知っている」とか「ある」とか「ない」とか言う人は、確かに、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまったのです。
そのとき、私たちの問題は、私が見るところ、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということです。そして精神が昨日から [自由で] 、昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能でしょうか。あなたは質問を理解していますか。個人としての私が、個人としてのあなたがこの社会に生きて、それでも私たちが育てられてきた信念から自由であることは、可能でしょうか。精神がそのすべての知識、そのすべての権威から自由であることは可能でしょうか。私たちは色々な聖典、宗教書を読みます。そこには何をすべきか、何をすべきでないか、どのようにして目標に到達すべきか、目標は何であるか、神は何であるかが、よく気をつけて叙述されています。あなたたちは皆それを暗記して知っているし、それを追求してきたのです。それが、あなたの知識です。それが、あなたが取得してきた [もの・] ことです。それが、あなたが学んできた [もの・] ことです。その道に沿って、あなたは追求します。明白に、あなたは自分が追求し求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真実でしょうか。それはあなた自身の知識の投影ではないでしょうか。それは真実ではありません。それを「今」-明日ではなくて今-悟り、「私はそれの真理がわかる」と言い、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の [過程] 、投影の過程により損なわれないということは、可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-6-5
知識の取得の問題
知識は究極的に、私たちが愛するのを助けてくれるのか、私たち自身に葛藤、抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのか。野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つである。
私たちが互いに平和に生きようとするなら、野心は完全に終わりにならなければならない。政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的・精神的野心も。
精神が、この知識の蓄積する過程から自由であることは可能か。
あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならない。それは新しいものが見える能力がなければならない。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでに知られている情報、知識、過去の記憶すべてを持ち込む。そして、新しいものを見る能力、受け取る能力がなくなる。
あなたは知識をとおして何を得るのか。「私は知っている」とか言う人は、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまった。
私たちの問題は、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということ。そして精神が昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能か。精神がそのすべての知識、すべての権威から自由であることは可能か。
色々な聖典、宗教書を読み、その道に沿って、あなたは追求し、自分が求めるものを見つけるでしょう。それはあなた自身の知識の投影。それは真実ではない。それを「今」悟り、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の、投影の過程により損なわれないということは、可能か。
(´・(ェ)・`)
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/ .人
/ (__) パカ
/ ∩(____) やぁ!
/ .|( ・∀・)_
// | ヽ/
" ̄ ̄ ̄"∪
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世間では知識が信奉され、知識を多く持つ者が尊敬されているのじゃ。
しかし、知識は逆に束縛にもなっているのじゃ。
知識のせいで新しいものに気付けないのじゃ。
何か新しいものを見つけたと思っても実は知識の投影でしかないものであったりするのじゃ。
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>>65
お前みたいな馬鹿よりはましだろw
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最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 6
精神は信念から自由である能力があるでしょうか。あなたをそれにすがりつかせ、あなたに信じさせる原因の内側の本性を [理解する] -意識的な [動機] だけでなく、また無意識的な動機をも-理解するとき、あなたはそれから自由でありうるだけです。結局、私たちはたんに、意識的な水準で機能している表面的な実体ではないのです。私たちは無意識的な精神に機会を与えるなら、より深い意識的、無意識的活動を見出せるのです。なぜなら、それは意識的精神よりも応答がはるかに速いからです。あなたの意識的精神が静かに考え、聴き、見守っている間、無意識的精神は、はるかに活動的で、はるかに鋭敏で、はるかに受容性があるのです。ゆえにそれは答えを得られるのです。信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神、そういう精神は自由に考えることができるでしょうか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるでしょうか。どうか、信念は人々を [一つに] まとめると言わないでください。そうなりません。それは明白です。どんな組織化された宗教も、今までそうしたことはないのです。あなた自身の国のあなたたち自身を見てください。あなたたちは皆、信じる者です。しかしあなたたちは皆、 [一つに] まとまっているでしょうか。あなたたちは皆、 [一つに] 統合されているでしょうか。あなたたち自身がそうではないことを知っています。あなたたちはこんなに多くの些細な小さな党派、カ-ストに分割されています。無数の分割を知っています。過程は-東洋でも西洋でも-世界中で全く同じです。キリスト教徒はキリスト教徒を破壊し、些細な小さなものごとのために互いに殺し合い、人々を軍隊生活など、戦争の恐怖全体に駆り立てています。ゆえに信念は人々を [一つに] 統合しません。それはこんなに明らかです。それが明らかであり、それが真実であるなら、そしてあなたはそれがわかるなら、そのとき、それに付いていかなければなりません。しかし困難は、わたしたちのほとんどが [そのことが] わからないということです。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないからです。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しいのです-それが国家であろうと、カ-ストであろうと、 [国家主義・] 民族主義であろうと、大師や救い主や他の何であろうと、です。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる [能力がある] -それは一時的に瞬間であるかもしれませんが-能力があるのです。たとえ、それ [真理] がそれ [精神] にとって耐えられないときでさえ、それ [精神] は戻って行くのです。しかし一時的にわかることで充分です。あなたがそれを束の間の瞬間、わかるなら、それで十分です。なぜなら、あなたはそのとき、とてつもないことが起きていることがわかるでしょうからです。意識が拒絶するとしても、無意識が働いています。それは前進の瞬間ではありません。しかしその瞬間が唯一のものです。たとえ意識的な精神がそれに対して格闘するにもかかわらず、それはそれ自体の結果を持つでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
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>>65
で、阿頼耶識は現量だろ?
で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?
で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?
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くまめも1-6-6
精神は信念から自由である能力があるか。あなたをそれにすがりつかせ、信じさせる原因を理解するとき、意識的無意識的な動機を理解するときだけ、それから自由でありうる。
信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神は自由に考えることができるか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるか。信念は人々を一つに統合しない。それが真実であり、そしてあなたはそれがわかるなら、それに付いていかなければならない。しかし困難は、わたしたちのほとんどがそのことがわからないということ。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないから。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しい。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる能力がある。意識が拒絶しても、無意識が働いている。それは前進の瞬間ではない。しかしその瞬間が唯一のもの。
(´・(ェ)・`)
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/ (__) パカ
/ ∩(____) やぁ!
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最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 7
そこで私たちの疑問は-「精神が知識と信念から自由であることは可能でしょうか」かです。精神は知識と信念から作り上げられていないでしょうか。精神の構造は信念と知識ではないでしょうか。信念と知識は認識の過程、精神の中心です。過程は閉鎖的です。過程は意識的とともに無意識的です。精神はそれ自身の構造から自由でありうるでしょうか。精神は無くなりうるでしょうか。それが問題です。私たちが知っているような精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っています。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はありえません。あなたは平和について話をするかもしれません。あなたは政党を組織するかもしれません。あなたは屋上から [大声で] 叫ぶかもしれません。しかしあなたは平和を持てません。なぜなら、精神には、矛盾を造り出し、孤立させ分離させる基礎そのものがあるからです。平和の人、熱意の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできません。それはただ政治的、宗教的なゲ-ム、達成と野心の感覚です。これについてほんとうに熱心であり、発見したいと思う人は、知識と信念の問題に向き合わなければなりません。彼はその裏に行き、欲望-安全でありたいという欲望、確実でありたいという欲望-の過程全体が働いているのを、発見しなければなりません。
新しいものが-真理であっても神であっても何であっても、それが-起こりうる状態にあるであろう精神は、確かに、取得すること、集めることを止めなければなりません。それは知識すべてを脇に置かなければなりません。知識の重荷を負った精神は確かに、真実であり、測ることのできないものを、とうてい理解できません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-6-7
そこで私たちの疑問は-精神が知識と信念から自由であることは可能か。精神は知識と信念から作り上げられている。信念と知識は認識の過程、精神の中心。過程は閉鎖的。過程は意識的とともに無意識的。精神はそれ自身の構造から自由でありうるか。精神は無くなりうるか。精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っている。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はない。平和の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできない。それはただ政治的、宗教的なゲ-ム。
新しいものが起こりうる状態にあるであろう精神は、取得すること、集めることを止め、知識すべてを脇に置かなければならない。知識の重荷を負った精神は、真実であり、測ることのできないものを理解できない。
(´・(ェ)・`)
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/ .人
/ (__) パカ
/ ∩(____) やぁ!
/ .|( ・∀・)_
// | ヽ/ 糞スレって聞いて来たよ?
" ̄ ̄ ̄"∪
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クリシュナムルティの言う精神とは、オショーの言うマインドと同じようなものじゃな。
それは知識と信念の集まりに過ぎないのじゃ。
既に記憶され知っている事が知識であり、まだしらないものごとを信念に拠って補っているのじゃ。
精神は知識の重荷を背負っている故に、真実であり、測る事のできないものを理解できないのじゃ。
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>>74
で、阿頼耶識は現量だろ?
で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?
で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?
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最初と最後の自由 第一部
第七章 努力 1
私たちのほとんどにとって、私たちの生全体は努力に、何らかの種類の意志 [力] に基づいています。私たちは意志なき、努力なき行動を考えつくことはできません。私たちの生はそれに基づいています。私たちの社会的、経済的、いわゆる霊的 [・精神的] な生は一連の努力であり、いつも一定の結果に到達するのです。そして私たちは努力は本質的 [・不可欠] で必要であると思うのです。
なぜ私たちは努力をするのでしょうか。それは単純に言うと、結果を達成し、何ものかになり、目標に達するためではないでしょうか。私たちは努力をしなければ、沈滞するであろうと思うのです。私たちは、それに向かって常に奮闘している [ところの] 目標について、観念を持っています。そしてこの奮闘が私たちの生の一部分になってしまったのです。私たちは自分たち自身を改めたいなら、自分たち自身に根本的変化をもたらしたいなら、古い習慣を除去しよう、習慣的、環境的影響などに抵抗しようと、ものすごい努力をします。それで私たちは、何かを見つけたり達成したりするため、そもそも生きるためのこの努力の連続に、慣れているのです。
そういう努力すべては自己の活動ではないでしょうか。努力は自己中心的な活動ではないでしょうか。私たちが自己の中心から努力をするなら、それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、もっと多くの混乱、もっと多くの悲惨を産み出すにちがいありません。それでも私たちは努力に次ぐ努力をしつづけるのです。私たちのほとんどは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をもきれいにかたづけないということを、悟っていません。反対に、それは私たちの混乱と悲惨と悲しみを増大させるのです。私たちはこれを知っています。それでも私たちは、何とかこの自己中心的な努力の活動を、意志の行動を突き破りたいと願いつづけるのです。
私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろうと、私は思います。幸せは努力をとおして来るでしょうか。あなたは今までに幸せであろうとしたことがあるでしょうか。それは不可能なのではないでしょうか。あなたは幸せであろうと格闘しますが、幸せはないのではないでしょうか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ません。あなたは耽溺するかもしれませんが、終わりに苦さがあるのです。あなたは抑圧したり制御したりするかもしれませんが、いつも隠れたところに闘争があるのです。ゆえに幸せは努力をとおして来ないし、また喜びも制御と抑圧をとおして来ないのです。にもかかわらず私たちの生すべてが一連の抑圧、一連の制御、一連の後悔に満ちた耽溺です。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの常に圧倒される、常なる格闘もあるのです。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をするのではないでしょうか。けれども愛や理解は闘争によって訪れるでしょうか。私たちのいう格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、とても重要であると、私は思います。
努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味ではないでしょうか。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘しています。またはあるがままから逃げようとしたり、 [それを] 変容させたり修正したりしようとしています。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人です。それが真の満足です。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに [関係しているの] ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係しているのです。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識するとき、それに気づくときだけ、訪れうるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-7-1
努力すべては自己中心的な活動。それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、混乱、悲惨を産み出す。私たちは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をかたづけないということを、悟っていない。反対に、それは混乱と悲惨と悲しみを増大させる。
私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろう。幸せは努力をとおして来るか。あなたは幸せであろうと格闘するが、幸せはないのではないか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ない。耽溺→終わりに苦さ、抑圧、制御→隠れたところに闘争がある。私たちの生すべてが一連の抑圧、制御、後悔に満ちた耽溺。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの、常なる格闘もある。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をする。けれども愛や理解は闘争によって訪れない。格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、重要。
努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘する。またはあるがままから逃げよう、変容させたり修正したりしようとする。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人。それが真の満足。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係している。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識、気づくときだけ、訪れうる。
(´・(ェ)・`)
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>>75 わしは既に名誉欲など無いから武勇伝を語る気もないが、そんなに知りたいならば教えてやるのじゃ。
臨済宗の者は阿頼耶識は現量等という学者の妄想を真に受けてわしに注意されたのじゃ。
すると臨済宗の者は学者の本に書いてあるとか反論したが、それがどのように書いてあるのか証拠となる文を一行も引用できずに逃げ去ったのじゃ。
わしに一言も反論できず、泣き喚き、負け惜しみを述べ消えたのじゃ。
臨済宗の者が僧侶でも無いのに僧侶と名乗るのはやはり金のためじゃろう。
達磨一人の伝法では出家できず、明治の廃仏毀釈では仏教を捨てたのに葬式商売の金が欲しさに僧と名乗っているのじゃ。
上記の如く臨済宗の者は証拠となる文の一行すら書けずに論破されてしまったが、宗教板を去るという約束も守らないのじゃ。
以前には論破されたら腹を切るとか言いながら、自分で自分を論破したが、やはり腹を切ることはなかったのじゃ。
以上の如く臨済宗の者は大悟徹底したわしに悉く論破され、僧侶でもないのに僧侶と嘘をつき、約束も守らないとわかったじゃろう。
みんな騙されないようにするのじゃ。
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努力の全てがいかんのではないのじゃ。
食べるための努力は必要なのじゃ。
逃避や快楽を求める努力が混乱と悲惨を生み出すのじゃ。
それらを止めてあるがままの今ここに気付くことが解放なのじゃ。
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>>78
嘘つくなよ?
ちゃんと根拠は出してるぞ?
阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。
阿頼耶識が現量であること。
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唯識三十頌並びに唯識三十頌釈
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最初と最後の自由 第一部
第七章 努力 2
それで私たちは、努力とは、あるがままのものを、何かあなたがあって欲しいと願うものに変容させようとする闘争や格闘であることが、わかるのです。私は、純粋に技術的である工学や何かの発見や変容のように物理的な問題との格闘 [について] ではなく、心理的な格闘について話しているだけです。私は、心理的であり、いつも技術的なものに打ち勝つその格闘について、話しているだけです。あなたは、科学が私たちに与えてくれた無限の知識を使って、大いに注意を払ってすばらしい社会を築くかもしれません。しかし心理的闘争と格闘と戦いが理解されず、心理的響きと流れに打ち勝たないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、何度も繰り返し起きてきたように、必ず潰れてしまうのです。
努力はあるがままからの逸脱です。私があるがままを受け入れた瞬間、格闘はないのです。どんな形の格闘や闘争も、逸脱の表示です。そして心理的に、私があるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在するにちがいありません。
初めに私たちは、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければなりません。創造は努力をとおしてあるのでしょうか。それとも創造は、努力の止むことをもってだけあるのでしょうか。あなたはいつ、書いたり、描いたり、歌ったりするのでしょうか。あなたはいつ、創造するのでしょうか。確かに、努力がないとき、あなたが完全に開いているとき、すべての水準で、あなたが完全な疎通 [の状態] にあり、完全に統合 [融和] しているときです。そのとき喜びがあるし、そのときあなたは歌ったり詩を書いたり絵を描いたり何かを作ったりしはじめのです。創造の瞬間は格闘から生まれません。
おそらく私たちは創造性の問題を理解するなかで、私たちのいう努力とはどういう意味なのかを理解することができるでしょう。創造性は努力から出てきたものでしょうか。そして私たちは、自分たちが創造的であるそれらの瞬間において気づいているでしょうか。それとも創造性は、全くの自己忘却の感覚 [でしょうか] 、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚でしょうか。その状態は、苦労の [結果] 、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果でしょうか。あなたは何かをたやすくすばやくするとき、努力がなく、完全な格闘の欠如があるということに、今までに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。しかし私たちの生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、私たちは、 [そこにおいて] 闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できないのです。
闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければなりません。私たちのいう努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味なのではないでしょうか。私はこれです。私はあれになりたい。私はあれではない。あれにならなければならない。「あれ」になるなかに、闘争があり、戦い、葛藤、格闘があるのです。この格闘において私たちは必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心があるのです。私たちは対象に、人物に、観念に自己の充実 [・自己実現] を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求するのです。それで私たちはこの努力を必然的と受け取ったのです。それは-この何ものかになろうとする格闘は、必然的なのかどうか疑わしいと、私は思います。なぜこの格闘があるのでしょうか。どんな程度でも、どんな水準でも、充実への欲望があるところ、格闘があるにちがいありません。充実が、努力の裏の動機、推進力です。偉い経営者にも主婦にも貧しい人にも、このなろうとする [戦い] 、充実しようとする戦いが続いているのです。
(´・(ェ)・`)つ
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>>80 臨済宗の者は世親が阿頼耶識は現量と書いたチベットからの翻訳文があるとか嘯いて、実際には一行も引用できなかったのじゃ。
嘘を書き、それが暴かれると別の本を晒して詭弁を弄するのみなのじゃ。
ありもしない伝統にしがみ付いてお釈迦様の禁じた葬式商売に励む者はわしのように正しく大悟徹底した者には到底敵わないのじゃ。
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くまめも1-7-2
努力とは、あるがままのものを、あって欲しいと願うものに変容させようとする格闘。心理的格闘が理解されないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、必ず潰れてしまう。
努力はあるがままからの逸脱。あるがままを受け入れた瞬間、格闘はない。そして心理的に、あるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在する。
初めに、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければならない。
おそらく創造性の問題を理解するなかで、努力の意味を理解できる。創造的である瞬間は、全くの自己忘却の感覚、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚。その状態は、苦労の、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果ではない。生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できない。
闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければならない。努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味。この格闘において必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心がある。対象に、自己の充実・自己実現を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求する。充実への欲望があるところ、格闘がある。充実が、努力の裏の動機、推進力。誰にもこのなろうとする戦い、充実しようとする戦いが続いている。
(´・(ェ)・`)
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>>82
wwwwwwwwwwwwwww
ぶぁ〜〜かw
そのすべてが現量についての説明だよ。。
読んでも分らないからって人のせいにするなよwww
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↑それが臨済宗の詭弁じゃな。
おぬしはその主張を肯定するチベット語から翻訳した世親の文があると嘯いたのじゃ。
しかし、今に至るまでそれを一行も書いていないのじゃ。
引用は商業出版でさえ認められているのにおかしなことじゃ。
チベット語からの翻訳は一体どこに行ったのじゃ?
どうせわしには完全に論破されると思って逃げ回っているのじゃろう
論破ありきで逃げていてはいつまでも無知なまま学者や性質の悪い老婆に騙されている人生なのじゃ。
腹を切ってから出直すと善いのじゃ。
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どんな努力も格闘も無い状態、それをあるがままの状態というのじゃ。
努力無しに開放されているとき、喜びがあり、真の創造があるというのじゃ。
そうでなければ全ては繰り返しであり、何かにならねばならないという葛藤があるのじゃ。
それはありのままであることを受け容れてないからなのじゃ。
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>>85
書いてあることを書いてないとか云うのはキチガイだなwww
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瞬殺されたことを認めたくないからって、書いてあることを書いてないとか云うとか、人間として終わってるよ。
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仕舞いには写メで送った資料もそんなものは送られてないとか言い出すんだろ?
www
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最初と最後の自由 第一部
第七章 努力 3
では、なぜ自己を充実させたいという欲望があるのでしょうか。明白に、充実したい、何ものかになりたいという欲望は、 [無である・] 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じるのです。私は何ものでもない [・無である] から、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘するのです。外側でも内側でも、私は人物やものごとや観念において自己を充実させようと格闘するのです。その空虚を充たすことが、私たちの存在の過程全体です。私たちは、空っぽで、内側で貧しいことに気づくと、外部に物を集めたり、内側の豊かさ [・富] を育成したりしようと格闘するのです。行動をとおし、観想をとおし、取得をとおし、達成をとおし、力などをとおして、その内側の空虚からの逃避があるときだけ、努力があるのです。それが私たちの日常の存在です。私は自分の不十分さ、自分の内側の貧しさに気づきます。そして私はそれから逃げ出そう、またはそれを充たそうと格闘します。この逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴うのです。
そこで逃げ出そうとする努力をしないなら、何が起きるでしょうか。その寂しさ、その空っぽとともに生きます。そしてその空っぽを受け入れるなかで、闘争、努力とは何の関わりもない創造的状態が来るということを、見つけるでしょう。私たちがその内側の寂しさ、空っぽを避けようとしているかぎり、努力は存在しているのです。しかし私たちはそれを見つめ、それを観察するとき、あるがままを避けずに受け入れるとき、闘争すべてが止む存在の状態が来ることを見つけるでしょう。その存在の状態が創造性です。それは闘争の結果ではありません。
しかしあるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さ- [について] の理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれるのです。
ゆえに私たちが知っているような行動は、ほんとうは反動であり、絶えざるなりゆき、すなわちあるがままの否定、回避なのです。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがまま [について] の理解に行動があるし、この行動が創造的存在です。あなたは行動においてあなた自身に気づくなら、これを理解するでしょう。あなたが行動しているままにあなた自身を観察してください。外側だけではなく、またあなたの思考と感情の動きをも見てください。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程-すなわち感情と行動でもあるもの-が、なるという観念に基づいていることがわかるでしょう。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来るのです。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかるでしょう。これがなろうとする努力です。なることはあるがままの直接的回避です。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、あなたは、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つけるでしょう。あなたが、とてつもない平静、組み立てられ、作り上げられていない平静、あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、あなたが内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそなのです。その平静の状態においてだけ、創造的存在があるのです。
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くまめも1-7-3
なぜ自己を充実させたいという欲望があるのか。何ものかになりたいという欲望は、 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じる。私は何ものでもない ・無であるから、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘する。外側でも内側でも、自己を充実させようと格闘する。その空虚を充たすことが、存在の過程全体。
逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴う。
あるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さの理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれる。
行動は、ほんとうは反動であり、あるがままの否定、回避。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがままについての理解に行動があるし、この行動が創造的存在。
あなたが行動しているままにあなた自身を観察しなさい。外側だけではなく、思考と感情の動きをも見なさい。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程が、なるという観念に基づいていることがわかる。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来る。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかる。なることはあるがままの直接的回避。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つける。あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそ。その平静の状態においてだけ、創造的存在がある。
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>>87 チベット語からの翻訳は何処に。
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内側が不十分で空っぽ貧しいという感覚は、孤独や恐れから起こるものじゃ。
それから逃れようとして努力するのじゃ。
それは逃避に過ぎないのじゃ。
逃避に拠って孤独や恐れがなくなることはないのじゃ。
孤独や恐れをありのままに認め観察する事で気付きが起こるのじゃ。
それによって孤独や恐れも消えるのじゃ。
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>>92
他スレで説明済
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面接官 「普段は何をされてますか?」
コジ 「はい、自宅でウンコを製造しております!」
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最初と最後の自由 第一部
第八章 矛盾 1
私たちは自分たちのなかと自分たちのまわりに矛盾を見ます。私たちは矛盾 [の状態] にあるから、私たちのなかに、ゆえに私たちの外側に平和の欠如があるのです。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-があるのです。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらしません-それは単純な明白な事実です。この内側の矛盾は、何かの種類の哲学的二元論に翻訳されるべきではありません。なぜなら、それはとても安易な逃避であるからです。すなわち、矛盾は二元論の状態であると言うことにより、私たちはそれを解決してしまったと思うのです-それは明白にたんなる慣習、現実からの逃避に寄与するものにすぎないのです。
そこで私たちのいう葛藤・抗争、矛盾とはどういう意味でしょうか。なぜ私には矛盾が-あるがままの私から離れた何ものかであろうとするこの常なる格闘が-あるのでしょうか。私はこれである。私はあれになりたい。この私たちにおける矛盾は事実です-形而上学的な二元論ではありません。形而上学は、あるがままを理解することにおいて何の意義もありません。私たちはたとえば二元論を、それは何なのか、それは存在するのかどうかなどについて議論するかもしれません。しかし私たちが自分たちに矛盾が-対立する欲望、対立する興味、対立する追求が-あることを知らなければ、それにどんな価値があるのでしょうか。私は善良でありたいが、そうあることができない。私たちのこの矛盾、この対立は理解されなければなりません。なぜなら、それは葛藤・抗争を造り出すからです。そして葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できません。私たちがおかれた状態について明確でありましょう。矛盾があります。それで格闘があるにちがいありません。そして格闘は破壊、浪費です。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみ以外の何も産み出せません。私たちがこれを充分に理解し、ゆえに矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらすでしょう。
問題はこうです。矛盾は破壊的で浪費的であることがわかると、私たち各自に矛盾があるのはなぜでしょうか。それを理解するには、私たちはさらにもう少し進まなければなりません。なぜ対立する欲望の感覚があるのでしょうか。私たちは自分たち自身のそれに-この矛盾、この欲しがることと欲しがらないことの感覚、何かを憶えていて、何か新しいものを見つけるためにそれを忘れようとすること-に気づいているかどうか、私は知りません。ただそれを見守ってください。それはとても単純でとても正常です。それは何かとてつもないものではありません。事実は矛盾があるということです。ではなぜこの矛盾は生じるのでしょうか。
私たちのいう矛盾とはどういう意味でしょうか。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいないでしょうか。私は自分が永久的欲望を持っていると思います。私は自分自身に永久的欲望を位置づけます。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じます。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらします。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つ [という] ことがあるのです。では永久的欲望といったものがあるのでしょうか。確かに、欲望「すべて」が非永久的 [・無常] です-形而上学的にではなくて現実にです。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼るのです。そしてそれを得るとき、不満です。私は経営者になりたい、それから所有者に [なりたい] などなどです。この世 [・世界] においてだけでなく、いわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、です-教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆくのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-8-1
私たちは矛盾の状態にあるから、私たちのなかに、外側に平和の欠如がある。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-がある。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらさない。この単純な明白な事実を哲学的二元論に翻訳するのでは安易な逃避。
なぜ私には矛盾があるのか。矛盾は葛藤、抗争を造り出す。葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できない。格闘は破壊、浪費。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみを産み出す。私たちがこれを充分に理解し、矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらす。
矛盾とはどういう意味か。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいる。自分が永久的欲望を持っている。自分自身に永久的欲望を位置づける。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じる。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらす。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つことがある。欲望すべてが非永久的・無常。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼る。そしてそれを得るとき、不満。私は経営者になりたい、それから所有者になりたいなどな。この世・世界においてだけでなく、いわゆる霊的・精神的世界においても、教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆく。
(´・(ェ)・`)
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理想の自分のイメージと今の自分には常に矛盾があるのじゃ。
理想の自分になりたいと努力することが葛藤を生むのじゃ。
理想の自分になったとしてもやはり時と共に失っていくのじゃ。
老病死は免れないからのう。
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阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。
阿頼耶識が現量であること。
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唯識三十頌並びに唯識三十頌釈
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/ (__) パカ
/ ∩(____) やぁ!
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最初と最後の自由 第一部
第八章 矛盾 2
この常なるなりゆき、一つの状態に続いてもう一つに達することは、矛盾をもたらすのではないでしょうか。ゆえになぜ生を一つの永久的欲望としてではなくて、いつも互いに対立しあう [・反対しあう] 一連のはかない欲望として見ないのでしょうか。ゆえに精神は矛盾の状態になくてもいいのです。私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はありません。
精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じるのです。すなわち精神が欲望すべてを動いてはかないものとして見るのではなくて、一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする-そのとき他の欲望が生じる、そのときだけ、矛盾があるのです。しかし欲望すべては、常なる動き [の状態] にあります。欲望の固定はありません。欲望に固定点はありません。しかし精神は固定点を確立します。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うからです。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤があるにちがいありません。あなたは到達したいのです。あなたは成功したいのです。あなたは、あなたの永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたいのです。ゆえにあなたは真理を求めていません。あなたは神を求めていません。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった体裁よく聞こえる言葉をおおいかぶせるのです。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼びます。最低点は飲酒です。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間にたいした違いはありません。社会的に、酒は悪いかもしれません。しかし満足への [願望] 、獲得への内側の願望のほうが、さらにもっと有害なのではないでしょうか。あなたはほんとうに真理を見つけたいなら、たんに言葉の水準でだけではなくて全く、極めて正直でなければなりません。あなたはとてつもなく明晰でなければなりません。あなたは進んで事実に向き合おうとしないなら、明晰でありえません。
そこで何が私たち各自に矛盾をもたらすのでしょうか。確かにそれは、何ものかになりたいという願望なのではないでしょうか。私たちは皆何ものかになりたいのです-世間で成功したい、内側で結果を達成したいのです。私たちが時間という見地、達成という見地、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾があるにちがいありません。結局、精神は時間の産物です。思考は昨日に、過去に基づいています。思考が時間の領域の中で機能し、未来という [見地] 、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾があるにちがいありません。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないからです。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性があるのです。
ゆえに私たちの考える過程全体を理解することが [本質的・] 不可欠なのではないでしょうか。というのは、私たちが矛盾を見つけるのは、そこであるからです。思考自体が矛盾になってしまったのです。なぜなら、私たちは自分たち自身の総合過程を理解してこなかったからです。そしてその理解は、私たちが自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能です-自分の思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに [気づくの] です-それは極めて困難です。そのときだけ、こんなに有害でこんなに苦痛なその矛盾の解消が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-8-2
私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はない。
精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じる。一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする、そのときだけ、矛盾がある。欲望に固定点はない。しかし精神は固定点を確立する。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うから。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤がある。あなたは到達したい。成功したい。永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたい。ゆえにあなたは真理を求めていない。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった言葉をおおいかぶせる。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼ぶ。最低点は飲酒。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間に違いはない。ほんとうに真理を見つけたいなら、極めて正直で、明晰でなければならない。
私たちは皆何ものかになりたい。私たちが時間、達成、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾がある。精神は時間の産物。思考は過去に基づいている。思考が時間の領域の中で機能し、未来という見地、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾がある。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないから。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性がある。
ゆえに考える過程全体を理解することが不可欠。というのは、矛盾を見つけるのは、そこであるから。思考自体が矛盾になってしまった。なぜなら、自分たち自身の総合過程を理解してないから。そしてその理解は、自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能。思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに気づく。そのとき、有害で苦痛なその矛盾の解消がある。
(´・(ェ)・`)
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酒を求める欲も、神を求める欲も同じだというのじゃ。
それは満足だけを求めているからなのじゃ。
なにものかになりたいという願望に拠って矛盾があるというのじゃ。
そこには時間による制約があるからなのじゃ。む
それら全ての過程を全体として観察できれば全ての矛盾は消えるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第八章 矛盾 3
私たちが心理的な結果を達成しようとしているかぎり、内側に安全を欲しがるかぎり、私たちの生には矛盾があるにちがいありません。私たちのほとんどはこの矛盾に気づいているとは、私は思いません。または私たちは気づいているとしても、そのほんとうの意義がわからないのです。反対に、矛盾は私たちに生きる弾み [・刺激] を与えてくれるのです。まさに摩擦の要素こそが、私たちに生きていることを感じさせてくれるのです。努力、矛盾の格闘が、私たちに生命力 [・活力] の感覚を与えてくれるのです。そういうわけで私たちは戦争を愛しているのです。そういうわけで私たちは挫折の戦いを楽しむのです。結果を達成したいという願望-すなわち心理的に安全でありたいという願望-があるかぎり、矛盾があるにちがいありません。そして矛盾があるところ、静かな精神はありえません。精神の静けさは、生の意義全体を理解するに [本質的・] 不可欠です。思考は決して平静ではありえません。思考-すなわち時間の産物-は、時間のないものを決して見つけられません。時間を超えているものを決して知ることはできません。まさに私たちの考えるということの本性こそが矛盾なのです。なぜなら、私たちはいつも過去や未来という見地に立って考えているからです。ゆえに私たちは決して現在を充分に認識し、充分に気づいていないのです。
現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業です。なぜなら精神はごまかさずに直接的に事実に向き合う能力がないからです。思考は過去の産物ですし、ゆえに過去や未来という見地に立って考えられるだけです。それは現在の事実に完全に気づくことはできません。思考-すなわち過去の産物-が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけですし、そういう考えはもっと多くの矛盾 [を造り出し] ゆえに葛藤・抗争、悲惨、混乱を私たちのなかに、ゆえに私たちのまわりに造り出すだけです。
矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければなりません。あなたが事実と直面しているとき、どうして選択がありうるでしょうか。確かに、思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実 [について] の理解は不可能になります。ゆえに自己認識が理解の始まりです。自己認識なしには、矛盾と葛藤 [・抗争] は継続するでしょう。自分自身の過程全体、総体を知るには、どんな熟練者もどんな権威も必要ではありません。権威の追求は恐れを生み育てるだけです。どんな熟練者もどんな専門家も私たちに、自己の過程をどう理解するのかを教えられません。それは自分自身で研究しなければなりません。あなたと私はそれについて話しをすることにより互いに助け合うことはできます。しかし誰も私たちのためにそれを解き明かせません。どんな専門家もどんな教師も、私たちのために [私たちに代わって] それを探検できません。私たちは私たちの関係において-ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づけるのです。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見するでしょう。観念はたんに象徴としての思考の凝結化です。そして象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらすのです。
こうして思考の様式があるかぎり、矛盾は継続するでしょう。様式を [終わらせ] 、そのため矛盾を終わらせるには、自己認識がなければなりません。この自己の理解は、わずかな者のために取っておかれた過程ではありません。自己は、私たちの日常の話し、私たちの考え [方]と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきものです。私たちはあらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解されるということがわかるでしょう。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうる [ところの] あの精神の平静の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-8-3
心理的な結果達成や内側の安全を欲しがるかぎり、生には矛盾がある。その矛盾は生きる刺激を与えてくれる。
精神の静けさは、生の意義全体を理解するに不可欠。思考は決して平静ではありえない。思考は、時間のないものを見つけられない。まさに考えるということの本性こそが矛盾。なぜなら、いつも過去や未来という見地に立って考えているから。ゆえに決して現在を充分に認識し、充分に気づいていない。
現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業。なぜなら精神は直接的に事実に向き合う能力がないから。思考が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけ。そういう考えはもっと多くの矛盾を造り出すだけ。
矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければならない。思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実についての理解は不可能。自己認識なしには、矛盾は継続する。自分自身の過程全体、総体を知るには、私たちの関係− ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づける。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見する。観念はたんに象徴としての思考の凝結化。象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらす。
思考の様式を終わらせ、矛盾を終わらせるには、自己認識が必要。自己は、日常の話し、考え方と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきもの。あらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解される。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうるところのあの精神の平静の可能性がある。
(´・(ェ)・`)
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安全への欲望は却って戦争を生み出すというのじゃ。
敵がいなくなれば安全であるからのう。
そのような欲は悲惨と混乱を生み出すのみなのじゃ。
今ここに気付いていることがそれから逃れる道なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第九章 自己とは何か 1
私たちのいう自己とはどういう意味なのか、知っているでしょうか。観念、記憶、結論、経験、色々な形の名づけることのできる、名づけることのできない意図、あろうとする、あるまいとする意識的な尽力、無意識の [蓄積された記憶]- 人種、集団、個人、氏族の-蓄積された記憶、行動において外部に投影されていても、美徳として霊的・精神的に投影されていても、です。そのすべての全体が、それ [自己という言葉]により私のいう意味です。このすべてを求める奮闘が自己です。それには競争、ありたいという願望が含まれています。その過程全体が自己です。そして私たちはそれに向き合うとき、それが邪悪なものであることを現実に知っています。私は「邪悪」という言葉を意図的に使っています。なぜなら自己は分割するからです。自己は自己閉鎖的です。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させす。私たちはこのすべてを知っています。また私たちは、自己がない [ときの] それらのとてつもない瞬間をも知っています-そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きるのです。
経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要であるように、私には見えます。私たちは熱心であるなら、この経験の問題を理解すべきです。そこで私たちのいう経験とはどういう意味でしょうか。私たちはいつのときも経験をします-印象です。そして私たちはそれら印象を翻訳します。それらに応じて反応したり行動したりします。私たちは計算高くてずるい、などです。客観的に見られるものとそれに対する私たちの反応との間には、常なる相互作用が [あり] 、意識と、無意識の [諸々の] 記憶の間にも相互作用があるのです。
私の [諸々の] 記憶に応じて、私は自分が見るどんなものにも、感じるどんなものにも反応します。私が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きているのではないでしょうか。何か見られるものへの反応、応答が経験です。私はあなたを見るとき、反応します。その反応に名づけることが経験です。私がその反応に名づけないなら、それは経験ではありません。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守ってください。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はありません。私はあなたを認識しないなら、どうしてあなたに会う [という] 経験ができるでしょうか。それは単純で正しく聞こえます。それは事実ではないでしょうか。すなわち、私は自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験をしたということをどうして知ることができるでしょうか。
それから色々な願望の投影があります。私は保護されたい、内側に安全を得たいと願望します。あるいは大師、導師(グル)、教師、神を得たいと願望します。そして私は自分が投影したものを経験します。すなわち私は形を取った [願望] 、それに名をつけた願望を投影したのです。それにたいして反応するのです。それは私の投影です。それは私の命名です。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」「私は大師に会ったことがある」「私は大師に会ったことがない」と言わせるのです。あなたは、経験に名づける過程全体を知っています。願望が経験と呼ぶものなのではないでしょうか。
私が精神の静寂を願望するとき、何が起きているでしょうか。何が起きるでしょうか。私は色んな理由のために、静寂な精神、静かな精神を持つことの重要性がわかります。なぜなら、ウパニシャッドがそう言ってきたし、宗教書がそう言ってきたし、聖者たちがそう言ってきたし、また時々私自身も静かであることがどんなに良いかを感じるからです。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるからです。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなにすてきか、どんなに楽しいかを感じるのです。願望は静寂を経験することです。私は静寂な精神を持ちたいのです。それで、「私はどうすればそれを得られるのか」と訊くのです。私は、あれこれの書物が瞑想について言うことと色々な形の修練を知っています。それで修練をとおして、私は静寂を経験しようと求めるのです。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立したのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-9-1
観念、記憶、結論、経験、意図、無意識の蓄積された記憶。その全体が、自己の意味。このすべてを求める奮闘が自己。それには競争、願望が含まれる。その過程全体が自己。自己は邪悪。自己は分割するから。自己は自己閉鎖的。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させる。私たちは、自己がないときの瞬間をも知っている。そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きる。経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要。経験とはどういう意味か。経験する→その印象を翻訳する→それに応じて反応したり行動する。客観的に見られるものとそれに対する反応との間には相互作用があり、意識と無意識の記憶の間にも相互作用がある。記憶に応じて、自分が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きている。何か見られるものへの反応、応答が経験。その反応に名づけることが経験。その反応に名づけないなら、それは経験ではない。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守れ。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はない。自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験したと知れない。
願望の投影がある。保護されたい、内側に安全を得たいと願望する 自分が投影したものを経験する。すなわち形を取った願望、名をつけた願望を投影し、それにたいして反応する。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」と言わせる。
精神の静寂を願望するとき、何が起きるか。静寂な精神を持つことが重要。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるから。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなに楽しいかを感じる。願望は静寂を経験すること。私は、瞑想や修練をとおして、静寂を経験しようと求める。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立した。
(´・(ェ)・`)
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最初と最後の自由 第一部
第九章 自己とは何か 2
私は何が真理なのかを理解したいのです。それが私の願望、私のあこがれです。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が [後に] 続きます。なぜなら、私はそれについてたくさん読んできたからです。私は多くの人々がそれについて話すのを聞いてきました。宗教書はそれを叙述してきました。私はそのすべてが欲しいのです。何が起きるでしょうか。まさにそのほしがること、まさに願望が投影されるのです。そして私は経験します。なぜなら、その投影された状態を認識するからです。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばないでしょう。私はそれを認識するし、それを経験します。そしてその経験が自己、「私」に強さを与えるのではないでしょうか。それで自己は経験のなかに立てこもるのです。そのときあなたは、「私は知っている」、「大師は存在する」、「神はある」、「神はない」と言うのです。特定の政治体制が正しく、他のすべてはそうでないと、あなたは言うのです。
それで経験はいつも「私」を強めているのです。あなたが経験のなかに立てこもるほど、ますます自己が強められるのです。このことの結果として、あなたは一定の性格の強さ、知識、信念の強さを持ちます-それを他の人たちに見せびらかすのです。なぜなら、あなたは彼らがあなたほど利口ではないことを知っているから、あなたは文筆 [の才能] や弁舌の才能を持っているし、ずるがしこいからです。自己がやはり作用しているから、それであなたの信念、あなたの大師たち、あなたのカ-スト、あなたの経済的体制はすべて孤立化の過程です。ゆえにそれらは争いをもたらすのです。あなたはそもそもこのことにおいて真剣または熱心であるなら、この [自己という] 中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければなりません。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならないのです。
精神、自己が投影しないこと、願望しないこと、経験しないことは可能でしょうか。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかります。それでもそれらを肯定的行動と呼ぶのではないでしょうか。それが肯定的な生き方と呼ばれるものです。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定です。あなたはそれでいいのでしょうか。私たちは、あなたと私は個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるでしょうか。では何が自己の解消をもたらすのでしょうか。宗教 [的集団]と その他の集団は同一化を提供してきたのではないでしょうか。「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」 [ということ] が、彼らの言うことです。しかし確かに同一化もやはり自己の過程です。より大きなものは単に「私」の投影です-それを私は経験するし、ゆえにそれは私を強めるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-9-2
何が真理なのかを理解したい。それが私の願望。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が後に続く。そして私は経験する。なぜなら、その投影された状態を認識するから。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばない。私はそれを認識するし、それを経験する。そしてその経験が自己、「私」に強さを与える。それで自己は経験のなかに立てこもる。そのときあなたは、「私は知っている」、と言う。
経験はいつも「私」を強めている。結果として、あなたは一定の性格、知識、信念の強さを持つ。それを他の人たちに見せびらかす。それであなたの信念はすべて孤立化の過程。ゆえにそれらは争いをもたらす。この自己という中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければならない。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならない。
精神、自己が投影、願望、経験しないことは可能か。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかる。それでもそれらを肯定的行動、生き方と呼ばれる。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定。私たちは、個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるか。何が自己の解消をもたらすのか。宗教的集団は同一化を提供してきた「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」という。しかし同一化も自己の過程。より大きなものは単に「私」の投影。それを私は経験するし、それは私を強める。
(´・(ェ)・`)
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観念により自己はあり、それは記憶に支えられているのじゃ。
そして経験に拠って強められるというのじゃ。
そうであるから伝統的な行はむしろ自己を強める作用をしてしまうのじゃ。
行の経験やその結果として起こる神秘体験などの経験が積み重なっていくからなのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第九章 自己とは何か 3
色んな形の修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけです。私たちは自己を解消するであろう要素を見つけられるでしょうか。それともそれは間違った擬問でしょうか。それが、私たちが基本的に欲しいものです。私たちは、何か「私」を解消するものを、見つけたいのではないでしょうか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-があると、私たちは思います。しかしそれらのすべては同じ水準にあるのです。一つが他のものより勝れているわけではありません。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるからです。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるでしょうか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力です。それは破壊的な力です。そして私はそれを解消する仕方を見つけたいのです。あなたは自分自身にこう訊ねたことがあるにちがいありません-「私は、『私』がいつのときも機能し、私自身にだけでなく私のまわりの皆に対していつも心配、恐れ、挫折、絶望、悲惨をもたらしているのがわかる。その自己が部分的にではなく完全に解消されることは可能だろうか」と。私たちはその根に遡り、それを破壊できるでしょうか。それが真に機能する唯一の道なのではないでしょうか。私は部分的に智恵があるのではなく、統合された仕方で智恵があるようになりたいのです。私たちのほとんどは [色んな] 層において智恵があるのです-あなたはたぶん一つの仕方で、私は何か他の仕方で、です。あなたたちのうち或る者は営業の仕事に、他の或る者は事務の仕事に智恵がある、などです。人々は違った仕方で智恵があるのです。しかし私たちは統合的 [融和的] に智恵はないのです。統合的 [融和的] に智恵があるということは、自己を持っていないという意味です。それは可能でしょうか。
自己が今完全に不在であることは可能でしょうか。あなたはそれが可能であることを知っています。必要な要素、要件は何でしょうか。それをもたらす要素は何でしょうか。私はそれを見つけられるでしょうか。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信しています。それで私は、 [そこにおいて] 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないでしょうか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることを必要とします-そのためそれはすり抜けてしまわないのです。私はとても熱心です-自己を解消したいのです。私はそう言うとき、自己を解消するのは可能であることを知っているます。「私はこれを解消したい」と言った瞬間、そこにはやはり自己 [について] の経験があるのです。それで自己は強められるのです。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのでしょうか。創造の状態はそもそも自己の経験ではないということがわかります。創造は [そこに] 自己がないときです。なぜなら、創造は知的ではなく、精神の [もの] ではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるからです。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、 [そこに] 創造が起こりうる状態にあることは可能でしょうか-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味です。問題はこれなのではないでしょうか。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験です。精神が認識しないことは可能でしょうか。それは、自己の経験である [静寂] 、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-9-3
修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけ。自己を解消するであろう要素を見つけられるか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-がある。しかしそれらのすべては同じ水準にある。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるから。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力。破壊的な力。それを解消する仕方を見つけたい。統合された仕方で智恵があるようになりたい。
自己が今完全に不在であることは可能。必要な要素、要件は何か。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信している。それで私は、 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることが必要-そのためそれはすり抜けてしまわない。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのか。創造の状態はそもそも自己の経験ではない。創造は自己がないとき。なぜなら、創造は知的ではなく、精神のものではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるから。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、そこに創造が起こりうる状態にあることは可能か-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験。精神が認識しないことは可能か。それは、自己の経験である静寂、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけ。
(´・(ェ)・`)
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どんな修練も信念も知識も自己を強めるだけというのじゃ。
それをする自分という観念が起こるからのう。
完全な静寂の時に自己は認識されないというのじゃ。
精神の働きも静まった境地にまで至ればそれも可能なのじゃ。
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>>114
おい!猿!
阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?
wwwww
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1.漢文
是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。
またまたまたまた・・・・・ 馬鹿鬼は瞬殺されたなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
-
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r┘└へ| |二コ ┌'| |二コ ┌| |二コ ┌'| |二コ ┌┘
〈 〈] ゚,、〈| | o ヽ| | o ヽ| | o ヽ| | o └「 ̄\
ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ
馬鹿じゃねーの?
頭悪そうwwww
心療内科逝けよwwwww
生きてて楽しい?
知育障害?
恥ずかしーwww
まじキモ―! ,, -──- 、._ 智慧の声が聞こえた?
.-"´ \.
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.: 偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ:
:| (__人__) |: お薬飲んでるか??
:l ) ( l:
:` 、 `ー' /: 仏教向いてないよ、お前w
:, -‐ (_). /
:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´ キチガイだろwwww
:ヽ :i |:
:/ :⊂ノ|: wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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最初と最後の自由 第一部
第九章 自己とは何か 4
自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのでしょうか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的 [・精神的] 実体があるのでしょうか。私たちは [そういうものが] あると思うのではないでしょうか。ほとんどの宗教的な人たちは、そういう要素があると思うのです。唯物論者たちは言います-「自己が破壊されることは不可能である。それは政治的、経済的、社会的に条件づけられ抑制されうるだけである。私たちはそれを一定の様式の中にしっかりと抑えられるし、壊せる。ゆえにそれは高い生に、道徳的な生に導くように [することができる] 、何ごとにも邪魔しないで社会的様式に付いていくよう、たんに機械としてだけ機能するようにすることができる」と。それを、私たちは知っています。他の人たち、いわゆる宗教的な人たちがいます-私たちはそう呼ぶけれども、彼らはほんとうは宗教的ではありません-彼らは言います「基本的にそういう要素がある。私たちはそれと接触できるならなら、それが自己を解消するだろう」と。
自己を解消するような要素はあるのでしょうか。どうか私たちが何をしているのかを、わかってください。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいるのです。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるだろうか、わかるでしょう。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思うのです。では、精神が構想できるようなものはあるのでしょうか。あるかもしれないし、ないかもしれません。それは論点ではありません。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験ではないでしょうか。あなたが信じているとき、それが現実に起きていることではないでしょうか。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程ではないでしょうか。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影したのです。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をするのです。そういう経験は自己を強めるだけです。ゆえにあなたは何をしたのでしょうか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけです。自己はやはりあるのです。なぜなら、あなたがそれを経験したからです。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動です-ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけです。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能しているのです。
(´・(ェ)・`)つ
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1.漢文
是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。
漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、
>一体となっている感情が
阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。
>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?
ここで、現量の定義と照らし合わせると
直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
任運にして無分別なり
諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
境に任せてこれを縁ずる
上記とまさに合致してると思いますけどね。
上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。
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自分から離れて自分を見たり、破壊できる実体はないというのじゃ。
破壊したと思ったらそれが自己なのじゃ。
そこにはまだ破壊する主体の観念が在るのじゃ。
違う名前をつけただけなのじゃ。
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くまめも1-9-4
自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的・精神的実体があるのか。
自己を解消するような要素はあるのか。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいる。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるか。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思う。では、精神が構想できるようなものはあるのか。あるかもしれないし、ないかもしれない。それは論点ではない。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験。あなたが信じているとき、それが現実に起きていること。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影した。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をする。そういう経験は自己を強めるだけ。ゆえにあなたは何をしたのか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけ。自己はやはりある。なぜなら、あなたがそれを経験したから。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動。ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけ。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能している。
(´・(ェ)・`)
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最初と最後の自由 第一部
第九章 自己とは何か 5
あなたは、自己の過程全体、ずるがしこい、とてつもない考案、智恵 [ がわかるとき]、同一化をとおし、美徳をとおし、経験をとおし、信念をとおし、知識をとおして、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき-精神がそれ自体が作った循環、檻のなかで動いていることがわかるとき、何が起きるでしょうか。あなたはそれに気づき、充分に認識するとき、そのときとてつもなく静かではないでしょうか-強制をとおしてではなく、どんな報賞をとおしてでもなく、どんな恐れをとおしてでもなく。あなたは、精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、あなたはそれを観察し、わかるとき、行動においてそれに完全に気づくとき、その地点に至るとき-イデオロギ-として、言葉としてではなく、投影された経験をとおしてではなくて、現実にその状態にあるとき-そのとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかるでしょう。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にあるのです。精神が創造していないとき、創造があるのです-それは認識できる過程ではありません。
真実、真理は認識されるべきものではありません。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求-このすべては去らなければなりません。美徳の追求を意識している美徳の人は、決して真実を見つけられません。彼はとてもまともな人であるかもしれません。しかしそれは、真理の人、理解する人であるのとは全く異なっているのです。真理の人にとって、真理は生じたのです。美徳の人は正義の人です。正義の人は、何が真理なのかを決して理解できません。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから、彼は美徳を追求しているからです。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけです。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要なのです。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないでしょうし、すべての災いと悲惨の中心になるでしょう。しかしあなたと私が個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革であることを、私はあなたに保証します。愛は自己の[もの] ではありません。自己は愛を認識できません。「私は愛している」とあなたは言います。しかしそのとき、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はないのです。しかしあなたが愛を知るとき、自己はないのです。愛があるとき、自己はないのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも1-9-5
自己の過程全体、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき、そのときとてつもなく静かになる。精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、現実にその状態にあるとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかる。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にある。精神が創造していないとき、創造がある。それは認識できる過程ではない。
真理は認識されるべきものではない。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求、このすべては去らなければならない。美徳の人、正義の人は、何が真理なのかを決して理解できない。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけ。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないし、すべての災いと悲惨の中心になる。しかし個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき愛が何であるかを知る。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革である。愛は自己のものではない。自己は愛を認識できない。「私は愛している」とあなたは言う。しかし、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はない。しかしあなたが愛を知るとき、自己はない。愛があるとき、自己はない。
(´・(ェ)・`)
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自己に気付いたならば静寂があるというのじゃ。
真理は認識されるものではなく、真理の人に生じるというのじゃ。
世界を変えられる心の改革とは自己を滅し、愛を知った時であるというのじゃ。
愛がある時自己は無いからなのじゃ。
それは慈悲なのじゃ。
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ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ
馬鹿じゃねーの?
頭悪そうwwww
心療内科逝けよwwwww
生きてて楽しい?
知育障害?
恥ずかしーwww
まじキモ―! ,, -──- 、._ 智慧の声が聞こえた?
.-"´ \.
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.: 偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ:
:| (__人__) |: お薬飲んでるか??
:l ) ( l:
:` 、 `ー' /: 仏教向いてないよ、お前w
:, -‐ (_). /
:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´ キチガイだろwwww
:ヽ :i |:
:/ :⊂ノ|: wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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最初と最後の自由 第一部
第十章 恐怖(恐れ) 1
恐れとは何でしょうか。恐れは、何かとの関係においてだけ存在できるのです、[それだけが]孤立して存在できません。どうして私は死を恐れることができるでしょうか。どうして私は知らないものを恐れることができるでしょうか。私は知っているものだけを恐れることができるのです。私は死を恐れていると言うとき、ほんとうは、知らないもの-すなわち死-を恐れているのでしょうか。それとも知っているものを失うことを恐れているのでしょうか。私の恐れは、死についての [恐れ] ではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての [恐れ] です。私の恐れはいつも、知らないものと [の関係において]ではなく、知っているものとの関係においてあるのです。
そこで私の探究は[今や]、知っているものへの恐れ―すなわち私の家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れ-からどのようにして自由になるのか、です。恐れは良心から生じると、あなたは言うかも知れません。しかしあなたの良心は、あなたの条件付けにより形成されています。ですから良心はやはり、知っているものの結果です。私は何を知っているでしょうか。知識は、[せいぜい]観念を持つこと、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における [継続性の] ように、継続性の感覚を持つことです-それ以上ではないのです。観念は、記憶であり、経験の結果です-それは挑戦に対する応答です。私は知っているものを恐れています-それは、 [こういう意味です-] 私は人々やものごとや観念を失うことを恐れている。あるがままの自分を発見することを恐れている。途方に暮れることを恐れ [ている] 、失ってしまったり、獲得しなかったり、もはや楽しみを得られないとき生じるかもしれない苦痛を恐れている、という意味です。
苦痛への恐れがあります。身体的苦痛は神経的応答ですが、心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じるのです。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるからです。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれるのです。すなわち、私は蓄積物、経験の束です-それらが、どんな深刻な形の動揺をも防いでくれるのです。そして私は動揺したくないのです。ゆえに私は、誰でもそれら[蓄積物]を動揺させる者を、恐れるのです。こうして私の恐れは、知っているものについて [の恐れ] です。私は物質的、心理的な蓄積物-私が苦痛をかわしたり、悲しみを防いだりする手段として集めてきたもの-を恐れています。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにあるのです。知識もまた苦痛を防ぐのを助けてくれます。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けてくれるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助けてくれるのです。そういうわけで私は自分の信念を失うことを恐れるのです―そういう信念の真実性について完全な知識や具体的証拠を持っていないにもかかわらず、です。私は自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれません。なぜなら私自身の経験が、私に強さ、確信、理解を与えてくれるからです。しかし、私が習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じものです―苦痛をかわす手段です。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも10-1
恐れは、何かとの関係においてだけ存在できる。孤立して存在できない。死を恐れること、知らないものを恐れることはできない。私は死を恐れていると言うとき、死についてのではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての恐れ。家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れからどのようにして自由になるのか。恐れは良心から生じるか。良心は、条件付けにより形成される、から良心は、知っているものの結果。知識は、観念、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における継続性の感覚を持つこと。観念は、記憶であり、経験の結果。それは挑戦に対する応答。私は知っているもの、人々やものごとや観念を失うこと、あるがままの自分を発見すること、途方に暮れること、失ってしまったり、獲得しなかったり、楽しみを得られないとき生じる苦痛を恐れている。
身体的苦痛は神経的応答。心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じる。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるから。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれる。私は蓄積物、経験の束。それらが、動揺を防いでくれる。そして動揺したくない。ゆえに誰でもそれら蓄積物を動揺させる者を、恐れる。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにある。知識もまた苦痛を防ぐのを助ける。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助ける。そういうわけで自分の信念を失うことを恐れる。自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれない。なぜなら自身の経験が、強さ、確信、理解を与えてくれるから。しかし、習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じもの。苦痛をかわす手段。
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死の恐れとは家族や資産などを失う恐れというのじゃ。
誰もが死を忘れて死に無知になっているからのう。
その恐れからの逃避として知識や信念にすがるというのじゃ。
それは金や薬や酒や権力に執りつかれるのと同じなのじゃ。
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ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ
馬鹿じゃねーの?
頭悪そうwwww
心療内科逝けよwwwww
生きてて楽しい?
知育障害?
恥ずかしーwww
まじキモ―! ,, -──- 、._ 智慧の声が聞こえた?
.-"´ \.
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.: 偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ:
:| (__人__) |: お薬飲んでるか??
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:` 、 `ー' /: 仏教向いてないよ、お前w
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最初と最後の自由 第一部
第十章 恐怖(恐れ) 2
恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在しています-それ[蓄積 ] が、失うことへの恐れを造り出すのです。ゆえに知らないものへの恐れはほんとうは、蓄積された知っているものを失うことについての恐れです。蓄積はまちがいなく恐れを意味します―それ [ 恐れ]が今度は苦痛を意味します。それで「私は失ってはならない」と言った瞬間、恐れがあるのです。蓄積における私の意図は、苦痛をかわすことですが、苦痛は蓄積の過程において本来的にあるのです。まさに私の持っているものごとが、恐れを造り出すのです-それが苦痛です。
防御の種が攻撃をもたらすのです。私は物理的[・身体的]な安全が欲しい。こうして私は主権[独立]政府を造り出します-それは武装した軍隊を必要とします-それは戦争を意味し、それは安全を破壊します。自己保護への願望があるところはどこでも、恐れがあります。安全を要求することの虚偽がわかるとき、私はもはや蓄積しません。それはわかるが、蓄積せざるを得ないと、あなたが言うなら、それは、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないからです。
恐れは蓄積の過程に存在しています。そして何かへの信念は蓄積過程の一部です。私の息子が死にます。すると私は心理的にこれ以上の苦痛を持つのを防ぐために、輪廻転生を信じます。しかし、まさに信じる過程こそに、疑いがあるのです。外に向かって私は物を蓄積して戦争をもたらします。内に向かって私は信念を蓄積して苦痛をもたらします。私が安全でありたい、銀行預金、楽しみなどを持ちたいと思うかぎり、生理的または心理的に何ものかになりたいと思うかぎり、苦通があるにちがいありません。まさに私が苦痛をかわすためにしていることこそが、私に恐れ、苦痛をもたらすのです。
恐れは、私が特定の様式のなかにいたいと願望するとき、生じます。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味です。私が特定の生き方を要求するとき、それ自体が恐れの源です。私の困難は、一定の枠のなかで生きたいという願望です。私はその枠を壊せないでしょうか。私は、真理 [がわかるとき] -枠が原因として恐れを引き起こしているということ、この恐れが枠を強めているということ-がわかるときだけ、そうできるのです。私は恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけです-それは [原因として] さらなる恐れを引き起こすでしょう。枠を壊したいという願望に基づいた私の方のどんな行動も、もう一つの様式を [造り出し] 、ゆえに恐れを造り出すだけでしょう。恐れを引き起こすことなく、すなわちそれ [枠] に関する私の方の意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきでしょうか。これは、私が行動してはならない、枠を壊すためのどんな動きもしてはならない、という意味です。私が枠について何もせずに単にそれを見ているとき、私に何が起きるでしょうか。精神自体が、枠、様式であることがわかるのです-それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きているのです。ゆえに精神自体が恐れです。精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行くのです。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味です。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも10-2
恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在する。蓄積が、失うことへの恐れを造り出す。蓄積における意図は、苦痛をかわすことだが、苦痛は蓄積の過程において本来的にある。防御の種が攻撃をもたらす。物理的・身体的な安全が欲しい。自己保護への願望があるところは、恐れがある。安全を要求することの虚偽がわかるとき、もはや蓄積しない。それはわかるが蓄積せざるを得ないと言うなら、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないから。
恐れは蓄積の過程に存在する。何かへの信念は蓄積過程の一部。外に向かって物を蓄積して戦争をもたらし、内に向かって信念を蓄積して苦痛をもたらす。苦痛をかわすためにしていることが、恐れ、苦痛をもたらす。
恐れは、特定の様式(枠)のなかにいたいと願望するとき、生じる。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味。枠が原因として恐れを引き起こし、この恐れが枠を強めているという真理がわかるときだけ、枠を壊せる。恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけ。それはさらなる恐れを引き起こす。枠を壊したいという願望に基づいた行動も、もう一つの様式を造り出し、恐れを造り出すだけ。恐れを引き起こすことなく、すなわち枠に関する意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきか。枠について何もせずに単にそれを見ているとき、精神自体が、枠、様式であることがわかる。それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きている。ゆえに精神自体が恐れ.精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行く。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味。
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蓄積したものを失うことが恐れになるというのじゃ。
金でも知識でも蓄積してきたものを失うのが恐れになるのじゃ。
そもそも金とか知識も恐れからの逃避として蓄積してきたものなのじゃ。
恐れからの逃避として蓄積すれば、今度はそれが恐れを生む悪循環になるのじゃ。
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和尚様
井上義衍の縁者の松本自證老師は悟られているのでしょうか?
認識に問題があることを分かっている気がします。
http://zenmasterjinen.blog.jp/archives/19341423.html
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最初と最後の自由 第一部
第十章 恐怖(恐れ) 3
恐れは様々な逃避を見つけます。普通の種類は同一化なのではないでしょうか-国との、社会との、観念との同一化です。あなたは軍隊の行進や宗教的行列など、行進[・行列]を見るとき、または祖国が侵略される危機にあるとき、自分がどのように反応するかに気づいたことはないでしょうか。あなたはそのとき祖国と、或る存在[神・人]と、イデオロギーと自分自身を同一化します。あなたは自分の子供、自分の妻、特定の形の行動や無行動と自分自身を同一化する他の時があります。同一化は[忘我の・]自分を忘れる過程です。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがあることを知っています。しかし何かもっと偉大なもの、何か価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避があるのではないでしょうか。私は「祖国」について話をするなら、一時的に自分自身を忘れるのではないでしょうか。私は神について何かを言えるなら、自分自身を忘れるのです。私が自分の家族、集団、特定の党派、一定のイデオロギーと自分自身を同一化できるなら、そのとき一時的な逃避があるのです。
ゆえに 同一化は、一つの形の自己からの逃避です―まさに美徳が一つの形の自己からの逃避であるように、です。美徳を追求する人は、自己から逃避しているのです。彼は狭い精神を持っているのです。それは美徳のある精神ではありません。というのは美徳は、何か追求できないものであるからです。あなたは美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に、「私」に強さを与えるのです。恐れは、私たちのほとんどにとって、形は違っても共通していますが、いつも代用物を見つけるにちがいないし、ゆえに私たちの格闘を増加させるにちがいないのです。あなたは代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなるのです―あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができているのです。なぜならその裏には恐れがあるからです。
私たちは今、恐れとは何かを知っているでしょうか。それは、あるがままを受け入れないことではないでしょうか。私たちは「受け入れる」という言葉を理解しなければなりません。私はその言葉を、受け入れるために為される努力という意味で使っているわけではありません。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはありません。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込みます。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないことです。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私はどうして[それらを]越えてゆけるでしょうか。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるでしょうか。障害がないとき、なんととてつもない喜びがあるかを、私たちは知っています。あなたは、身体が完ぺきに健康であるとき、一定の喜び、幸福があることを知らないでしょうか。精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、一定の喜びを経験することを、知らないでしょうか。自己が不在であるとき、この状態を経験したことがないでしょうか。確かに私たちは皆 [経験したことが] あるのです。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめられるときだけ、理解と、自己からの自由があるのです。そして私は、願望-すなわちまさに思考の表現そのもの-から生まれた活動すべての過程全体を理解するときだけ、それができるのです-正当化せず、非難せず、抑圧せずに、です。というのは、思考は願望と異ならないからです。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の [諸々の] 制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも10-3
恐れは様々な逃避を見つける。国、社会、観念との同一化。同一化は忘我の過程。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがある。しかし何かもっと偉大なもの、価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避がある。ゆえに 同一化は、自己からの逃避。しかし、たとえば、美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に強さを与える。恐れは、いつも代用物を見つける。ゆえに格闘を増加させる。代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなる。あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができている。なぜならその裏には恐れがあるから。
恐れとは、あるがままを受け入れないこと。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはない。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込む。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないこと。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私は、それらを越えてゆけない。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるか。障害がないとき、精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、とてつもない喜びがある。自己が不在であるとき、この状態を経験する。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめるときだけ、理解と、自己からの自由がある。そして私は、願望から生まれた活動すべての過程全体を、正当化、非難、抑圧せずに理解するときだけ、それができる。というのは、思考は願望と異ならないから。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知る。
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>>133 悟っていないのじゃ。
ハッキリしただけじゃな。
それは悟りではないのじゃ。
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恐れから人は国家や組織と同一化するというのじゃ。
それは一時的に恐れを忘れさせてくれるが、更なる悲惨をもたらすものじゃ。
私という認識の主体がなければ喜びと、幸福が在るのじゃ。
それは自己からの認識全体が観られるとき、起こるものじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)1
私は、単純さとは何であるかを議論したいと思います。するとおそらくそこから、感受性の発見にたどり着くでしょう。私たちは、単純さとはたんに外側の表現、退くことであると考えるように、見えます-わずかの所有物しかもたないこと、腰布を着けること、家を持たないこと、わずかの服しか身につけないこと、少ない銀行預金を持つこと [であると] 。確かにそれは単純さではありません。それはたんに外側の表示であるだけです。単純さは本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。しかし単純さは、私たちが自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうるのです。
単純さは、たんに様式への適応だけではありません。単純であって、たとえどんなに外的に価値があっても、たんに特定の様式に順応しないことは、たいへんな智恵を必要とします。不幸にも私たちのほとんどは、外側のものごとにおいて外的に単純であることより始めます。わずかのものしか持たないこととわずかなもので満足することは、比較的にたやすいのです-ほんの少しで満足することと、おそらくそのほんの少しを他の人たちと分け合うことは、です。しかし、ものごと、所有物における単純さというたんなる外側の表現は、確かに内側の存在の単純さという意味を含んでいません。なぜなら、世界が現在そうであるように、外側から、外的にますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているからです。生はますます複雑になりつつあります。それから逃避するために、私たちは断念したり、ものごとから無執着であろうとします-車から、家から、組織から、映画から、そして外側から私たちに押しつけてくる無数の境遇から。私たちは退くことにより単純であるだろうと、考えます。非常に多くの聖者たち、非常に多くの教師たちは世界 [・世間] を放棄してきました。そして私たちの誰に関しても、そういう放棄は問題を解決しないように、私には見えます。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけです。そこから外側の表現があるのです。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題です。なぜなら、その単純さは [人を] ますます敏感にするからです。敏感な精神、敏感な心は本質的 [・不可欠] です。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるからです。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているのですが、それらを理解することによってだけ、確かに、内側で単純でありえます。しかし私たちのほとんどは囚われることが好きなのです-人々により、所有物により、観念により。私たちは囚人であることが好きなのです。私たちは外側ではとても単純であるように見えるけれども、内側では囚人です。内側では、私たちは自分たちの願望、欲、理想、無数の動機づけの囚人です。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられません。ゆえに、それは外側でではなく、内側で始まらなければなりません。
信念の過程全体を [理解する] 、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由があります。信念からの自由があるとき、単純さがあります。しかしその単純さは智恵を必要とします。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければなりません。気づくには、思考や行動のどんな特定の溝、どんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければなりません。結局、内側で何であるかが、外的なものに影響を及ぼすのです。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影です。そして内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がありません。それは一定の改善、一定の適応をもたらすかもしれません。しかし内側で何であるかが、いつも外的なものに打ち勝つのです。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒するのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも11-1
単純さとはたんに外側の表現、退くことではない。単純さは不可欠。単純さは、自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうる。
単純さは、たんに様式への適応だけではない。たんなる外側の表現は、内側の存在の単純さという意味を含んでいない。なぜなら、外側から、ますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているから。生はますます複雑になりつつある。それから逃避するために、断念したり、無執着であろうとする。私たちは退くことにより単純であろうとする。そういう放棄は問題を解決しない。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけ。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題。なぜなら、単純さはますます敏感にするから。敏感な精神、心は不可欠。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるから。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているが、それらを理解することによってだけ、内側で単純でありえる。しかし私たちは人々、所有物、観念により、囚われることを好む。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられない。ゆえに、それは内側で始まらなければならない。
信念の過程全体を、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由がある。信念からの自由があるとき、単純さがある。その単純さは智恵を必要とする。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければならない。気づくには、思考や行動のどんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければならない。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影。内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がない。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒する。
(´・(ェ)・`)
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心の内側で単純であることは知覚を鋭敏にしてくれるというのじゃ。
執着や恐れを理解すれば単純にありえるというのじゃ。
信念への執着を理解する時、自由で単純になれるのじゃ。
そのようにして内側で変容することで真の改革はなされるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)2
ゆえに、中で始めなければなりません-排他的にではなく、外的なものを拒絶するのではありません。あなたは、外的なものを理解することにより、どうして外側に抗争、格闘、苦痛が存在するのかを見出すことにより、確かに、内的なものに至ります。それをますます究明するにつれて、自然に、外側の抗争と悲惨を生み出すところの心理状態に入るのです。外側の表現は、ただ私たちの内側の状態の表示であるだけです。しかし内側の状態を理解するには、外的なものをとおして接近しなければなりません。私たちのほとんどはそうします。内的なものを理解するなかで-排他的にではなく、外的なものを拒絶することによってではなく、外的なものを理解し、そして内的なものに思いがけず出会うことによって-私たちは、自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になるということを、見つけるでしょう。かくも本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さです。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すからです。敏感でなく、鋭敏でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もありません。私たち自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にするのです。政府により、自分自身により、達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つにちがいありません。外側では、あなたは順応して、とても多くの宗教的な人たちがするように単純さの外観を装うかもしれません。彼らは色んな修練を実践し、色んな組織に加入し、特定の流儀で瞑想をする、などです-すべてが単純さの外観を装っています。しかしそういう順応は単純さに役立ちません。どんな種類の強制も決して単純さに導けません。反対に、あなたは抑圧すればするほど、代用するほど、昇華するほど、ますます単純でなくなるのです。しかしあなたは昇華、抑圧、代用の過程を理解すればするほど、ますます単純である可能性が大きくなるのです。
私たちはとてつもなく博識で利口になることによってではなく、単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑なのです。単純な人は、複雑な人よりはるかにもっと直接的に見えて、もっと直接的な経験をします。私たちの精神は、事実について、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、私たちは単純である [能力] 、私たち自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまったのです。これらの問題は、新しい接近法を要求します。そしてそれらは、私たちが単純で [あり] 、内側で本当に単純であるときだけ、そのように接近できるのです。その単純さは、ただ自己認識をとおし、私たち自身を理解することをとおしてだけ、訪れるのです。私たちの考え [方]と感じ方、私たちの思考の動き、私たちの応答 [を理解する] 。いかに私たちが恐れをとおして世論に、他の人たちが言うことに、ブッダやキリストや偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示しています- [を理解することをとおして、です] 。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはないのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも11-2
外側に抗争、格闘、苦痛が存在するわけを見出すことにより、内的なものに至る。自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になる。本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さ。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すから。敏感でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もない。自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にする。達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つ。抑圧、代用、昇華するほど、ますます単純でなくなる。しかし、昇華、抑圧、代用の過程を理解するほど、ますます単純である可能性が大きくなる。
私たちは単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑。私たちの精神は、事実、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、単純である [能力] 、自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまった。単純さは、ただ自己認識をとおしてだけ、訪れる。いかに私たちが恐れをとおして、世論に、他の人たちが言うことに、偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示している − を理解することをとおして。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはない。
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外側での抗争、格闘、苦痛が何故起こるのか探求すれば必然的に心の内側に原因があるとわかるというのじゃ。
外で起こることは全て心の内側の表現に過ぎないのじゃ。
全ては心で作られるのであるからのう。
仏陀やキリストの言葉でさえただ従うだけでは安心を求める欲から起こる行いというのじゃ。
自分を観ることでのみ問題は解決できるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)3
単純であることなしに、敏感でありえません-木々に、鳥たちに、山々に、風に、世界で私たちのまわりで起きていることすべてに対して。単純でなければ、ものごとの内側の暗示に対して敏感でありえません。私たちのほとんどは、意識の上のほうの水準で、あまりに表面的に生きています。そこでは私たちは思慮深くあろう、または智恵を持とうとします-それは宗教的であることと同義です。そこでは私たちは強制をとおし、修練をとおして、自分たちの精神を単純にしようとします。しかしそれは単純さではありません。私たちが上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしないのです。私たちの意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難です。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、私たちの存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないからです-それは、あらゆるほのめかし、あらゆる暗示に目覚めている、という意味です-私たちの恐れ、希望に気づいて、 [それらを] 究明し、それらからますます自由になる [という意味です] 。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、私たちは自分たちが直面する多くの問題を解決することができるのです。
知識は私たちの問題を解決しそうにありません。あなたは、例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれません。あなたは知っているかもしれません-あなたは知っていると、私は言いません。またはあなたはそれを確信しているかもしれません。しかし、それは問題を解決しません。死は、あなたの理論により、情報により、または確信によって棚上げできません。それ [死] は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的です。
これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければなりません。なぜなら、私たちの問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけであるからです。そして直接の経験をするには、単純さがなければなりません-それは敏感さがなければならない、という意味です。精神は、知識の重みにより鈍らされます。精神は、過去により、未来により鈍らされます。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、私たちの環境が常に私たちに加えてくる強力な影響と圧力に対処できるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも11-3
世界でまわりで起きていることすべてに対して、ものごとの内側の暗示に対して、単純であることなしに、敏感でありえない。意識の上のほうの水準で、表面的に生きている。そこで、思慮深くあろう、智恵を持とうとする。そこで強制、修練をとおして、精神を単純にしようとする。しかしそれは単純さではない。上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしない。意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないから。それは、あらゆる暗示に目覚めている、という意味。恐れ、希望に気づいて、究明し、それらからますます自由になるという意味。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、自分たちが直面する多くの問題を解決できる。
知識は問題を解決しない。例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれない、それを確信しているかもしれない。しかし、それは問題を解決しない。死は、理論により、情報により、確信により棚上げできない。死は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的。
これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければならない。なぜなら、問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけ。そして直接の経験をするには、単純さ、敏感さがなければならない、という意味。精神は、知識の重みにより、過去により、未来により鈍らされる。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、環境が常に加えてくる強力な影響と圧力に対処できる。
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世間でも断捨離という片づけが流行っているのじゃ。
身辺から物が無くなればすっきりして心身もよくなるのじゃ。
心から考えを捨てて単純に成れば敏感にもなるのじゃ。
それには自らの存在を探求する熱意が必要というのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)4
こうして、宗教的な人は、ほんとうはロ-ブ [聖職者の長い礼服] や腰巻きを着けたり、一日一食で生きたり、これであるべきで、あれであるべきでないという無数の誓いをたててきた人ではなくて、内側で単純である [人] 、何ものにもなろうとしていない人です。そういう精神は、とてつもない受容性の能力があります。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないからです。ゆえにそれは、恵み、神、真理または何であれ、受け取る能力があるのです。しかし真実を追求している精神は、単純な精神ではありません。捜し出し、探求し、手探りし、扇動されている精神は、単純な精神ではありません。内側でも外側でも、どんな権威の様式にも順応する精神は、敏感でありえません。そして精神が本当に敏感で、鋭敏で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやなろうとしていない [とき] 、もはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力があるのです。幸せがありうるのは、そのときだけです。というのは、幸せは [終わりの] 目的ではないからです-それは真実の結果です。精神と心が単純に [なって] ゆえに敏感になったとき-どんな形の強制、指令、または賦課をとおしてでもなく-そのとき私たちは、自分たちの問題にとても単純に取り組めることが、わかるでしょう。私たちの問題がたとえどんなに複雑でも、私たちはそれらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができるでしょう。それが、現在の時代に求められているものです-この外側の混乱、騒乱、敵対に、左翼のであれ右翼のであれ、理論でも定式でもってでもなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、です。あなたは単純でなければ、それに新たに出会えません。
問題は、私たちがこのように接近するときだけ、解決されうるのです。私たちは、宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できません。ですから私たちは、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければなりません。そういうわけで、気づくこと、私たち自身の考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、これほど重要なのです。そこから、単純さが訪れます。美徳や実践ではない謙虚さが訪れます。獲得される謙虚さは、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではありません。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけです-育成された謙虚さではありません。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないからです。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができるのです。
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くまめも11-4
宗教的な人は、ほんとうは、内側で単純である 人、何ものにもなろうとしていない人。そういう精神は、とてつもない受容性の能力がある。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないから。ゆえにそれは、真理を受け取る能力がある。しかし真実を追求している精神、扇動されている精神は、単純な精神ではない。権威の様式に順応する精神は、敏感でない。そして精神が本当に敏感で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力がある。幸せがありうるのは、そのときだけ。というのは、幸せは 終わりの目的ではないから。それは真実の結果。精神と心が単純、敏感になったとき-どんな形の強制、指令、賦課をとおしてでもなく-そのとき自分たちの問題にとても単純に取り組める。問題がたとえどんなに複雑でも、それらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができる。この外側の混乱、騒乱、敵対に、理論、定式でもってでなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、現在の時代に求められている。宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できない。だから、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければならない。そういうわけで、気づくこと、考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、重要。そこから、単純さが訪れる。美徳や実践ではない謙虚さが訪れる。獲得される謙虚さは、謙虚でなくなる。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではない。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけ。育成された謙虚さではない。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないから。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができる。
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外見を飾るのではなく内面で単純な者にはとてつもない受容性があるというのじゃ。
しかしそれは順応することではないというのじゃ。
権威や伝統に順応すればそれは鈍感になるからのう。
すべてをありのままに見る精神が単純なのじや。
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最初と最後の自由 第一部
第十二章 気づき 1
自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味です-観念と人々の世界とだけでなく、また自然と [の関係] 、私たちが所有するものごととの関係を、です。それが私たちの生です-生は全体との関係です。その関係を理解することは専門化を要求するでしょうか。明白に [要求] しません。それが要求するものは、全体としての生に出会うための気づきです。どのようにして気づくべきでしょうか。それが私たちの問題です。どのようにしてその気づきを持つべきでしょうか-私がこの [気づきという] 言葉を、専門化という意味を持たせずに使ってよければ。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきでしょうか-それは、あなたの隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との [関係] 、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの [関係]、 という意味です。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきでしょうか。確かにそれが私たちの生なのではないでしょうか。関係なしに生はありません。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではありません。反対にそれは、関係の総合過程 [について] の充分な認識や気づきを要求します。
どのようにして気づくべきでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。あなたはどのように人との関係に気づくのでしょうか。あなたはどのように木々に、鳥の鳴き声に気づくのでしょうか。あなたは新聞を読むとき、どのように自分の反応に気づくのでしょうか。私たちは内的な応答とともに精神の表面的な応答にも気づいているでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。初めに私たちは刺激に対する応答に気づくのではないでしょうか-それは明白な事実です。私は木々を見ます。すると応答があります。それから感覚、接触、同一化、欲望 [があります] 。それは普通の過程なのではないでしょうか。私たちはどんな書物も研究せずに、現実に起きることを観察できます。
それで同一化をとおして、あなたは楽しみと苦痛を持ちます。そして私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避なのではないでしょうか。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれるなら、即時に「能力」があるのです。即時に、その事実への気づきがあるのです。そしてそれが苦痛であるなら、「能力」はそれを避けるために開発させられます。私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗するだろうと、私は思います。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないからです。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術ではありません。この自分自身への気づきは、確かに関係の行動 [・作用] において試せるのです。それは私たちの話し方、ふるまい方において試せるのです。どんな同一化もなく、どんな比較もなく、どんな非難もなく、あなた自身を見守ってください。ただ見守ってください。するとあなたはとてつもないことが起きていることが、わかるでしょう。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく-なぜなら、私たちの活動のほとんどは無意識的であるから-あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づくのです。
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くまめも12-1
自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味。観念と人々の世界、自然、所有するものごととの関係。生は全体との関係。その関係を理解することは、全体としての生に出会うための気づきを要求する。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきか-それは、隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの 関係。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきか。関係なしに生はない。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではない。反対にそれは、関係の総合過程の充分な認識や気づきを要求する。
どのように何かに気づくのか。初めに刺激に対する応答に気づく。木々を見る→応答がある→感覚、接触、同一化、欲望がある。→楽しみと苦痛を持つ。
私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれる→即時に「能力」がある。即時に、その事実への気づきがある。それが苦痛である→「能力」はそれを避けるために開発される。
私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗する。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないから。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術でない。この自分自身への気づきは、関係の行動・作用、話し方、ふるまい方において試せる。どんな同一化、比較、非難もなく、あなた自身をただ見守れ。するととてつもないことが起きていることがわかる。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく、あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づく。
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自分と自分にまつわる観念について全体として気づくことが自分自身を知ると言っているのじゃ。
全体を知らなければ自分自身を知ったことにはならないのじゃ。
知ることは本を読んだりして知識を蓄積することではないのじゃ。
現実に起きていることを観察してできることなのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十二章 気づき 2
あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかります。しかしそれは、非難がないときだけ起こりうるのです。私は何かを非難するとき、それを理解しません。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方です。私たちのほとんどは意図的にそうすると、私は思います。私たちは即時に非難します。そして私たちは理解したと思うのです。私たちはそれを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始めるのです。これを実験してみてください。するとあなたは自分自身でわかるでしょう。ただ気づいてください-どんな正当化の感覚もなしに-それはむしろ否定的に見えるかもしれませんが、否定的ではありません。反対にそれは、直接的行動である受動性の性質を持っています。そしてあなたはそれを実験してみるなら、これを発見するでしょう。
結局、あなたは何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならないのではないでしょうか。あなたはそれについて考え [続け] 、それについて憶測し・思索し [続け] 、それを問い続けられません。あなたはそれの内容を受け取るほど充分に敏感でなければなりません。それは敏感な・高感度の写真の感光板と似ています。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければなりません。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめます。確かにそれは能力や専門化の問題ではありません。その過程において、私たちは自分自身を-私たちの意識の表面的な層だけではなくて、より深い [層] 、すなわちはるかにもっと重要であるものを-理解しはじめるのです。なぜなら、そこに、私たちの動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるからです。外側では、私たちはそれらをすべて制御しているかもしれませんが、内側では、それらは沸き立っているのです。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、明白に自由はありえません。幸せはありえません。智恵はありません。
智恵は専門化の事柄でしょうか-智恵は私たちの過程への総合的気づきです。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものでしょうか。なぜなら、それが起きていることであるからではないでしょうか。司祭、医者、技師、産業経営者、事業家、大学教授-私たちはその専門化すべての精神性を持っています。
最高の形の智恵-すなわち真理、神、叙述できないもの-を悟るには、それを悟るには、私たちは自分たち自身を専門家にしなければならないと、思うのです。私たちは研究します。私たちは手探りします。私たちは探し出します。そして私たちは能力-すなわち自分たちの葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究するのです。
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くまめも12-2
あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかる。それは、非難がないときだけ起こりうる。私は何かを非難するとき、それを理解しない。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方。私たちは意図的にそうする。即時に非難する。そして理解したと思う。それを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始める。ただ気づけ。どんな正当化の感覚もなしに-それは否定的ではない。それは、直接的行動である受動性の性質を持つ。実験してみれば、これを発見する。
何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならない。それについて考え、憶測し・思索し、それを問い続けられない。それの内容を受け取るほど充分に敏感でなければならない。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければならない。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめる。それは能力や専門化の問題ではない。その過程において、自分自身を-意識の表面的な層だけではなくて、より深い、もっと重要であるものを-理解しはじめる。なぜなら、そこに、動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるから。外側では、それらをすべて制御しているが、内側では、それらは沸き立っている。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、自由は、幸せは、智恵はない。
智恵は私たちの過程への総合的気づき。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものはない。なぜなら、それが起きていることであるから。私たちはその専門化の精神性を持っている。
最高の形の智恵-真理、神、叙述できないもの-を悟るには、自分自身を専門家にしなければならない。私たちは研究し、手探りし、探し出す。そして能力-すなわち葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究する。
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気付きは非難が無い時に起こると言うのじゃ。
西洋人はものごとを観る時に批判的な精神で見るようにと教育されるからのう。
そのような条件付けされた見方では気付きは起こらないのじゃ。
自分自身を非難も肯定もせずに、見るのじゃ。
自分自身を研究するのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十二章 気づき 3
そもそも私たちが気づいているとするなら、私たちの問題は、私たちの日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されうるのかどうか、 [ということ] です。それらが [解決] されえないなら、私たちがそれらに取り組むことは、どのようにして可能なのでしょうか。問題を理解するには、明白に一定の智恵を必要とします。その智恵は専門化から引き出したり、[専門化]をとおして育成したりできません。それは、私たちが自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じるのです-それは、選択なく、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくことです。あなたは受動的に気づくとき、その受動性-それは無為・何もしないことではなく、眠りではなくて、極度の鋭敏さです-の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかるでしょう。それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味です。あなたが常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうるのです。それが困難です。なぜなら、私たちのほとんどは受動的に気づく [能力] 、私たちが解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないからです。私たちはどのように問題を冷静に見るべきかを知らないのです。私たちは不幸にもその能力がないのです。なぜなら、私たちは問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているからです。または私たちは自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようとします。または私たちは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っているのです。ゆえに私たちは問題-すなわちいつも新しいもの-に、古い様式をもって接近するのです。挑戦はいつも新しいものですが、私たちの応答はいつも古いものです。そして私たちの困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うことです。問題はいつも関係の問題です-ものごととの、人々との、観念との [関係です] 。他に問題はありません。関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく出会うには、それに適切に出会うには-受動的に気づかなければなりません。この受動性は決意、意志、修練の問題ではありません。私たちが受動的でないことに気づくことが、始まりです。私たちが特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-確かにそれが始まりです。問題との関係のなかで私たち自身を知ること、私たちが問題をどのように扱うのか [を知ること] です。そのとき私たちは問題との関係のなかで自分自身を-その問題に出会うなかで私たちがどう応答するのか、私たちの様々な先入観、要求、追求が何であるのかを-知りはじめるにつれて、この気づきが、私たち自身の考える [過程] 、私たち自身の内部の本性の過程を開示するでしょう。そこに解放があるのです。
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くまめも12-3
そもそも私たちが気づいているとするなら、問題は、日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されえないなら、それらに取り組むことは、どのようにして可能か。問題を理解するには、一定の智恵が必要。その智恵は自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じる。それは、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくこと。受動的に気づくとき、その受動性の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかる、それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味。常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうる。それが困難。なぜなら、受動的に気づく、解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないから。どのように問題を冷静に見るべきかを知らない。その能力がない。なぜなら、問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているから。または自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようするまたは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っている。ゆえに新しい問題に、古い様式をもって接近する。挑戦はいつも新しいが、応答はいつも古いもの。そして困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うこと。問題はいつも関係の問題 − ものごととの、人々との、観念との関係。他に問題はない。
関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく、適切に出会うには-受動的に気づかなければならない。この受動性は決意、意志、修練の問題ではない。受動的でないことに気づくことが、始まり。特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-それが始まり。問題との関係のなかで自身を知ること、問題をどのように扱うのかを知ること。そのとき問題との関係のなかで自分自身を知りはじめるにつれて、この気づきが、自身の考える過程、内部の本性の過程を開示する。そこに解放がある。
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問題の解決には自分を知ることが大事だというのじゃ。
自分に気付けば問題との自己同一化がなくなり、解決できるようになるというのじゃ。
それが智慧というものじゃ。
自分自身に気付くことで解放も在るのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十二章 気づき 4
重要であることは、選択なしに気づくことです。なぜなら、選択は葛藤をもたらすからです。選択する者は混乱 [の状態] にあります。ゆえに彼は選択するのです。彼が混乱 [の状態] にないなら、選択はないのです。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択するのです。明晰で単純である人は選択をしません。あるがまま、です。観念に基づいた行動が、明白に選択の行動です。そういう行動は解放しません。反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけです。
ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくことです。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくからです。すなわちあなたの気づきは、あなたの蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがあるのです。翻訳があるところ、選択があります。そして選択は葛藤を造り出します。葛藤には、理解はありえません。
生は関係の事柄です。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき [がなければならない] 、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければなりません。私が言いましたように、この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ないのです。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくことです-目覚めているときだけではありません。というのは私たちは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるでしょうから。こうして私たちは隠れたものへの扉を開くのです-それ [隠れたもの] は知られるものになるのです。しかし知られていないものを見つけるには、私たちは扉を越えてゆかなければなりません-確かにそれが私たちの困難です。真実は、精神が知ることのできるものではありません。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるからです。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければなりません。そのときだけ、知られないものがあることが可能なのです。
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くまめも12-4
重要なのは、選択なしに気づくこと。なぜなら、選択は葛藤をもたらすから。選択する者は混乱にある。ゆえに彼は選択する。彼が混乱にないなら、選択はない。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択する。明晰で単純である人は選択をしない。あるがまま。観念に基づいた行動が、選択の行動。そういう行動は解放しない、反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけ。
ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくこと。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくから。すなわち気づきは、蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがある、翻訳があるところ、選択がある。そして選択は葛藤を造り出す。葛藤には、理解はない。
生は関係の事柄。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければならない。この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ない。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくこと− 目覚めているときだけではない。というのは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるから。こうして隠れたものへの扉を開く-隠れたものは知られるものになる。しかし知られていないものを見つけるには、扉を越えてゆかなければならない-それが困難。真実は、精神が知ることのできるものではない。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるから。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければならない。そのときだけ、知られないものがあることが可能。
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気付くことには選択すらも妨げになるのじゃ。
それは分別をしていることになるからのう。
今ここに在るものごとをありのままに見るのじゃ。
選択すらも無く見る事が出来たならばそれが気付きなのじや。
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最初と最後の自由 第一部
十三章 欲望(願望) 1
私たちのほとんどにとって、欲望は実に問題です-財産、地位、力、慰め [安楽・快適さ] 、不死、継続 [存続] への欲望、愛されたい [という欲望] 、何か永久的な [もの]、 満足させ持続するもの、何か時間を超えているものを持ちたいという欲望です。では欲望とは何でしょうか。私たちを駆り立て強制しているこのものは何でしょうか。私たちは持っているものやあるがままの私たちに満足すべきであると、私は提唱しているのではありません-それはたんに私たちが欲しいものの対極であるだけです。私たちは欲望とは何であるのかを見ようとしています。私たちは仮に、ためらいがちにそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの欲望の対象を用いるだけではない変容をもたらすであろうと、私は思います。これが一般に私たちのいう「変化」という意味なのではないでしょうか。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、私たちはその代用物を見つけます。私たちは、一つの欲望の対象から、私たちがより高くより高尚でより洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いているのです。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望です。そしてこの欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤があるのです。
ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか。欲望とは何でしょうか。それは象徴とその感動 ・感覚ではないでしょうか。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚です。象徴とその感動を伴わない欲望があるでしょうか。明白に、ありません。象徴は、私に感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念であるかもしれません-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせるのです。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまるのです。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変えるのです。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈してしまいます。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求めます。私は古い感動を拒絶して、新しいものを採り入れます-新しい言葉、新しい意義、新しい経験をもったもの、です。私は古いものに抵抗して、より高くより高尚でより満足させてくれると考える新しいものに屈します。こうして欲望には、抵抗と屈することがあります-それには誘惑が関与しています。そしてもちろん、欲望の特定の象徴に屈することには、いつも挫折への恐れがあるのです。
私は自分自身の欲望の過程全体を観察するなら、いつも対象 [がある] -私の精神が、さらなる感動のためにそれに向けられているもの-があるということ、そしてこの過程には抵抗、誘惑、修練が関与しているということが、わかります。知覚、感覚、接触、欲望があります。そして精神はこの過程の機械的な道具になります-そこでは象徴、言葉、対象が中心です-そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれるのです。その中心が「私」です。私はその欲望の中心を解消できるでしょうか-一つの特定の欲望、一つの特定の欲望や渇望ではなくて、欲望、あこがれ、希望-そこにはいつも挫折の恐れがあります-の構造全体を、です。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまいます。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がありますし、それがまた・さらに中心を強めるのです。そして革命は、その中心においてだけ可能です-表面にではありません-それはたんに逸脱・散漫の過程 [であり] 、有害な行動につながる表面的変化であるだけです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも13-1
欲望とは何か。私たちを駆り立て強制しているこのものは何か。私たちはそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの対象を用いるだけではない変容をもたらす。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、その代用物を見つける。一つの欲望の対象から、より高く、高尚で洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いている。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望。この欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤がある。
ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要。欲望とは何か。それは象徴とその感動 ・感覚。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚。象徴は、感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせる。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまる。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変える。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈する。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求める。
欲望の過程全体を観察。精神が、さらなる感動のためにそれに向けられている対象がある。この過程には抵抗、誘惑、修練が関与している。知覚、感覚、接触、欲望がある。精神はこの過程の機械的な道具になる − そこでは象徴、言葉、対象が中心 − そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれる。その中心が「私」。その構造全体を解消できるか。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまう。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がある。それがまた・さらに中心を強める。そして革命は、その中心においてだけ可能 − 表面にではない − それはたんに逸脱・散漫の過程、有害な行動につながる表面的変化であるだけ。
(´・(ェ)・`)
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最初と最後の自由 第一部
十三章 欲望(願望) 2
私はこの欲望の構造全体に気づくとき、いかに私の精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかります。私は、一つの欲望に疲れてしまうと、自動的にもう一つ [の欲望] において自己を充足させたいと思います。私の精神はいつも感動という見地に立って経験しています-それは感動の道具です。特定の感動に退屈すると、私は新しい感動を求めます-それは神の悟り・実現と呼ぶものであるかもしれません-しかし、それもやはり感動です。私はこの世・世界とその苦労はもうたくさん(うんざり)なので、平和が、永続する平和が欲しいのです。それで私は瞑想し、制御します-その平和を経験するために、自分の精神を形造ります。その平和を経験することも、やはり感動です。それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心です-そこ [中心] から私は行動し考えるのです。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影です-それ [精神]は、そこ [象徴] から感動を引き出してくるのです。「神」という言葉、「愛」という言葉、「共産主義」という言葉、「民主主義」という言葉、「国家 [・民族] 主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴です。ゆえに精神はそれらにすがりつくのです。あなたと私が知っているように、あらゆる感動は終わりになります。それで私たちは、一つの感動からもう一つへ進むのです。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強めます。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけです。その過程に、私たちは捕らわれるのです。精神はさらなる経験を求めているかぎり、感動という見地に立って考えられるだけです。そして自発的で創造的で命がけの・生き生きして心を打つほど・打ちのめすほど新しいかもしれないどんな経験でも、それ [精神] は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求します-そのときそれは記憶になるのです。ゆえに経験は死んでいます。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけです。
もしも私たちがとにかくそれに深く入って行ったなら、この過程に慣れ親しんでいるのです。そして私たちは [この過程を] 越えてゆく能力はないように見えます。私たちは越えてゆきたいのです。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているからです。それで精神は、真理の、神の観念を投影します。それは命がけの変化を [夢見] 、その変化において第一の役割・主役を演じること、などなどを夢見ます。ゆえに決して創造的状態がありません。私は、私自身にこの欲望の過程が続いていることが、わかります-それは機械的、反復的です-それは精神を日課の過程に拘束して 、[そこに] 創造的自発性のない過去の死んだ中心にするのです。また突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動 [のもの] や欲望のものでもないものの [瞬間]- があります。
ゆえに、私たちの問題は、欲望を理解することです-それはどこまでゆくのだろうかとか、どこで終わりになるのだろうか、ではなく、欲望の過程全体を-渇望、あこがれ、燃えたつ・燃えさかる欲求を、理解することです。私たちのほとんどは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると、考えます。それで、なんと私たちは、わずかなものしか持たない人たちを崇拝するのでしょう!腰布、ロ-ブは、欲望から自由でありたいという私たちの欲望を象徴しています。しかし、それもまたとても表面的な反動 [・反応] です。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのでしょうか。確かに、革命が起こらなければならないのは、そこで、です-どれぐらい所有するかや、どんな服を着るかや、どれぐらい食事を摂るかに、ではないのです。しかし私たちの精神はとても表面的であるから、私たちはこれらのものごとに印象づけられ(感銘を受け)るのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも13-2
欲望の構造全体に気づくとき、いかに精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかる。私の精神はいつも感動という見地に立って経験してる。
永続する平和が欲しい。それで私は瞑想し、制御する− そのために、自分の精神を形造る。その平和を経験することも、やはり感動.それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心− そこから私は行動し考える。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影− 精神は、象徴から感動を引き出してくる。「神」、「愛」、「民主主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴。ゆえに精神はそれらにすがりつく。あらゆる感動は終わりになる。一つの感動からもう一つへ進む。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強める。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけ。どんな経験でも、精神は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求する− そのときそれは記憶になる。ゆえに経験は死んでいる。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけ。
私たちは越えてゆきたい。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているから。それで精神は、真理の、神の観念を投影する。その変化において主役を演じることを夢見る。ゆえに決して創造的状態がない。突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動や欲望のものでもないものの瞬間 − がある。
ゆえに、問題は、欲望を理解することではなく、欲望の過程全体を理解すること。私たちは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると考える。しかし、それもまたとても表面的な反動・反応。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのか。精神はとても表面的であるから、これらのものごとに印象づけられ感銘を受ける。
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クリシュナムルティも瞑想するというのじゃ。
もっともそれは自己を忘れるサマーディにまで達しなければ瞑想とは言われないというがのう。
瞑想の全てを否定しているのではないのじゃ。
瞑想に拠って精神から感動を引き出してくるという洞察も可能になるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
十三章 欲望(願望) 3
あなたの問題と私の問題は、精神がいったい欲望から、感覚から自由でありうるかどうかが、わかることです。確かに、創造は、感動とは何の関わりもありません。真実、神、何であれ、 [それらは] 感動として経験されうる状態ではありません。あなたが経験をするとき、何が起きるでしょうか。それはあなたに一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらしたのです。当然、あなたは憂鬱の状態を避けよう、脇へ置こうとします。しかしそれが喜び、得意の気分であるなら、あなたはそれを追求します。あなたの経験は楽しい感動を生み出しました。そしてあなたはそれをもっと(多く)欲しいと思います。もっと(多く)は、精神の死んだ中心を強めます-それ [中心] は常にさらなる経験を渇望しています。ゆえに精神は何も新しいものを経験できません。それは何も新しいものを経験する能力がありません。なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるからです。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造、真実ではありません。そういう精神は真実を経験できません。それは感動を経験できるだけです。そして創造は感動ではありません。それは、瞬間瞬間、何か永続的に新しいものです。
そこで(今)私は自分自身の精神の状態を悟ります。それは感動と欲望の道具であること、というよりむしろ感動と欲望であること、それは決まった日課に機械的に捕らわれているということが、わかります。そういう精神は決して新しいものを受け取ったり、打診する・感じ尽くす能力がありません。というのは、新しいものは明白に何か感動を越えたものであるにちがいないからです-それ [感動] はいつも古いものです。それで、この機械的過程とともにその感動は、終わりにならなければならない、のではないでしょうか。もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければなりません。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能です-そこ [創造性の状態] に、新しいものがいつも生じうるのです。あなたは、言葉により、習慣により、観念によって催眠術をかけられることなく理解して、新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解するでしょう。そのときあなたは、本当に求めている人にとって、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめるだろうと、私は思います。明白に、一定の身体 [・物質] 的必要はあります-衣・食・住とその他すべてです。しかしそれらは決して心理的欲求に[なりません]- 精神が欲望の中心としてそれ自体を築き上げるものに-なりません。物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への [欲望も] -心理的過程になります。それ [心理的過程] によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強めます。
あなたはこの過程がわかるとき、反対なく、誘惑の感動なく、抵抗なく、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見するでしょう。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえません。それは 、[そこに] 招待なく、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態です-それが真実です。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも13-3
問題は、精神が欲望から、感覚から自由でありうるか。創造は、感動として経験されうる状態ではない。経験をするとき、一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらした。当然、憂鬱の状態を避けようとする。しかしそれが喜びの気分であるなら、それを追求する。経験は楽しい感動を生み出した。そしてそれをもっと欲しいと思う。もっとは、精神の死んだ中心を強める− 中心は常にさらなる経験を渇望する。ゆえに精神は何も新しいものを経験できない、なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるから。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造ではない。そういう精神は真実を経験できない。それは感動を経験できるだけ。創造は感動ではない。瞬間瞬間、何か永続的に新しいもの。
感動はいつも古いもの。それで、この機械的過程とともにその感動、もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければならない。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能。新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解する。そのとき、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめる。
物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への欲望も− 心理的過程になる。心理的過程によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強める。
あなたはこの過程がわかるとき、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見する。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえない。それは 、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態 − それが真実。
(´・(ェ)・`)
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記憶を通して認識されたものは真理、創造、真実ではないというのじゃ。
クリシュナムルティも認識が記憶に依存していると観念の世界に陥ると理解していたのじゃ。
記憶への依存が無くなれば認識は真実を知る器官になるのじゃ。
そのような記憶に依存した認識が無い時、存在の状態が真実と成るのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十四章 関係と孤立 1
生は経験-関係における経験-です。孤立 [の状態] において生きられません。ですから生は関係ですし、関係は作用 [・行動] です。それでどうすれば関係すなわち生を理解するためのその能力を持てるのでしょうか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 [でもあるの] ではないでしょうか。生は関係です-それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現されます。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つでしょう。ですから私たちの問題は能力ではなくて―というのは、能力は関係から独立していない(関係に依存していないわけではない)からです―むしろ関係[について]の理解です-それ[理解]が自然に、すばやい柔軟性、すばやい適応、すばやい応答のための能力を生み出すでしょう。
関係は確かに、あなたが [そこに] 自分自身を発見する鏡です。関係なくして、あなたはありません。有る[・生きる]ことは関係することです-関係することが存在です。あなたは関係においてだけ存在しているのです。そうでないとあなたは存在していません-存在は意味がありません。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではありません。あなたは関係しているから存在しているのです。それで葛藤を引き起こす [原因になる] のは、関係[について]の理解の欠如です。
今、関係[について]の理解はありません。なぜなら私たちは関係を、たんに達成を促進し、変容を促進し、なりゆきを促進する手段としてだけ使うからです。しかし、関係は自己発見の手段です、なぜなら関係は有る[・生きる]ことであるからです。それが存在です。関係なくして、私はありません。私自を理解するには、私は関係を理解しなければなりません。関係は、[そこに] 私自身が見える鏡です。その鏡は歪んでいることもあるし、有るものを映し出して「あるがまま」であることもあります。しかし私たちのほとんどは、関係のなかに、その鏡のなかに、むしろ見たいと思うものごとが、見えるのです。私たちはあるがままが見えないのです。私たちはむしろ理想化し、逃避したいのです-その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも14-1
生は関係における経験。孤立の状態において生きられない。生は関係、関係は作用・行動。どうすれば関係すなわち生を理解できるか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 。生は関係。それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現される。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つ。だから私たちの問題は能力ではなくむしろ関係についての理解−理解が自然に、すばやい柔軟性、適応、応答のための能力を生み出す。
関係は確かに、あなたがそこに自分自身を発見する鏡。関係なくして、あなたはない。有る・生きることは関係すること。関係することが存在。あなたは関係においてだけ存在している。存在は意味がない。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではない。あなたは関係しているから存在している。それで葛藤を引き起こす原因になるのは、関係についての理解の欠如。
今、関係についての理解はない。なぜなら関係を、たんに達成を、変容を、なりゆきを促進する手段としてだけ使うから。しかし、関係は自己発見の手段、なぜなら関係は有る・生きることであるから。それが存在。私自を理解するには、関係を理解しなければならない。関係は、そこに私自身が見える鏡。その鏡は歪んでいることもある。私たちはあるがままが見えない。私たちはむしろ理想化し、逃避したい − その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたい。
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関係とはつきつめれば自分と他人との関係なのじゃ。
自分がいるという認識は自分とは別の他人が居るという関係から起こるからなのじゃ。
自他の区別から自我も起こるのじゃ。
それを理解できれば自分の認識も理解できるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十四章 関係と孤立 2
そこで私たちは自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることが、わかるでしょう。私たちはほんとうは他の人に関心がないのです。私たちはそれについて大いに話すけれども、現実には関心がないのです。その関係が私たちを喜ばせて[満足させて]くれる限り、避難所を与えてくれる限り、満足させてくれる限りにおいてだけ、私たちは誰かと関係しているのです。しかし関係に動揺があった瞬間―それ [動揺] が私たち自身に不愉快さを生み出します―私たちはその関係を切り捨てます。言い換えれば、私たちが喜んでいる限りにおいてだけ、関係があるのです。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれません。しかし、あなたはほんとうに自分の生をとてもきっちりと・しっかりと検討するなら、それが事実であると、わかるでしょう。そして事実を避けることは無知において生きることですし、それは決して正しい関係を産み出せません。私たちは自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかります- [その壁越しに] 他の人を見て観察するのです。しかし、私たちはいつもその壁を保持・確保してその裏にとどまります―それが心理的な壁、物質的な壁、経済的な壁や国家[・民族]主義的な壁であっても。私たちは壁の裏で孤立 [の状態] において生きる限り、他の人との関係はありません。そして私たちは閉じこもって・閉鎖的に生きています。なぜならそのほうがもっと喜びがあるからです-私たちはそのほうがもっと安全であると思うのです。世界がこんなに引き裂かれ[分裂し]、こんなに多くの悲しみ、こんなに多くの苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため私たちは私たち自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思うのです。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立(化)の過程です。そして明白にそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築きます。それがまさしく世界中で起きていることです。あなたは自分の孤立にとどまって、壁越しに手を伸ばし、それを国家[・民族]主義、同胞愛、などと呼びます。しかし現実には独立政権、軍隊が継続[存続]するのです。あなたはやはり[なお・依然として]自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思うのです―それは不可能です。あなたが境界を持っているかぎり―国家[・民族]的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実です。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも14-2
自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることがわかる。私たちはほんとうは他の人に関心がない。その関係が私たちを喜ばせて満足させてくれる限り、避難所を与えてくれる限りにおいてだけ、誰かと関係している。しかし関係に動揺があった瞬間―動揺が自身に不愉快さを生み出し− その関係を切り捨てる。言い換えれば、喜んでいる限りにおいてだけ、関係がある。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれない。しかし、ほんとうに自分の生をしっかりと検討するなら、それが事実であるとわかる。そして事実を避けることは無知において生きることだし、それは決して正しい関係を産み出さない。自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかる−その壁越しに他の人を見て観察する。しかし、いつもその壁を保持・確保してその裏にとどまりまる。壁の裏で孤立の状態において生きる限り、他の人との関係はない。そして閉じこもって・閉鎖的に生きている。なぜならそのほうがもっと喜びがあり、安全であると思うから。世界がこんなに分裂し、こんなに多くの悲しみ、苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思う。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立化の過程。そしてそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築く。あなたは自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思う−それは不可能。境界を持っているかぎり―国家・民族的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実。
(´・(ェ)・`)
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他人とは別の自分があるという観念から孤独が生まれるのじゃ。
他人の中に一人の自分が居るという観念が心細さとか恐れを生むのじゃ。
それが孤独なのじゃ。
孤独から逃れようとして争いも起こるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十四章 関係と孤立 3
孤立(化)の過程は力への探求の過程です-個人的に力を求めていようと、人種的、国家[・民族]的集団のため [に力を求めて] であろうと、孤立(化)があるにちがいありません。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるからです。結局それが、各自が欲しいものなのではないでしょうか。 [人は、そこで] 自分が支配できる強力な地位が欲しいのです―家庭でも、事務所・職場でも、官僚制度[体制・機構]でも。各自が力を求めています。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立するでしょう-それもまた明白です。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつあるのではないでしょうか。これを理解することがとても重要であると、私は思います。なぜなら、平和な世界 [が欲しい] 、戦争のない、ぞっとするような破壊のない、測り知れない規模の壊滅的な悲惨のない世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから、ではないでしょうか。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていません。ゆえにそういう人はどんな国籍・国家[民族]、どんな旗にも縛られていません。彼は旗を持ちません。
孤立 [の状態] において生きているようなものはありません―どんな国も、どんな人も、どんな個人も孤立 [の状態]において 生きられません。けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てるのです。国家[・民族]主義者は災い・呪われた者です。なぜなら、彼はまさに自分の国家[・民族]主義的 [精神] 、愛国精神そのものをとおして、孤立の壁を造り出しているからです。彼は他の国に対して壁を築くほど、あまりに祖国と同一化しているのです。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるでしょうか。その何かが常にあなたの壁を叩いているのです。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争 [状態] にあるということを、表示しています。ですから国家[・民族]主義は孤立の過程であり、力への探求から出てきたものですが、 [それは] 世界に平和をもたらせません。国家[・民族]主義者であって同胞愛について話をする人は、嘘をついているのです。彼は矛盾の状態に生きているのです。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界 [・世間] で生きられるでしょうか。明白にできます。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうします。何かもっと偉大なもの―党派、国、人種、宗教、神―とのこの同一化が、力への探求です。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいのです。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいというその欲望が、力への欲望です。
関係は自己を露呈する過程です。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がありません。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解することです。そのとき関係は孤立(化)の過程 [になるの] ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになるのです。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まりです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも14-3
孤立(化)の過程は力への探求の過程。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるから。人は、そこで自分が支配できる強力な地位が欲しい−家庭、事務所・職場、官僚制度体制・機構。各自が力を求めている。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立する-それもまた明白。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつある。これを理解することがとても重要。なぜなら、平和な世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていない。ゆえにそういう人はどんな旗にも縛られていない。
孤立の状態において生きているようなものはない。孤立の状態において 生きられない、けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てる。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるか。その何かが常にあなたの壁を叩いている。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争状態にあるということを、表示している。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界・世間で生きられるか。明白にできる。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうする。何かもっと偉大なものとのこの同一化が、力への探求。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したい。それが力への欲望。
関係は自己を露呈する過程。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がない。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解すること。そのとき関係は孤立(化)の過程ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになる。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まり。
(´・(ェ)・`)
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個我であるという観念は他のものとの競争や闘争に拠って強化されるのじゃ。
それがまた孤独を強めるのじゃ。
自らを追求することでそれも滅することが出来るのじゃ。
それが解放であり、変容なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十五章 思考者と思考 1
私たちの経験すべてには、いつも経験者、観察者がいます-それ [経験者、観察者]が 自分自身のためにもっともっと多くのものを集めたり、自分自身を否定したりしています。それはまちがった過程ではないでしょうか。そしてそれは創造的状態をもたらさない追求ではないでしょうか。それがまちがった過程であるなら、私たちはそれを完全に一掃して、脇へ置くことができないでしょうか。それは、私が経験するときだけ [生じうる]-思考者として経験するのではなく-私が偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうるのです。
私が経験をしているかぎり、私が [何かに] なろうとしているかぎり、この二元的行動 [・作用] があるにちがいありません。思考者と思考が [ある] 、二つの分離した過程が働いているにちがいありません。統合はありません。集団的に、個人的に、国家的になど、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもあるのです。普遍的に、これが過程です。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落があるにちがいありません。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけです。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っています。二つの違った状態があります。私たちの努力は、二つのものに橋を架けることです。
行動の意志はいつも二元的です。分離的であるこの意志を乗り越えて、 [そこに] この二元的行動 [・作用] のない状態を発見することは、可能でしょうか。それは、[そこに] 思考者が思考である状態を、私たちが直接的に経験するとき、見つけられるだけです。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考えます。しかしそうなのでしょうか。私たちはそうであると考えたいように思うのです。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるからです。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなることです。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因があるのです。私たちは、真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求しています。
思考者と思考の間に分割はあるのでしょうか。それらが分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費され [ムダになり] ます。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求しています。思考者は自分の思考から分離していると、私たちは考えます。私たちは、自分が貪欲・欲張りで、所有欲が強く、残忍・野蛮であることを見つけるとき、このすべてであるべきでないと考えます。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとします。ゆえに努力をして「なろう」とします。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある [ところの] 偽りの幻影を追求します。ところが、ただ一つの過程だけがあるのです。そこに、退廃・堕落の根本的要因があると、私は思います。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも15-1
経験すべてには、いつも経験者、観察者がいる。それはまちがった過程。そうなら、それを一掃できないか。それは、経験するときだけ生じる。偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうる。
私が経験をしているかぎり、私がなろうとしているかぎり、この二元的行動がある。思考者と思考が、二つの分離した過程が働いている。集団的に、個人的に、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもある。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落がある。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけ。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っている。二つの違った状態がある。私たちの努力は、二つのものに橋を架けること。
行動の意志はいつも二元的。分離的であるこの意志を乗り越えて、 この二元的行動のない状態を発見することは、可能か。それは、思考者が思考である状態を、直接的に経験するとき、見つけられる。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考える。しかしそうなのか。私たちはそうであると考えたいように思う。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるから。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなること。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因がある。真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求している。
思考者と思考の間が分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費される。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求している。私たちは、自分が貪欲で、残忍であることを見つけるとき、そうあるべきでないと考える。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとする。ゆえに努力をして「なろう」とする。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある 偽りの幻影を追求する。ところが、ただ一つの過程だけがある。そこに、退廃・堕落の根本的要因がある。
(´・(ェ)・`)
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経験者や観察者は本当は居ないのじゃ。
居ると認識しているのが悟っていない者なのじゃ。
それが無いと知れば無我になるのじゃ。
更にそれを生み出す観念さえも無ければ大悟徹底なのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十五章 思考者と思考 2
一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときのその状態を経験することは、可能でしょうか。そのときおそらく私たちは、創造的であることがどんなことであるのか、人がどんな関係にあっても、どんなときにも [そこに] 退廃・堕落のない状態がどんなものであるのかを、見出すでしょう。
私は貪欲です。私と貪欲は二つの違った状態ではありません。ただ一つのものだけがあるのです-すなわち貪欲です。私は、自分が貪欲であることに気づくなら、何が起きるでしょうか。私は社会的な理由のため、または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力をします。その努力はいつも小さな制限された環・循環のなかにあるでしょう。私はその環を拡大するかもしれませんが、それはいつも制限されています。ゆえに退廃・堕落する要因が(そこに)あるのです。しかし私はもう少し深く厳密に・きっちりと見るとき、努力の作り手(努力をする者)が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることが、わかるのです。そしてまた「私」と貪欲は分離して存在していないこと、ただ貪欲だけがあることが、わかるのです。私は、自分が貪欲であること、貪欲である観察者はなく、私自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき私たちの疑問全体は全く違ってくるのです。それに対する私たちの応答は全く違ってくるのです。そのとき私たちの努力は破壊的ではありません。
あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたがするどんな行動も貪欲であるとき、あなたはどうするでしょうか。不幸にも私たちはそういう線に沿って考えません。「私」、上位の実体、制御し支配している兵士・戦士がいるのです。私にとって、その過程は破壊的です。それは幻影です。私たちはなぜそうするのかを知っています。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割します。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではなく、私が全く貪欲であるなら、そのとき何が起きるでしょうか。確かにそのとき全く違った過程が働いています-違った問題が生じています。創造的であるのは、その問題です-[そこには] 肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がないのです。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければなりません。その状態には、努力の作り手・努力をする者がいません。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではありません。あなたはそのようにしてそれに取りかかるなら、見失うでしょう-決して見つけないでしょう。重要であることは、努力の作り手と、彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかることです。それは、途方もなく大きな理解力、見守りを必要とします。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るにはです-高いものは安全 [であり] 、永久の実体です-しかし [それは] やはり思考 [の過程] とゆえに時間の過程にとどまっています。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも15-2
一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときの状態を経験することは、可能。そのとき、創造的であることがどんなことか、人がどんなときにも退廃・堕落のない状態がどんなものかを、見出す。私と貪欲は二つの違った状態ではない。ただ一つのものすなわち貪欲だけがある。
私は、自分が貪欲であることに気づくなら、私は社会的または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力する。その努力はいつも小さな制限された環のなかにある。ゆえに退廃・堕落する要因がある。
しかしもう少し厳密に見るとき、努力をする者が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることがわかる。ただ貪欲だけがあることがわかる。自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき疑問全体、それに対する応答は全く違ってくる。そのとき私たちの努力は破壊的ではない。
あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたはどうするか。「私」、上位の実体、制御し支配している戦士がいる。私にとって、その過程は破壊的。それは幻影。私たちはなぜそうするのかを知っている。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割する。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではない。そこには肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がない。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければならない。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではない。重要であることは、努力する者と彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかること。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るには途方もなく大きな理解力、見守りを必要とする。しかしそれはやはり思考の過程、時間の過程にとどまっている。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることがわかる。
(´・(ェ)・`)
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ただ一つの意識がある時創造的であり、退廃や堕落が無い状態を知れるのじゃ。
それは気付くことで得ることが出来るのじゃ。
そこには私という感覚も無いというのじゃ。
努力する主体がないと気付く時にそこに至るのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 1
思考は私たちの問題を解決してきませんでしたし、いつか [解決] するだろうとは、私は思いません。私たちは、自分たちの複雑さからの抜け出し方を示してもらうために、知性に頼ってきました。知性がずるがしこく、恐ろしく大きく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなるのです。そして観念は私たち人間の問題のどれも解決しないのです。それらは [これまで] 決して [解決] してこなかったし、これからも決して [解決] しないでしょう。精神は解決法ではありません。思考のやり方は明白に、私たちの困難からの抜け出し方ではありません。私たちは初めに、この考える過程を理解するべきであるように、私には見えます。するとおそらく越えてゆくことができるでしょう-というのは、思考が止むとき、おそらく私たちは、自分たちの問題-個人的なものだけでなく、集団的なもの-を解決するのを助けてくれるであろう道を、見つけることができるでしょうから。
考えることは私たちの問題を解決してきませんでした。利口な人たち、哲学者、学者、政治的指導者は、私たち人間の問題-それは、あなたともう一人との、あなたと私自身との間の関係です-のどれも、ほんとうに解決したことがありません。これまで私たちは、問題を究明するのを助けるために、精神、知性を使ってきました。それにより解決を見つけたいと願っているのです。思考はいったい私たちの問題を解消できるのでしょうか。思考は、実験室のなかや製図板の上でないかぎり、いつも自己を保護し、自己を永続させ、条件づけられていないでしょうか。その活動は自己中心的ではないでしょうか。そしてそういう思考は、思考自体が造り出した問題のどれかを、いったい解決できるのでしょうか。精神-すなわち問題を造り出したものは、それ自体が生み出したそれらのものごとを、解決できるのでしょうか。
確かに、考えることは反応です。私があなたに質問をするなら、あなたはそれに応答します-あなたは、あなたの記憶、先入観、しつけ、気候・風土、あなたの条件づけの背景全体に応じて、応答します。あなたはそれらに応じて返答します。あなたはそれらに応じて考えます。この背景の中心が、行動の過程における「私」です。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになるのです。どんな種類の解決も-たとえどんなに利口でも、どんなによく考え抜かれても-人と人との間、あなたと私の間の葛藤・抗争を、決して終わりにすることができないのです。これを悟り、思考がどのように [発生し] 、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも16-1
思考は私たちの問題を解決してこなかった。知性がずるがしこく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなる。そして観念は人間の問題のどれも解決しない。私たちは初めに、この考える過程を理解するべき。思考が止むとき、自分たちの問題を解決するのを助けてくれる道を、見つけることができるだろうから。
考えることは反応。質問に対して、記憶、先入観、しつけ、気候・風土、条件づけの背景全体に応じて、応答する。この背景の中心が、行動の過程における「私」。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになる。これを悟り、思考がどのように、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのだ。
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思考は感情に左右されるから正確な判断はできないのじゃ。
感情を正当化するだけなのじゃ。
思考が止まった時だけ問題を解決する知恵が湧くのじゃ。
思考の発生を理解した時に思考は止まるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 2
それが問題の一つなのではないでしょうか。思考は私たちの問題を解決できるでしょうか。問題をよく考えることによって、あなたはそれを解決したことがあるでしょうか。経済的、社会的、宗教的などんな種類の問題でも、考えることによって今までほんとうに解決されたことがあるでしょうか。あなたが日常の生で、一つの問題について考えれば考えるほど、それはますます複雑に、優柔不断に、不確実になるのです。そうではないでしょうか-私たちの現実の、日常の生では。あなたは問題の一定の面を考え抜くなかで、他の人の視点がもっと明確に見えるかもしれません。しかし思考は問題の完全性と充足が見えないのです-それは部分的に見えるだけです。部分的な答えは完全な答えではありません。ゆえにそれは解決ではないのです。
私たちは問題をよく考えれば考えるほど、究明し、分析し、議論すればするほど、それはますます複雑になるのです。それで問題を包括的に、全体的に見ることは可能でしょうか。どのようにしてこれは可能でしょうか。なぜなら、それが私たちの主要な困難であるように、私には見えるからです。私たちの問題は増加しつつあります-差し迫った・一触即発の戦争の危険があります。私たちの関係には、あらゆる種類の動揺があります-どのようにして私たちはそのすべてを、全体として包括的に理解できるのでしょうか。明白にそれは、私たちが全体として-区画・区分においてではなく、分割してではなく-それを見られるときだけ、解決できるのです。それはいつ(どんなとき)可能でしょうか。確かにそれは、考える過程が終わってしまったとき、可能であるだけです-その [考える過程の] 源は、「私」、自己に [ある] 、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にあるのです。私たちはこの自己を理解できるでしょうか-分析することによってではなく、あるがままのものごと見ること [により] 、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって [理解できるでしょうか] -結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって [理解できるでしょうか] 。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、私たちはそれを見つめられるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。私たちの各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わるでしょう!
自己は思考が解決できない問題です。思考のものではない答えがあるにちがいありません。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分です。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にあるのです。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、私たちはやはり思考の領域の中にあります-すなわち「私me」、「私I」、自我の、何であれ [それの] 領域の中にあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも16-2
問題について考えるほど、ますます複雑になる。思考は問題の完全性と充足が見えない。部分的に見えるだけ。部分的な答えは完全な答えではない。ゆえにそれは解決ではない。
どうやって問題を全体として包括的に理解するか。それは、全体として見られるときだけ、解決できる。それは、考える過程が終わったとき、可能。考える過程の源は、「私」、自己に、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にある。この自己を、分析することによってではなく、あるがままのものごと見ることにより、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって理解できるか。結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって理解できるか。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、それを見つめられるか。それが問題。各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わる!
自己は思考が解決できない問題。思考のものではない答えがある。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを、変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にある。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、やはり思考の領域の中にある。すなわち「私me」、自我の領域の中にある。
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最初と最後の自由 第一部
第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 3
精神の活動が存在しているかぎり、確かに愛はありえません。愛があるとき、私たちはどんな社会的問題も持たないでしょう。しかし愛は何か取得されるものではありません。精神は、新しい思考、新しい道具・装置、新しい考え方 [を取得するの]と同じように、それを取得しようと求めることはできます。しかし思考が愛を取得しようとしているかぎり、精神は愛の状態にありえません。精神が無欲の状態であろうと求めているかぎり、確かにそれはやはり貪欲なのではないでしょうか。同様に精神が、[そこに] 愛のある状態にあるために、願い、願望し、実践するかぎり、確かにそれはその状態を否定するのではないでしょうか。
この問題、この複雑な生きることの問題が見えて、私たち自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき-私たちが深くそれを悟るとき、そのとき確かに、個人的でも集団的でもない智恵の状態があるのです。そのとき個人と社会、個人と共同体、個人と真実との関係の問題は止むのです。なぜなら、そのとき智恵だけがあるからです-それは個人的・人格的でも非個人的・非人格的でもないのです。私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみであると、私は感じます。それは結果ではありえません。それは、私たちがこの考えることの過程全体、総体を-意識的な水準においてだけでなく、また意識のより深い隠れた水準においても-理解するときだけ、生じるのです。
これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静かな精神、とても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければなりません。それが私たちの困難の一つです-なぜなら思考は散漫になってしまったからです。私は何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいいのです-私はそれを見つめるのです。私はそれについて考え [始め] 、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ているのです。それで思考は、あなたが問題を持つとき、散漫になるのです-思考は観念、意見、判断、比較です-それは、私たちが問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げるのです。不幸にも私たちのほとんどにとって、思考はあまりに重要になってしまったのです。あなたは「どのようにして私は考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして私は空白の精神を持てるのか」と、あなたは言います。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいることです。あなたの本能的反応はそれを拒絶することです。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神、開けた精神は、とても直接的に、とても単純に、問題を見つめられるのです。それでただ一つの解決であるのは、私たちの問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力です。そのためには、静かな精神、平静な精神がなくてはなりません。
そういう精神は、実践、瞑想、制御の結果ではありません。最終産物・成果ではありません。それは、「私」の、思考のどんな努力もなく、どんな形の修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じるのです。それは、私が考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じるのです。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛があるのです。そして私たち人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまメモ16-3複雑な生きることの問題が見えて、自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき、智恵の状態がある。そのとき個人と社会、個人と真実との関係の問題は止む。なぜなら、そのとき智恵だけがあるから。それは私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみである。それは結果ではありえない。それは、この考えることの過程全体、総体を理解するときだけ、生じる。これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければならない。それが私たちの困難の一つ。なぜなら思考は散漫になってしまったから。何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいい。それを見つめる。それについて考え、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ている。それで思考は、問題を持つとき、散漫になる。思考は観念、意見、判断、比較。それは、問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げる。どのようにして考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして空白の精神を持てるのかと、あなたは言う。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいること。本能的反応はそれを拒絶する。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神は、とても直接的に、単純に、問題を見つめられる。それでただ一つの解決であるのは、問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力。そのためには、平静な精神がなくてはならない。そういう精神は、思考のどんな努力も、修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じる。それは、考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じる。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛がある。そして人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
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精神とはオショーがマインドとよぶものじゃな。
思考とか感情などの心の働きなのじゃ。
それは常に自我の制約を受けているから現実には役に立たないのじゃ。
それを理解する時、気付きがあるのじゃ。
そして智慧が起こるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十七章 精神の機能(作用・役割) 1
あなたは自分自身の精神を観察するとき、いわゆる精神の上の(ほうの)水準だけではなくて、また無意識をも見守っているのです。あなたは、精神が現実に何をするのかを見ているのではないでしょうか。それが、あなたが究明できる唯一の仕方です。それが何をするべきか、それがどのように考えたり行動したりするべきか、などを重ね合わせないでください。それは(結果的に)たんなる発言をすることになるでしょう。すなわち、あなたは、精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまうのです。または、あなたは何か高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまうのではないでしょうか。あなたがブッダやキリストやXYZを引用するなら、追求すべて、考えることすべて、究明すべてに終わりがあるのです。ですからそれに対して用心し・警戒しなければなりません。あなたは私と一緒にこの自己の問題を究明しようとするなら、これらすべての精神の微妙さを、脇へ置かなければなりません。
精神の機能とは何でしょうか。それを見出すには、あなたは、精神が現実に何をしているのかを知らなければなりません。あなたの精神は何をするのでしょうか。それはすべて考える過程なのではないでしょうか。そうでないと、精神はないのです。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はありません。私たちは、日常の生で用いる精神、また私たちのほとんどが意識していない精神が、私たちの問題に関して何をするのかを、見出さなければなりません。私たちは、あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければなりません。
では、あるがままの精神はどんな機能をしているでしょうか。それは現実には孤立(化)の過程なのではないでしょうか。根本的に、それが思考の過程なるものです。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なままです。あなたは自分自身の考えを観察するなら、それが孤立した断片的な過程であるのが、わかるでしょう。あなたは、あなたの反応に応じて考えています-あなたの記憶、経験、知識、信念の反応、です。あなたはそのすべてに反応しているのではないでしょうか。根本的革命がなければならないと、私が言うなら、あなたは即時に反応します。あなたは、霊的 [・精神的] にしろそうでないにしろ、有利な投資を持っているなら、その「革命」という言葉に反対するでしょう。それであなたの反応は、あなたの知識、信念、経験に依存しているのです。それは明白な事実です。色んな形の反応があります。「私は兄弟のように(親しく)しなければならない」、「私は協力しなければならない」、「私は仲良くしなければいけない」、「私は親切でなければならない」、など。これらは何でしょうか。これらはすべて反応です。しかし、考えることの根本的反応は、孤立(化)の過程です。あなたは、あなたたち各自は、自分自身の精神の過程を見守っているのです-それは、あなた自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味です。これらすべては安全を与えてくれるのではないでしょうか。それらは安全を与え、考える過程に強さを与えてくれるのです。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけです-その自己を高いと [呼ぼうと] 低いと呼ぼうと、です。私たちの宗教すべて、私たちの社会的認可すべて、私たちの法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにあるのです。そしてその反対に、全体主義的国家があるのです。あなたが無意識の中にもっと深く入ってゆくなら、そこでもまた、働いているのは同じ過程です。そこでは私たちは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体なのです。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも17-1
精神が現実に何をするのかを見る。それが、自己の問題を究明できる唯一の仕方。
精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまう。
高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまう。
精神の機能とは何か。それはすべて考える過程。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はない。あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければならない。
あるがままの精神はどんな機能をしているか。それは孤立化の過程。根本的に、それが思考の過程。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なまま。
反応に応じて考えている−記憶、経験、知識、信念の反応。
反応は、知識、信念、経験に依存している。
考えることの根本的反応は、孤立化の過程。各自は、自分自身の精神の過程を見守っている−それは、自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味。これらすべては安全を与え、考える過程に強さを与えてくれる。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけ。宗教、社会的認可、法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにある。そしてその反対に、全体主義的国家がある。無意識の中でもまた、働いているのは同じ過程。そこでは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望がある。
(´・(ェ)・`)
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クリシュナムルティはほぼ考えを精神と言っているようじゃ。
社会や親などによって条件付けされた精神は自己を支えるためにあるというのじゃ。
利己主義なのじゃ。
自分という観念を補強するだけの志向性を持っているのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十七章 精神の機能(作用・役割) 2
精神の機能は、私たちが知っているように、日常機能しているように、孤立(化)の過程ではないでしょうか。あなたは個人的な救いを求めていないでしょうか。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしています。またはまさにこの生・世において、あなたは偉大な人、偉大な作家であろうとしています。私たちの傾向全体は分離することです。精神はそれ以外に何かできるでしょうか。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、可能でしょうか。それは不可能です。それで私たちは精神を崇拝するのです。精神はとてつもなく重要です。あなたは、自分がほんの少しずるがしこく、ほんの少し鋭敏で、蓄積した情報と知識を少し持った瞬間、自分がどんなに社会で重要になるのかを、知らないでしょうか。知的にすぐれている人たち、法律家・弁護士、大学教授、演説者、偉大な作家、説明家、解説者を、あなたがどんなに崇拝するか、知っているでしょう!あなたは知性と精神を育成してきたのです。
精神の機能は分離することです。そうでないと、あなたの精神はないのです。私たちは幾世紀の間この過程を育成してきたので、私たちは協力できないことがわかるのです。私たちは、経済的でも宗教的でも権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけです。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、どのようにして協力がありうるでしょうか。どのようにして何かをするために智恵が集まりうるでしょうか。それはほとんど不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いるのです。私たちが集まりたい、一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなるのです。
この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たないでしょう。私たちは常なる抗争と戦争を持つでしょう。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか、です。思考は言葉に表す [過程] と反応の過程ですが、それはいったい自己を破壊できるのでしょうか。思考は反応以外の何ものでもありません。思考は創造的ではありません。そういう思考はそれ自体を終わりにできるでしょうか。それが、私たちが見出そうとしていることです。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練しているのです。それは孤立(化)の過程ではないでしょうか。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではないのです-それ [智恵] からのみ、協力がありうるのです。
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くまめも17-2
精神の機能は、孤立化の過程。
あなたは個人的な救いを求めている。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしている。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、不可能。それで私たちは精神を崇拝する。
精神の機能は分離すること。私たちは協力できない。権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけ。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、協力、何かをするために智恵が集めることは不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いる。私たちが一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなる。
この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たない。私たちは常なる抗争と戦争を持つ。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか。思考は言葉に表す過程と反応の過程だが、それはいったい自己を破壊できるか。思考は反応。思考は創造的ではない。そういう思考はそれ自体を終わりにできるか。それが、私たちが見出そうとしていること。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練している。それは孤立(化)の過程。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではない。智恵からのみ、協力がありうる。
(´・(ェ)・`)
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思考はものごとを分類して記憶する機能が在るのじゃ。
草の種類とか動物の種族とかにどんどん分類していくのじゃ。
それが自己をも分類するのじゃ。
どこの国の者とかどこの地域のものとかのう。
それが争いを生み自己を破壊していくのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十七章 精神の機能(作用・役割) 3
あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
(´・(ェ)・`)つ
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最初と最後の自由 第一部
第十七章 精神の機能(作用・役割) 3
あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
(´・(ェ)・`)
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思考の終わりを目指すには修練ではいかんというのじゃ。
それは更なる自己強化に繋がるからなのじゃ。
思考の過程自体を理解できれば思考は終わるというのじゃ。
それは自分が行くのではなく、訪れるものというのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞 1
私は、自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自体と他のものに課す・賦課する欺き・妄想・惑わしを-議論したり考慮したりしたいように思います。それはとても深刻な事柄です-特に世界が向き合っている種類の危機においては。しかし、この自己欺瞞の問題全体を理解するためには、私たちはたんに言葉の水準においてだけでなくて、本来的に、根本的に、深く、それに付いていかなければなりません。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎています。私たちは世間ずれして賢いのです。世慣れているので、わたしたちにできることは、何かが起きることを願うことばかりです。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかります。無数の歴史家、神学者、宗教的な人たちが、戦争とそれがどのようにして生じるのかを説明していますが、戦争はやはりつづきます-おそらく今までよりもっと破壊的でしょう。私たちのうちでほんとうに熱意のある人たちは、戦争を乗り越えなければなりません。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければなりません。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済です。
同様に、私たちはこの種の自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきであると、私は思います。私は提案してよければ、私たちはたんに話し手に聴くだけではなく、私たちが日常の生において知っているような問題に付いていくべきです。すなわち、私たちは考えることと行動において自分たち自身を見守る [べきである]- 私たちがどのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべきです。
自己欺瞞のための理由、基礎は何でしょうか。私たちのうちどれほど多くが、私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づいているでしょうか。私たちは「自己欺瞞とは何なのか、そしてそれはどのようにして生じるのか」という疑問に答えられる前に、私たちが自分たち自身を欺いていることに気づかなければならないのではないでしょうか。私たちは自分たち自身を欺いていることを知っているでしょうか。私たちのいうこの欺瞞とはどういう意味でしょうか。それがとても重要であると、私は思います。なぜなら、私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなるからです。というのは、それは一定の活力・生命力、一定のエネルギ-、一定の能力を与えてくれるからです- それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いるのです。それで次第に私たちは自分自身に [欺瞞を課している] だけではなく、他の人たちにも欺瞞を課しているのです。それは自己欺瞞の相互に作用する過程です。私たちはこの過程に気づいているでしょうか。私たちは、自分たちはとても明晰に、目的を持って、直接的に考える能力があると、考えます。私たちは、この考える過程に自己欺瞞があることに、気づいているでしょうか。
思考自体が、探求の過程 [であり] 、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたい(良い評判を得たい)という願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、ではないでしょうか。政治的に、宗教社会学的に、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因ではないでしょうか。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出さないでしょうか、もたらさないでしょうか。これを例に取りましょう。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持っています。私たちは年を取れば取るほど、ますます興味を持つようになるのです。私たちはそれの真理が知りたいのです。どのようにして見つけるのでしょうか。確実に、読書によってではなく、また違った説明をとおしてでもありません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも18-1
自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自他に課す欺き・妄想・惑わしを-議論したい。それはとても深刻な事柄。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎている。私たちは世慣れているので、わたしたちにできることは、何、かが起きること利子、を願うことばかり。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかる。戦争を乗り越えなければならない。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければならない。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済。
同様に、自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきである。どのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべき。
自己欺瞞のための理由、基礎は何か。私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づかなければならない。私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなる。というのは、それは一定の活力・生命力、エネルギ-、能力を与えてくれるから−それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いる。それで次第に私たちは自分自身にだけではなく、他人にも欺瞞を課している。それは自己欺瞞の相互に作用する過程。
思考自体が、探求の過程、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたいという願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出す。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持つ。私たちはそれの真理が知りたい。どのようにして見つけるのか。
(´・(ェ)・`)
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そもそも自分があるという観念が最も大きな自己欺瞞と言えるのじゃ。
それは無いものであるからのう。
自分があるという欺瞞から思考にも我欲が起こるのじゃ。
そして自己の正当化とか安全に評判を得たいとか思うようになるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞2
あなたはどのようにしてそれを見出すのでしょうか。初めにあなたは、道をふさいでいる(邪魔になっている)あらゆる要因を、自分の精神から完全に除かなければなりません-あらゆる希望、継続したいというあらゆる願望、あの反対側に何があるのかを見出したいというあらゆる願望を、です。なぜなら、精神は常に安全を求めているからです。それは継続したいという願望を持つし、充実の手段を、未来の存在を願うからです。そういう精神は死後の生の真理、輪廻転生やどんなのでも求めていますが、その真理を発見する能力がないのではないでしょうか。重要であることは、輪廻転生が真実であるのかないのかではなくて、いかに精神が自己欺瞞をとおして、あるかもないかもしれない事実について正当化を求めるのか、 [ということ] です。重要であることは、問題への接近方です-どんな動機、どんな衝動、どんな願望をもって、あなたがそれに近づくか、です。
求める者はいつもこの欺瞞を自分自身に課しています。誰もそれを彼に課せません。彼自身がそうするのです。私たちは欺瞞を造り出して、その奴隷になるのです。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望です。私たちは、この世で何ものかでありたいと思うことの結果を、知っています。それは全くの混乱です-そこでは各自が互いに競争しあい、平和の名において互いに破壊しあっています。あなたは、私たちが互いに遊びあうゲ-ム全体を知っています-それはとてつもない形の自己欺瞞です。同様に、私たちはあの世での安全、地位が欲しいのです。
それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、私たちは自分たち自身を欺きはじめるのです。精神が [それ] から自由であることはとても難しいことです。それが私たちの生の基本的問題です。この世界(世)に生きて、何ものでもないことは可能でしょうか。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由があるのです。なぜなら、そのときだけ、精神は結果を求めていないからです-精神は満足できる答えを求めていない。精神はどんな形の正当化も求めていない。精神はどんな形、どんな関係にも安全を求めていないのです。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、あらゆる形の正当化、安全を捨て去るときだけ、それは起きるのです-それは、そのとき精神が完全に何ものでもない能力がある、という意味です。それは可能でしょうか。
私たちがどんな形でも自分たち自身を欺むくかぎり、愛はありえません。精神が妄想を造り出して、それ自体に賦課する能力があるかぎり、明白に集合的・総合的または統合的理解からそれ自体を分離するのです。それが私たちの困難の一つです。私たちはどのように協力するのかを知らないのです。私たちが知っているすべては、私たち双方が生じさせる・生み出す目的に向かって一緒に働こうとすることです。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうるのです。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能なだけである、ということです。あなたと私が何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念とその他すべてが必要になります-自己投影されたユ-トピア [・理想郷] が必要なのです。しかし、あなたと私がどんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、匿名で・名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも18-2
真理を見出す邪魔になる要因、あらゆる願望を、自分の精神から完全に除く。精神は常に安全を求め、継続したいという願望を持ち、充実の手段を、未来の存在を願う。そういう精神は死後の生の真理を求めているが、その真理を発見する能力がない。重要なのは、①いかに精神が自己欺瞞をとおして、ないかもしれない事実について正当化を求めるのか。②問題への接近方−どんな動機、衝動、願望をもって、それに近づくか。
求める者はこの欺瞞を自分自身に課し、その奴隷になる。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望。
それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、自分たち自身を欺きはじめる。精神がそれから自由であることはとても難しい。この世界に生きて、何ものでもないことは可能か。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由がある。なぜなら、そのときだけ、精神は結果、満足な答え、正当化、安全を求めていないから。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、正当化、安全を捨て去るときだけ、精神が完全に何ものでもない能力がある。
私たちはどのように協力するのかを知らない。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうる。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能ということ。何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念が必要になる−自己投影されたユ-トピアが必要。しかし、どんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力がある。
(´・(ェ)・`)
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願望とは欲とも言えるのじゃ。
自己の安全を求める精神は欲から離れられないのじゃ。
それは不安から起こるものであるからのう。
その欲に執り付かれている精神が自我の無存在を見るはずも無いのじゃ。
それは自分が消えることであると感じてしまうからのう。
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最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞3
私たちが協力すること、私たちが目的を視野に入れずに一緒にいることは、可能でしょうか。あなたと私は、結果を求めずに一緒に働けるでしょうか。確かにそれが真の協力なのではないでしょうか。あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何でしょうか。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っています。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれません-それは欺瞞をもたらし、あなたと私の間に葛藤・抗争をもたらすのです。それは私たちの日常の生において明白で観察できる事実です。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意します。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっているのです。私は自分の満足のために結果が欲しいのです。私は支配したいのです。私はあなたと一緒に働いていると言われるけれども、自分の名前をあなたの前に置きたいのです。それで私たち二人は、その計画の創案者ですが、たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、あなたと私が協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか-私たちが表面的な水準においてだけではなくて、根本的に、ほんとうに、真に協力することができるかどうかを、です。それが私たちの最大の問題の一つ、おそらく最大のものです。私は自分自身を一つの対象と同一化しますし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化します。私たち二人がそれに興味があるのです。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図しています。確かにこの考える過程はとても表面的です。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすからです-それは私たちの日常の生においてあまりに明白です。あなたはヒンドウ-教徒で、私はキリスト教徒です。私たちは共に同胞愛を説きますし、私たちは互いの喉元にいる [互いに争っている] のです。なぜでしょうか。それが私たちの問題の一つなのではないでしょうか。無意識的に、深く、あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持っています。同胞愛について話しをすることにより、私たちは信念の問題全体を解決しなかったのです。私たちは理論的、知的に、これはそうであるべきだと、同意しただけです。内側で、深く、私たちは互いに敵対して・逆らっているのです。
私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえません。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも18-3
あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何か。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っている。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれない−それは欺瞞、葛藤・抗争をもたらす。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意する。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっている。私は自分の満足のために結果が欲しい、支配したい。たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要。私は自分自身を一つの対象と同一化するし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化しする。私たち二人がそれに興味がある。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図している。この考える過程はとても表面的。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすから。
私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえない。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせない。
(´・(ェ)・`)
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そもそも自分がいて他人が居るという観念から孤立が起こるのじゃ。
それを誤魔化して協力するということはできないのじゃ。
それもまた欺瞞になるからのう。
自他の区別が無い時、真の協力もありえるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十八章 自己欺瞞4
信念は協力をもたらしません。反対にそれは分割します。私たちは、いかに一つの政党がもう一つに敵対・対抗して、それぞれが経済的問題を扱う一定のやり方を信じているか、それでそれらが皆互いに戦いあっているかが、わかります。それらは例えば飢餓の問題を解決するなかで解決されないのです。それらは、その問題を解決するであろう理論に、関心があるのです。それらは、現実には問題自体に [関心があるわけ] ではなくて、 [それにより] 問題が解決されるであろう方法に関心があるのです。ゆえに二つの間に争いがあるにちがいないのです。なぜなら、それらは問題にではなく、観念に関心があるからです。同様に、宗教的な人たちも、言葉では自分たちは皆一つの生命、一つの神を持っていると言うけれども、互いに敵対・対抗しているのです。あなたはそのすべてを知っています。内側で、彼らの信念、彼らの意見、彼らの経験は、彼らを破壊しているし、分離しているのです。
経験は、私たち人間の関係において分割させる要因になります。経験は欺瞞の道です。私は何かを経験した(ことがある)なら、それにすがりつきます。私は経験する過程の問題全体に入ってゆきません。なぜなら私は経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくからです。それにより私はその経験をとおして自己欺瞞を課すのです。
私たちの困難は、私たち各自が特定の信念と [同一化し] 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、私たちの精神がそれに捕らえられ、私たちが問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということです。ゆえに私たちは自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望するのです。私たちが理解をとおして-表面的な水準でだけではなく、またもっと深いレベルでの-それらを解消するまでは、世界に平和はありえません。そういうわけで、ほんとうに真剣である人たちが、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を-表面的な水準でだけではなくて根本的に深く理解することが、重要なのです。そうでないと、世界に平和はありえません
真理は何か獲得されるものではありません。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ません。確かにそういうものは、精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来るのです -それ[動きと信念]は、精神が 頼れるもの、 [そこから] 一定の強さを引き出してくる [ところの]もの -すなわち自己欺瞞の表示であるものです。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけです。そのときだけ精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ないのです。そのときだけ、 [そこに] どんな種類の欺瞞もない状態の可能性が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも18-4
信念は協力をもたらさない。反対にそれは分割する。問題解決につき、敵対・対抗する者たちがそれぞのやり方を信じ、互いに戦いあっているが、それらは、現実には問題自体に関心があるわけではなくて、問題が解決されるであろう方法、理論(観念)に関心がある。ゆえに二つの間に争いがある。内側で、彼らの信念、意見、経験は、彼らを破壊しているし、分離している。
経験は、人間関係を分割させる要因。経験は欺瞞の道。何かを経験したなら、それにすがりつく。経験する過程の問題全体に入ってゆかない。なぜなら経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくから。それによりその経験をとおして自己欺瞞を課す。
私たちの困難は、各自が特定の信念と 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、精神がそれに捕らえられ、問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということ。ゆえに自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望する。理解をとおして、それらを解消するまでは、世界に平和はありえない。そういうわけで、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を根本的に深く理解することが、重要。そうでないと、世界に平和はありえない。
真理は獲得されるものではない。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ない。精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来る−動きと信念は、精神が 頼れるもの、 そこから一定の強さを引き出してくるもの -すなわち自己欺瞞の表示であるもの。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけ。そのときだけ、精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ない。そのときだけ、どんな欺瞞もない状態の可能性が、ある。
(´・(ェ)・`)
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イデオロギーの違いに拠って人は戦争をしたりするのじゃ。
信念は争いの道具でしかなかったのじゃ。
人はそれと自己同一化している故に命までかけて戦うのじゃ。
信念が否定されれば自分の全てが否定されたと感じるからのう。
そのような自己同一化が無い時にのみ平和が在るのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十九章 自己中心的な活動 1
私たちのほとんどは、あらゆる形の説得、あらゆる種類の誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきたことに気づいていると、私は思います。諸宗教は、約束をとおし、地獄の恐れをとおし、あらゆる形の非難をとおして、違った仕方で、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきました。これらが失敗したあと、政治的組織が引き継ぎました。そこでもまた説得です。そこでもまた究極のユ-トピア的希望です。とても制限されたものから強制収容所を含む極端なものまで、あらゆる形の法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきました。それでも私たちは自分の自己中心的活動をそのまま続けます-それは、私たちが知っているように見えるただ一つの種類の活動です。私たちはとにかくそれについて考えるなら、修正しようとします。私たちはそれに気づくなら、その進路を変えようとします。しかし、根本的に、深く、変容はないのです。その活動の根源的停止はないのです。思慮深い人たちはこれに気づいています。彼らはまた、その中心からの活動が止むとき、そのときだけ幸せがありうることにも、気づいています。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で(当然で)ある、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然のことと思っています。そこで、誠実ではなく-なぜなら、誠実さは自己欺瞞の道であるからです-もう少し真剣で、もっと熱心である人たちは、このとてつもない自己中心的活動の総合過程に気づくと、 [それを] 越えてゆけるかどうかを、見出さなければなりません。
自己中心的活動とは何なのかを理解するには、明白にそれを検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければなりません。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性があるのです。しかし、それに気づくには、一定の理解 [を必要とする] 、それを解釈するのではなく、修正するのではなく、非難するのではなく 、あるがままのものごとに向き合おうとする一定の意図を必要とするのです。私たちは自分たちが何をしようとしているのかに [気づかなければならない] 、その自己中心的状態から発生する活動すべてに気づかなければなりません。私たちはそれを意識しなければなりません。私たちの第一の困難の一つは、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したいのです。それで、それを直接的に見つめることがほとんどできないのです。私たちが(意識)するとき、私たちのほとんどは何をすべきなのかを知る能力がないのです。
自己中心的活動は有害であり、破壊的であること、あらゆる形の同一化-国との、特定の集団との、特定の願望との [同一化] 、この世でもあの世・来世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範の追求、美徳の追求、などといったもの-が、本質的に自己中心的な人物の活動であることを、私たちは悟ります。自然との、人々との、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたものです。このすべてを知るとき、どうすべきなのでしょうか。そういう活動はすべて-自分で課してではなく、影響されてではなく、導かれてではなく-自発的に終わらなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも19-1
説得、誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきた。諸宗教は、約束.地獄の恐れ.非難をとおして、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきた。これが失敗したあと、政治的組織が引き継いだ。そこでもまた説得、法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきた。それでも私たちは自己中心的活動をそのまま続けてきた。私たちはそれについて考えるなら、修正しようとする。それに気づくなら、その進路を変えようとする。しかし、その活動の根源的停止はない。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で当然である、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然と思っている。そこで、もう少し真剣、熱心な人たちは、この自己中心的活動の総合過程に気づくと、それを越えてゆけるかを、見出さねばならない。
自己中心的活動とは何かを理解するには、検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければならない。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性がある。それに気づくには、一定の理解を必要とする、それを解釈、修正、非難するのではなく、あるがままのものごとに向き合おうとする意図を必要とする。自己中心的状態から発生する活動すべてに気づき、それを意識しなければならない。私たちの第一の困難は、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したい。それで、それを直接的に見つめることができない。私たちが意識するとき、私たちは何をすべきなのかを知る能力がない。
自己中心的活動は有害、破壊的であること、
特定の集団との、特定の願望との同一化、この世でもあの世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範、美徳の追求、等といったものが、本質的に自己中心的な活動であることを、私たちは悟る。自然、人々、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたもの。このすべてを知るとき、そういう活動はすべてを自発的に終わらなければならない。
(´・(ェ)・`)
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エゴから来る活動は欲とか保身から起こるものじゃ。
宗教や国家はそれを抑制して公共のために人を働かそうとするのじゃ。
しかし、そのような外からの強制では何も変らないのじゃ。
自らが全てであるという真の気づきからのみ人は変るのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十九章 自己中心的な活動 2
私たちのほとんどは、この自己中心的活動が災いと混沌を造り出すことに、気づいています。しかし、私たちは一定の方向において、それに気づいているだけです。私たちは他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自分たち自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思うのです。私たちはそれを扱うことができる前に、どのようにしてこの過程が生じるのかを知らなければならないのではないでしょうか。何かを理解するためには、私たちはそれを見つめる能力がなければなりません。そして見つめるには、意識的とともに無意識的な違った水準でのその様々な活動を-意識的な指示と、また私たちの無意識的な動機と意図の自己中心的な動きをも-知らなければなりません。
私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけなのではないでしょうか。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識するのです。そのとき抵抗 [があるし] 、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形があるのです-それ [目的]は、私に喜び、満足を与えてくれるでしょう。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づきます。確かに、意識的に美徳を追求する人は、美徳がありません。謙虚さは追求できません。それが謙虚さの美しさです。
この自己中心的過程は、時間の結果なのではないでしょうか。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがありますし、私は、未来と結合した過去と現在を意識します。「私」の自己中心的活動は時間の過程です。中心すなわち「私」の活動に連続・継続性を与えるのは、記憶です。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の[過程] 、経験する[過程] 、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかるでしょう。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかるでしょう-それもまた精神の過程です。
精神はこのすべてから自由でありうるでしょうか。それは希な瞬間に可能であるかもしれません。それは、私たちが意識的でない、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれません。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることはいったい可能でしょうか。それは、私たち自身に提出されるとても重要な疑問です。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるでしょうから。あなたは、この自己中心的活動の総合過程に気づき、あなたの意識の違った水準で、その活動を充分に認識するなら、そのとき確かに、その活動が終わることが可能なのかどうかを、自分自身に訊ねなければなりません。時間という見地に立って考えないこと、私は [将来] 何であるべきか、 [過去から現在まで] 何であったか、 [現在] 何であるのかという見地に立って考えないことは可能でしょうか。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の過程全体が始まるからです。またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まります-それはすべて時間の過程です。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見えるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも19-2
自己中心的活動が災いと混沌を造り出す。他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思う。
私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけ。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識する。そのとき抵抗があるし、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形がある-目的は、私に喜び、満足を与える。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づく。意識的に美徳を追求する人は、美徳がない。謙虚さは追求できない。それが謙虚さの美しさ。
この自己中心的過程は、時間の結果。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがあるし、私は、未来と結合した過去と現在を意識する。「私」の自己中心的活動は時間の過程。中心すなわち「私」の活動に連続性を与えるのは、記憶。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の過程、経験する過程、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかる。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかる-それもまた精神の過程。
精神はこのすべてから自由でありうるか。それは希な瞬間に可能であるかもしれない。それは、私たちが意識的、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれない。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることは可能か。それは、重要な疑問。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるから。この自己中心的活動の総合過程に気づき、その活動を充分に認識するなら、そのとき、その活動が終わること、時間という見地に立って考えないこと、私は将来何であるべきか、 過去から現在まで何であったか、現在何であるのかと見地に立って考えないことは可能か。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の結果またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まる−それはすべて時間の過程。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見える。
(´・(ェ)・`)
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なんらかの抵抗がある時、あるいは執着がある時、自我は主体として意識されるのじゃ。
それも記憶に基づいているのじゃ。
連続する自己があるという観念から時間の経過を恐れ、欲も起こるのじゃ。
今ここで観ることができればそれらも瞬時に消えるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第十九章 自己中心的な活動 3
確かに、時間の過程は革命的ではありません。時間の過程には変容はありません。連続性だけがあって終わりはありません。認識以外に何もありません。革命、変容 [がある] 、新しいものが生じることがあるのは、あなたが、時間の過程の、自己の活動の完全な停止を持つときだけです。
その活動における「私」の、この全体的総合的な過程に気づくとき、精神は何をするべきなのでしょうか。新しいものがあるのは-進化をとおしてではなく、「私」がなることをとおしてではなく、「私」が完全に終わることをとおしての-新生をもってだけ、革命をもってだけです。時間の過程は新しいものをもたらせません。時間は創造の道ではありません。
あなたたちのうち誰かが創造性の瞬間を持ったことがあるかどうか、私は知りません。私は何かの幻覚・幻想を実行に移すことについて話していません。私のいうのは、認識がないときのあの創造の瞬間、という意味です。その瞬間には、 [そこに] 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった(あの)とてつもない状態があるのです。私たちは気づくなら、その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、それから同一化する経験者がいないことが、わかるでしょう。思考過程、すなわち時間の [過程] がないのです。その創造の [状態] 、新しいもの-すなわち時間のないもの-の創造性の状態には、「私」の作用 [・行動] が全くないのです。
私たちの疑問は、確かにこうです-精神が瞬間的にではなく、希な瞬間にではなく、その状態にあることは [可能でしょうか] -私は「永遠」とか「永久」とかいう言葉をむしろ使いたくないのです。なぜなら、それは時間という意味を含んでいるからです-時間を顧慮・考慮せずに、その状態にあることは、可能でしょうか。確かにそれは、私たち各自がなすべき重要な発見です。なぜなら、それが愛への扉であるからです。他の扉はすべて自己の活動です。自己の作用 [・行動] があるところ、愛はありません。愛は時間のものではありません。あなたは愛を実践できません。あなたが [実践] するなら、そのときそれは、愛することをとおして結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動です。
愛は時間のものではありません。あなたはどんな意識的な努力をとおしても、どんな修練をとおしても、同一化をとおしても、それに思いがけず出会えません-それはすべて時間の過程のものです。精神は時間の過程だけを知っていますが、愛を認識できません。愛が唯一の永遠に新しいものです。私たちのほとんどは、精神-すなわち時間の結果であるもの-を育成してきたから、私たちは愛が何であるかを知らないのです。私たちは愛について話しをします。私たちは人々を愛している、自分の子供たち、妻、隣人を愛している、自然を愛していると、私たちは言います。しかし、私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じたのです。ゆえにそれは愛であることを止めるのです。
この精神の総合過程は、関係-自然との、人々との、私たち自身の投影との、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係-をとおしてだけ、理解されるべきものです。生は関係以外の何ものでもありません。私たちは関係から自分たち自身を孤立させようと試みるかもしれないとしても、それなしには存在できません。関係は苦痛であるけれども、私たちは孤立(化)の手段により、隠遁者になることなどにより、逃げ出せません。これらの方法はすべて自己の活動の表示です。どんな選択もなく、どんな決然とした目的のある意図もなく、どんな結果への欲望もなく、この映像全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、あなたは、この時間の過程が-誘導されてではなく、欲望の結果としてではなく-自発的に終わることが、わかるでしょう。愛-すなわち永遠に新しいもの-があるのは、その過程が終わるときだけです。
私たちは真理を求めなくてもいいのです。真理は何か遠く離れたものではありません。それは精神についての真理、瞬間瞬間のその活動についての真理です。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放するのです。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨すべて、その葛藤・抗争すべて、その災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じるのです。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも19-3
時間の過程は革命的でない。認識だけがある。連続性だけがあって終わりはない。革命、変容、新しいものが生じるのは、時間の過程、自己の活動の完全な停止するときだけ。
創造の瞬間には、 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった状態がある。その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、同一化する経験者がいない。思考過程、すなわち時間の過程がない。その創造の状態、新しいもの−すなわち時間のないもの−には、「私」の作用が全くない。
精神が瞬間的にではなく、その状態にあることは、各自がなすべき重要な発見.なぜなら、それが愛への扉であるから。他の扉はすべて自己の活動。自己の作用があるところ、愛はない。あなたは愛を実践できない。実践するなら、それは、結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動。
意識的な努力、修練、同一化をとおして、愛に出会えない−それはすべて時間の過程のもの。愛が唯一の永遠に新しいもの。私たちは、精神−すなわち時間の結果であるもの−を育成してきたから、愛が何であるかを知らない。私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じる。ゆえにそれは愛であることを止める。
この精神の総合過程は、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係をとおしてだけ、理解される。生は関係。関係から自身を孤立させようと試みるとしても、それなしには存在できない。この方法はすべて自己の活動の表示.どんな選択も、目的のある意図も、結果への欲望もなく、この全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、この時間の過程が自発的に終わる。愛−すなわち永遠に新しいもの−があるのは、その過程が終わるときだけ。
真理を求めなくてもいい。真理は遠く離れたものではない。それは精神について、瞬間瞬間のその活動についての真理。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放する。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨、葛藤・抗争、災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じる。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけ。
(´・(ェ)・`)
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観念である時間がある限り人には変容は無いのじゃ。
時間の観念の無い瞬間の気づきが変容をもたらすのじゃ。
そこに自分は無く、記憶も、同一化もないのじゃ。
それには時間が無いから永遠で在るのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第二十章 時間と変化 1
私は、時間とは何であるかについて、少し話したいように思います。なぜなら、時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさと意義は、私たちが時間の過程全体を理解するときだけ経験されうると、私は思うからです。結局私たちは、各自が自分自身のやり方で、幸せの、豊かさの感覚を求めています。確かに、意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではありません。愛と同じように、そういう生は時間がないのです。時間のないものを理解するには、私たちは時間をとおしてそれに接近するのではなく、むしろ時間を理解しなければなりません。時間のないものに到達し、実現し、掴む手段として、時間を利用してはなりません。それが、私たちが自分たちの生のほとんどを費やしていることです-時間のないものを把握しようとすることに時間を費やすことです。ですから、私たちのいう時間とはどういう意味なのかを理解することが、重要です。なぜなら、時間から自由であることは可能であると、私は思うからです。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、とても重要です。
私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味があります-年代的継起・連続の [意味] 、分、時間、日、年の意味においてではなく、心理的な記憶の意味における時間です。私たちは時間によって生きています。私たちは時間の結果です。私たちの精神は、多くの昨日の産物です。そして現在は、たんに過去から未来への通路です。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいています。時間なしには、私たちは考えられません。なぜなら、思考は時間の結果であるからです。思考は多くの昨日の産物です。記憶なしに思考はありません。記憶は時間です。というのは、二種類の時間、年代的なものと心理的なものがあるのです。時計による昨日としての [時間] と、記憶による昨日としての時間があるのです。あなたは年代的な時間を拒絶できません。それは不合理でしょう。あなたは列車に乗り遅れるでしょう。しかし、年代的な時間から離れて、いったいほんとうに何か時間があるのでしょうか。明白に、昨日としての時間はあります。しかし精神がそれについて考えるような時間はあるでしょうか。確かに、時間、心理的な時間は、精神の産物です。思考の基礎なしに、時間はありません-時間はたんに今日と結合した昨日としての記憶です-それが明日を型どるのです。すなわち、昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出しているのです-それもやはり思考の過程、精神の道です。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらします。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのでしょうか。そして私たちは、精神のものであるその時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのでしょうか。私が言いましたように、幸せは昨日のものではありません。幸せは時間の産物ではありません。幸せはいつも現在に、時間のない状態にあるのです。あなたは恍惚を[経験するとき] -創造的喜びを、一連の明るい雲が暗い雲によって取り囲まれるのを-経験するとき、その瞬間には時間がないということに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。即時の現在だけがあるのです。精神が、現在において経験した後に入ってきて、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出すのです。ですから時間はもっと多くによって造り出されます。時間は取得です。時間はまた執着です-それもやはり精神の取得です。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること-すなわち記憶-は、確かに、時間のないものを開示しません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも20-1
時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさ、意義は、時間の過程全体を理解するときだけ経験されうる。意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではない。時間のないものを理解するには、時間を理解しなければならない。時間のないものに到達する手段として、時間を利用してはならない。時間から自由であることは可能。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、重要。
私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味がある。私たちは時間によって生きている。精神は、多くの昨日の産物。そして現在は、たんに過去から未来への通路。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいている。思考は時間の結果であるから、時間なしには、考えられない。二種類の時間、年代的なものと心理的なものがある。時計による昨日としての時間と、記憶による昨日としての時間がある。あなたは年代的な時間を拒絶できない。それは不合理。しかし、年代的な時間から離れて、何か時間があるのか。確かに、心理的な時間は、精神の産物。思考の基礎なしに、時間はない。昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出している。それもやはり思考の過程、精神の道。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらす。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのか。そして精神のものである時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのか。幸せは昨日のものではない。幸せは時間の産物ではない。幸せはいつも現在に、時間のない状態にある。恍惚を、創造的喜びを、経験するとき、その瞬間には時間がない。現在において経験した後に、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出す。ですから時間はもっと多くによって造り出される。時間は取得、また執着。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること−すなわち記憶−は、時間のないものを開示しない。
(´・(ェ)・`)
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時間とは記憶があるから起こる観念なのじゃ。
記憶とは違う今を解釈するために時間がたったという観念が作られたのじゃ。
そこから先の未来もその連続から推測され、創作された物なのじゃ。
記憶への依存が無ければ時間も無いのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第二十章 時間と変化 2
変容は時間の事柄でしょうか。私たちのほとんどは、時間は変容のために必要であると考えることに、慣れています。私は何ものかである。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。私は貪欲であるとともに、混乱、敵対、葛藤・抗争、悲惨という貪欲の結果でもあります。変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要であると、私たちは考えます。つまり時間は、何かもっと偉大なものに進化する、何ものかになる手段として考えられているのです。問題はこうです。(自分は)暴力的で、貪欲で、妬んでいて、怒っていて、不道徳で、気性が激しいのです。あるがままを変容させるには、時間が必要でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはあるがままを変えたい、または変容をもたらしたいのでしょうか。なぜでしょうか。なぜなら、あるがままの私たちは、私たちを不満にさせるからです。それは葛藤、動揺を造り出します。そしてその状態を好まないので、私たちは何かもっとよいもの、何かもっと高尚な、もっと理想的なものが欲しいのです。ゆえに私たちは変容を願望します。なぜなら、苦痛、不快、葛藤があるからです。葛藤は時間によって打ち勝たれるでしょうか。それは時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 [の状態] にあるのです。葛藤を取り除くには、あるがままのあなたを変えるには、二十日、または二十年かかるだろうと、あなたは言うかもしれません。しかしその時間の間、あなたはやはり葛藤 [状態] にあるのです。ゆえに時間は変化をもたらさないのです。私たちは、性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけです。この点を理解することが重要であると、私は思います。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界-すなわち社会-における苦痛、動揺を引き起こす原因になります。そしてこの動揺の状態-貪欲や暴力と呼ばれるもの-を意識すると、私たちは「私は時間をかけて・そのうちそれを取り除くだろう。非暴力を実践するだろう。妬まないことを実践するだろう。平和を実践するだろう」と、私たち自身に言うのです。そこで、あなたは非暴力を実践したいのです。なぜなら、暴力は動揺、葛藤・抗争の状態であるからです。そしてあなたは時間をかけて非暴力を獲得して葛藤・抗争に打ち勝つだろうと、思うのです。何が現実に起きているでしょうか。葛藤の状態にあると、あなたは葛藤のない状態を達成したいと思います。では、その葛藤のない状態は、時間の、時の継続の結果でしょうか。明白に違います。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、あなたはやはり暴力的でありつづけるし、ゆえにやはり葛藤 [状態] にあるからです。
私たちの問題は、葛藤、動揺は、数日であれ数年であれ幾つもの生涯であれ、時の期間において打ち勝たれうるだろうか [ということ] です。「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と、あなたが言うとき、何が起きるでしょうか。まさに実践こそが、あなたが葛藤 [状態] にあるということを、示しているのではないでしょうか。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、あなたは実践しないでしょう。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要であるし、その抵抗のために時間を持たなければならないと、あなたは言います。しかし、まさに葛藤への抵抗こそが、それ自体一つの形の葛藤です。あなたは、貪欲、妬み、暴力と呼ぶものの形での葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしています。しかしあなたの精神は、やはり葛藤 [状態] にあります。ですから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要なのです。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺-であることができるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも20-2
時間は変容のために必要であると考えることに、慣れている。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。
私は貪欲である→変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要。つまり時間は、偉大なものに進化する手段として考えられている。
なぜあるがままを変えたいのか→あるがままは、不満にさせるから→葛藤、動揺を造り出す→もっとよいもの、高尚な、理想的なものが欲しい→私たちは変容を願望する
葛藤は時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 にある。葛藤を取り除くには、あるがままを変えるには、時間がかかる。その時間の間、やはり葛藤 にある。ゆえに時間は変化をもたらさない。
性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけ。この点を理解することが重要。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界における苦痛、動揺を引き起こす原因になる。
葛藤の状態にあると、葛藤のない状態を達成したいと思う。葛藤のない状態は、時の継続の結果ではない。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、やはり暴力的でありつづけるし、ゆえに葛藤 状態にあるから。
「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と言うとき、何が起きるか。まさに実践こそが、葛藤にあるということを示している。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、実践しない。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要だし、その抵抗のために時間を持たなければならないと言う。しかし、まさに葛藤への抵抗自体一つの形の葛藤。葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしている。しかし精神は、やはり葛藤にある。だから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺−であることができる。
(´・(ェ)・`)
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変容は覚悟があれば今すぐにでも起こるものじゃ。
自分が観られたならば瞬時に変容は起こるじゃろう。
そこに時間は無いのじゃ。
時間を必要とする変化は、やはり欲とかエゴから出たものに過ぎないのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第二十章 時間と変化 3
何かを、何か人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要でしょうか。何が本質的でしょうか。静かな精神なのではないでしょうか。理解することにしっかりと向けられている精神です。それは、排他的である、集中しようとしている精神ではありません-それもまた抵抗の努力です。私がほんとうに何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態があります。あなたは、愛している音楽を聴きたい、または絵を見たいとき- [それに対する] 感性を持っています-あなたの精神の状態は何でしょうか。即時に静けさがあるのではないでしょうか。あなたは音楽を聴いているとき、あなたの精神はそこいらじゅうさまよいません。あなたは聴いています。同様に、あなたは葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていません。あなたは単にあるがまま-すなわち葛藤-に直面しています。そのとき即時に静けさが、精神の静寂が訪れます。あなたはもはやあるがままを変容させる手段として時間に頼りません。なぜなら、その過程の偽りが分かるからです。そのとき、あるがままと直面しています。そしてあるがままを理解することに興味があるので、当然・自然に、静かな精神があります。その鋭敏でありながら受動的な精神の状態に、理解があるのです。精神が葛藤 [状態]にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえません。私はあなたを理解したいなら、明白に、あなたを非難してはなりません。変容をもたらすのは、その静かな精神、その静寂な精神です。精神がもはや抵抗していない [とき] 、もはやあるがままを避けていない、もはや切り捨てたり、咎めたりしていないで、単に受動的に気づいているとき、そのとき、その精神の受動性において-あなたが本当に問題に入り込むなら-変容が訪れるということを、見つけるでしょう。
革命は、今可能なだけです-未来にではありません。革新は今日です-明日ではありません。あなたは私が言ってきたことを実験してみるなら、即時の革新、新しさ、新鮮さの質があるということを、見つけるでしょう。なぜなら、精神は興味があるとき、 [理解したいと] 願望したり、理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂であるからです。私たちのほとんどにとっての困難は、理解しようとする意図を持たないことです。なぜなら、私たちはもしも理解したなら、それが私たちの生に革命的作用 [・行動] をもたらすかもしれないということを、恐れているからです-ゆえに私たちは抵抗するのです。私たちが時間や理想を段階的・漸進的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構です。
こうして革新は、現在において可能なだけです-未来にではなく、明日ではありません。それをとおして幸せを獲得したり、真理や神を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけです。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きています。時間は私たちの困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人、そういう人は当然、理解しようとする意図を持ちます。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静かです。精神が静寂で平静であり、何の答えも何の解決も求めていない [とき] 、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけです。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるからです。そして解放するのは真理です-自由であろうとするあなたの努力ではありません。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも20-3
人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要か。静かな、理解することに向けられている精神。それは、排他的で、集中しようとしている精神ではない-それもまた抵抗の努力。何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態がある。葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていない。単にあるがままに直面している。そのとき即時に精神の静寂が訪れる。もはやあるがままを変容させる手段として時間に頼らない。なぜなら、その過程の偽りが分かるから。あるがままを理解することに興味があるので、自然に、静かな精神がある。その鋭敏で受動的な精神の状態に、理解がある。精神が葛藤にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえない。変容をもたらすのは、静寂な精神。
精神は興味があるとき、 理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂。困難は、理解しようとする意図を持たないこと。なぜなら、もしも理解したなら、それが生に革命的作用をもたらすかもしれないということを、恐れているから−ゆえに抵抗する。時間や理想を段階的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構。
幸せを獲得したり、真理を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけ。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きている。時間は困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人は当然、理解しようとする意図を持つ。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静か。精神が静寂であり、何の答えも何の解決も求めていない、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけ。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるから。そして解放するのは真理−自由であろうとする努力ではない。
(´・(ェ)・`)
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科学でも法則を認定するには観察して確かめるものじゃ。
可能な限り冷静で客観的に観察する事でそれもできるのじゃ。
それは自分を観察するのと同じ観察なのじゃ。
自らを冷静で客観的に観察しようと勤めることで、今ここで変容は可能になるのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 1
私たちは、社会に、私たち自身に、私たちの個人的、集団的関係に根元的変化が必要であることが、わかります。それはどのようにしてもたらされるべきでしょうか。変化が、精神により投影された様式への順応をとおし、道理にかなったよく研究された計画をとおしてであるなら、そのとき、それはやはり精神の領域の中にあるのです。ゆえに精神が計算することは何でも目的、幻想になるのです-その [目的、幻想の] ために私たちは進んで私たち自身と他の人たち・他のものたちを犠牲にしようとしているのです。あなたがそれを支持するなら、そのとき、人間としての私たちはたんに精神の創造(物)であるということになります-それは、順応、強制、残忍さ、独裁(専制)制(政権)、強制収容所-やっかいなものごと全体-という意味を含んでいます。私たちが精神を崇拝するとき、そのすべてが含まれているのではないでしょうか。私はこれを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき私は何をするべきでしょうか。
この問題を充分に考慮するには、私たちは意識とは何かという疑問に入らなければなりません。あなたは自分自身でそれについて考えたことがあるのか、それとも諸権威が意識について言ってきたことを、たんに引用しただけなのかどうか、と私は思います。この意識が-日常の活動と追求の意識だけでなくて、隠れた、もっと深い、もっと豊かな、はるかにもっとわかりにくい意識が-どんな意味を含んでいるのかを、あなたは、あなた自身の経験から、自分自身についてのあなた自身の研究から、どのように理解したのかは、私は知りません。私たちは、私たち自身の[根本的変化] とゆえに世界の根本的変化というこの問題を議論する [べきであるなら] 、そしてこの変化において、一定の幻想、熱狂、熱中、信仰、希望、確実性-すなわち行動のために必要な勢い・はずみを私たちに与えてくれるであろうもの-に目覚めるべきであるなら、私たちがそれを理解すべきであるなら、この意識の問題に入ることが必要ではないでしょうか。
私たちのいう精神の表面的な水準での意識とはどういう意味なのかは、私たちはわかります。明白にそれは考える過程、思考です。思考は記憶の結果、言語化です。それは疎通 [・伝達] することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくことです。この水準には、また様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もあります。このすべてに、私たちは全く慣れ親しんでいます。私たちがもう少し深く入るとき、人種の蓄積、隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがあります-それは、知覚、接触、欲望の結果です。この総合的意識、開かれたものとともに隠れたものが、「私」という観念、自己を中心に集まっています。
どのようにして変化をもたらすべきか [について] 議論するとき、私たちが一般的にいうのは、表面的な水準での変化、という意味なのではないでしょうか。決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、私たちは欲しいと思う [目的] 、渇望する表面的な目的に手を伸ばそうと格闘します。私たちは無意識の[助け] 、精神のもっと深い層の助けを借りて、そこに到り着きたいと願うのです。ゆえに私たちは自分自身の深みの覆いを取る・顕わにすることが必要であると、考えるのです。しかし、表面的な水準といわゆるもっと深い水準の間には、永続的な葛藤があるのです-すべての心理学者たち、自己認識を追求してきたすべての人たちは、それに充分に気づいています。
この内的な葛藤は変化をもたらすでしょうか。それが、私たちの日常の生において最も根本的で重要な疑問ではないでしょうか-どのようにして私たち自身に根元的変化をもたらすべきか、がです。表面的な水準でのたんなる変更は、それをもたらすでしょうか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去 [の覆いを取る] 、子どもの頃から今に至るまでの様々な私的な・個人的な経験の覆いを取ること、私の父、母、祖先、人種の集団的・集合的経験を [を検討し] 、 [そこに] 私が生きている特定の社会の条件づけを私自身において検討すること-そのすべての分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも21-1
社会に、私たち自身に、個人的、集団的関係に根元的変化が必要。変化が、精神により投影された様式への順応をとおしてであるなら、それはやはり精神の領域の中にある。人間はたんに精神の創造(物)か。それは順応、強制、残忍さ、独裁制、強制収容所という意味を含む。これを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき何をするべきか。
自身と世界の根本的変化という問題を理解すべきであるなら、意識の問題に入るべき。
精神の表面的な水準での意識とは、考える過程、思考。思考は記憶の結果、言語化。それは疎通・伝達することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくこと。様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もある。隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがある−それは、知覚、接触、欲望の結果。この総合的意識が、「私」という観念、自己を中心に集まっている。
決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、欲しいと思う、渇望する表面的な水準と、もっと深い水準の間には、永続的な葛藤がある。
この内的な葛藤、表面的な水準でのたんなる変更は、変化をもたらすか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去の、私的な経験の覆いを取ること、集団的・集合的経験を、特定の社会の条件づけを検討・分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすか。
(´・(ェ)・`)
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苦があればそれを変えたいと思うのが人であるが、実は自分を変えたいとは思わないものじゃ。
出来れば自分は変る事無く苦がなくなればよいと思うのじゃ。
しかし、実際には自分が変らなければ苦はなくならないのじゃ。
自我が苦の根本原因であるからのう。
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最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 2
自分の生に根本的変化が-たんなる反動・反応ではなく、環境的要求の圧力と緊張・重圧から出てきたものではない変化が-本質的 [・不可欠] であることを、私は感じますし、確かにあなたもまた感じるにちがいありません。どのようにしてそういう変化をもたらすべきでしょうか。私の意識は、人間の経験の総計・合計と私の現在との特定の接触を加えたものです。それは変化をもたらせるでしょうか。私自身の意識の [研究] 、私の活動の研究、私の思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にする・静めること-その過程は変化をもたらすでしょうか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるでしょうか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤、という意味を含んでいないでしょうか。葛藤は根本的変化をもたらすでしょうか。私は私自身の中で、そして社会と、常なる戦い [の状態] にあるのではないでしょうか。あるがままの私とありたいと思う私との間に、絶えざる葛藤が続いているのです。この葛藤、この格闘は変化をもたらすでしょうか。私は、変化が本質的 [・不可欠] であるのがわかります。私の意識の過程全体を検討することにより、格闘することにより、修練することにより、様々な形の抑圧を実践することにより、私はそれをもたらせるでしょうか。そういう過程は根元的変化をもたらせないと、私は感じます。それについては、完全に確かでなければなりません。そしてその過程が根本的変容、深い内側の革命をもたらせないなら、そのとき何が [そう] するのでしょうか。
あなたはどのようにして真の革命をもたらすべきでしょうか。その革命をもたらす力、創造的エネルギ-は何でしょうか。そしてどのようにしてそれは解放されるべきでしょうか。あなたは修練を試してきました。あなたは理想と様々な思索的理論の追求を試してきました-あなたは神であること。あなたはその神であること・神性を悟ったり、ア-トマン、最高のもの、何であれ、経験したりできるなら、そのときまさにその悟りこそが、根本的変化をもたらすであろうということです。そうなるでしょうか。初めにあなたは真実があると仮定します-あなたはその一部であり、そのまわりに様々な理論、思索、信念、教義、仮定・想定を築き上げます-あなたはそれに応じて生きるのです。その様式に応じて考えることと行動することにより、あなたは根本的変化をもたらしたいと願うのです。そうでしょう。
ほとんどの宗教的な人たちがするように、仮にあなたが、自分には根本的に、深く、真実の本質があると [仮定] します。そして美徳を育成することをとおし、様々な形の修練、制御、抑圧、否定、犠牲をとおして、あなたはその真実と接触できるなら、そのとき必要とされる変容がもたらされるであろうと、仮定します。この仮定も、やはり思考の一部ではないでしょうか。それは、条件づけられた精神、一定の様式に応じて、特定の仕方で考えるように育てられてきた精神から、出てきたものではないでしょうか。イメ-ジ、観念、理論、信念、希望を造り出しておいて、そのときあなたはこの根本的変化をもたらすために、自分の造り出したもの・創造したものに頼るのです。
初めに、「私」の、精神のとてつもない微妙な活動が、わからなければなりません。観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければなりません。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから、ではないでしょうか。他の人たちは真実を経験したことがあるかもしれません。しかし、あなたがそれを経験したことがないなら、それについて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのでしょうか。それもやはり思考の領域の中にあります。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のものです。ゆえに、それは真実ではないのです。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも21-2
意識は、人間の経験の総計・合計と現在との特定の接触を加えたもの。それは変化をもたらせるか。意識の研究、活動の研究、思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にすること-その過程は変化をもたらすか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤。葛藤は根本的変化をもたらすか。意識の過程全体を検討、格闘、修練、抑圧を実践する過程は根元的変化をもたらせない。
どのようにして真の革命をもたらすべきか。初めに、観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければならない。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから。真実ついて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのか。それもやはり思考の領域の中にある。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のもの。ゆえに、それは真実ではない。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何か。
(´・(ェ)・`)
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変化が必要だからと宗教に頼れば、それがまた条件付けになるというのじゃ。
宗教もまた観念によるものであるからのう。
変容は個人の観察に拠ってのみ起こるものじゃ。
宗教は必ずしも必要ではないのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 3
おそらく、この点に至るなかで、私たちは意識的精神を使ってきました。私たちは議論・論争に付いてきました。私たちはそれに反対したり受け入れたりしてきました。私たちはそれが明確に、またはぼんやりと・おぼろげにわかりました。さらに遠くへ行き、もっと深く経験するには、見出すための静かで鋭敏である精神を必要とするのではないでしょうか。それはもはや観念を追求していません。なぜなら、あなたが観念を追求するなら、言われていることに付いていく思考者がいるし、そのためあなたは即時に二元性を造り出すからです。あなたがこの根本的変化という事柄にさらに入ってゆきたいなら、活動的な精神が静かであることが必要ではないでしょうか。確かに、精神が途方もない困難 [を理解できる] 、二つの分離した過程としての思考者と思考、経験者と経験されるもの、観察者と観察されるものという複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かであるときだけです。革命- [そこに] 「私」のないこの心理的、創造的革命は、思考者と思考が一つであるとき、思考を制御している思考者といった二元性がないときだけ、訪れるのです。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみであると、私は提案します-それ [創造的エネルギ-]が今度は、 根本的革命 [をもたらし] 、心理的な「私」の粉砕をもたらすのです。
私たちは力の道を知っています-支配をとおした力、修練をとおした力、強制をとおした力、です。政治的な力をとおして、私たちは根本的に変化させたいと願います。しかしそういう力は、さらなる暗闇、崩壊、邪悪・弊害、「私」の強化を生み育てるだけです。私たちは個人的にも、集団としても、様々な形の取得に慣れ親しんでいます。しかし私たちは愛の道を試したことがありません。それがどういう意味なのかを、知ることさえもないのです。思考者、「私」という中心があるかぎり、愛は可能ではありません。このすべてを悟ると、どうすべきなのでしょうか。
確かに根本的変化、創造的、心理的解放をもたらせる唯一のものは、日常の見守り [です] 、意識的とともに無意識的な私たちの動機に、瞬間瞬間気づくことです。私たちは、修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考から、自分の観察から、自分の経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至らないでしょうか。思考者が自分の思考-すなわち彼が支配しようとしているもの-から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえません。「私」が観察者 [であり] 、経験を集め、経験をとおして自分自身を強める者であるかぎり、根元的変化、創造的解放はありえません。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れるのです-しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできません。どんな思索、どんな言葉による表現・言語化、どんな形の思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があるにちがいないことがわかるとき-精神がそれを悟るとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づくのです。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れるのです。その状態には努力がありません。なることがありません。変化させたいという願望がありません。その状態には、「私」はありません。というのは、精神のものではない変容があるからです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも21-3
根本的変化という事柄にさらに入ってゆくには、精神が静かであることが必要。精神が、二つの分離した過程としての思考者と思考という複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かなときだけ。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみ。それが今度は、心理的な「私」の粉砕をもたらす。
根本的変化をもたらせる唯一のものは、日常の見守り、意識的、無意識的な動機に、瞬間瞬間気づくこと。修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考、観察、経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至る。思考者が思考から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえない。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れる−しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできない。どんな思索、どんな言葉による表現、思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があることがわかるとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づく。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れる。その状態には努力、なること、変化させたいという願望がない。その状態には、「私」はない。というのは、精神のものではない変容があるから。
(´・(ェ)・`)
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静かな精神が必要とクリシュナムルティは言うのじゃ。
それを得るには瞑想が必要なのじゃ。
思考の無い静かな精神で今ここにある心の働きを観ることができるのじゃ。
それが得られなければ全ての観察は私を強めるばかりなのじゃ。
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最初と最後の自由 第一部
第二一章 力と悟り(実現) 4
創造の可能性があるのは、精神が空っぽであるときだけです。しかし私がいうのは、私たちのほとんどが持っているこの表面的な空っぽ、という意味ではありません。私たちのほとんどは表面的に空っぽです。それは、散漫への願望をとおして正体を現すのです。私たちは楽しみたいのです。それで書物、ラジオに向かうのです。講義、権威へ駆けつけるのです。精神は永続的にそれ自体を充たしているのです。私は無思慮である空っぽさについて話していません。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽについて、私は話しているのです。
経験を集めるために、自分自身を強めるために、待ち、見張り、観察している思考者がいるかぎり、創造的空っぽは可能ではありません。精神は、すべての象徴、すべての言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、いったいありうるでしょうか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能でしょうか。あなたは当然この疑問に答えることができないでしょう。それは、あなたが答えるには不可能な疑問です。なぜなら、あなたは知らないからです。あなたは今まで試してみたことがないのです。しかし私が提案してよければ、それを聴いてください。あなたに疑問を出させましょう。種を蒔かせましょう。すると、あなたがほんとうにそれを聴くなら、それに抵抗しないなら、それは実を結ぶでしょう。
変容させられるのは、古いものではなく、新しいものだけです。あなたが古いものの様式を追求するなら、どんな変化も、古いものの修正された連続・継続です。それには何も新しいものがありません。何も創造的なものがありません。精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうるのです。そして精神は、表面的な水準でだけではなく心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる・新しく生まれることができるのです。精神がそれ自身の活動がわかる [とき] 、それ自身の欲望、要求、衝動、追求、それ自身の権威の [創造] 、恐れの創造に気づくとき、修練により、制御により造り出された抵抗 [がわかり] 、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき-精神はこの過程全体を見通し・見抜き、気づくとき-これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうるでしょうか。あなたはそれについて意見を持たず、その創造的状態を経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出すでしょう。あなたはそれを経験したいと思うなら、するでしょう。しかしあなたが経験するものは、創造的空っぽではありません。それはただ願望の投影であるだけす。あなたは新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけです。しかし、あなた自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのようにあなた自身の過程全体を見守るなら、そのとき、あなたはますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうる [ところの] この空っぽという究極の疑問に、至るでしょう。
真理、神-何であれ-は、何か経験されるものではありません。というのは、経験者は時間の結果、記憶の、過去の結果であるからです。経験者がいるかぎり、真実はありえません。精神が、分析者から、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実があるのです。そのときあなたは答えを見つけるでしょう。そのときあなたは、あなたが求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかるでしょう-それはあるのです。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れるのです。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも21-4
私たちは表面的に空っぽ。それは、散漫への願望をとおして正体を現す。私たちは楽しみたい。それで書物、ラジオに向かい、講義、権威へ駆けつける。精神は永続的にそれ自体を充たしている。それは無思慮である空っぽ。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽがある。
経験を集めるために、自分自身を強めるために、思考者がいるかぎり、創造的空っぽは不可能。精神は、すべての象徴、言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、ありうるか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能か。
精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうる。そして精神は、心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる。精神がそれ自身の欲望、要求、衝動、追求、権威の創造、恐れの創造に気づくとき、修練、制御により造り出された抵抗がわかり、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき、これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうる。創造的状態について意見を持たず、経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出す。新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけ。しかし、自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのように自身の過程全体を見守るなら、そのとき、ますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうるところのこの空っぽという究極の疑問に、至る。
真理は、経験されるものでは無い。というのは、経験者は時間の結果、記憶、過去の結果であるから。経験者がいるかぎり、真実はありえない。精神が、分析者、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実がある。そのとき答えを見つける.そのとき求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかる。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れる。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性がある。
(´・(ェ)・`)
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創造的な状態だけが新しい変容をもたらすものというのじゃ。
しかしそれは何もせず訪れるものというのじゃ。
悟道を待つ事と同じなのじゃ。
観察に拠って気づきがあり、それによってまた観察が可能になるというのじゃ。
なかなか難しいことじゃ。
仏陀だけができることなのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
一 現在の危機について 1
質問
現在の危機は先例・前例がないと、あなたは言われます。どんな点で、それは例外的なのでしょうか。
クリシュナムルテイ
明白に、世界じゅうの現在の危機は、先例がなく例外的です。歴史を通じてずっと、違った時期に、様々な類型の-社会的、国家 [・民族]的、政治的な-危機がありました。危機は来て去ります。経済的な不景気、不況が来て、修正されて、違った形で継続します。私たちはそれを知っています。私たちはその過程に慣れ親しんでいます。確かに、現在の危機は異なっているのではないでしょうか。それは初めに異なっています。なぜなら、私たちはお金でも、また触れられるもの・実体のあるもの[を扱っているの] でもなく、観念を扱っているからです。危機は例外的です。なぜなら、それは観念作用の領域にあるからです。私たちは観念のことでけんかしています。私たちは殺人を正当化しています。世界のあらゆるところで、私たちは正しい目的への手段として殺人を正当化しています-それは、それ自体が先例がありません。以前は、悪は悪であると認識されていました。殺人は殺人であると認識されていました。しかし、今や殺人は、高尚な結果を達成するための手段です。殺人は、一人の人のであろうと、人々の集団のであろうと、正当化されています。なぜなら、殺人者、または殺人者が代表する集団は、人のためになるであろう結果を達成する手段として、それを正当化するからです。 すなわち、私たちは未来のために現在を犠牲にするのです-私たちの宣言した・公然の目的が、人のためになるであろうと私たちが言う [ところの]結果を産み出すことであるかぎり、どんな手段を用いるかは、大事なことではありません。ゆえに、含まれている意味は、間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、ということです。そしてあなたは、観念作用をとおして、間違った手段を正当化するのです。以前に起きてきた様々な危機においては、論点は、ものごとや人の搾取・利用でした。それが今や観念の搾取・利用です-そのほうがもっとはるかに有害で、もっと危険です。なぜなら、観念の搾取はあまりに壊滅的で・荒廃的で、あまりに破壊的であるからです。 私たちは今や宣伝の力を学んできました。それが、起こりうる最大の災いの一つです-人を変容させるための手段として、観念を使うことが、です。それが、今日世界で起きていることです。人は重要ではないのです-体系 [・体制]、観念が重要になってしまったのです。人はもはや何の意義もありません。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できるのです。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持っています。そして確かにそれは先例がないのです。悪は悪です。それは善をもたらすことができません。戦争は平和への手段ではありません。戦争は、もっと効率的・能率的な飛行機のように、二義的な利益をもたらすかもしれません。しかし、それは人に平和をもたらさないでしょう。戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化されるのです。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも2-1-1
現在の危機は例外的。なぜなら、それは観念作用の領域にあるから
正しい目的への手段として殺人を正当化
未来のために現在を犠牲にする
間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、という意味を含む
観念作用をとおして、間違った手段を正当化
以前の危機における論点は、ものごとや人の搾取・利用。それが今や観念の搾取・利用−そのほうが有害で、危険。なぜなら、観念の搾取は壊滅的、荒廃的、破壊的であるから
宣伝の力が、人を変容させるための手段として、観念を使うことが、起こりうる最大の災いの一つ。
人は重要ではない−体系・体制、観念が重要になってしまった。人はもはや何の意義もない。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できる。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持った。そして確かにそれは先例がない。
戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化される。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらす。
(´・(ェ)・`)
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もはや人類は地球をも破壊できる兵器をもってしまったからのう。
知性に拠ってそれを使えば全て破壊されるのじゃ。
知性は戦争を正当化してそれを使うようにするじゃろう。
それは今までになかった危機なのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
一 現在の危機について 2
また、先例のない危機を表示する他の原因もあります。それらの一つが、感覚的価値に、財産に、名前に、カ-ストと国に、あなたが身につけている特定のレッテルに、人が与えているとてつもない重要性です。あなたはイスラム教徒かヒンドウ-教徒、キリスト教徒か共産主義者です。名前と財産、カ-ストと国が、支配的に・優勢的に重要になってしまったのです-それは、人が、感覚的価値 [に捕らわれ] 、精神により、手により作られたものごとの価値に捕らわれている、という意味です。私たちはそれらのために殺し、破壊し、屠殺し、粛清しあっているほどに、手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまったのです。私たちは崖っぷちに近づいているのです。あらゆる行動が、私たちをそこへ導いているのです。あらゆる政治的 [行動]、あらゆる経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした混乱させる深淵に引きずり込んでいるのです。ゆえに、危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求するのです。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要です。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうからです。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけです。危機が先例がないので、また先例のない行動がなければなりません-それは、個人の革新は、時間の過程 [をとおして]ではなく、 瞬時でなければならない、という意味です。それは明日ではなく、今起きなければなりません。というのは、明日は崩壊の過程であるからです。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招きます。私はやはり破壊の領域の中にいるのです。 今変えることは可能でしょうか。 即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能でしょうか。それは [可能]であると、私は言います。
要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということです。そしてこの革命は、他の人をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな組織をとおしても起こりえません。それは、私たちをとおし、私たち各自をとおして来なければなりません。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた [社会、構造] 、蓄積され、積み上げられつつあるこれらのとてつもなく破壊的な力から離れた新しい社会、新しい構造を、造り出せるのです。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも2-1-2
先例のない危機を表示する他の原因
感覚的価値が、支配的に・優勢的に重要になってしまった。手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまった。あらゆる政治的、経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした深淵に引きずり込んでいる。危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求する。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうから。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけ。個人の革新は、時間の過程ではなく、 瞬時でなければならない。それは明日ではなく、今起きなければならない。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招く。破壊の領域の中にいる。今変えること、即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能である。
要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということ。そしてこの革命は、他の人、書物、組織をとおしても起こりえない。それは、私たち各自をとおして来なければならない。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた社会、構造、蓄積され、積み上げられつつあるこれらの破壊的な力から離れた新しい社会構造を、造り出せる。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じる。
(´・(ェ)・`)
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今は前例のない危機的な状況にある。
そうであるから前例の無い行動をしなければならぬというのじゃ。
それは書物とか他人とか組織では出来ないのじゃ。
自らに気付くことでのみ起こるというのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
二 国家[・民族]主義について1
質問
国家 [・民族]主義が去るとき、 [次に]来るのは何でしょうか。
K
明白に智恵です。しかし、残念ながら、それが質問に含まれている意味ではないように、私は思います。含まれている意味は、何が国家 [・民族]主義の代用でありうるのか、です。どんな代用も、智恵をもたらさない行為です。私が一つの宗教を去って、もう一つに加わるなら、または一つの政党を去って、後に何か他のものに加わるなら、この常なる代用は、 [そこに]智恵のない状態を表示しています。
国家 [・民族]主義はどのようにして去るのでしょうか。その充分な含意を、私たちが理解することにより、それを検討することにより、外側と内側の行動 [・作用]におけるその意義に気づくことによってだけ [去るの]です 。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらします-それは、誰でもよく観察している人にとって明白です。内側で、心理的に、もっと偉大なものとの、国との、観念とのこの同一化は、明白に一つの形の自己拡大です。小さな村や大きな町や何であろうと [そこに] 住んでいると、私は誰でもないのです。しかし私が自分自身をもっと大きなものと、国と、同一化するなら、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶなら、それは私の虚栄心をくすぐるのです。それは私に満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれるのです。そしてもっと大きなものとのその同一化-それは、自己拡大が本質的 [・不可欠]であると感じる人たちにとって心理的な必要物・必需品です-はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出すのです。こうして国家 [・民族]主義は、外側の抗争 [を造り出す]だけではなくて、内側の挫折をも造り出すのです。国家 [・民族]主義を、国家 [・民族]主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまうのです。国家 [・民族]主義の理解は、国家 [・民族]主義、愛国心の過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来るのです。その検討から智恵が訪れます。そのとき国家 [・民族]主義のかわりの何か他のものの代用はないのです。あなたが国家 [・民族]主義のかわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になるのです。ゆえに、どんな形の代用も-どんなに高尚でも-一つの形の無知です。それは、人が喫煙のかわりにチュ-イングガムやビンロウジや何であれ、代用するのと似ています。ところが、喫煙、習慣、感動、心理的要求、その他すべての問題全体を、ほんとうに理解するなら、そのとき喫煙は、いつのまにかなくなるのです。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できるのです。そして智恵は、代用があるとき、機能していません。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂です。国家 [・民族]主義とともにその毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができるのです。そして智恵は、たんに試験に通ることと書物を研究することによっては、来ないのです。智恵は、私たちが問題を生じるままに理解するとき、生じるのです。異なった水準で問題の [理解があるとき] -外側の部分だけではなく、その内側の心理的な含意の理解があるとき、そのとき、その過程において、智恵が生じるのです。ですから、智恵があるとき、代用はありません。そして智恵があるとき、そのとき国家 [・民族]主義、愛国心は-それは一つの形の愚かさです-消え去るのです。
(´・(ェ)・`)つ
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くまめも2-2-1
国家主義はどのようにして去るのか。その充分な含意を、理解、検討し、外側と内側の行動におけるその意義に気づくことによってだけ去る。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらした。内側で、心理的に、偉大なもの、国、観念との同一化は、一つの形の自己拡大。自分自身を国と、同一化するなら、それは虚栄心をくすぐる。それは満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれる。そして大きなものとのその同一化はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出す。こうして国家主義は、外側の抗争だけではなくて、内側の挫折をも造り出す。国家主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまう。その理解は、その過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来る。その検討から智恵が訪れる。かわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になる。ゆえに、どんな形の代用も一つの形の無知。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できる。そして智恵は、代用があるとき、機能していない。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂。その毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができる。智恵は、問題を生じるままに理解するとき、生じる。問題の外側の部分だけではなく、内側の心理的な含意の理解があるとき、その過程において、智恵が生じる。だから、智恵があるとき、代用はない。智恵があるとき、そのとき国家主義、愛国心は消え去る。
(´・(ェ)・`)
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最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 1
質問
(導師)たちは不必要であると、あなたは言われます。しかし、(導師)だけが与えられる賢明な助けと導きなしに、どうして私は真理を見つけられるのでしょうか。
K
質問は、(導師)は必要であるのか、ないのか、です。真理は、他の一人をとおして見つけられるでしょうか。或る者は、それはできると言い、或る者は、できないと言います。他の一人の意見に対比しての私の意見ではなく、私たちはこれの真理が知りたいのです。私はこの件において意見を持っていません。それはそうであるか、そうでないか、どちらかです。あなたが(導師)を持つべきか、持つべきでないかということが、本質的 [・不可欠]であるかどうかは、意見の問題ではありません。事柄の真理は、意見に依存しません-たとえどんなに奥深くて、学識があり、一般的で・評判がよくて、普遍的でも、です。事柄の真理は、事実において見出されるべきです。
まず最初に、なぜ私たちは(導師)が欲しいのでしょうか。私たちは導師が必要です。なぜなら私たちは混乱しているし、導師 は助けになるからです、と私たちは言います。彼は真理が何であるかを指摘してくれるだろう。彼は、私たちが理解するのを助けてくれるだろう。彼は私たちよりも生についてはるかに多く知っている。彼は私たちに生を教える父として、教師としての役割を果たすだろう。彼は膨大な経験を持ち、私たちはわずかしか持っていない。彼は、より大きな・偉大な彼の経験をとおして、私たちを助けてくれるだろう、などなどです。すなわち、基本的にあなたは混乱しているから、教師のところへ行くのです。もしも明晰であったなら、あなたは導師 に近づかないでしょう。明白に、もしもあなたがとても深く幸せであったなら、もしも問題がなかったなら、もしもあなたが生を完全に理解したなら、あなたはどんな導師 のところへも行かないでしょう。あなたにこれの意義をわかって欲しいと、私は思います。あなたは混乱しているから、教師を捜し出すのです。あなたは生き方を与えてもらうため、自分自身の混乱を明らかにする・晴らすため、真理を見つけるために、彼のところへ行くのです。あなたは混乱しているし、自分が求めるものを彼が与えてくれるだろうと願うから、自分の導師 を選択するのです。すなわち、あなたは自分の要求を満足させてくれるであろう導師 を、選択するのです。彼があなたに与えてくれるであろう満足・喜びに応じて、あなたは選択するのです。それであなたの選択は、あなたの満足・喜びに依存しているのです。あなたは、「あなた自身に依存しなさい」と言う導師 を選択しません。あなたは自分の先入観に応じて彼を選択するのです。それであなたは、彼が自分に与えてくれる満足・喜びに応じて導師 を選択するから、あなたは真理を [求めているの]ではなくて、混乱からの抜け出し方を求めているのです。そして混乱からの抜け出し方が、誤って真理と呼ばれるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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本当に国家や民族という観念が無ければ智慧があるのじゃ。
しかし、人はそんなことは聞きたくないじゃろう。
神とか信仰があるとか聞きたいのじゃろう。
それもまた観念による統制に過ぎないのじゃ。
本当の解放は知恵に拠ってのみあるものじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 2
導師 が私たちの混乱をきれいに片づけられるというこの観念を、初めに検討しましょう。誰かが私たちの混乱をきれいに片づけられるでしょうか-混乱は私たちの応答の産物です。私たちがそれを造り出したのです。他の誰かがそれを-中と外の、存在のすべての水準におけるこの悲惨、この戦いを-造り出したと、あなたは思うのでしょうか。それは、自分たち自身についての知識の欠如の結果です。私たちが導師 のところへ行くのは-私たちがその混乱から自由であるのを、彼が助けてくれるであろうと考えるのです-私たちが自分たち自身を、自分たちの葛藤、応答、悲惨を、理解しないからです。私たちは現在との関係においてだけ、自分たち自身を理解できるのです。そして外側の誰かがではなく、その関係自体が導師 です。私がその関係を理解しないなら、たとえ導師 が何を言うとしても役立ちません。なぜなら、私が関係を-財産との、人々との、観念との私の関係を-理解しないなら、誰が私の中の葛藤を解決できるでしょうか。その葛藤を解決するには、私はそれを自分自身で理解しなければなりません-それは、私が関係において自分自身に気づかなければならない、という意味です。気づくには、どんな導師 も必要ではありません。私が自分自身を知らないなら、導師 が何の役に立つでしょうか。混乱 [状態]にあって、ゆえに彼らの選択もまた混乱している人たちにより、政治的指導者が選択されるのと同じように、私は導師 を選択するのです。私は自分の混乱に応じてだけ、彼を選択できるのです。ゆえに彼も、政治的指導者と同じように、混乱しているのです。
重要であることは、誰が正しいのか-私が正しいのか、導師 は必要であると言う人た
ちが正しいのかどうか-ではありません。なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すことが、重要です。導師 は、様々な種類の搾取 [・利用]のために存在しています。しかしそれは関係ありません。あなたがどのように進歩しつつあるかを、誰かがあなたに言ってくれるなら、それはあなたに満足を与えてくれるのです。しかし、なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すこと-そこに鍵があるのです。他の人は道・やり方を指摘できます。しかしたとえあなたが導師 を持つとしても、あなたが作業すべてをやらなければなりません。 あなたはそれと向き合いたくないから、導師 に責任をなすりつけるのです。ごくわずかの自己認識があるとき、導師 は役に立たなくなるのです。どんな導師 も、どんな書物や聖典も、あなたに自己認識を与えられません。あなたが関係において自分自身に気づくとき、それは来るのです。ある [・生きる]ことは関係することです。関係を理解しないことは、悲惨、闘争です。財産とのあなたの関係に気づかないことが、混乱の原因の一つです。あなたが、財産との自分の正しい関係を知らないなら、必ず葛藤があります-それが社会に抗争を増大させるのです。あなたが自分自身と自分の妻との間の、自分自身と自分の子供との間の関係を理解しないなら、その関係から生じている葛藤を、どうして他の一人が解決できるでしょうか。観念、信念などについても同様です。人々との、財産との、観念とのあなたの関係において混乱しているので、あなたは導師 を求めるのです。彼はほんとうの導師であるなら、あなたに自分自身を理解するようにと言うでしょう。あなたがすべての誤解と混乱の源です。そして関係において自分自身を理解するときだけ、あなたはその葛藤を解決できるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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導師は必要とする者にのみ現われるというのじゃ。
必要としないものには現われないのじゃ。
ただ自らを理解するだけで善いのじゃ。
導師はそのためにのみ現われるのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 4
あなたは他の誰をとおしても真理を見つけられません。どうしてできるでしょうか。真
理は何か静止したものではありません。それは固定した住所を持ちません。それは目的、目標ではありません。反対に、それは生きて、動的で、鋭敏で、生き生きしているのです。どうしてそれが目的でありうるでしょうか。真理が固定点であるなら、それはもはや真理ではありません。そのとき、それはたんなる意見です。真理は知られないものです。真理を求めている精神は、決してそれを見つけないでしょう。というのは、精神は知られたものから作り上げられているからです。それは過去の結果、時間から出てきたものです-あなたはそれを自分自身で観察できます。精神は知られたものの道具です。ゆえに、それは知られないものを見つけられません。それは知られたものから知られたものへ動けるだけです。精神が真理を-書物で読んだことがある真理を-求めるとき、その「真理」は自己投影されています。というのは、そのとき精神は、たんに知られたもの-以前のものよりもっと満足できる知られたもの-を、追求しているからです。精神が真理を求めるとき、それは真理 [を求めるの] ではなく、それ自身の自己投影を求めているのです。結局、観念は自己投影されています。それは虚構で非真実です。真実であるものは、対極のものではなく、あるがままです。しかし真実を求め、神を求めている精神は、知られたものを求めているのです。あなたが神について考えるとき、あなたの神は、あなた自身の思考の投影、社会的影響の結果です。あなたは知られたものについてだけ、考えられるのです。あなたは知られないものについて考えられません。あなたは真理に集中できません。あなたが知られないものについて考えた瞬間、それはたんに自己投影された知られたものです。神や真理については考えられません。あなたがそれについて考えるなら、それは真理ではありません。真理は求められません。それはあなたに来るのです。あなたは知られているものを追いかけられるだけです。精神が知られたものにより、知られたものの影響により、拷問にかけられないとき、そのときだけ、真理が正体を現せるのです。真理はあらゆる木の葉に、あらゆる涙にあるのです。それは瞬間瞬間知られるべきものです。誰一人あなたを真理へ導けません。誰かがあなたを導くなら、それは知られたものへ [導かれる] だけです。
真理は、知られたものが空っぽである精神に、到来しうるだけです。それは、知られたものが不在であり、機能していない状態に来るのです。精神は知られたものの倉庫、知られたものの残り滓です。精神が、[そこに] 知られないものが生じる状態にあるには、それはそれ自体に [気づく] 、意識的と共に無意識的なそれの以前の経験に、それの応答、反応、構造に、気づかなければなりません。完全な自己認識があるとき、そのとき知られたものの終わりがあります。そのとき精神は完全に、知られたものが空っぽです。真理が招かれずにあなたのところへ来るのは、そのときだけです。真理は、あなたにも私にも属していません。あなたはそれを崇拝できません。それは知られた瞬間、真実ではないのです。象徴は真実ではありません。イメ-ジは真実ではありません。しかし自己の理解が、自己の停止があるとき、そのとき永遠性が生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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真理と呼べるものは自分を知ることでしかたどり着けないというのじゃ。
自らを知り、自らが無であると気付いた時真理は在るのじゃ。
本で読んだ知識とか、過去の記憶からは生まれないのじゃ。
自らを追及する事でのみそれはやってくるのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 1
質問
私はあなたから、学び・学問と知識は妨害であるということを、明確に推測します。それらは何に対して妨害なのでしょうか。
K
明白に、知識と学びは、新しいもの、時間のないもの、永遠のものの理解にとって妨害です。完璧な技術を発達させることは、あなたを創造的にしません。あなたはどのようにすばらしく絵を描くかを知っているかもしれません。あなたは技術を持っているかもしれません。しかし、あなたは創造的画家ではないかもしれません。あなたは、技術的にもっとも完璧な詩を、どのようにして書くかを知っているかもしれません。しかし、あなたは詩人ではないかもしれません。詩人であるとは、新しいものを受け入れる能力がある、何か新しい新鮮なものに応答するに充分敏感である、という意味を含むのではないでしょうか。私たちのほとんどにとって、知識や学びは中毒・耽溺になってしまいました。私たちは、知ることをとおして創造的であるだろうと、考えるのです。事実を、知識を詰め込んで身を固めた精神-それは、何か新しい、突然の・不意の、自発的なものを受け入れる能力があるでしょうか。あなたの精神が知られたもので詰め込まれているなら、そこには、知られないもののものである何かを受け入れる空間が、何かあるでしょうか。確かに知識はいつも知られたものについてです。そして知られたものをもって、私たちは知られないものを、何か尺度を超えたものを、理解しようとしているのです。
私たちのほとんどに起こるごく普通のものごとを、例に取りましょう。宗教的な人たちは-さしあたり・当座は、その言葉が何を意味するとしても-神が何であるかを想像しようとしたり、神が何であるかについて考えようとしたりします。彼らは無数の書物を読んできました。彼らは様々な聖者たち、大師たち、マハトマ(偉大な魂)たちとその他すべての経験について読んできました。そして他の一人の経験が何であるかを想像しようとしたり、感じようとしたりするのです。すなわち、知られたものをもって、知られないものに接近しようとするのです。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、何か知ることのできないものについて考えられるでしょうか。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。しかし現在の世界には、このとてつもない倒錯・歪曲が起きているのです。私たちはもっと多くの情報、もっと多くの書物、もっと多くの事実、もっと多くの印刷物を持つなら、理解するだろうと思うのです。
知られたものの投影ではない何かに気づくには、理解をとおして、知られたものの過程の排除・除去がなければなりません。精神がいつも知られたものにすがりつくのは、なぜでしょうか。それは、精神が常に確実性、安全を求めているから、ではないでしょうか。まさにその本性こそが、知られたものに、時間に固定されているのです。そういう精神が-まさにその基盤・土台そのものが、過去に、時間に基づいているのですが-どうして時間のないものを経験できるでしょうか。それは知られないものを考えつき・構想し、定式化し、思い描く・描き出すかもしれません。しかしそれはすべて不合理です。知られたものが理解され、解消され、脇に置かれるときだけ、知られないものが生じうるのです。それは極めて難しいのです。なぜなら、あなたが何かについての経験をした瞬間、精神はそれを知られたものの用語に翻訳して、それを過去に還元するからです。あらゆる経験が即時に知られたものに翻訳され、名前をつけられ、一覧表にされ、記録されるということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。それで知られたものの動きが知識です。明白にそういう知識、学習は障害です。
(´・(ェ)・`)つ
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知識と学習とは共に記憶に基づいた理解の方法なのじゃ。
記憶に拠って知識を蓄え、記憶されたことを公式とか概念として分別するのじゃ。
それらは記憶に依存している故に、新しいものこどを受け入れられないのじゃ。
過去を今ここにあてはめて解釈しているだけなのじゃ。
どんな先入観念も無い心にのみ、新しいものごとが受け入れられるのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 2
仮にあなたが、宗教的または心理学的な書物を、今まで一度も読んだことがなかった。そして生の意味、意義を見つけなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。仮に大師たちも、宗教的組織も、ブッダも、キリストもいなかった。そしてあなたは初めから始めなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならない、のではないでしょうか-自分自身を、自分の思考を未来に投影して、あなたを喜ばせる神を造り出すのではありません-それはあまりに子供じみている・幼稚すぎるでしょう。それで初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならないでしょう。それが、何か新しいものを発見する唯一の道なのではないでしょうか。
私たちは、学習や知識は妨害、障害であると言うとき、技術的な知識-車をどう運転するのか、機械類をどう動かすのか-や、そういう知識がもたらす能率・効率は含んでいません。私たちは全く違ったことを精神に持っています・考えています-どれほどの量の知識や学習ももたらさないであろう [ところの]あの創造的幸せの感覚 [のことです] 。その言葉のもっとも真実の意味において創造的であるとは、瞬間瞬間過去から自由であることです。なぜなら、継続的に現在に影を落としているのは、過去であるからです。情報に、他の人たちの経験に、たとえどんなに偉大でも誰かが言ったことに、たんにすがりついて、自分の行動をそれに近づけようとすること-そのすべては知識なのではないでしょうか。しかし、何でも新しいものを発見するには、あなたは自分自身から始めなければなりません。あなたは、特に知識を完全に剥ぎ取られた旅に、とりかからなければなりません。なぜなら、知識と信念をとおして経験をすることは、とてもたやすいからです。しかしそれらの経験は、たんに自己投影の産物です。ゆえに全く真実ではなく、偽りです。あなたが何が新しいものなのかを自分自身で発見しようとするなら、古いものの重荷を、特に知識-たとえどんなに偉大でも他の一人の知識-を運んでいてはダメなのです。あなたは知識を、自己投影の、安全の手段として使います。そしてあなたは、ブッダやキリストやXと同じ経験をすることを、全く確信したいのです。しかし、知識をとおして常に自分自身を保護している人は、明白に真理を求める者ではありません。
真理の発見のための道はありません。あなたは海図なき海に入ってゆかなければなりません-それは憂鬱ではありません。それは冒険好きであることではありません。あなたが何か新しいものを見つけたいとき、何でも実験しているとき、あなたの精神はとても静かでなければならない、のではないでしょうか。あなたの精神が、事実、知識で詰め込まれ、充満しているなら、それらは新しいものへの妨害として作用するのです。困難は、私たちのほとんどにとって、精神があまりに重要に、あまりに支配的に・優勢的に意義深くなってしまったこと、それが、何でも新しいかもしれないものに、何でも知られたものとともに同時に存在しているかもしれないものに、常に邪魔をしている・妨害しているということ、です。こうして知識と学習は、求めようとする人たち、時間のないものを理解してみようとする人たちにとって妨害です。
(´・(ェ)・`)つ
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もしも何の知識も無しに生の意味、意義を見つけなければならないとしたら、先ずは自分の思考過程を理解するところから始めるというのじゃ。
自分がどのようにしてものごとを知るのか、わからなければ全てが謬見になるからなのじゃ。
それは科学者が正確な顕微鏡を求めてちいさいものを見るのと同じなのじゃ。
観察する道具が狂っていては全てが狂うからなのじゃ。
自分の心の働きを知って全ては理解できるようになるのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 1
質問
すべての宗教は、人の残忍性・獣性の本能を調節する・適度にするために、何らかの種類の自己修練を、主張してきました。自己修練をとおして、聖者たちと神秘主義者・論者たちは、神性・神格に到達したと断言・主張してきました。今あなたは、そういう修練は、神の実現・悟りにとって障害であることを示唆しているように見えます。私は混乱しています。この事柄において正しいのは誰でしょうか。
K
それは、この事柄において誰が正しいのか、という問題ではありません。重要であることは、私たち自身で事柄の真理を見出すことです-特定の聖者や、インドからやどこか他の所-異国的であればあるほどいいのです-から来た人物に応じて [見出すの] ではありません。
あなたはこれら二つの間に捕らわれて・挟まれています。ある人は修練を唱えます。他の一人は無修練を唱えます。一般的に起きることは、より便利である・都合のいいもの、より満足させるものを、あなたは選択するということです。あなたは、 [その] 人、彼の容貌、彼の私的な性向、彼の私的な偏愛、その他すべてが好きなのです。そのすべてを脇に置いて、直接的にこの疑問を検討して、私たち自身で事柄の真理を見出しましょう。この疑問には、たいへん多くの意味が含まれています。私たちは用心・注意深くためらいがちに、それに接近しなければなりません。
私たちのほとんどは、何をすべきかを私たちに教えてくれる誰か権威者が、欲しいのです。私たちは行いの指示を期待します。なぜなら、私たちの本能は、安心すること、もはや苦しまないことであるからです。誰かが幸せ、至福-何であれ-を実現したと言われています。すると私たちは、そこに到り着くために何をすべきかを、彼が私たちに教えてくれるだろうと、願うのです。それが、私たちの欲しいものです。私たちはその同じ幸せ、その同じ内側の静けさ、喜びが欲しいのです。そしてこの狂った混乱の世界で、私たちは、誰かに何をすべきかを自分たちに教えてもらいたいのです。それが、私たちのほとんどにとって、ほんとうに基本的本能です。その本能に応じて、私たちは自分たちの行動を様式化するのです。神、その最高の、名づけられない、言葉で測るべきでないもの-それは、修練をとおし、特定の行動の様式に付いていくことをとおして、偶然手に入るのでしょうか。私たちは特定の目標、特定の目的に到り着きたいのです。そして私たちは、実践により、修練により、抑圧することや解放すること、昇華することや代用することにより、自分たちが求めているものを見つけることができるだろうと、思うのです。
(´・(ェ)・`)つ
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人が権威に縋ろうとするのは親から条件付けされているからなのじゃ。
子供の頃に親からやるべきことやしてはいけないことを教わってきた故に、大人になってからもそのような対象を探して縋ろうとするのじゃ。
それは宗教によって最も顕著に現われるものじゃ。
神という親の代理を作り出して安心感をもたらすのじゃ。
それでは子供の頃と何も変らないのじゃ。
自ら観察して己を見出すことのみが正しい道なのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 2
修練に含まれている意味は何でしょうか。私たちは修練するとしても、なぜ自分たち自身を修練するのでしょうか。修練と智恵は共存できるのでしょうか。ほとんどの人たちは、何らかの種類の修練をとおして、私たちのなかの獣性・残忍性、醜いものを、服従させたり制御したりしなければならないと、感じています。その獣性、その醜いものは、修練をとおして、制御できるでしょうか。私たちのいう修練とは、どういう意味でしょうか。報賞を約束してくれる [ところの] 行動の進路・道筋。もしも追求したなら、私たちに欲しいもの-それは肯定的であったり否定的であったりするかもしれない-を与えてくれるであろう [ところの] 行動の進路。もしも精出して・勤勉に、丹念に、とてもとても熱烈に実践したなら、最後に私たちに欲しいものを与えてくれるであろう [ところの]行いの様式 [という意味]です。それは苦痛であるかもしれません。しかし私はそれ [欲しいもの] を得るために、進んでそれ [修練] を経てゆこうとするのです。自己は攻撃的で、利己的で、偽善的で、心配で、恐れています-あなたはそのすべてを知っています-その自己が、私たちのなかの獣性の原因です- [その自己を]私たちは変容させ、服従させ、破壊したいのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。それは、修練をとおして [なされるのか]、それとも自己の過去-自己とは何か、それはどのようにして生じるのか、など-についての智恵ある理解 をとおして、なされるのでしょうか。私たちは人の獣性を、強制をとおして [破壊するのでしょうか] 、それとも智恵をとおして破壊するのでしょうか。智恵は修練の事柄でしょうか。聖者たちとその他すべての人たちが言ったことは、当分は忘れましょう。まるで私たちが初めてこの問題を見つめるかのように、自分たち自身で事柄に入りましょう。そのとき私たちは、その終わりに、他の人たちが言ったことのただの引用ではなく-それはすべてあまりに空虚で役にたちません-何か創造的なものを、得るかもしれません。
私たちには葛藤-白に対する黒、無欲に対する貪欲など-があると、私たちは初めに言います。私は貪欲です-それは苦痛を造り出します。その貪欲を取り除くには、私は自分自身を修練しなければなりません。すなわち私は、自分に苦痛を与えるどんな形の葛藤にも抵抗しなければならないのです-この場合は、それを貪欲と呼びます。そのとき私は、それは反社会的である、それは非倫理的・不道徳である、それは聖人らしくない、などなどと言います-私たちはそれに抵抗するために、様々な社会的、宗教的理由を与えます。貪欲は、強制をとおして破壊されたり、私たちから片づけられるでしょうか。初めに、抑圧、強制、それを片づけること、抵抗することに関与している過程を、検討しましょう。あなたがそうするとき、あなたが貪欲に抵抗するとき、何が起きるでしょうか。貪欲に抵抗しているものは何でしょうか。それが最初の疑問なのではないでしょうか。なぜあなたは貪欲に抵抗するのでしょうか。そして「私は貪欲から自由でなければならない」と言う実体は誰でしょうか。「私は自由でなければならない」と言う実体もまた、貪欲なのではないでしょうか。今までは、貪欲が彼に報いてきました。しかし、今やそれは苦痛です。ゆえに彼は「私はそれを取り除かなければならない」と言うのです。それを取り除こうとする動機も、やはり貪欲の過程です。なぜなら、彼は、何か自分ではないものでありたいと思っているからです。無欲は今や利益になるのです。それで私は無欲を追求しているのです。しかし、動機、意図は、やはり何ものかであること、無欲であることです-確かに、それもやはり貪欲です。それもまた、否定的な形の「私」の強調です。
(´・(ェ)・`)つ
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変容とは修練によってなされるのか、それとも知恵に拠って理解することできるのかというのじゃ。
そして修練は貪欲の表れでしかないというのじゃ。
無欲を目指していてもそれを望む貪欲になるのじゃ。
すると結局は変容は知恵による理解しかないということになるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 3
私たちは、明白である様々な理由のために、貪欲であることが苦痛であることを、見つけます。私たちがそれを楽しむかぎり、貪欲であることが、私たちに報いてくれるかぎり、問題はないのです。社会は私たちを貪欲であるよう、違った仕方で励まします。宗教もまた、違った仕方で私たちを励まします。それが利益になるかぎり、それが苦痛でないかぎり、私たちはそれを追求するのです。しかしそれが苦痛になった瞬間、私たちはそれに抵抗したいのです。その抵抗が、貪欲に反して・対抗して修練と呼ばれます。しかし私たちは、抵抗をとおし、昇華をとおし、抑圧をとおして、貪欲から自由であるでしょうか。貪欲から自由でありたいと思う「私」の方のどんな行動も、やはり貪欲です。ゆえに、貪欲に関する私の方のどんな行動、どんな応答も、明白に解決ではないのです。
まず初めに、何かを [理解するには] 、特に、何か私の知らないもの、何か私の精神が推し量れないもの-すなわち、この質問者が言う神-を理解するには、静かな精神、動揺のない精神が、なければなりません。何かを、何か錯綜した問題-生や関係の [問題]、要するに何かの問題-を理解するには、精神にとって一定の静かな深みがなければなりません。その静かな深みは、何かの形の強制をとおして偶然手に入るでしょうか。表面的な精神は、それ自体を強制し、それ自体を静かにさせるかもしれません。しかし、確かにそういう静けさは、腐敗の、死の静けさです。それは適応・順応性、柔軟性、敏感性・感受性の能力がありません。ですから抵抗は [正しい]道ではありません。
そこで、それがわかるには、智恵を必要とするのではないでしょうか。精神は強制により鈍らされるということがわかることが、すでに智恵の始まりなのではないでしょうか-修練は、たんに恐れをとおした行動の様式への順応であることが、わかることが、です。それが、私たち自身を修練することに示唆されていることです。 私たちは欲しいものを得ないことを恐れています。あなたが精神を修練するとき、あなたが自分の存在を修練するとき、何が起きるでしょうか。それはとても堅く [なる] -柔軟でなく、すばやくなく、適応・調節できなくなるのではないでしょうか。あなたは、自分たち自身を修練してきた人たちを、知らないでしょうか-そういう人たちがいるとして、です。結果は明白に腐敗の過程です。片づけられ、隠された内側の葛藤があるのです。しかし、それはあるし、燃えているのです。
こうして私たちは、修練、すなわち抵抗は、たんに習慣を造り出すだけであり、習慣は明白に智恵を産み出す力がありえないことが、わかるのです。習慣は決して [智恵を産み出す力がありえ]ない、実践は決して[智恵を産み出す力がありえ]ないのです。あなたは一日中ピアノを練習すること、自分の手で何かを作ることにより、指先がとても器用になるかもしれません。しかし、手に命令するには、智恵が要求されます。私たちは今、その智恵を探究しているのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
貪欲は最初は快楽であるがいずれは苦をもたらすものじゃ。
それを何かの修練によって除こうとすれば、それがまた貪欲を生み出すのじゃ。
その循環は止まる事が無いのじゃ。
ただありのままに見ることに拠ってのみ、それは止められるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 4
あなたは、幸せである、または悟っていると考える誰かを、見ます。彼は一定のことをします。あなたはその幸せが欲しいので、彼を模倣します。この模倣が修練と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは、他の一人が持つものを受け取るために、模倣します。私たちは幸せであるためにまねをします-彼がそう [幸せ] であると、あなたは思うのです。幸せは、修練をとおして見つかるでしょうか。一定の規則を実践することにより、一定の修練を、行いの様式を実践することにより、あなたはいったい自由でしょうか。確かに、発見のための自由がなければならない、のではないでしょうか。あなたは何かを発見しようと思うなら、内側で自由でなければなりません-それは明白です。あなたは、修練と呼ぶ特定のやり方で、自分の精神を形造ることにより、自由でしょうか。明白に、あなたは [自由では]ありません。あなたは、一定の結論に応じ、一定の行いの様式に応じて抵抗している、たんに反復的な機械であるだけです。自由は修練をとおして来ることができません。自由は、智恵をもって生じうるだけです。内側でも外側でも、どんな形の強制も、自由を否定するということがわかった瞬間、その智恵が目覚める、またはあなたはその智恵を持つのです。
修練としてではなく、最初に必要なものは、明白に自由です。美徳だけが、その自由を与えてくれるのです。貪欲は混乱です。怒りは混乱です。苦さ・辛さは混乱です。あなたはそれがわかるとき、明白にそれらから自由です。あなたはそれらに抵抗しません。あなたは、自由においてだけ発見できること、どんな形の強制も自由ではなく、ゆえに発見はないことが、わかるのです。美徳のもたらすことは、あなたに自由を与えることです。美徳のない・不徳な人は、混乱した人です。混乱の中で、あなたはどうして何かを発見できるでしょうか。どうしてできるでしょうか。こうして美徳は、修練の最終産物・成果ではありません。美徳が自由です。美徳のない、それ自体において真実でないどんな行動をとおしても、自由は来ることができません。私たちの困難は、私たちのほとんどがあまりに多く読んできたこと、私たちのほとんどがあまりに多くの修練に表面的に付いていったこと、です-毎朝一定の時間に起きて、一定の姿勢で座り、自分たちの精神を一定の仕方に抑えようとすること-知っているでしょう、実践、実践、修練を。なぜなら、あなたは、何年間かこれらのことをするなら、その終わりに・最後に神を得るだろうと、言われてきたからです。私はそれを露骨に・ぞんざいに述べるかもしれません。しかし、それが、私たちの考えの基本です。確かに、神はそれほどたやすく来るとはかぎらないでしょう。神はたんなる市場で取り引きできるものではありません-私がこれをすると、あなたがそれを私にくれる [といったものではありません]。
(´・(ェ)・`)つ
-
修練や規則、様式を繰り返すことはむしろ観察には不向きなのじゃ。
自らの心を観察して、新たな事実を発見することが大事なのじゃ。
修練等を繰り返すとそのような肝心な観察と発見による気づきを取り逃がしてしまうのじゃ。
観察し、発見することは記憶に拠らないものであるからのう。
記憶による修練はその妨げになるばかりなのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 5
私たちのほとんどは、外部の影響により、宗教的な教義、信念により、何かに至り着きたい、何かを獲得したいという自分たち自身の内側の要求により、あまりに条件づけられているために、修練という見地に立って考えることなく、私たちがこの問題について新たに考えることは、とても難しいのです。初めに私たちは、修練が含んでいる意味が[とても明確に見えなければなりません] -それが、私たちの願望をとおし、影響とその他すべてをとおして、どんなに精神を狭めてしまい・限定し、精神を制限し、精神を特定の行動に強制するか [が見えなければなりません]-条件づけられた精神は、その条件づけがたとえどんなに「美徳がある」としても、とうてい自由でありえないし、ゆえに真実を理解できないということが、とても明確に見えなければなりません 。神、真実、何であれ-名前は大事ではありません-は、自由があるときだけ、生じうるのです。そして恐れをとおして、肯定的でも否定的でも強制があるところ、自由はありません。あなたが目的を求めているなら、自由はありません。というのは、あなたはその目的に縛られて・つながれているからです。あなたは過去から自由であるかもしれません。しかし未来があなたを拘束します・離しません。それは自由ではありません。何かを-新しい観念、新しい感情・気持ち、新しい知覚-を発見できるのは、自由においてだけです。政治的であれ宗教的であれ、強制に基づいたどんな形の修練も、その自由を否定します。そして修練、すなわち目的を視野に入れた行動への順応が、縛りつけているから、精神は決して自由でありえないのです。それは、蓄音機(レコ-ド)のように、その [修練の] 溝の中でだけ機能できるのです。
こうして実践をとおし、習慣をとおし、様式の育成をとおして、精神は、それが視野に持つものを達成するだけです。ゆえに、それは自由ではないのです。ゆえに、それは測ることのできないものを悟れないのです。その過程全体に気づくこと-なぜあなたが世論に、一定の聖者たちに合わせて、常に自分自身を修練して・律しているのか-聖者のであれ隣人のであれ意見に順応するというやっかいなこと全体-それはすべて同じ事です- [に気づくこと]。 実践をとおし、甘受し、否定し、主張し、抑圧し、昇華するという微妙なやり方-すべてが様式への順応という意味を含んでいます-をとおした、この順応全体に気づくこと。これがすでに自由の始まりです。そこから美徳があるのです。美徳は確かに、特定の観念の育成ではありません。例えば、無欲は、もしも目的として追求されたなら、もはや美徳ではない、のではないでしょうか。すなわち、自分が無欲であることを意識しているなら、あなたは美徳があるでしょうか。それが、私たちが修練をとおしてやっていることです。
(´・(ェ)・`)つ
-
なぜ修練がいかんのかというと、それが視野を狭めるからだというのじゃ。
修練はその目的のものしか見えなくなるから、自由な視野を失い、記憶の中だけで生きることに成るのじゃ。
修練によって達成できるのは、予め記憶された境地のみだというのじゃ。
無欲であることさえ意識して行うならばもはや美徳でもないのじゃ。
そのような修練とその結果全体に気付くことが自由の始まりなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 6
修練、順応、実践は、何ものかであるという自意識に、強調を与えるだけです。精神は無欲を実践します。ゆえにそれは、無欲であるというそれ自身の意識から、自由ではないのです。ゆえにそれは、ほんとうは無欲ではないのです。それはたんに無欲と呼ぶ新しいマントを採用した・選び取っただけです。私たちはこのすべての総合過程がわかります-動機づけ、目的への願望、様式への順応、様式を追求するなかで安全でありたいという願望-このすべては、いつも精神自身の自己閉鎖的な過程の制限の中で、たんに知られたものから知られたものへ動くことです。このすべてがわかること、それに気づくことが、智恵の始まりです。そして智恵は、美徳があるのではなく、また美徳がないのでもありません。それは、美徳や不徳として様式にはめ込むことはできません。智恵は自由をもたらします-それは放蕩ではなく、無秩序ではありません。この智恵なしには、美徳はありえません。美徳は自由を与えてくれます。そして自由において、真実が生じるのです。あなたは過程全体を、完全な形で・まるごと総合的にわかるなら、そのとき葛藤がないことを見つけるでしょう。私たちが様々な形の修練、否定、適応に頼る・訴えるのは、私たちが葛藤 [の状態]にあるから、その葛藤から逃避したいから、です。何が葛藤の過程であるかがわかるとき、修練の問題はないのです。なぜなら、そのとき私たちは、葛藤の仕方を瞬間瞬間理解するからです。それは、大いなる鋭敏さ、いつのときも自分自身を見守る・見つめることを、必要とします。それが好奇心をそそる・不思議な部分は、いったん意図があれば、あなたがいつのときも見守っているわけではないとしても、記録する過程が内側で続いているということです-敏感さ、内的な敏感さが、いつのときも写真を撮り、そのためあなたが静かになった瞬間、内的なものがその写真を投影するでしょう。
ゆえに、それは修練の問題ではありません。敏感さは、強制をとおしては、決して生じえません。あなたは子どもに何かをするように強制し、隅に追い込むかもしれません。そして子どもは静かになるかもしれません。しかし内側で、子どもはたぶん波立ち・沸き立ち、窓の外を見、逃げようと何かをしているのです。それは、私たちもやはりしていることです。それで修練 [の問題] と、誰が正しく、誰が間違っているのかという問題は、あなた自身によってだけ、解決されうるのです。
またあなたは、私たちは成功したいから、間違う・うまくいかないことを恐れていることも、わかります。恐れが、修練されたいという願望の底にあります。しかし、知られないものは、修練の網に捕らえられません。反対に、知られないものは、あなたの精神の様式 [を持つの]ではなく、自由を持つ・有するにちがいありません。そういうわけで、精神の平静さが本質的 [・不可欠]です。精神が平静であることを意識するとき、それはもはや平静ではありません。精神が無欲で [あること] 、貪欲から自由であることを意識するとき、それは無欲という新しいロ-ブ(礼服)を身につけたそれ自身を認識します。しかし、それは平静さではありません。そういうわけで、制御する人と制御されるものというこの疑問においても、また問題を理解しなければならないのです。それらは分離した現象ではなくて、共通の現象です。制御するものと制御されるものは一つです。
(´・(ェ)・`)つ
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修練は結局自我を強化するだけというのじゃ。
実際に自分が座禅をしているからと増上慢になる者も多いのじゃ。
それは逃避でしかないのじゃ。
ぶざまな自己イメージからの逃避であるから、それで自己を理解することはありえないのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 7
質問
私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。
K
質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
あなたは今まで一人であろうとしたことがあるでしょうか。あなたはそうしようとするとき、それがどんなにとてつもなく難しいか、一人であるにはどんなにとてつもない智恵がなければならないかを、感じるでしょう。なぜなら、精神は(どうしても)私たちを一人にさせないからです。精神は落ち着かなくなります。それは逃避するのに忙しいのです。それで私たちは何をしているのでしょうか。私たちはこのとてつもない空虚を、知られたもので充たそうとしているのです。私たちは、どのように活動的であるか、どのように社交的であるかを発見します。私たちは、どのように研究するか、どのようにラジオをつけるかを、知っています。私たちは、自分たちの知らないものを、知っているもので充たしているのです。私たちは、その空っぽ [の空しさ] を、様々な種類の知識、関係やものごとで充たそうとします。そうではないでしょうか。それが私たちの過程です。それが私たちの存在です。そこであなたは、自分が何をしているかを悟るとき、それでもその空虚を充たせると思うでしょうか。あなたは、この孤独の空虚を充たすあらゆる手段を、試してきました。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。あなたは映画を試してみましたが、成功しませんでした。ゆえに自分のや書物を追いかけたり、社会的に・社交的にとても活動的になったりします。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。それともたんにそれを覆い隠しただけでしょうか。たんに覆い隠しただけなら、それはやはりあります。ゆえに戻ってくるでしょう。あなたはすっかり[全く]逃避することができるなら、アシュラム [保護施設・避難所] に閉じ込められるか、とてもとても鈍感になるか、です。それが世界で起きていることです。
この空っぽ [の空しさ] 、この空虚は、充たすことができるでしょうか。できないなら、私たちはそれから逃げ出し、それから逃避できるでしょうか。一つの逃避が無価値であることを経験し、わかったなら、ゆえに、他のすべての逃避が無価値ではないでしょうか。空っぽ [の空しさ] を、これで充たすかあれで充たすかどうかは、大事なことではありません。いわゆる瞑想もまた逃避です。あなたが逃避の仕方を変えることは、あまり大事なことではありません。
(´・(ェ)・`)つ
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孤独からの逃避として、文明が起こったというのじゃ。
全ての芸術とか宗教までも逃避だというのじゃ。
それらは全て無価値であるのじゃ。
何も変容をもたらさず、老病死の苦からも逃れられないからなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 8
ではあなたは、この孤独についてどうすべきかを、どのようにして見つけるのでしょう
か。あなたは逃避するのを止めてしまったとき、どうすべきかを見つけられるだけです。そうではないでしょうか。あなたが進んであるがままと向き合おうとするとき―それは、あなたがラジオをつけてはならないという意味です。それは、あなたが文明に背を向けなければならないという意味です―そのとき、その孤独は終わります。なぜなら、それは完全に変容しているからです。それはもはや孤独ではありません。あなたがあるがままを理解するなら、そのとき、あるがままが真実[のもの]です。精神は、あるがままを見ることを連続的に避け、逃避し、拒んでいるから、それ自身の障害を造り出すのです。私たちは、見ることを妨げているほど、あまりに多くの障害を持っているから、あるがままを理解しないのです。ゆえに真実から逃げているのです。これらすべての障害は、あるがままを見ない[ようにする]ために精神によって造り出されてきたのです。あるがままを見るには、たいへんな(行動の)能力と行動への気づきを必要とするだけでなく、またあなたが築き上げてきたあらゆるものごと―あなたの銀行預金、あなたの名前、文明と呼ばれるあらゆるものごと-に背を向ける、という意味です。あるがままを見るとき、どのように孤独が変容するかが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
-
あるがままを見ることができれば、既にもう変容しているというのじゃ。
気付けば変容は直ぐに起きるからのう。
その時には逃避でしかなかった文明はもはや無力なのじゃ。
そのようにして孤独も滅することが出来るのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答六 孤独[寂しさ]について 1
質問
私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。
K
質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
(´・(ェ)・`)つ
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二日前に見た気がするのう。
疲れているのかもしれん。
或いは孤独に囚われがあるのかもしれん。
心を見るのじゃ。
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>>279
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。
『五 修練について』は >>272まででした。
>>274『六 孤独[寂しさ]について 1』
>>276『六 孤独[寂しさ]について 2』
>>278 ご指摘どおり重複でありました。
(´・(ェ)・`)
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 1
質問
苦痛と苦しみの意義は何でしょうか。
K
あなたが苦しむとき、苦痛があるとき、その意義は何でしょうか。身体的苦痛には一つの意義がありますが、たぶん私たちのいうのは、心理的苦痛と苦しみという意味です―それは違った水準で、全く違った意義があるのです。苦しみの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦しみの意義を見つけたいのでしょうか。それには意義がないということではありません―私たちは見出そうとしているのです。しかし、なぜあなたはそれを見つけたいのでしょうか。、自分がなぜ苦しむのかを、なぜあなたは見つけたいのでしょうか。あなたは「なぜ私は苦しむのか」というその疑問を自分自身に出して、苦しみの原因を探しているとき、苦しみから逃避していないでしょうか。私は苦しみの意義を求めるとき、それを避け、回避し、それから逃げ出していないでしょうか。事実は私が苦しんでいるのです。しかしそれを操作[処置]するために精神を持ち込んで「では、なぜ」と言った瞬間、すでに苦しみの強烈さを薄めてしまったのです。言い換えれば、私たちは苦しみを薄め、軽減し、片づけ、説明してしまいたいのです。確かにそれは、苦しみについての理解をもたらしません。それから逃げ出したいというその願望から自由であるなら、そのとき私は、何が苦しみの内容[中身]であるかを、理解しはじめるのです。
苦しみとは何でしょうか。動揺なのではないでしょうか。違った水準での [動揺] ―身体的水準での、そして潜在意識の違った水準での [動揺]、です 。それは、私が好きでない鋭い形の動揺です。私の息子が死にました。私は彼のまわりに自分の希望のすべてを築いてきました―または自分の娘や夫や何でもあなたの望むもののまわりに。私は彼にそうあって欲しいと思うものすべてとともに彼を祭って・秘蔵してきました。そして彼を連れ合いとしてきました―ご存知でしょう、その種のことすべてを。突然、彼は逝ってしまいました。それで動揺があるのではないでしょうか。その動揺を、私は苦しみと呼ぶのです。
私はその苦しみを好きでないなら、そのとき「なぜ私は苦しんでいるのか」、「私は彼をたいへん愛していた」、「彼はこうだった」、「私はそれを持っていた」と言います。私たちのほとんどがするように、私は言葉に、レッテルに、信念に逃避しようとします。それらは麻酔剤・麻薬として作用するのです。私がそうしないなら、何が起きるでしょうか。私は単に苦しみに気づいています。それを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。そのとき私はその動きに付いていけるのではないでしょうか。そのときそれが意味するものの内容・中身全体に付いていけるのです―何かを理解しようとする、という意味において「私は付いていく」のです。
(´・(ェ)・`)つ
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苦しみは愛する者を失ったりすると起こるというのじゃ。
愛別離苦じゃな。
その苦から信念への逃避も起こると言うのじゃ。
非難も正当化もせずにそれを見守る時、それは消えるというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 2
それはどういう意味でしょうか。苦しんでいるのは何でしょうか。なぜ苦しみがあるのかではなく、何が苦しみの原因なのかではなく、何が現実に起きているのでしょうか。あなたにその違いがわかるかどうか、私は知りません。そのとき私は単に苦しみに気づいています―私から離れたものとして[の苦しみに気づくの]ではなく、苦しみを見張っている観察者として [の私が気づくの] ではなく-それは私の一部です。すなわち私の全体が苦しんでいるのです。そのとき私はその動きに付いていく [ことができ] 、それがどこにつながるのかを、見ることができます。確かに、私がそうするなら、それは [扉を] 開くのではないでしょうか。そのとき私は、「私」を強調していたことがわかります-自分の愛している人物を [強調していたの] ではありません。彼はただ私を、私の悲惨から、孤独から、不幸から覆い隠す・かばう作用をしただけです。私は何ものでもないので、彼にそうあって欲しいと願ったのです。それは消えてしまいました。私は取り残[置き去りに]されます。私は途方に暮れます・路頭に迷います。私は孤独です。彼なしには、私は無です。それで私は泣きます。それは、彼が逝ってしまったということではなく、私が取り残されたということです。私は一人です。その地点に至る[そこまで来る]ことは、とても難しいのではないでしょうか。それを本当に認識して、たんに、「私は一人だ。どのようにして、その孤独を取り除くべきなのか」と言うだけではなく―それももう一つの形の逃避です-それを意識すること、それと共にとどまること、その動きを見ることは、難しいのです。私はこれを一つの実例・一例として取り上げているだけです。徐々に・次第に、それが展開し、[扉を]開くのを許す・それが開くのにまかせるなら、私は、自分が途方に暮れている・路頭に迷っているから苦しんでいるということが、わかるのです。私は、何か進んで見ようとしないものに自分の注意を向けるよう、呼びかけられているのです―何か見ること、理解することに気がすすまないものが、私に押し付けられ・強いられているのです。私が逃避するのを助けてくれる無数の人たちがいます―信念、教義、希望、幻想を持った、何千ものいわゆる宗教的な人たちです。「それはです。それは神の意志です」―ご存知でしょう、すべてが私に抜け出し方を与えてくれるのです。しかし、それを私から片づけるのではなく、制限し・境界線を引いたり否定したりしようとするのではなく、私がそれと共にとどまることができるなら、そのとき何が起きるでしょうか。精神がこうして苦しみの動きに付いてゆきつつあるとき、私の精神の状態は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
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単に苦しみに気付いていることこそ大事だというのじゃ。
己の全体として苦しんでいると観る時、その心の働きに付いていき、どのように起こるのか見ることができるというのじゃ。
その時、苦からの逃避があったことをも気付くのじゃ。
苦だけではなく、苦からの逃避があったと全体に気付いた時に観察は完全になるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 3
苦しみはたんに言葉でしょうか、それとも現実でしょうか。それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は今や意味がありません。それでたんに強烈な苦痛の感情だけがあるのです。何に関して[の苦痛]でしょうか。イメ-ジに、経験に、何かあなたが持っていたり持っていなかったりするものに関して [の苦痛]です 。あなたはそれを持っているなら、楽しみと呼びます。持っていないなら、それは苦痛です。ゆえに苦痛、悲しみは、何かとの関係においてあるのです。その何かは、たんに言語作用・言語表現でしょうか、それとも現実でしょうか。すなわち悲しみが存在しているとき、それは、何かとの関係においてだけ、存在しているのです。それはそれ自体では存在できません-ちょうど恐れがそれ自体では [存在でき]なくて 、何かとの関係においてだけ存在できるように-個人との、出来事との、感情との[関係において]。今やあなたは苦しみに充分に気づいています。その苦しみは、あなたから離れているでしょうか。ゆえにあなたは、たんに苦しみを知覚する観察者でしょうか、それともその苦しみがあなたでしょうか。わわ
苦しんでいる観察者がいないとき、苦しみはあなたと異なっているのでしょうか。あなたが苦しみである、のではないでしょうか。あなたは苦痛から離れていません―あなたが苦痛です。何が起きるでしょうか。レッテル貼りはありません。それに名前を付けること [はありません] 、よって払いのける・はねのけることはありません―あなたはたんにその苦痛、その感情、その苦悶の感覚です。あなたがそれであるとき、何が起きるでしょうか。あなたがそれを名づけないとき、それに関して恐れがないとき、中心はそれと関係しているでしょうか。中心がそれと関係しているなら、そのとき、それ [中心] はそれ[苦しみ]を恐れています。そのとき、それは行動して、それ[苦しみ]について何かをしなければなりません。しかし、中心がそれ[苦しみ]であるなら、そのときあなたはどうするでしょうか。なすべきことは何もないのではないでしょうか。あなたがそれであって、それを受け入れず、それにレッテルを貼らず、脇へのけていないなら-あなたがそのものであるなら、何が起きるでしょうか。そのとき、あなたは苦しい・苦しんでいると言うでしょうか。確かに、根本的変容が起きたのです。そのときもはや「私は苦しい・苦しんでいる」 [ということ] はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心が苦しむのです。なぜなら私たちは、中心が何であるかを決して検討したことがないからです。私たちはただ言葉から言葉へ、反応から反応へと生きる・生きていくだけです。「苦しむそのもの[苦しんでいるそのもの]が何であるのか見てみよう」とは、私たちは決して言いません。強制により、修練によっては、見ることはできません。興味を持って、自発的な了解を持って見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼ばれるもの、私たちが避けるもの、修練、すべてが消えてしまったことが、わかるでしょう。私が自分の外側としてのものごとと関係を持たないかぎり、問題はないのです。私が自分の外側のそれと関係を確立した瞬間、問題があるのです。私が苦しみを何か外側のものとして扱う限り―私は兄弟を亡くしたから、お金がないから、あれこれのために、苦しむのです―それとの関係を確立します。その関係は虚構[架空]です。しかし私がそのものであるなら、事実を見るなら、そのとき、ものごと全体が変容するのです。そのすべてが違った意味を持ちます。そのとき充分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られるものは理解され、解消します。そのため恐れはないし、ゆえに「悲しみ」という言葉は存在していないのです。
(´・(ェ)・`)
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苦しみは言葉ではないというのじゃ。
苦しみは自分そのものであるというのじゃ。
自己同一化しているのじゃ。
それが見られたならば苦しみは即座に停止するのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 1
質問
気づきと内省の間の違いは何でしょうか。そして気づきにおいて、気づくのは誰でしょうか。
K
初めに、私たちのいう内省とはどういう意味なのかを、検討しましょう。私たちのいう内省とは、自分自身の中を見る、自分自身を検討する、という意味です。なぜ自分自身を検討するのでしょうか。改善する・向上させるため、変えるため、修正するため、です。あなたは何ものかになるために内省します。そうでないと内省に耽らないでしょう。もしも修正したい、変えたい、あるがままのあなたより他の何ものかになりたいという願望がなかったなら、あなたは自分自身を検討しないでしょう。それが、内省のための明白な理由です。私は怒ります。すると怒りを取り除いたり、怒りを修正したり変えるために、私は自分自身を内省し、検討します。内省-それは、自己の応答、反応を修正したり変えたいという願望です-があるところ、いつも視野に目的があるのです。その目的が達成されないとき、不機嫌さ、憂鬱さがあるのです。ゆえに内省は必ず憂鬱さを伴います。あなたは内省するとき、自分自身を変えるために自分自身の中を見るとき、いつも憂鬱の波があるということに、気づいたことがあるかどうか、私は知りません。あなたが [それと] 戦わなければならない不機嫌な波が、いつもあるのです。あなたはその気分などに打ち勝つために、再び自分自身を検討しなければならないのです。内省は [そこに]解放のない過程です。なぜならそれは、あるがままを何かそうではないものに変容させる過程であるからです。 私たちが内省するとき、その特定の行動に耽るとき、明白に、それがまさに起きていることです。その行動にはいつも蓄積過程 [があり] 、それを変えるために何かを検討している「私」があり、そのためいつも二元的葛藤 [があり、]ゆえに挫折の過程があるのです。決して解放はありません。そしてその挫折を悟ると、憂鬱さがあるのです。
気づきは全く異なっています。気づきは非難なき観察です。気づきは理解をもたらします。なぜなら、非難も同一化もなくて、静寂な観察があるからです。私は何かを理解したいなら、観察しなければなりません。批判してはなりません。非難してはなりません。楽しみとしてそれを追求したり、楽しみでないとしてそれを避けたりしてはなりません。たんに事実についての静寂な観察があるだけでなければなりません。視野に目的がなくて、生じるままにあらゆるものごとへの気づきがあります。非難、同一化、正当化があるとき、その観察と、その観察の理解は止みます。内省は自己改善です。ゆえに内省は自己中心性です。気づきは自己改善ではありません。反対にそれは、そのすべての奇妙な性向、記憶、要求、追求を持った自己の、「私」の終わりです。内省には、同一化と非難があります。気づきには、非難も同一化もありません。ゆえに自己改善はありません。二つの間には広大な違いがあります。
(´・(ェ)・`)つ
-
内省と気付きは違うものというのじゃ。
内省にはまだ目的があり、自己同一化や分別も在るのじゃ。
気付きは目的は無く、自己同一化がなく分別もないと言うのじゃ。
静寂な観察に拠って気付きは起こるのじゃ。
それは自己の終わりをもたらすものというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 2
自分自身を改善したいと思う人は、決して気づけません。なぜなら改善は、非難と結果の達成という意味を含んでいるからです。ところが気づきには、非難のない、否定も受け入れもない観察があります。その気づきは外側のものごとから始まります-気づくこと、対象と、自然と接触することです。初めに、自分のまわりのものごとへの気づきがあります-対象に、自然に、それから人々に敏感であることです-それは関係という意味です。それから観念への気づきがあります。この気づき-ものごとに、自然に、人々に、観念に敏感であることは、分離した過程から作り上げられているのではなく、一つの単一の・統一された過程です。それはあらゆるものごとの [観察]、自分自身の中に生じるままのあらゆる思考、感情、行動の常なる観察です。気づきは非難的ではないので、蓄積がありません。あなたは規範を持つときだけ、非難するのです-それは蓄積が [ある]、ゆえに自己の改善がある、という意味です。気づきは、人々との、観念との、ものごととの関係における自己、「私」の活動を、理解することです。その気づきは瞬間瞬間です。ゆえにそれは実践できません。あなたが一つの事を実践するとき、それは習慣になります。気づきは習慣ではありません。習慣的である精神は鈍感・無感覚です。特定の行動の溝・轍の中で機能している精神は、鈍く、柔軟でありません。ところが気づきは常なる柔軟性、鋭敏さを要求します。これは難しくありません。あなたが何かに興味があるとき、あなたが自分の子供、妻、植物・草木、木々、鳥たちを見つめることに興味があるとき、それが、あなたが現実にすることです。あなたは非難なく、同一化なく観察します。ゆえにその観察には、完全な親交があります。観察者と観察されるものは、完全に親交 [の状態]にあります。これは、あなたが深く、奥深く何かに興味があるとき、現実に起きるのです。
こうして気づきと、内省の自己拡大的な改善の間には、広大な違いがあるのです。内省は挫折に、さらなるもっと大きな葛藤につながります。ところが気づきは、自己の行動からの解放の過程です。それは、あなたの日常の動きに、あなたの思考に、あなたの行動に気づくこと、そして他の人に気づくこと、彼を観察することです。あなたは誰かを愛しているとき、何かに深く興味があるときだけ、それができるのです。私が自分自身を、自分の存在全体を、たった一つか二つの層ではなく自分自身の内容全体を知りたいとき、そのとき明白に、非難はないにちがいありません・あってはなりません。そのとき私は、あらゆる思考に、あらゆる感情に、気分すべてに、抑圧すべてに対して [扉を] 開いていなければなりません。そしてますます拡大する気づきがあるにつれて、隠れた思考の動き、動機、追求すべてからのますます大きな自由があるのです。気づきは自由です。それは自由をもたらします。それは自由を生み出します。ところが内省は葛藤を、自己閉鎖の過程を育成します。ゆえに、それにはいつも挫折と恐れがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
内省は自分を改善しようという意志があるから気づきはないのじゃ。
分別があり、観念による目的達成の遊戯になるからなのじゃ。
気づきには否定も肯定も無い観察が在るのじゃ。
そこに分別は無く、観念の遊戯も無いのじゃ。
それでこそ真の変容が在るのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 3
質問者はまた、誰が気づくのかを知りたいのです。あなたがどんな種類のでも奥深い経験をするとき、何が起きているでしょうか。そういう経験があるとき、あなたは自分が経験していることに気づいているでしょうか。あなたは怒っているとき、怒りや嫉妬や喜びのほんの瞬間に、自分が喜んでいる・うれしいことや怒っていることに気づいているでしょうか。経験者と経験されるものがあるのは、経験が済んでいるときだけです。そのとき、経験者が経験されるものを、経験の対象を観察するのです。経験の瞬間には、観察者も観察されるものもどちらもないのです。経験することだけがあるのです。私たちのほとんどは経験していません。私たちはいつも経験する状態の外側にいるのです。ゆえに誰が観察者なのか、気づいているのは誰なのかについてのこの疑問を、訊ねるのです。確かにそういう疑問は間違った疑問なのではないでしょうか。経験している・経験があった瞬間、気づいている人物も、彼がそれに気づいている対象もどちらもないのです。観察者も観察されるものもどちらもなくて、ただ経験している状態だけがあるのです。私たちのほとんどは、経験する状態に生きることは極めて難しいことを、見つけます。なぜなら、それはとてつもない柔軟性、すばやさ、高度の敏感さを要求するからです。そして私たちが結果を追求しているとき、成功したいとき、目的を視野に持つとき、計算しているとき-そのすべてが挫折をもたらします-それは否定されるのです。何も要求せず、目的を求めていなくて、結果と共にそのすべての含蓄を捜し出していない人、そういう人は常に経験する状態にあるのです。そのときあらゆるものが動きを、意味を持ちます。何も古くありません。何も焼け焦げていません。何も反復的ではありません。なぜなら、あるがままは決して古くないからです。挑戦はいつも新しいのです。古いのは、挑戦に対する応答だけです。古いものはさらなる残り滓を造り出します-それが記憶、観察者です-彼は観察されるものから、挑戦から、経験から、自分自身を分離するのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
気付くという経験があれば、そこには経験する者も経験されるものもないというのじゃ。
それらは本来無いものであるが、記憶に拠って作り出されるのじゃ。
結果を追求しているとそのように観念に囚われてしまうのじゃ。
何も求めず、結果も探し出さない者が気づきという経験もできるというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 4
あなたはとても単純に、とてもたやすく、自分自身でこれを実験できるのです。今度あなたが怒ったり、嫉妬したり、欲張ったり、暴力的であったり-何であろうと-するとき、自分自身を見守ってください。その状態には、「あなた」はいません。その存在の状態だけがあるのです。瞬間、一瞬後、あなたはそれを用語づけ、名づけ、それを嫉妬、怒り、貪欲と呼ぶのです。それであなたは即時に、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものを造り出したのです。経験者と経験されるものがあるとき、そのとき経験者は経験を修正しよう、変えよう、それにまつわるものごとを覚えていよう、などとするのです。ゆえに自分自身と経験されるものの間の分割を維持するのです。あなたはその感情に名づけないなら-それは、あなたが結果を求めていない、非難していない、たんに静かに感情に気づいている、という意味です-そのとき、感情の、経験のその状態には、観察者がなく、観察されるものがないということが、わかるでしょう。なぜなら、観察者と観察されるものは共通の現象であって、そのため経験することだけがあるからです。
ゆえに、内省と気づきはまったく異なっています。内省は挫折に、さらなる葛藤につながります。というのは、それには変化への願望という意味が含まれているし、変化はたんに修正された継続であるからです。気づきは、 [そこに]非難のない、正当化や同一化のない状態です。ゆえに理解があります。その受動的で鋭敏な気づきの状態には、経験者も経験されるものもどちらもないのです。
内省は一つの形の自己改善、自己拡大ですが、それは決して真理につながりえません。なぜなら、それはいつも自己閉鎖の過程であるからです。ところが、気づきは、 [そこに]真理が-あるがままについての真理、日常の存在についての単純な真理が-生じうる状態です。私たちが遠くへ行けるのは、私たちが日常の存在の真理を理解するときだけです。あなたは遠くへ行くには近くから始めなければなりません。しかし私たちのほとんどは飛びたい、近くにあるものを理解せずに、遠くから始めたいのです。私たちは近いものを理解するにつれて、近いものと遠いものの間に距離がないのを見つけるでしょう。距離はありません-始まり・初めと終わりは一つです。
(´・(ェ)・`)つ
-
気付くことは簡単に実験できるというのじゃ。
怒ったりすればそこに怒りと名づけるものがおこり、観察者と観察されるものが作り出されるというのじゃ。
それに名づけることがなければ、観察者も観察も無いとわかるのじゃ。
それが気づきであり、内省とは違うものなのじや。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 1
質問
あなたはしばしば関係について話しをしてきました。それはあなたにとってどういう意味でしょうか。
K
まず第一に、孤立しているようなものはありません。ある [生きる] ことは関係することです。関係なしに存在はありません。私たちのいう関係とはどういう意味でしょうか。それは、二人の人の間、あなたと私の間の互いに連結・連動した挑戦と応答です―あなたが投げかけ[投げつけ]、私が受け取ったり [それに] 応答する挑戦。また私があなたに投げかける挑戦です。二人の人の関係が社会を造り出します。社会はあなたと私から独立していません。大衆・全体はそれ自体で分離した[別個の]実体ではなく、あなたと私が互いの関係において大衆、集団、社会を造り出すのです。関係は、二人の人の間の相互連絡[関係]への気づきです。その関係は一般的に何に基づいているでしょうか。それはいわゆる相互依存、相互援助に基づいていないでしょうか。すくなくとも私たちは、それは相互助力、相互救助などであると言いますが、しかし現実に、言葉から離れ、私たちが互いに対して投げ付け合う情動的な幕から離れて、それは何に基づいているのでしょうか。相互満足[gratificationに基づいているの] ではないでしょうか。私はあなたを喜ばせないなら、あなたは私を追い払い[取り除き]ます。喜ばせるなら、あなたは私を自分の妻として、隣人として、友人として受け入れるのです。それは事実です。
あなたが家族と呼ぶのは何でしょか。明白にそれは親密さの、親しい交わりの関係です。あなたの家族に、あなたの妻との、夫との関係に、親しい交わりがあるでしょうか。確かにそれが、私たちが関係によって意味するものなのではないでしょうか。関係とは、恐れのない親しい交わり、互いに理解し合い、直接伝え合う自由という意味です。明白に関係とはそういう意味です―他の人と親しい交わり [の状態] にあること[親しく交わっていること]、です。あなたはそうしているでしょうか。自分の妻と親しく交わっているでしょうか。おそらくあなたは身体的[肉体的]にはそうしているでしょうが、それは関係ではありません。あなたとあなたの妻は孤立の壁の反対側で生きているのではないでしょうか。あなたは自分自身の追求、自分の野心を持っているし、彼女は彼女のものを持っているのです。あなたは壁の裏で生きていて、時折[時々]上越しに[向こうを]見ます―それをあなたは関係と呼びます。それは事実なのではないでしょうか。あなたはそれを拡大[拡張」し、和らげ、新しい一式の言葉を導入して、それを叙述するかもしれませんが、それが事実です―あなたと他の人は孤立して生きているということ、そして孤立の生を、関係と呼ぶのだということが。
(´・(ェ)・`)つ
-
全てが一つである真理の上では孤立した個我とか個人は在り得ないのじゃ。
全てが繋がり、関係して在るのじゃ。
しかし、観念として個我があるとか思えば孤立も在るのじゃ。
互いに理解できない個我と個人の集まりが社会を造るのじや。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 2
二人の人の間に本当の関係があるなら―それは彼らの間に親しい交わりがあるという意味です―そのとき含まれる意味は漠大です。そのとき孤立はありません。愛があるし、責任や義務はありません。義務と責任について話をするのは、自分たちの壁の裏で孤立している人たちです。愛している人は責任について話をしません―彼は愛しています。ゆえに彼は自分の喜び、悲しみ、お金を、他の人と分かち合います。あなたの家族はそんなふうでしょうか。自分の妻と、子供たちと直接の親しい交わりがあるでしょうか。明白にないのです。ゆえに家族はたんにあなたの名前や伝統を存続させるため[ の口実]、あなたが性的に、または心理的に欲しいものを与えてくれるための口実です。ですから家族は自己永続化 [の手段] 、自分の名前を続けていく・維持する手段になるのです。それは一種の不死、一種の永久性です。家族はまた喜び[満足」の手段としても使われます。私は事業の世界で、外側の政治的、社会的世界で、他の人たちを非情に[無慈悲に]搾取・利用します。そして家庭では親切で気前よくしようとします。なんと不合理でしょう!あるいは世間は私にはひどすぎる[耐えられない・きつすぎる]ので、私は平和が欲しいと思い、家に帰ります。私は世間で苦しんでいるので、家に帰って慰めを見つけようとします。それで私は関係を満足の手段として使うのです―それは、自分の関係によって動揺させられたくないという意味です。
こうして関係は、相互の満足、喜びがあるところに求められるのです。あなたはその満足を見つけないとき、関係を変えるのです。「つまり]離婚するか、一緒にとどまるかしますが、どこか他で喜びを求めます。そうでないとあなたは、求めるもの―すなわち満足、喜び、自己保護と慰めの感覚―を見つけるまで、一つの関係からもう一つへ動きます。結局それが世間での私たちの関係です。それは事実[において]そうなのです。安全がありうるところ、個人としてあなたが安全の状態で、喜びの状態で、無知の状態で生きられるところに、関係は求められるのです―そのすべてはいつも葛藤・抗争を造り出すのではないでしょうか。あなたが私を満足させてくれないで、私が満足を求めているなら、当然葛藤・抗争があるにちがいありません。なぜなら私たちは共に互いのなかに安全を求めているからです。その安全が不確実になるとき、あなたは嫉妬深くなります。暴力的になります。所有欲が深くなる、などです。ですから関係は必ず所有、非難 [という結果に] 、安全に対する、慰めに対する、満足に対する自己主張的要求という結果になるのです。そこには当然愛はありません。
(´・(ェ)・`)つ
-
本当の関係には愛があり、孤立や責任や義務は無いというのじゃ。
全てを分かち合うというのじゃ。
そうでなければ関係は欲求を満たす手段になるというのじゃ。
満たされなければ別れるばかりなのじゃ。
そこに愛は無いのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 3
私たちは愛について話しをします。責任、義務について話しをします。しかし本当は愛はないのです。関係は喜びに基づいています―その影響[結果]は、現在の文明において見られます。私たちの妻、子供たち、隣人、友人の扱い方は、私たちの関係には本当は全く愛がないという表示です。それはたんに喜びへの相互探求です。そうであるので、そのとき[では]関係の目的は何でしょうか。その究極の意義は何でしょうか。あなたは他の人たちとの関係において自分自身を観察するなら、関係は自己開示の過程であるということを見つけないでしょうか。私とあなたとの接触は、私が気づいているなら、関係において私自身の反応を意識するに充分鋭敏であるなら、私自身の有り様・存在の状態を開示しないでしょうか。関係は本当は自己開示の過程、すなわち自己認識の[自己を知る]過程です。その開示には、多くの楽しくないものごと、不穏な・平静を乱す、不愉快な[心地よくない]思考、活動があります。私は自分の発見するものが好きでないから、楽しくない関係から楽しい関係へ逃げ出します。ゆえに関係は、私たちがたんに相互の喜びを求めているとき、ほとんど意義がないのですが、しかしそれが自己開示と自己認識の手段であるとき、とてつもなく意義深くなるのです。
結局、愛には関係[というもの]がないのではないでしょうか。関係[というもの]があるのは、あなたが何かを愛していて、自分の愛の見返りを期待するときだけです。あなたが愛しているとき、すなわちあなたが何かにすっかり、全体的に身を捧げ[身を任せ]るとき、そのとき関係[というもの]はないのです。
あなたがほんとうに愛しているなら、そういう愛があるなら、そのときそれはすばらしい[驚くべき・驚嘆すべき]ことです。そういう愛には摩擦はありません。一方と他方[自分と他人]はありません。完全な統一[和合・融和]があります。それは統合の状態、完全な存在です。完全な愛、完全な親しい交わりがあるとき、そういう瞬間、そういう希な、幸せな、喜びに満ちた瞬間があるのです。一般に起きることは、愛が重要なことではなく、他方、愛の対象が重要になるということです。愛が向けられる人が重要になるのであって、愛自体ではないのです。そのとき生物[学]的、言葉上の 様々な理由のために 、または喜び、慰めへの願望などのために、愛の対象が重要になり、愛は後退するのです。そのとき所有、嫉妬、要求が葛藤・抗争を造り出し、愛はさらに[ますます]後退するのです。それが後退すればするほど、関係の問題はますますその意義、その価値と意味を失うのです。ゆえに愛は、了解するのがもっとも難しいものごとの一つです。それは知的な切迫[衝動・推進・強制]をとおして訪れません。様々な方法、手段、修練によって手作りできません。それは自己の諸活動が止んでしまったときの存在の状態[有り様]です。しかしあなたがたんにそれらを抑圧したり、避けたり、修練したりするなら、それらは止まないでしょう。あなたは自己の諸活動を意識の異なる層すべてにおいて理解しなければなりません。私たちはほんとうに愛している [瞬間] 、どんな思考もなく、どんな動機もない瞬間があるのです。しかしそうした瞬間はとても希です。それらが希であるから、私たちは記憶においてそれらにすがり付くのです。こうして生きている真実と日常の存在の行動の間に障壁を造り出すのです。
関係を理解するためには、まず第一にあるがままを[理解する]、私たちの生において現実に起きていることを、異なった微妙な形すべてにおいて理解することが重要です―そしてまた関係が現実に何を意味するのかをも。関係は自己開示です。私たちが慰めのなかに隠れるのは、自分自身に開示されたくないからです。そのとき関係はそのとてつもない深み、意義、美しさを失うのです。愛があるときだけ、真の関係がありうるのです。しかし愛は喜びの探求ではありません。愛は、自己忘却があるとき、完全な親しい交わりがあるときだけ、存在しています―一人や二人との間の交わりではなく、最高のものとの交わりです。そしてそれは、自己が忘れられるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ
-
愛について語る関係には本当は愛が無いというのじゃ。
ただ喜びを求めているだけというのじゃ。
本当の愛があるならばそこにはもはや自他も無いというのじゃ。
一つになっているというのじゃ。・
自己が忘れられる時、そのような真の愛があると言うのじゃ。
忘我の境地なのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 1
質問
どのようにして私たちは、世界の現在の政治的混沌と危機を、解決できるのでしょうか。差し迫った・切迫した戦争を阻止するために、何か個人ができることがあるでしょうか。
K
戦争は、私たちの日常の生の壮大で血なまぐさい投影なのではないでしょうか。戦争は、たんに私たちの内面の状態の外面的表現、私たちの日常の行動の拡大・引き伸ばしです。それはもっと壮大で、もっと血なまぐさく、もっと破壊的です。しかしそれは、私たち個人の活動の集団的・集合的結果です。ゆえに、あなたと私は戦争に [応じる能力・]責任があるのです。私たちはそれを阻止するために、何ができるでしょうか。明白に、常に差し迫っている戦争は、あなたと私により阻止できません。なぜなら、それはすでに動き [の状態]にあるからです。現在は主に心理的な水準であるけれども、それはすでに起きているのです。それはすでに動き [の状態]にあるので、阻止できないのです-論点が多すぎ、大きすぎるし、すでに遂行され・犯されているのです。しかしあなたと私は、家が燃えて・火事になっていることがわかると、その火事の原因を理解できるし、それから離れて・そこから立ち去って、燃えやすくない・非可燃性である [材料・素材] 、他の戦争を産み出さないであろう違った材料で、新しい場所に建てられるのです。それが、私たちにできるすべてです。あなたと私は、何が戦争を造り出すのかがわかることができます。そして私たちは、戦争を阻止することに興味があるなら、そのとき私たち自身-戦争の原因であるもの-を、変容させ始めることができるのです。
一人のアメリカの婦人が、戦争中の二年前に、私に会いに来ました。彼女はイタリアで自分の息子を亡くしたこと、救いたいと思うもう一人の十六歳の息子がいると、言いました。それで私たちは、その事をよく話し合いました。彼女の息子を救うには、彼女がアメリカ人であることを止めなければならないと、私は彼女に提案しました。彼女が貪欲であるのを止め、富を積み上げるのを、力、支配を求めるのを止めて、道徳的に単純で [なければならない] -たんに服や外面的なものごとにおいて単純なのではなく、彼女の思考と感情において、彼女の関係において単純でなければならない、と。彼女は言いました。「それは無理です・ひどすぎます。あなたはあまりに無理を求めて・要求しています。私にはそれはできません。なぜなら、私が改めるには、境遇が強力すぎるからです」と。ゆえに彼女は、自分の息子の破滅に対して [応ずる能力・]責任があるのです。
境遇は私たちにより制御できるのです。なぜなら、私たちが境遇を造り出したからです。社会は、あなたの [関係] と私の [関係]をひっくるめた・合わせた、関係の産物です。私たちが自分たちの関係において変化するなら、社会は変化するのです。外面的社会の変容のために、たんに法制度に、強制に頼ることは、内面的に腐敗・堕落したままでいるかぎり、内面的に力、地位、支配を求め続けるかぎり、たとえどんなに気をつけて科学的に築かれても、外面的なものを破壊することになります。内面にあるものが、いつも外面的なものに打ち勝っているのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
今起ころうとする戦争をとめることは出来ないというのじゃ。
それは既に一人の人間の力では止められないのじゃ。
戦争の原因である自分自身を変容することはできるのじゃ。
どこかの国の人間である限り、戦争の原因になるのじゃ。
権利だけを享受して義務を拒否することはできないからのう。
一人一人の貪欲に拠って戦争も起こるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 2
宗教的、政治的、経済的な戦争を引き起こす原因は何でしょうか。明白に、国家 [・民族]主義であれイデオロギ-であれ特定の教義であれ 、[それらへの]信念です。もしも私たちが自分たちの間に、信念ではなく、善意、愛、考慮・配慮を持っていたなら、そのとき戦争はないでしょう。しかし私たちは信念、観念、教義で養われています。ゆえに不満を生み育てるのです。現在の危機は例外的性質のものです。人間としての私たちは、常なる葛藤と連続的な戦争の道-それらは、私たちの日常の行動の結果です-を追求するか、それとも戦争の原因がわかって、それらに背を向けるか、どちらかにちがいありません・しなければなりません。
明白に、戦争を引き起こす原因になるものは、力、地位、威信、金への欲望です-また国家 [・民族]主義と呼ばれる病気、国旗の崇拝。そして組織化された宗教という病気、教義の崇拝-これらすべてが戦争の原因です。個人としてのあなたが、組織化された宗教のどれかに属しているなら、力に対して貪欲であるなら、妬んでいるなら、あなたは必ず、破壊という結果になるであろう社会を産み出します。それでそれもまた、指導者にではなく、あなたにかかっているのです-いわゆる政治家たちとその他すべて [にかかっているの] ではありません。それはあなたと私にかかっているのですが、私たちはそれを悟っているように見えません。もしも私たちが、ひとたび自分たち自身の行動の [応じる能力・]責任を、ほんとうに感じたなら、どんなにすばやくこれらすべての戦争、このおぞましい悲惨を終わらせることができるでしょう!しかしおわかりでしょう、私たちは無関心です。私たちは日に三食摂ります。仕事を持っています。多かれ少なかれ銀行預金を持っています。そして「お願いですから、私たちを動揺させないでください。一人にしておいて・そっとしておいてください」と言うのです。地位 [身分]が高ければ高いほど、私たちは安全、永久性、平静が欲しい、そっとしておいて欲しい、あるがままに固定したものごとを維持したいのです。しかしそれらはあるがままに維持できないのです。なぜなら、何も維持すべきものはないからです。あらゆるものごとが崩壊しつつあります。私たちはこれらのものごとに向き合いたくないのです。あなたと私が戦争に対して [応じる能力・]責任があるという事実に、向き合いたくないのです。あなたと私は平和について話しをし、会議をし、テ-ブルを囲んで座り、議論をするかもしれません。しかし内面的に、心理的に、私たちは力、地位が欲しいのです。貪欲により動機づけられているのです。私たちは計略を巡らします・陰謀をたくらみます。私たちは国家[・民族]主義的です。私たちは、信念により、教義により縛られています-それらのために進んで死のう、互いに破壊し合おうとしています。そういう人たち、あなたと私が、世界に平和を持てると、あなたは思うでしょうか。平和を持つには、私たちが平和でなければなりません。平和に生きることは、敵対を造り出さない、という意味です。平和は理想ではありません。私にとって理想は、たんに逃避、あるがままの回避、あるがままの否定・否認です。理想は、あるがままへの直接的作用 [・行動] を妨げます。平和を持つには、私たちは愛さなければならないでしょう。理想的な生を生きるのではなく、あるがままのものごとを見てそれらに作用し、それらを変容させ始めなければならないでしょう。私たち各自が心理的な安全を求めているかぎり、私たちが必要とする生理的な安全-衣・食・住-は破壊されるのです。私たちは心理的な安全を求めています-それは存在していません。そして私たちはできるなら、力をとおし、地位をとおし、肩書き、名前をとおして、それを求めます-そのすべてが、身体的・物理的な安全を破壊しているのです。あなたがそれを見るなら、それは明白な事実です。
(´・(ェ)・`)つ
-
信念が戦争を引き起こすというのじゃ。
それが金とか権力への欲をも引き起こすというのじゃ。
信念による社会の中で金や権力も意味を持つのであるからのう。
愛とか善意があれば戦争は無いというのじや。
自分が平和ならば平和があると言うのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 3
世界に平和をもたらすには、すべての戦争を阻止するには、個人に、あなたと私に、革命がなければなりません。この内面の革命のない経済的革命は無意味です。というのは、飢え・飢餓は、私たちの心理状態-貪欲、妬み、悪意、所有欲-により産み出された経済情勢・状況の不適応・不調整の結果であるからです。悲しみ、飢餓、戦争を終わらせるには、心理的な革命がなければなりません。私たちのほとんどは進んでそれに向き合おうとしていません。私たちは平和について議論し、法制度を立案し、新しい同盟・連盟、国際連合などなどを造り出すでしょう。しかし私たちは平和を勝ち取らないでしょう。なぜなら、私たちは自分たちの地位、権威、金、財産、愚かな生をあきらめないであろうからです。他の人たちに頼ることは、全く無効です。他の人たちは私たちに平和をもたらせません。どんな指導者も、政府も、軍隊も、国も、私たちに平和を与えようとしていません。平和をもたらすであろうものは、内面の変容です-それが外面の行動につながるでしょう。内面の変容は、孤立化ではありません。外面の行動からの撤退ではありません。反対に正しい考えがあるときだけ、正しい行動がありうるのです。自己認識がないとき、正しい考えはないのです。あなた自身を知ることなしに、平和はありません。
外面の戦争を終わらせるには、あなたは自分自身の中の戦争を、終わらせ始めなければなりません。あなたがたの幾人かは、頷いて「私は同意します」と言って、外へ出て、この十年か二十年の間ずっとしてきたこととまさしく同じことをするでしょう。あなたの同意は、たんに言葉の上だけですし、意義がありません。というのは、世界の悲惨と戦争は、あなたの思いつきの・何気ない同意・賛成によって阻止されないであろうからです。あなたが危険を悟るとき、自分の [応ずる能力・]責任を悟るとき、それを他の誰かに任せないときだけ、それらは阻止されるでしょう。あなたは苦しみを悟るなら、即時の行動の緊急性・切迫性がわかって延期しないなら、そのとき自分自身を変容させるでしょう。あなた自身が平和であるとき、あなた自身が自分の隣人と平和である・仲良くするときだけ、平和が来るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
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本当に戦争を終わらせ、平和をもたらすには自分自身に革命が無ければならないというのじゃ。
記憶に拠って同じ事をしていたのでは、同じ争いが続くばかりなのじゃ。
自分自身に平和がある時、世界にも平和が在るのじゃ。
自分の苦を観る時にのみその変容は訪れるというのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 1
質問
どのようにして私は恐れを取り除くべきでしょうか-それは私のすべての活動に影響を及ぼします。
クリシュナムルテイ
私たちのいう恐怖れとはどういう意味でしょうか。何についての恐れで[何を恐れているので]しょうか。様々な類型の恐れがあります。あらゆる類型を分析しなくていいのです。しかし関係についての了解が完全でないとき、恐れが生じるということが、わかります。関係は、人々との間[の関係] だけではなく、私たち自身と自然との、私たち自身と財産との、私たち自身と観念との間の関係です。その関係が充分に理解されない限り、恐れがあるにちがいありません。生は関係です。ある [生きる] ことは関係することですし、関係なしに、生はありません。何一つ孤立して・孤立 [の状態] において存在できません。精神が孤立を求めている限り、恐れがあるにちがいありません。恐れは抽象観念ではありません。それは何かとの関係においてだけ存在しています。
質問は、どのようにして恐れを取り除くべきか、です。まず最初に、打ち勝たれるどんなものも、何度も[繰り返し]征服されなければなりません。どんな問題も、最後は[最終的には]打ち勝てず、征服できません。それは理解することはできるが、征服はできません。それらは二つの完全に異なった過程ですし、征服する過程はさらなる混乱、さらなる恐れにつながります。[問題に]抵抗すること、支配すること、問題と戦う[戦いをする]こと、それに対して防御物を建てる[防御を築く]ことは、さらなる葛藤を造り出すだけです。ところが、恐れを理解し、一歩ずつそれに充分に入り、その内容全体[全容]を探検できるなら、そのとき恐れはどんな形でも決して「二度と]戻ってこないでしょう。
私が言ったように、恐れは抽象観念ではありません。それは関係においてだけ存在しています。私たちのいう恐れとはどういう意味でしょうか。最終的に[究極的に・結局]、私たちは恐れているのではないでしょうか―[何か]でないことを、[何か]にならないことを、です。そこで、[何か]でないこと、前進しないことへの恐れ、または知らないものへの、死への恐れがあるとき、決心により、結論により、何かの選択により、その恐れに打ち勝てるでしょうか。明白に、できません。たんなる抑圧、昇華、代用は、さらなる抵抗を造り出すのではないでしょうか。ゆえにどんな形の修練をとおしても、どんな形の抵抗をとおしても、恐れには決して打ち勝てません。その事実が明らかに見られ、感じられ、経験されなければなりません。恐れには、どんな形の防御や抵抗をとおしても打ち勝てないし、また解答[答え]の探求をとおしても、たんなる知的または言葉上の説明をとおしても、恐れからの自由はありえません。
(´・(ェ)・`)つ
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 2
では、私たちは何を恐れているのでしょうか。事実を [恐れているの] でしょうか、それとも事実についての観念を恐れているのでしょうか。あるがままのものごとを恐れているのでしょうか、それともそれがそうであると考えるものごとを、恐れているのでしょうか。例えば死を取り上げましょう。私たちは死という[の]事実を [恐れているのでしょうか] 、それとも死という[の]観念を恐れているのでしょうか。一方は事実ですし、もう一方は事実についての観念です [事実と事実についての観念とは別のことです]。私は「死」という言葉を [恐れているのでしょうか] 、それとも事実自体を恐れているのでしょうか。私は言葉を、観念を恐れているから、決して事実を理解しないのです。決して事実を見ないのです。決して事実と直接に関係していないのです・事実と直接の関係にないのです。恐れがないのは、私が事実と完全に親しく交わって[交流して]いるときだけです。私が事実と親しく交わっていないなら、そのとき恐れがあるのです。私が事実について観念、意見、理論を持つかぎり、事実との親しい交わりはないのです。ですから私は言葉、観念を [恐れているの] か、それとも事実を恐れているのか [について、] とても明晰でなければなりません。私が事実に向き合うなら、それについて理解すべきことは何もないのです。事実があります。私はそれを取り扱えるのです。私が言葉を恐れているなら、そのとき言葉を理解し、言葉、用語が示唆するものの過程全体に入らなければなりません。
例えば、寂しさ[ひとりぼっちでいること・孤独]を恐れている、寂しさの疼き[痛み]、苦痛を恐れているとします。確かにその恐れは存在しています。なぜなら一度も本当に寂しさを見つめたことがないから、一度もそれと完全に親しく交わったことがないからです。寂しさという事実に対して完全に開かれた・ [扉を]開いた瞬間、それが何であるかを理解できるのです。しかし [人は] それについて以前の知識に基づいた観念、意見を持っています。恐れを造り出すのは、事実についてのこの観念、意見、この以前の知識です。恐れは明白に、名づけること、用語付けること、事実を表現[代理]するために象徴を投影することから出てきたものです。すなわち、恐れは言葉から、用語から独立してい[独立して存在してい]ないのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
恐れとは征服しようとして征服できるものではないというのじゃ。
理解できるだけなのじゃ。
死んだことが無い者には死がどのようなものかわからないから死という事実を恐れることは出来ないのじゃ。
死という観念を恐れているだけなのじゃ。
それが理解できれば恐れも無くなるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 3
私は仮に[言ってみれば・たとえば]寂しさに対する反動を持っているとします。すなわち、私は無である[何でもない・何ものでもない]ことを恐れていると、言います。私は事実自体を恐れているのでしょうか、それともその恐れは、私が事実についての以前[前もって]の知識-言葉、象徴、イメ-ジである知識を持っているから目覚めさせられるのでしょうか。どうして事実への・について恐れがありうるでしょうか。私は事実と向き合い、直接に親しく交わっているとき、それを見つめ、観察できるのです。ゆえに事実について恐れはないのです。恐れを起こす原因になるものは、事実 [についての] ―事実が何であるかや何をするかについての私の不安[心配・恐れ]です。
恐れを造り出すのは、事実についての私の意見、私の観念、私の経験、私の知識です。事実を言語化する[言葉に表す・言葉にする]こと、事実に名前をつける[事実を名づける]こと、ゆえにそれと[それを]同一化したりそれを非難したりすることがあるかぎり、思考が観察者として事実を判断[判定]しているかぎり、恐れがあるにちがいありません。思考は過去の産物です。それは言語化をとおし、象徴をとおし、イメ-ジをとおして存在できるだけです。思考が事実を見たり[見守ったり]翻訳[解釈]したりしているかぎり、恐れがあるにちがいありません。
こうして、恐れを造り出すのは精神です-精神は考える過程です。考えることは言語化です。言葉なしに、象徴、イメ-ジなしには考えられません。これらのイメ-ジ-先入観、以前[前もって]の知識、精神の不安[心配・恐れ]-が、事実[の上]に投影されます。そこから恐れが生じるのです。精神が事実を翻訳・解釈せず、名前、レッテルをつけずに見る能力があるときだけ、恐れからの自由があるのです。これは全く[かなり・相当]難しいのです。なぜなら私たちの持っている感情、反応、不安[心配・切望]は、即座に精神によって同一化され、言葉を与えられるからです。嫉妬の感情は、その言葉によって同一化されます。感情を同一化しないこと、名づけることなしにその感情を見ることは、可能でしょうか。感情に連続性を与えるのは、強さを与えるのは、それを名づけることです。恐れと呼ぶものに名づけた瞬間、それを強めるのです。しかしその感情に用語づけることなく見ることができるなら、それはしぼみ去る[しぼんでしまう]ことがわかるでしょう。ゆえに恐れから完全に自由であろうと思うなら、用語づけること、象徴、イメ-ジを投影すること、事実に名づけること、この過程全体を理解することが、本質的[不可欠]です。自己認識があるときだけ、恐れからの自由がありうるのです。自己認識が英知の始まりです―それが恐れの終わりです。
(´・(ェ)・`)つ
-
事実を恐れる者は居ないというのじゃ。
事実についての言葉や象徴やイメージを恐れているというのじゃ。
それが観念なのじゃ。
観念に対する恐れを観察して理解すれば、恐れは消えるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答十二
退屈と興味について 1
質問
私は何ごとにも興味がありません。しかし、ほとんどの人たちは、多くの興味のあることで忙しいのです。私は働かなくてもいいので、働きません。私は何か役立つ仕事を引き受ける・始めるべきでしょうか。
K
それは、社会的事業家や政治的活動家や宗教的活動家になる-ということでしょうか。あなたは他に何もすることがないから、ゆえに改革者になるのです!あなたは何もすることがないなら、退屈しているなら、なぜ退屈していないのでしょうか。なぜそうあるのではないのでしょうか。あなたが悲しみ [の状態]にあるなら、悲しんでいてください。それからの抜け出し方を見つけようしないでください。なぜなら、あなたが退屈している [という] ことは、あなたがそれを理解でき、それと共に生きられるなら、測り知れない意義があるからです。「私は退屈している。だから何か他のことをしよう」と言うなら、あなたはたんに退屈から逃避しようとしています。そして私たちの活動のほとんどが逃避であるので、あなたは社会的に、他のあらゆる仕方で、はるかにもっと危害を与えるのです。あなたがあるがままでいて、それと共にとどまっているときよりも、あなたが逃避するときのほうが、災いははるかに大きいのです。困難は、どのようにして逃げ出すのかではなく、それと共にとどまるのか、です。私たちの活動のほとんどが逃避の過程であるので、あなたが逃避するのを止めて、それに向き合うことは、測り知れず難しいのです。ゆえに、あなたがほんとうに退屈していて、「完全に止めよう・終止符を打とう。そこにとどまろう。それを見よう。なぜおまえは何かをするべきなのか」と言ってくれるなら、私はとてもうれしいのです。
あなたは退屈しているなら、なぜ退屈しているのでしょうか。退屈と呼ばれるものは何でしょうか。あなたが何ごとにも興味がないのは、なぜでしょうか。あなたを鈍くしてきた理由と原因があるにちがいありません。苦しみ、逃避、信念、絶えざる活動が、精神を鈍らせ、心を非柔軟にしてきたのです。もしもあなたは、自分がなぜ退屈しているのか、なぜ興味がないのかを見出すことができたなら、そのとき確かに問題を解決するのではないでしょうか。そのとき目覚めた興味が機能するでしょう。あなたはなぜ自分が退屈しているのかに興味がないなら、活動に興味を持つように-檻の中でぐるぐる回っているリスのように-たんに何かをしているように、自分自身に強いることはできません。これが、私たちのほとんどが耽っている活動の種類であることを、私は知っています。しかし私たちは、なぜ自分たちがこの全くの退屈の状態にあるのかを、内面的、心理的に見出せるのです。私たちは、なぜ私たちのほとんどがこの状態にあるのか、わかることができます。私たちは情動的、精神的に、自分たち自身を消耗・使い果たしてきたのです。私たちはあまりに多くのものごと、あまりに多くの感動、あまりに多くの娯楽・楽しみ、あまりに多くの実験を試してきたので、そのため鈍くなり、疲れ切ってしまったのです。私たちは一つの集団に加わり、私たちに求められるあらゆることをして、それからそこを離れ・去ります。それから私たちは何か他のものへ行ってそれを試します。私たちは一人の心理学者で失敗するなら、他の誰かや司祭のところへ行きます。私たちはそこで失敗するなら、もう一人の教師のところへ行く、などです。私たちはいつも進みつづけます。常に手を伸ばし手放すこの過程は、消耗するのではないでしょうか。すべての感動と同じように、それはすぐに精神を鈍らせるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
退屈しているから何か仕事をするというのも逃避なのじゃ。
それもまた退屈という苦から逃れようとしているからのう。
金銭的に退屈で居られるのに、そのままではいられない自分を見ていないのじゃ。
退屈から逃避しようとしている自分が見られれば、それで全ては解決するのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答十二 退屈と興味について 2
私たちはそれをしてきました。私たちはほんとうに消耗する時点に到るまで、感動から感動へ、興奮から興奮へ向かって行きました。そこで、それを悟ると、それ以上進まないでください。一休みしてください。静かにしてください。精神にそれ自体で力・強さを集めさせましょう。それに強いないでください。土が冬の時期の間に自ずから蘇生するように、精神が静かであるのを許される・静かにしておかれるとき、それは自ずから蘇生するのです。しかし精神が静かであることを許す・精神を静かにしておくこと、このすべての後で、それを休ませておくことは、とても難しいのです。というのは、精神はいつのときも何かをしていたいからです。あなたは、あるがままの自分であることを-退屈して、醜く、恐ろしい・忌まわしい、何であろうと-自分自身にほんとうに許している地点に至るとき、そのとき、それを取り扱う可能性があるのです。
あなたが何かを受け入れるとき、あなたがあるがままの自分を受け入れるとき、何が起きるでしょうか。自分があるがままの自分であることを、あなたが受け入れるとき、問題はどこにあるでしょうか。私たちがものごとをあるがままに受け入れないで、それを変容させたいと願うときだけ、問題があるのです-それは、私が満足することを弁護・擁護しているという意味ではありません。反対です。私たちはあるがままの自分たちを受け入れるなら、そのとき、非常に恐れたもの、退屈と呼ばれたもの、絶望と呼ばれたもの、恐れと呼ばれたものが、完全な変化を受けたことが、わかるのです。私たちが恐れていたものの完全な変容があるのです。
そういうわけで、私が言いましたように、私たち自身の [考える] 過程、考え方を理解す
ることが重要です。自己認識は、誰をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな告白・自白や心理学や精神分析者をとおしても、集められません。それはあなた自身により見つけられなければなりません。なぜなら、それはあなたの生であるからです。その自己についての知識を広げることと深めることなしに、あなたが何をしても、どんな外的、内的境遇、影響を改めても-それは常に絶望、苦痛、悲しみの飼育所・を生み育てる温床であるでしょう。精神の自己閉鎖的活動を越えてゆくには、あなたはそれらを理解しなければなりません。そしてそれらを理解することは、関係-ものごととの、人々との、観念との関係-において行動に気づくことです。その関係において-それが鏡です-私たちは、どんな正当化も非難もなしに、自分たち自身がわかりはじめるのです。そして私たち自身の精神のやり方についての、そのより広くより深い知識から、さらに進むことが可能です。精神が静かであること、真実であるものを受け取ることが、可能です。
(´・(ェ)・`)つ
-
逃避をやめて静かにすることが大事というのじゃ。
あるがままの自分を受け入れるのじゃ。
その自分を認識できれば変容は起こるというのじゃ。
それはどんな本や方法でもできないことなのじゃ。
自らの意志で実践するしかないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 1
質問
私は完全に・完璧に正直であるなら、ほとんどあらゆる人を恨み、ときには憎んでいることを認めなければなりません。それは私の人生をとても不幸せに、苦痛にしています。私は、自分がこの恨み、この憎しみであることを、知的には理解しています。しかし、それに対処(抵抗)できません。私に対処法を示してもらえませんか。
K
私たちのいう「知的に」とは、どういう意味でしょうか。私たちは何かを知的に理解しているというとき、それはどういう意味でしょうか。知的理解というようなものがあるのでしょうか。それともそれは、精神がたんに言葉を理解するだけということでしょうか。なぜなら、それが、私たちが互いに疎通し合う唯一の道であるからです。私たちはいったいどうやって・どんなふうに何かを、たんに言葉の上で、精神的に、本当に理解できるのでしょうか。それが、明らかでなければならない最初のことです-いわゆる知的理解は、理解にとって妨害でないのかどうか [ということが、] です。確かに理解とは統合的であって分割されず部分的ではないでしょう。私は何かを理解するかしないか、どちらかです。「私は何かを知的に理解している」と自分自身に言うことは、確かに理解にとって障壁です。それは部分的過程ですし、ゆえにそもそも・全く理解ではありません。
そこで疑問はこうです-「恨み、憎んでいる私は、どのようにしてその問題から自由であるべきか、 [それに] 対処すべきか」です。私たちは問題にどのように対処するのでしょうか。問題とは何でしょうか。確かに、問題とは、何か動揺させるものです。
私は恨んでいます、憎んでいます。私は人々を憎んでいるし、それが苦痛の原因になります。それに気づいています。私はどうすべきでしょうか。それは私の人生においてとても動揺させる要因です。私はどうすべきでしょうか。どのようにして本当にそれから自由になるべきでしょうか-ただちょっとの間(瞬間的に)それを脱ぎ捨てる(脱却する)のではなく、根本的にそれから自由になるのです。私はそれをどうすべきでしょうか。
それが私にとっての問題です。なぜなら、それは私を動揺させるからです。もしもそれが私を動揺させるものでなかったなら、私にとって問題ではないのではないでしょうか。それが苦痛、動揺、心配の原因になるから、それは醜いと思うから、私はそれを取り除きたいのです。ゆえに私が嫌っているものは、動揺なのではないでしょうか。私は違ったとき、違った気分で、違った名前を、それに付けます。ある日、私はそれをこれだと呼び、他の日、何か他のものだと呼びますが、願望は、基本的に動揺させられないことです。そうではないでしょうか。楽しみは動揺させないから、私はそれを受け入れます。私は楽しみから自由になりたくないのです。なぜなら動揺がないからです-少なくとも今のところは(さしあたりは)。しかし憎しみ、恨みは、私の生においてとても動揺させる要因ですし、それらを取り除きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
理解が言葉や観念だけでは本当の理解ではないというのじゃ。
むしろそれは本当の理解の妨害になるとまでいうのじや。
部分的にしか理解していないからなのじゃ。
全体として理解しなければいかんのじや。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 2
私の関心事は動揺させられないことです。そして決して動揺させられない仕方を見つけようとしています。なぜ私は動揺させられるべきでないのでしょうか。見出すには、動揺させられなければならないのではないでしょうか。見出すには、ものすごい激変・変動、騒動、心配を経なければならないのではないでしょうか。私は動揺させられないなら、眠ったままでいるでしょうし、おそらくそれが、私たちのほとんどがたしかに欲しいものです-められ・静められること、眠りにつかされる(安楽死させられる・麻酔をかけられる)こと、どんな動揺からも逃げること、孤立、隔離(隠遁)、安全を見つけることです。私は動揺させられることを気にしないなら-本当に、ただ表面的にだけでなく、動揺させられることを気にかけないなら-なぜなら私は見出したいからです-そのとき憎しみに向かう、恨みに向かう私の態度は、変化を受けるのではないでしょうか。動揺させられることを気にかけないなら、そのとき名前は重要ではないのではないでしょうか。「憎しみ」という言葉は重要ではないのではないでしょうか。また人々に対する「恨み」も重要ではないのではないでしょうか。なぜなら、そのとき私は、その経験を言葉にすることなしに、恨みと呼ぶその状態を、直接に経験しているからです。
憎しみと恨みがそうであるように、怒りはとても動揺させる性質です。私たちのほとんどは、怒りを言葉にすることなく、直接にそれを経験しないのです。私たちがそれを言葉にしないなら、それを怒りと呼ばないなら、確かに違った経験があるのではないでしょうか。私たちはそれを用語づけるから、新しい経験を縮小・削減したり、それを古いものの用語に固定させるのです。ところが、私たちがそれに名づけないなら、そのとき直接に理解される経験があるのです。この理解が、その経験に変容をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
動揺とは苦とも言い換えられるじゃろう。
苦があるからそれから逃れたいと思うのじゃ。
苦がなければ変容もいらないからのう。
憎しみや怒りや怨みも同じなのじゃ。
それを言葉ではなくありのままに観る時、変容も起こるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 3
卑しさ(賤しさ)を例に取りましょう。私たちのほとんどは、賤しいとしても、それに気づいていません-お金のことについて卑しい、人を許すことについて卑しい、ご存じでしょう、ただ卑しいことです。私たちはきっとそれに慣れ親しんでいると思います。そこでそれに気づくと、どのようにしてその性質から自由になろうとしているでしょうか-寛大になることではありません。それは重要な点ではありません。卑しさから自由であるとは、寛大という意味を含んでいます。あなたは寛大にならなくてもいいのです。明白に、それに気づいているにちがいありません。あなたは自分の社会・協会、友人に大きな寄付をすることにおいてとても寛大であるが、より多くのチップを払うことについてひどく卑しいかもしれません-ご存じでしょう。私のいう「卑しい」とはどういう意味なのかを。人はそれを意識していません。それに気づくとき、何が起きるでしょうか。私たちは意志を使って・行使して寛大であろうとします。それに打ち勝とうとします。私たちは自分たち自身を修練して寛大であろうとする、等々です。しかし結局、何かであろうとする意志の行使は、やはりより大きな輪のなかの卑しさの一部です。ですから私たちはそれらのことを何もしないで、それに用語を付けないで、たんに卑しさの含む意味に気づくだけなら、そのとき根元的変容が起きるということが、わかるでしょう。
どうかこれを実験してみてください。初めに、動揺させられなければなりません。私たちのほとんどが動揺させられることを好まないのは明白です。私たちは生の様式を見つけてしまったと考えます-大師、信念、何であろうと-。そしてそこに身を落ち着かせるのです。それはよい官僚職を得て、残りの人生をそこで働く・職務を果たすのに似ています。それと同じ精神をもって、私たちは取り除きたいと思う様々な性質に接近するのです。私たちは動揺させられること、内面的に安全でないこと、依存していないことの重要性がわからないのです。確かに、あなたが発見するのは、わかるのは、理解するのは、安全でないことにおいてだけ、ではないでしょうか。私たちは沢山のお金を持つ気楽な人のようになりたいのです。彼は動揺させられないでしょう。動揺させられたくないのです。
動揺は、理解にとって本質的・必要不可欠です。安全を見つけようとするどんな試みも、
理解にとって障害です。私たちが何か動揺させているものを取り除きたいと思うとき、それは確かに障害です。私たちは一つの気持ち・感情を名づけることなしに直接に経験できるなら、そこに沢山のことを見つけるだろうと、私は思います。そのときもはや、それとの戦いはありません。なぜなら経験者と経験されるものは一つであるからです。それは本質的です。経験者が感情、経験を言葉にするかぎり、自分自身をそれから分離して、それについて決定を下します(それに対して作用します)。そういう行動は作為的な幻影の行動です。しかし言葉にすることがなければ、そのとき経験者と経験されるものは一つです。その統合は必要ですし、根元的に向き合わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
-
賎しさとか動揺は気付くことで消えるというのじゃ。
言葉にして分類すればそれは消えないのじゃ。
それは観念になるからのう。
自他の無い気づきによってそれは消えるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 1
質問
うわさ話は、自己開示・自己の正体を顕わにすることにおいて-特に他の人たちを私に開示することにおいて-価値があります。真剣に・本気で言って、なぜうわさ話を、あるがままを発見する手段として使わないのでしょうか。それがただ幾時代にわたって・長い間非難されてきたからといって、私は「うわさ話」という言葉に身震いし・おののきません。
K
なぜうわさ話しをするのか、不思議に思います。それが私たちに他の人たちの正体を顕わにするから、ではありません。そしてなぜ他の人たちの正体が私たちに顕わにされるべきなのでしょうか。なぜあなたは、他の人たちを知りたいのでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの] でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはうわさ話しをするのでしょうか。それは一つの形の落ち着きのなさ、なのではないでしょうか。心配・悩みと同じように、それは落ち着きのない精神の表示です。なぜ他の人たちに干渉し、他の人たちがしている [こと] 、言っていることを知りたいというこの願望 [があるの]でしょうか。うわさ話しをするのは、とても表面的な精神-誤った方向に向けられた詮索・探究好きな精神-なのではないでしょうか。彼 [質問者] が他の人たちに-彼らのすること、彼らの思考、彼らの意見に-関心を持つことによって、他の人たちの正体が顕わになると、質問者は考えているように見えます。しかし私たちは自分たち自身を知らないなら、他の人たちを知るでしょうか。私たちは自分たち自身の考え方、行動の仕方、行い方を知らないなら、他の人たちを判断できるでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの]でしょうか。他の人たちが考え、感じ、 [それについて] うわさ話をしていることを見出したいというこの願望は、ほんとうは逃避ではないでしょうか。それは、自分たち自身からの逃避を、提供してくれるのではないでしょうか。それにはまた、他の人たちの生に干渉したいという願望もないでしょうか。他の人たちの [生]を取り扱わなくても、他の人たちの [生]に干渉しなくても、私たち自身の生が十分困難で、十分複雑で、十分苦痛なのではないでしょうか。そのうわさ好きの、残酷な、醜い仕方で、他の人たちについて考える時間があるでしょうか。なぜ私たちはこれをするのでしょうか。あらゆる人がそれをするのを、あなたは知っています。実際上、あらゆる人が他の誰かについてうわさ話をします。なぜでしょうか。 私が思うには、まず最初に、私たちは自分たち自身の考える [過程]、自分たち自身の行動の過程に十分に興味がないから、他の人たちについてうわさ話をするのです。私たちは、他の人たちがしていることを見たい、そして親切に・丁寧に言うと、おそらく他の人たちを模倣したいのです。一般的に、私たちがうわさ話をするとき、それは他の人たちを非難するためです。しかし寛大に・思いやりを持って拡大解釈すると、それは他の人たちを模倣するためです。
(´・(ェ)・`)つ
-
他人の私生活を知りたいという欲は大抵の者にあるものじゃ。
そのために週刊誌とかワイドショーが多くの視聴者を集めるのじゃ。
それもまた逃避に過ぎないのじゃ。
自分の苦痛から逃避するために他人を模倣したいと思うのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 2
なぜ私たちは他の人たちを模倣したいのでしょうか。それはすべて、私たち自身の方のとてつもない浅さを表示していないでしょうか。興奮が欲しくて、それを得るためにそれ自身の外側に行くのは、とてつもなく鈍い精神です。言い換えると、うわさ話は 一つの形の感動なのではないでしょうか- [それに]私たちは耽るのです。それは違った種類の感動なのかもしれません。しかし、興奮、散漫・逸脱を見つけたいというこの願望が、いつもあるのです。ほんとうに深くこの疑問に入るなら、自分自身に戻って来ます-それは、自分がほんとうにとてつもなく浅い [こと]、他の人たちについて話しをすることにより、外側から興奮を求めていることを、示すのです。今度あなたが誰かについてうわさ話をしているとき、自分自身を捕らえてください。あなたがそれに気づくなら、それはあなたに自分自身についてすごく多くのことを、表示してくれるでしょう。自分はたんに他の人たちについて詮索・探究好きなだけであると言うことによって、それを覆い隠さないでください。それは、落ち着きのなさ、興奮の感覚、浅さ、人々へのほんとうの奥深い興味-それはうわさ話とは何の関わりもない-の欠如を、表示しています。
次の問題は、どのようにしてうわさ話を止めるのか、です。それが次の疑問なのではないでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしていることに気づくとき、どのようにしてうわさ話をするのを止めるのでしょうか。それが来る日も来る日も続く習慣、醜いものごとになってしまったなら、あなたはどのようにしてそれを止めるのでしょうか。その疑問が生じるでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしているのを知るとき、自分がうわさ話をしていることに気づき、そのすべての意味合いに気づくとき、そのとき「どのようにして私はそれを止めるのか」と、自分自身に言うでしょうか。あなたは自分がうわさ話をしていることに気づいた瞬間、それはひとりでに止まないでしょうか。「どのようにして」は、全く・そもそも生じません。「どのようにして」は、あなたが気づいていないときだけ、生じるのです。そしてうわさ話は、気づきの欠如を表示しています。今度あなたがうわさ話をしているとき、自分自身でこれを実験してみてください。すると、あなたが話していることに気づき、あなたの舌があなたをとりこにして・あなたの自制心を失わせていることに気づくとき、いかにすばやく、いかに即時に、うわさ話を止めるかが、わかるのです。それを止めるのは、意志の作用を要求しません。必要であるすべては、あなたが言っていることに気づくこと、意識すること、それの意味合いがわかることです。あなたはうわさ話を非難したり正当化したりしなくていいのです。それに気づいてください。するとあなたは、いかにすばやく自分がうわさ話をするのを止めるかが、わかるでしょう。なぜなら、それは、自分自身の行動の仕方、自分の行い、思考様式を、自分自身に顕わにするからです。その開示において、自分自身を発見するのです-そのほうが、他の人たちについて [うわさ話をすること] 、彼らがしていること、彼らが考えていること、彼らがどのように行うのかについてうわさ話をすることよりも、はるかにもっと重要です。
(´・(ェ)・`)つ
-
他人を模倣したいのは興奮したいからというのじゃ。
それもまた逃避の一つなのじゃ。
そのような繰り返しを止めるにはそれに気付けばよいというのじゃ。
意志とは関係なくそれは止まるのじゃ。
それが厭離なのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 3
新聞を毎日読む私たちのほとんどは、うわさ話、全世界の・世界的なうわさ話で満ちています。それはすべて、自分たち自身からの、自分たち自身の卑小さからの、自分たち自身の醜さからの逃避です。私たちは、世界の出来事への表面的な興味をとおして、ますます自分たちは賢くなってゆく、ますます自分たち自身の生を扱う能力を持つようになってゆくと、思うのです。これらすべては、確かに、私たち自身から逃避する仕方なのではないでしょうか。私たち自身があまりに空っぽで浅いのです。私たちはあまりに自分たち自身に怯えています。うわさ話が一つの形の豊かな・豪華な娯楽、自分たち自身からの逃避として作用するほどに、私たち自身があまりに貧しいのです。私たちは自分たちのなかのその空っぽを、知識で、儀式で、うわさ話で、集団会合・集団的出会いで-無数の逃避の仕方で充たそうとするので、そのためあるがままについての理解 [が重要になるの]ではなく、逃避が非常に重要になるのです。あるがままについての理解は、注意を要求します。空っぽであること、苦痛 [の状態]にあることを知るには、逃避ではなく、測りしれない注意が要るのです。しかし私たちのほとんどはこれらの逃避が好きです。なぜならそれらのほうがもっと快く・愉快でもっと楽しいからです。また私たちがあるがままの自分たち自身を知るとき、自分たち自身を取り扱うことがとても難しいのです。それが、私たちが向き合っている問題の一つです。私たちはどうすべきなのかを知らないのです。私は、自分が空っぽであること、苦しんでいること、苦痛 [の状態]にあることを知るとき、どうすべきか、それをどう取り扱うべきかを知らないのです。それで私たちはすべての種類の逃避に頼る・訴えるのです。
問題はどうすべきか、です。明白に、もちろん逃避はできません。というのは、それはもっとも不合理で幼稚であるからです。しかしあなたは、あるがままの自分自身に向き合うとき、何をすべきでしょうか。初めに、それを否定したり正当化しないで、ただそれ-あるがままの自分-とともにとどまることは、可能でしょうか。それは極めて困難です。なぜなら、精神は説明、非難、同一化を求めるからです。それがそれらのものごとのどれもしないで、それとともにとどまるなら、そのとき、それは何かを受け入れているのと同じです。私が [肌の色が]茶色・褐色であることを受け入れるなら、それで、それは終わりです。しかし私がもっと明るい色に変わりたいと望むなら、そのとき問題が生じるのです。あるがままを受け入れることはもっとも難しいのです。逃避がないときだけ、それができるのです。そして非難や正当化は、一つの形の逃避です。ゆえに、なぜうわさ話をするのかについての過程全体を理解するとき、その不合理さ、残酷さと、それに関与するものごとすべてを悟るとき、そのとき、あるがままとともに残されるのです。そして私たちはいつも、それを破壊しよう、またはそれを他の何かに変えようとして、それに接近するのです。私たちは、それらのものごとのどれもしないで、それを理解しよう、完全にそれとともにあろうという意図をもって、それに接近するなら、そのとき、もはや私たちが怖がったものがないということが、わかるでしょう。そのとき、あるがままを変容させる可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
うわさ話に夢中になっているのは全て逃避というのじゃ。
逃避をやめるためにはあるがままの自分と向き合わなくてはならんのじゃ。
否定も正当化も無くあるがままの自分と向き合うのじゃ。
肯定も否定も無くあるがままの自分と向き合う時にのみそれを変容させる可能性があるというのじゃ。
困難なことではあるがのう。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 1
質問
批判は、関係のなかで、どんな持ち場があるのでしょうか。破壊的 [批判]と建設的批判の間の違いは何でしょうか。
K
まず最初に、なぜ私たちは批判するのでしょうか。それは理解するためでしょうか。それともそれはたんに口うるさい・口やかましい過程でしょうか。私はあなたを批判するなら、あなたを理解するでしょうか。理解は、判断をとおして来るでしょうか。私は、あなたとの関係の意義全体を、表面的にではなく深く了解したいなら、理解したいなら、あなたを批判しはじめるでしょうか。それとも私は、あなたと私の間のこの関係に気づいて、それを静かに観察するでしょうか-私の意見、批判、判断、同一化、非難を投影するのではなく、何が起きているかを静かに観察するのです。そして私が批判しないなら、何が起きるでしょうか。眠りがちになる・眠りそうになるのではないでしょか。それは、私たちは口やかましく言っているなら眠らない、という意味ではありません。おそらくそれは習慣になるし、私たちは習慣をとおして自分たち自身を眠らせるのです。批判をとおして、関係についてのより深い、より広い理解があるでしょうか。批判が建設的であるか破壊的であるかどうかは、大事なことではありません-それは確かに不適切・見当違いです。ゆえに疑問は「関係を理解するであろう精神と心の必要な・必然の状態は何か」です。理解する過程は何でしょうか。どのようにして私たちは何かを理解するのでしょうか。あなたは自分の子供に興味があるなら、どのようにして自分の子供を理解するのでしょうか。あなたは観察するのではないでしょうか。あなたは遊んでいる彼を見守ります。あなたは違った気分の彼を研究します。あなたは彼に自分の意見を投影しません。あなたは彼にあれこれであるべきだと言いません。あなたは鋭敏に見守っているのではないでしょうか。活発に気づいているのです。そのときおそらく、あなたは子どもを理解しはじめます。あなたは常に批判し、自分自身の特定の人格・性格、性向、意見を常に注入し、彼があるべき、あるべきでない道を決定し、その他すべてをしているなら、明白に、その関係に障壁を造り出すのです。不幸にも、私たちのほとんどは、形造るため、干渉するために、批判するのです。何かを-夫、子ども、誰であろうと [との] 関係を-形造ることは、一定量の楽しみ、一定の喜びを、私たちに与えてくれるのです。あなたはそのなかに力の感覚を感じるのです。あなたは長・主人です。それには、ものすごい喜びがあるのです。確かに、そのすべての過程をとおして、関係の理解はないのです。たんなる賦課 [だけがある] 、あなたの性向、願望、願いの特定の様式に、もう一人を型どりたいという願望だけがあるのです。これらすべてが、関係の理解を妨げるのではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
-
批判することは破壊的でも、建設的でもただ障壁を作り出し、理解の妨げになるというのじゃ。
それもまた逃避の一つに過ぎないのじゃ。
理解するにはただありのままに観察する事が大事だというのじゃ。
どのようにすべきとか思わずただ鋭敏に見守っている時に理解が在るのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 2
それから自己批判があります。自分自身に批判的であること、自分自身を批判し、非難し、正当化すること-それは自分自身の理解をもたらすでしょうか。私は自分自身を批判しはじめるとき、理解する [過程]、探検する過程を制限しないでしょうか。内省 [つまり] 一つの形の自己批判は、自己を展開するでしょうか。自己の展開を可能にするのは何でしょうか。常に分析的で、恐れて、批判的であること-確かにそれは展開するのを助けません。あなたがそれを理解しはじめるほどに、自己の展開をもたらしてくれるものは、どんな非難もない、どんな同一化もない、それへの常なる気づきです。一定の自発性がなければなりません。あなたは常にそれを分析し、それを修練し、それを形造っていることはできません。この自発性は、理解するために・理解にとって本質的 [・不可欠]です。私はたんに制限し、制御し、非難するだけなら、そのとき思考と感情の動きを中止する・止めるのではないでしょうか。私が発見するのは、思考と感情の動きのなかでです-たんなる制御のなかではありません。発見するとき、それについてどのように行動するのかを見出すことが重要です。私は観念に応じ、規範に応じ、理想に応じて行動するなら、そのとき自己を特定の様式に押し込むのです。それには理解がありません。超越がありません。私がどんな非難もなく、どんな同一化もなく、自己を見守れるなら、そのときそれを越えてゆくことが可能です。そういうわけで、自己を理想に近づけるこの過程全体が、全く間違っているのです。理想は自家製の神です。自己投影されたイメ-ジに順応することは、確かに解放ではありません。
(´・(ェ)・`)つ
-
自分を批判することもあるがままに自分を観ていないことになるのじゃ。
それは一種の自己正当化に他ならないのじゃ。
批判する自分は正しいという自己揚棄なのじゃ。
非難も同一化もなく自己を観まもることが超越というのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 3
こうして、精神が静かに気づき、観察しているときだけ、理解がありうるのです-それは困難です。なぜなら私たちは活動的であること・活動していること、落ち着かなく、批判的であること、非難し、正当化することに、喜びを感じるからです。それが、私たちの存在の構造全体です。そして観念、先入観、視点、経験、記憶の をとおして、私たちは理解しようとするのです。これらすべての幕から自由であって、そのため直接に理解することは、可能でしょうか。確かに私たちは、問題がとても強烈であるとき、そうします。私たちはこれらすべての方法を経てゆきません-それに直接に接近します。この自己批判の過程が理解されて、精神が静かであるときだけ、関係の理解は来るのです。あなたが私 [の言うこと]を聴いていて、私が伝えたいと願うことに、あまり大きな努力もなしに付いていこうとしているなら、そのとき私たちが互いに理解し合う可能性があるのです。しかしあなたがいつのときも批判して、自分の意見を、書物から学んできたこと、他の誰かが自分に言ったこと、などなどを吐き出して・投げつけているなら、そのときあなたと私は関係していません。なぜなら、この幕が私たちの間にあるからです。私たちが共に、問題の論点を見出そうとしているなら-それは問題自体にあります-私たちの双方が、それの底・根底に行こう、それの真理を見つけよう、それが何であるかを発見しようと熱望しているなら、そのとき私たちは関係しているのです。そのときあなたの精神は鋭敏で受動的であり、何がこれの真理なのかを見ようと見守っているのです。 ゆえにあなたの精神は、どんな観念や理想にも、どんな判断にも、自分の特定の経験をとおして固めてきたどんな意見にも固定されるのではなく、とてつもなくすばやく・敏速でなければなりません。受動的に気づいている精神のすばやい柔軟性があるとき、理解は確かに来るのです。そのときそれは受け取る・受容の能力があるのです。そのときそれは敏感です。精神は、観念、先入観、-賛成でも反対でも-意見を詰め込まれているとき、敏感ではありません。
関係を理解するには、受動的な気づきがなければなりません-それは関係を破壊しません。反対に、それは関係をはるかにもっと生き生きさせ、はるかにもっと意義深くするのです。そのときその関係には、ほんとうの愛情の可能性があるのです。暖かさが、親密さ・親近の感覚があります-それはたんなる感傷や感動ではありません。私たちがそのように接近でき、あらゆるものごととその関係にあることができるなら、そのとき私たちの問題-財産の問題、所有の問題-は、たやすく解決されるでしょう。なぜなら、私たちは自分たちが所有するものであるからです。お金を所有する人がお金です。自分自身を財産と同一化する人が、財産や家や家具です。観念や人々についても同様です。所有欲があるとき、関係はありません。私たちは所有しないなら、他に何も持たないから、私たちのほとんどは所有するのです。私たちは所有しないなら、家具、音楽、知識、あれこれで自分たちの生を充たさないなら、空っぽの貝殻・殻です。そしてその貝殻がたくさんの音・雑音を出すし、その音が生活と呼ばれるのです。私たちはそれで満足しているのです。それの破裂・崩壊、急変・切断があるとき、そのとき悲しみがあるのです。なぜなら、そのときあなたは突然、あるがままの自分自身-あまり意味のない空っぽの貝殻-を発見するからです。関係の内容全体に気づくことが行動です、その行動から、真の関係の可能性、それの大いなる深み、それの大いなる意義を発見する [可能性]、愛が何であるかを知る可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
先入観とか観念とか記憶による介入の無い精神が静かな観察をしているときだけ理解はあると言うのじゃ。
それら観念などがあれば理解は無いのじゃ。
関係性の理解は受動的な気づきからくるのじゃ。
その時、真の愛があると言うのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 1
質問
神への信念は、よりよい生活への強力な誘因・動機でした。なぜあなたは神を否定されるのでしょうか。なぜあなたは、神の観念への人の信仰を蘇らせ・復活させないのでしょうか。
K
問題を、広く智恵をもって見つめましょう。私は神を否定していません-そうすることは愚かでしょう。真実を知らない人だけが、無意味な言葉に耽るのです。知っていると言う人は、知りません。瞬間瞬間真実を経験している人は、その真実を伝達する手段を持たないのです。
信念は真理の否定です。信念は真理の障害です。神を信じることは、神を見つけることではありません。信じる者も信じない者もどちらも、神を見つけないでしょう。なぜなら、真実は知られないものであるからです。知られないものへのあなたの信や不信は、たんに自己投影です。ゆえに真実ではありません。あなたが信じているのを、私は知っています。そしてそれは、あなたの生においてほとんど意味がないのを、私は知っています。信じている多くの人たちがいます。何百万もの人たちが神を信じているし、慰安を受けています。まず最初に、なぜあなたは信じるのでしょうか。それがあなたに満足、慰安、希望を与えてくれるから、あなたは信じるのです。そしてそれが生に意義を与えてくれると、あなたは言うのです。現実には、あなたの信念はほとんど意義がありません。なぜなら、あなたは信じて搾取 [・利用]する、信じて殺す、普遍的な神を信じて、互いに殺し合うからです。富裕な人もまた神を信じています。彼は無慈悲に搾取し、金を蓄積します。それから寺院を建てたり、社会奉仕家・慈善家になったりします。
広島に原子爆弾を落とした人たちは、神が自分たちと共にいると、言いました。ドイツを破壊しようとイギリスから飛んだ・飛行機に乗った人たちは、神が自分たちの副操縦士・操縦助士であると、言いました。独裁・指令者、総理大臣・首相、将軍、大統領、すべてが神について話しをします。彼らは神への測りしれない信仰を持っています。彼らは人のために奉仕をし、よりよい生を作っているでしょうか。自分たちは神を信じていると言う人たちは、世界の半分を破壊してきたのです。世界は完全な悲惨 [の状態]にあるのです。宗教的不寛容をとおして、信じる者と信じない者としての人々の分割がありますし、宗教戦争につながっています。それは、あなたがいかにとてつもなく政治的精神を持っているかを、表示しています。
(´・(ェ)・`)つ
-
クリシュナムルティは神を否定しないというのじゃ。
しかし、神を信じるのは満足を求めているからというのじゃ。
神を信じる者は金を貯めて戦争を引き起こすというのじゃ。
それはただ観念への囚われでしかないから悲惨を引き起こすのみなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 2
神への信念は、「よりよい生活への強力な誘因」でしょうか。なぜあなたはよりよい生活への誘因がほしいのでしょうか。確かにあなたの誘因は、清く単純に生きたいというあなた自身の願望であるにちがいないのではないでしょうか。あなたは誘因に頼るなら、みんなのために生を可能にすることに興味がないのです。あなたはたんに自分の誘因に興味があるのです-それは私の [誘因]とは異なっています-それで私たちは誘因のことでけんかするでしょう。私たちは、神を信じているからではなく、人間であるから、一緒に幸せに生きるなら、そのときみんなのためにものを産み出す・生産するための完全な生産の手段を共有するでしょう。智恵の欠如をとおして、私たちは神と呼ばれる超智恵の観念を受け入れるのです。しかしこの「神」、この超智恵は、私たちによりよい生活を与えてくれそうにありません。よりよい生活に導くものは智恵です。そして信念があるなら、階級分割があるなら、生産の手段が少数者の手中にあるなら、孤立化した国家 [・民族]と独立政権があるなら、智恵はありえません。このすべては明白に、智恵の欠如を表示しています。よりよい生活を妨げているのは、智恵の欠如であって、神への不信ではありません。
あなたたちはみんな、異なった仕方で信じています。しかしあなたの信念は全く何の真実性もありません。真実は、あなたのあるがまま、あなたのすること、あなたの考えることです。あなたの神への信念は、たんに自分の単調な愚かな残酷な生からの逃避です。そのうえ・さらに、信念は必ず人々を分割します。ヒンドウ-教徒、仏教徒、キリスト教徒、共産主義者、社会主義者、資本主義者などがあります。信念、観念は分割するのです。それは決して人々を一つにまとめません。あなたは少数の人々を一つの集団にまとめるかもしれません。しかしその集団はもう一つの集団と対立しているのです。観念と信念は決して統合していません。反対に、それらは分離的で、崩壊的で、破壊的です。ゆえに、あなたの神への信念は、ほんとうは世界に悲惨を広げているのです。それはあなたに瞬間の慰安をもたらしたかもしれないけれども、現実には、戦争、飢饉、階級分割、分離した個人の無慈悲な行動という形で、あなたにもっと多くの悲惨と破壊をもたらしたのです。それであなたの信念は全く妥当性がありません。もしもあなたがほんとうに神を信じていたなら、もしもそれがあなたにとってほんとうの経験であったなら、そのときあなたの顔に微笑みがあるでしょう。あなたは人間を破壊していないでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
-
神を信じるのはよりよい生活をもとめているからというのじゃ。
しかし、それはよりよい生活は与えてくれないのじゃ。
むしろ無智に導く逃避だというのじゃ。
神や何かの主義を信念として持つ者はそれによって分裂するのみなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 3
では真実とは何でしょうか。神とは何でしょうか。神は言葉ではありません。言葉はもの
ごと・実体ではありません。測ることのできない、時間のものではないものを知るには、精神は時間から自由でなければなりません-それは、精神が、神についてのすべての思考から、すべての観念から自由でなければならない、という意味です。あなたは、神や真理について何を知っているでしょうか。あなたはその真実について、ほんとうは何も知らないのです。あなたが知っているすべては、言葉 [です]、他の人たちの経験や、或る瞬間のあなた自身のかなり漠然とした・あいまいな経験です。確かに、それは神ではありません。それは真実ではありません。それは時間の領域を越えていません。時間を超えているものを知るには、時間の過程が理解されなければなりません-時間は思考過程、なりゆく・なろうとする過程、知識の蓄積です。それが精神の背景 [・地盤]全体です。精神自体が、意識と無意識、集団と個人両方の背景 [・地盤] です。それで精神は、知られたものから自由でなければなりません-それは、精神が静寂にされるのではなく、完全に静寂でなければならない、という意味です。結果としての [静寂] 、決然とした・決断された行動から、実践から、修練から出てきたものとしての静寂を達成する精神は、静寂な精神ではありません。強いられ、制御され、形造られ、枠にはめられ、静かにしている精神は、静寂な精神ではありません。あなたは、一定時間、精神を表面的に静寂であるよう強いることに、成功するかもしれません。しかしそういう精神は、静寂な精神ではありません。あなたが思考の過程全体を理解するときだけ、静寂が来るのです。なぜなら、過程を理解することが、それを終わらせることであるからです。思考の過程の終わりが、静寂の始まりです。
精神が、上の水準でだけでなく根本的に、ずっととおして-意識の表面的な [水準]とともにより深い水準でも-完全に静寂であるときだけ、そのときだけ知られないものが生じうるのです。知られないものは、何か精神により経験されるものではありません。静寂のみが経験されうるのです-静寂以外に何も [経験]されえません。精神が静寂以外に何かを経験するなら、それはたんにそれ自身の願望を投影しているだけです。そういう精神は静寂ではありません。精神が静寂でないかぎり、意識的、無意識的などんな形でも、思考が動き [の状態]にあるかぎり、静寂はありえません。静寂は、過去から、知識から、意識的とともに無意識的な記憶からの自由です。精神が使われず・使用中でなく、完全に静寂であるとき、努力の産物ではない静寂があるとき、そのときだけ、時間のないもの、永遠のものが、たしかに生じるのです。その状態は、覚えておく状態ではありません-覚えておく、経験する実体はありません。
ゆえに、神や真理-何であれ-は、瞬間瞬間生じるものです。それは、精神が様式に応
じて修練されるときではなく、自由と自発性の状態においてだけ、起きるのです。神は精神のものごとではありません。それは自己投影をとおして来ません。それは、美徳、すなわち自由があるときだけ、来るのです。美徳は、あるがままの事実に向き合うことです。事実に向き合うことは至福の状態です。精神が、それ自身のどんな動きもなく、意識的、無意識的な思考の投影がなく、至福に満ちて、静かであるときだけ-そのときだけ、永遠のものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
言葉はものこどそのものではないというのじゃ。
それ故に人は神も真実も知らないのじゃ。
静寂な精神によって永遠のものが生じるというのじゃ。
思考や意識的な心の働きが無い時だけそのような静寂があるというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 1
質問
記憶は、あなたが言われるには、不完全な経験です。私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どうかこの観念を、そのすべての詳細において説明してください。
K
私たちの言う記憶とは、どういう意味でしょうか。あなたは学校へ行くし、事実で、技術的な知識で満ちています。あなたは技師であるなら、橋を建てるために、技術的な知識の記憶を使います。それは事実に基づく・関する記憶です。また心理的な記憶もあります。あなたは私に何か楽しいことや楽しくないことを言いました。すると私はそれを持ち続けます。私は次にあなたに会うとき、その記憶-あなたが言ったり、言わなかったことの記憶-をもってあなたに会います。記憶には二つの面-心理的なものと事実に基づく・関するもの-があります。それらはいつも相互に関係しています。ゆえにはっきり切られません。事実に基づく記憶は、生計の手段として不可欠 [・本質的]であることを、私たちは知っています。しかし心理的な記憶は不可欠 [・本質的]でしょうか。心理的な記憶を持ち続ける要因は何でしょうか。侮辱や賞讃を、心理的に覚えておかせるのは何でしょうか。なぜ一定の記憶を持ち続けて、他のものを拒絶するのでしょうか。明白に、楽しい記憶は持ち続けて、楽しくない記憶は避けるのです。あなたは観察するなら、苦しい・痛みを伴う記憶は、楽しいものよりもっとすばやく脇へ置かれることが、わかるでしょう。精神は記憶です-どんな水準でも、それをどんな名前で呼ぼうとも、です。精神は過去の産物です。それは過去-すなわち記憶、条件づけられた状態-に基づいて・を根拠にしています。そこで、その記憶をもって、私たちは生に出会います。新しい挑戦に出会います。挑戦はいつも新しいのですが、私たちの応答はいつも古いのです。なぜなら、それは過去から出てきたものであるからです。それで記憶なしに経験することは一つの状態ですし、記憶をもって経験することはもう一つ [の状態]です。すなわち、挑戦があります-それはいつも新しいのです。私は古いものの応答をもって、条件づけをもって、それに出会います。それで何が起きるでしょうか。私は新しいものを吸収します。それを理解しません。そして新しいものを経験することは、古いものにより条件づけられるのです。ゆえに、新しいものの部分的理解があるのです。決して完全な理解はないのです。それが記憶の傷跡を残さないのは、何ごとについても完全な理解があるときだけです。
挑戦があるとき-それはいつも新しいのです-あなたは古いものの応答をもって、それに出会います。古いものは新しいものを条件づけます。ゆえにそれをねじ曲げ、それに偏向を加え、ゆえに新しいものが古いものに吸収されて、それに応じて古いものを強めるほどに、新しいものの完全な理解がないのです。これは抽象的に見えるかもしれません。しかしあなたが少しきっちりと気をつけてそれに入るなら、それは難しくありません。現在の世界の状況・情勢は、世界の問題-それは常に新しいのです-への新しい接近、新しい取り組み方を要求します。私たちはそれに新たに接近する能力がありません。なぜなら、私たちは、自分たちの条件づけられた精神をもって、 国家[・民族]的、局地・地方的、家族的、宗教的な先入観をもって、それに接近するからです。私たちの以前の経験が、新しい挑戦の理解にとって障壁として作用しています。それで私たちは記憶を育成し、強めつづけるし、ゆえに決して新しいものを理解しないのです。決して充分に、完全に、挑戦に出会わないのです。それは、過去なしに、新たに、新鮮に、挑戦に出会うことができるときだけです。そのときだけ、それはその結実・成果、その豊かさをもたしてくれるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
記憶には二つの面があると言うのじゃ。
事実に基づく生活に役立つ面と、条件付けなどで生きることに制限を加えるものなのじゃ。
後者の性質に拠って新しい経験をすることはできないというのじゃ。
過去の記憶や経験に拠らない時にのみ新しいものごとにあい、その成果を得られるというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 2
質問者は、「私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どんな意味で、それは不完全な経験なのでしょうか」と言います。それがたんに印象、記憶だけであるなら、明白にそれは不完全な経験です。あなたが言われてきたことを理解し、それの真理がわかるなら、その真理は記憶ではありません。真理は記憶ではありません。なぜなら、真理は常に新しく、常にそれ自体を変容させているからです。あなたは以前の講話の記憶を持っています。なぜでしょうか。あなたは以前の講話を導きとして使っているから、それを充分に理解しなかったのです。あなたはそれに入りたいのです。それで意識的、無意識的に、それは維持・保持されているのです。あなたは何かを完全に理解する、すなわち何かについての真理が全体的にわかるなら、何の記憶もないことを見つけるでしょう。私たちの教育は、記憶の育成、記憶の強化です。あなたたちの宗教的実践と儀式、あなたの読書と知識は、すべて記憶の強化です。それはどういう意味でしょうか。なぜ私たちは記憶にすがるのでしょうか。 [人は] 成長するにつれて、過去を、それの喜び、それの苦痛、それの楽しみを振り返る・回想することに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。若ければ、未来の方を見ます。なぜ私たちはこうするのでしょうか。なぜ記憶がこんなに重要になってしまったのでしょうか。私たちがどのようにして現在において全体的に、完全に生きるのかを知らないという単純で明白な理由のためです。私たちは未来への手段として、現在を使っています。ゆえに、現在は意義を持たないのです。私たちは未来への通路として現在を使っているから、現在において生きられないのです。私は何ものかになろうとしているから、自分自身についての完全な理解が決してないのです。自分自身を、今まさに私が何であるかを・今まさにあるがままの私を理解するには、記憶の育成を必要としません。反対に、記憶は、あるがままの理解にとって障害です。精神が記憶の網に捕らわれていないときだけ、新しい思考、新しい感情は来るということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。二つの思考の間、二つの記憶の間に間隔があるとき、その間隔が維持されうるとき、そのとき、その間隔から、もはや記憶ではない新しい存在の状態が、来るのです。私たちは記憶を持っています。そして継続の手段として記憶を育成します。記憶の育成が存在しているかぎり、「私」と「私の」が、とても重要になるのです。私たちのほとんどは、「私」と「私の」で作り上げられているので、記憶が私たちの生においてとても重要な役割を演じるのです。もしもあなたが記憶を持たなかったなら、あなたの財産、あなたの家族、あなたの観念は、それほど重要(というほどのもの)ではないでしょう。それで「私」と「私の」に強さを与えるために、あなたは記憶を育成するのです。あなたは観察するなら、二つの思考の間、二つの情動の間に間隔があることがわかるでしょう。その間隔には-それは記憶の産物ではありません-「私」と「私の」からのとてつもない自由があるのです。その間隔は時間がないのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
真理は記憶ではないというのじゃ。
言葉にも知識にも出来ず、今ここで常に新しいものであるというのじゃ。
記憶はそれを感じる障害になるだけなのじゃ。
記憶は自分と、自分のもので全てを解釈するから新しいものごとは感じられないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 3
問題を違ったふうに見てみましょう。確かに記憶は時間なのではないでしょうか。記憶は、昨日・今日・明日を造り出します。昨日の記憶が、今日を条件づけます。ゆえに明日を形造ります。すなわち過去が、現在をとおして未来を造り出します。時間の過程が続いています-それがなろうとする意志です。記憶は時間です。時間をとおして、私たちは結果を達成したいと願うのです。私は今日は事務員・店員です。そして時間と機会を与えられるなら、経営者や所有者になるだろう。ゆえに、私は時間を持たねばなりません。同じ精神性・精神をもって、「私は真実を達成するだろう。神に接近するだろう」と、私たちは言うのです。ゆえに、私は実現するために時間を持たねばなりません-それは、何かであるため、達成するため、獲得するために、実践により、修練により、記憶を育成し、記憶を強めなければならない、という意味です-それは、時間における継続、という意味です。時間をとおして、私たちは時間のないものを達成したいと願います。時間をとおして、私たちは永遠のものを獲得したいと願います。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、記憶、すなわち時間のものをとおして、永遠のものを時間の網にかけられるでしょうか。時間のないものは、記憶、すなわち「私」と「私の」が止むときだけ、ありうるのです。あなたがそれの真理-時間をとおして、時間のないものは理解することも受け取ることもできないということ-がわかるなら、そのとき、私たちは記憶の問題に入れるのです。技術的なものごとの記憶は必要不可欠です。しかし、自己、「私」、「私の」を維持する [記憶]、同一化と自己継続を与える心理的な記憶は、生と真実にとって全面的に有害です。それの真理がわかるとき、虚偽はなくなります・離れ落ちます。ゆえに、昨日の経験の心理的保持はないのです。
あなたは、うるわしい夕暮れを、野原の美しい木を見ます。そしてあなたは初めにそれを見るとき、それを完全に、全面的に楽しみます。しかしあなたは、それをもう一度楽しみたいという願望をもって、それに戻ります。あなたがそれを楽しみたいという願望をもって戻るとき、何が起きるでしょうか。楽しみはありません。なぜなら、今あなたを戻らせているのは、あなたに楽しむよう強要し、駆り立てているのは、昨日の夕暮れの記憶であるからです。昨日は記憶がなく、自発的な理解・評価、直接の応答だけがあったのです。今日は、あなたは昨日の経験を取り戻したい・再び捕らえたいと望んでいるのです。すなわち、記憶が、あなたと夕暮れの間に干渉し・介入しています。ゆえに楽しみはないのです。豊かさ、美しさの充足はないのです。また、あなたは友だちを持っています-彼は昨日あなたに何かを、侮辱やお世辞を言いました。それであなたはその記憶を持ち続けます。その記憶をもって、あなたは今日、友だちに会います。あなたはほんとうは友だちに出会わないのです-あなたはきのうの記憶を携えています-それが介入する・干渉するのです。それで私たちは、自分たち自身と自分たちの行動を、記憶で取り囲みつづけるのです。ゆえに新しさ、新鮮さがないのです。そういうわけで、記憶は生を、疲れて鈍く空っぽにするのです。私たちは互いに敵対して生きています。なぜなら、「私」と「私の」が、記憶とおして強められるからです。記憶は、現在の行動をとおして生き返ります。私たちは、現在をとおして、記憶に生命を与え・活気づけます。しかし私たちが記憶に生命を与えないとき、それは消えてしまい・消えてゆきます。事実の、技術的なものごとの記憶は、明白に必要です。しかし心理的な保持としての記憶は、生の理解、互いの疎通にとって有害です。
(´・(ェ)・`)つ
-
記憶とは時間なのじゃというのじゃ。
時間を通して人は結果を達成したいという欲を持つのじゃ。
昨日の記憶にょって今ここにあることを取り逃がすというのじゃ。
記憶は自分と、自分のものを分別するものであるから生と真実には有害なのじゃ。
技術に記憶は必要であるが、生の理解には記憶が障害になるともいうのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十八 「あるがまま」へ身を委ねること・任せることについて 1
質問
神の意志に任せることと、あるがままの受け入れついてあなたが言っていることとの間の違いは、何でしょうか。
K
確かに大へんな違いがあるのではないでしょうか。神の意志に任せることは、あなたがすでに神の意志を知っている、という意味を含んでいます。あなたは、何か自分が知らないものに、任せていません。あなたは真実を知っているなら、それに任せられません。あなたは存在するのを止めます。より高い意志に任せることはありません。あなたがより高い意志に任せているなら、そのとき、その高い意志は、あなた自身の投影です。というのは、真実は、知っているものをとおして知られえないからです。それは、知っているものがなくなるときだけ、生じるのです。知っているものは、精神の創造です。なぜなら、思考は知っているものの [結果] 、過去の結果であるからです。そして思考は、それが知っているものを創造できるだけです。ゆえに、それが知っているものは、永遠のものではありません。そういうわけで、あなたは神の意志に任せるとき、自分自身の投影物に任せているのです。それは喜ばせ、慰めになるかもしれませんが、真実ではないのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
神の意志に任せるというが人は神の意志など知らないというのじゃ。
もっともな話なのじゃ。
何か高い意志があるというならば、それは自らの意志の投影に過ぎないのじゃ。
神の意志に任せるとは自分の意志に任せているだけだというのじや。
それはただの自分自身の慰めにすぎないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十八 「あるがまま」へ身を委ねること・任せることについて 2
あるがままを理解することは、違った過程を要求します-おそらく「過程」という言葉は正しくありませんが、私の意味することはこうです-あるがままを理解することは、たんに観念を受け入れたり、それに身を任せたりすることよりも、はるかにもっと難しく、もっと大いなる智恵、もっと大いなる気づきを必要とするのです。あるがままを理解することは、努力を要求しません。努力は散漫です。何かを理解するには、あるがままを理解するには、あなたは散漫であることはできないのではないでしょうか。私は、あなたの言っていることを理解したいなら、外側の音楽を、人々の雑音を聴くことはできません。私は自分の注意全体を、それに向けなければなりません。こうして、あるがままに気づくことは、とてつもなく難しく、困難です。なぜなら、まさに私たちが考えることそのものが、散漫になってしまったからです。私たちはあるがままを理解したくないのです。私たちは、先入観、非難、同一化のめがねをとおして、あるがままを見ます。これらのめがねを取り除いて、あるがままを見るのは、とても困難です。確かに、あるがままが事実です。真理です。他のすべては逃避です。真理ではありません。あるがままを理解するには、二元性の葛藤が止まなければなりません。なぜなら、あるがままとは他の何かになるという・なろうとする否定的応答は、あるがままの理解の拒否であるからです。私は傲慢さ・尊大さを理解したいなら、対極に入ってはなりません。なろうとする努力によって、またはあるがままを理解しようとする努力によってさえも、散漫であってはなりません。私が傲慢であるなら、何が起きるでむしょうか。私が傲慢さに名づけないなら、それは止みます-それは、問題自体に答えがある、それから離れてではない、という意味です。
それは、あるがままを受け入れるという問題ではありません。あなたはあるがままを受け入れません。あなたは自分 [の肌の色]が茶色や白であることを受け入れません。まぜなら、それは事実であるからです。あなたは何か他のものになろうとしているときだけ、たしかに受け入れなければならないのです。あなたが事実を認識した瞬間、それはどんな意義も持たなくなります。しかし、過去や未来について考えるように訓練され・しつけられている [精神]、多種多様の方向に逃げ出すように訓練されている精神、そういう精神は、あるがままを理解する能力がありません。あるがままを理解することなしに、あなたは何が真実であるかを見つけられません。その理解なしに、生は意義がありません。生は、そこに苦痛と苦しみが継続する常なる戦いです。真実は、あるがままを理解することにより、理解されうるだけです。何か非難や同一化があるなら、それは理解されえません。いつも非難したり同一化している精神は、理解できません。それは、それがその中に捕らわれているものを、理解できるだけです。あるがままを理解すること、あるがままに気づくことは、とてつもない深みを開示します-そこに、真実、幸せ、喜びがあります。
(´・(ェ)・`)つ
-
あるがままを理解することは、上のように神の意志を自分の意志と誤魔化すような欺瞞とは違った過程を必要とするというのじゃ。
それには努力も要らないというのじゃ。
過去や未来を考える精神にはあるがままを理解する能力は無いのじゃ。
今ここにあることだけが必要なのじゃ。
あるがままを理解できれば真実は理解されるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 1
質問
祈りに表現されたあこがれは、神への道ではないでしょうか。
K
まず初めに、私たちは、この疑問の中に含まれた問題を、検討しましょう。それには、祈り、集中、瞑想という意味が含まれています。そこで、私たちの言う祈りとは、どういう意味でしょうか。まず初めに、祈りには、あなたが神、真実と呼ぶものへの嘆願、懇願があります。あなたは個人として、何か神と呼ぶものから導きを要求し、嘆願し、請い、求めています。ゆえに、あなたの接近は、報賞を求めること、喜びを求めることの一つです。あなたは、国家 [・民族]的、または個人的な困難 [の状態]にあります。それで導きのために祈るのです。またはあなたは混乱しています。それで明晰さを請います。神と呼ぶものに助けを求めます。これには、神が-たとえどんな神であろうとです。私たちは当分はその議論はしません-私とあなたが造り出した混乱を、きれいに片づけてくれるであろう、という意味が含まれています。結局、混乱、悲惨、混沌、ぞっとするような暴政、愛の欠如をもたらしてきたのは、私たちです。それで私たちは、それをきれいに片づけてくれる神と呼ばれるものが、欲しいのです。言い換えれば、私たちは、自分たちの混乱、悲惨、悲しみ、葛藤を、他の誰かに片づけてもらいたいのです。光と幸せをもたらしてくれるよう、もう一人に嘆願するのです。
そこで、あなたが祈るとき、何かに向かって請い、嘆願するとき、それが一般的に生じるのです。あなたは求めるとき、受け取ります。しかしあなたが受け取るものは、秩序を造り出さないでしょう。なぜなら、あなたが受け取るものは明晰さ、理解をもたらさないからです。それは満足させ、喜びを与えるだけで、理解をもたらさないのです。なぜなら、あなたは要求するとき、自分自身が投影するものを、受け取るからです。どうして真実、神が、あなたの特定の要求に答えられるでしょうか。測ることのできないもの、言葉で言い表しえないものが、私たちの些細で小さな心配事、悲惨、混乱-私たち自身が造り出したもの-に、関心を持てるでしょうか。ゆえに、答えるのは何でしょうか。明白に、測ることのできないものは、測られるもの、些細なもの、小さなものに、答えられません。しかし、答えるのは何でしょうか。私たちは祈る瞬間、かなり静寂で、受け入れる・受容の状態にあります。そのとき、私たち自身の潜在意識が、瞬間的な明晰さをもたらします。あなたは何かが欲しい。それにあこがれています。するとそのあこがれ、そのおもねた・こびへつらった要請の瞬間において、あなたはかなり受容力があるのです。あなたの意識的、活動的精神は、比較的静かです。そのため無意識がその中にそれ自体を投影します。それであなたは答えを得るのです。それは確かに、真実からの、測ることのできないものからの答えではありません-それは、あなた自身の無意識的な応答です。それで、あなたの祈りが答えられるとき、自分が真実と関係していると混同して考えないようにしましょう。真実は、あなたのところに来るにちがいありません・来なければなりません。あなたはそこへ行けません。
(´・(ェ)・`)つ
-
神への祈りは嘆願とか誓願に過ぎないというのじゃ。
それは欲の表れでしかないのじゃ。
そうであるから真実をもたらさないのじゃ。
祈りがかなうとしても、自分の欲したものを受け取れるだけなのじゃ。
自分の欲がかなうだけなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 2
この問題には、もう一つの要因が関与しています-内なる声と呼ばれるものの応答です。私が言いましたように、精神が懇願し、嘆願しているとき、それは比較的静かです。あなたが内なる声を聞くとき、それは、その比較的静かな精神に、それ自体を投影しているあなた自身の声です。さらに、どうしてそれが真実の声でありうるでしょうか。混乱し、無知で、渇望し、要求し、嘆願している精神、それがどうして真実を理解できるでしょうか。精神が、自分自身のためでも、国家 [・民族]のためでも、もう一人のためでも、要求しない、渇望しない、あこがれない、求めないで絶対的に静かであるときだけ、それは真実を受け取れるのです。精神が絶対的に静かであるとき、願望が止むとき、そのときだけ、真実が生じるのです。要求し、嘆願し、懇願し、命令・指図にあこがれている人物は、自分の求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真理ではないでしょう。彼が受け取るものは、彼自身の精神の無意識の諸層の応答であるでしょう-それ [無意識の層の応答]は、それら自体を意識の中に投影するのです 。彼に命令するその静かな、小さな声は、真実ではなくて、無意識の応答であるだけです。
この祈りの問題には、また集中の問題もあります。私たちのほとんどにとって、集中は排除の過程です。集中は、努力、強制、命令、模倣をとおしてもたらされます。そのため集中は排除の過程です。私は、いわゆる瞑想に興味があります。しかし私の思考は散漫です。それで私は自分の精神を、 [一つの] 映像・画像、イメ-ジ、観念に固定させて、他のすべての思考を排除します。この集中の過程、すなわち排除が、瞑想する手段であると考えられています。それがあなたのすることなのではないでしょうか。あなたは坐って瞑想するとき、自分の精神を [一つの]言葉、イメ-ジ、画像に固定させます。しかし精神はそこらじゅうさまよいます。他の観念、他の思考、他の情動の常なる中断・割り込みがあります。それであなたはそれらを押しのけようとします。あなたは自分の思考と戦うことに、自分の時間を費やします。この過程を、あなたは瞑想と呼ぶのです。すなわち、あなたは、何か自分が興味のないことに集中しようとしています。それであなたの思考は増加し、増大し、中断しつづけます。そのためあなたは排除に、避ける・かわすこと、押しのけることに、自分のエネルギ-を費やすのです。あなたは自分の選択した思考に、特定の対象に集中できるなら、ついに瞑想に成功したと、思うのです。確かに、それは瞑想ではないのではないでしょうか。瞑想は排除する過程ではありません-避ける [という意味] 、侵入してくる観念に対して抵抗を築くという意味での排除、です。祈りは瞑想ではありませんし、排除としての集中は瞑想ではありません。
瞑想とは何でしょうか。集中は瞑想ではありません。なぜなら、興味があるところ、何かに集中することは、比較的たやすいからです。戦争、虐殺を計画している将軍は、とても集中しています。金もうけをしている事業家は、とても集中しています-彼は他のあらゆる感情を脇に置いて、自分が欲しいものに完全に集中しながら、無慈悲でさえあるかもしれません・まったく無慈悲であるかもしれません。何ごとでも興味のある人は、自然に、自発的に集中しています。そういう集中は、瞑想ではありません。それはたんに排除です。
(´・(ェ)・`)つ
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一般に言われる瞑想とは精神を一つの観念に集中させるものであるから、排除の過程に過ぎないというのじゃ。・
クリシュナムルティの言う瞑想とは排除ではないというのじゃ。
観察し、気付くためには何かを排除するのは危険であるからじゃろう。
何かを排除すれば見落としてしまうからのう。
そもそも集中は瞑想ではないと言うのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 3
それで瞑想とは何でしょうか。確かに、瞑想は理解です-心の瞑想は理解です。排除があるなら、どうして理解がありうるでしょうか。嘆願、懇願があるとき、どうして理解がありうるでしょうか。理解には、平和があります。自由があります。あなたが理解するもの、そこから、あなたは解放されるのです。たんに集中したり祈ったりすることは、理解をもたらしません。理解が、瞑想のまさに基礎、根本的過程です。あなたはそのために、私の言葉を受け入れなくてもいいのです。しかし、あなたは、とても気をつけて、深く、祈りと瞑想を検討するなら、それらのどちらも理解につながらないことを、見つけるでしょう。それらはたんに頑固さに、固定化に、幻影につながるだけです。ところが、瞑想は-それには理解があります-自由、明晰さ、統合・融合をもたらしてくれるのです。
では、私たちの言う理解とは、どういう意味でしょうか。理解とは、すべてのものごとに正しい意義、正しい価値を与えることです。無知であるとは、間違った価値を与えることです。まさに愚かさの本性が、正しい価値の了解の欠如です。正しい価値があるとき、正しい価値が確立されるとき、理解が生じるのです。どのようにして正しい価値を確立するのでしょうか-財産の正しい価値、関係の正しい価値、観念の正しい価値を、です。正しい価値が生じるには、あなたは思考者を理解しなければならないのではないでしょうか。私が思考者、すなわち私自身を理解しないなら、私が選択するものは意味がありません。すなわち私が自分自身を知らないなら、そのとき、私の行動、私の思考はまったく・なんの基礎・根拠もありません。ゆえに、自己認識が瞑想の始まりです-あなたが私の書物から、権威から、 から拾い上げる知識ではなく、自己探求、すなわち自己気づきをとおして生じる知識です。瞑想が自己認識の始まりです。自己認識なしに、瞑想はありません。私が自分の思考の、感情の道を理解しないなら、私が自分の動機、願望、要求、行動の様式の追求、すなわち観念を理解しないなら-私が自分自身を知らないなら、考えるための基礎がないのです。自分自身を理解することなく、たんに求め、祈り、排除する思考者は、必然的に混乱、幻影に終わるにちがいありません。
(´・(ェ)・`)つ
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クリシュナムルティの言う瞑想とは理解そのものなのじゃ。
観察なのじゃ。
何かに集中して他のものごとを排除してしまえばそこに理解は無いのじゃ。
理解は気付くことから起こるからのう。
自分に気付く自己認識から瞑想は始まるというのじゃ。
そして瞑想から自己認識が始まるともいうのじゃ。
堂々巡りなのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 4
瞑想の始まりは自己認識です-それは、思考と感情のあらゆる動きに気づくこと、自分の意識の層すべてを-表面的な層だけでなく、隠れた、深く隠された活動を-知ることです。深く隠された活動、隠れた動機、応答、思考、感情を知るには、意識的精神に平静さがなければなりません。すなわち、意識的精神は、無意識の投影を受け取るために静かでなければなりません。表面的、意識的精神は、その日常の活動、生計を立てること、他の人たちを欺くこと、他の人たちを利用する [・搾取する]こと、問題から逃げ出すことに-私たちの存在の日常の活動すべてに-携わって・従事しているのです。その表面的精神は、それ自身の活動の正しい意義を理解して、よってそれ自体に平静さをもたらさなければなりません。それは、たんなる厳しい管理により、強制により、修練により、平静さ、静けさをもたらせません。それは、それ自身の活動を理解することにより、観察することにより、気づくことにより、それ自身の無慈悲さが-それが召使いに、妻に、娘に、母などに、どのように話しかけるのかが-わかることによってだけ、平静さ、平和、静けさをもたらせるのです。表面的、意識的精神が、その理解をとおして、そのすべての活動に、こうして充分に気づくとき、それは強制により麻痺させられたり、願望により厳しく管理されて [静かになるの]ではなく、 自発的に静かになるのです。そのとき、それは、無意識の、精神の多くの多くの隠れた層の-人種的本能、埋もれた記憶、隠された追求、まだ癒されていない深い傷の-ほのめかし、暗示を受け取る位置にあるのです。それが永遠のものを受け取る位置にあるのは、これらすべてがそれら自体を投影してしまって理解されるとき、意識全体が重荷を負っていない [とき] 、どんな傷によっても、どんな記憶によっても、まったく足かせをはめられていないときだけです。
瞑想は自己認識です。自己認識なしに、瞑想はありません。あなたがいつのときも自分の応答すべてに気づいているわけではないなら、自分の日常の活動を充分に意識し、充分に認識していないなら、たんに部屋に閉じこもって、自分の、自分の大師の写真の前に坐って瞑想することは、逃避です。なぜなら、自己認識なしに正しい考えはないし、正しい考えなしには、あなたのすることは、たとえどんなにあなたの意図が高尚であっても、意味がないからです。こうして祈りは、自己認識なしには意義がありません。しかし自己認識があるとき、正しい考え [があるし]、ゆえに正しい行動があるのです。正しい行動があるとき、混乱はないし、ゆえにあなたをそれから導き出す他の誰かへの懇願はないのです。充分に気づいている人は、瞑想しています。彼は祈りません。なぜなら、彼は何も欲しくないからです。祈りをとおし、厳格な統制をとおし、反復とその他すべてをとおして、あなたは一定の静けさをもたらせます。しかし、それはたんなる鈍さであり、精神と心を疲労困憊状態に陥らせるのです。それは精神を麻痺させることです。そして排除-あなたが集中と呼ぶもの-は、真実につながりません-どんな排除も決してできません。理解をもたらすものは自己認識です。そして正しい意図があるなら、気づくことは、あまり難しくありません。あなたが自分自身の過程全体を-たんに表面的な部分だけではなく、あなたの存在全体の総合過程を-理解することに興味を持っているなら、そのとき、それは比較的たやすいのです。あなたはほんとうに自分自身を知りたいなら、自分の心と精神を探し出して、それらの充分な内容を知るでしょう。知ろうとする意図があるとき、あなたは知るでしょう。そのときあなたは非難や正当化なしに、思考と感情のあらゆる動きに付いていけるのです。あらゆる思考とあらゆる感情が生じるままに付いていくことにより、あなたは平静さをもたらします-それは、強制されたのではなく、厳しく管理されたのではなく、なんの問題も、なんの矛盾も持たないことから出てきたものです。それは、風のない夜・夕べに、穏やかに、静かになる池に似ています。精神が静かであるとき、そのとき、測ることのできないものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 1
質問
意識的精神は、無意識的精神について無知で [あり] 、[それを] 恐れています。あなたは主に意識的精神に呼びかけて・に取り組んでいますが、それで充分でしょうか。あなたの方法は、無意識の解放をもたらすでしょうか。どうすれば充分に無意識的精神に取り組めるのか、どうか詳細に・詳しく説明してください。
K
私たちは、意識的と無意識的精神があることに、気づいています。しかし私たちのほとんどは、意識的な水準で、精神の上の層においてだけ機能します。それで私たちの生全体は、実質的に・実際上それに制限されるのです。私たちは、いわゆる意識的精神に住んでいるので、 [そこから] たまに・ときにほのめかし、暗示がある [ところの] より深い無意識的精神に、決して注意を払わないのです。その暗示は今のところ、私たちの特定の意識的要求に応じて、無視され・軽視されたり、歪曲されたり、翻訳されたりするのです。そこで質問者は、「あなたは主に意識的精神に呼びかけていますが、それで充分でしょうか」と訊ねます。私たちのいう意識的精神とはどういう意味なのかを、見てみましょう。意識的精神は、無意識的精神とは違っているのでしょうか。私たちは意識を無意識から分割しました。これは正当化されるでしょうか。これは真実でしょうか。意識と無意識の間に、そういう分割があるでしょうか。意識が終わって無意識が始まる [ところの] 明確な障壁、境界線があるでしょうか。私たちは、上の層、意識的精神が活動していることに気づいています。しかしそれが、一日中活動してる唯一の道具でしょうか。もしも私がたんに意識の上の層にだけ呼びかけていたなら、そのとき確かに私の言っていることは、価値がないでしょう。それは意味がないでしょう。けれども私たちのほとんどは、意識的精神が受け入れたことにすがりつくのです。なぜなら、意識的精神は、一定の明白な事実に適応することが都合がいいことを、見つけるからです。しかし無意識は反逆・反抗するかもしれないし、しばしばそうします。それでいわゆる意識と無意識の間に葛藤があるのです。
ゆえに私たちの問題は、こうなのではないでしょうか。実のところ、意識と無意識といったような二つの状態 [があるの]ではなくて、唯一つの状態があるのです。唯一の存在の状態があります-それは意識です。けれどもあなたはそれを、意識と無意識とに分割するかもしれません。しかしその意識は、決して現在についてのものではなく、いつも過去についてのものです。あなたは終わって・過ぎているものごとだけを意識します。あなたは、私が伝えようとしていることを、瞬間後で、意識するのではないでしょうか。あなたはそれを瞬間後で理解します。あなたは決して今を意識したり気づいたりしません。あなた自身の心と精神を見守ってください。すると、意識は過去と未来の間で機能していること、現在はたんに過去から未来への通路であることが、わかるでしょう。ゆえに意識は、過去から未来への動きです。
(´・(ェ)・`)つ
-
意識は一つしかないのじゃ。
日常でも感じられる心の働きを意識と呼び、感じられない部分を無意識と呼ぶだけなのじゃ。
それは記憶に依存しているものであるからいつも過去のことになるのじゃ。
自らの心の働きを観察すればそれは過去と未来の間で機能しているとわかるのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 2
あなたは働いている自分の精神を見守るなら、過去 [への動き]と未来への動きは、 [そこに]現在がない過程であることが、わかるでしょう。過去は、楽しくないかもしれない現在からの逃避の手段であるか、または未来は、現在から離れた希望であるか、どちらかです。それで精神は、過去や未来に携わって、現在を捨てる・なげうつのです。すなわち精神は、過去により条件づけられ、インド人、バラモン、非バラモン、キリスト教徒、仏教徒などとして条件づけられるのです。その条件づけられた精神が未来の中にそれ自体を投影するのです。ゆえにそれは、どんな事実をも直接に、公平に・偏見なく見る能力が、決してないのです。それは、事実を非難して拒絶するか、それとも [事実を] 受け入れて、それ自体を事実と同一化するか、どちらかです。そういう精神は明白に、どんな事実をも事実として見る能力がありません。それが、過去により条件づけられている私たちの意識の状態です。そして思考は、事実の挑戦への条件づけられた応答です。あなたが信念の、過去の条件づけに応じて応答すればするほど、ますます過去の強化があるのです。その過去の強化は明白に、それ自体の継続です-それを未来と呼ぶのです。ですからそれが私たちの精神の、意識の状態です-過去と未来の間を前後に揺れている振り子です。それが私たちの意識です-それは、精神の上の層からだけでなく、またより深い水準からも成り立って・作り上げられています。そういう意識は明白に、違った水準で機能できません。なぜなら、それは、それら二つの前後の動きを知るだけであるからです。
あなたはとても気をつけて見守るなら、それが常なる動きではないこと、二つの思考の間に間隔があることが、わかるでしょう。それはほんの一秒の極何分の一であるかもしれないけれども、振り子の前後の揺れ動きには、意義のある間隔があるのです。私たちは、自分たちの考えることが、未来へと投影される過去により条件づけられているという事実が、わかります。あなたは過去を許し・認めた瞬間、また未来をも許さなければなりません。なぜなら、過去と未来といった二つの状態 [があるの]ではなくて、意識と無意識の両方を、集団的過去と個人的過去の両方を含む一つの状態があるからです。集団的と個人的過去が、現在への応答において、一定の応答を発します-それが個人的意識を造り出すのです。ゆえに意識は過去についてのものです。それが、私たちの存在の背景・地盤全体です。あなたは過去を持った瞬間、必ず未来を持ちます。なぜなら、未来はたんに修正された過去の継続であるからです。しかしそれもやはり過去です。それで私たちの問題は、もう一つの条件づけ、もう一つの過去を造り出さずに、どのようにしてこの過去の過程に変容をもたらすのか、です。
(´・(ェ)・`)つ
-
過去と未来は記憶に拠って作られるものじゃ。
記憶に依存している人間には過去と未来だけで現在が無いのじゃ。
過去の記憶が未来にも投射されているのじゃ。
それが不安を作り出すのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 3
それを違ったふうに言うと、問題はこうです-私たちのほとんどは、一つの特定の形の条件づけを拒絶して、もう一つの形の、もっと広い、もっと意義のある、もっと楽しい条件づけを、見つけます。あなたは一つの宗教をあきらめて、もう一つを採り入れます。一つの形の信念を拒絶して、もう一つを受け入れます。そういう代用は明白に、生を、関係である生を理解することではありません。私たちの問題は、どのようにしてすべての条件づけから自由であるのか、です。それは不可能である。人間の精神は、決して条件づけから自由でありえない、とあなたは言うか、それとも実験し、探究し、発見しはじめるか、どちらかです。あなたは、それは不可能であると主張するなら、明白に競争・競技に加わっていないのです。あなたの主張は、制限された [経験]や広い経験やたんなる信念の受け入れに基づいているのかもしれません。しかしそういう主張は、探求、調査・研究、探究、発見の否定です。精神がすべての条件づけから完全に自由であることは可能なのかどうかを見出すには、あなたは自由に探究し、発見できなければなりません。
今私は、精神がすべての条件づけから自由であることは、明確に可能であると、言います-あなたは私の権威を受け入れるべきである、ということではありません。あなたはそれを権威に基づいて受け入れるなら、決して発見しないでしょう。それはもう一つの代用であるでしょうし、それは意義がないでしょう。私が、それは可能であると言うとき、私にとってそれは事実であるから、そう言うのです。私は言葉であなたにそれを示せます。しかしあなたは、自分自身でそれの真理を見出すつもりであるなら、それを実験して、それにすばやく付いていかなければなりません。
条件づけの過程全体の理解は、分析や内省をとおして、あなたにやって来ません。なぜなら、あなたが分析者を持った瞬間、まさにその分析者自身が、背景 [・地盤]の一部であるし、ゆえに彼の分析は意義がないからです。それは事実であるし、あなたはそれを脇へ置かなければなりません。自分が見ているものを検討し、分析する分析者は、彼自身が条件づけられた状態の一部であるし、ゆえに彼の解釈、理解、分析が何であろうとも、それはやはり背景 [・地盤]の一部です。ですからそのように逃避はないし、背景を打ち壊すことが不可欠 [・本質的]です。なぜなら、新しいものの挑戦に出会うには、精神は新しくなければならないからです。神、真理-何であれ-を発見するには、精神は新鮮で、過去により汚染されていてはなりません。過去を分析すること、一連の実験をとおして結論に達する・到り着くこと、主張と否定、その他すべてをすることは、まさのその本質において、違った形での背景の継続、という意味を含んでいます。あなたはその事実の真理がわかるとき、分析者が終わってしまったことを発見するでしょう。そのとき、背景から離れた実体はありません。背景としての思考だけがあるのです-思考は、意識的と無意識的、個人的と集団的両方の記憶の応答です。
精神は過去の結果です-それ [過去]は条件づけの過程です。精神が自由であることは、どのようにして可能でしょうか。自由であるには、精神は、その振り子のような過去と未来の間の揺れ動きを、見て理解するだけではなくて、また思考の間の間隔にも、気づかなければなりません。その間隔は自発的です。それはどんな原因・因果関係をとおしても、どんな願いをとおしても、どんな強制をとおしても、もたらされません。
あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ
-
人は条件付けから拒絶して、別の条件付けを受け容れるだけというのじゃ。
それを分析しても分析する者が起こるから無意味なのじゃ。
思考の止まった間に静寂の時があるというのじゃ。
その時だけ条件付けからの自由がありえるというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 4
あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ
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昨日の後半なのじゃ。
思考の隙間に注目なのじゃ。
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鬼和尚、いつもありがとうであります。
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 1
質問
私たちは逃避できない身体的、心理的必要としての性を知っています。そしてそれは、私たちの世代の私的な生における混沌の、根本原因であるように見えます。どうすれば私たちはこの問題を取り扱えるのでしょうか。
K
私たちは、自分たちが触れるものは何でも、問題に変えてしまうのは、なぜでしょうか。私たちは神を問題にしました。愛を問題にしました。関係を、生きることを問題にしました。そして性を問題にしました。なぜでしょうか。なぜ、私たちがするあらゆることが問題、恐怖なのでしょうか。なぜ私たちは苦しんでいるのでしょうか。なぜ性が問題になってしまったのでしょうか。なぜ私たちは、問題とともに生きることに服従する・甘んじるのでしょうか。なぜそれらを終わらせないのでしょうか。なぜ来る日も、来る年も、自分たちの問題を持ち運ぶかわりに、それらに対して死なないのでしょうか。性は確実に今日的な意義のある・当を得た問題です。しかし第一の・主要な問題があります-なぜ私たちは生を問題にするのか、です。働くこと、性、金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること-知っているでしょう、生きることにかかわること全体を-なぜそれは問題なのでしょうか。それは本質的に、私たちがいつも特定の視点から、固定した視点から考えるから、 ではないでしょうか。私たちはいつも中心から周辺に向かって考えています。しかし周辺が、私たちのほとんどにとって中心であるし、そのため私たちが触れるどんなことも表面的です。しかし生は表面的ではありません。それは完全に生きることを要求します。私たちは表面的にだけ生きているから、表面的な反動・反応だけを知っているのです。私たちが周辺でするどんなことも、必然的に問題を造り出すにちがいありません。それが私たちの生です。私たちは表面的なもののなかで生きています。そして表面的なものの問題すべてとともに、そこで生きることに満足しています。私たちが表面的なもののなかで、周辺で生きるかぎり、問題は存在しています-周辺は「私」とその感動・感覚です。それは客観化されることも主観的になることもできます。それは普遍的なものと、国と、精神により作り上げられた何か他のものと同一化されることもできます。
私たちが精神の領域の中で生きるかぎり、複雑さがあるにちがいありません。問題があるにちがいありません。それが、私たちが知っているすべてです。精神は感覚です。精神は蓄積された感覚と反応の結果です。それが触れるどんなものも、必ず悲惨、混乱、終わりなき問題を造り出します。精神-昼も夜も、意識的、無意識的に機械的に働いている精神-が、私たちの問題のほんとうの原因です。精神はもっとも表面的なものです。私たちは精神を育成することに、それをますます利口に、ますます微妙に、ますますずるがしこく、ますます不正直で曲がったものにすることに、数世代を使ってきましたし、自分たちの生全体を使います-そのすべては、私たちの生のあらゆる活動において明らかです。まさに私たちの精神の本性そのものが、不正直で曲がって、事実に向き合う能力がないことです。それが問題を造り出すものです。それが、問題自体であるものです。
(´・(ェ)・`)つ
-
性が問題という者に何も問題は無いというのじゃ。
それを問題にするのは宗教的な信念によるものなのじゃ。
観念によって作り出された問題に過ぎないのじゃ。
それを見ることができれば問題は何も無いのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 2
私たちのいう性の問題とは、どういう意味でしょうか。それは行為でしょうか、それとも行為についての思考でしょうか。確かに、それは行為ではありません。食べることが、あなたにとって問題でないのと同じように、性的行為は、あなたにとって問題ではありません。しかしあなたは、他に何も考えることがないから、一日中、食べることや何か他のことについて考えるなら、それはあなたにとって問題になるのです。性的行為は問題でしょうか、それともそれは、行為についての思考でしょうか。なぜあなたはそれについて考えるのでしょうか。なぜあなたはそれを-自分が明白にしていることを-築き上げるのでしょうか。映画、雑誌、物語、女性たちの服の着方・着こなし方、あらゆることが、あなたの性についての思考を築き上げます。なぜ精神はそれを築き上げるのでしょうか。なぜ精神は、そもそも性について考えるのでしょうか。なぜでしょうか。なぜそれは、あなたの生において中心的論点になってしまったのでしょうか。こんなに多くのものごとが、あなたの注意を呼び起こし、要求しているとき、あなたは性についての思考に完全な注意を払うのです。何が起きるでしょうか。なぜあなたの精神は、こんなにそれに携わって・専心しているのでしょうか。なぜなら、それが究極の逃避の道・仕方であるからなのではないでしょうか。それは完全な自己忘却の道です。今のところ・さしあたり、少なくともその当座は・その瞬間は、あなたは自分自身を忘れられるのです-自分自身を忘れる他の道はないのです。あなたが生においてする他のあらゆることは、「私」、自己を強調するのです。あなたの事業、宗教、神、指導者たち、政治的、経済的行動、逃避、社会的活動、一つの党派に加わって他のを拒絶すること- そのすべてが、「私」を強調し、強さを与えているのです。すなわち、「私」の強調がない唯一つの行為があるのです。そのためそれが問題になるのではないでしょうか。ほんのわずかな瞬間・たった数秒間でも、究極の逃避への、自分自身の完全な忘却への道である唯一つのものごとが、あなたの生にあるとき、あなたはそれにすがりつくのです。なぜなら、それが唯一の、あなたが幸せである瞬間であるからです。あなたが触れる他のあらゆる論点は、悪夢に、苦しみと苦痛の源になるのです。それであなたは、完全な自己忘却を与えてくれる一つのものごとにすがりつくのです-それを幸せと呼ぶのです。しかしあなたがそれにすがりつくとき、それもまた悪夢になります。なぜなら、そのときあなたは、それから自由でありたい、その奴隷でありたくないからです。それであなたは再び・またもや純潔の、独身・禁欲の観念を、精神から考案するのです。そして抑圧をとおして、禁欲を守ろう・通そう、純潔であろうとします-そのすべてが、事実からそれ自体を切り離そう・断ち切ろうとする、精神の操作です。これもまた、何かになろうとしている「私」に、特定の強調を与えます。それであなたはまたもや、苦労に、困難に、努力に、苦痛に捕らわれるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
性についての行為には何も問題は無いというのじゃ。
性についての思考が問題を作り上げるのじゃ。
それは自分を一瞬でも忘れさせてくれるから囚われるのじゃ。
しかし、それはまた新たな苦を作り出すのじゃ。
苦から苦への連鎖になるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 3
あなたは、問題について考える精神を理解しないかぎり、性はとてつもなく難しく複雑な問題になります。行為自体は決して問題ではありえません。しかし行為についての思考が問題を造り出すのです。あなたは行為を守ります・保護します。あなたはだらしなく・いいかげんに生きたり、結婚に耽る・身を任せたりします。よって自分の妻を娼婦にしているのです-それは見たところ・外見上、すべてとても体裁よく見えます。それであなたはそれくらいにしておくことに満足するのです。確かに、あなたが「私」と「私の」-私の妻、私の子ども、私の財産、私の車、私の達成、私の成功-の過程と構造全体を理解するときだけ、問題は解決できるのです。あなたがそのすべてを理解して解決するまで、性は問題として残っているでしょう。あなたは、政治的、宗教的、どのようにでも野心的であるかぎり、野心-個人としてのあなた自身の名においてでであれ、国の、党派の、宗教と呼ぶ観念の名においてであれ-で養う・飼い育てることにより自己を、思考者を、経験者を強調しているかぎり、この自己拡大の活動があるかぎり、性的問題を持つでしょう。あなたは一方で自分自身を造り出し、飼い育て・養い、拡大しながら、他方で瞬間だけでも・当分の間だけでも、自分自身を忘れよう、自分自身を失おう・我を忘れようとしているのです。どうして二つが共存できるでしょうか。あなたの生は矛盾です-「私」の強調と「私」を忘れることは、です。性は問題ではありません。問題は、あなたの生におけるこの矛盾です。そして矛盾は、精神により橋渡しできません。なぜなら、精神自体が矛盾であるからです。あなたが自分の日常の存在の過程全体を、充分に理解するときだけ、矛盾は理解されうるのです。映画に行ってスクリ-ンの女性たちを見つめること、思考を刺激する本や半裸の写真を載せた雑誌を読むこと、女性たちを見るあなたの仕方、あなたの [視線] を捕らえる・つかむこそこそした視線・まなざし-これらすべてのものごとが、誤った自己の強調の仕方をとおして、精神を助長していると同時に、あなたは親切で、愛情を持って、優しくあろうとしているのです。二つは共存できません。霊的にせよそうでないにせよ、野心的である人は、決して問題なしではありえません。なぜなら、自己が忘れられるとき、「私」が存在していないときだけ、問題は止むからです。そして自己が存在していないその状態は、意志の行為 [・作用]ではありません。それはたんなる反応ではありません。性は反応になります。精神が問題を解決しようとするとき、それは問題をもっと混乱させ、もっとやっっかいに・面倒に、もっと苦痛にするのです。行為が問題ではなく、精神が-それは純潔でなければならないと言う精神が、問題です。純潔は精神のものではありません。精神はそれ自身の活動を抑圧できるだけです。抑圧は純潔ではありません。純潔は美徳ではありません。純潔は育成できません。謙虚さを育成している人は、確かに謙虚な人ではありません。彼は自分のうぬぼれ・高慢さを謙虚さと呼ぶかもしれません。しかし彼は高慢な・傲慢な人です。そういうわけで、彼は謙虚になろうと努めるのです。高慢さは決して謙虚さになれませんし、純潔は精神のものごとではありません-あなたは純潔になれません。愛があるときだけ、あなたは純潔を知るでしょう。愛は精神のものでも、また精神のものごとでもないのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
問題について考える時、それはとてつもなく難しく複雑な問題になるというのじゃ。
そこには欺瞞があるからなのじゃ。
自分のものという観念への囚われと、自分を忘れようとする逃避の矛盾になるのじゃ。
高慢な者が謙虚に成ろうと努力するのと同じなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 4
ゆえに、世界中でこんなに多くの人々を拷問にかけている性の問題は、精神が理解されるまでは、解決されえません。私たちは考えることを終わらせることはできません。しかし思考者が止むとき、思考は終わるのです。過程全体の理解があるときだけ、思考者は止むのです。思考者と彼の思考の間に分割があるとき、恐れが生じます。思考者がないとき、そのときだけ、思考に葛藤がないのです。言外に含まれていることは、理解しようとする努力を必要としません。思考をとおして、思考者が生じます。そのとき思考者は、自分の思考を形造ろう、制御しよう、それらを終わらせようとけんめいに努力します。思考者は架空の・虚構の実体、精神の幻影です。事実としての思考についての悟りがあるとき、そのとき事実について考える必要はないのです。単純で無選択の気づきがあるなら、そのとき事実に含まれているものが正体を現しはじめます。ゆえに事実としての思考は終わります。そのときあなたは、私たちの心と精神を食い尽くしている問題、私たちの社会構造の問題が、解決できるということが、わかるでしょう。そのとき性はもはや問題ではありません。それはそれの適切な持ち場があります。それは不純な・汚れたことではなく、また純粋な・浄らかなことでもありません。性はその持ち場があります。しかし精神がそれに支配的な・優越した持ち場を与えるとき、そのときそれは問題になるのです。精神は性に支配的な持ち場を与えます。なぜなら、それは何らかの幸せなしには生きられないからです。それで性は問題になるのです。精神がその過程全体を理解し、そして終わるとき、すなわち考えることが止むとき、そのとき創造があります。それは、私たちを幸せにする創造です。その創造の状態にあることは、至福です。なぜなら、それは、自己からとしての反応がない自己忘却であるからです。これは、日常の性の問題への抽象的な答えではありません。それが唯一の答えです。精神は愛を否定します。愛なしに、純潔はありません。あなたが性を問題にするのは、愛がないからです。
(´・(ェ)・`)つ
-
性の問題は思考によるものであるから精神が理解されるまで解決されないというのじゃ。
思考する者が無い時に思考は止まるというのじゃ。
思考の過程全てに理解がある時だけ思考する者は止まるというのじゃ。
そして問題は無いと理解されるのじゃ。
その時だけ愛が理解されるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 1
質問
あなたのいわれる愛とはどういう意味でしょうか。
K
私たちは何が愛でないのか・愛でないものを理解することによって発見しようとしています。なぜなら、愛は知らない・知られていないものであるので、知っているものを切り捨てることによってそれに至らなければならないからです。知らないものは、知っているもので充ちている精神によって発見されえません。私たちがやろうとしていることは、知っているものの価値を見出し、知っているものを見つめることです。それが純粋に非難なく見つめられるとき、精神は知っているものから自由になるのです。そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それで私たちは肯定的にではなく、否定的に愛に接近しなければなりません。
私たちのほとんどにとって、愛とは何でしょうか。私たちは誰かを愛していると言うとき、どういう意味なのでしょうか。私たちはその人物を所有しているという意味です。その所有から嫉妬が生じます。なぜなら、私が彼や彼女を失うなら、何が起きるでしょうか。私は空っぽで・空しい、失った気持ちになります。ゆえに私は所有を合法化します。私は彼や彼女を(確保)します。その人物を確保すること、所有することから、嫉妬があります。恐れと、所有から生じる無数の葛藤すべてがあります。確かにそういう所有は愛ではないのではないでしょうか。
明白に、愛は感情・情緒ではありません。感情的であること、情動的であることは、愛ではありません。なぜなら、情にもろいこと・感傷性と情動は、たんなる感覚・感動であるからです。イエスやクリシュナについて、自分のや他の誰かについて泣く・涙を流す宗教的な人物は、たんに感情的、情動的であるだけです。彼は感動に耽っているのです-それは思考の過程です。思考は愛ではありません。思考は感覚の結果です。ですから感情的である [人] 、情動的である人は、とうてい愛を知ることができません。あらためて私たちは情動的、感情的ではないでしょうか。情にもろいこと、感情的であることは、たんに一つの形の自己拡大です。情動で充ちていることは、明白に愛ではありません。なぜなら、感情的な人物は、自分の感情が応答されないとき、自分の気持ちがはけ口を持たないとき、残酷でありうるからです。情動的な人物は、憎しみへ、戦争へ、虐殺・殺戮へと掻き立てられうるのです。感情的で、自分の宗教のために涙で充ちている人は、確かに愛がありません。
許しは愛でしょうか。許しに含まれている意味は何でしょうか。あなたは私を侮辱します。私はそれを恨みます、それを覚えています。そのとき、強制をとおし、または悔い・後悔をとおして、私は「私はあなたを許す」と言います。初め、私は保留・保有します。それから拒絶します。それはどういう意味でしょうか。私がやはり中心人物です。私がやはり重要です。誰かを許しているのは私です。許しの態度があるかぎり、重要なのは私であって、私を侮辱したと思われている人ではないのです。ですから私が恨みを蓄積し、それからその恨みを否定するとき-それが許しと呼ばれます-それは愛ではありません。愛している人は明白に憎しみを持っていませんし、これらすべてのことに対して無関心です。同情、許し、所有欲の関係、嫉妬、恐れ-これらすべてのことは愛ではありません。それらはすべて精神のものなのではないでしょうか。精神が判定・調停者であるかぎり、愛はありません。というのは、精神は所有欲をとおしてだけ調停するからです。そしてその調停は、たんに違った形での所有欲です。精神は愛を腐敗させられるだけです。それは愛を生み出せません。それは美・美しさを与えられません。あなたは愛について詩が書けますが、それは愛ではありません。
(´・(ェ)・`)つ
-
世間で言う愛とは所有であるというのじゃ。
確保して所有するから、他人がそうすると嫉妬があるのじゃ。
それは本当は愛とはいえないものじゃ。
感情とか情緒とか宗教にも愛は無いのじゃ。
思考とか精神、マインドには愛は無いと言うのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 2
本当の尊敬がないとき、もう一人を尊敬しないとき-彼があなたの召使いであろうと友人であろうと、愛はありません。あなたは召使いに対して、いわゆる「目下の」人たちに対して、尊敬して親切で寛大でないということに、気づいたことがないでしょうか。あなたは目上の人たち、自分の上司、百万長者・大金持ち、大きな家と肩書きを持つ人、あなたによい地位、よい仕事・職を与えることができ、彼から何かを得られる人に対して尊敬を払います。しかしあなたは自分より下の人たちを蹴り飛ばします・足蹴にします。彼らに対して特別な言葉を持っています。ゆえに尊敬がないところ、愛はありません。慈悲のない、愍れみ・憐れみのない、許しのないところ、愛はありません。そして私たちのほとんどはこの状態にあるので、私たちには愛がありません。私たちは尊敬もなく、慈悲深くもなく、寛大でもありません。私たちは所有欲が強く、感情と情動で充ちています-それは殺すこと、虐殺すること、または何か愚かな無知な意図について統一すること、いずれかの道に向けられるのです。ではどうして愛がありうるでしょうか。
これらすべてのことが止んでしまい終わりに至ったときだけ、あなたは所有しないとき、対象への献身をもってたんに情動的ではないときだけ、愛を知ることができるのです。そういう献身は、嘆願・哀願、違った形で何かを求めることです。祈る人は愛を知りません。あなたは所有欲が強いから、献身をとおし、祈りをとおして目的、結果を求めるから-それ [献身、祈り] はあなたを感情的、情動的にします-当然、愛はありません。尊敬がないとき、明白に愛はありません。あなたは、自分は尊敬すると言うかもしれませんが、あなたの尊敬は、目上の人に対してです。それはたんに何かを欲しがることから来る尊敬、恐れの尊敬です。あなたはもしも本当に尊敬を感じたなら、いわゆる最高の人とともに最低の人に対しても尊敬するでしょう。あなたはそれを持っていないから、愛はありません。何とほとんどの人たちは、寛大でも、許しも、慈悲深くもないことでしょう!あなたは(引き合う)とき、寛大です。見返りに何かが見えるとき、慈悲深いのです。これらのものごとが消え去るとき、これらのものごとが、あなたの精神を占有しないとき、精神のものごとがあなたの心を充たさないとき、そのとき愛があります。そして愛のみが、世界の現在の愚行・愚かさと狂気を変容させられるのです-左翼のであれ右翼のであれ体系・体制ではなく、理論ではないのです。あなたは所有しないとき、妬んで貪欲でないとき、尊敬しているとき、哀れみと慈悲を持っているとき、自分の妻、子供たち、隣人たち、不幸な召使いに対して配慮を持っているときだけ、本当に愛しています。
愛は [それについて] 考えることができません。愛は育成できません。愛は実践できません。愛の実践、同胞愛の実践は、やはり精神の領域内にあります。ゆえにそれは愛ではありません。このすべてが止んでしまったとき、そのとき愛は生じるのです。そのときあなたは愛することが何であるかを知るでしょう。そのとき愛は量 [的] ではなく質 [的] です。「私は世界全体を愛している」と、あなたは言いません。しかしあなたは一つ・一人をどう愛するかを知るとき、全体をどう愛するかを知ります。私たちは一つをどう愛するかを知らないから、私たちの人類・人間への愛は架空・虚構なのです。あなたは愛しているとき、一(人)も多(数)もありません。ただ愛だけがあります。私たちの問題すべてが解決されうるのは、愛があるときだけです。そのとき私たちはその恵み・至福とその幸せを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
-
所有する者には尊敬が無いというのじゃ。
それは自分のもちものであるからのう。
所有が無く欲も無い時尊敬はあると言うのじゃ。
それが愛なのじゃ。
全ての問題を解決できるのは愛がある時だけというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 1
質問
死は生とどんな関係があるのですか。
K
生と死の間に分割があるのでしょうか。なぜ私たちは死を、何か生から離れたものとして見なすのでしょうか。なぜ私たちは死を恐れるのでしょうか。そしてなぜ死について書かれたとても多くの本があるのでしょうか。なぜ生と死の間に、この境界線があるのでしょうか。そしてその分離は本当でしょうか。それともたんに気ままな・恣意的な精神の事柄なのでしょうか。
私たちが生について話すとき、私たちのいうのは、そこに同一化のある継続の過程としての生活、という意味です。私と私の家、私と私の妻、私と私の銀行預金、私と私の過去の経験-それが私たちが生によって意味することなのではないでしょうか。生きることは、無意識的とともに意識的な記憶における継続の過程です-それ [記憶]には、 様々な格闘、諍い、出来事、経験などを伴っています。そのすべてが生と呼ばれるものです。その対極に・それと対比して死があります。それは、そのすべてを終わりにすることです。対極すなわち死を造り出しておいて、それを怖れるとき(ので)、私たちは進んで生と死の間の関係を探そう(探ろう)とします。私たちは何かの説明でもって、継続への、来世への信念でもって、その割れ目・隔たりに橋を架けられるなら、満足するのです。私たちは輪廻転生や何か他の形の思考の継続を信じています。そのとき知っているものと知らないものの間に関係を確立しようとします。私たちは知っているものと知らないものを橋渡ししよう(に橋を架けようと)とします。よって過去と未来の間に関係を見つけようとします。私たちは生と死の間に何か関係があるのかどうかを探究するとき、それが、私たちがしていることなのではないでしょうか。私たちは生きることと終わることに、どう橋を架けるのかを知りたいのです-それが私たちの根本的願望です。
そこで、終わり、すなわち死は、生きている間に知りえないのでしょうか。私たちは生きている間に、死が何であるかを知ることができるなら、そのとき問題を持たないでしょう。私たちがそれを怖れているのは、生きている間に、知らないものを経験できないからです。私たちの格闘は、私たち自身-それは知っているものの結果です-と、死と呼ばれる知らないものとの間に、関係を確立することです。過去と、精神が考え出す(思いつく)ことのできない何か、すなわち死と呼ばれるものの間に、関係がありうるでしょうか。なぜ私たちは二つを分離するのでしょうか。それは、私たちの精神が、知っているものの領域の中で、連続的なものの領域の中でだけ機能できるから、ではないでしょうか。人は、悲惨の、楽しみの、愛、愛情の、様々な種類の経験の一定の記憶を持った思考者として、行為者(actor 作者)として自分自身を知っているだけです。人は自分自身を連続しているものとして・自分自身が連続していることを知っているだけです-そうでないと自分自身が何ものかであるという回想(追憶)を持たないでしょう。そこで、その何かが終わりになるとき-それが死と呼ばれます-知らないものへの恐れがあるのです。それで私たちは知らないものを、知っているものの中に引き込みたいのです。私たちの努力全体は、知らないものに連続性を与えることです。すなわち私たちは生-すなわち死を含んでいるもの-を知りたくないのです。いかに継続して終わりにならないか・終わらないかを知りたいのです。私たちは生と死を知りたくないのです。いかにして終わることなく継続するのかを知りたいのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
死と生は離れたものではないというのじゃ。
それは同じものの変化なのじゃ。
肉体がある時に生きるということがあり、それが止まることを死と呼ぶだけなのじゃ。
死は生の終わりであり、生は死の必要条件なのじゃ。
生がなければ死も無いからなのじゃ。
その二つを引き離すことは出来ないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 2
継続するものは新生がありません。継続(連続)性のあるものには、何も新しいものがありえません。何も創造的なものがありえません-それはかなり明白です。常に(そもそも)新しいものの可能性がありうるのは、連続性が終わるときだけです。しかし私たちが怖れるのは、この終わることです。日毎に私たちの経験、記憶、不幸を持ち越すことにではなく、終わることにおいてだけ、新生が、創造的なものが、知らないものがありうるということが、私たちはわからないのです。新しいものがありうるのは、古いものすべてに対して、毎日死ぬときだけです。連続性があるところ、新しいものはありません-新しいものとは創造的なもの、知らないもの、永遠のもの、神、何でもです。知らないもの、真実のもの、永遠のものを求める人物、連続的な実体は、決してそれを見つけないでしょう。なぜなら、彼は自分自身の中から投影するものだけを見つけられるし、彼が投影するものは真実のものではないからです。終わること、死ぬことにおいてだけ、新しいものが知られうるのです。生と死の間に関係を見つけよう、(連続するものと彼方にあると思われるものに橋を架けよう)と努める人は、架空の・虚構の真実でない世界、すなわち彼自身の投影に生きているのです。 では、生きている間に死ぬことは可能でしょうか-それは終わる、無としてある、という意味です。あらゆるものがますますなろう、またはますますなるまいとしているこの世界、あらゆるものが登り、達成し、成功する過程であるこの世界で生きている間に、そういう世界で死を知ることは可能でしょうか。すべての記憶を終わらせることは可能でしょうか-事実について [の記憶] 、自分の家に帰る道についての記憶などではなく、記憶をとおしての心理的安全への内面的執着、蓄積し、貯えてきて、そこに安全、幸せを求める記憶です。そのすべてを終わりにすることは可能でしょうか-それは、明日の新生があるように、毎日死ぬという意味です。生きている間に死を知るのは、そのときだけです。その死ぬことにおいて、その終わること、連続性を終わりにすることにおいてだけ、新生が、永遠であるその創造があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
連続するものは新しいものはないというのじゃ。
それは記憶に依存しているからなのじゃ。
記憶に依存していればなにものかが連続しており、過去と未来が在ると思うのじゃ。
その連続性が無い時にのみ新しいものがあると言うのじゃ。
連続性の終わりが死であるというのじゃ。
死は終わりではなく新しいものの始まりなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 1
質問
過去はただちに解消できるのでしょうか。それとも、それは必ず時間を必要とするのでしょうか。
K
私たちは過去の結果です。私たちの思考は昨日と何千もの昨日に基づいています。私たちは時間の結果です。私たちの応答、現在の態度は、何千もの瞬間、出来事、経験の累積的結果(影響)です。ですから過去は、私たちの大多数にとって現在です。それは否定できない事実です。あなた、あなたの思考、あなたの行動、あなたの応答は、過去の結果です。そこで質問者は、過去が即時に一掃できるのかどうかを知りたいのです。それは、時間においてという意味ではなく、即時に一掃するという意味です。それとも、この累積的過去は、精神が現在において自由になるために時間を要求するのでしょうか。疑問を理解することが重要です。それはこうです-私たち各自は、常に変わり、常に変化する無数の影響の背景を伴った過去の結果であるので、その背景を、時間の過程を経ずに一掃することは可能でしょうか。
過去とは何でしょうか。私たちのいう過去とはどういう意味でしょうか。たしかに、私たちのいうのは、年代的な過去という意味ではありません。 確かに私たちがいうのは、蓄積された経験、蓄積された応答、記憶、伝統、知識 [という意味] 、無数の思考、感情、影響、応答の潜在意識的(意識下の)倉庫、という意味です。その背景をもって真実を理解することは不可能です。なぜなら、真実は時間のないものであるにちがいないからです。それは無時間です。ですから、時間から出てきたものである精神をもって、時間のないものは理解できません。質問者は、精神を自由にすること、または精神、すなわち時間の結果であるものは、即時に存在しなくなることは可能であるのかどうかを知りたいのです。それとも、長い一連の試験を経て、分析して、それで精神をその背景から自由にしなければならないのでしょうか。
精神は背景です。精神は時間の結果です。精神は過去です。精神は未来ではありません。それはそれ自体を未来の中に投影できます。精神は現在を未来への通路として使います。ですから、それが何をやっても、その活動、その未来の活動、その現在の活動、その過去の活動が何であろうと、それはやはり時間の網の中です。精神が完全に止むこと、思考過程が終わりになることは可能でしょうか。さて精神には明白に多くの層があります。意識と呼ばれるものは、多くの層を持っています。各層は他の層と相互に関係しています。各層は他に依存し、相互に作用しています。私たちの意識全体は、経験しているだけでなく、また名づけ、用語付け、記憶として貯えてもいます。それが意識の過程全体なのではないでしょうか。
私たちが意識について話すとき、私たちのいうのは、経験すること、その経験を名づけたり用語づけること、それによりその経験を記憶にたくわえておくこと、という意味ではないでしょうか。違った水準で、このすべてが意識です。精神、すなわち時間の結果であるものは、背景から自由であるために、一歩ずつ分析の過程を経ることができるでしょうか。それとも時間から全く自由になって、真実を直接に見ることは可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
-
過去とは精神であるというのじゃ。
それは記憶に拠って作られたものじゃ。
それを理解できれば瞬時に消えるのじゃ。
ただの観念妄想であったと気付くからなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 2
背景から自由であるには、あらゆる応答、あらゆるコンプレックス、あらゆる障害、あらゆる閉塞物(障害・妨害)を検討しなければならないと、分析者の多くは言います-それは明白に時間の過程という意味を含んでいます。これは、分析者は自分が分析しているものを理解しなければならない、自分が分析するものを誤って解釈(誤解)してはならない、という意味です。彼は自分が分析するものを誤って解釈するなら、それは彼を間違った結論に導き、ゆえにもう一つの背景を確立するでしょう。分析者は自分の思考と感情を、極わずかの逸脱もなく分析する能力がなければなりません。そして彼は自分の分析において一歩も失敗して(はずして・見失って)はなりません。なぜなら、間違った歩みをすること、間違った結論を引き出すことは、違った線に沿って、違った水準で、背景を再確立することであるからです。この問題もまた生じます-分析者は自分が分析するものとは違っているのだろうか。分析者と分析されるものとは接合した(共通の・共有の)現象ではないでしょうか。
確かに、経験者と経験とは接合した現象です。それらは二つの分離した過程ではありません。それでまず最初に、分析することの難しさを見ましょう。私たちの意識の内容全体を分析して、よってその過程をとおして自由になることは、ほとんど不可能です。結局、分析者とは誰でしょうか。分析者は、自分が分析しているものと自分は違っていると思うかもしれませんが、違っていません。彼は自分が分析するものから自分自身を分離するかもしれませんが、分析者は自分が分析するものの一部です。私は或る思考を持っています。或る感情を持っています-例えば、私は怒っているとします。怒りを分析する人物は、やはり怒りの一部です。ゆえに分析されるものと共に分析者は、接合した現象です。それらは二つの分離した力や過程ではありません。ですから私たち自身を分析すること、展開すること、次から次へとぺ-ジをめくって私たち自身を見つめること、あらゆる反応、あらゆる応答を見張ることの難しさは、計算できないほど難しくて長いのです。ゆえにそれは、私たちを背景から自由にする道ではないのではないでしょうか。もっと単純でもっと直接の道があるにちがいないし、それが、あなたと私が見出そうとしていることです。見出すためには、偽りであるものを切り捨て [なければなりません] 、それにすがりついてはなりません。ですから分析は道ではありません。私たちは分析の過程から自由でなければなりません。
そのときあなたは何を去ったのでしょうか。あなたは分析することに慣れているだけではないでしょうか。観察している観察者-観察者と観察されるものは接合した現象です-自分が観察するものを分析しようとしている観察者は、自分の背景から自由にならないでしょう。そうであるなら-そうなのですが-あなたはその過程を捨て去るのではないでしょうか。あなたは、それが偽りの道であることがわかるなら、それが偽りの過程であることを、たんに言葉の上だけでなく現実に悟るなら、そのときあなたの分析に何が起きるでしょうか。あなたは分析するのを止めるのではないでしょうか。そのときあなたは何を去ったのでしょうか。それを見守ってください。それに付いてきてください。すると、どんなに急速にすばやく、背景から自由になれるかがわかるでしょう。それが道でないなら、他に何を去ったのでしょうか。分析すること、探り、覗き込むこと、解剖すること、結論を引き出すことなどに慣れている精神の状態は、どんなものでしょうか。その過程が止んでしまったなら、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
-
記憶から自由であるためには全ての観念を見る必要は無いのじゃ。
自分自身が見る者であり、見られるものであることに気付けば善いのじゃ。
それが自分を見る事になるのじゃ。
観察する者と観察されるものがあるという観念があれば記憶から離れることは無いのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 3
精神は空白であると、あなたは言います。その空白の精神の中にさらに進んでください。言い換えれば、あなたは、偽りであるとして知られているものを切り捨てるとき、あなたの精神に何が起きたのでしょうか。結局、あなたは何を切り捨てたのでしょうか。あなたは背景から出てきたものである偽りの過程を切り捨てたのです。そうではないでしょうか。一発(一撃)で、いわばあなたは全体を切り捨てたのです。ゆえに、あなたが分析過程と共にそのすべての含意(意味合い)を切り捨てて、それが偽りとわかるとき、あなたの精神は昨日から自由であるし、ゆえに時間の過程を経ずに直接に見る [能力がある] し、よって即時に背景を切り捨てる能力があるのです。
疑問全体を違ったふうにすると、思考は時間の結果なのではないでしょうか。思考は環境の、社会的、宗教的影響の結果です-それはすべて時間の一部です。そこで思考は時間から自由でありうるでしょうか。すなわち時間の結果である思考は止まって、時間の過程から自由でありうるでしょうか。思考は制御され形作られえます。しかし思考の制御はやはり時間の領域の中にあるのです。そこで私たちの困難は-時間の、何千もの昨日の結果である精神は、どのようにしてこの複雑な背景から瞬時に自由でありうるのか-です。あなたは明日にではなく現在、今、それから自由でありえます。それは、あなたが偽りであるものを悟るときだけ、できるのです。偽りのものは明白に分析的過程です。それが私たちの持っている唯一のものです。強制をとおしてではなく、その過程の避けられない偽りを理解することをとおして、分析的過程が完全に止まるとき、そのときあなたは、自分の精神が完全に過去から分離されていることがわかるでしょう-それはあなたが過去を認識しないということではなく、あなたの精神が過去と直接の交流を持たないという意味です。それで、それは即時に、今、過去から自由になれるのです。この過去からの分離、昨日からのこの完全な自由は-年代的にではなく心理的に-可能です。それが真実を理解する唯一の道です。
それをとても単純にすると、あなたが何かを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたが自分の子供を理解したいとき、誰かを、誰かが言っていることを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたは他の人が言っていることを分析し、批判し、判定していません。あなたは聴いているのではないでしょうか。あなたの精神は、思考過程は活動していないがとても鋭敏である状態にあります。その鋭敏さは、時間のものではないのではないでしょうか。あなたはたんに鋭敏で受動的に受け入れる(受容力がある)けれども、充分に気づいているだけです。そして理解があるのは、この状態においてだけです。精神が動揺し、問い、悩み、解剖し、分析しているとき、理解はありません。理解しようとする意図があるとき、精神は明白に平静です。もちろんこれは、あなたが実験してみなくてはなりません。私の言うことを真に受ける(信じる)のではありません。あなたは分析すればするほど、ますます理解しないということがわかるはずです。あなたは一定の出来事、一定の経験を理解するかもしれませんが、意識の内容全体は、分析的過程をとおして空っぽにすることはできません。それは、あなたが分析をとおした接近の偽りがわかるときだけ、空っぽにできるのです。あなたは偽りを偽りとわかるとき、そのとき何が真実であるかがわかりはじめます。そしてあなたを背景から解放することになるのは、真理です。
(´・(ェ)・`)つ
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思考は時間に拠っているから時間からは自由でありえないというのじゃ。
記憶に縛られているのじゃ。
思考に拠らない理解は時間によるものではないのじゃ。
時間を掛けず瞬時に理解できるのじゃ。
それが気づきなのじや。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 1
質問
真理が来るために、あなたは観念をもたない行動を、主張されます。観念をもたずに、すなわち目的を視野にもたずに、いつのときも行動することは、可能でしょうか。
K
私たちの現在の行動は何でしょうか。私たちのいう行動とは、どういう意味でしょうか。私たちの行動-私たちがしたい、ありたいと思うこと-は、観念に基づいているのではないでしょうか。それが、私たちの知っているすべてです。私たちは観念、理想、約束・誓約、あるがままの自分たちとそうでないものについての様々な定式を持っています。私たちの行動の基礎は、未来の報賞か、罰への恐れです。私たちはそれを知っているのではないでしょうか。そういう行動は孤立させ、自己を閉鎖しています(孤立的、自己閉鎖的です)。あなたは美徳についての観念を持っていて、その観念に応じて、関係において生き、行動します。あなたにとって関係は-集団的でも個人的でも-理想に向かい、美徳に向かい、達成などに向かっている行動です。
「私は勇敢でなければならない」、「私は模範に付いていかなければならない」、「私は慈悲深く・情け深くなければならない」、「私は社会的に意識しなければならない」、などといったように-私の行動が理想、すなわち観念に基づいているとき、その観念が私の行動を形造り、私の行動を導きます。私たちは皆「私が付いていかなければならない美徳の模範がある」と言います-それは、「私はそれに応じて生きなければならない」という意味です。それで行動はその観念に基づいています。行動と観念の間に大きな隔たり・深淵があります。分割があります。時間の過程があります。そうなのではないでしょうか。言い換えれば、私は慈悲深くないのです。愛していないのです。自分の心の中に許しがないのです。しかし慈悲深くなければならないと、感じるのです。それであるがままの私とあるべき私との間に隔たりがあるのです。私たちはいつのときも、その隔たりに橋を架けようとしています。それが私たちの活動なのではないでしょうか。
では、もしも観念が存在しなかったなら、何が起きるでしょうか。一挙に、あなたは隔たりを取り去ってしまったのではないでしょうか。あなたはあるがままのあなたであるでしょう。「私は醜い。美しくならなければならない。どうすべきでしょうか」と、あなたは言います-それは観念に基づいた行動です。「私は慈悲深くない。慈悲深くならなければならない」と、あなたは言います。それであなたは、行動から分離した観念を導入します。ゆえにあるがままのあなたの真の行動 [・作用]は決してなくて、いつもあるであろうあなたの理想に基づいた行動があるのです。 愚かな人はいつも、自分は利口になろうとしていると、言います。彼は座って、なろうと働き、格闘して・もがいています。彼は決して止めません。「私は愚かだ」とは決して言いません。それで彼の行動、すなわち観念に基づいているものは、全く行動ではないのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
観念がある時には行動は無いというのじゃ。
なぜならば観念による行動は欲とか規範による反応であるからというのじゃ。
観念を持つ者は行動しているのではなく、ただ反応しているのみなのじゃ。
観念が無いと時こそ真の理想に基づいた行動があると言うのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 2
行動とは、すること、動くことという意味です。しかしあなたが観念を持つとき、それはたんに行動との関係において、観念作用が続いている、思考過程が続いているだけです。観念がなければ、何が起きるでしょうか。あなたは、あるがままのあなたです。あなたは慈悲深くありません・無慈悲です。あなたは許していません。あなたは残酷で愚かで無思慮です。あなたはそれと共にとどまれるでしょうか。あなたはそうするなら、そのとき何が起きるか、わかります。私は自分が慈悲深くなく愚かであるのを認識するとき、それがそうであることに気づくとき、何が起きるでしょうか。慈善の心がないでしょうか。智恵がないでしょうか。私が慈悲深くないことを、言葉ではなく、作為的にではなく、完全に認識するとき、自分が慈悲深くなくて愛がないのを認識するとき、まさにそのあるがままを見ることこそに、愛がないでしょうか。私は即時に慈悲深くならないでしょうか。私が清潔であることの必要性がわかるなら、それはとても単純です。私は洗いにゆきます。しかしそれが、私が洗うべきであるという観念であるなら(私は洗うべきであるということが観念であるなら)、そのとき何が起きるでしょうか。そのとき清潔さは延期されるか、または表面的です。
観念に基づいた行動は、とても表面的です。全く真の行動ではありません。ただ観念作用だけです-それはたんに思考過程が続いているだけです。
人間としての私たちを変容させ、革新、償い、変容をもたらす行動-何と呼ぼうと-そういう行動は観念に基づいていません。それは、賞罰の連続とはかかわりのない行動です。そういう行動は時間がありません。なぜなら、時間の過程、計算する過程、分割し、孤立化させる過程である精神が、その中に入ってこないないからです。
この質問はあまりたやすく解決されません。あなたたちのほとんどは、質問をして、「はい」とか「いいえ」とかいう答えを期待します。「あなたのいうのはどういう意味でしょうか」というような質問をして、それから深く坐って、私に説明させることはたやすいです。しかし自分自身で答えを見出すことのほうが、はるかにもっと困難です-問題がなくなるほどに、それほど奥深く、それほど明晰に、なんの腐敗もなく問題の中に入ることのほうが、です。精神が問題に向き合ってほんとうに静寂であるとき、それは起こりうるだけです。問題は、あなたがそれを愛するなら、夕暮れと同じほど美しいのです。あなたは問題と敵対しているなら、決して理解しないでしょう。私たちのほとんどは敵対しています。なぜなら私たちは、結果に、進めば起きるかもしれないことに、怯えているからです。それで問題の意義と範囲・視野を失うのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
観念がある行動は行動ではないばかりか、観念そのものとまで言うのじゃ。
行動は無く観念が続いているだけなのじゃ。
汚い自分を洗おうとする観念による行動は汚い自分を続けるだけというのじゃ。
観念に基づかない行動だけが変容を引き起こすというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 1
質問
私はあなたの言うことを聴くとき、すべてが明確で新しく見えます。家では、古いもの、鈍い落ち着きのなさが、自己を主張します。私の場合、何が間違っているのでしょうか。
K
私たちの生において、現実に起きているのは何でしょうか。常なる挑戦と応答があります。それが存在であり、それが生なのではないでしょうか-常なる挑戦と応答です。挑戦はいつも新しくて、応答はいつも古いのです。私は昨日あなたに会いました。そしてあなたは今日私のところへ来ます。あなたは違っています。あなたは修正されています。あなたは変わりました。あなたは新しいのです。しかし私は、あなたが昨日あったのと同じあなたの映像を持っています。ゆえに私は新しいものを古いものの中に吸収します。私は新たにあなたに出会わないのです。昨日のあなたの映像を持っています。それで挑戦への私の応答は、いつも条件づけられるのです。あなたはここでは当分は、バラモン、キリスト教徒、高いカ-スト、-何であろうと-であるのを止めます-あなたはあらゆるものごとを忘れます。あなたはただ聴いて、熱中して、見出そうとしています。あなたは自分の日常の生を再開するとき、自分の古い自己になります-自分の仕事、自分のカ-スト、自分の体制、自分の家族に戻っています。言い換えれば、新しいものは古いものにより、古い習慣、慣習、観念、伝統、記憶の中に、いつも吸収されているのです。決して新しいものはないのです。というのは、あなたはいつも古いものでもって新しいものに出会っているからです。挑戦は新しいのですが、あなたは古いものでもって、それに出会うのです。この質問における問題は、いつのときも新しくあるように、どのようにして思考を古いものから自由にするか、です。あなたは花を見るとき、顔を見るとき、空、木、微笑を見るとき、どのようにして新たにそれと出会うのでしょうか。私たちがそれと新たに出会わないのは、なぜでしょうか。古いものが新しいものを吸収して、それを修正するのは、なぜでしょうか。あなたが家に帰るとき、なぜ新しいものは止むのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
-
記憶に依存していれば常に全ては古いものになるのじゃ。
過去の記憶から今見ているものごとが解釈されるからのう。
今は直ぐに古くなってしまうのじゃ。
記憶に依存しなければ全ては常に新しいのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 2
古い応答は思考者から生じます。思考者はいつも古いものではないでしょうか。あなたの思考は過去に基づいているから、あなたが新しいものに出会うとき、それに出会っているのは思考者です。昨日の経験がそれに出会っているのです。思考者はいつも古いものです。それで私たちは違った仕方で同じ問題に戻って来るのです。どのようにして精神を、思考者としてのそれ自体から自由にするのか。どのようにして記憶を-事実に基づく・関する記憶ではなく、心理的な記憶、すなわち経験の蓄積を-根絶するのか。経験の残り滓からの自由なしには、新しいものの受容はありえません。思考を自由にすること、思考過程から自由であって、それで新しいものに出会うことは、困難なのではないでしょうか。なぜなら、私たちのすべての信念、すべての伝統、教育におけるすべての方法は、模倣、真似ること、記憶すること、記憶の貯え・貯蔵所を築き上げることであるからです。その記憶が常に新しいものに応答しています。その記憶の応答が、考えることと呼ばれます。その考えることが新しいものに出会うのです。それでどうして新しいものがありうるでしょうか。記憶の残り滓がないときだけ、新しさがありえるのです。経験が終わり、終了し・終結し、終わっていないとき、残り滓があるのです。すなわち経験についての理解が不完全であるときです。経験が完全であるとき、残り滓はありません-それが生の美しさです。愛は残り滓ではありません。愛は経験ではありません。それは存在の状態です。愛は永遠に新しいのです。ゆえに私たちの問題は-家においてさえも、常に新しいものに出会えるでしょうか。確かにできます。そうするには、思考に、感情に、革命をもたらさなければなりません。あらゆる出来事が、瞬間瞬間考え抜かれるとき、あらゆる応答が-たんにいいかげんに・何気なく見られ、投げ捨てられるのではなく-充分に理解されるときだけ、あなたは自由でありうるのです。あらゆる思考、あらゆる感情が完全にされ・完了され、最後まで考え抜かれるときだけ、蓄積する思考からの自由があるのです。言い換えれば、各思考と感情が考え抜かれ、終了・終結されるとき、終わりがあるのです。その終わりと次の思考の間に空間があるのです。その静寂の空間に、新生があり、新しい創造性が起きるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
認識が記憶に依存していれば、新しいものも古い記憶から解釈されてしまうのじゃ。
記憶によって認識したことから思考が生まれるから、思考は常に古いのじゃ。
記憶に無い新しいものごとは思考されないのじゃ。
それを理解できた時に静寂があり、新しいものを認識できるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 3
これは理論的ではありません。これは非実践的ではありません。あなたは、あらゆる思考と感情を考え抜こうとするなら、それはあなたの生において、とてつもなく実践的であることを、発見するでしょう。というのは、そのときあなたは新しいし、新しいものは永遠に永続するからです。新しいことは創造的ですし、創造的であることは幸せであることです。幸せな人は、自分が富裕であるか貧しいかに関心がありません。彼は社会のどんな水準、どんなカ-スト、どんな国に、自分が属しているかを気にしません。彼は指導者も、神も、寺院も、教会も [持ちません]、 ゆえに諍いも、敵も持ちません。
確かにそれが、この現在の混沌の世界において、私たちの問題を解決するもっとも実践的な道ではないでしょうか。私たちが自分たちの意識の違った水準すべてにおいてこんなに反社会的であるのは、私たちが-私がその言葉を使っている意味において-創造的でないからです。私たちの社会的関係において、あらゆるものごととの関係において、とても実践的で効果的であるには、幸せでなければなりません。終わりがなければ、幸せはありえません。常なるなりゆきの過程があるなら、幸せはありえません。終わることのなかに、新生、再生・復活、新しさ、新鮮さ、喜びがあるのです。
背景があるかぎり、精神、思考者が、自分の思考により条件づけられるかぎり、新しいものは古いものに吸収されるし、古いものは新しいものを破壊します。背景から、条件づける影響から、記憶から自由であるには、継続・連続性からの自由がなければなりません。思考と感情が完全に終わらないかぎり、継続性があります。あなたは思考をその終わりまで追求し、よってあらゆる思考、あらゆる感情を終わらせるとき、思考を完全にする・完了するのです。愛は、習慣、記憶ではありません。愛はいつも新しいのです。精神が新鮮であるときだけ、新しいものとの出会いがありうるのです。そして記憶の残り滓があるかぎり、精神は新鮮ではありません。記憶は心理的と共に事実に基づいています。私は事実に基づいた記憶についてではなく、心理的な記憶について話しています。経験が完全に理解されないかぎり、残り滓があります-それが古いものです。それが昨日のもの、過去であるものごとです。過去はいつも新しいものを吸収しているし、ゆえに新しいものを破壊しています。精神があらゆるものごとに新たに出会うのは、それが古いものから自由であるときだけです。そしてその中に、喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
思考とか感情をどこまで追及するならばそれが消える境地にまで達するのじゃ。
実際にそれは出来ることじゃ。
思考とか感情を終わらせれば新しいものに出会えるのじゃ。
そして喜びが在るのじゃ。
-
うむ。
確かに、永遠に続く苦しみの様に思われる強い感情や、負の思考も、やがて消え去ることを知っています。
Kの方法は、その思考、感情が消え去るまて考え抜き、感じ続けることでありますかね?
「観」の徹底を求めてるのでありましょうか?
呼吸への集中→雑念に巻き込まれて集中することを忘れる→そのことに気づいて集中に戻る→雑念が消える。
↑こちらの方が、だれでもできる楽な実践法のように思えるのでありますが、Kは、「集中」「止」が、「観」の徹底の邪魔をすると考えてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 1
質問
情動に名づけることやレッテルを貼ることなしに、どうしてそれに気づけるのでしょうか。私は [ある] 感情に気づくなら、それが生じた後にほとんど即時に、その感情が何であるかを知っているように見えます。それともあなたは、「名づけてはいけない」と言うとき、何か違ったことを意味しているのでしょうか。
K
なぜ私たちは何かに名づけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人物に、感情に、レッテルを貼るのでしょうか。自分の感情を伝達するため、花等々を叙述するため、または自分自身をその感情と同一化するため、のどれかです。そうではないでしょうか。私は伝達するために、何かに、感情に名づけます-「私は怒っている」。またはその感情を強めるため、解消するため、それについて何かをするために、自分自身をそれと同一化します。私たちは他の人たちに伝達するために、何かに、バラに名前をつけます。またはそれに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちは「それはバラです」と言って、急いで・すばやくそれを見て次に進みます。それに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちはそれを分類しておいて、よってその花の内容と美しさ全体を理解したと、思うのです。
何かに名前をつけることにより、私たちはたんにそれをに入れただけです。それでそれを理解したと思うのです。私たちはそれをもっときっちりと見ないのです。私たちはどんなふうにでもそれに名前をつけないなら、それを見るように強いられるのです。すなわち私たちは花でも何でも、新しさをもって、新しい検討の質をもって接近するのです。私たちはまるで今まで見たことがなかったかのように、それを見ます。名づけることは、ものごとや人を整理する・処置するとても便利なやりかたです-彼らはドイツ人、日本人、アメリカ人、インド人であると言うことにより、あなたは彼らにレッテルを貼って、レッテルを破壊できるのです。あなたは人々にレッテルを貼らないなら、彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことは、はるかにもっと難しいのです。あなたは爆弾でレッテルを破壊して正しいと・正義だと感じることができます。しかしあなたはレッテルを貼らないで、ゆえに一個の・個々のものごと-それが人でも花でも出来事でも情動でも-を見なければならないなら、そのとき、それと自分の関係、後に続く行動との関係を考えるように強いられるのです。それで用語づけることやレッテルを貼ることは、何かを処理する-それを否定したり非難したり正当化したりする-とても便利なやり方です。
あなたがそこから名づけてくる中核・核芯は何でしょうか。いつも名づけ、選択し、レッテルを貼っている中心は何でしょうか。私たちは皆、中心、核があると感じるのではないでしょうか-そこから私たちは行動しています。そこから判断しています。そこから名づけています。その中心、その核は何でしょうか。或る者は、それは霊的本質、神、などであると考えたいように思うのです。それでその核、その中心が何であるかを見出しましょう-それが名づけ、用語付け、判断しているのです。確かに、その中心は記憶なのではないでしょうか。同一化され、閉じ込められた一連の感動-現在をとおして命を与えられた過去です。その核、その中心が、名づけること、レッテルを貼ること、覚えておくことをとおして、現在を常食にするのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
>>397 そうじゃ、それを観察と呼ばないだけなのじゃ。
実際は観察しているのであるがのう。
そのようじゃ。
集中なく観察をしろというのじゃ。
困難なことじゃ。
-
名づけるのはものごとや人を整理するのに便利であると言うのじゃ。
しかし、それは記憶による分別なのじゃ。
記憶により分別されてしまえばそれはもはや古いことになってしまうのじゃ。
今ここにいることはできないのじゃ。
過去の記憶に生きているのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 2
私たちは、それを展開する・紐解くにつれて、この中心、この核が存在しているかぎり、理解はありえないことが、やがてわかるでしょう。理解があるのは、この核の消散をもってだけです。なぜなら、結局、その核は記憶であるからです-名前、レッテル、同一化を与えられてきた様々な経験の記憶です。名づけられ、レッテルを貼られたそれらの経験をもって、その核から、経験の記憶の感動 [に応じ] 、楽しみと苦痛に応じて、受け入れと拒絶、あろう、あるまいとする決意・決心・決定があるのです。ですからその核は言葉です。あなたがその中心に名づけないなら、中心はあるでしょうか。すなわちあなたが言葉という見地に立って考えないなら、言葉を使わないなら、考えられるでしょうか。考えることは、言語化・言葉にすることをとおして生じます。または言語化は、考えることに応答し始めます。中心、核は、言語化された無数の楽しみと苦痛の経験の記憶です。どうかそれをあなた自身のなかに見守ってください。すると実体よりも言葉のほうがはるかにもっと重要になってしまったこと、レッテルのほうがはるかにもっと重要になってしまったことが、わかるでしょう。それで私たちは言葉を拠り所に・糧として生きているのです。
私たちにとって真理、神のような言葉が-またはそれらの言葉が表す・表現する感情が-とても重要になってしまったのです。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「ヒンドウ-教徒」という言葉や「怒り」という言葉を言うとき、私たちが、感情を表す言葉です。しかし私たちはその感情が何であるかを知りません。なぜなら、言葉が重要になってしまったからです。あなたが自分自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、その言葉はどういう意味でしょうか。その言葉の裏の意味は何でしょうか-あなたはそれを決して検討したことがありません。私たちの中心、核が、言葉、レッテルです。レッテルが大事でないなら、大事なものは、レッテルの裏にあるものであるなら、そのときあなたは探究することができます。しかしあなたはレッテルと同一化されて、それに突き刺されている・それがこびりついているなら、前進できません。私たちはレッテルと同一化されています-家、形・姿、名前、家具、銀行預金、自分たちの意見、自分たちの刺激物等々と-。私たちはそれらすべてのものごと-名前により表されているそれらのものごと-です。ものが、名前が、レッテルが、重要になってしまったのです。ゆえに中心・核が言葉です。
(´・(ェ)・`)つ
-
言葉や名前による分別が記憶から起こっているというのじゃ。
それが問題の核であるというのじゃ。
その核がなくならない限り理解はないというのじゃ。
仏教で言えば阿頼耶識じゃな。
今ここにあるものごとよりも、記憶による名前の方が現実と認識してしまっているからそれは消滅させなければならないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 3
言葉がなく、レッテルがないなら、中心はないのではないでしょうか。分解・解消があります。空っぽがあります-恐れの空っぽではありません-それは全く違ったことです。何でもないもの・無としてあるという感覚があります。あなたはレッテルすべてを取り除いた・剥がし取ったから、というよりむしろなぜ自分が感情と観念にレッテルを貼るのかを理解したから、あなたは完全に新しいのではないでしょうか。あなたがそこから行動している中心はありません。中心、すなわち言葉は解消されたのです。レッテルは剥ぎ取られました。すると中心としてのあなたは、どこにいるのでしょうか。あなたはいます。しかし変容があったのです。その変容はほんの少し恐ろしい・ぎょっとするのです。ゆえに、あなたは、それにやはり関与しているものを続けないのです。あなたはすでにそれを判断し、自分がそれを好きか好きでないかを決定しはじめています。あなたは近づいている・来たりつつあるものの理解を続けません。すでに判断しています-それは、あなたが、そこから行動している中心を持っているという意味です。ゆえに、あなたは判断した瞬間、固定したままでいるのです。「好き」と「嫌い」という言葉が重要になります。しかしあなたが名づけないとき、何が起きるでしょうか。あなたはもっと直接的に情動を、感動を見ます。ゆえに、ちょうどあなたが花に名づけないときそれと持つような全く違った関係を、それと持ちます。あなたは新たにそれを見るように強いられます。あなたは人々の集団に名づけないとき、彼らすべてを全体・集合体として扱うのではなく、各個人の顔を見るように強制されます。ゆえにあなたははるかにもっと鋭敏で、もっと観察力があり、もっと理解があるのです。あなたはより深い哀れみ、愛の感覚を持ちます。しかしあなたが彼らすべてを全体として扱うなら、それは終わっています。
あなたはレッテルを貼らないなら、あらゆる感情を生じるままに見なければ・凝視しなければなりません。あなたがレッテルを貼るとき、感情はレッテルと違っているのでしょうか。それともレッテルが感情を目覚めさせるのでしょうか。どうかそれをよく考えてください。私たちがレッテルを貼るとき、私たちのほとんどは感情を強烈にします。感情と名づけることは瞬時・瞬間的です。もしも名づけることと感情の間に隔たりがあったなら、そのときあなたは、感情が名づけることと違っているのかどうかを、見出せるでしょう。それで感情に名づけることなく、それを扱うことができるでしょう。
問題はこうなのではないでしょうか-怒りといったような、私たちが名づける感情から、どのようにして自由であるのか、です。どのようにしてそれを服従させ・征服し、昇華し、抑圧するのかではなく-それはすべて白痴的で・ばかげて幼稚です-どのようにしてそれからほんとうに自由であるのか、です。それからほんとうに自由であるには、私たちは、言葉のほうが感情よりももっと重要なのかどうかを、発見しなければなりません。「怒り」という言葉のほうが、感情自体よりももっと意義を持つのです。ほんとうにそれを見出すには、感情と名づけることの間に隔たりがなければなりません。それが一部です。
(´・(ェ)・`)つ
-
言葉があるとき感情も起こり、好き嫌いも起こるというのじゃ。
そして執着が起こり、苦も起こるのじゃ。
言葉とレッテルが無ければ空があるのじゃ。
観念が無くとも意識は常に在るのじゃ。
-
うむ。科学、技術的な言葉、観念わ否定するのではなくて、感情、感覚などを蓄積した記憶に基づく観察を否定しているのでありますね。
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 1
質問
私たちの精神は、知られたものだけを知っています。私たちの中で、知られないもの、真実、神を見つけるように駆り立てるのは、何でしょうか。
K
あなたの精神は知られないものに向かって駆り立てるのでしょうか。私たちには、知られないもの、真実、神への衝動があるのでしょうか。どうかそれを真剣に考え抜いてください。これは修辞学的な問い・反語ではなくて、現実に見出しましょう。私たち各自には、知られないものを見出したいという内面の衝動があるのでしょうか。あるのでしょうか。どうしてあなたは知られないものを見つけられるでしょうか。あなたがそれを知らないなら、どうして見つけられるでしょうか。真実への衝動があるのでしょうか。それともそれはたんに知られたものへの拡大された願望でしょうか。私のいうことがどういう意味なのか、理解していますか。私は多くのものごとを知ってきました。それらは私に幸せ、満足、喜びをくれませんでした。それで今や私は、もっと大きな喜び、もっと大きな幸せ、もっと大きな生命力-何であれ-を自分にくれるであろう何か他のものを、欲しがっているのです。知られたもの-それは私の精神です-なぜなら、私の精神は知られているから、過去の結果であるからです-その精神が知られないものを求められるでしょうか。私は真実を、知られないものを知らないなら、どうしてそれを探求できるでしょうか。確かにそれは来なければなりません。私はそれを追ってゆけません・追いかけられません。私はそれを追ってゆくなら、何か自分が投影した知られたものであるものを、追っているのです。
私たちの問題は、私たちの中で、知られないものを見つけるように自分たちを駆り立てるのは何なのかではありません-それは充分明らかです。それは、もっと安全で、もっと永久的で、もっと確立され、もっと幸せでありたい、騒乱・騒動から、苦痛、混乱から逃避したいという私たち自身の願望です。それが私たちの明白な駆動力です。その駆動力、その衝動があるとき、あなたは-ブッダに、キリストに、政治的とその他すべてに-すばらしい逃避、すばらしい避難所を見つけるでしょう。それは真実ではありません。それは知ることのできないもの、知られないものではありません。ゆえに知られないものへの衝動は、終わらなければなりません。知られないものへの探求は止まなければなりません-それは、累積する知られたもの、すなわち精神の理解がなければならないという意味です。精神は、知られたものとしてのそれ自体を理解しなければなりません。なぜならそれが、それが知っているすべてであるからです。あなたは、何か自分が知らないものについて考えられません。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。
私たちの困難は、精神が知られたものに進んでいかないことです。それは、精神がそれ自体を [理解して] 、そのすべての動きが、どのように過去から現在をとおして未来にそれ自体を投影しているかを理解するときだけ、起きるのです。それは知られたものの一つの連続した動きです。その動きは終わりうるでしょうか。それは、それ自身の過程の機構が理解されるときだけ、精神がそれ自体とその働き、そのやり方、その目的、その追求、その要求を-表面的な要求だけでなく、深い内面的な衝動と動機を-理解するときだけ、終わりうるのです。これは全く困難な作業です。*あなたが見出すのは、ただ会議の中や講義においてや本を読むことにおいてではないのです。反対に、それは、思考のあらゆる動きへの常なる見守り、常なる気づきが要るのです-あなたが起きているときだけでなく、また眠っているときも、です。それは散発的な、部分的な過程ではなく、総合的な過程でなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
-
悟っていない者が知るのは記憶の中にあるものだけなのじゃ。
記憶に無いものごとは知られないのじゃ。
それでも知ろうとする意志は起こるのじゃ。
その意志をも観察して理解することで無くすのじゃ。
本当に知らないものが理解できるのはその後なのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 2
また、意図が正しくなければなりません。すなわち、私たち皆が内面的に、知られないものを欲しがるという迷信の停止がなければなりません。私たちが皆神を求めていると考えることは、幻影です-私たちは [求めて]いません。私たちは光を探し求めなくていいのです。闇がないとき、光があるでしょう。闇をとおして、光は見つけられません。わたしたちにできるすべては、闇を造り出すそれらの障壁を取り去ることです。除去は意図に依ります。あなたは光を見るために、それらを取り去っているなら、そのとき何も取り去っていません。闇の代わりに光という言葉を用いているだけです。闇を越えて・の向こうを見ることさえも、闇からの逃避です。
私たちは、自分たちを駆り立てているのは何なのかではなく、なぜ自分たちには、そういう混乱、そういう騒動、そういう闘争と敵対が-私たちの存在の愚かなものごとすべてが-あるのかを、考慮しなければなりません。これらがないとき、そのとき光があります。私たちはそれを捜さなくていいのです。愚かさが去ったとき、智恵があります。しかし愚かであって智恵を持とうとする人は、やはり愚かです。愚かさは決して英知になれません。愚かさが止むときだけ、英知、智恵があるのです。愚かであって智恵を [持とう]、賢くなろうとする人は、明白に、決してそうあることができません。何が愚かさなのかを知るには、表面的にではなく、充分に、完全に、深く、奥深く、それに入らなければなりません。愚かさの違った層すべてに入らなければなりません。その愚かさの停止があるとき、英知があります。
ゆえに、知られたものより何かもっと多くのもの、何かもっと偉大なものがあるのかどうかを、見出さないこと [が重要です] ・見出すのではなくて-それが私たちを知られないものへと駆り立てているのです-私たちの中で、混乱、戦争、階級差別、俗物性・根性、名声の追求、知識の蓄積[を造り出し]、音楽をとおし、芸術をとおし、こんなに多くの仕方をとおして逃避を造り出しているのは何なのかを見ることが、重要です。確かに、それらをあるがままに見ること、あるがままの私たち自身に戻ってくることが、重要です。そこから私たちは、進めるのです。そのとき、知られたものを脱ぎ落とすことは、比較的たやすいのです。精神が静寂であるとき、それがもはや何かを願って、それ自体を未来へと投影していないとき、精神がほんとうに静かで、深く平和であるとき、知られないものが生じるのです。あなたはそれを探し求めなくていいのです。あなたはそれを招待できません。あなたが招待できるものは、あなたが知っているものだけです。あなたは知らない客を招待できません。あなたは自分が知っているものを招待できるだけです。しかしあなたは知られないもの、神、真実-何であれ-を知りません。それは来なければなりません。それは、田畑が健全であるとき、土が耕されているときだけ、来れるのです。しかしあなたは、それが来るために耕すなら、そのときそれを得ないでしょう。
私たちの問題は、どのようにして知ることのできないものを求めるのかではなく、精神の累積する過程-それは常に知られたものです-を理解することです。それは困難な作業です。それは、そこに散漫の、同一化の、非難の感覚がない常なる注意、常なる気づきを、要求します。それはあるがままと共にあることです。そのときだけ、精神は静かでいられるのです。どれほどの量の瞑想、修練も、言葉の真実の意味で、精神を静かにさせられません。そよ風が止むときだけ、湖は確かに静かになるのです。あなたは湖を静かにさせられません。私たちの仕事・努めは、知ることのできないものを追求することではなくて、自分たち自身の中の混乱、騒動、悲惨を理解することです。そのとき、そのものがぼんやりと・かすかに生じます-そこに喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
神とか真実を求めることさえ幻影だというのじゃ。
それはただ金とか権力のために神や真実に頼っているのかもしれんからのう。
神や真実を求めようとする自分を観る時にのみそれは止むのじゃ。
そして精神が平静に成った時に神も真実も来るのじゃ。
-
18:30 (南ア) GDP-Q3
19:00 (独) ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) GDP 確定値-Q3★★
22:30 (米) 非農業部門労働生産性・改定値-Q3★★
22:55 (米) レッドブック米週間小売売上高
24:00 (米) OP NY CUT (NYT 10:00)
01:00 (英) London Fixing (LDN 16:00)
03:00 (米) 3年債入札
06:45 (NZ) 製造業売上高-Q3
米大統領選の選挙人確定期限
★Rank★ FX証券各社を参考
中国・武漢市で最初の新型コロナ感染者出現から1年
ケロ様スレより無断借用。
(´・(ェ)・`)つ
-
誤爆であります。
(´・(ェ)・`)つ
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訂正、
403の後に、次の↓文章が抜けておりました。
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 4
私が感情に名づけないなら、つまり思考がたんに言葉のためにだけ機能していないなら、または私が言葉、イメ-ジ、象徴という見地に立って考えないなら-私たちのほとんどはそうします-そのとき何が起きるでしょうか。そのとき確かに精神は、たんに観察者だけではないのです。精神が言葉、象徴、イメ-ジという見地に立って考えていないとき、思考すなわち言葉から分離した思考者はありません。そのとき精神は静かなのではないでしょうか-静かにさせられるのではなく、それは静かです。精神がほんとうに静かであるとき、そのとき生じる感情は、即時に取り扱えるのです。感情が連続性・継続性を持つのは、私たちが感情に名前を付け、よってそれらを強めるときだけです。それらは中心に貯えられています-そこから私たちはそれらを強めたり、伝達するために、さらなるレッテルを貼るのです。
精神がもはや、言葉で、過去の経験で作り上げられた思考者としての中心でないとき-それはすべて、貯えられ、範疇に、仕切りに入れられた記憶、レッテルです-それがもはやそれらのものごとを何もしていないとき、そのとき明白に精神は静かです。それはもはや縛られていません。それはもはや私という中心を持ちません-私の家、私の達成、私の仕事-それらはやはり言葉であり、感情に勢いを与え、よって記憶を強めているのです。これらのものごとが何も起きていないとき、精神はとても静かです。その状態は否定ではありません。反対に、その地点に至るには、あなたはこのすべてを経なければなりません-それは途方もない仕事・企てです。それはたんにわずかな言葉を習い覚えて、男子生徒のようにそれらを-「名づけないこと」、「名づけないこと」 [と言って]- 反復するだけではありません。そのすべての含意・意味合いを遂行する・徹底的にやり抜くこと、それを経験すること、精神がどのように働くのかを見て、よってあなたがもはや名づけていない地点に至ること-それは、もはや思考から離れた中心がないという意味です-確かにこの過程全体がほんとうの瞑想です。
精神がほんとうに平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることが、可能です。他のどんな過程も、真実への他のどんな探求も、たんに自己投影的で、自家製であるし、ゆえに非真実です。しかしこの過程は困難です。それは、精神が、内面的にそれに起きているあらゆることに常に気づいていなければならない、という意味です。この地点に至るには、始めから終わりまで-これが終わりであるということではありません-判断も正当化もありえません。終わりはありません。なぜなら何かとてつもないことがなを起きている・続いているからです。これは約束ではありません。それはあなたが実験し、自分自身の中にますます深く入っていくことです。そのため中心の多くの層すべてが解消されるし、あなたはそれを急速にまたは怠けてできるのです。精神の過程-それがどんなに言葉に依存するか、言葉がどんなに記憶を刺激したり、死んだ経験を生き返らせ・復活させて、それに生命を与えるか-を見守ることは、とてつもなく興味深いのです。その過程のなかで、精神は未来や過去のどれかに生きているのです。ゆえに言葉が、心理的と共に神経学的にも途方もない意義を持つのです。どうかこのすべてを、私からも本からも学ばないでください。あなたはそれを他の一人から学んだり、本の中で見つけたりできません。あなたが学んだり本の中で見つけたりできるものは、真実ではないでしょう。しかしあなたはそれを経験できます。あなたは行動の中で自分自身を見守り、考える自分自身を見守り、自分がどのように考えるのか、感情が生じるままに、どんなに急速にそれに名づけているか、がわかることができます-過程全体を見守ることが、精神をその中心から自由にします。そのとき精神は静かであり、永遠であるものを受け取れるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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言葉による名づけが無いならば、観察する者ではなく観察されるものであると気付くというのじゃ。
その時精神は静かになるのじゃ。
それもまた思考の過程を見守ることで可能になるのじゃ。
そして永遠であるものを受け取れるというのじゃ。
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最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘につい-て 1
質問
あなたが言ってこられたように、真理は反復されるとき、どうして嘘になるのでしょうか。嘘とは、ほんとうは何でしょうか。嘘を付くことは、なぜ間違っている・悪いのでしょうか。これは、私たちの存在の水準すべての上で、奥深い、微妙な問題ではないでしょうか。
K
これには二つの問いがあります。それで最初のものを検討しましょう-すなわち、真理は反復されるとき、どうしてそれは嘘になるのか、です。私たちが反復するのは何でしょうか。あなたは理解を反復できるでしょうか。私は何かを理解します。私はそれを反復できるでしょうか。私はそれを言葉にできます。それを伝達できます。しかし経験は確かに反復されるものではないでしょう。私たちは言葉に捕らわれて、経験の意義を逃し・見失います。あなたは経験をしたなら、それを反復できるでしょうか。あなたはそれを反復したいと思うかもしれません。それの反復、それの感動への願望を持つかもしれません。しかしいったんあなたが経験をしたなら、それは終わって・済んでいます。それは反復できません。反復できるものは感動と、その感動に生命を与えるところの付随する・一致する言葉です。不幸にも、私たちのほとんどは宣伝者なので、言葉の反復に捕らわれるのです。それで私たちは言葉を糧に生きているし、真理は否定されるのです。
愛の感情を例に取りましょう。あなたはそれを反復できるでしょうか。「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉を聞くとき、それはあなたにとって真理でしょうか。あなたが自分の隣人をほんとうに愛するときだけ、それは真理です。その愛は反復できなくて、ただ言葉だけ[が反復できるの]です 。けれどもあなたがたのほとんどは、「あなたの隣人を愛しなさい」や「貪欲であってはいけない」という反復でもって、幸せで満足しています。それで他の一人の真理、またはたんに反復をとおしてあなたがしたことのある現実の経験は、真実にならないのです。反対に、反復は真実を妨げるのです。たんに一定の観念を反復するだけでは、真実ではないのです。
これの難しさは、対極という見地に立って考えることなしに、問いを理解することです。嘘は、何か真理と対立したものではありません。嘘や真理という対立において、対比においてではなく、言われていることの真理を見ることができます。私たちのほとんどは、理解することなく反復するということを、ただ見てください。例えば、私たちは感情などに名づけることと名づけないことの議論をしてきました。あなたたちの多くは、それが「真理」であると考えて、それを反復するであろうと、私は確信します。一つの経験が直接の経験であるなら、あなたはそれを決して反復しないでしょう。あなたはそれを伝達するかもしれませんが、それがほんとうの経験であるとき、その裏の感動は去っています。言葉の裏の情動的満足は全く消失しています。
(´・(ェ)・`)つ
-
理解とは反覆できないものというのじゃ。
何かを理解した瞬間は繰り返すことはできないからのう。
無理に繰り返せば嘘であり、欺瞞になるのじゃ。
直接の体験は反覆できないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 2
例えば、思考者と思考は一つであるという観念を、取り上げましょう。それはあなたにとって真理であるかもしれません。なぜならあなたはそれを直接的に経験したからです。もしも私がそれを反復したなら、それは真実ではないのではないでしょうか-どうか、偽りと対比してではない真実です。それは現実ではないでしょう。それはたんに反復的なだけであり、ゆえに意義を持たないでしょう。おわかりでしょう。私たちは反復により、教義を造り出します。教会を建てて、そこに避難します。言葉と非真理が「真理」になるのです。言葉はものごとではありません。私たちにとってものごとは言葉です。そういうわけで、何かほんとうに理解しないことを反復しないように、極めて気をつけなければなりません。あなたは何かを理解するなら、それを伝達できます。しかし言葉と記憶は、それらの情動的意義を失ってしまいました。ゆえにそれを理解するなら、普通の・通常の会話の中で、見解・視野、語彙は変わるのです。
私たちは自己認識をとおして真理を求めているし、たんなる宣伝者ではないので、これを理解することが重要です。反復をとおして、言葉により、または感動により、自分自身に催眠術をかけます。幻影に捕らわれます。それから自由であるには、直接に経験することが必須・肝要ですし、直接に経験するには、反復の、習慣の、言葉の、感動の過程の中で、自分自身に気づかなければなりません。その気づきがとてつもない自由を与えてくれるので、そのため新生・蘇生、常なる経験、新しさがありうるのです。
他の問いは-「嘘とはほんとうは何でしょうか。嘘を付くことはなぜ悪いのでしょうか。これは、わたしたちの存在の水準すべてにおいて、奥深い微妙な問題ではないでしょうか」-です。
嘘とは何でしょうか。矛盾-自己矛盾なのではないでしょうか。意識的、または無意識的に、矛盾することができます。それは意図的か、または無意識的か、どちらかでありえます。矛盾は、とても微妙か、または明白か、どちらかでありえます。矛盾における分裂がとても大きいとき、そのとき不均衡になるか、それとも分裂を悟ってそれを修復する・繕うことに取りかかるか、どちらかです。
この問題を-嘘とは何か、なぜ嘘を付くのかを-理解するには、対極という見地に立って考えることなしに、それに入らなければなりません。私たちは、自分たちの中のこの矛盾の問題を、矛盾しないようにすることなしに、見られるでしょうか。この問いを検討する中での私たちの難しさは、私たちがあまりに直ちに・すぐに嘘を非難することなのではないでしょうか。しかしそれを理解するには、私たちは真理と嘘・虚言 [という見地に立って] ではなく、何が矛盾なのかという見地に立って、それについて考えられるでしょうか。なぜ私たちは矛盾するのでしょうか。なぜ私たち自身に矛盾があるのでしょうか。規範に添って、様式に添って生きようとする試みが-他の人の見地でも自分たち自身の見地でも、常に自分たち自身を様式に近づけること、常に何かであろうとする努力が-ないでしょうか。様式に順応したいという願望があるのではないでしょうか。その様式に添って生きていないとき、矛盾があります。
(´・(ェ)・`)つ
-
見る者と観られるものは一つであると気付けばそれは真理なのじゃ。
しかし、誰かがそれをまねて一つであると語れば反覆であり、嘘になるのじゃ。
自ら気付いたことではないからのう。
自らの矛盾そのものに気付くことで真理が達成されるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 3
なぜ私たちは、自分たちがそれに添って生きようとしているところの様式、規範、近似、観念を持つのでしょうか。なぜでしょうか。明白に、安全であるため、安心するため、一般的であるため、自分たち自身についてよい意見を持つ・よく思う、などのため、です。そこに矛盾の種があるのです。私たちが自分たち自身を何かに近づけて、何かであろうとしているかぎり、矛盾があるにちがいありません。ゆえに偽りと真実の間にこの分裂があるにちがいないのです。あなたがそれに静かに入る気があるなら、これが重要であると、私は思います。偽りと真実がないということではありません。しかしなぜ私たちには矛盾があるのでしょうか。それは、私たちが何かであろうと-高尚であろう、善良であろう、美徳を持とう、創造的であろう、幸せであろう、などと-試みているからではないでしょうか。何かでありたいという願望こそに-何か他のものでありたくないという-矛盾があるのです。こんなに破壊的であるのは、この矛盾です。何かと、これやあれとの完全な同一化の能力があるなら、そのとき矛盾は止みます。私たちが自分たち自身を何かと完全に同一化するとき、自己閉鎖があります。抵抗があります-それは不均衡をもたらします-それは明白なことです。
(´・(ェ)・`)つ
-
人が様式や規範を持つのは安心するためというのじゃ。
それは自分以外のものになろうとする試みなのじゃ。
そこには常に矛盾が在るのじゃ。
それがあればそこに抵抗や不均衡が在るのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 4
なぜ私たちには矛盾があるのでしょうか。私は何かをしました。そしてそれを発見されたくないのです。私は何か目標・水準に及ばない・達していないことを考えました-それが私を矛盾の状態に置きます。私はそれが好きではありません。近似があるところ、恐れがあるにちがいないし、矛盾するのは、この恐れです。ところが、 [何かに]なることがなく、何かであろうと試みることがないなら、そのとき恐れの感覚はありません。矛盾はありません。意識的、無意識的に、どんな水準でも、私たちに嘘はありません-何か抑圧されるもの、何かあばかれるもの [はありません]。私たちの生のほとんどは、気分と・姿態の事柄なので、自分たちの気分に依存して、気取るのです-それは矛盾です。気分が消えるとき、私たちはあるがままの私たちです。ほんとうに重要なのは、あなたが丁重な・優雅な、罪のない・汚れのない嘘を言うか、そうでないかどうかではなく、この矛盾です。この矛盾が存在しているかぎり、表面的な存在 [があるにちがいないし]、ゆえに守られなければならない表面的な恐れがあるにちがいありません。そのとき罪のない嘘と-知っているでしょう-その他すべてが続きます。何が嘘なのか、何が真理なのかを訊ねるのでなく、これらの対極なしに、この問題を見ましょう。私たち自身の中の矛盾の問題に入りましょう-それは極めて難しいのです。なぜなら私たちはあまりにも感動に依存しているからです。私たちの生のほとんどは矛盾しています。私たちは記憶に、意見に依存します。私たちは覆い隠したいと思うあまりに多くの恐れを持っています-これらすべてが自分たち自身に矛盾を造り出します。その矛盾が耐えられなくなるとき、理性・正気を失います。人は平和が欲しいのに、人がするあらゆることが、家族においてだけでなく、外側でも、戦争を造り出します。何が葛藤・抗争を造り出すのかを理解するかわりに、私たちはますます一つのものや他のもの、対極になろうとするだけです。よってより大きな分裂を造り出しています。
(´・(ェ)・`)つ
-
矛盾は何からなろうとか、何かであろうとする時にあるというのじゃ。
矛盾があれば恐れもあると言うのじゃ。
矛盾に絶えられなくなると理性を失うというのじゃ。
それが戦争やより大きな分裂を作り出すのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二九 真理と嘘について 5
なぜ私たち自身に-表面的にだけでなく、はるかにもっと深く、心理的に-矛盾があるのかを理解することは、可能でしょうか。まず最初に、矛盾した生を生きていることに、気づいているでしょうか。私たちは平和が欲しいのに国家 [・民族]主義者です。私たちは社会的悲惨を避けたい。それなのに私たち各自は個人主義的で、制限され、自己閉鎖的です。私たちは常に矛盾の中で生きています。なぜでしょうか。それは、私たちが感動の奴隷であるから、ではないでしょうか。これは否定されるべきでも、また受け入れられるべきでもありません。それは感動、すなわち願望の含意のたいへんな理解を必要とします。私たちは、すべてが互いに矛盾の中にあるとても多くのものごとが欲しいのです。私たちはあまりに多くの矛盾する仮面です。私たちは、それが自分たちに似合う・都合がよいとき、仮面をつけるし、何か他のものがもっと利益になり、もっと楽しいとき、それを否定します。嘘を造り出すのは、この矛盾の状態です。それに反して・対比して、私たちは「真理」を造り出します。しかし真理は確かに、嘘の対極ではありません。対極を持つものは真理ではありません。対極はそれ自身の対極を含んでいます。ゆえにそれは真理ではないし、この問題をとても奥深く理解するには、私たちがその中で生きている矛盾すべてに気づかなければなりません。私が「私はあなたを愛している」と言うとき、嫉妬、妬み、不安・心配、恐れが伴います-それは矛盾です。理解されなければならないのは、この矛盾です。それに気づく [とき]、どんな非難も正当化もなく気づくとき-たんにそれを見ているとき-だけ、それを理解できるのです。それを受動的に見るには、正当化と非難の過程すべてを理解しなければなりません。
何かを受動的に見ることは、たやすいことではありません。しかしそれを理解するなかで、自分の感じ [方] と考え方の過程全体を理解しはじめます。自分自身の中の矛盾の充分な意義に気づくとき、それはとてつもない変化をもたらします。そのときあなたは、何か自分があろうとしているものではなく、あなた自身です。あなたはもはや理想を追いかけ、幸せを求めていません。あなたはあるがままのあなたです。そこから前進できるのです。そのとき矛盾の可能性はありません。
(´・(ェ)・`)つ
-
常に矛盾があるのが人の心だというのじゃ。
平和を望んで国家を守るために戦争をしたりするのじゃ。
そのような矛盾を理解するには、矛盾の過程全てに気付かなければならんというのじゃ。
肯定も否定もせずに観る時に変容も起こるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 1
質問
あなたは真実を悟られました。神とは何であるかを、私たちに言ってもらえませんか。
K
私が悟ったことを、あなたはどのようにして知るのでしょうか。私が悟ったことを知るには、あなたもまた悟っていなければなりません。これはただの利口な答えではありません。何かを知るには、あなたはそれのものでなければなりません。あなた自身もまた経験をしていなければならないし、ゆえに私が悟ったとあなたが言うことは、見たところ意味がありません。私が悟ったか悟っていないかどうか、それがどうしたというのでしょうか。私の言っていることが真理ではないでしょうか。私がほとんど・最も完全な人間であるとしても、私の言うことが真理でないなら、なぜあなたは私の言うことをたんたんと聴くのでしょうか。確かに、私の悟りは、私の言っていることと全く何の関わりもないし、他の人が悟ったということのために他の人を崇拝する人は、ほんとうは権威を崇拝しているし、ゆえに彼は決して真理を見つけられません。悟られたことを理解することと、悟った人を知ることは、全く重要ではないのではないでしょうか。
伝統全体が、「悟った人と共にいなさい」と言うのを、私は知っています。彼が悟ったということを、どうしてあなたは知ることができるのでしょうか。あなたにできるすべては、彼との交わり・交際を保つことです。それさえも、今日では極めて難しいのです。言葉のほんとうの意味で、善良な・よい人たち-何かを求めていない、何かのあとを追っていない人たち-は、ほとんどいません。何かを求めていたり、何かのあとを追っている人たちは、搾取者です。ゆえに愛すべき仲間・相手を見つけることは、誰にとってもとても難しいのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
他人が悟ったことを理解できるのは自ら悟った者だけなのじゃ。
自分が悟らなければ何もわからないのじゃ。
伝統に従っているだけなのじゃ。
それでは神についても知ることが出来ないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 2
私たちは、悟った人たちを理想化して、彼らが自分たちに何かを与えてくれるだろうと願います-それは偽りの関係です。愛がなければ、どうして悟った人が伝達できるでしょうか。それが私たちの難しさです。私たちはすべての議論において、ほんとうは互いに愛し合っていません。私たちは疑り深いのです。あなたは私から何かが-知識、悟りが-欲しいのです。または私との交わりを保ちたいのです-そのすべては、あなたが愛していないことを、表示しています。あなたは何かが欲しいのです。ゆえに利用 [・搾取]しようと躍起になります。私たちがほんとうに互いに愛し合っているなら、そのとき瞬時の疎通があるでしょう。そのときあなたが悟っていて、私が悟っていないかどうか、またはあなたが高い者か低い者かどうかは、大事ではありません。私たちの心が萎れて・褪せてしまったから、神がものすごく重要になってしまったのです。すなわち、あなたは自分の心に歌をなくしたから、神を知りたいのです。それで歌い手を追い求めて、彼があなたに歌い方を教えられるのかどうかを、訊くのです。彼はあなたに技術を教えられますが、技術はあなたを創造に導かないでしょう。あなたはたんに歌い方を知るだけでは、歌い手でありえません。あなたはダンスの・足どりすべてを知るかもしれませんが、自分の心に創造性を持たないなら、機械として機能しているだけです。自分の対象・目的がたんに結果を達成することだけであるなら、あなたは愛せません。理想というようなものはありません。なぜなら、それはたんに達成であるからです。美しさは達成ではありません。それは真実、明日ではなく今です。愛があるなら、あなたは知られないものを理解するでしょう。神が何であるかを知るでしょう。誰もあなたに教えなくてもいいのです-それが愛の美しさです。それはそれ自体で永遠です。愛がないから、私たちは、それを自分たちに与えてくれる他の誰かや神が、欲しいのです。もしも私たちがほんとうに愛していたなら、これが何と違った世界であるだろうか、知っているでしょうか。私たちはほんとうに幸せな人たちであるでしょう。ゆえに私たちは、ものごと、家族、理想に、自分たちの幸せを投資しないでしょう。私たちは幸せであるでしょう。ゆえにものごと、人々、理想は、私たちの生を支配しないでしょう。それらはすべて二義的なものごとです。私たちは愛していないから、それで幸せではないから、ものごとが私たちに幸せを与えてくれるだろうと考えて、それらに投資するのです。それで私たちが投資するものごとの一つが、神です。
(´・(ェ)・`)つ
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 3
あなたは私に、真実が何なのかを言って欲しいのです。叙述できないものが言葉に表せるでしょうか。何か測ることのできないものを、測れるでしょうか。あなたは自分の拳に風を掴めるでしょうか。あなたがそうするなら、それは風でしょうか。あなたが測ることのできないものを測るなら、それは真実でしょうか。それを定式化するなら、それは真実でしょうか。確かにちがいます。というのは、あなたが何か叙述できないものを叙述した瞬間、それは真実であるのを止めるからです。あなたが知ることのできないものを知られたものに翻訳した瞬間、それは知ることのできないものであるのを止めます。けれども、それが、私たちがあこがれている・恋いこがれているものです。いつのときも、私たちは知りたいのです。なぜなら、そのとき私たちは継続できるだろう、そのとき究極の幸せ、永久性を捕まえることができるだろうと、私たちは思うからです。私たちは知りたいのです。なぜなら、私たちは幸せではないからです。私たちは惨めに奮闘しているから、擦り切れて・疲れ切って、堕落しているからです。けれども単純な事実-私たちが堕落していること、鈍くて、疲れ切って、騒乱の中にいること-を悟るかわりに、私たちは知られたものであるものから知られないものへ移転・移動したいのです-それもまた知られたものになるし、ゆえに私たちは決して真実を見つけられないのです。
ゆえに誰が悟ったかや、神が何なのかを訊ねるかわりに、なぜ自分の注意と気づきの全体を、あるがままへ向けないのでしょうか。そのときあなたは知られないものを見つけるでしょう。というよりむしろ、それはあなたに来るでしょう。あなたは、何が知られたものなのかを理解するなら、誘導されず、強制されない、あのとてつもない静寂を、それにおいてのみ真実が入り込める、あの創造的空っぽを、経験するでしょう。それは、なろうとしている、奮闘しているものには来れません。それは、ありつつあるもの、あるがままを理解するものに、来れるだけです。そのときあなたは、真実は遠くにないこと、知られないものは遠く離れていないこと、それはあるがままの中にあることが、わかるでしょう。問題への答えが問題の中にあるのと同じように、真実はあるがままの中にあるのです。私たちはそれを理解できるなら、そのとき真理を知るでしょう。
鈍さに気づくこと、貪欲に気づくこと、悪意、野心などに気づくことは、極めて難しいのです。あるがままに気づくという事実こそが真理です。解放するのは真理です-自由であろうとするあなたの奮闘ではありません。こうして真実は遠くないのですが、私たちはそれを遠く離れて置きます。なぜなら、自己継続の手段として、それを使おうとするからです。それはここ、今、即時 [当面・目前]のものにあるのです。永遠のものや時間のないものは今です。今は、時間の網に捕らわれている人により理解されえません。思考を時間から自由にするには、行動を要求します。しかし精神は怠けています。それは怠惰です。ゆえに常に他の障害を造り出します。それは正しい瞑想によって可能なだけです-それは、連続的な行動ではなく、完全な行動という意味です。完全な行動は、精神が継続の過程、すなわち記憶-事実に基づく [記憶]ではなく、心理的な記憶- を了解するとき、理解されうるだけです。記憶が機能するかぎり、精神はあるがままを理解できません。しかし終わることの意義を理解するとき、自分の精神、自分の存在全体がとてつもなく創造的に、受動的に鋭敏になります。なぜなら、終わることの中に、新生がありますが、継続の中には、死がある、腐敗があるからです。
(´・(ェ)・`)つ
-
真実や神について聞くことは商売と同じだというのじゃ。
自分が費やした投資に相応しい見返りが欲しいだけなのじゃ。
神や真実を聞くことより、自らの心を観るべきだというのじゃ。
その時にこそ真理を知ることが出来るというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 1
質問
私は、あなたが話しておられる真理を、何の前準備もなく、この場で悟れるでしょうか。
K
あなたのいう真理とは何でしょうか。私たちがその意味を知らない言葉は、使わないようにしましょう。私たちはもっと単純な言葉、もっと直接的な言葉を、使えます。あなたは問題を直接的に理解できるでしょうか。了解できるでしょうか。それが、含意されていることなのではないでしょうか。あなたは即時に、今、あるがままを理解できるでしょうか。あるがままを理解するなかで、あなたは真理の意義を理解するでしょう。しかし真理を理解しなければならないと言うことは、ほとんど意味がありません。あなたは問題を直接的に、充分に理解して、それから自由でありうるでしょうか。それが、この質問に含意されていることなのではないでしょうか。あなたは、危機を、挑戦を、即時に理解し、その全体の意義がわかり、それから自由でありうるでしょうか。あなたが理解するものは、跡を残しません。ゆえに真理または理解が解放者です。あなたは問題から、挑戦から、今解放されうるでしょうか。生は、一連の挑戦と応答なのではないでしょうか。挑戦へのあなたの応答が、条件づけられ、制限され、不完全であるなら、そのときその挑戦はその跡を、その残余を残します-それは、もう一つの新しい挑戦によりさらに強められます。それで常なる残余の記憶、蓄積、傷跡がありますし、これらすべての傷跡をもって、あなたは新しいものに出会おうとします。ゆえに決して新しいものに出会いません。ゆえにあなたは決して理解しません。どんな挑戦からの解放も、決してありません。
問題は、問いは、私は完全に、直接的に、挑戦を理解できるだろうか-そのすべての意義、そのすべての香り、その深さ、その美しさ、その醜さを感じて、それから自由でありうるか-です。挑戦はいつも新しいのではないでしょうか。問題はいつも新しいのではないでしょうか。例えば、あなたが昨日持った問題は、あなたが今日それと出会うとき、それはすでに新しいほどに、修正を受けた・被ったのです。しかしあなたは古いものをもってそれと出会います。なぜなら、あなたはたんに自分自身の思考を修正するだけで、変容させることなく、それと出会うからです。
それを違った仕方で述べましょう。私は昨日あなたに会いました。その間に、あなたは変化しました。あなたは修正を受けました。しかし私はやはり昨日のあなたについての映像を持っています。私はあなたについての自分の映像をもって、今日あなたに会います。ゆえにあなたを理解しません-私が昨日取得したあなたについての映像だけを理解するのです。私は、修正され、変化しているあなたを理解したいなら、昨日の映像を取り去らなければなりません。自由でなければなりません。言い換えれば、挑戦すなわちいつも新しいものを理解するには、私もまた新たにそれと出会わなければなりません。昨日の残りがあってはなりません。それで私は昨日にさようならを言わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
-
他人の言う真理を他の者が悟れるはずも無いのじゃ。
人は自らの真理を悟らなくてはいかんのじゃ。
真理を悟ってから他人が話す真理も理解できるのじゃ。
それは真理に対する全ての妄想がなくなった時に可能に成るのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 2
結局、生とは何でしょうか。それはいつのときも何か新しいものなのではないでしょうか。それは何か常に変化を受けていて、新しい感情を造り出しているものです。今日は決して昨日と同じではありません。それが生の美しさです。あなたと私はあらゆる問題に新たに出会えるでしょうか。あなたは家に帰るとき、自分の妻と子どもに新たに出会えるでしょうか。挑戦に新たに出会えるでしょうか。あなたは昨日の記憶の重荷を負っているなら、そうすることができないでしょう。ゆえに、問題の、関係の真理を理解するには、それに新鮮に近づかなければなりません-「開いた精神」をもってではありません。というのは、それは意味を持たないからです。あなたは昨日の記憶の傷跡をもたずに、それに近づかなければなりません-それは、各挑戦が生じる毎に、昨日の応答すべてに気づく、という意味です。昨日の残り、記憶に気づくことにより、あなたは、それらが格闘なしにいつの間にかなくなるし、ゆえにあなたの精神が新鮮であることを、見つけるでしょう。
準備なしに、即時に真理を悟れるでしょうか。私はできると言います-私の何かの空想・気まぐれからではなく、何かの幻影から [言うの] ではありません。心理的に、それを実験してみてください。するとわかるでしょう。どんな挑戦、どんな小さな出来事でも取り上げて・選んでください-何か大きな危機を待たないでください-すると、自分がそれにどう応答するか、わかるでしょう。それに、自分の応答に、自分の意図に、自分の態度に気づいてください。するとあなたはそれらを理解するでしょう。自分の背景を理解するでしょう。あなたは自分の注意全体をそれに向けるなら、即時にそれができると、私はあなたに保証します。あなたが自分の背景の充分な意味を求めているなら、それはその意義をもたらします。そのときあなたは一撃で、真理を、問題の理解を発見します。理解は今、現在、すなわちいつも時間がないもの、から生じます。それは明日であるかもしれないけれども、それはやはり今です。たんに延期すること、明日あるものを受け取る準備をすることは、あなた自身が、今あるものを理解するのを妨げることです。確かに、あなたは今あるものを直接に理解できるのではないでしょうか。あるがままを理解するには、あなたは邪魔され、注意散漫であってはなりません。自分の精神と心をそれに向けなければなりません。それはその瞬間に、完全にあなたの唯一の興味でなければなりません。そのとき、あるがままは、その充分な深み、その充分な意味を、あなたに与えてくれます。よってあなたはその問題から自由です。
(´・(ェ)・`)つ
-
自分を理解することと、悟りは瞬時にやってくるものじゃ。
気付くことであるからなのじゃ。
それに長くかかるものがいるのは、自分の恐れや障害があるからなのじゃ。
自分の全てを捨てる覚悟と決意で観察すればそれは即座に現われるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 3
例えば、あなたが財産の真理を、心理的意義を、知りたいなら、今ほんとうにそれを直接的に知りたいなら、どのようにしてそれに接近するのでしょうか。確かに、あなたは問題との同族・血族を感じなければなりません。それを恐れてはなりません。自分自身と問題との間に、どんな信条、どんな答えも持ってはなりません。あなたは直接的に問題との関係のなかにあるときだけ、答えを見つけるでしょう。あなたは答えを導入するなら、判断し、心理的な嫌気を持つなら、そのとき延期するでしょう。「今」において理解されうるだけのものを、明日理解しようと準備するでしょう。ゆえにあなたは決して理解しないでしょう。真理を知覚するには、準備は要りません。準備は時間を含意するし、時間は、真理を理解する手段ではありません。時間は継続・連続性ですし、真理は時間がなく、連続しません。理解は連続しません。それは残余がなく、瞬間瞬間です。
残念ながら、私はそのすべてをとても難しく聞こえさせ・言い表しているのではないでしょうか。しかし、あなたがそれを実験してみさえするなら、理解するのはたやすく単純です。あなたが突然夢の状態に陥り、それについて瞑想するなら、それはとても難しくなります。あなたと私の間に障壁がないとき、私はあなたを理解します。私はあなたに対して開いているなら、あなたを直接に理解します-開いていることは時間の事柄ではありません。時間は私を開かせるでしょうか。準備、体系、修練は、私をあなたに対して開かせるでしょうか。いいえ。私をあなたに対して開かせるものは、理解しようとする自分の意図です。私は開いていたいのです。なぜなら隠すものが何もないし、恐れていないからです。ゆえに私は開いているし、即時の親交があるのです。真理があるのです。真理を受け取るには、その美しさを知るには、その喜びを知るには、理論、恐れ、答えにより曇らされていない瞬時の受容性がなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ
-
自らが問題そのものであると理解するならば、変容は即座にやってくるのじゃ。
その時既に問題はなくなっているのじゃ。
思考に拠って自分とは別の問題を考えればそれはいつまでも理解できないのじゃ。
明日とか明後日に常に持ち越されるのじゃ。
今ここにおいて全てを受け容れて観ることだけが大事なのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三二 単純さについて 1
質問
単純さとは何でしょうか。それは、本質的なものをとても明確に・はっきりと見て、他のあらゆるものごとを切り捨てる、という意味を含んでいるのでしょうか。
K
単純さでないものを、見ましょう。-「それは否定です」とか「何か肯定的なものを、私たちに言ってください」とか、言わないでください。それは幼稚な、無思慮な反応です。あなたに「肯定的な」ものを提供する人たちは、搾取者たちです。彼らは何かあなたにあげるものを持っています-あなたはそれが欲しいし、それをとおして彼らはあなたを搾取するのです。私たちはその種類のことは何もしていません。私たちは、単純さの真理を見出そうとしています。ゆえにあなたは観念を切り捨て、裏へ置いて・忘れ去って、新たに観察しなければなりません。内面的、外面的に多く持っている人は、革命を恐れています。
何が単純さでないのかを見ましょう。複雑な精神は単純ではないのではないでしょうか。利口な精神は単純ではありません。目的を-精神はそのために働いています、報賞、恐れを視野に持つ精神は、単純ではないのではないでしょうか。知識の重荷を負っている精神は、単純な精神ではありません。信念で損なわれている精神は、単純な精神ではないのではないでしょうか。それ自体を何かもっと偉大なものと同一化してしまって、その同一性を保とうと奮闘する精神は、単純な精神ではないのではないでしょうか。ほんの一二枚の腰布を持つことが単純であると、私たちは考えます。私たちは単純さの外観が欲しいのです。それでそれにたやすくだまされるのです。そういうわけで、とても富裕である人は、放棄した人を崇拝するのです
(´・(ェ)・`)つ
-
単純ではないものとは否定とか肯定であるというのじゃ。
肯定的なものを与えるのは搾取する者ともいうのじゃ。
分別をする精神とか知識を持つ精神、欲や恐れがあっても単純ではないというのじゃ。
同一化や信念さえもあれば単純ではないのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三二 単純さについて 2
単純さとは何でしょうか。単純さは、非本質的なものの切り捨てと本質的なものの追求でありうるのでしょうか-それは選択の過程という意味です。それは選択-本質的なものを選択することと、非本質的なものを切り捨てる-という意味ではないでしょうか。この選択する過程とは何でしょうか。選択する実体は何でしょうか。精神なのではないでしょうか。あなたがそれを何と呼ぶかは、大事ではありません。あなたは「私はこれを選択しよう-それは本質的なものだ」と言います。何が本質的なものなのかを、あなたはどのようにして知るのでしょうか。あなたは、他の人たちが言ってきたことの様式を持っているか、それとも自分自身の経験が、何か或るものが本質的であると言うか、どちらかです。あなたは自分の経験に頼れるでしょうか。あなたは選択するとき、あなたの選択は願望に基づいているのではないでしょうか。あなたが「本質的なもの」と呼ぶものは、あなたに満足を与えてくれるものです。それであなたは再び同じ過程に戻っているのではないでしょうか。混乱した精神は選択できるでしょうか。それが [選択]するなら、選択もまた混乱しているにちがいありません。
ゆえに本質的なものと非本質的なものとの間の選択は、単純さではありません。それは葛藤です。葛藤のなか、混乱のなかの精神は、決して単純でありえません。あなたがこれらすべての偽りのものごと、精神の策略・芸当を切り捨てるとき、ほんとうに観察してわかるとき、それを見て、それに気づくとき、そのとき単純さとは何かを、自分自身で知るでしょう。 信念に縛られている精神は、決して単純な精神ではありません。知識で損なわれている精神は、単純ではありません。神に、女性たちに、音楽により散漫である精神は、単純な精神ではありません。事務所・会社、儀式、祈りの決まった日課に捕らわれている精神、そういう精神は単純ではありません。単純さは、観念を持たない行動です。しかしそれはとても希なことです。それは創造性という意味です。創造がないかぎり、私たちは災い、悲惨、破壊の中心です。単純さは、あなたが追求し経験できないものです。花が正しい時・瞬間に開くように、各自が、存在と関係の過程全体を理解するとき、単純さが訪れるのです。私たちはこれまでそれについて考え、それを観察したことがないから、それに気づかないのです。私たちはわずかな所有物という外的な形ばかりを評価します。しかしそれらは単純さではありません。単純さは、見つけられるものではありません。それは、本質的なものと非本質的なものとの間の選択としてあるのではありません。それは、自己がないとき-精神が、憶測、結論、信念、観念作用に捕らわれていないとき-だけ、生じるのです。そういう自由な精神が、真理を見つけられるだけです。そういう精神のみが、測ることのできない、名づけることのできないものを、受け取れるのです。それが単純さです。
(´・(ェ)・`)つ
-
本質的なものと非本質的なものという分別があれば単純ではないのじゃ。
その他どんな選択や分別があっても単純ではないのじゃ。
自己も観念も無い時のみ単純さがあるというのじゃ。
その時、真理を見つけられるというのじゃ。
それは既に悟った状態なのじや。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三三 表面性について 1
質問
表面的である人は、どのようにして真剣になるべきでしょうか。
K
まず初めに、私たちは、自分たちが表面的あることに気づかなければならないのではないでしょうか。表面的であるとはどういう意味でしょうか。本質的に、依存するという意味ではないでしょうか。刺激に依存すること、挑戦に依存すること、もう一人に依存すること、一定の価値、一定の経験、一定の記憶に、心理的に依存すること-そのすべてが表面性に寄与しないでしょうか。高められる・向上するために、助けてもらうために、私が毎朝または毎週、教会に通うことに依存するとき、それは私を表面的にしないでしょうか。私が自分の統合性の感覚を維持するために、または自分がかつて持ったことがあるかもしれない感情を再び獲得する・取り戻すために、一定の儀式を執り行わなければならないなら、それは私を表面的にしないでしょうか。私が国に、計画に、特定の政治的集団に捧げる・身を任せるとき、それは私を表面的にしないでしょうか。確かにこの依存の過程全体は、私自身の回避です。このより大きなものとの同一化は、あるがままの私の否定です。しかし私は、あるがままの私を否定できません。私はあるがままの自分を理解しなければなりません。宇宙と、神と、特定の政党や何であれ、自分自身を同一化しようとしてはなりません。このすべてが浅い考えにつながるし、浅い考えから、永続的に-世界的規模でも個人的規模でも-有害である活動があるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
今の自分の状態に気付かなければ何も始まらないのじゃ。
自分が表面的であるならば、その原因を探すのじゃ。
依存があるから表面的になると観察できれば消えるのじゃ。
そしてあるがままの自分が観られるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三三 表面性について 2
まず初めに、私たちはこれらのことをしていることを、認識しているでしょうか。私たちは [認識] していません。それらを正当化します。「私はこれらのことをしないなら、何をすべきだろうか。もっとひどく・悪くなるだろう。自分の精神はばらばらになる・まいってしまうだろう。今少なくとも、私は何かもっとよいものに向かって格闘している」と、私たちは言います。私たちは格闘すればするほど、ますます表面的になります。私はそれを初めに見なければならないのではないでしょうか。それが-あるがままの自分を見ること、自分が愚かであること、浅いこと、狭いこと、嫉妬していることを承認することが-もっとも難しいことの一つです。私はあるがままの自分を見るなら、それを認識するなら、そのときそれをもって出発できます。確かに、浅い精神は、あるがままから逃避する精神です-逃避しないことは、困難な究明を、無為の否定を必要とします。私が自分が浅いことを知った瞬間、すでに深まる過程があるのです-私が浅さについて何もしないなら、ですが。「私は卑小だ。それでそれに入ろうとしている。この卑小さ、この狭める影響の全体を、理解しようとしている」と、精神が言うなら、そのとき変容の可能性があります。しかし卑小であることを承認して、読書により、人に会うことにより、旅をすることにより、猿のように絶えず活動的であることによって卑小でなくなろうとしている卑小な精神は、やはり卑小な精神です。
またあなたは、私たちがこの問題に正しく接近してこそ、ほんとうの革命があることも、
わかるのです。問題への正しい接近は、私はあなたに保証しますが、山をも動かすとてつもない確信を与えてくれるのです-自分自身の先入観、条件づけという山です。浅い精神に気づくとき、深くなろうとしないでください。浅い精神は決して大いなる深さを知ることができません。それはたくさんの知識、情報を持てます。それは言葉を反復できます-活動的である表面的な精神の道具一式全体を、知っているでしょう。しかしあなたは自分が表面的で浅いことを知るなら、浅さに気づいて、判断なく、非難なく、そのすべての活動を観察するなら、そのとき浅いものごとは、あなたがそれに作用することなしに、全く消滅してしまったことが、すぐにわかるでしょう。それは、結果への、達成への熱心な願望ではなく、忍耐、見守りを必要とします。達成、結果が欲しいのは、浅い精神だけです。
あなたはこの過程全体に気づけば気づくほど、ますます精神の活動を発見するでしょう。
しかしそれらを終わらせようとすることなしに、それらを観察しなければなりません。なぜならあなたは終わりを求めた瞬間、またもや「私」と「非私」の二元性に捕らわれるからです-それは問題を継続させます。
(´・(ェ)・`)つ
-
浅い精神に気付いていなければ深い精神に気付くことも無いのじゃ。
浅い精神に気付くことでもっと深い精神にも気付く機会ができるのじゃ。
それは徐々に深く観ることができるのじゃ。
それについて考えたりすることも障害になるのじゃ。
結果を期待せずにただひたすらに心を観続けるのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三四 些細な・取るに足りないことについて 1
質問
精神は何に携わる・従事するべきでしょうか。
K
葛藤がどのようにして生み出されるのかについての、とてもよい例・実例があります-あるべきものとあるがままとの間の葛藤です。初めに私たちは、あるべきもの、理想を確立します。それから、その様式に応じて生きようとします。精神は、高尚なものごと、反利己性、寛大さ、親切、愛に携わるべきだと、私たちは言います。それは様式、信念、あるべきもの、ねばならないものです。それで私たちはそれに応じて生きようとします。それであるべきものの投影と、現実-あるがままのものとの間に、葛藤が動き始めているのです。その葛藤をとおして、私たちは変容させられたいと願うのです。私たちはあるべきものと格闘しているかぎり、美徳があると感じます。徳がある・善であると感じます。しかしどちらが重要でしょうか-あるべきものとあるがままとでは。私たちの精神は何に携わっているのでしょうか-イデオロギ-的にではなく、現実にです。些細なものごとに [携わっているの]ではないでしょうか-自分がどのように見えるのか、野心、貪欲、妬み、うわさ話、残酷さに、です。精神は些細なものごとの世界に生きているし、高尚な様式を造り出している些細な精神は 、やはり些細なのではないでしょうか。問いは、精神は何に携わるべきかではなくて、精神は些細なものごとから自由になれるか、です。私たちはそもそも気づいているなら、そもそも探究しているなら、自分たち自身の特定の些細なものごとを、知っています-絶えざる話、精神の永続的なおしゃべり、あれこれについての心配、人々がしている [こと] やしていないことについての好奇心、結果を達成しようとすること、自分自身の増大・拡大を模索すること、などです。私たちはそれに携わっているし、それはとてもよく知っています。それは変容させられうるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。精神は何に携わるべきかを訊くことは、たんなる未熟さです。
(´・(ェ)・`)つ
-
人には大抵理想とする自分のイメージがあるものじゃ。
そうではない自分の性質との間に矛盾があるのじゃ。
そこに葛藤が生まれるのじゃ。
何かに携わるべきだという思いもそこから起こるのじゃ。
そのような思いから自由になるべきなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三四 些細な・取るに足りないことについて 2
そこで、私の精神が些細であり、些細なものごとに携わっていることに気づくと、それはこの条件から自由になれるでしょうか。精神は、まさにその本性そのものにより、些細ではないでしょうか。記憶の結果を除いて、精神とは何でしょうか。何についての記憶でしょうか。どう生き残る・生き延びるのかについて [の記憶]-身体的にだけでなく、また心理的に、一定の性質、美徳の発達 [をとおし] 、経験を貯えておくこと [をとおし] 、それ自身の活動においてそれ自体を確立することをとおして [どう生き残るか]です。それは些細ではないでしょうか。記憶の、時間の結果である精神は、それ自体において些細です。それは、それ自身の些細なものごとから自由になるには、何ができるでしょうか。それは何かできるのでしょうか。どうかこれの重要性をわかってください。精神、すなわち自己中心的活動は、その活動から自由になれるでしょうか。明白に、できません。それがすることは何でも、やはり些細です。それは神について憶測できます。それは政治的体制を工夫・考案できます。それは信念を考案できます。しかしそれはやはり時間の領域の中に・圏内にあります。その変化は、やはり記憶から記憶へ [の変化] です。それはやはりそれ自身の制限に縛られています。精神はその制限を壊せるでしょうか。それともその制限は、精神が静かであるとき、それが活動していないとき、それ自身の些細なものごと-それらをどんなに偉大であると想像しようとも-を認識するとき、壊れるのでしょうか。精神がその些細なものごとを見てしまい、それらに充分に気づいて、そのためほんとうに静かになるとき- そのときだけ、
これら些細なものごとがなくなる可能性があるのです。精神は何に携わるべきかを、あなたが探究しているかぎり、それは些細なものごとに携わるでしょう-それが教会を建てようと、祈ろうと、神殿・聖堂に通おうと、です。精神自体が卑小で、小さいし、たんにそれは卑小であると言うだけで、あなたはその卑小さを解消しなかったのです。あなたはそれを理解しなければなりません。精神はそれ自身の活動を認識しなければなりません。そしてその認識の過程において、それが意識的、無意識的に築いてきた些細なものごとへの気づきにおいて、精神は静かになるのです。その静けさに、創造的状態があるし、これが、変容をもたらす要因です。
(´・(ェ)・`)つ
-
○⌒\
(二二二)
(⌒(´・(ェ)・`)
( o旦とI
(__し―J
あと8回でKの講読会は終了であります。
-
些細なものごととは本来しなくてもよいようなものごとなのじゃ。
金とか権力とか名声のための行い等なのじゃ。
そのような囚われに気付く時にそれは解消されるのじゃ。
実はやらなくてよい行いであったと気付くからなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 1
質問
なぜあなたは精神の静寂について語られるのでしょうか。そしてこの静寂とは何でしょうか。
K
私たちが何かを理解しようと思うなら、精神が静寂であることが、必要ではないでしょうか。私たちは問題を持つなら、それについて悩まないでしょうか。私たちはそれに入ります。それを分析します。それを理解することを願って、ずたずたに・断片に引き裂きます。そこで、私たちは、努力をとおし、分析をとおし、比較をとおし、何かの形の精神的格闘をとおして、理解するでしょうか。確かに、理解は、精神がとても静かであるときだけ、来るのです。私たちは、飢餓の、戦争の、または他のどんな人間の問題も、 [それと] 格闘すればするほど、それと葛藤すればするほど、ますますそれをよく理解するだろうと、言います。そこで、それは真実でしょうか。戦争-個々人の間の、社会の間の抗争-が、幾世紀の間続いてきました。内面と外面の戦争が常にあります。私たちは、さらなる葛藤・抗争により、さらなる格闘により、ずるがしこい尽力により、その戦争、その葛藤・抗争を解決するでしょうか。それとも私たちは、直接にその前にあるとき、事実と向き合うときだけ、問題を理解するのでしょうか。精神と事実の間に干渉する興奮・動揺がないときだけ、私たちは事実に向き合えるのです。それで私たちが理解すべきである・しようとするなら、精神が静かであることが重要ではないでしょうか。
「どのようにして精神は静かにできるのでしょうか」と、あなたは必然的に訊くでしょ
う。それが即時の応答なのではないでしょうか。「私の精神は興奮し・動揺しています。それでどうしてそれを静かにしておけるのでしょうか」と、あなたは言います。何かの体系が精神を静かにさせられるでしょうか。公式、修練は、精神を静かにさせられるでしょうか。できます。しかし精神が静かにさせられるとき、それは静けさでしょうか。それは静寂でしょうか。それとも精神は、観念の中に、公式の中に、文句の中に囲い込まれる・閉じ込められるだけでしょうか。そういう精神は死んだ精神なのではないでしょうか。そういうわけで、霊的、いわゆる霊的であろうとするほとんどの人たちは、死んでいるのです。なぜなら、彼らは自分たちの精神を静かであるように訓練してきたからです。彼らは静かである間、自分たち自身を公式の中に囲い込んだ・閉じ込めたのです。明白に、そういう精神は決して静かではありません。それは抑圧され、押さえつけられ・抑えられるだけです。
(´・(ェ)・`)つ
-
理解は精神が静寂であるときだけ来るというのじゃ。
しかしそれは修練によるものではいかんというのじゃ。
観念や公式の中に閉じ込められた精神は死んでいるというのじゃ。
訓練による静寂は観察には役に立たないというのじゃ。
それはただの抑圧であるからなのじや。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 2
精神は、それが静かであるときだけ、理解が来るという真理がわかるとき、静かです-
私はあなたを理解しようと思うなら、静かでなければならない。あなたに対して反応を持ってはならない。先入観を持ってはならない。自分の結論、自分の経験すべてを片づけて、あなたに面と向き合って出会わなければなりません。そのときだけ、精神が自分の条件づけから自由であるとき、私はほんとうに理解するのです。私がそれの真理がわかるとき、そのとき精神は静かです-そのときどのようにして精神を静かにさせるか、という問いはありません。真理だけが、精神をそれ自身の観念作用から解放できるのです。真理がわかるには、精神は、それが興奮・動揺しているかぎり、理解を得られないという事実を、悟らなければなりません。精神の静けさ、精神の平静さは、意志力により、願望のどんな作用によっても生み出されるものではありません。それが [産み出] されるなら、そのときそういう精神は、囲い込まれ・閉じ込められ、孤立しています。それは死んだ精神です。ゆえに適応性、柔軟性、すばやさの能力がないのです。そういう精神は創造的ではありません。
私たちの問題は、そのときどのようにして精神を静かにさせるのかではなくて、あらゆる問題が私たちに生じるままに、それの真理がわかることです。それは、風が止むとき、静かになる池に似ています。私たちの精神は、私たちが問題を持つから、動揺しています。問題を避けるために、私たちは精神を静かにさせるのです。そこで精神はこれらの問題を投影してきました。それで精神から離れて問題はありません。精神がどんな感受性の着想でも投影し、どんな形の静寂でも実践するかぎり、それは決して静寂でありえません。静寂であることによってだけ、理解があることを、精神が悟るとき、そのときそれはとても静かになります。その静けさは課されません。修練されません。それは、動揺した精神が理解できない静けさです。
精神の静けさを求める多くの人たちは、活動的な生から村へ、修道院へ、山へ退きます。
または観念の中へ退いたり、信念の中に閉じこもったり、自分たちに迷惑・面倒をかける人たちを避けたりします。そういう孤立は精神の静寂ではありません。観念における精神の閉鎖や、生をやっかいに・面倒にする人たちを避けることは、精神の静寂をもたらしません。蓄積をとおした孤立の過程がなくて、関係の過程全体についての完全な理解があるときだけ、精神の静寂が来るのです。蓄積は精神を老けさせ・古くします。蓄積の過程なしに、精神が新しいとき、新鮮であるとき、そのときだけ、精神の平静さを持つ可能性があるのです。そういう精神は死んでいません。それはもっとも活動しています。静寂な精神が最も活動的な精神です。しかしあなたはそれを実験し、それに深く入る気があるなら、静寂には思考の投影がないことが、わかるでしょう。思考はすべての水準で、明白に記憶の反応です。それで思考は決して創造の状態でありえないのです。それは創造性を表現するかもしれませんが、思考それ自体には決して創造性がありえません。静寂が、結果ではない精神の平静さがあるとき、そのとき、その静けさには、思考により動揺させられた精神が決して知ることのできないとてつもない活動、とてつもない行動があることが、わかるでしょう。その静寂には、定式化がありません。観念がありません。記憶がありません。その静寂は、「私」という過程全体の完全な理解があるときだけ、経験されうる創造の状態です。そうでないと、静寂は意味がありません。結果ではないその静寂においてだけ、永遠のものが発見されます-それは時間を超えています。
(´・(ェ)・`)つ
-
修練による静寂は結局は死んでいるというのじゃ。
真の静寂は精神が新鮮であり、観念が無く、記憶も無いと言うのじゃ。
そのような精神の静寂は修練でなければどのようにもたらされるのかを説くのじゃ。
それは私という過程全体に気付く時に現われるというのじゃ。
つまり観照が起こり、無我になった時なのじゃ。
無我になった時に無我になれる静寂があるということになるのじゃ。
矛盾しているのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三六 生の意味について 1
質問
私たちは生きていますが、なぜ [生きるの]かを知りません。私たちのたいそう多くにとって、生は意味を持たないように見えます。私たちの生活の意味と目的を、言ってもらえませんか。
K
今なぜあなたはこの質問をするのでしょうか。なぜあなたは、生の意味、目的を言ってくれるように、私に頼んでいるのでしょうか。私たちのいう生とは、どういう意味でしょうか。生は意味、目的を持つのでしょうか。生活・生きることそれ自体に、それ自身の目的、それ自身の意味がないでしょうか。なぜ私たちはもっと多く欲しいのでしょうか。私たちは自分たちの生にあまりに不満足であり、自分たちの生があまりに空っぽで、あまりにけばけばしく、あまりに単調で、何度も繰り返し同じ事をしているから、何かもっと多くのもの、何か自分たちがしていることを越えたものが欲しいのです。私たちの日常の生があまりに空っぽで、鈍く、無意味で、退屈で、耐えられないほど愚かであるから、生はもっと充分な意味を持つにちがいないと、私たちは言うのです。そういうわけで、あなたはこの質問をするのです。確かに、豊かに生きている人、ものごとをあるがままに見て、自分が持っているもので満足している人は、混乱していません。彼は明晰です。ゆえに彼は、何が生の目的なのかを訊ねません。彼にとっては、まさに生きることこそが始まりと終わりです。私たちの困難は、私たちの生が空っぽであるから、私たちは生にとっての目的を見つけたいし、そのために奮闘する、ということです。
(´・(ェ)・`)つ
-
個人が生きるという観念を持つ者には意味が必要となるのじゃ。
個人が無ければ生きることはただそれだけで喜びなのじゃ。
個人があれば老病死の苦も在るからその意味が必要となるのじゃ。
在るがままであれば何の意味も無いのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三六 生の意味について 2
そういう生の目的は、何の真実もないたんなる知性でありうるだけです。生の目的が、愚かな鈍い精神により、空っぽの心により追求されるとき、その目的もまた空っぽであるでしょう。ゆえに私たちの目的は、どのようにして自分たちの生を豊かにするのかです-金とその他すべてをもってではなく、内面的に豊かに [するの] です-それは何か隠れた・秘密のものではありません。生の目的は幸せであることである。生の目的は神を見つけることであると、あなたが言うとき、確かに、神を見つけたいというその願望は、生からの逃避ですし、あなたの神はたんに知られているものです。あなたは、自分の知っている対象に向かって、道を作れるだけです。あなたが神と呼ぶものへの階段を築くなら、確かにそれは神ではありません。真実は、逃避においてではなく、生きることにおいてだけ理解されうるのです。あなたは生の目的を求めるとき、ほんとうは逃避しているし、生が何であるかを理解していないのです。生は関係です。生は関係における行動です。私は関係を理解しないとき、または関係が混乱しているとき、そのときもっと充分な意味を求めます。なぜ私たちの生はこんなに空っぽなのでしょうか。なぜ私たちはこんなに寂しく、挫折しているのでしょうか。なぜなら私たちはこれまで一度も自分たち自身を覗いたことがなく、自分たち自身を理解したことがないからです。この生が自分たちの知っているすべてであること、ゆえにそれは充分に、完全に理解されるべきであることを、私たちは決して自分たち自身に認めません。私たちは自分たち自身から逃げ出すほうを好みます。そういうわけで、私たちは関係から離れた生の目的を求めるのです。私たちは行動-それは人々と、財産と、信念と観念と自分たちとの関係です-を理解しはじめるなら、そのとき関係自体がそれ自身の報賞をもたらすことを、見つけるでしょう。あなたは求めなくていいのです。それは愛を求めるのに似ています。あなたはそれを求めることにより、愛を見つけられるでしょうか。愛は育成できません。あなたは関係においてだけ、愛を見つけるでしょう-外側の関係ではありません。私たちが生の目的が欲しいのは、私たちが愛を持たないからです。愛があるとき-それはそれ自身の永遠性です-そのとき神への探求はありません。なぜなら愛は神であるからです。
私たちの生がこんなに空っぽであるのは、私たちの精神が専門的な事項と迷信的な文句
で充ちているからです。そういうわけで、私たちは自分たち自身を越えた目的を求めるのです。生の目的を見つけるには、私たちは自分たち自身の扉を通ってゆかなければなりません。意識的にも無意識的にも、私たちはそれら自身においてあるがままのものごとに向き合うのを避けます。それで私たちは神に、私たちのために、越えている扉を開いて欲しいのです。生の目的についてのこの質問は、愛していない人たちによってだけ、出されます。愛は行動すなわち関係においてだけ、見つけられうるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
生とは関係だというのじゃ。
そして関係においてだけ愛を見つけるというのじゃ。
その時神への探求は止むというのじゃ。
神とは愛であるからなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三七 精神の混乱について 1
質問
私は、あなたのすべての講話を聴いてきました。あなたのすべての本を読んできました。もっとも熱心に訊きますが、あなたの言われるようにすべての思考が止み、すべての知識が抑圧され、すべての記憶が失われなければならないなら、私の生の目的は何でありうるのでしょうか。あなたはその存在の状態-あなたによれば、それが何であろうとも-を、私たちがそこに生きている世界と、どのように関係させるのでしょうか。そういう存在は、私たちの悲しい苦しい・痛ましい存在と、どんな関係があるのでしょうか。
K
私たちはこの状態が何であるかを知りたいのです-それは、すべての知識、すべての認識者がないとき、ありうるだけです。この状態が、私たちの日常の活動の、日常の追求の世界と、どんな関係を持つのかを、私たちは知りたいのです。私たちは、今自分たちの生が何であるか-悲しく、痛ましく、常に恐れて、何も永久的なものがない-を知っています。私たちはそれをとてもよく知っています。この他の状態が、それとどんな関係を持つのかを、私たちは知りたいのです-私たちが知識を脇に置いて、自分たちの記憶などから自由になるなら、存在の目的は何でしょうか。
私たちが今知っているような存在の目的は、何でしょうか-理論的にではなく現実に、
です。私たちの日常存在の目的は、何でしょうか。ただ生き残る・生き延びることなのではないでしょうか-そのすべての悲惨とともに、そのすべての悲しみと混乱、戦争、破壊などとともに、です。私たちは理論を考案できます。「これはあるべきではない。しかし何か他のものがあるべきだ」と、私たちは言えます。しかしそれらはすべて理論です。それらは事実ではありません。私たちが知っていることは、混乱、苦痛、苦しみ、終わりなき敵対です。私たちはまた、そもそも気づいているなら、これらがどうして生じるのかをも、知っています。生の目的は、個人としても、また集団的人間としても、瞬間瞬間、毎日、互いに破壊しあうこと、互いに搾取・利用しあうことです。私たちは、自分たちの寂しさ、悲惨のなかで、他の人たちを利用しようとします。私たちは自分たち自身から逃避しようとします-娯楽をとおし、神をとおし、知識をとおし、あらゆる形の信念をとおし、同一化をとおして、です。それが、私たちが今生きているような、意識的、無意識的な自分たちの目的です。もっと深くもっと広い彼方の目的、混乱の、取得のものではない目的があるでしょうか。その努力のない状態は、私たちの日常の生と何か関係を持つのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
-
悟りを得ていない者には記憶が全てなのじゃ。
記憶による生活と人生が最も大事なのじゃ。
それを捨てろという教えは理解できないのじゃ。
しかし、それらもいずれは永遠になくなるものであり、闘争と混乱と悲惨だけをもたらしているだけなのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三七 精神の混乱について 2
確かにそれは、私たちの生と全く関係がありません。どうしてあるでしょうか。私の精
神が混乱し、苦悶し、寂しいなら、どうしてそれが、何かそれ自体のものではないものと、関係することができるでしょうか。どうして真理が偽りと、幻影と関係することができるでしょうか。私たちはそれを認めたくないのです。なぜなら、私たちの希望、混乱が、私たちに何かもっと偉大な、高尚なものを信じさせるからです-それは私たちと関係していると、言うのです。絶望のなかで、私たちは真理を求めます。それの発見のなかで、自分たちの絶望が消え去るであろうと願います。
それで混乱した精神、悲しみに支配された・乗っ取られた精神、それ自身の空っぽ、寂し
さに気づいている精神は、決して、それ自体を越えているものを見つけられないことが、わかります。精神を越えているものは、混乱、悲惨の原因が追い払われたり理解されたりするとき、生じうるだけです。私が言ってきた、話してきたことすべては、自分たち自身をどう理解するのか、です。というのは自己認識なしには、他のものはないからです。他のものはただ幻影です。私たちは、瞬間瞬間、自分たち自身の総合過程を理解できるなら、そのとき自分たち自身の混乱をきれいに片づけるなかで、他のものが生じることが、わかるでしょう。そのときそれを経験することが、これと関係を持つでしょう。しかしこれは決してそれと関係を持たないでしょう。・仕切りのこちら側にあって、闇の中にあって、どうして光の、自由の経験を持てるでしょうか。しかしいったん・ひとたび真理の経験があるとき、そのときあなたはそれを、自分たちが生きているこの世界と関係させられるのです。
私たちは愛が何であるかを決して知らなくて、常なる口論・論争、悲惨、葛藤・抗争だけを
知っていたなら、どうしてこのすべてのものではない愛を経験できるでしょうか。しかしいったん私たちがそれを経験したとき、そのときわざわざ関係を見出そうとしなくていいのです。そのとき、愛、智恵が機能します。しかしその状態を経験するには、すべての知識、蓄積された記憶、自己同一化された活動は止まなければなりません。そのため精神はどんな投影された感動の能力もないのです。そのとき、それを経験すると、この世界に行動があるのです。
確かに、それが存在の目的です-精神の自己中心的な活動を越えてゆくことです。精神
により測ることのできないその状態を経験してしまうと、そのときそれを経験することこそが、内面の革命をもたらします。そのとき、愛があるなら、社会的問題はありません。愛があるとき、どんな種類の問題もありません。私たちはどう愛するのかを知らないから、社会的問題と、自分たちの問題をどう扱うのかについての哲学の体系を持つのです。これらの問題は、左のでも右のでも中間のでもどんな体系・体制によっても、決して解決できないと、私は言います。それらは-私たちの混乱、悲惨、自己破壊は-自己投影されないその状態を経験できるときだけ、解決できるのです。
(´・(ェ)・`)つ
-
クリシュナムルティが今まで説いてきたことは全て、自分達自身をどう理解するかだというのじゃ。
自己認識が無ければ他の全てが無いからなのじゃ。
他の全ては幻想だとさえいうのじゃ。
それだけがこの世の混乱を解決できるというのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三八 変容について 1
質問
あなたのいう変容とはどういう意味でしょうか。
K
明白に、根元的革命がなければなりません。世界の危機は、それを要求します。私たちの生はそれを要求します。私たちの日常の出来事、追求、心配事は、それ を要求します。私たちの問題はそれを要求します。根本的、根元的革命がなければなりません。なぜなら、私たちのまわりのあらゆるものごとが、崩壊してし まったからです。一見すると・外見上は、秩序があるようですが、実は緩やかな腐敗、破壊があるのです。破壊の波は常に生の波を追い越して・に襲いかかって います。
それで革命がなければなりません-しかし観念に基づいた革命ではありません。そういう革命は、たんに観念の継続です-根元的変容ではありません。観念に 基づいた革命は、流血、分裂、混沌をもたらします。混沌から秩序は造り出せません。意図的に混沌をもたらして、その混沌から秩序を造り出したいと願うこと はできません。あなたは、混乱から秩序を造り出すべき、神に選ばれし者ではありません。それは、秩序をもたらすために、ますます混乱を造り出したいと願う 人たちのほうでの、いかにも偽りの考え方です。なぜなら、彼らは力を持つ当分の間、秩序の生み出し方すべてを知っていると、決めてかかる・当然思うからで す。この破局・大惨事の全体を見るとき-戦争の常なる反復、階級の間、人々の間の絶えざる葛藤・抗争、すさまじい経済的、社会的不平等、能力と才能の不平 等、とてつもなく幸せで冷静な・動揺のない人たちと、憎しみ、葛藤・抗争、悲惨に捕らわれている人たちとの間の大きな隔たり・懸隔-このすべてを見ると き、革命がなければならない、完全な変容がなければならないのではないでしょうか。
この変容、この根元的革命は、究極のものでしょうか、それとも瞬間瞬間でしょうか。
私たちはそれが究極のものであって欲しいのを、私は知っています。なぜなら、遠く離れた見地に立って考えるほうが、はるかにたやすいからです。究極的に、 私たちは変容するだろう。究極的に、私たちは幸せであるだろう。究極的に、真理を見つけるだろう-その間は・それまでは続けよう。確かにそういう精神は、 未来という見地に立って考えているし、現在において行動する能力がありません。ゆえにそういう精神は、変容を求めていません。それはたんに変容を避けてい ます。私たちのいう変容とはどういう意味でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
-
変容とは根源的な革命だというのじゃ。
それは観念の上で行われるものではないのじゃ。
観念があれば今までと同じ繰り返しなのじゃ。
観念が無ければ全てが変るのじゃ。
それが変容なのじゃ。
-
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三八 変容について 2
変容は未来にはありません-決して未来にはありえません。それは今、瞬間瞬間ありう
るだけです。それで私たちのいう変容とはどういう意味でしょうか。確かに、それはとても単純です-偽りを偽りとして、真理を真理として見ることです。偽り の中に真理を見ること、真理として受け入れられてきたものの中に偽りを見ることです。偽りを偽りとして、真理を真理として見ることが変容です。なぜなら、 あなたが何かをとても明晰に真理として見るとき、その真理が解放してくれるからです。あなたが何かが偽りであるとわかるとき、その偽りのものごとはなくな ります。あなたは、儀式がたんなる空虚な反復であることが、わかるとき、それの真理がわかって、それを正当化しないとき、変容があるのではないでしょう か。なぜなら、もう一つの束縛がなくなったからです。あなたは、階級差別が偽りであること、それは人々の間に葛藤・抗争を造り出し、悲惨、分割を造り出す ことが、わかるとき-それの真理がわかるとき、その真理こそが解放するのです。その真理の知覚こそが変容なのではないでしょうか。私たちはあまりに多くの 偽りであるものに囲まれているので、瞬間瞬間、偽りを知覚することが変容です。真理は累積しません。それは瞬間瞬間です。累積し、蓄積されるものは記憶で す。記憶をとおして、真理は決して見つけられません。というのは、記憶は時間のものであるからです-時間は過去・現在・未来です。時間すなわち連続性は、 永遠であるものを決して見つけられません。永遠性は連続性ではありません。永続するものは永遠ではありません。永遠性は瞬間にあるのです。永遠性は今にあ るのです。今は過去の反映・反射ではなく、また現在をとおして未来への過去の継続でもありません。
未来の変容を願望したり、究極の目的として変容に頼る精神は、決して真理を見つけら
れません。というのは、真理は瞬間瞬間来なければならない、新たに発見されなければならないものであるからです。蓄積をとおして、発見はありえません。あ なたは古いものの重荷を持っているなら、どうして新しいものを発見できるでしょうか。あなたが新しいものを発見するのは、その重荷の停止をもってだけで す。瞬間瞬間、現在のなかで、新しいもの、永遠のものを発見するには、とてつもなく鋭敏な精神、結果を求めていない精神、なろうとしていない精神が必要で す。なろうとしている精神は、充分な満足の至福を、決して知ることができません-自己満足の満足ではなく、達成された結果の満足ではなく、精神があるがま まの中の真理と、あるがままの中の偽りを見るとき、訪れる満足です。その真理の知覚は瞬間瞬間です。その知覚は、瞬間の言語化・作用をとおして延期され・ 遅れます。
変容は目的、結果ではありません。変容は結果ではありません。結果は、残り滓、原因と結
果を含意します。原因作用・因果関係があるところ、必ず努力があります。努力はたんに、変容されたいというあなたの願望の結果です。あなたは変容されたい と願望するとき、やはりなろうとする見地に立って考えています。なろうとしているものは、 [今・現在] あるものを、決して知ることができません。真理は瞬間瞬間あるのです。継続する幸せは幸せではありません。幸せは、時間のない存在の状態です。その時間の ない状態は、ものすごい不満があるときだけ、来れるのです-それをとおして逃避する経路を見つけた不満ではなくて、はけ口がなく、逃げ口がなく、もはや充 実を求めていない不満、です。そのときだけ、その最高の不満の状態の中に、真実が生じうるのです。その真実は、買われ、売られ、反復されるべきものではあ りません。それは書物の中に捕らえられません。それは、微笑みに、涙に、枯れ葉の下に、とりとめのない思考に、愛の充足に、瞬間瞬間、見つけられなくては なりません。
愛は真理と異なっていません。愛は、時間としての思考過程が完全に止んだ状態です。
愛があるところ、変容があります。愛なしには、革命は意味がありません。というのは、そのとき革命はたんに、破壊、腐敗、ますます大きく常に増して・高まってゆく悲惨であるからです。愛があるところ、革命があります。なぜなら、愛は瞬間瞬間、変容であるからです。
(´・(ェ)・`)つ
-
昨年3月4日からつづけて参りましたクリシュナムルティの講読会、いったん休みであります。
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ
-
変容とは今ここにあるものじゃ。
明日にしようとかはできないのじゃ。
過去の蓄積でもないのじゃ。
今この瞬間に自己に気付くことで起こるのじゃ。
-
>>462 ご苦労さんなのじゃ。
ゆっくり休むと善いのじゃ。
-
34.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b①
獲得することで失う啓示
Q:多くの探求者達がラクナウにやって来て、この状態を経験して西洋に帰ると、その経験が落ちて
しまうのはなぜですか?
それは決して起こるはずがない。それは決して起こりえない。自分自身を知った人が、どうして自
分自身を忘れることができるのかね。それは不可能だ。それは真実ではない。
海に流れこんだ河は河としての名前と形態に戻ることはできない。それは終わりだ。そのように、
マインドを源泉に解き放したら、マインドはもはやマインドではない。それは「それ」そのものだ。
マインドになることはできない。それはノーマインドと呼ばれる。これを明確にしなさい。
多くの人が西洋に帰るとそれを失くすと言うが、私はこれを信じない。その人達は「それ」を手に
入れなかったのだ。だから、彼らは「それ」を失くしたと考えるのだ。
しかし、あなたの手が空っぽなら損も得もない。何も得なかったのなら何も失うこともない。だか
ら、すべての欲望をマインドから取り除きなさい。一度空になったら、それは再び満たされることは
ない。
その人達はラクナウで以前には手にしたことがない、何か新しいものを手に入れたと考えている。
だから失うことになるのだ。
何かを獲得するのでも失うのでもない、あなたはすでに自由で悟っているのだと理解することだと
私は言っているのだ。
すでに悟っているのなら、モスクワでも、ワシントンでもラクナウでもすでに悟っているのだ。ど
のようにして何かをどこかで失うことができるのか?
これが私が話していることだ。何かを獲得しようとしないこと。むしろ、今までに得たものをすべ
て失くすことだ。読んだり聞いたりしたことをすべて後にすることだ。残されたものがあなたの真我
として、姿を現すだろう。これを知ったとき、それを失くすことはできない。
どんな獲得も失われる。獲得しなかったものを失くすことはない。ラクナウであなたのポケットが
空っぽなら、ニューヨークでも又空っぽだ。だからいつもポケットを空にしておきなさい。空っぽの
手の中にすべてがやって来るのだ。いつも何かを掴んでいると受け入れる許容性がない。手を空っぽ
にしなさい。そうすると再びすべてがやって来る。
だから宇宙の皇帝は空っぽのマインドだ。空っぽのマインドと空っぽの手という意味は思考がない
ということだ。思考を持たない人が領国の王だ。試してみなさい!
マインドを空にしてあなたは誰か感じなさい。これが平和とも、悟りとも、自由とも呼ばれる。し
かし、マインドに何の思考も保たないことだ。
Q:大変祝福された至福の状態を経験しましたが、失くしてしまうのではないかという恐れが忍び込
んできました。
この美しさをほんの瞬間見ただけでも、最愛の人はあなたを一人にしない。恐れと緊張を運んで来
るのはマインドだ。しかし、心配することはない。「それ」が、あなたを永久に捕まえるだろう。
あなたは「それ」を失くすかもしれないと考えているが、「それ」を失くすことはできない。ほん
の一瞬でもこの一瞥を持ったなら、それで終わりだ。
しかし、その一瞥に執着するとそこにあっても「それ」を見ることはできない。
真我はいつも現存している、
至福はいつも現存している。
それを獲得しようと努力する必要はない。
「それ」を見ることを妨げている障害をただ取り除くだけでよい。
障害は一つ、過去に対する執着だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
山居 二首 2/2
狂雲眞是大燈孫 狂雲真にこれ大燈の孫
鬼窟黒山何稱尊 きくつこくざん なんぞそんと称せん
憶昔簫歌雲雨夕 おもふ昔しょうかうんうの夕べ
風流年少倒金樽 風流の少年きんそんを倒せしことを
狂雲、本当は大燈国師の孫弟子なのである。
なのに、鬼の棲家のような暗い山奥に住むことの何が尊いものか。
昔は笛を奏で、歌って、ニャンニャンしてたのだ。(最近の表現を知らぬくまである)
風流な若者と、浴びるほど飲んで、酒樽をころがして楽しんだのだ。
*山居した山とは、49歳頃に住んだ、尸陀寺(じだじ)(大阪府高槻市と京都市との境の山間部)の
ことだとすれば、グーグルマップで見ると、大徳寺から30kmくらい、歩いて6時間くらいの山の中であ
る。この時は1年も辛抱できずに、都会へ戻ったのである。しかし、この5年後に再びここに戻り、
人生2回目の断食自殺をはかったが、勅命で中止させられたのである。原因は大徳寺内、僧侶数人の
投獄、自殺者まで出たこと、堕落した僧界に失望したことらしい。
(´・(ェ)・`)b
-
34.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b①
獲得することで失う啓示
Q:多くの探求者達がラクナウにやって来て、この状態を経験して西洋に帰ると、その経験が落ちて
しまうのはなぜですか?
それは決して起こるはずがない。それは決して起こりえない。自分自身を知った人が、どうして自
分自身を忘れることができるのかね。それは不可能だ。それは真実ではない。
海に流れこんだ河は河としての名前と形態に戻ることはできない。それは終わりだ。そのように、
マインドを源泉に解き放したら、マインドはもはやマインドではない。それは「それ」そのものだ。
マインドになることはできない。それはノーマインドと呼ばれる。これを明確にしなさい。
多くの人が西洋に帰るとそれを失くすと言うが、私はこれを信じない。その人達は「それ」を手に
入れなかったのだ。だから、彼らは「それ」を失くしたと考えるのだ。
しかし、あなたの手が空っぽなら損も得もない。何も得なかったのなら何も失うこともない。だか
ら、すべての欲望をマインドから取り除きなさい。一度空になったら、それは再び満たされることは
ない。
その人達はラクナウで以前には手にしたことがない、何か新しいものを手に入れたと考えている。
だから失うことになるのだ。
何かを獲得するのでも失うのでもない、あなたはすでに自由で悟っているのだと理解することだと
私は言っているのだ。
すでに悟っているのなら、モスクワでも、ワシントンでもラクナウでもすでに悟っているのだ。ど
のようにして何かをどこかで失うことができるのか?
これが私が話していることだ。何かを獲得しようとしないこと。むしろ、今までに得たものをすべ
て失くすことだ。読んだり聞いたりしたことをすべて後にすることだ。残されたものがあなたの真我
として、姿を現すだろう。これを知ったとき、それを失くすことはできない。
どんな獲得も失われる。獲得しなかったものを失くすことはない。ラクナウであなたのポケットが
空っぽなら、ニューヨークでも又空っぽだ。だからいつもポケットを空にしておきなさい。空っぽの
手の中にすべてがやって来るのだ。いつも何かを掴んでいると受け入れる許容性がない。手を空っぽ
にしなさい。そうすると再びすべてがやって来る。
だから宇宙の皇帝は空っぽのマインドだ。空っぽのマインドと空っぽの手という意味は思考がない
ということだ。思考を持たない人が領国の王だ。試してみなさい!
マインドを空にしてあなたは誰か感じなさい。これが平和とも、悟りとも、自由とも呼ばれる。し
かし、マインドに何の思考も保たないことだ。
Q:大変祝福された至福の状態を経験しましたが、失くしてしまうのではないかという恐れが忍び込
んできました。
この美しさをほんの瞬間見ただけでも、最愛の人はあなたを一人にしない。恐れと緊張を運んで来
るのはマインドだ。しかし、心配することはない。「それ」が、あなたを永久に捕まえるだろう。
あなたは「それ」を失くすかもしれないと考えているが、「それ」を失くすことはできない。ほん
の一瞬でもこの一瞥を持ったなら、それで終わりだ。
しかし、その一瞥に執着するとそこにあっても「それ」を見ることはできない。
真我はいつも現存している、
至福はいつも現存している。
それを獲得しようと努力する必要はない。
「それ」を見ることを妨げている障害をただ取り除くだけでよい。
障害は一つ、過去に対する執着だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
山居 二首 2/2
狂雲眞是大燈孫 狂雲真にこれ大燈の孫
鬼窟黒山何稱尊 きくつこくざん なんぞそんと称せん
憶昔簫歌雲雨夕 おもふ昔しょうかうんうの夕べ
風流年少倒金樽 風流の少年きんそんを倒せしことを
狂雲、本当は大燈国師の孫弟子なのである。
なのに、鬼の棲家のような暗い山奥に住むことの何が尊いものか。
昔は笛を奏で、歌って、ニャンニャンしてたのだ。(最近の表現を知らぬくまである)
風流な若者と、浴びるほど飲んで、酒樽をころがして楽しんだのだ。
*山居した山とは、49歳頃に住んだ、尸陀寺(じだじ)(大阪府高槻市と京都市との境の山間部)の
ことだとすれば、グーグルマップで見ると、大徳寺から30kmくらい、歩いて6時間くらいの山の中であ
る。この時は1年も辛抱できずに、都会へ戻ったのである。しかし、この5年後に再びここに戻り、
人生2回目の断食自殺をはかったが、勅命で中止させられたのである。原因は大徳寺内、僧侶数人の
投獄、自殺者まで出たこと、堕落した僧界に失望したことらしい。
(´・(ェ)・`)b
-
本当に主体に気付いたならば、その経験がおちると言う事は無いのじゃ。
道に落ちている縄が蛇ではないと気付いた者が、再びそれを蛇であるとは思わないようにのう。
真実に気付いたならば、それが落ちるはずも無いのじゃ。
落ちてしまうならばそれは真実ではなかったのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
山居の二なのじゃ。
狂雲の一休は真に大燈の孫なのじゃ。
鬼窟や黒山の何が尊いというのじゃろうか。
昔を思えば夕べには歌い踊って色事をしたものじゃ。
年少でも風流に樽飲みしていたのじゃ。
-
くま訳改
第四句:年少でも風流に樽飲みしていたのである。
35.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b②
獲得することで失う啓示
過去のどんな思考にも執着しないなら、それはすでにそこにある。これが体験と呼ばれるのだ。分
かるかね? 「それ」の体験は障害物、妨害、執着がないとき起こるのだ。だからもう一度やりなさい。
Q:やってみましたが、又消えてしまいました。
消えさせなさい。あなたは一瞥した。あなたはそれを憶えている。これでもうまく行く。消えてし
まった一瞥をいつも覚えていなさい。もしこの意識が消えてしまった何かを覚えているなら、意識し
ているなら、この消滅は何なのか?
過去に消え去った何かがマインドの中にいつも現れているということではないのか? この一瞥
が消え去ることは不可能だ。だからこれで十分だ。快楽の園に行って美女に出会って彼女は消え去る。
この消え去った美女のことをマインドは覚え続けている。眠っている時でさえも。この美女はあな
たのマインドの中に生きていて彼女はあなたと一緒にいる。一瞥も同じことだ。どんな違いもない。
恐れは得たものを失くす恐れだ。あなたはいつもそれを一緒に持っていたい。
ポケットに$5000持っていると仮定して、森の中を歩いている。恐れがやって来る。しかし、
ポケットが空っぽなら何も取られるものがないので恐れはない。 失う可能性があるものを望まない
のが一番よい。 なぜなら、それを手に入れるとマインドに恐れを引き起こすからだ。
現れたり消えたりするものの後を追うのは止めなさい。そうすると、永遠の満足と喜びを与えてく
れる「それ」を見つけることができる。現われもしないし消えもしないものが永遠で、これは今ここ
で試練なしで手に入れることができる。
「それ」としてあることで啓示を敬う
宇宙のハートは最微粒子だ。
肉体やマインドを連れてはそこにいけない。
それは純粋さの中の最純粋さで
一つの思考でさえ、それを汚してしまう。
宇宙のハートを真に一瞥することは、
コップの水を川に注ぎこむようなものだ。
コップの水を二度と見ることはできない。
「私」に触れなければこの一瞥が起こるだろう。
一瞥は重要ではない。
一瞥を経験している人、それは誰か?
一瞥の後、何がそこにあるのかこれが最も重要だ。
気づきは去っていくことも、破壊されることもない。
自由になるには何にも依存する必要はない。
しかもそれは一瞥ではない。
自由はいつも、永遠にハートの中に存在するのだから
至福の一瞥を与える多くの手助けをすべて取り除きなさい。
何にも依存しないこと、ただ静かにしていなさい。
マインドが過去の何かに執着するのを阻止しなさい。
未来志向を阻止しなさい。
身体という姿に執着するのを許さないこと、
あなた自身やグルの肉体でさえも。
その時あなたは唯一自由と共に残される。
これは一瞥ではない。
これは永久にあなたの真我の中に定住することだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
寄近侍美妾 きんじのびしょうによす
淫乱天然愛少年 淫乱天然少年を愛す
風流清宴対花前 風流の清宴か前に対す
肥似玉環瘦飛燕 肥たることはぎょくかんに似たり瘦せたるは飛燕
絶交臨済正傳禪 交わりを絶つ臨濟しょうでんの禅
くま訳
そばに仕える、美しいお女郎さんにささげる。
天性、並外れて美しい若い娘が大好きなのである。
花(美妾)と対する前の風流な宴も良いものだ
ぽちゃりした娘は楊貴妃のよう、瘦せた娘は飛燕のようだ。
(唐突ではありますが、)臨済宗とは絶交するであります。
*淫乱:(古典)程度を過ごすことという意味
*天然: 生まれつきであること。それ本来の姿であること。また、そのさま。天性。
*楊 貴妃:唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環
*趙 飛燕(ちょう ひえん):前漢の皇后
cf「環肥燕瘦」:優れた容姿の表現
加藤周一先生訳(男色説)
そばつきの男色たちに。
生れつきの色好みが高じて、男色を楽しむようになり、
生命花やぐ宴席では、いつも花のような(君たちが)相手。
ふとった男の子は、玉環とよばれた楊貴妃、細っそりした男の子は、漢の孝成帝に仕えた飛燕そっくりで、
(君たちと遊んでいる限り)臨済禅の正室など、ぷっつり縁が切れている。
(´・(ェ)・`)b
-
真理が一度観られたならば、もはやそれを取り逃がしてもよいのじゃ。
それが大地のように全てのものが最後にいきつくところであるからのう。
誰も大地を取り逃がしたりしないのじゃ。
ただ観念に囚われなければいつでもそこに居られるのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
近侍の美妾に寄せて詠うのじゃ。
限度もなく天然に少年を愛するのじゃ。
風流な清宴は花を前に対するのじゃ。
太って居る者は玉の宝石のようであり、やせているものは飛燕に似ているのじゃ。
臨済の正伝も絶好なのじゃ。
-
36.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b③
獲得することで失う啓示
サットサンガと「私は誰か」と探求することが隠れた惰性を掻き混ぜて、浮かび上がらせ流し去っ
てしまうだろう。その時純粋なマインドがその源泉に休息することができる。
絶えずマインドを真我に送り返しなさい。この瞬間に何が永遠か見つけだしなさい。剃刀の刃の上
を二人で歩くことはできない。だから一点に集中していなさい。
信じられないことを信じなければならない。未知に直面しなければならない。既知に後戻りしない
こと。あなた自身を複雑にするのはやめなさい。静かにしていなさい。
交際をすべて拒絶したのなら、拒絶さえも拒絶しなさい。
さもないと、屑篭を頭の上に乗せているようなものだ。
ひとかけらの考えさえ「それ」の純潔さを汚してしまう
「それ」に向かいなさい。
この限りない真我探求は、無限の報酬を与える。
有限の真我探求は、有限の報酬を与える。
「それ」があなたを捕まえるまで真我探求の中で我を忘れなさい。
真我探求はあなたを名前のないもの、形態のないものに連れていく。
そしてすべては終わりになる。
自由の内には真我探求は存在しないからだ。
四面の壁、知性-マインド-肉体-感覚、が壊された後に、
古い門がまだ残っている。
「私は自由だ」の形態をとって「私」という古い習癖が残っている。
この門は必要ない。
死の以前に崩れないなら、肉体が死ぬ時にそれは崩れるだろう。
両方共、同じ事だ。
Q:真我探求をやっていますが、もうこれ以上進めないという時点に到達しました。
先に進むことができない所が、あなたが居なければならない場所だ。やるべき何かがもっとあると
言っているのはマインドにすぎない。このマインドを止めなさい。
ある登山隊の一行が山を登って行って、頂上に着く前に、地図が終わっているのに気づいた。それ
で、ベースキャンプに最後の地図を得るために人を走らせた。
一行が待っている間に、第2のチームが頂上からキャンプへと山を下りて来た。そして、彼らは何
を待っているのかと尋ねた。
「頂上に至る最後の部分の地図を忘れたので、それを得る為に人を走らせて、帰って来るのを待っ
ているのだ」と答えた。
「ばかだね!」と勝利にみちたチームのリーダーは言った。「地図は必要ない。ここが頂上だ。こ
こが地図の最終点だ。」
これがあなたの場合だ。先に進む為に必要な地図を得るのにマインドをランナーとして送った。し
かし、あなたは頂上に居るのだからどこにも行く必要がない。あなたが頂上だ。
今、この頂上を愛し、敬意を表しなさい。マインドが地図を必要とするだけで、あなたではない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
-
不邪淫戒
淫坊年少也風流 淫坊年少また風流
啑吻抱持狂客愁 そうふんほうじ狂かくうれふ
妄闘樗蒲李群玉 みだりにちょほをたたかわしむ
名高虞舜辟陽侯 なは高しぐしゅんへきようこう
くま訳
遊里の少女たちよ
接吻して抱き寄せる、狂おしい思い。
ちょぼをして、二妃を待つ、李群玉の詩に詠まれているような思いだ。
有名な、伝説の古代の天子、虞舜や、項羽に仕えた辟陽侯の逸話もあるではないか。
*樗蒲(ちょぼ)は、中国古代のダイスゲーム・賭博で。平たい板を5枚投げて、その裏表によって
すごろくのように駒を進めるゲームであったらしい。
*李群玉(りぐんぎょく):813-860晩唐の詩人。「李群玉」「樗蒲」でググルと、↓の詩が出てくる。
湘妃廟 李群玉 パソコンの達人 先生 (HP訳)
少将風月怨平湖 波静かな湖の風月も二妃 二人の美人 に会えなければ恨めしいだけ
見尽扶桑水到枯 扶桑の茂る東海の水の 枯れてしまうまで じっと待っていよう
相約杏花壇上去 杏の花の下の 祭壇で逢う時を約束をして
画欄紅紫闘樗蒲 紅や紫の色をもって 縁取りをした盤で 双六でもしましょう
この湘妃は、 虞舜↓の妃
*虞舜(ぐしゅん):中国古代BC1940頃 – BC1900頃の伝説上の天子。善政を敷いた。遠藤星希先
生によると、 虞舜の妃、湘妃は、舜帝の死を悲しみ、湖水に自沈した悲しい物語がある。
*辟陽侯:審 食其(しん いき、?- 紀元前177年)は、前漢の人。紀元前205年、劉邦は楚の項羽
に敗れ、妻子を置いて逃走した。劉邦の妻呂雉(呂后)は項羽の捕虜となったが、辟陽侯・審食其は
呂后らに従い世話をした。その後、呂后らは漢王の元へ戻り、審食其も漢王に従った。
この呂后と辟陽侯はできちゃっていたらしい。
*陽侯については、別人の話であるが、こんな話もあった。
陽侯:(肝冷斎先生のHPより抜粋引用)戦国から漢の時代についてよく語られた水の神さま・・・・、
陽陵国の首長。彼は川で溺死したので、その神霊は大波を起こしてひとびとに害をなす力を持った。
このため、(突然起こる)大きな波のことを「陽侯さまの波」といい、・・・陽侯の波に気をつけろ
、とは、小さいことも大きいことも気にするように、という寓言だそうである。
*今日の詩については、伊井暇幻先生のHPに、すばらしくまとまった解説と訳があったのである。
一休さんは、16歳から西金寺の謙翁宗為和尚の弟子となった。謙翁は自分の名前、宗為から一字を譲
り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和
尚が他界した時は、悲嘆のあまり、・・・瀬田川に入水自殺を図っている。(世界恩人巡礼大写真館
HPより)
この時は、一休ママの手下に止められて未遂に終わったのである。(2回目の自殺未遂は53歳)
その経緯を踏まえて、 又、この詩に散りばめられた、逸話、寓話を勘案すると、これは、
忠節を貫いた湘妃、または 水の神 陽侯(一休)が、大徳寺主流派を追落し、綱紀粛正するから、覚
悟せよ!と遊里で盛り上がっていた時の詩ではありますまいか?
一休と一緒に遊んでいた風流人たちは、さぞや楽しかったでありましょう。(くま説)
しかし、一休さんの脳内には、情報がいっぱいである。PCのない時代、ほとんど暗記していたので
ありましょう。詩情があって、言葉を紡ぎだすというよりも、記憶した情報が出口を求めて、溢れ出
てくるのではありますまいか。
個くま的好みにより、この詩の解釈に於いては、男色の詩説は不採用である。雁艶詩という修行法も
あるらしいのである。
(´(ェ)`)b
-
もはや以上進めないというのならば、そこに止まるとよいのじゃ。
ただ無為に座り続けると善いのじゃ。
行為が目的をなくした時、自己が忘れられて行くのじゃ。
無為の行為こそ最後の実践なのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
不邪淫戒なのじゃ。
淫坊の年少は風流なのじゃ。
ちゅーをして抱きしめれば客は愁い狂うのじゃ。
みだりに樗蒲を戦わす李群玉のうじゃ。
あるいは名高き虞、舜、辟陽侯のようじゃ。
-
37.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b④
獲得することで失う啓示
Q:ラマナ・マハルシが言っていることをたくさん本で読みましたので、あなたが言っていることを
知的によく理解することができます。
知的な理解は絶対必要だ。しかし、それがあなたに必要なすべてではない。あなたはそれをやるの
だ。それになる必要がある。知的な地図は十分でない。
Q:しかし私はたいてい静かにしていられます。
なぜマインドがさまよったり、静けさから出たり戻ったりするのか? やがて出歩くのをやめてマ
インドは静寂の中に留まるだろう。
平和を探そうとどこかに行く必要はない。平和はあなたの内にある。あなたがその平和だ。対象に
向かっていくと決して平和を得ることはない。
Q:思考の対象が現われたり消えたりするのを見ることができる場所を知っています。
あなたが見つめているその人だ、
あなたが思考の証人だ。
やってくる、通りすぎる、止まる。
見つめているその人は永遠だ。
マインドは対象に巻き込まれる癖がある。
静かに見つめていることと、巻き込まれることが
同時に存在することはできない。
この習癖の為にあなたが巻き込まれているのはスクリーンの上のただの映像にすぎないということ
を忘れてしまう。この忘れっぽさの為に静かな証人であることを忘れて映像そのものに同一化するの
だ。あなたはこれらの映像が映しだされ通りすぎるスクリーンだということを忘れている。
あなたは変わらないスクリーンだ。
映画の 海の水はあなたを濡らさないし、火はあなたを燃やさない。
ロマンスは、あなたに影響を与えない。
内側、外側、あなたが見ているのは
すべてマインドの投影であることを許しなさい。
このようにあなたは触れられない「それ」として滞まらなければならない。
同一化が起こる以前にある「それ」、
知的な把握が起こる以前に存在する
「それ」が永遠の存在だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
謝人贈鹽醤 人の塩醤(えんしょう)を贈るを謝す
胡亂天然三十年 うろんてんねん30年
狂雲策略這般禅 狂雲が策略しゃはんの禅
百味飲食一楪裡 百味のおんじきいっちょうのうら
淡飯麤茶属正傳 たんぱん粗茶正傳にぞくす
くま訳
人から塩醤油を贈られたことに対して謝する
生まれながらに怪しい奴として生きて30年。
狂雲の策略、諸般の事情による禅
百通りもの味を一枚の小皿で飲み食いして味わった。(色んな人生経験を味わった)
粗食、粗茶も正傳した。
*這般(しゃはん):「此」の意。これら。この辺。このたび。今般。「這般の事情により」
*胡乱(うろん):① 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。② 確かでないこと。真実かどうか疑
わしいこと。また、そのさま。③乱雑であること。また、そのさま。
*楪:小皿
(´・(ェ)・`)b
-
あることができたり出来なかったりするという者にそれをしている者は誰か、それを見ている者は誰かと、パパジは問うのじゃ。
行為の主体やそれを見る者に気付かせるためなのじゃ。
ものごとをできたりできなかったりすることに意味は無いのじゃ。
それをしている者や、観ている者を探すのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
人から塩醤を贈られた感謝なのじゃ。
胡乱にして天然の30年なのじゃ。
わしの策略は這般の禅なのじゃ。
百味の飲食はこの一枚の皿の中にあるのじゃ。
淡食、粗茶は正伝に属するのじゃ。
-
38.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b⑤
獲得することで失う啓示
思考があなたを対象に連れて行こうとするとき、あなたは思考と一緒に付いて行く傾向がある。心
に従う・・これはすべての人の習癖だ。
往ったり来たりする思考を避けなさい。思考に従う人も避けなさい。ただ思考を見つめているので
はなく、内なる意識から外の対象へと思考に従っている人を見つめなさい。
思考に従って行く人も又思考だ。
思考に従って行く人は思考の中にいる。
両方(思考と従っていく人)とも思考だということを知ったならあなたは家にいる。
そうすると、思考が起こってもよい。
思考に従って行くのもよい。
あなたは不動で何事も気にかけない存在、「それ」として存在する。
これが至高の理解だ。
これを理解するのは難しい。ただそれをやりなさい。波が海の上で動きまわっているように、思考
を起こらせ沈めなさい。海は波が立ったり沈んだりして遊んでいるのを気にしない。海は「波は私だ
から、波は決して私から離れることができない」と知っている。これが意味深長な理解とよばれるの
だ。
これが事の終わりだ。
サンサーラはそこにある。あらせなさい。
顕現は真我の性質だ。
真我そのものが静かにしていないですべての形態をとって現われる。
すべての顕現が真我だ。
波が海であるようにすべての顕現は「それ」だ。
それ故に何も受けいれることはないし、
何も拒否することもない。
静けさを許し、マインドが遊びに行くのを許し、
マインドそのものが楽しむのを許しなさい。
違いはあなたは楽しんでいる人ではないということだ。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
諸所巡歴宣言 85歳
退酧恩庵 しゅおん庵を退く
雲水江山我脚跟 雲水こうざんわがきゃくこん
殿堂幸有一乾坤 殿堂幸いにいちけんこん有り
常住物便私車馬 常住もつすなわち私の車馬
酧恩塔主不知恩 しゅうおんのたっす恩を知らず
くま訳
酬恩庵を退く
雲水として諸国山河を行脚するのだ、我脚で。(それが、わしの基本なのだ)
殿堂は、幸いなことに広大な天地があるのだ。
今までは寺の共有物の車馬を私用に使ったりしたのだ。
酬恩寺の塔主(一休)は恩知らずなのだ。
柳田聖山先生 訳
雲水や湖水や山々と自分の脚の赴くまま
幸いなことに寺院の殿堂も一つの天地だ
身の回りの品々も私用に備えた車と馬と
自由奔放なこの庵の主人は恩を知らない
*常住物(じょうじゅうもつ):寺の共有物。寺舎・田園雑具、また僧の常食など。
*塔主(たっす):塔頭を司る役。また、その僧。
塔頭(たっちゅう):寺院のなかにある個別の坊。寺院を護持している僧侶や家族が住む。
*一休は、大応図師の塔主と名のっていたそうである。(一休が妙勝寺(→酬恩庵)を再建した際に
大応国師の木像が安置した。)
63歳、大応国師の旧蹟妙勝庵を再建し、近くに「酬恩庵」をたてた。宗祖の恩にむくいる意味で「酬
恩庵」と命名。
73歳、応仁の乱が始まり、五山はすべて焼かれ、安国寺も大徳寺も燃えた。
77歳、森女と同棲。
81歳、天皇の勅命を受けて大徳寺の住職。 酬恩庵に住みながら、大徳寺の再建。
84歳、和泉の小島へ一時避難、
85歳 諸所巡歴、
86歳、『狂雲集』をまとめ。そして翌87歳の秋、マラリヤで生涯を閉じた。
(´・(ェ)・`)b
-
思考が起こっても起こらなくてもただそのままにしておけというのじゃ。
思考に巻き込まれるものを観るべきだというのじゃ。
何も受け容れず、何も拒否せずただありのままにそれを観るだけでよいのじゃ。
そうすれば真我の実現も向こうからやってくるのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
酬恩庵を退所するのじゃ。
雲水は河や山が我が脚根というのじゃ。
殿堂には幸い天地が在るのじゃ。
常住物は私車馬として便じるのじゃ。
酬恩庵の塔主は恩知らずなのじゃ。
-
39.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-c①
獲得することで失う啓示
獲得することで失う啓示
Q:「私」の中に間隙があるのを一瞥したと思います。
一瞥というのは、あなたが何かを見たということだ。この意味は、見られる対象と見る主体がある
ということだ。この二元性は、マインドの遊びにすぎない。あなたが言っている間隙は、一時的なも
のではない。それが唯一永遠であるものだ。
呼吸、思考の間の間隙、異なる二つの動きの間隙はいつもそこにあって、動きそのものとは何の関
係もない。この間隙の中で動きが起こるのだ。あなたは間隙だ。これを知っていることが大きな違い
を生みだす。
静寂の中で思考が起こって沈まる、
静寂は永遠だ。
あなたはこの静寂だ。
Q:時々、この間隙又は静寂の中にいると、笑いが起こってきて静寂から抜け出すのではないかと感
じます。
この静寂は純粋な幸福そのものだから、笑いが静寂からあなたをつれだすのは不可能だ。この笑い
は「それ」から起こり、笑いが「それ」だ。笑いの波は歓喜の海から起こってくる。
このすべては一秒のほんのわずかな瞬間に起こる。だから、それは秘密だ。それを理解する人、そ
れを見る人、それらが「それ」だと知っている人たちだけが幸福だ。それ以外の人たちは苦しみ続け
る。彼らは死に目に泣きながら来世を迎えるだろう。
あなたは幸福そのものを超越した存在だ。
あなたは幸福の波が起こってくるところに居る。
その場所を見つけなさい。
それを理解しようとしないこと。
あなたが「それ」そのものだと
ただ、見るだけでよいのだ。
Q:この中に深く入っていけるように助けて下さいますか?
深さの概念を取り除きなさい。これですべて明らかだと思う。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
看大徳寺修造有感 大徳寺の修造を看て感有り
雲門卵塔一茅盧 雲門のらんとういちぼうろ
大用黄金殿上居 だいゆうの黄金殿上のきょ
傍出正傳現前境 ぼうしゅつす正傳現前の境
楊岐屋壁古來疎 楊ぎのおくへき古来そなり
くま訳
雲門の墓は粗末なものである。
養叟の大用庵は黄金殿上の住まいである。
本来受け継ぐべきでない者が、横から受け継いでしまうということが、起こってしまったのである。
臨済宗 楊岐派の建物は、昔から粗末と決まってるのだ。
*雲門文偃(うんもん ぶんえん、864- 949年、唐末から五代の禅僧。大慈雲匡聖宏明大師。五家七宗
の一つ、雲門宗の開祖。霊樹如敏禅師の道場の霊樹寺、918年、雲門が霊樹の法席を嗣ぐことに
なった時54歳だった。
*茅盧(ぼうろ):草葺きの粗末な住まい。
*卵塔(らんとう)(無縫塔):主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。
*大用庵(だいゆうあん);養叟の住まい
*傍出・旁出(ぼうしゅつ):わきから出ること。横に出ること。旁出は仏袈裟をさづけられず。(正法眼蔵-袈裟功徳)
*楊岐方会(ようぎ ほうえ):宋代の臨済宗の僧-日本伝来の臨済宗(栄西以外)
養叟が1445年、大徳寺住持になった時、養叟69歳、一休52歳 以降数年間くらいのの頃のお話でありましょう。
(´・(ェ)・`)b
-
一瞥だけではまだ主客の観念があると言うのじゃ。
それもまた作られた観念なのじゃ。
本来は思考や観念が無い意識こそがあるものなのじゃ。
全ての観念を捨ててただ座り続けることが大事なのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
大徳寺の造りを感じることがあったのじゃ。
雲門の墓はぼろ屋なのじゃ。
大用の黄金宮殿の上に居るのは誰じゃ。
正伝を傍出した者が目の前に居るのじゃ。
楊岐派の屋壁は古來から粗末である筈なのにのう。
-
40.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-c②
獲得することで失う啓示
Q:ある夜、マインドの動きが死んだようにとまって、努力なしに気づきが姿を現しました。探求は
終わりです。私が努力しようとすることは、静寂な水溜りに石を落とすようなものです。巨大な空間
に線を描こうとしているようなものです。
私は、サンキューというためにあなたの前にやってきました。沈黙はまだ私と一緒にここにいます。
サンキュー。しかし、もっと何かがあるのではないかと求める欲望があります。たぶん「それ」の沈
黙の確認の体験が強烈であった為だと思うのです。どうか助言してください。
この体験の後では、コブラと遊ぶのは賢明ではない。それはまだ死んでいないかもしれない。たぶ
ん横になっているだけで、その頭をマッサージしようとしたら、あなたは、トラブルに巻き込まれる
かもしれない。
この体験をした後は、静かにしているのがよい。マインドと遊ばないことだ。それは死んではいな
い。それはまだ名前そのものの中に生きている。生き返る可能性があるのだから、人生の最後の一息
まで見守っていなければならない。
静かにしているのがよい。マインドという名前さえ口にしないことだ。それは名前の中に生きてい
るのだから。その名前を口にすると、それは生き返る。これ以上何も必要ない。これ以上の強烈さは
ない。私は沈黙しているように助言する。
静かにして見つめていなさい。「それ」を貯えなさい。「それ」を崇拝しなさい。分かるかね!
Q: ここラクナウで美しいことが私に起こっていますが、証人という観念が消えません。
美しいことが起こっていて、あなたはこの事の証人。何が問題かね? 証人としていなさい。
Q:証人としてあることは、全体から離れているような気がします。それがホームだと言うことがで
きません。
あなたが証人だと見てごらん。(証人であるあなたを見てごらん)そこに何の問題があるのかね?
顔の向きを変えて見てごらん。ただ証人でいなさい。
もし誰かが笑う、証人でいなさい。もし誰かが泣いている、証人でいなさい。あなたは、証人であ
ることの意味を理解していない。
証人ということは、あなたは何にも巻きこまれないということだ。これが証人だ。何が起ころうと
もただ見ている。
証人と見られるものが同じなら、そのようにふるまいなさい。見るものが、見られたものと同じな
ら、問題はない。証人と証言されたものは同じだ。
夢の中で、あなたは象や木や山を見る。
どうして、この木があなたでありえないのか?
夢を見ている人と夢の中の木は同じものだ。
夢を見ている人と夢の中の山は同じものだ。
あなたは、木になり山になったのだ。そうではないかね? 誰が山を 創ったのかね?
山があると夢を見たから山がそこにあるのだ。あなたと山の間には何の 違いもない。両方共、夢
だ。さて、両方とも夢だと証言しているこの証 人をみなさい。
「私は山だ」と「私は山の夢を見ている」は、非常に微妙で同じことだ が理解するのは難しい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
聞聲悟道 もんしょう悟道
見色明心 見色明心
雲門拈云 雲門拈じて云はく
観世音菩薩 観世音菩薩
将銭来胡餅 銭を持ち来たってこびょうを買うて、
放下手曰 手をほうげしていわく
元來是饅頭 元來是れ饅頭と
垂示韶陽三句禪 すいじしょうよう 三句の禅
聞声見色話頭圓 もんしょう見識わとうまどかなり
胡餅饅頭誰買得 こびょう饅頭たれか買い得たる
観音三十二文銭 観音三十二文銭
くま訳
(香厳は)音を聞いて悟った。
(霊雲は)花を見て悟った。
ここで、雲門はちょぴっとひねって、話を続けた。
観音さんが、 銭を持って来て胡餅(安価な日常の食べ物)を買った。
手を開いてみたら饅頭(高価な特別な食べ物)だった。
さて、この示された、3つの禪話。
聞声見色の話は完璧だ。
ここで、胡餅や饅頭を誰が買うのかと言うと、
仏である観音さんが買うと言うのだ。( 観音さん自身が、本來ブッタであることを忘れていると言う
のだ。同様に、衆生は本來ブッタであることを忘れているだけなのだ。)
鬼和尚コメント
菩薩が買った餅が饅頭だったとは衆生も本来仏陀であるという喩えじゃろう。
それを菩薩が買うというのも暗喩なのじゃ。
菩薩もまた本来仏陀であることを忘れているのであるからのう。
気付けば全ての衆生は仏陀なのじゃ。
(´・(ェ)・`)b
-
全ての探求が終わったと感じるならば、無為にして座り続けると善いのじゃ。
悟りは向こうからやってくるのじゃ。
何かしようとすれば逆に障害になるのじゃ。
それを観ている者さえいずれは消えて行くのじゃ。
全てに身をあけわたしていくとよいのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
聞声による悟道なのじゃ。
色を見て心を明らかにするのじゃ。
雲門はそれをひねって言ったのじゃ。
観世音菩薩は金を持ってもちを買い、手を離して元来是は饅頭といったのじゃ。
三句の禅を示したのじゃ。
声を聞き、色を見る公案は完全なのじゃ。
もちの饅頭は誰が買うのじゃ?
観音が三十二文で買うのじゃ。
-
41.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-c③
獲得することで失う啓示
Q:広大な空間を感じ続けていますが、その周りに縁がついているのです。
海には海岸線がない、誰が海岸線を見るのだ? 波だ!
波は自分の名前は波で、もはや海ではないと考えている。波はまだ同じ海だということを知らない。
波が海から分離しているのはその名前の為にすぎない。それに波には長さ、広さ、高さ、そして動き
がある。
彼女は永遠の父である海の胸座で動き続ける。彼女は自分が波だと考えて父を探し求める。波が海
を探し求める。誰も彼女が海だと教えることはできない。名前がある為に彼女はそれを認識すること
ができないだけだ。
しかし、実体は同じだ。このように、あなたは内なる実体で、名前や形態ではないということを理
解しなければいけない。名前のすべては無形態性からやって来る。
だから、この考えを海の底まで追って行って、「私は誰か」と探求しなさい。「私」は思考、
「私」は又魚だ。この魚はどこからやって来たのか? 追って行きなさい。どこから「私」がやって来
るのかそれを追いかけて行きなさい。
そうすると、あなたが決して離れたことのないその場所を見つけるだろう。これを隠しているのは
名前と形態にすぎない。名前と形態は海の中では存在しない。
海には名前がない。「海」という言葉でさえ海は知らない名前だ。あなたが海という名前をつけた
のだ。しかし、海そのものには名前がない。同じように真我には名前がない。
「私はこれをしたい」「私はあれがほしい」と考えるときに、それは「私」になる。そして、これ
やあれへの欲望が起こって「これ」や「あれ」の中で真我を見失ってしまうのだ。
Q:あなたが何度も言っているその空間に落ち込みましたが、いつも私はロープにぶらさがっている
のです。今私はこのロープから永久に手を放したいと熱望していますが、それをすることができませ
ん。非常に恐れているのです。どうかこのロープを切ってください。私は、もはやこの状態に耐える
ことができません。
最愛の人に会いに行きたいのなら、このロープを切らねばならない。 さもないと、何の役にもたた
ない。ロープというのは過去に対する執着だ。
あなたは井戸の中に深く飛び込んでいないということだ。ロープのついたバケツで井戸から水をく
むとき、バケツを引っぱり返すことができるように手にロープを持っている。あなたの意図はこのバ
ケツ一杯の水を家に持って帰ることだ。
ここでは、ロープが結びついていないバケツを井戸の中に投げこむようにと言われているのだ。そ
うすると何が起こるのかね? それは沈んでしまって、元に戻ってこない。
このように、マインドを自由という井戸に投げ捨てるのだ。「このマインドをこの目的に使う為に
残しておこう」というロープは切り捨てるのだ。これは一度に全部済ませてしまうことができる。世
間とのどんな関わりにも興味を持たないこと。飛び込む前にこのことをはっきりさせなさい。
Q:瞑想していると、青い火がよく出てくるのですが……
この青い炎の経験は、深い集中の結果だ。どんな思考もないとき、ハートにこの青い炎を見ること
ができる。あなたのどんな質問もこの炎が答えてくれる。
この経験は、すべての終わりではない。それは道の街灯のようなものだから、それも又拒絶しなけ
ればならない。あなたの目的地はそれではないのだからそれに執着すべきでない。
炎でもない、光でもない、どんな思考でもない。この炎を見ている人は誰か見つけなければならな
い。この経験が起ったなら、あなたのグルに告げるべきだ。そうするとこの時点で行き詰まることは
ないだろう。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
2/2
雲門拈見識聞声 雲門は拈(ねん)ず見識聞声(もんしょう)
衲子機鋒折識情 衲子(のっす)のきほう識情を折る
信口道着底食籍 口にまかせて道着(どうじゃく)するていのじきせき
念頭起處太分明 念頭起こるところはなはだふんみょう
くま訳
雲門は「聞声悟道、見色明心」を、ちょぴっとひねって、話したのである。
修行僧の鋭い洞察により、分別心を打破すべきこと、(大なるものが、小なるものに含まれることを
悟る)に付いて説いたのだ。
口ばかり達者で、執着を離れられないものは、生活の為に修行しているようなものだ。
そのような者が、考えそうなことは、全く以ってあきらかである。
*聞声悟道、見色明心:自然の音を聞いて世界の真実を悟り、色を見てわが心がどういうものかを明
らかにすること。
(´・(ェ)・`)b
-
瞑想中にはいろいろ変なものが見えたり感じたりするのじゃ。
それに囚われれば障害になるのじゃ。
囚われなければ障害にならないのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
雲門は見識聞声を拈じたのじゃ。
僧の智慧で識情を折ったのじゃ。
口任せで金に執着する者の
頭に浮かぶことなどわかりきっているのじゃ。
-
42.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-d①
獲得することで失う啓示
Q:平和に満ちた自分自身を経験していますが、そこには何もないということが私を不安にします。
あなたが平和に満ちているとき、何を期待するのかね? 何もないというが、何があるべきだと期待するのかね?
豚?(笑う) 何もないのが当然だ。概念をすべて取り除いたあとは全く何もない。これについて理解する必要がある。何かに対する期待があるべきではない。何かを期待するなら経験することはできない。なぜならあなたの前に期待のみが存在するからだ。
期待というのは、ある人や、ある考えや、ある概念にすぎない。それが期待の実体だ。期待をそこに在らしめて放っておきなさい。しかし、静かに座って何の期待もないとき「それ」はあなたの前に姿を現すだろう。
Q:満ちているという経験が無とどのように関係しているのですか?
何の関係もない。それらは同じことだ。満ちていることが無で、無であることが満ちていることだ。理解するのが難しいだろうが、これが事実だ。初めに無があり、終わりに無がある。そうであるなら、まん中は無であるに違いない。これが私の説明の仕方だ。
初めに、完璧な無があって、そこから多くのものが現われて来て、何億年と留まる。そして、最後にそれらは、それらがやって来たところにすべて溶け去って無が残る。これを理解しようとしても、理解することはできない。
無はいつもここに存在している。丁度、この部屋に家具がいっぱいあるように、これらの家具は無の中にある。無が背景だ。無はその中に何があっても、何が来ても何が去っていこうと、決して影響されない。
あなたはあなた自身無であるから理解することができない。これが真理だ。もう一度言おう。この無が山や木や鳥で完全に満たされても、無は影響されない。
ものがその中にあろうがなかろうが、無は気にしない。これを理解することはできない。それにならねばならない。そうすると、満ちていることも又楽しむことができる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
賛大燈國師 大燈國師を賛す
畫出面門無覆蔵 ゑがきいだす面門ふ蔵無し
須彌百億露堂堂 須彌百億露堂堂
徳山臨済若入室 徳山臨済若し室に入らば
螢火應須遇太陽 螢火まさに須らく太陽にあふべし
大燈國師を賛す
ゑがきいだす面門ふ蔵無し
須彌百億露堂堂
徳山臨済若し室に入らば
螢火まさに須らく太陽にあふべし
くま訳
頂相に描かれてるところに、包み隠すところ無く全てがあらわれている。
全世界に対して、威風堂堂たるものである。
徳山や臨済も、もし大燈の教を受けていれば
螢の光が太陽のように輝いたであろう。
*腹蔵・覆蔵(ふくぞう):心の中に秘め隠すこと。
*頂相(ちんぞう):禅僧の肖像画
(´・(ェ)・`)b
-
自分が無ければすべてがないと感じるじゃろう。
しかしれそは同時に全てであると言うことなのじゃ。
全てを感じ、認識していると思っていた自分を捨てることで、全てに還るのじゃ。
そうすれば自分と思っていたものが、ただの観念であり、空虚なものと知れるのじゃ。
自分と自分の世界全てという空虚な観念を捨てて、真の実在である全てに満たされるのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
大燈國師の賛なのじゃ。
描き出だす面影は隠すところが無く真影なのじゃ。
チョモランマが百億もあるように堂々としているのじゃ。
徳山や臨済が若し大燈國師と同じ室に入ったら
蛍火がまさに太陽にあったかのように思えるじゃろう。
-
43.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-d②
獲得することで失う啓示
Q:私が不思議に思うのは、なぜ「そこ」から見るとすべてが見せかけですべてが実在しないように
見えるのに、肉体に戻って来るとすべてがまた実在しているように見えるのかです。
そうだ、そうだ。これは、非常によい経験だ。分かるかね? 最初にあなたは言う、「これが私の
肉体、これらが私の心配、肉体は私のもの、他の肉体はすべて私に関係している」これが苦しみで
あった。
これはただのマインドの概念にすぎなかった。肉体は頭の中にある概念だ。今あなたはこれを知っ
ている。その理解があなたの所にやって来たのだ。あなたがそれを征服したのだ。
何ヶ月かここに居て、サットサンガが「肉体は実在する」という概念を取り除くことができる唯一
の場所だ。
だから、現れるものはすべて実在しない。なぜなら実在するものはいつも「ここ」にあるべきだか
らだ。目覚めの状態の現実は夢の中で見る現実とは異なる。しかし、両方共眠りの中では消えてしま
うからだ。
あなたはそのことに目覚めたのだ。あなたは静かにしていて、マインドも静かであった。すべては
実在しない。そうして、遠くにある未知のどこかに入っていった。顕現のすべてが実在するという概
念が消えたとき、説明できない他のどこかに到着した。
そこに休息を見つけた。その休息の中で波が起こる。以前のようなマインドとしてではない。以前
の波はマインドの観念であった:「これは実在する」「私の肉体は実在する」「このすべては実在す
る」。
そして、このマインドの源泉に行った時それらは消えてしまった。すべてが消えてしまった。それ
が休息の場所、意識であった。今、意識から、意識が意識の中で反射して、意識だけが光り輝く。そ
の意識の反射として、波が存在として起こる。
意識から起こるものはすべて、すぐに、そこに顕現する。意識の内で波が起こり、意識に面して波
が輝く。その輝きが知恵だ。その知恵の中では実在しないものは何もない。至るところに意識は存在
する。宇宙、世界の至るところに意識は存在する。
たぶん、何千、何百という宇宙が意識の中にぶらさがっているに違いない。その観点から見ると、
つまり意識そのものから無そのものから見ると、すべては無だ。あなたはそこから見るのだ。
源泉に行って波を起こらせなさい。この経験は本物の経験だ。今あなたはどこへ行こうとも幸福で
いられる。自由だ。すべてが実在する。意識の中で実在しないものは何かね?
死はどこにある? どこに肉体がある? あなたは探して見つけた。
以前はあなたは言った、「私は肉体-エゴだ」「私は生まれつきのエゴだ」「私は死んで行くエゴ
だ」。それがあなたを困らせた。すべての人がトラブルの中にいて、来世の始まりは又トラブルと共
に始まる。終わりのないサイクルだ。
少数の人がこのみじめな生と死の輪廻から抜け出すことができる。あなたの体験は本物だ。私はと
ても嬉しい。あなたには何の問題もやってこないだろう。
すべてが実在する。無の中で無が実在しないという問題はどこにあるのかね? 無は無だ。その見
方は、肉体の目によってではない。聞くことも違って来る。
何が実在するかしないかと見わけることが不可能になる。これも去って行く。これかあれかの識別
はなくなるだろう。その中間も失くなるだろう。これが自由だ。誰もが自由になることができる。そ
こから見て、今何か質問があるかね?
(´・(ェ)・`)
(つづく)
如何是臨済下事 いかなるかこれ臨済下(か)のじ
五祖演曰五逆聞雷 五祖演曰五逆雷(らい)を聞く
機先一喝鐵圍崩 機先の一喝てっちをくづる
五逆元來在衲僧 五逆元来のうそうにあり
桃李春風清宴夕 桃李春風清宴の夕べ
半醒半醉酒如縄 半醒半醉酒縄(じょう)のごとし。
くま訳
これはいったいどういうことか!臨済宗の弟子たちのあり様は!
臨済の五祖法演も、大罪を犯したものは雷鳴を聞いただけでびくつくものだと戒めてる。
まずは一喝 鉄囲(てっち)を崩す。
大罪は、元来禅僧にあり
弟子たちはのんきに宴会の夕べを過ごし、
酔っ払っている様である。
*鉄囲山古代インドに始まる世界説で,三千世界のそれぞれを取り囲む山
*如縄(國訳禅学大成):まどろみの中に居る
如僶(民友社版:(勤め)のごとし:ほろ酔い加減でいることが勤めであるかのようである
(´・(ェ)・`)b
-
サマーディに入り、一度は永遠の意識を見たとしても、戻れば全てはあるように見えるのじゃ。
まだ観念があり、観念への囚われもあるからなのじゃ。
自分という観念からまだ完全に逃れでていないのじゃ。
自分の観念から自分の肉体とか思考という観念もまた実在として認識してしまうのじゃ。
更に進んで全ての観念から離れれば、意識だけがあるのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
臨済宗の下の者はどうなっているのじゃ?という題じゃな。
五祖の法演は五逆のものは雷を聞き、
最初の一音でもう鉄の囲いも崩れるようなきがするのじゃ。
その五逆は元来僧の中にあるものじゃ。
桃李の香る春風がふく清宴の夕べに
半醒半酔で酒は如縄なのじゃ。
-
44.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-d③
獲得することで失う啓示
Q:初めて戻って来た時、肉体に戻るのを拒否したかった。元に戻るという考えは再び限界づけられ
るという感じうことです。
やって来るすべてを、実在すると受け入れなければならない。
Q:他のどこでもなく、そこに居たいという強い願望があります。ただ「それ」の中で漂っていて、
決して肉体に戻りたくない。私が戻って来るといつも「ああ、だめだ。戻ってしまった!」。
この観念もまた捨てなければいけない。どこから戻ってきたのかね? 戻ることも行くこともない。
これらはすべて観念だ。あなたはどこにも行かなかった。どこに行ってどこに帰ってくるのかね?
あなたはあなたが居るところにいる。あなたはあなたが常にあり続けたものだ。今ここにないもの
を切望しないことだ。後で何かを達成しようと努力しないことだ。
すべてが「ここ」にある、それが真理であるべきだ。ここにあるものが実在で、ここにあるものが
自由だ。他に何も必要ない。
今この瞬間、あなたの前に、「ここ」にあるものは何か見つけ出しなさい。何かを獲得しようとい
う意図もなく何も拒絶することもなく、今この瞬間に見つけ出しなさい。
Q:5年前、悟りのすべての徴候が自発的に私の中で起こりました。何が起こっているのか全く分か
りませんでした。それで私があなたの言っていることを読んだとき、救われたような気がしました。
それは、体験から恐怖を取り除きました。これについて何か洞察がありますか?
もしあなたがグルと一緒に居たなら、恐れることはなかっただろう。経験した時はいつでもグルの
ところに走っていて何が起こったのか見極めなさい。彼の説明が助けになる。だからすぐにグルの所
に行くことだ。
マインドの平和は自由の歩哨だ。
満足がもう一つの歩哨。
これらの歩哨と一緒に待ちなさい。
ドアーはひとりでに開いて、あなたは内に呼ばれる。
Q:この「誰でもない」ことをどのように喜ぶべきでしょうか?
すでに姿のないその人と一緒に喜びなさい。その人が三界の中で唯一完璧で永遠の愛をあなたに与
える人だ。永遠の愛は姿のない人と一緒に居る。
姿のない人があなたを呼ぶのを待ちなさい。待っている間,この愛と同じ性質の愛になりなさい、
そうすると同じ愛があなたに魅せられる。まず名前と形態を捨てなさい。そうするとこの愛があなた
と恋に落ちる。形態と形態の間に愛はない。恋すると愛がある。
動かないで、動かないでいなさい。心を動かさないでいなさい。
ただそれだけだ。
静かにしていることが最高のタパスで、最大のヨーガ、
最も美しい神への愛だ。
これが在ることだ。
OM
第6章 真我探求:私は誰か? 終了
(´・(ェ)・`)
(おわり)
如何是雲門宗 いかなるかこれ雲門宗。
演日紅旗閃爍 演いわくこうきせんじゃく
華旗風暖動春臺 くわき風暖かにして春台に動く
八十餘員師席開 八十餘員師席を開く
一字關兮三句體 一字関 三句体
幾人眼裏着紅埃 いくばくひとか眼りにこうあいつく
いかなるかこれ 雲門宗。
法演がいうには、、鋭い弁舌、峻厳な宗風のであったそうだ。
かつては鮮やかな旗を、春台のにたなびかせ、
八十余人の師家を輩出した。
雲門の一字関、雲門の三句の指導法について、
雲門宗のことについて、今や何人が少しでも覚えているであろうか。
(´・(ェ)・`)b
-
誰もがどこかにいくことはないのじゃ。
ただ今ここにあるだけなのじゃ。
個体や個我の観念から自分と違う場所があり、そこここの空間があると妄想するのじゃ。
そこから離れた無為に居れば喜びは永遠にあり続けるのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
雲門宗とはいかなるものであったのかなのじゃ。
法演は赤い旗が閃き輝くようであったというのじゃ。
華の旗が春台にて暖かな風に動いているようじゃっとい。
八十余人の師家に席を開いたのじゃ。
一字の関、三句の体で導いたのじゃ。
今は何人がその眼の裏に紅埃がつくように知っているじゃろうか。
-
45.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第7章 バクティ:神への愛 ☆Part1①
献身
究極の真理を愛しなさい。
知恵と真我への崇拝があなたを真我に連れて行く。
唯一あなたの真我を愛しなさい。
唯一あなたの真我を崇拝し、探し求めるなら、
後は真我があなたの面倒を見る。
無用な活動や快楽をさけてただ静かにしていなさい。
これが自然な状態だ。
絶えることなく自制と修練を続けるとすべてを失う。
マインド、感覚、知性は破壊される。
そうしてあなたはその自由と一体になるのだ。
修練というのは、いつもアートマンに向かって行くことだ。
修練は真我への完全な献身だ。
すべてを燃やし去って、愛に流れこむ。
この瞬間を最大限に利用するには
その中に溺れ込むことだ!
これが献身だ。
あなた自身を捧げる「それ」にあなたはなる。
だから愛にのみあなた自身を捧げなさい。
このネクターを味わった人はこのネクターになる。
自由はいつもここにある。
見逃しているのは、神聖さだ。
神以外のものにあなたのハートを差し出すなら、
何を一体、至高に捧げるのか。
唯一新鮮で匂いの嗅がれていない花が、神に捧げられる。
真我への愛のみが必要だ。
謙虚に真我に献身しなさい。
沈黙が永遠に酔いしれる為のワインだ。
この沈黙の中であなたは「知る」ことができる。
すべての存在を愛することができる。
しかし、それを飲んだら、話すことは終わりだ。
その体験の中にいなさい。
「それ」に明け渡しなさい。
至福を味わうことは、他のすべての味を忘れることだ。
内につがれたワインを飲み干しなさい。
真我の魅力、真我への愛を教えることはできない。
それはやって来るか、やって来ないかのどちらかだ。
この光がどこからやって来るのか見るのに懐中電灯はいらない。
あなたが光だ。
別離の苦痛と涙は祝福される。
最愛の人から別れて居るこの痛みは、
最愛の人と一緒に居る喜びより価値がある。
その涙は神への美しい贈り物だ。
献身者、本当の献身者は神のハートそのものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
如何是潙仰宗 いかなるかこれいぎょう宗
演日断碑横古路 演曰くだんぴころによこたふ
恵寂釈迦霊祐牛 恵寂は釈迦、霊祐は牛
披毛作仏也風流 ひもう作仏また風流
古碑路断長渓客 古碑みちたゆ長慶のかく
万世姓名黄葉秋 ばんせの姓名こうようのあき
くま訳
いかなるかこれ潙仰宗。
法演がいうには、古からの路に横たわる 石碑のようであると。
恵寂は釈迦、霊祐は牛
牛(=霊祐)が成仏したというのであれば、それもまた良かろう。
開祖潙山の伝統は断たれ、石碑が残るのみになった、
潙山の名は永遠に不滅だが、それでも黄葉の秋はくる。
* 長渓県・開祖潙山霊祐の出身地
* 霊祐牛 水牯牛
(´・(ェ)・`)b
-
真我を実現することは困難なことなのじゃ。
まだ知ることも出来ない主体をどのようにして実験できるのか。
それには愛と智恵によって追求していくしかないというのじゃ。
観念のまやかしを全て捨てて、認識できない認識主体を求めるのじゃ。
-
それでよいのじゅ。
?仰宗とは何かというのじゃ。
法演は断たれた碑が古道に横たわっているというのじゃ。
恵寂が釈迦ならば、霊祐は牛のようなものじゃ。
それでも牛が仏になれるというならばそれも風流なのじゃ。
古い碑が断たれた道に横たわっているようなのが長渓の霊祐なのじゃ。
黄葉の秋にも姓名は万世に残ったのじゃ。
-
46.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第7章 バクティ:神への愛 ☆Part1②
Q:あなたが教えていることとバクティ・ヨーガとの間の関係を理解するのを助けてください。
*1ジュニャーナと *2バクティの間には何の違いもない。
愛によって神に近づくことがバクティだ。非常な献身と愛を捧げることだ。ただ愛する時、最愛の
人はあなたに姿を現わす。
愛すると知ることにもなる。愛することは知ることだ。もし誰かを愛してその人のことを知るなら、
その人も又あなたを愛する。知ることは愛することだ。だから、ジュニャーナとバクティは同じ鳥の
二つの翼だ。
愛があるところには知識があり、知識があるところには愛がある。あなたが誰かを愛すると、愛さ
れた人はどんな秘密も持つことができないので、あなたはその人のすべてを知ることになる。
もし、その人を知るなら愛することになり、その人も又あなたを愛して知ることになる。それは一
つで同じことだ。人々はこれらは違ったものだと、それについて大きな議論をしているが、事実この
二つに違いを見つける人は無知な人だ。
あなたは「それ」を最も愛するので、あなたのマインドの中には誰も存在しない。そうすると「そ
れ」が姿を現わして、あなたに宝石を手渡すのだ。
Q:真我を知る為のいろいろな方法があるのですか。
知識の書かれた聖典によると、三つの方法がある。
一つはジュニャーナ・ヨーガ、それは知識だ。二つ目はバクティ・ヨーガ、献身。三つ目はカル
マ・ヨーガ、活動・行動だ。
知性のすぐれた人は、森の中のリシに会いに行って「Ko Ham? 私は誰か?」と尋ねる。
「Tat Vam Asi あなたは『それ』だ」とリシは答えるだけだ。
この会話だけで、弟子は「Aham Brahmasmi、私は『それ』だ」と言って、すべてが
終わるのだ。これは知的で頭がよくて、ただ言葉を聞くのではなく、言葉の意味を理解できる人のも
のだ。
その意味は「それ」の中にある。教える人が「それ」だと言うと、教えられる人が「それ」を見つ
めて同意する。「私は『それ』だ」。そしてグルは言う、「幸運を祈る。行きなさい」
2番目は献身だ。献身とは内なる至高の力に降伏することだ。「その」力を崇拝することによって、
「その」力を見つめていることによって、あなたは「その」力そのものになるのだ。
マインドを「その」力に明け渡すこと、「私は離れた実体だ」というエゴを持たないことだ。「私
が神だ」と知ること、これを頭ではなく愛によって勝ちとるのだ。
理解することによってか、あるいは献身によってか、「それ」になるのに違いはない。幼い子供は
ミルクを飲む為に母親の所に行く。子供は誰が母親か知っているし、母親も誰にミルクを与えるべき
か知っている。
3番目はカルマ・ヨーガ、これはあなたが何をしようともあなたの行動の結果を求めないことだ。
あなたはただ行動するだけで、結果は至高の存在の手の中に委ねるのだ。
現実にはこれらの三つは同時に走っている。知識、バクティ、カルマ、これらの一つに執着したら
他の二つは自然とあなたに従ってくるものだ。誰かと知り合いになったら、その人を愛することにな
る。もし、誰かを愛したら、その人のことについて知ることになる。あなたの活動は愛する人の為、
知っている人の為に起こる。何の違いもない。
用語解説
*1ジュニャーナ 知識、知恵、絶対的知識。
*2バクティ 神への愛
(´・(ェ)・`)
(つづく)
如何是法眼宗 いかなるかなこれほうげん宗
演曰巡人犯夜 演曰く巡人夜を犯す
一滴曹源一滴深 一滴の曹源一滴深し
巡人閙閙夜沈沈 巡人のうのう夜ちんちん
青山満目是何法 青山満目これ何の法ぞ
家醜猶如学棒心 かしゅうなおぼうしんをまなぶがごとし
くま訳改
いかなるかこれ法眼宗。
法演がいうには、巡人夜を犯す
禅の源流は奥深い。
夜警がやかましいので、夜は静かにふけてゆく
死に場所はどこにでもあるのだ。法が何だというのだ。
宗派の義は、洞山三頓の棒の公案みたいなものだ。
*巡人犯夜、賊馬に騎って賊を逐う。警備員が盗んだ馬で賊を追う。この故事と、宗風の解説から=
弟子の言葉に乗じて更に問いかけ悟りに導く手法かなと愚考してみた。
*棒心=洞山三頓の棒 一休が27歳の時に取り組んだ公案(一休を悟りに導いたとされる)のこと
かなと、これまた愚考してみた。
(´・(ェ)・`)b
鬼和尚 コメント
青山は墓地じゃな。
目に満ちるのであるからどこにでもあるというのじゃな。
寺を出てどこにでも死に場所はあると言うのじゃな。
一休はしつこい位に寺の腐敗を嘆いているのじゃ。
よほど酷い目にあったようじゃ。
-
どのような道も悟った者には一つに見えるのじゃ。
智恵と献身は一つであり、何の違いも無いのじゃ。
山の頂上からは全ての道が見えるようなものじゃ。
そして山頂に向かう一つの道だけがあるのじゃ。
ただひたすら己の道を行けばよいのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
法眼宗とはいかなるものかというのじゃ。
法演は夜中に巡回する人だというのじゃ。
一滴の曹源は一滴の深みが在るのじゃ。
巡人が騒いでも夜は沈沈としてふけて行くのじゃ。
死場所はどこにでもあるのに何の法がいるのであろうか。
家醜はなお棒心を学ぶが如しなのじゃ。
-
くま質問
「家醜はなお棒心を学ぶが如し」
この「家醜」とは、法眼宗の教えという意味で、「棒心を学ぶ」とは、建設現場の親方の心得を学ぶ
ようなものだと言ってるのでありましょうか?
47.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第7章 バクティ:神への愛 ☆Part1③
Q:私はバクティの道にいます。バクタが真我探求をするのは可能ですか?
バクティは愛を通して神が帰依者を愛することだ。真我探求は帰依者が神に行くことだ。これが違
いであなたは選ばなければならない。神があなたと恋に落ちるのがバクティで、あなたが神と恋に落
ちるのがジュニャーナだ。
真我探求の道にいる人にとっては、神がどのようなものか知らないので間違いを犯す。しかし神が
神の帰依者を愛する時、決して間違いはない。神は帰依者の一歩後ろに付き添ってすべての世話をし、
帰依者が望まなくても必要なものを与えると言われている。
これに関して盲人の聖人の話をしよう。
ある日、彼は森の中を歩いていた。すると彼の前に井戸が現れた。彼は知らずに井戸の中に足を踏
みこもうとしたその瞬間、事実は彼の足はすでに井戸の上にあった。
誰かがやって来て彼に触れて言った。「ババ、あなたの前に井戸がある、こちらに来なさい。」
さて、このタッチ、この触れ方がとても優しくて、細やかで、彼の生涯で決して感じたことのない
ものであった。彼の髪の毛はすべて逆立った。彼はあまりの驚きの為に喉がつまって、あなたは誰か
と尋ねることさえできなかった。もちろん、それが誰か見ることもできなかったのだから。
しかし、彼は知っていた。そのようなタッチを与えることができるのは彼自身のアートマン、内な
るハートにいる人以外誰もいない、ということを知っていた。そしてこのことについて詩歌を詠った。
私は力のない盲目で老いぼれ、
あなたは若くて力があり、私を井戸の側から救ってくださった。
私は弱っていますが、あなたが私のハートから逃げだすことができるか試してください。
あなたは山を持ちあげることができる、私はそれを疑ったりはしません。
しかし、あなたがどんなに勇敢で力持ちでも、
私のハートから逃げ去ることができるかどうか言ってください。
これが、この前に私が話した「決心」についてだ。私はその女性に歯を食いしばってこぶしを握り、
「それ」が逃げ出すかどうか見なさいと言ったのだ。
それ位の強さがあれば、サンサーラの海を横切ることができるだろう。さもないと一方には鰐が、
他方には鮫がいるのだから。あなたがそれらをうまく片づけることができるのなら、あなたは大丈夫
だ。筏はいらない。
しかし、筏にのっている方が安全だ。この筏がサットサンガで、他の岸まであなたを連れていく。
一度そこに着いたら、このサンサーラに再び戻る必要はない。
ほとんどの人が鮫の口の中に飛び込みたがる。しかし、あなたは筏に滞まると固く決心しなければ
ならない。重要なのはサットサンガにいる期間ではなく理解だ。全生涯を使っても理解できないかも
しれないし、まさにこの一分間に、1/2分に、1/4分に、理解するかもしれない。
私は毎日同じことを言っている。
あなたは意識。
あなたはアートマン。
あなたは美そのもの、愛そのもの。
あなたがこれを理解したら、このホールの家賃を支払う必要がなくなるのだが!!
(´・(ェ)・`)
(おわり)
題黄檗禮佛示榮衒徒 二首 1/2 黄檗ぶつをらいするに題して、栄衒の徒に示す 二首
禮佛家風眞作家 仏をらいす家風真のさっけ
作家汝榮衒誵訛 作家汝榮衒のごうが、
奪食驅牛成伎倆 じきを奪ひ牛を駆って伎倆を成す
米錢名利賺過他 米錢の名利他をけん過す
くま訳
黄檗仏を礼す、と題して栄衒の徒に示す 二首
仏を礼拝することは、禅宗真の師家のならわしである。
師家、おぬしにとっては、名聞利養に邁進する輩のことか?いりくんで難しいのだ。
愚かしく駆けずり回り、飯を食う技を身に着ける
食い扶持を稼ぎ、名利を追うために、人々をあざむき、ご機嫌取りをする者のことを師家というのか?
*誵訛(ごうが):聱訛とも書く。「いりくんで、むつかしきこと」をいう。
*栄衒徒:名聞利養に邁進する輩。53の詩参照(102・93)
*黄檗希運(おうばく きうん、-850年)唐代の禅僧。黄檗山黄檗寺を開創。臨済宗開祖の臨済義玄の師
*賺(けん):①すかす。だます。あざむく。 ②なだめすかす。きげんをとる。
(´・(ェ)・`)b
-
↑そのような意味じゃろう。
あまりよくないような感じじゃな。
-
バクティとは献身の道なのじゃ。
神仏に帰依することでサマーディに達するのじゃ。
真我を追求するのとは別の道なのじゃ。
悟りに至れば一つの道と知れるがのう。
修行者は自分の道を選ばなければならないのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
黄檗が仏に礼するのを榮衒の徒に示す題なのじゃ。
仏を礼する家風は真の作家なのじゃ。
作家は汝のような榮衒の徒には難しいことじゃろう。
食を奪い、牛を駆って技量を成すのであるからのう。
米銭名利を貪り、他のことは眼中にもなく過ごしてしまうのであるからのう。
-
48.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part1①
愛から逃げ出す道はない。
平和と自由には、西も東もない。
あなたがどこへいこうとも、それはいつもあなたと一緒にいる。
サットサンガはあなたはすでに家にいると思い出させてくれる。
あなたが家そのものだと…
だから、サットサンガから離れることはできない。
サットサンガはあなたの本質だ。
この経験は忘れることはできない。
忘れることができるものはマインドによって忘れられる。
しかし、注意深く警戒していなさい。
あなたに親しいものが問題を作るのだから、
過去の友達、邪悪な習癖は戻って来て
再び苦しみにあなたを招待するだろう。
それらは非常に強引なので、あなたも又強くなくてはいけない。
過去の習癖を破りなさい、そうするとあなたは自由だ。
同じ船に乗っている人と一緒に旅をしなさい。
同じ方向に、同じ目的地に行く人と交流しなさい。
何があっても真理に行きなさい、
いつも静かにしていなさい。
隠れている習癖に適した環境が起こると、その習癖が又現れて来るだろう。
それらがどんなに冬眠していようとも目を覚ますものだ。
特にあなたが静かにしていると、それらは現れて来る。
銃弾は一度で殺すが、ヴァーサナは何度も何度も殺しにやってくる。
警戒して自問しなさい!
期待は幻想だ。それらを追いかけないこと。
怒りや肉欲やどん欲にも巻き込まれないことだ。
ただそれらに巻きこまれないことだ。
静かにして満足していることが一番の武器だ。
歓喜もまたマインドや悪魔を破壊するだろう。
一度それらを埋葬したら二度と掘り返さないことだ。
あなたは、あなたの家族や友人に対して責任がある。
だからこのサットサンガは続いて行くべきだ。
一度真理を知ったならそれを分ち合いなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
2/2
題黄檗禮佛示榮衒徒 二首
閻老面前尤苦哉 えん老面前もっとも苦かな
飯錢今日急環來 はんせんこんにち急に還しきたる
話頭古則商量價 わとうは古則商量にあたひ
棒喝邪師度世財 棒喝は邪師どせいの財
くま訳
閻魔様の前に出でてから、苦しむのだ。
飯代を今日急に還しに来やがった。
古則話頭は売値つき、
棒喝も邪師にとっては、渡世の道具。
(´・(ェ)・`)b
-
お釈迦様も悪い友とは付き合わないようにと言っているのじゃ。
共に修業できるよい友とだけ付き合うようにというのじゃ。
それが出来なければ独りで進むが善いのじゃ。
悟りを得たら友にも教えると善いのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
また黄檗の礼仏を榮衒の徒に示す題じゃな。
閻魔の面前でもっとも苦しむのじゃ。
飯銭をその時になって返しても遅いのじゃ。
話頭古則は金で売り、
棒喝も邪師の世過ぎの財としていたのであるからのう。
-
49.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part1②
1947年インドが分裂する以前に、私はラマナアシュラムに滞在していた。七月の中頃、ある日
誰かが私にラビ河のどちら側から私がやって来たか尋ねた。私の町はこの河よりももっと遙かに離れ
ていると答えた。そして彼は国家の分離の危機について話した。
私は新聞を読む時間も政治に関わる時間もなかったのでそれについてはほとんど知らなかった。彼
が言うには来月の中頃、国は2つに分かれて、ラホールとペシュワーの間に住んでいる私の家族は、
もし私が救い出さないと虐殺されてしまうだろうというのだ。
私はすでに全ての家族を忘れてしまっていた。全ては夢であった。両親・家族・子供達・国家、全
ては夢で全ては終わったと彼に言った。これが私の無執着がどんなに強かったかを示していたし、そ
れ位強くなくてはいけないものだ。
この人は私が言ったことをマハルシに告げて、私達がマハルシと一緒に朝の散歩に出かけた時マハ
ルシは私に尋ねた。
「なぜラホールに行って家族を救い出さないのかね?」
私は言った、
「私がここにやって来た時に私には妻や子や両親がいたが、あなたが私に一瞥を与えて下さった時、
全てが終わりました。今はあなたが私の唯一の身寄りで、この世に他の誰もいません。」
「それを夢だと言うならなぜ夢を恐れているのかね? 夢の中であなたの妻や親せきの面倒を見に
行った方がよい。なぜ夢を恐れているのだ。あなたの夢の手は、夢の虎の口の中では全く安全だ。
このように世間で生きなさい、そしてそれを夢と呼びなさい。恐れないで、夢の中で働いているよ
うに働きなさい。夢は夢で、本当のものは何もないが、息子としてあなたも又夢の中にいる。
だから夢の息子を夢の国に行かせて、夢の中で夢の両親を救いだしなさい。」
このように、マハルシは私の為に夢を意味づけた。そして彼は言った。
「あなたがどこにいようとも、私はいつもあなたと一緒にいる。」
この言葉で彼は私に教えてくれた。私がどこにいようとも、私と一緒にいるのは彼で即ち「私」だ。
彼が「私」である、即ち「真我」が私がどこにいようとも私と一緒にいるのだ。
彼に何を言うことができる? 彼は私に立ち去るようにと言っている。それで私は、彼に敬拝して
彼の足元の埃を集めて、彼のまわりを三度回って彼を後にした。
私はパンジャブに行って2・3の奇跡的な出来事を通じて、大虐殺から私の家族を無事救い出した。
これがグルと一緒にいることの思寵だ。
グルはあなたに自由を与えるばかりでなく、
あなたが必要なものを何でも与える。
私が北部にやって来た時、ラホール行きの汽車は空でモスリムだけが「ヒンドゥを殺せ!」と叫ん
でいるのを見た。そしてヒンドゥの人達は安全の為にみんな一緒にいた。
その時モスリムのいる場所に行って、彼らと一緒に座りなさいという指令がマインドに浮かんだ。
私はむろんヒンドゥと一緒にいたかった。私はヒンドゥの証拠であるOMの入れ墨を手にしていた
し耳も穴があいていた。誰がモスリムと一緒に座るようにという考えを与えたのか?
私はモスリムと一緒に「ヒンドゥを殺せ」と叫んでいた。そうして他の全てのヒンドゥは汽車から
連れ出されて殺されたにもかかわらず、私の手のOMの恩恵と、私のグルの祝福のおかげで無事にラ
ホールに着いた。
私が私の生まれた町につくと、ヒンドゥは誰もいなかった。私が住んでいた所は、ヒンドゥだけの
居留地グルナナクプラであった。そこで馬車の御者に疑いを抱かさないように、近くのモスリム居留
地イスラムプラに行くように言った。
そこから私は歩いて私の家にたどり着いた。ベルを鳴らしても誰も答えない。遂に、屋根の上から
私が誰か尋ねる父の声を聞いた。「私はあなたの息子だ! 私の声が分からないのかね。」と叫び返し
た。
「なぜやって来たのか、どのようにしてやって来たのか? 汽車はまだ動いているのか?」と父は
尋ねて、「ここから親戚全てを連れ出して汽車に乗せなさい。」と命令した。
軍隊時代の私の友達が、彼はモスリムであったが彼の家に私達を匿い、インドに戻る手はずを全て
整えてくれた。
私達の家はすでにアムリッツァからのモスリム避難民によって占有された。他のほどんどの家族は
部分的又は完全に破壊されたが、私の家族・親戚40人は汽車で安全にラホールを後にした。
そして私の両親は汽車に間に合わなかったが、私の友達のおかげで飛行機で無事にラホールを後に
した。
これがマスターの恩寵だ。誰も傷つかず、彼が全て面倒見てくれた。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
-
見識明心
憶得寒山見月題 憶ひ得たり寒山月を見るの題
眼睛落地衆生迷 眼睛地に落ちて衆生迷ふ
洛陽三月貴遊客 洛陽三げつ貴遊の客
閃爍紅旗残照西 せんじゃくたる紅旗残照の西
くま訳
物事の本質をとらえる悟り
寒山が詠んだ月の詩は、見識明心を正しく表現し尽くしているのである、
視線を地に落すと、衆生は迷ってしまう、
洛陽では三月になると貴族が花に誘われあつまるように、、
仏道を求めるものにとっては、寒山の詩は、閃きを与えてくれる、機鋒が、今でも鮮烈にあるのだ。
*見識:物事を深く見通し、本質をとらえる、すぐれた判断力。ある物事に対する確かな考えや意見。 識見。
*明心(あかきこころ・みょうしん): 誠実な、偽りのない心。まごころ。清き心。心を明らかにす
ること。さとりを開くこと。また、明らかな心、さとりの心。
*寒山見月:禪学大成脚注:朗月の天にある、月光の地にある、此れ皆見性の種子なり、洛陽三月酒
旗の点頭に翻るも又同斷
*寒山:天台の国清寺の僧、豊干(ぶかん)が拾った、拾得と、拾得の友達、寒山。豊干によると、
拾得は、実は、普賢、寒山は、実は文殊と評している。豊干自身には実は神通力があるらしい。
究極の狂風の逸話、禪画多数あり。一休さんの重要な師匠に含まれるでありましょう。
*閃爍(せんじゃく):ひらめき輝くこと。
*紅旗閃燦:厳しく機鋒が峭峻であり、矛先のように鋭いこと。
(´・(ェ)・`)b
-
それでよいのじゃ。
見て識ることで心を明らかにするのじゃ。
寒山が月を見るの題を覚えているのじゃ。
眼を地に落とせば迷いの衆生がみえるじゃろう。
洛陽三月に貴人の客が遊ぶのじゃ。
紅旗が閃爍としているような残照が西にあるじゃろう。
-
50.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part2①
Q:ラクナウを去って西洋に戻ってもよいでしょうか。私は準備が出来ていると思われますか?
行きなさい、西も東もないのだから。それは地図の上にあるだけだ、マスターには西も東も存在し
ない。あなたがどこへ行こうともグルの臨在を感じるだろう。あなたが明け渡したのなら一歩一歩あ
なたを導くのはグルの責任だ。
Q:デンマークに戻ったら過去の習癖に戻るのではないか?と恐れています。
デンマークに戻ったらあなたが元に戻ると、どうして考えるのかね? あなたは何かが変わると期
待してラクナウにやって来た。そうして何かが変わった。
今は、最初にやって来た時のあなたとは違う人になっている。だからあなたが戻ったら、また元に戻
ると考えないことだ。サットサンガにいつもいて、過去の状態に戻るという恐れを持たないことだ。
あなたは決して変わることはない。この瞬間があなたに沈黙を差し出した。静寂と幸福。恐れない
ことだ。デンマークでサットサンガを持ちなさい。ここで起こったことを話して聞かせなさい。
Q:私は経験しましたが…
この経験はデンマークにあなたと一緒に戻ることができる。あなたと一緒にいるに違いない。あな
たは自由だというのが経験だ。それと一緒にいなさい。どうしてそれがどこかに行ってしまうことが
できる?
自由を経験したなら「私は自由だ」は、いつもあなたと一緒にいる。
この経験を保持しようとするのではなく、それであるべきだ。さもないとそれは想像で理論にすぎな
い。
Q: どんな状況にあっても愛という輝やいた海に滞まるには、どうしたらよいのでしょうか。ウィー
ンでの私の人生のストレスを考えたら、このように滞まるのは難しいと思います。
これは美しい経験をした後でほとんどの人が持つ疑問だ。あなたがここにいて説明してあげられる
のは嬉しいことだ。まず最初にあなたはいつもこの経験と一緒に居たい。これは「いずれそれはなく
なってしまうだろう」という意味を含んでいる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
余寓薪園小舎有年。森侍者聞余風彩、余薪園の小舎に遇する年あり、森侍者、余が風彩を聞いて、
巳有嚮慕之志。予亦知焉。 すでに嚮慕の志あり、余もまたこれを知る、
然因循至今。 しかれども因循として今に至る。
辛卯之春邂逅干墨吉。問以素志。 しんぼうの春墨江に邂逅して、問ふに素志を以ってす、
則諾而應。 即ち諾して、応ず。
因作小詩述往日間何闊懐 因って小詩を作って往日かくわつの懐にまじふることを述ぶ、
且記今日來不束之喜云 かつ今日来不束の喜びを記すと云ふ。
1/2
憶昔薪園居住時 おもふ昔薪園居住の時
王孫美誉聴相思 王孫の美よ聴いて思ふ、
多年舊約即忘後 多年旧約即ち忘じてのち、
猶愛玉堦新月姿 猶ほ愛す玉かい新月の姿
仁先生訳
この詩を書いたのはね、ぼくが薪村の草庵に住んでいた頃の話だけれどね、この森公がね、ぼくの風
評を色々聞いて、密かにぼくに憧れていたんだよ。そしてぼくに会ってね、いよいよぼくを慕うよう
になるのさ。
森公の心根の無垢さがぼくには不思議なくらいだった。
けれどいろいろのことがあってね、森公の傍にばかりいることはできなくなってね、いつの間にか森
公もいなくなって、今までそのことさえも忘れかかっていた。
文明三年(1471年)の春に、住吉の薬師堂で偶然にも森公に巡り会えてね、あの頃のことを謝し、
今もまだあの頃の心はあるのだろうかと問うたところ、あれからもずーっとぼくを慕いつづけてきた
と心を明かしてくれたんだ。
ぼくはほっとしてね、森公が愛おしくてたまらず、もうずっと一緒にいようと思い、そのぼくの念い
を詩にして伝えたよ。
思えば昔ね、ぼくが薪村に住んでいた頃、
ぼくが皇孫であることや誉れ高い噂を聞いて、森公はぼくを密かに慕っていることを知って、ぼくも
愛おしく思っていたんだよ。
その相思の契りを、長い間すっかり忘れていたけれど、今こうして再会して、
あの薬師堂の階段に立っている新月のように優美な森公の佇まいがもうたまらなく愛おしいよ。
くま訳
思いだしてみれば昔、薪園に住んでいたころ
わしが、誉れ高い高貴な出であると、聞いて、相思相愛になったのだ。
その時した約束を、長いこと、ころっと、忘れていたのだ。
今、再会して、思いを確かめることができて、ワシの心は愛で満たされてるのだ。
薬師堂の階段に佇む森の姿は、月光のように美しいのだ。
(´・(ェ)・`)b
-
もし自分の本性に気付いて厭離ができたならば、もとにもどるということはないのじゃ。
もはや真実に気付いたのであるからのう。
例えば自分の執着が過去の記憶によるものと気付いたならば、もはやもとに戻らないようにのう。
それが法なのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
一休が薪園の小屋に住んでいた時、森侍者が一休の風采をきいて慕い、一休も知ったのじゃ。
しかし何もせずに今に至るのじゃ。
後の春に逢って昔の心はそのままか聞いたらそうだというから応じたのじゃ。
よって小詩を作って共に暮らすことを述べるのじゃ。
また今日来の不束の嫁媚を記すというのじゃ。
昔、薪園に居住していた時を思えば、
王孫の美誉を聞いて相思になったのじゃ。
約束して多年になって忘れた後、
なお玉階新月の姿を愛するのじゃ。
-
51.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part2②
Q:気づきを失うことは不可能ですが、ストレスの中で失うのは至福です。
この経験をいつも保っていたいというのは、この経験を時間の中に持ち込みたいということだ。
なぜこの経験を時間の中に持ち込みたいのかね。この経験が起こった時は時間を超えていた。時間
の中で起こるものは全て価値がない。時間の中で手にいれるもの・・幸福や平和、あなたが愛する人
はこの時間の中でいつか消えてしまうだろう。
この無時間性が時間にやって来るべきだとなぜ望むのかね? 時間は死、不幸、過去、マインドを
意味する。時間とマインドには何の違いもない。
あるがままにしておきなさい。あなたは海に飛び込みたい、それなら一度飛び込んだら、戻って来
ることはない。河が海に流れこむ時、河は海になって海として滞まる。河がその形と名前を失っただ
けだ。
名前を取り除きなさい。意識には名前がない。名前と形を取り除きなさい。何が残っているのかね。
名前と形を取り除いたら何が見えるかね。
Q:何もありません。
この何もないことは、いつも何もないのだ。何かが時々あるのでもなく時々何もないのでもない
(笑)今、明らかになったかね?
Q:はい、明らかです。
オーストリアに戻ろうが、ラクナウにいようが何の違いもない。名前だけの違いだ。どんな名前も
時間の中にある。しかし、意識は時間の中に存在しない。Very Good。
どんな仕事もこの平和を妨害しないだろう。恐れることはない。問題はない。以前のようにあたな
の仕事に巻きこまれることはない。以前は、あなたのエゴが全ての仕事をしていると考えていた。
今あなたは、エゴを越えた何か、あなたの理解を越えた何かが全ての仕事をしているのだというこ
とを知っている。
この源泉に滯まっていなさい。目に見えない何かによって動かされている肉体を通じて仕事がなさ
れるのを見なさい。それが全て起こっているのをただ観察していなさい。
顔の向きを変えて、逆のギアに入れて、エネルギーがやって来る所に顔を向けなさい。後戻りのギ
アにして、超えて行きなさい。思考がやって来る源泉を見つけて、あなた「自身」を「それ」と一体
化させなさい。
そうすると、至高の力の恩寵で全てが起こって行く。あなたの顔を永遠ではない対象にではなく、
至高に向けなさい。対象を越えたエネルギーの源泉にあなたの顔を向けなさい。
そうすると何もあなたの仕事を妨害するものはなく、それはあるがままに動いていると分かるだろ
う。
ここで手にいれた何かが失われるのなら
失わせなさい。
あなたは失うものを得る為にここにやって来たのではない。
決して失うことのない「それ」を知る為にここにやって来たのだ。
失う可能性のあるものを熱望しないことだ。
失うことができないもの、永遠のものがあなたのハートの洞窟に
ダイヤモンドのように輝いて座っている。
内を見なさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
祝聖 祝しん
海内太平便現前 海だい太平即ち現前
清風明月碧雲天 清風明月へき雲の天
萬年七百高祖行 萬年しち百高祖の行
看看天龍正覚禪 看よ看よ天龍しょうがくの禪
くま訳
祝聖
天下太平であれ、全てはありのままでよいのだ。
清風明月碧雲天
七百年前に高祖から伝えられた禪はこれから万年も受け継がれてゆくであろう。
看よ!天龍に守られ、仏の悟りをもたらす禪を
*祝聖(しゅくしん)祝聖 禅宗の寺院で、天皇の寿命無窮を祝い祈ること。天皇誕生日および毎月の
1日と15日に行う。
*七百高祖行:達磨が中国に禪を伝えたのが5―6世紀、日本に伝来したのが13世紀頃らしいので、
700年かなと愚考した。
(´・(ェ)・`)b
-
名前と形態が観念を起こしているのじゃ。
それに気付いたならばどこにいようと安楽が在るのじゃ。
自分の名前と形態を忘れたならばサマーディもやってくるからなのじゃ。
それはもとからある安楽なのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
聖人を祝うのじゃ。
天下が太平であることが今現前しているのじゃ。
風清くして月は明るい碧雲の天なのじゃ。
万年も受け継がれる高祖の行なのじゃ。
看よ看よ天龍の如き正覚の禪を。
-
52.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part2③
Q:今、木から一葉がやさしく、美しく、静かにおちて行くようにラクナウを立つことができます。
海に抱かれて沈んで行くように感じます。私は感謝の気持とともに敬服します。あなたを私のハート
の中に包んで帰ります。
Very good、Very nice、木から落ちて行く葉には北や南に飛んでいこうという
意図はない。意図とは何も関係ない。風と共に恩寵の風とともに飛んで行く。
あなたはエゴという木から落ちて行く木の葉だ。今あなたは木と何の関係もなく、落ちるがままに、
風がふくままに任せてどこへでも飛んで行くのだ。
あなたがあなたの課題を終え、今戻って行くのは非常に嬉しいことだ。THANK YOU.
Q:多くの人が私の滞在は短すぎると言いますが、私には一瞬掛かっただけです。どのようにして、
目醒め続けていられますか? コミットメントがその方法ですか?
そうではない。コミットメントではない。あなたは何にもする必要がない。「私であるものが私
だ。」とただ感じるだけでよい。これはコミットメントではない。
あなたはあなたで、あるがままだ。あなたが真我としてあったようにあり続けて来た。あなたがあ
るようにあるだろう。これはあなたの内なる信頼だ。「私であるものが私だ!!」
他の何かを信頼するのではない。非常に簡単で非常に自然だ。何かになるのでもなければ、何かに
ならないのでもない。あなたのあるがままでいなさい。
たとえ、不完全なまま去って行っても、何も得なかったと感じても決して時間の無駄にはならない。
もしあなたが何も得なかったというなら、あなたは正しい。私は何も与えていないのだから。あたな
は何も得ることはない。
無駄な時間はサットサンガにはない。たとえ今、何も役に立たなかったとしても、これはいつか効
果を現す。効果はきっと現れる。誰も失望することはない。時期が熱したら、ここで話された全ての
真理はマインドに突進するだろう。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
題密庵和尚病起上堂後 密たん和尚病き上堂の後に題す
江山富貴是樵漁 かうざんの富貴これせうぎょ
風雨吟身一草廬 風雨吟身一さうろ
七顛八倒衆生苦 七顛八倒衆生の苦
不耐小魚呑大魚 耐へず小魚大魚を呑む
くま訳
密たん和尚が病が治り上堂後と題して、
国の富貴は、海山、様々な仕事をする人たちにより支えられている。
風雨を詩に詠み暮すわしは粗末な庵に住む。
衆生の暮らしは七顛八倒、大変苦しいものである。
苦しみに耐えられず、小魚大魚を呑むことが、実際に起こることもあるのである。
*病起:病から起きて・病が癒えて後
*密庵咸傑(みったんかんけつ):1118-1186南宋の臨済宗揚岐派の高僧。法語『密庵咸傑墨跡』
(国宝) が日本に請来され,大徳寺の竜光院に伝わる。この掛幅のために,その茶室密庵席に密庵床が
設けられた。
墨跡の内容は、修行する上での心得を説き「長く修行を続けることができれば、夢にさえ見たこと
のない素晴らしい境涯が開ける」と記されてるとのこと。
*江山:川と山,国土,国家,国の支配権
*樵漁(ショウギョ):木を切ることと魚を捕ること。木こりと漁師。転じて、庶民。隠者の意味で
使うこともある
*草廬(そうろ): 草ぶきの粗末な家。 自分の住居をへりくだっていう語。
(´・(ェ)・`)b
-
たとえ聖者のもとに居ることが少なくとも、気づきが起きたならば十分なのじゃ。
気づきは一瞬で起こるものであるからのう。
自己の不在に一度気付いたならば、それが無為にまで続いていくじゃろう。
ただありのままにあるだけで大悟はやってくるのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
密庵和尚が病から起きて上堂後に題するのじゃ。
江山の富貴は樵や漁民なのじゃ。
風雨に吟詠する身は一草廬にありなのじゃ。
衆生の苦しみは七顛八倒するほどなのじゃ。
そのために耐えず小魚が大魚を飲み込むことが起こるのじゃ。
-
53.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part3①
Q:私は完全に成しとげたと思います。今私はどこを見てもあなたの顔が見えます。
誰かと恋に落ちたら、その人の顔がどこにでも見える。そして愛が非常に深い時、あなたが見るも
のは何でも最愛の人に見える。そして「それ」になる。その時、最愛の人との一体化が起こる。
Q:私の足でさえ、地面に着いていません。
これもまた本当だ。重さを感じないのであなたは飛んでいるように感じる。私はあなたがここに
やって来て大変嬉しい。THANK YOU.
Q:あなたが下さったこのダイヤモンドを持って世界に戻り、それをサンサーラの中でテストする時
が来たように思います。
グルが持っているものは何でも、彼が準備ができたと考える人に、グルは手渡す。グルはそれに値
すると彼が決めた弟子に全てを手渡すものだ。これについての話をしてあげよう。
中国に一人の聖人がいた。彼は彼の後継者を選ぶ時が来たとコンテストを行うことにした。
ガーサ:最も秀れた仏法の真髄について述べた弟子が聖人の衣と托鉢の椀を勝ち得るのだ。昼夜を
分かたず、寺の学識のある弟子たちは、本堂の黒板に彼らのガーサを書いた。
この時非常に謙虚な一人の男がいた。彼は文盲で寺の下働きをしていた。夜遅く彼は全ての仕事を
終えた後で本堂に行き、この大騒ぎは何かと尋ねた。
「グルが最も秀れたガーサを書いた人に彼の衣(けさ)と托鉢の椀を手渡すのだ」と告げられた。
「どれが今までに一番良いガーサですか?」と彼は尋ねた
非常に賢明な高弟が言うには、
「マインドの鏡をいつもきれいにしておきなさい。そうすると埃がたまらない。そうするとあなたは
自由になる。」
そこで、この謙虚な下男は返答した。
「鏡のないところに埃はたまらない。」
このガーサが他のガーサと混じって書かれていた。真夜中に聖人がガーサを見ようとやって来た。
彼が下男のガーサをみた時、彼は彼の後継者を見つけたと知った。
そして彼の所に行って彼の僧衣と椀を与えて、夜通しできる限り速く走って見知らぬ所に行くよう
に、と言った。なぜなら、寺の高僧たちが彼を見つけたら彼を殺すかもしれないからだ。こうしてこ
の下男は寺を去っていった。
次の朝グルが裸でいるのを見つけて、高僧たちは怒りに狂って何が起こったのか調べ出した。2〜
3時間後彼らは下男を捕まえて、グルの唯一の所持品を盗んだと追求しはじめた。
彼は言った、「この椀と僧衣はあなたに渡すが、私のグルが私に与えてくれた光を奪うことは決し
てできない。」
サットグルはあなたのハートに、宇宙の全存在のハートに存在するので、本当の贈り物であるグル
の教えは盗むことはできない。
鏡をきれいにしようと努力しないことだ。
鏡はいつも汚れるものだ。
鏡がなければ、たまる埃もない。
あなたは真我でないという傲慢さを取り除きなさい。
鏡を捨てて、全てが真我だと悟るほうがよい。
この悟りがダイヤモンドでグルからの贈り物だ。
さて、このダイヤモンドをテストする必要はない。あなたは同じで世界も同じだ。サンサーラとニ
ルヴァーナは何の違いもないので、恐れることはない。
新しくなって帰りなさい。起こって来る全ての状況に直面しなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
-
東坡山谷同㡧 とうばさんこく同たう
海内文章汝面前 海だいの文章汝が面前
誰知鍛煉獨天然 たれか知る鍛錬独り天然
説法上堂法堂上 説法上堂はつたうの上
如來禪與祖師禪 如来禅と祖師禅と
くま訳
東坡、山谷の書画が、一幅の掛軸にある。
天下の名文が、目前にあるのだ。
誰も知らないのだ、鍛錬とは独りでするのが当たり前であることを。
説法は法堂(はっとう)の上で行うが、法堂の上には法があるのだ。
如来禅と祖師禅の法があるのだ。
*東坡(とうば):蘇軾東坡1036‐1101年 北宋の詩人、政治家
*山谷(さんこく):黄庭堅 1045‐1105年 北宋時代の書家・詩人・文学者
不遇の役人生活をしながら、参禅に、芸術にいそしみ、詩文のやり取りをとおして思想、心境を深
めていった。二人は一休さんの心の師匠かも。
*同㡧:(同とう)2人の詩人の書画が一幀(ちょう・・装丁)の内にあること。
*如来禅:①如来が実践する禅法。楞伽経(りようがきよう)に説かれる四種禅の一。(大辞林)
②達磨だるまの伝えた正系の禅。圭峰宗密(けいほうしゆうみつ)が分類した五種の禅のうち、最
上のもの。のちの禅宗では自己の禅を祖師禅と呼び、不十分な禅の蔑称として如来禅の語を用いた。
如来清浄禅
*祖師禅:達磨だるまの禅宗のこと。また、六祖の慧能の系統の禅(南宗禅)をいう。(大辞林)
*この辺の分類は、論者により、まちまちである。どうでもよいよいのでありましょう。
一休さんは、黙照禪よりも、悟りに導く修行法として優れているのは、説法や公案指導など、師家
の指導による風流な禪(看話禪?)であるとしている詩が、147・148 で詠まれているのである。
お楽しみに
(´・(ェ)・`)b
*おまけ;三聖吸酸:儒教の蘇軾、仏教の仏印、道教の山谷(黄庭堅)・・酢が酸っぱいという事実
は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっているとしても、真理は一つである
という意味。
鬼和尚コメント
犀の角のように独りで歩めとお釈迦様も言っているのじゃ。
独りでいてこそ自分の本心が自分に現われるのじゃ。
他人が居ては仮面を被るからのう。
犀の角のように独り歩むのじゃ。
(´・(ェ)・`)b
-
真のグルが与えるものは気づきだけなのじゃ。
それは一度得られれば失うことは無いのじゃ。
道に落ちている縄が蛇ではないと知ったならば゜、もはや二度と蛇とは思わないのと同じなのじゃ。
自分という幻想から覚めれば真実が常にあるだけなのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
蘇東坡と山谷が同㡧なのじゃ。
海内の文章は汝の目の前に在るのじゃ。
誰が知ろう鍛錬は独り天然にあることを。
説法は上堂であるが、法は堂の上なのじゃ。
如来禅と祖師禅のようなものじゃ。
-
54.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part3②
Q:私がヨーロッパにいる間どのようにしてあなたに仕えることができますか? あなたの為に何が
できますか?
あなたができることは、街を歩いている時あなたの後ろから従って来る人は誰か? あなたが眠っ
ていてもあなたから決して離れない人は誰か? 目覚めていようが、眠っていようが、夢を見ていよ
うが、あなたの活動の全てに気づいている人は誰か? 話している時、舌を動かすだけの力を与えて
いるのは誰か? を見つけ出すことだ。
あなたが見る時、目の網膜の後にいる人は誰か見つけ出しなさい。
これを私の為にやってほしい。これがあなた自身の真我と接触し続けることだ。
Q:「それ」から顕われる情勢の中で起こってくる責任についてはどうなるのですか?
あなたが言っている責任というのは、エゴ-マインドからやって来る。
現実にはあなたには何の責任もない。
「それ」があなたの行動の責任をとるだろう。
Q:あなたに会って以来、全てが夢のようにみえます。
ラクナウにやって来る前は全てが本当のように思えた。
しかし今、それは夢だ。これがあなたが「家」に戻った時に得られるレッスンだ。
マインドがあなたに本当だと告げた時のみ
物は本当に見える。
しかしマインドがない時、これは全て夢だ。
少数の人がこの現実を夢だと経験する。夢を見ている時、全てが本当のように見える。夢の中であ
なたに飛びつく虎は本当に見える。それは夢の中では本当だ。夢を見ている人でさえ本当に見える。
しかしあなたが目覚めると、虎を恐れることはない。なぜならそれは決して存在しなかったのだか
ら、それは夢の虎にすぎない。
これは全ての人に言えることだ。誰もがこの夢を恐れている。なぜなら誰もそれは本当ではないと
理解しないからだ。
やって来るもの全ては夢だと理解しなさい。
夢のタイガーを恐れないこと。
Q:それでは、私は家にいて二度とラクナウに来る必要はなく、起こるがままに人生を生きるべきで
すか?
そうだ、起こるがままに人生を生きなさい。もし「それ」があなたをラクナウに連れて来るならラ
クナウに戻ってきなさい。
起こるがままに人生を生きなさい。
しかし、それに巻きこまれないことだ。
やってこさせなさい。拒絶することはない。
何もやってこないなら満足して静かに座っていなさい。
これが本当の教えだ。
第8章 「あなたがどこにいようとも私はいつもあなたと一緒にいる」 終了
(´・(ェ)・`)
(おわり)
賛臨済和尚 臨済和尚を賛す
喝喝喝喝喝 喝々々々々
當機得殺活 機に当たって殺活を得
悪魔鬼眼睛 悪魔鬼眼睛
明明如日月 明々としてじつげつの如し
くま訳
臨済和尚を賞賛する
喝々々々々
臨機応変殺活自在
人を見抜く悪魔のような鋭い洞察眼
明らかなること日月の如しである。
(´・(ェ)・`)b
-
人々が現実とよぶものは実は夢でしかないとグルは教えてくれるのじゃ。
一度それかわかれば、もはやもとにもどることはないのじゃ。
それが真実であるからなのじゃ。
一晩の夢と同じように現実とよばれるこの世界も、いずれは何のあとも残さず消えて行くのじゃ。
それこそこの世が夢でしかない証なのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
臨済和尚の賛なのじゃ。
喝喝喝喝喝なのじゃ。
機会に当たって殺活を得るのじゃ。
鬼悪魔のような眼なのじゃ。
明々として日月の如くなのじゃ。
-
55.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part1①
世界は幻想
波に隠されているのは海
名前に隠されているのは基盤だ
顕現に隠されているのは「あなた」
あなたが誰か忘れないなら
この顕現は宇宙の踊りだ
名前のないものがあなたという形を与えた
それがドラマを演じるために、愛するために、真我を知るために
このことを忘れてはならない
ナラヤナ:幻想の想像
海は波のことを忘れないが
波が海のことを忘れてしまう。
これがために世界が顕現するのだ。
戯曲を演じるためにはこの忘れっぽさが必要だ。
世界は祝祭のためにのみ存在する。
顕現は楽しまれるべき、宇宙のドラマにすぎない。
すべてはドラマで、実在するものは何もない。
考えることはすべて、それになるのでドラマが続いて行く。
このドラマはあなたによって創られた。
そして、それを破壊できるのはあなただけだ。
Q:創造とは何ですか? この幻想はどのようにして起こって来るのですか?
最初に意識は静まりかえった湖のように存在していた。そして、さざ波が起こる。これが名前と形だ。意識から「私は意識だ」という思考が起こって来る。これが「私」という感覚だ。そして欲望が起こって、これがエゴだ。
さざ波は湖とは別個のものだと考えて、これが時間と空間という限界を創り出す。このさざ波は思考のまばたきと同じだ。これが意識から起こって来るエゴだ。
しかし、さざ波は湖や水と何の違いもない。これを忘れると問題が起こって来る。感覚が起こり、感覚の対象物が起こり、すべての顕現があなたと一緒に戯れるために、あなたを欺くために、創り出される。
あなたが「すべては想像だ」というとき、あなたは醒めているのでそれはもはや想像ではなくなる。顕現という夢から醒めなさい。あなたが真我から離れないならエゴは起こってこない。対象は感覚にすぎないし、感覚は肉体にすぎない。肉体はマインドにすぎないし、マインドは「私」にすぎない。
この「私」は意識だから、実にこの世界の創造はあなた自身の反射にすぎない。思考が世界を創り出すのだから、この「私」の源泉を完璧な警戒心をもって思考をストップすることで見つけ出しなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
虚堂和尚三轉語 1/3
己眼未明底 こがんいまだ明らかならざるてい、
因甚将虚空作布袴着 なにによってかこくうをもってふことなしてつく
畫餅冷腸飢未盈 がびょうれいちょううえいまだみたず
娘生巳眼見如盲 にょうじょうのこがん見てもうのごとし
寒堂一夜思衣意 かんどういちやころもを思ふ意
羅綺千重暗現成 らきせんじゅうあんにげんじょう
くま訳
いまだに見性できないでいる者は、なぜ虚空を衣服にしようとしているのか。
絵に描いた餅ちでは、わびしかろう、いまだ飢えを満たせまい。
少女が見性者を見ても見分けがつかない様なものである。
寒いお堂で一夜を過ごすときに衣のことを考えるようなものである。
美しい薄絹の衣(美辞麗句)をいくら重ねても闇が深まるばかりである。
*虚堂智愚:1185―1269南浦紹明 (大応国師) は虚堂の法脈を受けた臨済禅を日本に伝えた。
*転語:迷いを転じて悟りに至らしめる言葉
(´・(ェ)・`)b
-
意識は大海のようなものとものだというのじゃ。
自分とはその表面に現われた波のようなものなのじゃ。
自分が現われれば欲が起こり、感覚が起こり、感覚の対象が起こるのじゃ。
感覚の対象によって快と不快が起こり、嫌悪と執着が起こるのじゃ。
そして苦が起こる縁起をパパジも説いているのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
虚堂和尚の三轉語だというのじゃ。
己の目でまだ底を明らかにしていないのに、
なにをもって虚空を布として服を着ようとするのかというのじゃ。
絵に描いたもちは腸を冷やして飢えを満たせないのじゃ。
小娘のような目で見ても盲人の如しなのじゃ。
寒堂で一夜、思いを布とするような意味なのじゃ。
綺麗な布を千枚重ねても暗闇をつくるだけなのじゃ。
-
56.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part1②
Q:私達が見ている世界が宇宙の全体性ですか?
存在の水準は数多くある。私達より上の水準は美しい存在によって占められているし、下の水準は
半人間、非常に醜い存在によって占められている。
私は非常に美しくて肉体が透けて見える水準にいる人々を訪れたことがある。他の水準では半分顔
で、半分醜くゆがんだ顔を持った人々が存在し恐怖を感じた。
私達がここでモクシャを達成しないなら、次は神になって最終的にはこの水準に戻ってこなくては
ならない。ここが自由を勝ち得る唯一の場所だ。神でさえ自由が欲しいのなら、ここに生まれ変わら
なければならない。
意識はそれが考えるどんな形も取ることができる。ゴールドが宝飾のどんな形をとってもゴールド
として残るように。海が海として留まりながら波を創り出すように、意識がその本質を失くすことな
しに宇宙を創り出す。そこには、多様性も単一性も存在しない。
「それ」はただ「ある」。あなたはこれに気づいていない。これがロープが蛇に見える理由だ。近
づいて見ると蛇ではないことが分かるのだが。
同じことが「私」についても言えるのだ。
詳しい調査をして見ると「私」は存在しなくて、この宇宙は無の中に、意識の中に消えてしまう。
かって何も起こらなかった、これが究極の真理だ。考えるとそうなるのだからこの真理を考えなさい。
この蛇の毒歯を破壊して、あなたの真我を知りなさい。
あなた自身の真我に留まりなさい。創造者とは誰か、何が創られたのかと考えないことだ。
単に、あなた自身の真我に定住しなさい。すべての形を持った全世界が源泉から,即ち無からやっ
て来る。思考が源泉から起こる・・「私を倍加させよう」。
そうして、存在が過去、現在、未来とくり広げて行く。25000年前ヴェーダはこれについて述
べている:
EK Koham Bhahosham:私を何倍にも増やそう。
この創造の目的は真我が愛して楽しむことである。
だから人間として生まれて来た目的は、
自由になって楽しむことである。
すべての形は音である。形のすべては音から起こって来る。あなたが口にするどんな名前も形にな
る。しかし、どんな形にもならない一つの音がある。
この未知なるものが既知なるものすべての基盤だ。既知はいつかあなたを騙すことになる。だから
現れもしないし消えもしないものと友情を結びなさい。
意識は一瞬にして限りない生誕と創造を経験する。これらの創造は、これらの*リーラは、真実で
も偽ものでもない。真実は、創造も経験者もないが、なおかつ創造と経験者が存在するのだ。
これは、マインドにとっては逆説だ。しかし意識の中では、対象と主体の間には何の違いもない。
「私は誰か」という即座の探求の中で、それ自身がそれ自身を明らかにする。
さもないと創造は永遠に続くことになる。探求しないことが創造のベースであり、探求することが
自由のベースである。自由とは、あなたの本質は「存在・意識・至福」だと実現することだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
虚堂和尚三轉語 2/3
劃地爲牢底因甚 透者箇不過 地に画して牢と為す底、 なにによってかしゃこをとほり過ぎざる
何事春遊興未窮 何事ぞ いまだきわまらず
人心尤是客盃弓 じんしんはもっともこれかくはいのきゅう
天堂成就地獄滅 成就し地獄滅す
日永落花飛絮中 日は永しらっかひじょのうち
くま訳(錯覚)
地面を区切って牢としている、何でそこを通りすぎないのだ。
のどかな(言葉の)お遊びにいまだ飽き足らない
人の心は、盃に写る弓の影を見て、蛇だと錯覚したりする。
極楽浄土へ行けば、地獄は滅する
いつまでも、花が落ち、風に舞う綿毛のようであることだ。
*飛絮漂花(ひじょ):遊女などに身を落とすこと、女性がつらい境遇で、見込みもないまま苦労すること。
(´・(ェ)・`)b
-
人はそれぞれが自分の宇宙を創っているものじゃ。
そうであるからどのような宇宙も創造できるのじゃ。
そこに本来は自分も無いのじゃ。
自分が無いと知れば宇宙もないとしれるのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
また虚堂和尚の三轉語なのじゃ。
地面に牢を書いただけなのに、なぜ通れなくなるのかということじゃな。
何事か春の遊びは興味が尽きないのじゃ。
人心はもっとも客の杯の弓の如しなのじゃ。
天国がここに成就すれば地獄は無いのじゃ。
日は落花飛絮の中、永遠落ちることも無いのじゃ。
-
57.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part1③
Q:私達の真の本質が「存在・意識・至福」なら、なぜそれを離れてこの肉体としての形を想定する
のですか?
それを離れたと、なぜ想定するのかね? これは愚かなことだ!この想定そのものが、私が今説明
した幻想の創造だ!!幻想を創り出すこだ!!
あなたは「存在・意識・至福」ではないと誰が教えたのかね? この想定が無限の輪廻を引き起こ
しているにすぎない。あなたは決してこのホームベースを離れなかったという確信をなぜ持たないの
かね?
「 私は存在・意識・至福」、「私は自由だ」という確信をなぜ持たないのかね?
Q:私が自由だと感じなかったからです。
「私は生まれてもこなかったし、決して死ぬこともない」という確信をなぜ持たないのかね? あな
たの考えることがそのまま起こるのだから、考えたいのなら「私は『それ』のみだ」と考えなさい。
Q:真我とリーラは同じですか。
両方共同じことだ。海と波の間にどんな違いがあるかね? 海があるところには必ず波はあるし、
波のあるところには必ず海がある。海では波が必ず遊んでいる。そして、波は最終的に海に戻って静
かになる。
「私はリーラ」と言ってそれを楽しみなさい。
もし真我があって、リーラがあるというなら、
あなたは悟っていないことになる。
それらに「違いはない」し、「違いがない」ということもない。
何もない。唯一真我のみ
(´・(ェ)・`)
(おわり)
虚堂和尚三轉語 3/3
入海筭沙底 かいに入りていさごをかぞふるてい、
因甚針鋒頭上翹足 なにによってかしんぼうとうじょうに足をつまだつ
撒土筭沙深立功 どをさっしいさごをかぞへて深く功を立つ
針鋒翹脚現神通 針ぼうに足をつまだて神通を現す
山僧者裏無能漢 山ぞうがしゃり無能の
東海兒孫天澤風 東海のじそんてんたくの風
くま訳
海に入り、砂を数えている。何で針の先に爪先立ちするようなことをやるのだ。
土を撒き散らし、砂を数えて、大手柄をたてたつもりでいる。
針の上につま先立ちして、神通力を見せる。
山僧者裏(修験道の行者)は無能であるため、
東海の子孫である臨済宗は、本来の目的以上の役割を託されてしまった。
*東海児孫:通常、大応国師南浦紹明をあらわす(83の詩 参)
*澤風大過:易の64の卦。力量以上に背負った非常時で、家の棟がたわみ家が傾くような大変な時を表す。
(参*円楽寺:修験道の開祖、役行者が701年に開いたと伝えられる真言宗智山派の寺院)
(´・(ェ)・`)b
-
肉体を持っていても苦があっても衆生は今ここで永遠の意識そのものなのじゃ。
それから離れているという観念が幻想なのじゃ。
ただの一刹那も離れはしないのじゃ。
幻想から離れればそれを感じることが出来るのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
虚堂和尚の三轉語なのじゃ。
海に入って海底の砂を数えるのじゃ。
それに因って縫い針の頭につま先だって立つのじゃ。
土を撒き、海砂を数えて深い功績を残したのじゃ。
針の頭に足を爪先立てて神通を表したのじゃ。
山僧の者裏は無能の男であるのじゃ。
東海の子孫は天澤の風なのじゃ。
-
58..
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a①
マーヤー:幻想の力
ほの暗い道であった。
その道端に恐ろしい蛇が横たわっているのを見る。
そして他の方向から突然誰かが、蛇の側を通り過ぎてやって来る。
その人は何をそんなに恐れているのかとあなたに問いかける。
あなたはその人が踏みこえた毒蛇について話す。
そしてその人は、それはただのロープだと言って聞かせる。
毒蛇は存在しない。決して存在しなかった。
幻想と想像の力がロープという現実を隠してしまうのだ。
毒蛇の概念がロープを隠してしまうように、
幻映がアートマンを隠してしまう。
アートマンがすべてだ、潔癖の意識。
永遠に自由で至福に満ちている。
しかし、本質的に存在しない名前や形でこれを隠してしまう。
主体や対象に与えられたイメージでこれを隠してしまう。
考えることは、何かであると想像することだ。
「実在」の上に何かを覆いかぶせることだ。
それは一時的な夢の現実を創りだす。
この信じられない*1マーヤーの力は唯一アートマンからやって来る。
名前と形のすべてはこのマーヤーだ。
この名前と形に囚われると基盤の実質を見失ってしまう。
指輪を見たらゴールドを見ない。
名前と形が虚空に溶けこむと存在になる。
名前と形が幸福を与えてくれることはない。
名前と形のあるところでは何かが隠されてしまう。
その何かが幸福だ。
目覚めの状態はエゴがスターで、カルマが監督で、マーヤーがプロデューサーの映画だ。
目覚めの状態でさえ夢の状態と同じことだ。
「実在」はいつも「実在」で、非実在は決して実在でありえない。
あなたが真理に眠っているとき、唯一この幻映を夢見るのだ。
だから、目覚めなさい。
毒蛇は存在したためしはない。
「自由」とは幻想の幻想性が取り除かれることだ。
疑いはあなたと「自由」の間にある幻想の壁だ。
それを追い求めて幻想の現実を堅固にするのをやめなさい。
期待がそれをさせるのだ。
マーヤーは終わりのない、決して存在しない想像だ。
マーヤーが投影したリーラは内側からやって来る。
マーヤーのドラマのために真理の知識が幻想的になる。
世界は主体と対象でなりたっている。
「実在」を知るためには何の上に主体-対象が映しだされているのか見つけだすことだ。
何にも影響されないスクリーンを見つけることだ。
このように真我を黙想していることが世界の偽りの顕現、幻想を根絶することだ。
用語解説
*1マーヤー 幻想という意味
(´・(ェ)・`)
(つづく)
賛欽山禪師 1/4 欽山禪師を賛す
佳名勦絶利貪稠 佳名そう絶利貪しげし
茶店美人誰好仇 さ店の美人誰かかうきゅう
爭識洞山下尊宿 いかでかしらんとうざん下の尊宿
慈明狭路好風流 慈明の狭路好風流
くま訳
欽山禪師(曹洞宗)の評価
名声を根絶され、名利を貪る禅になってしまったのである。
遊里の美人の様な僧のことを誰が好い仲間といえようか。
洞山良价禅師の法嗣に、高徳の僧がいることをわしは知らんのだ。
慈明禅師(臨済宗)の法系は、峻厳で道狭く、又風流なのである。
*欽山文邃(ぶんすい):岩頭、雪峰と三人連れだって行脚し逸話を残している。曹洞宗の高祖であ
る洞山良价禅師の法を嗣いだ。一鏃破三関 (いちぞくさんかんをやぶる)公案が有名。岩頭全豁(ぜ
んかつ)828-887 と 雪峰義存(ぎぞん)822- 908 は徳山宣鑑(せんかん)禅師の法嗣。
*慈明禅師:石霜楚円(986-1039)臨済下七世、
*勦絶(そうぜつ)滅ぼしつくすこと。根絶やしにすること。皆殺しにすること。
*佳名:名声、いい評判
*貪利(ドンリ たんり):欲深く利益を求めること
*稠(チュウ・ チョウ おおい・ しげる・ こい)
*好仇(こうきゅう):良い相手。良い仲間。好匹
*尊宿:老年で徳の高い僧侶
五味の禅を挙揚していた欽山は、趙州和尚にも、小知見であると見限られていた(趙州録開莚普説)よ
うであります。当て馬のように評価されているようでありますが、それはそれで、必要であることに
は、違いないでありましょう。
一休さんは、アンチ曹洞宗、欽山和尚みたいでありますが、欽山和尚は悟ってなかったのではありま
しょうか?
鬼和尚コメント
悟っていたのじゃ。
弟子に主体を問うていたのじゃ。
それだけが大事なのじゃ。
言葉にも誤魔化されなかったのじゃ。
(´・(ェ)・`)b
-
自分という観念は常に錯覚であり、誤認であるのじゃ。
それはいつも語られる道に落ちていた縄の錯覚として喩えられるのじゃ。
ありもしない蛇の幻想に惑わされれば真実が見えないのじゃ。
真実として縄は蛇ではなく、観念は自分ではないと気付けば悟りはやってくるのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
欽山禪師の賛なのじゃ。
佳名は絶えて利益を貪ることがはげしいのじゃ。
茶店の美人は誰がよいつれあいじゃろうか。
洞山下の尊者達は知名を争うほど多いが欽山禪師はその一人なのじゃ。
慈明の狭路は風流を好むのじゃ。
悟っていたのじゃ。
-
くま訳改
第三句:洞山下の尊者達は知名を争うほど多いが欽山禪師はその一人なのだ。
59.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a②
マーヤー:幻想の力
Q:この世界という幻想、マーヤーがなぜ存在するのですか?
なぜなら、あなたがマーヤーを必要とするからだ。あなたがマーヤーを必要とするのだ。あなたに
は満たしたい欲望がある。だからそれを満たすためにはマーヤーが必 要だ。
あなたは川を求めて焼きつく砂漠をさまよい歩く、しかし川は蜃気楼にすぎない、それは存在しな
いのだ。 あなたの欲望が川を創り出す。
少数の人が歩くのをやめて、外に面している顔を内側に向ける。 そして内なる真の流れに、ネク
ターの流れに向かって行く。
Q:この世界の現実は幻想だと物理的に証明できますか?
概念を証明することはできない。概念が幻想のすべてであり、この世界の現実のすべてである。こ
んこんと清水の湧きでる井戸から離れないことだ。離れて砂漠に行った人が蜃気楼を見て、この幻想
に苦しめられる。
真理は経験することも、証明することもできない。それは不可能だ。すべての人がこの幻想に巻き
こまれて、マーヤーは誰かを知らない。すべての人がこの彼女を愛し、その見返りは不幸と不安と苦
しみだ。
どのようにして幸福で永遠に至福に満ちていられるか、カビールから学びなさい。彼はマーヤーに
歌っている。
お前はりっぱな詐欺師だ。
誰もお前に気がつかないが
私はお前が誰か知っているぞ。
Q:神は自分の所にやって来る人すべてを助けるとあなたは言いました。又、あなたは神だとも言い
ました。だから私は神であるあなたに、この幻想を今日一度に全部、破壊して下さるようにお願いし
ます。今ここで。
この幻想を私に見せてごらん。そうしたらマッチも使わずにそれをすぐに燃やしてしまおう。しか
し、私にそれを見せてくれなくてはダメだ。このガールフレンドを私に見せてほしい。あなたについ
てではなく、この彼女についてどうするか決めたいのだから。
私が彼女の面倒を見よう。彼女は破壊されることを望むか、又は私が彼女を洗礼したら彼女はあな
たと一緒にいることができる。
まず初めに幻想の意味を知るべきだ。幻想とはマーヤー、マーヤーの意味は存在しないもの。だか
らどうして私が存在しないものを破壊することができるのかね?
スクリーンの上に投影されたものが幻想だ。映画館でスクリーンの上の映像に夢中になるとそれは
投影だと気づくことはできない。この映像の中で、ある人は幸福で、ある人は悲しんで、ある人は海
で死ぬ、ある人は墓場に埋められる。
あなたはこれらのスクリーンの人々に夢中になり苦しんでいる人や楽しんでいる人と同一化してし
まう。これがサンサーラのお話だ。
この映画が終わると、他の映画が写される。そのとき、しばらく映像が写しだされていたスクリー
ンを見ることができる。このスクリーンは全く色づけされていないし、海の水で濡れてもいないし、
火で燃やされてもいない。
これらの映像は本当ではない。ほんの少数の人がこれを知っていて、同じ映画を見るために二度と
やって来ることはない。しかし、ある人々は同じ映画を何度も何度も見ている。
あなたがスクリーンだと知ったなら、映像のすべては幻想だ。そして初めて、幻想を楽しむことが
できる。そのスクリーンの上であなたが肉体として現れる。男であろうが女であろうが、この肉体が
遊ぶためには反対の性の肉体が必要だ。
これが通常繰り返されているストーリーだ。それは終わることがない。単に静かにしていなさい、
そうすると、あなたは決して生まれてこなかったと知ることになる。生まれた人が死ぬということは
ただの概念だ。あなたがこれを知ったなら、大変幸福になる。
これがあなた自身の真我とのロマンスの始まりだ。どこにいようともこれを人々に話してあげなさ
い。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
-
賛欽山禪師 2/4
上堂茶話作家禪 上堂のさ話さくけの禪
點檢将來新婦禪 点検しもち来れば新婦の禪
錦帳香囊風起臭 きんちゃうかうなう風起こって臭し
洞山佛法是何禪 洞山仏法の是何の禪ぞ
くま訳
欽山禪師批評
寺院における、説法や公案指導などは、師家の指導による禅である。
繊細な点検を伴う黙照禅は、新婚の若妻の禅である。
錦のとばりに吊るされたにおい袋の香りが流れてきて臭いのである。
洞山の仏法のどこが禅なのか
*上堂:①法堂の法座に上り、説法すること。古来は毎日朝晩行われていたが、現代ではほとんどが、
一生に一度晋山上堂?を行うばかりである。②僧堂内の上間の別名。
*茶話:禅宗寺院で行われる説法や指導は、様々な形態があるが、随時に行われる、説法や教訓・家
訓のことを茶話といい、これは特に、茶を飲みながら行う場合を指す。
*錦帳(きんちょう):錦(にしき)で織った垂れ布。にしきのとばり。
*香囊(こうのう)①室内や牛車ぎつしや内につるす、あるいは腰に下げる毬香炉まりごうろ。②匂
い袋。
一休さんは、曹洞宗が嫌いなようでありますね。
鬼和尚コメント
そうかもしれん。
錦の帳や臭い袋がなぜ必要なのかというのじゃ。
曹洞宗ではそのようなものを使っていたのじゃろう。
禅は自分を見極めればよいだけなのじゃ。
(´・(ェ)・`)b
-
幻想を破壊するには、ものごとが幻想であると気付かなければならないのじゃ。
何がどのように幻想であるのかわからなければ、破壊もできないのじゃ。
そうであるからパパジは幻想を破壊して欲しいという者に、その幻想を見せてごらんと言ったのじゃ。
幻想を探して幻想に気付いたならば、それだけで幻想も全て破壊されるのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
また欽山禪師の賛なのじゃ。
上堂の茶話は作家の禪なのじゃ。
点検を将来するは新婦のような禪なのじゃ。
錦帳で香を焚けば苦風が起こって臭いのじゃ。
洞山仏法は是何の禪だというのか、というのじゃ。
-
60.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a③
マーヤー:幻想の力
Q:このマーヤーのドラマの中で、人間の役割は何ですか?
人間として生まれて来ることはとても貴重なことだ。なぜなら、この生誕の中でのみ、すべては幻
想だと知ることができるからだ。おそらく人口の1兆に10人、自由を達成したいと決心を固めるだ
ろう。その内で幻想のゲームに勝つ人は非常にまれだ。
真理は内にある。しかし感覚の対象を外に追い求めて、いつも他のどこかを見ているのだ。しかし
このすべては幻想だ。今これを知りなさい。どこから幻想が起こって来るか見つけなさい。この思考
がどこからやって来るのか見つけなさい。
そうすると、あなたの内にいつも定住している愛を見つけることができる。すべてがあなたの肉体
も含めて幻想だと分かるだろう。
現れて消えるものは実在ではない。
砂漠の川の蜃気楼のように一度それは幻想だと知ったなら、それからあなた自身を切り離すことが
できる。「幻想を超越した人」になる。この蜃気楼によって渇きを癒やそうとする人々は決して満た
されることはない。彼らは益々トラブルに巻き込まれて行くだけだ。
この川は蜃気楼だと知った人たちはそこには行かないだろう。彼らはマーヤーは現われるが存在し
ないと知っている。これを理解したならどこに平和と幸福があるのかと尋ねるに違いない。
この探求があなたをサットサンガに連れてくるのだ。
Q:外側の状況と内なる感情的な反応の間に何か関係があるのですか、それともすべては幻想です
か?
それはすべて幻想だ。マインドそのものが幻想だ。あなたが考えるものは何でも幻想で、幻想を取
り除くためには考えないことだ。何年もこれを練習してもらいたくない。しかし、ほんの一瞬、目の
まばたき、一息、半息、でよい。そうするとあなたのすべての問題は解決される。(くすくす笑い)
Q:愛もまた幻想ですか?
愛は幻想ではない。愛の中ですべての幻想がなくなる。幻想のないところに真の愛が起こってくる
のだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
賛欽山禪師 3/4
濟家純老機生銕 濟家の純老機しょう鉄
一條活路途與轍 一條の活路途と轍と
雪峰岩頭無眼睛 雪峰岩頭眼睛無し
千歳達磨宗敗闕 千歳達磨宗の敗闕
くま訳
欽山禪師批評
臨済宗の一休爺の禅機をもって、修行者を鍛えるのである。
一筋の活路、道理があるのである。
雪峰や岩頭は黙照禅では悟れなかったとのである。
千年続く達磨宗の欠点である
*濟家の純老:臨済宗家の一休
*機:はたらきの意。 禅の修行によって得られた力の発現。修行者の指導にあたって、師が説明や対
話などではなく、相手の心の奥底に直接響くような短句や動作などを用いること。
*生鉄(ナマガネ せいてつ)よく鍛えていない鉄。
*途轍:すじみち。道理。
*敗闕(はいけつ)きずつきこわれること。また、欠けていること。欠点があること。
面壁九年の達磨さんは、黙照禪の代表なのでありましょうか?
公案指導を取り入れた閑話禪は革新派にして、より優れた指導法と一休さんは考えているようであり
ますね。
鬼和尚コメント
↑一休はそう思っていたのじゃろう。
本当は臨済宗の祖師でもあるがのう。
新しい公案の禅がすごいといいたいのじゃな。
それで無ければ悟れ無かった者もいるというからのう。
(´・(ェ)・`)b
-
生まれかわる人間も、変化していく物質も幻想でしかないのじゃ。
心の中にある全ての観念もまた幻想なのじゃ。
愛だけは幻想の雲間から差し込む真実の光なのじゃ。
それによって人は個人を超えて観念の彼方に進むことが出来るのじゃ。
-
そのように考えていたのじゃろう。
革新派にありがちなことじゃな。
お釈迦様はただ人の性質によって違う道があるとしていたのじゃ。
それでよいのじゃ。
更に欽山禪師の賛なのじゃ。
濟家の純老は生鉄を鍛えるのじゃ。
そこに途と轍の一條の活路が在るのじゃ。
雪峰や岩頭は眼精なしなのじゃ。
千歳の達磨宗の敗閥なのじゃ。
-
61.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a④
マーヤー:幻想の力
Q:このことを忘れないために新しい名前をいただけますか?
マドウー・蜜という名前をあげよう。私がなぜこの名前をあなたにあげるのか説明するためにある
話をしよう。
昔、ある男が森を歩いていて偶然にも井戸に落ちてしまった。彼はあわてて井戸の中に生えている
蔦を掴んでそれにぶらさがった。
井戸の中で下を見たら腹をすかしたワニが口を開いて待ちかまえている。上を見たら白と黒の二匹
の野ねずみが蔦をかじっている。
井戸の真上に蜂の巣のついた木があり、その巣から丁度彼の口に届くように蜜が垂れていた。彼は
蔦につかまりながら蜜の一滴一滴を楽しみ始めた。この楽しみのためにねずみとワニの事を忘れてし
まった。
これがマーヤー、人生のお話だ。男は死の井戸にぶら下がっている。ワニは死そのもので白と黒の
ねずみは昼と夜、時間の経過を意味している。蔦は人間の寿命、時間によって切り刻まれて行く。蜜
が快楽で私達を死と時間から引き離す。これがまさにこのサンサーラの状況だ。そしてみんな幸せだ。
(笑)
ねずみに寿命を切り刻むのを許さないことだ。しかしまず第一に,井戸に落ちないことが一番よいの
だが。次の足がどこに着地するのか見なさい。注意深く生きなさい。
井戸に落ちてワニの恐怖にさらされるより、木に登って蜂の巣丸ごと手に入れる方が良いに決まっ
ている。これを今、決心しなければならない。
さもないと死のワニはあなたを待っているし、ねずみは蔦をかじり続けるだろう。誰もすぐに蔦
をつたって登って行こうと考えない。たとえ短い登りでもそれを考えない。井戸の外に出たら幸福と
至福の蜜を楽しむことが出来るというのに。
だからこのイメージを毎日憶えていなさい。これが最高の教えだ。すべての人が自分自身の死に気
づくべきだ。蜜を一滴一滴楽しんでいて誰もかつて死を避けた人はいない。
自由でありなさい。そうして、始めて人生の蜜を味わうことが出来る。感覚を通しての快楽は蜂の
蜜と同じようなものだ。それは恐ろしく暗い井戸に人を閉じこめてしまう。これは単なるお話ではな
く、教訓だ。
Q:今、蔦を登って来る方法がありますか?
まさにその通りだ。「今」が蔦で「今」が出口だ。蜜を一滴一滴味わうのを止めて、ねずみがあな
たの寿命を切り刻んでいるのを見なさい。だから、あなたが賢明なら井戸から飛び出すだろう。
怠け者のように待っていないことだ。あなたを困難に巻き込む可能性のあるものを楽しまないこと
だ。決めなければならないことは、
「何があなたのためになるのか? 何があなたに幸福を与えてくれるのか? 蔦にぶら下がってい
ることが幸福か?」
少数の人がこの井戸という世界から飛び出す。死はワニで、寿命は蔦だ。ねずみは昼夜を分たず蔦
を切って行く。待っていることは賢明ではない!
賢明な人々は仏陀のように飛び出す。彼はその国で最も美しい女性達と眠っていたが真夜中にすべ
てを捨てて宮殿を去った。ほんの少数の人々がこれをやり遂げた。
2600年経った今も私達は仏陀を憶えている。このようにみんな仏陀になることができる。欲望
というベッドから目覚めて起きあがるだけでよい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
賛欽山禪師 4/4
尿床鬼子大難心 尿床の鬼す大難の心
定老當機恩力深 じょう老当機恩力深し
夜雨燈前渾即忘 夜雨燈前すべて即忘す
風流茶店旧時吟 風流のさ店旧時の吟
くま訳
欽山禪師批評
寝小便たれ小僧(欽山)が窮地に陥った
定上座の相手の能力に応じて導く力、大恩は深いのであるが、
雨降る夜の灯火の下、全てを忘れてしまうのだ
風流な遊里で作った昔の詩である
*定上座:臨済義玄の優れた弟子の一人
*当機(とうき):相手の能力素質に応じた導き方をすること。
(´・(ェ)・`)b
-
誰もが限られた寿命で苦しみながら生きているのじゃ。
それを快楽で一時忘れようとしているだけなのじゃ。
そのような世界から超越する方法は確実にあるものじゃ。
誰もが決意して自らを観ることで、この苦の世界から永遠に自由になることができるのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
またまた欽山禪師の賛なのじゃ。
尿床の鬼子は心が大難に陥ったのじゃ。
定老はその機会に当たって恩力を深く施したのじゃ。
そして夜雨燈前自己の全てて忘れ去ったのじゃ。
風流の茶店には古い詩の詠吟があったのじゃ。
-
62.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-b①
マーヤー:幻想の力
Q:サットサンガが始まる前にあなたはいつも「どうか生きとし生けるものに愛と平和を」と言っていますが…
「どうか生きとし生けるものに愛と平和を」というのは印度古来の聖典、ヴェーダに書かれた宣言文だ。朝起きたときにこれを祈るように提案している。「世界に平和を、天国に平和を、地獄に平和を、存在のすべてに幸福と平和を」。25000年前に書かれたヴェーダからこれを引き出した。
これを言っても平和にはならないが、毎日私達はこれを祈っているのだ。25000年前でさえ平和はなかった。平和と世界は一緒に座ったことがない。世界があるところには混乱がある。
しかし、私達は人々が傷つけられるのを望まないので、人々の幸福を祈るのだ。毎朝私達は出会ってすべての人の平和を祈るのだが、平和がもたらされたためしがない。人々は一億年前と同じように混乱したままだ。平和を見つけたためしがない。
すべての人が混乱している。どのようにマインドが走り回っているか見てごらん。マインドは静かにしていることはできない。私達はここで、マインドに無関心でいるように助言して一緒に探索しているのだ。猿のように走り回るのがマインドの習性だ。
それを捕まえることはできないが、この猿がどこからやって来るのかは見つけだすことができる。これは非常に貴重な方法でうまくいっている。何人かがすでにこれをやり遂げて経験した。思考を追いかけて何億年もの間、幾世に転生して、あなたは今ここにいる。二度とこの悪循環に戻らないために何ができるか理解するようになるだろう。
ここでは宗教によって提案されている方法は使わない。ただ単にどこから思考がやって来るのか見つけだすだけだ。これが最大の問題だ。思考が起こって来るのを見ただけで「それ」を実現して、「それ」と合流してしまうのだ。
私は「それ」を無とは呼ばない。しかし「それ」を実現したときは、河が海に流れ込むようにあなたは「それ」に流れ込んで行くのだ。これがすべての終わりだ。そして、これは一瞬に終えることができる。
そうすると、2兆年前、宇宙が始まったのは「この」瞬間にだということが分かる。「これ」が2兆年間が滞まったこの瞬間で、未来が滞まるその瞬間なのだ。それは同じ瞬間だ。そしてこの瞬間にはかって何も存在しなかった。
探求しないとそれは続いて行く。その一瞬を止めると、何も存在していなかったということが分かる。私達の多くがこれを実践して存在するものは何もないと見つけだした。夫がいて三人の子供がいたと夢を見る。しかし、目覚めると彼らは消えていなくなるようなものだ。
過去の夢を憶えていることがサンサーラだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
龐居士製竹漉籬圖 ほう居士ちくろくりを製するの絵を見て
河裏捨來十万銭 かり捨て来る十万銭
庫中終没半文銭 庫中終に半文銭なし
眞箇簸箕門下客 真こひき門下のかく
笟籬賣不直多銭 さうり売って多銭にあたらず
くま訳
ほう居士竹かごを作るの絵
浄土への路の絵(維摩図)を見ようと、十万銭を寄進する人も居たそうだ。
わしの蔵の中には終にお金が無くなったのだ。
仏道を生きるために、ざるを売って生活した龐居士の絵を見るために客が集まる。
ざるを売って暮らし、儲けようとはしなかった清貧の居士である。
*龐居士(ほうこじ)?‐815。唐代の仏教者。馬祖と石頭に参禅して,印可を得るが,出家せず。東
土の維摩とよばれる。禅僧との問答が多く,その偈頌(げじゆ)300首とあわせて,早くより語録
としてまとめられた。
*第2句:瓦棺寺(364年建立、顧愷之(こがいし)が描いた維摩図が三絶とよばれて有名。また天
台大師智顗(ちぎ)がここで講説した。)が、建立にあたつて、寄進をもとめた際、画家の顧榿之
は百万と記帳した。その日頃の貧しさを知る人々は大言だと思ったが、一ヶ月余にして維摩像一躯
を描きあげ、第一日に観る者は十万銭を施さんと宣言してその通りになった。との故事から。
*漉籬・簸箕・笟籬(ろくり・ひき・さいり): ざる。
*真個(しんこ)真実であること。まこと。真実であるさま。本当に。真に。
(´・(ェ)・`)b
-
科学では宇宙は何億年も前にできたとか、生物も何万年も前にできたというのじゃ。
しかしそれは観念であるから今ここで観念としてのみ生じたといえるのじゃ。
全ての環境は幻想でしかないのじゃ。
そこから覚めれば夢と気づくのじゃ。
-
そんな感じじゃな。
ほう居士が竹漉籬を作る図なのじゃ。
河裏に十万銭を捨ててきたのじゃ。
蔵の中には終に半文の銭もなかったのじゃ。
本当の簸箕の門下の客は
剳籬を売っても銭が多いということはなかったのじゃ。
-
くま訳改
第三句:本当の簸箕の門下の客は
第四句:剳籬を売っても銭が多いということはなかったのじゃ。
63.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-b②
マーヤー:幻想の力
昔、優秀な弟子が賢明なグルに質問した。
「マスター、あなたはすべてが幻想だといいますが、私にはすべてが実在して堅固に見えます。ど
うしてあなたが幻想でありえるのですか?どうして私が幻想でありえるのですか? 世界は全く幻想
なのですか? マスター、どうか助けて下さい。私は混乱しています。」
マスターは静かに聞いていてそれから「森に散歩に行こう」と言った。しばらく散歩した後でマス
ターは言った。「大変暑くなってきた、川に行って水を汲んできなさい。私はこの日陰で休んでいよ
う。」
弟子が川に行って水を容器で汲もうとしたとき、川の向こう側にいる美しい女性を見た。その場で
彼女に恋をして彼女に結婚を申し込んだ。
「ここでは、これは習慣ではありません。結婚は両親によって決められます。」と彼女は言った。
「しかし私もあなたに恋をしました。どうか父に話して下さい。私と一緒に来て下さい。父は村の所
有者で、私達は広い土地と多くの牛と馬を持っています。あなたが父と話している間私はドアーの後
ろに隠れて、父が何と言うか聞いています。」
そうして二人は村に行った。彼女は指さして言った。「あそこに座って水タバコを吸っているのが
私の父です。行って父と話して下さい。」
彼は彼女の父に話しかけた。「一時間前、私は川であなたの娘さんに会い恋に落ちてしまいました。
彼女と結婚したいのですが。」
父親は尋ねた。「お前は一体誰なのか?」
「私は近くの村に住むブラーミンです。」と彼は答えた。
「どんな教育を受けたのかね?」
「私は哲学、ヴェーダ、ウパニシャド、シャーストラを学びました。私は解剖学、地理学、海洋学、
世界の8つの科学を知っています。」
父親は言った。「大変結構だ、若くて婿としての資格がある。娘をお前に手渡すのを躊躇しないが
一つだけ条件がある。娘は私の唯一の子供で、非常に執着している。娘と結婚したいのなら、ここで
私と一緒に生活しなければならない。娘をお前の村へ連れて行くことはできない。」
「分かりました。」と青年は言った。
「近隣、親戚に知らせなければならないので、一ヶ月後に結婚式を挙げること。」と父親は言った。
一ヶ月後彼らは結婚して、3年後に子供が生まれた。5年後に両親は婿にすべてを与えると遺言を
書き残して、その二年後に両親は亡くなった。10年間にもう一人子供が生まれた。
18年後、大洪水がやってきた。川は水嵩を増し続けている。農園のすべては破壊されて彼らは丘
に避難したが、ここもゆっくりと水かさが増して行った。牛達は流されてすべてが破壊された。
遂に水は彼の肩まで昇ってきて、子供の一人を肩に乗せ他の子供と妻を両手に掴んでいた。しかし
流れは強く、彼の息子が押し流された。その息子に手をさしのべている間に妻が押し流され、妻を捕
まえようとしたら他の息子が押し流された。
そうして、すべてが失われ川の水が退いて行った。彼は川の渕に座って子供や妻を思って泣いてい
た。遂に川の水は元のレベルまで戻って行った。
彼は肩に誰かの手が置かれたのを感じた。それは彼のマスターで「一体何を考えているのかね?
容器は水の中で、なぜ水を汲まないのかね。一分で済むところすでに五分も掛かっている。」
彼はマスターの顔を見て驚いて、「ご、ご、五分? 五分と言ったのですか? 私の妻や子供達は
どうなったのですか?」
マスターが返答した。「これがお前の質問に対する答だ。」このすべてが幻想だ。たった今ここに
来て女性と恋に落ちた。しかしその女性は今どこにいるのかね? あなたは私のために水を汲みに来
ただけだ。
これらすべてのことはマインドからやって来た。それらは決して存在しなかった。妻はいないし、
子供達はいないし、結婚式は行われなかったし、村もない。
マインドが一瞬の内に創造したのだ。その一瞬に二十年間が過ぎて、その同じ一瞬に容器が川の中
に沈んでいた。
これがどのように事が起こるかということだ。だから賢明でありなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
-
涅槃堂
眼光落地涅槃堂 眼光落地涅槃堂
自悔自愧螃蠏湯 自ら悔い自ら愧ずほうかいのとう
七手八脚萬劫苦 しちしゅ八脚萬劫の苦
無常刹鬼火車忙 無常の刹鬼火車忙はし
くま訳
死を迎える場所である涅槃堂
悔い、愧じ、湯に落ちた蟹の如く
手足をばたばたさせて苦しむのだ
悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる妖怪羅刹鬼が乗る火車も忙しく走り回るのだ。
*螃蠏(ほうかい):蟹
*七手八脚:多くの人が一斉に慌ただしく動き回る,皆が寄ってたかってやる.
*劫苦:長い期間続く苦しみのこと
*殺鬼:万物をほろぼし去る無常をたとえていう語
*火車/化車(かしゃ):悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪
鬼和尚コメ
人が死ぬ時には自ら悔い愧じるものじゃ。
それを閻魔の裁きと解釈したりするのじゃ。
死に際には湯に落ちた蟹の如く手足をばたばたさせて苦しむのじゃ。
禅語では蟹の如く手足をばたばたさせる様を七手八脚といったりするのじゃ。
無常の羅刹鬼が乗る火車も忙しく走り回るのじゃ。
生きている内に善事をつむと善いのじゃ。
(´・(ェ)・`)b
-
移り変わって行くもの全てが幻想なのじゃ。
この世の全てと、自らの肉体や心さえも幻想なのじゃ。
それを使って幻想ではない永遠の意識にたどり着ければ幸運なのじゃ。
それだけが幻想から覚める唯一の道なのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
前に書いた通りなのじゃ。
-
64.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-b③
マーヤー:幻想の力
Q:仏陀が言ったように「形は空で、空は形だ」ですか?
これが私が言っていることだ。空と形の間には何の違いもない。形が存在するなら、形を見るためには空が存在するに違いない。形が見えるところには空間があるに違いない。
これらの形は空より生じ、空の中に存在する。だから、形があるためには、同時に形のないものがあるに違いない。サンサーラ、山、人、動物、鳥、これらの形を見るときは無形性が同時に存在する。
さもないと見ることはできない。形を見るためには空の中にいなければならない。さて、形または無形とは何か?
Q:同じです。
どのようにあなたがこれを理解することができるのか私には分からない。なぜなら理解するにはマインドが必要だ。だから、この理解はそれ自体でやって来るに違いない。それがやって来るなら幸運だ。やって来ないなら、あなたは不運と言うしかない。
夢の中で蛇を見たり、夢の中で虎が襲いかかって来るという想像をどのようにして取り除くことができるか? 夢の中であなたは走り出して木に登る。しかし、虎も木に登ろうとしてあなたは逃げ場を失う。遂に虎はあなたを掴まえて引っぱり降す。
この時点であなたは眼を覚ます。目を覚ましたら、どこに虎がいるのか? どこにあなたがいるのか? 虎も恐怖もなくてあなたのあるがままで目が覚める。
このように、あなたには何の変わりもない。あなたには何も起こらなかった。サンサーラは全く存在しなかった。サンサーラは全く存在しなかった。これが究極の教えだ。
Q:無は形よりすぐれていると、ここにいる何人かの人々は思っています。彼らは微妙に惑わされているように思えます。無への切望が形を拒絶してしまったようです。
有形、無形、そこには何の違いもない。仏陀が言うようにサンサーラと*1ニルヴァーナは同じだ。
形を拒否したら、どこにこの形が行くのか。あなたはどうするのか、何かを拒否するためには何か他のものを受け入れているに違いない。受け入れることと拒否すること両方を拒否しなければならない。
この両方の思考を拒絶しなさい。受け入れるのでも拒否するのでもない。このレベルで、あなたは誰か。
Q:私はいない。
何かを受け入れるということは、その為に何かを拒否するということだ。何かを拒否することは、その代わりに何かを受け入れているに違いない。両方とも反対を持っている。
だから、拒否も受け入れもしないことだ。すべてをあらしめなさい。あなたはそれらと何の関係もない。もし何かを拒否したら、その拒否がどこかに残るに違いない。
そしていつもこの拒否を背負い続けて、「私はそれを、その人を拒否した」と思い悩み続けるだろう。これは「受け入れる」よりもっと顕著に現れる。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
倭國以譬喩作實 1/2 倭国比喩を以って実となす
勘辨入邪毒気深 勘弁邪に入って毒気深し
元非君子小人心 元君子に非ず小じんの心
暗認譬喩作實會 暗に比喩をとめて実ゑをなす
苔衣雲帯楽天吟 たいえ雲帯楽天が吟
くま訳
日本では、遠まわしな比喩で、物事を伝えようとする。
修行者の力量を測るのに間違った方法をとれば、毒になってしまう。
元々学識の深い人格者ではなく未熟な相手には、
遠まわしな比喩を使い、実際の指導効果をもたらすのである。
山の景観について、苔むした岩は衣の様であり、山肌にまとわる白雲は帯の様であると、謡曲白楽天
に詠まれているような感じに、比喩を使うのである。
*譬喩:教説の意味内容を理解しやすくするために、実例や寓話などを用いて説明すること。釈尊は説法に
際して譬喩を巧みに用い、大乗・小乗を通じて諸経論に多くの譬喩が説かれている。
*勘辨:禅宗で、修行者の力量や素質を試験することにいう。
*邪:心がねじ曲がって正しくないこと。また、その人。よこしま。不正。
*君子:学識・人格ともにすぐれた、りっぱな人
*苔衣:僧・隠者などの着る粗末な衣服。こけごろも。こけのたもと。こけのきぬ。
(´・(ェ)・`)b
-
個我とか個人があるという幻想から輪廻もあるという幻想も起こるのじゃ。
個我が幻想とわかれば輪廻も幻想であったと知れるのじゃ。
それは初めから存在しなかったのじゃ。
ただ幻想を幻想と知らなかったから在ると思っていたのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
よくできたのじゃ。
倭国では比喩をもって実となすというのじゃ。
試験もまた邪が入り、毒気が深くなってしまうものじゃ。
元々君子ではなく小人の心の者には、
暗に比喩を認めて実とするのじゃ。
苔衣、雲帯、楽天の吟詠等なのじゃ。
-
65.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part2-c①
マーヤー:幻想の力
Q:どのようにして、「私は肉体ではない」と確信することができますか?
あなたは単に肉体ではないのだ。確信するべきものは何もない。静かにして、この肉体をいつ手にしたのか考えて見なさい。そうするとカレンダーを見て1960年、1970年だったと言う。
これらの誕生と死はカレンダーの上のことでカレンダーがないとしたら、いつあなたは生まれたのかね? いつ生まれたか知るためにはキリストの誕生日を見るに違いない。
彼の誕生日からあなたの誕生日を数え出すのだ。他の誰かと取引して計算が始まるのだ。これらの計算はマインドの習癖だ。誰かの誕生や死を見ないとき、あなたは誰か分かるだろう。
Q:目覚めの状態であろうが、夢の状態であろうが、眠りの状態であろうが、私には平和がありません。私はどこにも行くことができません。どうか助けて下さい。
これは非常によい経験だ。これらの三つの状態に平和を見つけることができないなら、これらの三つの状態をこえた第四の状態に行かねばならない。
これがあなたのハートだ。「ここ」にいなさい。どの三つの状態にいようとも「ここ:ハート」にいることができる。肉体の活動はハートの妨げにはならない。ここにいる何人かの人は第四の状態を楽しんでいる。
Q:私はこのハートであると知っているのにどうして水が喉を渇かしているのですか。どうして自由でありたいと望むのですか?
このような経験をするあなたは、功徳に恵まれた人に違いない。これについて面白いジョークを行ったカビールのことを思い出した。
「水の中に住んでいる魚がどうして『私は喉が渇いている』と叫ぶことができるのか? これを言うために口を開いたときには、水は口の中にあるのに。」
私達のすべては真我の恩寵の中で生きている。
しかし、「私達は苦しんでいる」とみんな叫んでいる。
すべての人が神の恩寵の中にいる。
恩寵はすべての人を取り囲んでいる。
内側、外側、いたるところ。
しかし、私達は満足することを知らない。
だから、カビールは笑っているだけだ。彼は魚を見て笑っている。あなたはその叫んでいる魚ではない。あなたは叫び終えて水の中にいる。他には何も必要ないのだ。
Q:どうして肉体が思考でありえるのですか。そして、それは誰の思考ですか?
あなたが考えるとき、肉体がある。吐く息の前、吸う息の前には思考がない。この「私」という思考はそこから起こって来る。人や対象に対する欲望のため、呼気と吸気の間から思考が起こって来る。
眠っているときは無思考で肉体を見ることはない。眠りの状態ではマーヤーのエネルギーが落ちるからだ。しかしまだベールで覆うエネルギーが残っているので、あなたは誰か悟ることはない。
肉体は単なる夢の物体、思考にすぎない。探求してこれは誰の思考か見つけることだ。
思考を作用することなしに夢の肉体で夢の中にいることができる。しかも人生が要求するすべてのことをなし遂げていける。私はいつも「ここ」にいるという思考を内側に保っていると、肉体は単にその反応に応じて行動して行くだろう。
そのとき、責任や義務という観念はそこに入り込むことができないので、あなたの行動に対して責任はない。他人との関係性の中にいるとき、肉体やエゴと同一化するとき、あなたには責任がある。
だから、目を覚ましなさい!! 解放された後に「何も存在しない」ということが、また「何も存在しない」ということも存在しない、と分かる時点が来る。
肉体は一時的な思考だと知りなさい。このポイントをただ意識しているだけでよい。これが完全な解放と言われている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
自山中昄市中 山中より市中に帰る
狂雲誰識属狂風 狂雲たれかしらん狂風に属するを
朝在山中暮市中 あしたに山中に在り暮には市中
我若當機行棒喝 我若し機に当たって棒喝を行ぜば
徳山臨済面通紅 徳山臨済面通こう
くま訳
山(譲羽山)から(京都)市中へ帰るのだ
狂雲が、実は狂風(悟っているの)だとは誰も知るまい。
朝、山中に居たと思ったら、夕方には市中に居るのだ。
わしが、臨機応変に、棒喝を駆使したら、臨済や徳山でも、ビビッて赤面するであろう。
*山:譲羽山
*風狂:中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、 本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した
用語である。
*臨済の喝徳山の棒:「伝灯録」・臨済禅師はよく大喝を与え、徳山和尚はよく痛棒を加えたことか
ら、禅宗の修行のきびしさのたとえ。
(´・(ェ)・`)b
-
肉体でさえも思考に過ぎないと言うのじゃ。
それは観念の肉体について言うのじゃ。
他のものから独立した肉体があるというのが、観念の肉体なのじゃ。
現実の肉体は空気とか飲食物とか気を通して全てとつながっているのじゃ。
それを考慮できない肉体の観念が、思考による肉体なのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
自ら山中から市中に帰るのじゃ。
狂雲が狂風に属するのを誰が知っているじゃろうか。
朝に山中にあり、暮れには市中に帰るのじゃ。
わしがもし機に当たって棒喝を行えば、
徳山臨済も赤面するじゃろう。
-
66.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part2-c②
マーヤー:幻想の力
Q:私は完全に眠っていないということを知っていますが、かといって完全に目覚めているわけでも
ありません。
眠らない方がよい。4つのカテゴリーの人が眠らない。一つは愛人、最愛の人と一緒にいられない
人だ。二つ目は盗人、家を漁るのに忙しい。三つ目は病人、病気と苦痛のために眠れない。これらの
三つはその欲望のために目覚めている。性欲、貪欲、苦痛。
しかしまた、ヨーギは眠らない。彼はこの幻想から自由になろうと瞑想しているからだ。残りのす
べての人は目覚めの状況でも眠っている。
あなたが砂漠に行って美しい川を見る。これが蜃気楼と呼ばれる。喉が渇いていて、川で泳ぎたい、
川から水を飲みたいという欲望のために、それを追い求めて行く。それに向かって行く度に、それは
遠くに離れて行く。
今ともかくそれは幻想にすぎないと、マインドの創造物だと知った。世界中がその欲望を満たすた
めにこの川に向かって走っている。彼らは過去二兆年間もそこで泳ごうと急いで走り続けて来た。
少数の人々が川には行きつくことができない、欲望は満たすことができない、喉の渇きを癒やすこ
とはできないと決断した。だから、どこにいようとも「ここ」にいるのがよい。これを決断すると空
から雨が降って来る。これが恩寵の雨だ。
「ここ」ですべては満たされるのだからどこにも走る必要はない。「そこ」に行くなら熱によって
倒れて誰も助けてはくれない。しかし「ここ」にいるなら、雲でさえあなたをかばってくれる。だか
ら「ここ」にいなさい。マインドに何の欲望もなく、それを誰かに話そうという欲望さえ持たず、
「ここ」にいなさい。そうするとすべてが供給されるだろう。
実在するものは何もない。あなたが見るものはすべて実在しない。対象であったものが対象でなく
なるときが、主体と対象、両方とも幻想だと知るときがやって来る。
これが特別な知識だ。すべてが幻想だと知ること以外の知識はありえない。西洋に帰ったら子供達
や友人にサットサンガで学んだことを教えなさい。
Q:なぜ蜃気楼が起こり続けるのでしょうか?
どこから起こって来るのかね?
Q:どこからともなく。
何もないところから何が起こって来るのかね? 何もないところから起こって来るとしたらそれは
一体何かね? 起こって来るものは何かから起こって来るに違いない。さもないと起こらなかったは
ずだ。
この「私」、この幻想の母親は何かね? エゴが母親で、欲望が父親だ。これらの両親は必要ない、
それから逃げ出しなさい。愛が最良の母親で、無が最良の父親だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
竹幽齋
香厳多福主中賓 きゃう厳多福主中のひん
密密参禪到要津 密々参禪要津に到る
六六元來三十六 六六元來三十六
清風道處有佳人 清風動く処佳人有り
くま訳
竹幽齋(香厳智閑)
香厳には、幸いなことに、本人に悟りを求める力があった。
独り緻密な瞑想に取組むことこそが、悟るための重要な手段なのである。
感覚や意識とその認識対象を分別し、認識主体ありとする凡人も、本来仏なのだ。
仏道を正しく歩めば悟りを得ることができるのだ。
*竹幽斎:香厳智閑(きょうげん・ちかん。?〜898)道を掃除している時に、竹に小石が当たり、響
いた音を聞いて(撃竹)を聞いて大悟す、故に之を云ふ
*佳人:美人。此の佳人、大悟底の因縁なり。
*要津:迷いの海を渡りさとりの彼岸に達するための重要な手段、方法。港
鬼和尚コメント
本人が強く悟りを求めていれば師匠がいなくても悟れるのじゃ。
マハリシのようにのう。
日々精進してこそ悟りもやってくるのじゃ。
六根六強の凡人も元来仏なのじゃ。
修行してきた者にのみわかる道理も在るのじゃ。
(´・(ェ)・`)b
-
自分があるという認識がエゴとよばれるのじゃ。
エゴがあれば自分の欲するものが起こるのじゃ。
それが幻想を呼び起こすのじゃ。
幻想から幻想が起こるのじゃ。
-
それでよいのじゃ。
前に書いた通りなのじゃ。
-
67.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part2-c③
マーヤー:幻想の力
Q:真我を実現するためには、マインドは落とさなければならないとあなたは言いますが、どうして
マインドが真我から離れてありえるでしょうか? マインドは人生体験を豊かに創造的にしてくれる
のではないのですか?
何かを落とすためにはそれを確認しければならない。海で泳ぐ前に、あなたの首飾りをはずして財
布の中に落とすように。存在しないものをどうして落とすことができるのかね? それはあなたの概
念だ。マインドは存在しないのだから落とす必要はない。それをあらしめなさい、役に立つに違いな
い。
Q:真我を実現する為の唯一の手段だから、人間の姿は貴重なのですか?
形は全く存在しない。人間や動物や鳥で満ちた宇宙があるというのは概念だ。この概念で35億年
もかかって人間になる。しかし、ほとんどの人間は人間でない。彼らはゴリラのように二足で歩いて
いる尻尾のない動物にすぎない。
人間として生まれて来るのが大切なのは、疑いを持つことができ、私は誰かと質問することが出来
るためだ。豚やロバはこれを質問することができなくて屠殺場に連れて行かれるだけだ。
生まれた人はすべて屠殺者に、死神(Yama)に直面しなければならない。人々が死神とは何か
悟るまで死神から離れることはできない。だから、「私は誰か」と探求する機会をえるために人間と
して生まれてきたのだ。
これは非常にめずらしいことだ。6兆億の人類の中で、60人が彼らは本当に誰か知っているにす
ぎない。ここサットサンガでは多くの国々から人々がやって来るが、ここにやってきた人はなぜ少数
なのか? 自分が本当に誰か知っている人はその国の1%にも満たない。
悟った人の例を挙げるなら2600年前に仏陀になったゴータマまで戻らなければならない。しか
し、このラクナウサットサンガは悟りを簡単にした。ヒマラヤで瞑想する必要はないし、マントラを
唱える必要もないし、巡礼に行く必要もない。慈善を施す必要もない。
あなたの人生の時間から一秒必要なだけだ。私はその一秒間であなたが自由になるのを保障する。
この一秒間にやりなさい、なぜ延期するのか?
大昔は王でさえ王国を去って苦行に出かけたものだ。苦行中、ある*1マニカが美しい女性の姿を
とって彼らの前に現れる。そして苦行は終わりになる。しかし、ここサットサンガでは多くのマニカ
がここにいて、彼女達も又自由になっている。
マニカと恋をするのは何の問題もない。悟りはあなたと真我との関係で、マニカとの肉体的な関係
ではないからだ。もしマニカがやって来るなら彼女と一緒に暮らしなさい。しかし、誰もあなたの
ハートに触れることはできない。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
春衣宿花 春衣して花に宿る
吟行客袖幾詩情 吟行の客袖幾ばくの詩情ぞ、
開落百花天地清 開落百花、天地清し
枕上香風寐耶寤 ちん上の香風、びか寤ごか、
一場春夢不分明 一場の春夢、分明ならず。
*寐(び): ねる
*寤(ご): 目がさめる
二橋進先生訳
春衣して花に宿る
花見の晴れ着を着て、桜が満開のこの地を歩くと、詩情があふれ出す。
あちこちで 桜が花びらを舞い散らしている光景は、すがすがしい。
花の下に伏すと、その香に 包まれる。
うっとりとして、夢の中で見ているのか現でか、もう分からなくなっ た。
関西吟詩文化協会HP訳
花の香りのもとで、たのしみをつくした一時の思いにふける。
あっという間に散った百花の情。
家に帰って寝ころんでみたものの、
夢かうつつか、 まだ瞼に消えず、枕もとにかけられた衣から、その香りがただよってくる。
くま訳
お洒落をして、桜の下を歩くと詩情があふれ出す。
咲いて散る、桜舞う天地の清々しさ
枕辺の残り香は、眠りの中か、目覚めているのか
夢か現かわからない。
この詩は年譜に掲載されているものでり、一休さんが建仁寺における修行時代の15歳の時の作。笹倉
秀夫先生によると、洛中で愛吟されたそうである。
(´・(ェ)・`)b
-
気付きは一瞬で訪れるものじゃ。
時間はいらないのじゃ。
そのために何年も修業したりするのじゃ。
その時間も悟ってしまえば一瞬であったと知れるのじゃ。む
-
それでよいのじゃ。
春衣を着て花の宿に泊まるのじゃ。
詩吟をして歩いている客はいかにも詩情があるものじゃ。
開いては落ちる花は天地も清めているのじゃ。
寝ても覚めても枕上に香風があるから
一場の春の夢が現実かどうかもわからなくなるのじゃ。
-
68.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part3①
マインド:幻想の動き
マインドは強烈なパワーだ。
「私」という思考、ほんの一つの思考から、
すべての顕現を引き起こすからだ。
この思考を見つめないと、すべては実在しているように見えるが、
これを見つめたら、顕現は消え去る。
マインドはドラッグだ。
それはあなたの本質からあなたを連れだして、
二元性の世界にトリップさせる。
マインドは限定された意識として現れる
意識が条件づけされるとマインドとなる。
名前と形が想像上の条件付けだ。
ただのマインドの条件付けの中でお互いを知ることはない。
マインドが空っぽで、純潔で、波が立っていないとき、
お互いがいつも知り合っていたと分かる。
服を着るようにマインドを身につけなさい。
マインドは欲望であり、過去であり、墓場であり、
名前と形であり、一時的であり、説明する事ができる。
「私」は波であり、マインドであり、サンサーラであり、欲望であり、傲慢さであり、
邪悪さであり、混乱であり、蛇であり、ロープでないものであり、
顕現のすべてである。
地獄を創り出すには、マインドが外側に向かって
「私は肉体だ」と言うことだ。
天国を創り出すには、マインドが内側に向かって
「天国は内にある」と知っていることだ。
内に向かったマインドは、その源泉を見て決して戻っては来ない。
なぜなら、あなたは一番愛するものと一緒にいるものだから。
条件付けされた意識としてのマインドは両岸をもった河のようなものだ。
「私は河だ」という考えは、意識の海を実現したとき、死んでしまう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)