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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

1避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/

2避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:20:08 ID:wCRrWiVM0
訂正
前スレURL
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1560853465/

3鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/23(火) 22:58:44 ID:1d4drIFg0
世界には多くの政治的指導者や独裁者が現れては消えていったが、皆混乱を増すばかりだったのじゃ。
その者達自身が混乱していたからなのじゃ。
実際には欲しても居ない権力とか理想に取り付かれていたのじゃ。
そのような混乱から混乱を生み出して行ったのじゃ。

4避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 23:18:31 ID:yBquKmmc0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 2

 問題を理解したいと願う精神は、問題を完全に、全体的に理解しなければならないだけではなく、それにすばやく付いていくことができなければなりません。なぜなら、問題は決して静止していないからです。問題はいつも新しいのです-飢餓の問題でも、心理的な問題でも、どんな問題でも、です。どんな危機もいつも新しいのです。ゆえに、それを理解するには、精神はいつも新鮮で、明晰で、その追求においてすばやくなければなりません。私が思うには、私たちのほとんどは、内側の革命の緊急性を悟っているのです-それのみが外的なもの、社会の根本的変容をもたらしうるのです。これが、私自身と真剣に意図を持つ人たち皆が専心している問題です。どのようにして社会に基本的、根本的変容をもたらすのかが、私たちの問題です。この外的なものの変容は、内的革命なしには起こりえません。社会はいつも静止しているから、この内側の革命なしに成し遂げられるどんな行動、どんな改革も、等しく静止的になるのです。それで、この常なる内側の革命なしには、希望はないのです。なぜなら、それなしには、外的行動は反復的、習慣的になるからです。あなたと他の一人との間の、あなたと私との間の関係の行動 [・作用] が社会です。そして、この常なる内側の革命、創造的、心理的変容がないかぎり、その社会は静止的になります。それは命を与える性質がありません。そして社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないからです。
 あなた自身と、あなたのなかとまわりの悲惨、混乱との[間の]関係は何でしょうか。確かにこの混乱、この悲惨は、それ自体で生じたのではありません。あなたと私がそれを造り出したのです。資本主義の [社会] でも共産主義の [社会] でもファシストの社会でもなくて、あなたと私が、私たちの互いとの関係においてそれを造り出したのです。あなたが中で何であるかが、外に、世界に投影されてきたのです。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常の存在ですることが、外側に投影されるし、それが世界を構成するのです。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との [間] 、私自身と他の一人との [間の] 関係が社会であるからです-社会は、私たちの関係の産物です-私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制限されて、国家主義・民族主義的であるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

5避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 23:20:46 ID:yBquKmmc0
くまめも1-3-2b

内側の革命のみが、社会の根本的変容をもたらしうる。社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないから。
自身と、まわりの悲惨、混乱は、それ自体で生じたのではない。私たちの互いの関係においてそれを造り出した。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常することが、外側に投影されるし、それが世界を構成する。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になる。なぜなら、私自身と他の一人との 関係が社会であるから。私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制されるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらす。
(´・(ェ)・`)

6鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/24(水) 23:33:16 ID:1d4drIFg0
世界とは自らの心が作り出すものであるから、自分の心が悲惨で混乱していれば世界もそう見えるのじゃ。
心から悲惨と混乱が取り除かれれば、世界からもそれはなくなるのじゃ。
世界の変化は自らの心の変化なしには達成できないのじゃ。
自らの心を全体として理解すればそれは達成されるのじゃ。

7避難民のマジレスさん:2020/06/24(水) 23:47:20 ID:YYSZUkJs0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 3

 あなたのあるがままが世界なのです。それであなたの問題は世界の問題なのです。確かにこれは単純で基本的な事実なのではないでしょうか。一人との、または多数との私たちの関係において、私たちはどういうわけか、いつのときもこの点を見過ごしているように見えます。社会を造り出すのは [あなたと私であること] 、自分たちの生き方によって混乱か秩序をもたらすのは、あなたと私であるということを忘れて、私たちは体系をとおし、体系に基づいた観念や価値における革命をとおして、変更をもたらしたいのです。それで私たちは近くから始めなければなりません。すなわち、私たちの生計の立て方に [露呈し] 、観念や信念との関係に露呈している [ところの] 私たちの日常の生存に、日常の思考と感情と行動に、自ら関心を持たなければなりません。これが私たちの日常の生存なのではないでしょうか。私たちは生計の手段に、仕事を得ること、お金を稼ぐことに関心がある。私たちは自分たちの家族と、自分たちの隣人たちとの関係に関心がある。そして観念に、信念に関心がある、ということです。そこで、あなたが私たちの従事していること [・職務] を検討するなら、それは基本的に妬みに基づいています。それはただ生計を立てる手段のみではありません。社会は常なる葛藤・抗争 [の過程] 、常になろうとする過程であるように、構成されているのです。それは貪欲に、妬みに-あなたより上位の人への妬みに基づいているのです。事務員は経営者になりたいのです-それは、彼がただ生計を、生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を取得することに関心があるということを、示しています。この態度は当然、社会に、関係に荒廃を造り出します。しかし、もしもあなたと私がただ生計に関心があるだけであったなら、私たちは、それを得る正しい手段を、妬みに基づかない手段を、見出すでしょう。妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つです。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているからです。それは究極的に政治につながります。両者は密接に関係しています。事務員は経営者になろうと努めるとき、戦争を産み出す [ところの] 武力外交の創造の要因になるのです。それで彼は直接的に戦争に対応する [能力・] 責任があるのです。
 私たちの関係は何に基づいているでしょうか。あなた自身と私自身との [間] 、あなた自身と他の一人との [間の] 関係-すなわち社会は、何に基づいているのでしょうか。確かに、愛に [基づいているの] ではありません-私たちはそれについて話をするけれども。それは愛に基づいていません。なぜなら、もしも愛があったなら、あなたと私の間に秩序があるでしょう、平和が、幸せがあるでしょうから。しかし、あなたと私との [間の] その関係には、尊敬の形を装う多大の悪意があるのです。もしも私たちが共に思考において、感情において等しかったなら、尊敬はないでしょう。悪意はないでしょう。なぜなら、私たちは弟子と教師としてではなく、また妻を支配している夫としてではなく、また夫を支配している妻としてでもなく、出会っている二人の個人であるであろうからです。悪意があるとき、支配したいという欲望-すなわち嫉妬、怒り、激情を喚起するもの-があります。そのすべてが、常なる葛藤・抗争を-すなわち私たちがそれから逃避しようとするものを-私たちの関係に造り出します。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出すのです。
(´・(ェ)・`)つ

8避難民のマジレスさん:2020/06/24(水) 23:51:59 ID:YYSZUkJs0
くまめも1-3-3
社会は常なる葛藤・抗争の過程、常になろうとする過程であるように、構成されている。それは貪欲に、より上位の人への妬みに基づいている。それは、ただ生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を得ることに関心があることを示している。この態度は、社会に、関係に荒廃を造り出す。
妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つ。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているから。
社会は、愛に基づいているのではない。なぜなら、もしも愛があるなら、秩序が、平和が、幸せがあるだろうから。
もしも私たちが共に思考、感情において等しかったなら、尊敬はない。悪意はない。なぜなら、私たちは支配関係ではなく、出会っている二人の個人であるであろうから。
そのすべてが、常なる葛藤・抗争を、私たちの関係に造り出す。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出す。
(´・(ェ)・`)

9避難民のマジレスさん:2020/06/24(水) 23:56:08 ID:YYSZUkJs0
うむ。
くまの中の鬼和尚が、くまに語りかけ、
くまの中のケロヨンに、くまは語りかける。
で、ありますね。
(´・(ェ)・`)b

10鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/25(木) 22:58:38 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
社会の職務でさえ妬みに基づいているというのじゃ。
もっと金や地位のある者への妬みから金や地位をもっと欲しがるのじゃ。
その動機が妬みであるから社会には破壊の関係があるのみなのじゃ。
欲が更なる葛藤を生み混乱と悲惨があるばかりなのじゃ。

11避難民のマジレスさん:2020/06/25(木) 23:32:31 ID:0sYTGrsQ0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 4

 そこで、私たちの日常の生存の一部分である諸観念、信念、定式化に関しては、それらは私たちの精神を歪めていないでしょうか。というのは、愚かさとは何でしょうか。愚かさは、精神が造り出すそれらのものごとに、または手が産み出すそれらのものごとに、間違った価値を与えることなのです。私たちの思考のほとんどは、自己保護的な本能から発生するのではないでしょうか。私たちの諸観念は、ああ、それらのあまりに多くが、間違った意義、それら自体にはないものを受け取らないでしょうか。ゆえに、私たちは宗教的でも経済的でも社会的でも、どんな形でも信じているとき、神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、確かに、間違った意義を信念に与えているのです-それは愚かさを表示しています。というのは、信念は人々を統合せず、分割するからです。それで私たちは、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、平和か抗争を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかるのです。
 それで私たちの問題は、静止している社会 [がありうるの] と同時に、この常なる革命が起きている個人がありうるのかどうか、ということなのではないでしょうか。すなわち、社会の革命は、個人の内的、心理的変化から始まらなければなりません。私たちのほとんどは、社会構造に根本的変化 が [起こるのを] 見たいのです。共産主義的な [手段] または他のどんな手段をとおしてでも社会的革命をもたらすこと-それが、世界で起きている戦いの全体です。そこで、社会的革命-すなわち人の外的構造に関する行動-があるなら、その社会的革命がたとえどんなに根本的であるとしても、個人の内側の革命がなく、心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的なのです。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須なのです。というのは、内側の心理的革命のない、たんなる外的なものの変容は、ほとんど意義がないからです。すなわち、社会はいつも凝結し静止的になりつつあるし、ゆえにいつも崩壊しつつあるのです。たとえ法制度がどんなに多く、どんなに賢明に公布されるとしても、社会はいつも衰退の過程にあるのです。なぜなら、革命はたんに外側にではなく、内側に起こらなければならないからです。
(´・(ェ)・`)つ

12避難民のマジレスさん:2020/06/25(木) 23:34:11 ID:0sYTGrsQ0
くまめも1-3-4
観念、信念、定式化は私たちの精神を歪める。
愚かさとは精神または手が産み出ものごとに、間違った価値を与えること。
神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、間違った意義を信念に与えている。それは愚かさを表示する。というのは、信念は人々を統合せず、分割するから。それで、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかる。
心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須。
法制度がどんな多くても、社会はいつも凝結し静止的になりつつあり、いつも崩壊、衰退の過程にある。なぜなら、革命は外側にではなく、内側に起こらなければならないから。
(´・(ェ)・`)

13鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/26(金) 22:51:23 ID:1d4drIFg0
社会が変革しても個人の内側に変容が無ければ何の意義も無いというのじゃ。
 社会が幾ら変ったとしてもやはり権力闘争は続いてくのであるからのう。
イデオロギーの変化とか体制の変化と言っても実は何も変っていないのじゃ。
個人の心の変容だけが真の変化なのじゃ。

14避難民のマジレスさん:2020/06/26(金) 23:15:12 ID:vUSG9j0E0
うむ。
Kは、個人の戦い方の見本を見せたのでありましょうか?oshoと同じでありますね。
(´・(ェ)・`)b

15避難民のマジレスさん:2020/06/26(金) 23:16:52 ID:vUSG9j0E0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 5

 これを理解し、おろそかにしないことが重要であると、私は思います。外側の行動は成し遂げられたとき、終わっています、静止しています。個々人の間の関係、すなわち社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、ゆえに彼を等しく静止させ、反復的にするのです。これを悟ると、この事実のとてつもない意義を悟ると、同意や不同意の問題はありえません。社会はいつも凝結し、個人を吸収しつつあること、常なる創造的革命は、社会にではなく、外のものにではなく、個人にありうるだけだということは、事実です。すなわち創造的革命は、個人の関係-それが社会です-においてだけ起こりうるのです。私たちは、インド、ヨ-ロッパ、アメリカ、世界のあらゆる地域の現在の社会の構造が、いかに急速に崩壊しつつあるかが、わかります。そして私たちはそれを、自分たち自身の生の中で知っています。私たちは通りを進んでゆきながら、それを観察できるのです。私たちの社会がぼろぼろに崩れかけているという事実を、偉大な歴史家に教えてもらわなくていいのです。そして新しい社会を創造するには、新しい建築家、新しい築き手がなければなりません。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければなりません。そういう建築家はまだ存在していません。築き手は誰もいません。誰一人、観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させようとしていません。それが私たちの問題です。私たちは、社会がぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのが、わかります。そして建築家でなければならないのは、私たち、あなたと私なのです。あなたと私が価値を再発見して、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築かなければならないのです。なぜなら、私たちは職業的建築家、政治的、宗教的建設者に頼るなら、まさに前と同じ位置にいるであろうからです。
あなたと私が創造的でないから、私たちは社会をこの混沌に陥らせたのです。ですから、あなたと私が創造的でなければならないのです。なぜなら問題は切迫しているからです。あなたと私は、社会の崩壊の原因に気づいて、たんなる模倣にではなくて私たちの創造的理解に基づいた新しい構造を、創造しなければなりません。そこで、これは否定的考えという意味を含んでいるのではないでしょうか。否定的考えは、最高の形の理解です。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならないのです。なぜなら、問題-すなわちあなたと私が、社会の新しい構造を築くために、創造的でなければならないということ-への肯定的接近は、模倣的になるからです。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、私たちはそれを肯定的体系、肯定的定式、肯定的結論をもってではなく、否定的に究明し、検討しなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

16避難民のマジレスさん:2020/06/26(金) 23:19:58 ID:vUSG9j0E0
くまめも1-3-5
社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、静止させ、反復的にする。新しい社会を創造するには、新しい築き手がなければならない。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければならない。
誰も観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させ、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築こうとしていないことが、問題。
否定的考えは、最高の形の理解。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならない。なぜなら、問題への肯定的接近は、模倣的になるから。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、否定的に究明し、検討しなければならない。
(´・(ェ)・`)

17鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/27(土) 22:27:35 ID:1d4drIFg0
>>14 そうじゃろう。
 人がなすべきことは自らの心を変容させることだけなのじゃ。
 それは自らを観ることで成し遂げられるのじゃ。
 それだけが真の変容への道なのじゃ。

18避難民のマジレスさん:2020/06/27(土) 22:45:06 ID:rPwgLfGQ0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 6

 なぜ社会は、確かにそのとおりなのですが、ぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのでしょうか。基本的理由の一つは、個人が、あなたが創造的であるのを止めたということです。どういう意味なのかを説明しましょう。あなたと私は模倣的になってしまいました。外側でも内側でも、私たちは真似をしています。外側で、技術を学んでいるとき、言葉のレベルで互いに疎通しあっているとき、当然何らかの模倣、真似がなければなりません。私は言葉を真似ます。技師になるには、私は初めに技術を学び、それからその技術を橋を建てるために使わなければなりません。外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければなりません。しかし内側の心理的模倣があるとき、確かに私たちは創造的であるのを止めるのです。私たちの教育、私たちの社会構造、私たちのいわゆる宗教生活は、すべて模倣に基づいているのです。すなわち私は特定の社会的または宗教的定式にはまりこむのです。私はほんとうの個人であるのを止めてしまったのです。心理的に私は、ヒンドウ-教徒のでもキリスト教徒のでも仏教徒のでもドイツ人のでもイギリス人のでも、一定の条件づけられた応答を持ったたんなる反復的機械になってしまったのです。私たちの応答は、東洋のでも西洋のでも、宗教的でも唯物的でも、社会の様式に応じて条件づけられているのです。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣です。そして崩壊する要因の一つは指導者です-その本質そのものが模倣です。
 崩壊する社会の本性を理解するためには、あなたと私が、個人が創造的でありうるかどうかを探究することが重要なのではないでしょうか。私たちは、模倣があるとき崩壊があるにちがいないということがわかります。権威があるとき真似があるにちがいありません。そして私たちの精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければなりません。創造性の瞬間、それらのむしろ生き生きした興味のある幸せな瞬間には、反復の感覚がない、真似の感覚がないということに、あなたは気づいたことはないでしょうか。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せなのです。それで私たちは、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかるのです。
(´・(ェ)・`)つ

19避難民のマジレスさん:2020/06/27(土) 22:49:19 ID:rPwgLfGQ0
くまめも1-3-6b
社会が崩壊しかけている基本的理由の一つは、個人が創造的であるのを止めたこと。
外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければならない。しかし内側の心理的模倣があるとき、私たちは創造的であるのを止める。特定の社会的または宗教的定式にはまりこむ。個人であるのを止めてしまう。心理的に一定の条件づけられた応答を持った、たんなる反復的機械になってしまった。応答は、社会の様式に応じて条件づけられている。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣。
精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければならない。創造性の瞬間、幸せな瞬間には、反復、真似の感覚がない。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せ。それで、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかる。
(´・(ェ)・`)

20鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/28(日) 22:37:25 ID:1d4drIFg0
社会は常に崩壊しかけているのじゃ。
それも人々が記憶に依存して同じ行ないばかりしているからなのじゃ。
常に新しい現実に対応できていないのじゃ。
常に死んだように静止しているのが社会なのじゃ。

21避難民のマジレスさん:2020/06/28(日) 22:54:48 ID:4lM1mz0I0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 1

 世界の問題はあまりに巨大で、あまりに複雑なので、それらを理解し、そして解決するには、とても単純で直接的な仕方で接近しなければなりません。そして単純さ、直接性は、外側の境遇にも、また私たちの特定の先入観と気分にも、依存しません。私が指摘していたように、解決は、会議、青写真をとおし、古い指導者の代わりに新しい者を用いることなどをとおして見つけられるべきものではありません。解決は明白に、問題の造り手 [にある] 、人間たちの間に存在している過ち、憎しみ、途方もない誤解の造り手に、あるのです。この過ちの造り手、これらの問題の造り手は、個人、あなたと私です-私たちがそれについて考えるような世界ではないのです。世界はあなたと他の一人との関係です。世界は、何かあなたと私から分離したものではありません。世界、社会は、私たちが互いの間に確立する [関係] 、または確立しようと求める関係です。
 それであなたと私が問題なのです-世界が、ではありません。なぜなら、世界は私たち自身の投影ですし、世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならないからです。世界は私たちから分離していません。私たちが世界ですし、私たちの問題は世界の問題です。これはいくらひんぱんに反復しても、しすぎることはありません。なぜなら、私たちの精神性があまりに無精であるために、世界の問題は私たちの [関わるべき]事柄ではない、それらは国連により [解決され] 、または古い指導者の代わりに新しい者を用いることにより、解決されなければならないと考えるからです。そのように考えるのはとても鈍い精神性です。なぜなら、私たちは世界のこの恐ろしい悲惨と混乱、この常に差し迫った戦争に応じる [能力・] 責任があるからです。世界を変容させるには、私たちは私たち自身から始めなければなりません。そして私たち自身から始めるにあたって重要であることは、意図です。 [その] 意図は、私たち自身を理解することでなければなりません。他の人たちに彼ら自身を変容するのを [任せること] や、また左翼や右翼の革命をとおして修正された変化をもたらすのを任せておくことではありません。これが私たちの、あなたと私の責任 [・能力] であるということを、理解することが重要です。なぜなら、私たちの生きている世界がたとえどんなに小さくても、私たちが自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく私たちは広く世界に、他の人たちとの拡大した関係に、影響を及ぼすでしょうから。
(´・(ェ)・`)つ

22避難民のマジレスさん:2020/06/28(日) 22:55:35 ID:4lM1mz0I0
くまめも1-4-1
世界の問題は巨大で、複雑。それらを理解、解決するには、単純で直接的な仕方で接近しなければらない。単純さ、直接性は、外側の境遇にも、特定の先入観と気分にも依存しない。
解決方法は、問題の造り手にある。
世界は、私たちが確立しようと求める関係。世界は私たち自身の投影。世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならない。
世界を変容させるには、私たち自身から始めなければならない。そして自身から始めるにあたって重要であることは、意図。その意図は、自身を理解すること。これがあなたと私の責任 ・能力であるということを、理解することが重要。なぜなら、私たちの生きている世界がどんなに小さくても、自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく広く世界に、影響を及ぼすから。
(´・(ェ)・`)

23鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/29(月) 22:42:26 ID:1d4drIFg0
目覚めた者だけが他人に影響を及ぼせるというのじゃ。
目覚めていない者が革命を起こしてもやはり今まで通りの世界なのじゃ。
目覚めれば世界は自らの心が創ったとわかるのじゃ。
そして他人をも目覚めさせてその世界を変えることが出来るのじゃ。
それだけが真の世界を変える方法なのじゃ。

24避難民のマジレスさん:2020/06/29(月) 23:11:42 ID:uc5m2TlI0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 2

 私が言いましたように、私たちは自分たち自身を理解する過程-それは孤立する過程ではありません-を見出そうとしています。それは世界 [・世間] から退くことではありません。なぜなら、あなたは孤立 [の状態]では生きられないからです。有る [・生きる] ことは関係することですし、孤立 [の状態]で生きているようなものはありません。葛藤・抗争、悲惨、闘争をもたらすのは、正しい関係の欠如です。私たちの世界がどんなに小さくても、私たちがその狭い世界で関係を変容させられるなら、それは、いつのときも外側に広大する波のようになるでしょう。その点が-どんなに狭くても、世界は私たちの関係であるということが、わかることが重要であると、私は思います。そして私たちはそこに変容を-表面的ではなくて根本的変容をもたらせるなら、そのとき活動的に世界を変容させはじめるでしょう。ほんとうの革命は、左翼のでも右翼のでもどんな特定の様式にも応じたものではありません。それは価値の革命-感覚的な価値から感覚的でない[価値] 、または環境的影響によって造り出されない価値への革命です。根本的革命、変容、革新をもたらすであろうこれら真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが本質的 [・不可欠] です 。自己認識は英知の始まりです。ゆえに変容や革新の始まりです。自分自身を理解するには、理解しようとする意図がなければなりません-それが、私たちの困難が入ってくるところです。私たちのほとんどは不満です。私たちは突然の変化をもたらしたいと願望するけれども、私たちの不満はたんに一定の結果を達成することに注がれるのです。私たちは不満であると、違った職を求めたり、たんに環境に屈服したりするのです。不満は私たちを燃え立たせ、生を [問わせ] 、存在の過程全体を問わせる原因になる代わりに、 [ 一定の結果を達成することに] 注がれます。よって私たちは平凡になり、存在の意義全体を見出そうとするあの衝動、あの強烈さを失っていくのです。ゆえに、自分たち自身でこれらのものごとを発見することが重要です。なぜなら、自己認識は他の一人によって与えてもらえないからです。それはどんな書物をとおしても見つけられるべきものではありません。私たちは発見しなければなりません。そして発見するには、意図、探求、探究がなければなりません。見出そう、深く探究しようとするその意図が弱かったり、存在していないかぎり、自分自身について見出したいというたんなる主張や思いつきの願いは、ほとんど意義がありません。
 こうして世界の変容は、自分自身の変容によってもたらされるのです。なぜなら、自己は人間存在の総合過程の産物、一部分であるからです。自己を変容させるには、自己認識が本質的 [・不可欠] です。あなたが何であるかを知ることなしに、正しい思考のための基礎はありません。あなた自身を知ることなしに、変容はありえません。自分自身をあるがままに知らなければなりません。ありたいと願うように-すなわち、たんに理想であり、ゆえに架空であり非真実であるところのもの-ではありません。変容させられるのは、あるがままだけです-あなたがありたいと願うものではありません。自分自身をあるがままに知ることは、とてつもない精神の鋭敏さを必要とします。なぜなら、あるがままは常に変容、変化を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、どんな特定の行動の様式にも繋がれていてはならないからです。あなたは何かに付いていこうとするなら、繋がれていてはだめなのです。あなた自身を知るには、 [そこに] すべての信念から、すべての理想化からの自由がある [ところの] 気づきが、精神の鋭敏さが、なくてはなりません。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるからです。あなたは自分が何であるかを知りたいなら、何か自分がそうでないものを想像したり信じていたりできません。私は欲張りで、妬んでいて、暴力的であるなら、たんに非暴力の、無欲の理想を持つだけでは、ほとんど価値がありません。しかし、自分が欲張りまたは暴力的であることを知るには、それを知って理解するには、とてつもない知覚を必要とするのではないでしょうか。それは思考の正直さ、明晰さを要求します。ところが、あるがままから離れて理想を追求することは逃避です。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げるのです。
(´・(ェ)・`)つ

25避難民のマジレスさん:2020/06/29(月) 23:26:21 ID:uc5m2TlI0
くまめも1-4-2
自身を理解する過程を見出そうとすることは、世間から退くことではない。有る・生きることは関係すること。葛藤・抗争、悲惨、をもたらすのは、正しい関係の欠如。
ほんとうの革命は、感覚的な価値から感覚的でない価値、環境的影響によって造り出されない価値への革命。真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが不可欠。自己認識は英知、変容や革新の始まり。
理解するには、理解しようとする意図がなければならない。それが困難。
私たちは、突然の変化をもたらしたいと願望するが、不満は、一定の結果を達成することに注がれる。よって存在の意義全体を見出そうとする衝動を失っていく。
自分自身をあるがままに知らなければならない。ありたいと願うようにではない。変容させられるのは、あるがままだけ。あるがままは常に変容を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、行動の様式、理想化からの自由があるところの気づきが、精神の鋭敏さが、必須。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるから。
あるがままの自分を知って理解するには、とてつもない知覚を必要。それは思考の正直さ、明晰さを要求する。あるがままから離れて理想を追求することは逃避。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げる。
(´・(ェ)・`)

26鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/06/30(火) 22:07:20 ID:1d4drIFg0
悟りの修行は世間を捨てて世捨て人になることではないのじゃ。
むしろその修行だけが世間の人を救うことができるのじゃ。
全ての社会的な革命が成し遂げられなかったことなのじゃ。
世界が変るのは自分が変わった時だけなのじゃ。

27避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 00:01:01 ID:NWYNc3.c0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 3

あなたが何であるか [について] の理解は、たとえそれが何であろうと-醜かろうと美しかろうと、意地が悪かろうと邪(よこしま)であろうと-あなたが何であるか [について] の歪みのない理解が、美徳の始まりです。美徳は本質的 [・不可欠] です。というのは、それが自由を与えてくれるからです。あなたが発見できるのは、あなたが生きられるのは、美徳においてだけです。美徳の育成においてではありません-それはたんに体裁 [をもたらす] だけで、理解と自由をもたらしません。美徳があることと美徳を得ることとの間には違いがあります。美徳があることは、あるがまま [について] の理解をとおして訪れます。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すことです。ゆえに美徳を得るなかで、あなたはあるがままに対して直接的に作用することを避けているのです。理想の育成をとおしてあるがままを避けるこの過程が、美徳があると考えられているのです。しかしあなたはそれをきっちりと直接的に見つめるなら、それはそのようなものではないことがわかるでしょう。それはたんに、あるがままと面と向き合うことの延期にすぎません。美徳はあるがままでないものになることではありません。美徳はあるがまま [について] の理解ですし、ゆえにあるがままからの自由です。美徳は、急速に崩壊しかけている社会において本質的 [・不可欠] です。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければなりません。そして自由であるには、美徳がなければなりません。というのは、美徳なしには自由はないからです。美徳を得ようと奮闘している不道徳な人が、そもそも美徳を知ることができるでしょうか。道徳的でない人は決して自由でありえません。ゆえに真実が何なのかを決して見出せません。真実は、あるがままを理解することにおいてだけ、見つけられるのです。そしてあるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければなりません。
 その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければなりません。そしてあるがままを理解することは極めて難しいのです。なぜなら、あるがままは決して止まっていない、静止していないからです。それはいつも動き [の状態] にあるのです。あるがままはあなたのあるがままです-あなたがありたいと思うものではありません。それは理想ではありません。なぜなら、理想は架空であるからです。それは現実に、瞬間瞬間、あなたがして、考え、感じていることです。あるがままが現実ですし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とします。しかし私たちはあるがままを非難しはじめるなら、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しないでしょう。私は誰かを理解したいなら、彼を非難できません。私は彼を観察し研究しなければなりません。私は自分が研究しているものそのものを愛さなければなりません。あなたは子どもを理解したいなら、その子を愛さなければなりません-非難してはなりません。あなたは彼と [一緒に] 遊び、彼の動き、彼の性向、彼の振るまい方を見守らなければなりません。しかし、あなたがたんにその子を非難し、抵抗し、咎めたりするだけなら、子ども [について] の了解はありません。同様に、あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければなりません。それが現実です。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではありません。それはたんにあるがままとは他の何かでありたいという願い、架空の願望にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ

28避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 00:01:48 ID:NWYNc3.c0
くまめも1-4-3
あなたが何であるかの歪みのない理解が、美徳の始まり。美徳があることと美徳を得る(育成する)ことには違いがある。美徳があることは、あるがままについての理解をとおして訪れる。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すこと。美徳はあるがままについての理解だし、ゆえにあるがままからの自由。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければならない。そして自由であるには、美徳がなければならない。道徳的でない人は決して自由でありえない。ゆえに真実が何なのかを決して見出せない。あるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければならない。
 その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければならない。そしてあるがままを理解することは極めて難しい。なぜなら、あるがままは決して静止していないから。あるがままは理想ではない。なぜなら、理想は架空であるから。あるがままが現実だし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とする。しかし私たちはあるがままを非難しはじめ、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しない。あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければならない。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではない。それはたんに何かでありたいという願い、架空の願望にすぎない。
(´・(ェ)・`)

29避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 15:04:31 ID:b/R.LjPg0
宗教板で似非覚者相手に無双するの飽きてきた。

誰か弄りがいのある自称覚者を連れて来てくんない?

30鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/01(水) 23:16:10 ID:1d4drIFg0
自分が何であるのか理解することが美徳というのじゃ。
それが自由をもたらしてくれるからなのじゃ。
自分を理解することは今ここでしか行えないから難しいのじゃ。
刹那毎に変っていく心の働きを見なければならんのじゃ。

31避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 23:50:05 ID:9LpStdNw0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 4

 あるがままを理解するには、 [そこに] 同一化や非難のない精神の状態を、必要とします-それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味です。私たちはほんとうに何かを理解したいと願望するとき、その状態にあります。興味の強烈さがあるとき、その精神の状態が生じます。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていいのです。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがあるのです。この気づきの状態は、興味が [あるとき] 、理解しようとする意図があるとき、来るのです。
 自分自身の基本的理解は、知識をとおし、経験の蓄積をとおして来ません-それはたんに記憶の育成にすぎません。自分自身の理解は瞬間瞬間です。私たちがたんに自己 [について] の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げるのです。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるからです。世界は私たちと私たちの活動と異なっていません。なぜなら、世界の問題を造り出すのは、あるがままの私たちであるからです。私たちの大多数にとっての困難は、私たちが自分たち自身を直接的に知らなくて、多くの人間の諸問題を解決するため体系 [体制]、方法、作業の手段を求めることなのです。
 では自分自身を知る手段、体系はあるのでしょうか。どんな利口な人も、どんな哲学者も、体系、方法を考案できます。しかし確かに、体系に付いていくことはたんに、その体系によって造り出された結果を産み出すだけなのではないでしょうか。私は自分自身を知る特定の方法に付いて行くなら、そのときその体系に必然的に伴う結果を得るでしょう。しかし結果は明白に私自身 [について] の理解ではないでしょう。すなわち、それをとおして私自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、私は自分の考え、活動を、様式に応じて形作るのです。しかし様式に付いていくことは自分自身 [について] の理解ではありません。
 ゆえに自己認識のための方法はないのです。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいます-それが私たちが皆ほしいものです。私たちは権威に付いていきます-人物のものでないなら、体系の、イデオロギ-の[権威]にです。なぜなら私たちは結果 [がほしい] -満足できるであろう、私たちに安全を与えてくれるであろうもの-が、ほしいからです。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくないのです。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したいのです。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への [願望] 、確実性への願望から出てきたものです。そして結果は明白に、自分自身 [について] の理解ではありません。私たちは方法に付いていくとき、私たちが願望するものを保証してくれる権威-教師、導師(グル)、救い主、大師-を持つにちがいありません。そして確かにそれは自己認識への道ではありません。
 権威は自分自身 [について] の理解を妨げるのではないでしょうか。権威、指導者の庇護のもとで、あなたは一時的に安全の感覚、幸福の感覚を持つかもしれません。しかしそれは自分自身の総合過程 [について] の理解ではありません。権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げます。ゆえに究極的に自由を破壊します。自由においてのみ、創造性がありうるのです。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうるのです。私たちのほとんどは創造的ではありません。私たちは反復的機械 [です] 、私たち自身のでも他の一人のでも一定の経験の歌、一定の結論と記憶を何度も繰り返し演奏しているたんなる蓄音機レコ-ドです。そういう反復は創造的な存在ではありません-しかしそれが、私たちのほしいものです。私たちは内側で安全でありたいから、常にこの安全のための方法と手段を求めているのです。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を [破壊し] 、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊するのです。
(´・(ェ)・`)つ

32避難民のマジレスさん:2020/07/01(水) 23:56:42 ID:9LpStdNw0
くまめも1-4-4
あるがままを理解するには、そこに同一化や非難のない精神の状態が必要。それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていい。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがある。
 自己の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げる。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるから。困難は、自分たち自身を直接的に知らなくて、人間の諸問題を解決するため体系、体制、方法、作業の手段を求めること。
自分自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、自分の考え、活動を、様式に応じて形作る。しかし様式に付いていくことは自分自身の理解ではない。ゆえに自己認識のための方法はない。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいる。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくない。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したい。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への願望、確実性への願望から出てきたもの。そして結果は明白に自己認識への道ではない。
権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げる。ゆえに究極的に自由を破壊する。自由においてのみ、創造性がありうる。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうる。私たちは内側で安全でありたいから、常に安全のための方法と手段を求めている。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を破壊し、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊する。
(´・(ェ)・`)

33鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/02(木) 22:47:12 ID:1d4drIFg0
あるがままの観察は意志があれば難しいのじゃ。
どうしても自分の見たものごとを解釈しようとしたりするからのう。
見たものごとをありのままに認める受動的な鋭敏さが必要というのじゃ。
それにはどんな方法もありえないのじゃ。
方法があれば意志がそれを実践しようとするからなのじゃ。
ただひたすら見たものを受け容れる心構えが必要なのじゃ。

34避難民のマジレスさん:2020/07/02(木) 23:55:25 ID:ZJ9fzkcg0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 5

 確かに私たちの困難は、私たちのほとんどがこの創造性の感覚を失ってしまったということです。創造的であることは、私たちが絵を書いたり詩を書いたりして有名にならなければならない、という意味ではありません。それは創造性ではありません-それはたんに観念を表現する能力にすぎません-それを公衆は喝采したり無視したりするのです。能力と創造性は混同すべきではありません。能力は創造性ではありません。創造性は全く違った存在の状態なのではないでしょうか。それは、 [そこに] 自己が不在である状態、 [そこでは] 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、欲望の焦点ではない状態です。創造性は連続的な状態ではありません。それは瞬間瞬間、新しいのです。それは、[そこに] 「私」、「私の」がなく、思考がどんな特定の経験、野心、達成、目的、動機にも集中していない動きです。創造性-そこにのみ真実がありうるあの存在の状態 、すべてのものごとの創造者-があるのは、自己がないときだけです。しかしその状態は構想したり想像したりできません。それは定式化したりまねたりできません。それはどんな体系をとおしても、どんな哲学をとおしても、どんな修練をとおしても到達できません。反対に、それは、自分自身の総合過程を理解することをとおしてだけ、生じるのです。
 自分自身 [について] の理解は結果、頂上ではありません。それは関係-財産、ものごと、人々、観念と自分の関係-の鏡において、瞬間瞬間、自分自身が見えることです。しかし私たちは、鋭敏であること、気づくことは難しいことがわかります。そして方法に付いていくことにより、 [諸々の] 権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好みます。それで私たちの精神は疲れきり、疲労困憊し、無感覚になるのです。そういう精神は創造性の状態にありえません。その創造性の状態は、自己-すなわち認識と蓄積の過程であるもの-が無くなるときだけ来るのです。なぜなら、結局、「私」という意識は認識の中心ですし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるからです。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れています。なぜなら私たちは皆、何ものかでありたいからです。小さい人は大きい人でありたい、不徳な者は徳を持ちたい、弱くて目立たない者は力、地位、権威を渇望します。これが精神の絶えざる活動です。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できません。
 私たちのまわりの世界-悲惨、戦争、失業、飢餓、階級分裂、全くの混乱をともなうもの-を変容させるためには、私たち自身に変容がなければなりません。革命は、どんな信念やイデオロギ-に応じてでもなく、私たち自身の中で始まらなければなりません。なぜなら、観念に基づいたり、特定の様式への順応における革命は、そもそも明白に革命ではないからです。自分自身に基本的革命をもたらすには、関係において自分の思考と感情の過程全体を理解しなければなりません。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決です-もっと多くの修練、もっと多くの信念、もっと多くのイデオロギ-、もっと多くの教師たちを持つことではないのです。私たちは蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、私たち自身をあるがままに理解できるなら、そのときどのように、精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れるかということが、わかるでしょう。そしてその平静の状態においてだけ、創造性がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

35避難民のマジレスさん:2020/07/02(木) 23:58:56 ID:ZJ9fzkcg0
くまめも1-4-5
創造性は全く違った存在の状態。それは、自己が不在である状態、 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、達成、目的、動機、欲望の焦点ではない状態。創造性は連続的な状態ではない。それは瞬間瞬間、新しい。それは、そこに「私」、「私の」がない動き。
創造性があるのは、自己がないとき。
それは、自分自身の総合過程の理解をとおしてだけ、生じる。
自分自身の理解は結果、頂上ではない。それは財産、ものごと、人々、観念と自分の関係の鏡において、瞬間瞬間自分自身が見えること。
鋭敏であること、気づくことは難しいので、権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好む。創造性の状態は、自己が無くなるときだけ来る。なぜなら、「私」という意識は認識の中心だし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるから。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れてる。何ものかでありたい。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できない。
 私たちのまわりの世界を変容させるためには、私たち自身に変容が必要。そのためには、自分の思考と感情の過程全体を理解しなければならない。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決。
蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、自身をあるがままに理解できるなら、そのとき精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れる。その平静の状態においてだけ、創造性がありうる。
(´・(ェ)・`)

36避難民のマジレスさん:2020/07/03(金) 21:45:21 ID:jevFIdqw0
一休さん講読会、↓引越しであります。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
(´・(ェ)・`)b

37避難民のマジレスさん:2020/07/03(金) 21:46:08 ID:jevFIdqw0
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 1
 私は行動 [・作用] の問題を議論したいように思います。これは、初めはむしろ難解で難しいかもしれませんが、それをよく考えることにより、私たちは明確に論点を見ることができるだろうと、私は願っています。なぜなら私たちの存在全体、私たちの生全体が行動の過程であるからです。
 私たちのほとんどは、一連の行動 [のなか]、 見たところ無関係でつながりのない行動のなかで生きています- [それらは] 崩壊、挫折につながっているのです。それは私たち各自に関係する問題です。なぜなら、私たちは行動によって生きていて、行動なしには生はなく、経験はなく、考える [という] ことはないからです。思考は [作用・] 行動です。そしてたんに一つの特定の意識の水準-すなわち外のもの-における [作用・] 行動を追求すること、行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導くでしょう。
 私たちの生は、一連の [作用・] 行動、または意識の異なった水準での [作用・] 行動の過程です。意識は、経験すること、名づけること、記録することです。すなわち意識は挑戦と応答-すなわち経験-です。それから用語や名づけ、それから記録-すなわち記憶-です。この過程が行動なのではないでしょうか。意識は [作用・] 行動です。そして挑戦、応答なしに、経験、名づけや用語なしに、記録、すなわち記憶なしには、行動はありません。
 さて、 [作用・] 行動は [作用者・] 行動者を造り出します。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じるのです。行動において結果がないなら、そのとき行動者はありません。しかし [終わりの] 目的や結果が視野にあるなら、そのとき行動は行動者をもたらします。こうして行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程です-それは、行動が目的を視野に持つとき、生じるのです。結果に向かう行動は意志です。そうでないと意志はないのではないでしょうか。目的を達成したいという欲望が意志をもたらします-それが行動者です-私は達成したい、私は本を書きたい、私は金持ちになりたい、私は絵を描きたい、と。
 私たちはこれら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいます。それは私たちの日常的存在です。私はただあるがままを説明しているだけです。しかし私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめるでしょう。そこで経験を構成するこれら三つの状態-行動者、行動、結果-は、確かに、なっていく過程です。そうでないと、なりゆくことはないのではないでしょうか。行動者がないなら、目的に向かう行動がないなら、なりゆく [という] ことはありません。しかし、私たちが知っているような生、私たちの日常の生は、なりゆく過程です。私は貧しいので、目的-すなわち豊かになること-を視野に入れて行動します。私は醜いので、美しくなりたいのです。ゆえに私の生は何かになる過程なのです。あろうとする意志は、意識の異なった水準で、異なった状態でなろうとする意志です-そこには挑戦、応答、名づけ、記録があります。では、このなることは闘争であり、このなることは苦痛であるのではないでしょうか。それは常なる格闘です-私はこれである、私はあれになりたい、と。
 ゆえにそのとき問題はこうです-このなりゆくことのない行動はあるのでしょうか。この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのでしょうか。目的がなければ、行動者はありません。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すからです。しかし目的を視野に持たない [行動] 、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのでしょうか。そういう行動はなりゆくことではありません。ゆえに闘争ではありません。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態があるのです。これはかなり哲学的に聞こえますが、ほんとうは全く単純です。
(´・(ェ)・`)つ

38避難民のマジレスさん:2020/07/03(金) 21:59:41 ID:jevFIdqw0
くまめも1-5-1
私たちの存在全体、生全体が行動の過程。
行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導く。
意識は、作用・行動。挑戦、応答、経験、名づけや用語、記憶なしには、行動はない。
作用・行動は作用者・行動者を造り出す。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じる。行動において結果がないなら、そのとき行動者はない。行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程。結果に向かう行動は意志。目的を達成したいという欲望が意志をもたらす。
これら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいる。私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめる。あろうとする意志は、異なった状態でなろうとする意志。なることは闘争であり、苦痛。
ゆえにそのとき問題は、この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのか。目的がなければ、行動者はない。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すから。目的を視野に持たない、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのか。そういう行動は闘争ではない。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態がある。これはかなり哲学的に聞こえるが、ほんとうは全く単純。
(´・(ェ)・`)

39鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/04(土) 00:21:54 ID:1d4drIFg0
認識は経験の蓄積というのじゃ。
それは記憶に基づいているからなのじゃ。
唯識論と同じなのじゃ。
それをあるがままに理解するのじゃ。

40避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 00:24:37 ID:b/R.LjPg0
.
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

41避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 20:19:21 ID:X/mJjzWc0
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 2

 経験の瞬間に、あなたは経験から離れた経験者としての自分自身に気づいていません。あなたは経験の状態にあるのです。とても単純な例を取りましょう。あなたは怒っています。その怒りの瞬間には、経験者も経験もないのです。ただ経験だけがあるのです。しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持ったもの-が、あるのです。私たちは繰り返しこの状態に、経験の状態にあるのです。しかし私たちはいつもそれから出てきて、それに用語を与え、名づけ、記録し、よってなりゆくことに連続性を与えているのです。
 私たちは言葉の基本的な意味において [作用・] 行動を理解できるなら、そのときその基本的理解が、私たちの表面的な [諸] 活動にも影響するでしょう。しかし私たちは初めに、行動の基本的本性を理解しなければなりません。そこで行動は観念によりもたらされるのでしょうか。あなたは初めに観念を持って、その後で行動するのでしょうか。それとも行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、あなたはそのまわりに観念を築くのでしょうか。行動が行動者を造り出すのか、それとも行動者が初めに来るのでしょうか。
 どちらが初めに来るのかを発見することは、とても重要です。観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけです。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制です。これを悟ることはとても重要です。なぜなら、私たちの社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、わたしたちのすべてにとって観念が初めに来て行動は [後に] 付いてくるからです。行動はそのとき観念の小間使いです。たんなる観念の構築は、明白に行動にとって有害です。観念はさらなる観念を産み育てるし、たんに観念を産み育てることがあるとき、敵対があるし、社会は、観念作用の知的過程でもって頭でっかちになるのです。私たちの社会構造はとても知的です。私たちは、私たちの存在のあらゆる他の要因を犠牲にして、知能を育成しているのです。ゆえに私たちは観念で窒息しているのです。
 観念ははたして行動を生み出すのでしょうか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけでしょうか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できません。私たちがこの点を理解することがとてつもなく重要です。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせません。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないからです。社会主義者のでも資本主義者のでも共産主義者のでも色々な宗教のでも、観念作用の [究明] 、観念の築き上げの究明が最も重要なのです-とくに私たちの社会が崖っぷちにあってもう一つの破滅、もう一つの切除を招いているときは [そうです] 。私たちの多くの問題への人間的解決を発見しようとする意図においてほんとうに真剣である人たちは、初めにこの観念作用の過程を理解しなければなりません。
 私たちのいう観念とはどういう意味でしょうか。観念はどのようにして生じるのでしょうか。観念と行動はひとまとめにできるのでしょうか。仮に私が観念を持っていて、それを実行したいと願うとします。私はその観念を実行する方法を求めます。そして私たちは思索し、観念がどのように実行されるべきかについてのけんかに、時間とエネルギ-を費やします。それで観念がどのように生じるのかを見出すことが、ほんとうにとても重要です。そしてそれの真理を発見した後で、私たちは行動の問題を議論できるのです。観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がありません。
(´・(ェ)・`)つ

42避難民のマジレスさん:2020/07/04(土) 20:20:45 ID:X/mJjzWc0
くまめも1-5-2
経験の瞬間に、あなたは経験(怒り)から離れた経験者としての自分自身に気づいていない。あなたは経験(怒り)の状態にある。
しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持った者がある。
行動は観念によりもたらされるのか、行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、そのまわりに観念を築くのか。
観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけ。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制。これを悟ることはとても重要。なぜなら、社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、観念が初めに来て行動は付いてくるから。行動はそのとき観念の小間使い。たんなる観念の構築は、行動にとって有害。観念はさらなる観念を産み育てるし、敵対がある。
観念ははたして行動を生み出すか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できない。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせない。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないから。観念作用の、観念の築き上げの究明が最も重要。
観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がない。
(´・(ェ)・`)

43鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/04(土) 23:41:33 ID:1d4drIFg0
行いは観念の後にくるというのじゃ。
先に観念があり、それに基づいて人は行動するからなのじゃ。
観念がおかしければ行動もおかしくなるのじゃ。
それ故に先ずは観念がどのようにして生じるのか理解することが重要なのじゃ。

44避難民のマジレスさん:2020/07/05(日) 18:42:09 ID:JXZBdWr60
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 3

 そこであなたはどのようにして観念を得るのでしょうか-とても単純な観念です。それは哲学的、宗教的、経済的でなくてもいいのです。明白にそれは思考の過程なのではないでしょうか。観念は思考過程から出てきたものです。思考過程なしに観念はありえません。それで私は、その産物、観念を理解できる前に、思考過程自体を理解しなければなりません。私たちのいう思考とはどういう意味でしょうか。あなたはいつ考えるのでしょうか。明白に、思考は、神経的、心理的な応答の結果なのではないでしょうか。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答です。または心理的な、蓄えられた記憶の応答です。感覚に対する神経の即時の応答があります。そして蓄えられた記憶の [心理的応答] 、人種、集団、導師(グル)、家族、伝統などの影響の心理的応答があります。そのすべてを、あなたは思考と呼びます。それで思考過程は記憶の応答なのではないでしょうか。もしもあなたは記憶を持たなかったなら、思考を持たないでしょう。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させるのです。例えば、私が国家主義・民族主義の蓄えられた記憶を持っていて、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶとします。その過去の応答、行動、含蓄、伝統、慣習の記憶の [諸々の] 貯蔵庫が、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒の挑戦に応答します。そして挑戦に対する記憶の応答が必然的に思考過程をもたらします。あなた自身に作動している思考過程を見つめてください。するとあなたはこれの真理を直接的に試せるのです。あなたは誰かに侮辱されました。そしてそれが、あなたの記憶に残っています。それが背景の一部を形作ります。あなたがその人物に会うとき-それが挑戦です-応答は、その侮辱の記憶です。それで記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出します。ゆえに観念はいつも条件づけられています-これを理解することが重要です。言い換えると観念は思考過程の結果ですし、思考過程は記憶の応答ですし、記憶はいつも条件づけられているのです。記憶はいつも過去にあるし、その記憶は挑戦により現在において命を与えられるのです。記憶はそれ自体では命を持っていません。それは挑戦に直面するとき、現在に生き返るのです。そして休眠していても活動していても、すべての記憶は条件づけられているのではないでしょうか。
 ゆえに全く異なった接近 [法] がなければなりません。あなたは、自分が観念に従って行動しているのかどうか、そして観念作用のない行動はありうるのかどうかを、内側に自分自身で見出さなければなりません。観念に基づかない行動-それは何なのかを見出しましょう。
 あなたはいつ、観念作用なしに行動するのでしょうか。経験の結果でない行動は、いつあるのでしょうか。経験に基づいた行動は、私たちが言ったように制限するし、ゆえに障害です。思考過程-すなわち経験に基づいたもの-が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的です。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味です。それが、 [そこに] 理解のある唯一の状態です。経験に基づいた精神が行動を導いていないとき、経験に基づいた思考が行動を形作っていないとき、です。思考過程がないとき、行動は何でしょうか。思考過程のない行動はありうるのでしょうか。すなわち私は橋を、家を建てたいと思います。私は技術を知っています。技術は私にそれをどう建てるべきかを教えます。それが行動と呼ばれます。詩を書く、絵を描く [行動] 、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動があります。すべてが観念や以前の経験-行動を形作るもの-に基づいています。しかし観念作用のないとき、行動はあるのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

45避難民のマジレスさん:2020/07/05(日) 18:43:38 ID:JXZBdWr60
くまめも1-5-3
観念は思考過程から出てきたもの。
まず、思考過程自体を理解する。思考は、神経的、心理的な応答の結果。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答。または心理的な、蓄えられた記憶の応答。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させる。
侮辱された→記憶に残る→それが背景の一部を形作る。→その人物に会う。それが挑戦→応答は、その侮辱の記憶→記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出す
ゆえに観念はいつも条件づけられている。
記憶はいつも過去、その記憶は挑戦により現在において命を与えられる。記憶は挑戦に直面するとき、現在に生き返る。休眠していてもすべての記憶は条件づけられている。
 ゆえに全く異なった接近法が必要。自分が観念に従って行動しているのか、観念作用のない行動はありうるのかを、内側に自分自身で見出さなければならない。観念に基づかない行動-それは何なのか。
 いつ、観念作用なしに行動するのか。経験の結果でない行動は、いつあるのか。経験に基づいた行動は制限する。ゆえに障害。思考過程が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味。
橋を、家を建てたい→技術を知っている。→技術は私にそれをどう建てるべきかを教える。それが行動。詩を書く、絵を描く行動、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動。すべてが観念や以前の経験に基づいている。しかし観念作用のないとき、行動はあるのか。
(´・(ェ)・`)

46鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/05(日) 23:03:03 ID:1d4drIFg0
観念は思考過程から出てくるというのじゃ。
思考は記憶から起こるのじゃ。
記憶したものの操作が思考なのじゃ。
記憶も思考も観念も無い時に理解はあるのじゃ。

47避難民のマジレスさん:2020/07/06(月) 21:29:37 ID:yBquKmmc0
最初と最後の自由  第一部
  第五章 行動と観念 4

 確かに、観念が止むとき、そういう行動があるのです。そして愛があるときだけ、観念は止みます。愛は記憶ではありません。愛は経験ではありません。愛は、自分の愛する人について考えることではありません。というのは、そのときそれはたんに思考であるからです。あなたは愛について考えられません。あなたは、自分が愛したり献身したりしている人-あなたの導師(グル)、あなたの像(イメ-ジ)、あなたの妻、あなたの夫について考えられるのです。しかし思考、象徴(シンボル)は真実 [のもの] -すなわち愛-ではありません。ゆえに愛は経験ではないのです。
 愛があるとき、行動があるのではないでしょうか。その行動は解放するのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。観念と行動の間にあるような隔たりは、愛と行動の間にはありません。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落としています。そして私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとしています。愛があるとき-それは精神作用ではなく、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から [出てきたもの] 、実践された修練から出てきたものではありません-そのとき、その愛こそが行動です。それが、自由にしてくれる唯一のものです。精神作用があるかぎり、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえません。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限されます。これの真理がわかるとき、愛の性質-すなわち精神作用ではないもの、あなたがそれについて考えられないもの-が生じるのです。
 この総合過程、どのように観念が生じるのか、どのように行動が観念から発生するのか、どのように観念が行動を制御し、ゆえに、感覚に依存して行動を制限するのかに、気づかなければなりません。それらが誰の観念なのか、左翼からか極右からかどうかは大事なことではありません。私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にあるのです。そのとき私たちはたんに時間の領域に-過去すなわちさらなる感覚を与えるものに、またはもう一つの形の感覚である未来に-生きているだけです。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけです。
 観念は真理ではありません。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないものです。それは、あなたが「欲しい」経験ではありません-そのとき、それはたんに感覚にすぎません。観念の束を越えてゆけるとき-すなわち「私」であり、精神であり、部分的または完全な連続性を持つもの-、それを越えてゆけるとき、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態があるのです。そのとき、真理が何であるかを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

48避難民のマジレスさん:2020/07/06(月) 21:30:23 ID:yBquKmmc0
くまめも1-5-4
観念が止むとき、そういう行動がある。愛があるときだけ、観念は止む。愛は記憶、経験ではない。愛は、自分の愛する人について考えることではない。そのときそれはたんに思考。あなたは愛について考えられない。
愛があるとき、行動がある。その行動は解放する。それは精神作用の結果ではない。愛と行動の間に隔たりはない。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落とす。私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとする。愛があるとき-それは精神作用、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から、実践された修練から出てきたものではない。そのとき、その愛こそが行動。それが、自由にしてくれる唯一のもの。精神作用、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえない。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限される。この真理がわかるとき、愛の性質。、が生じる。
私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にある。そのとき私たちはたんに時間の領域に、過去または未来に生きているだけ。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけ。
 観念は真理ではない。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないもの。それは、あなたが「欲しい」経験ではない。そのとき、それはたんに感覚にすぎない。観念の束を越えてゆけるときだけ、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態。そのとき、真理が何かを知る。
(´・(ェ)・`)

49鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/06(月) 23:00:11 ID:1d4drIFg0
例えば子供が車に轢かれそうになったら親は何の思考も無く直ぐに助けようと行動するじゃろう。
その時には観念も無いのじゃ。
そのように愛は思考も観念も無く行動を起こすものじゃ。
そのような時今ここにある真理が見いだされるのじゃ。

50避難民のマジレスさん:2020/07/07(火) 22:16:12 ID:j28u/1TI0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 1
 信念と知識はとても密接に欲望に関係しています。そしておそらく、私たちはこれら二つの論点を理解できるなら、欲望がどのように働くかがわかり、その複雑さを理解できるのです。
 私たちのほとんどが熱心に受け入れ、当然のことと思っているものごとの一つは、信念の問題であるように、私には見えるのです。私は信念を攻撃しているのではありません。私たちがしようとしていることは、なぜ私たちは信念を受け入れるのかを見出すことです。そして、受け入れの動機、因果 [関係]を理解できるなら、そのときおそらく、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできるかもしれません。政治的、宗教的な信念、国家主義・民族主義的、他の色々な種類の信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すか [ということ] がわかります-それは明白な事実です。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしないのです。ヒンドウ-教の信念、キリスト教 [の信念] 、仏教の信念-無数の党派的、国家・民族的信念、色々な政治的イデオロギ-があり、すべてが互いに争い、互いに改心 [・改宗] させようとしています。明白に、信念は人々を分離し、不寛容を造り出していることが、わかります。信念をもたずに生きることは可能でしょうか。信念との関係において自分自身を研究できてこそ、それは見出せるのです。信念をもたずに、この世界で生きることは可能でしょうか-信念を変えるのではなく、一つの信念の代わりにもう一つを用いるのではなくて、すべての信念から全く自由であり、そのため毎分、生に新たに出会うことは、です。これが、結局、真理です-過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが。
 あなたは考慮するなら、信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れであるということが、わかるでしょう。もしも信念を持たなかったなら、私たちに何が起きるでしょうか。起きるかもしれないことに、とても怯えるのではないでしょうか。もしも、信念-神への、共産主義への、社会主義への、帝国主義への [信念] 、何らかの種類の宗教的定式、私たちが条件づけられている何らかの教義への信念-に基づいた行動の様式を持たなかったなら、全く途方に暮れた気持ちになるのではないでしょうか。そしてこの信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは [無であること・] 何ものでもないことへの [恐れ] 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすことではないでしょうか。結局、カップは空っぽであるときだけ役に立つのです。そして信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神です。それはたんに反復的な精神です。その恐れ-その空っぽ [・空しさ] への恐れ、その寂しさへの恐れ、その沈滞への、達しないことへの、成功しないこと、達成しないこと、何ものかでないこと、何ものかにならないことへの恐れ-から逃避することが、確かに、なぜ私たちがこんなに熱心に貪欲に信念を受け入れるのかという理由の一つなのではないでしょうか。そして信念の受け入れをとおして、私たちは自分たち自身を理解するでしょうか。反対です。信念は宗教的でも政治的でも、明白に自分たち自身の理解を妨げるのです。それは、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕(スクリ-ン)として、作用するのです。そして私たちは信念をもたずに自分たち自身を見つめられるでしょうか。私たちがそれらの信念を、 持っている多くの信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているでしょうか。私たちは、信念-すなわち精神がそれ自身を [それと]同一化してきたもの-を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力があるのです-そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

51避難民のマジレスさん:2020/07/07(火) 22:22:10 ID:j28u/1TI0
くまめも1-6-1
なぜ私たちは信念を受け入れるのか。受け入れの動機、因果を理解できるなら、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできる。信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すかがわかる。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしない。信念は人々を分離し、不寛容を造り出す。
信念をもたずに生きることは可能か。
過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが、真理。
信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れ。信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは何ものでもないことへの 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすこと。信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神。それはたんに反復的な精神。信念は、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕として、作用する。私たち信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているか。私たちは、信念を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力がある−そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがある。
(´・(ェ)・`)

52鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/07(火) 23:00:32 ID:1d4drIFg0
信念そのものが悪いとは言わないのじゃ。
ただそれを理解することが大事なのじゃ。
理解すれば自由になれるのじゃ。
恐れから信念を受け容れたいという欲が起こるというのじゃ。
それが観られれば消えるのじゃ。

53避難民のマジレスさん:2020/07/08(水) 21:14:01 ID:0cl365bM0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 2

 それは、この信念と知識の問題は、ほんとうにとても興味深い問題です。それは私たちの生においてなんととてつもない役割を演じるのでしょうか!私たちはいかに多くの信念を持っているのでしょうか!確かに、私がその [霊的という] 言葉を使えるなら、人は知的であるほど、文化的で [・教養が ] あるほど 、霊的 [・精神的] であるほど、理解する能力がないのです。現代の世界においてさえも、未開人は無数の迷信を持っています。思慮深いほど、目覚めているほど、鋭敏であるほど、おそらく信じることがないのです。それは、信念は束縛する [から] 、信念は孤立させるからです。そして、経済的、政治的世界、またいわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、世界中でそうであることがわかります。あなたは神があることを信じています。そしておそらく私は神がないことを信じています。またはあなたは [共産主義者や国家主義者として] あらゆるものごと [に対して] 、あらゆる個人 [に対して] 完全な国家統制を信じています。そして私は [資本主義者として] 民間企業とその他すべてを信じています。あなたは [一神教の信者として] 、唯一人の救い主がいるし、彼をとおしてあなたの目標を達成できるということを信じています。そして私はそんなふうに信じていません。こうしてあなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張しているのです。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をするのです-それは完全に無意味です。なぜなら、現実に信念こそが孤立の過程であるからです。あなたはバラモンです。私は非バラモンです。あなたはキリスト教徒です。私はイスラム教徒です、などです。あなたは同胞愛について話をし、私もまた同じ同胞愛、愛、平和について話をします。しかし現実には、私たちは分離しています。私たちは自分たちを分割しています。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられません。それは明らかでしょうか。それは言葉上はそうであるかもしれません。しかし、あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

54避難民のマジレスさん:2020/07/08(水) 21:15:51 ID:0cl365bM0
くまめも1-6-2
 あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張している。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をする−それは完全に無意味。なぜなら、現実に信念こそが孤立、分離の過程であるから。私たちは自分たちを分割している。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられない。あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめる。
(´・(ェ)・`)

55鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/08(水) 23:23:44 ID:1d4drIFg0
信念に拠って人は孤立するというのじゃ。
政治的なイデオロギーとか宗教の信念で分割されるからなのじゃ。
悟った者はもはや信じることがないのじゃ。
何が事実であるか事実でないのかわかるからなのじゃ。
事実でないか未だ事実と認められないことを事実として扱うのが信念なのじゃ。

56避難民のマジレスさん:2020/07/09(木) 19:38:12 ID:4q82KXfA0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 3

 欲望 [・願望] の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいないということが、わかります。なぜなら、明白にあなたは経済的、霊的 [・精神的] に [安全であるため] 、また内側でも安全であるために信じているからです。私は、経済的理由のために信じている人たちについて話してはいません。なぜなら、彼らは自分たちの仕事に依存するように育てられているし、ゆえに自分たちのために仕事があるかぎり、キリスト教徒、ヒンドウ-教徒-何でもかまいません-であるだろうからです。私たちはまた便宜のために信念にすがりつく人たちについても議論していません。おそらく私たちのほとんどにおいては、それは等しくそうなのです。便宜のために、私たちは一定のものごとを信じています。これら経済的理由は払いのけて、私たちはその中にもっと深く入らなければなりません。何でも経済的、社会的、霊的 [・精神的] なものを強く信じている人たちを [例に] 取り上げましょう。その裏の過程は、安全でありたいという心理的欲望なのではないでしょうか。そのとき継続したいという欲望があります。私たちはここで、継続があるのかないのかについては、議論していません。私たちは、信じようとする駆り立て、常なる衝動について議論しているだけです。平和の人、ほんとうに人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできないのではないでしょうか。彼は自分の欲望が、安全であるための手段としている働いているのがわかります。どうか反対側へ行って、私が無宗教を説いていると言わないでください。それはそもそも私の論点ではありません。私の論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争いがあるにちがいない、葛藤・抗争があるにちがいない、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということです-それは日常、見られます。それで私が、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、私があれかこれかを信じるべきであるということではなくて、私が安全でありたいという欲望から自由になるべきであるということです。精神は、安全への欲望から自由でありうるでしょうか。それが問題です-何を信じるべきか、どのくらい信じるべきかではありません。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ

57避難民のマジレスさん:2020/07/09(木) 19:39:56 ID:4q82KXfA0
くまめも1-6-3
欲望の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいない。なぜなら、明白にあなたは安全であるために信じているから。そのとき継続したいという欲望がある。平和の人、人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできない。彼は自分の欲望が、安全であるための手段として働いているのがわかる。論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争い、葛藤・抗争、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということ。それで、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、精神は、安全への欲望から自由でありうるか、何を、どのくらい信じるべきかではない。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎない。
(´・(ェ)・`)

58鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/09(木) 23:24:24 ID:1d4drIFg0
安全でありたいという欲望から人は信念に縋りつくというのじゃ。
そしてそれを継続したいという執着も生まれるのじゃ。
それから自由でなければならないのじゃ。
それらはただ苦を生み出すだけであるからのう。

59避難民のマジレスさん:2020/07/10(金) 21:22:52 ID:y27lq8Yo0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 4

 精神は、意識的精神は、人は、この安全でありたいという欲望から自由でありうるでしょうか。私たちは安全でありたいし、ゆえに私たちの地所、財産、家族の助力が要るのです。私たちは信念の壁を築くことによって内側で、また霊的 [・精神的] にも安全でありたいのです-それは、この確実でありたいという渇望の表示です。個人としてあなたは安全でありたいというこの衝動、この渇望-すなわち何かを信じたいという欲望に自ずと表現されるもの-から自由でありうるでしょうか。私たちはそのすべてから自由でないなら、私たちが争いの源です。私たちは平和をもたらしていません。私たちは心に愛を持っていないのです。信念は破壊します。そしてこれは私たちの日常の生で見られます。 私はこの欲望の過程-すなわち信念にすがりつくことにおいて自ずと表現されるもの-に捕らわれているとき、私自身が見えるでしょうか。精神は信念から自由になれる-その代用を見つけるのではなくて、それから全く自由でありうるでしょうか。あなたはこれに対して言葉の上で「はい」とか「いいえ」とか答えられません。しかし、あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せるのです。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至るのです。明白に、あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはありません。あなたのささいな小さなものごとを気をつけて見守り、あなたが誰に会うべきか、何をすべきか、どのようにそれをすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたいのです。これは子どもっぽい未熟な考えです。あなたは、偉大な父が私たちみんなを見守っていると考えます。それは、あなた自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎません。それは明白に真実ではありません。真理は何か全く違ったものであるにちがいありません。
 私たちの次の問題は知識のそれです。知識は真理の理解にとって必要でしょうか。「私は知っている」と私が言うとき、含まれている意味は知識があるということです。そういう精神は、何が真実なのかを究明し探し出す能力があるでしょうか。さらに、私たちが知っているのは何でしょうか-それを私たちはとても誇りに思っていますが。現実に私たちが知っているのは何でしょうか。私たちは情報は知っています。私たちは [情報と経験、すなわち] 、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちています。あなたは「私は知っている」と言うとき、どういう意味でしょうか。あなたが知っているという認知は、事実の [認識] 、一定の情報の認識であるか、それともあなたがしたことのある経験であるか、です。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成します。そしてあなたは自分の背景、欲望、経験に応じて、自分が読んだものを翻訳しはじめます。あなたの知識は、 [そこに] 欲望の過程と類似した過程が働いている [ところの]ものです。信念のかわりに私たちは知識を代用します。「私は知っている。私は経験をした。それは反論できない。私の経験はそれです。私は完全にそれを信頼する」-これらは知識の表示です。しかしあなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを、見つけるでしょう。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めているのです。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなるのです。
(´・(ェ)・`)つ

60避難民のマジレスさん:2020/07/10(金) 21:28:13 ID:y27lq8Yo0
くまめも1-6-4
人は、安全でありたいという欲望から自由でありうるか。安全でありたい故に信念の壁を築くことにより精神的にも安全でありたい。それは、確実でありたいという渇望の表示。
安全でありたいというこの渇望から自由でないなら、私たちが争いの源。私たちは平和をもたらしていない。私たちは心に愛を持っていない。信念は破壊する。あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せる。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至る。あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはない。あなたを気をつけて見守り、あなたが何をすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたい。これは子どもっぽい未熟な考え、自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎない。それは真実ではない。
 次の問題は知識。知識は真理の理解にとって必要か。私たちは情報は知っている。私たちは情報と経験、すなわち、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちている。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成する。あなたの知識は、欲望の過程と類似した過程が働いているもの。信念のかわりに私たちは知識を代用する。あなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを見つける。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めている。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなる。
(´・(ェ)・`)

61鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/10(金) 22:58:02 ID:1d4drIFg0
信仰や信念も突き詰めれば個人の好みの投影に過ぎないというのじゃ。
そうであるから真理ではないというのじゃ。
そして知識も記憶によるものであるから分離するものでしかないというのじゃ。
知識が増えれば理解する能力もなくなるというのじゃ。

62避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 19:52:49 ID:y3FE4rAQ0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 5

 あなたは今までにこの知識の取得の問題について [考えたことがあるのか] -知識は究極的に、私たちが愛するのを [助けてくれるのか] 、私たち自身に葛藤を [産み出し] 、私たちの隣人との抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのかについて、考えたことがあるのかどうか、私は知りません。なぜなら、野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つであるからです。私たちが互いに平和に生きようとするなら、確かに、野心は完全に終わりにならなければなりません-政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的 [・精神的] 野心も、です。精神が、この知識の蓄積する過程、この知りたいという欲望から自由であることは、いったい可能でしょうか。
 これら二つ、知識と信念が、私たちの生においていかにとてつもなく強力な役割を演じるかを見つめることは、とても興味深いことです。見てください、いかに私たちが、莫大な知識と学識を持つ人たちを崇拝するのかを!あなたはその意味が理解できるでしょうか。あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならないのではないでしょうか。それは何か新しいものが見える能力がなければなりません。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでにあなたに知られている情報すべて、あなたの知識すべて、あなたの過去の記憶すべてを持ち込みます。そして明白にあなたは、新しいもの、古いものからではないものを見る能力、受け取る能力が何もなくなるのです。どうか即時にこれを細部へと翻訳しないでください。私は自宅にどう戻るのかを知らなければ、迷ってしまうでしょう。私は機械をどう動かすのかを知らなければ、ほとんど役に立たないでしょう。それは全く異なったことです。私たちはここでそれについて議論しているわけではありません。私たちは、安全への手段として使われる知識、何ものかでありたいという心理的、内側の願望について、議論しているのです。あなたは知識をとおして何を得るのでしょうか。知識の権威、知識の重み、重要性 [・尊大さ] 、威厳の感覚、生命力 [・活力] の感覚、等々でしょうか。「私は知っている」とか「ある」とか「ない」とか言う人は、確かに、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまったのです。
 そのとき、私たちの問題は、私が見るところ、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということです。そして精神が昨日から [自由で] 、昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能でしょうか。あなたは質問を理解していますか。個人としての私が、個人としてのあなたがこの社会に生きて、それでも私たちが育てられてきた信念から自由であることは、可能でしょうか。精神がそのすべての知識、そのすべての権威から自由であることは可能でしょうか。私たちは色々な聖典、宗教書を読みます。そこには何をすべきか、何をすべきでないか、どのようにして目標に到達すべきか、目標は何であるか、神は何であるかが、よく気をつけて叙述されています。あなたたちは皆それを暗記して知っているし、それを追求してきたのです。それが、あなたの知識です。それが、あなたが取得してきた [もの・] ことです。それが、あなたが学んできた [もの・] ことです。その道に沿って、あなたは追求します。明白に、あなたは自分が追求し求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真実でしょうか。それはあなた自身の知識の投影ではないでしょうか。それは真実ではありません。それを「今」-明日ではなくて今-悟り、「私はそれの真理がわかる」と言い、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の [過程] 、投影の過程により損なわれないということは、可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

63避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 19:53:57 ID:y3FE4rAQ0
くまめも1-6-5
知識の取得の問題
知識は究極的に、私たちが愛するのを助けてくれるのか、私たち自身に葛藤、抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのか。野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つである。
私たちが互いに平和に生きようとするなら、野心は完全に終わりにならなければならない。政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的・精神的野心も。
精神が、この知識の蓄積する過程から自由であることは可能か。
あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならない。それは新しいものが見える能力がなければならない。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでに知られている情報、知識、過去の記憶すべてを持ち込む。そして、新しいものを見る能力、受け取る能力がなくなる。 
あなたは知識をとおして何を得るのか。「私は知っている」とか言う人は、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまった。
私たちの問題は、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということ。そして精神が昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能か。精神がそのすべての知識、すべての権威から自由であることは可能か。
色々な聖典、宗教書を読み、その道に沿って、あなたは追求し、自分が求めるものを見つけるでしょう。それはあなた自身の知識の投影。それは真実ではない。それを「今」悟り、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の、投影の過程により損なわれないということは、可能か。
(´・(ェ)・`)

64避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 23:14:50 ID:b/R.LjPg0
.
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   / .|( ・∀・)_
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65鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/11(土) 23:21:22 ID:1d4drIFg0
世間では知識が信奉され、知識を多く持つ者が尊敬されているのじゃ。
しかし、知識は逆に束縛にもなっているのじゃ。
知識のせいで新しいものに気付けないのじゃ。
何か新しいものを見つけたと思っても実は知識の投影でしかないものであったりするのじゃ。

66避難民のマジレスさん:2020/07/11(土) 23:23:54 ID:b/R.LjPg0
>>65
お前みたいな馬鹿よりはましだろw

67避難民のマジレスさん:2020/07/12(日) 22:07:23 ID:0xIm3.lY0
最初と最後の自由  第一部
   第六章 信念 6
 精神は信念から自由である能力があるでしょうか。あなたをそれにすがりつかせ、あなたに信じさせる原因の内側の本性を [理解する] -意識的な [動機] だけでなく、また無意識的な動機をも-理解するとき、あなたはそれから自由でありうるだけです。結局、私たちはたんに、意識的な水準で機能している表面的な実体ではないのです。私たちは無意識的な精神に機会を与えるなら、より深い意識的、無意識的活動を見出せるのです。なぜなら、それは意識的精神よりも応答がはるかに速いからです。あなたの意識的精神が静かに考え、聴き、見守っている間、無意識的精神は、はるかに活動的で、はるかに鋭敏で、はるかに受容性があるのです。ゆえにそれは答えを得られるのです。信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神、そういう精神は自由に考えることができるでしょうか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるでしょうか。どうか、信念は人々を [一つに] まとめると言わないでください。そうなりません。それは明白です。どんな組織化された宗教も、今までそうしたことはないのです。あなた自身の国のあなたたち自身を見てください。あなたたちは皆、信じる者です。しかしあなたたちは皆、 [一つに] まとまっているでしょうか。あなたたちは皆、 [一つに] 統合されているでしょうか。あなたたち自身がそうではないことを知っています。あなたたちはこんなに多くの些細な小さな党派、カ-ストに分割されています。無数の分割を知っています。過程は-東洋でも西洋でも-世界中で全く同じです。キリスト教徒はキリスト教徒を破壊し、些細な小さなものごとのために互いに殺し合い、人々を軍隊生活など、戦争の恐怖全体に駆り立てています。ゆえに信念は人々を [一つに] 統合しません。それはこんなに明らかです。それが明らかであり、それが真実であるなら、そしてあなたはそれがわかるなら、そのとき、それに付いていかなければなりません。しかし困難は、わたしたちのほとんどが [そのことが] わからないということです。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないからです。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しいのです-それが国家であろうと、カ-ストであろうと、 [国家主義・] 民族主義であろうと、大師や救い主や他の何であろうと、です。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる [能力がある] -それは一時的に瞬間であるかもしれませんが-能力があるのです。たとえ、それ [真理] がそれ [精神] にとって耐えられないときでさえ、それ [精神] は戻って行くのです。しかし一時的にわかることで充分です。あなたがそれを束の間の瞬間、わかるなら、それで十分です。なぜなら、あなたはそのとき、とてつもないことが起きていることがわかるでしょうからです。意識が拒絶するとしても、無意識が働いています。それは前進の瞬間ではありません。しかしその瞬間が唯一のものです。たとえ意識的な精神がそれに対して格闘するにもかかわらず、それはそれ自体の結果を持つでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

68避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 00:55:00 ID:b/R.LjPg0
>>65
で、阿頼耶識は現量だろ?

で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?

で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?

69避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 18:53:29 ID:8yt0vhog0
くまめも1-6-6
精神は信念から自由である能力があるか。あなたをそれにすがりつかせ、信じさせる原因を理解するとき、意識的無意識的な動機を理解するときだけ、それから自由でありうる。
信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神は自由に考えることができるか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるか。信念は人々を一つに統合しない。それが真実であり、そしてあなたはそれがわかるなら、それに付いていかなければならない。しかし困難は、わたしたちのほとんどがそのことがわからないということ。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないから。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しい。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる能力がある。意識が拒絶しても、無意識が働いている。それは前進の瞬間ではない。しかしその瞬間が唯一のもの。
(´・(ェ)・`)

70ウンコマン:2020/07/13(月) 19:19:43 ID:b/R.LjPg0
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71避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 20:23:10 ID:I6SFs6uk0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 7

 そこで私たちの疑問は-「精神が知識と信念から自由であることは可能でしょうか」かです。精神は知識と信念から作り上げられていないでしょうか。精神の構造は信念と知識ではないでしょうか。信念と知識は認識の過程、精神の中心です。過程は閉鎖的です。過程は意識的とともに無意識的です。精神はそれ自身の構造から自由でありうるでしょうか。精神は無くなりうるでしょうか。それが問題です。私たちが知っているような精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っています。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はありえません。あなたは平和について話をするかもしれません。あなたは政党を組織するかもしれません。あなたは屋上から [大声で] 叫ぶかもしれません。しかしあなたは平和を持てません。なぜなら、精神には、矛盾を造り出し、孤立させ分離させる基礎そのものがあるからです。平和の人、熱意の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできません。それはただ政治的、宗教的なゲ-ム、達成と野心の感覚です。これについてほんとうに熱心であり、発見したいと思う人は、知識と信念の問題に向き合わなければなりません。彼はその裏に行き、欲望-安全でありたいという欲望、確実でありたいという欲望-の過程全体が働いているのを、発見しなければなりません。
 新しいものが-真理であっても神であっても何であっても、それが-起こりうる状態にあるであろう精神は、確かに、取得すること、集めることを止めなければなりません。それは知識すべてを脇に置かなければなりません。知識の重荷を負った精神は確かに、真実であり、測ることのできないものを、とうてい理解できません。
(´・(ェ)・`)つ

72避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 20:58:53 ID:I6SFs6uk0
くまめも1-6-7
そこで私たちの疑問は-精神が知識と信念から自由であることは可能か。精神は知識と信念から作り上げられている。信念と知識は認識の過程、精神の中心。過程は閉鎖的。過程は意識的とともに無意識的。精神はそれ自身の構造から自由でありうるか。精神は無くなりうるか。精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っている。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はない。平和の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできない。それはただ政治的、宗教的なゲ-ム。
新しいものが起こりうる状態にあるであろう精神は、取得すること、集めることを止め、知識すべてを脇に置かなければならない。知識の重荷を負った精神は、真実であり、測ることのできないものを理解できない。
(´・(ェ)・`)

73ウンコマン:2020/07/13(月) 21:55:46 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
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  // |   ヽ/   糞スレって聞いて来たよ?
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74鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/13(月) 22:49:03 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの言う精神とは、オショーの言うマインドと同じようなものじゃな。
それは知識と信念の集まりに過ぎないのじゃ。
既に記憶され知っている事が知識であり、まだしらないものごとを信念に拠って補っているのじゃ。
精神は知識の重荷を背負っている故に、真実であり、測る事のできないものを理解できないのじゃ。

75避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 22:50:21 ID:b/R.LjPg0
>>74
で、阿頼耶識は現量だろ?

で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?

で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?

76避難民のマジレスさん:2020/07/14(火) 19:42:18 ID:AToV857o0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 1
 私たちのほとんどにとって、私たちの生全体は努力に、何らかの種類の意志 [力] に基づいています。私たちは意志なき、努力なき行動を考えつくことはできません。私たちの生はそれに基づいています。私たちの社会的、経済的、いわゆる霊的 [・精神的] な生は一連の努力であり、いつも一定の結果に到達するのです。そして私たちは努力は本質的 [・不可欠] で必要であると思うのです。
 なぜ私たちは努力をするのでしょうか。それは単純に言うと、結果を達成し、何ものかになり、目標に達するためではないでしょうか。私たちは努力をしなければ、沈滞するであろうと思うのです。私たちは、それに向かって常に奮闘している [ところの] 目標について、観念を持っています。そしてこの奮闘が私たちの生の一部分になってしまったのです。私たちは自分たち自身を改めたいなら、自分たち自身に根本的変化をもたらしたいなら、古い習慣を除去しよう、習慣的、環境的影響などに抵抗しようと、ものすごい努力をします。それで私たちは、何かを見つけたり達成したりするため、そもそも生きるためのこの努力の連続に、慣れているのです。
 そういう努力すべては自己の活動ではないでしょうか。努力は自己中心的な活動ではないでしょうか。私たちが自己の中心から努力をするなら、それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、もっと多くの混乱、もっと多くの悲惨を産み出すにちがいありません。それでも私たちは努力に次ぐ努力をしつづけるのです。私たちのほとんどは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をもきれいにかたづけないということを、悟っていません。反対に、それは私たちの混乱と悲惨と悲しみを増大させるのです。私たちはこれを知っています。それでも私たちは、何とかこの自己中心的な努力の活動を、意志の行動を突き破りたいと願いつづけるのです。
 私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろうと、私は思います。幸せは努力をとおして来るでしょうか。あなたは今までに幸せであろうとしたことがあるでしょうか。それは不可能なのではないでしょうか。あなたは幸せであろうと格闘しますが、幸せはないのではないでしょうか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ません。あなたは耽溺するかもしれませんが、終わりに苦さがあるのです。あなたは抑圧したり制御したりするかもしれませんが、いつも隠れたところに闘争があるのです。ゆえに幸せは努力をとおして来ないし、また喜びも制御と抑圧をとおして来ないのです。にもかかわらず私たちの生すべてが一連の抑圧、一連の制御、一連の後悔に満ちた耽溺です。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの常に圧倒される、常なる格闘もあるのです。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をするのではないでしょうか。けれども愛や理解は闘争によって訪れるでしょうか。私たちのいう格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、とても重要であると、私は思います。
 努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味ではないでしょうか。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘しています。またはあるがままから逃げようとしたり、 [それを] 変容させたり修正したりしようとしています。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人です。それが真の満足です。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに [関係しているの] ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係しているのです。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識するとき、それに気づくときだけ、訪れうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

77避難民のマジレスさん:2020/07/14(火) 19:42:59 ID:AToV857o0
くまめも1-7-1
努力すべては自己中心的な活動。それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、混乱、悲惨を産み出す。私たちは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をかたづけないということを、悟っていない。反対に、それは混乱と悲惨と悲しみを増大させる。
 私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろう。幸せは努力をとおして来るか。あなたは幸せであろうと格闘するが、幸せはないのではないか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ない。耽溺→終わりに苦さ、抑圧、制御→隠れたところに闘争がある。私たちの生すべてが一連の抑圧、制御、後悔に満ちた耽溺。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの、常なる格闘もある。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をする。けれども愛や理解は闘争によって訪れない。格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、重要。
努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘する。またはあるがままから逃げよう、変容させたり修正したりしようとする。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人。それが真の満足。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係している。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識、気づくときだけ、訪れうる。
(´・(ェ)・`)

78鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/14(火) 23:08:24 ID:1d4drIFg0
>>75 わしは既に名誉欲など無いから武勇伝を語る気もないが、そんなに知りたいならば教えてやるのじゃ。
 臨済宗の者は阿頼耶識は現量等という学者の妄想を真に受けてわしに注意されたのじゃ。
 すると臨済宗の者は学者の本に書いてあるとか反論したが、それがどのように書いてあるのか証拠となる文を一行も引用できずに逃げ去ったのじゃ。
 わしに一言も反論できず、泣き喚き、負け惜しみを述べ消えたのじゃ。

 臨済宗の者が僧侶でも無いのに僧侶と名乗るのはやはり金のためじゃろう。
 達磨一人の伝法では出家できず、明治の廃仏毀釈では仏教を捨てたのに葬式商売の金が欲しさに僧と名乗っているのじゃ。

 上記の如く臨済宗の者は証拠となる文の一行すら書けずに論破されてしまったが、宗教板を去るという約束も守らないのじゃ。
 以前には論破されたら腹を切るとか言いながら、自分で自分を論破したが、やはり腹を切ることはなかったのじゃ。
 
 以上の如く臨済宗の者は大悟徹底したわしに悉く論破され、僧侶でもないのに僧侶と嘘をつき、約束も守らないとわかったじゃろう。
 みんな騙されないようにするのじゃ。

79鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/14(火) 23:25:12 ID:1d4drIFg0
努力の全てがいかんのではないのじゃ。
食べるための努力は必要なのじゃ。
逃避や快楽を求める努力が混乱と悲惨を生み出すのじゃ。
それらを止めてあるがままの今ここに気付くことが解放なのじゃ。

80避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 13:44:54 ID:b/R.LjPg0
>>78
嘘つくなよ?
ちゃんと根拠は出してるぞ?


阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg

81避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 22:38:23 ID:1ImQedTk0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 2

 それで私たちは、努力とは、あるがままのものを、何かあなたがあって欲しいと願うものに変容させようとする闘争や格闘であることが、わかるのです。私は、純粋に技術的である工学や何かの発見や変容のように物理的な問題との格闘 [について] ではなく、心理的な格闘について話しているだけです。私は、心理的であり、いつも技術的なものに打ち勝つその格闘について、話しているだけです。あなたは、科学が私たちに与えてくれた無限の知識を使って、大いに注意を払ってすばらしい社会を築くかもしれません。しかし心理的闘争と格闘と戦いが理解されず、心理的響きと流れに打ち勝たないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、何度も繰り返し起きてきたように、必ず潰れてしまうのです。
 努力はあるがままからの逸脱です。私があるがままを受け入れた瞬間、格闘はないのです。どんな形の格闘や闘争も、逸脱の表示です。そして心理的に、私があるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在するにちがいありません。
 初めに私たちは、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければなりません。創造は努力をとおしてあるのでしょうか。それとも創造は、努力の止むことをもってだけあるのでしょうか。あなたはいつ、書いたり、描いたり、歌ったりするのでしょうか。あなたはいつ、創造するのでしょうか。確かに、努力がないとき、あなたが完全に開いているとき、すべての水準で、あなたが完全な疎通 [の状態] にあり、完全に統合 [融和] しているときです。そのとき喜びがあるし、そのときあなたは歌ったり詩を書いたり絵を描いたり何かを作ったりしはじめのです。創造の瞬間は格闘から生まれません。
 おそらく私たちは創造性の問題を理解するなかで、私たちのいう努力とはどういう意味なのかを理解することができるでしょう。創造性は努力から出てきたものでしょうか。そして私たちは、自分たちが創造的であるそれらの瞬間において気づいているでしょうか。それとも創造性は、全くの自己忘却の感覚 [でしょうか] 、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚でしょうか。その状態は、苦労の [結果] 、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果でしょうか。あなたは何かをたやすくすばやくするとき、努力がなく、完全な格闘の欠如があるということに、今までに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。しかし私たちの生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、私たちは、 [そこにおいて] 闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できないのです。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければなりません。私たちのいう努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味なのではないでしょうか。私はこれです。私はあれになりたい。私はあれではない。あれにならなければならない。「あれ」になるなかに、闘争があり、戦い、葛藤、格闘があるのです。この格闘において私たちは必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心があるのです。私たちは対象に、人物に、観念に自己の充実 [・自己実現] を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求するのです。それで私たちはこの努力を必然的と受け取ったのです。それは-この何ものかになろうとする格闘は、必然的なのかどうか疑わしいと、私は思います。なぜこの格闘があるのでしょうか。どんな程度でも、どんな水準でも、充実への欲望があるところ、格闘があるにちがいありません。充実が、努力の裏の動機、推進力です。偉い経営者にも主婦にも貧しい人にも、このなろうとする [戦い] 、充実しようとする戦いが続いているのです。
(´・(ェ)・`)つ

82鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/15(水) 22:41:43 ID:1d4drIFg0
>>80 臨済宗の者は世親が阿頼耶識は現量と書いたチベットからの翻訳文があるとか嘯いて、実際には一行も引用できなかったのじゃ。
 嘘を書き、それが暴かれると別の本を晒して詭弁を弄するのみなのじゃ。
 ありもしない伝統にしがみ付いてお釈迦様の禁じた葬式商売に励む者はわしのように正しく大悟徹底した者には到底敵わないのじゃ。

83避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 22:47:35 ID:1ImQedTk0
くまめも1-7-2
努力とは、あるがままのものを、あって欲しいと願うものに変容させようとする格闘。心理的格闘が理解されないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、必ず潰れてしまう。
 努力はあるがままからの逸脱。あるがままを受け入れた瞬間、格闘はない。そして心理的に、あるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在する。
 初めに、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければならない。
 おそらく創造性の問題を理解するなかで、努力の意味を理解できる。創造的である瞬間は、全くの自己忘却の感覚、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚。その状態は、苦労の、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果ではない。生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できない。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければならない。努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味。この格闘において必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心がある。対象に、自己の充実・自己実現を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求する。充実への欲望があるところ、格闘がある。充実が、努力の裏の動機、推進力。誰にもこのなろうとする戦い、充実しようとする戦いが続いている。
(´・(ェ)・`)

84避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 22:58:36 ID:b/R.LjPg0
>>82
wwwwwwwwwwwwwww

ぶぁ〜〜かw

そのすべてが現量についての説明だよ。。

読んでも分らないからって人のせいにするなよwww

85鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/15(水) 23:42:42 ID:1d4drIFg0
↑それが臨済宗の詭弁じゃな。
 おぬしはその主張を肯定するチベット語から翻訳した世親の文があると嘯いたのじゃ。
 しかし、今に至るまでそれを一行も書いていないのじゃ。
 引用は商業出版でさえ認められているのにおかしなことじゃ。
 チベット語からの翻訳は一体どこに行ったのじゃ?

 どうせわしには完全に論破されると思って逃げ回っているのじゃろう
 論破ありきで逃げていてはいつまでも無知なまま学者や性質の悪い老婆に騙されている人生なのじゃ。
 腹を切ってから出直すと善いのじゃ。

86鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/15(水) 23:48:21 ID:1d4drIFg0
どんな努力も格闘も無い状態、それをあるがままの状態というのじゃ。
努力無しに開放されているとき、喜びがあり、真の創造があるというのじゃ。
そうでなければ全ては繰り返しであり、何かにならねばならないという葛藤があるのじゃ。
それはありのままであることを受け容れてないからなのじゃ。

87避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 23:49:21 ID:b/R.LjPg0
>>85
書いてあることを書いてないとか云うのはキチガイだなwww

88避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 23:58:24 ID:b/R.LjPg0
瞬殺されたことを認めたくないからって、書いてあることを書いてないとか云うとか、人間として終わってるよ。

89避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 00:01:19 ID:b/R.LjPg0
仕舞いには写メで送った資料もそんなものは送られてないとか言い出すんだろ?

www

90避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 21:18:27 ID:y0myHUlI0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 3

 では、なぜ自己を充実させたいという欲望があるのでしょうか。明白に、充実したい、何ものかになりたいという欲望は、 [無である・] 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じるのです。私は何ものでもない [・無である] から、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘するのです。外側でも内側でも、私は人物やものごとや観念において自己を充実させようと格闘するのです。その空虚を充たすことが、私たちの存在の過程全体です。私たちは、空っぽで、内側で貧しいことに気づくと、外部に物を集めたり、内側の豊かさ [・富] を育成したりしようと格闘するのです。行動をとおし、観想をとおし、取得をとおし、達成をとおし、力などをとおして、その内側の空虚からの逃避があるときだけ、努力があるのです。それが私たちの日常の存在です。私は自分の不十分さ、自分の内側の貧しさに気づきます。そして私はそれから逃げ出そう、またはそれを充たそうと格闘します。この逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴うのです。
 そこで逃げ出そうとする努力をしないなら、何が起きるでしょうか。その寂しさ、その空っぽとともに生きます。そしてその空っぽを受け入れるなかで、闘争、努力とは何の関わりもない創造的状態が来るということを、見つけるでしょう。私たちがその内側の寂しさ、空っぽを避けようとしているかぎり、努力は存在しているのです。しかし私たちはそれを見つめ、それを観察するとき、あるがままを避けずに受け入れるとき、闘争すべてが止む存在の状態が来ることを見つけるでしょう。その存在の状態が創造性です。それは闘争の結果ではありません。
 しかしあるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さ- [について] の理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれるのです。
 ゆえに私たちが知っているような行動は、ほんとうは反動であり、絶えざるなりゆき、すなわちあるがままの否定、回避なのです。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがまま [について] の理解に行動があるし、この行動が創造的存在です。あなたは行動においてあなた自身に気づくなら、これを理解するでしょう。あなたが行動しているままにあなた自身を観察してください。外側だけではなく、またあなたの思考と感情の動きをも見てください。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程-すなわち感情と行動でもあるもの-が、なるという観念に基づいていることがわかるでしょう。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来るのです。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかるでしょう。これがなろうとする努力です。なることはあるがままの直接的回避です。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、あなたは、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つけるでしょう。あなたが、とてつもない平静、組み立てられ、作り上げられていない平静、あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、あなたが内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそなのです。その平静の状態においてだけ、創造的存在があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

91避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 21:43:47 ID:y0myHUlI0
くまめも1-7-3
なぜ自己を充実させたいという欲望があるのか。何ものかになりたいという欲望は、 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じる。私は何ものでもない ・無であるから、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘する。外側でも内側でも、自己を充実させようと格闘する。その空虚を充たすことが、存在の過程全体。
逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴う。
あるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さの理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれる。
行動は、ほんとうは反動であり、あるがままの否定、回避。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがままについての理解に行動があるし、この行動が創造的存在。
あなたが行動しているままにあなた自身を観察しなさい。外側だけではなく、思考と感情の動きをも見なさい。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程が、なるという観念に基づいていることがわかる。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来る。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかる。なることはあるがままの直接的回避。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つける。あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそ。その平静の状態においてだけ、創造的存在がある。
(´・(ェ)・`)

92鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/16(木) 22:53:18 ID:1d4drIFg0
>>87 チベット語からの翻訳は何処に。

93鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/16(木) 22:57:23 ID:1d4drIFg0
内側が不十分で空っぽ貧しいという感覚は、孤独や恐れから起こるものじゃ。
それから逃れようとして努力するのじゃ。
それは逃避に過ぎないのじゃ。
逃避に拠って孤独や恐れがなくなることはないのじゃ。
孤独や恐れをありのままに認め観察する事で気付きが起こるのじゃ。
それによって孤独や恐れも消えるのじゃ。

94避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 14:03:14 ID:b/R.LjPg0
>>92
他スレで説明済

95避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 15:25:12 ID:b/R.LjPg0
面接官 「普段は何をされてますか?」

コジ  「はい、自宅でウンコを製造しております!」

www

96避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 21:13:36 ID:NgAX88aw0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 1

 私たちは自分たちのなかと自分たちのまわりに矛盾を見ます。私たちは矛盾 [の状態] にあるから、私たちのなかに、ゆえに私たちの外側に平和の欠如があるのです。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-があるのです。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらしません-それは単純な明白な事実です。この内側の矛盾は、何かの種類の哲学的二元論に翻訳されるべきではありません。なぜなら、それはとても安易な逃避であるからです。すなわち、矛盾は二元論の状態であると言うことにより、私たちはそれを解決してしまったと思うのです-それは明白にたんなる慣習、現実からの逃避に寄与するものにすぎないのです。
 そこで私たちのいう葛藤・抗争、矛盾とはどういう意味でしょうか。なぜ私には矛盾が-あるがままの私から離れた何ものかであろうとするこの常なる格闘が-あるのでしょうか。私はこれである。私はあれになりたい。この私たちにおける矛盾は事実です-形而上学的な二元論ではありません。形而上学は、あるがままを理解することにおいて何の意義もありません。私たちはたとえば二元論を、それは何なのか、それは存在するのかどうかなどについて議論するかもしれません。しかし私たちが自分たちに矛盾が-対立する欲望、対立する興味、対立する追求が-あることを知らなければ、それにどんな価値があるのでしょうか。私は善良でありたいが、そうあることができない。私たちのこの矛盾、この対立は理解されなければなりません。なぜなら、それは葛藤・抗争を造り出すからです。そして葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できません。私たちがおかれた状態について明確でありましょう。矛盾があります。それで格闘があるにちがいありません。そして格闘は破壊、浪費です。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみ以外の何も産み出せません。私たちがこれを充分に理解し、ゆえに矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらすでしょう。
 問題はこうです。矛盾は破壊的で浪費的であることがわかると、私たち各自に矛盾があるのはなぜでしょうか。それを理解するには、私たちはさらにもう少し進まなければなりません。なぜ対立する欲望の感覚があるのでしょうか。私たちは自分たち自身のそれに-この矛盾、この欲しがることと欲しがらないことの感覚、何かを憶えていて、何か新しいものを見つけるためにそれを忘れようとすること-に気づいているかどうか、私は知りません。ただそれを見守ってください。それはとても単純でとても正常です。それは何かとてつもないものではありません。事実は矛盾があるということです。ではなぜこの矛盾は生じるのでしょうか。
 私たちのいう矛盾とはどういう意味でしょうか。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいないでしょうか。私は自分が永久的欲望を持っていると思います。私は自分自身に永久的欲望を位置づけます。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じます。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらします。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つ [という] ことがあるのです。では永久的欲望といったものがあるのでしょうか。確かに、欲望「すべて」が非永久的 [・無常] です-形而上学的にではなくて現実にです。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼るのです。そしてそれを得るとき、不満です。私は経営者になりたい、それから所有者に [なりたい] などなどです。この世 [・世界] においてだけでなく、いわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、です-教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆくのです。
(´・(ェ)・`)つ

97避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 21:20:19 ID:NgAX88aw0
くまめも1-8-1
私たちは矛盾の状態にあるから、私たちのなかに、外側に平和の欠如がある。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-がある。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらさない。この単純な明白な事実を哲学的二元論に翻訳するのでは安易な逃避。
なぜ私には矛盾があるのか。矛盾は葛藤、抗争を造り出す。葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できない。格闘は破壊、浪費。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみを産み出す。私たちがこれを充分に理解し、矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらす。
矛盾とはどういう意味か。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいる。自分が永久的欲望を持っている。自分自身に永久的欲望を位置づける。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じる。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらす。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つことがある。欲望すべてが非永久的・無常。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼る。そしてそれを得るとき、不満。私は経営者になりたい、それから所有者になりたいなどな。この世・世界においてだけでなく、いわゆる霊的・精神的世界においても、教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆく。
(´・(ェ)・`)

98鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/17(金) 22:56:36 ID:1d4drIFg0
理想の自分のイメージと今の自分には常に矛盾があるのじゃ。
理想の自分になりたいと努力することが葛藤を生むのじゃ。
理想の自分になったとしてもやはり時と共に失っていくのじゃ。
老病死は免れないからのう。

99避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 22:59:38 ID:b/R.LjPg0
阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg

100避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 09:29:08 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

101避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 21:44:08 ID:U9p6ScNE0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 2

 この常なるなりゆき、一つの状態に続いてもう一つに達することは、矛盾をもたらすのではないでしょうか。ゆえになぜ生を一つの永久的欲望としてではなくて、いつも互いに対立しあう [・反対しあう] 一連のはかない欲望として見ないのでしょうか。ゆえに精神は矛盾の状態になくてもいいのです。私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はありません。
 精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じるのです。すなわち精神が欲望すべてを動いてはかないものとして見るのではなくて、一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする-そのとき他の欲望が生じる、そのときだけ、矛盾があるのです。しかし欲望すべては、常なる動き [の状態] にあります。欲望の固定はありません。欲望に固定点はありません。しかし精神は固定点を確立します。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うからです。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤があるにちがいありません。あなたは到達したいのです。あなたは成功したいのです。あなたは、あなたの永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたいのです。ゆえにあなたは真理を求めていません。あなたは神を求めていません。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった体裁よく聞こえる言葉をおおいかぶせるのです。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼びます。最低点は飲酒です。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間にたいした違いはありません。社会的に、酒は悪いかもしれません。しかし満足への [願望] 、獲得への内側の願望のほうが、さらにもっと有害なのではないでしょうか。あなたはほんとうに真理を見つけたいなら、たんに言葉の水準でだけではなくて全く、極めて正直でなければなりません。あなたはとてつもなく明晰でなければなりません。あなたは進んで事実に向き合おうとしないなら、明晰でありえません。
 そこで何が私たち各自に矛盾をもたらすのでしょうか。確かにそれは、何ものかになりたいという願望なのではないでしょうか。私たちは皆何ものかになりたいのです-世間で成功したい、内側で結果を達成したいのです。私たちが時間という見地、達成という見地、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾があるにちがいありません。結局、精神は時間の産物です。思考は昨日に、過去に基づいています。思考が時間の領域の中で機能し、未来という [見地] 、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾があるにちがいありません。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないからです。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性があるのです。
 ゆえに私たちの考える過程全体を理解することが [本質的・] 不可欠なのではないでしょうか。というのは、私たちが矛盾を見つけるのは、そこであるからです。思考自体が矛盾になってしまったのです。なぜなら、私たちは自分たち自身の総合過程を理解してこなかったからです。そしてその理解は、私たちが自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能です-自分の思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに [気づくの] です-それは極めて困難です。そのときだけ、こんなに有害でこんなに苦痛なその矛盾の解消が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ

102避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 22:02:00 ID:U9p6ScNE0
くまめも1-8-2
私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はない。
精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じる。一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする、そのときだけ、矛盾がある。欲望に固定点はない。しかし精神は固定点を確立する。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うから。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤がある。あなたは到達したい。成功したい。永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたい。ゆえにあなたは真理を求めていない。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった言葉をおおいかぶせる。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼ぶ。最低点は飲酒。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間に違いはない。ほんとうに真理を見つけたいなら、極めて正直で、明晰でなければならない。
私たちは皆何ものかになりたい。私たちが時間、達成、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾がある。精神は時間の産物。思考は過去に基づいている。思考が時間の領域の中で機能し、未来という見地、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾がある。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないから。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性がある。
ゆえに考える過程全体を理解することが不可欠。というのは、矛盾を見つけるのは、そこであるから。思考自体が矛盾になってしまった。なぜなら、自分たち自身の総合過程を理解してないから。そしてその理解は、自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能。思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに気づく。そのとき、有害で苦痛なその矛盾の解消がある。
(´・(ェ)・`)

103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/18(土) 22:50:44 ID:1d4drIFg0
酒を求める欲も、神を求める欲も同じだというのじゃ。
それは満足だけを求めているからなのじゃ。
なにものかになりたいという願望に拠って矛盾があるというのじゃ。
そこには時間による制約があるからなのじゃ。む
それら全ての過程を全体として観察できれば全ての矛盾は消えるのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2020/07/19(日) 21:55:05 ID:lyY6c8gM0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 3

 私たちが心理的な結果を達成しようとしているかぎり、内側に安全を欲しがるかぎり、私たちの生には矛盾があるにちがいありません。私たちのほとんどはこの矛盾に気づいているとは、私は思いません。または私たちは気づいているとしても、そのほんとうの意義がわからないのです。反対に、矛盾は私たちに生きる弾み [・刺激] を与えてくれるのです。まさに摩擦の要素こそが、私たちに生きていることを感じさせてくれるのです。努力、矛盾の格闘が、私たちに生命力 [・活力] の感覚を与えてくれるのです。そういうわけで私たちは戦争を愛しているのです。そういうわけで私たちは挫折の戦いを楽しむのです。結果を達成したいという願望-すなわち心理的に安全でありたいという願望-があるかぎり、矛盾があるにちがいありません。そして矛盾があるところ、静かな精神はありえません。精神の静けさは、生の意義全体を理解するに [本質的・] 不可欠です。思考は決して平静ではありえません。思考-すなわち時間の産物-は、時間のないものを決して見つけられません。時間を超えているものを決して知ることはできません。まさに私たちの考えるということの本性こそが矛盾なのです。なぜなら、私たちはいつも過去や未来という見地に立って考えているからです。ゆえに私たちは決して現在を充分に認識し、充分に気づいていないのです。
 現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業です。なぜなら精神はごまかさずに直接的に事実に向き合う能力がないからです。思考は過去の産物ですし、ゆえに過去や未来という見地に立って考えられるだけです。それは現在の事実に完全に気づくことはできません。思考-すなわち過去の産物-が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけですし、そういう考えはもっと多くの矛盾 [を造り出し] ゆえに葛藤・抗争、悲惨、混乱を私たちのなかに、ゆえに私たちのまわりに造り出すだけです。
 矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければなりません。あなたが事実と直面しているとき、どうして選択がありうるでしょうか。確かに、思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実 [について] の理解は不可能になります。ゆえに自己認識が理解の始まりです。自己認識なしには、矛盾と葛藤 [・抗争] は継続するでしょう。自分自身の過程全体、総体を知るには、どんな熟練者もどんな権威も必要ではありません。権威の追求は恐れを生み育てるだけです。どんな熟練者もどんな専門家も私たちに、自己の過程をどう理解するのかを教えられません。それは自分自身で研究しなければなりません。あなたと私はそれについて話しをすることにより互いに助け合うことはできます。しかし誰も私たちのためにそれを解き明かせません。どんな専門家もどんな教師も、私たちのために [私たちに代わって] それを探検できません。私たちは私たちの関係において-ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づけるのです。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見するでしょう。観念はたんに象徴としての思考の凝結化です。そして象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらすのです。
 こうして思考の様式があるかぎり、矛盾は継続するでしょう。様式を [終わらせ] 、そのため矛盾を終わらせるには、自己認識がなければなりません。この自己の理解は、わずかな者のために取っておかれた過程ではありません。自己は、私たちの日常の話し、私たちの考え [方]と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきものです。私たちはあらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解されるということがわかるでしょう。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうる [ところの] あの精神の平静の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

105避難民のマジレスさん:2020/07/19(日) 22:01:47 ID:lyY6c8gM0
くまめも1-8-3
心理的な結果達成や内側の安全を欲しがるかぎり、生には矛盾がある。その矛盾は生きる刺激を与えてくれる。
精神の静けさは、生の意義全体を理解するに不可欠。思考は決して平静ではありえない。思考は、時間のないものを見つけられない。まさに考えるということの本性こそが矛盾。なぜなら、いつも過去や未来という見地に立って考えているから。ゆえに決して現在を充分に認識し、充分に気づいていない。
現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業。なぜなら精神は直接的に事実に向き合う能力がないから。思考が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけ。そういう考えはもっと多くの矛盾を造り出すだけ。
矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければならない。思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実についての理解は不可能。自己認識なしには、矛盾は継続する。自分自身の過程全体、総体を知るには、私たちの関係− ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づける。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見する。観念はたんに象徴としての思考の凝結化。象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらす。
思考の様式を終わらせ、矛盾を終わらせるには、自己認識が必要。自己は、日常の話し、考え方と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきもの。あらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解される。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうるところのあの精神の平静の可能性がある。
(´・(ェ)・`)

106鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/19(日) 22:54:14 ID:1d4drIFg0
安全への欲望は却って戦争を生み出すというのじゃ。
敵がいなくなれば安全であるからのう。
そのような欲は悲惨と混乱を生み出すのみなのじゃ。
今ここに気付いていることがそれから逃れる道なのじゃ。

107避難民のマジレスさん:2020/07/20(月) 22:55:20 ID:uLoVuJFE0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 1

 私たちのいう自己とはどういう意味なのか、知っているでしょうか。観念、記憶、結論、経験、色々な形の名づけることのできる、名づけることのできない意図、あろうとする、あるまいとする意識的な尽力、無意識の [蓄積された記憶]- 人種、集団、個人、氏族の-蓄積された記憶、行動において外部に投影されていても、美徳として霊的・精神的に投影されていても、です。そのすべての全体が、それ [自己という言葉]により私のいう意味です。このすべてを求める奮闘が自己です。それには競争、ありたいという願望が含まれています。その過程全体が自己です。そして私たちはそれに向き合うとき、それが邪悪なものであることを現実に知っています。私は「邪悪」という言葉を意図的に使っています。なぜなら自己は分割するからです。自己は自己閉鎖的です。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させす。私たちはこのすべてを知っています。また私たちは、自己がない [ときの] それらのとてつもない瞬間をも知っています-そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きるのです。
 経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要であるように、私には見えます。私たちは熱心であるなら、この経験の問題を理解すべきです。そこで私たちのいう経験とはどういう意味でしょうか。私たちはいつのときも経験をします-印象です。そして私たちはそれら印象を翻訳します。それらに応じて反応したり行動したりします。私たちは計算高くてずるい、などです。客観的に見られるものとそれに対する私たちの反応との間には、常なる相互作用が [あり] 、意識と、無意識の [諸々の] 記憶の間にも相互作用があるのです。
 私の [諸々の] 記憶に応じて、私は自分が見るどんなものにも、感じるどんなものにも反応します。私が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きているのではないでしょうか。何か見られるものへの反応、応答が経験です。私はあなたを見るとき、反応します。その反応に名づけることが経験です。私がその反応に名づけないなら、それは経験ではありません。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守ってください。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はありません。私はあなたを認識しないなら、どうしてあなたに会う [という] 経験ができるでしょうか。それは単純で正しく聞こえます。それは事実ではないでしょうか。すなわち、私は自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験をしたということをどうして知ることができるでしょうか。
 それから色々な願望の投影があります。私は保護されたい、内側に安全を得たいと願望します。あるいは大師、導師(グル)、教師、神を得たいと願望します。そして私は自分が投影したものを経験します。すなわち私は形を取った [願望] 、それに名をつけた願望を投影したのです。それにたいして反応するのです。それは私の投影です。それは私の命名です。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」「私は大師に会ったことがある」「私は大師に会ったことがない」と言わせるのです。あなたは、経験に名づける過程全体を知っています。願望が経験と呼ぶものなのではないでしょうか。
 私が精神の静寂を願望するとき、何が起きているでしょうか。何が起きるでしょうか。私は色んな理由のために、静寂な精神、静かな精神を持つことの重要性がわかります。なぜなら、ウパニシャッドがそう言ってきたし、宗教書がそう言ってきたし、聖者たちがそう言ってきたし、また時々私自身も静かであることがどんなに良いかを感じるからです。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるからです。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなにすてきか、どんなに楽しいかを感じるのです。願望は静寂を経験することです。私は静寂な精神を持ちたいのです。それで、「私はどうすればそれを得られるのか」と訊くのです。私は、あれこれの書物が瞑想について言うことと色々な形の修練を知っています。それで修練をとおして、私は静寂を経験しようと求めるのです。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立したのです。
(´・(ェ)・`)つ

108避難民のマジレスさん:2020/07/20(月) 23:00:41 ID:uLoVuJFE0
くまめも1-9-1
 観念、記憶、結論、経験、意図、無意識の蓄積された記憶。その全体が、自己の意味。このすべてを求める奮闘が自己。それには競争、願望が含まれる。その過程全体が自己。自己は邪悪。自己は分割するから。自己は自己閉鎖的。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させる。私たちは、自己がないときの瞬間をも知っている。そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きる。経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要。経験とはどういう意味か。経験する→その印象を翻訳する→それに応じて反応したり行動する。客観的に見られるものとそれに対する反応との間には相互作用があり、意識と無意識の記憶の間にも相互作用がある。記憶に応じて、自分が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きている。何か見られるものへの反応、応答が経験。その反応に名づけることが経験。その反応に名づけないなら、それは経験ではない。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守れ。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はない。自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験したと知れない。
願望の投影がある。保護されたい、内側に安全を得たいと願望する 自分が投影したものを経験する。すなわち形を取った願望、名をつけた願望を投影し、それにたいして反応する。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」と言わせる。
精神の静寂を願望するとき、何が起きるか。静寂な精神を持つことが重要。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるから。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなに楽しいかを感じる。願望は静寂を経験すること。私は、瞑想や修練をとおして、静寂を経験しようと求める。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立した。
(´・(ェ)・`)

109避難民のマジレスさん:2020/07/21(火) 20:00:37 ID:hp0r5VXk0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 2

 私は何が真理なのかを理解したいのです。それが私の願望、私のあこがれです。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が [後に] 続きます。なぜなら、私はそれについてたくさん読んできたからです。私は多くの人々がそれについて話すのを聞いてきました。宗教書はそれを叙述してきました。私はそのすべてが欲しいのです。何が起きるでしょうか。まさにそのほしがること、まさに願望が投影されるのです。そして私は経験します。なぜなら、その投影された状態を認識するからです。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばないでしょう。私はそれを認識するし、それを経験します。そしてその経験が自己、「私」に強さを与えるのではないでしょうか。それで自己は経験のなかに立てこもるのです。そのときあなたは、「私は知っている」、「大師は存在する」、「神はある」、「神はない」と言うのです。特定の政治体制が正しく、他のすべてはそうでないと、あなたは言うのです。
 それで経験はいつも「私」を強めているのです。あなたが経験のなかに立てこもるほど、ますます自己が強められるのです。このことの結果として、あなたは一定の性格の強さ、知識、信念の強さを持ちます-それを他の人たちに見せびらかすのです。なぜなら、あなたは彼らがあなたほど利口ではないことを知っているから、あなたは文筆 [の才能] や弁舌の才能を持っているし、ずるがしこいからです。自己がやはり作用しているから、それであなたの信念、あなたの大師たち、あなたのカ-スト、あなたの経済的体制はすべて孤立化の過程です。ゆえにそれらは争いをもたらすのです。あなたはそもそもこのことにおいて真剣または熱心であるなら、この [自己という] 中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければなりません。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならないのです。
 精神、自己が投影しないこと、願望しないこと、経験しないことは可能でしょうか。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかります。それでもそれらを肯定的行動と呼ぶのではないでしょうか。それが肯定的な生き方と呼ばれるものです。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定です。あなたはそれでいいのでしょうか。私たちは、あなたと私は個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるでしょうか。では何が自己の解消をもたらすのでしょうか。宗教 [的集団]と その他の集団は同一化を提供してきたのではないでしょうか。「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」 [ということ] が、彼らの言うことです。しかし確かに同一化もやはり自己の過程です。より大きなものは単に「私」の投影です-それを私は経験するし、ゆえにそれは私を強めるのです。
(´・(ェ)・`)つ

110避難民のマジレスさん:2020/07/21(火) 20:08:52 ID:hp0r5VXk0
くまめも1-9-2
何が真理なのかを理解したい。それが私の願望。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が後に続く。そして私は経験する。なぜなら、その投影された状態を認識するから。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばない。私はそれを認識するし、それを経験する。そしてその経験が自己、「私」に強さを与える。それで自己は経験のなかに立てこもる。そのときあなたは、「私は知っている」、と言う。
経験はいつも「私」を強めている。結果として、あなたは一定の性格、知識、信念の強さを持つ。それを他の人たちに見せびらかす。それであなたの信念はすべて孤立化の過程。ゆえにそれらは争いをもたらす。この自己という中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければならない。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならない。
 精神、自己が投影、願望、経験しないことは可能か。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかる。それでもそれらを肯定的行動、生き方と呼ばれる。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定。私たちは、個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるか。何が自己の解消をもたらすのか。宗教的集団は同一化を提供してきた「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」という。しかし同一化も自己の過程。より大きなものは単に「私」の投影。それを私は経験するし、それは私を強める。
(´・(ェ)・`)

111鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/21(火) 23:40:20 ID:1d4drIFg0
観念により自己はあり、それは記憶に支えられているのじゃ。
そして経験に拠って強められるというのじゃ。
そうであるから伝統的な行はむしろ自己を強める作用をしてしまうのじゃ。
行の経験やその結果として起こる神秘体験などの経験が積み重なっていくからなのじゃ。

112避難民のマジレスさん:2020/07/22(水) 21:05:48 ID:dinx1qu20
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 3

 色んな形の修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけです。私たちは自己を解消するであろう要素を見つけられるでしょうか。それともそれは間違った擬問でしょうか。それが、私たちが基本的に欲しいものです。私たちは、何か「私」を解消するものを、見つけたいのではないでしょうか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-があると、私たちは思います。しかしそれらのすべては同じ水準にあるのです。一つが他のものより勝れているわけではありません。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるからです。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるでしょうか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力です。それは破壊的な力です。そして私はそれを解消する仕方を見つけたいのです。あなたは自分自身にこう訊ねたことがあるにちがいありません-「私は、『私』がいつのときも機能し、私自身にだけでなく私のまわりの皆に対していつも心配、恐れ、挫折、絶望、悲惨をもたらしているのがわかる。その自己が部分的にではなく完全に解消されることは可能だろうか」と。私たちはその根に遡り、それを破壊できるでしょうか。それが真に機能する唯一の道なのではないでしょうか。私は部分的に智恵があるのではなく、統合された仕方で智恵があるようになりたいのです。私たちのほとんどは [色んな] 層において智恵があるのです-あなたはたぶん一つの仕方で、私は何か他の仕方で、です。あなたたちのうち或る者は営業の仕事に、他の或る者は事務の仕事に智恵がある、などです。人々は違った仕方で智恵があるのです。しかし私たちは統合的 [融和的] に智恵はないのです。統合的 [融和的] に智恵があるということは、自己を持っていないという意味です。それは可能でしょうか。
 自己が今完全に不在であることは可能でしょうか。あなたはそれが可能であることを知っています。必要な要素、要件は何でしょうか。それをもたらす要素は何でしょうか。私はそれを見つけられるでしょうか。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信しています。それで私は、 [そこにおいて] 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないでしょうか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることを必要とします-そのためそれはすり抜けてしまわないのです。私はとても熱心です-自己を解消したいのです。私はそう言うとき、自己を解消するのは可能であることを知っているます。「私はこれを解消したい」と言った瞬間、そこにはやはり自己 [について] の経験があるのです。それで自己は強められるのです。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのでしょうか。創造の状態はそもそも自己の経験ではないということがわかります。創造は [そこに] 自己がないときです。なぜなら、創造は知的ではなく、精神の [もの] ではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるからです。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、 [そこに] 創造が起こりうる状態にあることは可能でしょうか-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味です。問題はこれなのではないでしょうか。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験です。精神が認識しないことは可能でしょうか。それは、自己の経験である [静寂] 、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

113避難民のマジレスさん:2020/07/22(水) 21:13:00 ID:dinx1qu20
くまめも1-9-3
修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけ。自己を解消するであろう要素を見つけられるか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-がある。しかしそれらのすべては同じ水準にある。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるから。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力。破壊的な力。それを解消する仕方を見つけたい。統合された仕方で智恵があるようになりたい。
自己が今完全に不在であることは可能。必要な要素、要件は何か。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信している。それで私は、 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることが必要-そのためそれはすり抜けてしまわない。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのか。創造の状態はそもそも自己の経験ではない。創造は自己がないとき。なぜなら、創造は知的ではなく、精神のものではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるから。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、そこに創造が起こりうる状態にあることは可能か-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験。精神が認識しないことは可能か。それは、自己の経験である静寂、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけ。
(´・(ェ)・`)

114鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 00:06:03 ID:1d4drIFg0
どんな修練も信念も知識も自己を強めるだけというのじゃ。
それをする自分という観念が起こるからのう。
完全な静寂の時に自己は認識されないというのじゃ。
精神の働きも静まった境地にまで至ればそれも可能なのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:33:26 ID:b/R.LjPg0
>>114
おい!猿!

阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?

wwwww

116避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:36:02 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

またまたまたまた・・・・・ 馬鹿鬼は瞬殺されたなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

117避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:37:20 ID:b/R.LjPg0
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      〈 〈]  ゚,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´  キチガイだろwwww  
          :ヽ   :i |:     
             :/  :⊂ノ|:     wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

118避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 21:23:50 ID:tjv95wwU0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 4

 自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのでしょうか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的 [・精神的] 実体があるのでしょうか。私たちは [そういうものが] あると思うのではないでしょうか。ほとんどの宗教的な人たちは、そういう要素があると思うのです。唯物論者たちは言います-「自己が破壊されることは不可能である。それは政治的、経済的、社会的に条件づけられ抑制されうるだけである。私たちはそれを一定の様式の中にしっかりと抑えられるし、壊せる。ゆえにそれは高い生に、道徳的な生に導くように [することができる] 、何ごとにも邪魔しないで社会的様式に付いていくよう、たんに機械としてだけ機能するようにすることができる」と。それを、私たちは知っています。他の人たち、いわゆる宗教的な人たちがいます-私たちはそう呼ぶけれども、彼らはほんとうは宗教的ではありません-彼らは言います「基本的にそういう要素がある。私たちはそれと接触できるならなら、それが自己を解消するだろう」と。
 自己を解消するような要素はあるのでしょうか。どうか私たちが何をしているのかを、わかってください。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいるのです。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるだろうか、わかるでしょう。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思うのです。では、精神が構想できるようなものはあるのでしょうか。あるかもしれないし、ないかもしれません。それは論点ではありません。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験ではないでしょうか。あなたが信じているとき、それが現実に起きていることではないでしょうか。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程ではないでしょうか。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影したのです。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をするのです。そういう経験は自己を強めるだけです。ゆえにあなたは何をしたのでしょうか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけです。自己はやはりあるのです。なぜなら、あなたがそれを経験したからです。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動です-ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけです。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能しているのです。
(´・(ェ)・`)つ

119避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 22:19:53 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、

>一体となっている感情が
 阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。

>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
 平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?

ここで、現量の定義と照らし合わせると

  直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
  任運にして無分別なり
  諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
  境に任せてこれを縁ずる

上記とまさに合致してると思いますけどね。

上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。

120鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 23:06:01 ID:1d4drIFg0
自分から離れて自分を見たり、破壊できる実体はないというのじゃ。
破壊したと思ったらそれが自己なのじゃ。
そこにはまだ破壊する主体の観念が在るのじゃ。
違う名前をつけただけなのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 00:29:59 ID:MutNoc3w0
くまめも1-9-4
自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的・精神的実体があるのか。
 自己を解消するような要素はあるのか。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいる。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるか。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思う。では、精神が構想できるようなものはあるのか。あるかもしれないし、ないかもしれない。それは論点ではない。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験。あなたが信じているとき、それが現実に起きていること。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影した。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をする。そういう経験は自己を強めるだけ。ゆえにあなたは何をしたのか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけ。自己はやはりある。なぜなら、あなたがそれを経験したから。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動。ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけ。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能している。
(´・(ェ)・`)

122避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:43:32 ID:zr.JxX7M0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 5

 あなたは、自己の過程全体、ずるがしこい、とてつもない考案、智恵 [ がわかるとき]、同一化をとおし、美徳をとおし、経験をとおし、信念をとおし、知識をとおして、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき-精神がそれ自体が作った循環、檻のなかで動いていることがわかるとき、何が起きるでしょうか。あなたはそれに気づき、充分に認識するとき、そのときとてつもなく静かではないでしょうか-強制をとおしてではなく、どんな報賞をとおしてでもなく、どんな恐れをとおしてでもなく。あなたは、精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、あなたはそれを観察し、わかるとき、行動においてそれに完全に気づくとき、その地点に至るとき-イデオロギ-として、言葉としてではなく、投影された経験をとおしてではなくて、現実にその状態にあるとき-そのとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかるでしょう。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にあるのです。精神が創造していないとき、創造があるのです-それは認識できる過程ではありません。
 真実、真理は認識されるべきものではありません。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求-このすべては去らなければなりません。美徳の追求を意識している美徳の人は、決して真実を見つけられません。彼はとてもまともな人であるかもしれません。しかしそれは、真理の人、理解する人であるのとは全く異なっているのです。真理の人にとって、真理は生じたのです。美徳の人は正義の人です。正義の人は、何が真理なのかを決して理解できません。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから、彼は美徳を追求しているからです。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけです。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要なのです。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないでしょうし、すべての災いと悲惨の中心になるでしょう。しかしあなたと私が個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革であることを、私はあなたに保証します。愛は自己の[もの] ではありません。自己は愛を認識できません。「私は愛している」とあなたは言います。しかしそのとき、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はないのです。しかしあなたが愛を知るとき、自己はないのです。愛があるとき、自己はないのです。
(´・(ェ)・`)つ

123避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:47:01 ID:zr.JxX7M0
くまめも1-9-5
自己の過程全体、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき、そのときとてつもなく静かになる。精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、現実にその状態にあるとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかる。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にある。精神が創造していないとき、創造がある。それは認識できる過程ではない。
 真理は認識されるべきものではない。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求、このすべては去らなければならない。美徳の人、正義の人は、何が真理なのかを決して理解できない。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけ。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないし、すべての災いと悲惨の中心になる。しかし個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき愛が何であるかを知る。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革である。愛は自己のものではない。自己は愛を認識できない。「私は愛している」とあなたは言う。しかし、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はない。しかしあなたが愛を知るとき、自己はない。愛があるとき、自己はない。
(´・(ェ)・`)

124鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/24(金) 23:00:40 ID:1d4drIFg0
自己に気付いたならば静寂があるというのじゃ。
真理は認識されるものではなく、真理の人に生じるというのじゃ。
世界を変えられる心の改革とは自己を滅し、愛を知った時であるというのじゃ。
 愛がある時自己は無いからなのじゃ。
それは慈悲なのじゃ。

125避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 17:41:33 ID:b/R.LjPg0
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      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
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          :ヽ   :i |:     
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126避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 22:24:19 ID:oeQgDAXg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 1

  恐れとは何でしょうか。恐れは、何かとの関係においてだけ存在できるのです、[それだけが]孤立して存在できません。どうして私は死を恐れることができるでしょうか。どうして私は知らないものを恐れることができるでしょうか。私は知っているものだけを恐れることができるのです。私は死を恐れていると言うとき、ほんとうは、知らないもの-すなわち死-を恐れているのでしょうか。それとも知っているものを失うことを恐れているのでしょうか。私の恐れは、死についての [恐れ] ではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての [恐れ] です。私の恐れはいつも、知らないものと [の関係において]ではなく、知っているものとの関係においてあるのです。
そこで私の探究は[今や]、知っているものへの恐れ―すなわち私の家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れ-からどのようにして自由になるのか、です。恐れは良心から生じると、あなたは言うかも知れません。しかしあなたの良心は、あなたの条件付けにより形成されています。ですから良心はやはり、知っているものの結果です。私は何を知っているでしょうか。知識は、[せいぜい]観念を持つこと、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における [継続性の] ように、継続性の感覚を持つことです-それ以上ではないのです。観念は、記憶であり、経験の結果です-それは挑戦に対する応答です。私は知っているものを恐れています-それは、 [こういう意味です-] 私は人々やものごとや観念を失うことを恐れている。あるがままの自分を発見することを恐れている。途方に暮れることを恐れ [ている] 、失ってしまったり、獲得しなかったり、もはや楽しみを得られないとき生じるかもしれない苦痛を恐れている、という意味です。
 苦痛への恐れがあります。身体的苦痛は神経的応答ですが、心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じるのです。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるからです。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれるのです。すなわち、私は蓄積物、経験の束です-それらが、どんな深刻な形の動揺をも防いでくれるのです。そして私は動揺したくないのです。ゆえに私は、誰でもそれら[蓄積物]を動揺させる者を、恐れるのです。こうして私の恐れは、知っているものについて [の恐れ] です。私は物質的、心理的な蓄積物-私が苦痛をかわしたり、悲しみを防いだりする手段として集めてきたもの-を恐れています。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにあるのです。知識もまた苦痛を防ぐのを助けてくれます。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けてくれるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助けてくれるのです。そういうわけで私は自分の信念を失うことを恐れるのです―そういう信念の真実性について完全な知識や具体的証拠を持っていないにもかかわらず、です。私は自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれません。なぜなら私自身の経験が、私に強さ、確信、理解を与えてくれるからです。しかし、私が習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じものです―苦痛をかわす手段です。
(´・(ェ)・`)つ

127避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 22:28:45 ID:oeQgDAXg0
くまめも10-1
恐れは、何かとの関係においてだけ存在できる。孤立して存在できない。死を恐れること、知らないものを恐れることはできない。私は死を恐れていると言うとき、死についてのではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての恐れ。家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れからどのようにして自由になるのか。恐れは良心から生じるか。良心は、条件付けにより形成される、から良心は、知っているものの結果。知識は、観念、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における継続性の感覚を持つこと。観念は、記憶であり、経験の結果。それは挑戦に対する応答。私は知っているもの、人々やものごとや観念を失うこと、あるがままの自分を発見すること、途方に暮れること、失ってしまったり、獲得しなかったり、楽しみを得られないとき生じる苦痛を恐れている。
身体的苦痛は神経的応答。心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じる。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるから。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれる。私は蓄積物、経験の束。それらが、動揺を防いでくれる。そして動揺したくない。ゆえに誰でもそれら蓄積物を動揺させる者を、恐れる。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにある。知識もまた苦痛を防ぐのを助ける。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助ける。そういうわけで自分の信念を失うことを恐れる。自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれない。なぜなら自身の経験が、強さ、確信、理解を与えてくれるから。しかし、習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じもの。苦痛をかわす手段。
(´・(ェ)・`)

128鬼和尚:2020/07/26(日) 00:14:43 ID:1d4drIFg0
死の恐れとは家族や資産などを失う恐れというのじゃ。
誰もが死を忘れて死に無知になっているからのう。
その恐れからの逃避として知識や信念にすがるというのじゃ。
それは金や薬や酒や権力に執りつかれるのと同じなのじゃ。

129避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 00:18:08 ID:b/R.LjPg0
      _| ̄|_| ̄|  | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄|   | ̄|_| ̄|_| ̄|
      |_  _||  | ̄    |  |     |  | ̄   |  |     ̄|
       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
      〈 〈]  ゚,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´  キチガイだろwwww  
          :ヽ   :i |:     
             :/  :⊂ノ|:     wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

130避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 18:45:17 ID:6kL7WP160
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 2

  恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在しています-それ[蓄積 ] が、失うことへの恐れを造り出すのです。ゆえに知らないものへの恐れはほんとうは、蓄積された知っているものを失うことについての恐れです。蓄積はまちがいなく恐れを意味します―それ [ 恐れ]が今度は苦痛を意味します。それで「私は失ってはならない」と言った瞬間、恐れがあるのです。蓄積における私の意図は、苦痛をかわすことですが、苦痛は蓄積の過程において本来的にあるのです。まさに私の持っているものごとが、恐れを造り出すのです-それが苦痛です。
 防御の種が攻撃をもたらすのです。私は物理的[・身体的]な安全が欲しい。こうして私は主権[独立]政府を造り出します-それは武装した軍隊を必要とします-それは戦争を意味し、それは安全を破壊します。自己保護への願望があるところはどこでも、恐れがあります。安全を要求することの虚偽がわかるとき、私はもはや蓄積しません。それはわかるが、蓄積せざるを得ないと、あなたが言うなら、それは、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないからです。
  恐れは蓄積の過程に存在しています。そして何かへの信念は蓄積過程の一部です。私の息子が死にます。すると私は心理的にこれ以上の苦痛を持つのを防ぐために、輪廻転生を信じます。しかし、まさに信じる過程こそに、疑いがあるのです。外に向かって私は物を蓄積して戦争をもたらします。内に向かって私は信念を蓄積して苦痛をもたらします。私が安全でありたい、銀行預金、楽しみなどを持ちたいと思うかぎり、生理的または心理的に何ものかになりたいと思うかぎり、苦通があるにちがいありません。まさに私が苦痛をかわすためにしていることこそが、私に恐れ、苦痛をもたらすのです。
  恐れは、私が特定の様式のなかにいたいと願望するとき、生じます。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味です。私が特定の生き方を要求するとき、それ自体が恐れの源です。私の困難は、一定の枠のなかで生きたいという願望です。私はその枠を壊せないでしょうか。私は、真理 [がわかるとき] -枠が原因として恐れを引き起こしているということ、この恐れが枠を強めているということ-がわかるときだけ、そうできるのです。私は恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけです-それは [原因として] さらなる恐れを引き起こすでしょう。枠を壊したいという願望に基づいた私の方のどんな行動も、もう一つの様式を [造り出し] 、ゆえに恐れを造り出すだけでしょう。恐れを引き起こすことなく、すなわちそれ [枠] に関する私の方の意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきでしょうか。これは、私が行動してはならない、枠を壊すためのどんな動きもしてはならない、という意味です。私が枠について何もせずに単にそれを見ているとき、私に何が起きるでしょうか。精神自体が、枠、様式であることがわかるのです-それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きているのです。ゆえに精神自体が恐れです。精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行くのです。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味です。
(´・(ェ)・`)つ

131避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 18:49:48 ID:6kL7WP160
くまめも10-2
恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在する。蓄積が、失うことへの恐れを造り出す。蓄積における意図は、苦痛をかわすことだが、苦痛は蓄積の過程において本来的にある。防御の種が攻撃をもたらす。物理的・身体的な安全が欲しい。自己保護への願望があるところは、恐れがある。安全を要求することの虚偽がわかるとき、もはや蓄積しない。それはわかるが蓄積せざるを得ないと言うなら、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないから。
  恐れは蓄積の過程に存在する。何かへの信念は蓄積過程の一部。外に向かって物を蓄積して戦争をもたらし、内に向かって信念を蓄積して苦痛をもたらす。苦痛をかわすためにしていることが、恐れ、苦痛をもたらす。
恐れは、特定の様式(枠)のなかにいたいと願望するとき、生じる。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味。枠が原因として恐れを引き起こし、この恐れが枠を強めているという真理がわかるときだけ、枠を壊せる。恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけ。それはさらなる恐れを引き起こす。枠を壊したいという願望に基づいた行動も、もう一つの様式を造り出し、恐れを造り出すだけ。恐れを引き起こすことなく、すなわち枠に関する意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきか。枠について何もせずに単にそれを見ているとき、精神自体が、枠、様式であることがわかる。それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きている。ゆえに精神自体が恐れ.精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行く。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味。
(´・(ェ)・`)

132鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/26(日) 22:24:32 ID:1d4drIFg0
蓄積したものを失うことが恐れになるというのじゃ。
金でも知識でも蓄積してきたものを失うのが恐れになるのじゃ。
そもそも金とか知識も恐れからの逃避として蓄積してきたものなのじゃ。
恐れからの逃避として蓄積すれば、今度はそれが恐れを生む悪循環になるのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 10:27:58 ID:s99CdGwQ0
和尚様
井上義衍の縁者の松本自證老師は悟られているのでしょうか?
認識に問題があることを分かっている気がします。

http://zenmasterjinen.blog.jp/archives/19341423.html

134避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 21:34:00 ID:hdQ2/nGg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 3

恐れは様々な逃避を見つけます。普通の種類は同一化なのではないでしょうか-国との、社会との、観念との同一化です。あなたは軍隊の行進や宗教的行列など、行進[・行列]を見るとき、または祖国が侵略される危機にあるとき、自分がどのように反応するかに気づいたことはないでしょうか。あなたはそのとき祖国と、或る存在[神・人]と、イデオロギーと自分自身を同一化します。あなたは自分の子供、自分の妻、特定の形の行動や無行動と自分自身を同一化する他の時があります。同一化は[忘我の・]自分を忘れる過程です。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがあることを知っています。しかし何かもっと偉大なもの、何か価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避があるのではないでしょうか。私は「祖国」について話をするなら、一時的に自分自身を忘れるのではないでしょうか。私は神について何かを言えるなら、自分自身を忘れるのです。私が自分の家族、集団、特定の党派、一定のイデオロギーと自分自身を同一化できるなら、そのとき一時的な逃避があるのです。
 ゆえに 同一化は、一つの形の自己からの逃避です―まさに美徳が一つの形の自己からの逃避であるように、です。美徳を追求する人は、自己から逃避しているのです。彼は狭い精神を持っているのです。それは美徳のある精神ではありません。というのは美徳は、何か追求できないものであるからです。あなたは美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に、「私」に強さを与えるのです。恐れは、私たちのほとんどにとって、形は違っても共通していますが、いつも代用物を見つけるにちがいないし、ゆえに私たちの格闘を増加させるにちがいないのです。あなたは代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなるのです―あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができているのです。なぜならその裏には恐れがあるからです。
私たちは今、恐れとは何かを知っているでしょうか。それは、あるがままを受け入れないことではないでしょうか。私たちは「受け入れる」という言葉を理解しなければなりません。私はその言葉を、受け入れるために為される努力という意味で使っているわけではありません。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはありません。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込みます。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないことです。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私はどうして[それらを]越えてゆけるでしょうか。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるでしょうか。障害がないとき、なんととてつもない喜びがあるかを、私たちは知っています。あなたは、身体が完ぺきに健康であるとき、一定の喜び、幸福があることを知らないでしょうか。精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、一定の喜びを経験することを、知らないでしょうか。自己が不在であるとき、この状態を経験したことがないでしょうか。確かに私たちは皆 [経験したことが] あるのです。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめられるときだけ、理解と、自己からの自由があるのです。そして私は、願望-すなわちまさに思考の表現そのもの-から生まれた活動すべての過程全体を理解するときだけ、それができるのです-正当化せず、非難せず、抑圧せずに、です。というのは、思考は願望と異ならないからです。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の [諸々の] 制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知るでしょう。  
(´・(ェ)・`)つ

135避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 21:40:20 ID:hdQ2/nGg0
くまめも10-3
恐れは様々な逃避を見つける。国、社会、観念との同一化。同一化は忘我の過程。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがある。しかし何かもっと偉大なもの、価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避がある。ゆえに 同一化は、自己からの逃避。しかし、たとえば、美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に強さを与える。恐れは、いつも代用物を見つける。ゆえに格闘を増加させる。代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなる。あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができている。なぜならその裏には恐れがあるから。
恐れとは、あるがままを受け入れないこと。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはない。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込む。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないこと。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私は、それらを越えてゆけない。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるか。障害がないとき、精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、とてつもない喜びがある。自己が不在であるとき、この状態を経験する。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめるときだけ、理解と、自己からの自由がある。そして私は、願望から生まれた活動すべての過程全体を、正当化、非難、抑圧せずに理解するときだけ、それができる。というのは、思考は願望と異ならないから。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知る。
(´・(ェ)・`)

136鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/27(月) 23:08:57 ID:1d4drIFg0
>>133 悟っていないのじゃ。
 ハッキリしただけじゃな。
 それは悟りではないのじゃ。

137鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/27(月) 23:26:41 ID:1d4drIFg0
恐れから人は国家や組織と同一化するというのじゃ。
それは一時的に恐れを忘れさせてくれるが、更なる悲惨をもたらすものじゃ。
私という認識の主体がなければ喜びと、幸福が在るのじゃ。
それは自己からの認識全体が観られるとき、起こるものじゃ。

138避難民のマジレスさん:2020/07/28(火) 21:40:28 ID:9Bjm15Z60
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)1

 私は、単純さとは何であるかを議論したいと思います。するとおそらくそこから、感受性の発見にたどり着くでしょう。私たちは、単純さとはたんに外側の表現、退くことであると考えるように、見えます-わずかの所有物しかもたないこと、腰布を着けること、家を持たないこと、わずかの服しか身につけないこと、少ない銀行預金を持つこと [であると] 。確かにそれは単純さではありません。それはたんに外側の表示であるだけです。単純さは本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。しかし単純さは、私たちが自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうるのです。
 単純さは、たんに様式への適応だけではありません。単純であって、たとえどんなに外的に価値があっても、たんに特定の様式に順応しないことは、たいへんな智恵を必要とします。不幸にも私たちのほとんどは、外側のものごとにおいて外的に単純であることより始めます。わずかのものしか持たないこととわずかなもので満足することは、比較的にたやすいのです-ほんの少しで満足することと、おそらくそのほんの少しを他の人たちと分け合うことは、です。しかし、ものごと、所有物における単純さというたんなる外側の表現は、確かに内側の存在の単純さという意味を含んでいません。なぜなら、世界が現在そうであるように、外側から、外的にますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているからです。生はますます複雑になりつつあります。それから逃避するために、私たちは断念したり、ものごとから無執着であろうとします-車から、家から、組織から、映画から、そして外側から私たちに押しつけてくる無数の境遇から。私たちは退くことにより単純であるだろうと、考えます。非常に多くの聖者たち、非常に多くの教師たちは世界 [・世間] を放棄してきました。そして私たちの誰に関しても、そういう放棄は問題を解決しないように、私には見えます。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけです。そこから外側の表現があるのです。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題です。なぜなら、その単純さは [人を] ますます敏感にするからです。敏感な精神、敏感な心は本質的 [・不可欠] です。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるからです。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているのですが、それらを理解することによってだけ、確かに、内側で単純でありえます。しかし私たちのほとんどは囚われることが好きなのです-人々により、所有物により、観念により。私たちは囚人であることが好きなのです。私たちは外側ではとても単純であるように見えるけれども、内側では囚人です。内側では、私たちは自分たちの願望、欲、理想、無数の動機づけの囚人です。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられません。ゆえに、それは外側でではなく、内側で始まらなければなりません。
 信念の過程全体を [理解する] 、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由があります。信念からの自由があるとき、単純さがあります。しかしその単純さは智恵を必要とします。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければなりません。気づくには、思考や行動のどんな特定の溝、どんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければなりません。結局、内側で何であるかが、外的なものに影響を及ぼすのです。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影です。そして内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がありません。それは一定の改善、一定の適応をもたらすかもしれません。しかし内側で何であるかが、いつも外的なものに打ち勝つのです。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒するのです。
(´・(ェ)・`)つ

139避難民のマジレスさん:2020/07/28(火) 21:46:13 ID:9Bjm15Z60
くまめも11-1
単純さとはたんに外側の表現、退くことではない。単純さは不可欠。単純さは、自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうる。
単純さは、たんに様式への適応だけではない。たんなる外側の表現は、内側の存在の単純さという意味を含んでいない。なぜなら、外側から、ますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているから。生はますます複雑になりつつある。それから逃避するために、断念したり、無執着であろうとする。私たちは退くことにより単純であろうとする。そういう放棄は問題を解決しない。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけ。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題。なぜなら、単純さはますます敏感にするから。敏感な精神、心は不可欠。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるから。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているが、それらを理解することによってだけ、内側で単純でありえる。しかし私たちは人々、所有物、観念により、囚われることを好む。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられない。ゆえに、それは内側で始まらなければならない。
信念の過程全体を、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由がある。信念からの自由があるとき、単純さがある。その単純さは智恵を必要とする。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければならない。気づくには、思考や行動のどんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければならない。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影。内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がない。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒する。
(´・(ェ)・`)

140鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/29(水) 00:06:49 ID:1d4drIFg0
心の内側で単純であることは知覚を鋭敏にしてくれるというのじゃ。
執着や恐れを理解すれば単純にありえるというのじゃ。
信念への執着を理解する時、自由で単純になれるのじゃ。
そのようにして内側で変容することで真の改革はなされるのじゃ。

141避難民のマジレスさん:2020/07/29(水) 21:57:47 ID:IdZpVTSU0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)2

 ゆえに、中で始めなければなりません-排他的にではなく、外的なものを拒絶するのではありません。あなたは、外的なものを理解することにより、どうして外側に抗争、格闘、苦痛が存在するのかを見出すことにより、確かに、内的なものに至ります。それをますます究明するにつれて、自然に、外側の抗争と悲惨を生み出すところの心理状態に入るのです。外側の表現は、ただ私たちの内側の状態の表示であるだけです。しかし内側の状態を理解するには、外的なものをとおして接近しなければなりません。私たちのほとんどはそうします。内的なものを理解するなかで-排他的にではなく、外的なものを拒絶することによってではなく、外的なものを理解し、そして内的なものに思いがけず出会うことによって-私たちは、自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になるということを、見つけるでしょう。かくも本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さです。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すからです。敏感でなく、鋭敏でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もありません。私たち自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にするのです。政府により、自分自身により、達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つにちがいありません。外側では、あなたは順応して、とても多くの宗教的な人たちがするように単純さの外観を装うかもしれません。彼らは色んな修練を実践し、色んな組織に加入し、特定の流儀で瞑想をする、などです-すべてが単純さの外観を装っています。しかしそういう順応は単純さに役立ちません。どんな種類の強制も決して単純さに導けません。反対に、あなたは抑圧すればするほど、代用するほど、昇華するほど、ますます単純でなくなるのです。しかしあなたは昇華、抑圧、代用の過程を理解すればするほど、ますます単純である可能性が大きくなるのです。
 私たちはとてつもなく博識で利口になることによってではなく、単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑なのです。単純な人は、複雑な人よりはるかにもっと直接的に見えて、もっと直接的な経験をします。私たちの精神は、事実について、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、私たちは単純である [能力] 、私たち自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまったのです。これらの問題は、新しい接近法を要求します。そしてそれらは、私たちが単純で [あり] 、内側で本当に単純であるときだけ、そのように接近できるのです。その単純さは、ただ自己認識をとおし、私たち自身を理解することをとおしてだけ、訪れるのです。私たちの考え [方]と感じ方、私たちの思考の動き、私たちの応答 [を理解する] 。いかに私たちが恐れをとおして世論に、他の人たちが言うことに、ブッダやキリストや偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示しています- [を理解することをとおして、です] 。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはないのです。
(´・(ェ)・`)つ

142避難民のマジレスさん:2020/07/29(水) 22:01:47 ID:IdZpVTSU0
くまめも11-2
外側に抗争、格闘、苦痛が存在するわけを見出すことにより、内的なものに至る。自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になる。本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さ。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すから。敏感でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もない。自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にする。達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つ。抑圧、代用、昇華するほど、ますます単純でなくなる。しかし、昇華、抑圧、代用の過程を理解するほど、ますます単純である可能性が大きくなる。
私たちは単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑。私たちの精神は、事実、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、単純である [能力] 、自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまった。単純さは、ただ自己認識をとおしてだけ、訪れる。いかに私たちが恐れをとおして、世論に、他の人たちが言うことに、偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示している − を理解することをとおして。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはない。
(´・(ェ)・`)

143鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/29(水) 23:02:09 ID:1d4drIFg0
外側での抗争、格闘、苦痛が何故起こるのか探求すれば必然的に心の内側に原因があるとわかるというのじゃ。
外で起こることは全て心の内側の表現に過ぎないのじゃ。
全ては心で作られるのであるからのう。
仏陀やキリストの言葉でさえただ従うだけでは安心を求める欲から起こる行いというのじゃ。
自分を観ることでのみ問題は解決できるのじゃ。

144避難民のマジレスさん:2020/07/30(木) 22:25:52 ID:UDC2l2O20
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)3

 単純であることなしに、敏感でありえません-木々に、鳥たちに、山々に、風に、世界で私たちのまわりで起きていることすべてに対して。単純でなければ、ものごとの内側の暗示に対して敏感でありえません。私たちのほとんどは、意識の上のほうの水準で、あまりに表面的に生きています。そこでは私たちは思慮深くあろう、または智恵を持とうとします-それは宗教的であることと同義です。そこでは私たちは強制をとおし、修練をとおして、自分たちの精神を単純にしようとします。しかしそれは単純さではありません。私たちが上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしないのです。私たちの意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難です。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、私たちの存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないからです-それは、あらゆるほのめかし、あらゆる暗示に目覚めている、という意味です-私たちの恐れ、希望に気づいて、 [それらを] 究明し、それらからますます自由になる [という意味です] 。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、私たちは自分たちが直面する多くの問題を解決することができるのです。
 知識は私たちの問題を解決しそうにありません。あなたは、例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれません。あなたは知っているかもしれません-あなたは知っていると、私は言いません。またはあなたはそれを確信しているかもしれません。しかし、それは問題を解決しません。死は、あなたの理論により、情報により、または確信によって棚上げできません。それ [死] は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的です。
 これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければなりません。なぜなら、私たちの問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけであるからです。そして直接の経験をするには、単純さがなければなりません-それは敏感さがなければならない、という意味です。精神は、知識の重みにより鈍らされます。精神は、過去により、未来により鈍らされます。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、私たちの環境が常に私たちに加えてくる強力な影響と圧力に対処できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

145避難民のマジレスさん:2020/07/30(木) 22:34:29 ID:UDC2l2O20
くまめも11-3 
世界でまわりで起きていることすべてに対して、ものごとの内側の暗示に対して、単純であることなしに、敏感でありえない。意識の上のほうの水準で、表面的に生きている。そこで、思慮深くあろう、智恵を持とうとする。そこで強制、修練をとおして、精神を単純にしようとする。しかしそれは単純さではない。上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしない。意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないから。それは、あらゆる暗示に目覚めている、という意味。恐れ、希望に気づいて、究明し、それらからますます自由になるという意味。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、自分たちが直面する多くの問題を解決できる。
知識は問題を解決しない。例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれない、それを確信しているかもしれない。しかし、それは問題を解決しない。死は、理論により、情報により、確信により棚上げできない。死は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的。
これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければならない。なぜなら、問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけ。そして直接の経験をするには、単純さ、敏感さがなければならない、という意味。精神は、知識の重みにより、過去により、未来により鈍らされる。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、環境が常に加えてくる強力な影響と圧力に対処できる。
(´・(ェ)・`)

146鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/30(木) 22:57:00 ID:1d4drIFg0
世間でも断捨離という片づけが流行っているのじゃ。
身辺から物が無くなればすっきりして心身もよくなるのじゃ。
心から考えを捨てて単純に成れば敏感にもなるのじゃ。 
それには自らの存在を探求する熱意が必要というのじゃ。

147避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 20:47:17 ID:D8qZy99Q0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)4

 こうして、宗教的な人は、ほんとうはロ-ブ [聖職者の長い礼服] や腰巻きを着けたり、一日一食で生きたり、これであるべきで、あれであるべきでないという無数の誓いをたててきた人ではなくて、内側で単純である [人] 、何ものにもなろうとしていない人です。そういう精神は、とてつもない受容性の能力があります。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないからです。ゆえにそれは、恵み、神、真理または何であれ、受け取る能力があるのです。しかし真実を追求している精神は、単純な精神ではありません。捜し出し、探求し、手探りし、扇動されている精神は、単純な精神ではありません。内側でも外側でも、どんな権威の様式にも順応する精神は、敏感でありえません。そして精神が本当に敏感で、鋭敏で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやなろうとしていない [とき] 、もはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力があるのです。幸せがありうるのは、そのときだけです。というのは、幸せは [終わりの] 目的ではないからです-それは真実の結果です。精神と心が単純に [なって] ゆえに敏感になったとき-どんな形の強制、指令、または賦課をとおしてでもなく-そのとき私たちは、自分たちの問題にとても単純に取り組めることが、わかるでしょう。私たちの問題がたとえどんなに複雑でも、私たちはそれらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができるでしょう。それが、現在の時代に求められているものです-この外側の混乱、騒乱、敵対に、左翼のであれ右翼のであれ、理論でも定式でもってでもなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、です。あなたは単純でなければ、それに新たに出会えません。

 問題は、私たちがこのように接近するときだけ、解決されうるのです。私たちは、宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できません。ですから私たちは、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければなりません。そういうわけで、気づくこと、私たち自身の考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、これほど重要なのです。そこから、単純さが訪れます。美徳や実践ではない謙虚さが訪れます。獲得される謙虚さは、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではありません。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけです-育成された謙虚さではありません。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないからです。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができるのです。
(´・(ェ)・`)つ

148避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 20:53:54 ID:D8qZy99Q0
くまめも11-4
宗教的な人は、ほんとうは、内側で単純である 人、何ものにもなろうとしていない人。そういう精神は、とてつもない受容性の能力がある。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないから。ゆえにそれは、真理を受け取る能力がある。しかし真実を追求している精神、扇動されている精神は、単純な精神ではない。権威の様式に順応する精神は、敏感でない。そして精神が本当に敏感で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力がある。幸せがありうるのは、そのときだけ。というのは、幸せは 終わりの目的ではないから。それは真実の結果。精神と心が単純、敏感になったとき-どんな形の強制、指令、賦課をとおしてでもなく-そのとき自分たちの問題にとても単純に取り組める。問題がたとえどんなに複雑でも、それらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができる。この外側の混乱、騒乱、敵対に、理論、定式でもってでなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、現在の時代に求められている。宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できない。だから、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければならない。そういうわけで、気づくこと、考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、重要。そこから、単純さが訪れる。美徳や実践ではない謙虚さが訪れる。獲得される謙虚さは、謙虚でなくなる。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではない。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけ。育成された謙虚さではない。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないから。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができる。
(´・(ェ)・`)

149鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/31(金) 22:54:02 ID:1d4drIFg0
外見を飾るのではなく内面で単純な者にはとてつもない受容性があるというのじゃ。
しかしそれは順応することではないというのじゃ。
権威や伝統に順応すればそれは鈍感になるからのう。
すべてをありのままに見る精神が単純なのじや。

150避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 20:25:52 ID:Cm90o6.Y0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 1

 自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味です-観念と人々の世界とだけでなく、また自然と [の関係] 、私たちが所有するものごととの関係を、です。それが私たちの生です-生は全体との関係です。その関係を理解することは専門化を要求するでしょうか。明白に [要求] しません。それが要求するものは、全体としての生に出会うための気づきです。どのようにして気づくべきでしょうか。それが私たちの問題です。どのようにしてその気づきを持つべきでしょうか-私がこの [気づきという] 言葉を、専門化という意味を持たせずに使ってよければ。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきでしょうか-それは、あなたの隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との [関係] 、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの [関係]、 という意味です。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきでしょうか。確かにそれが私たちの生なのではないでしょうか。関係なしに生はありません。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではありません。反対にそれは、関係の総合過程 [について] の充分な認識や気づきを要求します。
 どのようにして気づくべきでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。あなたはどのように人との関係に気づくのでしょうか。あなたはどのように木々に、鳥の鳴き声に気づくのでしょうか。あなたは新聞を読むとき、どのように自分の反応に気づくのでしょうか。私たちは内的な応答とともに精神の表面的な応答にも気づいているでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。初めに私たちは刺激に対する応答に気づくのではないでしょうか-それは明白な事実です。私は木々を見ます。すると応答があります。それから感覚、接触、同一化、欲望 [があります] 。それは普通の過程なのではないでしょうか。私たちはどんな書物も研究せずに、現実に起きることを観察できます。
 それで同一化をとおして、あなたは楽しみと苦痛を持ちます。そして私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避なのではないでしょうか。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれるなら、即時に「能力」があるのです。即時に、その事実への気づきがあるのです。そしてそれが苦痛であるなら、「能力」はそれを避けるために開発させられます。私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗するだろうと、私は思います。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないからです。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術ではありません。この自分自身への気づきは、確かに関係の行動 [・作用] において試せるのです。それは私たちの話し方、ふるまい方において試せるのです。どんな同一化もなく、どんな比較もなく、どんな非難もなく、あなた自身を見守ってください。ただ見守ってください。するとあなたはとてつもないことが起きていることが、わかるでしょう。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく-なぜなら、私たちの活動のほとんどは無意識的であるから-あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づくのです。
(´・(ェ)・`)つ

151避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 20:30:47 ID:Cm90o6.Y0
くまめも12-1
自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味。観念と人々の世界、自然、所有するものごととの関係。生は全体との関係。その関係を理解することは、全体としての生に出会うための気づきを要求する。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきか-それは、隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの 関係。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきか。関係なしに生はない。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではない。反対にそれは、関係の総合過程の充分な認識や気づきを要求する。
どのように何かに気づくのか。初めに刺激に対する応答に気づく。木々を見る→応答がある→感覚、接触、同一化、欲望がある。→楽しみと苦痛を持つ。
私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれる→即時に「能力」がある。即時に、その事実への気づきがある。それが苦痛である→「能力」はそれを避けるために開発される。
私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗する。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないから。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術でない。この自分自身への気づきは、関係の行動・作用、話し方、ふるまい方において試せる。どんな同一化、比較、非難もなく、あなた自身をただ見守れ。するととてつもないことが起きていることがわかる。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく、あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づく。
(´・(ェ)・`)

152鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 00:32:02 ID:1d4drIFg0
自分と自分にまつわる観念について全体として気づくことが自分自身を知ると言っているのじゃ。
全体を知らなければ自分自身を知ったことにはならないのじゃ。
知ることは本を読んだりして知識を蓄積することではないのじゃ。
現実に起きていることを観察してできることなのじゃ。

153避難民のマジレスさん:2020/08/02(日) 18:20:31 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 2

 あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかります。しかしそれは、非難がないときだけ起こりうるのです。私は何かを非難するとき、それを理解しません。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方です。私たちのほとんどは意図的にそうすると、私は思います。私たちは即時に非難します。そして私たちは理解したと思うのです。私たちはそれを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始めるのです。これを実験してみてください。するとあなたは自分自身でわかるでしょう。ただ気づいてください-どんな正当化の感覚もなしに-それはむしろ否定的に見えるかもしれませんが、否定的ではありません。反対にそれは、直接的行動である受動性の性質を持っています。そしてあなたはそれを実験してみるなら、これを発見するでしょう。
 結局、あなたは何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならないのではないでしょうか。あなたはそれについて考え [続け] 、それについて憶測し・思索し [続け] 、それを問い続けられません。あなたはそれの内容を受け取るほど充分に敏感でなければなりません。それは敏感な・高感度の写真の感光板と似ています。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければなりません。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめます。確かにそれは能力や専門化の問題ではありません。その過程において、私たちは自分自身を-私たちの意識の表面的な層だけではなくて、より深い [層] 、すなわちはるかにもっと重要であるものを-理解しはじめるのです。なぜなら、そこに、私たちの動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるからです。外側では、私たちはそれらをすべて制御しているかもしれませんが、内側では、それらは沸き立っているのです。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、明白に自由はありえません。幸せはありえません。智恵はありません。
 智恵は専門化の事柄でしょうか-智恵は私たちの過程への総合的気づきです。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものでしょうか。なぜなら、それが起きていることであるからではないでしょうか。司祭、医者、技師、産業経営者、事業家、大学教授-私たちはその専門化すべての精神性を持っています。
 最高の形の智恵-すなわち真理、神、叙述できないもの-を悟るには、それを悟るには、私たちは自分たち自身を専門家にしなければならないと、思うのです。私たちは研究します。私たちは手探りします。私たちは探し出します。そして私たちは能力-すなわち自分たちの葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究するのです。
(´・(ェ)・`)つ

154避難民のマジレスさん:2020/08/02(日) 18:29:39 ID:Cu43pdJw0
くまめも12-2
あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかる。それは、非難がないときだけ起こりうる。私は何かを非難するとき、それを理解しない。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方。私たちは意図的にそうする。即時に非難する。そして理解したと思う。それを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始める。ただ気づけ。どんな正当化の感覚もなしに-それは否定的ではない。それは、直接的行動である受動性の性質を持つ。実験してみれば、これを発見する。
 何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならない。それについて考え、憶測し・思索し、それを問い続けられない。それの内容を受け取るほど充分に敏感でなければならない。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければならない。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめる。それは能力や専門化の問題ではない。その過程において、自分自身を-意識の表面的な層だけではなくて、より深い、もっと重要であるものを-理解しはじめる。なぜなら、そこに、動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるから。外側では、それらをすべて制御しているが、内側では、それらは沸き立っている。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、自由は、幸せは、智恵はない。
 智恵は私たちの過程への総合的気づき。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものはない。なぜなら、それが起きていることであるから。私たちはその専門化の精神性を持っている。
 最高の形の智恵-真理、神、叙述できないもの-を悟るには、自分自身を専門家にしなければならない。私たちは研究し、手探りし、探し出す。そして能力-すなわち葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究する。
(´・(ェ)・`)

155鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 22:28:49 ID:1d4drIFg0
気付きは非難が無い時に起こると言うのじゃ。
西洋人はものごとを観る時に批判的な精神で見るようにと教育されるからのう。
そのような条件付けされた見方では気付きは起こらないのじゃ。
自分自身を非難も肯定もせずに、見るのじゃ。
自分自身を研究するのじゃ。

156避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 21:24:20 ID:hkn8ohjE0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 3

 そもそも私たちが気づいているとするなら、私たちの問題は、私たちの日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されうるのかどうか、 [ということ] です。それらが [解決] されえないなら、私たちがそれらに取り組むことは、どのようにして可能なのでしょうか。問題を理解するには、明白に一定の智恵を必要とします。その智恵は専門化から引き出したり、[専門化]をとおして育成したりできません。それは、私たちが自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じるのです-それは、選択なく、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくことです。あなたは受動的に気づくとき、その受動性-それは無為・何もしないことではなく、眠りではなくて、極度の鋭敏さです-の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかるでしょう。それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味です。あなたが常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうるのです。それが困難です。なぜなら、私たちのほとんどは受動的に気づく [能力] 、私たちが解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないからです。私たちはどのように問題を冷静に見るべきかを知らないのです。私たちは不幸にもその能力がないのです。なぜなら、私たちは問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているからです。または私たちは自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようとします。または私たちは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っているのです。ゆえに私たちは問題-すなわちいつも新しいもの-に、古い様式をもって接近するのです。挑戦はいつも新しいものですが、私たちの応答はいつも古いものです。そして私たちの困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うことです。問題はいつも関係の問題です-ものごととの、人々との、観念との [関係です] 。他に問題はありません。関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく出会うには、それに適切に出会うには-受動的に気づかなければなりません。この受動性は決意、意志、修練の問題ではありません。私たちが受動的でないことに気づくことが、始まりです。私たちが特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-確かにそれが始まりです。問題との関係のなかで私たち自身を知ること、私たちが問題をどのように扱うのか [を知ること] です。そのとき私たちは問題との関係のなかで自分自身を-その問題に出会うなかで私たちがどう応答するのか、私たちの様々な先入観、要求、追求が何であるのかを-知りはじめるにつれて、この気づきが、私たち自身の考える [過程] 、私たち自身の内部の本性の過程を開示するでしょう。そこに解放があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

157避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 21:28:31 ID:hkn8ohjE0
くまめも12-3
そもそも私たちが気づいているとするなら、問題は、日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されえないなら、それらに取り組むことは、どのようにして可能か。問題を理解するには、一定の智恵が必要。その智恵は自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じる。それは、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくこと。受動的に気づくとき、その受動性の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかる、それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味。常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうる。それが困難。なぜなら、受動的に気づく、解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないから。どのように問題を冷静に見るべきかを知らない。その能力がない。なぜなら、問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているから。または自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようするまたは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っている。ゆえに新しい問題に、古い様式をもって接近する。挑戦はいつも新しいが、応答はいつも古いもの。そして困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うこと。問題はいつも関係の問題 − ものごととの、人々との、観念との関係。他に問題はない。
関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく、適切に出会うには-受動的に気づかなければならない。この受動性は決意、意志、修練の問題ではない。受動的でないことに気づくことが、始まり。特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-それが始まり。問題との関係のなかで自身を知ること、問題をどのように扱うのかを知ること。そのとき問題との関係のなかで自分自身を知りはじめるにつれて、この気づきが、自身の考える過程、内部の本性の過程を開示する。そこに解放がある。
(´・(ェ)・`)

158鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/03(月) 23:59:53 ID:1d4drIFg0
問題の解決には自分を知ることが大事だというのじゃ。
自分に気付けば問題との自己同一化がなくなり、解決できるようになるというのじゃ。
それが智慧というものじゃ。
自分自身に気付くことで解放も在るのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 22:37:35 ID:fO1sW.K20
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 4

 重要であることは、選択なしに気づくことです。なぜなら、選択は葛藤をもたらすからです。選択する者は混乱 [の状態] にあります。ゆえに彼は選択するのです。彼が混乱 [の状態] にないなら、選択はないのです。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択するのです。明晰で単純である人は選択をしません。あるがまま、です。観念に基づいた行動が、明白に選択の行動です。そういう行動は解放しません。反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけです。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくことです。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくからです。すなわちあなたの気づきは、あなたの蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがあるのです。翻訳があるところ、選択があります。そして選択は葛藤を造り出します。葛藤には、理解はありえません。
 生は関係の事柄です。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき [がなければならない] 、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければなりません。私が言いましたように、この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ないのです。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくことです-目覚めているときだけではありません。というのは私たちは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるでしょうから。こうして私たちは隠れたものへの扉を開くのです-それ [隠れたもの] は知られるものになるのです。しかし知られていないものを見つけるには、私たちは扉を越えてゆかなければなりません-確かにそれが私たちの困難です。真実は、精神が知ることのできるものではありません。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるからです。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければなりません。そのときだけ、知られないものがあることが可能なのです。
(´・(ェ)・`)つ

160避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 22:43:55 ID:fO1sW.K20
くまめも12-4
重要なのは、選択なしに気づくこと。なぜなら、選択は葛藤をもたらすから。選択する者は混乱にある。ゆえに彼は選択する。彼が混乱にないなら、選択はない。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択する。明晰で単純である人は選択をしない。あるがまま。観念に基づいた行動が、選択の行動。そういう行動は解放しない、反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけ。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくこと。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくから。すなわち気づきは、蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがある、翻訳があるところ、選択がある。そして選択は葛藤を造り出す。葛藤には、理解はない。
 生は関係の事柄。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければならない。この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ない。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくこと− 目覚めているときだけではない。というのは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるから。こうして隠れたものへの扉を開く-隠れたものは知られるものになる。しかし知られていないものを見つけるには、扉を越えてゆかなければならない-それが困難。真実は、精神が知ることのできるものではない。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるから。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければならない。そのときだけ、知られないものがあることが可能。
(´・(ェ)・`)

161鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/04(火) 23:30:46 ID:1d4drIFg0
気付くことには選択すらも妨げになるのじゃ。
それは分別をしていることになるからのう。
今ここに在るものごとをありのままに見るのじゃ。
選択すらも無く見る事が出来たならばそれが気付きなのじや。

162避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 22:27:49 ID:88HzfH7Q0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 1

 私たちのほとんどにとって、欲望は実に問題です-財産、地位、力、慰め [安楽・快適さ] 、不死、継続 [存続] への欲望、愛されたい [という欲望] 、何か永久的な [もの]、 満足させ持続するもの、何か時間を超えているものを持ちたいという欲望です。では欲望とは何でしょうか。私たちを駆り立て強制しているこのものは何でしょうか。私たちは持っているものやあるがままの私たちに満足すべきであると、私は提唱しているのではありません-それはたんに私たちが欲しいものの対極であるだけです。私たちは欲望とは何であるのかを見ようとしています。私たちは仮に、ためらいがちにそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの欲望の対象を用いるだけではない変容をもたらすであろうと、私は思います。これが一般に私たちのいう「変化」という意味なのではないでしょうか。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、私たちはその代用物を見つけます。私たちは、一つの欲望の対象から、私たちがより高くより高尚でより洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いているのです。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望です。そしてこの欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤があるのです。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか。欲望とは何でしょうか。それは象徴とその感動 ・感覚ではないでしょうか。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚です。象徴とその感動を伴わない欲望があるでしょうか。明白に、ありません。象徴は、私に感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念であるかもしれません-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせるのです。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまるのです。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変えるのです。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈してしまいます。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求めます。私は古い感動を拒絶して、新しいものを採り入れます-新しい言葉、新しい意義、新しい経験をもったもの、です。私は古いものに抵抗して、より高くより高尚でより満足させてくれると考える新しいものに屈します。こうして欲望には、抵抗と屈することがあります-それには誘惑が関与しています。そしてもちろん、欲望の特定の象徴に屈することには、いつも挫折への恐れがあるのです。
 私は自分自身の欲望の過程全体を観察するなら、いつも対象 [がある] -私の精神が、さらなる感動のためにそれに向けられているもの-があるということ、そしてこの過程には抵抗、誘惑、修練が関与しているということが、わかります。知覚、感覚、接触、欲望があります。そして精神はこの過程の機械的な道具になります-そこでは象徴、言葉、対象が中心です-そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれるのです。その中心が「私」です。私はその欲望の中心を解消できるでしょうか-一つの特定の欲望、一つの特定の欲望や渇望ではなくて、欲望、あこがれ、希望-そこにはいつも挫折の恐れがあります-の構造全体を、です。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまいます。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がありますし、それがまた・さらに中心を強めるのです。そして革命は、その中心においてだけ可能です-表面にではありません-それはたんに逸脱・散漫の過程 [であり] 、有害な行動につながる表面的変化であるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

163避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 22:28:49 ID:88HzfH7Q0
くまめも13-1
 欲望とは何か。私たちを駆り立て強制しているこのものは何か。私たちはそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの対象を用いるだけではない変容をもたらす。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、その代用物を見つける。一つの欲望の対象から、より高く、高尚で洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いている。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望。この欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤がある。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要。欲望とは何か。それは象徴とその感動 ・感覚。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚。象徴は、感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせる。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまる。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変える。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈する。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求める。
 欲望の過程全体を観察。精神が、さらなる感動のためにそれに向けられている対象がある。この過程には抵抗、誘惑、修練が関与している。知覚、感覚、接触、欲望がある。精神はこの過程の機械的な道具になる − そこでは象徴、言葉、対象が中心 − そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれる。その中心が「私」。その構造全体を解消できるか。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまう。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がある。それがまた・さらに中心を強める。そして革命は、その中心においてだけ可能 − 表面にではない − それはたんに逸脱・散漫の過程、有害な行動につながる表面的変化であるだけ。
(´・(ェ)・`)

164避難民のマジレスさん:2020/08/06(木) 20:02:54 ID:24iU9Zco0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 2

 私はこの欲望の構造全体に気づくとき、いかに私の精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかります。私は、一つの欲望に疲れてしまうと、自動的にもう一つ [の欲望] において自己を充足させたいと思います。私の精神はいつも感動という見地に立って経験しています-それは感動の道具です。特定の感動に退屈すると、私は新しい感動を求めます-それは神の悟り・実現と呼ぶものであるかもしれません-しかし、それもやはり感動です。私はこの世・世界とその苦労はもうたくさん(うんざり)なので、平和が、永続する平和が欲しいのです。それで私は瞑想し、制御します-その平和を経験するために、自分の精神を形造ります。その平和を経験することも、やはり感動です。それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心です-そこ [中心] から私は行動し考えるのです。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影です-それ [精神]は、そこ [象徴] から感動を引き出してくるのです。「神」という言葉、「愛」という言葉、「共産主義」という言葉、「民主主義」という言葉、「国家 [・民族] 主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴です。ゆえに精神はそれらにすがりつくのです。あなたと私が知っているように、あらゆる感動は終わりになります。それで私たちは、一つの感動からもう一つへ進むのです。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強めます。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけです。その過程に、私たちは捕らわれるのです。精神はさらなる経験を求めているかぎり、感動という見地に立って考えられるだけです。そして自発的で創造的で命がけの・生き生きして心を打つほど・打ちのめすほど新しいかもしれないどんな経験でも、それ [精神] は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求します-そのときそれは記憶になるのです。ゆえに経験は死んでいます。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけです。
 もしも私たちがとにかくそれに深く入って行ったなら、この過程に慣れ親しんでいるのです。そして私たちは [この過程を] 越えてゆく能力はないように見えます。私たちは越えてゆきたいのです。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているからです。それで精神は、真理の、神の観念を投影します。それは命がけの変化を [夢見] 、その変化において第一の役割・主役を演じること、などなどを夢見ます。ゆえに決して創造的状態がありません。私は、私自身にこの欲望の過程が続いていることが、わかります-それは機械的、反復的です-それは精神を日課の過程に拘束して 、[そこに] 創造的自発性のない過去の死んだ中心にするのです。また突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動 [のもの] や欲望のものでもないものの [瞬間]- があります。
 ゆえに、私たちの問題は、欲望を理解することです-それはどこまでゆくのだろうかとか、どこで終わりになるのだろうか、ではなく、欲望の過程全体を-渇望、あこがれ、燃えたつ・燃えさかる欲求を、理解することです。私たちのほとんどは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると、考えます。それで、なんと私たちは、わずかなものしか持たない人たちを崇拝するのでしょう!腰布、ロ-ブは、欲望から自由でありたいという私たちの欲望を象徴しています。しかし、それもまたとても表面的な反動 [・反応] です。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのでしょうか。確かに、革命が起こらなければならないのは、そこで、です-どれぐらい所有するかや、どんな服を着るかや、どれぐらい食事を摂るかに、ではないのです。しかし私たちの精神はとても表面的であるから、私たちはこれらのものごとに印象づけられ(感銘を受け)るのです。
(´・(ェ)・`)つ

165避難民のマジレスさん:2020/08/06(木) 22:10:38 ID:24iU9Zco0
くまめも13-2
欲望の構造全体に気づくとき、いかに精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかる。私の精神はいつも感動という見地に立って経験してる。
永続する平和が欲しい。それで私は瞑想し、制御する− そのために、自分の精神を形造る。その平和を経験することも、やはり感動.それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心− そこから私は行動し考える。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影− 精神は、象徴から感動を引き出してくる。「神」、「愛」、「民主主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴。ゆえに精神はそれらにすがりつく。あらゆる感動は終わりになる。一つの感動からもう一つへ進む。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強める。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけ。どんな経験でも、精神は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求する− そのときそれは記憶になる。ゆえに経験は死んでいる。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけ。
私たちは越えてゆきたい。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているから。それで精神は、真理の、神の観念を投影する。その変化において主役を演じることを夢見る。ゆえに決して創造的状態がない。突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動や欲望のものでもないものの瞬間 − がある。
 ゆえに、問題は、欲望を理解することではなく、欲望の過程全体を理解すること。私たちは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると考える。しかし、それもまたとても表面的な反動・反応。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのか。精神はとても表面的であるから、これらのものごとに印象づけられ感銘を受ける。
(´・(ェ)・`)

166鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/06(木) 23:15:29 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティも瞑想するというのじゃ。
もっともそれは自己を忘れるサマーディにまで達しなければ瞑想とは言われないというがのう。
瞑想の全てを否定しているのではないのじゃ。
瞑想に拠って精神から感動を引き出してくるという洞察も可能になるのじゃ。

167避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 21:30:15 ID:nELsQgfM0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 3

 あなたの問題と私の問題は、精神がいったい欲望から、感覚から自由でありうるかどうかが、わかることです。確かに、創造は、感動とは何の関わりもありません。真実、神、何であれ、 [それらは] 感動として経験されうる状態ではありません。あなたが経験をするとき、何が起きるでしょうか。それはあなたに一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらしたのです。当然、あなたは憂鬱の状態を避けよう、脇へ置こうとします。しかしそれが喜び、得意の気分であるなら、あなたはそれを追求します。あなたの経験は楽しい感動を生み出しました。そしてあなたはそれをもっと(多く)欲しいと思います。もっと(多く)は、精神の死んだ中心を強めます-それ [中心] は常にさらなる経験を渇望しています。ゆえに精神は何も新しいものを経験できません。それは何も新しいものを経験する能力がありません。なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるからです。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造、真実ではありません。そういう精神は真実を経験できません。それは感動を経験できるだけです。そして創造は感動ではありません。それは、瞬間瞬間、何か永続的に新しいものです。
 そこで(今)私は自分自身の精神の状態を悟ります。それは感動と欲望の道具であること、というよりむしろ感動と欲望であること、それは決まった日課に機械的に捕らわれているということが、わかります。そういう精神は決して新しいものを受け取ったり、打診する・感じ尽くす能力がありません。というのは、新しいものは明白に何か感動を越えたものであるにちがいないからです-それ [感動] はいつも古いものです。それで、この機械的過程とともにその感動は、終わりにならなければならない、のではないでしょうか。もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければなりません。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能です-そこ [創造性の状態] に、新しいものがいつも生じうるのです。あなたは、言葉により、習慣により、観念によって催眠術をかけられることなく理解して、新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解するでしょう。そのときあなたは、本当に求めている人にとって、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめるだろうと、私は思います。明白に、一定の身体 [・物質] 的必要はあります-衣・食・住とその他すべてです。しかしそれらは決して心理的欲求に[なりません]- 精神が欲望の中心としてそれ自体を築き上げるものに-なりません。物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への [欲望も] -心理的過程になります。それ [心理的過程] によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強めます。
あなたはこの過程がわかるとき、反対なく、誘惑の感動なく、抵抗なく、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見するでしょう。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえません。それは 、[そこに] 招待なく、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態です-それが真実です。
(´・(ェ)・`)つ

168避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 21:45:20 ID:nELsQgfM0
くまめも13-3
 問題は、精神が欲望から、感覚から自由でありうるか。創造は、感動として経験されうる状態ではない。経験をするとき、一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらした。当然、憂鬱の状態を避けようとする。しかしそれが喜びの気分であるなら、それを追求する。経験は楽しい感動を生み出した。そしてそれをもっと欲しいと思う。もっとは、精神の死んだ中心を強める− 中心は常にさらなる経験を渇望する。ゆえに精神は何も新しいものを経験できない、なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるから。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造ではない。そういう精神は真実を経験できない。それは感動を経験できるだけ。創造は感動ではない。瞬間瞬間、何か永続的に新しいもの。
感動はいつも古いもの。それで、この機械的過程とともにその感動、もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければならない。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能。新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解する。そのとき、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめる。
物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への欲望も− 心理的過程になる。心理的過程によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強める。
あなたはこの過程がわかるとき、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見する。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえない。それは 、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態 − それが真実。
(´・(ェ)・`)

169鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/08(土) 00:00:18 ID:1d4drIFg0
記憶を通して認識されたものは真理、創造、真実ではないというのじゃ。
クリシュナムルティも認識が記憶に依存していると観念の世界に陥ると理解していたのじゃ。
記憶への依存が無くなれば認識は真実を知る器官になるのじゃ。
そのような記憶に依存した認識が無い時、存在の状態が真実と成るのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 21:38:37 ID:QIfaqeEk0
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 1

  生は経験-関係における経験-です。孤立 [の状態] において生きられません。ですから生は関係ですし、関係は作用 [・行動] です。それでどうすれば関係すなわち生を理解するためのその能力を持てるのでしょうか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 [でもあるの] ではないでしょうか。生は関係です-それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現されます。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つでしょう。ですから私たちの問題は能力ではなくて―というのは、能力は関係から独立していない(関係に依存していないわけではない)からです―むしろ関係[について]の理解です-それ[理解]が自然に、すばやい柔軟性、すばやい適応、すばやい応答のための能力を生み出すでしょう。
 関係は確かに、あなたが [そこに] 自分自身を発見する鏡です。関係なくして、あなたはありません。有る[・生きる]ことは関係することです-関係することが存在です。あなたは関係においてだけ存在しているのです。そうでないとあなたは存在していません-存在は意味がありません。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではありません。あなたは関係しているから存在しているのです。それで葛藤を引き起こす [原因になる] のは、関係[について]の理解の欠如です。
今、関係[について]の理解はありません。なぜなら私たちは関係を、たんに達成を促進し、変容を促進し、なりゆきを促進する手段としてだけ使うからです。しかし、関係は自己発見の手段です、なぜなら関係は有る[・生きる]ことであるからです。それが存在です。関係なくして、私はありません。私自を理解するには、私は関係を理解しなければなりません。関係は、[そこに] 私自身が見える鏡です。その鏡は歪んでいることもあるし、有るものを映し出して「あるがまま」であることもあります。しかし私たちのほとんどは、関係のなかに、その鏡のなかに、むしろ見たいと思うものごとが、見えるのです。私たちはあるがままが見えないのです。私たちはむしろ理想化し、逃避したいのです-その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

171避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 21:56:19 ID:QIfaqeEk0
くまめも14-1
生は関係における経験。孤立の状態において生きられない。生は関係、関係は作用・行動。どうすれば関係すなわち生を理解できるか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 。生は関係。それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現される。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つ。だから私たちの問題は能力ではなくむしろ関係についての理解−理解が自然に、すばやい柔軟性、適応、応答のための能力を生み出す。
 関係は確かに、あなたがそこに自分自身を発見する鏡。関係なくして、あなたはない。有る・生きることは関係すること。関係することが存在。あなたは関係においてだけ存在している。存在は意味がない。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではない。あなたは関係しているから存在している。それで葛藤を引き起こす原因になるのは、関係についての理解の欠如。
今、関係についての理解はない。なぜなら関係を、たんに達成を、変容を、なりゆきを促進する手段としてだけ使うから。しかし、関係は自己発見の手段、なぜなら関係は有る・生きることであるから。それが存在。私自を理解するには、関係を理解しなければならない。関係は、そこに私自身が見える鏡。その鏡は歪んでいることもある。私たちはあるがままが見えない。私たちはむしろ理想化し、逃避したい − その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたい。
(´・(ェ)・`)

172鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/08(土) 22:56:41 ID:1d4drIFg0
関係とはつきつめれば自分と他人との関係なのじゃ。
自分がいるという認識は自分とは別の他人が居るという関係から起こるからなのじゃ。
自他の区別から自我も起こるのじゃ。
それを理解できれば自分の認識も理解できるのじゃ。

173避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 21:41:44 ID:HMHJI/pY0
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 2

 そこで私たちは自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることが、わかるでしょう。私たちはほんとうは他の人に関心がないのです。私たちはそれについて大いに話すけれども、現実には関心がないのです。その関係が私たちを喜ばせて[満足させて]くれる限り、避難所を与えてくれる限り、満足させてくれる限りにおいてだけ、私たちは誰かと関係しているのです。しかし関係に動揺があった瞬間―それ [動揺] が私たち自身に不愉快さを生み出します―私たちはその関係を切り捨てます。言い換えれば、私たちが喜んでいる限りにおいてだけ、関係があるのです。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれません。しかし、あなたはほんとうに自分の生をとてもきっちりと・しっかりと検討するなら、それが事実であると、わかるでしょう。そして事実を避けることは無知において生きることですし、それは決して正しい関係を産み出せません。私たちは自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかります- [その壁越しに] 他の人を見て観察するのです。しかし、私たちはいつもその壁を保持・確保してその裏にとどまります―それが心理的な壁、物質的な壁、経済的な壁や国家[・民族]主義的な壁であっても。私たちは壁の裏で孤立 [の状態] において生きる限り、他の人との関係はありません。そして私たちは閉じこもって・閉鎖的に生きています。なぜならそのほうがもっと喜びがあるからです-私たちはそのほうがもっと安全であると思うのです。世界がこんなに引き裂かれ[分裂し]、こんなに多くの悲しみ、こんなに多くの苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため私たちは私たち自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思うのです。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立(化)の過程です。そして明白にそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築きます。それがまさしく世界中で起きていることです。あなたは自分の孤立にとどまって、壁越しに手を伸ばし、それを国家[・民族]主義、同胞愛、などと呼びます。しかし現実には独立政権、軍隊が継続[存続]するのです。あなたはやはり[なお・依然として]自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思うのです―それは不可能です。あなたが境界を持っているかぎり―国家[・民族]的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実です。
(´・(ェ)・`)つ

174避難民のマジレスさん:2020/08/09(日) 21:42:42 ID:HMHJI/pY0
くまめも14-2
自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることがわかる。私たちはほんとうは他の人に関心がない。その関係が私たちを喜ばせて満足させてくれる限り、避難所を与えてくれる限りにおいてだけ、誰かと関係している。しかし関係に動揺があった瞬間―動揺が自身に不愉快さを生み出し− その関係を切り捨てる。言い換えれば、喜んでいる限りにおいてだけ、関係がある。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれない。しかし、ほんとうに自分の生をしっかりと検討するなら、それが事実であるとわかる。そして事実を避けることは無知において生きることだし、それは決して正しい関係を産み出さない。自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかる−その壁越しに他の人を見て観察する。しかし、いつもその壁を保持・確保してその裏にとどまりまる。壁の裏で孤立の状態において生きる限り、他の人との関係はない。そして閉じこもって・閉鎖的に生きている。なぜならそのほうがもっと喜びがあり、安全であると思うから。世界がこんなに分裂し、こんなに多くの悲しみ、苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思う。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立化の過程。そしてそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築く。あなたは自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思う−それは不可能。境界を持っているかぎり―国家・民族的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実。
(´・(ェ)・`)

175鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/09(日) 22:58:44 ID:1d4drIFg0
他人とは別の自分があるという観念から孤独が生まれるのじゃ。
他人の中に一人の自分が居るという観念が心細さとか恐れを生むのじゃ。
それが孤独なのじゃ。
孤独から逃れようとして争いも起こるのじゃ。

176避難民のマジレスさん:2020/08/10(月) 22:47:30 ID:2/995q.60
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 3

  孤立(化)の過程は力への探求の過程です-個人的に力を求めていようと、人種的、国家[・民族]的集団のため [に力を求めて] であろうと、孤立(化)があるにちがいありません。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるからです。結局それが、各自が欲しいものなのではないでしょうか。 [人は、そこで] 自分が支配できる強力な地位が欲しいのです―家庭でも、事務所・職場でも、官僚制度[体制・機構]でも。各自が力を求めています。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立するでしょう-それもまた明白です。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつあるのではないでしょうか。これを理解することがとても重要であると、私は思います。なぜなら、平和な世界 [が欲しい] 、戦争のない、ぞっとするような破壊のない、測り知れない規模の壊滅的な悲惨のない世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから、ではないでしょうか。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていません。ゆえにそういう人はどんな国籍・国家[民族]、どんな旗にも縛られていません。彼は旗を持ちません。
 孤立 [の状態] において生きているようなものはありません―どんな国も、どんな人も、どんな個人も孤立 [の状態]において 生きられません。けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てるのです。国家[・民族]主義者は災い・呪われた者です。なぜなら、彼はまさに自分の国家[・民族]主義的 [精神] 、愛国精神そのものをとおして、孤立の壁を造り出しているからです。彼は他の国に対して壁を築くほど、あまりに祖国と同一化しているのです。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるでしょうか。その何かが常にあなたの壁を叩いているのです。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争 [状態] にあるということを、表示しています。ですから国家[・民族]主義は孤立の過程であり、力への探求から出てきたものですが、 [それは] 世界に平和をもたらせません。国家[・民族]主義者であって同胞愛について話をする人は、嘘をついているのです。彼は矛盾の状態に生きているのです。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界 [・世間] で生きられるでしょうか。明白にできます。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうします。何かもっと偉大なもの―党派、国、人種、宗教、神―とのこの同一化が、力への探求です。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいのです。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいというその欲望が、力への欲望です。
  関係は自己を露呈する過程です。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がありません。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解することです。そのとき関係は孤立(化)の過程 [になるの] ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになるのです。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まりです。
(´・(ェ)・`)つ

177避難民のマジレスさん:2020/08/10(月) 22:48:55 ID:2/995q.60
くまめも14-3
孤立(化)の過程は力への探求の過程。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるから。人は、そこで自分が支配できる強力な地位が欲しい−家庭、事務所・職場、官僚制度体制・機構。各自が力を求めている。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立する-それもまた明白。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつある。これを理解することがとても重要。なぜなら、平和な世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていない。ゆえにそういう人はどんな旗にも縛られていない。
孤立の状態において生きているようなものはない。孤立の状態において 生きられない、けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てる。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるか。その何かが常にあなたの壁を叩いている。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争状態にあるということを、表示している。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界・世間で生きられるか。明白にできる。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうする。何かもっと偉大なものとのこの同一化が、力への探求。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したい。それが力への欲望。
  関係は自己を露呈する過程。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がない。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解すること。そのとき関係は孤立(化)の過程ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになる。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まり。
(´・(ェ)・`)

178鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/11(火) 00:26:14 ID:1d4drIFg0
個我であるという観念は他のものとの競争や闘争に拠って強化されるのじゃ。
それがまた孤独を強めるのじゃ。
自らを追求することでそれも滅することが出来るのじゃ。
それが解放であり、変容なのじゃ。

179避難民のマジレスさん:2020/08/11(火) 22:03:17 ID:PGnztOo20
最初と最後の自由  第一部
  第十五章 思考者と思考 1

 私たちの経験すべてには、いつも経験者、観察者がいます-それ [経験者、観察者]が 自分自身のためにもっともっと多くのものを集めたり、自分自身を否定したりしています。それはまちがった過程ではないでしょうか。そしてそれは創造的状態をもたらさない追求ではないでしょうか。それがまちがった過程であるなら、私たちはそれを完全に一掃して、脇へ置くことができないでしょうか。それは、私が経験するときだけ [生じうる]-思考者として経験するのではなく-私が偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうるのです。
 私が経験をしているかぎり、私が [何かに] なろうとしているかぎり、この二元的行動 [・作用] があるにちがいありません。思考者と思考が [ある] 、二つの分離した過程が働いているにちがいありません。統合はありません。集団的に、個人的に、国家的になど、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもあるのです。普遍的に、これが過程です。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落があるにちがいありません。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけです。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っています。二つの違った状態があります。私たちの努力は、二つのものに橋を架けることです。
 行動の意志はいつも二元的です。分離的であるこの意志を乗り越えて、 [そこに] この二元的行動 [・作用] のない状態を発見することは、可能でしょうか。それは、[そこに] 思考者が思考である状態を、私たちが直接的に経験するとき、見つけられるだけです。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考えます。しかしそうなのでしょうか。私たちはそうであると考えたいように思うのです。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるからです。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなることです。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因があるのです。私たちは、真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求しています。
 思考者と思考の間に分割はあるのでしょうか。それらが分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費され [ムダになり] ます。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求しています。思考者は自分の思考から分離していると、私たちは考えます。私たちは、自分が貪欲・欲張りで、所有欲が強く、残忍・野蛮であることを見つけるとき、このすべてであるべきでないと考えます。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとします。ゆえに努力をして「なろう」とします。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある [ところの] 偽りの幻影を追求します。ところが、ただ一つの過程だけがあるのです。そこに、退廃・堕落の根本的要因があると、私は思います。
(´・(ェ)・`)つ

180避難民のマジレスさん:2020/08/11(火) 22:07:55 ID:PGnztOo20
くまめも15-1
経験すべてには、いつも経験者、観察者がいる。それはまちがった過程。そうなら、それを一掃できないか。それは、経験するときだけ生じる。偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうる。
私が経験をしているかぎり、私がなろうとしているかぎり、この二元的行動がある。思考者と思考が、二つの分離した過程が働いている。集団的に、個人的に、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもある。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落がある。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけ。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っている。二つの違った状態がある。私たちの努力は、二つのものに橋を架けること。
行動の意志はいつも二元的。分離的であるこの意志を乗り越えて、 この二元的行動のない状態を発見することは、可能か。それは、思考者が思考である状態を、直接的に経験するとき、見つけられる。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考える。しかしそうなのか。私たちはそうであると考えたいように思う。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるから。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなること。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因がある。真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求している。
思考者と思考の間が分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費される。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求している。私たちは、自分が貪欲で、残忍であることを見つけるとき、そうあるべきでないと考える。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとする。ゆえに努力をして「なろう」とする。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある 偽りの幻影を追求する。ところが、ただ一つの過程だけがある。そこに、退廃・堕落の根本的要因がある。
(´・(ェ)・`)

181鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/11(火) 22:38:15 ID:1d4drIFg0
経験者や観察者は本当は居ないのじゃ。
居ると認識しているのが悟っていない者なのじゃ。
それが無いと知れば無我になるのじゃ。
更にそれを生み出す観念さえも無ければ大悟徹底なのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2020/08/12(水) 19:07:12 ID:2Vk6aJ6Y0
最初と最後の自由  第一部
  第十五章 思考者と思考 2

 一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときのその状態を経験することは、可能でしょうか。そのときおそらく私たちは、創造的であることがどんなことであるのか、人がどんな関係にあっても、どんなときにも [そこに] 退廃・堕落のない状態がどんなものであるのかを、見出すでしょう。
 私は貪欲です。私と貪欲は二つの違った状態ではありません。ただ一つのものだけがあるのです-すなわち貪欲です。私は、自分が貪欲であることに気づくなら、何が起きるでしょうか。私は社会的な理由のため、または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力をします。その努力はいつも小さな制限された環・循環のなかにあるでしょう。私はその環を拡大するかもしれませんが、それはいつも制限されています。ゆえに退廃・堕落する要因が(そこに)あるのです。しかし私はもう少し深く厳密に・きっちりと見るとき、努力の作り手(努力をする者)が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることが、わかるのです。そしてまた「私」と貪欲は分離して存在していないこと、ただ貪欲だけがあることが、わかるのです。私は、自分が貪欲であること、貪欲である観察者はなく、私自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき私たちの疑問全体は全く違ってくるのです。それに対する私たちの応答は全く違ってくるのです。そのとき私たちの努力は破壊的ではありません。
 あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたがするどんな行動も貪欲であるとき、あなたはどうするでしょうか。不幸にも私たちはそういう線に沿って考えません。「私」、上位の実体、制御し支配している兵士・戦士がいるのです。私にとって、その過程は破壊的です。それは幻影です。私たちはなぜそうするのかを知っています。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割します。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではなく、私が全く貪欲であるなら、そのとき何が起きるでしょうか。確かにそのとき全く違った過程が働いています-違った問題が生じています。創造的であるのは、その問題です-[そこには] 肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がないのです。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければなりません。その状態には、努力の作り手・努力をする者がいません。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではありません。あなたはそのようにしてそれに取りかかるなら、見失うでしょう-決して見つけないでしょう。重要であることは、努力の作り手と、彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかることです。それは、途方もなく大きな理解力、見守りを必要とします。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るにはです-高いものは安全 [であり] 、永久の実体です-しかし [それは] やはり思考 [の過程] とゆえに時間の過程にとどまっています。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

183避難民のマジレスさん:2020/08/12(水) 19:15:55 ID:2Vk6aJ6Y0
くまめも15-2
一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときの状態を経験することは、可能。そのとき、創造的であることがどんなことか、人がどんなときにも退廃・堕落のない状態がどんなものかを、見出す。私と貪欲は二つの違った状態ではない。ただ一つのものすなわち貪欲だけがある。
私は、自分が貪欲であることに気づくなら、私は社会的または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力する。その努力はいつも小さな制限された環のなかにある。ゆえに退廃・堕落する要因がある。
しかしもう少し厳密に見るとき、努力をする者が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることがわかる。ただ貪欲だけがあることがわかる。自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき疑問全体、それに対する応答は全く違ってくる。そのとき私たちの努力は破壊的ではない。
あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたはどうするか。「私」、上位の実体、制御し支配している戦士がいる。私にとって、その過程は破壊的。それは幻影。私たちはなぜそうするのかを知っている。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割する。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではない。そこには肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がない。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければならない。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではない。重要であることは、努力する者と彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかること。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るには途方もなく大きな理解力、見守りを必要とする。しかしそれはやはり思考の過程、時間の過程にとどまっている。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることがわかる。
(´・(ェ)・`)

184鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/12(水) 22:50:56 ID:1d4drIFg0
ただ一つの意識がある時創造的であり、退廃や堕落が無い状態を知れるのじゃ。
それは気付くことで得ることが出来るのじゃ。
そこには私という感覚も無いというのじゃ。
努力する主体がないと気付く時にそこに至るのじゃ。

185避難民のマジレスさん:2020/08/13(木) 19:32:38 ID:.8tmwG3Y0
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 1

 思考は私たちの問題を解決してきませんでしたし、いつか [解決] するだろうとは、私は思いません。私たちは、自分たちの複雑さからの抜け出し方を示してもらうために、知性に頼ってきました。知性がずるがしこく、恐ろしく大きく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなるのです。そして観念は私たち人間の問題のどれも解決しないのです。それらは [これまで] 決して [解決] してこなかったし、これからも決して [解決] しないでしょう。精神は解決法ではありません。思考のやり方は明白に、私たちの困難からの抜け出し方ではありません。私たちは初めに、この考える過程を理解するべきであるように、私には見えます。するとおそらく越えてゆくことができるでしょう-というのは、思考が止むとき、おそらく私たちは、自分たちの問題-個人的なものだけでなく、集団的なもの-を解決するのを助けてくれるであろう道を、見つけることができるでしょうから。
 考えることは私たちの問題を解決してきませんでした。利口な人たち、哲学者、学者、政治的指導者は、私たち人間の問題-それは、あなたともう一人との、あなたと私自身との間の関係です-のどれも、ほんとうに解決したことがありません。これまで私たちは、問題を究明するのを助けるために、精神、知性を使ってきました。それにより解決を見つけたいと願っているのです。思考はいったい私たちの問題を解消できるのでしょうか。思考は、実験室のなかや製図板の上でないかぎり、いつも自己を保護し、自己を永続させ、条件づけられていないでしょうか。その活動は自己中心的ではないでしょうか。そしてそういう思考は、思考自体が造り出した問題のどれかを、いったい解決できるのでしょうか。精神-すなわち問題を造り出したものは、それ自体が生み出したそれらのものごとを、解決できるのでしょうか。
 確かに、考えることは反応です。私があなたに質問をするなら、あなたはそれに応答します-あなたは、あなたの記憶、先入観、しつけ、気候・風土、あなたの条件づけの背景全体に応じて、応答します。あなたはそれらに応じて返答します。あなたはそれらに応じて考えます。この背景の中心が、行動の過程における「私」です。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになるのです。どんな種類の解決も-たとえどんなに利口でも、どんなによく考え抜かれても-人と人との間、あなたと私の間の葛藤・抗争を、決して終わりにすることができないのです。これを悟り、思考がどのように [発生し] 、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのです。
(´・(ェ)・`)つ

186避難民のマジレスさん:2020/08/13(木) 19:34:23 ID:.8tmwG3Y0
くまめも16-1
思考は私たちの問題を解決してこなかった。知性がずるがしこく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなる。そして観念は人間の問題のどれも解決しない。私たちは初めに、この考える過程を理解するべき。思考が止むとき、自分たちの問題を解決するのを助けてくれる道を、見つけることができるだろうから。
 考えることは反応。質問に対して、記憶、先入観、しつけ、気候・風土、条件づけの背景全体に応じて、応答する。この背景の中心が、行動の過程における「私」。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになる。これを悟り、思考がどのように、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのだ。
(´・(ェ)・`)

187鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/13(木) 22:52:59 ID:1d4drIFg0
思考は感情に左右されるから正確な判断はできないのじゃ。
感情を正当化するだけなのじゃ。
思考が止まった時だけ問題を解決する知恵が湧くのじゃ。
思考の発生を理解した時に思考は止まるのじゃ。

188避難民のマジレスさん:2020/08/14(金) 22:16:02 ID:87zFCRkc0
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 2

 それが問題の一つなのではないでしょうか。思考は私たちの問題を解決できるでしょうか。問題をよく考えることによって、あなたはそれを解決したことがあるでしょうか。経済的、社会的、宗教的などんな種類の問題でも、考えることによって今までほんとうに解決されたことがあるでしょうか。あなたが日常の生で、一つの問題について考えれば考えるほど、それはますます複雑に、優柔不断に、不確実になるのです。そうではないでしょうか-私たちの現実の、日常の生では。あなたは問題の一定の面を考え抜くなかで、他の人の視点がもっと明確に見えるかもしれません。しかし思考は問題の完全性と充足が見えないのです-それは部分的に見えるだけです。部分的な答えは完全な答えではありません。ゆえにそれは解決ではないのです。
 私たちは問題をよく考えれば考えるほど、究明し、分析し、議論すればするほど、それはますます複雑になるのです。それで問題を包括的に、全体的に見ることは可能でしょうか。どのようにしてこれは可能でしょうか。なぜなら、それが私たちの主要な困難であるように、私には見えるからです。私たちの問題は増加しつつあります-差し迫った・一触即発の戦争の危険があります。私たちの関係には、あらゆる種類の動揺があります-どのようにして私たちはそのすべてを、全体として包括的に理解できるのでしょうか。明白にそれは、私たちが全体として-区画・区分においてではなく、分割してではなく-それを見られるときだけ、解決できるのです。それはいつ(どんなとき)可能でしょうか。確かにそれは、考える過程が終わってしまったとき、可能であるだけです-その [考える過程の] 源は、「私」、自己に [ある] 、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にあるのです。私たちはこの自己を理解できるでしょうか-分析することによってではなく、あるがままのものごと見ること [により] 、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって [理解できるでしょうか] -結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって [理解できるでしょうか] 。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、私たちはそれを見つめられるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。私たちの各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わるでしょう!
 自己は思考が解決できない問題です。思考のものではない答えがあるにちがいありません。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分です。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にあるのです。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、私たちはやはり思考の領域の中にあります-すなわち「私me」、「私I」、自我の、何であれ [それの] 領域の中にあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

189避難民のマジレスさん:2020/08/14(金) 22:17:06 ID:87zFCRkc0
くまめも16-2
問題について考えるほど、ますます複雑になる。思考は問題の完全性と充足が見えない。部分的に見えるだけ。部分的な答えは完全な答えではない。ゆえにそれは解決ではない。
どうやって問題を全体として包括的に理解するか。それは、全体として見られるときだけ、解決できる。それは、考える過程が終わったとき、可能。考える過程の源は、「私」、自己に、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にある。この自己を、分析することによってではなく、あるがままのものごと見ることにより、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって理解できるか。結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって理解できるか。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、それを見つめられるか。それが問題。各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わる!
自己は思考が解決できない問題。思考のものではない答えがある。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを、変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にある。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、やはり思考の領域の中にある。すなわち「私me」、自我の領域の中にある。
(´・(ェ)・`)

190避難民のマジレスさん:2020/08/15(土) 21:23:53 ID:dnNbHAY60
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 3

 精神の活動が存在しているかぎり、確かに愛はありえません。愛があるとき、私たちはどんな社会的問題も持たないでしょう。しかし愛は何か取得されるものではありません。精神は、新しい思考、新しい道具・装置、新しい考え方 [を取得するの]と同じように、それを取得しようと求めることはできます。しかし思考が愛を取得しようとしているかぎり、精神は愛の状態にありえません。精神が無欲の状態であろうと求めているかぎり、確かにそれはやはり貪欲なのではないでしょうか。同様に精神が、[そこに] 愛のある状態にあるために、願い、願望し、実践するかぎり、確かにそれはその状態を否定するのではないでしょうか。
 この問題、この複雑な生きることの問題が見えて、私たち自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき-私たちが深くそれを悟るとき、そのとき確かに、個人的でも集団的でもない智恵の状態があるのです。そのとき個人と社会、個人と共同体、個人と真実との関係の問題は止むのです。なぜなら、そのとき智恵だけがあるからです-それは個人的・人格的でも非個人的・非人格的でもないのです。私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみであると、私は感じます。それは結果ではありえません。それは、私たちがこの考えることの過程全体、総体を-意識的な水準においてだけでなく、また意識のより深い隠れた水準においても-理解するときだけ、生じるのです。
 これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静かな精神、とても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければなりません。それが私たちの困難の一つです-なぜなら思考は散漫になってしまったからです。私は何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいいのです-私はそれを見つめるのです。私はそれについて考え [始め] 、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ているのです。それで思考は、あなたが問題を持つとき、散漫になるのです-思考は観念、意見、判断、比較です-それは、私たちが問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げるのです。不幸にも私たちのほとんどにとって、思考はあまりに重要になってしまったのです。あなたは「どのようにして私は考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして私は空白の精神を持てるのか」と、あなたは言います。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいることです。あなたの本能的反応はそれを拒絶することです。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神、開けた精神は、とても直接的に、とても単純に、問題を見つめられるのです。それでただ一つの解決であるのは、私たちの問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力です。そのためには、静かな精神、平静な精神がなくてはなりません。
 そういう精神は、実践、瞑想、制御の結果ではありません。最終産物・成果ではありません。それは、「私」の、思考のどんな努力もなく、どんな形の修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じるのです。それは、私が考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じるのです。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛があるのです。そして私たち人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)つ

191避難民のマジレスさん:2020/08/15(土) 22:03:29 ID:dnNbHAY60
くまメモ16-3複雑な生きることの問題が見えて、自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき、智恵の状態がある。そのとき個人と社会、個人と真実との関係の問題は止む。なぜなら、そのとき智恵だけがあるから。それは私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみである。それは結果ではありえない。それは、この考えることの過程全体、総体を理解するときだけ、生じる。これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければならない。それが私たちの困難の一つ。なぜなら思考は散漫になってしまったから。何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいい。それを見つめる。それについて考え、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ている。それで思考は、問題を持つとき、散漫になる。思考は観念、意見、判断、比較。それは、問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げる。どのようにして考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして空白の精神を持てるのかと、あなたは言う。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいること。本能的反応はそれを拒絶する。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神は、とても直接的に、単純に、問題を見つめられる。それでただ一つの解決であるのは、問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力。そのためには、平静な精神がなくてはならない。そういう精神は、思考のどんな努力も、修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じる。それは、考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じる。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛がある。そして人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)

192鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/16(日) 00:22:12 ID:1d4drIFg0
精神とはオショーがマインドとよぶものじゃな。
思考とか感情などの心の働きなのじゃ。
それは常に自我の制約を受けているから現実には役に立たないのじゃ。
それを理解する時、気付きがあるのじゃ。
そして智慧が起こるのじゃ。

193避難民のマジレスさん:2020/08/16(日) 21:56:59 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 1

 あなたは自分自身の精神を観察するとき、いわゆる精神の上の(ほうの)水準だけではなくて、また無意識をも見守っているのです。あなたは、精神が現実に何をするのかを見ているのではないでしょうか。それが、あなたが究明できる唯一の仕方です。それが何をするべきか、それがどのように考えたり行動したりするべきか、などを重ね合わせないでください。それは(結果的に)たんなる発言をすることになるでしょう。すなわち、あなたは、精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまうのです。または、あなたは何か高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまうのではないでしょうか。あなたがブッダやキリストやXYZを引用するなら、追求すべて、考えることすべて、究明すべてに終わりがあるのです。ですからそれに対して用心し・警戒しなければなりません。あなたは私と一緒にこの自己の問題を究明しようとするなら、これらすべての精神の微妙さを、脇へ置かなければなりません。
 精神の機能とは何でしょうか。それを見出すには、あなたは、精神が現実に何をしているのかを知らなければなりません。あなたの精神は何をするのでしょうか。それはすべて考える過程なのではないでしょうか。そうでないと、精神はないのです。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はありません。私たちは、日常の生で用いる精神、また私たちのほとんどが意識していない精神が、私たちの問題に関して何をするのかを、見出さなければなりません。私たちは、あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければなりません。
 では、あるがままの精神はどんな機能をしているでしょうか。それは現実には孤立(化)の過程なのではないでしょうか。根本的に、それが思考の過程なるものです。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なままです。あなたは自分自身の考えを観察するなら、それが孤立した断片的な過程であるのが、わかるでしょう。あなたは、あなたの反応に応じて考えています-あなたの記憶、経験、知識、信念の反応、です。あなたはそのすべてに反応しているのではないでしょうか。根本的革命がなければならないと、私が言うなら、あなたは即時に反応します。あなたは、霊的 [・精神的] にしろそうでないにしろ、有利な投資を持っているなら、その「革命」という言葉に反対するでしょう。それであなたの反応は、あなたの知識、信念、経験に依存しているのです。それは明白な事実です。色んな形の反応があります。「私は兄弟のように(親しく)しなければならない」、「私は協力しなければならない」、「私は仲良くしなければいけない」、「私は親切でなければならない」、など。これらは何でしょうか。これらはすべて反応です。しかし、考えることの根本的反応は、孤立(化)の過程です。あなたは、あなたたち各自は、自分自身の精神の過程を見守っているのです-それは、あなた自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味です。これらすべては安全を与えてくれるのではないでしょうか。それらは安全を与え、考える過程に強さを与えてくれるのです。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけです-その自己を高いと [呼ぼうと] 低いと呼ぼうと、です。私たちの宗教すべて、私たちの社会的認可すべて、私たちの法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにあるのです。そしてその反対に、全体主義的国家があるのです。あなたが無意識の中にもっと深く入ってゆくなら、そこでもまた、働いているのは同じ過程です。そこでは私たちは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体なのです。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

194避難民のマジレスさん:2020/08/16(日) 22:00:48 ID:8a63LH/E0
くまめも17-1
精神が現実に何をするのかを見る。それが、自己の問題を究明できる唯一の仕方。
精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまう。
高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまう。
精神の機能とは何か。それはすべて考える過程。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はない。あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければならない。
あるがままの精神はどんな機能をしているか。それは孤立化の過程。根本的に、それが思考の過程。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なまま。
反応に応じて考えている−記憶、経験、知識、信念の反応。
反応は、知識、信念、経験に依存している。
考えることの根本的反応は、孤立化の過程。各自は、自分自身の精神の過程を見守っている−それは、自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味。これらすべては安全を与え、考える過程に強さを与えてくれる。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけ。宗教、社会的認可、法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにある。そしてその反対に、全体主義的国家がある。無意識の中でもまた、働いているのは同じ過程。そこでは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望がある。
(´・(ェ)・`)

195鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/16(日) 22:17:54 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティはほぼ考えを精神と言っているようじゃ。
社会や親などによって条件付けされた精神は自己を支えるためにあるというのじゃ。
利己主義なのじゃ。
自分という観念を補強するだけの志向性を持っているのじゃ。

196避難民のマジレスさん:2020/08/17(月) 22:02:28 ID:1yezVXyg0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 2

 精神の機能は、私たちが知っているように、日常機能しているように、孤立(化)の過程ではないでしょうか。あなたは個人的な救いを求めていないでしょうか。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしています。またはまさにこの生・世において、あなたは偉大な人、偉大な作家であろうとしています。私たちの傾向全体は分離することです。精神はそれ以外に何かできるでしょうか。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、可能でしょうか。それは不可能です。それで私たちは精神を崇拝するのです。精神はとてつもなく重要です。あなたは、自分がほんの少しずるがしこく、ほんの少し鋭敏で、蓄積した情報と知識を少し持った瞬間、自分がどんなに社会で重要になるのかを、知らないでしょうか。知的にすぐれている人たち、法律家・弁護士、大学教授、演説者、偉大な作家、説明家、解説者を、あなたがどんなに崇拝するか、知っているでしょう!あなたは知性と精神を育成してきたのです。
 精神の機能は分離することです。そうでないと、あなたの精神はないのです。私たちは幾世紀の間この過程を育成してきたので、私たちは協力できないことがわかるのです。私たちは、経済的でも宗教的でも権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけです。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、どのようにして協力がありうるでしょうか。どのようにして何かをするために智恵が集まりうるでしょうか。それはほとんど不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いるのです。私たちが集まりたい、一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなるのです。
 この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たないでしょう。私たちは常なる抗争と戦争を持つでしょう。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか、です。思考は言葉に表す [過程] と反応の過程ですが、それはいったい自己を破壊できるのでしょうか。思考は反応以外の何ものでもありません。思考は創造的ではありません。そういう思考はそれ自体を終わりにできるでしょうか。それが、私たちが見出そうとしていることです。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練しているのです。それは孤立(化)の過程ではないでしょうか。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではないのです-それ [智恵] からのみ、協力がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

197避難民のマジレスさん:2020/08/17(月) 22:11:05 ID:1yezVXyg0
くまめも17-2
精神の機能は、孤立化の過程。
あなたは個人的な救いを求めている。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしている。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、不可能。それで私たちは精神を崇拝する。
精神の機能は分離すること。私たちは協力できない。権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけ。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、協力、何かをするために智恵が集めることは不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いる。私たちが一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなる。
この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たない。私たちは常なる抗争と戦争を持つ。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか。思考は言葉に表す過程と反応の過程だが、それはいったい自己を破壊できるか。思考は反応。思考は創造的ではない。そういう思考はそれ自体を終わりにできるか。それが、私たちが見出そうとしていること。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練している。それは孤立(化)の過程。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではない。智恵からのみ、協力がありうる。
(´・(ェ)・`)

198鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/17(月) 23:36:56 ID:1d4drIFg0
思考はものごとを分類して記憶する機能が在るのじゃ。
草の種類とか動物の種族とかにどんどん分類していくのじゃ。
それが自己をも分類するのじゃ。
どこの国の者とかどこの地域のものとかのう。
それが争いを生み自己を破壊していくのじゃ。

199避難民のマジレスさん:2020/08/18(火) 20:19:02 ID:cj1chvzQ0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 3

 あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
 あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
 私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
 協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
(´・(ェ)・`)つ

200避難民のマジレスさん:2020/08/18(火) 20:22:29 ID:cj1chvzQ0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 3

 あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
 あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
 私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
 協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
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201鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/18(火) 22:51:37 ID:1d4drIFg0
思考の終わりを目指すには修練ではいかんというのじゃ。
それは更なる自己強化に繋がるからなのじゃ。
思考の過程自体を理解できれば思考は終わるというのじゃ。
それは自分が行くのではなく、訪れるものというのじゃ。

202避難民のマジレスさん:2020/08/19(水) 23:18:06 ID:227hnK8M0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞 1

 私は、自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自体と他のものに課す・賦課する欺き・妄想・惑わしを-議論したり考慮したりしたいように思います。それはとても深刻な事柄です-特に世界が向き合っている種類の危機においては。しかし、この自己欺瞞の問題全体を理解するためには、私たちはたんに言葉の水準においてだけでなくて、本来的に、根本的に、深く、それに付いていかなければなりません。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎています。私たちは世間ずれして賢いのです。世慣れているので、わたしたちにできることは、何かが起きることを願うことばかりです。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかります。無数の歴史家、神学者、宗教的な人たちが、戦争とそれがどのようにして生じるのかを説明していますが、戦争はやはりつづきます-おそらく今までよりもっと破壊的でしょう。私たちのうちでほんとうに熱意のある人たちは、戦争を乗り越えなければなりません。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければなりません。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済です。
 同様に、私たちはこの種の自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきであると、私は思います。私は提案してよければ、私たちはたんに話し手に聴くだけではなく、私たちが日常の生において知っているような問題に付いていくべきです。すなわち、私たちは考えることと行動において自分たち自身を見守る [べきである]- 私たちがどのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべきです。
 自己欺瞞のための理由、基礎は何でしょうか。私たちのうちどれほど多くが、私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づいているでしょうか。私たちは「自己欺瞞とは何なのか、そしてそれはどのようにして生じるのか」という疑問に答えられる前に、私たちが自分たち自身を欺いていることに気づかなければならないのではないでしょうか。私たちは自分たち自身を欺いていることを知っているでしょうか。私たちのいうこの欺瞞とはどういう意味でしょうか。それがとても重要であると、私は思います。なぜなら、私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなるからです。というのは、それは一定の活力・生命力、一定のエネルギ-、一定の能力を与えてくれるからです- それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いるのです。それで次第に私たちは自分自身に [欺瞞を課している] だけではなく、他の人たちにも欺瞞を課しているのです。それは自己欺瞞の相互に作用する過程です。私たちはこの過程に気づいているでしょうか。私たちは、自分たちはとても明晰に、目的を持って、直接的に考える能力があると、考えます。私たちは、この考える過程に自己欺瞞があることに、気づいているでしょうか。
 思考自体が、探求の過程 [であり] 、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたい(良い評判を得たい)という願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、ではないでしょうか。政治的に、宗教社会学的に、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因ではないでしょうか。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出さないでしょうか、もたらさないでしょうか。これを例に取りましょう。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持っています。私たちは年を取れば取るほど、ますます興味を持つようになるのです。私たちはそれの真理が知りたいのです。どのようにして見つけるのでしょうか。確実に、読書によってではなく、また違った説明をとおしてでもありません。
(´・(ェ)・`)つ

203避難民のマジレスさん:2020/08/19(水) 23:19:26 ID:227hnK8M0
くまめも18-1
自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自他に課す欺き・妄想・惑わしを-議論したい。それはとても深刻な事柄。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎている。私たちは世慣れているので、わたしたちにできることは、何、かが起きること利子、を願うことばかり。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかる。戦争を乗り越えなければならない。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければならない。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済。
 同様に、自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきである。どのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべき。
 自己欺瞞のための理由、基礎は何か。私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づかなければならない。私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなる。というのは、それは一定の活力・生命力、エネルギ-、能力を与えてくれるから−それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いる。それで次第に私たちは自分自身にだけではなく、他人にも欺瞞を課している。それは自己欺瞞の相互に作用する過程。
 思考自体が、探求の過程、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたいという願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出す。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持つ。私たちはそれの真理が知りたい。どのようにして見つけるのか。
(´・(ェ)・`)

204鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/20(木) 23:10:46 ID:1d4drIFg0
そもそも自分があるという観念が最も大きな自己欺瞞と言えるのじゃ。
それは無いものであるからのう。
自分があるという欺瞞から思考にも我欲が起こるのじゃ。
そして自己の正当化とか安全に評判を得たいとか思うようになるのじゃ。

205避難民のマジレスさん:2020/08/21(金) 21:05:29 ID:OIJS2RiY0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞2

 あなたはどのようにしてそれを見出すのでしょうか。初めにあなたは、道をふさいでいる(邪魔になっている)あらゆる要因を、自分の精神から完全に除かなければなりません-あらゆる希望、継続したいというあらゆる願望、あの反対側に何があるのかを見出したいというあらゆる願望を、です。なぜなら、精神は常に安全を求めているからです。それは継続したいという願望を持つし、充実の手段を、未来の存在を願うからです。そういう精神は死後の生の真理、輪廻転生やどんなのでも求めていますが、その真理を発見する能力がないのではないでしょうか。重要であることは、輪廻転生が真実であるのかないのかではなくて、いかに精神が自己欺瞞をとおして、あるかもないかもしれない事実について正当化を求めるのか、 [ということ] です。重要であることは、問題への接近方です-どんな動機、どんな衝動、どんな願望をもって、あなたがそれに近づくか、です。
 求める者はいつもこの欺瞞を自分自身に課しています。誰もそれを彼に課せません。彼自身がそうするのです。私たちは欺瞞を造り出して、その奴隷になるのです。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望です。私たちは、この世で何ものかでありたいと思うことの結果を、知っています。それは全くの混乱です-そこでは各自が互いに競争しあい、平和の名において互いに破壊しあっています。あなたは、私たちが互いに遊びあうゲ-ム全体を知っています-それはとてつもない形の自己欺瞞です。同様に、私たちはあの世での安全、地位が欲しいのです。
 それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、私たちは自分たち自身を欺きはじめるのです。精神が [それ] から自由であることはとても難しいことです。それが私たちの生の基本的問題です。この世界(世)に生きて、何ものでもないことは可能でしょうか。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由があるのです。なぜなら、そのときだけ、精神は結果を求めていないからです-精神は満足できる答えを求めていない。精神はどんな形の正当化も求めていない。精神はどんな形、どんな関係にも安全を求めていないのです。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、あらゆる形の正当化、安全を捨て去るときだけ、それは起きるのです-それは、そのとき精神が完全に何ものでもない能力がある、という意味です。それは可能でしょうか。
 私たちがどんな形でも自分たち自身を欺むくかぎり、愛はありえません。精神が妄想を造り出して、それ自体に賦課する能力があるかぎり、明白に集合的・総合的または統合的理解からそれ自体を分離するのです。それが私たちの困難の一つです。私たちはどのように協力するのかを知らないのです。私たちが知っているすべては、私たち双方が生じさせる・生み出す目的に向かって一緒に働こうとすることです。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうるのです。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能なだけである、ということです。あなたと私が何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念とその他すべてが必要になります-自己投影されたユ-トピア [・理想郷] が必要なのです。しかし、あなたと私がどんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、匿名で・名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

206避難民のマジレスさん:2020/08/21(金) 21:17:33 ID:OIJS2RiY0
くまめも18-2
真理を見出す邪魔になる要因、あらゆる願望を、自分の精神から完全に除く。精神は常に安全を求め、継続したいという願望を持ち、充実の手段を、未来の存在を願う。そういう精神は死後の生の真理を求めているが、その真理を発見する能力がない。重要なのは、①いかに精神が自己欺瞞をとおして、ないかもしれない事実について正当化を求めるのか。②問題への接近方−どんな動機、衝動、願望をもって、それに近づくか。
求める者はこの欺瞞を自分自身に課し、その奴隷になる。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望。
それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、自分たち自身を欺きはじめる。精神がそれから自由であることはとても難しい。この世界に生きて、何ものでもないことは可能か。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由がある。なぜなら、そのときだけ、精神は結果、満足な答え、正当化、安全を求めていないから。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、正当化、安全を捨て去るときだけ、精神が完全に何ものでもない能力がある。
私たちはどのように協力するのかを知らない。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうる。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能ということ。何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念が必要になる−自己投影されたユ-トピアが必要。しかし、どんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力がある。
(´・(ェ)・`)

207鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/21(金) 22:42:30 ID:1d4drIFg0
願望とは欲とも言えるのじゃ。
自己の安全を求める精神は欲から離れられないのじゃ。
それは不安から起こるものであるからのう。
その欲に執り付かれている精神が自我の無存在を見るはずも無いのじゃ。
それは自分が消えることであると感じてしまうからのう。

208避難民のマジレスさん:2020/08/22(土) 20:59:33 ID:sMoqNXgI0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞3

 私たちが協力すること、私たちが目的を視野に入れずに一緒にいることは、可能でしょうか。あなたと私は、結果を求めずに一緒に働けるでしょうか。確かにそれが真の協力なのではないでしょうか。あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何でしょうか。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っています。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれません-それは欺瞞をもたらし、あなたと私の間に葛藤・抗争をもたらすのです。それは私たちの日常の生において明白で観察できる事実です。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意します。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっているのです。私は自分の満足のために結果が欲しいのです。私は支配したいのです。私はあなたと一緒に働いていると言われるけれども、自分の名前をあなたの前に置きたいのです。それで私たち二人は、その計画の創案者ですが、たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
 あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、あなたと私が協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか-私たちが表面的な水準においてだけではなくて、根本的に、ほんとうに、真に協力することができるかどうかを、です。それが私たちの最大の問題の一つ、おそらく最大のものです。私は自分自身を一つの対象と同一化しますし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化します。私たち二人がそれに興味があるのです。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図しています。確かにこの考える過程はとても表面的です。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすからです-それは私たちの日常の生においてあまりに明白です。あなたはヒンドウ-教徒で、私はキリスト教徒です。私たちは共に同胞愛を説きますし、私たちは互いの喉元にいる [互いに争っている] のです。なぜでしょうか。それが私たちの問題の一つなのではないでしょうか。無意識的に、深く、あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持っています。同胞愛について話しをすることにより、私たちは信念の問題全体を解決しなかったのです。私たちは理論的、知的に、これはそうであるべきだと、同意しただけです。内側で、深く、私たちは互いに敵対して・逆らっているのです。
 私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえません。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせません。
(´・(ェ)・`)つ

209避難民のマジレスさん:2020/08/22(土) 21:10:05 ID:sMoqNXgI0
くまめも18-3
あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何か。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っている。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれない−それは欺瞞、葛藤・抗争をもたらす。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意する。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっている。私は自分の満足のために結果が欲しい、支配したい。たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
 あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要。私は自分自身を一つの対象と同一化するし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化しする。私たち二人がそれに興味がある。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図している。この考える過程はとても表面的。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすから。
 私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえない。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせない。
(´・(ェ)・`)

210鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/22(土) 22:50:33 ID:1d4drIFg0
そもそも自分がいて他人が居るという観念から孤立が起こるのじゃ。
それを誤魔化して協力するということはできないのじゃ。
それもまた欺瞞になるからのう。
自他の区別が無い時、真の協力もありえるのじゃ。

211避難民のマジレスさん:2020/08/23(日) 17:26:23 ID:cvVqWIyM0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞4

 信念は協力をもたらしません。反対にそれは分割します。私たちは、いかに一つの政党がもう一つに敵対・対抗して、それぞれが経済的問題を扱う一定のやり方を信じているか、それでそれらが皆互いに戦いあっているかが、わかります。それらは例えば飢餓の問題を解決するなかで解決されないのです。それらは、その問題を解決するであろう理論に、関心があるのです。それらは、現実には問題自体に [関心があるわけ] ではなくて、 [それにより] 問題が解決されるであろう方法に関心があるのです。ゆえに二つの間に争いがあるにちがいないのです。なぜなら、それらは問題にではなく、観念に関心があるからです。同様に、宗教的な人たちも、言葉では自分たちは皆一つの生命、一つの神を持っていると言うけれども、互いに敵対・対抗しているのです。あなたはそのすべてを知っています。内側で、彼らの信念、彼らの意見、彼らの経験は、彼らを破壊しているし、分離しているのです。
 経験は、私たち人間の関係において分割させる要因になります。経験は欺瞞の道です。私は何かを経験した(ことがある)なら、それにすがりつきます。私は経験する過程の問題全体に入ってゆきません。なぜなら私は経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくからです。それにより私はその経験をとおして自己欺瞞を課すのです。
私たちの困難は、私たち各自が特定の信念と [同一化し] 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、私たちの精神がそれに捕らえられ、私たちが問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということです。ゆえに私たちは自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望するのです。私たちが理解をとおして-表面的な水準でだけではなく、またもっと深いレベルでの-それらを解消するまでは、世界に平和はありえません。そういうわけで、ほんとうに真剣である人たちが、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を-表面的な水準でだけではなくて根本的に深く理解することが、重要なのです。そうでないと、世界に平和はありえません
 真理は何か獲得されるものではありません。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ません。確かにそういうものは、精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来るのです -それ[動きと信念]は、精神が 頼れるもの、 [そこから] 一定の強さを引き出してくる [ところの]もの -すなわち自己欺瞞の表示であるものです。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけです。そのときだけ精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ないのです。そのときだけ、 [そこに] どんな種類の欺瞞もない状態の可能性が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ

212避難民のマジレスさん:2020/08/23(日) 17:31:54 ID:cvVqWIyM0
くまめも18-4
信念は協力をもたらさない。反対にそれは分割する。問題解決につき、敵対・対抗する者たちがそれぞのやり方を信じ、互いに戦いあっているが、それらは、現実には問題自体に関心があるわけではなくて、問題が解決されるであろう方法、理論(観念)に関心がある。ゆえに二つの間に争いがある。内側で、彼らの信念、意見、経験は、彼らを破壊しているし、分離している。
経験は、人間関係を分割させる要因。経験は欺瞞の道。何かを経験したなら、それにすがりつく。経験する過程の問題全体に入ってゆかない。なぜなら経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくから。それによりその経験をとおして自己欺瞞を課す。
私たちの困難は、各自が特定の信念と 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、精神がそれに捕らえられ、問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということ。ゆえに自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望する。理解をとおして、それらを解消するまでは、世界に平和はありえない。そういうわけで、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を根本的に深く理解することが、重要。そうでないと、世界に平和はありえない。
真理は獲得されるものではない。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ない。精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来る−動きと信念は、精神が 頼れるもの、 そこから一定の強さを引き出してくるもの -すなわち自己欺瞞の表示であるもの。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけ。そのときだけ、精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ない。そのときだけ、どんな欺瞞もない状態の可能性が、ある。
(´・(ェ)・`)

213鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/23(日) 22:54:00 ID:1d4drIFg0
イデオロギーの違いに拠って人は戦争をしたりするのじゃ。
信念は争いの道具でしかなかったのじゃ。
人はそれと自己同一化している故に命までかけて戦うのじゃ。
信念が否定されれば自分の全てが否定されたと感じるからのう。
そのような自己同一化が無い時にのみ平和が在るのじゃ。

214避難民のマジレスさん:2020/08/24(月) 20:39:32 ID:fBHCYJXA0
最初と最後の自由  第一部

第十九章 自己中心的な活動 1

 私たちのほとんどは、あらゆる形の説得、あらゆる種類の誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきたことに気づいていると、私は思います。諸宗教は、約束をとおし、地獄の恐れをとおし、あらゆる形の非難をとおして、違った仕方で、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきました。これらが失敗したあと、政治的組織が引き継ぎました。そこでもまた説得です。そこでもまた究極のユ-トピア的希望です。とても制限されたものから強制収容所を含む極端なものまで、あらゆる形の法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきました。それでも私たちは自分の自己中心的活動をそのまま続けます-それは、私たちが知っているように見えるただ一つの種類の活動です。私たちはとにかくそれについて考えるなら、修正しようとします。私たちはそれに気づくなら、その進路を変えようとします。しかし、根本的に、深く、変容はないのです。その活動の根源的停止はないのです。思慮深い人たちはこれに気づいています。彼らはまた、その中心からの活動が止むとき、そのときだけ幸せがありうることにも、気づいています。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で(当然で)ある、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然のことと思っています。そこで、誠実ではなく-なぜなら、誠実さは自己欺瞞の道であるからです-もう少し真剣で、もっと熱心である人たちは、このとてつもない自己中心的活動の総合過程に気づくと、 [それを] 越えてゆけるかどうかを、見出さなければなりません。
 自己中心的活動とは何なのかを理解するには、明白にそれを検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければなりません。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性があるのです。しかし、それに気づくには、一定の理解 [を必要とする] 、それを解釈するのではなく、修正するのではなく、非難するのではなく 、あるがままのものごとに向き合おうとする一定の意図を必要とするのです。私たちは自分たちが何をしようとしているのかに [気づかなければならない] 、その自己中心的状態から発生する活動すべてに気づかなければなりません。私たちはそれを意識しなければなりません。私たちの第一の困難の一つは、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したいのです。それで、それを直接的に見つめることがほとんどできないのです。私たちが(意識)するとき、私たちのほとんどは何をすべきなのかを知る能力がないのです。
 自己中心的活動は有害であり、破壊的であること、あらゆる形の同一化-国との、特定の集団との、特定の願望との [同一化] 、この世でもあの世・来世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範の追求、美徳の追求、などといったもの-が、本質的に自己中心的な人物の活動であることを、私たちは悟ります。自然との、人々との、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたものです。このすべてを知るとき、どうすべきなのでしょうか。そういう活動はすべて-自分で課してではなく、影響されてではなく、導かれてではなく-自発的に終わらなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

215避難民のマジレスさん:2020/08/24(月) 20:45:04 ID:fBHCYJXA0
くまめも19-1
説得、誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきた。諸宗教は、約束.地獄の恐れ.非難をとおして、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきた。これが失敗したあと、政治的組織が引き継いだ。そこでもまた説得、法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきた。それでも私たちは自己中心的活動をそのまま続けてきた。私たちはそれについて考えるなら、修正しようとする。それに気づくなら、その進路を変えようとする。しかし、その活動の根源的停止はない。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で当然である、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然と思っている。そこで、もう少し真剣、熱心な人たちは、この自己中心的活動の総合過程に気づくと、それを越えてゆけるかを、見出さねばならない。
自己中心的活動とは何かを理解するには、検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければならない。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性がある。それに気づくには、一定の理解を必要とする、それを解釈、修正、非難するのではなく、あるがままのものごとに向き合おうとする意図を必要とする。自己中心的状態から発生する活動すべてに気づき、それを意識しなければならない。私たちの第一の困難は、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したい。それで、それを直接的に見つめることができない。私たちが意識するとき、私たちは何をすべきなのかを知る能力がない。
自己中心的活動は有害、破壊的であること、
特定の集団との、特定の願望との同一化、この世でもあの世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範、美徳の追求、等といったものが、本質的に自己中心的な活動であることを、私たちは悟る。自然、人々、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたもの。このすべてを知るとき、そういう活動はすべてを自発的に終わらなければならない。
(´・(ェ)・`)

216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/24(月) 22:42:54 ID:1d4drIFg0
エゴから来る活動は欲とか保身から起こるものじゃ。
宗教や国家はそれを抑制して公共のために人を働かそうとするのじゃ。
しかし、そのような外からの強制では何も変らないのじゃ。
自らが全てであるという真の気づきからのみ人は変るのじゃ。

217避難民のマジレスさん:2020/08/25(火) 21:54:24 ID:peDpOx2g0
最初と最後の自由  第一部

第十九章 自己中心的な活動 2

 私たちのほとんどは、この自己中心的活動が災いと混沌を造り出すことに、気づいています。しかし、私たちは一定の方向において、それに気づいているだけです。私たちは他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自分たち自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思うのです。私たちはそれを扱うことができる前に、どのようにしてこの過程が生じるのかを知らなければならないのではないでしょうか。何かを理解するためには、私たちはそれを見つめる能力がなければなりません。そして見つめるには、意識的とともに無意識的な違った水準でのその様々な活動を-意識的な指示と、また私たちの無意識的な動機と意図の自己中心的な動きをも-知らなければなりません。
 私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけなのではないでしょうか。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識するのです。そのとき抵抗 [があるし] 、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形があるのです-それ [目的]は、私に喜び、満足を与えてくれるでしょう。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づきます。確かに、意識的に美徳を追求する人は、美徳がありません。謙虚さは追求できません。それが謙虚さの美しさです。
 この自己中心的過程は、時間の結果なのではないでしょうか。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがありますし、私は、未来と結合した過去と現在を意識します。「私」の自己中心的活動は時間の過程です。中心すなわち「私」の活動に連続・継続性を与えるのは、記憶です。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の[過程] 、経験する[過程] 、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかるでしょう。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかるでしょう-それもまた精神の過程です。
 精神はこのすべてから自由でありうるでしょうか。それは希な瞬間に可能であるかもしれません。それは、私たちが意識的でない、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれません。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることはいったい可能でしょうか。それは、私たち自身に提出されるとても重要な疑問です。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるでしょうから。あなたは、この自己中心的活動の総合過程に気づき、あなたの意識の違った水準で、その活動を充分に認識するなら、そのとき確かに、その活動が終わることが可能なのかどうかを、自分自身に訊ねなければなりません。時間という見地に立って考えないこと、私は [将来] 何であるべきか、 [過去から現在まで] 何であったか、 [現在] 何であるのかという見地に立って考えないことは可能でしょうか。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の過程全体が始まるからです。またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まります-それはすべて時間の過程です。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見えるのです。
(´・(ェ)・`)つ

218避難民のマジレスさん:2020/08/25(火) 21:59:12 ID:peDpOx2g0
くまめも19-2
自己中心的活動が災いと混沌を造り出す。他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思う。
私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけ。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識する。そのとき抵抗があるし、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形がある-目的は、私に喜び、満足を与える。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づく。意識的に美徳を追求する人は、美徳がない。謙虚さは追求できない。それが謙虚さの美しさ。
この自己中心的過程は、時間の結果。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがあるし、私は、未来と結合した過去と現在を意識する。「私」の自己中心的活動は時間の過程。中心すなわち「私」の活動に連続性を与えるのは、記憶。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の過程、経験する過程、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかる。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかる-それもまた精神の過程。
 精神はこのすべてから自由でありうるか。それは希な瞬間に可能であるかもしれない。それは、私たちが意識的、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれない。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることは可能か。それは、重要な疑問。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるから。この自己中心的活動の総合過程に気づき、その活動を充分に認識するなら、そのとき、その活動が終わること、時間という見地に立って考えないこと、私は将来何であるべきか、 過去から現在まで何であったか、現在何であるのかと見地に立って考えないことは可能か。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の結果またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まる−それはすべて時間の過程。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見える。
(´・(ェ)・`)

219鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/25(火) 22:54:28 ID:1d4drIFg0
なんらかの抵抗がある時、あるいは執着がある時、自我は主体として意識されるのじゃ。
それも記憶に基づいているのじゃ。
連続する自己があるという観念から時間の経過を恐れ、欲も起こるのじゃ。
今ここで観ることができればそれらも瞬時に消えるのじゃ。

220避難民のマジレスさん:2020/08/26(水) 19:48:06 ID:5PNHw7hQ0
最初と最後の自由  第一部

第十九章 自己中心的な活動 3

 確かに、時間の過程は革命的ではありません。時間の過程には変容はありません。連続性だけがあって終わりはありません。認識以外に何もありません。革命、変容 [がある] 、新しいものが生じることがあるのは、あなたが、時間の過程の、自己の活動の完全な停止を持つときだけです。
 その活動における「私」の、この全体的総合的な過程に気づくとき、精神は何をするべきなのでしょうか。新しいものがあるのは-進化をとおしてではなく、「私」がなることをとおしてではなく、「私」が完全に終わることをとおしての-新生をもってだけ、革命をもってだけです。時間の過程は新しいものをもたらせません。時間は創造の道ではありません。
 あなたたちのうち誰かが創造性の瞬間を持ったことがあるかどうか、私は知りません。私は何かの幻覚・幻想を実行に移すことについて話していません。私のいうのは、認識がないときのあの創造の瞬間、という意味です。その瞬間には、 [そこに] 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった(あの)とてつもない状態があるのです。私たちは気づくなら、その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、それから同一化する経験者がいないことが、わかるでしょう。思考過程、すなわち時間の [過程] がないのです。その創造の [状態] 、新しいもの-すなわち時間のないもの-の創造性の状態には、「私」の作用 [・行動] が全くないのです。
 私たちの疑問は、確かにこうです-精神が瞬間的にではなく、希な瞬間にではなく、その状態にあることは [可能でしょうか] -私は「永遠」とか「永久」とかいう言葉をむしろ使いたくないのです。なぜなら、それは時間という意味を含んでいるからです-時間を顧慮・考慮せずに、その状態にあることは、可能でしょうか。確かにそれは、私たち各自がなすべき重要な発見です。なぜなら、それが愛への扉であるからです。他の扉はすべて自己の活動です。自己の作用 [・行動] があるところ、愛はありません。愛は時間のものではありません。あなたは愛を実践できません。あなたが [実践] するなら、そのときそれは、愛することをとおして結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動です。
 愛は時間のものではありません。あなたはどんな意識的な努力をとおしても、どんな修練をとおしても、同一化をとおしても、それに思いがけず出会えません-それはすべて時間の過程のものです。精神は時間の過程だけを知っていますが、愛を認識できません。愛が唯一の永遠に新しいものです。私たちのほとんどは、精神-すなわち時間の結果であるもの-を育成してきたから、私たちは愛が何であるかを知らないのです。私たちは愛について話しをします。私たちは人々を愛している、自分の子供たち、妻、隣人を愛している、自然を愛していると、私たちは言います。しかし、私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じたのです。ゆえにそれは愛であることを止めるのです。
 この精神の総合過程は、関係-自然との、人々との、私たち自身の投影との、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係-をとおしてだけ、理解されるべきものです。生は関係以外の何ものでもありません。私たちは関係から自分たち自身を孤立させようと試みるかもしれないとしても、それなしには存在できません。関係は苦痛であるけれども、私たちは孤立(化)の手段により、隠遁者になることなどにより、逃げ出せません。これらの方法はすべて自己の活動の表示です。どんな選択もなく、どんな決然とした目的のある意図もなく、どんな結果への欲望もなく、この映像全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、あなたは、この時間の過程が-誘導されてではなく、欲望の結果としてではなく-自発的に終わることが、わかるでしょう。愛-すなわち永遠に新しいもの-があるのは、その過程が終わるときだけです。
 私たちは真理を求めなくてもいいのです。真理は何か遠く離れたものではありません。それは精神についての真理、瞬間瞬間のその活動についての真理です。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放するのです。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨すべて、その葛藤・抗争すべて、その災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じるのです。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけです。
(´・(ェ)・`)つ

221避難民のマジレスさん:2020/08/26(水) 19:52:11 ID:5PNHw7hQ0
くまめも19-3
時間の過程は革命的でない。認識だけがある。連続性だけがあって終わりはない。革命、変容、新しいものが生じるのは、時間の過程、自己の活動の完全な停止するときだけ。
創造の瞬間には、 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった状態がある。その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、同一化する経験者がいない。思考過程、すなわち時間の過程がない。その創造の状態、新しいもの−すなわち時間のないもの−には、「私」の作用が全くない。
精神が瞬間的にではなく、その状態にあることは、各自がなすべき重要な発見.なぜなら、それが愛への扉であるから。他の扉はすべて自己の活動。自己の作用があるところ、愛はない。あなたは愛を実践できない。実践するなら、それは、結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動。
意識的な努力、修練、同一化をとおして、愛に出会えない−それはすべて時間の過程のもの。愛が唯一の永遠に新しいもの。私たちは、精神−すなわち時間の結果であるもの−を育成してきたから、愛が何であるかを知らない。私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じる。ゆえにそれは愛であることを止める。
この精神の総合過程は、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係をとおしてだけ、理解される。生は関係。関係から自身を孤立させようと試みるとしても、それなしには存在できない。この方法はすべて自己の活動の表示.どんな選択も、目的のある意図も、結果への欲望もなく、この全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、この時間の過程が自発的に終わる。愛−すなわち永遠に新しいもの−があるのは、その過程が終わるときだけ。
真理を求めなくてもいい。真理は遠く離れたものではない。それは精神について、瞬間瞬間のその活動についての真理。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放する。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨、葛藤・抗争、災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じる。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけ。
(´・(ェ)・`)

222鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/26(水) 21:46:20 ID:1d4drIFg0
観念である時間がある限り人には変容は無いのじゃ。
時間の観念の無い瞬間の気づきが変容をもたらすのじゃ。
そこに自分は無く、記憶も、同一化もないのじゃ。
それには時間が無いから永遠で在るのじゃ。

223避難民のマジレスさん:2020/08/27(木) 20:36:51 ID:HgpRjtdk0
最初と最後の自由  第一部

  第二十章 時間と変化 1

 私は、時間とは何であるかについて、少し話したいように思います。なぜなら、時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさと意義は、私たちが時間の過程全体を理解するときだけ経験されうると、私は思うからです。結局私たちは、各自が自分自身のやり方で、幸せの、豊かさの感覚を求めています。確かに、意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではありません。愛と同じように、そういう生は時間がないのです。時間のないものを理解するには、私たちは時間をとおしてそれに接近するのではなく、むしろ時間を理解しなければなりません。時間のないものに到達し、実現し、掴む手段として、時間を利用してはなりません。それが、私たちが自分たちの生のほとんどを費やしていることです-時間のないものを把握しようとすることに時間を費やすことです。ですから、私たちのいう時間とはどういう意味なのかを理解することが、重要です。なぜなら、時間から自由であることは可能であると、私は思うからです。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、とても重要です。
 私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味があります-年代的継起・連続の [意味] 、分、時間、日、年の意味においてではなく、心理的な記憶の意味における時間です。私たちは時間によって生きています。私たちは時間の結果です。私たちの精神は、多くの昨日の産物です。そして現在は、たんに過去から未来への通路です。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいています。時間なしには、私たちは考えられません。なぜなら、思考は時間の結果であるからです。思考は多くの昨日の産物です。記憶なしに思考はありません。記憶は時間です。というのは、二種類の時間、年代的なものと心理的なものがあるのです。時計による昨日としての [時間] と、記憶による昨日としての時間があるのです。あなたは年代的な時間を拒絶できません。それは不合理でしょう。あなたは列車に乗り遅れるでしょう。しかし、年代的な時間から離れて、いったいほんとうに何か時間があるのでしょうか。明白に、昨日としての時間はあります。しかし精神がそれについて考えるような時間はあるでしょうか。確かに、時間、心理的な時間は、精神の産物です。思考の基礎なしに、時間はありません-時間はたんに今日と結合した昨日としての記憶です-それが明日を型どるのです。すなわち、昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出しているのです-それもやはり思考の過程、精神の道です。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらします。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのでしょうか。そして私たちは、精神のものであるその時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのでしょうか。私が言いましたように、幸せは昨日のものではありません。幸せは時間の産物ではありません。幸せはいつも現在に、時間のない状態にあるのです。あなたは恍惚を[経験するとき] -創造的喜びを、一連の明るい雲が暗い雲によって取り囲まれるのを-経験するとき、その瞬間には時間がないということに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。即時の現在だけがあるのです。精神が、現在において経験した後に入ってきて、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出すのです。ですから時間はもっと多くによって造り出されます。時間は取得です。時間はまた執着です-それもやはり精神の取得です。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること-すなわち記憶-は、確かに、時間のないものを開示しません。
(´・(ェ)・`)つ

224避難民のマジレスさん:2020/08/27(木) 20:41:20 ID:HgpRjtdk0
くまめも20-1
時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさ、意義は、時間の過程全体を理解するときだけ経験されうる。意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではない。時間のないものを理解するには、時間を理解しなければならない。時間のないものに到達する手段として、時間を利用してはならない。時間から自由であることは可能。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、重要。
私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味がある。私たちは時間によって生きている。精神は、多くの昨日の産物。そして現在は、たんに過去から未来への通路。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいている。思考は時間の結果であるから、時間なしには、考えられない。二種類の時間、年代的なものと心理的なものがある。時計による昨日としての時間と、記憶による昨日としての時間がある。あなたは年代的な時間を拒絶できない。それは不合理。しかし、年代的な時間から離れて、何か時間があるのか。確かに、心理的な時間は、精神の産物。思考の基礎なしに、時間はない。昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出している。それもやはり思考の過程、精神の道。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらす。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのか。そして精神のものである時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのか。幸せは昨日のものではない。幸せは時間の産物ではない。幸せはいつも現在に、時間のない状態にある。恍惚を、創造的喜びを、経験するとき、その瞬間には時間がない。現在において経験した後に、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出す。ですから時間はもっと多くによって造り出される。時間は取得、また執着。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること−すなわち記憶−は、時間のないものを開示しない。
(´・(ェ)・`)

225鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/27(木) 22:25:50 ID:1d4drIFg0
時間とは記憶があるから起こる観念なのじゃ。
記憶とは違う今を解釈するために時間がたったという観念が作られたのじゃ。
そこから先の未来もその連続から推測され、創作された物なのじゃ。
記憶への依存が無ければ時間も無いのじゃ。

226避難民のマジレスさん:2020/08/28(金) 20:59:18 ID:RoJ3t8Ms0
最初と最後の自由  第一部

  第二十章 時間と変化 2

 変容は時間の事柄でしょうか。私たちのほとんどは、時間は変容のために必要であると考えることに、慣れています。私は何ものかである。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。私は貪欲であるとともに、混乱、敵対、葛藤・抗争、悲惨という貪欲の結果でもあります。変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要であると、私たちは考えます。つまり時間は、何かもっと偉大なものに進化する、何ものかになる手段として考えられているのです。問題はこうです。(自分は)暴力的で、貪欲で、妬んでいて、怒っていて、不道徳で、気性が激しいのです。あるがままを変容させるには、時間が必要でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはあるがままを変えたい、または変容をもたらしたいのでしょうか。なぜでしょうか。なぜなら、あるがままの私たちは、私たちを不満にさせるからです。それは葛藤、動揺を造り出します。そしてその状態を好まないので、私たちは何かもっとよいもの、何かもっと高尚な、もっと理想的なものが欲しいのです。ゆえに私たちは変容を願望します。なぜなら、苦痛、不快、葛藤があるからです。葛藤は時間によって打ち勝たれるでしょうか。それは時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 [の状態] にあるのです。葛藤を取り除くには、あるがままのあなたを変えるには、二十日、または二十年かかるだろうと、あなたは言うかもしれません。しかしその時間の間、あなたはやはり葛藤 [状態] にあるのです。ゆえに時間は変化をもたらさないのです。私たちは、性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけです。この点を理解することが重要であると、私は思います。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界-すなわち社会-における苦痛、動揺を引き起こす原因になります。そしてこの動揺の状態-貪欲や暴力と呼ばれるもの-を意識すると、私たちは「私は時間をかけて・そのうちそれを取り除くだろう。非暴力を実践するだろう。妬まないことを実践するだろう。平和を実践するだろう」と、私たち自身に言うのです。そこで、あなたは非暴力を実践したいのです。なぜなら、暴力は動揺、葛藤・抗争の状態であるからです。そしてあなたは時間をかけて非暴力を獲得して葛藤・抗争に打ち勝つだろうと、思うのです。何が現実に起きているでしょうか。葛藤の状態にあると、あなたは葛藤のない状態を達成したいと思います。では、その葛藤のない状態は、時間の、時の継続の結果でしょうか。明白に違います。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、あなたはやはり暴力的でありつづけるし、ゆえにやはり葛藤 [状態] にあるからです。
 私たちの問題は、葛藤、動揺は、数日であれ数年であれ幾つもの生涯であれ、時の期間において打ち勝たれうるだろうか [ということ] です。「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と、あなたが言うとき、何が起きるでしょうか。まさに実践こそが、あなたが葛藤 [状態] にあるということを、示しているのではないでしょうか。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、あなたは実践しないでしょう。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要であるし、その抵抗のために時間を持たなければならないと、あなたは言います。しかし、まさに葛藤への抵抗こそが、それ自体一つの形の葛藤です。あなたは、貪欲、妬み、暴力と呼ぶものの形での葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしています。しかしあなたの精神は、やはり葛藤 [状態] にあります。ですから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要なのです。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺-であることができるのです。
(´・(ェ)・`)つ

227避難民のマジレスさん:2020/08/28(金) 21:03:18 ID:RoJ3t8Ms0
くまめも20-2
時間は変容のために必要であると考えることに、慣れている。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。
私は貪欲である→変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要。つまり時間は、偉大なものに進化する手段として考えられている。
なぜあるがままを変えたいのか→あるがままは、不満にさせるから→葛藤、動揺を造り出す→もっとよいもの、高尚な、理想的なものが欲しい→私たちは変容を願望する
葛藤は時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 にある。葛藤を取り除くには、あるがままを変えるには、時間がかかる。その時間の間、やはり葛藤 にある。ゆえに時間は変化をもたらさない。
性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけ。この点を理解することが重要。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界における苦痛、動揺を引き起こす原因になる。
葛藤の状態にあると、葛藤のない状態を達成したいと思う。葛藤のない状態は、時の継続の結果ではない。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、やはり暴力的でありつづけるし、ゆえに葛藤 状態にあるから。
「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と言うとき、何が起きるか。まさに実践こそが、葛藤にあるということを示している。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、実践しない。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要だし、その抵抗のために時間を持たなければならないと言う。しかし、まさに葛藤への抵抗自体一つの形の葛藤。葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしている。しかし精神は、やはり葛藤にある。だから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺−であることができる。
(´・(ェ)・`)

228鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/28(金) 22:55:11 ID:1d4drIFg0
変容は覚悟があれば今すぐにでも起こるものじゃ。
自分が観られたならば瞬時に変容は起こるじゃろう。
そこに時間は無いのじゃ。
時間を必要とする変化は、やはり欲とかエゴから出たものに過ぎないのじゃ。

229避難民のマジレスさん:2020/08/29(土) 18:28:31 ID:hDzlT5kk0
最初と最後の自由  第一部

  第二十章 時間と変化 3

 何かを、何か人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要でしょうか。何が本質的でしょうか。静かな精神なのではないでしょうか。理解することにしっかりと向けられている精神です。それは、排他的である、集中しようとしている精神ではありません-それもまた抵抗の努力です。私がほんとうに何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態があります。あなたは、愛している音楽を聴きたい、または絵を見たいとき- [それに対する] 感性を持っています-あなたの精神の状態は何でしょうか。即時に静けさがあるのではないでしょうか。あなたは音楽を聴いているとき、あなたの精神はそこいらじゅうさまよいません。あなたは聴いています。同様に、あなたは葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていません。あなたは単にあるがまま-すなわち葛藤-に直面しています。そのとき即時に静けさが、精神の静寂が訪れます。あなたはもはやあるがままを変容させる手段として時間に頼りません。なぜなら、その過程の偽りが分かるからです。そのとき、あるがままと直面しています。そしてあるがままを理解することに興味があるので、当然・自然に、静かな精神があります。その鋭敏でありながら受動的な精神の状態に、理解があるのです。精神が葛藤 [状態]にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえません。私はあなたを理解したいなら、明白に、あなたを非難してはなりません。変容をもたらすのは、その静かな精神、その静寂な精神です。精神がもはや抵抗していない [とき] 、もはやあるがままを避けていない、もはや切り捨てたり、咎めたりしていないで、単に受動的に気づいているとき、そのとき、その精神の受動性において-あなたが本当に問題に入り込むなら-変容が訪れるということを、見つけるでしょう。
 革命は、今可能なだけです-未来にではありません。革新は今日です-明日ではありません。あなたは私が言ってきたことを実験してみるなら、即時の革新、新しさ、新鮮さの質があるということを、見つけるでしょう。なぜなら、精神は興味があるとき、 [理解したいと] 願望したり、理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂であるからです。私たちのほとんどにとっての困難は、理解しようとする意図を持たないことです。なぜなら、私たちはもしも理解したなら、それが私たちの生に革命的作用 [・行動] をもたらすかもしれないということを、恐れているからです-ゆえに私たちは抵抗するのです。私たちが時間や理想を段階的・漸進的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構です。
 こうして革新は、現在において可能なだけです-未来にではなく、明日ではありません。それをとおして幸せを獲得したり、真理や神を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけです。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きています。時間は私たちの困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人、そういう人は当然、理解しようとする意図を持ちます。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静かです。精神が静寂で平静であり、何の答えも何の解決も求めていない [とき] 、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけです。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるからです。そして解放するのは真理です-自由であろうとするあなたの努力ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

230避難民のマジレスさん:2020/08/29(土) 18:39:18 ID:hDzlT5kk0
くまめも20-3
人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要か。静かな、理解することに向けられている精神。それは、排他的で、集中しようとしている精神ではない-それもまた抵抗の努力。何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態がある。葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていない。単にあるがままに直面している。そのとき即時に精神の静寂が訪れる。もはやあるがままを変容させる手段として時間に頼らない。なぜなら、その過程の偽りが分かるから。あるがままを理解することに興味があるので、自然に、静かな精神がある。その鋭敏で受動的な精神の状態に、理解がある。精神が葛藤にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえない。変容をもたらすのは、静寂な精神。
精神は興味があるとき、 理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂。困難は、理解しようとする意図を持たないこと。なぜなら、もしも理解したなら、それが生に革命的作用をもたらすかもしれないということを、恐れているから−ゆえに抵抗する。時間や理想を段階的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構。
幸せを獲得したり、真理を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけ。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きている。時間は困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人は当然、理解しようとする意図を持つ。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静か。精神が静寂であり、何の答えも何の解決も求めていない、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけ。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるから。そして解放するのは真理−自由であろうとする努力ではない。
(´・(ェ)・`)

231鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/29(土) 22:14:55 ID:1d4drIFg0
科学でも法則を認定するには観察して確かめるものじゃ。
可能な限り冷静で客観的に観察する事でそれもできるのじゃ。
それは自分を観察するのと同じ観察なのじゃ。
自らを冷静で客観的に観察しようと勤めることで、今ここで変容は可能になるのじゃ。

232避難民のマジレスさん:2020/08/30(日) 19:00:04 ID:WWTIEegY0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 1

 私たちは、社会に、私たち自身に、私たちの個人的、集団的関係に根元的変化が必要であることが、わかります。それはどのようにしてもたらされるべきでしょうか。変化が、精神により投影された様式への順応をとおし、道理にかなったよく研究された計画をとおしてであるなら、そのとき、それはやはり精神の領域の中にあるのです。ゆえに精神が計算することは何でも目的、幻想になるのです-その [目的、幻想の] ために私たちは進んで私たち自身と他の人たち・他のものたちを犠牲にしようとしているのです。あなたがそれを支持するなら、そのとき、人間としての私たちはたんに精神の創造(物)であるということになります-それは、順応、強制、残忍さ、独裁(専制)制(政権)、強制収容所-やっかいなものごと全体-という意味を含んでいます。私たちが精神を崇拝するとき、そのすべてが含まれているのではないでしょうか。私はこれを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき私は何をするべきでしょうか。
 この問題を充分に考慮するには、私たちは意識とは何かという疑問に入らなければなりません。あなたは自分自身でそれについて考えたことがあるのか、それとも諸権威が意識について言ってきたことを、たんに引用しただけなのかどうか、と私は思います。この意識が-日常の活動と追求の意識だけでなくて、隠れた、もっと深い、もっと豊かな、はるかにもっとわかりにくい意識が-どんな意味を含んでいるのかを、あなたは、あなた自身の経験から、自分自身についてのあなた自身の研究から、どのように理解したのかは、私は知りません。私たちは、私たち自身の[根本的変化] とゆえに世界の根本的変化というこの問題を議論する [べきであるなら] 、そしてこの変化において、一定の幻想、熱狂、熱中、信仰、希望、確実性-すなわち行動のために必要な勢い・はずみを私たちに与えてくれるであろうもの-に目覚めるべきであるなら、私たちがそれを理解すべきであるなら、この意識の問題に入ることが必要ではないでしょうか。
 私たちのいう精神の表面的な水準での意識とはどういう意味なのかは、私たちはわかります。明白にそれは考える過程、思考です。思考は記憶の結果、言語化です。それは疎通 [・伝達] することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくことです。この水準には、また様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もあります。このすべてに、私たちは全く慣れ親しんでいます。私たちがもう少し深く入るとき、人種の蓄積、隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがあります-それは、知覚、接触、欲望の結果です。この総合的意識、開かれたものとともに隠れたものが、「私」という観念、自己を中心に集まっています。
 どのようにして変化をもたらすべきか [について] 議論するとき、私たちが一般的にいうのは、表面的な水準での変化、という意味なのではないでしょうか。決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、私たちは欲しいと思う [目的] 、渇望する表面的な目的に手を伸ばそうと格闘します。私たちは無意識の[助け] 、精神のもっと深い層の助けを借りて、そこに到り着きたいと願うのです。ゆえに私たちは自分自身の深みの覆いを取る・顕わにすることが必要であると、考えるのです。しかし、表面的な水準といわゆるもっと深い水準の間には、永続的な葛藤があるのです-すべての心理学者たち、自己認識を追求してきたすべての人たちは、それに充分に気づいています。
 この内的な葛藤は変化をもたらすでしょうか。それが、私たちの日常の生において最も根本的で重要な疑問ではないでしょうか-どのようにして私たち自身に根元的変化をもたらすべきか、がです。表面的な水準でのたんなる変更は、それをもたらすでしょうか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去 [の覆いを取る] 、子どもの頃から今に至るまでの様々な私的な・個人的な経験の覆いを取ること、私の父、母、祖先、人種の集団的・集合的経験を [を検討し] 、 [そこに] 私が生きている特定の社会の条件づけを私自身において検討すること-そのすべての分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

233避難民のマジレスさん:2020/08/30(日) 19:15:17 ID:WWTIEegY0
くまめも21-1
社会に、私たち自身に、個人的、集団的関係に根元的変化が必要。変化が、精神により投影された様式への順応をとおしてであるなら、それはやはり精神の領域の中にある。人間はたんに精神の創造(物)か。それは順応、強制、残忍さ、独裁制、強制収容所という意味を含む。これを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき何をするべきか。
自身と世界の根本的変化という問題を理解すべきであるなら、意識の問題に入るべき。
精神の表面的な水準での意識とは、考える過程、思考。思考は記憶の結果、言語化。それは疎通・伝達することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくこと。様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もある。隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがある−それは、知覚、接触、欲望の結果。この総合的意識が、「私」という観念、自己を中心に集まっている。
決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、欲しいと思う、渇望する表面的な水準と、もっと深い水準の間には、永続的な葛藤がある。
この内的な葛藤、表面的な水準でのたんなる変更は、変化をもたらすか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去の、私的な経験の覆いを取ること、集団的・集合的経験を、特定の社会の条件づけを検討・分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすか。
(´・(ェ)・`)

234鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/30(日) 22:01:44 ID:1d4drIFg0
苦があればそれを変えたいと思うのが人であるが、実は自分を変えたいとは思わないものじゃ。
出来れば自分は変る事無く苦がなくなればよいと思うのじゃ。
しかし、実際には自分が変らなければ苦はなくならないのじゃ。
自我が苦の根本原因であるからのう。

235避難民のマジレスさん:2020/08/31(月) 21:45:31 ID:1yezVXyg0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 2

 自分の生に根本的変化が-たんなる反動・反応ではなく、環境的要求の圧力と緊張・重圧から出てきたものではない変化が-本質的 [・不可欠] であることを、私は感じますし、確かにあなたもまた感じるにちがいありません。どのようにしてそういう変化をもたらすべきでしょうか。私の意識は、人間の経験の総計・合計と私の現在との特定の接触を加えたものです。それは変化をもたらせるでしょうか。私自身の意識の [研究] 、私の活動の研究、私の思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にする・静めること-その過程は変化をもたらすでしょうか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるでしょうか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤、という意味を含んでいないでしょうか。葛藤は根本的変化をもたらすでしょうか。私は私自身の中で、そして社会と、常なる戦い [の状態] にあるのではないでしょうか。あるがままの私とありたいと思う私との間に、絶えざる葛藤が続いているのです。この葛藤、この格闘は変化をもたらすでしょうか。私は、変化が本質的 [・不可欠] であるのがわかります。私の意識の過程全体を検討することにより、格闘することにより、修練することにより、様々な形の抑圧を実践することにより、私はそれをもたらせるでしょうか。そういう過程は根元的変化をもたらせないと、私は感じます。それについては、完全に確かでなければなりません。そしてその過程が根本的変容、深い内側の革命をもたらせないなら、そのとき何が [そう] するのでしょうか。
 あなたはどのようにして真の革命をもたらすべきでしょうか。その革命をもたらす力、創造的エネルギ-は何でしょうか。そしてどのようにしてそれは解放されるべきでしょうか。あなたは修練を試してきました。あなたは理想と様々な思索的理論の追求を試してきました-あなたは神であること。あなたはその神であること・神性を悟ったり、ア-トマン、最高のもの、何であれ、経験したりできるなら、そのときまさにその悟りこそが、根本的変化をもたらすであろうということです。そうなるでしょうか。初めにあなたは真実があると仮定します-あなたはその一部であり、そのまわりに様々な理論、思索、信念、教義、仮定・想定を築き上げます-あなたはそれに応じて生きるのです。その様式に応じて考えることと行動することにより、あなたは根本的変化をもたらしたいと願うのです。そうでしょう。
 ほとんどの宗教的な人たちがするように、仮にあなたが、自分には根本的に、深く、真実の本質があると [仮定] します。そして美徳を育成することをとおし、様々な形の修練、制御、抑圧、否定、犠牲をとおして、あなたはその真実と接触できるなら、そのとき必要とされる変容がもたらされるであろうと、仮定します。この仮定も、やはり思考の一部ではないでしょうか。それは、条件づけられた精神、一定の様式に応じて、特定の仕方で考えるように育てられてきた精神から、出てきたものではないでしょうか。イメ-ジ、観念、理論、信念、希望を造り出しておいて、そのときあなたはこの根本的変化をもたらすために、自分の造り出したもの・創造したものに頼るのです。
 初めに、「私」の、精神のとてつもない微妙な活動が、わからなければなりません。観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければなりません。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから、ではないでしょうか。他の人たちは真実を経験したことがあるかもしれません。しかし、あなたがそれを経験したことがないなら、それについて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのでしょうか。それもやはり思考の領域の中にあります。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のものです。ゆえに、それは真実ではないのです。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

236避難民のマジレスさん:2020/08/31(月) 21:46:27 ID:1yezVXyg0
くまめも21-2
意識は、人間の経験の総計・合計と現在との特定の接触を加えたもの。それは変化をもたらせるか。意識の研究、活動の研究、思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にすること-その過程は変化をもたらすか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤。葛藤は根本的変化をもたらすか。意識の過程全体を検討、格闘、修練、抑圧を実践する過程は根元的変化をもたらせない。
 どのようにして真の革命をもたらすべきか。初めに、観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければならない。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから。真実ついて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのか。それもやはり思考の領域の中にある。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のもの。ゆえに、それは真実ではない。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何か。
(´・(ェ)・`)

237鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/31(月) 22:17:27 ID:1d4drIFg0
変化が必要だからと宗教に頼れば、それがまた条件付けになるというのじゃ。
宗教もまた観念によるものであるからのう。
変容は個人の観察に拠ってのみ起こるものじゃ。
宗教は必ずしも必要ではないのじゃ。

238避難民のマジレスさん:2020/09/01(火) 19:57:02 ID:CccXjOcY0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 3

 おそらく、この点に至るなかで、私たちは意識的精神を使ってきました。私たちは議論・論争に付いてきました。私たちはそれに反対したり受け入れたりしてきました。私たちはそれが明確に、またはぼんやりと・おぼろげにわかりました。さらに遠くへ行き、もっと深く経験するには、見出すための静かで鋭敏である精神を必要とするのではないでしょうか。それはもはや観念を追求していません。なぜなら、あなたが観念を追求するなら、言われていることに付いていく思考者がいるし、そのためあなたは即時に二元性を造り出すからです。あなたがこの根本的変化という事柄にさらに入ってゆきたいなら、活動的な精神が静かであることが必要ではないでしょうか。確かに、精神が途方もない困難 [を理解できる] 、二つの分離した過程としての思考者と思考、経験者と経験されるもの、観察者と観察されるものという複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かであるときだけです。革命- [そこに] 「私」のないこの心理的、創造的革命は、思考者と思考が一つであるとき、思考を制御している思考者といった二元性がないときだけ、訪れるのです。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみであると、私は提案します-それ [創造的エネルギ-]が今度は、 根本的革命 [をもたらし] 、心理的な「私」の粉砕をもたらすのです。
 私たちは力の道を知っています-支配をとおした力、修練をとおした力、強制をとおした力、です。政治的な力をとおして、私たちは根本的に変化させたいと願います。しかしそういう力は、さらなる暗闇、崩壊、邪悪・弊害、「私」の強化を生み育てるだけです。私たちは個人的にも、集団としても、様々な形の取得に慣れ親しんでいます。しかし私たちは愛の道を試したことがありません。それがどういう意味なのかを、知ることさえもないのです。思考者、「私」という中心があるかぎり、愛は可能ではありません。このすべてを悟ると、どうすべきなのでしょうか。
 確かに根本的変化、創造的、心理的解放をもたらせる唯一のものは、日常の見守り [です] 、意識的とともに無意識的な私たちの動機に、瞬間瞬間気づくことです。私たちは、修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考から、自分の観察から、自分の経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至らないでしょうか。思考者が自分の思考-すなわち彼が支配しようとしているもの-から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえません。「私」が観察者 [であり] 、経験を集め、経験をとおして自分自身を強める者であるかぎり、根元的変化、創造的解放はありえません。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れるのです-しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできません。どんな思索、どんな言葉による表現・言語化、どんな形の思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があるにちがいないことがわかるとき-精神がそれを悟るとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づくのです。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れるのです。その状態には努力がありません。なることがありません。変化させたいという願望がありません。その状態には、「私」はありません。というのは、精神のものではない変容があるからです。
(´・(ェ)・`)つ

239避難民のマジレスさん:2020/09/01(火) 20:08:43 ID:CccXjOcY0
くまめも21-3
根本的変化という事柄にさらに入ってゆくには、精神が静かであることが必要。精神が、二つの分離した過程としての思考者と思考という複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かなときだけ。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみ。それが今度は、心理的な「私」の粉砕をもたらす。
根本的変化をもたらせる唯一のものは、日常の見守り、意識的、無意識的な動機に、瞬間瞬間気づくこと。修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考、観察、経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至る。思考者が思考から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえない。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れる−しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできない。どんな思索、どんな言葉による表現、思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があることがわかるとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づく。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れる。その状態には努力、なること、変化させたいという願望がない。その状態には、「私」はない。というのは、精神のものではない変容があるから。
(´・(ェ)・`)

240鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/01(火) 22:56:38 ID:1d4drIFg0
静かな精神が必要とクリシュナムルティは言うのじゃ。
それを得るには瞑想が必要なのじゃ。
思考の無い静かな精神で今ここにある心の働きを観ることができるのじゃ。
それが得られなければ全ての観察は私を強めるばかりなのじゃ。

241避難民のマジレスさん:2020/09/02(水) 20:10:25 ID:giq2kMYI0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 4

 創造の可能性があるのは、精神が空っぽであるときだけです。しかし私がいうのは、私たちのほとんどが持っているこの表面的な空っぽ、という意味ではありません。私たちのほとんどは表面的に空っぽです。それは、散漫への願望をとおして正体を現すのです。私たちは楽しみたいのです。それで書物、ラジオに向かうのです。講義、権威へ駆けつけるのです。精神は永続的にそれ自体を充たしているのです。私は無思慮である空っぽさについて話していません。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽについて、私は話しているのです。
 経験を集めるために、自分自身を強めるために、待ち、見張り、観察している思考者がいるかぎり、創造的空っぽは可能ではありません。精神は、すべての象徴、すべての言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、いったいありうるでしょうか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能でしょうか。あなたは当然この疑問に答えることができないでしょう。それは、あなたが答えるには不可能な疑問です。なぜなら、あなたは知らないからです。あなたは今まで試してみたことがないのです。しかし私が提案してよければ、それを聴いてください。あなたに疑問を出させましょう。種を蒔かせましょう。すると、あなたがほんとうにそれを聴くなら、それに抵抗しないなら、それは実を結ぶでしょう。  
 変容させられるのは、古いものではなく、新しいものだけです。あなたが古いものの様式を追求するなら、どんな変化も、古いものの修正された連続・継続です。それには何も新しいものがありません。何も創造的なものがありません。精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうるのです。そして精神は、表面的な水準でだけではなく心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる・新しく生まれることができるのです。精神がそれ自身の活動がわかる [とき] 、それ自身の欲望、要求、衝動、追求、それ自身の権威の [創造] 、恐れの創造に気づくとき、修練により、制御により造り出された抵抗 [がわかり] 、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき-精神はこの過程全体を見通し・見抜き、気づくとき-これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうるでしょうか。あなたはそれについて意見を持たず、その創造的状態を経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出すでしょう。あなたはそれを経験したいと思うなら、するでしょう。しかしあなたが経験するものは、創造的空っぽではありません。それはただ願望の投影であるだけす。あなたは新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけです。しかし、あなた自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのようにあなた自身の過程全体を見守るなら、そのとき、あなたはますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうる [ところの] この空っぽという究極の疑問に、至るでしょう。
 真理、神-何であれ-は、何か経験されるものではありません。というのは、経験者は時間の結果、記憶の、過去の結果であるからです。経験者がいるかぎり、真実はありえません。精神が、分析者から、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実があるのです。そのときあなたは答えを見つけるでしょう。そのときあなたは、あなたが求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかるでしょう-それはあるのです。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れるのです。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

242避難民のマジレスさん:2020/09/02(水) 20:15:06 ID:giq2kMYI0
くまめも21-4
私たちは表面的に空っぽ。それは、散漫への願望をとおして正体を現す。私たちは楽しみたい。それで書物、ラジオに向かい、講義、権威へ駆けつける。精神は永続的にそれ自体を充たしている。それは無思慮である空っぽ。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽがある。
経験を集めるために、自分自身を強めるために、思考者がいるかぎり、創造的空っぽは不可能。精神は、すべての象徴、言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、ありうるか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能か。
精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうる。そして精神は、心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる。精神がそれ自身の欲望、要求、衝動、追求、権威の創造、恐れの創造に気づくとき、修練、制御により造り出された抵抗がわかり、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき、これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうる。創造的状態について意見を持たず、経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出す。新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけ。しかし、自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのように自身の過程全体を見守るなら、そのとき、ますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうるところのこの空っぽという究極の疑問に、至る。
真理は、経験されるものでは無い。というのは、経験者は時間の結果、記憶、過去の結果であるから。経験者がいるかぎり、真実はありえない。精神が、分析者、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実がある。そのとき答えを見つける.そのとき求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかる。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れる。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性がある。
(´・(ェ)・`)

243鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/03(木) 00:01:49 ID:1d4drIFg0
創造的な状態だけが新しい変容をもたらすものというのじゃ。
しかしそれは何もせず訪れるものというのじゃ。
悟道を待つ事と同じなのじゃ。
観察に拠って気づきがあり、それによってまた観察が可能になるというのじゃ。
なかなか難しいことじゃ。
仏陀だけができることなのじゃ。

244避難民のマジレスさん:2020/09/03(木) 23:14:09 ID:YPlQ4tcQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答

一 現在の危機について 1

質問
 現在の危機は先例・前例がないと、あなたは言われます。どんな点で、それは例外的なのでしょうか。
クリシュナムルテイ
 明白に、世界じゅうの現在の危機は、先例がなく例外的です。歴史を通じてずっと、違った時期に、様々な類型の-社会的、国家 [・民族]的、政治的な-危機がありました。危機は来て去ります。経済的な不景気、不況が来て、修正されて、違った形で継続します。私たちはそれを知っています。私たちはその過程に慣れ親しんでいます。確かに、現在の危機は異なっているのではないでしょうか。それは初めに異なっています。なぜなら、私たちはお金でも、また触れられるもの・実体のあるもの[を扱っているの] でもなく、観念を扱っているからです。危機は例外的です。なぜなら、それは観念作用の領域にあるからです。私たちは観念のことでけんかしています。私たちは殺人を正当化しています。世界のあらゆるところで、私たちは正しい目的への手段として殺人を正当化しています-それは、それ自体が先例がありません。以前は、悪は悪であると認識されていました。殺人は殺人であると認識されていました。しかし、今や殺人は、高尚な結果を達成するための手段です。殺人は、一人の人のであろうと、人々の集団のであろうと、正当化されています。なぜなら、殺人者、または殺人者が代表する集団は、人のためになるであろう結果を達成する手段として、それを正当化するからです。 すなわち、私たちは未来のために現在を犠牲にするのです-私たちの宣言した・公然の目的が、人のためになるであろうと私たちが言う [ところの]結果を産み出すことであるかぎり、どんな手段を用いるかは、大事なことではありません。ゆえに、含まれている意味は、間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、ということです。そしてあなたは、観念作用をとおして、間違った手段を正当化するのです。以前に起きてきた様々な危機においては、論点は、ものごとや人の搾取・利用でした。それが今や観念の搾取・利用です-そのほうがもっとはるかに有害で、もっと危険です。なぜなら、観念の搾取はあまりに壊滅的で・荒廃的で、あまりに破壊的であるからです。 私たちは今や宣伝の力を学んできました。それが、起こりうる最大の災いの一つです-人を変容させるための手段として、観念を使うことが、です。それが、今日世界で起きていることです。人は重要ではないのです-体系 [・体制]、観念が重要になってしまったのです。人はもはや何の意義もありません。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できるのです。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持っています。そして確かにそれは先例がないのです。悪は悪です。それは善をもたらすことができません。戦争は平和への手段ではありません。戦争は、もっと効率的・能率的な飛行機のように、二義的な利益をもたらすかもしれません。しかし、それは人に平和をもたらさないでしょう。戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化されるのです。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

245避難民のマジレスさん:2020/09/03(木) 23:15:11 ID:YPlQ4tcQ0
くまめも2-1-1
現在の危機は例外的。なぜなら、それは観念作用の領域にあるから
正しい目的への手段として殺人を正当化
未来のために現在を犠牲にする
間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、という意味を含む
観念作用をとおして、間違った手段を正当化
以前の危機における論点は、ものごとや人の搾取・利用。それが今や観念の搾取・利用−そのほうが有害で、危険。なぜなら、観念の搾取は壊滅的、荒廃的、破壊的であるから
宣伝の力が、人を変容させるための手段として、観念を使うことが、起こりうる最大の災いの一つ。
人は重要ではない−体系・体制、観念が重要になってしまった。人はもはや何の意義もない。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できる。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持った。そして確かにそれは先例がない。
戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化される。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらす。
(´・(ェ)・`)

246鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/04(金) 23:42:54 ID:1d4drIFg0
もはや人類は地球をも破壊できる兵器をもってしまったからのう。
知性に拠ってそれを使えば全て破壊されるのじゃ。
知性は戦争を正当化してそれを使うようにするじゃろう。
それは今までになかった危機なのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2020/09/05(土) 23:59:48 ID:nenS2e0o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答

一 現在の危機について 2

 また、先例のない危機を表示する他の原因もあります。それらの一つが、感覚的価値に、財産に、名前に、カ-ストと国に、あなたが身につけている特定のレッテルに、人が与えているとてつもない重要性です。あなたはイスラム教徒かヒンドウ-教徒、キリスト教徒か共産主義者です。名前と財産、カ-ストと国が、支配的に・優勢的に重要になってしまったのです-それは、人が、感覚的価値 [に捕らわれ] 、精神により、手により作られたものごとの価値に捕らわれている、という意味です。私たちはそれらのために殺し、破壊し、屠殺し、粛清しあっているほどに、手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまったのです。私たちは崖っぷちに近づいているのです。あらゆる行動が、私たちをそこへ導いているのです。あらゆる政治的 [行動]、あらゆる経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした混乱させる深淵に引きずり込んでいるのです。ゆえに、危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求するのです。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要です。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうからです。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけです。危機が先例がないので、また先例のない行動がなければなりません-それは、個人の革新は、時間の過程 [をとおして]ではなく、 瞬時でなければならない、という意味です。それは明日ではなく、今起きなければなりません。というのは、明日は崩壊の過程であるからです。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招きます。私はやはり破壊の領域の中にいるのです。 今変えることは可能でしょうか。 即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能でしょうか。それは [可能]であると、私は言います。
 要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということです。そしてこの革命は、他の人をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな組織をとおしても起こりえません。それは、私たちをとおし、私たち各自をとおして来なければなりません。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた [社会、構造] 、蓄積され、積み上げられつつあるこれらのとてつもなく破壊的な力から離れた新しい社会、新しい構造を、造り出せるのです。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

248避難民のマジレスさん:2020/09/06(日) 00:07:48 ID:nenS2e0o0
くまめも2-1-2
先例のない危機を表示する他の原因
感覚的価値が、支配的に・優勢的に重要になってしまった。手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまった。あらゆる政治的、経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした深淵に引きずり込んでいる。危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求する。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうから。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけ。個人の革新は、時間の過程ではなく、 瞬時でなければならない。それは明日ではなく、今起きなければならない。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招く。破壊の領域の中にいる。今変えること、即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能である。
要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということ。そしてこの革命は、他の人、書物、組織をとおしても起こりえない。それは、私たち各自をとおして来なければならない。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた社会、構造、蓄積され、積み上げられつつあるこれらの破壊的な力から離れた新しい社会構造を、造り出せる。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じる。
(´・(ェ)・`)

249鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/06(日) 22:40:18 ID:1d4drIFg0
今は前例のない危機的な状況にある。
そうであるから前例の無い行動をしなければならぬというのじゃ。
それは書物とか他人とか組織では出来ないのじゃ。
自らに気付くことでのみ起こるというのじゃ。

250避難民のマジレスさん:2020/09/07(月) 21:02:48 ID:RoJ3t8Ms0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二 国家[・民族]主義について1

質問
 国家 [・民族]主義が去るとき、 [次に]来るのは何でしょうか。

  明白に智恵です。しかし、残念ながら、それが質問に含まれている意味ではないように、私は思います。含まれている意味は、何が国家 [・民族]主義の代用でありうるのか、です。どんな代用も、智恵をもたらさない行為です。私が一つの宗教を去って、もう一つに加わるなら、または一つの政党を去って、後に何か他のものに加わるなら、この常なる代用は、 [そこに]智恵のない状態を表示しています。
 国家 [・民族]主義はどのようにして去るのでしょうか。その充分な含意を、私たちが理解することにより、それを検討することにより、外側と内側の行動 [・作用]におけるその意義に気づくことによってだけ [去るの]です 。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらします-それは、誰でもよく観察している人にとって明白です。内側で、心理的に、もっと偉大なものとの、国との、観念とのこの同一化は、明白に一つの形の自己拡大です。小さな村や大きな町や何であろうと [そこに] 住んでいると、私は誰でもないのです。しかし私が自分自身をもっと大きなものと、国と、同一化するなら、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶなら、それは私の虚栄心をくすぐるのです。それは私に満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれるのです。そしてもっと大きなものとのその同一化-それは、自己拡大が本質的 [・不可欠]であると感じる人たちにとって心理的な必要物・必需品です-はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出すのです。こうして国家 [・民族]主義は、外側の抗争 [を造り出す]だけではなくて、内側の挫折をも造り出すのです。国家 [・民族]主義を、国家 [・民族]主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまうのです。国家 [・民族]主義の理解は、国家 [・民族]主義、愛国心の過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来るのです。その検討から智恵が訪れます。そのとき国家 [・民族]主義のかわりの何か他のものの代用はないのです。あなたが国家 [・民族]主義のかわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になるのです。ゆえに、どんな形の代用も-どんなに高尚でも-一つの形の無知です。それは、人が喫煙のかわりにチュ-イングガムやビンロウジや何であれ、代用するのと似ています。ところが、喫煙、習慣、感動、心理的要求、その他すべての問題全体を、ほんとうに理解するなら、そのとき喫煙は、いつのまにかなくなるのです。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できるのです。そして智恵は、代用があるとき、機能していません。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂です。国家 [・民族]主義とともにその毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができるのです。そして智恵は、たんに試験に通ることと書物を研究することによっては、来ないのです。智恵は、私たちが問題を生じるままに理解するとき、生じるのです。異なった水準で問題の [理解があるとき] -外側の部分だけではなく、その内側の心理的な含意の理解があるとき、そのとき、その過程において、智恵が生じるのです。ですから、智恵があるとき、代用はありません。そして智恵があるとき、そのとき国家 [・民族]主義、愛国心は-それは一つの形の愚かさです-消え去るのです。
(´・(ェ)・`)つ

251避難民のマジレスさん:2020/09/07(月) 21:03:57 ID:RoJ3t8Ms0
くまめも2-2-1
国家主義はどのようにして去るのか。その充分な含意を、理解、検討し、外側と内側の行動におけるその意義に気づくことによってだけ去る。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらした。内側で、心理的に、偉大なもの、国、観念との同一化は、一つの形の自己拡大。自分自身を国と、同一化するなら、それは虚栄心をくすぐる。それは満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれる。そして大きなものとのその同一化はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出す。こうして国家主義は、外側の抗争だけではなくて、内側の挫折をも造り出す。国家主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまう。その理解は、その過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来る。その検討から智恵が訪れる。かわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になる。ゆえに、どんな形の代用も一つの形の無知。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できる。そして智恵は、代用があるとき、機能していない。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂。その毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができる。智恵は、問題を生じるままに理解するとき、生じる。問題の外側の部分だけではなく、内側の心理的な含意の理解があるとき、その過程において、智恵が生じる。だから、智恵があるとき、代用はない。智恵があるとき、そのとき国家主義、愛国心は消え去る。
(´・(ェ)・`)

252避難民のマジレスさん:2020/09/08(火) 20:21:28 ID:1NnBepF.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 1

質問
 (導師)たちは不必要であると、あなたは言われます。しかし、(導師)だけが与えられる賢明な助けと導きなしに、どうして私は真理を見つけられるのでしょうか。

 質問は、(導師)は必要であるのか、ないのか、です。真理は、他の一人をとおして見つけられるでしょうか。或る者は、それはできると言い、或る者は、できないと言います。他の一人の意見に対比しての私の意見ではなく、私たちはこれの真理が知りたいのです。私はこの件において意見を持っていません。それはそうであるか、そうでないか、どちらかです。あなたが(導師)を持つべきか、持つべきでないかということが、本質的 [・不可欠]であるかどうかは、意見の問題ではありません。事柄の真理は、意見に依存しません-たとえどんなに奥深くて、学識があり、一般的で・評判がよくて、普遍的でも、です。事柄の真理は、事実において見出されるべきです。
 まず最初に、なぜ私たちは(導師)が欲しいのでしょうか。私たちは導師が必要です。なぜなら私たちは混乱しているし、導師 は助けになるからです、と私たちは言います。彼は真理が何であるかを指摘してくれるだろう。彼は、私たちが理解するのを助けてくれるだろう。彼は私たちよりも生についてはるかに多く知っている。彼は私たちに生を教える父として、教師としての役割を果たすだろう。彼は膨大な経験を持ち、私たちはわずかしか持っていない。彼は、より大きな・偉大な彼の経験をとおして、私たちを助けてくれるだろう、などなどです。すなわち、基本的にあなたは混乱しているから、教師のところへ行くのです。もしも明晰であったなら、あなたは導師 に近づかないでしょう。明白に、もしもあなたがとても深く幸せであったなら、もしも問題がなかったなら、もしもあなたが生を完全に理解したなら、あなたはどんな導師 のところへも行かないでしょう。あなたにこれの意義をわかって欲しいと、私は思います。あなたは混乱しているから、教師を捜し出すのです。あなたは生き方を与えてもらうため、自分自身の混乱を明らかにする・晴らすため、真理を見つけるために、彼のところへ行くのです。あなたは混乱しているし、自分が求めるものを彼が与えてくれるだろうと願うから、自分の導師 を選択するのです。すなわち、あなたは自分の要求を満足させてくれるであろう導師 を、選択するのです。彼があなたに与えてくれるであろう満足・喜びに応じて、あなたは選択するのです。それであなたの選択は、あなたの満足・喜びに依存しているのです。あなたは、「あなた自身に依存しなさい」と言う導師 を選択しません。あなたは自分の先入観に応じて彼を選択するのです。それであなたは、彼が自分に与えてくれる満足・喜びに応じて導師 を選択するから、あなたは真理を [求めているの]ではなくて、混乱からの抜け出し方を求めているのです。そして混乱からの抜け出し方が、誤って真理と呼ばれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

253鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/08(火) 22:56:06 ID:1d4drIFg0
本当に国家や民族という観念が無ければ智慧があるのじゃ。
しかし、人はそんなことは聞きたくないじゃろう。
神とか信仰があるとか聞きたいのじゃろう。
それもまた観念による統制に過ぎないのじゃ。
本当の解放は知恵に拠ってのみあるものじゃ。

254避難民のマジレスさん:2020/09/09(水) 20:36:30 ID:qC4HxYB20
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 2

 導師 が私たちの混乱をきれいに片づけられるというこの観念を、初めに検討しましょう。誰かが私たちの混乱をきれいに片づけられるでしょうか-混乱は私たちの応答の産物です。私たちがそれを造り出したのです。他の誰かがそれを-中と外の、存在のすべての水準におけるこの悲惨、この戦いを-造り出したと、あなたは思うのでしょうか。それは、自分たち自身についての知識の欠如の結果です。私たちが導師 のところへ行くのは-私たちがその混乱から自由であるのを、彼が助けてくれるであろうと考えるのです-私たちが自分たち自身を、自分たちの葛藤、応答、悲惨を、理解しないからです。私たちは現在との関係においてだけ、自分たち自身を理解できるのです。そして外側の誰かがではなく、その関係自体が導師 です。私がその関係を理解しないなら、たとえ導師 が何を言うとしても役立ちません。なぜなら、私が関係を-財産との、人々との、観念との私の関係を-理解しないなら、誰が私の中の葛藤を解決できるでしょうか。その葛藤を解決するには、私はそれを自分自身で理解しなければなりません-それは、私が関係において自分自身に気づかなければならない、という意味です。気づくには、どんな導師 も必要ではありません。私が自分自身を知らないなら、導師 が何の役に立つでしょうか。混乱 [状態]にあって、ゆえに彼らの選択もまた混乱している人たちにより、政治的指導者が選択されるのと同じように、私は導師 を選択するのです。私は自分の混乱に応じてだけ、彼を選択できるのです。ゆえに彼も、政治的指導者と同じように、混乱しているのです。
 重要であることは、誰が正しいのか-私が正しいのか、導師 は必要であると言う人た
ちが正しいのかどうか-ではありません。なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すことが、重要です。導師 は、様々な種類の搾取 [・利用]のために存在しています。しかしそれは関係ありません。あなたがどのように進歩しつつあるかを、誰かがあなたに言ってくれるなら、それはあなたに満足を与えてくれるのです。しかし、なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すこと-そこに鍵があるのです。他の人は道・やり方を指摘できます。しかしたとえあなたが導師 を持つとしても、あなたが作業すべてをやらなければなりません。 あなたはそれと向き合いたくないから、導師 に責任をなすりつけるのです。ごくわずかの自己認識があるとき、導師 は役に立たなくなるのです。どんな導師 も、どんな書物や聖典も、あなたに自己認識を与えられません。あなたが関係において自分自身に気づくとき、それは来るのです。ある [・生きる]ことは関係することです。関係を理解しないことは、悲惨、闘争です。財産とのあなたの関係に気づかないことが、混乱の原因の一つです。あなたが、財産との自分の正しい関係を知らないなら、必ず葛藤があります-それが社会に抗争を増大させるのです。あなたが自分自身と自分の妻との間の、自分自身と自分の子供との間の関係を理解しないなら、その関係から生じている葛藤を、どうして他の一人が解決できるでしょうか。観念、信念などについても同様です。人々との、財産との、観念とのあなたの関係において混乱しているので、あなたは導師 を求めるのです。彼はほんとうの導師であるなら、あなたに自分自身を理解するようにと言うでしょう。あなたがすべての誤解と混乱の源です。そして関係において自分自身を理解するときだけ、あなたはその葛藤を解決できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

255鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/09(水) 22:38:01 ID:1d4drIFg0
導師は必要とする者にのみ現われるというのじゃ。
必要としないものには現われないのじゃ。
ただ自らを理解するだけで善いのじゃ。
導師はそのためにのみ現われるのじゃ。

256避難民のマジレスさん:2020/09/10(木) 20:28:25 ID:tQxP6Xgs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 4

 あなたは他の誰をとおしても真理を見つけられません。どうしてできるでしょうか。真
理は何か静止したものではありません。それは固定した住所を持ちません。それは目的、目標ではありません。反対に、それは生きて、動的で、鋭敏で、生き生きしているのです。どうしてそれが目的でありうるでしょうか。真理が固定点であるなら、それはもはや真理ではありません。そのとき、それはたんなる意見です。真理は知られないものです。真理を求めている精神は、決してそれを見つけないでしょう。というのは、精神は知られたものから作り上げられているからです。それは過去の結果、時間から出てきたものです-あなたはそれを自分自身で観察できます。精神は知られたものの道具です。ゆえに、それは知られないものを見つけられません。それは知られたものから知られたものへ動けるだけです。精神が真理を-書物で読んだことがある真理を-求めるとき、その「真理」は自己投影されています。というのは、そのとき精神は、たんに知られたもの-以前のものよりもっと満足できる知られたもの-を、追求しているからです。精神が真理を求めるとき、それは真理 [を求めるの] ではなく、それ自身の自己投影を求めているのです。結局、観念は自己投影されています。それは虚構で非真実です。真実であるものは、対極のものではなく、あるがままです。しかし真実を求め、神を求めている精神は、知られたものを求めているのです。あなたが神について考えるとき、あなたの神は、あなた自身の思考の投影、社会的影響の結果です。あなたは知られたものについてだけ、考えられるのです。あなたは知られないものについて考えられません。あなたは真理に集中できません。あなたが知られないものについて考えた瞬間、それはたんに自己投影された知られたものです。神や真理については考えられません。あなたがそれについて考えるなら、それは真理ではありません。真理は求められません。それはあなたに来るのです。あなたは知られているものを追いかけられるだけです。精神が知られたものにより、知られたものの影響により、拷問にかけられないとき、そのときだけ、真理が正体を現せるのです。真理はあらゆる木の葉に、あらゆる涙にあるのです。それは瞬間瞬間知られるべきものです。誰一人あなたを真理へ導けません。誰かがあなたを導くなら、それは知られたものへ [導かれる] だけです。
 真理は、知られたものが空っぽである精神に、到来しうるだけです。それは、知られたものが不在であり、機能していない状態に来るのです。精神は知られたものの倉庫、知られたものの残り滓です。精神が、[そこに] 知られないものが生じる状態にあるには、それはそれ自体に [気づく] 、意識的と共に無意識的なそれの以前の経験に、それの応答、反応、構造に、気づかなければなりません。完全な自己認識があるとき、そのとき知られたものの終わりがあります。そのとき精神は完全に、知られたものが空っぽです。真理が招かれずにあなたのところへ来るのは、そのときだけです。真理は、あなたにも私にも属していません。あなたはそれを崇拝できません。それは知られた瞬間、真実ではないのです。象徴は真実ではありません。イメ-ジは真実ではありません。しかし自己の理解が、自己の停止があるとき、そのとき永遠性が生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

257鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/10(木) 21:52:58 ID:1d4drIFg0
真理と呼べるものは自分を知ることでしかたどり着けないというのじゃ。
自らを知り、自らが無であると気付いた時真理は在るのじゃ。
本で読んだ知識とか、過去の記憶からは生まれないのじゃ。
自らを追及する事でのみそれはやってくるのじゃ。

258避難民のマジレスさん:2020/09/11(金) 21:39:28 ID:sfCtiVOE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 1

質問
 私はあなたから、学び・学問と知識は妨害であるということを、明確に推測します。それらは何に対して妨害なのでしょうか。 

 明白に、知識と学びは、新しいもの、時間のないもの、永遠のものの理解にとって妨害です。完璧な技術を発達させることは、あなたを創造的にしません。あなたはどのようにすばらしく絵を描くかを知っているかもしれません。あなたは技術を持っているかもしれません。しかし、あなたは創造的画家ではないかもしれません。あなたは、技術的にもっとも完璧な詩を、どのようにして書くかを知っているかもしれません。しかし、あなたは詩人ではないかもしれません。詩人であるとは、新しいものを受け入れる能力がある、何か新しい新鮮なものに応答するに充分敏感である、という意味を含むのではないでしょうか。私たちのほとんどにとって、知識や学びは中毒・耽溺になってしまいました。私たちは、知ることをとおして創造的であるだろうと、考えるのです。事実を、知識を詰め込んで身を固めた精神-それは、何か新しい、突然の・不意の、自発的なものを受け入れる能力があるでしょうか。あなたの精神が知られたもので詰め込まれているなら、そこには、知られないもののものである何かを受け入れる空間が、何かあるでしょうか。確かに知識はいつも知られたものについてです。そして知られたものをもって、私たちは知られないものを、何か尺度を超えたものを、理解しようとしているのです。
 私たちのほとんどに起こるごく普通のものごとを、例に取りましょう。宗教的な人たちは-さしあたり・当座は、その言葉が何を意味するとしても-神が何であるかを想像しようとしたり、神が何であるかについて考えようとしたりします。彼らは無数の書物を読んできました。彼らは様々な聖者たち、大師たち、マハトマ(偉大な魂)たちとその他すべての経験について読んできました。そして他の一人の経験が何であるかを想像しようとしたり、感じようとしたりするのです。すなわち、知られたものをもって、知られないものに接近しようとするのです。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、何か知ることのできないものについて考えられるでしょうか。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。しかし現在の世界には、このとてつもない倒錯・歪曲が起きているのです。私たちはもっと多くの情報、もっと多くの書物、もっと多くの事実、もっと多くの印刷物を持つなら、理解するだろうと思うのです。
 知られたものの投影ではない何かに気づくには、理解をとおして、知られたものの過程の排除・除去がなければなりません。精神がいつも知られたものにすがりつくのは、なぜでしょうか。それは、精神が常に確実性、安全を求めているから、ではないでしょうか。まさにその本性こそが、知られたものに、時間に固定されているのです。そういう精神が-まさにその基盤・土台そのものが、過去に、時間に基づいているのですが-どうして時間のないものを経験できるでしょうか。それは知られないものを考えつき・構想し、定式化し、思い描く・描き出すかもしれません。しかしそれはすべて不合理です。知られたものが理解され、解消され、脇に置かれるときだけ、知られないものが生じうるのです。それは極めて難しいのです。なぜなら、あなたが何かについての経験をした瞬間、精神はそれを知られたものの用語に翻訳して、それを過去に還元するからです。あらゆる経験が即時に知られたものに翻訳され、名前をつけられ、一覧表にされ、記録されるということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。それで知られたものの動きが知識です。明白にそういう知識、学習は障害です。
(´・(ェ)・`)つ

259鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/11(金) 23:17:14 ID:1d4drIFg0
知識と学習とは共に記憶に基づいた理解の方法なのじゃ。
記憶に拠って知識を蓄え、記憶されたことを公式とか概念として分別するのじゃ。
それらは記憶に依存している故に、新しいものこどを受け入れられないのじゃ。
過去を今ここにあてはめて解釈しているだけなのじゃ。
どんな先入観念も無い心にのみ、新しいものごとが受け入れられるのじゃ。

260避難民のマジレスさん:2020/09/12(土) 19:02:33 ID:Guh03MSU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 2

 仮にあなたが、宗教的または心理学的な書物を、今まで一度も読んだことがなかった。そして生の意味、意義を見つけなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。仮に大師たちも、宗教的組織も、ブッダも、キリストもいなかった。そしてあなたは初めから始めなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならない、のではないでしょうか-自分自身を、自分の思考を未来に投影して、あなたを喜ばせる神を造り出すのではありません-それはあまりに子供じみている・幼稚すぎるでしょう。それで初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならないでしょう。それが、何か新しいものを発見する唯一の道なのではないでしょうか。
 私たちは、学習や知識は妨害、障害であると言うとき、技術的な知識-車をどう運転するのか、機械類をどう動かすのか-や、そういう知識がもたらす能率・効率は含んでいません。私たちは全く違ったことを精神に持っています・考えています-どれほどの量の知識や学習ももたらさないであろう [ところの]あの創造的幸せの感覚 [のことです] 。その言葉のもっとも真実の意味において創造的であるとは、瞬間瞬間過去から自由であることです。なぜなら、継続的に現在に影を落としているのは、過去であるからです。情報に、他の人たちの経験に、たとえどんなに偉大でも誰かが言ったことに、たんにすがりついて、自分の行動をそれに近づけようとすること-そのすべては知識なのではないでしょうか。しかし、何でも新しいものを発見するには、あなたは自分自身から始めなければなりません。あなたは、特に知識を完全に剥ぎ取られた旅に、とりかからなければなりません。なぜなら、知識と信念をとおして経験をすることは、とてもたやすいからです。しかしそれらの経験は、たんに自己投影の産物です。ゆえに全く真実ではなく、偽りです。あなたが何が新しいものなのかを自分自身で発見しようとするなら、古いものの重荷を、特に知識-たとえどんなに偉大でも他の一人の知識-を運んでいてはダメなのです。あなたは知識を、自己投影の、安全の手段として使います。そしてあなたは、ブッダやキリストやXと同じ経験をすることを、全く確信したいのです。しかし、知識をとおして常に自分自身を保護している人は、明白に真理を求める者ではありません。
 真理の発見のための道はありません。あなたは海図なき海に入ってゆかなければなりません-それは憂鬱ではありません。それは冒険好きであることではありません。あなたが何か新しいものを見つけたいとき、何でも実験しているとき、あなたの精神はとても静かでなければならない、のではないでしょうか。あなたの精神が、事実、知識で詰め込まれ、充満しているなら、それらは新しいものへの妨害として作用するのです。困難は、私たちのほとんどにとって、精神があまりに重要に、あまりに支配的に・優勢的に意義深くなってしまったこと、それが、何でも新しいかもしれないものに、何でも知られたものとともに同時に存在しているかもしれないものに、常に邪魔をしている・妨害しているということ、です。こうして知識と学習は、求めようとする人たち、時間のないものを理解してみようとする人たちにとって妨害です。
(´・(ェ)・`)つ

261鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/12(土) 23:10:45 ID:1d4drIFg0
もしも何の知識も無しに生の意味、意義を見つけなければならないとしたら、先ずは自分の思考過程を理解するところから始めるというのじゃ。
自分がどのようにしてものごとを知るのか、わからなければ全てが謬見になるからなのじゃ。
それは科学者が正確な顕微鏡を求めてちいさいものを見るのと同じなのじゃ。
観察する道具が狂っていては全てが狂うからなのじゃ。
自分の心の働きを知って全ては理解できるようになるのじゃ。

262避難民のマジレスさん:2020/09/13(日) 16:16:00 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 1

質問
すべての宗教は、人の残忍性・獣性の本能を調節する・適度にするために、何らかの種類の自己修練を、主張してきました。自己修練をとおして、聖者たちと神秘主義者・論者たちは、神性・神格に到達したと断言・主張してきました。今あなたは、そういう修練は、神の実現・悟りにとって障害であることを示唆しているように見えます。私は混乱しています。この事柄において正しいのは誰でしょうか。

 それは、この事柄において誰が正しいのか、という問題ではありません。重要であることは、私たち自身で事柄の真理を見出すことです-特定の聖者や、インドからやどこか他の所-異国的であればあるほどいいのです-から来た人物に応じて [見出すの] ではありません。
 あなたはこれら二つの間に捕らわれて・挟まれています。ある人は修練を唱えます。他の一人は無修練を唱えます。一般的に起きることは、より便利である・都合のいいもの、より満足させるものを、あなたは選択するということです。あなたは、 [その] 人、彼の容貌、彼の私的な性向、彼の私的な偏愛、その他すべてが好きなのです。そのすべてを脇に置いて、直接的にこの疑問を検討して、私たち自身で事柄の真理を見出しましょう。この疑問には、たいへん多くの意味が含まれています。私たちは用心・注意深くためらいがちに、それに接近しなければなりません。
 私たちのほとんどは、何をすべきかを私たちに教えてくれる誰か権威者が、欲しいのです。私たちは行いの指示を期待します。なぜなら、私たちの本能は、安心すること、もはや苦しまないことであるからです。誰かが幸せ、至福-何であれ-を実現したと言われています。すると私たちは、そこに到り着くために何をすべきかを、彼が私たちに教えてくれるだろうと、願うのです。それが、私たちの欲しいものです。私たちはその同じ幸せ、その同じ内側の静けさ、喜びが欲しいのです。そしてこの狂った混乱の世界で、私たちは、誰かに何をすべきかを自分たちに教えてもらいたいのです。それが、私たちのほとんどにとって、ほんとうに基本的本能です。その本能に応じて、私たちは自分たちの行動を様式化するのです。神、その最高の、名づけられない、言葉で測るべきでないもの-それは、修練をとおし、特定の行動の様式に付いていくことをとおして、偶然手に入るのでしょうか。私たちは特定の目標、特定の目的に到り着きたいのです。そして私たちは、実践により、修練により、抑圧することや解放すること、昇華することや代用することにより、自分たちが求めているものを見つけることができるだろうと、思うのです。
(´・(ェ)・`)つ

263鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/13(日) 22:44:37 ID:1d4drIFg0
人が権威に縋ろうとするのは親から条件付けされているからなのじゃ。
子供の頃に親からやるべきことやしてはいけないことを教わってきた故に、大人になってからもそのような対象を探して縋ろうとするのじゃ。
それは宗教によって最も顕著に現われるものじゃ。
神という親の代理を作り出して安心感をもたらすのじゃ。
それでは子供の頃と何も変らないのじゃ。
自ら観察して己を見出すことのみが正しい道なのじゃ。

264避難民のマジレスさん:2020/09/14(月) 19:13:57 ID:3QLePqvQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 2

 修練に含まれている意味は何でしょうか。私たちは修練するとしても、なぜ自分たち自身を修練するのでしょうか。修練と智恵は共存できるのでしょうか。ほとんどの人たちは、何らかの種類の修練をとおして、私たちのなかの獣性・残忍性、醜いものを、服従させたり制御したりしなければならないと、感じています。その獣性、その醜いものは、修練をとおして、制御できるでしょうか。私たちのいう修練とは、どういう意味でしょうか。報賞を約束してくれる [ところの] 行動の進路・道筋。もしも追求したなら、私たちに欲しいもの-それは肯定的であったり否定的であったりするかもしれない-を与えてくれるであろう [ところの] 行動の進路。もしも精出して・勤勉に、丹念に、とてもとても熱烈に実践したなら、最後に私たちに欲しいものを与えてくれるであろう [ところの]行いの様式 [という意味]です。それは苦痛であるかもしれません。しかし私はそれ [欲しいもの] を得るために、進んでそれ [修練] を経てゆこうとするのです。自己は攻撃的で、利己的で、偽善的で、心配で、恐れています-あなたはそのすべてを知っています-その自己が、私たちのなかの獣性の原因です- [その自己を]私たちは変容させ、服従させ、破壊したいのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。それは、修練をとおして [なされるのか]、それとも自己の過去-自己とは何か、それはどのようにして生じるのか、など-についての智恵ある理解 をとおして、なされるのでしょうか。私たちは人の獣性を、強制をとおして [破壊するのでしょうか] 、それとも智恵をとおして破壊するのでしょうか。智恵は修練の事柄でしょうか。聖者たちとその他すべての人たちが言ったことは、当分は忘れましょう。まるで私たちが初めてこの問題を見つめるかのように、自分たち自身で事柄に入りましょう。そのとき私たちは、その終わりに、他の人たちが言ったことのただの引用ではなく-それはすべてあまりに空虚で役にたちません-何か創造的なものを、得るかもしれません。
 私たちには葛藤-白に対する黒、無欲に対する貪欲など-があると、私たちは初めに言います。私は貪欲です-それは苦痛を造り出します。その貪欲を取り除くには、私は自分自身を修練しなければなりません。すなわち私は、自分に苦痛を与えるどんな形の葛藤にも抵抗しなければならないのです-この場合は、それを貪欲と呼びます。そのとき私は、それは反社会的である、それは非倫理的・不道徳である、それは聖人らしくない、などなどと言います-私たちはそれに抵抗するために、様々な社会的、宗教的理由を与えます。貪欲は、強制をとおして破壊されたり、私たちから片づけられるでしょうか。初めに、抑圧、強制、それを片づけること、抵抗することに関与している過程を、検討しましょう。あなたがそうするとき、あなたが貪欲に抵抗するとき、何が起きるでしょうか。貪欲に抵抗しているものは何でしょうか。それが最初の疑問なのではないでしょうか。なぜあなたは貪欲に抵抗するのでしょうか。そして「私は貪欲から自由でなければならない」と言う実体は誰でしょうか。「私は自由でなければならない」と言う実体もまた、貪欲なのではないでしょうか。今までは、貪欲が彼に報いてきました。しかし、今やそれは苦痛です。ゆえに彼は「私はそれを取り除かなければならない」と言うのです。それを取り除こうとする動機も、やはり貪欲の過程です。なぜなら、彼は、何か自分ではないものでありたいと思っているからです。無欲は今や利益になるのです。それで私は無欲を追求しているのです。しかし、動機、意図は、やはり何ものかであること、無欲であることです-確かに、それもやはり貪欲です。それもまた、否定的な形の「私」の強調です。
(´・(ェ)・`)つ

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/14(月) 22:00:09 ID:1d4drIFg0
変容とは修練によってなされるのか、それとも知恵に拠って理解することできるのかというのじゃ。
そして修練は貪欲の表れでしかないというのじゃ。
無欲を目指していてもそれを望む貪欲になるのじゃ。
すると結局は変容は知恵による理解しかないということになるのじゃ。

266避難民のマジレスさん:2020/09/15(火) 19:25:47 ID:Hg2uwcrw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 3

 私たちは、明白である様々な理由のために、貪欲であることが苦痛であることを、見つけます。私たちがそれを楽しむかぎり、貪欲であることが、私たちに報いてくれるかぎり、問題はないのです。社会は私たちを貪欲であるよう、違った仕方で励まします。宗教もまた、違った仕方で私たちを励まします。それが利益になるかぎり、それが苦痛でないかぎり、私たちはそれを追求するのです。しかしそれが苦痛になった瞬間、私たちはそれに抵抗したいのです。その抵抗が、貪欲に反して・対抗して修練と呼ばれます。しかし私たちは、抵抗をとおし、昇華をとおし、抑圧をとおして、貪欲から自由であるでしょうか。貪欲から自由でありたいと思う「私」の方のどんな行動も、やはり貪欲です。ゆえに、貪欲に関する私の方のどんな行動、どんな応答も、明白に解決ではないのです。
 まず初めに、何かを [理解するには] 、特に、何か私の知らないもの、何か私の精神が推し量れないもの-すなわち、この質問者が言う神-を理解するには、静かな精神、動揺のない精神が、なければなりません。何かを、何か錯綜した問題-生や関係の [問題]、要するに何かの問題-を理解するには、精神にとって一定の静かな深みがなければなりません。その静かな深みは、何かの形の強制をとおして偶然手に入るでしょうか。表面的な精神は、それ自体を強制し、それ自体を静かにさせるかもしれません。しかし、確かにそういう静けさは、腐敗の、死の静けさです。それは適応・順応性、柔軟性、敏感性・感受性の能力がありません。ですから抵抗は [正しい]道ではありません。
 そこで、それがわかるには、智恵を必要とするのではないでしょうか。精神は強制により鈍らされるということがわかることが、すでに智恵の始まりなのではないでしょうか-修練は、たんに恐れをとおした行動の様式への順応であることが、わかることが、です。それが、私たち自身を修練することに示唆されていることです。 私たちは欲しいものを得ないことを恐れています。あなたが精神を修練するとき、あなたが自分の存在を修練するとき、何が起きるでしょうか。それはとても堅く [なる] -柔軟でなく、すばやくなく、適応・調節できなくなるのではないでしょうか。あなたは、自分たち自身を修練してきた人たちを、知らないでしょうか-そういう人たちがいるとして、です。結果は明白に腐敗の過程です。片づけられ、隠された内側の葛藤があるのです。しかし、それはあるし、燃えているのです。
 こうして私たちは、修練、すなわち抵抗は、たんに習慣を造り出すだけであり、習慣は明白に智恵を産み出す力がありえないことが、わかるのです。習慣は決して [智恵を産み出す力がありえ]ない、実践は決して[智恵を産み出す力がありえ]ないのです。あなたは一日中ピアノを練習すること、自分の手で何かを作ることにより、指先がとても器用になるかもしれません。しかし、手に命令するには、智恵が要求されます。私たちは今、その智恵を探究しているのです。
(´・(ェ)・`)つ

267鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/15(火) 23:42:46 ID:1d4drIFg0
貪欲は最初は快楽であるがいずれは苦をもたらすものじゃ。
それを何かの修練によって除こうとすれば、それがまた貪欲を生み出すのじゃ。
その循環は止まる事が無いのじゃ。
ただありのままに見ることに拠ってのみ、それは止められるのじゃ。

268避難民のマジレスさん:2020/09/16(水) 19:05:25 ID:5SfEipAk0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 4

 あなたは、幸せである、または悟っていると考える誰かを、見ます。彼は一定のことをします。あなたはその幸せが欲しいので、彼を模倣します。この模倣が修練と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは、他の一人が持つものを受け取るために、模倣します。私たちは幸せであるためにまねをします-彼がそう [幸せ] であると、あなたは思うのです。幸せは、修練をとおして見つかるでしょうか。一定の規則を実践することにより、一定の修練を、行いの様式を実践することにより、あなたはいったい自由でしょうか。確かに、発見のための自由がなければならない、のではないでしょうか。あなたは何かを発見しようと思うなら、内側で自由でなければなりません-それは明白です。あなたは、修練と呼ぶ特定のやり方で、自分の精神を形造ることにより、自由でしょうか。明白に、あなたは [自由では]ありません。あなたは、一定の結論に応じ、一定の行いの様式に応じて抵抗している、たんに反復的な機械であるだけです。自由は修練をとおして来ることができません。自由は、智恵をもって生じうるだけです。内側でも外側でも、どんな形の強制も、自由を否定するということがわかった瞬間、その智恵が目覚める、またはあなたはその智恵を持つのです。
 修練としてではなく、最初に必要なものは、明白に自由です。美徳だけが、その自由を与えてくれるのです。貪欲は混乱です。怒りは混乱です。苦さ・辛さは混乱です。あなたはそれがわかるとき、明白にそれらから自由です。あなたはそれらに抵抗しません。あなたは、自由においてだけ発見できること、どんな形の強制も自由ではなく、ゆえに発見はないことが、わかるのです。美徳のもたらすことは、あなたに自由を与えることです。美徳のない・不徳な人は、混乱した人です。混乱の中で、あなたはどうして何かを発見できるでしょうか。どうしてできるでしょうか。こうして美徳は、修練の最終産物・成果ではありません。美徳が自由です。美徳のない、それ自体において真実でないどんな行動をとおしても、自由は来ることができません。私たちの困難は、私たちのほとんどがあまりに多く読んできたこと、私たちのほとんどがあまりに多くの修練に表面的に付いていったこと、です-毎朝一定の時間に起きて、一定の姿勢で座り、自分たちの精神を一定の仕方に抑えようとすること-知っているでしょう、実践、実践、修練を。なぜなら、あなたは、何年間かこれらのことをするなら、その終わりに・最後に神を得るだろうと、言われてきたからです。私はそれを露骨に・ぞんざいに述べるかもしれません。しかし、それが、私たちの考えの基本です。確かに、神はそれほどたやすく来るとはかぎらないでしょう。神はたんなる市場で取り引きできるものではありません-私がこれをすると、あなたがそれを私にくれる [といったものではありません]。
(´・(ェ)・`)つ

269鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/16(水) 21:30:02 ID:1d4drIFg0
修練や規則、様式を繰り返すことはむしろ観察には不向きなのじゃ。
自らの心を観察して、新たな事実を発見することが大事なのじゃ。
修練等を繰り返すとそのような肝心な観察と発見による気づきを取り逃がしてしまうのじゃ。
観察し、発見することは記憶に拠らないものであるからのう。
記憶による修練はその妨げになるばかりなのじゃ。

270避難民のマジレスさん:2020/09/17(木) 19:02:16 ID:7OJSsgOo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 5

 私たちのほとんどは、外部の影響により、宗教的な教義、信念により、何かに至り着きたい、何かを獲得したいという自分たち自身の内側の要求により、あまりに条件づけられているために、修練という見地に立って考えることなく、私たちがこの問題について新たに考えることは、とても難しいのです。初めに私たちは、修練が含んでいる意味が[とても明確に見えなければなりません] -それが、私たちの願望をとおし、影響とその他すべてをとおして、どんなに精神を狭めてしまい・限定し、精神を制限し、精神を特定の行動に強制するか [が見えなければなりません]-条件づけられた精神は、その条件づけがたとえどんなに「美徳がある」としても、とうてい自由でありえないし、ゆえに真実を理解できないということが、とても明確に見えなければなりません 。神、真実、何であれ-名前は大事ではありません-は、自由があるときだけ、生じうるのです。そして恐れをとおして、肯定的でも否定的でも強制があるところ、自由はありません。あなたが目的を求めているなら、自由はありません。というのは、あなたはその目的に縛られて・つながれているからです。あなたは過去から自由であるかもしれません。しかし未来があなたを拘束します・離しません。それは自由ではありません。何かを-新しい観念、新しい感情・気持ち、新しい知覚-を発見できるのは、自由においてだけです。政治的であれ宗教的であれ、強制に基づいたどんな形の修練も、その自由を否定します。そして修練、すなわち目的を視野に入れた行動への順応が、縛りつけているから、精神は決して自由でありえないのです。それは、蓄音機(レコ-ド)のように、その [修練の] 溝の中でだけ機能できるのです。
 こうして実践をとおし、習慣をとおし、様式の育成をとおして、精神は、それが視野に持つものを達成するだけです。ゆえに、それは自由ではないのです。ゆえに、それは測ることのできないものを悟れないのです。その過程全体に気づくこと-なぜあなたが世論に、一定の聖者たちに合わせて、常に自分自身を修練して・律しているのか-聖者のであれ隣人のであれ意見に順応するというやっかいなこと全体-それはすべて同じ事です- [に気づくこと]。 実践をとおし、甘受し、否定し、主張し、抑圧し、昇華するという微妙なやり方-すべてが様式への順応という意味を含んでいます-をとおした、この順応全体に気づくこと。これがすでに自由の始まりです。そこから美徳があるのです。美徳は確かに、特定の観念の育成ではありません。例えば、無欲は、もしも目的として追求されたなら、もはや美徳ではない、のではないでしょうか。すなわち、自分が無欲であることを意識しているなら、あなたは美徳があるでしょうか。それが、私たちが修練をとおしてやっていることです。
(´・(ェ)・`)つ

271鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/17(木) 21:33:32 ID:1d4drIFg0
なぜ修練がいかんのかというと、それが視野を狭めるからだというのじゃ。
修練はその目的のものしか見えなくなるから、自由な視野を失い、記憶の中だけで生きることに成るのじゃ。
修練によって達成できるのは、予め記憶された境地のみだというのじゃ。
無欲であることさえ意識して行うならばもはや美徳でもないのじゃ。
そのような修練とその結果全体に気付くことが自由の始まりなのじゃ。

272避難民のマジレスさん:2020/09/18(金) 19:04:09 ID:vvZ4Fpoo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 6

 修練、順応、実践は、何ものかであるという自意識に、強調を与えるだけです。精神は無欲を実践します。ゆえにそれは、無欲であるというそれ自身の意識から、自由ではないのです。ゆえにそれは、ほんとうは無欲ではないのです。それはたんに無欲と呼ぶ新しいマントを採用した・選び取っただけです。私たちはこのすべての総合過程がわかります-動機づけ、目的への願望、様式への順応、様式を追求するなかで安全でありたいという願望-このすべては、いつも精神自身の自己閉鎖的な過程の制限の中で、たんに知られたものから知られたものへ動くことです。このすべてがわかること、それに気づくことが、智恵の始まりです。そして智恵は、美徳があるのではなく、また美徳がないのでもありません。それは、美徳や不徳として様式にはめ込むことはできません。智恵は自由をもたらします-それは放蕩ではなく、無秩序ではありません。この智恵なしには、美徳はありえません。美徳は自由を与えてくれます。そして自由において、真実が生じるのです。あなたは過程全体を、完全な形で・まるごと総合的にわかるなら、そのとき葛藤がないことを見つけるでしょう。私たちが様々な形の修練、否定、適応に頼る・訴えるのは、私たちが葛藤 [の状態]にあるから、その葛藤から逃避したいから、です。何が葛藤の過程であるかがわかるとき、修練の問題はないのです。なぜなら、そのとき私たちは、葛藤の仕方を瞬間瞬間理解するからです。それは、大いなる鋭敏さ、いつのときも自分自身を見守る・見つめることを、必要とします。それが好奇心をそそる・不思議な部分は、いったん意図があれば、あなたがいつのときも見守っているわけではないとしても、記録する過程が内側で続いているということです-敏感さ、内的な敏感さが、いつのときも写真を撮り、そのためあなたが静かになった瞬間、内的なものがその写真を投影するでしょう。  
 ゆえに、それは修練の問題ではありません。敏感さは、強制をとおしては、決して生じえません。あなたは子どもに何かをするように強制し、隅に追い込むかもしれません。そして子どもは静かになるかもしれません。しかし内側で、子どもはたぶん波立ち・沸き立ち、窓の外を見、逃げようと何かをしているのです。それは、私たちもやはりしていることです。それで修練 [の問題] と、誰が正しく、誰が間違っているのかという問題は、あなた自身によってだけ、解決されうるのです。
 またあなたは、私たちは成功したいから、間違う・うまくいかないことを恐れていることも、わかります。恐れが、修練されたいという願望の底にあります。しかし、知られないものは、修練の網に捕らえられません。反対に、知られないものは、あなたの精神の様式 [を持つの]ではなく、自由を持つ・有するにちがいありません。そういうわけで、精神の平静さが本質的 [・不可欠]です。精神が平静であることを意識するとき、それはもはや平静ではありません。精神が無欲で [あること] 、貪欲から自由であることを意識するとき、それは無欲という新しいロ-ブ(礼服)を身につけたそれ自身を認識します。しかし、それは平静さではありません。そういうわけで、制御する人と制御されるものというこの疑問においても、また問題を理解しなければならないのです。それらは分離した現象ではなくて、共通の現象です。制御するものと制御されるものは一つです。
(´・(ェ)・`)つ

273鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/18(金) 21:51:03 ID:1d4drIFg0
修練は結局自我を強化するだけというのじゃ。
実際に自分が座禅をしているからと増上慢になる者も多いのじゃ。
それは逃避でしかないのじゃ。
ぶざまな自己イメージからの逃避であるから、それで自己を理解することはありえないのじゃ。

274避難民のマジレスさん:2020/09/19(土) 17:21:12 ID:WIUog5qw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 7

質問
 私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。

 質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
あなたは今まで一人であろうとしたことがあるでしょうか。あなたはそうしようとするとき、それがどんなにとてつもなく難しいか、一人であるにはどんなにとてつもない智恵がなければならないかを、感じるでしょう。なぜなら、精神は(どうしても)私たちを一人にさせないからです。精神は落ち着かなくなります。それは逃避するのに忙しいのです。それで私たちは何をしているのでしょうか。私たちはこのとてつもない空虚を、知られたもので充たそうとしているのです。私たちは、どのように活動的であるか、どのように社交的であるかを発見します。私たちは、どのように研究するか、どのようにラジオをつけるかを、知っています。私たちは、自分たちの知らないものを、知っているもので充たしているのです。私たちは、その空っぽ [の空しさ] を、様々な種類の知識、関係やものごとで充たそうとします。そうではないでしょうか。それが私たちの過程です。それが私たちの存在です。そこであなたは、自分が何をしているかを悟るとき、それでもその空虚を充たせると思うでしょうか。あなたは、この孤独の空虚を充たすあらゆる手段を、試してきました。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。あなたは映画を試してみましたが、成功しませんでした。ゆえに自分のや書物を追いかけたり、社会的に・社交的にとても活動的になったりします。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。それともたんにそれを覆い隠しただけでしょうか。たんに覆い隠しただけなら、それはやはりあります。ゆえに戻ってくるでしょう。あなたはすっかり[全く]逃避することができるなら、アシュラム [保護施設・避難所] に閉じ込められるか、とてもとても鈍感になるか、です。それが世界で起きていることです。
この空っぽ [の空しさ] 、この空虚は、充たすことができるでしょうか。できないなら、私たちはそれから逃げ出し、それから逃避できるでしょうか。一つの逃避が無価値であることを経験し、わかったなら、ゆえに、他のすべての逃避が無価値ではないでしょうか。空っぽ [の空しさ] を、これで充たすかあれで充たすかどうかは、大事なことではありません。いわゆる瞑想もまた逃避です。あなたが逃避の仕方を変えることは、あまり大事なことではありません。
(´・(ェ)・`)つ

275鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/19(土) 21:40:37 ID:1d4drIFg0
孤独からの逃避として、文明が起こったというのじゃ。
全ての芸術とか宗教までも逃避だというのじゃ。
それらは全て無価値であるのじゃ。
何も変容をもたらさず、老病死の苦からも逃れられないからなのじゃ。

276避難民のマジレスさん:2020/09/20(日) 11:46:12 ID:Y9d16ak.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 8

 ではあなたは、この孤独についてどうすべきかを、どのようにして見つけるのでしょう
か。あなたは逃避するのを止めてしまったとき、どうすべきかを見つけられるだけです。そうではないでしょうか。あなたが進んであるがままと向き合おうとするとき―それは、あなたがラジオをつけてはならないという意味です。それは、あなたが文明に背を向けなければならないという意味です―そのとき、その孤独は終わります。なぜなら、それは完全に変容しているからです。それはもはや孤独ではありません。あなたがあるがままを理解するなら、そのとき、あるがままが真実[のもの]です。精神は、あるがままを見ることを連続的に避け、逃避し、拒んでいるから、それ自身の障害を造り出すのです。私たちは、見ることを妨げているほど、あまりに多くの障害を持っているから、あるがままを理解しないのです。ゆえに真実から逃げているのです。これらすべての障害は、あるがままを見ない[ようにする]ために精神によって造り出されてきたのです。あるがままを見るには、たいへんな(行動の)能力と行動への気づきを必要とするだけでなく、またあなたが築き上げてきたあらゆるものごと―あなたの銀行預金、あなたの名前、文明と呼ばれるあらゆるものごと-に背を向ける、という意味です。あるがままを見るとき、どのように孤独が変容するかが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

277鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/20(日) 22:54:22 ID:1d4drIFg0
あるがままを見ることができれば、既にもう変容しているというのじゃ。
気付けば変容は直ぐに起きるからのう。
その時には逃避でしかなかった文明はもはや無力なのじゃ。
そのようにして孤独も滅することが出来るのじゃ。

278避難民のマジレスさん:2020/09/21(月) 19:13:35 ID:9PoQw6NM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答六 孤独[寂しさ]について 1

質問
 私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。

 質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
(´・(ェ)・`)つ

279鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/21(月) 22:48:20 ID:1d4drIFg0
二日前に見た気がするのう。
疲れているのかもしれん。
或いは孤独に囚われがあるのかもしれん。
心を見るのじゃ。

280避難民のマジレスさん:2020/09/22(火) 00:45:49 ID:9v3JJ83c0
>>279
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。
『五 修練について』は >>272まででした。
>>274『六 孤独[寂しさ]について 1』
>>276『六 孤独[寂しさ]について 2』
>>278 ご指摘どおり重複でありました。
(´・(ェ)・`)

281避難民のマジレスさん:2020/09/22(火) 00:55:35 ID:9v3JJ83c0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 1

質問
 苦痛と苦しみの意義は何でしょうか。

 あなたが苦しむとき、苦痛があるとき、その意義は何でしょうか。身体的苦痛には一つの意義がありますが、たぶん私たちのいうのは、心理的苦痛と苦しみという意味です―それは違った水準で、全く違った意義があるのです。苦しみの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦しみの意義を見つけたいのでしょうか。それには意義がないということではありません―私たちは見出そうとしているのです。しかし、なぜあなたはそれを見つけたいのでしょうか。、自分がなぜ苦しむのかを、なぜあなたは見つけたいのでしょうか。あなたは「なぜ私は苦しむのか」というその疑問を自分自身に出して、苦しみの原因を探しているとき、苦しみから逃避していないでしょうか。私は苦しみの意義を求めるとき、それを避け、回避し、それから逃げ出していないでしょうか。事実は私が苦しんでいるのです。しかしそれを操作[処置]するために精神を持ち込んで「では、なぜ」と言った瞬間、すでに苦しみの強烈さを薄めてしまったのです。言い換えれば、私たちは苦しみを薄め、軽減し、片づけ、説明してしまいたいのです。確かにそれは、苦しみについての理解をもたらしません。それから逃げ出したいというその願望から自由であるなら、そのとき私は、何が苦しみの内容[中身]であるかを、理解しはじめるのです。
苦しみとは何でしょうか。動揺なのではないでしょうか。違った水準での [動揺] ―身体的水準での、そして潜在意識の違った水準での [動揺]、です 。それは、私が好きでない鋭い形の動揺です。私の息子が死にました。私は彼のまわりに自分の希望のすべてを築いてきました―または自分の娘や夫や何でもあなたの望むもののまわりに。私は彼にそうあって欲しいと思うものすべてとともに彼を祭って・秘蔵してきました。そして彼を連れ合いとしてきました―ご存知でしょう、その種のことすべてを。突然、彼は逝ってしまいました。それで動揺があるのではないでしょうか。その動揺を、私は苦しみと呼ぶのです。
私はその苦しみを好きでないなら、そのとき「なぜ私は苦しんでいるのか」、「私は彼をたいへん愛していた」、「彼はこうだった」、「私はそれを持っていた」と言います。私たちのほとんどがするように、私は言葉に、レッテルに、信念に逃避しようとします。それらは麻酔剤・麻薬として作用するのです。私がそうしないなら、何が起きるでしょうか。私は単に苦しみに気づいています。それを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。そのとき私はその動きに付いていけるのではないでしょうか。そのときそれが意味するものの内容・中身全体に付いていけるのです―何かを理解しようとする、という意味において「私は付いていく」のです。
(´・(ェ)・`)つ

282鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/22(火) 21:44:18 ID:1d4drIFg0
苦しみは愛する者を失ったりすると起こるというのじゃ。
愛別離苦じゃな。
その苦から信念への逃避も起こると言うのじゃ。
非難も正当化もせずにそれを見守る時、それは消えるというのじゃ。

283避難民のマジレスさん:2020/09/23(水) 20:36:58 ID:wrd1GIiU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 2

 それはどういう意味でしょうか。苦しんでいるのは何でしょうか。なぜ苦しみがあるのかではなく、何が苦しみの原因なのかではなく、何が現実に起きているのでしょうか。あなたにその違いがわかるかどうか、私は知りません。そのとき私は単に苦しみに気づいています―私から離れたものとして[の苦しみに気づくの]ではなく、苦しみを見張っている観察者として [の私が気づくの] ではなく-それは私の一部です。すなわち私の全体が苦しんでいるのです。そのとき私はその動きに付いていく [ことができ] 、それがどこにつながるのかを、見ることができます。確かに、私がそうするなら、それは [扉を] 開くのではないでしょうか。そのとき私は、「私」を強調していたことがわかります-自分の愛している人物を [強調していたの] ではありません。彼はただ私を、私の悲惨から、孤独から、不幸から覆い隠す・かばう作用をしただけです。私は何ものでもないので、彼にそうあって欲しいと願ったのです。それは消えてしまいました。私は取り残[置き去りに]されます。私は途方に暮れます・路頭に迷います。私は孤独です。彼なしには、私は無です。それで私は泣きます。それは、彼が逝ってしまったということではなく、私が取り残されたということです。私は一人です。その地点に至る[そこまで来る]ことは、とても難しいのではないでしょうか。それを本当に認識して、たんに、「私は一人だ。どのようにして、その孤独を取り除くべきなのか」と言うだけではなく―それももう一つの形の逃避です-それを意識すること、それと共にとどまること、その動きを見ることは、難しいのです。私はこれを一つの実例・一例として取り上げているだけです。徐々に・次第に、それが展開し、[扉を]開くのを許す・それが開くのにまかせるなら、私は、自分が途方に暮れている・路頭に迷っているから苦しんでいるということが、わかるのです。私は、何か進んで見ようとしないものに自分の注意を向けるよう、呼びかけられているのです―何か見ること、理解することに気がすすまないものが、私に押し付けられ・強いられているのです。私が逃避するのを助けてくれる無数の人たちがいます―信念、教義、希望、幻想を持った、何千ものいわゆる宗教的な人たちです。「それはです。それは神の意志です」―ご存知でしょう、すべてが私に抜け出し方を与えてくれるのです。しかし、それを私から片づけるのではなく、制限し・境界線を引いたり否定したりしようとするのではなく、私がそれと共にとどまることができるなら、そのとき何が起きるでしょうか。精神がこうして苦しみの動きに付いてゆきつつあるとき、私の精神の状態は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

284鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/23(水) 21:56:08 ID:1d4drIFg0
単に苦しみに気付いていることこそ大事だというのじゃ。
己の全体として苦しんでいると観る時、その心の働きに付いていき、どのように起こるのか見ることができるというのじゃ。
その時、苦からの逃避があったことをも気付くのじゃ。
苦だけではなく、苦からの逃避があったと全体に気付いた時に観察は完全になるのじゃ。

285避難民のマジレスさん:2020/09/24(木) 21:07:05 ID:ur8PhUy20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 3

苦しみはたんに言葉でしょうか、それとも現実でしょうか。それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は今や意味がありません。それでたんに強烈な苦痛の感情だけがあるのです。何に関して[の苦痛]でしょうか。イメ-ジに、経験に、何かあなたが持っていたり持っていなかったりするものに関して [の苦痛]です 。あなたはそれを持っているなら、楽しみと呼びます。持っていないなら、それは苦痛です。ゆえに苦痛、悲しみは、何かとの関係においてあるのです。その何かは、たんに言語作用・言語表現でしょうか、それとも現実でしょうか。すなわち悲しみが存在しているとき、それは、何かとの関係においてだけ、存在しているのです。それはそれ自体では存在できません-ちょうど恐れがそれ自体では [存在でき]なくて 、何かとの関係においてだけ存在できるように-個人との、出来事との、感情との[関係において]。今やあなたは苦しみに充分に気づいています。その苦しみは、あなたから離れているでしょうか。ゆえにあなたは、たんに苦しみを知覚する観察者でしょうか、それともその苦しみがあなたでしょうか。わわ
苦しんでいる観察者がいないとき、苦しみはあなたと異なっているのでしょうか。あなたが苦しみである、のではないでしょうか。あなたは苦痛から離れていません―あなたが苦痛です。何が起きるでしょうか。レッテル貼りはありません。それに名前を付けること [はありません] 、よって払いのける・はねのけることはありません―あなたはたんにその苦痛、その感情、その苦悶の感覚です。あなたがそれであるとき、何が起きるでしょうか。あなたがそれを名づけないとき、それに関して恐れがないとき、中心はそれと関係しているでしょうか。中心がそれと関係しているなら、そのとき、それ [中心] はそれ[苦しみ]を恐れています。そのとき、それは行動して、それ[苦しみ]について何かをしなければなりません。しかし、中心がそれ[苦しみ]であるなら、そのときあなたはどうするでしょうか。なすべきことは何もないのではないでしょうか。あなたがそれであって、それを受け入れず、それにレッテルを貼らず、脇へのけていないなら-あなたがそのものであるなら、何が起きるでしょうか。そのとき、あなたは苦しい・苦しんでいると言うでしょうか。確かに、根本的変容が起きたのです。そのときもはや「私は苦しい・苦しんでいる」 [ということ] はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心が苦しむのです。なぜなら私たちは、中心が何であるかを決して検討したことがないからです。私たちはただ言葉から言葉へ、反応から反応へと生きる・生きていくだけです。「苦しむそのもの[苦しんでいるそのもの]が何であるのか見てみよう」とは、私たちは決して言いません。強制により、修練によっては、見ることはできません。興味を持って、自発的な了解を持って見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼ばれるもの、私たちが避けるもの、修練、すべてが消えてしまったことが、わかるでしょう。私が自分の外側としてのものごとと関係を持たないかぎり、問題はないのです。私が自分の外側のそれと関係を確立した瞬間、問題があるのです。私が苦しみを何か外側のものとして扱う限り―私は兄弟を亡くしたから、お金がないから、あれこれのために、苦しむのです―それとの関係を確立します。その関係は虚構[架空]です。しかし私がそのものであるなら、事実を見るなら、そのとき、ものごと全体が変容するのです。そのすべてが違った意味を持ちます。そのとき充分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られるものは理解され、解消します。そのため恐れはないし、ゆえに「悲しみ」という言葉は存在していないのです。
(´・(ェ)・`)

286鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/24(木) 21:23:40 ID:1d4drIFg0
苦しみは言葉ではないというのじゃ。
苦しみは自分そのものであるというのじゃ。
自己同一化しているのじゃ。
それが見られたならば苦しみは即座に停止するのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2020/09/25(金) 23:06:34 ID:aUlu60.o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 1

質問
 気づきと内省の間の違いは何でしょうか。そして気づきにおいて、気づくのは誰でしょうか。

 初めに、私たちのいう内省とはどういう意味なのかを、検討しましょう。私たちのいう内省とは、自分自身の中を見る、自分自身を検討する、という意味です。なぜ自分自身を検討するのでしょうか。改善する・向上させるため、変えるため、修正するため、です。あなたは何ものかになるために内省します。そうでないと内省に耽らないでしょう。もしも修正したい、変えたい、あるがままのあなたより他の何ものかになりたいという願望がなかったなら、あなたは自分自身を検討しないでしょう。それが、内省のための明白な理由です。私は怒ります。すると怒りを取り除いたり、怒りを修正したり変えるために、私は自分自身を内省し、検討します。内省-それは、自己の応答、反応を修正したり変えたいという願望です-があるところ、いつも視野に目的があるのです。その目的が達成されないとき、不機嫌さ、憂鬱さがあるのです。ゆえに内省は必ず憂鬱さを伴います。あなたは内省するとき、自分自身を変えるために自分自身の中を見るとき、いつも憂鬱の波があるということに、気づいたことがあるかどうか、私は知りません。あなたが [それと] 戦わなければならない不機嫌な波が、いつもあるのです。あなたはその気分などに打ち勝つために、再び自分自身を検討しなければならないのです。内省は [そこに]解放のない過程です。なぜならそれは、あるがままを何かそうではないものに変容させる過程であるからです。 私たちが内省するとき、その特定の行動に耽るとき、明白に、それがまさに起きていることです。その行動にはいつも蓄積過程 [があり] 、それを変えるために何かを検討している「私」があり、そのためいつも二元的葛藤 [があり、]ゆえに挫折の過程があるのです。決して解放はありません。そしてその挫折を悟ると、憂鬱さがあるのです。
 気づきは全く異なっています。気づきは非難なき観察です。気づきは理解をもたらします。なぜなら、非難も同一化もなくて、静寂な観察があるからです。私は何かを理解したいなら、観察しなければなりません。批判してはなりません。非難してはなりません。楽しみとしてそれを追求したり、楽しみでないとしてそれを避けたりしてはなりません。たんに事実についての静寂な観察があるだけでなければなりません。視野に目的がなくて、生じるままにあらゆるものごとへの気づきがあります。非難、同一化、正当化があるとき、その観察と、その観察の理解は止みます。内省は自己改善です。ゆえに内省は自己中心性です。気づきは自己改善ではありません。反対にそれは、そのすべての奇妙な性向、記憶、要求、追求を持った自己の、「私」の終わりです。内省には、同一化と非難があります。気づきには、非難も同一化もありません。ゆえに自己改善はありません。二つの間には広大な違いがあります。
(´・(ェ)・`)つ

288鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/26(土) 22:47:36 ID:1d4drIFg0
内省と気付きは違うものというのじゃ。
内省にはまだ目的があり、自己同一化や分別も在るのじゃ。
気付きは目的は無く、自己同一化がなく分別もないと言うのじゃ。
静寂な観察に拠って気付きは起こるのじゃ。
それは自己の終わりをもたらすものというのじゃ。

289避難民のマジレスさん:2020/09/27(日) 17:40:09 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 2

 自分自身を改善したいと思う人は、決して気づけません。なぜなら改善は、非難と結果の達成という意味を含んでいるからです。ところが気づきには、非難のない、否定も受け入れもない観察があります。その気づきは外側のものごとから始まります-気づくこと、対象と、自然と接触することです。初めに、自分のまわりのものごとへの気づきがあります-対象に、自然に、それから人々に敏感であることです-それは関係という意味です。それから観念への気づきがあります。この気づき-ものごとに、自然に、人々に、観念に敏感であることは、分離した過程から作り上げられているのではなく、一つの単一の・統一された過程です。それはあらゆるものごとの [観察]、自分自身の中に生じるままのあらゆる思考、感情、行動の常なる観察です。気づきは非難的ではないので、蓄積がありません。あなたは規範を持つときだけ、非難するのです-それは蓄積が [ある]、ゆえに自己の改善がある、という意味です。気づきは、人々との、観念との、ものごととの関係における自己、「私」の活動を、理解することです。その気づきは瞬間瞬間です。ゆえにそれは実践できません。あなたが一つの事を実践するとき、それは習慣になります。気づきは習慣ではありません。習慣的である精神は鈍感・無感覚です。特定の行動の溝・轍の中で機能している精神は、鈍く、柔軟でありません。ところが気づきは常なる柔軟性、鋭敏さを要求します。これは難しくありません。あなたが何かに興味があるとき、あなたが自分の子供、妻、植物・草木、木々、鳥たちを見つめることに興味があるとき、それが、あなたが現実にすることです。あなたは非難なく、同一化なく観察します。ゆえにその観察には、完全な親交があります。観察者と観察されるものは、完全に親交 [の状態]にあります。これは、あなたが深く、奥深く何かに興味があるとき、現実に起きるのです。
 こうして気づきと、内省の自己拡大的な改善の間には、広大な違いがあるのです。内省は挫折に、さらなるもっと大きな葛藤につながります。ところが気づきは、自己の行動からの解放の過程です。それは、あなたの日常の動きに、あなたの思考に、あなたの行動に気づくこと、そして他の人に気づくこと、彼を観察することです。あなたは誰かを愛しているとき、何かに深く興味があるときだけ、それができるのです。私が自分自身を、自分の存在全体を、たった一つか二つの層ではなく自分自身の内容全体を知りたいとき、そのとき明白に、非難はないにちがいありません・あってはなりません。そのとき私は、あらゆる思考に、あらゆる感情に、気分すべてに、抑圧すべてに対して [扉を] 開いていなければなりません。そしてますます拡大する気づきがあるにつれて、隠れた思考の動き、動機、追求すべてからのますます大きな自由があるのです。気づきは自由です。それは自由をもたらします。それは自由を生み出します。ところが内省は葛藤を、自己閉鎖の過程を育成します。ゆえに、それにはいつも挫折と恐れがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

290鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/27(日) 21:58:52 ID:1d4drIFg0
内省は自分を改善しようという意志があるから気づきはないのじゃ。
分別があり、観念による目的達成の遊戯になるからなのじゃ。
気づきには否定も肯定も無い観察が在るのじゃ。
そこに分別は無く、観念の遊戯も無いのじゃ。
それでこそ真の変容が在るのじゃ。

291避難民のマジレスさん:2020/09/28(月) 20:44:26 ID:BDVNOiQA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 3

 質問者はまた、誰が気づくのかを知りたいのです。あなたがどんな種類のでも奥深い経験をするとき、何が起きているでしょうか。そういう経験があるとき、あなたは自分が経験していることに気づいているでしょうか。あなたは怒っているとき、怒りや嫉妬や喜びのほんの瞬間に、自分が喜んでいる・うれしいことや怒っていることに気づいているでしょうか。経験者と経験されるものがあるのは、経験が済んでいるときだけです。そのとき、経験者が経験されるものを、経験の対象を観察するのです。経験の瞬間には、観察者も観察されるものもどちらもないのです。経験することだけがあるのです。私たちのほとんどは経験していません。私たちはいつも経験する状態の外側にいるのです。ゆえに誰が観察者なのか、気づいているのは誰なのかについてのこの疑問を、訊ねるのです。確かにそういう疑問は間違った疑問なのではないでしょうか。経験している・経験があった瞬間、気づいている人物も、彼がそれに気づいている対象もどちらもないのです。観察者も観察されるものもどちらもなくて、ただ経験している状態だけがあるのです。私たちのほとんどは、経験する状態に生きることは極めて難しいことを、見つけます。なぜなら、それはとてつもない柔軟性、すばやさ、高度の敏感さを要求するからです。そして私たちが結果を追求しているとき、成功したいとき、目的を視野に持つとき、計算しているとき-そのすべてが挫折をもたらします-それは否定されるのです。何も要求せず、目的を求めていなくて、結果と共にそのすべての含蓄を捜し出していない人、そういう人は常に経験する状態にあるのです。そのときあらゆるものが動きを、意味を持ちます。何も古くありません。何も焼け焦げていません。何も反復的ではありません。なぜなら、あるがままは決して古くないからです。挑戦はいつも新しいのです。古いのは、挑戦に対する応答だけです。古いものはさらなる残り滓を造り出します-それが記憶、観察者です-彼は観察されるものから、挑戦から、経験から、自分自身を分離するのです。
(´・(ェ)・`)つ

292鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/28(月) 21:33:23 ID:1d4drIFg0
気付くという経験があれば、そこには経験する者も経験されるものもないというのじゃ。
それらは本来無いものであるが、記憶に拠って作り出されるのじゃ。
結果を追求しているとそのように観念に囚われてしまうのじゃ。
何も求めず、結果も探し出さない者が気づきという経験もできるというのじゃ。

293避難民のマジレスさん:2020/09/29(火) 19:55:14 ID:yjDFQbds0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 4

 あなたはとても単純に、とてもたやすく、自分自身でこれを実験できるのです。今度あなたが怒ったり、嫉妬したり、欲張ったり、暴力的であったり-何であろうと-するとき、自分自身を見守ってください。その状態には、「あなた」はいません。その存在の状態だけがあるのです。瞬間、一瞬後、あなたはそれを用語づけ、名づけ、それを嫉妬、怒り、貪欲と呼ぶのです。それであなたは即時に、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものを造り出したのです。経験者と経験されるものがあるとき、そのとき経験者は経験を修正しよう、変えよう、それにまつわるものごとを覚えていよう、などとするのです。ゆえに自分自身と経験されるものの間の分割を維持するのです。あなたはその感情に名づけないなら-それは、あなたが結果を求めていない、非難していない、たんに静かに感情に気づいている、という意味です-そのとき、感情の、経験のその状態には、観察者がなく、観察されるものがないということが、わかるでしょう。なぜなら、観察者と観察されるものは共通の現象であって、そのため経験することだけがあるからです。
 ゆえに、内省と気づきはまったく異なっています。内省は挫折に、さらなる葛藤につながります。というのは、それには変化への願望という意味が含まれているし、変化はたんに修正された継続であるからです。気づきは、 [そこに]非難のない、正当化や同一化のない状態です。ゆえに理解があります。その受動的で鋭敏な気づきの状態には、経験者も経験されるものもどちらもないのです。
 内省は一つの形の自己改善、自己拡大ですが、それは決して真理につながりえません。なぜなら、それはいつも自己閉鎖の過程であるからです。ところが、気づきは、 [そこに]真理が-あるがままについての真理、日常の存在についての単純な真理が-生じうる状態です。私たちが遠くへ行けるのは、私たちが日常の存在の真理を理解するときだけです。あなたは遠くへ行くには近くから始めなければなりません。しかし私たちのほとんどは飛びたい、近くにあるものを理解せずに、遠くから始めたいのです。私たちは近いものを理解するにつれて、近いものと遠いものの間に距離がないのを見つけるでしょう。距離はありません-始まり・初めと終わりは一つです。
(´・(ェ)・`)つ

294鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/09/29(火) 20:46:00 ID:1d4drIFg0
気付くことは簡単に実験できるというのじゃ。
怒ったりすればそこに怒りと名づけるものがおこり、観察者と観察されるものが作り出されるというのじゃ。
それに名づけることがなければ、観察者も観察も無いとわかるのじゃ。
それが気づきであり、内省とは違うものなのじや。

295避難民のマジレスさん:2020/09/30(水) 20:49:26 ID:RP0W9tDs0
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 1

質問
 あなたはしばしば関係について話しをしてきました。それはあなたにとってどういう意味でしょうか。

 まず第一に、孤立しているようなものはありません。ある [生きる] ことは関係することです。関係なしに存在はありません。私たちのいう関係とはどういう意味でしょうか。それは、二人の人の間、あなたと私の間の互いに連結・連動した挑戦と応答です―あなたが投げかけ[投げつけ]、私が受け取ったり [それに] 応答する挑戦。また私があなたに投げかける挑戦です。二人の人の関係が社会を造り出します。社会はあなたと私から独立していません。大衆・全体はそれ自体で分離した[別個の]実体ではなく、あなたと私が互いの関係において大衆、集団、社会を造り出すのです。関係は、二人の人の間の相互連絡[関係]への気づきです。その関係は一般的に何に基づいているでしょうか。それはいわゆる相互依存、相互援助に基づいていないでしょうか。すくなくとも私たちは、それは相互助力、相互救助などであると言いますが、しかし現実に、言葉から離れ、私たちが互いに対して投げ付け合う情動的な幕から離れて、それは何に基づいているのでしょうか。相互満足[gratificationに基づいているの] ではないでしょうか。私はあなたを喜ばせないなら、あなたは私を追い払い[取り除き]ます。喜ばせるなら、あなたは私を自分の妻として、隣人として、友人として受け入れるのです。それは事実です。
 あなたが家族と呼ぶのは何でしょか。明白にそれは親密さの、親しい交わりの関係です。あなたの家族に、あなたの妻との、夫との関係に、親しい交わりがあるでしょうか。確かにそれが、私たちが関係によって意味するものなのではないでしょうか。関係とは、恐れのない親しい交わり、互いに理解し合い、直接伝え合う自由という意味です。明白に関係とはそういう意味です―他の人と親しい交わり [の状態] にあること[親しく交わっていること]、です。あなたはそうしているでしょうか。自分の妻と親しく交わっているでしょうか。おそらくあなたは身体的[肉体的]にはそうしているでしょうが、それは関係ではありません。あなたとあなたの妻は孤立の壁の反対側で生きているのではないでしょうか。あなたは自分自身の追求、自分の野心を持っているし、彼女は彼女のものを持っているのです。あなたは壁の裏で生きていて、時折[時々]上越しに[向こうを]見ます―それをあなたは関係と呼びます。それは事実なのではないでしょうか。あなたはそれを拡大[拡張」し、和らげ、新しい一式の言葉を導入して、それを叙述するかもしれませんが、それが事実です―あなたと他の人は孤立して生きているということ、そして孤立の生を、関係と呼ぶのだということが。
(´・(ェ)・`)つ

296鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/01(木) 21:57:56 ID:1d4drIFg0
全てが一つである真理の上では孤立した個我とか個人は在り得ないのじゃ。
全てが繋がり、関係して在るのじゃ。
しかし、観念として個我があるとか思えば孤立も在るのじゃ。
互いに理解できない個我と個人の集まりが社会を造るのじや。

297避難民のマジレスさん:2020/10/02(金) 20:16:40 ID:9TP4pFcY0
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 2

 二人の人の間に本当の関係があるなら―それは彼らの間に親しい交わりがあるという意味です―そのとき含まれる意味は漠大です。そのとき孤立はありません。愛があるし、責任や義務はありません。義務と責任について話をするのは、自分たちの壁の裏で孤立している人たちです。愛している人は責任について話をしません―彼は愛しています。ゆえに彼は自分の喜び、悲しみ、お金を、他の人と分かち合います。あなたの家族はそんなふうでしょうか。自分の妻と、子供たちと直接の親しい交わりがあるでしょうか。明白にないのです。ゆえに家族はたんにあなたの名前や伝統を存続させるため[ の口実]、あなたが性的に、または心理的に欲しいものを与えてくれるための口実です。ですから家族は自己永続化 [の手段] 、自分の名前を続けていく・維持する手段になるのです。それは一種の不死、一種の永久性です。家族はまた喜び[満足」の手段としても使われます。私は事業の世界で、外側の政治的、社会的世界で、他の人たちを非情に[無慈悲に]搾取・利用します。そして家庭では親切で気前よくしようとします。なんと不合理でしょう!あるいは世間は私にはひどすぎる[耐えられない・きつすぎる]ので、私は平和が欲しいと思い、家に帰ります。私は世間で苦しんでいるので、家に帰って慰めを見つけようとします。それで私は関係を満足の手段として使うのです―それは、自分の関係によって動揺させられたくないという意味です。
こうして関係は、相互の満足、喜びがあるところに求められるのです。あなたはその満足を見つけないとき、関係を変えるのです。「つまり]離婚するか、一緒にとどまるかしますが、どこか他で喜びを求めます。そうでないとあなたは、求めるもの―すなわち満足、喜び、自己保護と慰めの感覚―を見つけるまで、一つの関係からもう一つへ動きます。結局それが世間での私たちの関係です。それは事実[において]そうなのです。安全がありうるところ、個人としてあなたが安全の状態で、喜びの状態で、無知の状態で生きられるところに、関係は求められるのです―そのすべてはいつも葛藤・抗争を造り出すのではないでしょうか。あなたが私を満足させてくれないで、私が満足を求めているなら、当然葛藤・抗争があるにちがいありません。なぜなら私たちは共に互いのなかに安全を求めているからです。その安全が不確実になるとき、あなたは嫉妬深くなります。暴力的になります。所有欲が深くなる、などです。ですから関係は必ず所有、非難 [という結果に] 、安全に対する、慰めに対する、満足に対する自己主張的要求という結果になるのです。そこには当然愛はありません。
(´・(ェ)・`)つ

298鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/02(金) 21:40:52 ID:1d4drIFg0
本当の関係には愛があり、孤立や責任や義務は無いというのじゃ。
全てを分かち合うというのじゃ。
そうでなければ関係は欲求を満たす手段になるというのじゃ。
満たされなければ別れるばかりなのじゃ。
そこに愛は無いのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2020/10/03(土) 19:25:16 ID:HgpRjtdk0
最初と最後の自由 第二部質疑応対
九 関係について 3

私たちは愛について話しをします。責任、義務について話しをします。しかし本当は愛はないのです。関係は喜びに基づいています―その影響[結果]は、現在の文明において見られます。私たちの妻、子供たち、隣人、友人の扱い方は、私たちの関係には本当は全く愛がないという表示です。それはたんに喜びへの相互探求です。そうであるので、そのとき[では]関係の目的は何でしょうか。その究極の意義は何でしょうか。あなたは他の人たちとの関係において自分自身を観察するなら、関係は自己開示の過程であるということを見つけないでしょうか。私とあなたとの接触は、私が気づいているなら、関係において私自身の反応を意識するに充分鋭敏であるなら、私自身の有り様・存在の状態を開示しないでしょうか。関係は本当は自己開示の過程、すなわち自己認識の[自己を知る]過程です。その開示には、多くの楽しくないものごと、不穏な・平静を乱す、不愉快な[心地よくない]思考、活動があります。私は自分の発見するものが好きでないから、楽しくない関係から楽しい関係へ逃げ出します。ゆえに関係は、私たちがたんに相互の喜びを求めているとき、ほとんど意義がないのですが、しかしそれが自己開示と自己認識の手段であるとき、とてつもなく意義深くなるのです。
結局、愛には関係[というもの]がないのではないでしょうか。関係[というもの]があるのは、あなたが何かを愛していて、自分の愛の見返りを期待するときだけです。あなたが愛しているとき、すなわちあなたが何かにすっかり、全体的に身を捧げ[身を任せ]るとき、そのとき関係[というもの]はないのです。
あなたがほんとうに愛しているなら、そういう愛があるなら、そのときそれはすばらしい[驚くべき・驚嘆すべき]ことです。そういう愛には摩擦はありません。一方と他方[自分と他人]はありません。完全な統一[和合・融和]があります。それは統合の状態、完全な存在です。完全な愛、完全な親しい交わりがあるとき、そういう瞬間、そういう希な、幸せな、喜びに満ちた瞬間があるのです。一般に起きることは、愛が重要なことではなく、他方、愛の対象が重要になるということです。愛が向けられる人が重要になるのであって、愛自体ではないのです。そのとき生物[学]的、言葉上の 様々な理由のために 、または喜び、慰めへの願望などのために、愛の対象が重要になり、愛は後退するのです。そのとき所有、嫉妬、要求が葛藤・抗争を造り出し、愛はさらに[ますます]後退するのです。それが後退すればするほど、関係の問題はますますその意義、その価値と意味を失うのです。ゆえに愛は、了解するのがもっとも難しいものごとの一つです。それは知的な切迫[衝動・推進・強制]をとおして訪れません。様々な方法、手段、修練によって手作りできません。それは自己の諸活動が止んでしまったときの存在の状態[有り様]です。しかしあなたがたんにそれらを抑圧したり、避けたり、修練したりするなら、それらは止まないでしょう。あなたは自己の諸活動を意識の異なる層すべてにおいて理解しなければなりません。私たちはほんとうに愛している [瞬間] 、どんな思考もなく、どんな動機もない瞬間があるのです。しかしそうした瞬間はとても希です。それらが希であるから、私たちは記憶においてそれらにすがり付くのです。こうして生きている真実と日常の存在の行動の間に障壁を造り出すのです。
関係を理解するためには、まず第一にあるがままを[理解する]、私たちの生において現実に起きていることを、異なった微妙な形すべてにおいて理解することが重要です―そしてまた関係が現実に何を意味するのかをも。関係は自己開示です。私たちが慰めのなかに隠れるのは、自分自身に開示されたくないからです。そのとき関係はそのとてつもない深み、意義、美しさを失うのです。愛があるときだけ、真の関係がありうるのです。しかし愛は喜びの探求ではありません。愛は、自己忘却があるとき、完全な親しい交わりがあるときだけ、存在しています―一人や二人との間の交わりではなく、最高のものとの交わりです。そしてそれは、自己が忘れられるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

300鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/03(土) 22:00:31 ID:1d4drIFg0
愛について語る関係には本当は愛が無いというのじゃ。
ただ喜びを求めているだけというのじゃ。
本当の愛があるならばそこにはもはや自他も無いというのじゃ。
一つになっているというのじゃ。・
自己が忘れられる時、そのような真の愛があると言うのじゃ。
忘我の境地なのじゃ。

301避難民のマジレスさん:2020/10/04(日) 21:08:30 ID:/igPDOOk0
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 1

質問
 どのようにして私たちは、世界の現在の政治的混沌と危機を、解決できるのでしょうか。差し迫った・切迫した戦争を阻止するために、何か個人ができることがあるでしょうか。

 戦争は、私たちの日常の生の壮大で血なまぐさい投影なのではないでしょうか。戦争は、たんに私たちの内面の状態の外面的表現、私たちの日常の行動の拡大・引き伸ばしです。それはもっと壮大で、もっと血なまぐさく、もっと破壊的です。しかしそれは、私たち個人の活動の集団的・集合的結果です。ゆえに、あなたと私は戦争に [応じる能力・]責任があるのです。私たちはそれを阻止するために、何ができるでしょうか。明白に、常に差し迫っている戦争は、あなたと私により阻止できません。なぜなら、それはすでに動き [の状態]にあるからです。現在は主に心理的な水準であるけれども、それはすでに起きているのです。それはすでに動き [の状態]にあるので、阻止できないのです-論点が多すぎ、大きすぎるし、すでに遂行され・犯されているのです。しかしあなたと私は、家が燃えて・火事になっていることがわかると、その火事の原因を理解できるし、それから離れて・そこから立ち去って、燃えやすくない・非可燃性である [材料・素材] 、他の戦争を産み出さないであろう違った材料で、新しい場所に建てられるのです。それが、私たちにできるすべてです。あなたと私は、何が戦争を造り出すのかがわかることができます。そして私たちは、戦争を阻止することに興味があるなら、そのとき私たち自身-戦争の原因であるもの-を、変容させ始めることができるのです。
 一人のアメリカの婦人が、戦争中の二年前に、私に会いに来ました。彼女はイタリアで自分の息子を亡くしたこと、救いたいと思うもう一人の十六歳の息子がいると、言いました。それで私たちは、その事をよく話し合いました。彼女の息子を救うには、彼女がアメリカ人であることを止めなければならないと、私は彼女に提案しました。彼女が貪欲であるのを止め、富を積み上げるのを、力、支配を求めるのを止めて、道徳的に単純で [なければならない] -たんに服や外面的なものごとにおいて単純なのではなく、彼女の思考と感情において、彼女の関係において単純でなければならない、と。彼女は言いました。「それは無理です・ひどすぎます。あなたはあまりに無理を求めて・要求しています。私にはそれはできません。なぜなら、私が改めるには、境遇が強力すぎるからです」と。ゆえに彼女は、自分の息子の破滅に対して [応ずる能力・]責任があるのです。
 境遇は私たちにより制御できるのです。なぜなら、私たちが境遇を造り出したからです。社会は、あなたの [関係] と私の [関係]をひっくるめた・合わせた、関係の産物です。私たちが自分たちの関係において変化するなら、社会は変化するのです。外面的社会の変容のために、たんに法制度に、強制に頼ることは、内面的に腐敗・堕落したままでいるかぎり、内面的に力、地位、支配を求め続けるかぎり、たとえどんなに気をつけて科学的に築かれても、外面的なものを破壊することになります。内面にあるものが、いつも外面的なものに打ち勝っているのです。
(´・(ェ)・`)つ

302鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/05(月) 21:32:24 ID:1d4drIFg0
今起ころうとする戦争をとめることは出来ないというのじゃ。
それは既に一人の人間の力では止められないのじゃ。
戦争の原因である自分自身を変容することはできるのじゃ。
どこかの国の人間である限り、戦争の原因になるのじゃ。
権利だけを享受して義務を拒否することはできないからのう。
一人一人の貪欲に拠って戦争も起こるのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2020/10/06(火) 18:36:27 ID:MxmJOoVk0
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 2

 宗教的、政治的、経済的な戦争を引き起こす原因は何でしょうか。明白に、国家 [・民族]主義であれイデオロギ-であれ特定の教義であれ 、[それらへの]信念です。もしも私たちが自分たちの間に、信念ではなく、善意、愛、考慮・配慮を持っていたなら、そのとき戦争はないでしょう。しかし私たちは信念、観念、教義で養われています。ゆえに不満を生み育てるのです。現在の危機は例外的性質のものです。人間としての私たちは、常なる葛藤と連続的な戦争の道-それらは、私たちの日常の行動の結果です-を追求するか、それとも戦争の原因がわかって、それらに背を向けるか、どちらかにちがいありません・しなければなりません。
 明白に、戦争を引き起こす原因になるものは、力、地位、威信、金への欲望です-また国家 [・民族]主義と呼ばれる病気、国旗の崇拝。そして組織化された宗教という病気、教義の崇拝-これらすべてが戦争の原因です。個人としてのあなたが、組織化された宗教のどれかに属しているなら、力に対して貪欲であるなら、妬んでいるなら、あなたは必ず、破壊という結果になるであろう社会を産み出します。それでそれもまた、指導者にではなく、あなたにかかっているのです-いわゆる政治家たちとその他すべて [にかかっているの] ではありません。それはあなたと私にかかっているのですが、私たちはそれを悟っているように見えません。もしも私たちが、ひとたび自分たち自身の行動の [応じる能力・]責任を、ほんとうに感じたなら、どんなにすばやくこれらすべての戦争、このおぞましい悲惨を終わらせることができるでしょう!しかしおわかりでしょう、私たちは無関心です。私たちは日に三食摂ります。仕事を持っています。多かれ少なかれ銀行預金を持っています。そして「お願いですから、私たちを動揺させないでください。一人にしておいて・そっとしておいてください」と言うのです。地位 [身分]が高ければ高いほど、私たちは安全、永久性、平静が欲しい、そっとしておいて欲しい、あるがままに固定したものごとを維持したいのです。しかしそれらはあるがままに維持できないのです。なぜなら、何も維持すべきものはないからです。あらゆるものごとが崩壊しつつあります。私たちはこれらのものごとに向き合いたくないのです。あなたと私が戦争に対して [応じる能力・]責任があるという事実に、向き合いたくないのです。あなたと私は平和について話しをし、会議をし、テ-ブルを囲んで座り、議論をするかもしれません。しかし内面的に、心理的に、私たちは力、地位が欲しいのです。貪欲により動機づけられているのです。私たちは計略を巡らします・陰謀をたくらみます。私たちは国家[・民族]主義的です。私たちは、信念により、教義により縛られています-それらのために進んで死のう、互いに破壊し合おうとしています。そういう人たち、あなたと私が、世界に平和を持てると、あなたは思うでしょうか。平和を持つには、私たちが平和でなければなりません。平和に生きることは、敵対を造り出さない、という意味です。平和は理想ではありません。私にとって理想は、たんに逃避、あるがままの回避、あるがままの否定・否認です。理想は、あるがままへの直接的作用 [・行動] を妨げます。平和を持つには、私たちは愛さなければならないでしょう。理想的な生を生きるのではなく、あるがままのものごとを見てそれらに作用し、それらを変容させ始めなければならないでしょう。私たち各自が心理的な安全を求めているかぎり、私たちが必要とする生理的な安全-衣・食・住-は破壊されるのです。私たちは心理的な安全を求めています-それは存在していません。そして私たちはできるなら、力をとおし、地位をとおし、肩書き、名前をとおして、それを求めます-そのすべてが、身体的・物理的な安全を破壊しているのです。あなたがそれを見るなら、それは明白な事実です。
(´・(ェ)・`)つ

304鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/06(火) 21:20:35 ID:1d4drIFg0
信念が戦争を引き起こすというのじゃ。
それが金とか権力への欲をも引き起こすというのじゃ。
信念による社会の中で金や権力も意味を持つのであるからのう。
愛とか善意があれば戦争は無いというのじや。
自分が平和ならば平和があると言うのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2020/10/08(木) 19:53:50 ID:z4SCZRzU0
最初と最後の自由 第二部質疑応対十 戦争について 3

 世界に平和をもたらすには、すべての戦争を阻止するには、個人に、あなたと私に、革命がなければなりません。この内面の革命のない経済的革命は無意味です。というのは、飢え・飢餓は、私たちの心理状態-貪欲、妬み、悪意、所有欲-により産み出された経済情勢・状況の不適応・不調整の結果であるからです。悲しみ、飢餓、戦争を終わらせるには、心理的な革命がなければなりません。私たちのほとんどは進んでそれに向き合おうとしていません。私たちは平和について議論し、法制度を立案し、新しい同盟・連盟、国際連合などなどを造り出すでしょう。しかし私たちは平和を勝ち取らないでしょう。なぜなら、私たちは自分たちの地位、権威、金、財産、愚かな生をあきらめないであろうからです。他の人たちに頼ることは、全く無効です。他の人たちは私たちに平和をもたらせません。どんな指導者も、政府も、軍隊も、国も、私たちに平和を与えようとしていません。平和をもたらすであろうものは、内面の変容です-それが外面の行動につながるでしょう。内面の変容は、孤立化ではありません。外面の行動からの撤退ではありません。反対に正しい考えがあるときだけ、正しい行動がありうるのです。自己認識がないとき、正しい考えはないのです。あなた自身を知ることなしに、平和はありません。
 外面の戦争を終わらせるには、あなたは自分自身の中の戦争を、終わらせ始めなければなりません。あなたがたの幾人かは、頷いて「私は同意します」と言って、外へ出て、この十年か二十年の間ずっとしてきたこととまさしく同じことをするでしょう。あなたの同意は、たんに言葉の上だけですし、意義がありません。というのは、世界の悲惨と戦争は、あなたの思いつきの・何気ない同意・賛成によって阻止されないであろうからです。あなたが危険を悟るとき、自分の [応ずる能力・]責任を悟るとき、それを他の誰かに任せないときだけ、それらは阻止されるでしょう。あなたは苦しみを悟るなら、即時の行動の緊急性・切迫性がわかって延期しないなら、そのとき自分自身を変容させるでしょう。あなた自身が平和であるとき、あなた自身が自分の隣人と平和である・仲良くするときだけ、平和が来るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

306鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/08(木) 21:33:35 ID:1d4drIFg0
本当に戦争を終わらせ、平和をもたらすには自分自身に革命が無ければならないというのじゃ。
記憶に拠って同じ事をしていたのでは、同じ争いが続くばかりなのじゃ。
自分自身に平和がある時、世界にも平和が在るのじゃ。
自分の苦を観る時にのみその変容は訪れるというのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2020/10/09(金) 21:27:07 ID:JqAgH6Fg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 1

質問
 どのようにして私は恐れを取り除くべきでしょうか-それは私のすべての活動に影響を及ぼします。
クリシュナムルテイ
 私たちのいう恐怖れとはどういう意味でしょうか。何についての恐れで[何を恐れているので]しょうか。様々な類型の恐れがあります。あらゆる類型を分析しなくていいのです。しかし関係についての了解が完全でないとき、恐れが生じるということが、わかります。関係は、人々との間[の関係] だけではなく、私たち自身と自然との、私たち自身と財産との、私たち自身と観念との間の関係です。その関係が充分に理解されない限り、恐れがあるにちがいありません。生は関係です。ある [生きる] ことは関係することですし、関係なしに、生はありません。何一つ孤立して・孤立 [の状態] において存在できません。精神が孤立を求めている限り、恐れがあるにちがいありません。恐れは抽象観念ではありません。それは何かとの関係においてだけ存在しています。
 質問は、どのようにして恐れを取り除くべきか、です。まず最初に、打ち勝たれるどんなものも、何度も[繰り返し]征服されなければなりません。どんな問題も、最後は[最終的には]打ち勝てず、征服できません。それは理解することはできるが、征服はできません。それらは二つの完全に異なった過程ですし、征服する過程はさらなる混乱、さらなる恐れにつながります。[問題に]抵抗すること、支配すること、問題と戦う[戦いをする]こと、それに対して防御物を建てる[防御を築く]ことは、さらなる葛藤を造り出すだけです。ところが、恐れを理解し、一歩ずつそれに充分に入り、その内容全体[全容]を探検できるなら、そのとき恐れはどんな形でも決して「二度と]戻ってこないでしょう。
 私が言ったように、恐れは抽象観念ではありません。それは関係においてだけ存在しています。私たちのいう恐れとはどういう意味でしょうか。最終的に[究極的に・結局]、私たちは恐れているのではないでしょうか―[何か]でないことを、[何か]にならないことを、です。そこで、[何か]でないこと、前進しないことへの恐れ、または知らないものへの、死への恐れがあるとき、決心により、結論により、何かの選択により、その恐れに打ち勝てるでしょうか。明白に、できません。たんなる抑圧、昇華、代用は、さらなる抵抗を造り出すのではないでしょうか。ゆえにどんな形の修練をとおしても、どんな形の抵抗をとおしても、恐れには決して打ち勝てません。その事実が明らかに見られ、感じられ、経験されなければなりません。恐れには、どんな形の防御や抵抗をとおしても打ち勝てないし、また解答[答え]の探求をとおしても、たんなる知的または言葉上の説明をとおしても、恐れからの自由はありえません。
(´・(ェ)・`)つ

308避難民のマジレスさん:2020/10/10(土) 19:46:11 ID:F0qyauXY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 2

では、私たちは何を恐れているのでしょうか。事実を [恐れているの] でしょうか、それとも事実についての観念を恐れているのでしょうか。あるがままのものごとを恐れているのでしょうか、それともそれがそうであると考えるものごとを、恐れているのでしょうか。例えば死を取り上げましょう。私たちは死という[の]事実を [恐れているのでしょうか] 、それとも死という[の]観念を恐れているのでしょうか。一方は事実ですし、もう一方は事実についての観念です [事実と事実についての観念とは別のことです]。私は「死」という言葉を [恐れているのでしょうか] 、それとも事実自体を恐れているのでしょうか。私は言葉を、観念を恐れているから、決して事実を理解しないのです。決して事実を見ないのです。決して事実と直接に関係していないのです・事実と直接の関係にないのです。恐れがないのは、私が事実と完全に親しく交わって[交流して]いるときだけです。私が事実と親しく交わっていないなら、そのとき恐れがあるのです。私が事実について観念、意見、理論を持つかぎり、事実との親しい交わりはないのです。ですから私は言葉、観念を [恐れているの] か、それとも事実を恐れているのか [について、] とても明晰でなければなりません。私が事実に向き合うなら、それについて理解すべきことは何もないのです。事実があります。私はそれを取り扱えるのです。私が言葉を恐れているなら、そのとき言葉を理解し、言葉、用語が示唆するものの過程全体に入らなければなりません。
例えば、寂しさ[ひとりぼっちでいること・孤独]を恐れている、寂しさの疼き[痛み]、苦痛を恐れているとします。確かにその恐れは存在しています。なぜなら一度も本当に寂しさを見つめたことがないから、一度もそれと完全に親しく交わったことがないからです。寂しさという事実に対して完全に開かれた・ [扉を]開いた瞬間、それが何であるかを理解できるのです。しかし [人は] それについて以前の知識に基づいた観念、意見を持っています。恐れを造り出すのは、事実についてのこの観念、意見、この以前の知識です。恐れは明白に、名づけること、用語付けること、事実を表現[代理]するために象徴を投影することから出てきたものです。すなわち、恐れは言葉から、用語から独立してい[独立して存在してい]ないのです。
(´・(ェ)・`)つ

309鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/10(土) 21:04:18 ID:1d4drIFg0
恐れとは征服しようとして征服できるものではないというのじゃ。
理解できるだけなのじゃ。
死んだことが無い者には死がどのようなものかわからないから死という事実を恐れることは出来ないのじゃ。
死という観念を恐れているだけなのじゃ。
それが理解できれば恐れも無くなるのじゃ。

310避難民のマジレスさん:2020/10/11(日) 18:55:13 ID:bu6mK1kE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 3

私は仮に[言ってみれば・たとえば]寂しさに対する反動を持っているとします。すなわち、私は無である[何でもない・何ものでもない]ことを恐れていると、言います。私は事実自体を恐れているのでしょうか、それともその恐れは、私が事実についての以前[前もって]の知識-言葉、象徴、イメ-ジである知識を持っているから目覚めさせられるのでしょうか。どうして事実への・について恐れがありうるでしょうか。私は事実と向き合い、直接に親しく交わっているとき、それを見つめ、観察できるのです。ゆえに事実について恐れはないのです。恐れを起こす原因になるものは、事実 [についての] ―事実が何であるかや何をするかについての私の不安[心配・恐れ]です。
恐れを造り出すのは、事実についての私の意見、私の観念、私の経験、私の知識です。事実を言語化する[言葉に表す・言葉にする]こと、事実に名前をつける[事実を名づける]こと、ゆえにそれと[それを]同一化したりそれを非難したりすることがあるかぎり、思考が観察者として事実を判断[判定]しているかぎり、恐れがあるにちがいありません。思考は過去の産物です。それは言語化をとおし、象徴をとおし、イメ-ジをとおして存在できるだけです。思考が事実を見たり[見守ったり]翻訳[解釈]したりしているかぎり、恐れがあるにちがいありません。
こうして、恐れを造り出すのは精神です-精神は考える過程です。考えることは言語化です。言葉なしに、象徴、イメ-ジなしには考えられません。これらのイメ-ジ-先入観、以前[前もって]の知識、精神の不安[心配・恐れ]-が、事実[の上]に投影されます。そこから恐れが生じるのです。精神が事実を翻訳・解釈せず、名前、レッテルをつけずに見る能力があるときだけ、恐れからの自由があるのです。これは全く[かなり・相当]難しいのです。なぜなら私たちの持っている感情、反応、不安[心配・切望]は、即座に精神によって同一化され、言葉を与えられるからです。嫉妬の感情は、その言葉によって同一化されます。感情を同一化しないこと、名づけることなしにその感情を見ることは、可能でしょうか。感情に連続性を与えるのは、強さを与えるのは、それを名づけることです。恐れと呼ぶものに名づけた瞬間、それを強めるのです。しかしその感情に用語づけることなく見ることができるなら、それはしぼみ去る[しぼんでしまう]ことがわかるでしょう。ゆえに恐れから完全に自由であろうと思うなら、用語づけること、象徴、イメ-ジを投影すること、事実に名づけること、この過程全体を理解することが、本質的[不可欠]です。自己認識があるときだけ、恐れからの自由がありうるのです。自己認識が英知の始まりです―それが恐れの終わりです。
(´・(ェ)・`)つ

311鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/11(日) 21:54:14 ID:1d4drIFg0
事実を恐れる者は居ないというのじゃ。
事実についての言葉や象徴やイメージを恐れているというのじゃ。
それが観念なのじゃ。
観念に対する恐れを観察して理解すれば、恐れは消えるのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2020/10/12(月) 21:37:35 ID:bOLzCvMs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答十二 
退屈と興味について 1

質問
 私は何ごとにも興味がありません。しかし、ほとんどの人たちは、多くの興味のあることで忙しいのです。私は働かなくてもいいので、働きません。私は何か役立つ仕事を引き受ける・始めるべきでしょうか。

 それは、社会的事業家や政治的活動家や宗教的活動家になる-ということでしょうか。あなたは他に何もすることがないから、ゆえに改革者になるのです!あなたは何もすることがないなら、退屈しているなら、なぜ退屈していないのでしょうか。なぜそうあるのではないのでしょうか。あなたが悲しみ [の状態]にあるなら、悲しんでいてください。それからの抜け出し方を見つけようしないでください。なぜなら、あなたが退屈している [という] ことは、あなたがそれを理解でき、それと共に生きられるなら、測り知れない意義があるからです。「私は退屈している。だから何か他のことをしよう」と言うなら、あなたはたんに退屈から逃避しようとしています。そして私たちの活動のほとんどが逃避であるので、あなたは社会的に、他のあらゆる仕方で、はるかにもっと危害を与えるのです。あなたがあるがままでいて、それと共にとどまっているときよりも、あなたが逃避するときのほうが、災いははるかに大きいのです。困難は、どのようにして逃げ出すのかではなく、それと共にとどまるのか、です。私たちの活動のほとんどが逃避の過程であるので、あなたが逃避するのを止めて、それに向き合うことは、測り知れず難しいのです。ゆえに、あなたがほんとうに退屈していて、「完全に止めよう・終止符を打とう。そこにとどまろう。それを見よう。なぜおまえは何かをするべきなのか」と言ってくれるなら、私はとてもうれしいのです。  
 あなたは退屈しているなら、なぜ退屈しているのでしょうか。退屈と呼ばれるものは何でしょうか。あなたが何ごとにも興味がないのは、なぜでしょうか。あなたを鈍くしてきた理由と原因があるにちがいありません。苦しみ、逃避、信念、絶えざる活動が、精神を鈍らせ、心を非柔軟にしてきたのです。もしもあなたは、自分がなぜ退屈しているのか、なぜ興味がないのかを見出すことができたなら、そのとき確かに問題を解決するのではないでしょうか。そのとき目覚めた興味が機能するでしょう。あなたはなぜ自分が退屈しているのかに興味がないなら、活動に興味を持つように-檻の中でぐるぐる回っているリスのように-たんに何かをしているように、自分自身に強いることはできません。これが、私たちのほとんどが耽っている活動の種類であることを、私は知っています。しかし私たちは、なぜ自分たちがこの全くの退屈の状態にあるのかを、内面的、心理的に見出せるのです。私たちは、なぜ私たちのほとんどがこの状態にあるのか、わかることができます。私たちは情動的、精神的に、自分たち自身を消耗・使い果たしてきたのです。私たちはあまりに多くのものごと、あまりに多くの感動、あまりに多くの娯楽・楽しみ、あまりに多くの実験を試してきたので、そのため鈍くなり、疲れ切ってしまったのです。私たちは一つの集団に加わり、私たちに求められるあらゆることをして、それからそこを離れ・去ります。それから私たちは何か他のものへ行ってそれを試します。私たちは一人の心理学者で失敗するなら、他の誰かや司祭のところへ行きます。私たちはそこで失敗するなら、もう一人の教師のところへ行く、などです。私たちはいつも進みつづけます。常に手を伸ばし手放すこの過程は、消耗するのではないでしょうか。すべての感動と同じように、それはすぐに精神を鈍らせるのです。
(´・(ェ)・`)つ

313鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/13(火) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
退屈しているから何か仕事をするというのも逃避なのじゃ。
それもまた退屈という苦から逃れようとしているからのう。
金銭的に退屈で居られるのに、そのままではいられない自分を見ていないのじゃ。
退屈から逃避しようとしている自分が見られれば、それで全ては解決するのじゃ。

314避難民のマジレスさん:2020/10/14(水) 18:29:43 ID:zs4KrBZM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答十二 退屈と興味について 2

 私たちはそれをしてきました。私たちはほんとうに消耗する時点に到るまで、感動から感動へ、興奮から興奮へ向かって行きました。そこで、それを悟ると、それ以上進まないでください。一休みしてください。静かにしてください。精神にそれ自体で力・強さを集めさせましょう。それに強いないでください。土が冬の時期の間に自ずから蘇生するように、精神が静かであるのを許される・静かにしておかれるとき、それは自ずから蘇生するのです。しかし精神が静かであることを許す・精神を静かにしておくこと、このすべての後で、それを休ませておくことは、とても難しいのです。というのは、精神はいつのときも何かをしていたいからです。あなたは、あるがままの自分であることを-退屈して、醜く、恐ろしい・忌まわしい、何であろうと-自分自身にほんとうに許している地点に至るとき、そのとき、それを取り扱う可能性があるのです。
 あなたが何かを受け入れるとき、あなたがあるがままの自分を受け入れるとき、何が起きるでしょうか。自分があるがままの自分であることを、あなたが受け入れるとき、問題はどこにあるでしょうか。私たちがものごとをあるがままに受け入れないで、それを変容させたいと願うときだけ、問題があるのです-それは、私が満足することを弁護・擁護しているという意味ではありません。反対です。私たちはあるがままの自分たちを受け入れるなら、そのとき、非常に恐れたもの、退屈と呼ばれたもの、絶望と呼ばれたもの、恐れと呼ばれたものが、完全な変化を受けたことが、わかるのです。私たちが恐れていたものの完全な変容があるのです。
 そういうわけで、私が言いましたように、私たち自身の [考える] 過程、考え方を理解す
ることが重要です。自己認識は、誰をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな告白・自白や心理学や精神分析者をとおしても、集められません。それはあなた自身により見つけられなければなりません。なぜなら、それはあなたの生であるからです。その自己についての知識を広げることと深めることなしに、あなたが何をしても、どんな外的、内的境遇、影響を改めても-それは常に絶望、苦痛、悲しみの飼育所・を生み育てる温床であるでしょう。精神の自己閉鎖的活動を越えてゆくには、あなたはそれらを理解しなければなりません。そしてそれらを理解することは、関係-ものごととの、人々との、観念との関係-において行動に気づくことです。その関係において-それが鏡です-私たちは、どんな正当化も非難もなしに、自分たち自身がわかりはじめるのです。そして私たち自身の精神のやり方についての、そのより広くより深い知識から、さらに進むことが可能です。精神が静かであること、真実であるものを受け取ることが、可能です。
(´・(ェ)・`)つ

315鬼和尚 ◆01mzPGVdXo:2020/10/15(木) 00:04:09 ID:1d4drIFg0
逃避をやめて静かにすることが大事というのじゃ。
あるがままの自分を受け入れるのじゃ。
その自分を認識できれば変容は起こるというのじゃ。
それはどんな本や方法でもできないことなのじゃ。
自らの意志で実践するしかないのじゃ。

316避難民のマジレスさん:2020/10/15(木) 21:56:28 ID:m3k0meg20
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 1

質問
 私は完全に・完璧に正直であるなら、ほとんどあらゆる人を恨み、ときには憎んでいることを認めなければなりません。それは私の人生をとても不幸せに、苦痛にしています。私は、自分がこの恨み、この憎しみであることを、知的には理解しています。しかし、それに対処(抵抗)できません。私に対処法を示してもらえませんか。
K
 私たちのいう「知的に」とは、どういう意味でしょうか。私たちは何かを知的に理解しているというとき、それはどういう意味でしょうか。知的理解というようなものがあるのでしょうか。それともそれは、精神がたんに言葉を理解するだけということでしょうか。なぜなら、それが、私たちが互いに疎通し合う唯一の道であるからです。私たちはいったいどうやって・どんなふうに何かを、たんに言葉の上で、精神的に、本当に理解できるのでしょうか。それが、明らかでなければならない最初のことです-いわゆる知的理解は、理解にとって妨害でないのかどうか [ということが、] です。確かに理解とは統合的であって分割されず部分的ではないでしょう。私は何かを理解するかしないか、どちらかです。「私は何かを知的に理解している」と自分自身に言うことは、確かに理解にとって障壁です。それは部分的過程ですし、ゆえにそもそも・全く理解ではありません。
 そこで疑問はこうです-「恨み、憎んでいる私は、どのようにしてその問題から自由であるべきか、 [それに] 対処すべきか」です。私たちは問題にどのように対処するのでしょうか。問題とは何でしょうか。確かに、問題とは、何か動揺させるものです。
 私は恨んでいます、憎んでいます。私は人々を憎んでいるし、それが苦痛の原因になります。それに気づいています。私はどうすべきでしょうか。それは私の人生においてとても動揺させる要因です。私はどうすべきでしょうか。どのようにして本当にそれから自由になるべきでしょうか-ただちょっとの間(瞬間的に)それを脱ぎ捨てる(脱却する)のではなく、根本的にそれから自由になるのです。私はそれをどうすべきでしょうか。
 それが私にとっての問題です。なぜなら、それは私を動揺させるからです。もしもそれが私を動揺させるものでなかったなら、私にとって問題ではないのではないでしょうか。それが苦痛、動揺、心配の原因になるから、それは醜いと思うから、私はそれを取り除きたいのです。ゆえに私が嫌っているものは、動揺なのではないでしょうか。私は違ったとき、違った気分で、違った名前を、それに付けます。ある日、私はそれをこれだと呼び、他の日、何か他のものだと呼びますが、願望は、基本的に動揺させられないことです。そうではないでしょうか。楽しみは動揺させないから、私はそれを受け入れます。私は楽しみから自由になりたくないのです。なぜなら動揺がないからです-少なくとも今のところは(さしあたりは)。しかし憎しみ、恨みは、私の生においてとても動揺させる要因ですし、それらを取り除きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/16(金) 22:29:44 ID:1d4drIFg0
理解が言葉や観念だけでは本当の理解ではないというのじゃ。
むしろそれは本当の理解の妨害になるとまでいうのじや。
部分的にしか理解していないからなのじゃ。
全体として理解しなければいかんのじや。

318避難民のマジレスさん:2020/10/17(土) 21:41:45 ID:U9XfzBUM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 2

 私の関心事は動揺させられないことです。そして決して動揺させられない仕方を見つけようとしています。なぜ私は動揺させられるべきでないのでしょうか。見出すには、動揺させられなければならないのではないでしょうか。見出すには、ものすごい激変・変動、騒動、心配を経なければならないのではないでしょうか。私は動揺させられないなら、眠ったままでいるでしょうし、おそらくそれが、私たちのほとんどがたしかに欲しいものです-められ・静められること、眠りにつかされる(安楽死させられる・麻酔をかけられる)こと、どんな動揺からも逃げること、孤立、隔離(隠遁)、安全を見つけることです。私は動揺させられることを気にしないなら-本当に、ただ表面的にだけでなく、動揺させられることを気にかけないなら-なぜなら私は見出したいからです-そのとき憎しみに向かう、恨みに向かう私の態度は、変化を受けるのではないでしょうか。動揺させられることを気にかけないなら、そのとき名前は重要ではないのではないでしょうか。「憎しみ」という言葉は重要ではないのではないでしょうか。また人々に対する「恨み」も重要ではないのではないでしょうか。なぜなら、そのとき私は、その経験を言葉にすることなしに、恨みと呼ぶその状態を、直接に経験しているからです。
 憎しみと恨みがそうであるように、怒りはとても動揺させる性質です。私たちのほとんどは、怒りを言葉にすることなく、直接にそれを経験しないのです。私たちがそれを言葉にしないなら、それを怒りと呼ばないなら、確かに違った経験があるのではないでしょうか。私たちはそれを用語づけるから、新しい経験を縮小・削減したり、それを古いものの用語に固定させるのです。ところが、私たちがそれに名づけないなら、そのとき直接に理解される経験があるのです。この理解が、その経験に変容をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/17(土) 21:52:48 ID:1d4drIFg0
動揺とは苦とも言い換えられるじゃろう。
苦があるからそれから逃れたいと思うのじゃ。
苦がなければ変容もいらないからのう。
憎しみや怒りや怨みも同じなのじゃ。
それを言葉ではなくありのままに観る時、変容も起こるのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2020/10/19(月) 20:45:32 ID:7jrpjuM20
最初と最後の自由 第二部質疑応答十三 憎しみについて 3

 卑しさ(賤しさ)を例に取りましょう。私たちのほとんどは、賤しいとしても、それに気づいていません-お金のことについて卑しい、人を許すことについて卑しい、ご存じでしょう、ただ卑しいことです。私たちはきっとそれに慣れ親しんでいると思います。そこでそれに気づくと、どのようにしてその性質から自由になろうとしているでしょうか-寛大になることではありません。それは重要な点ではありません。卑しさから自由であるとは、寛大という意味を含んでいます。あなたは寛大にならなくてもいいのです。明白に、それに気づいているにちがいありません。あなたは自分の社会・協会、友人に大きな寄付をすることにおいてとても寛大であるが、より多くのチップを払うことについてひどく卑しいかもしれません-ご存じでしょう。私のいう「卑しい」とはどういう意味なのかを。人はそれを意識していません。それに気づくとき、何が起きるでしょうか。私たちは意志を使って・行使して寛大であろうとします。それに打ち勝とうとします。私たちは自分たち自身を修練して寛大であろうとする、等々です。しかし結局、何かであろうとする意志の行使は、やはりより大きな輪のなかの卑しさの一部です。ですから私たちはそれらのことを何もしないで、それに用語を付けないで、たんに卑しさの含む意味に気づくだけなら、そのとき根元的変容が起きるということが、わかるでしょう。
 どうかこれを実験してみてください。初めに、動揺させられなければなりません。私たちのほとんどが動揺させられることを好まないのは明白です。私たちは生の様式を見つけてしまったと考えます-大師、信念、何であろうと-。そしてそこに身を落ち着かせるのです。それはよい官僚職を得て、残りの人生をそこで働く・職務を果たすのに似ています。それと同じ精神をもって、私たちは取り除きたいと思う様々な性質に接近するのです。私たちは動揺させられること、内面的に安全でないこと、依存していないことの重要性がわからないのです。確かに、あなたが発見するのは、わかるのは、理解するのは、安全でないことにおいてだけ、ではないでしょうか。私たちは沢山のお金を持つ気楽な人のようになりたいのです。彼は動揺させられないでしょう。動揺させられたくないのです。
 動揺は、理解にとって本質的・必要不可欠です。安全を見つけようとするどんな試みも、
理解にとって障害です。私たちが何か動揺させているものを取り除きたいと思うとき、それは確かに障害です。私たちは一つの気持ち・感情を名づけることなしに直接に経験できるなら、そこに沢山のことを見つけるだろうと、私は思います。そのときもはや、それとの戦いはありません。なぜなら経験者と経験されるものは一つであるからです。それは本質的です。経験者が感情、経験を言葉にするかぎり、自分自身をそれから分離して、それについて決定を下します(それに対して作用します)。そういう行動は作為的な幻影の行動です。しかし言葉にすることがなければ、そのとき経験者と経験されるものは一つです。その統合は必要ですし、根元的に向き合わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

321鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/19(月) 22:30:08 ID:1d4drIFg0
賎しさとか動揺は気付くことで消えるというのじゃ。
言葉にして分類すればそれは消えないのじゃ。
それは観念になるからのう。
自他の無い気づきによってそれは消えるのじゃ。

322避難民のマジレスさん:2020/10/20(火) 22:03:55 ID:pCc6rk3k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 1

質問
 うわさ話は、自己開示・自己の正体を顕わにすることにおいて-特に他の人たちを私に開示することにおいて-価値があります。真剣に・本気で言って、なぜうわさ話を、あるがままを発見する手段として使わないのでしょうか。それがただ幾時代にわたって・長い間非難されてきたからといって、私は「うわさ話」という言葉に身震いし・おののきません。

 なぜうわさ話しをするのか、不思議に思います。それが私たちに他の人たちの正体を顕わにするから、ではありません。そしてなぜ他の人たちの正体が私たちに顕わにされるべきなのでしょうか。なぜあなたは、他の人たちを知りたいのでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの] でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはうわさ話しをするのでしょうか。それは一つの形の落ち着きのなさ、なのではないでしょうか。心配・悩みと同じように、それは落ち着きのない精神の表示です。なぜ他の人たちに干渉し、他の人たちがしている [こと] 、言っていることを知りたいというこの願望 [があるの]でしょうか。うわさ話しをするのは、とても表面的な精神-誤った方向に向けられた詮索・探究好きな精神-なのではないでしょうか。彼 [質問者] が他の人たちに-彼らのすること、彼らの思考、彼らの意見に-関心を持つことによって、他の人たちの正体が顕わになると、質問者は考えているように見えます。しかし私たちは自分たち自身を知らないなら、他の人たちを知るでしょうか。私たちは自分たち自身の考え方、行動の仕方、行い方を知らないなら、他の人たちを判断できるでしょうか。なぜ他の人たちについての、このとてつもない関心 [があるの]でしょうか。他の人たちが考え、感じ、 [それについて] うわさ話をしていることを見出したいというこの願望は、ほんとうは逃避ではないでしょうか。それは、自分たち自身からの逃避を、提供してくれるのではないでしょうか。それにはまた、他の人たちの生に干渉したいという願望もないでしょうか。他の人たちの [生]を取り扱わなくても、他の人たちの [生]に干渉しなくても、私たち自身の生が十分困難で、十分複雑で、十分苦痛なのではないでしょうか。そのうわさ好きの、残酷な、醜い仕方で、他の人たちについて考える時間があるでしょうか。なぜ私たちはこれをするのでしょうか。あらゆる人がそれをするのを、あなたは知っています。実際上、あらゆる人が他の誰かについてうわさ話をします。なぜでしょうか。 私が思うには、まず最初に、私たちは自分たち自身の考える [過程]、自分たち自身の行動の過程に十分に興味がないから、他の人たちについてうわさ話をするのです。私たちは、他の人たちがしていることを見たい、そして親切に・丁寧に言うと、おそらく他の人たちを模倣したいのです。一般的に、私たちがうわさ話をするとき、それは他の人たちを非難するためです。しかし寛大に・思いやりを持って拡大解釈すると、それは他の人たちを模倣するためです。
(´・(ェ)・`)つ

323鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/21(水) 21:32:15 ID:1d4drIFg0
他人の私生活を知りたいという欲は大抵の者にあるものじゃ。
そのために週刊誌とかワイドショーが多くの視聴者を集めるのじゃ。
それもまた逃避に過ぎないのじゃ。
自分の苦痛から逃避するために他人を模倣したいと思うのじゃ。

324避難民のマジレスさん:2020/10/24(土) 20:59:44 ID:NpTi/yjM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 2

なぜ私たちは他の人たちを模倣したいのでしょうか。それはすべて、私たち自身の方のとてつもない浅さを表示していないでしょうか。興奮が欲しくて、それを得るためにそれ自身の外側に行くのは、とてつもなく鈍い精神です。言い換えると、うわさ話は 一つの形の感動なのではないでしょうか- [それに]私たちは耽るのです。それは違った種類の感動なのかもしれません。しかし、興奮、散漫・逸脱を見つけたいというこの願望が、いつもあるのです。ほんとうに深くこの疑問に入るなら、自分自身に戻って来ます-それは、自分がほんとうにとてつもなく浅い [こと]、他の人たちについて話しをすることにより、外側から興奮を求めていることを、示すのです。今度あなたが誰かについてうわさ話をしているとき、自分自身を捕らえてください。あなたがそれに気づくなら、それはあなたに自分自身についてすごく多くのことを、表示してくれるでしょう。自分はたんに他の人たちについて詮索・探究好きなだけであると言うことによって、それを覆い隠さないでください。それは、落ち着きのなさ、興奮の感覚、浅さ、人々へのほんとうの奥深い興味-それはうわさ話とは何の関わりもない-の欠如を、表示しています。
 次の問題は、どのようにしてうわさ話を止めるのか、です。それが次の疑問なのではないでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしていることに気づくとき、どのようにしてうわさ話をするのを止めるのでしょうか。それが来る日も来る日も続く習慣、醜いものごとになってしまったなら、あなたはどのようにしてそれを止めるのでしょうか。その疑問が生じるでしょうか。あなたは、自分がうわさ話をしているのを知るとき、自分がうわさ話をしていることに気づき、そのすべての意味合いに気づくとき、そのとき「どのようにして私はそれを止めるのか」と、自分自身に言うでしょうか。あなたは自分がうわさ話をしていることに気づいた瞬間、それはひとりでに止まないでしょうか。「どのようにして」は、全く・そもそも生じません。「どのようにして」は、あなたが気づいていないときだけ、生じるのです。そしてうわさ話は、気づきの欠如を表示しています。今度あなたがうわさ話をしているとき、自分自身でこれを実験してみてください。すると、あなたが話していることに気づき、あなたの舌があなたをとりこにして・あなたの自制心を失わせていることに気づくとき、いかにすばやく、いかに即時に、うわさ話を止めるかが、わかるのです。それを止めるのは、意志の作用を要求しません。必要であるすべては、あなたが言っていることに気づくこと、意識すること、それの意味合いがわかることです。あなたはうわさ話を非難したり正当化したりしなくていいのです。それに気づいてください。するとあなたは、いかにすばやく自分がうわさ話をするのを止めるかが、わかるでしょう。なぜなら、それは、自分自身の行動の仕方、自分の行い、思考様式を、自分自身に顕わにするからです。その開示において、自分自身を発見するのです-そのほうが、他の人たちについて [うわさ話をすること] 、彼らがしていること、彼らが考えていること、彼らがどのように行うのかについてうわさ話をすることよりも、はるかにもっと重要です。
(´・(ェ)・`)つ

325鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/24(土) 22:05:48 ID:1d4drIFg0
他人を模倣したいのは興奮したいからというのじゃ。
それもまた逃避の一つなのじゃ。
そのような繰り返しを止めるにはそれに気付けばよいというのじゃ。
意志とは関係なくそれは止まるのじゃ。
それが厭離なのじゃ。

326避難民のマジレスさん:2020/10/25(日) 14:40:16 ID:N0Rb0.AY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十四 うわさ話[ゴシップ]について 3

 新聞を毎日読む私たちのほとんどは、うわさ話、全世界の・世界的なうわさ話で満ちています。それはすべて、自分たち自身からの、自分たち自身の卑小さからの、自分たち自身の醜さからの逃避です。私たちは、世界の出来事への表面的な興味をとおして、ますます自分たちは賢くなってゆく、ますます自分たち自身の生を扱う能力を持つようになってゆくと、思うのです。これらすべては、確かに、私たち自身から逃避する仕方なのではないでしょうか。私たち自身があまりに空っぽで浅いのです。私たちはあまりに自分たち自身に怯えています。うわさ話が一つの形の豊かな・豪華な娯楽、自分たち自身からの逃避として作用するほどに、私たち自身があまりに貧しいのです。私たちは自分たちのなかのその空っぽを、知識で、儀式で、うわさ話で、集団会合・集団的出会いで-無数の逃避の仕方で充たそうとするので、そのためあるがままについての理解 [が重要になるの]ではなく、逃避が非常に重要になるのです。あるがままについての理解は、注意を要求します。空っぽであること、苦痛 [の状態]にあることを知るには、逃避ではなく、測りしれない注意が要るのです。しかし私たちのほとんどはこれらの逃避が好きです。なぜならそれらのほうがもっと快く・愉快でもっと楽しいからです。また私たちがあるがままの自分たち自身を知るとき、自分たち自身を取り扱うことがとても難しいのです。それが、私たちが向き合っている問題の一つです。私たちはどうすべきなのかを知らないのです。私は、自分が空っぽであること、苦しんでいること、苦痛 [の状態]にあることを知るとき、どうすべきか、それをどう取り扱うべきかを知らないのです。それで私たちはすべての種類の逃避に頼る・訴えるのです。
 問題はどうすべきか、です。明白に、もちろん逃避はできません。というのは、それはもっとも不合理で幼稚であるからです。しかしあなたは、あるがままの自分自身に向き合うとき、何をすべきでしょうか。初めに、それを否定したり正当化しないで、ただそれ-あるがままの自分-とともにとどまることは、可能でしょうか。それは極めて困難です。なぜなら、精神は説明、非難、同一化を求めるからです。それがそれらのものごとのどれもしないで、それとともにとどまるなら、そのとき、それは何かを受け入れているのと同じです。私が [肌の色が]茶色・褐色であることを受け入れるなら、それで、それは終わりです。しかし私がもっと明るい色に変わりたいと望むなら、そのとき問題が生じるのです。あるがままを受け入れることはもっとも難しいのです。逃避がないときだけ、それができるのです。そして非難や正当化は、一つの形の逃避です。ゆえに、なぜうわさ話をするのかについての過程全体を理解するとき、その不合理さ、残酷さと、それに関与するものごとすべてを悟るとき、そのとき、あるがままとともに残されるのです。そして私たちはいつも、それを破壊しよう、またはそれを他の何かに変えようとして、それに接近するのです。私たちは、それらのものごとのどれもしないで、それを理解しよう、完全にそれとともにあろうという意図をもって、それに接近するなら、そのとき、もはや私たちが怖がったものがないということが、わかるでしょう。そのとき、あるがままを変容させる可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

327鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/25(日) 21:57:29 ID:1d4drIFg0
うわさ話に夢中になっているのは全て逃避というのじゃ。
逃避をやめるためにはあるがままの自分と向き合わなくてはならんのじゃ。
否定も正当化も無くあるがままの自分と向き合うのじゃ。
肯定も否定も無くあるがままの自分と向き合う時にのみそれを変容させる可能性があるというのじゃ。
困難なことではあるがのう。

328避難民のマジレスさん:2020/10/26(月) 18:43:15 ID:tJzoXanI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 1

質問
 批判は、関係のなかで、どんな持ち場があるのでしょうか。破壊的 [批判]と建設的批判の間の違いは何でしょうか。

まず最初に、なぜ私たちは批判するのでしょうか。それは理解するためでしょうか。それともそれはたんに口うるさい・口やかましい過程でしょうか。私はあなたを批判するなら、あなたを理解するでしょうか。理解は、判断をとおして来るでしょうか。私は、あなたとの関係の意義全体を、表面的にではなく深く了解したいなら、理解したいなら、あなたを批判しはじめるでしょうか。それとも私は、あなたと私の間のこの関係に気づいて、それを静かに観察するでしょうか-私の意見、批判、判断、同一化、非難を投影するのではなく、何が起きているかを静かに観察するのです。そして私が批判しないなら、何が起きるでしょうか。眠りがちになる・眠りそうになるのではないでしょか。それは、私たちは口やかましく言っているなら眠らない、という意味ではありません。おそらくそれは習慣になるし、私たちは習慣をとおして自分たち自身を眠らせるのです。批判をとおして、関係についてのより深い、より広い理解があるでしょうか。批判が建設的であるか破壊的であるかどうかは、大事なことではありません-それは確かに不適切・見当違いです。ゆえに疑問は「関係を理解するであろう精神と心の必要な・必然の状態は何か」です。理解する過程は何でしょうか。どのようにして私たちは何かを理解するのでしょうか。あなたは自分の子供に興味があるなら、どのようにして自分の子供を理解するのでしょうか。あなたは観察するのではないでしょうか。あなたは遊んでいる彼を見守ります。あなたは違った気分の彼を研究します。あなたは彼に自分の意見を投影しません。あなたは彼にあれこれであるべきだと言いません。あなたは鋭敏に見守っているのではないでしょうか。活発に気づいているのです。そのときおそらく、あなたは子どもを理解しはじめます。あなたは常に批判し、自分自身の特定の人格・性格、性向、意見を常に注入し、彼があるべき、あるべきでない道を決定し、その他すべてをしているなら、明白に、その関係に障壁を造り出すのです。不幸にも、私たちのほとんどは、形造るため、干渉するために、批判するのです。何かを-夫、子ども、誰であろうと [との] 関係を-形造ることは、一定量の楽しみ、一定の喜びを、私たちに与えてくれるのです。あなたはそのなかに力の感覚を感じるのです。あなたは長・主人です。それには、ものすごい喜びがあるのです。確かに、そのすべての過程をとおして、関係の理解はないのです。たんなる賦課 [だけがある] 、あなたの性向、願望、願いの特定の様式に、もう一人を型どりたいという願望だけがあるのです。これらすべてが、関係の理解を妨げるのではないでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

329鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/26(月) 22:44:21 ID:1d4drIFg0
批判することは破壊的でも、建設的でもただ障壁を作り出し、理解の妨げになるというのじゃ。
それもまた逃避の一つに過ぎないのじゃ。
理解するにはただありのままに観察する事が大事だというのじゃ。
どのようにすべきとか思わずただ鋭敏に見守っている時に理解が在るのじゃ。

330避難民のマジレスさん:2020/10/28(水) 21:55:52 ID:hqpPt0vs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 2

 それから自己批判があります。自分自身に批判的であること、自分自身を批判し、非難し、正当化すること-それは自分自身の理解をもたらすでしょうか。私は自分自身を批判しはじめるとき、理解する [過程]、探検する過程を制限しないでしょうか。内省 [つまり] 一つの形の自己批判は、自己を展開するでしょうか。自己の展開を可能にするのは何でしょうか。常に分析的で、恐れて、批判的であること-確かにそれは展開するのを助けません。あなたがそれを理解しはじめるほどに、自己の展開をもたらしてくれるものは、どんな非難もない、どんな同一化もない、それへの常なる気づきです。一定の自発性がなければなりません。あなたは常にそれを分析し、それを修練し、それを形造っていることはできません。この自発性は、理解するために・理解にとって本質的 [・不可欠]です。私はたんに制限し、制御し、非難するだけなら、そのとき思考と感情の動きを中止する・止めるのではないでしょうか。私が発見するのは、思考と感情の動きのなかでです-たんなる制御のなかではありません。発見するとき、それについてどのように行動するのかを見出すことが重要です。私は観念に応じ、規範に応じ、理想に応じて行動するなら、そのとき自己を特定の様式に押し込むのです。それには理解がありません。超越がありません。私がどんな非難もなく、どんな同一化もなく、自己を見守れるなら、そのときそれを越えてゆくことが可能です。そういうわけで、自己を理想に近づけるこの過程全体が、全く間違っているのです。理想は自家製の神です。自己投影されたイメ-ジに順応することは、確かに解放ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

331鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/29(木) 21:05:40 ID:1d4drIFg0
自分を批判することもあるがままに自分を観ていないことになるのじゃ。
それは一種の自己正当化に他ならないのじゃ。
批判する自分は正しいという自己揚棄なのじゃ。
非難も同一化もなく自己を観まもることが超越というのじゃ。

332避難民のマジレスさん:2020/10/30(金) 20:23:32 ID:eGllDJ6Q0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十五 批判について 3

 こうして、精神が静かに気づき、観察しているときだけ、理解がありうるのです-それは困難です。なぜなら私たちは活動的であること・活動していること、落ち着かなく、批判的であること、非難し、正当化することに、喜びを感じるからです。それが、私たちの存在の構造全体です。そして観念、先入観、視点、経験、記憶の をとおして、私たちは理解しようとするのです。これらすべての幕から自由であって、そのため直接に理解することは、可能でしょうか。確かに私たちは、問題がとても強烈であるとき、そうします。私たちはこれらすべての方法を経てゆきません-それに直接に接近します。この自己批判の過程が理解されて、精神が静かであるときだけ、関係の理解は来るのです。あなたが私 [の言うこと]を聴いていて、私が伝えたいと願うことに、あまり大きな努力もなしに付いていこうとしているなら、そのとき私たちが互いに理解し合う可能性があるのです。しかしあなたがいつのときも批判して、自分の意見を、書物から学んできたこと、他の誰かが自分に言ったこと、などなどを吐き出して・投げつけているなら、そのときあなたと私は関係していません。なぜなら、この幕が私たちの間にあるからです。私たちが共に、問題の論点を見出そうとしているなら-それは問題自体にあります-私たちの双方が、それの底・根底に行こう、それの真理を見つけよう、それが何であるかを発見しようと熱望しているなら、そのとき私たちは関係しているのです。そのときあなたの精神は鋭敏で受動的であり、何がこれの真理なのかを見ようと見守っているのです。 ゆえにあなたの精神は、どんな観念や理想にも、どんな判断にも、自分の特定の経験をとおして固めてきたどんな意見にも固定されるのではなく、とてつもなくすばやく・敏速でなければなりません。受動的に気づいている精神のすばやい柔軟性があるとき、理解は確かに来るのです。そのときそれは受け取る・受容の能力があるのです。そのときそれは敏感です。精神は、観念、先入観、-賛成でも反対でも-意見を詰め込まれているとき、敏感ではありません。  
 関係を理解するには、受動的な気づきがなければなりません-それは関係を破壊しません。反対に、それは関係をはるかにもっと生き生きさせ、はるかにもっと意義深くするのです。そのときその関係には、ほんとうの愛情の可能性があるのです。暖かさが、親密さ・親近の感覚があります-それはたんなる感傷や感動ではありません。私たちがそのように接近でき、あらゆるものごととその関係にあることができるなら、そのとき私たちの問題-財産の問題、所有の問題-は、たやすく解決されるでしょう。なぜなら、私たちは自分たちが所有するものであるからです。お金を所有する人がお金です。自分自身を財産と同一化する人が、財産や家や家具です。観念や人々についても同様です。所有欲があるとき、関係はありません。私たちは所有しないなら、他に何も持たないから、私たちのほとんどは所有するのです。私たちは所有しないなら、家具、音楽、知識、あれこれで自分たちの生を充たさないなら、空っぽの貝殻・殻です。そしてその貝殻がたくさんの音・雑音を出すし、その音が生活と呼ばれるのです。私たちはそれで満足しているのです。それの破裂・崩壊、急変・切断があるとき、そのとき悲しみがあるのです。なぜなら、そのときあなたは突然、あるがままの自分自身-あまり意味のない空っぽの貝殻-を発見するからです。関係の内容全体に気づくことが行動です、その行動から、真の関係の可能性、それの大いなる深み、それの大いなる意義を発見する [可能性]、愛が何であるかを知る可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

333鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/30(金) 23:10:46 ID:1d4drIFg0
先入観とか観念とか記憶による介入の無い精神が静かな観察をしているときだけ理解はあると言うのじゃ。
それら観念などがあれば理解は無いのじゃ。
関係性の理解は受動的な気づきからくるのじゃ。
その時、真の愛があると言うのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2020/10/31(土) 20:06:35 ID:ZRMAMl/o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 1

質問
 神への信念は、よりよい生活への強力な誘因・動機でした。なぜあなたは神を否定されるのでしょうか。なぜあなたは、神の観念への人の信仰を蘇らせ・復活させないのでしょうか。

 問題を、広く智恵をもって見つめましょう。私は神を否定していません-そうすることは愚かでしょう。真実を知らない人だけが、無意味な言葉に耽るのです。知っていると言う人は、知りません。瞬間瞬間真実を経験している人は、その真実を伝達する手段を持たないのです。
 信念は真理の否定です。信念は真理の障害です。神を信じることは、神を見つけることではありません。信じる者も信じない者もどちらも、神を見つけないでしょう。なぜなら、真実は知られないものであるからです。知られないものへのあなたの信や不信は、たんに自己投影です。ゆえに真実ではありません。あなたが信じているのを、私は知っています。そしてそれは、あなたの生においてほとんど意味がないのを、私は知っています。信じている多くの人たちがいます。何百万もの人たちが神を信じているし、慰安を受けています。まず最初に、なぜあなたは信じるのでしょうか。それがあなたに満足、慰安、希望を与えてくれるから、あなたは信じるのです。そしてそれが生に意義を与えてくれると、あなたは言うのです。現実には、あなたの信念はほとんど意義がありません。なぜなら、あなたは信じて搾取 [・利用]する、信じて殺す、普遍的な神を信じて、互いに殺し合うからです。富裕な人もまた神を信じています。彼は無慈悲に搾取し、金を蓄積します。それから寺院を建てたり、社会奉仕家・慈善家になったりします。
 広島に原子爆弾を落とした人たちは、神が自分たちと共にいると、言いました。ドイツを破壊しようとイギリスから飛んだ・飛行機に乗った人たちは、神が自分たちの副操縦士・操縦助士であると、言いました。独裁・指令者、総理大臣・首相、将軍、大統領、すべてが神について話しをします。彼らは神への測りしれない信仰を持っています。彼らは人のために奉仕をし、よりよい生を作っているでしょうか。自分たちは神を信じていると言う人たちは、世界の半分を破壊してきたのです。世界は完全な悲惨 [の状態]にあるのです。宗教的不寛容をとおして、信じる者と信じない者としての人々の分割がありますし、宗教戦争につながっています。それは、あなたがいかにとてつもなく政治的精神を持っているかを、表示しています。
(´・(ェ)・`)つ

335鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/10/31(土) 22:02:51 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティは神を否定しないというのじゃ。
しかし、神を信じるのは満足を求めているからというのじゃ。
神を信じる者は金を貯めて戦争を引き起こすというのじゃ。
それはただ観念への囚われでしかないから悲惨を引き起こすのみなのじゃ。

336避難民のマジレスさん:2020/11/01(日) 12:31:02 ID:zvxCgIyg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 2

 神への信念は、「よりよい生活への強力な誘因」でしょうか。なぜあなたはよりよい生活への誘因がほしいのでしょうか。確かにあなたの誘因は、清く単純に生きたいというあなた自身の願望であるにちがいないのではないでしょうか。あなたは誘因に頼るなら、みんなのために生を可能にすることに興味がないのです。あなたはたんに自分の誘因に興味があるのです-それは私の [誘因]とは異なっています-それで私たちは誘因のことでけんかするでしょう。私たちは、神を信じているからではなく、人間であるから、一緒に幸せに生きるなら、そのときみんなのためにものを産み出す・生産するための完全な生産の手段を共有するでしょう。智恵の欠如をとおして、私たちは神と呼ばれる超智恵の観念を受け入れるのです。しかしこの「神」、この超智恵は、私たちによりよい生活を与えてくれそうにありません。よりよい生活に導くものは智恵です。そして信念があるなら、階級分割があるなら、生産の手段が少数者の手中にあるなら、孤立化した国家 [・民族]と独立政権があるなら、智恵はありえません。このすべては明白に、智恵の欠如を表示しています。よりよい生活を妨げているのは、智恵の欠如であって、神への不信ではありません。
 あなたたちはみんな、異なった仕方で信じています。しかしあなたの信念は全く何の真実性もありません。真実は、あなたのあるがまま、あなたのすること、あなたの考えることです。あなたの神への信念は、たんに自分の単調な愚かな残酷な生からの逃避です。そのうえ・さらに、信念は必ず人々を分割します。ヒンドウ-教徒、仏教徒、キリスト教徒、共産主義者、社会主義者、資本主義者などがあります。信念、観念は分割するのです。それは決して人々を一つにまとめません。あなたは少数の人々を一つの集団にまとめるかもしれません。しかしその集団はもう一つの集団と対立しているのです。観念と信念は決して統合していません。反対に、それらは分離的で、崩壊的で、破壊的です。ゆえに、あなたの神への信念は、ほんとうは世界に悲惨を広げているのです。それはあなたに瞬間の慰安をもたらしたかもしれないけれども、現実には、戦争、飢饉、階級分割、分離した個人の無慈悲な行動という形で、あなたにもっと多くの悲惨と破壊をもたらしたのです。それであなたの信念は全く妥当性がありません。もしもあなたがほんとうに神を信じていたなら、もしもそれがあなたにとってほんとうの経験であったなら、そのときあなたの顔に微笑みがあるでしょう。あなたは人間を破壊していないでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

337鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/01(日) 21:41:20 ID:1d4drIFg0
神を信じるのはよりよい生活をもとめているからというのじゃ。
しかし、それはよりよい生活は与えてくれないのじゃ。
むしろ無智に導く逃避だというのじゃ。
神や何かの主義を信念として持つ者はそれによって分裂するのみなのじゃ。

338避難民のマジレスさん:2020/11/02(月) 18:53:42 ID:0QoXVJ3I0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 3

 では真実とは何でしょうか。神とは何でしょうか。神は言葉ではありません。言葉はもの
ごと・実体ではありません。測ることのできない、時間のものではないものを知るには、精神は時間から自由でなければなりません-それは、精神が、神についてのすべての思考から、すべての観念から自由でなければならない、という意味です。あなたは、神や真理について何を知っているでしょうか。あなたはその真実について、ほんとうは何も知らないのです。あなたが知っているすべては、言葉 [です]、他の人たちの経験や、或る瞬間のあなた自身のかなり漠然とした・あいまいな経験です。確かに、それは神ではありません。それは真実ではありません。それは時間の領域を越えていません。時間を超えているものを知るには、時間の過程が理解されなければなりません-時間は思考過程、なりゆく・なろうとする過程、知識の蓄積です。それが精神の背景 [・地盤]全体です。精神自体が、意識と無意識、集団と個人両方の背景 [・地盤] です。それで精神は、知られたものから自由でなければなりません-それは、精神が静寂にされるのではなく、完全に静寂でなければならない、という意味です。結果としての [静寂] 、決然とした・決断された行動から、実践から、修練から出てきたものとしての静寂を達成する精神は、静寂な精神ではありません。強いられ、制御され、形造られ、枠にはめられ、静かにしている精神は、静寂な精神ではありません。あなたは、一定時間、精神を表面的に静寂であるよう強いることに、成功するかもしれません。しかしそういう精神は、静寂な精神ではありません。あなたが思考の過程全体を理解するときだけ、静寂が来るのです。なぜなら、過程を理解することが、それを終わらせることであるからです。思考の過程の終わりが、静寂の始まりです。
 精神が、上の水準でだけでなく根本的に、ずっととおして-意識の表面的な [水準]とともにより深い水準でも-完全に静寂であるときだけ、そのときだけ知られないものが生じうるのです。知られないものは、何か精神により経験されるものではありません。静寂のみが経験されうるのです-静寂以外に何も [経験]されえません。精神が静寂以外に何かを経験するなら、それはたんにそれ自身の願望を投影しているだけです。そういう精神は静寂ではありません。精神が静寂でないかぎり、意識的、無意識的などんな形でも、思考が動き [の状態]にあるかぎり、静寂はありえません。静寂は、過去から、知識から、意識的とともに無意識的な記憶からの自由です。精神が使われず・使用中でなく、完全に静寂であるとき、努力の産物ではない静寂があるとき、そのときだけ、時間のないもの、永遠のものが、たしかに生じるのです。その状態は、覚えておく状態ではありません-覚えておく、経験する実体はありません。
 ゆえに、神や真理-何であれ-は、瞬間瞬間生じるものです。それは、精神が様式に応
じて修練されるときではなく、自由と自発性の状態においてだけ、起きるのです。神は精神のものごとではありません。それは自己投影をとおして来ません。それは、美徳、すなわち自由があるときだけ、来るのです。美徳は、あるがままの事実に向き合うことです。事実に向き合うことは至福の状態です。精神が、それ自身のどんな動きもなく、意識的、無意識的な思考の投影がなく、至福に満ちて、静かであるときだけ-そのときだけ、永遠のものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

339鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/02(月) 21:56:28 ID:1d4drIFg0
言葉はものこどそのものではないというのじゃ。
それ故に人は神も真実も知らないのじゃ。
静寂な精神によって永遠のものが生じるというのじゃ。
思考や意識的な心の働きが無い時だけそのような静寂があるというのじゃ。

340避難民のマジレスさん:2020/11/03(火) 19:15:23 ID:cjHTbEFw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 1

質問
 記憶は、あなたが言われるには、不完全な経験です。私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どうかこの観念を、そのすべての詳細において説明してください。

 私たちの言う記憶とは、どういう意味でしょうか。あなたは学校へ行くし、事実で、技術的な知識で満ちています。あなたは技師であるなら、橋を建てるために、技術的な知識の記憶を使います。それは事実に基づく・関する記憶です。また心理的な記憶もあります。あなたは私に何か楽しいことや楽しくないことを言いました。すると私はそれを持ち続けます。私は次にあなたに会うとき、その記憶-あなたが言ったり、言わなかったことの記憶-をもってあなたに会います。記憶には二つの面-心理的なものと事実に基づく・関するもの-があります。それらはいつも相互に関係しています。ゆえにはっきり切られません。事実に基づく記憶は、生計の手段として不可欠 [・本質的]であることを、私たちは知っています。しかし心理的な記憶は不可欠 [・本質的]でしょうか。心理的な記憶を持ち続ける要因は何でしょうか。侮辱や賞讃を、心理的に覚えておかせるのは何でしょうか。なぜ一定の記憶を持ち続けて、他のものを拒絶するのでしょうか。明白に、楽しい記憶は持ち続けて、楽しくない記憶は避けるのです。あなたは観察するなら、苦しい・痛みを伴う記憶は、楽しいものよりもっとすばやく脇へ置かれることが、わかるでしょう。精神は記憶です-どんな水準でも、それをどんな名前で呼ぼうとも、です。精神は過去の産物です。それは過去-すなわち記憶、条件づけられた状態-に基づいて・を根拠にしています。そこで、その記憶をもって、私たちは生に出会います。新しい挑戦に出会います。挑戦はいつも新しいのですが、私たちの応答はいつも古いのです。なぜなら、それは過去から出てきたものであるからです。それで記憶なしに経験することは一つの状態ですし、記憶をもって経験することはもう一つ [の状態]です。すなわち、挑戦があります-それはいつも新しいのです。私は古いものの応答をもって、条件づけをもって、それに出会います。それで何が起きるでしょうか。私は新しいものを吸収します。それを理解しません。そして新しいものを経験することは、古いものにより条件づけられるのです。ゆえに、新しいものの部分的理解があるのです。決して完全な理解はないのです。それが記憶の傷跡を残さないのは、何ごとについても完全な理解があるときだけです。
 挑戦があるとき-それはいつも新しいのです-あなたは古いものの応答をもって、それに出会います。古いものは新しいものを条件づけます。ゆえにそれをねじ曲げ、それに偏向を加え、ゆえに新しいものが古いものに吸収されて、それに応じて古いものを強めるほどに、新しいものの完全な理解がないのです。これは抽象的に見えるかもしれません。しかしあなたが少しきっちりと気をつけてそれに入るなら、それは難しくありません。現在の世界の状況・情勢は、世界の問題-それは常に新しいのです-への新しい接近、新しい取り組み方を要求します。私たちはそれに新たに接近する能力がありません。なぜなら、私たちは、自分たちの条件づけられた精神をもって、 国家[・民族]的、局地・地方的、家族的、宗教的な先入観をもって、それに接近するからです。私たちの以前の経験が、新しい挑戦の理解にとって障壁として作用しています。それで私たちは記憶を育成し、強めつづけるし、ゆえに決して新しいものを理解しないのです。決して充分に、完全に、挑戦に出会わないのです。それは、過去なしに、新たに、新鮮に、挑戦に出会うことができるときだけです。そのときだけ、それはその結実・成果、その豊かさをもたしてくれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

341鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/03(火) 22:25:26 ID:1d4drIFg0
記憶には二つの面があると言うのじゃ。
事実に基づく生活に役立つ面と、条件付けなどで生きることに制限を加えるものなのじゃ。
後者の性質に拠って新しい経験をすることはできないというのじゃ。
過去の記憶や経験に拠らない時にのみ新しいものごとにあい、その成果を得られるというのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2020/11/04(水) 20:37:32 ID:caBPdlkw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 2

 質問者は、「私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どんな意味で、それは不完全な経験なのでしょうか」と言います。それがたんに印象、記憶だけであるなら、明白にそれは不完全な経験です。あなたが言われてきたことを理解し、それの真理がわかるなら、その真理は記憶ではありません。真理は記憶ではありません。なぜなら、真理は常に新しく、常にそれ自体を変容させているからです。あなたは以前の講話の記憶を持っています。なぜでしょうか。あなたは以前の講話を導きとして使っているから、それを充分に理解しなかったのです。あなたはそれに入りたいのです。それで意識的、無意識的に、それは維持・保持されているのです。あなたは何かを完全に理解する、すなわち何かについての真理が全体的にわかるなら、何の記憶もないことを見つけるでしょう。私たちの教育は、記憶の育成、記憶の強化です。あなたたちの宗教的実践と儀式、あなたの読書と知識は、すべて記憶の強化です。それはどういう意味でしょうか。なぜ私たちは記憶にすがるのでしょうか。 [人は] 成長するにつれて、過去を、それの喜び、それの苦痛、それの楽しみを振り返る・回想することに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。若ければ、未来の方を見ます。なぜ私たちはこうするのでしょうか。なぜ記憶がこんなに重要になってしまったのでしょうか。私たちがどのようにして現在において全体的に、完全に生きるのかを知らないという単純で明白な理由のためです。私たちは未来への手段として、現在を使っています。ゆえに、現在は意義を持たないのです。私たちは未来への通路として現在を使っているから、現在において生きられないのです。私は何ものかになろうとしているから、自分自身についての完全な理解が決してないのです。自分自身を、今まさに私が何であるかを・今まさにあるがままの私を理解するには、記憶の育成を必要としません。反対に、記憶は、あるがままの理解にとって障害です。精神が記憶の網に捕らわれていないときだけ、新しい思考、新しい感情は来るということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。二つの思考の間、二つの記憶の間に間隔があるとき、その間隔が維持されうるとき、そのとき、その間隔から、もはや記憶ではない新しい存在の状態が、来るのです。私たちは記憶を持っています。そして継続の手段として記憶を育成します。記憶の育成が存在しているかぎり、「私」と「私の」が、とても重要になるのです。私たちのほとんどは、「私」と「私の」で作り上げられているので、記憶が私たちの生においてとても重要な役割を演じるのです。もしもあなたが記憶を持たなかったなら、あなたの財産、あなたの家族、あなたの観念は、それほど重要(というほどのもの)ではないでしょう。それで「私」と「私の」に強さを与えるために、あなたは記憶を育成するのです。あなたは観察するなら、二つの思考の間、二つの情動の間に間隔があることがわかるでしょう。その間隔には-それは記憶の産物ではありません-「私」と「私の」からのとてつもない自由があるのです。その間隔は時間がないのです。
(´・(ェ)・`)つ

343鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/04(水) 22:30:35 ID:1d4drIFg0
真理は記憶ではないというのじゃ。
言葉にも知識にも出来ず、今ここで常に新しいものであるというのじゃ。
記憶はそれを感じる障害になるだけなのじゃ。
記憶は自分と、自分のもので全てを解釈するから新しいものごとは感じられないのじゃ。

344避難民のマジレスさん:2020/11/05(木) 20:39:22 ID:n0q2q3AQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 3

 問題を違ったふうに見てみましょう。確かに記憶は時間なのではないでしょうか。記憶は、昨日・今日・明日を造り出します。昨日の記憶が、今日を条件づけます。ゆえに明日を形造ります。すなわち過去が、現在をとおして未来を造り出します。時間の過程が続いています-それがなろうとする意志です。記憶は時間です。時間をとおして、私たちは結果を達成したいと願うのです。私は今日は事務員・店員です。そして時間と機会を与えられるなら、経営者や所有者になるだろう。ゆえに、私は時間を持たねばなりません。同じ精神性・精神をもって、「私は真実を達成するだろう。神に接近するだろう」と、私たちは言うのです。ゆえに、私は実現するために時間を持たねばなりません-それは、何かであるため、達成するため、獲得するために、実践により、修練により、記憶を育成し、記憶を強めなければならない、という意味です-それは、時間における継続、という意味です。時間をとおして、私たちは時間のないものを達成したいと願います。時間をとおして、私たちは永遠のものを獲得したいと願います。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、記憶、すなわち時間のものをとおして、永遠のものを時間の網にかけられるでしょうか。時間のないものは、記憶、すなわち「私」と「私の」が止むときだけ、ありうるのです。あなたがそれの真理-時間をとおして、時間のないものは理解することも受け取ることもできないということ-がわかるなら、そのとき、私たちは記憶の問題に入れるのです。技術的なものごとの記憶は必要不可欠です。しかし、自己、「私」、「私の」を維持する [記憶]、同一化と自己継続を与える心理的な記憶は、生と真実にとって全面的に有害です。それの真理がわかるとき、虚偽はなくなります・離れ落ちます。ゆえに、昨日の経験の心理的保持はないのです。
 あなたは、うるわしい夕暮れを、野原の美しい木を見ます。そしてあなたは初めにそれを見るとき、それを完全に、全面的に楽しみます。しかしあなたは、それをもう一度楽しみたいという願望をもって、それに戻ります。あなたがそれを楽しみたいという願望をもって戻るとき、何が起きるでしょうか。楽しみはありません。なぜなら、今あなたを戻らせているのは、あなたに楽しむよう強要し、駆り立てているのは、昨日の夕暮れの記憶であるからです。昨日は記憶がなく、自発的な理解・評価、直接の応答だけがあったのです。今日は、あなたは昨日の経験を取り戻したい・再び捕らえたいと望んでいるのです。すなわち、記憶が、あなたと夕暮れの間に干渉し・介入しています。ゆえに楽しみはないのです。豊かさ、美しさの充足はないのです。また、あなたは友だちを持っています-彼は昨日あなたに何かを、侮辱やお世辞を言いました。それであなたはその記憶を持ち続けます。その記憶をもって、あなたは今日、友だちに会います。あなたはほんとうは友だちに出会わないのです-あなたはきのうの記憶を携えています-それが介入する・干渉するのです。それで私たちは、自分たち自身と自分たちの行動を、記憶で取り囲みつづけるのです。ゆえに新しさ、新鮮さがないのです。そういうわけで、記憶は生を、疲れて鈍く空っぽにするのです。私たちは互いに敵対して生きています。なぜなら、「私」と「私の」が、記憶とおして強められるからです。記憶は、現在の行動をとおして生き返ります。私たちは、現在をとおして、記憶に生命を与え・活気づけます。しかし私たちが記憶に生命を与えないとき、それは消えてしまい・消えてゆきます。事実の、技術的なものごとの記憶は、明白に必要です。しかし心理的な保持としての記憶は、生の理解、互いの疎通にとって有害です。
(´・(ェ)・`)つ

345鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/05(木) 22:36:12 ID:1d4drIFg0
記憶とは時間なのじゃというのじゃ。
時間を通して人は結果を達成したいという欲を持つのじゃ。
昨日の記憶にょって今ここにあることを取り逃がすというのじゃ。
記憶は自分と、自分のものを分別するものであるから生と真実には有害なのじゃ。
技術に記憶は必要であるが、生の理解には記憶が障害になるともいうのじゃ。

346避難民のマジレスさん:2020/11/06(金) 19:11:55 ID:emCATIgM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十八 「あるがまま」へ身を委ねること・任せることについて 1

質問
神の意志に任せることと、あるがままの受け入れついてあなたが言っていることとの間の違いは、何でしょうか。

 確かに大へんな違いがあるのではないでしょうか。神の意志に任せることは、あなたがすでに神の意志を知っている、という意味を含んでいます。あなたは、何か自分が知らないものに、任せていません。あなたは真実を知っているなら、それに任せられません。あなたは存在するのを止めます。より高い意志に任せることはありません。あなたがより高い意志に任せているなら、そのとき、その高い意志は、あなた自身の投影です。というのは、真実は、知っているものをとおして知られえないからです。それは、知っているものがなくなるときだけ、生じるのです。知っているものは、精神の創造です。なぜなら、思考は知っているものの [結果] 、過去の結果であるからです。そして思考は、それが知っているものを創造できるだけです。ゆえに、それが知っているものは、永遠のものではありません。そういうわけで、あなたは神の意志に任せるとき、自分自身の投影物に任せているのです。それは喜ばせ、慰めになるかもしれませんが、真実ではないのです。
(´・(ェ)・`)つ

347鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/06(金) 22:00:11 ID:1d4drIFg0
神の意志に任せるというが人は神の意志など知らないというのじゃ。
もっともな話なのじゃ。
何か高い意志があるというならば、それは自らの意志の投影に過ぎないのじゃ。
神の意志に任せるとは自分の意志に任せているだけだというのじや。
それはただの自分自身の慰めにすぎないのじゃ。

348避難民のマジレスさん:2020/11/08(日) 18:34:29 ID:ebQjNP9E0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十八 「あるがまま」へ身を委ねること・任せることについて 2

 あるがままを理解することは、違った過程を要求します-おそらく「過程」という言葉は正しくありませんが、私の意味することはこうです-あるがままを理解することは、たんに観念を受け入れたり、それに身を任せたりすることよりも、はるかにもっと難しく、もっと大いなる智恵、もっと大いなる気づきを必要とするのです。あるがままを理解することは、努力を要求しません。努力は散漫です。何かを理解するには、あるがままを理解するには、あなたは散漫であることはできないのではないでしょうか。私は、あなたの言っていることを理解したいなら、外側の音楽を、人々の雑音を聴くことはできません。私は自分の注意全体を、それに向けなければなりません。こうして、あるがままに気づくことは、とてつもなく難しく、困難です。なぜなら、まさに私たちが考えることそのものが、散漫になってしまったからです。私たちはあるがままを理解したくないのです。私たちは、先入観、非難、同一化のめがねをとおして、あるがままを見ます。これらのめがねを取り除いて、あるがままを見るのは、とても困難です。確かに、あるがままが事実です。真理です。他のすべては逃避です。真理ではありません。あるがままを理解するには、二元性の葛藤が止まなければなりません。なぜなら、あるがままとは他の何かになるという・なろうとする否定的応答は、あるがままの理解の拒否であるからです。私は傲慢さ・尊大さを理解したいなら、対極に入ってはなりません。なろうとする努力によって、またはあるがままを理解しようとする努力によってさえも、散漫であってはなりません。私が傲慢であるなら、何が起きるでむしょうか。私が傲慢さに名づけないなら、それは止みます-それは、問題自体に答えがある、それから離れてではない、という意味です。
 それは、あるがままを受け入れるという問題ではありません。あなたはあるがままを受け入れません。あなたは自分 [の肌の色]が茶色や白であることを受け入れません。まぜなら、それは事実であるからです。あなたは何か他のものになろうとしているときだけ、たしかに受け入れなければならないのです。あなたが事実を認識した瞬間、それはどんな意義も持たなくなります。しかし、過去や未来について考えるように訓練され・しつけられている [精神]、多種多様の方向に逃げ出すように訓練されている精神、そういう精神は、あるがままを理解する能力がありません。あるがままを理解することなしに、あなたは何が真実であるかを見つけられません。その理解なしに、生は意義がありません。生は、そこに苦痛と苦しみが継続する常なる戦いです。真実は、あるがままを理解することにより、理解されうるだけです。何か非難や同一化があるなら、それは理解されえません。いつも非難したり同一化している精神は、理解できません。それは、それがその中に捕らわれているものを、理解できるだけです。あるがままを理解すること、あるがままに気づくことは、とてつもない深みを開示します-そこに、真実、幸せ、喜びがあります。
(´・(ェ)・`)つ

349鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/08(日) 21:52:29 ID:1d4drIFg0
あるがままを理解することは、上のように神の意志を自分の意志と誤魔化すような欺瞞とは違った過程を必要とするというのじゃ。
それには努力も要らないというのじゃ。
過去や未来を考える精神にはあるがままを理解する能力は無いのじゃ。
今ここにあることだけが必要なのじゃ。
あるがままを理解できれば真実は理解されるのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2020/11/09(月) 19:09:12 ID:2UjGVukA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 1

質問
祈りに表現されたあこがれは、神への道ではないでしょうか。

 まず初めに、私たちは、この疑問の中に含まれた問題を、検討しましょう。それには、祈り、集中、瞑想という意味が含まれています。そこで、私たちの言う祈りとは、どういう意味でしょうか。まず初めに、祈りには、あなたが神、真実と呼ぶものへの嘆願、懇願があります。あなたは個人として、何か神と呼ぶものから導きを要求し、嘆願し、請い、求めています。ゆえに、あなたの接近は、報賞を求めること、喜びを求めることの一つです。あなたは、国家 [・民族]的、または個人的な困難 [の状態]にあります。それで導きのために祈るのです。またはあなたは混乱しています。それで明晰さを請います。神と呼ぶものに助けを求めます。これには、神が-たとえどんな神であろうとです。私たちは当分はその議論はしません-私とあなたが造り出した混乱を、きれいに片づけてくれるであろう、という意味が含まれています。結局、混乱、悲惨、混沌、ぞっとするような暴政、愛の欠如をもたらしてきたのは、私たちです。それで私たちは、それをきれいに片づけてくれる神と呼ばれるものが、欲しいのです。言い換えれば、私たちは、自分たちの混乱、悲惨、悲しみ、葛藤を、他の誰かに片づけてもらいたいのです。光と幸せをもたらしてくれるよう、もう一人に嘆願するのです。
 そこで、あなたが祈るとき、何かに向かって請い、嘆願するとき、それが一般的に生じるのです。あなたは求めるとき、受け取ります。しかしあなたが受け取るものは、秩序を造り出さないでしょう。なぜなら、あなたが受け取るものは明晰さ、理解をもたらさないからです。それは満足させ、喜びを与えるだけで、理解をもたらさないのです。なぜなら、あなたは要求するとき、自分自身が投影するものを、受け取るからです。どうして真実、神が、あなたの特定の要求に答えられるでしょうか。測ることのできないもの、言葉で言い表しえないものが、私たちの些細で小さな心配事、悲惨、混乱-私たち自身が造り出したもの-に、関心を持てるでしょうか。ゆえに、答えるのは何でしょうか。明白に、測ることのできないものは、測られるもの、些細なもの、小さなものに、答えられません。しかし、答えるのは何でしょうか。私たちは祈る瞬間、かなり静寂で、受け入れる・受容の状態にあります。そのとき、私たち自身の潜在意識が、瞬間的な明晰さをもたらします。あなたは何かが欲しい。それにあこがれています。するとそのあこがれ、そのおもねた・こびへつらった要請の瞬間において、あなたはかなり受容力があるのです。あなたの意識的、活動的精神は、比較的静かです。そのため無意識がその中にそれ自体を投影します。それであなたは答えを得るのです。それは確かに、真実からの、測ることのできないものからの答えではありません-それは、あなた自身の無意識的な応答です。それで、あなたの祈りが答えられるとき、自分が真実と関係していると混同して考えないようにしましょう。真実は、あなたのところに来るにちがいありません・来なければなりません。あなたはそこへ行けません。
(´・(ェ)・`)つ

351鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/09(月) 21:34:41 ID:1d4drIFg0
神への祈りは嘆願とか誓願に過ぎないというのじゃ。
それは欲の表れでしかないのじゃ。
そうであるから真実をもたらさないのじゃ。
祈りがかなうとしても、自分の欲したものを受け取れるだけなのじゃ。
自分の欲がかなうだけなのじゃ。

352避難民のマジレスさん:2020/11/10(火) 20:13:54 ID:n2jj.iZI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 2

 この問題には、もう一つの要因が関与しています-内なる声と呼ばれるものの応答です。私が言いましたように、精神が懇願し、嘆願しているとき、それは比較的静かです。あなたが内なる声を聞くとき、それは、その比較的静かな精神に、それ自体を投影しているあなた自身の声です。さらに、どうしてそれが真実の声でありうるでしょうか。混乱し、無知で、渇望し、要求し、嘆願している精神、それがどうして真実を理解できるでしょうか。精神が、自分自身のためでも、国家 [・民族]のためでも、もう一人のためでも、要求しない、渇望しない、あこがれない、求めないで絶対的に静かであるときだけ、それは真実を受け取れるのです。精神が絶対的に静かであるとき、願望が止むとき、そのときだけ、真実が生じるのです。要求し、嘆願し、懇願し、命令・指図にあこがれている人物は、自分の求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真理ではないでしょう。彼が受け取るものは、彼自身の精神の無意識の諸層の応答であるでしょう-それ [無意識の層の応答]は、それら自体を意識の中に投影するのです 。彼に命令するその静かな、小さな声は、真実ではなくて、無意識の応答であるだけです。
 この祈りの問題には、また集中の問題もあります。私たちのほとんどにとって、集中は排除の過程です。集中は、努力、強制、命令、模倣をとおしてもたらされます。そのため集中は排除の過程です。私は、いわゆる瞑想に興味があります。しかし私の思考は散漫です。それで私は自分の精神を、 [一つの] 映像・画像、イメ-ジ、観念に固定させて、他のすべての思考を排除します。この集中の過程、すなわち排除が、瞑想する手段であると考えられています。それがあなたのすることなのではないでしょうか。あなたは坐って瞑想するとき、自分の精神を [一つの]言葉、イメ-ジ、画像に固定させます。しかし精神はそこらじゅうさまよいます。他の観念、他の思考、他の情動の常なる中断・割り込みがあります。それであなたはそれらを押しのけようとします。あなたは自分の思考と戦うことに、自分の時間を費やします。この過程を、あなたは瞑想と呼ぶのです。すなわち、あなたは、何か自分が興味のないことに集中しようとしています。それであなたの思考は増加し、増大し、中断しつづけます。そのためあなたは排除に、避ける・かわすこと、押しのけることに、自分のエネルギ-を費やすのです。あなたは自分の選択した思考に、特定の対象に集中できるなら、ついに瞑想に成功したと、思うのです。確かに、それは瞑想ではないのではないでしょうか。瞑想は排除する過程ではありません-避ける [という意味] 、侵入してくる観念に対して抵抗を築くという意味での排除、です。祈りは瞑想ではありませんし、排除としての集中は瞑想ではありません。
 瞑想とは何でしょうか。集中は瞑想ではありません。なぜなら、興味があるところ、何かに集中することは、比較的たやすいからです。戦争、虐殺を計画している将軍は、とても集中しています。金もうけをしている事業家は、とても集中しています-彼は他のあらゆる感情を脇に置いて、自分が欲しいものに完全に集中しながら、無慈悲でさえあるかもしれません・まったく無慈悲であるかもしれません。何ごとでも興味のある人は、自然に、自発的に集中しています。そういう集中は、瞑想ではありません。それはたんに排除です。
(´・(ェ)・`)つ

353鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/10(火) 22:24:31 ID:1d4drIFg0
一般に言われる瞑想とは精神を一つの観念に集中させるものであるから、排除の過程に過ぎないというのじゃ。・
クリシュナムルティの言う瞑想とは排除ではないというのじゃ。
観察し、気付くためには何かを排除するのは危険であるからじゃろう。
何かを排除すれば見落としてしまうからのう。
そもそも集中は瞑想ではないと言うのじゃ。

354避難民のマジレスさん:2020/11/11(水) 21:07:35 ID:iUpUjRSA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 3

 それで瞑想とは何でしょうか。確かに、瞑想は理解です-心の瞑想は理解です。排除があるなら、どうして理解がありうるでしょうか。嘆願、懇願があるとき、どうして理解がありうるでしょうか。理解には、平和があります。自由があります。あなたが理解するもの、そこから、あなたは解放されるのです。たんに集中したり祈ったりすることは、理解をもたらしません。理解が、瞑想のまさに基礎、根本的過程です。あなたはそのために、私の言葉を受け入れなくてもいいのです。しかし、あなたは、とても気をつけて、深く、祈りと瞑想を検討するなら、それらのどちらも理解につながらないことを、見つけるでしょう。それらはたんに頑固さに、固定化に、幻影につながるだけです。ところが、瞑想は-それには理解があります-自由、明晰さ、統合・融合をもたらしてくれるのです。
 では、私たちの言う理解とは、どういう意味でしょうか。理解とは、すべてのものごとに正しい意義、正しい価値を与えることです。無知であるとは、間違った価値を与えることです。まさに愚かさの本性が、正しい価値の了解の欠如です。正しい価値があるとき、正しい価値が確立されるとき、理解が生じるのです。どのようにして正しい価値を確立するのでしょうか-財産の正しい価値、関係の正しい価値、観念の正しい価値を、です。正しい価値が生じるには、あなたは思考者を理解しなければならないのではないでしょうか。私が思考者、すなわち私自身を理解しないなら、私が選択するものは意味がありません。すなわち私が自分自身を知らないなら、そのとき、私の行動、私の思考はまったく・なんの基礎・根拠もありません。ゆえに、自己認識が瞑想の始まりです-あなたが私の書物から、権威から、 から拾い上げる知識ではなく、自己探求、すなわち自己気づきをとおして生じる知識です。瞑想が自己認識の始まりです。自己認識なしに、瞑想はありません。私が自分の思考の、感情の道を理解しないなら、私が自分の動機、願望、要求、行動の様式の追求、すなわち観念を理解しないなら-私が自分自身を知らないなら、考えるための基礎がないのです。自分自身を理解することなく、たんに求め、祈り、排除する思考者は、必然的に混乱、幻影に終わるにちがいありません。
(´・(ェ)・`)つ

355鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/11(水) 21:46:36 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの言う瞑想とは理解そのものなのじゃ。
観察なのじゃ。
何かに集中して他のものごとを排除してしまえばそこに理解は無いのじゃ。
理解は気付くことから起こるからのう。
自分に気付く自己認識から瞑想は始まるというのじゃ。
そして瞑想から自己認識が始まるともいうのじゃ。
堂々巡りなのじゃ。

356避難民のマジレスさん:2020/11/12(木) 20:14:11 ID:1HJphfiA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十九 祈りと瞑想について 4

 瞑想の始まりは自己認識です-それは、思考と感情のあらゆる動きに気づくこと、自分の意識の層すべてを-表面的な層だけでなく、隠れた、深く隠された活動を-知ることです。深く隠された活動、隠れた動機、応答、思考、感情を知るには、意識的精神に平静さがなければなりません。すなわち、意識的精神は、無意識の投影を受け取るために静かでなければなりません。表面的、意識的精神は、その日常の活動、生計を立てること、他の人たちを欺くこと、他の人たちを利用する [・搾取する]こと、問題から逃げ出すことに-私たちの存在の日常の活動すべてに-携わって・従事しているのです。その表面的精神は、それ自身の活動の正しい意義を理解して、よってそれ自体に平静さをもたらさなければなりません。それは、たんなる厳しい管理により、強制により、修練により、平静さ、静けさをもたらせません。それは、それ自身の活動を理解することにより、観察することにより、気づくことにより、それ自身の無慈悲さが-それが召使いに、妻に、娘に、母などに、どのように話しかけるのかが-わかることによってだけ、平静さ、平和、静けさをもたらせるのです。表面的、意識的精神が、その理解をとおして、そのすべての活動に、こうして充分に気づくとき、それは強制により麻痺させられたり、願望により厳しく管理されて [静かになるの]ではなく、 自発的に静かになるのです。そのとき、それは、無意識の、精神の多くの多くの隠れた層の-人種的本能、埋もれた記憶、隠された追求、まだ癒されていない深い傷の-ほのめかし、暗示を受け取る位置にあるのです。それが永遠のものを受け取る位置にあるのは、これらすべてがそれら自体を投影してしまって理解されるとき、意識全体が重荷を負っていない [とき] 、どんな傷によっても、どんな記憶によっても、まったく足かせをはめられていないときだけです。
 瞑想は自己認識です。自己認識なしに、瞑想はありません。あなたがいつのときも自分の応答すべてに気づいているわけではないなら、自分の日常の活動を充分に意識し、充分に認識していないなら、たんに部屋に閉じこもって、自分の、自分の大師の写真の前に坐って瞑想することは、逃避です。なぜなら、自己認識なしに正しい考えはないし、正しい考えなしには、あなたのすることは、たとえどんなにあなたの意図が高尚であっても、意味がないからです。こうして祈りは、自己認識なしには意義がありません。しかし自己認識があるとき、正しい考え [があるし]、ゆえに正しい行動があるのです。正しい行動があるとき、混乱はないし、ゆえにあなたをそれから導き出す他の誰かへの懇願はないのです。充分に気づいている人は、瞑想しています。彼は祈りません。なぜなら、彼は何も欲しくないからです。祈りをとおし、厳格な統制をとおし、反復とその他すべてをとおして、あなたは一定の静けさをもたらせます。しかし、それはたんなる鈍さであり、精神と心を疲労困憊状態に陥らせるのです。それは精神を麻痺させることです。そして排除-あなたが集中と呼ぶもの-は、真実につながりません-どんな排除も決してできません。理解をもたらすものは自己認識です。そして正しい意図があるなら、気づくことは、あまり難しくありません。あなたが自分自身の過程全体を-たんに表面的な部分だけではなく、あなたの存在全体の総合過程を-理解することに興味を持っているなら、そのとき、それは比較的たやすいのです。あなたはほんとうに自分自身を知りたいなら、自分の心と精神を探し出して、それらの充分な内容を知るでしょう。知ろうとする意図があるとき、あなたは知るでしょう。そのときあなたは非難や正当化なしに、思考と感情のあらゆる動きに付いていけるのです。あらゆる思考とあらゆる感情が生じるままに付いていくことにより、あなたは平静さをもたらします-それは、強制されたのではなく、厳しく管理されたのではなく、なんの問題も、なんの矛盾も持たないことから出てきたものです。それは、風のない夜・夕べに、穏やかに、静かになる池に似ています。精神が静かであるとき、そのとき、測ることのできないものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

357避難民のマジレスさん:2020/11/12(木) 20:34:25 ID:1HJphfiA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 1
質問
 意識的精神は、無意識的精神について無知で [あり] 、[それを] 恐れています。あなたは主に意識的精神に呼びかけて・に取り組んでいますが、それで充分でしょうか。あなたの方法は、無意識の解放をもたらすでしょうか。どうすれば充分に無意識的精神に取り組めるのか、どうか詳細に・詳しく説明してください。

私たちは、意識的と無意識的精神があることに、気づいています。しかし私たちのほとんどは、意識的な水準で、精神の上の層においてだけ機能します。それで私たちの生全体は、実質的に・実際上それに制限されるのです。私たちは、いわゆる意識的精神に住んでいるので、 [そこから] たまに・ときにほのめかし、暗示がある [ところの] より深い無意識的精神に、決して注意を払わないのです。その暗示は今のところ、私たちの特定の意識的要求に応じて、無視され・軽視されたり、歪曲されたり、翻訳されたりするのです。そこで質問者は、「あなたは主に意識的精神に呼びかけていますが、それで充分でしょうか」と訊ねます。私たちのいう意識的精神とはどういう意味なのかを、見てみましょう。意識的精神は、無意識的精神とは違っているのでしょうか。私たちは意識を無意識から分割しました。これは正当化されるでしょうか。これは真実でしょうか。意識と無意識の間に、そういう分割があるでしょうか。意識が終わって無意識が始まる [ところの] 明確な障壁、境界線があるでしょうか。私たちは、上の層、意識的精神が活動していることに気づいています。しかしそれが、一日中活動してる唯一の道具でしょうか。もしも私がたんに意識の上の層にだけ呼びかけていたなら、そのとき確かに私の言っていることは、価値がないでしょう。それは意味がないでしょう。けれども私たちのほとんどは、意識的精神が受け入れたことにすがりつくのです。なぜなら、意識的精神は、一定の明白な事実に適応することが都合がいいことを、見つけるからです。しかし無意識は反逆・反抗するかもしれないし、しばしばそうします。それでいわゆる意識と無意識の間に葛藤があるのです。
 ゆえに私たちの問題は、こうなのではないでしょうか。実のところ、意識と無意識といったような二つの状態 [があるの]ではなくて、唯一つの状態があるのです。唯一の存在の状態があります-それは意識です。けれどもあなたはそれを、意識と無意識とに分割するかもしれません。しかしその意識は、決して現在についてのものではなく、いつも過去についてのものです。あなたは終わって・過ぎているものごとだけを意識します。あなたは、私が伝えようとしていることを、瞬間後で、意識するのではないでしょうか。あなたはそれを瞬間後で理解します。あなたは決して今を意識したり気づいたりしません。あなた自身の心と精神を見守ってください。すると、意識は過去と未来の間で機能していること、現在はたんに過去から未来への通路であることが、わかるでしょう。ゆえに意識は、過去から未来への動きです。
(´・(ェ)・`)つ

358鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/12(木) 21:42:34 ID:1d4drIFg0
意識は一つしかないのじゃ。
日常でも感じられる心の働きを意識と呼び、感じられない部分を無意識と呼ぶだけなのじゃ。
それは記憶に依存しているものであるからいつも過去のことになるのじゃ。
自らの心の働きを観察すればそれは過去と未来の間で機能しているとわかるのじゃ。

359避難民のマジレスさん:2020/11/13(金) 18:36:46 ID:H9FlaIWU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 2

 あなたは働いている自分の精神を見守るなら、過去 [への動き]と未来への動きは、 [そこに]現在がない過程であることが、わかるでしょう。過去は、楽しくないかもしれない現在からの逃避の手段であるか、または未来は、現在から離れた希望であるか、どちらかです。それで精神は、過去や未来に携わって、現在を捨てる・なげうつのです。すなわち精神は、過去により条件づけられ、インド人、バラモン、非バラモン、キリスト教徒、仏教徒などとして条件づけられるのです。その条件づけられた精神が未来の中にそれ自体を投影するのです。ゆえにそれは、どんな事実をも直接に、公平に・偏見なく見る能力が、決してないのです。それは、事実を非難して拒絶するか、それとも [事実を] 受け入れて、それ自体を事実と同一化するか、どちらかです。そういう精神は明白に、どんな事実をも事実として見る能力がありません。それが、過去により条件づけられている私たちの意識の状態です。そして思考は、事実の挑戦への条件づけられた応答です。あなたが信念の、過去の条件づけに応じて応答すればするほど、ますます過去の強化があるのです。その過去の強化は明白に、それ自体の継続です-それを未来と呼ぶのです。ですからそれが私たちの精神の、意識の状態です-過去と未来の間を前後に揺れている振り子です。それが私たちの意識です-それは、精神の上の層からだけでなく、またより深い水準からも成り立って・作り上げられています。そういう意識は明白に、違った水準で機能できません。なぜなら、それは、それら二つの前後の動きを知るだけであるからです。
 あなたはとても気をつけて見守るなら、それが常なる動きではないこと、二つの思考の間に間隔があることが、わかるでしょう。それはほんの一秒の極何分の一であるかもしれないけれども、振り子の前後の揺れ動きには、意義のある間隔があるのです。私たちは、自分たちの考えることが、未来へと投影される過去により条件づけられているという事実が、わかります。あなたは過去を許し・認めた瞬間、また未来をも許さなければなりません。なぜなら、過去と未来といった二つの状態 [があるの]ではなくて、意識と無意識の両方を、集団的過去と個人的過去の両方を含む一つの状態があるからです。集団的と個人的過去が、現在への応答において、一定の応答を発します-それが個人的意識を造り出すのです。ゆえに意識は過去についてのものです。それが、私たちの存在の背景・地盤全体です。あなたは過去を持った瞬間、必ず未来を持ちます。なぜなら、未来はたんに修正された過去の継続であるからです。しかしそれもやはり過去です。それで私たちの問題は、もう一つの条件づけ、もう一つの過去を造り出さずに、どのようにしてこの過去の過程に変容をもたらすのか、です。
(´・(ェ)・`)つ

360鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/13(金) 21:51:54 ID:1d4drIFg0
過去と未来は記憶に拠って作られるものじゃ。
記憶に依存している人間には過去と未来だけで現在が無いのじゃ。
過去の記憶が未来にも投射されているのじゃ。
それが不安を作り出すのじゃ。

361避難民のマジレスさん:2020/11/14(土) 16:05:40 ID:vnzMlciY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 3

 それを違ったふうに言うと、問題はこうです-私たちのほとんどは、一つの特定の形の条件づけを拒絶して、もう一つの形の、もっと広い、もっと意義のある、もっと楽しい条件づけを、見つけます。あなたは一つの宗教をあきらめて、もう一つを採り入れます。一つの形の信念を拒絶して、もう一つを受け入れます。そういう代用は明白に、生を、関係である生を理解することではありません。私たちの問題は、どのようにしてすべての条件づけから自由であるのか、です。それは不可能である。人間の精神は、決して条件づけから自由でありえない、とあなたは言うか、それとも実験し、探究し、発見しはじめるか、どちらかです。あなたは、それは不可能であると主張するなら、明白に競争・競技に加わっていないのです。あなたの主張は、制限された [経験]や広い経験やたんなる信念の受け入れに基づいているのかもしれません。しかしそういう主張は、探求、調査・研究、探究、発見の否定です。精神がすべての条件づけから完全に自由であることは可能なのかどうかを見出すには、あなたは自由に探究し、発見できなければなりません。
 今私は、精神がすべての条件づけから自由であることは、明確に可能であると、言います-あなたは私の権威を受け入れるべきである、ということではありません。あなたはそれを権威に基づいて受け入れるなら、決して発見しないでしょう。それはもう一つの代用であるでしょうし、それは意義がないでしょう。私が、それは可能であると言うとき、私にとってそれは事実であるから、そう言うのです。私は言葉であなたにそれを示せます。しかしあなたは、自分自身でそれの真理を見出すつもりであるなら、それを実験して、それにすばやく付いていかなければなりません。
 条件づけの過程全体の理解は、分析や内省をとおして、あなたにやって来ません。なぜなら、あなたが分析者を持った瞬間、まさにその分析者自身が、背景 [・地盤]の一部であるし、ゆえに彼の分析は意義がないからです。それは事実であるし、あなたはそれを脇へ置かなければなりません。自分が見ているものを検討し、分析する分析者は、彼自身が条件づけられた状態の一部であるし、ゆえに彼の解釈、理解、分析が何であろうとも、それはやはり背景 [・地盤]の一部です。ですからそのように逃避はないし、背景を打ち壊すことが不可欠 [・本質的]です。なぜなら、新しいものの挑戦に出会うには、精神は新しくなければならないからです。神、真理-何であれ-を発見するには、精神は新鮮で、過去により汚染されていてはなりません。過去を分析すること、一連の実験をとおして結論に達する・到り着くこと、主張と否定、その他すべてをすることは、まさのその本質において、違った形での背景の継続、という意味を含んでいます。あなたはその事実の真理がわかるとき、分析者が終わってしまったことを発見するでしょう。そのとき、背景から離れた実体はありません。背景としての思考だけがあるのです-思考は、意識的と無意識的、個人的と集団的両方の記憶の応答です。
 精神は過去の結果です-それ [過去]は条件づけの過程です。精神が自由であることは、どのようにして可能でしょうか。自由であるには、精神は、その振り子のような過去と未来の間の揺れ動きを、見て理解するだけではなくて、また思考の間の間隔にも、気づかなければなりません。その間隔は自発的です。それはどんな原因・因果関係をとおしても、どんな願いをとおしても、どんな強制をとおしても、もたらされません。
 あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ

362鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/14(土) 21:53:59 ID:1d4drIFg0
人は条件付けから拒絶して、別の条件付けを受け容れるだけというのじゃ。
それを分析しても分析する者が起こるから無意味なのじゃ。
思考の止まった間に静寂の時があるというのじゃ。
その時だけ条件付けからの自由がありえるというのじゃ。

363避難民のマジレスさん:2020/11/15(日) 16:36:28 ID:sCeJO2BA0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二十 意識と無意識の精神(意識的 [精神]と無意識的精神)について 4

 あなたはとても気をつけて見守るなら、応答、思考の動きがとてもすばやく見えるけれども、思考の間に間隙・切れ目がある、間隔があることが、わかるでしょう。二つの思考の間に静寂の時があるのです-それは思考過程と関係していません。あなたは観察するなら、その静寂の時、その間隔は、時間のものではないことが、わかるでしょう。そしてその間隔の発見、その間隔の充分な経験が、あなたを条件づけから解放するのです-というよりむしろ、それが「あなた」を解放するのではなく、条件づけからの解放があるのです。それで考える過程を理解することが、瞑想です。私たちは今、思考の構造と過程を議論しているだけではなく-それ [思考]が、記憶の、経験の、知識の背景です- また精神が背景からそれ自体を解放できるかどうかをも、見出そうとしているのです。精神が思考に連続性を与えていないとき、それが、導入されていない [静けさ]、どんな因果関係もなしにある静けさをもって静かであるとき-背景からの自由がありうるのは、そのときだけです。
(´・(ェ)・`)つ

364鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/15(日) 21:47:46 ID:1d4drIFg0
昨日の後半なのじゃ。
思考の隙間に注目なのじゃ。

365避難民のマジレスさん:2020/11/15(日) 21:54:53 ID:EYmr2PAU0
鬼和尚、いつもありがとうであります。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 1

質問
 私たちは逃避できない身体的、心理的必要としての性を知っています。そしてそれは、私たちの世代の私的な生における混沌の、根本原因であるように見えます。どうすれば私たちはこの問題を取り扱えるのでしょうか。

 私たちは、自分たちが触れるものは何でも、問題に変えてしまうのは、なぜでしょうか。私たちは神を問題にしました。愛を問題にしました。関係を、生きることを問題にしました。そして性を問題にしました。なぜでしょうか。なぜ、私たちがするあらゆることが問題、恐怖なのでしょうか。なぜ私たちは苦しんでいるのでしょうか。なぜ性が問題になってしまったのでしょうか。なぜ私たちは、問題とともに生きることに服従する・甘んじるのでしょうか。なぜそれらを終わらせないのでしょうか。なぜ来る日も、来る年も、自分たちの問題を持ち運ぶかわりに、それらに対して死なないのでしょうか。性は確実に今日的な意義のある・当を得た問題です。しかし第一の・主要な問題があります-なぜ私たちは生を問題にするのか、です。働くこと、性、金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること-知っているでしょう、生きることにかかわること全体を-なぜそれは問題なのでしょうか。それは本質的に、私たちがいつも特定の視点から、固定した視点から考えるから、 ではないでしょうか。私たちはいつも中心から周辺に向かって考えています。しかし周辺が、私たちのほとんどにとって中心であるし、そのため私たちが触れるどんなことも表面的です。しかし生は表面的ではありません。それは完全に生きることを要求します。私たちは表面的にだけ生きているから、表面的な反動・反応だけを知っているのです。私たちが周辺でするどんなことも、必然的に問題を造り出すにちがいありません。それが私たちの生です。私たちは表面的なもののなかで生きています。そして表面的なものの問題すべてとともに、そこで生きることに満足しています。私たちが表面的なもののなかで、周辺で生きるかぎり、問題は存在しています-周辺は「私」とその感動・感覚です。それは客観化されることも主観的になることもできます。それは普遍的なものと、国と、精神により作り上げられた何か他のものと同一化されることもできます。
 私たちが精神の領域の中で生きるかぎり、複雑さがあるにちがいありません。問題があるにちがいありません。それが、私たちが知っているすべてです。精神は感覚です。精神は蓄積された感覚と反応の結果です。それが触れるどんなものも、必ず悲惨、混乱、終わりなき問題を造り出します。精神-昼も夜も、意識的、無意識的に機械的に働いている精神-が、私たちの問題のほんとうの原因です。精神はもっとも表面的なものです。私たちは精神を育成することに、それをますます利口に、ますます微妙に、ますますずるがしこく、ますます不正直で曲がったものにすることに、数世代を使ってきましたし、自分たちの生全体を使います-そのすべては、私たちの生のあらゆる活動において明らかです。まさに私たちの精神の本性そのものが、不正直で曲がって、事実に向き合う能力がないことです。それが問題を造り出すものです。それが、問題自体であるものです。
(´・(ェ)・`)つ

366鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/16(月) 21:06:51 ID:1d4drIFg0
性が問題という者に何も問題は無いというのじゃ。
それを問題にするのは宗教的な信念によるものなのじゃ。
観念によって作り出された問題に過ぎないのじゃ。
それを見ることができれば問題は何も無いのじゃ。

367避難民のマジレスさん:2020/11/17(火) 16:45:45 ID:pYh4Du5g0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 2

 私たちのいう性の問題とは、どういう意味でしょうか。それは行為でしょうか、それとも行為についての思考でしょうか。確かに、それは行為ではありません。食べることが、あなたにとって問題でないのと同じように、性的行為は、あなたにとって問題ではありません。しかしあなたは、他に何も考えることがないから、一日中、食べることや何か他のことについて考えるなら、それはあなたにとって問題になるのです。性的行為は問題でしょうか、それともそれは、行為についての思考でしょうか。なぜあなたはそれについて考えるのでしょうか。なぜあなたはそれを-自分が明白にしていることを-築き上げるのでしょうか。映画、雑誌、物語、女性たちの服の着方・着こなし方、あらゆることが、あなたの性についての思考を築き上げます。なぜ精神はそれを築き上げるのでしょうか。なぜ精神は、そもそも性について考えるのでしょうか。なぜでしょうか。なぜそれは、あなたの生において中心的論点になってしまったのでしょうか。こんなに多くのものごとが、あなたの注意を呼び起こし、要求しているとき、あなたは性についての思考に完全な注意を払うのです。何が起きるでしょうか。なぜあなたの精神は、こんなにそれに携わって・専心しているのでしょうか。なぜなら、それが究極の逃避の道・仕方であるからなのではないでしょうか。それは完全な自己忘却の道です。今のところ・さしあたり、少なくともその当座は・その瞬間は、あなたは自分自身を忘れられるのです-自分自身を忘れる他の道はないのです。あなたが生においてする他のあらゆることは、「私」、自己を強調するのです。あなたの事業、宗教、神、指導者たち、政治的、経済的行動、逃避、社会的活動、一つの党派に加わって他のを拒絶すること- そのすべてが、「私」を強調し、強さを与えているのです。すなわち、「私」の強調がない唯一つの行為があるのです。そのためそれが問題になるのではないでしょうか。ほんのわずかな瞬間・たった数秒間でも、究極の逃避への、自分自身の完全な忘却への道である唯一つのものごとが、あなたの生にあるとき、あなたはそれにすがりつくのです。なぜなら、それが唯一の、あなたが幸せである瞬間であるからです。あなたが触れる他のあらゆる論点は、悪夢に、苦しみと苦痛の源になるのです。それであなたは、完全な自己忘却を与えてくれる一つのものごとにすがりつくのです-それを幸せと呼ぶのです。しかしあなたがそれにすがりつくとき、それもまた悪夢になります。なぜなら、そのときあなたは、それから自由でありたい、その奴隷でありたくないからです。それであなたは再び・またもや純潔の、独身・禁欲の観念を、精神から考案するのです。そして抑圧をとおして、禁欲を守ろう・通そう、純潔であろうとします-そのすべてが、事実からそれ自体を切り離そう・断ち切ろうとする、精神の操作です。これもまた、何かになろうとしている「私」に、特定の強調を与えます。それであなたはまたもや、苦労に、困難に、努力に、苦痛に捕らわれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

368鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/17(火) 20:59:32 ID:1d4drIFg0
性についての行為には何も問題は無いというのじゃ。
性についての思考が問題を作り上げるのじゃ。
それは自分を一瞬でも忘れさせてくれるから囚われるのじゃ。
しかし、それはまた新たな苦を作り出すのじゃ。
苦から苦への連鎖になるのじゃ。

369避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 17:19:28 ID:CtskuhVw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 3

 あなたは、問題について考える精神を理解しないかぎり、性はとてつもなく難しく複雑な問題になります。行為自体は決して問題ではありえません。しかし行為についての思考が問題を造り出すのです。あなたは行為を守ります・保護します。あなたはだらしなく・いいかげんに生きたり、結婚に耽る・身を任せたりします。よって自分の妻を娼婦にしているのです-それは見たところ・外見上、すべてとても体裁よく見えます。それであなたはそれくらいにしておくことに満足するのです。確かに、あなたが「私」と「私の」-私の妻、私の子ども、私の財産、私の車、私の達成、私の成功-の過程と構造全体を理解するときだけ、問題は解決できるのです。あなたがそのすべてを理解して解決するまで、性は問題として残っているでしょう。あなたは、政治的、宗教的、どのようにでも野心的であるかぎり、野心-個人としてのあなた自身の名においてでであれ、国の、党派の、宗教と呼ぶ観念の名においてであれ-で養う・飼い育てることにより自己を、思考者を、経験者を強調しているかぎり、この自己拡大の活動があるかぎり、性的問題を持つでしょう。あなたは一方で自分自身を造り出し、飼い育て・養い、拡大しながら、他方で瞬間だけでも・当分の間だけでも、自分自身を忘れよう、自分自身を失おう・我を忘れようとしているのです。どうして二つが共存できるでしょうか。あなたの生は矛盾です-「私」の強調と「私」を忘れることは、です。性は問題ではありません。問題は、あなたの生におけるこの矛盾です。そして矛盾は、精神により橋渡しできません。なぜなら、精神自体が矛盾であるからです。あなたが自分の日常の存在の過程全体を、充分に理解するときだけ、矛盾は理解されうるのです。映画に行ってスクリ-ンの女性たちを見つめること、思考を刺激する本や半裸の写真を載せた雑誌を読むこと、女性たちを見るあなたの仕方、あなたの [視線] を捕らえる・つかむこそこそした視線・まなざし-これらすべてのものごとが、誤った自己の強調の仕方をとおして、精神を助長していると同時に、あなたは親切で、愛情を持って、優しくあろうとしているのです。二つは共存できません。霊的にせよそうでないにせよ、野心的である人は、決して問題なしではありえません。なぜなら、自己が忘れられるとき、「私」が存在していないときだけ、問題は止むからです。そして自己が存在していないその状態は、意志の行為 [・作用]ではありません。それはたんなる反応ではありません。性は反応になります。精神が問題を解決しようとするとき、それは問題をもっと混乱させ、もっとやっっかいに・面倒に、もっと苦痛にするのです。行為が問題ではなく、精神が-それは純潔でなければならないと言う精神が、問題です。純潔は精神のものではありません。精神はそれ自身の活動を抑圧できるだけです。抑圧は純潔ではありません。純潔は美徳ではありません。純潔は育成できません。謙虚さを育成している人は、確かに謙虚な人ではありません。彼は自分のうぬぼれ・高慢さを謙虚さと呼ぶかもしれません。しかし彼は高慢な・傲慢な人です。そういうわけで、彼は謙虚になろうと努めるのです。高慢さは決して謙虚さになれませんし、純潔は精神のものごとではありません-あなたは純潔になれません。愛があるときだけ、あなたは純潔を知るでしょう。愛は精神のものでも、また精神のものごとでもないのです。
(´・(ェ)・`)つ

370鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/18(水) 21:52:20 ID:1d4drIFg0
問題について考える時、それはとてつもなく難しく複雑な問題になるというのじゃ。
そこには欺瞞があるからなのじゃ。
自分のものという観念への囚われと、自分を忘れようとする逃避の矛盾になるのじゃ。
高慢な者が謙虚に成ろうと努力するのと同じなのじゃ。

371避難民のマジレスさん:2020/11/19(木) 17:23:51 ID:CtskuhVw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 4

 ゆえに、世界中でこんなに多くの人々を拷問にかけている性の問題は、精神が理解されるまでは、解決されえません。私たちは考えることを終わらせることはできません。しかし思考者が止むとき、思考は終わるのです。過程全体の理解があるときだけ、思考者は止むのです。思考者と彼の思考の間に分割があるとき、恐れが生じます。思考者がないとき、そのときだけ、思考に葛藤がないのです。言外に含まれていることは、理解しようとする努力を必要としません。思考をとおして、思考者が生じます。そのとき思考者は、自分の思考を形造ろう、制御しよう、それらを終わらせようとけんめいに努力します。思考者は架空の・虚構の実体、精神の幻影です。事実としての思考についての悟りがあるとき、そのとき事実について考える必要はないのです。単純で無選択の気づきがあるなら、そのとき事実に含まれているものが正体を現しはじめます。ゆえに事実としての思考は終わります。そのときあなたは、私たちの心と精神を食い尽くしている問題、私たちの社会構造の問題が、解決できるということが、わかるでしょう。そのとき性はもはや問題ではありません。それはそれの適切な持ち場があります。それは不純な・汚れたことではなく、また純粋な・浄らかなことでもありません。性はその持ち場があります。しかし精神がそれに支配的な・優越した持ち場を与えるとき、そのときそれは問題になるのです。精神は性に支配的な持ち場を与えます。なぜなら、それは何らかの幸せなしには生きられないからです。それで性は問題になるのです。精神がその過程全体を理解し、そして終わるとき、すなわち考えることが止むとき、そのとき創造があります。それは、私たちを幸せにする創造です。その創造の状態にあることは、至福です。なぜなら、それは、自己からとしての反応がない自己忘却であるからです。これは、日常の性の問題への抽象的な答えではありません。それが唯一の答えです。精神は愛を否定します。愛なしに、純潔はありません。あなたが性を問題にするのは、愛がないからです。
(´・(ェ)・`)つ

372鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/19(木) 22:55:14 ID:1d4drIFg0
性の問題は思考によるものであるから精神が理解されるまで解決されないというのじゃ。
思考する者が無い時に思考は止まるというのじゃ。
思考の過程全てに理解がある時だけ思考する者は止まるというのじゃ。
そして問題は無いと理解されるのじゃ。
その時だけ愛が理解されるのじゃ。

373避難民のマジレスさん:2020/11/20(金) 18:46:18 ID:eUuVdyI60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 1

質問
 あなたのいわれる愛とはどういう意味でしょうか。

 私たちは何が愛でないのか・愛でないものを理解することによって発見しようとしています。なぜなら、愛は知らない・知られていないものであるので、知っているものを切り捨てることによってそれに至らなければならないからです。知らないものは、知っているもので充ちている精神によって発見されえません。私たちがやろうとしていることは、知っているものの価値を見出し、知っているものを見つめることです。それが純粋に非難なく見つめられるとき、精神は知っているものから自由になるのです。そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それで私たちは肯定的にではなく、否定的に愛に接近しなければなりません。
 私たちのほとんどにとって、愛とは何でしょうか。私たちは誰かを愛していると言うとき、どういう意味なのでしょうか。私たちはその人物を所有しているという意味です。その所有から嫉妬が生じます。なぜなら、私が彼や彼女を失うなら、何が起きるでしょうか。私は空っぽで・空しい、失った気持ちになります。ゆえに私は所有を合法化します。私は彼や彼女を(確保)します。その人物を確保すること、所有することから、嫉妬があります。恐れと、所有から生じる無数の葛藤すべてがあります。確かにそういう所有は愛ではないのではないでしょうか。
 明白に、愛は感情・情緒ではありません。感情的であること、情動的であることは、愛ではありません。なぜなら、情にもろいこと・感傷性と情動は、たんなる感覚・感動であるからです。イエスやクリシュナについて、自分のや他の誰かについて泣く・涙を流す宗教的な人物は、たんに感情的、情動的であるだけです。彼は感動に耽っているのです-それは思考の過程です。思考は愛ではありません。思考は感覚の結果です。ですから感情的である [人] 、情動的である人は、とうてい愛を知ることができません。あらためて私たちは情動的、感情的ではないでしょうか。情にもろいこと、感情的であることは、たんに一つの形の自己拡大です。情動で充ちていることは、明白に愛ではありません。なぜなら、感情的な人物は、自分の感情が応答されないとき、自分の気持ちがはけ口を持たないとき、残酷でありうるからです。情動的な人物は、憎しみへ、戦争へ、虐殺・殺戮へと掻き立てられうるのです。感情的で、自分の宗教のために涙で充ちている人は、確かに愛がありません。
 許しは愛でしょうか。許しに含まれている意味は何でしょうか。あなたは私を侮辱します。私はそれを恨みます、それを覚えています。そのとき、強制をとおし、または悔い・後悔をとおして、私は「私はあなたを許す」と言います。初め、私は保留・保有します。それから拒絶します。それはどういう意味でしょうか。私がやはり中心人物です。私がやはり重要です。誰かを許しているのは私です。許しの態度があるかぎり、重要なのは私であって、私を侮辱したと思われている人ではないのです。ですから私が恨みを蓄積し、それからその恨みを否定するとき-それが許しと呼ばれます-それは愛ではありません。愛している人は明白に憎しみを持っていませんし、これらすべてのことに対して無関心です。同情、許し、所有欲の関係、嫉妬、恐れ-これらすべてのことは愛ではありません。それらはすべて精神のものなのではないでしょうか。精神が判定・調停者であるかぎり、愛はありません。というのは、精神は所有欲をとおしてだけ調停するからです。そしてその調停は、たんに違った形での所有欲です。精神は愛を腐敗させられるだけです。それは愛を生み出せません。それは美・美しさを与えられません。あなたは愛について詩が書けますが、それは愛ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

374鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/20(金) 22:55:45 ID:1d4drIFg0
世間で言う愛とは所有であるというのじゃ。
確保して所有するから、他人がそうすると嫉妬があるのじゃ。
それは本当は愛とはいえないものじゃ。
感情とか情緒とか宗教にも愛は無いのじゃ。
思考とか精神、マインドには愛は無いと言うのじゃ。

375避難民のマジレスさん:2020/11/22(日) 08:42:41 ID:gsjWwTOg0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 2

 本当の尊敬がないとき、もう一人を尊敬しないとき-彼があなたの召使いであろうと友人であろうと、愛はありません。あなたは召使いに対して、いわゆる「目下の」人たちに対して、尊敬して親切で寛大でないということに、気づいたことがないでしょうか。あなたは目上の人たち、自分の上司、百万長者・大金持ち、大きな家と肩書きを持つ人、あなたによい地位、よい仕事・職を与えることができ、彼から何かを得られる人に対して尊敬を払います。しかしあなたは自分より下の人たちを蹴り飛ばします・足蹴にします。彼らに対して特別な言葉を持っています。ゆえに尊敬がないところ、愛はありません。慈悲のない、愍れみ・憐れみのない、許しのないところ、愛はありません。そして私たちのほとんどはこの状態にあるので、私たちには愛がありません。私たちは尊敬もなく、慈悲深くもなく、寛大でもありません。私たちは所有欲が強く、感情と情動で充ちています-それは殺すこと、虐殺すること、または何か愚かな無知な意図について統一すること、いずれかの道に向けられるのです。ではどうして愛がありうるでしょうか。
 これらすべてのことが止んでしまい終わりに至ったときだけ、あなたは所有しないとき、対象への献身をもってたんに情動的ではないときだけ、愛を知ることができるのです。そういう献身は、嘆願・哀願、違った形で何かを求めることです。祈る人は愛を知りません。あなたは所有欲が強いから、献身をとおし、祈りをとおして目的、結果を求めるから-それ [献身、祈り] はあなたを感情的、情動的にします-当然、愛はありません。尊敬がないとき、明白に愛はありません。あなたは、自分は尊敬すると言うかもしれませんが、あなたの尊敬は、目上の人に対してです。それはたんに何かを欲しがることから来る尊敬、恐れの尊敬です。あなたはもしも本当に尊敬を感じたなら、いわゆる最高の人とともに最低の人に対しても尊敬するでしょう。あなたはそれを持っていないから、愛はありません。何とほとんどの人たちは、寛大でも、許しも、慈悲深くもないことでしょう!あなたは(引き合う)とき、寛大です。見返りに何かが見えるとき、慈悲深いのです。これらのものごとが消え去るとき、これらのものごとが、あなたの精神を占有しないとき、精神のものごとがあなたの心を充たさないとき、そのとき愛があります。そして愛のみが、世界の現在の愚行・愚かさと狂気を変容させられるのです-左翼のであれ右翼のであれ体系・体制ではなく、理論ではないのです。あなたは所有しないとき、妬んで貪欲でないとき、尊敬しているとき、哀れみと慈悲を持っているとき、自分の妻、子供たち、隣人たち、不幸な召使いに対して配慮を持っているときだけ、本当に愛しています。
 愛は [それについて] 考えることができません。愛は育成できません。愛は実践できません。愛の実践、同胞愛の実践は、やはり精神の領域内にあります。ゆえにそれは愛ではありません。このすべてが止んでしまったとき、そのとき愛は生じるのです。そのときあなたは愛することが何であるかを知るでしょう。そのとき愛は量 [的] ではなく質 [的] です。「私は世界全体を愛している」と、あなたは言いません。しかしあなたは一つ・一人をどう愛するかを知るとき、全体をどう愛するかを知ります。私たちは一つをどう愛するかを知らないから、私たちの人類・人間への愛は架空・虚構なのです。あなたは愛しているとき、一(人)も多(数)もありません。ただ愛だけがあります。私たちの問題すべてが解決されうるのは、愛があるときだけです。そのとき私たちはその恵み・至福とその幸せを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/22(日) 23:54:43 ID:1d4drIFg0
所有する者には尊敬が無いというのじゃ。
それは自分のもちものであるからのう。
所有が無く欲も無い時尊敬はあると言うのじゃ。
それが愛なのじゃ。
全ての問題を解決できるのは愛がある時だけというのじゃ。

377避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 09:49:27 ID:OWAnVtK.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 1

質問
 死は生とどんな関係があるのですか。

生と死の間に分割があるのでしょうか。なぜ私たちは死を、何か生から離れたものとして見なすのでしょうか。なぜ私たちは死を恐れるのでしょうか。そしてなぜ死について書かれたとても多くの本があるのでしょうか。なぜ生と死の間に、この境界線があるのでしょうか。そしてその分離は本当でしょうか。それともたんに気ままな・恣意的な精神の事柄なのでしょうか。
 私たちが生について話すとき、私たちのいうのは、そこに同一化のある継続の過程としての生活、という意味です。私と私の家、私と私の妻、私と私の銀行預金、私と私の過去の経験-それが私たちが生によって意味することなのではないでしょうか。生きることは、無意識的とともに意識的な記憶における継続の過程です-それ [記憶]には、 様々な格闘、諍い、出来事、経験などを伴っています。そのすべてが生と呼ばれるものです。その対極に・それと対比して死があります。それは、そのすべてを終わりにすることです。対極すなわち死を造り出しておいて、それを怖れるとき(ので)、私たちは進んで生と死の間の関係を探そう(探ろう)とします。私たちは何かの説明でもって、継続への、来世への信念でもって、その割れ目・隔たりに橋を架けられるなら、満足するのです。私たちは輪廻転生や何か他の形の思考の継続を信じています。そのとき知っているものと知らないものの間に関係を確立しようとします。私たちは知っているものと知らないものを橋渡ししよう(に橋を架けようと)とします。よって過去と未来の間に関係を見つけようとします。私たちは生と死の間に何か関係があるのかどうかを探究するとき、それが、私たちがしていることなのではないでしょうか。私たちは生きることと終わることに、どう橋を架けるのかを知りたいのです-それが私たちの根本的願望です。
 そこで、終わり、すなわち死は、生きている間に知りえないのでしょうか。私たちは生きている間に、死が何であるかを知ることができるなら、そのとき問題を持たないでしょう。私たちがそれを怖れているのは、生きている間に、知らないものを経験できないからです。私たちの格闘は、私たち自身-それは知っているものの結果です-と、死と呼ばれる知らないものとの間に、関係を確立することです。過去と、精神が考え出す(思いつく)ことのできない何か、すなわち死と呼ばれるものの間に、関係がありうるでしょうか。なぜ私たちは二つを分離するのでしょうか。それは、私たちの精神が、知っているものの領域の中で、連続的なものの領域の中でだけ機能できるから、ではないでしょうか。人は、悲惨の、楽しみの、愛、愛情の、様々な種類の経験の一定の記憶を持った思考者として、行為者(actor 作者)として自分自身を知っているだけです。人は自分自身を連続しているものとして・自分自身が連続していることを知っているだけです-そうでないと自分自身が何ものかであるという回想(追憶)を持たないでしょう。そこで、その何かが終わりになるとき-それが死と呼ばれます-知らないものへの恐れがあるのです。それで私たちは知らないものを、知っているものの中に引き込みたいのです。私たちの努力全体は、知らないものに連続性を与えることです。すなわち私たちは生-すなわち死を含んでいるもの-を知りたくないのです。いかに継続して終わりにならないか・終わらないかを知りたいのです。私たちは生と死を知りたくないのです。いかにして終わることなく継続するのかを知りたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

378鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/23(月) 21:55:57 ID:1d4drIFg0
死と生は離れたものではないというのじゃ。
それは同じものの変化なのじゃ。
肉体がある時に生きるということがあり、それが止まることを死と呼ぶだけなのじゃ。
死は生の終わりであり、生は死の必要条件なのじゃ。
生がなければ死も無いからなのじゃ。
その二つを引き離すことは出来ないのじゃ。

379避難民のマジレスさん:2020/11/24(火) 18:06:36 ID:fFvb601s0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二三 死について 2

 継続するものは新生がありません。継続(連続)性のあるものには、何も新しいものがありえません。何も創造的なものがありえません-それはかなり明白です。常に(そもそも)新しいものの可能性がありうるのは、連続性が終わるときだけです。しかし私たちが怖れるのは、この終わることです。日毎に私たちの経験、記憶、不幸を持ち越すことにではなく、終わることにおいてだけ、新生が、創造的なものが、知らないものがありうるということが、私たちはわからないのです。新しいものがありうるのは、古いものすべてに対して、毎日死ぬときだけです。連続性があるところ、新しいものはありません-新しいものとは創造的なもの、知らないもの、永遠のもの、神、何でもです。知らないもの、真実のもの、永遠のものを求める人物、連続的な実体は、決してそれを見つけないでしょう。なぜなら、彼は自分自身の中から投影するものだけを見つけられるし、彼が投影するものは真実のものではないからです。終わること、死ぬことにおいてだけ、新しいものが知られうるのです。生と死の間に関係を見つけよう、(連続するものと彼方にあると思われるものに橋を架けよう)と努める人は、架空の・虚構の真実でない世界、すなわち彼自身の投影に生きているのです。 では、生きている間に死ぬことは可能でしょうか-それは終わる、無としてある、という意味です。あらゆるものがますますなろう、またはますますなるまいとしているこの世界、あらゆるものが登り、達成し、成功する過程であるこの世界で生きている間に、そういう世界で死を知ることは可能でしょうか。すべての記憶を終わらせることは可能でしょうか-事実について [の記憶] 、自分の家に帰る道についての記憶などではなく、記憶をとおしての心理的安全への内面的執着、蓄積し、貯えてきて、そこに安全、幸せを求める記憶です。そのすべてを終わりにすることは可能でしょうか-それは、明日の新生があるように、毎日死ぬという意味です。生きている間に死を知るのは、そのときだけです。その死ぬことにおいて、その終わること、連続性を終わりにすることにおいてだけ、新生が、永遠であるその創造があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

380鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/24(火) 23:17:06 ID:1d4drIFg0
連続するものは新しいものはないというのじゃ。
それは記憶に依存しているからなのじゃ。
記憶に依存していればなにものかが連続しており、過去と未来が在ると思うのじゃ。
その連続性が無い時にのみ新しいものがあると言うのじゃ。
連続性の終わりが死であるというのじゃ。
死は終わりではなく新しいものの始まりなのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2020/11/25(水) 17:11:53 ID:RnRU.n1I0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 1

質問
 過去はただちに解消できるのでしょうか。それとも、それは必ず時間を必要とするのでしょうか。

 私たちは過去の結果です。私たちの思考は昨日と何千もの昨日に基づいています。私たちは時間の結果です。私たちの応答、現在の態度は、何千もの瞬間、出来事、経験の累積的結果(影響)です。ですから過去は、私たちの大多数にとって現在です。それは否定できない事実です。あなた、あなたの思考、あなたの行動、あなたの応答は、過去の結果です。そこで質問者は、過去が即時に一掃できるのかどうかを知りたいのです。それは、時間においてという意味ではなく、即時に一掃するという意味です。それとも、この累積的過去は、精神が現在において自由になるために時間を要求するのでしょうか。疑問を理解することが重要です。それはこうです-私たち各自は、常に変わり、常に変化する無数の影響の背景を伴った過去の結果であるので、その背景を、時間の過程を経ずに一掃することは可能でしょうか。
 過去とは何でしょうか。私たちのいう過去とはどういう意味でしょうか。たしかに、私たちのいうのは、年代的な過去という意味ではありません。 確かに私たちがいうのは、蓄積された経験、蓄積された応答、記憶、伝統、知識 [という意味] 、無数の思考、感情、影響、応答の潜在意識的(意識下の)倉庫、という意味です。その背景をもって真実を理解することは不可能です。なぜなら、真実は時間のないものであるにちがいないからです。それは無時間です。ですから、時間から出てきたものである精神をもって、時間のないものは理解できません。質問者は、精神を自由にすること、または精神、すなわち時間の結果であるものは、即時に存在しなくなることは可能であるのかどうかを知りたいのです。それとも、長い一連の試験を経て、分析して、それで精神をその背景から自由にしなければならないのでしょうか。
 精神は背景です。精神は時間の結果です。精神は過去です。精神は未来ではありません。それはそれ自体を未来の中に投影できます。精神は現在を未来への通路として使います。ですから、それが何をやっても、その活動、その未来の活動、その現在の活動、その過去の活動が何であろうと、それはやはり時間の網の中です。精神が完全に止むこと、思考過程が終わりになることは可能でしょうか。さて精神には明白に多くの層があります。意識と呼ばれるものは、多くの層を持っています。各層は他の層と相互に関係しています。各層は他に依存し、相互に作用しています。私たちの意識全体は、経験しているだけでなく、また名づけ、用語付け、記憶として貯えてもいます。それが意識の過程全体なのではないでしょうか。
 私たちが意識について話すとき、私たちのいうのは、経験すること、その経験を名づけたり用語づけること、それによりその経験を記憶にたくわえておくこと、という意味ではないでしょうか。違った水準で、このすべてが意識です。精神、すなわち時間の結果であるものは、背景から自由であるために、一歩ずつ分析の過程を経ることができるでしょうか。それとも時間から全く自由になって、真実を直接に見ることは可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/25(水) 21:51:41 ID:1d4drIFg0
過去とは精神であるというのじゃ。
それは記憶に拠って作られたものじゃ。
それを理解できれば瞬時に消えるのじゃ。
ただの観念妄想であったと気付くからなのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2020/11/26(木) 19:46:58 ID:T9jfcAc60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 2

 背景から自由であるには、あらゆる応答、あらゆるコンプレックス、あらゆる障害、あらゆる閉塞物(障害・妨害)を検討しなければならないと、分析者の多くは言います-それは明白に時間の過程という意味を含んでいます。これは、分析者は自分が分析しているものを理解しなければならない、自分が分析するものを誤って解釈(誤解)してはならない、という意味です。彼は自分が分析するものを誤って解釈するなら、それは彼を間違った結論に導き、ゆえにもう一つの背景を確立するでしょう。分析者は自分の思考と感情を、極わずかの逸脱もなく分析する能力がなければなりません。そして彼は自分の分析において一歩も失敗して(はずして・見失って)はなりません。なぜなら、間違った歩みをすること、間違った結論を引き出すことは、違った線に沿って、違った水準で、背景を再確立することであるからです。この問題もまた生じます-分析者は自分が分析するものとは違っているのだろうか。分析者と分析されるものとは接合した(共通の・共有の)現象ではないでしょうか。
 確かに、経験者と経験とは接合した現象です。それらは二つの分離した過程ではありません。それでまず最初に、分析することの難しさを見ましょう。私たちの意識の内容全体を分析して、よってその過程をとおして自由になることは、ほとんど不可能です。結局、分析者とは誰でしょうか。分析者は、自分が分析しているものと自分は違っていると思うかもしれませんが、違っていません。彼は自分が分析するものから自分自身を分離するかもしれませんが、分析者は自分が分析するものの一部です。私は或る思考を持っています。或る感情を持っています-例えば、私は怒っているとします。怒りを分析する人物は、やはり怒りの一部です。ゆえに分析されるものと共に分析者は、接合した現象です。それらは二つの分離した力や過程ではありません。ですから私たち自身を分析すること、展開すること、次から次へとぺ-ジをめくって私たち自身を見つめること、あらゆる反応、あらゆる応答を見張ることの難しさは、計算できないほど難しくて長いのです。ゆえにそれは、私たちを背景から自由にする道ではないのではないでしょうか。もっと単純でもっと直接の道があるにちがいないし、それが、あなたと私が見出そうとしていることです。見出すためには、偽りであるものを切り捨て [なければなりません] 、それにすがりついてはなりません。ですから分析は道ではありません。私たちは分析の過程から自由でなければなりません。
 そのときあなたは何を去ったのでしょうか。あなたは分析することに慣れているだけではないでしょうか。観察している観察者-観察者と観察されるものは接合した現象です-自分が観察するものを分析しようとしている観察者は、自分の背景から自由にならないでしょう。そうであるなら-そうなのですが-あなたはその過程を捨て去るのではないでしょうか。あなたは、それが偽りの道であることがわかるなら、それが偽りの過程であることを、たんに言葉の上だけでなく現実に悟るなら、そのときあなたの分析に何が起きるでしょうか。あなたは分析するのを止めるのではないでしょうか。そのときあなたは何を去ったのでしょうか。それを見守ってください。それに付いてきてください。すると、どんなに急速にすばやく、背景から自由になれるかがわかるでしょう。それが道でないなら、他に何を去ったのでしょうか。分析すること、探り、覗き込むこと、解剖すること、結論を引き出すことなどに慣れている精神の状態は、どんなものでしょうか。その過程が止んでしまったなら、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

384鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/26(木) 21:52:30 ID:1d4drIFg0
記憶から自由であるためには全ての観念を見る必要は無いのじゃ。
自分自身が見る者であり、見られるものであることに気付けば善いのじゃ。
それが自分を見る事になるのじゃ。
観察する者と観察されるものがあるという観念があれば記憶から離れることは無いのじゃ。

385避難民のマジレスさん:2020/11/27(金) 19:58:45 ID:n2jj.iZI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 3

 精神は空白であると、あなたは言います。その空白の精神の中にさらに進んでください。言い換えれば、あなたは、偽りであるとして知られているものを切り捨てるとき、あなたの精神に何が起きたのでしょうか。結局、あなたは何を切り捨てたのでしょうか。あなたは背景から出てきたものである偽りの過程を切り捨てたのです。そうではないでしょうか。一発(一撃)で、いわばあなたは全体を切り捨てたのです。ゆえに、あなたが分析過程と共にそのすべての含意(意味合い)を切り捨てて、それが偽りとわかるとき、あなたの精神は昨日から自由であるし、ゆえに時間の過程を経ずに直接に見る [能力がある] し、よって即時に背景を切り捨てる能力があるのです。
 疑問全体を違ったふうにすると、思考は時間の結果なのではないでしょうか。思考は環境の、社会的、宗教的影響の結果です-それはすべて時間の一部です。そこで思考は時間から自由でありうるでしょうか。すなわち時間の結果である思考は止まって、時間の過程から自由でありうるでしょうか。思考は制御され形作られえます。しかし思考の制御はやはり時間の領域の中にあるのです。そこで私たちの困難は-時間の、何千もの昨日の結果である精神は、どのようにしてこの複雑な背景から瞬時に自由でありうるのか-です。あなたは明日にではなく現在、今、それから自由でありえます。それは、あなたが偽りであるものを悟るときだけ、できるのです。偽りのものは明白に分析的過程です。それが私たちの持っている唯一のものです。強制をとおしてではなく、その過程の避けられない偽りを理解することをとおして、分析的過程が完全に止まるとき、そのときあなたは、自分の精神が完全に過去から分離されていることがわかるでしょう-それはあなたが過去を認識しないということではなく、あなたの精神が過去と直接の交流を持たないという意味です。それで、それは即時に、今、過去から自由になれるのです。この過去からの分離、昨日からのこの完全な自由は-年代的にではなく心理的に-可能です。それが真実を理解する唯一の道です。
 それをとても単純にすると、あなたが何かを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたが自分の子供を理解したいとき、誰かを、誰かが言っていることを理解したいとき、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。あなたは他の人が言っていることを分析し、批判し、判定していません。あなたは聴いているのではないでしょうか。あなたの精神は、思考過程は活動していないがとても鋭敏である状態にあります。その鋭敏さは、時間のものではないのではないでしょうか。あなたはたんに鋭敏で受動的に受け入れる(受容力がある)けれども、充分に気づいているだけです。そして理解があるのは、この状態においてだけです。精神が動揺し、問い、悩み、解剖し、分析しているとき、理解はありません。理解しようとする意図があるとき、精神は明白に平静です。もちろんこれは、あなたが実験してみなくてはなりません。私の言うことを真に受ける(信じる)のではありません。あなたは分析すればするほど、ますます理解しないということがわかるはずです。あなたは一定の出来事、一定の経験を理解するかもしれませんが、意識の内容全体は、分析的過程をとおして空っぽにすることはできません。それは、あなたが分析をとおした接近の偽りがわかるときだけ、空っぽにできるのです。あなたは偽りを偽りとわかるとき、そのとき何が真実であるかがわかりはじめます。そしてあなたを背景から解放することになるのは、真理です。
(´・(ェ)・`)つ

386鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/27(金) 23:32:46 ID:1d4drIFg0
思考は時間に拠っているから時間からは自由でありえないというのじゃ。
記憶に縛られているのじゃ。
思考に拠らない理解は時間によるものではないのじゃ。
時間を掛けず瞬時に理解できるのじゃ。
それが気づきなのじや。

387避難民のマジレスさん:2020/11/28(土) 11:18:52 ID:fukTh4tE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 1

質問
真理が来るために、あなたは観念をもたない行動を、主張されます。観念をもたずに、すなわち目的を視野にもたずに、いつのときも行動することは、可能でしょうか。

私たちの現在の行動は何でしょうか。私たちのいう行動とは、どういう意味でしょうか。私たちの行動-私たちがしたい、ありたいと思うこと-は、観念に基づいているのではないでしょうか。それが、私たちの知っているすべてです。私たちは観念、理想、約束・誓約、あるがままの自分たちとそうでないものについての様々な定式を持っています。私たちの行動の基礎は、未来の報賞か、罰への恐れです。私たちはそれを知っているのではないでしょうか。そういう行動は孤立させ、自己を閉鎖しています(孤立的、自己閉鎖的です)。あなたは美徳についての観念を持っていて、その観念に応じて、関係において生き、行動します。あなたにとって関係は-集団的でも個人的でも-理想に向かい、美徳に向かい、達成などに向かっている行動です。
 「私は勇敢でなければならない」、「私は模範に付いていかなければならない」、「私は慈悲深く・情け深くなければならない」、「私は社会的に意識しなければならない」、などといったように-私の行動が理想、すなわち観念に基づいているとき、その観念が私の行動を形造り、私の行動を導きます。私たちは皆「私が付いていかなければならない美徳の模範がある」と言います-それは、「私はそれに応じて生きなければならない」という意味です。それで行動はその観念に基づいています。行動と観念の間に大きな隔たり・深淵があります。分割があります。時間の過程があります。そうなのではないでしょうか。言い換えれば、私は慈悲深くないのです。愛していないのです。自分の心の中に許しがないのです。しかし慈悲深くなければならないと、感じるのです。それであるがままの私とあるべき私との間に隔たりがあるのです。私たちはいつのときも、その隔たりに橋を架けようとしています。それが私たちの活動なのではないでしょうか。
 では、もしも観念が存在しなかったなら、何が起きるでしょうか。一挙に、あなたは隔たりを取り去ってしまったのではないでしょうか。あなたはあるがままのあなたであるでしょう。「私は醜い。美しくならなければならない。どうすべきでしょうか」と、あなたは言います-それは観念に基づいた行動です。「私は慈悲深くない。慈悲深くならなければならない」と、あなたは言います。それであなたは、行動から分離した観念を導入します。ゆえにあるがままのあなたの真の行動 [・作用]は決してなくて、いつもあるであろうあなたの理想に基づいた行動があるのです。 愚かな人はいつも、自分は利口になろうとしていると、言います。彼は座って、なろうと働き、格闘して・もがいています。彼は決して止めません。「私は愚かだ」とは決して言いません。それで彼の行動、すなわち観念に基づいているものは、全く行動ではないのです。
(´・(ェ)・`)つ

388鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/28(土) 22:34:20 ID:1d4drIFg0
観念がある時には行動は無いというのじゃ。
なぜならば観念による行動は欲とか規範による反応であるからというのじゃ。
観念を持つ者は行動しているのではなく、ただ反応しているのみなのじゃ。
観念が無いと時こそ真の理想に基づいた行動があると言うのじゃ。

389避難民のマジレスさん:2020/11/29(日) 17:00:18 ID:e5flW1XM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二五 観念をもたない行動について 2

 行動とは、すること、動くことという意味です。しかしあなたが観念を持つとき、それはたんに行動との関係において、観念作用が続いている、思考過程が続いているだけです。観念がなければ、何が起きるでしょうか。あなたは、あるがままのあなたです。あなたは慈悲深くありません・無慈悲です。あなたは許していません。あなたは残酷で愚かで無思慮です。あなたはそれと共にとどまれるでしょうか。あなたはそうするなら、そのとき何が起きるか、わかります。私は自分が慈悲深くなく愚かであるのを認識するとき、それがそうであることに気づくとき、何が起きるでしょうか。慈善の心がないでしょうか。智恵がないでしょうか。私が慈悲深くないことを、言葉ではなく、作為的にではなく、完全に認識するとき、自分が慈悲深くなくて愛がないのを認識するとき、まさにそのあるがままを見ることこそに、愛がないでしょうか。私は即時に慈悲深くならないでしょうか。私が清潔であることの必要性がわかるなら、それはとても単純です。私は洗いにゆきます。しかしそれが、私が洗うべきであるという観念であるなら(私は洗うべきであるということが観念であるなら)、そのとき何が起きるでしょうか。そのとき清潔さは延期されるか、または表面的です。
 観念に基づいた行動は、とても表面的です。全く真の行動ではありません。ただ観念作用だけです-それはたんに思考過程が続いているだけです。
 人間としての私たちを変容させ、革新、償い、変容をもたらす行動-何と呼ぼうと-そういう行動は観念に基づいていません。それは、賞罰の連続とはかかわりのない行動です。そういう行動は時間がありません。なぜなら、時間の過程、計算する過程、分割し、孤立化させる過程である精神が、その中に入ってこないないからです。
 この質問はあまりたやすく解決されません。あなたたちのほとんどは、質問をして、「はい」とか「いいえ」とかいう答えを期待します。「あなたのいうのはどういう意味でしょうか」というような質問をして、それから深く坐って、私に説明させることはたやすいです。しかし自分自身で答えを見出すことのほうが、はるかにもっと困難です-問題がなくなるほどに、それほど奥深く、それほど明晰に、なんの腐敗もなく問題の中に入ることのほうが、です。精神が問題に向き合ってほんとうに静寂であるとき、それは起こりうるだけです。問題は、あなたがそれを愛するなら、夕暮れと同じほど美しいのです。あなたは問題と敵対しているなら、決して理解しないでしょう。私たちのほとんどは敵対しています。なぜなら私たちは、結果に、進めば起きるかもしれないことに、怯えているからです。それで問題の意義と範囲・視野を失うのです。
(´・(ェ)・`)つ

390鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/29(日) 23:33:39 ID:1d4drIFg0
観念がある行動は行動ではないばかりか、観念そのものとまで言うのじゃ。
行動は無く観念が続いているだけなのじゃ。
汚い自分を洗おうとする観念による行動は汚い自分を続けるだけというのじゃ。
観念に基づかない行動だけが変容を引き起こすというのじゃ。

391避難民のマジレスさん:2020/11/30(月) 19:12:14 ID:GB63TOaY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 1

質問
私はあなたの言うことを聴くとき、すべてが明確で新しく見えます。家では、古いもの、鈍い落ち着きのなさが、自己を主張します。私の場合、何が間違っているのでしょうか。

 私たちの生において、現実に起きているのは何でしょうか。常なる挑戦と応答があります。それが存在であり、それが生なのではないでしょうか-常なる挑戦と応答です。挑戦はいつも新しくて、応答はいつも古いのです。私は昨日あなたに会いました。そしてあなたは今日私のところへ来ます。あなたは違っています。あなたは修正されています。あなたは変わりました。あなたは新しいのです。しかし私は、あなたが昨日あったのと同じあなたの映像を持っています。ゆえに私は新しいものを古いものの中に吸収します。私は新たにあなたに出会わないのです。昨日のあなたの映像を持っています。それで挑戦への私の応答は、いつも条件づけられるのです。あなたはここでは当分は、バラモン、キリスト教徒、高いカ-スト、-何であろうと-であるのを止めます-あなたはあらゆるものごとを忘れます。あなたはただ聴いて、熱中して、見出そうとしています。あなたは自分の日常の生を再開するとき、自分の古い自己になります-自分の仕事、自分のカ-スト、自分の体制、自分の家族に戻っています。言い換えれば、新しいものは古いものにより、古い習慣、慣習、観念、伝統、記憶の中に、いつも吸収されているのです。決して新しいものはないのです。というのは、あなたはいつも古いものでもって新しいものに出会っているからです。挑戦は新しいのですが、あなたは古いものでもって、それに出会うのです。この質問における問題は、いつのときも新しくあるように、どのようにして思考を古いものから自由にするか、です。あなたは花を見るとき、顔を見るとき、空、木、微笑を見るとき、どのようにして新たにそれと出会うのでしょうか。私たちがそれと新たに出会わないのは、なぜでしょうか。古いものが新しいものを吸収して、それを修正するのは、なぜでしょうか。あなたが家に帰るとき、なぜ新しいものは止むのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

392鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/11/30(月) 21:40:31 ID:1d4drIFg0
記憶に依存していれば常に全ては古いものになるのじゃ。
過去の記憶から今見ているものごとが解釈されるからのう。
今は直ぐに古くなってしまうのじゃ。
記憶に依存しなければ全ては常に新しいのじゃ。

393避難民のマジレスさん:2020/12/01(火) 17:44:57 ID:v1y86gyc0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 2

 古い応答は思考者から生じます。思考者はいつも古いものではないでしょうか。あなたの思考は過去に基づいているから、あなたが新しいものに出会うとき、それに出会っているのは思考者です。昨日の経験がそれに出会っているのです。思考者はいつも古いものです。それで私たちは違った仕方で同じ問題に戻って来るのです。どのようにして精神を、思考者としてのそれ自体から自由にするのか。どのようにして記憶を-事実に基づく・関する記憶ではなく、心理的な記憶、すなわち経験の蓄積を-根絶するのか。経験の残り滓からの自由なしには、新しいものの受容はありえません。思考を自由にすること、思考過程から自由であって、それで新しいものに出会うことは、困難なのではないでしょうか。なぜなら、私たちのすべての信念、すべての伝統、教育におけるすべての方法は、模倣、真似ること、記憶すること、記憶の貯え・貯蔵所を築き上げることであるからです。その記憶が常に新しいものに応答しています。その記憶の応答が、考えることと呼ばれます。その考えることが新しいものに出会うのです。それでどうして新しいものがありうるでしょうか。記憶の残り滓がないときだけ、新しさがありえるのです。経験が終わり、終了し・終結し、終わっていないとき、残り滓があるのです。すなわち経験についての理解が不完全であるときです。経験が完全であるとき、残り滓はありません-それが生の美しさです。愛は残り滓ではありません。愛は経験ではありません。それは存在の状態です。愛は永遠に新しいのです。ゆえに私たちの問題は-家においてさえも、常に新しいものに出会えるでしょうか。確かにできます。そうするには、思考に、感情に、革命をもたらさなければなりません。あらゆる出来事が、瞬間瞬間考え抜かれるとき、あらゆる応答が-たんにいいかげんに・何気なく見られ、投げ捨てられるのではなく-充分に理解されるときだけ、あなたは自由でありうるのです。あらゆる思考、あらゆる感情が完全にされ・完了され、最後まで考え抜かれるときだけ、蓄積する思考からの自由があるのです。言い換えれば、各思考と感情が考え抜かれ、終了・終結されるとき、終わりがあるのです。その終わりと次の思考の間に空間があるのです。その静寂の空間に、新生があり、新しい創造性が起きるのです。
(´・(ェ)・`)つ

394鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/01(火) 21:32:42 ID:1d4drIFg0
認識が記憶に依存していれば、新しいものも古い記憶から解釈されてしまうのじゃ。
記憶によって認識したことから思考が生まれるから、思考は常に古いのじゃ。
記憶に無い新しいものごとは思考されないのじゃ。
それを理解できた時に静寂があり、新しいものを認識できるのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2020/12/02(水) 18:20:24 ID:AaNyLhQ20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二六 古いものと新しいものについて 3

 これは理論的ではありません。これは非実践的ではありません。あなたは、あらゆる思考と感情を考え抜こうとするなら、それはあなたの生において、とてつもなく実践的であることを、発見するでしょう。というのは、そのときあなたは新しいし、新しいものは永遠に永続するからです。新しいことは創造的ですし、創造的であることは幸せであることです。幸せな人は、自分が富裕であるか貧しいかに関心がありません。彼は社会のどんな水準、どんなカ-スト、どんな国に、自分が属しているかを気にしません。彼は指導者も、神も、寺院も、教会も [持ちません]、 ゆえに諍いも、敵も持ちません。
 確かにそれが、この現在の混沌の世界において、私たちの問題を解決するもっとも実践的な道ではないでしょうか。私たちが自分たちの意識の違った水準すべてにおいてこんなに反社会的であるのは、私たちが-私がその言葉を使っている意味において-創造的でないからです。私たちの社会的関係において、あらゆるものごととの関係において、とても実践的で効果的であるには、幸せでなければなりません。終わりがなければ、幸せはありえません。常なるなりゆきの過程があるなら、幸せはありえません。終わることのなかに、新生、再生・復活、新しさ、新鮮さ、喜びがあるのです。
 背景があるかぎり、精神、思考者が、自分の思考により条件づけられるかぎり、新しいものは古いものに吸収されるし、古いものは新しいものを破壊します。背景から、条件づける影響から、記憶から自由であるには、継続・連続性からの自由がなければなりません。思考と感情が完全に終わらないかぎり、継続性があります。あなたは思考をその終わりまで追求し、よってあらゆる思考、あらゆる感情を終わらせるとき、思考を完全にする・完了するのです。愛は、習慣、記憶ではありません。愛はいつも新しいのです。精神が新鮮であるときだけ、新しいものとの出会いがありうるのです。そして記憶の残り滓があるかぎり、精神は新鮮ではありません。記憶は心理的と共に事実に基づいています。私は事実に基づいた記憶についてではなく、心理的な記憶について話しています。経験が完全に理解されないかぎり、残り滓があります-それが古いものです。それが昨日のもの、過去であるものごとです。過去はいつも新しいものを吸収しているし、ゆえに新しいものを破壊しています。精神があらゆるものごとに新たに出会うのは、それが古いものから自由であるときだけです。そしてその中に、喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/02(水) 21:31:35 ID:1d4drIFg0
思考とか感情をどこまで追及するならばそれが消える境地にまで達するのじゃ。
実際にそれは出来ることじゃ。
思考とか感情を終わらせれば新しいものに出会えるのじゃ。
そして喜びが在るのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2020/12/03(木) 06:52:42 ID:h1RGr7360
うむ。
確かに、永遠に続く苦しみの様に思われる強い感情や、負の思考も、やがて消え去ることを知っています。
Kの方法は、その思考、感情が消え去るまて考え抜き、感じ続けることでありますかね?
「観」の徹底を求めてるのでありましょうか?
呼吸への集中→雑念に巻き込まれて集中することを忘れる→そのことに気づいて集中に戻る→雑念が消える。
↑こちらの方が、だれでもできる楽な実践法のように思えるのでありますが、Kは、「集中」「止」が、「観」の徹底の邪魔をすると考えてるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

398避難民のマジレスさん:2020/12/03(木) 19:32:02 ID:hh98Jcm20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 1
質問
 情動に名づけることやレッテルを貼ることなしに、どうしてそれに気づけるのでしょうか。私は [ある] 感情に気づくなら、それが生じた後にほとんど即時に、その感情が何であるかを知っているように見えます。それともあなたは、「名づけてはいけない」と言うとき、何か違ったことを意味しているのでしょうか。

 なぜ私たちは何かに名づけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人物に、感情に、レッテルを貼るのでしょうか。自分の感情を伝達するため、花等々を叙述するため、または自分自身をその感情と同一化するため、のどれかです。そうではないでしょうか。私は伝達するために、何かに、感情に名づけます-「私は怒っている」。またはその感情を強めるため、解消するため、それについて何かをするために、自分自身をそれと同一化します。私たちは他の人たちに伝達するために、何かに、バラに名前をつけます。またはそれに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちは「それはバラです」と言って、急いで・すばやくそれを見て次に進みます。それに名前をつけることにより、それを理解したと思うのです。私たちはそれを分類しておいて、よってその花の内容と美しさ全体を理解したと、思うのです。
 何かに名前をつけることにより、私たちはたんにそれをに入れただけです。それでそれを理解したと思うのです。私たちはそれをもっときっちりと見ないのです。私たちはどんなふうにでもそれに名前をつけないなら、それを見るように強いられるのです。すなわち私たちは花でも何でも、新しさをもって、新しい検討の質をもって接近するのです。私たちはまるで今まで見たことがなかったかのように、それを見ます。名づけることは、ものごとや人を整理する・処置するとても便利なやりかたです-彼らはドイツ人、日本人、アメリカ人、インド人であると言うことにより、あなたは彼らにレッテルを貼って、レッテルを破壊できるのです。あなたは人々にレッテルを貼らないなら、彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことは、はるかにもっと難しいのです。あなたは爆弾でレッテルを破壊して正しいと・正義だと感じることができます。しかしあなたはレッテルを貼らないで、ゆえに一個の・個々のものごと-それが人でも花でも出来事でも情動でも-を見なければならないなら、そのとき、それと自分の関係、後に続く行動との関係を考えるように強いられるのです。それで用語づけることやレッテルを貼ることは、何かを処理する-それを否定したり非難したり正当化したりする-とても便利なやり方です。
 あなたがそこから名づけてくる中核・核芯は何でしょうか。いつも名づけ、選択し、レッテルを貼っている中心は何でしょうか。私たちは皆、中心、核があると感じるのではないでしょうか-そこから私たちは行動しています。そこから判断しています。そこから名づけています。その中心、その核は何でしょうか。或る者は、それは霊的本質、神、などであると考えたいように思うのです。それでその核、その中心が何であるかを見出しましょう-それが名づけ、用語付け、判断しているのです。確かに、その中心は記憶なのではないでしょうか。同一化され、閉じ込められた一連の感動-現在をとおして命を与えられた過去です。その核、その中心が、名づけること、レッテルを貼ること、覚えておくことをとおして、現在を常食にするのです。
(´・(ェ)・`)つ

399鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/03(木) 21:51:42 ID:1d4drIFg0
>>397 そうじゃ、それを観察と呼ばないだけなのじゃ。
 実際は観察しているのであるがのう。

 そのようじゃ。
 集中なく観察をしろというのじゃ。
 困難なことじゃ。

400鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/03(木) 21:53:44 ID:1d4drIFg0
名づけるのはものごとや人を整理するのに便利であると言うのじゃ。
しかし、それは記憶による分別なのじゃ。
記憶により分別されてしまえばそれはもはや古いことになってしまうのじゃ。
今ここにいることはできないのじゃ。
過去の記憶に生きているのじゃ。

401避難民のマジレスさん:2020/12/04(金) 18:02:46 ID:SpAN1P/60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 2

 私たちは、それを展開する・紐解くにつれて、この中心、この核が存在しているかぎり、理解はありえないことが、やがてわかるでしょう。理解があるのは、この核の消散をもってだけです。なぜなら、結局、その核は記憶であるからです-名前、レッテル、同一化を与えられてきた様々な経験の記憶です。名づけられ、レッテルを貼られたそれらの経験をもって、その核から、経験の記憶の感動 [に応じ] 、楽しみと苦痛に応じて、受け入れと拒絶、あろう、あるまいとする決意・決心・決定があるのです。ですからその核は言葉です。あなたがその中心に名づけないなら、中心はあるでしょうか。すなわちあなたが言葉という見地に立って考えないなら、言葉を使わないなら、考えられるでしょうか。考えることは、言語化・言葉にすることをとおして生じます。または言語化は、考えることに応答し始めます。中心、核は、言語化された無数の楽しみと苦痛の経験の記憶です。どうかそれをあなた自身のなかに見守ってください。すると実体よりも言葉のほうがはるかにもっと重要になってしまったこと、レッテルのほうがはるかにもっと重要になってしまったことが、わかるでしょう。それで私たちは言葉を拠り所に・糧として生きているのです。
 私たちにとって真理、神のような言葉が-またはそれらの言葉が表す・表現する感情が-とても重要になってしまったのです。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「ヒンドウ-教徒」という言葉や「怒り」という言葉を言うとき、私たちが、感情を表す言葉です。しかし私たちはその感情が何であるかを知りません。なぜなら、言葉が重要になってしまったからです。あなたが自分自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、その言葉はどういう意味でしょうか。その言葉の裏の意味は何でしょうか-あなたはそれを決して検討したことがありません。私たちの中心、核が、言葉、レッテルです。レッテルが大事でないなら、大事なものは、レッテルの裏にあるものであるなら、そのときあなたは探究することができます。しかしあなたはレッテルと同一化されて、それに突き刺されている・それがこびりついているなら、前進できません。私たちはレッテルと同一化されています-家、形・姿、名前、家具、銀行預金、自分たちの意見、自分たちの刺激物等々と-。私たちはそれらすべてのものごと-名前により表されているそれらのものごと-です。ものが、名前が、レッテルが、重要になってしまったのです。ゆえに中心・核が言葉です。
(´・(ェ)・`)つ

402鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/04(金) 21:52:40 ID:1d4drIFg0
言葉や名前による分別が記憶から起こっているというのじゃ。
それが問題の核であるというのじゃ。
その核がなくならない限り理解はないというのじゃ。
仏教で言えば阿頼耶識じゃな。
今ここにあるものごとよりも、記憶による名前の方が現実と認識してしまっているからそれは消滅させなければならないのじゃ。

403避難民のマジレスさん:2020/12/05(土) 09:55:45 ID:fh1mgHQQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 3

  言葉がなく、レッテルがないなら、中心はないのではないでしょうか。分解・解消があります。空っぽがあります-恐れの空っぽではありません-それは全く違ったことです。何でもないもの・無としてあるという感覚があります。あなたはレッテルすべてを取り除いた・剥がし取ったから、というよりむしろなぜ自分が感情と観念にレッテルを貼るのかを理解したから、あなたは完全に新しいのではないでしょうか。あなたがそこから行動している中心はありません。中心、すなわち言葉は解消されたのです。レッテルは剥ぎ取られました。すると中心としてのあなたは、どこにいるのでしょうか。あなたはいます。しかし変容があったのです。その変容はほんの少し恐ろしい・ぎょっとするのです。ゆえに、あなたは、それにやはり関与しているものを続けないのです。あなたはすでにそれを判断し、自分がそれを好きか好きでないかを決定しはじめています。あなたは近づいている・来たりつつあるものの理解を続けません。すでに判断しています-それは、あなたが、そこから行動している中心を持っているという意味です。ゆえに、あなたは判断した瞬間、固定したままでいるのです。「好き」と「嫌い」という言葉が重要になります。しかしあなたが名づけないとき、何が起きるでしょうか。あなたはもっと直接的に情動を、感動を見ます。ゆえに、ちょうどあなたが花に名づけないときそれと持つような全く違った関係を、それと持ちます。あなたは新たにそれを見るように強いられます。あなたは人々の集団に名づけないとき、彼らすべてを全体・集合体として扱うのではなく、各個人の顔を見るように強制されます。ゆえにあなたははるかにもっと鋭敏で、もっと観察力があり、もっと理解があるのです。あなたはより深い哀れみ、愛の感覚を持ちます。しかしあなたが彼らすべてを全体として扱うなら、それは終わっています。
 あなたはレッテルを貼らないなら、あらゆる感情を生じるままに見なければ・凝視しなければなりません。あなたがレッテルを貼るとき、感情はレッテルと違っているのでしょうか。それともレッテルが感情を目覚めさせるのでしょうか。どうかそれをよく考えてください。私たちがレッテルを貼るとき、私たちのほとんどは感情を強烈にします。感情と名づけることは瞬時・瞬間的です。もしも名づけることと感情の間に隔たりがあったなら、そのときあなたは、感情が名づけることと違っているのかどうかを、見出せるでしょう。それで感情に名づけることなく、それを扱うことができるでしょう。
問題はこうなのではないでしょうか-怒りといったような、私たちが名づける感情から、どのようにして自由であるのか、です。どのようにしてそれを服従させ・征服し、昇華し、抑圧するのかではなく-それはすべて白痴的で・ばかげて幼稚です-どのようにしてそれからほんとうに自由であるのか、です。それからほんとうに自由であるには、私たちは、言葉のほうが感情よりももっと重要なのかどうかを、発見しなければなりません。「怒り」という言葉のほうが、感情自体よりももっと意義を持つのです。ほんとうにそれを見出すには、感情と名づけることの間に隔たりがなければなりません。それが一部です。
(´・(ェ)・`)つ

404鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/05(土) 21:55:29 ID:1d4drIFg0
言葉があるとき感情も起こり、好き嫌いも起こるというのじゃ。
そして執着が起こり、苦も起こるのじゃ。
言葉とレッテルが無ければ空があるのじゃ。
観念が無くとも意識は常に在るのじゃ。

405避難民のマジレスさん:2020/12/06(日) 13:25:06 ID:ephB6SPw0
うむ。科学、技術的な言葉、観念わ否定するのではなくて、感情、感覚などを蓄積した記憶に基づく観察を否定しているのでありますね。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 1

質問
 私たちの精神は、知られたものだけを知っています。私たちの中で、知られないもの、真実、神を見つけるように駆り立てるのは、何でしょうか。

あなたの精神は知られないものに向かって駆り立てるのでしょうか。私たちには、知られないもの、真実、神への衝動があるのでしょうか。どうかそれを真剣に考え抜いてください。これは修辞学的な問い・反語ではなくて、現実に見出しましょう。私たち各自には、知られないものを見出したいという内面の衝動があるのでしょうか。あるのでしょうか。どうしてあなたは知られないものを見つけられるでしょうか。あなたがそれを知らないなら、どうして見つけられるでしょうか。真実への衝動があるのでしょうか。それともそれはたんに知られたものへの拡大された願望でしょうか。私のいうことがどういう意味なのか、理解していますか。私は多くのものごとを知ってきました。それらは私に幸せ、満足、喜びをくれませんでした。それで今や私は、もっと大きな喜び、もっと大きな幸せ、もっと大きな生命力-何であれ-を自分にくれるであろう何か他のものを、欲しがっているのです。知られたもの-それは私の精神です-なぜなら、私の精神は知られているから、過去の結果であるからです-その精神が知られないものを求められるでしょうか。私は真実を、知られないものを知らないなら、どうしてそれを探求できるでしょうか。確かにそれは来なければなりません。私はそれを追ってゆけません・追いかけられません。私はそれを追ってゆくなら、何か自分が投影した知られたものであるものを、追っているのです。
 私たちの問題は、私たちの中で、知られないものを見つけるように自分たちを駆り立てるのは何なのかではありません-それは充分明らかです。それは、もっと安全で、もっと永久的で、もっと確立され、もっと幸せでありたい、騒乱・騒動から、苦痛、混乱から逃避したいという私たち自身の願望です。それが私たちの明白な駆動力です。その駆動力、その衝動があるとき、あなたは-ブッダに、キリストに、政治的とその他すべてに-すばらしい逃避、すばらしい避難所を見つけるでしょう。それは真実ではありません。それは知ることのできないもの、知られないものではありません。ゆえに知られないものへの衝動は、終わらなければなりません。知られないものへの探求は止まなければなりません-それは、累積する知られたもの、すなわち精神の理解がなければならないという意味です。精神は、知られたものとしてのそれ自体を理解しなければなりません。なぜならそれが、それが知っているすべてであるからです。あなたは、何か自分が知らないものについて考えられません。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。
 私たちの困難は、精神が知られたものに進んでいかないことです。それは、精神がそれ自体を [理解して] 、そのすべての動きが、どのように過去から現在をとおして未来にそれ自体を投影しているかを理解するときだけ、起きるのです。それは知られたものの一つの連続した動きです。その動きは終わりうるでしょうか。それは、それ自身の過程の機構が理解されるときだけ、精神がそれ自体とその働き、そのやり方、その目的、その追求、その要求を-表面的な要求だけでなく、深い内面的な衝動と動機を-理解するときだけ、終わりうるのです。これは全く困難な作業です。*あなたが見出すのは、ただ会議の中や講義においてや本を読むことにおいてではないのです。反対に、それは、思考のあらゆる動きへの常なる見守り、常なる気づきが要るのです-あなたが起きているときだけでなく、また眠っているときも、です。それは散発的な、部分的な過程ではなく、総合的な過程でなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

406鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/06(日) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
悟っていない者が知るのは記憶の中にあるものだけなのじゃ。
記憶に無いものごとは知られないのじゃ。
それでも知ろうとする意志は起こるのじゃ。
その意志をも観察して理解することで無くすのじゃ。
本当に知らないものが理解できるのはその後なのじゃ。

407避難民のマジレスさん:2020/12/07(月) 17:43:36 ID:0XbLwQ/k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二八 知られたものと知られないもの 2

 また、意図が正しくなければなりません。すなわち、私たち皆が内面的に、知られないものを欲しがるという迷信の停止がなければなりません。私たちが皆神を求めていると考えることは、幻影です-私たちは [求めて]いません。私たちは光を探し求めなくていいのです。闇がないとき、光があるでしょう。闇をとおして、光は見つけられません。わたしたちにできるすべては、闇を造り出すそれらの障壁を取り去ることです。除去は意図に依ります。あなたは光を見るために、それらを取り去っているなら、そのとき何も取り去っていません。闇の代わりに光という言葉を用いているだけです。闇を越えて・の向こうを見ることさえも、闇からの逃避です。
 私たちは、自分たちを駆り立てているのは何なのかではなく、なぜ自分たちには、そういう混乱、そういう騒動、そういう闘争と敵対が-私たちの存在の愚かなものごとすべてが-あるのかを、考慮しなければなりません。これらがないとき、そのとき光があります。私たちはそれを捜さなくていいのです。愚かさが去ったとき、智恵があります。しかし愚かであって智恵を持とうとする人は、やはり愚かです。愚かさは決して英知になれません。愚かさが止むときだけ、英知、智恵があるのです。愚かであって智恵を [持とう]、賢くなろうとする人は、明白に、決してそうあることができません。何が愚かさなのかを知るには、表面的にではなく、充分に、完全に、深く、奥深く、それに入らなければなりません。愚かさの違った層すべてに入らなければなりません。その愚かさの停止があるとき、英知があります。
 ゆえに、知られたものより何かもっと多くのもの、何かもっと偉大なものがあるのかどうかを、見出さないこと [が重要です] ・見出すのではなくて-それが私たちを知られないものへと駆り立てているのです-私たちの中で、混乱、戦争、階級差別、俗物性・根性、名声の追求、知識の蓄積[を造り出し]、音楽をとおし、芸術をとおし、こんなに多くの仕方をとおして逃避を造り出しているのは何なのかを見ることが、重要です。確かに、それらをあるがままに見ること、あるがままの私たち自身に戻ってくることが、重要です。そこから私たちは、進めるのです。そのとき、知られたものを脱ぎ落とすことは、比較的たやすいのです。精神が静寂であるとき、それがもはや何かを願って、それ自体を未来へと投影していないとき、精神がほんとうに静かで、深く平和であるとき、知られないものが生じるのです。あなたはそれを探し求めなくていいのです。あなたはそれを招待できません。あなたが招待できるものは、あなたが知っているものだけです。あなたは知らない客を招待できません。あなたは自分が知っているものを招待できるだけです。しかしあなたは知られないもの、神、真実-何であれ-を知りません。それは来なければなりません。それは、田畑が健全であるとき、土が耕されているときだけ、来れるのです。しかしあなたは、それが来るために耕すなら、そのときそれを得ないでしょう。
 私たちの問題は、どのようにして知ることのできないものを求めるのかではなく、精神の累積する過程-それは常に知られたものです-を理解することです。それは困難な作業です。それは、そこに散漫の、同一化の、非難の感覚がない常なる注意、常なる気づきを、要求します。それはあるがままと共にあることです。そのときだけ、精神は静かでいられるのです。どれほどの量の瞑想、修練も、言葉の真実の意味で、精神を静かにさせられません。そよ風が止むときだけ、湖は確かに静かになるのです。あなたは湖を静かにさせられません。私たちの仕事・努めは、知ることのできないものを追求することではなくて、自分たち自身の中の混乱、騒動、悲惨を理解することです。そのとき、そのものがぼんやりと・かすかに生じます-そこに喜びがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

408鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/07(月) 20:57:42 ID:1d4drIFg0
神とか真実を求めることさえ幻影だというのじゃ。
それはただ金とか権力のために神や真実に頼っているのかもしれんからのう。
神や真実を求めようとする自分を観る時にのみそれは止むのじゃ。
そして精神が平静に成った時に神も真実も来るのじゃ。

409避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 18:02:13 ID:Q/57jf6g0

18:30 (南ア) GDP-Q3
19:00  (独)  ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) ZEW景況感調査-12月★★
19:00 (EUR) GDP 確定値-Q3★★
22:30  (米)  非農業部門労働生産性・改定値-Q3★★
22:55  (米)  レッドブック米週間小売売上高
24:00  (米)  OP NY CUT   (NYT 10:00)
 
01:00  (英)  London Fixing  (LDN 16:00)
03:00  (米)  3年債入札
06:45  (NZ)  製造業売上高-Q3

米大統領選の選挙人確定期限
  ★Rank★ FX証券各社を参考
中国・武漢市で最初の新型コロナ感染者出現から1年
ケロ様スレより無断借用。
(´・(ェ)・`)つ

410避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 18:03:20 ID:Q/57jf6g0
誤爆であります。
(´・(ェ)・`)つ

411避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 18:54:03 ID:ZQVqKKDE0
訂正、
403の後に、次の↓文章が抜けておりました。

最初と最後の自由 第二部質疑応答
二七 名づけることについて 4

 私が感情に名づけないなら、つまり思考がたんに言葉のためにだけ機能していないなら、または私が言葉、イメ-ジ、象徴という見地に立って考えないなら-私たちのほとんどはそうします-そのとき何が起きるでしょうか。そのとき確かに精神は、たんに観察者だけではないのです。精神が言葉、象徴、イメ-ジという見地に立って考えていないとき、思考すなわち言葉から分離した思考者はありません。そのとき精神は静かなのではないでしょうか-静かにさせられるのではなく、それは静かです。精神がほんとうに静かであるとき、そのとき生じる感情は、即時に取り扱えるのです。感情が連続性・継続性を持つのは、私たちが感情に名前を付け、よってそれらを強めるときだけです。それらは中心に貯えられています-そこから私たちはそれらを強めたり、伝達するために、さらなるレッテルを貼るのです。
 精神がもはや、言葉で、過去の経験で作り上げられた思考者としての中心でないとき-それはすべて、貯えられ、範疇に、仕切りに入れられた記憶、レッテルです-それがもはやそれらのものごとを何もしていないとき、そのとき明白に精神は静かです。それはもはや縛られていません。それはもはや私という中心を持ちません-私の家、私の達成、私の仕事-それらはやはり言葉であり、感情に勢いを与え、よって記憶を強めているのです。これらのものごとが何も起きていないとき、精神はとても静かです。その状態は否定ではありません。反対に、その地点に至るには、あなたはこのすべてを経なければなりません-それは途方もない仕事・企てです。それはたんにわずかな言葉を習い覚えて、男子生徒のようにそれらを-「名づけないこと」、「名づけないこと」 [と言って]- 反復するだけではありません。そのすべての含意・意味合いを遂行する・徹底的にやり抜くこと、それを経験すること、精神がどのように働くのかを見て、よってあなたがもはや名づけていない地点に至ること-それは、もはや思考から離れた中心がないという意味です-確かにこの過程全体がほんとうの瞑想です。
 精神がほんとうに平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることが、可能です。他のどんな過程も、真実への他のどんな探求も、たんに自己投影的で、自家製であるし、ゆえに非真実です。しかしこの過程は困難です。それは、精神が、内面的にそれに起きているあらゆることに常に気づいていなければならない、という意味です。この地点に至るには、始めから終わりまで-これが終わりであるということではありません-判断も正当化もありえません。終わりはありません。なぜなら何かとてつもないことがなを起きている・続いているからです。これは約束ではありません。それはあなたが実験し、自分自身の中にますます深く入っていくことです。そのため中心の多くの層すべてが解消されるし、あなたはそれを急速にまたは怠けてできるのです。精神の過程-それがどんなに言葉に依存するか、言葉がどんなに記憶を刺激したり、死んだ経験を生き返らせ・復活させて、それに生命を与えるか-を見守ることは、とてつもなく興味深いのです。その過程のなかで、精神は未来や過去のどれかに生きているのです。ゆえに言葉が、心理的と共に神経学的にも途方もない意義を持つのです。どうかこのすべてを、私からも本からも学ばないでください。あなたはそれを他の一人から学んだり、本の中で見つけたりできません。あなたが学んだり本の中で見つけたりできるものは、真実ではないでしょう。しかしあなたはそれを経験できます。あなたは行動の中で自分自身を見守り、考える自分自身を見守り、自分がどのように考えるのか、感情が生じるままに、どんなに急速にそれに名づけているか、がわかることができます-過程全体を見守ることが、精神をその中心から自由にします。そのとき精神は静かであり、永遠であるものを受け取れるのです。
(´・(ェ)・`)つ

412鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/08(火) 21:51:46 ID:1d4drIFg0
言葉による名づけが無いならば、観察する者ではなく観察されるものであると気付くというのじゃ。
その時精神は静かになるのじゃ。
それもまた思考の過程を見守ることで可能になるのじゃ。
そして永遠であるものを受け取れるというのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2020/12/09(水) 17:42:28 ID:PfnRtg620
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘につい-て 1

質問
 あなたが言ってこられたように、真理は反復されるとき、どうして嘘になるのでしょうか。嘘とは、ほんとうは何でしょうか。嘘を付くことは、なぜ間違っている・悪いのでしょうか。これは、私たちの存在の水準すべての上で、奥深い、微妙な問題ではないでしょうか。

 これには二つの問いがあります。それで最初のものを検討しましょう-すなわち、真理は反復されるとき、どうしてそれは嘘になるのか、です。私たちが反復するのは何でしょうか。あなたは理解を反復できるでしょうか。私は何かを理解します。私はそれを反復できるでしょうか。私はそれを言葉にできます。それを伝達できます。しかし経験は確かに反復されるものではないでしょう。私たちは言葉に捕らわれて、経験の意義を逃し・見失います。あなたは経験をしたなら、それを反復できるでしょうか。あなたはそれを反復したいと思うかもしれません。それの反復、それの感動への願望を持つかもしれません。しかしいったんあなたが経験をしたなら、それは終わって・済んでいます。それは反復できません。反復できるものは感動と、その感動に生命を与えるところの付随する・一致する言葉です。不幸にも、私たちのほとんどは宣伝者なので、言葉の反復に捕らわれるのです。それで私たちは言葉を糧に生きているし、真理は否定されるのです。
 愛の感情を例に取りましょう。あなたはそれを反復できるでしょうか。「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉を聞くとき、それはあなたにとって真理でしょうか。あなたが自分の隣人をほんとうに愛するときだけ、それは真理です。その愛は反復できなくて、ただ言葉だけ[が反復できるの]です 。けれどもあなたがたのほとんどは、「あなたの隣人を愛しなさい」や「貪欲であってはいけない」という反復でもって、幸せで満足しています。それで他の一人の真理、またはたんに反復をとおしてあなたがしたことのある現実の経験は、真実にならないのです。反対に、反復は真実を妨げるのです。たんに一定の観念を反復するだけでは、真実ではないのです。
 これの難しさは、対極という見地に立って考えることなしに、問いを理解することです。嘘は、何か真理と対立したものではありません。嘘や真理という対立において、対比においてではなく、言われていることの真理を見ることができます。私たちのほとんどは、理解することなく反復するということを、ただ見てください。例えば、私たちは感情などに名づけることと名づけないことの議論をしてきました。あなたたちの多くは、それが「真理」であると考えて、それを反復するであろうと、私は確信します。一つの経験が直接の経験であるなら、あなたはそれを決して反復しないでしょう。あなたはそれを伝達するかもしれませんが、それがほんとうの経験であるとき、その裏の感動は去っています。言葉の裏の情動的満足は全く消失しています。
(´・(ェ)・`)つ

414鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/09(水) 21:45:42 ID:1d4drIFg0
理解とは反覆できないものというのじゃ。
何かを理解した瞬間は繰り返すことはできないからのう。
無理に繰り返せば嘘であり、欺瞞になるのじゃ。
直接の体験は反覆できないのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2020/12/10(木) 17:06:01 ID:XHLRsrnQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘について 2

 例えば、思考者と思考は一つであるという観念を、取り上げましょう。それはあなたにとって真理であるかもしれません。なぜならあなたはそれを直接的に経験したからです。もしも私がそれを反復したなら、それは真実ではないのではないでしょうか-どうか、偽りと対比してではない真実です。それは現実ではないでしょう。それはたんに反復的なだけであり、ゆえに意義を持たないでしょう。おわかりでしょう。私たちは反復により、教義を造り出します。教会を建てて、そこに避難します。言葉と非真理が「真理」になるのです。言葉はものごとではありません。私たちにとってものごとは言葉です。そういうわけで、何かほんとうに理解しないことを反復しないように、極めて気をつけなければなりません。あなたは何かを理解するなら、それを伝達できます。しかし言葉と記憶は、それらの情動的意義を失ってしまいました。ゆえにそれを理解するなら、普通の・通常の会話の中で、見解・視野、語彙は変わるのです。
 私たちは自己認識をとおして真理を求めているし、たんなる宣伝者ではないので、これを理解することが重要です。反復をとおして、言葉により、または感動により、自分自身に催眠術をかけます。幻影に捕らわれます。それから自由であるには、直接に経験することが必須・肝要ですし、直接に経験するには、反復の、習慣の、言葉の、感動の過程の中で、自分自身に気づかなければなりません。その気づきがとてつもない自由を与えてくれるので、そのため新生・蘇生、常なる経験、新しさがありうるのです。
 他の問いは-「嘘とはほんとうは何でしょうか。嘘を付くことはなぜ悪いのでしょうか。これは、わたしたちの存在の水準すべてにおいて、奥深い微妙な問題ではないでしょうか」-です。
 嘘とは何でしょうか。矛盾-自己矛盾なのではないでしょうか。意識的、または無意識的に、矛盾することができます。それは意図的か、または無意識的か、どちらかでありえます。矛盾は、とても微妙か、または明白か、どちらかでありえます。矛盾における分裂がとても大きいとき、そのとき不均衡になるか、それとも分裂を悟ってそれを修復する・繕うことに取りかかるか、どちらかです。
 この問題を-嘘とは何か、なぜ嘘を付くのかを-理解するには、対極という見地に立って考えることなしに、それに入らなければなりません。私たちは、自分たちの中のこの矛盾の問題を、矛盾しないようにすることなしに、見られるでしょうか。この問いを検討する中での私たちの難しさは、私たちがあまりに直ちに・すぐに嘘を非難することなのではないでしょうか。しかしそれを理解するには、私たちは真理と嘘・虚言 [という見地に立って] ではなく、何が矛盾なのかという見地に立って、それについて考えられるでしょうか。なぜ私たちは矛盾するのでしょうか。なぜ私たち自身に矛盾があるのでしょうか。規範に添って、様式に添って生きようとする試みが-他の人の見地でも自分たち自身の見地でも、常に自分たち自身を様式に近づけること、常に何かであろうとする努力が-ないでしょうか。様式に順応したいという願望があるのではないでしょうか。その様式に添って生きていないとき、矛盾があります。
(´・(ェ)・`)つ

416鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/10(木) 21:39:53 ID:1d4drIFg0
見る者と観られるものは一つであると気付けばそれは真理なのじゃ。
しかし、誰かがそれをまねて一つであると語れば反覆であり、嘘になるのじゃ。
自ら気付いたことではないからのう。
自らの矛盾そのものに気付くことで真理が達成されるのじゃ。

417避難民のマジレスさん:2020/12/11(金) 18:15:20 ID:GoKiwAEE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘について 3

 なぜ私たちは、自分たちがそれに添って生きようとしているところの様式、規範、近似、観念を持つのでしょうか。なぜでしょうか。明白に、安全であるため、安心するため、一般的であるため、自分たち自身についてよい意見を持つ・よく思う、などのため、です。そこに矛盾の種があるのです。私たちが自分たち自身を何かに近づけて、何かであろうとしているかぎり、矛盾があるにちがいありません。ゆえに偽りと真実の間にこの分裂があるにちがいないのです。あなたがそれに静かに入る気があるなら、これが重要であると、私は思います。偽りと真実がないということではありません。しかしなぜ私たちには矛盾があるのでしょうか。それは、私たちが何かであろうと-高尚であろう、善良であろう、美徳を持とう、創造的であろう、幸せであろう、などと-試みているからではないでしょうか。何かでありたいという願望こそに-何か他のものでありたくないという-矛盾があるのです。こんなに破壊的であるのは、この矛盾です。何かと、これやあれとの完全な同一化の能力があるなら、そのとき矛盾は止みます。私たちが自分たち自身を何かと完全に同一化するとき、自己閉鎖があります。抵抗があります-それは不均衡をもたらします-それは明白なことです。
(´・(ェ)・`)つ

418鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/11(金) 23:09:20 ID:1d4drIFg0
人が様式や規範を持つのは安心するためというのじゃ。
それは自分以外のものになろうとする試みなのじゃ。
そこには常に矛盾が在るのじゃ。
それがあればそこに抵抗や不均衡が在るのじゃ。

419避難民のマジレスさん:2020/12/12(土) 08:14:42 ID:v4WToSgY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘について  4

 なぜ私たちには矛盾があるのでしょうか。私は何かをしました。そしてそれを発見されたくないのです。私は何か目標・水準に及ばない・達していないことを考えました-それが私を矛盾の状態に置きます。私はそれが好きではありません。近似があるところ、恐れがあるにちがいないし、矛盾するのは、この恐れです。ところが、 [何かに]なることがなく、何かであろうと試みることがないなら、そのとき恐れの感覚はありません。矛盾はありません。意識的、無意識的に、どんな水準でも、私たちに嘘はありません-何か抑圧されるもの、何かあばかれるもの [はありません]。私たちの生のほとんどは、気分と・姿態の事柄なので、自分たちの気分に依存して、気取るのです-それは矛盾です。気分が消えるとき、私たちはあるがままの私たちです。ほんとうに重要なのは、あなたが丁重な・優雅な、罪のない・汚れのない嘘を言うか、そうでないかどうかではなく、この矛盾です。この矛盾が存在しているかぎり、表面的な存在 [があるにちがいないし]、ゆえに守られなければならない表面的な恐れがあるにちがいありません。そのとき罪のない嘘と-知っているでしょう-その他すべてが続きます。何が嘘なのか、何が真理なのかを訊ねるのでなく、これらの対極なしに、この問題を見ましょう。私たち自身の中の矛盾の問題に入りましょう-それは極めて難しいのです。なぜなら私たちはあまりにも感動に依存しているからです。私たちの生のほとんどは矛盾しています。私たちは記憶に、意見に依存します。私たちは覆い隠したいと思うあまりに多くの恐れを持っています-これらすべてが自分たち自身に矛盾を造り出します。その矛盾が耐えられなくなるとき、理性・正気を失います。人は平和が欲しいのに、人がするあらゆることが、家族においてだけでなく、外側でも、戦争を造り出します。何が葛藤・抗争を造り出すのかを理解するかわりに、私たちはますます一つのものや他のもの、対極になろうとするだけです。よってより大きな分裂を造り出しています。
(´・(ェ)・`)つ

420鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/12(土) 23:52:53 ID:1d4drIFg0
矛盾は何からなろうとか、何かであろうとする時にあるというのじゃ。
矛盾があれば恐れもあると言うのじゃ。
矛盾に絶えられなくなると理性を失うというのじゃ。
それが戦争やより大きな分裂を作り出すのじゃ。

421避難民のマジレスさん:2020/12/13(日) 08:01:15 ID:mOloVa0k0
最初と最後の自由 第二部質疑応答 
二九 真理と嘘について 5
 なぜ私たち自身に-表面的にだけでなく、はるかにもっと深く、心理的に-矛盾があるのかを理解することは、可能でしょうか。まず最初に、矛盾した生を生きていることに、気づいているでしょうか。私たちは平和が欲しいのに国家 [・民族]主義者です。私たちは社会的悲惨を避けたい。それなのに私たち各自は個人主義的で、制限され、自己閉鎖的です。私たちは常に矛盾の中で生きています。なぜでしょうか。それは、私たちが感動の奴隷であるから、ではないでしょうか。これは否定されるべきでも、また受け入れられるべきでもありません。それは感動、すなわち願望の含意のたいへんな理解を必要とします。私たちは、すべてが互いに矛盾の中にあるとても多くのものごとが欲しいのです。私たちはあまりに多くの矛盾する仮面です。私たちは、それが自分たちに似合う・都合がよいとき、仮面をつけるし、何か他のものがもっと利益になり、もっと楽しいとき、それを否定します。嘘を造り出すのは、この矛盾の状態です。それに反して・対比して、私たちは「真理」を造り出します。しかし真理は確かに、嘘の対極ではありません。対極を持つものは真理ではありません。対極はそれ自身の対極を含んでいます。ゆえにそれは真理ではないし、この問題をとても奥深く理解するには、私たちがその中で生きている矛盾すべてに気づかなければなりません。私が「私はあなたを愛している」と言うとき、嫉妬、妬み、不安・心配、恐れが伴います-それは矛盾です。理解されなければならないのは、この矛盾です。それに気づく [とき]、どんな非難も正当化もなく気づくとき-たんにそれを見ているとき-だけ、それを理解できるのです。それを受動的に見るには、正当化と非難の過程すべてを理解しなければなりません。
何かを受動的に見ることは、たやすいことではありません。しかしそれを理解するなかで、自分の感じ [方] と考え方の過程全体を理解しはじめます。自分自身の中の矛盾の充分な意義に気づくとき、それはとてつもない変化をもたらします。そのときあなたは、何か自分があろうとしているものではなく、あなた自身です。あなたはもはや理想を追いかけ、幸せを求めていません。あなたはあるがままのあなたです。そこから前進できるのです。そのとき矛盾の可能性はありません。
(´・(ェ)・`)つ

422鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/13(日) 23:45:11 ID:1d4drIFg0
常に矛盾があるのが人の心だというのじゃ。
平和を望んで国家を守るために戦争をしたりするのじゃ。
そのような矛盾を理解するには、矛盾の過程全てに気付かなければならんというのじゃ。
肯定も否定もせずに観る時に変容も起こるのじゃ。

423避難民のマジレスさん:2020/12/14(月) 19:34:47 ID:NxgCcdWQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 1

質問
 あなたは真実を悟られました。神とは何であるかを、私たちに言ってもらえませんか。

 私が悟ったことを、あなたはどのようにして知るのでしょうか。私が悟ったことを知るには、あなたもまた悟っていなければなりません。これはただの利口な答えではありません。何かを知るには、あなたはそれのものでなければなりません。あなた自身もまた経験をしていなければならないし、ゆえに私が悟ったとあなたが言うことは、見たところ意味がありません。私が悟ったか悟っていないかどうか、それがどうしたというのでしょうか。私の言っていることが真理ではないでしょうか。私がほとんど・最も完全な人間であるとしても、私の言うことが真理でないなら、なぜあなたは私の言うことをたんたんと聴くのでしょうか。確かに、私の悟りは、私の言っていることと全く何の関わりもないし、他の人が悟ったということのために他の人を崇拝する人は、ほんとうは権威を崇拝しているし、ゆえに彼は決して真理を見つけられません。悟られたことを理解することと、悟った人を知ることは、全く重要ではないのではないでしょうか。
 伝統全体が、「悟った人と共にいなさい」と言うのを、私は知っています。彼が悟ったということを、どうしてあなたは知ることができるのでしょうか。あなたにできるすべては、彼との交わり・交際を保つことです。それさえも、今日では極めて難しいのです。言葉のほんとうの意味で、善良な・よい人たち-何かを求めていない、何かのあとを追っていない人たち-は、ほとんどいません。何かを求めていたり、何かのあとを追っている人たちは、搾取者です。ゆえに愛すべき仲間・相手を見つけることは、誰にとってもとても難しいのです。
(´・(ェ)・`)つ

424鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/14(月) 22:34:49 ID:1d4drIFg0
他人が悟ったことを理解できるのは自ら悟った者だけなのじゃ。
自分が悟らなければ何もわからないのじゃ。
伝統に従っているだけなのじゃ。
それでは神についても知ることが出来ないのじゃ。

425避難民のマジレスさん:2020/12/15(火) 12:36:24 ID:GHXQWsSY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 2

 私たちは、悟った人たちを理想化して、彼らが自分たちに何かを与えてくれるだろうと願います-それは偽りの関係です。愛がなければ、どうして悟った人が伝達できるでしょうか。それが私たちの難しさです。私たちはすべての議論において、ほんとうは互いに愛し合っていません。私たちは疑り深いのです。あなたは私から何かが-知識、悟りが-欲しいのです。または私との交わりを保ちたいのです-そのすべては、あなたが愛していないことを、表示しています。あなたは何かが欲しいのです。ゆえに利用 [・搾取]しようと躍起になります。私たちがほんとうに互いに愛し合っているなら、そのとき瞬時の疎通があるでしょう。そのときあなたが悟っていて、私が悟っていないかどうか、またはあなたが高い者か低い者かどうかは、大事ではありません。私たちの心が萎れて・褪せてしまったから、神がものすごく重要になってしまったのです。すなわち、あなたは自分の心に歌をなくしたから、神を知りたいのです。それで歌い手を追い求めて、彼があなたに歌い方を教えられるのかどうかを、訊くのです。彼はあなたに技術を教えられますが、技術はあなたを創造に導かないでしょう。あなたはたんに歌い方を知るだけでは、歌い手でありえません。あなたはダンスの・足どりすべてを知るかもしれませんが、自分の心に創造性を持たないなら、機械として機能しているだけです。自分の対象・目的がたんに結果を達成することだけであるなら、あなたは愛せません。理想というようなものはありません。なぜなら、それはたんに達成であるからです。美しさは達成ではありません。それは真実、明日ではなく今です。愛があるなら、あなたは知られないものを理解するでしょう。神が何であるかを知るでしょう。誰もあなたに教えなくてもいいのです-それが愛の美しさです。それはそれ自体で永遠です。愛がないから、私たちは、それを自分たちに与えてくれる他の誰かや神が、欲しいのです。もしも私たちがほんとうに愛していたなら、これが何と違った世界であるだろうか、知っているでしょうか。私たちはほんとうに幸せな人たちであるでしょう。ゆえに私たちは、ものごと、家族、理想に、自分たちの幸せを投資しないでしょう。私たちは幸せであるでしょう。ゆえにものごと、人々、理想は、私たちの生を支配しないでしょう。それらはすべて二義的なものごとです。私たちは愛していないから、それで幸せではないから、ものごとが私たちに幸せを与えてくれるだろうと考えて、それらに投資するのです。それで私たちが投資するものごとの一つが、神です。
(´・(ェ)・`)つ

426避難民のマジレスさん:2020/12/15(火) 18:47:10 ID:PVzkRgUY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三十 神について 3

 あなたは私に、真実が何なのかを言って欲しいのです。叙述できないものが言葉に表せるでしょうか。何か測ることのできないものを、測れるでしょうか。あなたは自分の拳に風を掴めるでしょうか。あなたがそうするなら、それは風でしょうか。あなたが測ることのできないものを測るなら、それは真実でしょうか。それを定式化するなら、それは真実でしょうか。確かにちがいます。というのは、あなたが何か叙述できないものを叙述した瞬間、それは真実であるのを止めるからです。あなたが知ることのできないものを知られたものに翻訳した瞬間、それは知ることのできないものであるのを止めます。けれども、それが、私たちがあこがれている・恋いこがれているものです。いつのときも、私たちは知りたいのです。なぜなら、そのとき私たちは継続できるだろう、そのとき究極の幸せ、永久性を捕まえることができるだろうと、私たちは思うからです。私たちは知りたいのです。なぜなら、私たちは幸せではないからです。私たちは惨めに奮闘しているから、擦り切れて・疲れ切って、堕落しているからです。けれども単純な事実-私たちが堕落していること、鈍くて、疲れ切って、騒乱の中にいること-を悟るかわりに、私たちは知られたものであるものから知られないものへ移転・移動したいのです-それもまた知られたものになるし、ゆえに私たちは決して真実を見つけられないのです。
 ゆえに誰が悟ったかや、神が何なのかを訊ねるかわりに、なぜ自分の注意と気づきの全体を、あるがままへ向けないのでしょうか。そのときあなたは知られないものを見つけるでしょう。というよりむしろ、それはあなたに来るでしょう。あなたは、何が知られたものなのかを理解するなら、誘導されず、強制されない、あのとてつもない静寂を、それにおいてのみ真実が入り込める、あの創造的空っぽを、経験するでしょう。それは、なろうとしている、奮闘しているものには来れません。それは、ありつつあるもの、あるがままを理解するものに、来れるだけです。そのときあなたは、真実は遠くにないこと、知られないものは遠く離れていないこと、それはあるがままの中にあることが、わかるでしょう。問題への答えが問題の中にあるのと同じように、真実はあるがままの中にあるのです。私たちはそれを理解できるなら、そのとき真理を知るでしょう。
 鈍さに気づくこと、貪欲に気づくこと、悪意、野心などに気づくことは、極めて難しいのです。あるがままに気づくという事実こそが真理です。解放するのは真理です-自由であろうとするあなたの奮闘ではありません。こうして真実は遠くないのですが、私たちはそれを遠く離れて置きます。なぜなら、自己継続の手段として、それを使おうとするからです。それはここ、今、即時 [当面・目前]のものにあるのです。永遠のものや時間のないものは今です。今は、時間の網に捕らわれている人により理解されえません。思考を時間から自由にするには、行動を要求します。しかし精神は怠けています。それは怠惰です。ゆえに常に他の障害を造り出します。それは正しい瞑想によって可能なだけです-それは、連続的な行動ではなく、完全な行動という意味です。完全な行動は、精神が継続の過程、すなわち記憶-事実に基づく [記憶]ではなく、心理的な記憶- を了解するとき、理解されうるだけです。記憶が機能するかぎり、精神はあるがままを理解できません。しかし終わることの意義を理解するとき、自分の精神、自分の存在全体がとてつもなく創造的に、受動的に鋭敏になります。なぜなら、終わることの中に、新生がありますが、継続の中には、死がある、腐敗があるからです。
(´・(ェ)・`)つ

427鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/15(火) 21:55:16 ID:1d4drIFg0
真実や神について聞くことは商売と同じだというのじゃ。
自分が費やした投資に相応しい見返りが欲しいだけなのじゃ。
神や真実を聞くことより、自らの心を観るべきだというのじゃ。
その時にこそ真理を知ることが出来るというのじゃ。

428避難民のマジレスさん:2020/12/16(水) 21:03:46 ID:CD61wBH20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 1

質問
 私は、あなたが話しておられる真理を、何の前準備もなく、この場で悟れるでしょうか。

 あなたのいう真理とは何でしょうか。私たちがその意味を知らない言葉は、使わないようにしましょう。私たちはもっと単純な言葉、もっと直接的な言葉を、使えます。あなたは問題を直接的に理解できるでしょうか。了解できるでしょうか。それが、含意されていることなのではないでしょうか。あなたは即時に、今、あるがままを理解できるでしょうか。あるがままを理解するなかで、あなたは真理の意義を理解するでしょう。しかし真理を理解しなければならないと言うことは、ほとんど意味がありません。あなたは問題を直接的に、充分に理解して、それから自由でありうるでしょうか。それが、この質問に含意されていることなのではないでしょうか。あなたは、危機を、挑戦を、即時に理解し、その全体の意義がわかり、それから自由でありうるでしょうか。あなたが理解するものは、跡を残しません。ゆえに真理または理解が解放者です。あなたは問題から、挑戦から、今解放されうるでしょうか。生は、一連の挑戦と応答なのではないでしょうか。挑戦へのあなたの応答が、条件づけられ、制限され、不完全であるなら、そのときその挑戦はその跡を、その残余を残します-それは、もう一つの新しい挑戦によりさらに強められます。それで常なる残余の記憶、蓄積、傷跡がありますし、これらすべての傷跡をもって、あなたは新しいものに出会おうとします。ゆえに決して新しいものに出会いません。ゆえにあなたは決して理解しません。どんな挑戦からの解放も、決してありません。
 問題は、問いは、私は完全に、直接的に、挑戦を理解できるだろうか-そのすべての意義、そのすべての香り、その深さ、その美しさ、その醜さを感じて、それから自由でありうるか-です。挑戦はいつも新しいのではないでしょうか。問題はいつも新しいのではないでしょうか。例えば、あなたが昨日持った問題は、あなたが今日それと出会うとき、それはすでに新しいほどに、修正を受けた・被ったのです。しかしあなたは古いものをもってそれと出会います。なぜなら、あなたはたんに自分自身の思考を修正するだけで、変容させることなく、それと出会うからです。
 それを違った仕方で述べましょう。私は昨日あなたに会いました。その間に、あなたは変化しました。あなたは修正を受けました。しかし私はやはり昨日のあなたについての映像を持っています。私はあなたについての自分の映像をもって、今日あなたに会います。ゆえにあなたを理解しません-私が昨日取得したあなたについての映像だけを理解するのです。私は、修正され、変化しているあなたを理解したいなら、昨日の映像を取り去らなければなりません。自由でなければなりません。言い換えれば、挑戦すなわちいつも新しいものを理解するには、私もまた新たにそれと出会わなければなりません。昨日の残りがあってはなりません。それで私は昨日にさようならを言わなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

429鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/16(水) 21:27:44 ID:1d4drIFg0
他人の言う真理を他の者が悟れるはずも無いのじゃ。
人は自らの真理を悟らなくてはいかんのじゃ。
真理を悟ってから他人が話す真理も理解できるのじゃ。
それは真理に対する全ての妄想がなくなった時に可能に成るのじゃ。

430避難民のマジレスさん:2020/12/17(木) 19:29:36 ID:cBRCBlc20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 2

 結局、生とは何でしょうか。それはいつのときも何か新しいものなのではないでしょうか。それは何か常に変化を受けていて、新しい感情を造り出しているものです。今日は決して昨日と同じではありません。それが生の美しさです。あなたと私はあらゆる問題に新たに出会えるでしょうか。あなたは家に帰るとき、自分の妻と子どもに新たに出会えるでしょうか。挑戦に新たに出会えるでしょうか。あなたは昨日の記憶の重荷を負っているなら、そうすることができないでしょう。ゆえに、問題の、関係の真理を理解するには、それに新鮮に近づかなければなりません-「開いた精神」をもってではありません。というのは、それは意味を持たないからです。あなたは昨日の記憶の傷跡をもたずに、それに近づかなければなりません-それは、各挑戦が生じる毎に、昨日の応答すべてに気づく、という意味です。昨日の残り、記憶に気づくことにより、あなたは、それらが格闘なしにいつの間にかなくなるし、ゆえにあなたの精神が新鮮であることを、見つけるでしょう。
 準備なしに、即時に真理を悟れるでしょうか。私はできると言います-私の何かの空想・気まぐれからではなく、何かの幻影から [言うの] ではありません。心理的に、それを実験してみてください。するとわかるでしょう。どんな挑戦、どんな小さな出来事でも取り上げて・選んでください-何か大きな危機を待たないでください-すると、自分がそれにどう応答するか、わかるでしょう。それに、自分の応答に、自分の意図に、自分の態度に気づいてください。するとあなたはそれらを理解するでしょう。自分の背景を理解するでしょう。あなたは自分の注意全体をそれに向けるなら、即時にそれができると、私はあなたに保証します。あなたが自分の背景の充分な意味を求めているなら、それはその意義をもたらします。そのときあなたは一撃で、真理を、問題の理解を発見します。理解は今、現在、すなわちいつも時間がないもの、から生じます。それは明日であるかもしれないけれども、それはやはり今です。たんに延期すること、明日あるものを受け取る準備をすることは、あなた自身が、今あるものを理解するのを妨げることです。確かに、あなたは今あるものを直接に理解できるのではないでしょうか。あるがままを理解するには、あなたは邪魔され、注意散漫であってはなりません。自分の精神と心をそれに向けなければなりません。それはその瞬間に、完全にあなたの唯一の興味でなければなりません。そのとき、あるがままは、その充分な深み、その充分な意味を、あなたに与えてくれます。よってあなたはその問題から自由です。
(´・(ェ)・`)つ

431鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/17(木) 22:58:17 ID:1d4drIFg0
自分を理解することと、悟りは瞬時にやってくるものじゃ。
気付くことであるからなのじゃ。
それに長くかかるものがいるのは、自分の恐れや障害があるからなのじゃ。
自分の全てを捨てる覚悟と決意で観察すればそれは即座に現われるのじゃ。

432避難民のマジレスさん:2020/12/18(金) 10:17:08 ID:zvtvRz/M0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三一 即時の悟りについて 3

 例えば、あなたが財産の真理を、心理的意義を、知りたいなら、今ほんとうにそれを直接的に知りたいなら、どのようにしてそれに接近するのでしょうか。確かに、あなたは問題との同族・血族を感じなければなりません。それを恐れてはなりません。自分自身と問題との間に、どんな信条、どんな答えも持ってはなりません。あなたは直接的に問題との関係のなかにあるときだけ、答えを見つけるでしょう。あなたは答えを導入するなら、判断し、心理的な嫌気を持つなら、そのとき延期するでしょう。「今」において理解されうるだけのものを、明日理解しようと準備するでしょう。ゆえにあなたは決して理解しないでしょう。真理を知覚するには、準備は要りません。準備は時間を含意するし、時間は、真理を理解する手段ではありません。時間は継続・連続性ですし、真理は時間がなく、連続しません。理解は連続しません。それは残余がなく、瞬間瞬間です。
 残念ながら、私はそのすべてをとても難しく聞こえさせ・言い表しているのではないでしょうか。しかし、あなたがそれを実験してみさえするなら、理解するのはたやすく単純です。あなたが突然夢の状態に陥り、それについて瞑想するなら、それはとても難しくなります。あなたと私の間に障壁がないとき、私はあなたを理解します。私はあなたに対して開いているなら、あなたを直接に理解します-開いていることは時間の事柄ではありません。時間は私を開かせるでしょうか。準備、体系、修練は、私をあなたに対して開かせるでしょうか。いいえ。私をあなたに対して開かせるものは、理解しようとする自分の意図です。私は開いていたいのです。なぜなら隠すものが何もないし、恐れていないからです。ゆえに私は開いているし、即時の親交があるのです。真理があるのです。真理を受け取るには、その美しさを知るには、その喜びを知るには、理論、恐れ、答えにより曇らされていない瞬時の受容性がなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

433鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/18(金) 21:57:14 ID:1d4drIFg0
自らが問題そのものであると理解するならば、変容は即座にやってくるのじゃ。
その時既に問題はなくなっているのじゃ。
思考に拠って自分とは別の問題を考えればそれはいつまでも理解できないのじゃ。
明日とか明後日に常に持ち越されるのじゃ。
今ここにおいて全てを受け容れて観ることだけが大事なのじゃ。

434避難民のマジレスさん:2020/12/19(土) 13:13:40 ID:65pjRgqY0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三二 単純さについて 1
質問
 単純さとは何でしょうか。それは、本質的なものをとても明確に・はっきりと見て、他のあらゆるものごとを切り捨てる、という意味を含んでいるのでしょうか。

単純さでないものを、見ましょう。-「それは否定です」とか「何か肯定的なものを、私たちに言ってください」とか、言わないでください。それは幼稚な、無思慮な反応です。あなたに「肯定的な」ものを提供する人たちは、搾取者たちです。彼らは何かあなたにあげるものを持っています-あなたはそれが欲しいし、それをとおして彼らはあなたを搾取するのです。私たちはその種類のことは何もしていません。私たちは、単純さの真理を見出そうとしています。ゆえにあなたは観念を切り捨て、裏へ置いて・忘れ去って、新たに観察しなければなりません。内面的、外面的に多く持っている人は、革命を恐れています。
 何が単純さでないのかを見ましょう。複雑な精神は単純ではないのではないでしょうか。利口な精神は単純ではありません。目的を-精神はそのために働いています、報賞、恐れを視野に持つ精神は、単純ではないのではないでしょうか。知識の重荷を負っている精神は、単純な精神ではありません。信念で損なわれている精神は、単純な精神ではないのではないでしょうか。それ自体を何かもっと偉大なものと同一化してしまって、その同一性を保とうと奮闘する精神は、単純な精神ではないのではないでしょうか。ほんの一二枚の腰布を持つことが単純であると、私たちは考えます。私たちは単純さの外観が欲しいのです。それでそれにたやすくだまされるのです。そういうわけで、とても富裕である人は、放棄した人を崇拝するのです
(´・(ェ)・`)つ

435鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/19(土) 23:45:02 ID:1d4drIFg0
単純ではないものとは否定とか肯定であるというのじゃ。
肯定的なものを与えるのは搾取する者ともいうのじゃ。
分別をする精神とか知識を持つ精神、欲や恐れがあっても単純ではないというのじゃ。
同一化や信念さえもあれば単純ではないのじゃ。

436避難民のマジレスさん:2020/12/20(日) 06:52:19 ID:3uawh5ng0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三二 単純さについて 2

 単純さとは何でしょうか。単純さは、非本質的なものの切り捨てと本質的なものの追求でありうるのでしょうか-それは選択の過程という意味です。それは選択-本質的なものを選択することと、非本質的なものを切り捨てる-という意味ではないでしょうか。この選択する過程とは何でしょうか。選択する実体は何でしょうか。精神なのではないでしょうか。あなたがそれを何と呼ぶかは、大事ではありません。あなたは「私はこれを選択しよう-それは本質的なものだ」と言います。何が本質的なものなのかを、あなたはどのようにして知るのでしょうか。あなたは、他の人たちが言ってきたことの様式を持っているか、それとも自分自身の経験が、何か或るものが本質的であると言うか、どちらかです。あなたは自分の経験に頼れるでしょうか。あなたは選択するとき、あなたの選択は願望に基づいているのではないでしょうか。あなたが「本質的なもの」と呼ぶものは、あなたに満足を与えてくれるものです。それであなたは再び同じ過程に戻っているのではないでしょうか。混乱した精神は選択できるでしょうか。それが [選択]するなら、選択もまた混乱しているにちがいありません。
 ゆえに本質的なものと非本質的なものとの間の選択は、単純さではありません。それは葛藤です。葛藤のなか、混乱のなかの精神は、決して単純でありえません。あなたがこれらすべての偽りのものごと、精神の策略・芸当を切り捨てるとき、ほんとうに観察してわかるとき、それを見て、それに気づくとき、そのとき単純さとは何かを、自分自身で知るでしょう。 信念に縛られている精神は、決して単純な精神ではありません。知識で損なわれている精神は、単純ではありません。神に、女性たちに、音楽により散漫である精神は、単純な精神ではありません。事務所・会社、儀式、祈りの決まった日課に捕らわれている精神、そういう精神は単純ではありません。単純さは、観念を持たない行動です。しかしそれはとても希なことです。それは創造性という意味です。創造がないかぎり、私たちは災い、悲惨、破壊の中心です。単純さは、あなたが追求し経験できないものです。花が正しい時・瞬間に開くように、各自が、存在と関係の過程全体を理解するとき、単純さが訪れるのです。私たちはこれまでそれについて考え、それを観察したことがないから、それに気づかないのです。私たちはわずかな所有物という外的な形ばかりを評価します。しかしそれらは単純さではありません。単純さは、見つけられるものではありません。それは、本質的なものと非本質的なものとの間の選択としてあるのではありません。それは、自己がないとき-精神が、憶測、結論、信念、観念作用に捕らわれていないとき-だけ、生じるのです。そういう自由な精神が、真理を見つけられるだけです。そういう精神のみが、測ることのできない、名づけることのできないものを、受け取れるのです。それが単純さです。
(´・(ェ)・`)つ

437鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/20(日) 23:30:18 ID:1d4drIFg0
本質的なものと非本質的なものという分別があれば単純ではないのじゃ。
その他どんな選択や分別があっても単純ではないのじゃ。
自己も観念も無い時のみ単純さがあるというのじゃ。
その時、真理を見つけられるというのじゃ。
それは既に悟った状態なのじや。

438避難民のマジレスさん:2020/12/21(月) 16:29:22 ID:BqJgU8Dk0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三三 表面性について 1

質問
表面的である人は、どのようにして真剣になるべきでしょうか。

まず初めに、私たちは、自分たちが表面的あることに気づかなければならないのではないでしょうか。表面的であるとはどういう意味でしょうか。本質的に、依存するという意味ではないでしょうか。刺激に依存すること、挑戦に依存すること、もう一人に依存すること、一定の価値、一定の経験、一定の記憶に、心理的に依存すること-そのすべてが表面性に寄与しないでしょうか。高められる・向上するために、助けてもらうために、私が毎朝または毎週、教会に通うことに依存するとき、それは私を表面的にしないでしょうか。私が自分の統合性の感覚を維持するために、または自分がかつて持ったことがあるかもしれない感情を再び獲得する・取り戻すために、一定の儀式を執り行わなければならないなら、それは私を表面的にしないでしょうか。私が国に、計画に、特定の政治的集団に捧げる・身を任せるとき、それは私を表面的にしないでしょうか。確かにこの依存の過程全体は、私自身の回避です。このより大きなものとの同一化は、あるがままの私の否定です。しかし私は、あるがままの私を否定できません。私はあるがままの自分を理解しなければなりません。宇宙と、神と、特定の政党や何であれ、自分自身を同一化しようとしてはなりません。このすべてが浅い考えにつながるし、浅い考えから、永続的に-世界的規模でも個人的規模でも-有害である活動があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

439鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/21(月) 22:01:16 ID:1d4drIFg0
今の自分の状態に気付かなければ何も始まらないのじゃ。
自分が表面的であるならば、その原因を探すのじゃ。
依存があるから表面的になると観察できれば消えるのじゃ。
そしてあるがままの自分が観られるのじゃ。

440避難民のマジレスさん:2020/12/22(火) 20:16:59 ID:xpD5ITNM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三三 表面性について 2

 まず初めに、私たちはこれらのことをしていることを、認識しているでしょうか。私たちは [認識] していません。それらを正当化します。「私はこれらのことをしないなら、何をすべきだろうか。もっとひどく・悪くなるだろう。自分の精神はばらばらになる・まいってしまうだろう。今少なくとも、私は何かもっとよいものに向かって格闘している」と、私たちは言います。私たちは格闘すればするほど、ますます表面的になります。私はそれを初めに見なければならないのではないでしょうか。それが-あるがままの自分を見ること、自分が愚かであること、浅いこと、狭いこと、嫉妬していることを承認することが-もっとも難しいことの一つです。私はあるがままの自分を見るなら、それを認識するなら、そのときそれをもって出発できます。確かに、浅い精神は、あるがままから逃避する精神です-逃避しないことは、困難な究明を、無為の否定を必要とします。私が自分が浅いことを知った瞬間、すでに深まる過程があるのです-私が浅さについて何もしないなら、ですが。「私は卑小だ。それでそれに入ろうとしている。この卑小さ、この狭める影響の全体を、理解しようとしている」と、精神が言うなら、そのとき変容の可能性があります。しかし卑小であることを承認して、読書により、人に会うことにより、旅をすることにより、猿のように絶えず活動的であることによって卑小でなくなろうとしている卑小な精神は、やはり卑小な精神です。
 またあなたは、私たちがこの問題に正しく接近してこそ、ほんとうの革命があることも、  
わかるのです。問題への正しい接近は、私はあなたに保証しますが、山をも動かすとてつもない確信を与えてくれるのです-自分自身の先入観、条件づけという山です。浅い精神に気づくとき、深くなろうとしないでください。浅い精神は決して大いなる深さを知ることができません。それはたくさんの知識、情報を持てます。それは言葉を反復できます-活動的である表面的な精神の道具一式全体を、知っているでしょう。しかしあなたは自分が表面的で浅いことを知るなら、浅さに気づいて、判断なく、非難なく、そのすべての活動を観察するなら、そのとき浅いものごとは、あなたがそれに作用することなしに、全く消滅してしまったことが、すぐにわかるでしょう。それは、結果への、達成への熱心な願望ではなく、忍耐、見守りを必要とします。達成、結果が欲しいのは、浅い精神だけです。
 あなたはこの過程全体に気づけば気づくほど、ますます精神の活動を発見するでしょう。
しかしそれらを終わらせようとすることなしに、それらを観察しなければなりません。なぜならあなたは終わりを求めた瞬間、またもや「私」と「非私」の二元性に捕らわれるからです-それは問題を継続させます。
(´・(ェ)・`)つ

441鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/22(火) 23:56:39 ID:1d4drIFg0
浅い精神に気付いていなければ深い精神に気付くことも無いのじゃ。
浅い精神に気付くことでもっと深い精神にも気付く機会ができるのじゃ。
それは徐々に深く観ることができるのじゃ。
それについて考えたりすることも障害になるのじゃ。
結果を期待せずにただひたすらに心を観続けるのじゃ。

442避難民のマジレスさん:2020/12/23(水) 21:36:28 ID:Obt11fUQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三四 些細な・取るに足りないことについて 1

質問
精神は何に携わる・従事するべきでしょうか。

葛藤がどのようにして生み出されるのかについての、とてもよい例・実例があります-あるべきものとあるがままとの間の葛藤です。初めに私たちは、あるべきもの、理想を確立します。それから、その様式に応じて生きようとします。精神は、高尚なものごと、反利己性、寛大さ、親切、愛に携わるべきだと、私たちは言います。それは様式、信念、あるべきもの、ねばならないものです。それで私たちはそれに応じて生きようとします。それであるべきものの投影と、現実-あるがままのものとの間に、葛藤が動き始めているのです。その葛藤をとおして、私たちは変容させられたいと願うのです。私たちはあるべきものと格闘しているかぎり、美徳があると感じます。徳がある・善であると感じます。しかしどちらが重要でしょうか-あるべきものとあるがままとでは。私たちの精神は何に携わっているのでしょうか-イデオロギ-的にではなく、現実にです。些細なものごとに [携わっているの]ではないでしょうか-自分がどのように見えるのか、野心、貪欲、妬み、うわさ話、残酷さに、です。精神は些細なものごとの世界に生きているし、高尚な様式を造り出している些細な精神は 、やはり些細なのではないでしょうか。問いは、精神は何に携わるべきかではなくて、精神は些細なものごとから自由になれるか、です。私たちはそもそも気づいているなら、そもそも探究しているなら、自分たち自身の特定の些細なものごとを、知っています-絶えざる話、精神の永続的なおしゃべり、あれこれについての心配、人々がしている [こと] やしていないことについての好奇心、結果を達成しようとすること、自分自身の増大・拡大を模索すること、などです。私たちはそれに携わっているし、それはとてもよく知っています。それは変容させられうるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。精神は何に携わるべきかを訊くことは、たんなる未熟さです。
(´・(ェ)・`)つ

443鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/23(水) 23:39:10 ID:1d4drIFg0
人には大抵理想とする自分のイメージがあるものじゃ。
そうではない自分の性質との間に矛盾があるのじゃ。
そこに葛藤が生まれるのじゃ。
何かに携わるべきだという思いもそこから起こるのじゃ。
そのような思いから自由になるべきなのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2020/12/24(木) 11:40:24 ID:Fdz43.Xw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三四 些細な・取るに足りないことについて 2

 そこで、私の精神が些細であり、些細なものごとに携わっていることに気づくと、それはこの条件から自由になれるでしょうか。精神は、まさにその本性そのものにより、些細ではないでしょうか。記憶の結果を除いて、精神とは何でしょうか。何についての記憶でしょうか。どう生き残る・生き延びるのかについて [の記憶]-身体的にだけでなく、また心理的に、一定の性質、美徳の発達 [をとおし] 、経験を貯えておくこと [をとおし] 、それ自身の活動においてそれ自体を確立することをとおして [どう生き残るか]です。それは些細ではないでしょうか。記憶の、時間の結果である精神は、それ自体において些細です。それは、それ自身の些細なものごとから自由になるには、何ができるでしょうか。それは何かできるのでしょうか。どうかこれの重要性をわかってください。精神、すなわち自己中心的活動は、その活動から自由になれるでしょうか。明白に、できません。それがすることは何でも、やはり些細です。それは神について憶測できます。それは政治的体制を工夫・考案できます。それは信念を考案できます。しかしそれはやはり時間の領域の中に・圏内にあります。その変化は、やはり記憶から記憶へ [の変化] です。それはやはりそれ自身の制限に縛られています。精神はその制限を壊せるでしょうか。それともその制限は、精神が静かであるとき、それが活動していないとき、それ自身の些細なものごと-それらをどんなに偉大であると想像しようとも-を認識するとき、壊れるのでしょうか。精神がその些細なものごとを見てしまい、それらに充分に気づいて、そのためほんとうに静かになるとき- そのときだけ、
これら些細なものごとがなくなる可能性があるのです。精神は何に携わるべきかを、あなたが探究しているかぎり、それは些細なものごとに携わるでしょう-それが教会を建てようと、祈ろうと、神殿・聖堂に通おうと、です。精神自体が卑小で、小さいし、たんにそれは卑小であると言うだけで、あなたはその卑小さを解消しなかったのです。あなたはそれを理解しなければなりません。精神はそれ自身の活動を認識しなければなりません。そしてその認識の過程において、それが意識的、無意識的に築いてきた些細なものごとへの気づきにおいて、精神は静かになるのです。その静けさに、創造的状態があるし、これが、変容をもたらす要因です。
(´・(ェ)・`)つ

445避難民のマジレスさん:2020/12/24(木) 11:50:03 ID:Fdz43.Xw0

  ○⌒\  
  (二二二)
(⌒(´・(ェ)・`)
(  o旦とI
(__し―J
あと8回でKの講読会は終了であります。

446鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/24(木) 22:26:46 ID:1d4drIFg0
些細なものごととは本来しなくてもよいようなものごとなのじゃ。
金とか権力とか名声のための行い等なのじゃ。
そのような囚われに気付く時にそれは解消されるのじゃ。
実はやらなくてよい行いであったと気付くからなのじゃ。

447避難民のマジレスさん:2020/12/25(金) 12:28:21 ID:y8r1aV7o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 1

質問
なぜあなたは精神の静寂について語られるのでしょうか。そしてこの静寂とは何でしょうか。

私たちが何かを理解しようと思うなら、精神が静寂であることが、必要ではないでしょうか。私たちは問題を持つなら、それについて悩まないでしょうか。私たちはそれに入ります。それを分析します。それを理解することを願って、ずたずたに・断片に引き裂きます。そこで、私たちは、努力をとおし、分析をとおし、比較をとおし、何かの形の精神的格闘をとおして、理解するでしょうか。確かに、理解は、精神がとても静かであるときだけ、来るのです。私たちは、飢餓の、戦争の、または他のどんな人間の問題も、 [それと] 格闘すればするほど、それと葛藤すればするほど、ますますそれをよく理解するだろうと、言います。そこで、それは真実でしょうか。戦争-個々人の間の、社会の間の抗争-が、幾世紀の間続いてきました。内面と外面の戦争が常にあります。私たちは、さらなる葛藤・抗争により、さらなる格闘により、ずるがしこい尽力により、その戦争、その葛藤・抗争を解決するでしょうか。それとも私たちは、直接にその前にあるとき、事実と向き合うときだけ、問題を理解するのでしょうか。精神と事実の間に干渉する興奮・動揺がないときだけ、私たちは事実に向き合えるのです。それで私たちが理解すべきである・しようとするなら、精神が静かであることが重要ではないでしょうか。
「どのようにして精神は静かにできるのでしょうか」と、あなたは必然的に訊くでしょ
う。それが即時の応答なのではないでしょうか。「私の精神は興奮し・動揺しています。それでどうしてそれを静かにしておけるのでしょうか」と、あなたは言います。何かの体系が精神を静かにさせられるでしょうか。公式、修練は、精神を静かにさせられるでしょうか。できます。しかし精神が静かにさせられるとき、それは静けさでしょうか。それは静寂でしょうか。それとも精神は、観念の中に、公式の中に、文句の中に囲い込まれる・閉じ込められるだけでしょうか。そういう精神は死んだ精神なのではないでしょうか。そういうわけで、霊的、いわゆる霊的であろうとするほとんどの人たちは、死んでいるのです。なぜなら、彼らは自分たちの精神を静かであるように訓練してきたからです。彼らは静かである間、自分たち自身を公式の中に囲い込んだ・閉じ込めたのです。明白に、そういう精神は決して静かではありません。それは抑圧され、押さえつけられ・抑えられるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

448鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/25(金) 23:36:09 ID:1d4drIFg0
理解は精神が静寂であるときだけ来るというのじゃ。
しかしそれは修練によるものではいかんというのじゃ。
観念や公式の中に閉じ込められた精神は死んでいるというのじゃ。
訓練による静寂は観察には役に立たないというのじゃ。
それはただの抑圧であるからなのじや。

449避難民のマジレスさん:2020/12/26(土) 18:10:15 ID:dLTm0wg60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 2

 精神は、それが静かであるときだけ、理解が来るという真理がわかるとき、静かです-
私はあなたを理解しようと思うなら、静かでなければならない。あなたに対して反応を持ってはならない。先入観を持ってはならない。自分の結論、自分の経験すべてを片づけて、あなたに面と向き合って出会わなければなりません。そのときだけ、精神が自分の条件づけから自由であるとき、私はほんとうに理解するのです。私がそれの真理がわかるとき、そのとき精神は静かです-そのときどのようにして精神を静かにさせるか、という問いはありません。真理だけが、精神をそれ自身の観念作用から解放できるのです。真理がわかるには、精神は、それが興奮・動揺しているかぎり、理解を得られないという事実を、悟らなければなりません。精神の静けさ、精神の平静さは、意志力により、願望のどんな作用によっても生み出されるものではありません。それが [産み出] されるなら、そのときそういう精神は、囲い込まれ・閉じ込められ、孤立しています。それは死んだ精神です。ゆえに適応性、柔軟性、すばやさの能力がないのです。そういう精神は創造的ではありません。
 私たちの問題は、そのときどのようにして精神を静かにさせるのかではなくて、あらゆる問題が私たちに生じるままに、それの真理がわかることです。それは、風が止むとき、静かになる池に似ています。私たちの精神は、私たちが問題を持つから、動揺しています。問題を避けるために、私たちは精神を静かにさせるのです。そこで精神はこれらの問題を投影してきました。それで精神から離れて問題はありません。精神がどんな感受性の着想でも投影し、どんな形の静寂でも実践するかぎり、それは決して静寂でありえません。静寂であることによってだけ、理解があることを、精神が悟るとき、そのときそれはとても静かになります。その静けさは課されません。修練されません。それは、動揺した精神が理解できない静けさです。
 精神の静けさを求める多くの人たちは、活動的な生から村へ、修道院へ、山へ退きます。
または観念の中へ退いたり、信念の中に閉じこもったり、自分たちに迷惑・面倒をかける人たちを避けたりします。そういう孤立は精神の静寂ではありません。観念における精神の閉鎖や、生をやっかいに・面倒にする人たちを避けることは、精神の静寂をもたらしません。蓄積をとおした孤立の過程がなくて、関係の過程全体についての完全な理解があるときだけ、精神の静寂が来るのです。蓄積は精神を老けさせ・古くします。蓄積の過程なしに、精神が新しいとき、新鮮であるとき、そのときだけ、精神の平静さを持つ可能性があるのです。そういう精神は死んでいません。それはもっとも活動しています。静寂な精神が最も活動的な精神です。しかしあなたはそれを実験し、それに深く入る気があるなら、静寂には思考の投影がないことが、わかるでしょう。思考はすべての水準で、明白に記憶の反応です。それで思考は決して創造の状態でありえないのです。それは創造性を表現するかもしれませんが、思考それ自体には決して創造性がありえません。静寂が、結果ではない精神の平静さがあるとき、そのとき、その静けさには、思考により動揺させられた精神が決して知ることのできないとてつもない活動、とてつもない行動があることが、わかるでしょう。その静寂には、定式化がありません。観念がありません。記憶がありません。その静寂は、「私」という過程全体の完全な理解があるときだけ、経験されうる創造の状態です。そうでないと、静寂は意味がありません。結果ではないその静寂においてだけ、永遠のものが発見されます-それは時間を超えています。
(´・(ェ)・`)つ

450鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/26(土) 23:26:10 ID:1d4drIFg0
修練による静寂は結局は死んでいるというのじゃ。
真の静寂は精神が新鮮であり、観念が無く、記憶も無いと言うのじゃ。
そのような精神の静寂は修練でなければどのようにもたらされるのかを説くのじゃ。
それは私という過程全体に気付く時に現われるというのじゃ。
つまり観照が起こり、無我になった時なのじゃ。
無我になった時に無我になれる静寂があるということになるのじゃ。
矛盾しているのじゃ。

451避難民のマジレスさん:2020/12/27(日) 13:21:39 ID:W4iRKgJs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三六 生の意味について 1

質問
 私たちは生きていますが、なぜ [生きるの]かを知りません。私たちのたいそう多くにとって、生は意味を持たないように見えます。私たちの生活の意味と目的を、言ってもらえませんか。

今なぜあなたはこの質問をするのでしょうか。なぜあなたは、生の意味、目的を言ってくれるように、私に頼んでいるのでしょうか。私たちのいう生とは、どういう意味でしょうか。生は意味、目的を持つのでしょうか。生活・生きることそれ自体に、それ自身の目的、それ自身の意味がないでしょうか。なぜ私たちはもっと多く欲しいのでしょうか。私たちは自分たちの生にあまりに不満足であり、自分たちの生があまりに空っぽで、あまりにけばけばしく、あまりに単調で、何度も繰り返し同じ事をしているから、何かもっと多くのもの、何か自分たちがしていることを越えたものが欲しいのです。私たちの日常の生があまりに空っぽで、鈍く、無意味で、退屈で、耐えられないほど愚かであるから、生はもっと充分な意味を持つにちがいないと、私たちは言うのです。そういうわけで、あなたはこの質問をするのです。確かに、豊かに生きている人、ものごとをあるがままに見て、自分が持っているもので満足している人は、混乱していません。彼は明晰です。ゆえに彼は、何が生の目的なのかを訊ねません。彼にとっては、まさに生きることこそが始まりと終わりです。私たちの困難は、私たちの生が空っぽであるから、私たちは生にとっての目的を見つけたいし、そのために奮闘する、ということです。
(´・(ェ)・`)つ

452鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/27(日) 21:59:02 ID:1d4drIFg0
個人が生きるという観念を持つ者には意味が必要となるのじゃ。
個人が無ければ生きることはただそれだけで喜びなのじゃ。
個人があれば老病死の苦も在るからその意味が必要となるのじゃ。
在るがままであれば何の意味も無いのじゃ。

453避難民のマジレスさん:2020/12/28(月) 20:35:47 ID:1W/eCbXI0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三六 生の意味について 2

そういう生の目的は、何の真実もないたんなる知性でありうるだけです。生の目的が、愚かな鈍い精神により、空っぽの心により追求されるとき、その目的もまた空っぽであるでしょう。ゆえに私たちの目的は、どのようにして自分たちの生を豊かにするのかです-金とその他すべてをもってではなく、内面的に豊かに [するの] です-それは何か隠れた・秘密のものではありません。生の目的は幸せであることである。生の目的は神を見つけることであると、あなたが言うとき、確かに、神を見つけたいというその願望は、生からの逃避ですし、あなたの神はたんに知られているものです。あなたは、自分の知っている対象に向かって、道を作れるだけです。あなたが神と呼ぶものへの階段を築くなら、確かにそれは神ではありません。真実は、逃避においてではなく、生きることにおいてだけ理解されうるのです。あなたは生の目的を求めるとき、ほんとうは逃避しているし、生が何であるかを理解していないのです。生は関係です。生は関係における行動です。私は関係を理解しないとき、または関係が混乱しているとき、そのときもっと充分な意味を求めます。なぜ私たちの生はこんなに空っぽなのでしょうか。なぜ私たちはこんなに寂しく、挫折しているのでしょうか。なぜなら私たちはこれまで一度も自分たち自身を覗いたことがなく、自分たち自身を理解したことがないからです。この生が自分たちの知っているすべてであること、ゆえにそれは充分に、完全に理解されるべきであることを、私たちは決して自分たち自身に認めません。私たちは自分たち自身から逃げ出すほうを好みます。そういうわけで、私たちは関係から離れた生の目的を求めるのです。私たちは行動-それは人々と、財産と、信念と観念と自分たちとの関係です-を理解しはじめるなら、そのとき関係自体がそれ自身の報賞をもたらすことを、見つけるでしょう。あなたは求めなくていいのです。それは愛を求めるのに似ています。あなたはそれを求めることにより、愛を見つけられるでしょうか。愛は育成できません。あなたは関係においてだけ、愛を見つけるでしょう-外側の関係ではありません。私たちが生の目的が欲しいのは、私たちが愛を持たないからです。愛があるとき-それはそれ自身の永遠性です-そのとき神への探求はありません。なぜなら愛は神であるからです。
 私たちの生がこんなに空っぽであるのは、私たちの精神が専門的な事項と迷信的な文句
で充ちているからです。そういうわけで、私たちは自分たち自身を越えた目的を求めるのです。生の目的を見つけるには、私たちは自分たち自身の扉を通ってゆかなければなりません。意識的にも無意識的にも、私たちはそれら自身においてあるがままのものごとに向き合うのを避けます。それで私たちは神に、私たちのために、越えている扉を開いて欲しいのです。生の目的についてのこの質問は、愛していない人たちによってだけ、出されます。愛は行動すなわち関係においてだけ、見つけられうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

454鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/28(月) 23:24:38 ID:1d4drIFg0
生とは関係だというのじゃ。
そして関係においてだけ愛を見つけるというのじゃ。
その時神への探求は止むというのじゃ。
神とは愛であるからなのじゃ。

455避難民のマジレスさん:2020/12/29(火) 21:46:01 ID:g1X3Iees0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三七 精神の混乱について 1

質問
 私は、あなたのすべての講話を聴いてきました。あなたのすべての本を読んできました。もっとも熱心に訊きますが、あなたの言われるようにすべての思考が止み、すべての知識が抑圧され、すべての記憶が失われなければならないなら、私の生の目的は何でありうるのでしょうか。あなたはその存在の状態-あなたによれば、それが何であろうとも-を、私たちがそこに生きている世界と、どのように関係させるのでしょうか。そういう存在は、私たちの悲しい苦しい・痛ましい存在と、どんな関係があるのでしょうか。

 私たちはこの状態が何であるかを知りたいのです-それは、すべての知識、すべての認識者がないとき、ありうるだけです。この状態が、私たちの日常の活動の、日常の追求の世界と、どんな関係を持つのかを、私たちは知りたいのです。私たちは、今自分たちの生が何であるか-悲しく、痛ましく、常に恐れて、何も永久的なものがない-を知っています。私たちはそれをとてもよく知っています。この他の状態が、それとどんな関係を持つのかを、私たちは知りたいのです-私たちが知識を脇に置いて、自分たちの記憶などから自由になるなら、存在の目的は何でしょうか。
 私たちが今知っているような存在の目的は、何でしょうか-理論的にではなく現実に、
です。私たちの日常存在の目的は、何でしょうか。ただ生き残る・生き延びることなのではないでしょうか-そのすべての悲惨とともに、そのすべての悲しみと混乱、戦争、破壊などとともに、です。私たちは理論を考案できます。「これはあるべきではない。しかし何か他のものがあるべきだ」と、私たちは言えます。しかしそれらはすべて理論です。それらは事実ではありません。私たちが知っていることは、混乱、苦痛、苦しみ、終わりなき敵対です。私たちはまた、そもそも気づいているなら、これらがどうして生じるのかをも、知っています。生の目的は、個人としても、また集団的人間としても、瞬間瞬間、毎日、互いに破壊しあうこと、互いに搾取・利用しあうことです。私たちは、自分たちの寂しさ、悲惨のなかで、他の人たちを利用しようとします。私たちは自分たち自身から逃避しようとします-娯楽をとおし、神をとおし、知識をとおし、あらゆる形の信念をとおし、同一化をとおして、です。それが、私たちが今生きているような、意識的、無意識的な自分たちの目的です。もっと深くもっと広い彼方の目的、混乱の、取得のものではない目的があるでしょうか。その努力のない状態は、私たちの日常の生と何か関係を持つのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

456鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/30(水) 22:01:12 ID:1d4drIFg0
悟りを得ていない者には記憶が全てなのじゃ。
記憶による生活と人生が最も大事なのじゃ。
それを捨てろという教えは理解できないのじゃ。
しかし、それらもいずれは永遠になくなるものであり、闘争と混乱と悲惨だけをもたらしているだけなのじゃ。

457避難民のマジレスさん:2020/12/31(木) 17:39:09 ID:c2cnwhx60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三七 精神の混乱について 2

 確かにそれは、私たちの生と全く関係がありません。どうしてあるでしょうか。私の精
神が混乱し、苦悶し、寂しいなら、どうしてそれが、何かそれ自体のものではないものと、関係することができるでしょうか。どうして真理が偽りと、幻影と関係することができるでしょうか。私たちはそれを認めたくないのです。なぜなら、私たちの希望、混乱が、私たちに何かもっと偉大な、高尚なものを信じさせるからです-それは私たちと関係していると、言うのです。絶望のなかで、私たちは真理を求めます。それの発見のなかで、自分たちの絶望が消え去るであろうと願います。
 それで混乱した精神、悲しみに支配された・乗っ取られた精神、それ自身の空っぽ、寂し
さに気づいている精神は、決して、それ自体を越えているものを見つけられないことが、わかります。精神を越えているものは、混乱、悲惨の原因が追い払われたり理解されたりするとき、生じうるだけです。私が言ってきた、話してきたことすべては、自分たち自身をどう理解するのか、です。というのは自己認識なしには、他のものはないからです。他のものはただ幻影です。私たちは、瞬間瞬間、自分たち自身の総合過程を理解できるなら、そのとき自分たち自身の混乱をきれいに片づけるなかで、他のものが生じることが、わかるでしょう。そのときそれを経験することが、これと関係を持つでしょう。しかしこれは決してそれと関係を持たないでしょう。・仕切りのこちら側にあって、闇の中にあって、どうして光の、自由の経験を持てるでしょうか。しかしいったん・ひとたび真理の経験があるとき、そのときあなたはそれを、自分たちが生きているこの世界と関係させられるのです。
 私たちは愛が何であるかを決して知らなくて、常なる口論・論争、悲惨、葛藤・抗争だけを
知っていたなら、どうしてこのすべてのものではない愛を経験できるでしょうか。しかしいったん私たちがそれを経験したとき、そのときわざわざ関係を見出そうとしなくていいのです。そのとき、愛、智恵が機能します。しかしその状態を経験するには、すべての知識、蓄積された記憶、自己同一化された活動は止まなければなりません。そのため精神はどんな投影された感動の能力もないのです。そのとき、それを経験すると、この世界に行動があるのです。
 確かに、それが存在の目的です-精神の自己中心的な活動を越えてゆくことです。精神
により測ることのできないその状態を経験してしまうと、そのときそれを経験することこそが、内面の革命をもたらします。そのとき、愛があるなら、社会的問題はありません。愛があるとき、どんな種類の問題もありません。私たちはどう愛するのかを知らないから、社会的問題と、自分たちの問題をどう扱うのかについての哲学の体系を持つのです。これらの問題は、左のでも右のでも中間のでもどんな体系・体制によっても、決して解決できないと、私は言います。それらは-私たちの混乱、悲惨、自己破壊は-自己投影されないその状態を経験できるときだけ、解決できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

458鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/12/31(木) 21:05:21 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティが今まで説いてきたことは全て、自分達自身をどう理解するかだというのじゃ。
自己認識が無ければ他の全てが無いからなのじゃ。
他の全ては幻想だとさえいうのじゃ。
それだけがこの世の混乱を解決できるというのじゃ。

459避難民のマジレスさん:2021/01/01(金) 10:41:59 ID:ts4ClNsk0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三八 変容について 1

質問
 あなたのいう変容とはどういう意味でしょうか。

明白に、根元的革命がなければなりません。世界の危機は、それを要求します。私たちの生はそれを要求します。私たちの日常の出来事、追求、心配事は、それ を要求します。私たちの問題はそれを要求します。根本的、根元的革命がなければなりません。なぜなら、私たちのまわりのあらゆるものごとが、崩壊してし まったからです。一見すると・外見上は、秩序があるようですが、実は緩やかな腐敗、破壊があるのです。破壊の波は常に生の波を追い越して・に襲いかかって います。
 それで革命がなければなりません-しかし観念に基づいた革命ではありません。そういう革命は、たんに観念の継続です-根元的変容ではありません。観念に 基づいた革命は、流血、分裂、混沌をもたらします。混沌から秩序は造り出せません。意図的に混沌をもたらして、その混沌から秩序を造り出したいと願うこと はできません。あなたは、混乱から秩序を造り出すべき、神に選ばれし者ではありません。それは、秩序をもたらすために、ますます混乱を造り出したいと願う 人たちのほうでの、いかにも偽りの考え方です。なぜなら、彼らは力を持つ当分の間、秩序の生み出し方すべてを知っていると、決めてかかる・当然思うからで す。この破局・大惨事の全体を見るとき-戦争の常なる反復、階級の間、人々の間の絶えざる葛藤・抗争、すさまじい経済的、社会的不平等、能力と才能の不平 等、とてつもなく幸せで冷静な・動揺のない人たちと、憎しみ、葛藤・抗争、悲惨に捕らわれている人たちとの間の大きな隔たり・懸隔-このすべてを見ると き、革命がなければならない、完全な変容がなければならないのではないでしょうか。
 この変容、この根元的革命は、究極のものでしょうか、それとも瞬間瞬間でしょうか。
私たちはそれが究極のものであって欲しいのを、私は知っています。なぜなら、遠く離れた見地に立って考えるほうが、はるかにたやすいからです。究極的に、 私たちは変容するだろう。究極的に、私たちは幸せであるだろう。究極的に、真理を見つけるだろう-その間は・それまでは続けよう。確かにそういう精神は、 未来という見地に立って考えているし、現在において行動する能力がありません。ゆえにそういう精神は、変容を求めていません。それはたんに変容を避けてい ます。私たちのいう変容とはどういう意味でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

460鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/01/01(金) 21:40:49 ID:1d4drIFg0
変容とは根源的な革命だというのじゃ。
それは観念の上で行われるものではないのじゃ。
観念があれば今までと同じ繰り返しなのじゃ。
観念が無ければ全てが変るのじゃ。
それが変容なのじゃ。

461避難民のマジレスさん:2021/01/02(土) 09:19:01 ID:yB/WV.lo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三八 変容について 2

 変容は未来にはありません-決して未来にはありえません。それは今、瞬間瞬間ありう
るだけです。それで私たちのいう変容とはどういう意味でしょうか。確かに、それはとても単純です-偽りを偽りとして、真理を真理として見ることです。偽り の中に真理を見ること、真理として受け入れられてきたものの中に偽りを見ることです。偽りを偽りとして、真理を真理として見ることが変容です。なぜなら、 あなたが何かをとても明晰に真理として見るとき、その真理が解放してくれるからです。あなたが何かが偽りであるとわかるとき、その偽りのものごとはなくな ります。あなたは、儀式がたんなる空虚な反復であることが、わかるとき、それの真理がわかって、それを正当化しないとき、変容があるのではないでしょう か。なぜなら、もう一つの束縛がなくなったからです。あなたは、階級差別が偽りであること、それは人々の間に葛藤・抗争を造り出し、悲惨、分割を造り出す ことが、わかるとき-それの真理がわかるとき、その真理こそが解放するのです。その真理の知覚こそが変容なのではないでしょうか。私たちはあまりに多くの 偽りであるものに囲まれているので、瞬間瞬間、偽りを知覚することが変容です。真理は累積しません。それは瞬間瞬間です。累積し、蓄積されるものは記憶で す。記憶をとおして、真理は決して見つけられません。というのは、記憶は時間のものであるからです-時間は過去・現在・未来です。時間すなわち連続性は、 永遠であるものを決して見つけられません。永遠性は連続性ではありません。永続するものは永遠ではありません。永遠性は瞬間にあるのです。永遠性は今にあ るのです。今は過去の反映・反射ではなく、また現在をとおして未来への過去の継続でもありません。
 未来の変容を願望したり、究極の目的として変容に頼る精神は、決して真理を見つけら
れません。というのは、真理は瞬間瞬間来なければならない、新たに発見されなければならないものであるからです。蓄積をとおして、発見はありえません。あ なたは古いものの重荷を持っているなら、どうして新しいものを発見できるでしょうか。あなたが新しいものを発見するのは、その重荷の停止をもってだけで す。瞬間瞬間、現在のなかで、新しいもの、永遠のものを発見するには、とてつもなく鋭敏な精神、結果を求めていない精神、なろうとしていない精神が必要で す。なろうとしている精神は、充分な満足の至福を、決して知ることができません-自己満足の満足ではなく、達成された結果の満足ではなく、精神があるがま まの中の真理と、あるがままの中の偽りを見るとき、訪れる満足です。その真理の知覚は瞬間瞬間です。その知覚は、瞬間の言語化・作用をとおして延期され・ 遅れます。
 変容は目的、結果ではありません。変容は結果ではありません。結果は、残り滓、原因と結
果を含意します。原因作用・因果関係があるところ、必ず努力があります。努力はたんに、変容されたいというあなたの願望の結果です。あなたは変容されたい と願望するとき、やはりなろうとする見地に立って考えています。なろうとしているものは、 [今・現在] あるものを、決して知ることができません。真理は瞬間瞬間あるのです。継続する幸せは幸せではありません。幸せは、時間のない存在の状態です。その時間の ない状態は、ものすごい不満があるときだけ、来れるのです-それをとおして逃避する経路を見つけた不満ではなくて、はけ口がなく、逃げ口がなく、もはや充 実を求めていない不満、です。そのときだけ、その最高の不満の状態の中に、真実が生じうるのです。その真実は、買われ、売られ、反復されるべきものではあ りません。それは書物の中に捕らえられません。それは、微笑みに、涙に、枯れ葉の下に、とりとめのない思考に、愛の充足に、瞬間瞬間、見つけられなくては なりません。
 愛は真理と異なっていません。愛は、時間としての思考過程が完全に止んだ状態です。
愛があるところ、変容があります。愛なしには、革命は意味がありません。というのは、そのとき革命はたんに、破壊、腐敗、ますます大きく常に増して・高まってゆく悲惨であるからです。愛があるところ、革命があります。なぜなら、愛は瞬間瞬間、変容であるからです。
(´・(ェ)・`)つ

462避難民のマジレスさん:2021/01/02(土) 09:39:56 ID:yB/WV.lo0
昨年3月4日からつづけて参りましたクリシュナムルティの講読会、いったん休みであります。
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

463鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/01/02(土) 23:27:25 ID:1d4drIFg0
変容とは今ここにあるものじゃ。
明日にしようとかはできないのじゃ。
過去の蓄積でもないのじゃ。
今この瞬間に自己に気付くことで起こるのじゃ。

464鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/01/02(土) 23:27:58 ID:1d4drIFg0
>>462 ご苦労さんなのじゃ。
 ゆっくり休むと善いのじゃ。

465避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 07:07:55 ID:VDH662kQ0
34.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b①
獲得することで失う啓示

Q:多くの探求者達がラクナウにやって来て、この状態を経験して西洋に帰ると、その経験が落ちて
しまうのはなぜですか?

 それは決して起こるはずがない。それは決して起こりえない。自分自身を知った人が、どうして自
分自身を忘れることができるのかね。それは不可能だ。それは真実ではない。
 海に流れこんだ河は河としての名前と形態に戻ることはできない。それは終わりだ。そのように、
マインドを源泉に解き放したら、マインドはもはやマインドではない。それは「それ」そのものだ。
マインドになることはできない。それはノーマインドと呼ばれる。これを明確にしなさい。
 多くの人が西洋に帰るとそれを失くすと言うが、私はこれを信じない。その人達は「それ」を手に
入れなかったのだ。だから、彼らは「それ」を失くしたと考えるのだ。
 しかし、あなたの手が空っぽなら損も得もない。何も得なかったのなら何も失うこともない。だか
ら、すべての欲望をマインドから取り除きなさい。一度空になったら、それは再び満たされることは
ない。
 その人達はラクナウで以前には手にしたことがない、何か新しいものを手に入れたと考えている。
だから失うことになるのだ。
 何かを獲得するのでも失うのでもない、あなたはすでに自由で悟っているのだと理解することだと
私は言っているのだ。
 すでに悟っているのなら、モスクワでも、ワシントンでもラクナウでもすでに悟っているのだ。ど
のようにして何かをどこかで失うことができるのか?
これが私が話していることだ。何かを獲得しようとしないこと。むしろ、今までに得たものをすべ
て失くすことだ。読んだり聞いたりしたことをすべて後にすることだ。残されたものがあなたの真我
として、姿を現すだろう。これを知ったとき、それを失くすことはできない。
 どんな獲得も失われる。獲得しなかったものを失くすことはない。ラクナウであなたのポケットが
空っぽなら、ニューヨークでも又空っぽだ。だからいつもポケットを空にしておきなさい。空っぽの
手の中にすべてがやって来るのだ。いつも何かを掴んでいると受け入れる許容性がない。手を空っぽ
にしなさい。そうすると再びすべてがやって来る。
 だから宇宙の皇帝は空っぽのマインドだ。空っぽのマインドと空っぽの手という意味は思考がない
ということだ。思考を持たない人が領国の王だ。試してみなさい!
 マインドを空にしてあなたは誰か感じなさい。これが平和とも、悟りとも、自由とも呼ばれる。し
かし、マインドに何の思考も保たないことだ。

Q:大変祝福された至福の状態を経験しましたが、失くしてしまうのではないかという恐れが忍び込
んできました。

 この美しさをほんの瞬間見ただけでも、最愛の人はあなたを一人にしない。恐れと緊張を運んで来
るのはマインドだ。しかし、心配することはない。「それ」が、あなたを永久に捕まえるだろう。
 あなたは「それ」を失くすかもしれないと考えているが、「それ」を失くすことはできない。ほん
の一瞬でもこの一瞥を持ったなら、それで終わりだ。
 しかし、その一瞥に執着するとそこにあっても「それ」を見ることはできない。

    真我はいつも現存している、
   至福はいつも現存している。
 それを獲得しようと努力する必要はない。
 「それ」を見ることを妨げている障害をただ取り除くだけでよい。
 障害は一つ、過去に対する執着だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

山居 二首 2/2
狂雲眞是大燈孫 狂雲真にこれ大燈の孫
鬼窟黒山何稱尊 きくつこくざん なんぞそんと称せん
憶昔簫歌雲雨夕 おもふ昔しょうかうんうの夕べ
風流年少倒金樽 風流の少年きんそんを倒せしことを

狂雲、本当は大燈国師の孫弟子なのである。
なのに、鬼の棲家のような暗い山奥に住むことの何が尊いものか。
昔は笛を奏で、歌って、ニャンニャンしてたのだ。(最近の表現を知らぬくまである)
風流な若者と、浴びるほど飲んで、酒樽をころがして楽しんだのだ。

*山居した山とは、49歳頃に住んだ、尸陀寺(じだじ)(大阪府高槻市と京都市との境の山間部)の
ことだとすれば、グーグルマップで見ると、大徳寺から30kmくらい、歩いて6時間くらいの山の中であ
る。この時は1年も辛抱できずに、都会へ戻ったのである。しかし、この5年後に再びここに戻り、
人生2回目の断食自殺をはかったが、勅命で中止させられたのである。原因は大徳寺内、僧侶数人の
投獄、自殺者まで出たこと、堕落した僧界に失望したことらしい。
(´・(ェ)・`)b

466避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 09:46:31 ID:E2QJIuaY0
34.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b①
獲得することで失う啓示

Q:多くの探求者達がラクナウにやって来て、この状態を経験して西洋に帰ると、その経験が落ちて
しまうのはなぜですか?

 それは決して起こるはずがない。それは決して起こりえない。自分自身を知った人が、どうして自
分自身を忘れることができるのかね。それは不可能だ。それは真実ではない。
 海に流れこんだ河は河としての名前と形態に戻ることはできない。それは終わりだ。そのように、
マインドを源泉に解き放したら、マインドはもはやマインドではない。それは「それ」そのものだ。
マインドになることはできない。それはノーマインドと呼ばれる。これを明確にしなさい。
 多くの人が西洋に帰るとそれを失くすと言うが、私はこれを信じない。その人達は「それ」を手に
入れなかったのだ。だから、彼らは「それ」を失くしたと考えるのだ。
 しかし、あなたの手が空っぽなら損も得もない。何も得なかったのなら何も失うこともない。だか
ら、すべての欲望をマインドから取り除きなさい。一度空になったら、それは再び満たされることは
ない。
 その人達はラクナウで以前には手にしたことがない、何か新しいものを手に入れたと考えている。
だから失うことになるのだ。
 何かを獲得するのでも失うのでもない、あなたはすでに自由で悟っているのだと理解することだと
私は言っているのだ。
 すでに悟っているのなら、モスクワでも、ワシントンでもラクナウでもすでに悟っているのだ。ど
のようにして何かをどこかで失うことができるのか?
これが私が話していることだ。何かを獲得しようとしないこと。むしろ、今までに得たものをすべ
て失くすことだ。読んだり聞いたりしたことをすべて後にすることだ。残されたものがあなたの真我
として、姿を現すだろう。これを知ったとき、それを失くすことはできない。
 どんな獲得も失われる。獲得しなかったものを失くすことはない。ラクナウであなたのポケットが
空っぽなら、ニューヨークでも又空っぽだ。だからいつもポケットを空にしておきなさい。空っぽの
手の中にすべてがやって来るのだ。いつも何かを掴んでいると受け入れる許容性がない。手を空っぽ
にしなさい。そうすると再びすべてがやって来る。
 だから宇宙の皇帝は空っぽのマインドだ。空っぽのマインドと空っぽの手という意味は思考がない
ということだ。思考を持たない人が領国の王だ。試してみなさい!
 マインドを空にしてあなたは誰か感じなさい。これが平和とも、悟りとも、自由とも呼ばれる。し
かし、マインドに何の思考も保たないことだ。

Q:大変祝福された至福の状態を経験しましたが、失くしてしまうのではないかという恐れが忍び込
んできました。

 この美しさをほんの瞬間見ただけでも、最愛の人はあなたを一人にしない。恐れと緊張を運んで来
るのはマインドだ。しかし、心配することはない。「それ」が、あなたを永久に捕まえるだろう。
 あなたは「それ」を失くすかもしれないと考えているが、「それ」を失くすことはできない。ほん
の一瞬でもこの一瞥を持ったなら、それで終わりだ。
 しかし、その一瞥に執着するとそこにあっても「それ」を見ることはできない。

    真我はいつも現存している、
   至福はいつも現存している。
 それを獲得しようと努力する必要はない。
 「それ」を見ることを妨げている障害をただ取り除くだけでよい。
 障害は一つ、過去に対する執着だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

山居 二首 2/2
狂雲眞是大燈孫 狂雲真にこれ大燈の孫
鬼窟黒山何稱尊 きくつこくざん なんぞそんと称せん
憶昔簫歌雲雨夕 おもふ昔しょうかうんうの夕べ
風流年少倒金樽 風流の少年きんそんを倒せしことを

狂雲、本当は大燈国師の孫弟子なのである。
なのに、鬼の棲家のような暗い山奥に住むことの何が尊いものか。
昔は笛を奏で、歌って、ニャンニャンしてたのだ。(最近の表現を知らぬくまである)
風流な若者と、浴びるほど飲んで、酒樽をころがして楽しんだのだ。

*山居した山とは、49歳頃に住んだ、尸陀寺(じだじ)(大阪府高槻市と京都市との境の山間部)の
ことだとすれば、グーグルマップで見ると、大徳寺から30kmくらい、歩いて6時間くらいの山の中であ
る。この時は1年も辛抱できずに、都会へ戻ったのである。しかし、この5年後に再びここに戻り、
人生2回目の断食自殺をはかったが、勅命で中止させられたのである。原因は大徳寺内、僧侶数人の
投獄、自殺者まで出たこと、堕落した僧界に失望したことらしい。
(´・(ェ)・`)b

467鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/07(火) 23:53:46 ID:1d4drIFg0
本当に主体に気付いたならば、その経験がおちると言う事は無いのじゃ。
道に落ちている縄が蛇ではないと気付いた者が、再びそれを蛇であるとは思わないようにのう。
真実に気付いたならば、それが落ちるはずも無いのじゃ。
落ちてしまうならばそれは真実ではなかったのじゃ。

468鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/07(火) 23:57:48 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 山居の二なのじゃ。

 狂雲の一休は真に大燈の孫なのじゃ。
 鬼窟や黒山の何が尊いというのじゃろうか。
 昔を思えば夕べには歌い踊って色事をしたものじゃ。
 年少でも風流に樽飲みしていたのじゃ。

469避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 08:04:50 ID:EtoivADE0
くま訳改
第四句:年少でも風流に樽飲みしていたのである。

35.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b②
獲得することで失う啓示

 過去のどんな思考にも執着しないなら、それはすでにそこにある。これが体験と呼ばれるのだ。分
かるかね? 「それ」の体験は障害物、妨害、執着がないとき起こるのだ。だからもう一度やりなさい。

Q:やってみましたが、又消えてしまいました。

 消えさせなさい。あなたは一瞥した。あなたはそれを憶えている。これでもうまく行く。消えてし
まった一瞥をいつも覚えていなさい。もしこの意識が消えてしまった何かを覚えているなら、意識し
ているなら、この消滅は何なのか?
  過去に消え去った何かがマインドの中にいつも現れているということではないのか?  この一瞥
が消え去ることは不可能だ。だからこれで十分だ。快楽の園に行って美女に出会って彼女は消え去る。
 この消え去った美女のことをマインドは覚え続けている。眠っている時でさえも。この美女はあな
たのマインドの中に生きていて彼女はあなたと一緒にいる。一瞥も同じことだ。どんな違いもない。
 恐れは得たものを失くす恐れだ。あなたはいつもそれを一緒に持っていたい。
 ポケットに$5000持っていると仮定して、森の中を歩いている。恐れがやって来る。しかし、
ポケットが空っぽなら何も取られるものがないので恐れはない。 失う可能性があるものを望まない
のが一番よい。 なぜなら、それを手に入れるとマインドに恐れを引き起こすからだ。
 現れたり消えたりするものの後を追うのは止めなさい。そうすると、永遠の満足と喜びを与えてく
れる「それ」を見つけることができる。現われもしないし消えもしないものが永遠で、これは今ここ
で試練なしで手に入れることができる。

 「それ」としてあることで啓示を敬う
 
  宇宙のハートは最微粒子だ。
肉体やマインドを連れてはそこにいけない。
それは純粋さの中の最純粋さで
一つの思考でさえ、それを汚してしまう。
 
  宇宙のハートを真に一瞥することは、
コップの水を川に注ぎこむようなものだ。
コップの水を二度と見ることはできない。
 「私」に触れなければこの一瞥が起こるだろう。

  一瞥は重要ではない。
  一瞥を経験している人、それは誰か?
一瞥の後、何がそこにあるのかこれが最も重要だ。
気づきは去っていくことも、破壊されることもない。
 
  自由になるには何にも依存する必要はない。
しかもそれは一瞥ではない。
自由はいつも、永遠にハートの中に存在するのだから
  至福の一瞥を与える多くの手助けをすべて取り除きなさい。
何にも依存しないこと、ただ静かにしていなさい。
マインドが過去の何かに執着するのを阻止しなさい。
未来志向を阻止しなさい。
身体という姿に執着するのを許さないこと、
  あなた自身やグルの肉体でさえも。
その時あなたは唯一自由と共に残される。
これは一瞥ではない。
  これは永久にあなたの真我の中に定住することだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

寄近侍美妾   きんじのびしょうによす
淫乱天然愛少年 淫乱天然少年を愛す 
風流清宴対花前 風流の清宴か前に対す
肥似玉環瘦飛燕 肥たることはぎょくかんに似たり瘦せたるは飛燕
絶交臨済正傳禪 交わりを絶つ臨濟しょうでんの禅 

くま訳
そばに仕える、美しいお女郎さんにささげる。
天性、並外れて美しい若い娘が大好きなのである。
花(美妾)と対する前の風流な宴も良いものだ
ぽちゃりした娘は楊貴妃のよう、瘦せた娘は飛燕のようだ。
(唐突ではありますが、)臨済宗とは絶交するであります。

*淫乱:(古典)程度を過ごすことという意味
*天然: 生まれつきであること。それ本来の姿であること。また、そのさま。天性。
*楊 貴妃:唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環
*趙 飛燕(ちょう ひえん):前漢の皇后
   cf「環肥燕瘦」:優れた容姿の表現

加藤周一先生訳(男色説)
そばつきの男色たちに。
生れつきの色好みが高じて、男色を楽しむようになり、
生命花やぐ宴席では、いつも花のような(君たちが)相手。
ふとった男の子は、玉環とよばれた楊貴妃、細っそりした男の子は、漢の孝成帝に仕えた飛燕そっくりで、
(君たちと遊んでいる限り)臨済禅の正室など、ぷっつり縁が切れている。
(´・(ェ)・`)b

470鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/08(水) 23:22:06 ID:1d4drIFg0
真理が一度観られたならば、もはやそれを取り逃がしてもよいのじゃ。
それが大地のように全てのものが最後にいきつくところであるからのう。
誰も大地を取り逃がしたりしないのじゃ。
ただ観念に囚われなければいつでもそこに居られるのじゃ。

471鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/08(水) 23:25:48 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 近侍の美妾に寄せて詠うのじゃ。

 限度もなく天然に少年を愛するのじゃ。
 風流な清宴は花を前に対するのじゃ。
 太って居る者は玉の宝石のようであり、やせているものは飛燕に似ているのじゃ。
 臨済の正伝も絶好なのじゃ。

472避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 23:50:42 ID:Pc0szfNU0
36.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b③
獲得することで失う啓示

サットサンガと「私は誰か」と探求することが隠れた惰性を掻き混ぜて、浮かび上がらせ流し去っ
てしまうだろう。その時純粋なマインドがその源泉に休息することができる。
 絶えずマインドを真我に送り返しなさい。この瞬間に何が永遠か見つけだしなさい。剃刀の刃の上
を二人で歩くことはできない。だから一点に集中していなさい。
 信じられないことを信じなければならない。未知に直面しなければならない。既知に後戻りしない
こと。あなた自身を複雑にするのはやめなさい。静かにしていなさい。

  交際をすべて拒絶したのなら、拒絶さえも拒絶しなさい。
さもないと、屑篭を頭の上に乗せているようなものだ。
  ひとかけらの考えさえ「それ」の純潔さを汚してしまう
  「それ」に向かいなさい。
  この限りない真我探求は、無限の報酬を与える。
  有限の真我探求は、有限の報酬を与える。
  「それ」があなたを捕まえるまで真我探求の中で我を忘れなさい。
真我探求はあなたを名前のないもの、形態のないものに連れていく。
そしてすべては終わりになる。
自由の内には真我探求は存在しないからだ。
四面の壁、知性-マインド-肉体-感覚、が壊された後に、
  古い門がまだ残っている。
  「私は自由だ」の形態をとって「私」という古い習癖が残っている。
この門は必要ない。
死の以前に崩れないなら、肉体が死ぬ時にそれは崩れるだろう。
  両方共、同じ事だ。

Q:真我探求をやっていますが、もうこれ以上進めないという時点に到達しました。

 先に進むことができない所が、あなたが居なければならない場所だ。やるべき何かがもっとあると
言っているのはマインドにすぎない。このマインドを止めなさい。
 ある登山隊の一行が山を登って行って、頂上に着く前に、地図が終わっているのに気づいた。それ
で、ベースキャンプに最後の地図を得るために人を走らせた。
 一行が待っている間に、第2のチームが頂上からキャンプへと山を下りて来た。そして、彼らは何
を待っているのかと尋ねた。
 「頂上に至る最後の部分の地図を忘れたので、それを得る為に人を走らせて、帰って来るのを待っ
ているのだ」と答えた。
 「ばかだね!」と勝利にみちたチームのリーダーは言った。「地図は必要ない。ここが頂上だ。こ
こが地図の最終点だ。」
 これがあなたの場合だ。先に進む為に必要な地図を得るのにマインドをランナーとして送った。し
かし、あなたは頂上に居るのだからどこにも行く必要がない。あなたが頂上だ。
 今、この頂上を愛し、敬意を表しなさい。マインドが地図を必要とするだけで、あなたではない。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

473避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 23:52:13 ID:Pc0szfNU0

不邪淫戒
淫坊年少也風流 淫坊年少また風流
啑吻抱持狂客愁 そうふんほうじ狂かくうれふ
妄闘樗蒲李群玉 みだりにちょほをたたかわしむ
名高虞舜辟陽侯 なは高しぐしゅんへきようこう

くま訳
遊里の少女たちよ
接吻して抱き寄せる、狂おしい思い。
ちょぼをして、二妃を待つ、李群玉の詩に詠まれているような思いだ。
有名な、伝説の古代の天子、虞舜や、項羽に仕えた辟陽侯の逸話もあるではないか。

*樗蒲(ちょぼ)は、中国古代のダイスゲーム・賭博で。平たい板を5枚投げて、その裏表によって
すごろくのように駒を進めるゲームであったらしい。
*李群玉(りぐんぎょく):813-860晩唐の詩人。「李群玉」「樗蒲」でググルと、↓の詩が出てくる。

湘妃廟   李群玉  パソコンの達人 先生 (HP訳)
少将風月怨平湖 波静かな湖の風月も二妃 二人の美人 に会えなければ恨めしいだけ
見尽扶桑水到枯 扶桑の茂る東海の水の 枯れてしまうまで じっと待っていよう
相約杏花壇上去 杏の花の下の 祭壇で逢う時を約束をして
画欄紅紫闘樗蒲 紅や紫の色をもって 縁取りをした盤で 双六でもしましょう

この湘妃は、 虞舜↓の妃
   
*虞舜(ぐしゅん):中国古代BC1940頃 – BC1900頃の伝説上の天子。善政を敷いた。遠藤星希先
生によると、 虞舜の妃、湘妃は、舜帝の死を悲しみ、湖水に自沈した悲しい物語がある。
*辟陽侯:審 食其(しん いき、?- 紀元前177年)は、前漢の人。紀元前205年、劉邦は楚の項羽
に敗れ、妻子を置いて逃走した。劉邦の妻呂雉(呂后)は項羽の捕虜となったが、辟陽侯・審食其は
呂后らに従い世話をした。その後、呂后らは漢王の元へ戻り、審食其も漢王に従った。
この呂后と辟陽侯はできちゃっていたらしい。
*陽侯については、別人の話であるが、こんな話もあった。
陽侯:(肝冷斎先生のHPより抜粋引用)戦国から漢の時代についてよく語られた水の神さま・・・・、
陽陵国の首長。彼は川で溺死したので、その神霊は大波を起こしてひとびとに害をなす力を持った。
このため、(突然起こる)大きな波のことを「陽侯さまの波」といい、・・・陽侯の波に気をつけろ
、とは、小さいことも大きいことも気にするように、という寓言だそうである。
*今日の詩については、伊井暇幻先生のHPに、すばらしくまとまった解説と訳があったのである。

一休さんは、16歳から西金寺の謙翁宗為和尚の弟子となった。謙翁は自分の名前、宗為から一字を譲
り「宗純」の法名を与えた。一休はこの謙翁和尚を心底から慕っていたらしく、1414年(20歳)に和
尚が他界した時は、悲嘆のあまり、・・・瀬田川に入水自殺を図っている。(世界恩人巡礼大写真館
HPより)
この時は、一休ママの手下に止められて未遂に終わったのである。(2回目の自殺未遂は53歳)
その経緯を踏まえて、 又、この詩に散りばめられた、逸話、寓話を勘案すると、これは、
忠節を貫いた湘妃、または 水の神 陽侯(一休)が、大徳寺主流派を追落し、綱紀粛正するから、覚
悟せよ!と遊里で盛り上がっていた時の詩ではありますまいか?
一休と一緒に遊んでいた風流人たちは、さぞや楽しかったでありましょう。(くま説)

しかし、一休さんの脳内には、情報がいっぱいである。PCのない時代、ほとんど暗記していたので
ありましょう。詩情があって、言葉を紡ぎだすというよりも、記憶した情報が出口を求めて、溢れ出
てくるのではありますまいか。

個くま的好みにより、この詩の解釈に於いては、男色の詩説は不採用である。雁艶詩という修行法も
あるらしいのである。
(´(ェ)`)b

474鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/09(木) 23:54:39 ID:1d4drIFg0
もはや以上進めないというのならば、そこに止まるとよいのじゃ。
ただ無為に座り続けると善いのじゃ。
行為が目的をなくした時、自己が忘れられて行くのじゃ。
無為の行為こそ最後の実践なのじゃ。

475鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/09(木) 23:57:38 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 不邪淫戒なのじゃ。

 淫坊の年少は風流なのじゃ。
 ちゅーをして抱きしめれば客は愁い狂うのじゃ。
 みだりに樗蒲を戦わす李群玉のうじゃ。
 あるいは名高き虞、舜、辟陽侯のようじゃ。

476避難民のマジレスさん:2021/12/10(金) 08:02:18 ID:ifDxuVWc0
37.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b④
獲得することで失う啓示

Q:ラマナ・マハルシが言っていることをたくさん本で読みましたので、あなたが言っていることを
知的によく理解することができます。

 知的な理解は絶対必要だ。しかし、それがあなたに必要なすべてではない。あなたはそれをやるの
だ。それになる必要がある。知的な地図は十分でない。

Q:しかし私はたいてい静かにしていられます。

 なぜマインドがさまよったり、静けさから出たり戻ったりするのか? やがて出歩くのをやめてマ
インドは静寂の中に留まるだろう。
 平和を探そうとどこかに行く必要はない。平和はあなたの内にある。あなたがその平和だ。対象に
向かっていくと決して平和を得ることはない。

Q:思考の対象が現われたり消えたりするのを見ることができる場所を知っています。

      あなたが見つめているその人だ、
     あなたが思考の証人だ。
     やってくる、通りすぎる、止まる。
    見つめているその人は永遠だ。
    マインドは対象に巻き込まれる癖がある。
    静かに見つめていることと、巻き込まれることが
    同時に存在することはできない。

 この習癖の為にあなたが巻き込まれているのはスクリーンの上のただの映像にすぎないということ
を忘れてしまう。この忘れっぽさの為に静かな証人であることを忘れて映像そのものに同一化するの
だ。あなたはこれらの映像が映しだされ通りすぎるスクリーンだということを忘れている。

     あなたは変わらないスクリーンだ。
   映画の 海の水はあなたを濡らさないし、火はあなたを燃やさない。
   ロマンスは、あなたに影響を与えない。
   内側、外側、あなたが見ているのは
   すべてマインドの投影であることを許しなさい。

このようにあなたは触れられない「それ」として滞まらなければならない。

   同一化が起こる以前にある「それ」、
   知的な把握が起こる以前に存在する
   「それ」が永遠の存在だ。

  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

謝人贈鹽醤   人の塩醤(えんしょう)を贈るを謝す
胡亂天然三十年 うろんてんねん30年 
狂雲策略這般禅 狂雲が策略しゃはんの禅
百味飲食一楪裡 百味のおんじきいっちょうのうら
淡飯麤茶属正傳 たんぱん粗茶正傳にぞくす

くま訳
人から塩醤油を贈られたことに対して謝する
生まれながらに怪しい奴として生きて30年。
狂雲の策略、諸般の事情による禅
百通りもの味を一枚の小皿で飲み食いして味わった。(色んな人生経験を味わった)
粗食、粗茶も正傳した。
 
*這般(しゃはん):「此」の意。これら。この辺。このたび。今般。「這般の事情により」
*胡乱(うろん):① 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。② 確かでないこと。真実かどうか疑
わしいこと。また、そのさま。③乱雑であること。また、そのさま。
*楪:小皿
(´・(ェ)・`)b

477鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/10(金) 23:59:19 ID:1d4drIFg0
あることができたり出来なかったりするという者にそれをしている者は誰か、それを見ている者は誰かと、パパジは問うのじゃ。
行為の主体やそれを見る者に気付かせるためなのじゃ。
ものごとをできたりできなかったりすることに意味は無いのじゃ。
それをしている者や、観ている者を探すのじゃ。

478鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/11(土) 00:02:59 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 人から塩醤を贈られた感謝なのじゃ。

 胡乱にして天然の30年なのじゃ。
 わしの策略は這般の禅なのじゃ。
 百味の飲食はこの一枚の皿の中にあるのじゃ。
 淡食、粗茶は正伝に属するのじゃ。

479避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 00:15:10 ID:vc0A5Fxo0
38.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b⑤
獲得することで失う啓示

 思考があなたを対象に連れて行こうとするとき、あなたは思考と一緒に付いて行く傾向がある。心
に従う・・これはすべての人の習癖だ。
 往ったり来たりする思考を避けなさい。思考に従う人も避けなさい。ただ思考を見つめているので
はなく、内なる意識から外の対象へと思考に従っている人を見つめなさい。

      思考に従って行く人も又思考だ。
  思考に従って行く人は思考の中にいる。
  両方(思考と従っていく人)とも思考だということを知ったならあなたは家にいる。
  そうすると、思考が起こってもよい。
  思考に従って行くのもよい。
  あなたは不動で何事も気にかけない存在、「それ」として存在する。
  これが至高の理解だ。

これを理解するのは難しい。ただそれをやりなさい。波が海の上で動きまわっているように、思考
を起こらせ沈めなさい。海は波が立ったり沈んだりして遊んでいるのを気にしない。海は「波は私だ
から、波は決して私から離れることができない」と知っている。これが意味深長な理解とよばれるの
だ。

    これが事の終わりだ。
  サンサーラはそこにある。あらせなさい。
  顕現は真我の性質だ。
  真我そのものが静かにしていないですべての形態をとって現われる。
  すべての顕現が真我だ。
  波が海であるようにすべての顕現は「それ」だ。
   それ故に何も受けいれることはないし、
  何も拒否することもない。
  静けさを許し、マインドが遊びに行くのを許し、
  マインドそのものが楽しむのを許しなさい。
  違いはあなたは楽しんでいる人ではないということだ。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

諸所巡歴宣言 85歳 
退酧恩庵    しゅおん庵を退く
雲水江山我脚跟 雲水こうざんわがきゃくこん
殿堂幸有一乾坤 殿堂幸いにいちけんこん有り
常住物便私車馬 常住もつすなわち私の車馬
酧恩塔主不知恩 しゅうおんのたっす恩を知らず

くま訳
酬恩庵を退く
雲水として諸国山河を行脚するのだ、我脚で。(それが、わしの基本なのだ)
殿堂は、幸いなことに広大な天地があるのだ。
今までは寺の共有物の車馬を私用に使ったりしたのだ。
酬恩寺の塔主(一休)は恩知らずなのだ。

柳田聖山先生 訳
雲水や湖水や山々と自分の脚の赴くまま
幸いなことに寺院の殿堂も一つの天地だ
身の回りの品々も私用に備えた車と馬と
自由奔放なこの庵の主人は恩を知らない

*常住物(じょうじゅうもつ):寺の共有物。寺舎・田園雑具、また僧の常食など。
*塔主(たっす):塔頭を司る役。また、その僧。
 塔頭(たっちゅう):寺院のなかにある個別の坊。寺院を護持している僧侶や家族が住む。
*一休は、大応図師の塔主と名のっていたそうである。(一休が妙勝寺(→酬恩庵)を再建した際に
 大応国師の木像が安置した。)
63歳、大応国師の旧蹟妙勝庵を再建し、近くに「酬恩庵」をたてた。宗祖の恩にむくいる意味で「酬
恩庵」と命名。
73歳、応仁の乱が始まり、五山はすべて焼かれ、安国寺も大徳寺も燃えた。
77歳、森女と同棲。
81歳、天皇の勅命を受けて大徳寺の住職。 酬恩庵に住みながら、大徳寺の再建。
84歳、和泉の小島へ一時避難、
85歳 諸所巡歴、
86歳、『狂雲集』をまとめ。そして翌87歳の秋、マラリヤで生涯を閉じた。
(´・(ェ)・`)b

480鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/11(土) 21:49:34 ID:1d4drIFg0
思考が起こっても起こらなくてもただそのままにしておけというのじゃ。
思考に巻き込まれるものを観るべきだというのじゃ。
何も受け容れず、何も拒否せずただありのままにそれを観るだけでよいのじゃ。
そうすれば真我の実現も向こうからやってくるのじゃ。

481鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/11(土) 21:53:33 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 酬恩庵を退所するのじゃ。

 雲水は河や山が我が脚根というのじゃ。
 殿堂には幸い天地が在るのじゃ。
 常住物は私車馬として便じるのじゃ。
 酬恩庵の塔主は恩知らずなのじゃ。

482避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 22:10:53 ID:4EFf5LRA0
39.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-c①
獲得することで失う啓示

獲得することで失う啓示

Q:「私」の中に間隙があるのを一瞥したと思います。

 一瞥というのは、あなたが何かを見たということだ。この意味は、見られる対象と見る主体がある
ということだ。この二元性は、マインドの遊びにすぎない。あなたが言っている間隙は、一時的なも
のではない。それが唯一永遠であるものだ。
 呼吸、思考の間の間隙、異なる二つの動きの間隙はいつもそこにあって、動きそのものとは何の関
係もない。この間隙の中で動きが起こるのだ。あなたは間隙だ。これを知っていることが大きな違い
を生みだす。

    静寂の中で思考が起こって沈まる、
   静寂は永遠だ。
   あなたはこの静寂だ。

Q:時々、この間隙又は静寂の中にいると、笑いが起こってきて静寂から抜け出すのではないかと感
じます。

 この静寂は純粋な幸福そのものだから、笑いが静寂からあなたをつれだすのは不可能だ。この笑い
は「それ」から起こり、笑いが「それ」だ。笑いの波は歓喜の海から起こってくる。
このすべては一秒のほんのわずかな瞬間に起こる。だから、それは秘密だ。それを理解する人、そ
れを見る人、それらが「それ」だと知っている人たちだけが幸福だ。それ以外の人たちは苦しみ続け
る。彼らは死に目に泣きながら来世を迎えるだろう。

    あなたは幸福そのものを超越した存在だ。
   あなたは幸福の波が起こってくるところに居る。
  その場所を見つけなさい。
    それを理解しようとしないこと。
   あなたが「それ」そのものだと
   ただ、見るだけでよいのだ。

Q:この中に深く入っていけるように助けて下さいますか?

 深さの概念を取り除きなさい。これですべて明らかだと思う。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

看大徳寺修造有感 大徳寺の修造を看て感有り
雲門卵塔一茅盧  雲門のらんとういちぼうろ  
大用黄金殿上居  だいゆうの黄金殿上のきょ
傍出正傳現前境  ぼうしゅつす正傳現前の境
楊岐屋壁古來疎  楊ぎのおくへき古来そなり

くま訳
雲門の墓は粗末なものである。
養叟の大用庵は黄金殿上の住まいである。
本来受け継ぐべきでない者が、横から受け継いでしまうということが、起こってしまったのである。
臨済宗 楊岐派の建物は、昔から粗末と決まってるのだ。

*雲門文偃(うんもん ぶんえん、864- 949年、唐末から五代の禅僧。大慈雲匡聖宏明大師。五家七宗
 の一つ、雲門宗の開祖。霊樹如敏禅師の道場の霊樹寺、918年、雲門が霊樹の法席を嗣ぐことに 
 なった時54歳だった。

*茅盧(ぼうろ):草葺きの粗末な住まい。
*卵塔(らんとう)(無縫塔):主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。
*大用庵(だいゆうあん);養叟の住まい
*傍出・旁出(ぼうしゅつ):わきから出ること。横に出ること。旁出は仏袈裟をさづけられず。(正法眼蔵-袈裟功徳)
*楊岐方会(ようぎ ほうえ):宋代の臨済宗の僧-日本伝来の臨済宗(栄西以外)

養叟が1445年、大徳寺住持になった時、養叟69歳、一休52歳 以降数年間くらいのの頃のお話でありましょう。
(´・(ェ)・`)b

483鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/13(月) 00:13:45 ID:1d4drIFg0
一瞥だけではまだ主客の観念があると言うのじゃ。
それもまた作られた観念なのじゃ。
本来は思考や観念が無い意識こそがあるものなのじゃ。
全ての観念を捨ててただ座り続けることが大事なのじゃ。

484鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/13(月) 00:18:12 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 大徳寺の造りを感じることがあったのじゃ。

 雲門の墓はぼろ屋なのじゃ。
 大用の黄金宮殿の上に居るのは誰じゃ。
 正伝を傍出した者が目の前に居るのじゃ。
 楊岐派の屋壁は古來から粗末である筈なのにのう。

485避難民のマジレスさん:2021/12/13(月) 06:57:34 ID:ogLy83Bw0
40.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-c②
獲得することで失う啓示

Q:ある夜、マインドの動きが死んだようにとまって、努力なしに気づきが姿を現しました。探求は
終わりです。私が努力しようとすることは、静寂な水溜りに石を落とすようなものです。巨大な空間
に線を描こうとしているようなものです。

 私は、サンキューというためにあなたの前にやってきました。沈黙はまだ私と一緒にここにいます。
サンキュー。しかし、もっと何かがあるのではないかと求める欲望があります。たぶん「それ」の沈
黙の確認の体験が強烈であった為だと思うのです。どうか助言してください。
 この体験の後では、コブラと遊ぶのは賢明ではない。それはまだ死んでいないかもしれない。たぶ
ん横になっているだけで、その頭をマッサージしようとしたら、あなたは、トラブルに巻き込まれる
かもしれない。
 この体験をした後は、静かにしているのがよい。マインドと遊ばないことだ。それは死んではいな
い。それはまだ名前そのものの中に生きている。生き返る可能性があるのだから、人生の最後の一息
まで見守っていなければならない。
 静かにしているのがよい。マインドという名前さえ口にしないことだ。それは名前の中に生きてい
るのだから。その名前を口にすると、それは生き返る。これ以上何も必要ない。これ以上の強烈さは
ない。私は沈黙しているように助言する。
 静かにして見つめていなさい。「それ」を貯えなさい。「それ」を崇拝しなさい。分かるかね!

Q: ここラクナウで美しいことが私に起こっていますが、証人という観念が消えません。

 美しいことが起こっていて、あなたはこの事の証人。何が問題かね? 証人としていなさい。

Q:証人としてあることは、全体から離れているような気がします。それがホームだと言うことがで
きません。
  
 あなたが証人だと見てごらん。(証人であるあなたを見てごらん)そこに何の問題があるのかね? 
顔の向きを変えて見てごらん。ただ証人でいなさい。
もし誰かが笑う、証人でいなさい。もし誰かが泣いている、証人でいなさい。あなたは、証人であ
ることの意味を理解していない。
 証人ということは、あなたは何にも巻きこまれないということだ。これが証人だ。何が起ころうと
もただ見ている。
証人と見られるものが同じなら、そのようにふるまいなさい。見るものが、見られたものと同じな
ら、問題はない。証人と証言されたものは同じだ。

 夢の中で、あなたは象や木や山を見る。
 どうして、この木があなたでありえないのか?
夢を見ている人と夢の中の木は同じものだ。
夢を見ている人と夢の中の山は同じものだ。
あなたは、木になり山になったのだ。そうではないかね?  誰が山を 創ったのかね?

 山があると夢を見たから山がそこにあるのだ。あなたと山の間には何の 違いもない。両方共、夢
だ。さて、両方とも夢だと証言しているこの証 人をみなさい。
 「私は山だ」と「私は山の夢を見ている」は、非常に微妙で同じことだ が理解するのは難しい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

聞聲悟道   もんしょう悟道
見色明心  見色明心
雲門拈云  雲門拈じて云はく
観世音菩薩 観世音菩薩
将銭来胡餅 銭を持ち来たってこびょうを買うて、
放下手曰  手をほうげしていわく
元來是饅頭 元來是れ饅頭と

垂示韶陽三句禪 すいじしょうよう 三句の禅
聞声見色話頭圓 もんしょう見識わとうまどかなり
胡餅饅頭誰買得 こびょう饅頭たれか買い得たる
観音三十二文銭 観音三十二文銭

くま訳
(香厳は)音を聞いて悟った。
(霊雲は)花を見て悟った。
ここで、雲門はちょぴっとひねって、話を続けた。
観音さんが、 銭を持って来て胡餅(安価な日常の食べ物)を買った。
手を開いてみたら饅頭(高価な特別な食べ物)だった。

さて、この示された、3つの禪話。
聞声見色の話は完璧だ。
ここで、胡餅や饅頭を誰が買うのかと言うと、
仏である観音さんが買うと言うのだ。( 観音さん自身が、本來ブッタであることを忘れていると言う
のだ。同様に、衆生は本來ブッタであることを忘れているだけなのだ。)

鬼和尚コメント
菩薩が買った餅が饅頭だったとは衆生も本来仏陀であるという喩えじゃろう。
それを菩薩が買うというのも暗喩なのじゃ。
菩薩もまた本来仏陀であることを忘れているのであるからのう。
気付けば全ての衆生は仏陀なのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

486鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/14(火) 00:12:02 ID:1d4drIFg0
全ての探求が終わったと感じるならば、無為にして座り続けると善いのじゃ。
悟りは向こうからやってくるのじゃ。
何かしようとすれば逆に障害になるのじゃ。
それを観ている者さえいずれは消えて行くのじゃ。
全てに身をあけわたしていくとよいのじゃ。

487鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/14(火) 00:17:10 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 聞声による悟道なのじゃ。

 色を見て心を明らかにするのじゃ。
 雲門はそれをひねって言ったのじゃ。
 観世音菩薩は金を持ってもちを買い、手を離して元来是は饅頭といったのじゃ。

 三句の禅を示したのじゃ。
 声を聞き、色を見る公案は完全なのじゃ。
 もちの饅頭は誰が買うのじゃ?
 観音が三十二文で買うのじゃ。

488避難民のマジレスさん:2021/12/14(火) 07:58:28 ID:VFqzM/UA0
41.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-c③
獲得することで失う啓示

Q:広大な空間を感じ続けていますが、その周りに縁がついているのです。

 海には海岸線がない、誰が海岸線を見るのだ?  波だ!
波は自分の名前は波で、もはや海ではないと考えている。波はまだ同じ海だということを知らない。
波が海から分離しているのはその名前の為にすぎない。それに波には長さ、広さ、高さ、そして動き
がある。
 彼女は永遠の父である海の胸座で動き続ける。彼女は自分が波だと考えて父を探し求める。波が海
を探し求める。誰も彼女が海だと教えることはできない。名前がある為に彼女はそれを認識すること
ができないだけだ。
 しかし、実体は同じだ。このように、あなたは内なる実体で、名前や形態ではないということを理
解しなければいけない。名前のすべては無形態性からやって来る。
 だから、この考えを海の底まで追って行って、「私は誰か」と探求しなさい。「私」は思考、
「私」は又魚だ。この魚はどこからやって来たのか? 追って行きなさい。どこから「私」がやって来
るのかそれを追いかけて行きなさい。
 そうすると、あなたが決して離れたことのないその場所を見つけるだろう。これを隠しているのは
名前と形態にすぎない。名前と形態は海の中では存在しない。
 海には名前がない。「海」という言葉でさえ海は知らない名前だ。あなたが海という名前をつけた
のだ。しかし、海そのものには名前がない。同じように真我には名前がない。
 「私はこれをしたい」「私はあれがほしい」と考えるときに、それは「私」になる。そして、これ
やあれへの欲望が起こって「これ」や「あれ」の中で真我を見失ってしまうのだ。

Q:あなたが何度も言っているその空間に落ち込みましたが、いつも私はロープにぶらさがっている
のです。今私はこのロープから永久に手を放したいと熱望していますが、それをすることができませ
ん。非常に恐れているのです。どうかこのロープを切ってください。私は、もはやこの状態に耐える
ことができません。

 最愛の人に会いに行きたいのなら、このロープを切らねばならない。 さもないと、何の役にもたた
ない。ロープというのは過去に対する執着だ。
 あなたは井戸の中に深く飛び込んでいないということだ。ロープのついたバケツで井戸から水をく
むとき、バケツを引っぱり返すことができるように手にロープを持っている。あなたの意図はこのバ
ケツ一杯の水を家に持って帰ることだ。
 ここでは、ロープが結びついていないバケツを井戸の中に投げこむようにと言われているのだ。そ
うすると何が起こるのかね? それは沈んでしまって、元に戻ってこない。
 このように、マインドを自由という井戸に投げ捨てるのだ。「このマインドをこの目的に使う為に
残しておこう」というロープは切り捨てるのだ。これは一度に全部済ませてしまうことができる。世
間とのどんな関わりにも興味を持たないこと。飛び込む前にこのことをはっきりさせなさい。

Q:瞑想していると、青い火がよく出てくるのですが……

 この青い炎の経験は、深い集中の結果だ。どんな思考もないとき、ハートにこの青い炎を見ること
ができる。あなたのどんな質問もこの炎が答えてくれる。
 この経験は、すべての終わりではない。それは道の街灯のようなものだから、それも又拒絶しなけ
ればならない。あなたの目的地はそれではないのだからそれに執着すべきでない。
 炎でもない、光でもない、どんな思考でもない。この炎を見ている人は誰か見つけなければならな
い。この経験が起ったなら、あなたのグルに告げるべきだ。そうするとこの時点で行き詰まることは
ないだろう。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

2/2
雲門拈見識聞声 雲門は拈(ねん)ず見識聞声(もんしょう)
衲子機鋒折識情 衲子(のっす)のきほう識情を折る
信口道着底食籍 口にまかせて道着(どうじゃく)するていのじきせき
念頭起處太分明 念頭起こるところはなはだふんみょう

くま訳
雲門は「聞声悟道、見色明心」を、ちょぴっとひねって、話したのである。
修行僧の鋭い洞察により、分別心を打破すべきこと、(大なるものが、小なるものに含まれることを
悟る)に付いて説いたのだ。
口ばかり達者で、執着を離れられないものは、生活の為に修行しているようなものだ。
そのような者が、考えそうなことは、全く以ってあきらかである。

*聞声悟道、見色明心:自然の音を聞いて世界の真実を悟り、色を見てわが心がどういうものかを明
らかにすること。
(´・(ェ)・`)b

489鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/15(水) 23:16:04 ID:1d4drIFg0
瞑想中にはいろいろ変なものが見えたり感じたりするのじゃ。
それに囚われれば障害になるのじゃ。
囚われなければ障害にならないのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

490鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/15(水) 23:20:06 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。


雲門は見識聞声を拈じたのじゃ。
僧の智慧で識情を折ったのじゃ。
口任せで金に執着する者の
頭に浮かぶことなどわかりきっているのじゃ。

491避難民のマジレスさん:2021/12/15(水) 23:25:27 ID:tt4LjDX20
42.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-d①
獲得することで失う啓示

Q:平和に満ちた自分自身を経験していますが、そこには何もないということが私を不安にします。

 あなたが平和に満ちているとき、何を期待するのかね? 何もないというが、何があるべきだと期待するのかね?
豚?(笑う) 何もないのが当然だ。概念をすべて取り除いたあとは全く何もない。これについて理解する必要がある。何かに対する期待があるべきではない。何かを期待するなら経験することはできない。なぜならあなたの前に期待のみが存在するからだ。
 期待というのは、ある人や、ある考えや、ある概念にすぎない。それが期待の実体だ。期待をそこに在らしめて放っておきなさい。しかし、静かに座って何の期待もないとき「それ」はあなたの前に姿を現すだろう。

Q:満ちているという経験が無とどのように関係しているのですか?

 何の関係もない。それらは同じことだ。満ちていることが無で、無であることが満ちていることだ。理解するのが難しいだろうが、これが事実だ。初めに無があり、終わりに無がある。そうであるなら、まん中は無であるに違いない。これが私の説明の仕方だ。
 初めに、完璧な無があって、そこから多くのものが現われて来て、何億年と留まる。そして、最後にそれらは、それらがやって来たところにすべて溶け去って無が残る。これを理解しようとしても、理解することはできない。
 無はいつもここに存在している。丁度、この部屋に家具がいっぱいあるように、これらの家具は無の中にある。無が背景だ。無はその中に何があっても、何が来ても何が去っていこうと、決して影響されない。
 あなたはあなた自身無であるから理解することができない。これが真理だ。もう一度言おう。この無が山や木や鳥で完全に満たされても、無は影響されない。
 ものがその中にあろうがなかろうが、無は気にしない。これを理解することはできない。それにならねばならない。そうすると、満ちていることも又楽しむことができる。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

賛大燈國師   大燈國師を賛す
畫出面門無覆蔵 ゑがきいだす面門ふ蔵無し
須彌百億露堂堂 須彌百億露堂堂
徳山臨済若入室 徳山臨済若し室に入らば
螢火應須遇太陽 螢火まさに須らく太陽にあふべし

大燈國師を賛す
ゑがきいだす面門ふ蔵無し
須彌百億露堂堂
徳山臨済若し室に入らば
螢火まさに須らく太陽にあふべし

くま訳
頂相に描かれてるところに、包み隠すところ無く全てがあらわれている。
全世界に対して、威風堂堂たるものである。
徳山や臨済も、もし大燈の教を受けていれば
螢の光が太陽のように輝いたであろう。

*腹蔵・覆蔵(ふくぞう):心の中に秘め隠すこと。
*頂相(ちんぞう):禅僧の肖像画
(´・(ェ)・`)b

492鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/16(木) 21:46:37 ID:1d4drIFg0
自分が無ければすべてがないと感じるじゃろう。
しかしれそは同時に全てであると言うことなのじゃ。
全てを感じ、認識していると思っていた自分を捨てることで、全てに還るのじゃ。
そうすれば自分と思っていたものが、ただの観念であり、空虚なものと知れるのじゃ。
自分と自分の世界全てという空虚な観念を捨てて、真の実在である全てに満たされるのじゃ。

493鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/16(木) 21:51:10 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 大燈國師の賛なのじゃ。

 描き出だす面影は隠すところが無く真影なのじゃ。
 チョモランマが百億もあるように堂々としているのじゃ。
 徳山や臨済が若し大燈國師と同じ室に入ったら
 蛍火がまさに太陽にあったかのように思えるじゃろう。

494避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 09:18:28 ID:HhQ5xIZQ0
43.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-d②
獲得することで失う啓示

Q:私が不思議に思うのは、なぜ「そこ」から見るとすべてが見せかけですべてが実在しないように
見えるのに、肉体に戻って来るとすべてがまた実在しているように見えるのかです。

 そうだ、そうだ。これは、非常によい経験だ。分かるかね?  最初にあなたは言う、「これが私の
肉体、これらが私の心配、肉体は私のもの、他の肉体はすべて私に関係している」これが苦しみで
あった。
 これはただのマインドの概念にすぎなかった。肉体は頭の中にある概念だ。今あなたはこれを知っ
ている。その理解があなたの所にやって来たのだ。あなたがそれを征服したのだ。
 何ヶ月かここに居て、サットサンガが「肉体は実在する」という概念を取り除くことができる唯一
の場所だ。
 だから、現れるものはすべて実在しない。なぜなら実在するものはいつも「ここ」にあるべきだか
らだ。目覚めの状態の現実は夢の中で見る現実とは異なる。しかし、両方共眠りの中では消えてしま
うからだ。
 あなたはそのことに目覚めたのだ。あなたは静かにしていて、マインドも静かであった。すべては
実在しない。そうして、遠くにある未知のどこかに入っていった。顕現のすべてが実在するという概
念が消えたとき、説明できない他のどこかに到着した。
 そこに休息を見つけた。その休息の中で波が起こる。以前のようなマインドとしてではない。以前
の波はマインドの観念であった:「これは実在する」「私の肉体は実在する」「このすべては実在す
る」。
 そして、このマインドの源泉に行った時それらは消えてしまった。すべてが消えてしまった。それ
が休息の場所、意識であった。今、意識から、意識が意識の中で反射して、意識だけが光り輝く。そ
の意識の反射として、波が存在として起こる。
 意識から起こるものはすべて、すぐに、そこに顕現する。意識の内で波が起こり、意識に面して波
が輝く。その輝きが知恵だ。その知恵の中では実在しないものは何もない。至るところに意識は存在
する。宇宙、世界の至るところに意識は存在する。
 たぶん、何千、何百という宇宙が意識の中にぶらさがっているに違いない。その観点から見ると、
つまり意識そのものから無そのものから見ると、すべては無だ。あなたはそこから見るのだ。
 源泉に行って波を起こらせなさい。この経験は本物の経験だ。今あなたはどこへ行こうとも幸福で
いられる。自由だ。すべてが実在する。意識の中で実在しないものは何かね?
 死はどこにある? どこに肉体がある? あなたは探して見つけた。
 以前はあなたは言った、「私は肉体-エゴだ」「私は生まれつきのエゴだ」「私は死んで行くエゴ
だ」。それがあなたを困らせた。すべての人がトラブルの中にいて、来世の始まりは又トラブルと共
に始まる。終わりのないサイクルだ。
 少数の人がこのみじめな生と死の輪廻から抜け出すことができる。あなたの体験は本物だ。私はと
ても嬉しい。あなたには何の問題もやってこないだろう。
 すべてが実在する。無の中で無が実在しないという問題はどこにあるのかね? 無は無だ。その見
方は、肉体の目によってではない。聞くことも違って来る。
 何が実在するかしないかと見わけることが不可能になる。これも去って行く。これかあれかの識別
はなくなるだろう。その中間も失くなるだろう。これが自由だ。誰もが自由になることができる。そ
こから見て、今何か質問があるかね?
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

如何是臨済下事  いかなるかこれ臨済下(か)のじ
五祖演曰五逆聞雷  五祖演曰五逆雷(らい)を聞く
機先一喝鐵圍崩   機先の一喝てっちをくづる
五逆元來在衲僧   五逆元来のうそうにあり
桃李春風清宴夕   桃李春風清宴の夕べ 
半醒半醉酒如縄   半醒半醉酒縄(じょう)のごとし。 

くま訳
これはいったいどういうことか!臨済宗の弟子たちのあり様は!
臨済の五祖法演も、大罪を犯したものは雷鳴を聞いただけでびくつくものだと戒めてる。
まずは一喝 鉄囲(てっち)を崩す。
大罪は、元来禅僧にあり
弟子たちはのんきに宴会の夕べを過ごし、
酔っ払っている様である。

*鉄囲山古代インドに始まる世界説で,三千世界のそれぞれを取り囲む山
*如縄(國訳禅学大成):まどろみの中に居る
 如僶(民友社版:(勤め)のごとし:ほろ酔い加減でいることが勤めであるかのようである
(´・(ェ)・`)b

495鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/19(日) 23:23:53 ID:1d4drIFg0
サマーディに入り、一度は永遠の意識を見たとしても、戻れば全てはあるように見えるのじゃ。
まだ観念があり、観念への囚われもあるからなのじゃ。
自分という観念からまだ完全に逃れでていないのじゃ。
自分の観念から自分の肉体とか思考という観念もまた実在として認識してしまうのじゃ。
更に進んで全ての観念から離れれば、意識だけがあるのじゃ。

496鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/19(日) 23:31:25 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 臨済宗の下の者はどうなっているのじゃ?という題じゃな。

五祖の法演は五逆のものは雷を聞き、
 最初の一音でもう鉄の囲いも崩れるようなきがするのじゃ。
 その五逆は元来僧の中にあるものじゃ。
 桃李の香る春風がふく清宴の夕べに
 半醒半酔で酒は如縄なのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2021/12/20(月) 13:12:55 ID:SLcH6Now0
44.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-d③
獲得することで失う啓示

Q:初めて戻って来た時、肉体に戻るのを拒否したかった。元に戻るという考えは再び限界づけられ
るという感じうことです。

 やって来るすべてを、実在すると受け入れなければならない。

Q:他のどこでもなく、そこに居たいという強い願望があります。ただ「それ」の中で漂っていて、
決して肉体に戻りたくない。私が戻って来るといつも「ああ、だめだ。戻ってしまった!」。

 この観念もまた捨てなければいけない。どこから戻ってきたのかね? 戻ることも行くこともない。
これらはすべて観念だ。あなたはどこにも行かなかった。どこに行ってどこに帰ってくるのかね?
 あなたはあなたが居るところにいる。あなたはあなたが常にあり続けたものだ。今ここにないもの
を切望しないことだ。後で何かを達成しようと努力しないことだ。
 すべてが「ここ」にある、それが真理であるべきだ。ここにあるものが実在で、ここにあるものが
自由だ。他に何も必要ない。
 今この瞬間、あなたの前に、「ここ」にあるものは何か見つけ出しなさい。何かを獲得しようとい
う意図もなく何も拒絶することもなく、今この瞬間に見つけ出しなさい。

Q:5年前、悟りのすべての徴候が自発的に私の中で起こりました。何が起こっているのか全く分か
りませんでした。それで私があなたの言っていることを読んだとき、救われたような気がしました。
それは、体験から恐怖を取り除きました。これについて何か洞察がありますか?

 もしあなたがグルと一緒に居たなら、恐れることはなかっただろう。経験した時はいつでもグルの
ところに走っていて何が起こったのか見極めなさい。彼の説明が助けになる。だからすぐにグルの所
に行くことだ。

  マインドの平和は自由の歩哨だ。
満足がもう一つの歩哨。
これらの歩哨と一緒に待ちなさい。
ドアーはひとりでに開いて、あなたは内に呼ばれる。

Q:この「誰でもない」ことをどのように喜ぶべきでしょうか?

 すでに姿のないその人と一緒に喜びなさい。その人が三界の中で唯一完璧で永遠の愛をあなたに与
える人だ。永遠の愛は姿のない人と一緒に居る。
 姿のない人があなたを呼ぶのを待ちなさい。待っている間,この愛と同じ性質の愛になりなさい、
そうすると同じ愛があなたに魅せられる。まず名前と形態を捨てなさい。そうするとこの愛があなた
と恋に落ちる。形態と形態の間に愛はない。恋すると愛がある。

    動かないで、動かないでいなさい。心を動かさないでいなさい。
    ただそれだけだ。
    静かにしていることが最高のタパスで、最大のヨーガ、
    最も美しい神への愛だ。
    これが在ることだ。 

    OM

第6章 真我探求:私は誰か? 終了
  (´・(ェ)・`)
 (おわり) 



如何是雲門宗  いかなるかこれ雲門宗。
演日紅旗閃爍  演いわくこうきせんじゃく
華旗風暖動春臺 くわき風暖かにして春台に動く
八十餘員師席開 八十餘員師席を開く
一字關兮三句體 一字関 三句体
幾人眼裏着紅埃 いくばくひとか眼りにこうあいつく

いかなるかこれ 雲門宗。
法演がいうには、、鋭い弁舌、峻厳な宗風のであったそうだ。
かつては鮮やかな旗を、春台のにたなびかせ、
八十余人の師家を輩出した。
雲門の一字関、雲門の三句の指導法について、
雲門宗のことについて、今や何人が少しでも覚えているであろうか。
(´・(ェ)・`)b

498鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/20(月) 23:46:03 ID:1d4drIFg0
誰もがどこかにいくことはないのじゃ。
ただ今ここにあるだけなのじゃ。
個体や個我の観念から自分と違う場所があり、そこここの空間があると妄想するのじゃ。
そこから離れた無為に居れば喜びは永遠にあり続けるのじゃ。

499鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/20(月) 23:53:28 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 雲門宗とはいかなるものであったのかなのじゃ。
 
 法演は赤い旗が閃き輝くようであったというのじゃ。
 華の旗が春台にて暖かな風に動いているようじゃっとい。
 八十余人の師家に席を開いたのじゃ。
 一字の関、三句の体で導いたのじゃ。
 今は何人がその眼の裏に紅埃がつくように知っているじゃろうか。

500避難民のマジレスさん:2021/12/22(水) 14:45:03 ID:dd/gd7ww0
45.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第7章 バクティ:神への愛  ☆Part1①
献身

  究極の真理を愛しなさい。
知恵と真我への崇拝があなたを真我に連れて行く。
唯一あなたの真我を愛しなさい。
唯一あなたの真我を崇拝し、探し求めるなら、
後は真我があなたの面倒を見る。
無用な活動や快楽をさけてただ静かにしていなさい。
これが自然な状態だ。
  絶えることなく自制と修練を続けるとすべてを失う。
  マインド、感覚、知性は破壊される。
  そうしてあなたはその自由と一体になるのだ。
  修練というのは、いつもアートマンに向かって行くことだ。
  修練は真我への完全な献身だ。
 すべてを燃やし去って、愛に流れこむ。
  この瞬間を最大限に利用するには
  その中に溺れ込むことだ!
  これが献身だ。
 あなた自身を捧げる「それ」にあなたはなる。
  だから愛にのみあなた自身を捧げなさい。
 このネクターを味わった人はこのネクターになる。
自由はいつもここにある。
見逃しているのは、神聖さだ。
神以外のものにあなたのハートを差し出すなら、
  何を一体、至高に捧げるのか。
唯一新鮮で匂いの嗅がれていない花が、神に捧げられる。
  真我への愛のみが必要だ。
  謙虚に真我に献身しなさい。
  沈黙が永遠に酔いしれる為のワインだ。
この沈黙の中であなたは「知る」ことができる。
すべての存在を愛することができる。
  しかし、それを飲んだら、話すことは終わりだ。
その体験の中にいなさい。
「それ」に明け渡しなさい。
至福を味わうことは、他のすべての味を忘れることだ。
内につがれたワインを飲み干しなさい。
  真我の魅力、真我への愛を教えることはできない。
それはやって来るか、やって来ないかのどちらかだ。
この光がどこからやって来るのか見るのに懐中電灯はいらない。
あなたが光だ。
  別離の苦痛と涙は祝福される。
最愛の人から別れて居るこの痛みは、
最愛の人と一緒に居る喜びより価値がある。
その涙は神への美しい贈り物だ。
 献身者、本当の献身者は神のハートそのものだ。

  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

如何是潙仰宗  いかなるかこれいぎょう宗
演日断碑横古路 演曰くだんぴころによこたふ
恵寂釈迦霊祐牛 恵寂は釈迦、霊祐は牛   
披毛作仏也風流 ひもう作仏また風流      
古碑路断長渓客 古碑みちたゆ長慶のかく
万世姓名黄葉秋 ばんせの姓名こうようのあき

くま訳
いかなるかこれ潙仰宗。
法演がいうには、古からの路に横たわる 石碑のようであると。
恵寂は釈迦、霊祐は牛
牛(=霊祐)が成仏したというのであれば、それもまた良かろう。 
開祖潙山の伝統は断たれ、石碑が残るのみになった、
潙山の名は永遠に不滅だが、それでも黄葉の秋はくる。
* 長渓県・開祖潙山霊祐の出身地
* 霊祐牛 水牯牛 
(´・(ェ)・`)b

501鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/22(水) 23:48:04 ID:1d4drIFg0
真我を実現することは困難なことなのじゃ。
まだ知ることも出来ない主体をどのようにして実験できるのか。
それには愛と智恵によって追求していくしかないというのじゃ。
観念のまやかしを全て捨てて、認識できない認識主体を求めるのじゃ。

502鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/22(水) 23:53:30 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゅ。



 ?仰宗とは何かというのじゃ。

 法演は断たれた碑が古道に横たわっているというのじゃ。
 恵寂が釈迦ならば、霊祐は牛のようなものじゃ。
 それでも牛が仏になれるというならばそれも風流なのじゃ。
 古い碑が断たれた道に横たわっているようなのが長渓の霊祐なのじゃ。
 黄葉の秋にも姓名は万世に残ったのじゃ。

503避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 00:17:14 ID:RTkJvEb.0
46.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第7章 バクティ:神への愛  ☆Part1②

Q:あなたが教えていることとバクティ・ヨーガとの間の関係を理解するのを助けてください。

 *1ジュニャーナと *2バクティの間には何の違いもない。
 愛によって神に近づくことがバクティだ。非常な献身と愛を捧げることだ。ただ愛する時、最愛の
人はあなたに姿を現わす。
 愛すると知ることにもなる。愛することは知ることだ。もし誰かを愛してその人のことを知るなら、
その人も又あなたを愛する。知ることは愛することだ。だから、ジュニャーナとバクティは同じ鳥の
二つの翼だ。
 愛があるところには知識があり、知識があるところには愛がある。あなたが誰かを愛すると、愛さ
れた人はどんな秘密も持つことができないので、あなたはその人のすべてを知ることになる。
 もし、その人を知るなら愛することになり、その人も又あなたを愛して知ることになる。それは一
つで同じことだ。人々はこれらは違ったものだと、それについて大きな議論をしているが、事実この
二つに違いを見つける人は無知な人だ。
 あなたは「それ」を最も愛するので、あなたのマインドの中には誰も存在しない。そうすると「そ
れ」が姿を現わして、あなたに宝石を手渡すのだ。

Q:真我を知る為のいろいろな方法があるのですか。

 知識の書かれた聖典によると、三つの方法がある。
 一つはジュニャーナ・ヨーガ、それは知識だ。二つ目はバクティ・ヨーガ、献身。三つ目はカル
マ・ヨーガ、活動・行動だ。
 知性のすぐれた人は、森の中のリシに会いに行って「Ko Ham? 私は誰か?」と尋ねる。
「Tat Vam Asi あなたは『それ』だ」とリシは答えるだけだ。
 この会話だけで、弟子は「Aham Brahmasmi、私は『それ』だ」と言って、すべてが
終わるのだ。これは知的で頭がよくて、ただ言葉を聞くのではなく、言葉の意味を理解できる人のも
のだ。
 その意味は「それ」の中にある。教える人が「それ」だと言うと、教えられる人が「それ」を見つ
めて同意する。「私は『それ』だ」。そしてグルは言う、「幸運を祈る。行きなさい」
 2番目は献身だ。献身とは内なる至高の力に降伏することだ。「その」力を崇拝することによって、
「その」力を見つめていることによって、あなたは「その」力そのものになるのだ。
 マインドを「その」力に明け渡すこと、「私は離れた実体だ」というエゴを持たないことだ。「私
が神だ」と知ること、これを頭ではなく愛によって勝ちとるのだ。
 理解することによってか、あるいは献身によってか、「それ」になるのに違いはない。幼い子供は
ミルクを飲む為に母親の所に行く。子供は誰が母親か知っているし、母親も誰にミルクを与えるべき
か知っている。
 3番目はカルマ・ヨーガ、これはあなたが何をしようともあなたの行動の結果を求めないことだ。
あなたはただ行動するだけで、結果は至高の存在の手の中に委ねるのだ。
 現実にはこれらの三つは同時に走っている。知識、バクティ、カルマ、これらの一つに執着したら
他の二つは自然とあなたに従ってくるものだ。誰かと知り合いになったら、その人を愛することにな
る。もし、誰かを愛したら、その人のことについて知ることになる。あなたの活動は愛する人の為、
知っている人の為に起こる。何の違いもない。

用語解説
*1ジュニャーナ 知識、知恵、絶対的知識。
*2バクティ 神への愛
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

如何是法眼宗  いかなるかなこれほうげん宗
演曰巡人犯夜  演曰く巡人夜を犯す
一滴曹源一滴深 一滴の曹源一滴深し
巡人閙閙夜沈沈 巡人のうのう夜ちんちん
青山満目是何法 青山満目これ何の法ぞ  
家醜猶如学棒心 かしゅうなおぼうしんをまなぶがごとし 

くま訳改
いかなるかこれ法眼宗。
法演がいうには、巡人夜を犯す
禅の源流は奥深い。
夜警がやかましいので、夜は静かにふけてゆく
死に場所はどこにでもあるのだ。法が何だというのだ。
宗派の義は、洞山三頓の棒の公案みたいなものだ。

*巡人犯夜、賊馬に騎って賊を逐う。警備員が盗んだ馬で賊を追う。この故事と、宗風の解説から=
弟子の言葉に乗じて更に問いかけ悟りに導く手法かなと愚考してみた。
*棒心=洞山三頓の棒 一休が27歳の時に取り組んだ公案(一休を悟りに導いたとされる)のこと
かなと、これまた愚考してみた。
(´・(ェ)・`)b

鬼和尚 コメント
青山は墓地じゃな。
目に満ちるのであるからどこにでもあるというのじゃな。
寺を出てどこにでも死に場所はあると言うのじゃな。
一休はしつこい位に寺の腐敗を嘆いているのじゃ。
よほど酷い目にあったようじゃ。

504鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/23(木) 23:06:08 ID:1d4drIFg0
どのような道も悟った者には一つに見えるのじゃ。
智恵と献身は一つであり、何の違いも無いのじゃ。
山の頂上からは全ての道が見えるようなものじゃ。
そして山頂に向かう一つの道だけがあるのじゃ。
ただひたすら己の道を行けばよいのじゃ。

505鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/23(木) 23:10:59 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 法眼宗とはいかなるものかというのじゃ。

 法演は夜中に巡回する人だというのじゃ。
 一滴の曹源は一滴の深みが在るのじゃ。
 巡人が騒いでも夜は沈沈としてふけて行くのじゃ。
 死場所はどこにでもあるのに何の法がいるのであろうか。
 家醜はなお棒心を学ぶが如しなのじゃ。

506避難民のマジレスさん:2021/12/24(金) 09:04:13 ID:OPPRSZe20
くま質問
「家醜はなお棒心を学ぶが如し」
この「家醜」とは、法眼宗の教えという意味で、「棒心を学ぶ」とは、建設現場の親方の心得を学ぶ
ようなものだと言ってるのでありましょうか?

47.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第7章 バクティ:神への愛  ☆Part1③

Q:私はバクティの道にいます。バクタが真我探求をするのは可能ですか?

 バクティは愛を通して神が帰依者を愛することだ。真我探求は帰依者が神に行くことだ。これが違
いであなたは選ばなければならない。神があなたと恋に落ちるのがバクティで、あなたが神と恋に落
ちるのがジュニャーナだ。
 真我探求の道にいる人にとっては、神がどのようなものか知らないので間違いを犯す。しかし神が
神の帰依者を愛する時、決して間違いはない。神は帰依者の一歩後ろに付き添ってすべての世話をし、
帰依者が望まなくても必要なものを与えると言われている。

 これに関して盲人の聖人の話をしよう。
 ある日、彼は森の中を歩いていた。すると彼の前に井戸が現れた。彼は知らずに井戸の中に足を踏
みこもうとしたその瞬間、事実は彼の足はすでに井戸の上にあった。
 誰かがやって来て彼に触れて言った。「ババ、あなたの前に井戸がある、こちらに来なさい。」
 さて、このタッチ、この触れ方がとても優しくて、細やかで、彼の生涯で決して感じたことのない
ものであった。彼の髪の毛はすべて逆立った。彼はあまりの驚きの為に喉がつまって、あなたは誰か
と尋ねることさえできなかった。もちろん、それが誰か見ることもできなかったのだから。
 しかし、彼は知っていた。そのようなタッチを与えることができるのは彼自身のアートマン、内な
るハートにいる人以外誰もいない、ということを知っていた。そしてこのことについて詩歌を詠った。

  私は力のない盲目で老いぼれ、
あなたは若くて力があり、私を井戸の側から救ってくださった。
  私は弱っていますが、あなたが私のハートから逃げだすことができるか試してください。
あなたは山を持ちあげることができる、私はそれを疑ったりはしません。
  しかし、あなたがどんなに勇敢で力持ちでも、
私のハートから逃げ去ることができるかどうか言ってください。

 これが、この前に私が話した「決心」についてだ。私はその女性に歯を食いしばってこぶしを握り、
「それ」が逃げ出すかどうか見なさいと言ったのだ。
 それ位の強さがあれば、サンサーラの海を横切ることができるだろう。さもないと一方には鰐が、
他方には鮫がいるのだから。あなたがそれらをうまく片づけることができるのなら、あなたは大丈夫
だ。筏はいらない。
 しかし、筏にのっている方が安全だ。この筏がサットサンガで、他の岸まであなたを連れていく。
一度そこに着いたら、このサンサーラに再び戻る必要はない。
 ほとんどの人が鮫の口の中に飛び込みたがる。しかし、あなたは筏に滞まると固く決心しなければ
ならない。重要なのはサットサンガにいる期間ではなく理解だ。全生涯を使っても理解できないかも
しれないし、まさにこの一分間に、1/2分に、1/4分に、理解するかもしれない。

  私は毎日同じことを言っている。
  あなたは意識。
  あなたはアートマン。
  あなたは美そのもの、愛そのもの。

 あなたがこれを理解したら、このホールの家賃を支払う必要がなくなるのだが!!

  (´・(ェ)・`)
 (おわり)


題黄檗禮佛示榮衒徒 二首 1/2  黄檗ぶつをらいするに題して、栄衒の徒に示す 二首
禮佛家風眞作家 仏をらいす家風真のさっけ
作家汝榮衒誵訛 作家汝榮衒のごうが、
奪食驅牛成伎倆 じきを奪ひ牛を駆って伎倆を成す
米錢名利賺過他 米錢の名利他をけん過す

くま訳
黄檗仏を礼す、と題して栄衒の徒に示す 二首
仏を礼拝することは、禅宗真の師家のならわしである。
師家、おぬしにとっては、名聞利養に邁進する輩のことか?いりくんで難しいのだ。
愚かしく駆けずり回り、飯を食う技を身に着ける 
食い扶持を稼ぎ、名利を追うために、人々をあざむき、ご機嫌取りをする者のことを師家というのか?

*誵訛(ごうが):聱訛とも書く。「いりくんで、むつかしきこと」をいう。
*栄衒徒:名聞利養に邁進する輩。53の詩参照(102・93)
*黄檗希運(おうばく きうん、-850年)唐代の禅僧。黄檗山黄檗寺を開創。臨済宗開祖の臨済義玄の師
*賺(けん):①すかす。だます。あざむく。 ②なだめすかす。きげんをとる。
(´・(ェ)・`)b

507鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/24(金) 23:31:22 ID:1d4drIFg0
↑そのような意味じゃろう。
 あまりよくないような感じじゃな。

508鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/24(金) 23:33:18 ID:1d4drIFg0
バクティとは献身の道なのじゃ。
神仏に帰依することでサマーディに達するのじゃ。
真我を追求するのとは別の道なのじゃ。
悟りに至れば一つの道と知れるがのう。
修行者は自分の道を選ばなければならないのじゃ。

509鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/24(金) 23:37:30 ID:1d4drIFg0
 そんな感じじゃな。

 黄檗が仏に礼するのを榮衒の徒に示す題なのじゃ。

 仏を礼する家風は真の作家なのじゃ。
 作家は汝のような榮衒の徒には難しいことじゃろう。
 食を奪い、牛を駆って技量を成すのであるからのう。
 米銭名利を貪り、他のことは眼中にもなく過ごしてしまうのであるからのう。

510避難民のマジレスさん:2021/12/24(金) 23:50:16 ID:mRsQjSj.0
48.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part1①

  愛から逃げ出す道はない。
  平和と自由には、西も東もない。
あなたがどこへいこうとも、それはいつもあなたと一緒にいる。
  サットサンガはあなたはすでに家にいると思い出させてくれる。
  あなたが家そのものだと…
  だから、サットサンガから離れることはできない。
  サットサンガはあなたの本質だ。
  この経験は忘れることはできない。
  忘れることができるものはマインドによって忘れられる。
  しかし、注意深く警戒していなさい。
あなたに親しいものが問題を作るのだから、
過去の友達、邪悪な習癖は戻って来て
  再び苦しみにあなたを招待するだろう。
それらは非常に強引なので、あなたも又強くなくてはいけない。
過去の習癖を破りなさい、そうするとあなたは自由だ。
同じ船に乗っている人と一緒に旅をしなさい。
同じ方向に、同じ目的地に行く人と交流しなさい。
何があっても真理に行きなさい、
いつも静かにしていなさい。
  隠れている習癖に適した環境が起こると、その習癖が又現れて来るだろう。
それらがどんなに冬眠していようとも目を覚ますものだ。
特にあなたが静かにしていると、それらは現れて来る。
銃弾は一度で殺すが、ヴァーサナは何度も何度も殺しにやってくる。
警戒して自問しなさい!
  期待は幻想だ。それらを追いかけないこと。
怒りや肉欲やどん欲にも巻き込まれないことだ。
ただそれらに巻きこまれないことだ。
静かにして満足していることが一番の武器だ。
  歓喜もまたマインドや悪魔を破壊するだろう。
一度それらを埋葬したら二度と掘り返さないことだ。
  あなたは、あなたの家族や友人に対して責任がある。
だからこのサットサンガは続いて行くべきだ。
一度真理を知ったならそれを分ち合いなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

2/2
題黄檗禮佛示榮衒徒 二首
閻老面前尤苦哉 えん老面前もっとも苦かな
飯錢今日急環來 はんせんこんにち急に還しきたる
話頭古則商量價 わとうは古則商量にあたひ
棒喝邪師度世財 棒喝は邪師どせいの財

くま訳
閻魔様の前に出でてから、苦しむのだ。
飯代を今日急に還しに来やがった。
古則話頭は売値つき、
棒喝も邪師にとっては、渡世の道具。
(´・(ェ)・`)b

511鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/25(土) 23:47:26 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も悪い友とは付き合わないようにと言っているのじゃ。
共に修業できるよい友とだけ付き合うようにというのじゃ。
それが出来なければ独りで進むが善いのじゃ。
悟りを得たら友にも教えると善いのじゃ。

512鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/25(土) 23:50:45 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 また黄檗の礼仏を榮衒の徒に示す題じゃな。

 閻魔の面前でもっとも苦しむのじゃ。
 飯銭をその時になって返しても遅いのじゃ。
 話頭古則は金で売り、
 棒喝も邪師の世過ぎの財としていたのであるからのう。

513避難民のマジレスさん:2021/12/26(日) 07:55:56 ID:Jk4n26Go0
49.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part1②

 1947年インドが分裂する以前に、私はラマナアシュラムに滞在していた。七月の中頃、ある日
誰かが私にラビ河のどちら側から私がやって来たか尋ねた。私の町はこの河よりももっと遙かに離れ
ていると答えた。そして彼は国家の分離の危機について話した。
 私は新聞を読む時間も政治に関わる時間もなかったのでそれについてはほとんど知らなかった。彼
が言うには来月の中頃、国は2つに分かれて、ラホールとペシュワーの間に住んでいる私の家族は、
もし私が救い出さないと虐殺されてしまうだろうというのだ。
 私はすでに全ての家族を忘れてしまっていた。全ては夢であった。両親・家族・子供達・国家、全
ては夢で全ては終わったと彼に言った。これが私の無執着がどんなに強かったかを示していたし、そ
れ位強くなくてはいけないものだ。
 この人は私が言ったことをマハルシに告げて、私達がマハルシと一緒に朝の散歩に出かけた時マハ
ルシは私に尋ねた。
「なぜラホールに行って家族を救い出さないのかね?」
 私は言った、
「私がここにやって来た時に私には妻や子や両親がいたが、あなたが私に一瞥を与えて下さった時、
全てが終わりました。今はあなたが私の唯一の身寄りで、この世に他の誰もいません。」
「それを夢だと言うならなぜ夢を恐れているのかね? 夢の中であなたの妻や親せきの面倒を見に
行った方がよい。なぜ夢を恐れているのだ。あなたの夢の手は、夢の虎の口の中では全く安全だ。
 このように世間で生きなさい、そしてそれを夢と呼びなさい。恐れないで、夢の中で働いているよ
うに働きなさい。夢は夢で、本当のものは何もないが、息子としてあなたも又夢の中にいる。
 だから夢の息子を夢の国に行かせて、夢の中で夢の両親を救いだしなさい。」
 このように、マハルシは私の為に夢を意味づけた。そして彼は言った。
 「あなたがどこにいようとも、私はいつもあなたと一緒にいる。」
 この言葉で彼は私に教えてくれた。私がどこにいようとも、私と一緒にいるのは彼で即ち「私」だ。
彼が「私」である、即ち「真我」が私がどこにいようとも私と一緒にいるのだ。
 彼に何を言うことができる?  彼は私に立ち去るようにと言っている。それで私は、彼に敬拝して
彼の足元の埃を集めて、彼のまわりを三度回って彼を後にした。
 私はパンジャブに行って2・3の奇跡的な出来事を通じて、大虐殺から私の家族を無事救い出した。
これがグルと一緒にいることの思寵だ。

  グルはあなたに自由を与えるばかりでなく、
  あなたが必要なものを何でも与える。

 私が北部にやって来た時、ラホール行きの汽車は空でモスリムだけが「ヒンドゥを殺せ!」と叫ん
でいるのを見た。そしてヒンドゥの人達は安全の為にみんな一緒にいた。
 その時モスリムのいる場所に行って、彼らと一緒に座りなさいという指令がマインドに浮かんだ。
 私はむろんヒンドゥと一緒にいたかった。私はヒンドゥの証拠であるOMの入れ墨を手にしていた
し耳も穴があいていた。誰がモスリムと一緒に座るようにという考えを与えたのか?
私はモスリムと一緒に「ヒンドゥを殺せ」と叫んでいた。そうして他の全てのヒンドゥは汽車から
連れ出されて殺されたにもかかわらず、私の手のOMの恩恵と、私のグルの祝福のおかげで無事にラ
ホールに着いた。  
 私が私の生まれた町につくと、ヒンドゥは誰もいなかった。私が住んでいた所は、ヒンドゥだけの
居留地グルナナクプラであった。そこで馬車の御者に疑いを抱かさないように、近くのモスリム居留
地イスラムプラに行くように言った。
 そこから私は歩いて私の家にたどり着いた。ベルを鳴らしても誰も答えない。遂に、屋根の上から
私が誰か尋ねる父の声を聞いた。「私はあなたの息子だ! 私の声が分からないのかね。」と叫び返し
た。
 「なぜやって来たのか、どのようにしてやって来たのか? 汽車はまだ動いているのか?」と父は
尋ねて、「ここから親戚全てを連れ出して汽車に乗せなさい。」と命令した。
 軍隊時代の私の友達が、彼はモスリムであったが彼の家に私達を匿い、インドに戻る手はずを全て
整えてくれた。
 私達の家はすでにアムリッツァからのモスリム避難民によって占有された。他のほどんどの家族は
部分的又は完全に破壊されたが、私の家族・親戚40人は汽車で安全にラホールを後にした。
 そして私の両親は汽車に間に合わなかったが、私の友達のおかげで飛行機で無事にラホールを後に
した。
 これがマスターの恩寵だ。誰も傷つかず、彼が全て面倒見てくれた。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

514避難民のマジレスさん:2021/12/26(日) 07:56:55 ID:Jk4n26Go0
見識明心
憶得寒山見月題 憶ひ得たり寒山月を見るの題
眼睛落地衆生迷 眼睛地に落ちて衆生迷ふ
洛陽三月貴遊客 洛陽三げつ貴遊の客
閃爍紅旗残照西 せんじゃくたる紅旗残照の西

くま訳
物事の本質をとらえる悟り
寒山が詠んだ月の詩は、見識明心を正しく表現し尽くしているのである、
視線を地に落すと、衆生は迷ってしまう、
洛陽では三月になると貴族が花に誘われあつまるように、、
仏道を求めるものにとっては、寒山の詩は、閃きを与えてくれる、機鋒が、今でも鮮烈にあるのだ。

*見識:物事を深く見通し、本質をとらえる、すぐれた判断力。ある物事に対する確かな考えや意見。 識見。
*明心(あかきこころ・みょうしん): 誠実な、偽りのない心。まごころ。清き心。心を明らかにす  
 ること。さとりを開くこと。また、明らかな心、さとりの心。
*寒山見月:禪学大成脚注:朗月の天にある、月光の地にある、此れ皆見性の種子なり、洛陽三月酒 
 旗の点頭に翻るも又同斷
*寒山:天台の国清寺の僧、豊干(ぶかん)が拾った、拾得と、拾得の友達、寒山。豊干によると、 
 拾得は、実は、普賢、寒山は、実は文殊と評している。豊干自身には実は神通力があるらしい。
 究極の狂風の逸話、禪画多数あり。一休さんの重要な師匠に含まれるでありましょう。 
*閃爍(せんじゃく):ひらめき輝くこと。
*紅旗閃燦:厳しく機鋒が峭峻であり、矛先のように鋭いこと。
(´・(ェ)・`)b

515鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/26(日) 23:14:07 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 見て識ることで心を明らかにするのじゃ。

 寒山が月を見るの題を覚えているのじゃ。
 眼を地に落とせば迷いの衆生がみえるじゃろう。
 洛陽三月に貴人の客が遊ぶのじゃ。
 紅旗が閃爍としているような残照が西にあるじゃろう。

516避難民のマジレスさん:2021/12/27(月) 07:15:34 ID:ioLRTr4E0
50.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part2①

Q:ラクナウを去って西洋に戻ってもよいでしょうか。私は準備が出来ていると思われますか?

 行きなさい、西も東もないのだから。それは地図の上にあるだけだ、マスターには西も東も存在し
ない。あなたがどこへ行こうともグルの臨在を感じるだろう。あなたが明け渡したのなら一歩一歩あ
なたを導くのはグルの責任だ。

Q:デンマークに戻ったら過去の習癖に戻るのではないか?と恐れています。

 デンマークに戻ったらあなたが元に戻ると、どうして考えるのかね? あなたは何かが変わると期
待してラクナウにやって来た。そうして何かが変わった。
今は、最初にやって来た時のあなたとは違う人になっている。だからあなたが戻ったら、また元に戻
ると考えないことだ。サットサンガにいつもいて、過去の状態に戻るという恐れを持たないことだ。
 あなたは決して変わることはない。この瞬間があなたに沈黙を差し出した。静寂と幸福。恐れない
ことだ。デンマークでサットサンガを持ちなさい。ここで起こったことを話して聞かせなさい。

Q:私は経験しましたが…

 この経験はデンマークにあなたと一緒に戻ることができる。あなたと一緒にいるに違いない。あな
たは自由だというのが経験だ。それと一緒にいなさい。どうしてそれがどこかに行ってしまうことが
できる?
 自由を経験したなら「私は自由だ」は、いつもあなたと一緒にいる。
この経験を保持しようとするのではなく、それであるべきだ。さもないとそれは想像で理論にすぎな
い。

Q: どんな状況にあっても愛という輝やいた海に滞まるには、どうしたらよいのでしょうか。ウィー
ンでの私の人生のストレスを考えたら、このように滞まるのは難しいと思います。

 これは美しい経験をした後でほとんどの人が持つ疑問だ。あなたがここにいて説明してあげられる
のは嬉しいことだ。まず最初にあなたはいつもこの経験と一緒に居たい。これは「いずれそれはなく
なってしまうだろう」という意味を含んでいる。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

余寓薪園小舎有年。森侍者聞余風彩、余薪園の小舎に遇する年あり、森侍者、余が風彩を聞いて、
巳有嚮慕之志。予亦知焉。     すでに嚮慕の志あり、余もまたこれを知る、
然因循至今。           しかれども因循として今に至る。 
辛卯之春邂逅干墨吉。問以素志。  しんぼうの春墨江に邂逅して、問ふに素志を以ってす、 
則諾而應。            即ち諾して、応ず。
因作小詩述往日間何闊懐      因って小詩を作って往日かくわつの懐にまじふることを述ぶ、
且記今日來不束之喜云       かつ今日来不束の喜びを記すと云ふ。
1/2
憶昔薪園居住時 おもふ昔薪園居住の時
王孫美誉聴相思 王孫の美よ聴いて思ふ、   
多年舊約即忘後 多年旧約即ち忘じてのち、    
猶愛玉堦新月姿 猶ほ愛す玉かい新月の姿

仁先生訳
この詩を書いたのはね、ぼくが薪村の草庵に住んでいた頃の話だけれどね、この森公がね、ぼくの風
評を色々聞いて、密かにぼくに憧れていたんだよ。そしてぼくに会ってね、いよいよぼくを慕うよう
になるのさ。
森公の心根の無垢さがぼくには不思議なくらいだった。
けれどいろいろのことがあってね、森公の傍にばかりいることはできなくなってね、いつの間にか森
公もいなくなって、今までそのことさえも忘れかかっていた。
文明三年(1471年)の春に、住吉の薬師堂で偶然にも森公に巡り会えてね、あの頃のことを謝し、
今もまだあの頃の心はあるのだろうかと問うたところ、あれからもずーっとぼくを慕いつづけてきた
と心を明かしてくれたんだ。
ぼくはほっとしてね、森公が愛おしくてたまらず、もうずっと一緒にいようと思い、そのぼくの念い
を詩にして伝えたよ。

思えば昔ね、ぼくが薪村に住んでいた頃、
ぼくが皇孫であることや誉れ高い噂を聞いて、森公はぼくを密かに慕っていることを知って、ぼくも
愛おしく思っていたんだよ。
その相思の契りを、長い間すっかり忘れていたけれど、今こうして再会して、
あの薬師堂の階段に立っている新月のように優美な森公の佇まいがもうたまらなく愛おしいよ。

くま訳
思いだしてみれば昔、薪園に住んでいたころ
わしが、誉れ高い高貴な出であると、聞いて、相思相愛になったのだ。
その時した約束を、長いこと、ころっと、忘れていたのだ。
今、再会して、思いを確かめることができて、ワシの心は愛で満たされてるのだ。
薬師堂の階段に佇む森の姿は、月光のように美しいのだ。
(´・(ェ)・`)b

517鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/27(月) 23:19:00 ID:1d4drIFg0
もし自分の本性に気付いて厭離ができたならば、もとにもどるということはないのじゃ。
もはや真実に気付いたのであるからのう。
例えば自分の執着が過去の記憶によるものと気付いたならば、もはやもとに戻らないようにのう。
それが法なのじゃ。

518鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/27(月) 23:27:16 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 一休が薪園の小屋に住んでいた時、森侍者が一休の風采をきいて慕い、一休も知ったのじゃ。
 しかし何もせずに今に至るのじゃ。
 後の春に逢って昔の心はそのままか聞いたらそうだというから応じたのじゃ。
 よって小詩を作って共に暮らすことを述べるのじゃ。
 また今日来の不束の嫁媚を記すというのじゃ。

 昔、薪園に居住していた時を思えば、
 王孫の美誉を聞いて相思になったのじゃ。
 約束して多年になって忘れた後、
 なお玉階新月の姿を愛するのじゃ。

519避難民のマジレスさん:2021/12/27(月) 23:44:11 ID:yMAOWPCw0
51.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part2②

Q:気づきを失うことは不可能ですが、ストレスの中で失うのは至福です。

 この経験をいつも保っていたいというのは、この経験を時間の中に持ち込みたいということだ。
 なぜこの経験を時間の中に持ち込みたいのかね。この経験が起こった時は時間を超えていた。時間
の中で起こるものは全て価値がない。時間の中で手にいれるもの・・幸福や平和、あなたが愛する人
はこの時間の中でいつか消えてしまうだろう。
 この無時間性が時間にやって来るべきだとなぜ望むのかね?  時間は死、不幸、過去、マインドを
意味する。時間とマインドには何の違いもない。
 あるがままにしておきなさい。あなたは海に飛び込みたい、それなら一度飛び込んだら、戻って来
ることはない。河が海に流れこむ時、河は海になって海として滞まる。河がその形と名前を失っただ
けだ。
 名前を取り除きなさい。意識には名前がない。名前と形を取り除きなさい。何が残っているのかね。
名前と形を取り除いたら何が見えるかね。

Q:何もありません。

 この何もないことは、いつも何もないのだ。何かが時々あるのでもなく時々何もないのでもない
(笑)今、明らかになったかね?

Q:はい、明らかです。

 オーストリアに戻ろうが、ラクナウにいようが何の違いもない。名前だけの違いだ。どんな名前も
時間の中にある。しかし、意識は時間の中に存在しない。Very Good。
 どんな仕事もこの平和を妨害しないだろう。恐れることはない。問題はない。以前のようにあたな
の仕事に巻きこまれることはない。以前は、あなたのエゴが全ての仕事をしていると考えていた。
 今あなたは、エゴを越えた何か、あなたの理解を越えた何かが全ての仕事をしているのだというこ
とを知っている。
 この源泉に滯まっていなさい。目に見えない何かによって動かされている肉体を通じて仕事がなさ
れるのを見なさい。それが全て起こっているのをただ観察していなさい。
 顔の向きを変えて、逆のギアに入れて、エネルギーがやって来る所に顔を向けなさい。後戻りのギ
アにして、超えて行きなさい。思考がやって来る源泉を見つけて、あなた「自身」を「それ」と一体
化させなさい。
 そうすると、至高の力の恩寵で全てが起こって行く。あなたの顔を永遠ではない対象にではなく、
至高に向けなさい。対象を越えたエネルギーの源泉にあなたの顔を向けなさい。
 そうすると何もあなたの仕事を妨害するものはなく、それはあるがままに動いていると分かるだろ
う。

 ここで手にいれた何かが失われるのなら
  失わせなさい。
あなたは失うものを得る為にここにやって来たのではない。
決して失うことのない「それ」を知る為にここにやって来たのだ。
失う可能性のあるものを熱望しないことだ。
失うことができないもの、永遠のものがあなたのハートの洞窟に
ダイヤモンドのように輝いて座っている。
内を見なさい。

  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

祝聖      祝しん
海内太平便現前 海だい太平即ち現前
清風明月碧雲天 清風明月へき雲の天
萬年七百高祖行 萬年しち百高祖の行
看看天龍正覚禪 看よ看よ天龍しょうがくの禪

くま訳
祝聖
天下太平であれ、全てはありのままでよいのだ。
清風明月碧雲天
七百年前に高祖から伝えられた禪はこれから万年も受け継がれてゆくであろう。
看よ!天龍に守られ、仏の悟りをもたらす禪を

*祝聖(しゅくしん)祝聖 禅宗の寺院で、天皇の寿命無窮を祝い祈ること。天皇誕生日および毎月の
1日と15日に行う。
*七百高祖行:達磨が中国に禪を伝えたのが5―6世紀、日本に伝来したのが13世紀頃らしいので、
700年かなと愚考した。
(´・(ェ)・`)b

520鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/28(火) 22:56:16 ID:1d4drIFg0
名前と形態が観念を起こしているのじゃ。
それに気付いたならばどこにいようと安楽が在るのじゃ。
自分の名前と形態を忘れたならばサマーディもやってくるからなのじゃ。
それはもとからある安楽なのじゃ。

521鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/28(火) 22:59:50 ID:1d4drIFg0

 
 それでよいのじゃ。

 聖人を祝うのじゃ。

 天下が太平であることが今現前しているのじゃ。
 風清くして月は明るい碧雲の天なのじゃ。
 万年も受け継がれる高祖の行なのじゃ。
 看よ看よ天龍の如き正覚の禪を。

522避難民のマジレスさん:2021/12/28(火) 23:34:01 ID:JvV8ggqY0
52.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part2③

Q:今、木から一葉がやさしく、美しく、静かにおちて行くようにラクナウを立つことができます。

海に抱かれて沈んで行くように感じます。私は感謝の気持とともに敬服します。あなたを私のハート
の中に包んで帰ります。

 Very good、Very nice、木から落ちて行く葉には北や南に飛んでいこうという
意図はない。意図とは何も関係ない。風と共に恩寵の風とともに飛んで行く。
 あなたはエゴという木から落ちて行く木の葉だ。今あなたは木と何の関係もなく、落ちるがままに、
風がふくままに任せてどこへでも飛んで行くのだ。
 あなたがあなたの課題を終え、今戻って行くのは非常に嬉しいことだ。THANK YOU.

Q:多くの人が私の滞在は短すぎると言いますが、私には一瞬掛かっただけです。どのようにして、
目醒め続けていられますか?  コミットメントがその方法ですか?

 そうではない。コミットメントではない。あなたは何にもする必要がない。「私であるものが私
だ。」とただ感じるだけでよい。これはコミットメントではない。
 あなたはあなたで、あるがままだ。あなたが真我としてあったようにあり続けて来た。あなたがあ
るようにあるだろう。これはあなたの内なる信頼だ。「私であるものが私だ!!」
 他の何かを信頼するのではない。非常に簡単で非常に自然だ。何かになるのでもなければ、何かに
ならないのでもない。あなたのあるがままでいなさい。
 たとえ、不完全なまま去って行っても、何も得なかったと感じても決して時間の無駄にはならない。
もしあなたが何も得なかったというなら、あなたは正しい。私は何も与えていないのだから。あたな
は何も得ることはない。
 無駄な時間はサットサンガにはない。たとえ今、何も役に立たなかったとしても、これはいつか効
果を現す。効果はきっと現れる。誰も失望することはない。時期が熱したら、ここで話された全ての
真理はマインドに突進するだろう。

  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

題密庵和尚病起上堂後 密たん和尚病き上堂の後に題す
江山富貴是樵漁 かうざんの富貴これせうぎょ   
風雨吟身一草廬 風雨吟身一さうろ
七顛八倒衆生苦 七顛八倒衆生の苦
不耐小魚呑大魚 耐へず小魚大魚を呑む     

くま訳
密たん和尚が病が治り上堂後と題して、
国の富貴は、海山、様々な仕事をする人たちにより支えられている。
風雨を詩に詠み暮すわしは粗末な庵に住む。
衆生の暮らしは七顛八倒、大変苦しいものである。
苦しみに耐えられず、小魚大魚を呑むことが、実際に起こることもあるのである。

*病起:病から起きて・病が癒えて後
*密庵咸傑(みったんかんけつ):1118-1186南宋の臨済宗揚岐派の高僧。法語『密庵咸傑墨跡』
(国宝) が日本に請来され,大徳寺の竜光院に伝わる。この掛幅のために,その茶室密庵席に密庵床が
設けられた。
 墨跡の内容は、修行する上での心得を説き「長く修行を続けることができれば、夢にさえ見たこと
のない素晴らしい境涯が開ける」と記されてるとのこと。
*江山:川と山,国土,国家,国の支配権
*樵漁(ショウギョ):木を切ることと魚を捕ること。木こりと漁師。転じて、庶民。隠者の意味で
使うこともある
*草廬(そうろ): 草ぶきの粗末な家。 自分の住居をへりくだっていう語。
(´・(ェ)・`)b

523鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/29(水) 23:22:35 ID:1d4drIFg0
たとえ聖者のもとに居ることが少なくとも、気づきが起きたならば十分なのじゃ。
気づきは一瞬で起こるものであるからのう。
自己の不在に一度気付いたならば、それが無為にまで続いていくじゃろう。
ただありのままにあるだけで大悟はやってくるのじゃ。

524鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/29(水) 23:26:16 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 密庵和尚が病から起きて上堂後に題するのじゃ。

 江山の富貴は樵や漁民なのじゃ。
 風雨に吟詠する身は一草廬にありなのじゃ。
 衆生の苦しみは七顛八倒するほどなのじゃ。
 そのために耐えず小魚が大魚を飲み込むことが起こるのじゃ。

525避難民のマジレスさん:2021/12/29(水) 23:50:10 ID:QalC9zVc0
53.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part3①

Q:私は完全に成しとげたと思います。今私はどこを見てもあなたの顔が見えます。

 誰かと恋に落ちたら、その人の顔がどこにでも見える。そして愛が非常に深い時、あなたが見るも
のは何でも最愛の人に見える。そして「それ」になる。その時、最愛の人との一体化が起こる。

Q:私の足でさえ、地面に着いていません。

 これもまた本当だ。重さを感じないのであなたは飛んでいるように感じる。私はあなたがここに
やって来て大変嬉しい。THANK YOU.

Q:あなたが下さったこのダイヤモンドを持って世界に戻り、それをサンサーラの中でテストする時
が来たように思います。

 グルが持っているものは何でも、彼が準備ができたと考える人に、グルは手渡す。グルはそれに値
すると彼が決めた弟子に全てを手渡すものだ。これについての話をしてあげよう。
 中国に一人の聖人がいた。彼は彼の後継者を選ぶ時が来たとコンテストを行うことにした。
 ガーサ:最も秀れた仏法の真髄について述べた弟子が聖人の衣と托鉢の椀を勝ち得るのだ。昼夜を
分かたず、寺の学識のある弟子たちは、本堂の黒板に彼らのガーサを書いた。
 この時非常に謙虚な一人の男がいた。彼は文盲で寺の下働きをしていた。夜遅く彼は全ての仕事を
終えた後で本堂に行き、この大騒ぎは何かと尋ねた。
 「グルが最も秀れたガーサを書いた人に彼の衣(けさ)と托鉢の椀を手渡すのだ」と告げられた。
 「どれが今までに一番良いガーサですか?」と彼は尋ねた
非常に賢明な高弟が言うには、
「マインドの鏡をいつもきれいにしておきなさい。そうすると埃がたまらない。そうするとあなたは
自由になる。」
 そこで、この謙虚な下男は返答した。
「鏡のないところに埃はたまらない。」
 このガーサが他のガーサと混じって書かれていた。真夜中に聖人がガーサを見ようとやって来た。
彼が下男のガーサをみた時、彼は彼の後継者を見つけたと知った。
そして彼の所に行って彼の僧衣と椀を与えて、夜通しできる限り速く走って見知らぬ所に行くよう
に、と言った。なぜなら、寺の高僧たちが彼を見つけたら彼を殺すかもしれないからだ。こうしてこ
の下男は寺を去っていった。
 次の朝グルが裸でいるのを見つけて、高僧たちは怒りに狂って何が起こったのか調べ出した。2〜
3時間後彼らは下男を捕まえて、グルの唯一の所持品を盗んだと追求しはじめた。
 彼は言った、「この椀と僧衣はあなたに渡すが、私のグルが私に与えてくれた光を奪うことは決し
てできない。」
 サットグルはあなたのハートに、宇宙の全存在のハートに存在するので、本当の贈り物であるグル
の教えは盗むことはできない。

 鏡をきれいにしようと努力しないことだ。
  鏡はいつも汚れるものだ。
  鏡がなければ、たまる埃もない。
  あなたは真我でないという傲慢さを取り除きなさい。
  鏡を捨てて、全てが真我だと悟るほうがよい。
  この悟りがダイヤモンドでグルからの贈り物だ。

 さて、このダイヤモンドをテストする必要はない。あなたは同じで世界も同じだ。サンサーラとニ
ルヴァーナは何の違いもないので、恐れることはない。
新しくなって帰りなさい。起こって来る全ての状況に直面しなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

526避難民のマジレスさん:2021/12/29(水) 23:52:06 ID:QalC9zVc0
東坡山谷同㡧  とうばさんこく同たう
海内文章汝面前 海だいの文章汝が面前
誰知鍛煉獨天然 たれか知る鍛錬独り天然
説法上堂法堂上 説法上堂はつたうの上
如來禪與祖師禪 如来禅と祖師禅と

くま訳
東坡、山谷の書画が、一幅の掛軸にある。
天下の名文が、目前にあるのだ。
誰も知らないのだ、鍛錬とは独りでするのが当たり前であることを。
説法は法堂(はっとう)の上で行うが、法堂の上には法があるのだ。
如来禅と祖師禅の法があるのだ。

*東坡(とうば):蘇軾東坡1036‐1101年  北宋の詩人、政治家
*山谷(さんこく):黄庭堅 1045‐1105年  北宋時代の書家・詩人・文学者
 不遇の役人生活をしながら、参禅に、芸術にいそしみ、詩文のやり取りをとおして思想、心境を深 
 めていった。二人は一休さんの心の師匠かも。
*同㡧:(同とう)2人の詩人の書画が一幀(ちょう・・装丁)の内にあること。
*如来禅:①如来が実践する禅法。楞伽経(りようがきよう)に説かれる四種禅の一。(大辞林)
 ②達磨だるまの伝えた正系の禅。圭峰宗密(けいほうしゆうみつ)が分類した五種の禅のうち、最 
 上のもの。のちの禅宗では自己の禅を祖師禅と呼び、不十分な禅の蔑称として如来禅の語を用いた。
 如来清浄禅
*祖師禅:達磨だるまの禅宗のこと。また、六祖の慧能の系統の禅(南宗禅)をいう。(大辞林)
*この辺の分類は、論者により、まちまちである。どうでもよいよいのでありましょう。
 一休さんは、黙照禪よりも、悟りに導く修行法として優れているのは、説法や公案指導など、師家 
 の指導による風流な禪(看話禪?)であるとしている詩が、147・148 で詠まれているのである。 
 お楽しみに 
(´・(ェ)・`)b 

*おまけ;三聖吸酸:儒教の蘇軾、仏教の仏印、道教の山谷(黄庭堅)・・酢が酸っぱいという事実
 は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっているとしても、真理は一つである
 という意味。

鬼和尚コメント
犀の角のように独りで歩めとお釈迦様も言っているのじゃ。
独りでいてこそ自分の本心が自分に現われるのじゃ。
他人が居ては仮面を被るからのう。
犀の角のように独り歩むのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

527鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/30(木) 21:55:02 ID:1d4drIFg0
真のグルが与えるものは気づきだけなのじゃ。
それは一度得られれば失うことは無いのじゃ。
道に落ちている縄が蛇ではないと知ったならば゜、もはや二度と蛇とは思わないのと同じなのじゃ。
自分という幻想から覚めれば真実が常にあるだけなのじゃ。

528鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/30(木) 23:08:40 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 蘇東坡と山谷が同㡧なのじゃ。

 海内の文章は汝の目の前に在るのじゃ。
 誰が知ろう鍛錬は独り天然にあることを。
 説法は上堂であるが、法は堂の上なのじゃ。
 如来禅と祖師禅のようなものじゃ。

529避難民のマジレスさん:2021/12/30(木) 23:27:55 ID:hQxwsvJ60
54.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第8章「あなたがどこにいようとも私はあなたといつも一緒にいる」☆Part3②

Q:私がヨーロッパにいる間どのようにしてあなたに仕えることができますか? あなたの為に何が
できますか?

 あなたができることは、街を歩いている時あなたの後ろから従って来る人は誰か? あなたが眠っ
ていてもあなたから決して離れない人は誰か? 目覚めていようが、眠っていようが、夢を見ていよ
うが、あなたの活動の全てに気づいている人は誰か? 話している時、舌を動かすだけの力を与えて
いるのは誰か? を見つけ出すことだ。
 あなたが見る時、目の網膜の後にいる人は誰か見つけ出しなさい。
これを私の為にやってほしい。これがあなた自身の真我と接触し続けることだ。

Q:「それ」から顕われる情勢の中で起こってくる責任についてはどうなるのですか?

 あなたが言っている責任というのは、エゴ-マインドからやって来る。
現実にはあなたには何の責任もない。
「それ」があなたの行動の責任をとるだろう。

Q:あなたに会って以来、全てが夢のようにみえます。

 ラクナウにやって来る前は全てが本当のように思えた。
しかし今、それは夢だ。これがあなたが「家」に戻った時に得られるレッスンだ。

  マインドがあなたに本当だと告げた時のみ
  物は本当に見える。
  しかしマインドがない時、これは全て夢だ。

 少数の人がこの現実を夢だと経験する。夢を見ている時、全てが本当のように見える。夢の中であ
なたに飛びつく虎は本当に見える。それは夢の中では本当だ。夢を見ている人でさえ本当に見える。
 しかしあなたが目覚めると、虎を恐れることはない。なぜならそれは決して存在しなかったのだか
ら、それは夢の虎にすぎない。
 これは全ての人に言えることだ。誰もがこの夢を恐れている。なぜなら誰もそれは本当ではないと
理解しないからだ。

  やって来るもの全ては夢だと理解しなさい。
  夢のタイガーを恐れないこと。

Q:それでは、私は家にいて二度とラクナウに来る必要はなく、起こるがままに人生を生きるべきで
すか?

 そうだ、起こるがままに人生を生きなさい。もし「それ」があなたをラクナウに連れて来るならラ
クナウに戻ってきなさい。

 起こるがままに人生を生きなさい。
しかし、それに巻きこまれないことだ。
やってこさせなさい。拒絶することはない。
何もやってこないなら満足して静かに座っていなさい。
これが本当の教えだ。

第8章 「あなたがどこにいようとも私はいつもあなたと一緒にいる」 終了
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

賛臨済和尚 臨済和尚を賛す
喝喝喝喝喝 喝々々々々
當機得殺活 機に当たって殺活を得
悪魔鬼眼睛 悪魔鬼眼睛
明明如日月 明々としてじつげつの如し

くま訳
臨済和尚を賞賛する
喝々々々々
臨機応変殺活自在
人を見抜く悪魔のような鋭い洞察眼
明らかなること日月の如しである。
(´・(ェ)・`)b

530鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/31(金) 23:45:26 ID:1d4drIFg0
人々が現実とよぶものは実は夢でしかないとグルは教えてくれるのじゃ。
一度それかわかれば、もはやもとにもどることはないのじゃ。
それが真実であるからなのじゃ。
一晩の夢と同じように現実とよばれるこの世界も、いずれは何のあとも残さず消えて行くのじゃ。
それこそこの世が夢でしかない証なのじゃ。

531鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2021/12/31(金) 23:48:38 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 臨済和尚の賛なのじゃ。

 喝喝喝喝喝なのじゃ。
 機会に当たって殺活を得るのじゃ。
 鬼悪魔のような眼なのじゃ。
 明々として日月の如くなのじゃ。

532避難民のマジレスさん:2022/01/01(土) 00:00:22 ID:7sxj34Oc0
55.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part1①

世界は幻想

 波に隠されているのは海
 名前に隠されているのは基盤だ 
 顕現に隠されているのは「あなた」
 あなたが誰か忘れないなら
 この顕現は宇宙の踊りだ
 名前のないものがあなたという形を与えた
 それがドラマを演じるために、愛するために、真我を知るために
 このことを忘れてはならない

ナラヤナ:幻想の想像

海は波のことを忘れないが
 波が海のことを忘れてしまう。
 これがために世界が顕現するのだ。
 戯曲を演じるためにはこの忘れっぽさが必要だ。
世界は祝祭のためにのみ存在する。
顕現は楽しまれるべき、宇宙のドラマにすぎない。
すべてはドラマで、実在するものは何もない。
考えることはすべて、それになるのでドラマが続いて行く。
このドラマはあなたによって創られた。
そして、それを破壊できるのはあなただけだ。

Q:創造とは何ですか? この幻想はどのようにして起こって来るのですか?

 最初に意識は静まりかえった湖のように存在していた。そして、さざ波が起こる。これが名前と形だ。意識から「私は意識だ」という思考が起こって来る。これが「私」という感覚だ。そして欲望が起こって、これがエゴだ。
 さざ波は湖とは別個のものだと考えて、これが時間と空間という限界を創り出す。このさざ波は思考のまばたきと同じだ。これが意識から起こって来るエゴだ。
 しかし、さざ波は湖や水と何の違いもない。これを忘れると問題が起こって来る。感覚が起こり、感覚の対象物が起こり、すべての顕現があなたと一緒に戯れるために、あなたを欺くために、創り出される。
 あなたが「すべては想像だ」というとき、あなたは醒めているのでそれはもはや想像ではなくなる。顕現という夢から醒めなさい。あなたが真我から離れないならエゴは起こってこない。対象は感覚にすぎないし、感覚は肉体にすぎない。肉体はマインドにすぎないし、マインドは「私」にすぎない。
 この「私」は意識だから、実にこの世界の創造はあなた自身の反射にすぎない。思考が世界を創り出すのだから、この「私」の源泉を完璧な警戒心をもって思考をストップすることで見つけ出しなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

虚堂和尚三轉語 1/3
己眼未明底     こがんいまだ明らかならざるてい、   
因甚将虚空作布袴着 なにによってかこくうをもってふことなしてつく

畫餅冷腸飢未盈 がびょうれいちょううえいまだみたず
娘生巳眼見如盲 にょうじょうのこがん見てもうのごとし  
寒堂一夜思衣意 かんどういちやころもを思ふ意
羅綺千重暗現成 らきせんじゅうあんにげんじょう 

くま訳
いまだに見性できないでいる者は、なぜ虚空を衣服にしようとしているのか。

絵に描いた餅ちでは、わびしかろう、いまだ飢えを満たせまい。
少女が見性者を見ても見分けがつかない様なものである。
寒いお堂で一夜を過ごすときに衣のことを考えるようなものである。
美しい薄絹の衣(美辞麗句)をいくら重ねても闇が深まるばかりである。

*虚堂智愚:1185―1269南浦紹明 (大応国師) は虚堂の法脈を受けた臨済禅を日本に伝えた。
*転語:迷いを転じて悟りに至らしめる言葉
(´・(ェ)・`)b

533鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/01(土) 21:54:02 ID:1d4drIFg0

 意識は大海のようなものとものだというのじゃ。
 自分とはその表面に現われた波のようなものなのじゃ。
 自分が現われれば欲が起こり、感覚が起こり、感覚の対象が起こるのじゃ。
 感覚の対象によって快と不快が起こり、嫌悪と執着が起こるのじゃ。
 そして苦が起こる縁起をパパジも説いているのじゃ。

534鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/01(土) 21:58:22 ID:1d4drIFg0
 それでよいのじゃ。

 虚堂和尚の三轉語だというのじゃ。

 己の目でまだ底を明らかにしていないのに、
 なにをもって虚空を布として服を着ようとするのかというのじゃ。

 絵に描いたもちは腸を冷やして飢えを満たせないのじゃ。
 小娘のような目で見ても盲人の如しなのじゃ。
 寒堂で一夜、思いを布とするような意味なのじゃ。
 綺麗な布を千枚重ねても暗闇をつくるだけなのじゃ。

535避難民のマジレスさん:2022/01/02(日) 00:06:30 ID:YgWl/dyw0
56.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part1②

Q:私達が見ている世界が宇宙の全体性ですか?

 存在の水準は数多くある。私達より上の水準は美しい存在によって占められているし、下の水準は
半人間、非常に醜い存在によって占められている。
 私は非常に美しくて肉体が透けて見える水準にいる人々を訪れたことがある。他の水準では半分顔
で、半分醜くゆがんだ顔を持った人々が存在し恐怖を感じた。
 私達がここでモクシャを達成しないなら、次は神になって最終的にはこの水準に戻ってこなくては
ならない。ここが自由を勝ち得る唯一の場所だ。神でさえ自由が欲しいのなら、ここに生まれ変わら
なければならない。
 意識はそれが考えるどんな形も取ることができる。ゴールドが宝飾のどんな形をとってもゴールド
として残るように。海が海として留まりながら波を創り出すように、意識がその本質を失くすことな
しに宇宙を創り出す。そこには、多様性も単一性も存在しない。
 「それ」はただ「ある」。あなたはこれに気づいていない。これがロープが蛇に見える理由だ。近
づいて見ると蛇ではないことが分かるのだが。
同じことが「私」についても言えるのだ。
 詳しい調査をして見ると「私」は存在しなくて、この宇宙は無の中に、意識の中に消えてしまう。
かって何も起こらなかった、これが究極の真理だ。考えるとそうなるのだからこの真理を考えなさい。
 この蛇の毒歯を破壊して、あなたの真我を知りなさい。
あなた自身の真我に留まりなさい。創造者とは誰か、何が創られたのかと考えないことだ。
 単に、あなた自身の真我に定住しなさい。すべての形を持った全世界が源泉から,即ち無からやっ
て来る。思考が源泉から起こる・・「私を倍加させよう」。
 そうして、存在が過去、現在、未来とくり広げて行く。25000年前ヴェーダはこれについて述
べている:

 EK Koham Bhahosham:私を何倍にも増やそう。
この創造の目的は真我が愛して楽しむことである。
だから人間として生まれて来た目的は、
自由になって楽しむことである。

 すべての形は音である。形のすべては音から起こって来る。あなたが口にするどんな名前も形にな
る。しかし、どんな形にもならない一つの音がある。
 この未知なるものが既知なるものすべての基盤だ。既知はいつかあなたを騙すことになる。だから
現れもしないし消えもしないものと友情を結びなさい。
 意識は一瞬にして限りない生誕と創造を経験する。これらの創造は、これらの*リーラは、真実で
も偽ものでもない。真実は、創造も経験者もないが、なおかつ創造と経験者が存在するのだ。
 これは、マインドにとっては逆説だ。しかし意識の中では、対象と主体の間には何の違いもない。
「私は誰か」という即座の探求の中で、それ自身がそれ自身を明らかにする。
 さもないと創造は永遠に続くことになる。探求しないことが創造のベースであり、探求することが
自由のベースである。自由とは、あなたの本質は「存在・意識・至福」だと実現することだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

虚堂和尚三轉語 2/3
劃地爲牢底因甚 透者箇不過  地に画して牢と為す底、 なにによってかしゃこをとほり過ぎざる

何事春遊興未窮 何事ぞ   いまだきわまらず
人心尤是客盃弓 じんしんはもっともこれかくはいのきゅう
天堂成就地獄滅    成就し地獄滅す
日永落花飛絮中 日は永しらっかひじょのうち

くま訳(錯覚)
地面を区切って牢としている、何でそこを通りすぎないのだ。

のどかな(言葉の)お遊びにいまだ飽き足らない
人の心は、盃に写る弓の影を見て、蛇だと錯覚したりする。
極楽浄土へ行けば、地獄は滅する
いつまでも、花が落ち、風に舞う綿毛のようであることだ。

*飛絮漂花(ひじょ):遊女などに身を落とすこと、女性がつらい境遇で、見込みもないまま苦労すること。
(´・(ェ)・`)b

536鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/02(日) 23:58:14 ID:1d4drIFg0
人はそれぞれが自分の宇宙を創っているものじゃ。
そうであるからどのような宇宙も創造できるのじゃ。
そこに本来は自分も無いのじゃ。
自分が無いと知れば宇宙もないとしれるのじゃ。

537鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/03(月) 00:03:23 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 また虚堂和尚の三轉語なのじゃ。

 地面に牢を書いただけなのに、なぜ通れなくなるのかということじゃな。

 何事か春の遊びは興味が尽きないのじゃ。
 人心はもっとも客の杯の弓の如しなのじゃ。
 天国がここに成就すれば地獄は無いのじゃ。
 日は落花飛絮の中、永遠落ちることも無いのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2022/01/03(月) 00:15:33 ID:dzm42qiU0
57.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part1③

Q:私達の真の本質が「存在・意識・至福」なら、なぜそれを離れてこの肉体としての形を想定する
のですか?

 それを離れたと、なぜ想定するのかね? これは愚かなことだ!この想定そのものが、私が今説明
した幻想の創造だ!!幻想を創り出すこだ!!
 あなたは「存在・意識・至福」ではないと誰が教えたのかね?  この想定が無限の輪廻を引き起こ
しているにすぎない。あなたは決してこのホームベースを離れなかったという確信をなぜ持たないの
かね?
「 私は存在・意識・至福」、「私は自由だ」という確信をなぜ持たないのかね?

Q:私が自由だと感じなかったからです。

 「私は生まれてもこなかったし、決して死ぬこともない」という確信をなぜ持たないのかね? あな
たの考えることがそのまま起こるのだから、考えたいのなら「私は『それ』のみだ」と考えなさい。

Q:真我とリーラは同じですか。

 両方共同じことだ。海と波の間にどんな違いがあるかね? 海があるところには必ず波はあるし、
波のあるところには必ず海がある。海では波が必ず遊んでいる。そして、波は最終的に海に戻って静
かになる。
「私はリーラ」と言ってそれを楽しみなさい。

  もし真我があって、リーラがあるというなら、
あなたは悟っていないことになる。
それらに「違いはない」し、「違いがない」ということもない。
何もない。唯一真我のみ
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

虚堂和尚三轉語 3/3
入海筭沙底    かいに入りていさごをかぞふるてい、
因甚針鋒頭上翹足 なにによってかしんぼうとうじょうに足をつまだつ

撒土筭沙深立功 どをさっしいさごをかぞへて深く功を立つ
針鋒翹脚現神通 針ぼうに足をつまだて神通を現す 
山僧者裏無能漢 山ぞうがしゃり無能の 
東海兒孫天澤風 東海のじそんてんたくの風

くま訳
海に入り、砂を数えている。何で針の先に爪先立ちするようなことをやるのだ。

土を撒き散らし、砂を数えて、大手柄をたてたつもりでいる。
針の上につま先立ちして、神通力を見せる。
山僧者裏(修験道の行者)は無能であるため、
東海の子孫である臨済宗は、本来の目的以上の役割を託されてしまった。

*東海児孫:通常、大応国師南浦紹明をあらわす(83の詩 参)
*澤風大過:易の64の卦。力量以上に背負った非常時で、家の棟がたわみ家が傾くような大変な時を表す。
(参*円楽寺:修験道の開祖、役行者が701年に開いたと伝えられる真言宗智山派の寺院)
(´・(ェ)・`)b

539鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/03(月) 23:54:26 ID:1d4drIFg0
肉体を持っていても苦があっても衆生は今ここで永遠の意識そのものなのじゃ。
それから離れているという観念が幻想なのじゃ。
ただの一刹那も離れはしないのじゃ。
幻想から離れればそれを感じることが出来るのじゃ。

540鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/04(火) 00:04:05 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 虚堂和尚の三轉語なのじゃ。

 海に入って海底の砂を数えるのじゃ。
 それに因って縫い針の頭につま先だって立つのじゃ。

 土を撒き、海砂を数えて深い功績を残したのじゃ。
 針の頭に足を爪先立てて神通を表したのじゃ。
 山僧の者裏は無能の男であるのじゃ。
 東海の子孫は天澤の風なのじゃ。

541避難民のマジレスさん:2022/01/04(火) 07:23:55 ID:rZKNBL6Q0
58..
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a①

マーヤー:幻想の力

ほの暗い道であった。
その道端に恐ろしい蛇が横たわっているのを見る。
そして他の方向から突然誰かが、蛇の側を通り過ぎてやって来る。
その人は何をそんなに恐れているのかとあなたに問いかける。
  あなたはその人が踏みこえた毒蛇について話す。
そしてその人は、それはただのロープだと言って聞かせる。
毒蛇は存在しない。決して存在しなかった。
幻想と想像の力がロープという現実を隠してしまうのだ。
  毒蛇の概念がロープを隠してしまうように、
幻映がアートマンを隠してしまう。
アートマンがすべてだ、潔癖の意識。
永遠に自由で至福に満ちている。
しかし、本質的に存在しない名前や形でこれを隠してしまう。
主体や対象に与えられたイメージでこれを隠してしまう。
考えることは、何かであると想像することだ。
「実在」の上に何かを覆いかぶせることだ。
  それは一時的な夢の現実を創りだす。
この信じられない*1マーヤーの力は唯一アートマンからやって来る。
  名前と形のすべてはこのマーヤーだ。
この名前と形に囚われると基盤の実質を見失ってしまう。
指輪を見たらゴールドを見ない。
名前と形が虚空に溶けこむと存在になる。
名前と形が幸福を与えてくれることはない。
名前と形のあるところでは何かが隠されてしまう。
その何かが幸福だ。

目覚めの状態はエゴがスターで、カルマが監督で、マーヤーがプロデューサーの映画だ。
目覚めの状態でさえ夢の状態と同じことだ。
「実在」はいつも「実在」で、非実在は決して実在でありえない。
あなたが真理に眠っているとき、唯一この幻映を夢見るのだ。
だから、目覚めなさい。
毒蛇は存在したためしはない。

「自由」とは幻想の幻想性が取り除かれることだ。
疑いはあなたと「自由」の間にある幻想の壁だ。
それを追い求めて幻想の現実を堅固にするのをやめなさい。
期待がそれをさせるのだ。
マーヤーは終わりのない、決して存在しない想像だ。
マーヤーが投影したリーラは内側からやって来る。
マーヤーのドラマのために真理の知識が幻想的になる。
世界は主体と対象でなりたっている。
「実在」を知るためには何の上に主体-対象が映しだされているのか見つけだすことだ。
何にも影響されないスクリーンを見つけることだ。
このように真我を黙想していることが世界の偽りの顕現、幻想を根絶することだ。

用語解説
*1マーヤー 幻想という意味
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

賛欽山禪師 1/4 欽山禪師を賛す
佳名勦絶利貪稠 佳名そう絶利貪しげし
茶店美人誰好仇 さ店の美人誰かかうきゅう
爭識洞山下尊宿 いかでかしらんとうざん下の尊宿
慈明狭路好風流 慈明の狭路好風流

くま訳
欽山禪師(曹洞宗)の評価
名声を根絶され、名利を貪る禅になってしまったのである。
遊里の美人の様な僧のことを誰が好い仲間といえようか。
洞山良价禅師の法嗣に、高徳の僧がいることをわしは知らんのだ。
慈明禅師(臨済宗)の法系は、峻厳で道狭く、又風流なのである。

*欽山文邃(ぶんすい):岩頭、雪峰と三人連れだって行脚し逸話を残している。曹洞宗の高祖であ
る洞山良价禅師の法を嗣いだ。一鏃破三関 (いちぞくさんかんをやぶる)公案が有名。岩頭全豁(ぜ
んかつ)828-887 と 雪峰義存(ぎぞん)822- 908 は徳山宣鑑(せんかん)禅師の法嗣。
*慈明禅師:石霜楚円(986-1039)臨済下七世、
*勦絶(そうぜつ)滅ぼしつくすこと。根絶やしにすること。皆殺しにすること。 
*佳名:名声、いい評判
*貪利(ドンリ たんり):欲深く利益を求めること
*稠(チュウ・ チョウ おおい・ しげる・ こい)
*好仇(こうきゅう):良い相手。良い仲間。好匹
*尊宿:老年で徳の高い僧侶

五味の禅を挙揚していた欽山は、趙州和尚にも、小知見であると見限られていた(趙州録開莚普説)よ
うであります。当て馬のように評価されているようでありますが、それはそれで、必要であることに
は、違いないでありましょう。
一休さんは、アンチ曹洞宗、欽山和尚みたいでありますが、欽山和尚は悟ってなかったのではありま
しょうか?

鬼和尚コメント
悟っていたのじゃ。
 弟子に主体を問うていたのじゃ。
 それだけが大事なのじゃ。
 言葉にも誤魔化されなかったのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

542鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/04(火) 23:46:18 ID:1d4drIFg0
自分という観念は常に錯覚であり、誤認であるのじゃ。
それはいつも語られる道に落ちていた縄の錯覚として喩えられるのじゃ。
ありもしない蛇の幻想に惑わされれば真実が見えないのじゃ。
真実として縄は蛇ではなく、観念は自分ではないと気付けば悟りはやってくるのじゃ。

543鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/05(水) 00:03:04 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 欽山禪師の賛なのじゃ。

 佳名は絶えて利益を貪ることがはげしいのじゃ。
 茶店の美人は誰がよいつれあいじゃろうか。
 洞山下の尊者達は知名を争うほど多いが欽山禪師はその一人なのじゃ。
 慈明の狭路は風流を好むのじゃ。

 悟っていたのじゃ。

544避難民のマジレスさん:2022/01/05(水) 00:15:19 ID:wRf36C0s0
くま訳改
第三句:洞山下の尊者達は知名を争うほど多いが欽山禪師はその一人なのだ。

59.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a②

マーヤー:幻想の力

Q:この世界という幻想、マーヤーがなぜ存在するのですか?

なぜなら、あなたがマーヤーを必要とするからだ。あなたがマーヤーを必要とするのだ。あなたに
は満たしたい欲望がある。だからそれを満たすためにはマーヤーが必 要だ。
あなたは川を求めて焼きつく砂漠をさまよい歩く、しかし川は蜃気楼にすぎない、それは存在しな
いのだ。 あなたの欲望が川を創り出す。
少数の人が歩くのをやめて、外に面している顔を内側に向ける。 そして内なる真の流れに、ネク
ターの流れに向かって行く。

Q:この世界の現実は幻想だと物理的に証明できますか?

 概念を証明することはできない。概念が幻想のすべてであり、この世界の現実のすべてである。こ
んこんと清水の湧きでる井戸から離れないことだ。離れて砂漠に行った人が蜃気楼を見て、この幻想
に苦しめられる。

 真理は経験することも、証明することもできない。それは不可能だ。すべての人がこの幻想に巻き
こまれて、マーヤーは誰かを知らない。すべての人がこの彼女を愛し、その見返りは不幸と不安と苦
しみだ。
 どのようにして幸福で永遠に至福に満ちていられるか、カビールから学びなさい。彼はマーヤーに
歌っている。

お前はりっぱな詐欺師だ。
誰もお前に気がつかないが
私はお前が誰か知っているぞ。

Q:神は自分の所にやって来る人すべてを助けるとあなたは言いました。又、あなたは神だとも言い
ました。だから私は神であるあなたに、この幻想を今日一度に全部、破壊して下さるようにお願いし
ます。今ここで。
  
 この幻想を私に見せてごらん。そうしたらマッチも使わずにそれをすぐに燃やしてしまおう。しか
し、私にそれを見せてくれなくてはダメだ。このガールフレンドを私に見せてほしい。あなたについ
てではなく、この彼女についてどうするか決めたいのだから。
 私が彼女の面倒を見よう。彼女は破壊されることを望むか、又は私が彼女を洗礼したら彼女はあな
たと一緒にいることができる。
まず初めに幻想の意味を知るべきだ。幻想とはマーヤー、マーヤーの意味は存在しないもの。だか
らどうして私が存在しないものを破壊することができるのかね? 
 スクリーンの上に投影されたものが幻想だ。映画館でスクリーンの上の映像に夢中になるとそれは
投影だと気づくことはできない。この映像の中で、ある人は幸福で、ある人は悲しんで、ある人は海
で死ぬ、ある人は墓場に埋められる。
 あなたはこれらのスクリーンの人々に夢中になり苦しんでいる人や楽しんでいる人と同一化してし
まう。これがサンサーラのお話だ。
 この映画が終わると、他の映画が写される。そのとき、しばらく映像が写しだされていたスクリー
ンを見ることができる。このスクリーンは全く色づけされていないし、海の水で濡れてもいないし、
火で燃やされてもいない。
 これらの映像は本当ではない。ほんの少数の人がこれを知っていて、同じ映画を見るために二度と
やって来ることはない。しかし、ある人々は同じ映画を何度も何度も見ている。
 あなたがスクリーンだと知ったなら、映像のすべては幻想だ。そして初めて、幻想を楽しむことが
できる。そのスクリーンの上であなたが肉体として現れる。男であろうが女であろうが、この肉体が
遊ぶためには反対の性の肉体が必要だ。
 これが通常繰り返されているストーリーだ。それは終わることがない。単に静かにしていなさい、
そうすると、あなたは決して生まれてこなかったと知ることになる。生まれた人が死ぬということは
ただの概念だ。あなたがこれを知ったなら、大変幸福になる。
 これがあなた自身の真我とのロマンスの始まりだ。どこにいようともこれを人々に話してあげなさ
い。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

545避難民のマジレスさん:2022/01/05(水) 00:16:12 ID:wRf36C0s0
賛欽山禪師  2/4
上堂茶話作家禪 上堂のさ話さくけの禪
點檢将來新婦禪 点検しもち来れば新婦の禪
錦帳香囊風起臭 きんちゃうかうなう風起こって臭し
洞山佛法是何禪 洞山仏法の是何の禪ぞ

くま訳
欽山禪師批評
寺院における、説法や公案指導などは、師家の指導による禅である。
繊細な点検を伴う黙照禅は、新婚の若妻の禅である。
錦のとばりに吊るされたにおい袋の香りが流れてきて臭いのである。
洞山の仏法のどこが禅なのか

*上堂:①法堂の法座に上り、説法すること。古来は毎日朝晩行われていたが、現代ではほとんどが、
一生に一度晋山上堂?を行うばかりである。②僧堂内の上間の別名。
*茶話:禅宗寺院で行われる説法や指導は、様々な形態があるが、随時に行われる、説法や教訓・家
訓のことを茶話といい、これは特に、茶を飲みながら行う場合を指す。
*錦帳(きんちょう):錦(にしき)で織った垂れ布。にしきのとばり。
*香囊(こうのう)①室内や牛車ぎつしや内につるす、あるいは腰に下げる毬香炉まりごうろ。②匂
い袋。

一休さんは、曹洞宗が嫌いなようでありますね。

鬼和尚コメント
そうかもしれん。
 錦の帳や臭い袋がなぜ必要なのかというのじゃ。
 曹洞宗ではそのようなものを使っていたのじゃろう。
 禅は自分を見極めればよいだけなのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

546鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/05(水) 23:52:57 ID:1d4drIFg0
幻想を破壊するには、ものごとが幻想であると気付かなければならないのじゃ。
何がどのように幻想であるのかわからなければ、破壊もできないのじゃ。
そうであるからパパジは幻想を破壊して欲しいという者に、その幻想を見せてごらんと言ったのじゃ。
幻想を探して幻想に気付いたならば、それだけで幻想も全て破壊されるのじゃ。

547鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/05(水) 23:57:02 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 また欽山禪師の賛なのじゃ。

 上堂の茶話は作家の禪なのじゃ。
 点検を将来するは新婦のような禪なのじゃ。
 錦帳で香を焚けば苦風が起こって臭いのじゃ。
 洞山仏法は是何の禪だというのか、というのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2022/01/06(木) 00:19:37 ID:pgKE9LnY0
60.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a③

マーヤー:幻想の力

Q:このマーヤーのドラマの中で、人間の役割は何ですか?

 人間として生まれて来ることはとても貴重なことだ。なぜなら、この生誕の中でのみ、すべては幻
想だと知ることができるからだ。おそらく人口の1兆に10人、自由を達成したいと決心を固めるだ
ろう。その内で幻想のゲームに勝つ人は非常にまれだ。
 真理は内にある。しかし感覚の対象を外に追い求めて、いつも他のどこかを見ているのだ。しかし
このすべては幻想だ。今これを知りなさい。どこから幻想が起こって来るか見つけなさい。この思考
がどこからやって来るのか見つけなさい。
 そうすると、あなたの内にいつも定住している愛を見つけることができる。すべてがあなたの肉体
も含めて幻想だと分かるだろう。

  現れて消えるものは実在ではない。

 砂漠の川の蜃気楼のように一度それは幻想だと知ったなら、それからあなた自身を切り離すことが
できる。「幻想を超越した人」になる。この蜃気楼によって渇きを癒やそうとする人々は決して満た
されることはない。彼らは益々トラブルに巻き込まれて行くだけだ。

 この川は蜃気楼だと知った人たちはそこには行かないだろう。彼らはマーヤーは現われるが存在し
ないと知っている。これを理解したならどこに平和と幸福があるのかと尋ねるに違いない。
 この探求があなたをサットサンガに連れてくるのだ。

Q:外側の状況と内なる感情的な反応の間に何か関係があるのですか、それともすべては幻想です
か?
 それはすべて幻想だ。マインドそのものが幻想だ。あなたが考えるものは何でも幻想で、幻想を取
り除くためには考えないことだ。何年もこれを練習してもらいたくない。しかし、ほんの一瞬、目の
まばたき、一息、半息、でよい。そうするとあなたのすべての問題は解決される。(くすくす笑い)

Q:愛もまた幻想ですか?

 愛は幻想ではない。愛の中ですべての幻想がなくなる。幻想のないところに真の愛が起こってくる
のだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)
  
賛欽山禪師 3/4  
濟家純老機生銕 濟家の純老機しょう鉄
一條活路途與轍 一條の活路途と轍と
雪峰岩頭無眼睛 雪峰岩頭眼睛無し
千歳達磨宗敗闕 千歳達磨宗の敗闕

くま訳
欽山禪師批評
臨済宗の一休爺の禅機をもって、修行者を鍛えるのである。
一筋の活路、道理があるのである。
雪峰や岩頭は黙照禅では悟れなかったとのである。
千年続く達磨宗の欠点である

*濟家の純老:臨済宗家の一休
*機:はたらきの意。 禅の修行によって得られた力の発現。修行者の指導にあたって、師が説明や対
話などではなく、相手の心の奥底に直接響くような短句や動作などを用いること。
*生鉄(ナマガネ せいてつ)よく鍛えていない鉄。
*途轍:すじみち。道理。
*敗闕(はいけつ)きずつきこわれること。また、欠けていること。欠点があること。

面壁九年の達磨さんは、黙照禪の代表なのでありましょうか?
公案指導を取り入れた閑話禪は革新派にして、より優れた指導法と一休さんは考えているようであり
ますね。

鬼和尚コメント
↑一休はそう思っていたのじゃろう。
本当は臨済宗の祖師でもあるがのう。
新しい公案の禅がすごいといいたいのじゃな。
それで無ければ悟れ無かった者もいるというからのう。
(´・(ェ)・`)b

549鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/06(木) 23:24:01 ID:1d4drIFg0
生まれかわる人間も、変化していく物質も幻想でしかないのじゃ。
心の中にある全ての観念もまた幻想なのじゃ。
愛だけは幻想の雲間から差し込む真実の光なのじゃ。
それによって人は個人を超えて観念の彼方に進むことが出来るのじゃ。

550鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/06(木) 23:29:02 ID:1d4drIFg0
 そのように考えていたのじゃろう。
 革新派にありがちなことじゃな。
 お釈迦様はただ人の性質によって違う道があるとしていたのじゃ。

 それでよいのじゃ。

 更に欽山禪師の賛なのじゃ。

 濟家の純老は生鉄を鍛えるのじゃ。
 そこに途と轍の一條の活路が在るのじゃ。
 雪峰や岩頭は眼精なしなのじゃ。
 千歳の達磨宗の敗閥なのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2022/01/06(木) 23:33:43 ID:3AGa3WB.0
61.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-a④

マーヤー:幻想の力

Q:このことを忘れないために新しい名前をいただけますか?

 マドウー・蜜という名前をあげよう。私がなぜこの名前をあなたにあげるのか説明するためにある
話をしよう。
 昔、ある男が森を歩いていて偶然にも井戸に落ちてしまった。彼はあわてて井戸の中に生えている
蔦を掴んでそれにぶらさがった。
 井戸の中で下を見たら腹をすかしたワニが口を開いて待ちかまえている。上を見たら白と黒の二匹
の野ねずみが蔦をかじっている。
 井戸の真上に蜂の巣のついた木があり、その巣から丁度彼の口に届くように蜜が垂れていた。彼は
蔦につかまりながら蜜の一滴一滴を楽しみ始めた。この楽しみのためにねずみとワニの事を忘れてし
まった。
 これがマーヤー、人生のお話だ。男は死の井戸にぶら下がっている。ワニは死そのもので白と黒の
ねずみは昼と夜、時間の経過を意味している。蔦は人間の寿命、時間によって切り刻まれて行く。蜜
が快楽で私達を死と時間から引き離す。これがまさにこのサンサーラの状況だ。そしてみんな幸せだ。
(笑)
 ねずみに寿命を切り刻むのを許さないことだ。しかしまず第一に,井戸に落ちないことが一番よいの
だが。次の足がどこに着地するのか見なさい。注意深く生きなさい。
 井戸に落ちてワニの恐怖にさらされるより、木に登って蜂の巣丸ごと手に入れる方が良いに決まっ
ている。これを今、決心しなければならない。
  さもないと死のワニはあなたを待っているし、ねずみは蔦をかじり続けるだろう。誰もすぐに蔦
をつたって登って行こうと考えない。たとえ短い登りでもそれを考えない。井戸の外に出たら幸福と
至福の蜜を楽しむことが出来るというのに。
 だからこのイメージを毎日憶えていなさい。これが最高の教えだ。すべての人が自分自身の死に気
づくべきだ。蜜を一滴一滴楽しんでいて誰もかつて死を避けた人はいない。
 自由でありなさい。そうして、始めて人生の蜜を味わうことが出来る。感覚を通しての快楽は蜂の
蜜と同じようなものだ。それは恐ろしく暗い井戸に人を閉じこめてしまう。これは単なるお話ではな
く、教訓だ。

Q:今、蔦を登って来る方法がありますか?

 まさにその通りだ。「今」が蔦で「今」が出口だ。蜜を一滴一滴味わうのを止めて、ねずみがあな
たの寿命を切り刻んでいるのを見なさい。だから、あなたが賢明なら井戸から飛び出すだろう。
 怠け者のように待っていないことだ。あなたを困難に巻き込む可能性のあるものを楽しまないこと
だ。決めなければならないことは、
 「何があなたのためになるのか? 何があなたに幸福を与えてくれるのか? 蔦にぶら下がってい
ることが幸福か?」
 少数の人がこの井戸という世界から飛び出す。死はワニで、寿命は蔦だ。ねずみは昼夜を分たず蔦
を切って行く。待っていることは賢明ではない!
 賢明な人々は仏陀のように飛び出す。彼はその国で最も美しい女性達と眠っていたが真夜中にすべ
てを捨てて宮殿を去った。ほんの少数の人々がこれをやり遂げた。
 2600年経った今も私達は仏陀を憶えている。このようにみんな仏陀になることができる。欲望
というベッドから目覚めて起きあがるだけでよい。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

賛欽山禪師 4/4 
尿床鬼子大難心 尿床の鬼す大難の心
定老當機恩力深 じょう老当機恩力深し
夜雨燈前渾即忘 夜雨燈前すべて即忘す
風流茶店旧時吟 風流のさ店旧時の吟

くま訳
欽山禪師批評
寝小便たれ小僧(欽山)が窮地に陥った
定上座の相手の能力に応じて導く力、大恩は深いのであるが、
雨降る夜の灯火の下、全てを忘れてしまうのだ
風流な遊里で作った昔の詩である

*定上座:臨済義玄の優れた弟子の一人
*当機(とうき):相手の能力素質に応じた導き方をすること。
(´・(ェ)・`)b

552鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/07(金) 23:19:11 ID:1d4drIFg0
誰もが限られた寿命で苦しみながら生きているのじゃ。
それを快楽で一時忘れようとしているだけなのじゃ。
そのような世界から超越する方法は確実にあるものじゃ。
誰もが決意して自らを観ることで、この苦の世界から永遠に自由になることができるのじゃ。

553鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/07(金) 23:25:28 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 またまた欽山禪師の賛なのじゃ。

 尿床の鬼子は心が大難に陥ったのじゃ。
 定老はその機会に当たって恩力を深く施したのじゃ。
 そして夜雨燈前自己の全てて忘れ去ったのじゃ。
 風流の茶店には古い詩の詠吟があったのじゃ。

554避難民のマジレスさん:2022/01/07(金) 23:29:28 ID:BSaryKXY0
62.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-b①

マーヤー:幻想の力

Q:サットサンガが始まる前にあなたはいつも「どうか生きとし生けるものに愛と平和を」と言っていますが…

 「どうか生きとし生けるものに愛と平和を」というのは印度古来の聖典、ヴェーダに書かれた宣言文だ。朝起きたときにこれを祈るように提案している。「世界に平和を、天国に平和を、地獄に平和を、存在のすべてに幸福と平和を」。25000年前に書かれたヴェーダからこれを引き出した。
 これを言っても平和にはならないが、毎日私達はこれを祈っているのだ。25000年前でさえ平和はなかった。平和と世界は一緒に座ったことがない。世界があるところには混乱がある。
 しかし、私達は人々が傷つけられるのを望まないので、人々の幸福を祈るのだ。毎朝私達は出会ってすべての人の平和を祈るのだが、平和がもたらされたためしがない。人々は一億年前と同じように混乱したままだ。平和を見つけたためしがない。
 すべての人が混乱している。どのようにマインドが走り回っているか見てごらん。マインドは静かにしていることはできない。私達はここで、マインドに無関心でいるように助言して一緒に探索しているのだ。猿のように走り回るのがマインドの習性だ。
 それを捕まえることはできないが、この猿がどこからやって来るのかは見つけだすことができる。これは非常に貴重な方法でうまくいっている。何人かがすでにこれをやり遂げて経験した。思考を追いかけて何億年もの間、幾世に転生して、あなたは今ここにいる。二度とこの悪循環に戻らないために何ができるか理解するようになるだろう。
 ここでは宗教によって提案されている方法は使わない。ただ単にどこから思考がやって来るのか見つけだすだけだ。これが最大の問題だ。思考が起こって来るのを見ただけで「それ」を実現して、「それ」と合流してしまうのだ。
 私は「それ」を無とは呼ばない。しかし「それ」を実現したときは、河が海に流れ込むようにあなたは「それ」に流れ込んで行くのだ。これがすべての終わりだ。そして、これは一瞬に終えることができる。
 そうすると、2兆年前、宇宙が始まったのは「この」瞬間にだということが分かる。「これ」が2兆年間が滞まったこの瞬間で、未来が滞まるその瞬間なのだ。それは同じ瞬間だ。そしてこの瞬間にはかって何も存在しなかった。
 探求しないとそれは続いて行く。その一瞬を止めると、何も存在していなかったということが分かる。私達の多くがこれを実践して存在するものは何もないと見つけだした。夫がいて三人の子供がいたと夢を見る。しかし、目覚めると彼らは消えていなくなるようなものだ。

  過去の夢を憶えていることがサンサーラだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

龐居士製竹漉籬圖 ほう居士ちくろくりを製するの絵を見て
河裏捨來十万銭  かり捨て来る十万銭   
庫中終没半文銭  庫中終に半文銭なし
眞箇簸箕門下客  真こひき門下のかく
笟籬賣不直多銭  さうり売って多銭にあたらず

くま訳
ほう居士竹かごを作るの絵
浄土への路の絵(維摩図)を見ようと、十万銭を寄進する人も居たそうだ。
わしの蔵の中には終にお金が無くなったのだ。
仏道を生きるために、ざるを売って生活した龐居士の絵を見るために客が集まる。
ざるを売って暮らし、儲けようとはしなかった清貧の居士である。

*龐居士(ほうこじ)?‐815。唐代の仏教者。馬祖と石頭に参禅して,印可を得るが,出家せず。東
 土の維摩とよばれる。禅僧との問答が多く,その偈頌(げじゆ)300首とあわせて,早くより語録 
 としてまとめられた。
*第2句:瓦棺寺(364年建立、顧愷之(こがいし)が描いた維摩図が三絶とよばれて有名。また天
 台大師智顗(ちぎ)がここで講説した。)が、建立にあたつて、寄進をもとめた際、画家の顧榿之 
 は百万と記帳した。その日頃の貧しさを知る人々は大言だと思ったが、一ヶ月余にして維摩像一躯 
 を描きあげ、第一日に観る者は十万銭を施さんと宣言してその通りになった。との故事から。
*漉籬・簸箕・笟籬(ろくり・ひき・さいり): ざる。
*真個(しんこ)真実であること。まこと。真実であるさま。本当に。真に。
(´・(ェ)・`)b

555鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/08(土) 23:10:54 ID:1d4drIFg0
科学では宇宙は何億年も前にできたとか、生物も何万年も前にできたというのじゃ。
しかしそれは観念であるから今ここで観念としてのみ生じたといえるのじゃ。
全ての環境は幻想でしかないのじゃ。
そこから覚めれば夢と気づくのじゃ。

556鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/08(土) 23:15:41 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 ほう居士が竹漉籬を作る図なのじゃ。

 河裏に十万銭を捨ててきたのじゃ。
 蔵の中には終に半文の銭もなかったのじゃ。
 本当の簸箕の門下の客は
 剳籬を売っても銭が多いということはなかったのじゃ。

557避難民のマジレスさん:2022/01/09(日) 12:03:43 ID:g9uZ2UmM0
くま訳改
 第三句:本当の簸箕の門下の客は
 第四句:剳籬を売っても銭が多いということはなかったのじゃ。

63.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-b②

マーヤー:幻想の力

 昔、優秀な弟子が賢明なグルに質問した。
 「マスター、あなたはすべてが幻想だといいますが、私にはすべてが実在して堅固に見えます。ど
うしてあなたが幻想でありえるのですか?どうして私が幻想でありえるのですか? 世界は全く幻想
なのですか? マスター、どうか助けて下さい。私は混乱しています。」
 マスターは静かに聞いていてそれから「森に散歩に行こう」と言った。しばらく散歩した後でマス
ターは言った。「大変暑くなってきた、川に行って水を汲んできなさい。私はこの日陰で休んでいよ
う。」
 弟子が川に行って水を容器で汲もうとしたとき、川の向こう側にいる美しい女性を見た。その場で
彼女に恋をして彼女に結婚を申し込んだ。
 「ここでは、これは習慣ではありません。結婚は両親によって決められます。」と彼女は言った。
「しかし私もあなたに恋をしました。どうか父に話して下さい。私と一緒に来て下さい。父は村の所
有者で、私達は広い土地と多くの牛と馬を持っています。あなたが父と話している間私はドアーの後
ろに隠れて、父が何と言うか聞いています。」
 そうして二人は村に行った。彼女は指さして言った。「あそこに座って水タバコを吸っているのが
私の父です。行って父と話して下さい。」
 彼は彼女の父に話しかけた。「一時間前、私は川であなたの娘さんに会い恋に落ちてしまいました。
彼女と結婚したいのですが。」
 父親は尋ねた。「お前は一体誰なのか?」
 「私は近くの村に住むブラーミンです。」と彼は答えた。
 「どんな教育を受けたのかね?」
 「私は哲学、ヴェーダ、ウパニシャド、シャーストラを学びました。私は解剖学、地理学、海洋学、
世界の8つの科学を知っています。」
 父親は言った。「大変結構だ、若くて婿としての資格がある。娘をお前に手渡すのを躊躇しないが
一つだけ条件がある。娘は私の唯一の子供で、非常に執着している。娘と結婚したいのなら、ここで
私と一緒に生活しなければならない。娘をお前の村へ連れて行くことはできない。」
 「分かりました。」と青年は言った。
 「近隣、親戚に知らせなければならないので、一ヶ月後に結婚式を挙げること。」と父親は言った。
 一ヶ月後彼らは結婚して、3年後に子供が生まれた。5年後に両親は婿にすべてを与えると遺言を
書き残して、その二年後に両親は亡くなった。10年間にもう一人子供が生まれた。
 18年後、大洪水がやってきた。川は水嵩を増し続けている。農園のすべては破壊されて彼らは丘
に避難したが、ここもゆっくりと水かさが増して行った。牛達は流されてすべてが破壊された。
 遂に水は彼の肩まで昇ってきて、子供の一人を肩に乗せ他の子供と妻を両手に掴んでいた。しかし
流れは強く、彼の息子が押し流された。その息子に手をさしのべている間に妻が押し流され、妻を捕
まえようとしたら他の息子が押し流された。
 そうして、すべてが失われ川の水が退いて行った。彼は川の渕に座って子供や妻を思って泣いてい
た。遂に川の水は元のレベルまで戻って行った。
 彼は肩に誰かの手が置かれたのを感じた。それは彼のマスターで「一体何を考えているのかね? 
容器は水の中で、なぜ水を汲まないのかね。一分で済むところすでに五分も掛かっている。」
 彼はマスターの顔を見て驚いて、「ご、ご、五分? 五分と言ったのですか? 私の妻や子供達は
どうなったのですか?」
 マスターが返答した。「これがお前の質問に対する答だ。」このすべてが幻想だ。たった今ここに
来て女性と恋に落ちた。しかしその女性は今どこにいるのかね? あなたは私のために水を汲みに来
ただけだ。
 これらすべてのことはマインドからやって来た。それらは決して存在しなかった。妻はいないし、
子供達はいないし、結婚式は行われなかったし、村もない。
 マインドが一瞬の内に創造したのだ。その一瞬に二十年間が過ぎて、その同じ一瞬に容器が川の中
に沈んでいた。
 これがどのように事が起こるかということだ。だから賢明でありなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

558避難民のマジレスさん:2022/01/09(日) 12:04:44 ID:g9uZ2UmM0
涅槃堂
眼光落地涅槃堂 眼光落地涅槃堂
自悔自愧螃蠏湯 自ら悔い自ら愧ずほうかいのとう
七手八脚萬劫苦 しちしゅ八脚萬劫の苦
無常刹鬼火車忙 無常の刹鬼火車忙はし

くま訳
死を迎える場所である涅槃堂
悔い、愧じ、湯に落ちた蟹の如く
手足をばたばたさせて苦しむのだ
悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる妖怪羅刹鬼が乗る火車も忙しく走り回るのだ。

*螃蠏(ほうかい):蟹
*七手八脚:多くの人が一斉に慌ただしく動き回る,皆が寄ってたかってやる.
*劫苦:長い期間続く苦しみのこと
*殺鬼:万物をほろぼし去る無常をたとえていう語
*火車/化車(かしゃ):悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪

鬼和尚コメ
人が死ぬ時には自ら悔い愧じるものじゃ。
それを閻魔の裁きと解釈したりするのじゃ。
死に際には湯に落ちた蟹の如く手足をばたばたさせて苦しむのじゃ。
禅語では蟹の如く手足をばたばたさせる様を七手八脚といったりするのじゃ。
無常の羅刹鬼が乗る火車も忙しく走り回るのじゃ。
生きている内に善事をつむと善いのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

559鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/09(日) 23:45:10 ID:1d4drIFg0
移り変わって行くもの全てが幻想なのじゃ。
この世の全てと、自らの肉体や心さえも幻想なのじゃ。
それを使って幻想ではない永遠の意識にたどり着ければ幸運なのじゃ。
それだけが幻想から覚める唯一の道なのじゃ。

560鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/09(日) 23:45:42 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 前に書いた通りなのじゃ。

561避難民のマジレスさん:2022/01/10(月) 22:29:00 ID:Txj.gUJU0
64.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆Part2-b③
マーヤー:幻想の力

Q:仏陀が言ったように「形は空で、空は形だ」ですか?

 これが私が言っていることだ。空と形の間には何の違いもない。形が存在するなら、形を見るためには空が存在するに違いない。形が見えるところには空間があるに違いない。
 これらの形は空より生じ、空の中に存在する。だから、形があるためには、同時に形のないものがあるに違いない。サンサーラ、山、人、動物、鳥、これらの形を見るときは無形性が同時に存在する。
 さもないと見ることはできない。形を見るためには空の中にいなければならない。さて、形または無形とは何か?

Q:同じです。

 どのようにあなたがこれを理解することができるのか私には分からない。なぜなら理解するにはマインドが必要だ。だから、この理解はそれ自体でやって来るに違いない。それがやって来るなら幸運だ。やって来ないなら、あなたは不運と言うしかない。
 夢の中で蛇を見たり、夢の中で虎が襲いかかって来るという想像をどのようにして取り除くことができるか? 夢の中であなたは走り出して木に登る。しかし、虎も木に登ろうとしてあなたは逃げ場を失う。遂に虎はあなたを掴まえて引っぱり降す。
 この時点であなたは眼を覚ます。目を覚ましたら、どこに虎がいるのか? どこにあなたがいるのか? 虎も恐怖もなくてあなたのあるがままで目が覚める。
 このように、あなたには何の変わりもない。あなたには何も起こらなかった。サンサーラは全く存在しなかった。サンサーラは全く存在しなかった。これが究極の教えだ。

Q:無は形よりすぐれていると、ここにいる何人かの人々は思っています。彼らは微妙に惑わされているように思えます。無への切望が形を拒絶してしまったようです。

 有形、無形、そこには何の違いもない。仏陀が言うようにサンサーラと*1ニルヴァーナは同じだ。
 形を拒否したら、どこにこの形が行くのか。あなたはどうするのか、何かを拒否するためには何か他のものを受け入れているに違いない。受け入れることと拒否すること両方を拒否しなければならない。
 この両方の思考を拒絶しなさい。受け入れるのでも拒否するのでもない。このレベルで、あなたは誰か。

Q:私はいない。

 何かを受け入れるということは、その為に何かを拒否するということだ。何かを拒否することは、その代わりに何かを受け入れているに違いない。両方とも反対を持っている。
 だから、拒否も受け入れもしないことだ。すべてをあらしめなさい。あなたはそれらと何の関係もない。もし何かを拒否したら、その拒否がどこかに残るに違いない。
 そしていつもこの拒否を背負い続けて、「私はそれを、その人を拒否した」と思い悩み続けるだろう。これは「受け入れる」よりもっと顕著に現れる。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

倭國以譬喩作實 1/2 倭国比喩を以って実となす 
勘辨入邪毒気深 勘弁邪に入って毒気深し
元非君子小人心 元君子に非ず小じんの心
暗認譬喩作實會 暗に比喩をとめて実ゑをなす
苔衣雲帯楽天吟 たいえ雲帯楽天が吟

くま訳
日本では、遠まわしな比喩で、物事を伝えようとする。
修行者の力量を測るのに間違った方法をとれば、毒になってしまう。
元々学識の深い人格者ではなく未熟な相手には、
遠まわしな比喩を使い、実際の指導効果をもたらすのである。
山の景観について、苔むした岩は衣の様であり、山肌にまとわる白雲は帯の様であると、謡曲白楽天
に詠まれているような感じに、比喩を使うのである。

*譬喩:教説の意味内容を理解しやすくするために、実例や寓話などを用いて説明すること。釈尊は説法に

 際して譬喩を巧みに用い、大乗・小乗を通じて諸経論に多くの譬喩が説かれている。
*勘辨:禅宗で、修行者の力量や素質を試験することにいう。
*邪:心がねじ曲がって正しくないこと。また、その人。よこしま。不正。
*君子:学識・人格ともにすぐれた、りっぱな人
*苔衣:僧・隠者などの着る粗末な衣服。こけごろも。こけのたもと。こけのきぬ。
(´・(ェ)・`)b

562鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/10(月) 23:45:44 ID:1d4drIFg0
個我とか個人があるという幻想から輪廻もあるという幻想も起こるのじゃ。
個我が幻想とわかれば輪廻も幻想であったと知れるのじゃ。
それは初めから存在しなかったのじゃ。
ただ幻想を幻想と知らなかったから在ると思っていたのじゃ。

563鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/10(月) 23:49:16 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。
 よくできたのじゃ。

 倭国では比喩をもって実となすというのじゃ。

 試験もまた邪が入り、毒気が深くなってしまうものじゃ。
 元々君子ではなく小人の心の者には、
 暗に比喩を認めて実とするのじゃ。
 苔衣、雲帯、楽天の吟詠等なのじゃ。

564避難民のマジレスさん:2022/01/11(火) 00:59:15 ID:2Hdqou3E0
65.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part2-c①

マーヤー:幻想の力

Q:どのようにして、「私は肉体ではない」と確信することができますか? 

 あなたは単に肉体ではないのだ。確信するべきものは何もない。静かにして、この肉体をいつ手にしたのか考えて見なさい。そうするとカレンダーを見て1960年、1970年だったと言う。
 これらの誕生と死はカレンダーの上のことでカレンダーがないとしたら、いつあなたは生まれたのかね? いつ生まれたか知るためにはキリストの誕生日を見るに違いない。
 彼の誕生日からあなたの誕生日を数え出すのだ。他の誰かと取引して計算が始まるのだ。これらの計算はマインドの習癖だ。誰かの誕生や死を見ないとき、あなたは誰か分かるだろう。

Q:目覚めの状態であろうが、夢の状態であろうが、眠りの状態であろうが、私には平和がありません。私はどこにも行くことができません。どうか助けて下さい。
 
 これは非常によい経験だ。これらの三つの状態に平和を見つけることができないなら、これらの三つの状態をこえた第四の状態に行かねばならない。
 これがあなたのハートだ。「ここ」にいなさい。どの三つの状態にいようとも「ここ:ハート」にいることができる。肉体の活動はハートの妨げにはならない。ここにいる何人かの人は第四の状態を楽しんでいる。

Q:私はこのハートであると知っているのにどうして水が喉を渇かしているのですか。どうして自由でありたいと望むのですか?

 このような経験をするあなたは、功徳に恵まれた人に違いない。これについて面白いジョークを行ったカビールのことを思い出した。
 「水の中に住んでいる魚がどうして『私は喉が渇いている』と叫ぶことができるのか? これを言うために口を開いたときには、水は口の中にあるのに。」

   私達のすべては真我の恩寵の中で生きている。
   しかし、「私達は苦しんでいる」とみんな叫んでいる。
   すべての人が神の恩寵の中にいる。
   恩寵はすべての人を取り囲んでいる。
   内側、外側、いたるところ。
   しかし、私達は満足することを知らない。

 だから、カビールは笑っているだけだ。彼は魚を見て笑っている。あなたはその叫んでいる魚ではない。あなたは叫び終えて水の中にいる。他には何も必要ないのだ。

Q:どうして肉体が思考でありえるのですか。そして、それは誰の思考ですか?

 あなたが考えるとき、肉体がある。吐く息の前、吸う息の前には思考がない。この「私」という思考はそこから起こって来る。人や対象に対する欲望のため、呼気と吸気の間から思考が起こって来る。
 眠っているときは無思考で肉体を見ることはない。眠りの状態ではマーヤーのエネルギーが落ちるからだ。しかしまだベールで覆うエネルギーが残っているので、あなたは誰か悟ることはない。
 肉体は単なる夢の物体、思考にすぎない。探求してこれは誰の思考か見つけることだ。
 思考を作用することなしに夢の肉体で夢の中にいることができる。しかも人生が要求するすべてのことをなし遂げていける。私はいつも「ここ」にいるという思考を内側に保っていると、肉体は単にその反応に応じて行動して行くだろう。
 そのとき、責任や義務という観念はそこに入り込むことができないので、あなたの行動に対して責任はない。他人との関係性の中にいるとき、肉体やエゴと同一化するとき、あなたには責任がある。
 だから、目を覚ましなさい!! 解放された後に「何も存在しない」ということが、また「何も存在しない」ということも存在しない、と分かる時点が来る。
 肉体は一時的な思考だと知りなさい。このポイントをただ意識しているだけでよい。これが完全な解放と言われている。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

自山中昄市中  山中より市中に帰る
狂雲誰識属狂風 狂雲たれかしらん狂風に属するを
朝在山中暮市中 あしたに山中に在り暮には市中
我若當機行棒喝 我若し機に当たって棒喝を行ぜば
徳山臨済面通紅 徳山臨済面通こう

くま訳
山(譲羽山)から(京都)市中へ帰るのだ
狂雲が、実は狂風(悟っているの)だとは誰も知るまい。
朝、山中に居たと思ったら、夕方には市中に居るのだ。
わしが、臨機応変に、棒喝を駆使したら、臨済や徳山でも、ビビッて赤面するであろう。

*山:譲羽山
*風狂:中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、 本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した 
 用語である。
*臨済の喝徳山の棒:「伝灯録」・臨済禅師はよく大喝を与え、徳山和尚はよく痛棒を加えたことか 
 ら、禅宗の修行のきびしさのたとえ。
(´・(ェ)・`)b

565鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/11(火) 22:58:56 ID:1d4drIFg0
肉体でさえも思考に過ぎないと言うのじゃ。
それは観念の肉体について言うのじゃ。
他のものから独立した肉体があるというのが、観念の肉体なのじゃ。
現実の肉体は空気とか飲食物とか気を通して全てとつながっているのじゃ。
それを考慮できない肉体の観念が、思考による肉体なのじゃ。

566鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/11(火) 23:02:03 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 自ら山中から市中に帰るのじゃ。

 狂雲が狂風に属するのを誰が知っているじゃろうか。
 朝に山中にあり、暮れには市中に帰るのじゃ。
 わしがもし機に当たって棒喝を行えば、
 徳山臨済も赤面するじゃろう。

567避難民のマジレスさん:2022/01/11(火) 23:12:41 ID:JvV8ggqY0
66.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part2-c②

マーヤー:幻想の力 

Q:私は完全に眠っていないということを知っていますが、かといって完全に目覚めているわけでも
ありません。

 眠らない方がよい。4つのカテゴリーの人が眠らない。一つは愛人、最愛の人と一緒にいられない
人だ。二つ目は盗人、家を漁るのに忙しい。三つ目は病人、病気と苦痛のために眠れない。これらの
三つはその欲望のために目覚めている。性欲、貪欲、苦痛。
 しかしまた、ヨーギは眠らない。彼はこの幻想から自由になろうと瞑想しているからだ。残りのす
べての人は目覚めの状況でも眠っている。
 あなたが砂漠に行って美しい川を見る。これが蜃気楼と呼ばれる。喉が渇いていて、川で泳ぎたい、
川から水を飲みたいという欲望のために、それを追い求めて行く。それに向かって行く度に、それは
遠くに離れて行く。
 今ともかくそれは幻想にすぎないと、マインドの創造物だと知った。世界中がその欲望を満たすた
めにこの川に向かって走っている。彼らは過去二兆年間もそこで泳ごうと急いで走り続けて来た。
 少数の人々が川には行きつくことができない、欲望は満たすことができない、喉の渇きを癒やすこ
とはできないと決断した。だから、どこにいようとも「ここ」にいるのがよい。これを決断すると空
から雨が降って来る。これが恩寵の雨だ。
 「ここ」ですべては満たされるのだからどこにも走る必要はない。「そこ」に行くなら熱によって
倒れて誰も助けてはくれない。しかし「ここ」にいるなら、雲でさえあなたをかばってくれる。だか
ら「ここ」にいなさい。マインドに何の欲望もなく、それを誰かに話そうという欲望さえ持たず、
「ここ」にいなさい。そうするとすべてが供給されるだろう。

 実在するものは何もない。あなたが見るものはすべて実在しない。対象であったものが対象でなく
なるときが、主体と対象、両方とも幻想だと知るときがやって来る。
 これが特別な知識だ。すべてが幻想だと知ること以外の知識はありえない。西洋に帰ったら子供達
や友人にサットサンガで学んだことを教えなさい。

Q:なぜ蜃気楼が起こり続けるのでしょうか?

 どこから起こって来るのかね?

Q:どこからともなく。

 何もないところから何が起こって来るのかね? 何もないところから起こって来るとしたらそれは
一体何かね? 起こって来るものは何かから起こって来るに違いない。さもないと起こらなかったは
ずだ。
 この「私」、この幻想の母親は何かね? エゴが母親で、欲望が父親だ。これらの両親は必要ない、
それから逃げ出しなさい。愛が最良の母親で、無が最良の父親だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

竹幽齋
香厳多福主中賓 きゃう厳多福主中のひん
密密参禪到要津 密々参禪要津に到る
六六元來三十六 六六元來三十六
清風道處有佳人 清風動く処佳人有り

くま訳
竹幽齋(香厳智閑)
香厳には、幸いなことに、本人に悟りを求める力があった。
独り緻密な瞑想に取組むことこそが、悟るための重要な手段なのである。
感覚や意識とその認識対象を分別し、認識主体ありとする凡人も、本来仏なのだ。
仏道を正しく歩めば悟りを得ることができるのだ。

*竹幽斎:香厳智閑(きょうげん・ちかん。?〜898)道を掃除している時に、竹に小石が当たり、響 
 いた音を聞いて(撃竹)を聞いて大悟す、故に之を云ふ
*佳人:美人。此の佳人、大悟底の因縁なり。
*要津:迷いの海を渡りさとりの彼岸に達するための重要な手段、方法。港

鬼和尚コメント
本人が強く悟りを求めていれば師匠がいなくても悟れるのじゃ。
マハリシのようにのう。
日々精進してこそ悟りもやってくるのじゃ。
六根六強の凡人も元来仏なのじゃ。
修行してきた者にのみわかる道理も在るのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

568鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/12(水) 23:36:18 ID:1d4drIFg0
自分があるという認識がエゴとよばれるのじゃ。
エゴがあれば自分の欲するものが起こるのじゃ。
それが幻想を呼び起こすのじゃ。
幻想から幻想が起こるのじゃ。

569鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/12(水) 23:36:56 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 前に書いた通りなのじゃ。

570避難民のマジレスさん:2022/01/13(木) 00:57:51 ID:XJJDiwpI0
67.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part2-c③

マーヤー:幻想の力 

Q:真我を実現するためには、マインドは落とさなければならないとあなたは言いますが、どうして
マインドが真我から離れてありえるでしょうか? マインドは人生体験を豊かに創造的にしてくれる
のではないのですか?

 何かを落とすためにはそれを確認しければならない。海で泳ぐ前に、あなたの首飾りをはずして財
布の中に落とすように。存在しないものをどうして落とすことができるのかね? それはあなたの概
念だ。マインドは存在しないのだから落とす必要はない。それをあらしめなさい、役に立つに違いな
い。

Q:真我を実現する為の唯一の手段だから、人間の姿は貴重なのですか?

 形は全く存在しない。人間や動物や鳥で満ちた宇宙があるというのは概念だ。この概念で35億年
もかかって人間になる。しかし、ほとんどの人間は人間でない。彼らはゴリラのように二足で歩いて
いる尻尾のない動物にすぎない。
 人間として生まれて来るのが大切なのは、疑いを持つことができ、私は誰かと質問することが出来
るためだ。豚やロバはこれを質問することができなくて屠殺場に連れて行かれるだけだ。
 生まれた人はすべて屠殺者に、死神(Yama)に直面しなければならない。人々が死神とは何か
悟るまで死神から離れることはできない。だから、「私は誰か」と探求する機会をえるために人間と
して生まれてきたのだ。

 これは非常にめずらしいことだ。6兆億の人類の中で、60人が彼らは本当に誰か知っているにす
ぎない。ここサットサンガでは多くの国々から人々がやって来るが、ここにやってきた人はなぜ少数
なのか? 自分が本当に誰か知っている人はその国の1%にも満たない。
 悟った人の例を挙げるなら2600年前に仏陀になったゴータマまで戻らなければならない。しか
し、このラクナウサットサンガは悟りを簡単にした。ヒマラヤで瞑想する必要はないし、マントラを
唱える必要もないし、巡礼に行く必要もない。慈善を施す必要もない。
 あなたの人生の時間から一秒必要なだけだ。私はその一秒間であなたが自由になるのを保障する。
この一秒間にやりなさい、なぜ延期するのか?
 大昔は王でさえ王国を去って苦行に出かけたものだ。苦行中、ある*1マニカが美しい女性の姿を
とって彼らの前に現れる。そして苦行は終わりになる。しかし、ここサットサンガでは多くのマニカ
がここにいて、彼女達も又自由になっている。
 マニカと恋をするのは何の問題もない。悟りはあなたと真我との関係で、マニカとの肉体的な関係
ではないからだ。もしマニカがやって来るなら彼女と一緒に暮らしなさい。しかし、誰もあなたの
ハートに触れることはできない。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

春衣宿花    春衣して花に宿る
吟行客袖幾詩情 吟行の客袖幾ばくの詩情ぞ、  
開落百花天地清 開落百花、天地清し   
枕上香風寐耶寤 ちん上の香風、びか寤ごか、   
一場春夢不分明 一場の春夢、分明ならず。 

*寐(び):  ねる
*寤(ご):  目がさめる

二橋進先生訳
春衣して花に宿る
花見の晴れ着を着て、桜が満開のこの地を歩くと、詩情があふれ出す。
あちこちで 桜が花びらを舞い散らしている光景は、すがすがしい。
花の下に伏すと、その香に 包まれる。
うっとりとして、夢の中で見ているのか現でか、もう分からなくなっ た。

関西吟詩文化協会HP訳
花の香りのもとで、たのしみをつくした一時の思いにふける。
あっという間に散った百花の情。
家に帰って寝ころんでみたものの、
夢かうつつか、 まだ瞼に消えず、枕もとにかけられた衣から、その香りがただよってくる。

くま訳
お洒落をして、桜の下を歩くと詩情があふれ出す。
咲いて散る、桜舞う天地の清々しさ
枕辺の残り香は、眠りの中か、目覚めているのか
夢か現かわからない。

この詩は年譜に掲載されているものでり、一休さんが建仁寺における修行時代の15歳の時の作。笹倉
秀夫先生によると、洛中で愛吟されたそうである。
(´・(ェ)・`)b

571鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/13(木) 23:28:33 ID:1d4drIFg0
気付きは一瞬で訪れるものじゃ。
時間はいらないのじゃ。
そのために何年も修業したりするのじゃ。
その時間も悟ってしまえば一瞬であったと知れるのじゃ。む

572鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/13(木) 23:32:27 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 春衣を着て花の宿に泊まるのじゃ。

 詩吟をして歩いている客はいかにも詩情があるものじゃ。
 開いては落ちる花は天地も清めているのじゃ。
 寝ても覚めても枕上に香風があるから
 一場の春の夢が現実かどうかもわからなくなるのじゃ。

573避難民のマジレスさん:2022/01/14(金) 14:05:07 ID:/jO/nKbM0
68.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part3①

マインド:幻想の動き

マインドは強烈なパワーだ。
   「私」という思考、ほんの一つの思考から、
   すべての顕現を引き起こすからだ。
   この思考を見つめないと、すべては実在しているように見えるが、
   これを見つめたら、顕現は消え去る。
   マインドはドラッグだ。
   それはあなたの本質からあなたを連れだして、
   二元性の世界にトリップさせる。

   マインドは限定された意識として現れる
   意識が条件づけされるとマインドとなる。
   名前と形が想像上の条件付けだ。
   ただのマインドの条件付けの中でお互いを知ることはない。
   マインドが空っぽで、純潔で、波が立っていないとき、
   お互いがいつも知り合っていたと分かる。

   服を着るようにマインドを身につけなさい。
   マインドは欲望であり、過去であり、墓場であり、
   名前と形であり、一時的であり、説明する事ができる。
   「私」は波であり、マインドであり、サンサーラであり、欲望であり、傲慢さであり、
   邪悪さであり、混乱であり、蛇であり、ロープでないものであり、
   顕現のすべてである。

   地獄を創り出すには、マインドが外側に向かって
   「私は肉体だ」と言うことだ。
   天国を創り出すには、マインドが内側に向かって
   「天国は内にある」と知っていることだ。
   内に向かったマインドは、その源泉を見て決して戻っては来ない。
   なぜなら、あなたは一番愛するものと一緒にいるものだから。

   条件付けされた意識としてのマインドは両岸をもった河のようなものだ。
   「私は河だ」という考えは、意識の海を実現したとき、死んでしまう。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

574避難民のマジレスさん:2022/01/14(金) 14:06:38 ID:/jO/nKbM0
(靈山徹翁和尚示榮衒徒法語)

凡参禪学道之輩須日用清浄。不可日用不浄。
所謂日用清浄者。究明一則因縁到無理會田地。
畫夜工夫不怠。時今截断根源。佛魔難窮處。
分明坐断往々埋名蔵迹。山林樹下。挙場一則因縁
時無難純一矣。謂之日用清浄人也。然而称善知識
擎杖拂集衆説法。魔魅入家男女。心良名利招学者於室中。
道悟玄旨。使参者相似模様。閑言語使教者。
片箇情也。這輩輩非人也。寔日用不浄者也。
似佛法爲度世之謀。是世上榮衒之徒也。凡有身無不着。
有口無不食。若知此理。豈衒於世哉。豈諛於官家哉。
如是之徒。三年六十劫。入餓鬼入畜生。可無出期。
或生人間。受癩病苦。不聞佛法名字。可懼可懼。

右靈山徹翁和尚示榮衒徒法語題其後云

(靈山徹翁和尚示榮衒徒法語)

およそ参禪学道のともがらは、すべからく日用しょう浄なるべし、日用不浄なるべからず。
いわゆる日用清浄とは、一則の因縁を究明して、無理えの田地に到って、
昼夜工夫を怠らず、時々に根源を切断して、仏魔もうかがい難きところ、
分明に坐断して、往々に名を埋め跡をかくし、山林樹下に、一則の因縁をこ揚し、
時に無雑純一なり、これを日用清浄の人というなり。然り而してわれは善知識と称して
杖ほつをささげ、衆を集めて法を説き、人家のなんにょを魔みし、心に名利を好んで学者を室ちゅう
に招き、
玄旨を悟らしめんといふ。参ぜしむる者、相似模様の関言語、教へしむる者、
片個の情なり。しゃはんのともがらは非人なり、まことに日用不浄のものなり。
仏法を以って渡世のはかりごとと為す、これ世上の栄げんの徒なり。およそ身あれば着ずということ
無く、
口あればくらはずといふなし。若しこの理を知らば、あに世にてらわはんや、あに官けにへつらはん
や。
かくのごときの徒は、三しょう六十ごう、餓鬼に入り、畜生に入りて、出ご無かるべし。
或いは人間に生るるも、らい病の苦を受け、仏法の名字を聞かず。おそるべし、おそるべし。

右靈山徹翁和尚、榮衒の徒に示すの法語、其後に題すと云ふ

* 徹翁義亨てっとうぎこう1295―1369大徳寺1世の法語
仏法を以って渡世のはかりごとと為す(仏法を名利追求の道具にする)者のことを、「日用不浄の
者」というとし、餓鬼畜生に落ちるか、「受癩病苦」・・・という

120
工夫不是涅槃堂 工夫これ涅槃堂にあらずんば
名利輝前心念忙 名利前に輝いて心念忙し
信道人間食籍定 いふことを信ず人間食籍の定
羊糜一椀橘皮湯 羊び一椀きっぴとう

くま訳
仏道修行は、涅槃へ行くためのもの、死を見据えたものでなければ、
利害や名誉が前に出て、心がみだされてしまう。
人間の食籍(食って行けるか)は前世から定まってると信じるのだ。
一椀の粥と漢方薬をとってっれば充分生きてゆけるのだ。
(´・(ェ)・`)b

鬼和尚コメント
霊山もなかなかよいことを言うのう。
名利を好んで学者を招いて玄旨を悟らしめんというのは、不浄であり人でなしとまでいうのじゃ。
昔もそのような学者の言葉を信じている者が居たのじゃな。
己の心の内に因縁を究明することが清浄というのじや

575鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/14(金) 22:54:14 ID:1d4drIFg0
マインドとは分別する心の働きじゃな。
意識に観念があればマインドとなるというのじゃ。
マインドがなければ全ては一つであると言うのじゃ。
世界はそれで創られているからなのじゃ。
それが内側に向けられれば悟りをもたらすものでもあるのじゃ。

576鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/14(金) 23:14:11 ID:1d4drIFg0

 霊山和尚が榮衒の徒に示す法語の後にいう題なのじゃ。

 およそ参禪学道の者達はすべからく日常を清浄にして不浄ではいかんのじゃ。
 いわゆる日常が清浄の者とは、一則の因縁を究明し、無理会の田地に到達するものじゃ。
 昼夜に工夫を怠らず、今ここで六根の源を切断し、仏魔もうかがえない境地に行くのじゃ。
 分明に坐断して名利を求めず、山林樹下に住む。
 一則の因縁をとりあげて、時に難なく純一にするのじゃ。
 これを日常で清浄の人というのじゃ。

 しかしわしは善智識であると称して杖払子をもって衆を集めて説法をして、
 人家の男女を魔魅入りし、心に名利を好んで学者を家に招き、玄旨を悟らしめるという。
 参ぜしむる者には相似模様の関言語を教へる者片個の情なのじゃ。
 このような者達は非人であり、日常不浄の者なのじゃ。

 仏法を以って渡世のはかりごととするのじゃ。
 これは世上の榮衒の徒なのじゃ。
 
 およそ肉体があれば、着物を着なければならず、口有れば食べないわけにはいかんのじゃ。
 もしこの理を知れば、どうして世間を衒い、官にへつらうことがあろうか。
 このような徒は三年六十劫、餓鬼に生まれ、畜生に生まれる出ることも無いのじゃ。
 あるいは人に生まれてもらい病の苦を受け、仏法の名字も聞かないのじゃ。
 おそるべしおそるべしなのじゃ。

577鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/14(金) 23:20:15 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 修業の工夫は涅槃堂にいるようなものでなければ、
 名利が目の前に輝いて、心念が忙しいのじゃ。
 人間が一生の食事量が決まっていると信じるならば、
 一椀のかゆ、みかんの皮の汁で十分なのじゃ。

578避難民のマジレスさん:2022/01/14(金) 23:29:15 ID:32coR6eI0
くま訳改
第四句:一椀のかゆ、みかんの皮の汁で十分なのだ。

69.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part3①

マインド:幻想の動き

Q:マインドに関していくつかの質問があります。マインドとは何ですか。

思考の集まりだ。

Q:マインドの実体はなんですか?

 マインドを私に見せてごらん。そうしたらその実体を言ってあげよう!(くすくす笑い) それを見せることができないのなら、あなたはそれを持っていないのだ。それを見つけることができないのなら放って起きなさい。

Q:どのようにしたらマインドは永久に消えてしまうのでしょうか?
 
 まず最初に(くすくす笑い)それは、そこにないのだ!! 現れて来ないものをどうして消せるのかね。マインドとはあなたの欲望にすぎない。欲望があるとき、マインドがある。欲望がないとき、マインドは全く存在しない。マインドと欲望の間には何の違いもない。
 これを試すには、一瞬どんな欲望も持たないことだ。欲望の一つ一つは過去に属する。一瞬どんな欲望も持たずに、あなたは誰か言ってごらん。

Q:何もありません。

 何もないことは、大変よい母親だ。彼女と一緒にいなさい。そうすると彼女の美と愛を見つけるだろう。

Q:世界で活動するのにマインドを必要としないのですか?

 あなたが世界にいようがいまいが、すべてのビジネスは続いていく。あなたが去った後もすべては続いて行くだろう。その続いて行くことにあなたの本質は何の関係もない。あなたの肉体とマインドがこの続いて行くことの一部なのだ。それは続いて行くだろう。続いてきたし、終わることなく続いて行くだろう。
 それはすべて想像なのだから、それを止めることも変えることもできない。それは蜃気楼の川のように、それに向かって進めば進む程、それはあなたから遠ざかって行く。水は得られずに反対にもっと疲れるだけだ。
 しかし、賢明な人は蜃気楼を追いかけることはない。このサンサーラが蜃気楼だ。誰がサンサーラで満足するのかね? すべての人が渇いている。サンサーラが彼らの渇きを癒やしてくれると考えている。
 しかし、サンサーラは蜃気楼なのだから、喉の渇きは満たされることはない。少数の人がこれを知って、木の下で静かに座って楽しむだろう。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

百丈餓死1/3
為人苦行也天然 い人の苦行また天然
大用分明即現前 大ゆうふんみょうすなわち現前
一日不作必不食 いつにちなさざれば必ずくらはず
大人手段作家禪 だいじんの手段さっけの禪

くま訳(以下同)
百丈の不食(苦行)は、自然なことである。
大いなる法の摂理は明らかであり、それが現前されてるのである。
働かなければ死ぬという道理を、働かない日は決して食らわずとして、
卓越した導師が自ら行いで示しただけなのである。

*大用現前: 大いなる作用・はたらきが自由自在に現われること 
*百丈懐海: 749- 814年・唐代の禅僧。大智禅師。95歳まで長生きしたのである 
*作家(さっけ):卓越した力量のある禅僧

原始仏教には無い教えでありますが、文化的背景の違いに基づくものであり、重要な違いではないでありましょう。

鬼和尚コメント
昔は修行しなかった日には飯もくわなかったというのじゃ。
厳しい修行だったのじゃ。
身の回りの雑用も修行だったのじゃ。
更に雨の日や風の日も乞食行を実践したのじゃ。
それこそ真の禅定というものだったのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

579鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/16(日) 00:21:36 ID:1d4drIFg0
マインドは思考の塊だというのじゃ。
それは存在せず、欲望がある時だけ起こるというのじゃ。
欲望をかなえるために道具としてマインドがあるのじゃ。
この世界では欲望が完全に叶えられることはないからマインドも尽きないのじゃ。

580鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/16(日) 00:24:05 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 百丈の餓死なのじゃ。

 人のための苦行は天然なのじゃ。
 大用は分明にして即現前に在るのじゃ。
 一日作さざれば、必ず一日食わないのじゃ。
 大人の作家禅の手段なのじゃ。

581避難民のマジレスさん:2022/01/16(日) 05:08:19 ID:A1JApo2U0
くま訳改
第一句:人のための苦行は天然なのだ。

70.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part3②

マインド:幻想の動き

Q:もし私がやり手でないとしたら、誰がやり手ですか?

 マインド、あなたの思考、「私がそれをやりたい、私はそれが欲しい、私はこれに執着している。」これがトラブルだ。あなたはやり手ではない。やり手は、あなたのマインドの欲求を満たそうとする意図だ。どんな意図も持たないことだ。悟りや平和への意図も含めて。
 ほんの一秒間でよい、何が起こるか見てごらん。あなたは美しくなるだろう。私はいつもこれをすべての人に与えようとしているが、誰もこれを受け取らないで、次の質問に飛んで行くだけだ。
 あなたは「ストップ」と言うべきだが、過去に依存していてそれが言えない。これらの質問のすべては過去からやって来るからだ。だから、幸福でありたいなら、悟った王がしたようにすべてを捨て去りなさい。

 ある王が夏に宮殿の屋上で眠っていた。彼は二人のクイーンにはさまれて眠っていた。何という幸運だ!(くすくす笑い)そのとき、彼は二羽の鳥がさえずりながら満月を横切って飛び去って行くのを目にした。
 彼は裸で起きあがって宮殿を去った。なぜならその瞬間の美しさは、クイーンや宮殿や王国やダイヤモンドと比べものにならなかったからだ。その美しさと一緒にいなければならないと思ったからだ。彼は森の中に消えて行った。
 彼は宮廷を去って菩提樹の木の下に座った。彼はすべてを拒否し、真理への強烈な欲望のみで「それ」を見つけた。彼は過去のすべてを拒否した。

 2600年後の今、私達は彼の美しさをいまだに憶えている。私達は自分の父や祖父のことは憶えていないが仏陀のことは憶えている。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

百丈餓死 2/3
古人受用幾嘗艱 古人の受用幾ばくかかんをなむ
不是尋常談笑間 これ世の常談笑の間にあらず
飽食痛飲飯袋子 飽食痛飲はんたいす
叉衣翫水又遊山 しゃえがんすい又ゆさん

昔の人は、仏の教えを実践するのに少しは苦労したのである。
これは、決して、世の常であるといって、笑っている場合ではないのである。
飽食痛飲、能無しの無駄飯食いは、
さえを着て海、山で遊んでばかりである。

*受用身:仏の三身の一。悟りによって得た法を自ら楽しみ、また、他の人々にその法を施し楽しませる仏身。前者を自受用身、後者を他受用身という。

三身      三徳 仏(如来) 説明                                                
自性身・法身  法身 毘盧遮那仏 宇宙の真理・真如そのもの、仏性。               
受用身・報身  般若 阿弥陀仏  仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。
変化身・応身  解脱 釈迦牟尼仏 この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。     
(´・(ェ)・`)b

582鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/01/16(日) 23:03:00 ID:1d4drIFg0
人は何かをする主体ではないというのじゃ。
全てはただ起こっているだけであるからなのじゃ。
自分の心と思っているものでさえ、ただ縁に従って次々に観念が生まれてくるだけなのじゃ。
そこに主体は無いのじゃ。

583鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/01/16(日) 23:08:16 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 また百丈は餓死してしまったのじゃ。

 古人の受用はどれほどの難を嘗めてきたかわからんほどなのじゃ。
 これは世間で笑い話にされるようなものではないのじゃ。
 飽食痛飲は飯袋子は
 海山で遊び呆けてばかりなのじゃ。

584避難民のマジレスさん:2022/01/17(月) 06:31:26 ID:BZyjhiyU0
くま訳改
第一句:古人の受用はどれほどの難を嘗めてきたかわからんほどなのだ。

71.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part4①

夢:幻想の本質

Q:パパジ、すべてが私の内にあって、外側は存在しないという経験をしました。

 これは非常によい経験だ。あなたが20階建てのアパートのビルディングの一室に住んでいて、そこで眠っていると仮定しよう。
 野生の象があなたに向かってやって来るという夢を見ている。山や川や森も見ている。これらのすべての事はどこにある? 外側にあるのかな? 
 そうではない、それらは内側にある。内側のマインドの投影だ。最初に空間が投影される、外側、内側、そして時間が投影される。次にエゴが投影されて、あなたが見ているものは実在すると信じ始める。しかし目を覚ますや否や、象や他のすべてが消えてしまう。
 まさにこれと同じように、この目覚めの現実も又あなたが「目覚めた」とき、消えてなくなってしまう。この現実は消えてしまうだろう。夢は実在しているように見えたが、この目覚めの状態は夢よりもっと実在しているように見えるものだ。それ故にあなたの経験は非常に美しいものだ。

Q:私の夜の夢は絶えず変わり続けるのに、目覚めの状態であるこの世界という夢は変わらないのはなぜですか?

 その両方共が変わっている。その違いは毎夜夢を見ている間は、それが変わっていると言わない。目を覚ましたときに一つの夢から他の夢へ変わったと知ることができる。
 目覚めの状態という夢も又変わる。今日は明日や昨日よりも違っている。目覚めの状態が実在するように見えるのはあなたがそれを実在だというためだ。その実在に対して確信を持っているためだ。
 しかし、夢を見ている間、あなたは夢を夢と呼ばない。唯一目を覚まして初めて一つの夢が終わり他の夢に変わったと知るのだ。夜の夢で川や山や人々を見る。
 目覚めの状態でも同じものを夢見るのだから一つは実在して他方は実在していないとどうして言えるのかね? 目覚めの現実に対する確信があるので実在すると言うのだ。
 しかし、もしそれを「夢だ」と言ってこれに確信を持ったらそれは夢になる。
 あなたは夢を見ている人を見ないが、今、あなた自身の創造物にすぎない夢見る人を見なさい。
 夢を見ている人と夢とは別々のものだから、今、誰が夢を見ているのか見つけだしなさい。真理は夢を見ている人と夢と夢の中の対象はすべて同じだ。さて、誰が夢を見たのか? 誰が夢を見ているのか? 見つけだしなさい。夢を見た「私」を見つけだしなさい。今これを見つけなさい。
 そうすると、目覚め、夢見、眠りが消えてしまうだろう。あなたが言う実在は実在ではない。

Q:私達の夢から何を学ぶことができますか

 これが幻想の本質だと学びなさい。名前や形のすべてから目を覚まさなければならない。すべては一時的な想像物でしかないと言うことを学びなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

百丈餓死 3/3
工夫長養大慈心 工夫長養大慈心
臨済消來萬両金 臨濟消し来る萬両の金
昔日艱難聞吐哺 昔日かんなんとほを聞く
簔衣箬笠钁頭吟 さいじゃくりゅうかとうの吟

長いこと悟後の修行に励み偉大なる仏の大慈悲の心をそだてるのだ。
さもないと臨済が寺の財産を消し去りに来るぞ(臨済の偉大な教えが消えてしまうぞ。)
昔の艱難辛苦伝える詩を聞くではないか。
みのを着て笠をかぶり、農具をもって、修行をするという吟

*吐哺:とほ・口中の食べ物を吐き出すこと。

(´・(ェ)・`)b

585鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/18(火) 00:08:12 ID:1d4drIFg0
夢は次々に変化して目覚めれば消えてしまうはかないものじゃ。
現実はそのようではないようにみえるのじゃ。
しかし、長い時が来ればやはり現実も移り変わり、消えて行くしかないものじゃ。
現実も又心の中に生じた夢に過ぎないのじゃ。

586鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/18(火) 00:20:00 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 またまた百丈は餓死してしまったのじゃ。

 大慈悲の心を工夫して長く養うのじゃ。
 臨済は百万金をも消してしまったのじゃ。
 昔の艱難は反吐をはくほどのものじゃった。
 蓑笠を着て鋤を手にして詠うのじゃ。

587避難民のマジレスさん:2022/01/18(火) 02:48:42 ID:DRA1bHTc0
72.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part4②

夢:幻想の本質

Q:パパジ、昨夜非常に強烈な夢を見ました。夢について話して下さいますか。私の夢の中に10人の殺し屋が現れました。

 雲が雨が降るのを知らせてくれるように、夢は何かが起ころうとしていることを知らせてくれる。又夢は何が起こったか知らせてくれる。夢は目覚めの状態で満たされなかった活動が夢として現れるからだ。 たとえば、目覚めの状態であなたが打たれたなら、夢の中で復讐を試みるだろう。本当の事を言えば、目覚めの状態を平和に過ごした事がないのですべての人が夢を見るのだ。
 もし平和に過ごしたなら、サンサーラと呼ばれる夢の中に再び現れることはない。サンサーラの中にいるすべての人は多くの夢を見た、何億年にも値する人生の記憶がマインドの中に蓄積されているのだ。今、彼らは夢を見ることを止めることはできない。
 自由への熱望と幸運があればあなたはそれを止めることができる。そうすると、夢と目覚めの状態の違いを教えてくれるマスターに出会うことになる。そうして、すべての人が眠っていてあなたは目覚めていると分かるだろう。
 眠っているということは、あなたの本当の真我に気づいていないということだ。目覚めているとは実在に、意識に、真理に、目覚めているということだ。
 他の人が目覚めているものに対して眠るのだ。人々は性欲や興味や人や概念に目覚めている。これらのものと何の関係も持たないでいなさい。それらに対して眠っていなさい。
 これが本当の目覚め、夢見、眠りの間の違いだ。あなたの夢の中に現れた殺し屋は感覚だ。目はあなたを騙し、あなたが耳にするものは役に立たない。臭いも、触れることも、味覚も同じ事だ。
 しかし真理を知っているなら、感覚はその力を失くす。もし目の対象物は実在しないと知っていたら、それらは何の影響もあなたに与えない。称賛を聞こうが、叱責を聞こうが問題ではない。 香水と腐敗の臭いの間には、何の違いもなくなる。あなたが誰かを知ったとき、これらの殺し屋、敵はその強さをなくしてしまう。あなたの探索を完成させなさい。早い方がよいに決まっている。

  単に静かにしていなさい、何が起ころうとも完璧だ。
  それは始まりの前「ここ」にいた「それ」の終わりのないゲームだ。
  それは創造者の夢だ。
  楽しんでいる人のマジックであり、
  その楽しんでいる人の夢の中で、我々は対象だ。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

辭世
今宵拭涙涅槃堂  今宵涙を拭う涅槃堂  
技倆尽時前後忘  技倆尽くる時前後忘ず  
誰奏還郷真一曲  誰か奏すげんきょう真の一曲   
緑珠吹恨笛声長 りょくしゅ恨みを吹いててきせい長し

*緑珠伝(楽史(910〜1007)宋初の歴史家。西晋の大富豪として有名な石崇の寵姫緑珠の物語。笛・舞の名手であった美妓の緑珠が、主人に純愛を捧げ通して自決するまでの物語。

柳田聖山先生 訳
今宵かぎりと涙を拭きとる涅槃堂
根も気力も使い果たして前後不覚
誰が冥土に至るまで一曲を奏でる
緑珠が恨みをこめた笛の音を聞く

くま訳
今宵涙を拭う涅槃堂
生きる為の修業も治療もやり尽くし、ちょぴっと油断したのである。
誰が吹く、故郷涅槃へ還るために必要な真の一曲
笛の名手緑珠が吹く、心残りの笛の音のようだ。(森が帰郷の為の心の準備を思い出させてくれている。)
(´・(ェ)・`)b

588鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/18(火) 23:28:18 ID:1d4drIFg0
夢の中では人の本音があらわになるものじゃ。
日常では隠している本能が垂れ流しになるのじゃ。
しかしそれもまた観念に過ぎないものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

589鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/18(火) 23:32:42 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 辞世なのじゃ。

 今夜涙をぬぐう涅槃堂なのじゃ。
 技量も尽きるときには前後さえも忘れてしまうのじゃ。
 誰が演奏するのか故郷に還る真の一曲が聞こえるのじゃ。
 緑珠が恨みをこめて吹奏する笛の音は長いのじゃ。

590避難民のマジレスさん:2022/01/18(火) 23:57:18 ID:wZ9jIHE60
73.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part5-a①

カルマ:幻想の筋書

   「行為者は彼の行為の報いを受けねばならない」
   
   これがカルマだ、因果応報。
   やり手がいなければ、カルマもない。これが自由だ。

   記憶がこのカルマの貯蔵庫だ。
   心に残された痕跡の一つ一つが来生を産みだす。
   何億という思考は一つの「私」と等しい。

   あなたが意識だと知らないと、
   生まれ変わりは、カルマによって支配され、
   あなたは再びやって来る。
   「意識」以外のものは想像で、この「意識」には始まりも終わりもない。
   
   生まれ変わりはマインドの中にあるだけだ。
   どうして、決して生まれたことのない「それ」が再び生まれることができるのか。

Q:絶対なるものと運命との関係は何ですか?

 絶対なるものは運命と何の関係もない。運命とはカルマの反応で、絶対なるものによって決められたものではない。あなたが行為するすべては、明日に向けての因果を創り出す。そして、明日が運命と呼ばれるのだ。

 今日の行為が明日の運命だ。
 今日、働いて$100得たとする、それをポケットにいれて眠る。次の日、昨日からの$100をポケットに見つける。この$100が昨日の行為の運命と呼ばれる。
 このようにすべてがカルマで、前世でおかした行為の結果をあなた自身のポケットの中に入れて、今生に生まれかわって来るのだ。誰もそれを変えることはできない。

Q:積極的に決定する事は幻想にすぎないのですか? 運命によってすべてがコントロールされているのですか?

 インドの賢人や聖人は、すべてが既に運命づけられていると言っている。事実は何も自分で決定することはできない。ラマナ・マハルシも又これを信じている。かつてある教授がこの同じ質問をラマナにしたとき、彼が運命論について質問することでさえ運命づけられていたと答えた。

Q:そうするとすべてが運命づけられているのですか?

 そうだ。太陽は昇り太陽は沈む。みかんの木にはみかんが、りんごの木にはりんごがなるように存在のすべては運命づけられたまさにその夢の通りに動いている。それを変えることはできない。すべてが予定されている。
 そこには何の疑いもない。蟻でさえ予定されたステップなしに歩くことは出来ない。この秘密はあなたが「光明」を得たとき明らかになるだろう。
 しかし、あなたのやり方でことが起こるように強制すると、あなたは苦しむことになる。物事はそれらが起こるように起こるのだ。ことはある決められた方法で起こるべきだと想像しないことだ。
 すべての人が自分の意志でやり遂げたいと苦労しているが、神に降伏したなら心配する原因は何もない。母なるものの意志に頼りなさい。彼女が行くところにあなたは行く。彼女があなたに乳房を与えるとき、ミルクを飲みなさい。
 このように行為する代わりに、ほとんどの人は状況に巻き込まれて道に迷っている。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

不邪淫戒 三首 1/3
痛飲誰家楼上謳 痛飲たが家の楼上の歌ぞ
少年一曲亂心頭 少年の一曲心頭を乱る
阿難逆行淫坊暁 阿難逆ぎょう乱心の暁
妙解方便残月秋 妙げの方便残月の月

くま訳
痛飲したのである。遊郭の歌声はどこから聞えるのだろう。
若者の一曲の歌声が、心を乱す。
阿難が、淫坊から逃げ出した暁
釈迦から、阿難救出を命じられた文殊菩薩が、作戦を練った有明の月の秋、
わしは、自分で妙解を得るために、遊里に遊ぶのだ。

*阿難(アーナンダ)が、女郎屋で、心神耗弱状態にされ犯されそうになった挿話を下敷きにしているらしい。
(大佛頂如来密因修證了義諸菩薩萬行首楞厳経)
この詩に於いても、男色説は却下である。
(´・(ェ)・`)b

鬼和尚コメント
アナンダはお釈迦様が生きている時にはまだ悟っていなかったというからのう。
いろいろ創作されるのじゃ。
お釈迦様の死後に残された法を実践することで悟れたのじゃ。
お釈迦様が居なくとも欲があっても実践すれば悟れるのじゃ。

591鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/19(水) 23:30:29 ID:1d4drIFg0
自分とか、個我があるという観念があれば、その行為の報いも起こるのじゃ。
自分が無ければ、報いも無いのじゃ。
それがカルマからの自由なのじゃ。
実際には全てが意識であるからそもそもカルマも自分も無いのじゃ。

592鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/19(水) 23:34:13 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 不邪淫戒なのじゃ。

 痛飲していたら誰かの家の楼上から歌が聞こえたのじゃ。
 その少年の一曲が心頭を乱すのじゃ。
 阿難が逆行する淫坊の暁なのじゃ。
 妙解の方便は残月の秋なのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2022/01/19(水) 23:42:09 ID:iRdnVwzw0
74.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part5-a②
カルマ:幻想の筋書

Q:グルの恩寵によって、運命が変えられると言うのは本当ですか?

 グルの恩寵はすべてを可能にする。運命を変えることもできる。この恩寵も又、予定されている。

Q:自由は*1プララブダカルマのせいで起こるのですか?

 そうではない。自由はあなたのカルマと何の関係もない。カルマが起こるのはあなたが真理に眠っていて他の対象に欲望を持つときだ。解放されるときは、今世のカルマもない。今世のカルマは真理に眠っている人達のもので、目覚めた人々のものではない。
 夢を見ると多くのことがあなたの前にやって来るが、眠るとこれらのすべては消えてしまう。眠りの中では人や対象物や欲望がない。すべての欲望は、夢を見ているときか、目覚めているときにやって来る。
 だから、目覚めと夢見の間には何の違いもない。眠りの中では、何も存在しないが、至福・愛・美のみ存在する。この愛をどこから手に入れたのか? 欲望のないところからだ。
 欲望がないとあなたは幸福になる。どんな欲望も持たない方法を学んで、目覚め・夢・眠りすべての状態の中で幸福でいなさい。他の人達が欲望に目覚めているとき、欲望に眠ることによって欲望なしでいる。彼らが真理に眠っているとき、あなたは真理に目覚めているのだ。
 人々の目覚めの状態は無知の眠りの状態だ。なぜなら彼らは、自分は誰か知らないために幸福ではないからだ。だから「私は誰か」と探求しなさい。そうすると欲望はすべて消えてなくなるだろう。
 この探求をいつもしていなさい。座っていても、立っていても、歩いていても。これらの欲望が一体どこからやって来るのか、その源泉をたずねなさい。これは、欲望に対して眠るのと何の違いもない。

Q:起こることはすべて運命づけられているとしたら、このことに対する反応は自由意志ですか?それとも運命づけられたものですか?

 顔を叩かれたときのあなたの反応は何かね?

   ことはただ起こるのだ。
   運命又は自由意志という問題はそこにはない。
   物事は単に起こるのだ。そして、あなたはこれらの物事の一つにすぎない。
   すべては夢だが、唯一あなたが目覚めたとき、すべてが夢だとわかるのだ。

 形のすべて、二元性のすべては偽りだ。これをどのようにして理解するのか? この夢から目を覚ますことだ。そうすると自由意志と運命について理解できるだろう。自由意志を使える人はほんの少数だ。
 サットサンガですべてが幻想だと知るようになる。そうするとあなたは観照者で、夢と苦しみを越えている。すべてが幻想だと知る為の、第三の目が開く。
 それを開くことができる完璧な人がその目を開けるのだ。二つの目は形と真理でないものに導く。無形性を見るには第三の目が開かねばならない。

  しばらく静かに座っていなさい。
  そうすると真理とは何か分かるだろう。
  マインドの中で混乱しているものを見なさい。
  この概念がどこからやって来るのか見つけなさい。
  「それ」のポイントを見つめなさい。
  そうすると、信じられない何かと、
  欲望のすべてを満たしてくれる何かと出会うだろう。

*1プララブダカルマ 過去世で果たされなかった行為の結果のうち,今世で果たされるように定められた宿命
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

不邪淫戒 三首 2/3
逆行慈明婆子身 逆行の慈明婆しが身
紅絲脚下絆婚姻 こうし脚下婚姻を結ぶ
一曲楼頭綠珠笛 一曲楼頭綠珠の笛
可憐昔日趙王輪 あわれむべし昔日趙王の輪

くま訳
慈明和尚は、遊郭に出かけたりするのではなく、身寄りの無い老婆を案じて、
縁を大切にして、一緒に住んでいたのである。
楼上で笛を奏でた綠珠(愛人の目の前で楼上から飛び降り自殺をした)
憐れむべきは、綠珠を死に追いやった趙王である。因果はめぐり、臣下に殺害されたのである。
(´・(ェ)・`)b

鬼和尚コメント
昔の中国では足首に夫婦となる運命の赤い糸がつながっていると信じられていたのじゃ。
そのような正しい運命の恋愛ならば善いというのじゃ。
横恋慕して悪逆なことをすれば、身を滅ぼすというのじゃ。

594鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/20(木) 23:24:34 ID:1d4drIFg0
全てが運命つけられているというのじゃ。
グルに必要な時に逢えることさえもそうだというのじゃ。
やがて全ての衆生は悟りを得ることになるのじゃ。
永遠の時はないからなのじゃ。
海面のさざ波がいずれは海に帰るようにのう。

595鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/20(木) 23:29:36 ID:1d4drIFg0
そんな感じなのじゃ。

 またまた不邪淫戒なのじゃ。

 逆行の慈明は婆子のような身なのじゃ。
 紅い絲が脚下にあって婚姻を結んだのじゃ。
 楼頭で綠珠が笛で一曲かなでるのじゃ。
 昔日の趙王の輪は憐れなものじゃ。

596避難民のマジレスさん:2022/01/21(金) 11:09:45 ID:dhYdRftU0
くま訳改
第一句:逆行の慈明は婆子のような身なのだ。

くま質問
逆行慈明婆子身、とは世間に逆らってるような慈明は、蔑まれた婆さんのような身だった、みたいな意味でありましょうか?

75.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part5-a③

カルマ:幻想の筋書

Q:それでは、その瞬間に正しいか悪いかを選ぶ選択の自由でさえ運命づけられているのですか?

 あなたは「自由」そのものだから、選択の自由はない。あなたはいつも「自由」だから、自由か自由でないかの選択はない。

   選択は幻想だ。
   「自由」のみ存在するのだから。
   選ぶ「人」と選ばれるべき「もの」はすべて概念だ。

   存在のすべてのハートの内に存在する「それ」が
   まだ受胎されていない、生まれて来ない存在の内にさえ存在する
   「それ」がカルマのすべてを指揮している。
   唯一あなたの思考が宇宙を創造したと理解しなさい。
   すべての存在はマインドの中の概念だ。
   かつて何もなされたことはないし、これからも何もすることはない。

   あなたは誰の概念か見つけなさい

 山に登って休息している夢を見る。しかし目を覚ますと、山もないし山を登ったこともないし休息もない。しかし、あなたはこの活動を演じた。それはすべて夢であった。このように、あなたの責任や義務や活動はすべて夢で幻想に過ぎない。
 夢の砂漠の中での蜃気楼のようなものだ。想像上の潜水夫が想像の中に潜って行くと想像しているようなものだ。蜃気楼を追いかけるのをやめて、目を覚ましなさい。あなたを蜃気楼へと駆りたてる渇きさえも蜃気楼だ。想像だ。

   目を覚まして、平和は内にあると知りなさい。
   そうするとあなたの幻想は消えてなくなるだろう。

用語解説

*1プララブダカルマ 過去世で果たされなかった行為の結果のうち,今世で果たされるように定められた宿命
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

吸美人淫水 1/3  美人の婬水を吸う
蜜啓自慙私語盟 蜜に啓し自ら慚(は)ず、私語の盟、
風流吟罷約三生 風流、吟じ罷(や)んで、三生を約す。
生身堕在畜生道 生身堕在す、畜生道、
絶勝潙山戴角情 潙山戴角(いさんたいかく)の情を超越す。

・栁田聖山先生訳
他人に言わない内緒の話    
歌の生涯 三世の誓
素肌まさぐる けもの道
あっぱれ潙山のコッテ牛   

仁先生訳
密かに心を啓き、初心に羞じらいながらも、睦言に深い絆を確かめ合うんだ、
美人の婬水を吸い、ゆるやかに謡うように情交を終えて、三生の愛を誓い合うんだ。
ああぼくらはこの生々しい身のままに畜生の道を楽しんでいるんだよ・・・
想えば、潙山霊祐さんが、死後に牛になって角を生やして逍遙している光景は素晴らしいね。

くま訳改
美人の婬水を吸う
内心を吐露し恥かしく思う
生涯風流な詩を詠んで、三生を誓う
生身で畜生道を歩んでいるのだ。
死後に牛に生れ変った潙山をも超越してるのだ。

*潙山戴角情・唐代の禅僧、潙山が死ぬときに、どこへ行くかと聞かれたことに答えて、角を生やした(戴角)雄の水牛(牛水牯)に生れ変わる=死んでも説法を続けると言ったと言う故事。
(´・(ェ)・`)b

597鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/21(金) 23:12:44 ID:1d4drIFg0

 自由と自由でないものを分けているのは観念なのじゃ。
 観念のない意識は自由そのものなのじゃ。
 誰でもその意識に到達できるのじゃ。
 ただひたすら己を見ることだけが大事なのじゃ。

598鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/21(金) 23:16:23 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 美人の婬水を吸うのじゃ。

 蜜を啓き、自ら恥じるは私語の盟約なのじゃ。
 風流な詩を吟じおわり、三生の夫婦を約束するのじゃ。
 生身で畜生道に落ちたのじゃ。
 蕃山の角を持つ牛の情けにも勝るのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2022/01/21(金) 23:27:25 ID:XJB0S7OI0
76.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part5-b①

カルマ:幻想の筋書

Q:不正直な人が栄えて、正直な人が苦しんでいるのはなぜですか? 正直な人が罰せられて、不正直な人が報酬を受け取るのはなぜですか? これが私が完全に降伏できない理由です。

 それは本当だ。罪のない人が苦しんで、不正直な人が公衆を騙して栄える。
 ラバナを見てごらん。彼はインドのいたる所で正義を踏みにじり、美女を盗んでは彼のハーレムへ連れて行った。その結果、彼は彼の宮殿や町をゴールドで造ることができた。
 彼は一切誰のこともかまわず、すべての人を困らせた。ラーマの妻でさえ誘拐してしまった。ラーマは王国から追放されてすでに苦しんでいた。ラーマは神であるが、彼は苦しんでいた。
 彼の名前を口にするだけで二度と生まれては来ないといわれているが、彼自身は多くの問題を抱えていて、更にラバナは彼に惨めさを付け加えた。
 ラーマは父親の妻の一人の策略で追放された。彼の父は王で、次の王としてのラーマの戴冠式のときに、一番若いクイーンがラーマの父によって以前に約束された恩恵を願い出た。
 その願い事は、ラーマを国から追放して彼女の息子を王位につけることであった。王はそれに同意せざるをえなかった。ラーマを森に追放してすぐ、彼はラーマとの別離を嘆いて死んで行った。この王の名前はダサラタで、このために国中が苦しんだ。
 しかし最後には何が起こったか見てごらん。ラバナは殺され、今でも私達はラーマの名前を唱えている。彼は7600年前にこの州に住んでいた。ここからそんなに遠くない所だ。
 多くの聖人がその人生の内で多くのトラブルを抱えていた。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

吸美人淫水 2/3
杜牧磊苴是我徒 杜牧らいしょ是我徒
狂雲邪法甚難扶 狂雲邪法はなはだたすけがたし
為人軽賤滅罪業 人のためにきょうせんせられて罪業を滅す
外道波旬幾失途 外道はじゅん幾ばくかみちを失す

くま訳改
私の詩は、晩唐の詩人、杜牧はの作風、磊苴(らいしょ=わいせつ、なこと)に、倣ったのである。
私は邪法をただそうとするのであるが、極めて難しいのだ
人の為に軽率な罪業を滅しようとするのであるが、
異端の悪魔それを理解せずは幾度も道に踏み外すのである。
(´・(ェ)・`)b

600鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/22(土) 23:15:08 ID:1d4drIFg0
正直でいるだけでは福楽も来ないじゃろう。
それだけでは誰も喜ばないからなのじゃ。
慈悲による行いで人を喜ばせれば、福楽もやってくるのじゃ。
それが娑婆世界の法なのじゃ。

601鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/22(土) 23:19:01 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 また美人の淫水をすうのじゃ。

 杜牧のような磊苴ぶりが我が徒の流儀なのじゃ。
 狂雲にも邪法ははなはだ助け難いのじゃ。
 人に軽賤せられて罪業を滅するのみなのじゃ。
 それで外道、波旬も幾ばくか道を失うのじゃ。

602避難民のマジレスさん:2022/01/22(土) 23:40:36 ID:dhVYYnh.0
くま訳改
第一句:杜牧のような磊苴ぶりが我が徒の流儀なのだ。

77.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part5-b②
カルマ:幻想の筋書

Q:しかし時々、非常な苦しみが罪のない傍観者に架せられました。

 何と罪のない傍観者として現れるとは!

Q:それはどういう意味ですか? そのような苦しみはでたらめですか、それとも今世のカルマのためですか? 悟った人はどのようにそのようなカルマの法の表現を見ているのですか?

 この質問は総体的な意識と関係している。もし私がそれは今世のカルマだと話すとそれは素直に信じられることだ。私は二通りに説明しよう。
 一つは、あなたがすることは何でも来世のカルマになる。今起こっていることはすべて過去によって起こっている。過去のある部分は随行されてきたがある部分は去って行った。今起こっていることは、あなたの以前の活動のバランスだ。
 しかし、現実には今世のカルマはない。現実には以前にあなたは何をしたか誰も知らない。ウパニシャッドの話を信じるなら一つの適切な話がある。

 昔、聖人がモスリムの村の近くの森に静かに生活していた。ある日、牛が聖人の小屋に走り込んできた。二・三分後に男がやってきて、聖人に男が殺すつもりでいた牛を見たかどうか尋ねた。聖者は「はい」といって小屋から牛を押し出して屠殺者に引き渡した。
これが起こっていることで、それはただ起こった。
 聖人は他に何も罪を犯さなかったので、来世でもまた聖人になった。彼はクリシュナの美しい像が祀られているマハラシュトラ州のパンダプアの村に行くことに決めた。
 途中寺院より10Kmの所で大嵐に遭って、どちらに行って良いものか分からなくなってしまった。近くに住んでいる男が彼を招待して一晩泊まって明日寺院に出かけるようにと言った。聖人はこの慈悲にみちた寛大な申し入れに同意した。
 この男はかなり年をとっていたが、非常に美しい若い妻を持っていた。この若い妻はすぐにこの純粋な聖人に恋をして、彼と一緒にここを逃げ出したいと彼を誘惑した。
 「それはいけません。私は出家者で女性には決して触れることはできないからです。」
 「でも、私はあなたに恋をしてしまったのです。どうか一緒に逃げて下さい。私の金の装飾品を集めました。これで十分私達は生活していけます。」と彼女は言った。
 「いけません。私はあなたと一緒にいることはできません。」と若い聖人は言った。
 「私はクリシュナ神に会いに行く途中で、あなたはすでに結婚しています。あなたが行ってしまったら、あなたのご主人は苦しむに違いありません。」
 それで彼女は夫を殺して井戸の中に投げ込んだ。そして彼女は言った。
「さあ、私には夫はありません。私と一緒に来て下さい。」
 聖人は驚いて、彼女を完全に拒否した。そうするとこの女は道に飛び出して、「この男が私の夫を殺して、金のすべてを盗もうとしている」と泣き叫びだした。
 人々や警官がやってきて、聖人は判事に連れて行かれた。女はこの見知らぬ男について彼女の話を村の判事に告げた。判事は当惑してしまった。犯罪が犯されたので判事は裁決を下さねばならないが、証人がいないので死刑を宣告することはできない。それで、無罪の若い聖人の手を切り取ることを命じた。
 そうして聖人はクリシュナ寺院へと旅を続けた。寺院でクリシュナ神が彼の前に現れて言った。
「何か頼み事があるかね?」 
 聖人は言った、
 「私はいつもあなたを愛して、いつもあなたを礼拝してきました。私はあなたの名前以外口にしたことはありませんし、私の手はどんな犯罪も犯したことはありません。この手は、あなたを讃えるために、礼拝するためにありました。神様、もしあなたが寛大ならあなたを礼拝していたこの手がどうして切り落とされたのか教えて下さい。」
 神は答えて、
 「あなたの前にある*1ディーヴァダルシャンを見て、前世で何が起こったか知りなさい。」
 聖人は前世での、牛・屠殺者・聖人の話を見た。そして、今世で牛が妻で、屠殺者が夫で、彼が聖人だと分かった。牛は自分を殺した夫に復讐しなければならなかった。
 その因果応報は今終わった。彼の手が切られたのは、助けを求めて彼の所にやってきた牛を小屋から押し出したためだ。
 だから、カルマが今生に出現したのだ。今生で起こっていることの根源は誰も知らない。私達は、今起こっていることを見ているだけだ。
 カルマのすべては経験させられるに違いない。だから、何がなされるべきか知っている人に降伏することだ。

用語解説 *1ディーヴァダルシャン 神の視界
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

603避難民のマジレスさん:2022/01/22(土) 23:41:10 ID:dhVYYnh.0
吸美人淫水 3/3
臨済児孫不識禅 臨済児孫は禅を知らず
正伝真箇瞎驢辺 正伝真箇瞎驢辺 
雲雨三生六十劫 雲雨三生六十劫
秋風一夜百千年 秋風一夜百千年

くま訳改
臨済の子孫は禅を知らない、
本物の伝統は、この盲目のロバの庵(一休)にあるのだ。
情愛で結ばれ、三生を誓うこの一夜が永遠なのだ。
二人で過ごす夜の秋の風は百年千年つづくのだ。
(´・(ェ)・`)b

鬼和尚コメント
(くま質問・雲雨三生六十劫とは?)この一夜が永遠じゃ、というような意味じゃな。
時間の概念がなければ刹那に永遠を観られるのじゃ。

604鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/23(日) 23:43:56 ID:1d4drIFg0
前世にしたことで今の生に報いが来る。
それがカルマというのじゃ。
実際にはないものであるが、観念の個我があればそれもあると思うのじゃ。
観念がなくなればそれもないと知れるのじゃ。

605鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/23(日) 23:46:10 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 またまたまた美人の淫水を吸うのじゃ。

 臨済の児孫は禅を知らないのじゃ。
 真の正伝はわしの身辺にあるのじゃ。
 雲雨の契りは三生六十劫なのじゃ。
 秋風一夜で百千年にも思えるのじゃ。

606避難民のマジレスさん:2022/01/23(日) 23:57:31 ID:mtPJl7v60
78.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part5-b③
カルマ:幻想の筋書

Q:それでは、私達の過去生から学ぶことができるのですか?

 人間としての誕生は滅多にないことで貴重なものだ。それを無駄にすることはできないということを学びなさい。何億年も通じて8・4億の生物種を生まれ変わって、やっと人間になった、悟りが最も可能な人間になったのだ。

Q:過去生療法は、役に立ちますか?

 この療法では、現在の心理的障害を引き起こしている明確な原因である過去のある出来事に連れて行かれる。私はこれを拒否しないが、ここでは、過去に行かないようにと言っている。
 マインドは過去だ、それと一緒に過去に行くべきではない。その代わりに、過去の影響が弱い現在にマインドを連れてくるべきだ。この今にいることがサットサンガだ。

Q:生まれかわると言うことを理解することはできません、何が生まれかわって来るのですか?

 このあなたの現在の生まれかわりはどの木の根からでた枝かを、あなた自身で知らない限り、どんな答えもあなたを満足させることはない。生まれかわって来るものは満たされなかった思考や欲望だ。これを避けることはできない。
 思考がないならあなたは自由だ。さもないと欲望を満たすために、何度も何度も生まれかわらなければならない。欲望がその欲望を満たすのを助けてくれる人の子宮に受胎するのだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

愛念盟 1/2
婆子侍慈明老師 婆子慈明老師に侍す
婚姻脚下結紅絲 婚姻脚下紅絲を結ぶ
驪山春色三生睡 り山の春色三生のねむり
千歳海棠花一枝 せん歳海棠の花一枝

くま訳
男女の愛の誓い
老婆が慈明禪師に仕える
婚姻は足下の赤い糸の結びつきである
りさんは春の色に染まり、始皇帝と麗姫が三生の誓いの下眠っている
これからも千年つづくカイドウの花一枝の思いである。

*慈明石霜楚円禅師:一休さんが、自分で生前作った墓を慈揚塔と名づけるくらいに 、敬愛していた。
 身寄りの無い老婆を世話していた。
*愛念:1 非常にいとしく思うこと。深く愛する気持ち。2 男女の愛情。
*盟:ちかいをたてること。また、そのちかい。
*驪山(りさん):秦始皇帝の陵(墓)兵馬俑坑(ようこう)
(´・(ェ)・`)b

鬼和尚 コメント
中国の伝説では赤い糸は男女の足首に結び付けられるというのじゃ。
お釈迦様にもラーフラという子があったというのじゃ。
男女の愛も悪いものではないというのじゃ。

607鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/24(月) 23:22:43 ID:1d4drIFg0
生まれ変わるということがあると思えば、何が生まれかわるのかと思うのじゃ。
生まれかわるものはないのじゃ。
生まれかわる個体がないのであるからのう。
ただ幻想から生まれた幻想の観念があるのみなのじゃ。

608鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/24(月) 23:26:08 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 愛念の盟なのじゃ。

 婆子は慈明老師に侍していたのじゃ。
 婚姻は脚下の紅絲を結ぶことじゃ。
 驪山の春色では、三生の睡についているのじゃ。
 千歳の海棠の花一枝なのじゃ。

609避難民のマジレスさん:2022/01/24(月) 23:30:11 ID:JrSta6iA0
79.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part5-b④
カルマ:幻想の筋書

Q:歴史の観点から、あなたは人類の精神性に対するビジョンを持っていますか?

 私にはビジョンや観点はないが、信頼がある。私はこの人類の精神的進化は歴史ではなく神秘として信頼している。それを神秘だと見ない限りグルとして教えることはできない。
 歴史として考えるなら、それは神秘ではない。それを理解することはできない。神秘は非常に神秘的で秘め事だ。それはまさに秘密で神聖だ。

Q:西洋人には特殊な役割があるのですか?
 
 確かに西洋人には明確な役割がある。そして、彼らは最善を尽くしてその役割を演じている。インドで何千年もの間教えられたことはインドの人々によってもはや望まれていない。インドの人々は西洋の物が欲しい。だから彼らは欲望を満たすために西洋に行くのだ。

 精神的欲望は真理を悟りたい精神的な人々によって満たされる。だから、自由への欲望自体も西洋に行ってしまった。これが西洋人がここにいる理由だ。彼らは何が美か知っている。彼らは物理的美しさのすべてを知ったが、その美しさに欺かれて後から蹴飛ばされた。
 さて今、彼らは彼らの背中を蹴られるためではなく、彼らを抱擁してくれる美しさを求めてここにいるのだ。

Q:パパジ、どのようにしてこの幻想の中で存在したらよいのでしょうか。どのようにして幻想の中で、巧みに苦しみの罠にかからないように生きて行くことができますか?

 あなたは誰か忘れないことだ! 私達は完全にその仕事を終えていないからこの世に生きているのだ。あなた自身を知りなさい。

  (´・(ェ)・`)
 (おわり)
第9章「世界は幻想」終了

愛念盟  2/2
恩愛紅塵誰人掃 恩愛の紅塵誰人かはらはん
娘生赤肉父子道 にょうじょうの赤肉父子の道
羅睺羅箇歡喜丸 らごらこの歓喜丸
携來直授釋迦老 携へ来たって直に釋迦老に授く

くま訳
恩愛を、俗世の煩わしさだといい誰が払いさると言うのだ
母から生れたこの身体もつ人間の、親子の、あるべき道があるのだ。
ラーフラは、仏の功徳を見聞きして,信心を得て歓喜した釋迦の子である
連れてきて直接お釈迦様が教えを伝授したのだ。

*紅塵:赤茶けて見える土ぼこり。市街地に立つ土ぼこりなどにもいう。俗人の住む世の中。また、俗世の煩わしさ。俗塵。
*羅睺羅(らごら、梵・ ラーフラ)は、仏教の開祖たる釈迦の実子であり、またその弟子の一人
*歓喜:説法を聞いたり,仏の功徳を見たりして,信心を得て非常によろこぶこと。

一休さんにも息子がいた。:岐翁紹偵((きおう・しょうてい) 。
(´・(ェ)・`)b

610鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/25(火) 23:12:17 ID:1d4drIFg0
幻想の中でできることはただ自分とは何かを追求することだけなのじゃ。
他にすることはないのじゃ。
そのために幻想と知りながら働いて金を儲けるのもよいのじゃ。
肉体がなければ自己の追求もできないからのう。

611鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/25(火) 23:15:17 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 また愛念の盟なのじゃ。
 
 恩愛の紅塵を誰が掃えるじゃろうか。
 娘から生れた赤肉の父子道なのじゃ。
 ラーフラもこの歓喜を得たのじゃ。
 歓喜を携えきたって父のお釈迦様に直に教えを授かったのじゃ。

612避難民のマジレスさん:2022/01/25(火) 23:51:30 ID:d4vKaEa60
くま訳改
第四句:歓喜を携えきたって父のお釈迦様に直に教えを授かったのだ。

80.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆Part1①

空家の盗人

いつも憶えていなさい
平和の盗人は、空家にやって来る盗人だ。
なぜなら、家にあるのは存在しない想念だけで盗人は何も盗めない。
あなたは盗まれることのない「それ」だ。

常に平和だけがある、
この平和を乱す想像上の妨害者を見つけて拒否しなさい。
「私―思考」が自由の盗人だ。
自問がその盗人とその習癖を破壊するための最良の方法だ。
習癖を気にすることはない。
それを取り除く唯一の方法は自由を手に入れることだ、
自問が自由への近道だ、
だからいつも真我に向かっていなさい。

欲望

 波が起こる以前は海だ、
 欲望が動きだす以前は無だ。
 全宇宙はあなた自身の欲望の顕われだ。
 だから、それを楽しみなさい。
 しかし、それによって破壊されないことだ。
 あなたは欲望の奴隷になりやすいのだから。

 平和の盗人は一時的なものへの欲望だ、
 だから唯一永遠なるものを切望しなさい。
 「ここ」、この永遠の瞬間には欲望はない。
 ただ静かにしてあなたが本当に必要なものを知りなさい。
 対象のないところには欲望はない、
 欲望のないところにはマインドがない、
 マインドがないところには唯一真我だけだ。
 欲望が「真理」の顔を覆い隠す膜だ。
 「私」の源泉を見つけて膜を取り除きなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

末後涅槃堂懺悔1/2 末後涅槃堂の懺悔
風音気象頌兼詩 風いん気象じゅとしと
乗興邪慢吟撚髭 興に乗ずる邪慢吟じて髭をひねる
悪魔内外託吾筆 悪魔内げ我筆に託す
猛火獄中無出期 みょうか獄中しゅつご無し

蔭木英雄先生訳
風の音や天気によって頌や詩を作り  
興に悪のりして髭をひねって詩を吟ずる  
悪魔外からも内からもワシの筆に乗り移って 
猛火の地獄から脱出する時がないわい

くま訳
風音気象の頌と詩と
勘違いの悪乗りで詩を吟じ、髭をねじる。
悪魔が内から外からわしの筆に乗ってくる。
地獄の猛火から抜け出す事ができないのだ。

*邪慢:間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、徳が無いのに有ると思うこと。
*悪魔:仏道修行においては、かならず魔の障難がそなわっている。仏道をこころざし、真実に目覚 
 めることを「我がいのち」と選び取った者だけに、「そのいのち」を奪おうとして悪魔は現れてく 
 る。
(´・(ェ)・`)b

613鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/26(水) 23:40:17 ID:1d4drIFg0
心は本来、空っぽの空き家のようなものというのじゃ。
思考という盗人が入ってくることで乱されるというのじゃ。
思考によって欲望が生まれ、自分がわからなくなるのじゃ。
思考を止めて自分を見れば、欲も消えるのじゃ。

614鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/26(水) 23:47:25 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

  末後涅槃堂の懺悔

 風音と気象が頌と詩を兼ねたのじゃ。
 興に乗り、邪慢を吟じて髭をひねったのじゃ。
 内外の悪魔が我が筆に乗り移ったのじゃ。
 地獄の猛火の中で出期することも出来ないのじゃ。

615避難民のマジレスさん:2022/01/26(水) 23:53:06 ID:0abj6qA.0
81.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆Part1②

欲望

 あなたは存在の総体だ。
 欲望が単にあなたになることはない。
 どんな欲望も皇帝を乞食にする。
 欲望とは唯一請い求めることだ。
 「私は真我でない」というのが乞食だ。
 取るに足らない欲望のためにあなたの王国をなくし、あなたを破壊に導く。
 だから誰に欲望が起こっているのかと、ただ真我探求しなさい。
 そして、限界のない無の中に流れ込みなさい

 欲望の対象がないのが実在だ。
 欲望の対象がない状態があなたの平和に値する。
 あなたの家が欲望ならそれを燃やしてしまいなさい。
 あなたを幸福にするのは欲望のないときだけだ、
 だから、無欲でいなさい。
 欲望がないとき、愛と美がある。
 もし望むなら唯一平和を望みなさい、
 あなたが考えるものにあなたはなるのだから。
 海に注がれた水は海になる。

 どんな欲望もワニで、どんな執着もサメだ。
 欲望から自由であることが、神であることだ。
 究極であることだ。
 欲望との競争をただストップして見てごらん!
 ハートはいつも開いているのに、唯一欲望でそれを閉じるのだ。

 無欲が自由だ、
 だから、どこから欲望がわき起こるのか見てみなさい。
 欲望なしのあなたは平和で、この完璧な静寂さが自由だ。
 自由への欲望は他のあらゆる欲望を破壊する。
 この欲望が湧きあがったときは延期しないことだ。
 今満たしなさい。静かに座ってこの欲望に従いなさい。
 未来に自由になりたいと望まないこと。
 今自由になりたいと踠かないこと。
 この二つの間で何が見えるかな? 
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

616避難民のマジレスさん:2022/01/27(木) 00:12:21 ID:0abj6qA.0
追加で解説をお願いした『狂雲集』の再掲分の詩は、1月25日で終了でありました。
ありがとうございました。

パパジの講読会は、残り69回であります。
漢文の一休さんの文章だけでなく、平易な現代文であるパパジの文章も、鬼和尚の解説が無ければ、十分な読解はできていないと思います。
ありがとうございます。

次に取上げるべみ推奨図書があいましたら、教えていただきたくお願いいたします。

(´・(ェ)・`)b

617鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/27(木) 23:44:23 ID:1d4drIFg0
>>616 ご苦労さんなのじゃ。
 ゆっくり休むとよいのじゃ。

618鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/27(木) 23:46:50 ID:1d4drIFg0

 多くの者は欲望が叶えば自由になれると思ったりしているのじゃ。
 しかし実際にはむしろ不安や恐れが増して不自由になっていくものじゃ。
 例えば大金が欲しいと思っていた者が大金を得れば、それを失う不安や恐れが起こるというようにのう。
 欲があり、欲が叶うことで自由になったりすることはないから、欲を捨てて自由になる方が善いのじゃ。
 欲から一時でも離れれば平安があるじゃろう。

619避難民のマジレスさん:2022/01/27(木) 23:58:35 ID:wsAdLHh20
82.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆Part1③

欲望

Q:私であるこの無を愛し、本当の幸福を知るのを助けて下さいますか?

 幸福とはあなたが望んだものとの出会いからやって来るのではない、欲望を満たすことから来るのでもない。何に対しても全く欲望がないとき、幸福がそこにあるのだ。欲望が空(から)になったときのこの「空」が幸福そのものだ。
 だから、欲望に対する思考を全て捨てなさい。幸福がやって来るときあなたは一人だ。一人と幸福、この二つはとても仲良くする事が出来る。あなたには熟練したガイドが必要だ。さもないと世界という森で道に迷ってしまう。ガイドは必要でこのガイドが恩寵だ。

Q:私は多くの欲望をもった男で、欲望は私を煩わすのをやめたことがありません。

 欲望を満たしなさい、誰がそれを邪魔するのか? 頭の中の欲望はそれが位置している部分の脳を破壊する。しばらく待っていなさい、急ぐことはない。
 まず、あなたが好きなもの、愛しているものを愛し、マインドを満足させなさい。マインドが沈むと、どのようにして全てを拒否して静かに座るかが分かるだろう。

  あなたが真我探求への欲望を持っているなら、
  他の欲望があなたを困らせることはない。

Q:欲望には限りがありません。欲望の全てを破壊する必要があるのですか? それとも、欲望は真我探求や静寂によって通過させることができるのですか?

 欲望には限りがない。肉体が去っても生き残る。マインドはいつも欲望で忙しい。これらの欲望は満たされなければならない、さもないと、それらを満たすために再び生まれて来なくてはならないからだ。

  グルの恩寵と真我探求によって
  欲望は通過していくし、あるいは満たされる。

 欲望を一つ一つ取り除くには何億年もかかるし、それでもうまくいくことはない。グルの恩寵によって欲望は夢の中で満たされて、マインドは満足する。真我探求は欲望の源泉へ行くことだ。

 「ここ」にはマインドが全く存在しないので欲望がない。マインドが感覚の対象と接触しているとき、欲望が起こって来るのを加速する。源泉に行くことでこの世界はかつて存在したことがないと分かる。そして、欲望はいうまでもなく存在しない。そこが完全な解放の場所だ。

 私には私の前世である特定の女性と一緒になりたいという欲望があったが彼女と一緒になることはできなかった。理由は、私は偉大なスワミで私のマハーサマディの日は銀行や店が閉まった程有名人であったからだ。

 それでどうなったか? 私は再び生まれかわってこの女性を妻としなければならなかった。だから欲望は満たした方がよい。特に、自由でありたいという欲望は!!
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

620鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/28(金) 23:59:04 ID:1d4drIFg0
欲望を無理に押さえ込めばそれが未練になり、修業が止まってしまうこともあるのじゃ。
そのようなことになるならば欲をかなえたほうが善いのじゃ。
現実では叶えられない欲も夢をコントロールできれば叶えられるのじゃ。
現世も夢であるから同じなのじゃ。
それによって欲の虚しさを知れば、捨てることも出来るようになるのじゃ。

621避難民のマジレスさん:2022/01/28(金) 23:59:56 ID:s0UtTY.20
83.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆Part1④

欲望

Q:私もまた、悟りたいという欲望があります。

 この欲望にあなたを煩わせなさい。本当にこの欲望をもっているなら、欲望の全ては終わったと同じだ。この欲望は他の全ての欲望を解き放す。この欲望をあなたが死ぬまで持っていなさい、そうすると、覚醒に至る。

 あなたの持っている欲望の全ては表に現れ出なければならない。あなたが欲望するものはすべて満たされなければならない。

Q:私の欲望の全てを燃えつくすためには、悪い欲望ばかりでなく、全ての欲望をあなたの足元に差し出さねばならないというのは本当ですか?

 全てを燃やしてしまう火は何か知っているかね? 献身が火だ。グルへの愛だ。グルへの愛とはグルの足元に膝まづいてグルの足を崇拝することだ。そうすると何もする必要はない。これだけで充分だ。

 昔は多くの人がグルの足を崇拝することによってのみ悟りを得たものだ。それに関する多くの話があるがラーマヤナのバーラトの話をしよう。
 バーラトの母親(第三の王妃)は、彼女の息子のために王国が欲しかった。しかし彼には王国を世襲する長兄がいた。王はバーラトの母親に彼女の欲しいものは何でも与えると確約していた。彼女は非常に美しく、前の戦争のときには、彼女が壊れた戦車を持ち上げて王を助けて戦争に勝ったからだ。
 王が王国を年上の息子ラーマに譲り渡そうとしたとき、バーラトの母親は王に、王との約束を思い出させた。そして彼女は王を強制して、ラーマを14年間王国から追放させ、彼女の息子を王位につけさせた。
 バーラトはそのときカシミールにいたが、何が起こったか知らされて王国に戻ってきた。彼は王国は一番年上の兄のものだと宣言して王位を拒否した。そしてラーマを探しに出かけ、チタラクットで彼を見つけた。ラーマに王国に戻るように頼んだ。
 ラーマは答えて「それはできない。私は私達の父上がした約束を果たさねばならない。あなたは王国に戻って私がいない間国を治めなさい。」
 バーラトは言った、「それではあなたの木のサンダルを下さい。私はそれを王座において毎日礼拝したい」

 この少年バーラトの献身は他の誰とも比べものにならない。彼は唯一サンダルを崇拝して悟りを得た。

 瞑想だけでは十分でない。なぜなら鶴でさえ魚を捕まえるのに魚が充分近くに来るまで待って瞑想している。鶴は魚を欺くために片足で立っている。それは苦行だ。魚は欲望の対象にすぎない。
 このように人々は欲望の対象のために苦行や修業や瞑想をしているにすぎない。これらの全てを止めなさい。鶴にならないことだ。神の御足を崇拝するだけで十分だ。献身・神への愛だけで充分だ。

 サットグルの足を洗うとどんなに幸福になるか。サットグルは彼の足を洗ってほしくはないが、あなたのためにそれを許しているのだ。そうして、あなたは謙虚になる。グルの足を見つめなさい。これだけで充分だ。
 これが失敗のない方法だ。他の全ての方法は失敗する。瞑想はあなたが必要な何かのためになされるが、グルの足を崇拝することは全てを取り除くことだ。グルの足を見つめなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

622鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/29(土) 23:44:57 ID:1d4drIFg0
真のグルがいるならば帰依するがよいのじゃ。
謙虚に求めれば悟りもやってくるじゃろう。
そうでなければやはり自分で進んでいかなければならないのじゃ。
自分の心の中に真のグルを求めるのじゃ。

623避難民のマジレスさん:2022/01/29(土) 23:56:35 ID:GYNZzSYw0
84.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part2-a①

マインド、思考、精神的重荷

 純粋なマインドはノーマインドとしてハートからやって来る。
 これが意識だ。
 マインドが汚されるのはマインドが動いて欲望が起こってきたときだ。
 これが束縛で、永遠でない何かを望んでいる、
 至福でない何かを欲しがっている。
 「私は平和だ」という思考の動きでさえ平和を乱す。
 あなたの本質は動かない、動けない、
 意図としてのマインドだけが動く。
 マインドが静かなとき、自由は「ここ」にある。
 
 マインドがあるところに二元性があり、過去がある。
 マインドがないところに自由がある。
 マインドとは対象化する力だ。
 マインドは対象に触れるときのみマインドとなるからだ。
 マインドは最悪の汚染だ。
 なぜなら愛からあなたを切り離す時間の観念だからだ。
 マインドはサンサーラ、子宮から子宮へのサイクルだ。
 マインドは説明だ。
 だから思考によって説明することができないものを見なさい。

 マインドはあなたの欲望だ。
 マインドを困らせるのはあなたなのだから、マインドの責任ではない。
 思考と精神的重荷があなた自身の美しさを破壊する、
 マインドの古い邪悪な習性が死ぬ過程はゆっくりだ。
 あなたはあなた自身の概念に扇動されるが、
 それらは無で存在しないということを知りなさい。
 最も重要なことはマインドは思考にすぎないと理解することだ、
 そして、マインドはあなたが欲しいものをすべて創り出すことができるということだ。

 マインドは乞食だ。
 「欲しい」という観念があなたを乞食にする。
 唯一「真我」でいると、乞食になろうとしてもなれない。
 エゴの托鉢の鉢を捨ててしまいなさい。
 王座はあなたのものだ。

 自由はマインドが火葬に付されたときだ。
 マインドの絶対的破壊が自由だ。
 そのとき、マインドはノーマインドだ。
 自由が欲しいと決心して、「それ」にマインドを降伏させなさい。
 マインドを差し出したなら考えるのをやめなければならない。
 苦しみに再び落ち込まないと固く決心をすることだ。

 マインドとは動きで、欲望を創りだす。
 そうするとその欲望に向かって動いて行くことができるからだ。
 過去と未来に関係を持つとマインドの遊びが始まる。
 マインドを遊ばせない、
 それは水だ。それは海とは何の違いもない波だ。それは完全だ。
 口では言えない悲惨や苦しみが起こって来るのは悪魔のマインド、エゴと同一化したときだ。
 だから海として遊んで、個的な波だと考える傲慢さを捨てなさい。

 海に、真我に目覚めていなさい。
 そうすると盗人エゴはマインドハウスに入ることはできない。
 マインドによい仕事を与えると楽しい友達になるし、
 感覚の対象や快楽に向かって導びくと恐ろしい敵になる。
 真我に向かってマインドを導くことがよい仕事だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

624鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/30(日) 23:51:40 ID:1d4drIFg0
思考と欲望が結びつく時、苦が起こるというのじゃ。
欲がなければ、思考も苦を起こさないのじゃ。
思考も悟りを得れば智恵となるものじゃ。
自己観念と欲を離れた思考が智恵なのじゃ。

625避難民のマジレスさん:2022/01/30(日) 23:55:47 ID:ephB6SPw0
85.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part2-a②

マインド、思考、精神的重荷

Q:マインドが私を騙して遊んでいるし、霊的な経験を創り出していると悟ったとき、私は深い沈黙の中にいました。

 これはよい理解だ。マインドを追跡してトリックを知った。誰がトリックを演じているのか知ったなら、それはあなたを騙すことはできない。どんな種類の経験もマインドのトリックだ。

 あなたにとってこの経験は非常にすばらしい。友達やグルに話して聞かせなさい。彼らも又、感謝するだろう。というのも人々は経験が全く存在しないところを見たことがないからだ。

 全ての人がどのようにエネルギーが尾てい骨からハートへ、更にそのかなたに昇って行くのか聞きたいのだ。そうして彼らは、あなたにこれが最後に起こることだと確信させる。しかし、クンダリーニを追いかけると「それ」を見失う。

Q:私が平和に満ちているとき、これらの経験が起こるのに気づきました。

 これは間違った文章だ。なぜなら、「平和」に満ちていたら何も起こりえないからだ。「平和」に満ちていたらこれ以上何が起こりえるかね。
 「平和」に満ちていると気づいていることがマインドのトリックだ。さもないと、どうして気づけるのかね。何かがあなたの前にあって始めて気づくことができる、肉体としてあなた自身を主体化し、あなたの前に気づかれるべき何かとして存在する「平和」を対象化した、これがマインドのトリックだ。
 今、内側も外側も気づくべきでないのだからあなたは正しく気づかなかった。内も外もどこも見ないことによって、マインドのトリックを調べなさい。
私が言っていることを理解したなら、全てが終わりだ。どこも見ないこと!!もしあなたが理解したなら何が見えるかね?「ここ」にはトリックは存在しない。
 どこから「私」がやって来るのか、誰もこれを教えていない。だからここで見つけだしなさい。「私」の源泉に顔を向けなさい。
 やりなさい!瞑想するのではない。努力に頼るのでもない、やりなさい!そして、次に何が起こるか言ってごらん。

Q:私は多くの精神障害を経験しています。助けて下さいますか?

 あなたの嫌いなことを経験すると精神障害を引き起こす。あなたの欲望を満たすように努めなさい。なぜなら、それを抑圧するとそれは脳のどこかに居ついて、眠ることができなくなるからだ。
 だから、マインドに何も保持しないことだ。できる限り人生を楽しみなさい。全てを楽しんだら、この世の一時的快楽を越えた他の何かがあるに違いないと気づくことになる。一時的な快楽には骨と皮が必要だが、それらに依存しない幸福があるのだ。
 この幸福を見つけたらあなたは静かに座って、骨で埋まった墓場(過去)に戻って行くことはないだろう。ほとんどの人が毎日墓場に滞まっている。一度至福を知ったなら、この至福に魅せられてその中に深く深く引っ張られていく。

 心配することはない。ここでただ静かにしていなさい。マインドを過去の障害に連れ戻さないことだ。マインドが外に出て行くときには、それに掴みかかりなさい。そうするとかっての障害に戻って行けない。ライオンでありなさい。ライオンのように振る舞いなさい。

  マインドを過去につれ戻さないこと、それが全てだ。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

626鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/01/31(月) 23:17:57 ID:1d4drIFg0
狂気とは抑圧や葛藤からおこるものじゃ。
親とか友人とかから自分を抑圧するように条件付けされると、ストレスで精神がやられるのじゃ。
抑圧から離れて楽しむと善いのじゃ。
過去を捨てて今に生きるのじゃ。

627避難民のマジレスさん:2022/02/01(火) 00:02:17 ID:NGmEt3Tc0
86.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part2-b①

マインド、思考、精神的重荷

Q:思考を抑圧するのではなく、認めるべきだと思うのですが。

 これはよいことだ。思考を抑圧しないことだ。それが何であろうともそれに直面しなさい。逃げ出すとあなたの臆病と弱味を見せつけることになり、思考はもっと強敵になる。
 今、立って思考を見下ろしなさい。そうするとそれは消え去る。もう逃げ出す必要はない。一つ一つの思考に直面して力をつけるためにヨーガの方法を使いなさい。

Q:私「自身」に近づこうとするのですが、マインドの騒音が私の邪魔をします。

 あなたの名前はMatwalli(マトワリ)だ。マトワリは、何か起ころうとも何も気にしないのでこの名前をあげたのだ!マインドがあなたを困らせるのなら、困らせなさい。マインドがあなたを困らせないなら、そのままでいなさい。何の違いがあるかね?
 何が起ころうともただ気にしないこと、何が現れようとも現せなさい。何も現れないのなら誰もあなたの前に座らせないことだ。自分は誰かという質問でさえしないことだ。何にも気にしないことだ。

Q:私は今、前よりも静かです。しかし思考はまだやってきます。それでもそれらはあまり重要ではないという気がしてきました。

 思考はあなたがそれについて話すと重要になるのだ。それを口にすると重要になるのだ。さもないと…(くすくす笑い)

Q:(彼女は微笑んで笑い出す)

 見てごらん、どんなに簡単に障害が取り除かれるか!あなたの顔を見てごらん。ここにやってきたときと同じ人とは思えない。
 あなたがこれらの問題を扱うのではない。それらは真我によって解決されるのだ。ただ真我に明け渡すと真我があなたの世話をする。真我は全宇宙の面倒を見ている。真我があなたのように正しい道にいる人の世話をしないわけがない。

Q:私は時間、空間、マインドを超えた人に会ったように思います。私はその人を神・真我として認めることができます。その人を私のグルとすべきかどうか助言して下さい。

 マインドを超えると違いはなくなる。マインドを超えると豚と人間の間には何の違いもない。区別している思考はマインドだ! 
 あなたは「彼はマインド、時間、空間を超えている」という。それならどのようにして彼を追跡するのかね? あなたがマインド、時間、空間を超えたとき、彼を見つけることができる。そうするとこのマインドを超えた二人が空間で出会うのだ。(笑い)
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

628鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/01(火) 20:45:42 ID:1d4drIFg0
雑念として浮かぶ思考は悪ではないのじゃ。
囚われれば障害になるだけなのじゃ。
囚われずにただ見つめていれば、やがて消えて行くものなのじゃ。
無理に消そうとすれば、それがまた思考になって囚われるだけなのじゃ。

629避難民のマジレスさん:2022/02/01(火) 23:04:03 ID:jHUhnshg0
87.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part2-b②

マインド、思考、精神的重荷

Q:あなたはかつて、「最もすばらしい観念でもそれは観念にしかすぎない」といいました。言葉を理解しなければならない本当の理由があるのですか? 言葉は私をトラブルに巻き込むだけのように思えます。

 理解しようと努力する必要もないし、理解する必要もない。理解するものは何でも観念でしかない。理解したこと、又は理解するであろうことは観念にすぎない。あなたのまわりに見るものはすべてあなたの観念にすぎない。マインドの観念が強くなりすぎると、それが実在するかのように見えるのだ。
 観念なしでは何も認識することはできない。あなたが見る全てのものは以前にあなたの記憶にとどめられたものだ。夢の中であなたにかぶりつく夢のタイガーのようなものだ。あなたはそれを非常に恐れているので「お前は夢のタイガーだ、完全に精神的概念にすぎない、私は恐れないぞ」とは言えない。
 夢のタイガーは夢の中で強暴であるのと同じように、目覚めの状態で森の中にいるタイガーも強暴だ。

   このように全てが実在しているように見える。
   見る、触る、味見をする、聞く、嗅ぐ、
   全てのことが実在しているかのように見える。
   しかし、現実にはそうではない。
   それらは全て観念だ。

   あなたが目を覚ますと、これらの夢、これらの観念を取り除くことができる。

   唯一そのとき、全て観念にすぎなかったと言うことができる。
   幾世に渡ってこの目覚めの夢に密着し続けて、
   今この夢は実在していると信じる位になってしまった。
   しかし、眠りの状態にいるときは何もない。
   これを目覚めの状態でも経験することができる。
   目覚めの状態にいる間は眠り続け、
   他の人が眠っている間は目覚めていなさい。

   目覚めの状態にいるときは欲望に眠りなさい。
   他人が真我に眠っているとき、あなた自身の真我に目覚めていなさい。
   そうすると全てが観念だと分かる。
   そこに永遠なるあなたの本質を見つけることができる。
   それは、目覚めでも夢見でも眠りでもない。

   目覚めの状態のすべてが夢の状態と同じようにただの観念だ。
   あなたがこれを知ったなら、「私は全く新しい環境の中でものを見ている」と気づく。
   そして、誰がいつも目覚めていて誰が決して眠らないかを知ることになる。
 
   どのようにこれを見つけるか、ヒントをあげよう。
   他の全ての観念の基盤となる観念を見つけなさい、
   「私」を見つけなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

630鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/02(水) 23:41:00 ID:1d4drIFg0
言葉も観念の要素の一つなのじゃ。
それを無理に理解しようとか覚えようとかしなくてよいのじゃ。
言葉で伝えられるのは、ただ実践することだけなのじゃ。
その実践とはただひたすらに観念の基盤である観念の「私」を追求することだけなのじゃ。

631避難民のマジレスさん:2022/02/02(水) 23:47:23 ID:Y99OMAQw0
88.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part2-c ①
マインド、思考、精神的重荷

Q:私からこの重荷をとって下さって本当に有り難うございます。

 あなたの重荷をそばにおきなさい。余分な荷物は全て投げ捨てなさい。これを私は軍隊生活で学んだ。軍隊ではゆっくりと行動することはできない。さもないと死んでしまうからだ。
 そして重荷はあなたをスローダウンさせる。時々、馬鹿げたことにまじめすぎる人を見るとマハルシが言われたことを思い出す。

 汽車で旅をしているとき、
 荷物を頭の上に乗せたままでいるか、それとも足元に置くか?
 これが賢者と残りの宇宙との違いだ。
 賢者は荷物を背負わないが、
 ほとんど全ての人が荷物を背負って汽車に乗っている。

 過ぎ去ったことやまだやって来ないこと、友達やお金の事を考えて心配している事が荷物を背負っていることだ。これが平和に生きているか、苦しんでいるかの違いだ。それはあなたの荷物がどこにあるかに掛かっている。

 背負っている荷物が重いと感じたら、それを降ろしなさい。そして悟りに向かって歩いて行きなさい。何も背負わない事だ。これは何も考えないという意味だ。

 これについて話をしてあげよう。

 昔、非常に年若い弟子を持ったグルがいた。彼らは別の村に行く途中で小川を渡らなければならなかったが、雨のために水かさが首の深さまで増していた。荷物は頭の上に乗るぐらい小さかったので、二人とも川を渡ることが出来ると思った。

 しかし、川の側に娼婦が一人立っているのを見た。彼女は結婚式に参加するために着飾っていたので川を渡ることが出来ない。それで、この聖人(グル)が彼女に言った。
「私があなたを肩に担いで他の岸まで渡してあげよう。」
 彼女は喜んで同意した。岸に着いて彼女は彼女の道を、二人の出家者は彼らの道へと急いだ。
 さて、弟子は非常に混乱して困っていた。彼のグルは女性には触るなといつも言っていたのに、娼婦を肩に乗せるとは!
 1Km行った先で弟子は謙虚に尋ねた。
 「マスター、質問があります。私はあなたの取った行動に当惑しています。あなたは、私達は僧侶だから、出家者だから、どんな女性も見たり触ったりしないようにと教えていますが、あなたはあの女性に触れました。」
 「はい、はい。あの女性は川を渡りたかったから彼女を運んであげた。そして彼女を降ろして彼女は去って行った。今私達はそこから1Km歩いて来たのに、なぜあなたは今だに彼女を背負っているのかね? 私は彼女を10m背負った。しかしあなたは彼女を1Kmも背負って来た。なぜまだ彼女を憶えているのかね。それはもう終わったことだ。」

 このようにあなたの前にやって来るものには状況に応じて対処し、後は忘れてしまうことだ。これが教訓だ。

 やって来るものを避けないこと。不必要なものは招き入れないこと。あなたの出来る限り状況に対処しなさい。そして忘れてしまいなさい!!
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

632鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/02(水) 23:56:04 ID:1d4drIFg0
 長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
 最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
 もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
 人のために説いた方がより大きな福を得る
 といったのじゃ。

 どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
 それが人のために説くということなのじゃ。
 というのじゃ。

 つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
 自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
 
 そして詩句を示すのじゃ。

 一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
 と、説いたのじゃ。
 つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
 
 今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
 直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
 それもまた金剛般若経の法なのじゃ。

 この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
 次は総評なのじゃ。

633鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/02(水) 23:58:55 ID:1d4drIFg0
間違えたのじゃ。

634鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/03(木) 23:34:19 ID:1d4drIFg0
過去の記憶が重荷になることじゃ。
その記憶に拠って未来を慮ることがもう一つの重荷なのじゃ。
そのように二つの重荷を背負ったままでは、苦しいばかりなのじゃ。
過去に囚われず、未来を測らず、今ここに居れば何の重荷も無いのじゃ。

635避難民のマジレスさん:2022/02/03(木) 23:58:50 ID:TM7eXz2s0
須菩提。
若有人以滿無量阿僧祇世界七寶持用布施。
若有善男子善女人發菩薩心者。
持於此經乃至四句偈等。受持讀誦爲人演説其福勝彼。
云何爲人演説。不取於相如如不動。何以故
一切有爲法 如夢幻泡影
如露亦如電 應作如是觀
佛説是經已。
長老須菩提及諸比丘比丘尼優婆塞優婆夷。一切世間天人阿修羅。
聞佛所説皆大歡喜。
信受奉行金剛般若波羅蜜經

須菩提よ、
若し人有りて無量阿僧祇世界に滿たすに七寶を布施に持用せんに、
若し善男子善女人にして菩薩心を發する者有りて、
此の經乃至四句偈等を持して、受持讀誦し人の爲に演説せば其の福は彼に勝る。
云何んが人の為に演説するや。相を取らざれば如如に不動なり。何以故に、
一切有爲法は 夢幻泡影の如く
如露亦如電なり 應に如是の觀を作すべし。

佛是の經を説き已れば、
長老須菩提及諸比丘比丘尼 優婆塞優婆夷・一切世間天人阿修羅、
佛の所説を聞きて皆大歡喜し
信受奉行しき。金剛般若波羅蜜經
(´・(ェ)・`)b
これでありますね。

636避難民のマジレスさん:2022/02/04(金) 00:00:12 ID:TM7eXz2s0
89.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part2-c ②
マインド、思考、精神的重荷

Q:学んだことを全て捨てるのですか?

 あなたのバッグに保持して来たものを全て捨てなさい。そしてバッグも捨てなさい。そうすると学ばなかったことがそれ自身でそれ自身に姿を現す。

 バッグで思い出したが、20年前に私を訪ねて来たあるサニャーシンがいた。

 彼は南部では非常に有名で17のアシュラムを持っていたが、明らかに彼は満足していなかった。彼は二台のバスで弟子達と一緒にバトリナートへ行く途中にハリドワールにやってきた。このスワミは80歳で私は60歳であった。私の友達から私のことを聞いて、私が彼の助けになるかも知れないと一人で私のホテルにやって来た。
 やって来るや否や彼は私達が話をする必要のないものについて宣言した。彼が言うには、
 「プンジャジ、私は私の全人生をヨーギとして過ごして来た。私の写真を新聞で見たかも知れないが、ヨーガのパワーを証明するために私は地下に生きたまま埋められ、食物、空気、水なしで40日間医者や科学者と実験した。私はただサマディーに入っていっただけで、何も大したことではない。だから私はヨーガを知っているのでこれについて話す必要はない。」
 彼は続けて、
 「また何十年間も私はヴェーダやウパニシャッド、マハーバラータ、ラーマヤーナ、ブラーフマスートラ、バクティスートラ、ヨーガスートラ、宗教の全ての本を勉強したので、これらのことについても話す必要はない。」
 更に、
 「タントラ、ヤントラ、マントラについても話す必要はない。そうプンジャジ、私はあなたの助けを求めてここにやって来た。これらの他に何か私に言う事はあるかね?」
 私は言った、
 「はい、あります、スワミジ。しかしまず最初に、あなたが今私の部屋に投げ込んだガラクタを、このガラクタのバッグをどうか外に持って行ってから部屋に入って来て下さい。そうしたら、私はあなたが言わなかったことについて話しましょう。」
 彼は私を見て、私が言ったことが理解できないようで、私は繰り返して言った、
 「スワミジ、私はあなたを助けたいが、それにはまずこのガラクタのバッグをドアの外に出してください。全てを外に置いてから戻って来て下さい。」
 彼はゆっくりドアに向かって歩いて行ったが、そのとき、衝撃を受けて振り返った。
 彼は私を見つめて、私は彼を見つめていた。そうして彼は部屋に入って来て私の足に触れようとした。
 「スワミジ、あなたはサニャーシンで、学者で、私より20歳も年上だ。私にはあなたからの崇拝を受ける権利はありません。」
 彼は返答した、
 「初めて私は、悟りとは何かが分かった。私の学んだ全ての本や理解を後にしなければならないと分かった。そのとき、私は光を見つけた、私の真我を見つけた。私は今迄多くの人をだまし続けて来たのだ。今、私は私の弟子達に真理を話すことが出来る。もう一度あなたに会うためにいつやってきたらよいかね?」
 「スワミジ、あなたはここに戻って来る必要はありません。」
 と私は断言した。後で聞いたことだがこの傲慢なスワミジは完全に変身して幸福で、どこかに長期の隠遁生活に入ったということだ。

 このように、あなたがもてなしてきた概念の全てを捨て去って自由でいなさい。これを今やりなさい、一瞬も延期しないこと。過去と未来の間に、あなたは誰か? 修業や瞑想は必要ない。
 「ここ」に光が!この瞬間に死が入って来ることができるかね?
 これがあなた自身の場所、あなた自身の住みか、「ここ」にいなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

637崇蓮:2022/02/04(金) 01:15:23 ID:VHpJSyVE0
鬼和尚さま、クマさん、いつもありがとうございます。

鬼和尚さま、質問です。
>>631

>> このようにあなたの前にやって来るものには状況に応じて対処し、後は忘れてしまうことだ。これが教訓だ。
>> やって来るものを避けないこと。不必要なものは招き入れないこと。あなたの出来る限り状況に対処しなさい。そして忘れてしまいなさい!!

とありますが、これは例え規則のようなものがあっても、慈悲によって判断し、対処し、そして忘れなさいという事ですか?

638鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/04(金) 22:53:57 ID:1d4drIFg0
>>635 そうじゃ、5ちゃんねるに書き込むレスだったのじゃ。

>>637 そのような理解で善いのじゃ。
 ただひたすらに慈悲によって行えば一時は非難されても、福楽はやってくるのじゃ。
 そしてそれにも囚われなければ、更に進むことが出来るのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

639鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/04(金) 22:56:50 ID:1d4drIFg0

 この世の知識はただ重荷になるばかりなのじゃ。
 修業のための知識でさえ、時には障害になったりするのじゃ。

 知識に囚われて自分を観ようとしないのでは、何も進歩しないのじゃ。
  要らない知識を捨ててこそ、自分の本性を見ることもできるのじゃ。

640避難民のマジレスさん:2022/02/04(金) 23:40:55 ID:/WWl.e3k0
90.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part3 ①

執着と過去①

 平和でない唯一の理由は、
 真我以外の何かに関わっているからだ。
 あなた「自身」よりも他の何かに執着しているからだ。

 真我以外の美しさは肉体が着ている美しいドレスのようなものだ。
 これらのものに執着することは死体と一緒に墓場で生活しているようなものだ。
 マインドと交際して生活することは墓場にいるようなものだ。
 しかし、あなたが真我探求するとき、あなたは「自由」だ。
 この「自由」への疑いは束縛にしがみついていることだ。

 全ての人が仏陀だ。あなたは仏陀のように執着を断たなければならない!!
 あなたは放棄しなければならない。
 さもないと、この執着のためにサンサーラの中で、
 あなた自身罠に掛かったまま死んで行く。
 執着は悪魔だ。執着が問題だ。
 私達の執着が私達の現実になるのだから。
 唯一サットサンガの中でこれを取り除くことができる。

Q:今ここで、何が真実か経験するのを助けて下さいますか?

 思考と執着の茂みに隠れているのを止めることだ。その代わりそれを燃やしてしまいなさい。全ての人がこの茂みに隠れることを好むものだ。

Q:私のパートナーの中に幸福を見つけ出そうとする習癖に没頭してきましたが、これはもううまく行きません。

 あなたに幸福を与える男は必要ない。そんな男はいないのだから。うんざりするに決まっている。今、あなた自身の真我を探し求めるときだ。なぜならマインドは過去の快楽に走るのをやめたからだ。

 マインドは幸福が欲しいが、今までの幸福の源泉はマインドを満足させることは出来なかったので、ついにそれは破壊される。パートナーとの破壊的な経験を十分したのなら、あなたの場合がそうだがマインドは落ちつくだろう。

  あなたがしてきたことは忘れてしまいなさい。
  それが消えてしまったら、「今、ここ」にある幸福を勝ち取りなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

641崇蓮:2022/02/05(土) 01:31:51 ID:VHpJSyVE0
>>638
鬼和尚さま、ご回答ありがとうございます。
実践します。

642鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/05(土) 23:31:46 ID:1d4drIFg0
>>641 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

643鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/05(土) 23:34:39 ID:1d4drIFg0

 思考や執着や他人は着物のように本来ないものなのじゃ。
 それらに囚われれば平和ではなくなるのじゃ。
 全てを放棄して悟りも訪れるのじゃ。
 今すぐに全てを放棄することが難しくても徐々に捨てるが善いのじゃ。
 いずれは老病死によって全ては、捨て去られてしまうものであるからのう。
 自ら放棄して、全てになるがよいのじゃ。

644避難民のマジレスさん:2022/02/05(土) 23:38:17 ID:KlxkoAZw0
91.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part3 ②
執着と過去②

Q:私はあなたの臨在の恩寵に非常に感謝しています。私の全ての質問は、ほとんどが質問することなしに解答されました。しかし、すべての執着を取り除きたいという切望がまだあります。

 唯一執着の全てを空にしたとき、あなたは美しい。マインドの中に何かの思考があるときは、過去の思考の墓場にいることだ。過去に執着している人は、マインドの醜さのためにその人自身も醜い。マインドが潔癖でないために過去の醜さに落ちてしまったのだ。

  あなたが瞬間、瞬間に生きるなら、これが「美と愛」と呼ばれるのだ。

 あなただけでなく全世界が外側への執着のために道に迷っている。それらの執着のなかでマインドに幸福と平和を与える執着があるのなら、それらを切り離す時機ではないのでその執着と一緒にいなさい。

 しかし、あなたに噛みついて来る蛇をそこに見たなら、それを拒絶する時機だ。既に経験したことを繰り返して経験するのは無駄なことだ。火傷をすると知っていたら、再び火傷をする必要はない。このように火傷を起こす火を避けるように執着を避けなさい。

 私は苦しみたくない。今生で幸福を勝ち取るのだという固い決心をしなさい。これが№1の決定だ。この決定を下したなら恩寵がやって来る。むやみに対象を追い求めて楽しまないことだ、それをやめなさい。これを「ここ」でやるときっとうまくいく。

  マインドをハートの外側へ行かせないことだ。

Q:マインドが静かなときでさえ、ハートは緊張しています。私のハートは引き付けを起こします。

 あなたが静かなときは喜びに満ちているべきだ。だから、ハートに「しこり」や引き付けを起こすならマインドは静かでないという意味だ。

 この「しこり」は現在の「しこり」ではない。古い、非常に古い「しこり」だ。それはあなたの潜在意識の中へ入ってしまった。この「しこり」は誰かがあなたを虐待したためだ。あなたをよく騙したためだ。(笑い)

 あなたはそれを忘れるべきだ。それを忘れてしまわなければならない。あなたを騙した人を思い出さないことだ。これが「しこり」を取り除く。思い出さないことで、この「しこり」を取り除きなさい。古いものは古い、過去は過去だ。

 もちろんその出来事を忘れるのは難しい。しかし、現在の一日一日の出来事に集中して過去に戻らないことだ。試しなさい。拳を握るとマインドが過去の出来事に戻らない。拳を握って、歯を食いしばって、この決断でそれをやり遂げるのだ。さもないとこの人生を生きる価値がない。

 この人生を楽しみなさい。自然は多くの美しいものを与えてくれた。私達はそれに心を開いていくべきだ。楽しむべきだ。いつも過去に戻っていく人は今ある人生の美しさを楽しむことはできない。

 あなたは、「今、ここ」にいる。私達はあなたを助けねばならない。助けの必要な人を助けることは私達全ての責任だ。もし誰かが幸福でないなら、その人が好もうと好まずとも、私達は力ずくでもその人に幸福を与えねばならない。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

645鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/06(日) 23:55:55 ID:1d4drIFg0

 静かにしていても過去の記憶が心の中を乱すのじゃ。
 よく観ればそれはただの記憶とわかるじゃろう。
 記憶に囚われていただけなのじゃ。
 記憶は過去のものなのじゃ。
 今ここに居れば記憶に囚われることもないのじゃ。

646避難民のマジレスさん:2022/02/07(月) 00:02:35 ID:nPrtmop.0
92.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part3③
執着と過去③

Q:かって私が隠れることができた多くの場所が崩れ去って行くのを悲しく思っています。しかしまた、私は隠れることを止めたいので、それが起こって幸せでもあります。だから時々幸福で、時々悲しいのです。

 時々これ、時々あれとはどういう意味かね? あなたが時々悲しいというのは、あなたの好きな人生の一つのパターンを持ちたいということだ。これはやめた方がよい、これはゲームだ。あなたに起こって来ることは起こらせなさい。何も起こらないなら何も起こらないままでよい。これが救いだ。

 誰かがあなたを愛してくれると幸福で、そうでないと幸福ではないと言うのなら、あなたはいつも苦しまねばならない。愛すべき誰がいるのか?
 人々は彼ら自身の興味の対象として人を愛するだけだ。人々があなたを愛するのは彼らの関心のためだけにすぎない。50年前にあなたを愛した人が同じように今から50年間あなたを愛するかね? これは時間の問題にすぎない。時間が正しいのなら、全ての人が友達であり続けるだろう。

 しかし、いつも同じように滞まるはずがない。あなたは同じでも時間と共に全ての人が変わっていく。時間を止めることはできないし、時間はこの世界の全てを食いつくしていく。時間は一番の敵で誰もそのことを知らないでそれを愛している。

Q:時々…

 ほら見てごらん。「時」という言葉を二度と使わないことだ。「時間」という言葉を全く、又は一秒でもよい、一瞬でもよいから使わないであなたは誰か体験しなさい。

 いつも幸せでいられる秘密は、時間と仲良くしないことだ。時間は全ての人を殺す。聖者、賢人の全てはすでに殺された。だから時間について話さない方がよい。眠っているときは時間について話さないのでどんなに幸せでいられることか? これを「今」実践しなさい。

 幸せでないときは、過去の人や概念に縛りついているということだ。過去は時間だ。過去に執着していると幸せではいられない。しかし、これが全ての人の習癖だ。関係性、世界の対象物の全ては過去に属する。肉体でさえ過去に属する。

 しかし、時間について話さないなら、あなたは永遠に若いままだ。誰も、恐怖や死でさえも、あなたに触れることはできない。これを今から実践しなさい;マインドを過去の人や物や概念に行かせないことだ。

 一瞬でよいからこれを試してごらん。そして「今」、あなたの真我を体験するのだ!「今」やりなさい、そして、あなたが幸せでないなら私に言ってごらん。マインドを過去の瞬間や、目や耳に漂流させないこと。そして私に話してごらん。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

647鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/07(月) 21:43:39 ID:1d4drIFg0

 逃避をしている者は、時々とか、いずれとか、昔はとかの時間に依存した言葉を好むものじゃ。
 それによって苦痛を回避しているのじゃ。
 しかしそれは実際には真の安楽を妨げているのじゃ。
 時間によって逃避していれば、いつまでも真の安楽は来ないからのう。
 今ここで自分を観ることができたならば、全ての苦を滅する悟りも訪れるのじゃ。

648避難民のマジレスさん:2022/02/07(月) 23:02:05 ID:MZ463Gx.0
93.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part3④
執着と過去④

Q:どうしたら過去に溺れこまないでいられますか?

 たった今、起こっている思考を見てごらん。思考の全ては過去に属する。過去に属さないものは何かね?

Q:ここにただ「いること」です。

 「いること」はこの瞬間だ。しかし、時間を越えたこの瞬間にふさわしい言葉はない。これらの言葉が指さしているところを見つけなさい。真我を知るためには、名前、対象物、人をマインドから取り除きなさい。どんな人についても考えないこと!何が見えるか言ってごらん?

Q:私のマインドの中にはいつも対象物があります。何が私を「自由」から遠ざけているのですか?

 過去の何かにしがみついているからだ。過去にしがみつかないなら、「いつも自由だ」と分かる。過去にしがみついていることが、「いつも自由である」と知ることを妨げているのだ。分かるかね? 同意するかね?

 一度でよいから、ラクナウで過去の概念や関係の全てから自由になるのだと決心してごらん。ほんの一秒でよいから。これにあなた自身を与えなさい。そうすると、「いつも自由であった」ということが分かる。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

649鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/08(火) 23:41:30 ID:1d4drIFg0
思考は記憶した観念の組み合わせで起こるものじゃ。
それは記憶に依存しているから、常に過去のものなのじゃ。
今ここで起こっていることを見れば、それは止まるのじゃ。
悟っていないものにはなかなか難しいことであるがのう。

650避難民のマジレスさん:2022/02/09(水) 00:34:04 ID:PDGdWL5.0
94.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part4①

恐れと死の恐怖①

  恐怖は死として出現する。

  「私は肉体だ」という考えが恐怖の源泉だ。
  この恐怖を取り除くために毎日瞑想しなさい。
  恐怖がやってきたら、それを愛しなさい。
  それが消えたら、それに執着しないことだ。

Q:私の人生で多くのことを変えましたが、まだ傲慢さと恐れが残っています。

 何を変えたのかね?

Q:モラルと振る舞いを変えました。ドラッグとお酒をやめました。私は自由でありたい。恐怖から自由でありたいのです。どうか、これらの全てを解放する道を示してください。

あなたには恐怖と傲慢さと誇りがあると言う。それを取り除く方法を教えてあげよう。

    恐怖、傲慢さ、誇りを見つめなさい。
    それを取り除きたいのなら、それを見つめなさい。
    誇りと傲慢さが問題を引き起こす。
    それから見返りを得られたためしはない、
    だから謙虚でありなさい。
    あなたがすることは、やり手の傲慢さで真我を隠してしまう。
    傲慢さはこの時間のない瞬間を無視する。
    傲慢さは「私は肉体」だ。
    傲慢さを取り除くと、悟りは自発的に起こるものだ。
    「私は何で何です」が最初の傲慢さ、
    そして、「これは私のもの」が二番目。
    これらを見てごらん!

 あなたが対象化しているものを見つめると、見つめることによって主体は対象とは異なったものだと確信できる。だから、恐怖、誇りを見てごらん。そうするとそれらは対象になって、あなたは主体になる。

 あるいは、「見られるもの」を見ている「見ている人」になる。今、やりなさい。何かが対象化されたとき、あなたは主体になる。あなたは「見ている人」で「見られるもの」ではない。それでは、一体誰が「見ている人」か見つけだしなさい。

 何かを感じるためには五感が必要だ、見るための目、嗅ぐための鼻と…。見るための目にとっては視覚の対象が必要だ。しかし、あなたは感覚の対象でも感覚でもない。あなたはこれらとは異なっている。

 単純にこれを理解しなさい。理解しようと努力しないことだ。単純に、対象の全てからあなた自身を引き離しなさい。識別してあなたが見ている全ての物はあなたではないと知らなければならない。一度これをやり遂げたら、あなたの人生の目的は満たされたことになる。あなたが本当に誰か知ることだ!!
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

651鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/09(水) 23:37:17 ID:1d4drIFg0

 傲慢や恐れも観察する事で消えるのじゃ。
 それは対象として観察されるから、自己同一化がなくなるからなのじゃ。
 観察する事で、観察する主体も消えるのじゃ。
 そのようにして無我になるのじゃ。

652避難民のマジレスさん:2022/02/09(水) 23:51:03 ID:PDGdWL5.0
95.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part4②
恐れと死の恐怖②

「ここ」の教えは非常に古いものだ。25000年前、それはベーダに書かれた教えだ。

    あなたは誰か、
    見つけだしなさい。
    他に何も必要ない。
    あなたは「これ」を見つけ出すことができる。

 しかし、人々はこの教えを見失ってしまった。彼らはこの教えには無関心で苦しんでいる。一度これをやり遂げたら、それを「一瞥」とは言えない。

 だから今やりなさい。一瞬でよい。これが「それ」を知るのにかかる全てだ。延期しないことだ。「私が年をとって引退したら瞑想しよう」と彼らは言う。しかし、次の瞬間を予想することはできない。

 だから、今やりなさい。「それ」は知恵、「それ」は光だから、「今」手に入れることができる。この光をいつも「今」ラクナウで見ることができる。延期しないことだ。
  
    光、知恵を見るためには努力をしないことだ、
    マインドに一つの思考もわき上がらせないことだ。
    そして、静かにしていなさい。
    これが私の言うトリックだ、

    それには一瞬必要なだけだ。

 多くの人がやり遂げた。あなたも「今」それをすることができる。延期しないこと、努力しないこと! 努力するとは「時間をかけて達成されるべき何かになる」という意味だ。

Q:私はやってみます。

「やってみます」ということは、未来に延期しているということだ。だから、やろうとしないこと、努力しないこと、どんな思考も起こさないこと。それをやり遂げようが、やり遂げまいが、気にしないこと。

 さて、次は何かね? あなたが言うべきことは何も残されていないはずだ。「私はただ存在する」と宣言する以外に何も残されていない。さあ、話しなさい。言ってごらん。
  
Q:「私は存在する」! それは本当です!!
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

653鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/10(木) 23:33:59 ID:1d4drIFg0

 ヴェーダの時代から既に自分を追求することが説かれていたのじゃ。
 自分とは何か、自分はどのようなものか、追求するのが古からの正しい道なのじゃ。
 それには今ここで追求するしかないのじゃ。
 時間を作ろうとすればそれは逃避になるからなのじゃ。
 明日やろうとか、後でやろうとか思うことが既に逃避なのじゃ。
 自分を追求して無くなるのが怖いから、いろろいな逃避をするのじゃ。
 実践は常に今ここでやるしかないのじゃ。

654避難民のマジレスさん:2022/02/10(木) 23:43:03 ID:mNHkAFtI0
96.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part4③
恐れと死の恐怖③

Q:私の人生で私を平和から遠ざけるものが多すぎます。私の多くの友人達も含めて。どうか助言して下さい。

 まず最初に、あなた自身の本当の友達を持つ喜びを感じなければならない。そうすると、あなたの顔つきは変わってあなたの友人も変わっていく。ここに二,三日滞在したらそれが起こる。今、あなたの顔と目には恐れが現れている。あなたは恐れを抱くには若すぎる。

 私が若いときはヒマラヤの森の中で虎や象に顔と顔をつきあわせたものだ。私は精神的にも肉体的にも大変な強さを持っていたので、それらを恐れることはなかった。それらが攻撃してきたら素手でそれらを殺すことができると確信していた。この位私には力があった。

 なぜ、恐れるのかね? あなたが言わなくても私があなたの子供時代に遡って見つけだそう。あなたの両親がこの恐怖をあなたに与えたのだ。クリケットの試合の後で私的に話そうか?それとも今もっと続けたいかね?

Q:今です!どのようにして恐怖をストップすることができるのですか?どのようにしてエゴから離れていられるのですか? 私には自分自身や他の人を虐待する傾向があります。

 恐れはマインドからやって来る。それをストップさせるためにはマインドがどこからやって来るのか見つけだすことだ。

Q:私のマインドは私の頭の中にあります。

 この頭はどこからやって来るのかね? 眠っているとき、頭が見えるかね?

Q:いいえ、見えません。

 だから、頭も又そこにはない。それではマインドはどこからやって来るのかね? マインドとは思考を意味し、思考とは「私」を意味しているのだ。「私」とマインドの間には何の違いもない。「私」が起こって来るとき、マインドが起こって来る。

 だから「私」がどこから起こって来るか見つけ出しなさい。あなたが生まれたときからあなたは「私」という言葉を使っている。執着している私、他人を虐待する私、自分を虐待する私、どれがこの「私」なのか? 
 
 この全ては、あなたが「私」の源泉を見つけると即座に止まる。今これをやりなさい。

Q:「私」がありません。

 考えているのかね?

Q:いいえ!

 あなたはどのようにして思考をとめるのかと尋ねた。これが「どのようにして」だ、これが方法だ!!考えるのを止めると、恐怖はないし、誰が虐待することができるのかね? 
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

655鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/11(金) 23:22:31 ID:1d4drIFg0

 恐れという感情も自己の観念から起こるものじゃ。
 自分がなければ恐れも無いのじゃ。
 それが縁起なのじゃ。
 自己観念から全ての苦と不安と恐れが起こる事も観察して滅することができるのじゃ。

656避難民のマジレスさん:2022/02/11(金) 23:48:42 ID:bGeLikBA0
97.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part4④
恐れと死の恐怖④

 あなたが質問をしたことは良いことだ。全ての人が疑いを取り除かねばならない。内気で恥ずかしがらないことだ。尋ねることなしにどうして悟ることができるかね。あなたはここにいるのだから、疑いをここで取り除いてしまいなさい。

Q:恐れと不安は内なる意識のレベルと外の意識のレベルの両方にあるのですか?

 恐れと不安は唯一外なる意識のレベルにある。内なる意識のレベルには恐れは存在しないからだ。内なる純粋意識を見ると全く恐れはない。恐れを見つめなさい。

 あなたがそれに気づいていると、それは消え去る。あなたは恐れの目撃者だからだ。どこでこの恐怖を経験したのかね? 現在ではなく、過去から恐れを背負ってきたのだ。この恐れは子供時代から起こってくる!!

 あなたが恐れを捨て去るのを誰も助けることはできない。あなた自身でそれをやらねばならない。マインドを騒がせ続けている恐れの原因に行くことだ。何が原因でそれにどのように対処したらよいのか見つけ出しなさい。

Q:世界に対する、特に他の人達に対する恐れが募ってきています。

 それは、何かを隠しているという意味だ。さもないと恐れはない。

 泥棒が森に行くとき、後から来る人を彼を追いかけてきた警官ではないかと疑う。なぜなら、彼は隠すべき何かを持っているからだ。彼はいつも警官のことを考えている。

 だから、あなたが隠している何かがあるはずだ。それで人々や世界を恐れているのだ。

Q:私は怒りを隠しているようです。

 怒りと恐れは一緒に存在する。両方とも泥棒だ。どんな犯罪を犯したのかね? あなたが他の人に怒りを感じたとき、他の人にどんなことをしたのかね? 

 あなたの怒りは誰かを消すことだ。怒りと恐れは強暴な人間の敵だ。おそらくあなたは子供時代の何かを隠している。しかし、それを知らないのだ。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

657鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/12(土) 23:42:08 ID:1d4drIFg0

 恐れがあれば怒りもあるじゃろう。
 怒りとは恐れるものに対する防衛反応であるからのう。
 恐れがあるのに怒りを制御するのは無理なのじゃ。
 恐れから怒りが起こることを完全に観察できれば消えるのじゃ。

658避難民のマジレスさん:2022/02/13(日) 00:41:04 ID:mXeybTbA0
98.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part5①

怒りと不満①

  怒り、貪欲、執着、嫌悪はマインドの病気だ、
  それらは瞑想を、あなたは誰か知ることを、不可能にする。
  怒りが起こって来るのは、唯一、二があるとき、そしてこの二元性がエゴだ。
  怒り、貪欲、偽善、肉欲、嫉妬、これらは全て戦場での強大な敵軍だ。
  
  しかし、エゴを征服しなさい。
  そうするとこれらの全てを征服することになる。
  怒りや貪欲や肉欲に巻き込まれないことだ。
  これらはエゴで、あなた自身、これらに巻き込まれないことだ。
  貪欲に興味があるなら、自由に対して貪欲になりなさい。
  怒るなら、神に怒りなさい。
  そして肉欲が消えないときは、あなたのハートとの一体を望みなさい。

  マインドの川の流れをダムに蓄えることで阻止しなさい。
  そして、疎水として流しなさい。
  さもないと、怒りと貪欲の洪水でダムが壊れるだろう。
  疎水は正しい方向に流されなければならない。
  そうすると、怒りや貪欲や悲しみは害なく流されるだろう。
  それらをやってこさせなさい。やってきたら、忘れてしまいなさい。
  あなたの真我のみ憶えていなさい。
  このようにしてあなたは全ての状況に直面することができる。

   *くま注・疎水;運送・給水・灌漑・発電などの目的で、土地を切り開いて作った水路。

Q:こんな個人的な質問をして申し訳ありませんが、最近、とても怒りっぽくなって困っています。どうしたらよいでしょうか?

 怒りは呪いだ。それは、神経の全てのシステムを燃やして、あなたを呼吸困難に落としいれてあなたの寿命を短くする。怒りを表現して怒りの原因であるものに口づけしなさい。

 怒ることは問題ではない。怒りの原因になった状況を思い出さないことだ。怒りや愛欲を背負わないことだ。全て忘れてしまいなさい。

 個人的な質問をするのを気にしないことだ。私は私の子供達の面倒を見て、あなた方が幸福であることをこの目で確かめばならないのだから。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

659鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/13(日) 20:18:23 ID:1d4drIFg0

 お釈迦様も貪欲、怒り、無知を煩悩として教えられたのじゃ。
 それらがあれば悟りへの道の障害になるからなのじゃ。
 煩悩により自我を補強していれば悟りの道も閉ざされてしまうのじゃ。
 煩悩に囚われずに進めば悟りもやってくるのじゃ。

660避難民のマジレスさん:2022/02/13(日) 21:09:33 ID:7OPJ2ZDQ0
99.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part5②
怒りと不満②

Q:過去のある人々について考えるとき、特に私の父ですが、なぜこんなに怒りが湧いて来るのでしょうか? これらの過去の思考は監獄の壁のようです。

 これらの思考はあなたではない。それらはあなたの子供時代に他人から受けた理不尽な行為から作りだされたものだ。それらがあなたから離れない。しかし、幸運にもあなたはここにいるのだから、それらはゆっくりと消えてゆく。他の人達はこのことで自殺まで引き起こすがあなたは自由になることができる。

 ただ座って耳を傾けて聞いていなさい。過去の思考は克服されて破壊される。そして、新しい道があなたのハートに根付いていく。努力してそれを壊そうとしないこと、努力すると何も起こらない。

 ただ静かにして努力をしないことだ。これは難しいかもしれないが可能なことだ。「活動」はあなたを離れて、あなたは静かになるだろう。

  静寂が「活動」という観念を取り除く。
  「活動」はかって誰にも平和と愛に満ちた状態を与えたためしがない。

 あなたが苦しんでいるときは「苦しみは私のものではない」と拒絶しなさい、「私は愛、平和、真我が欲しい」とマインドをこの道に向けなさい。

Q:この道に反対する力が働いているように思えます。

 これらに反対する力が現実にはあなたの助けになっているということが分かるだろう。反対する力はあなたを強くさせ、あなた自身のためになる。それらはあなたの敵ではない。

 それよりもあなたにとって破壊的なことは対象に対する欲望だ。すぐに静寂と活動の間には何の違いもないと分かる。あなたは成功するのだと理解しなさい。他に質問や疑いがあるかね?
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

661鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/14(月) 21:52:48 ID:1d4drIFg0

 過去の苦しい記憶に囚われていれば、今も思い出して苦になったりするのじゃ。
 それが幾ら起こっても自分ではなく、自分のものでもないと気付けば苦にならないのじゃ。
 自己同一化がなくなるからなのじゃ。
 過去の苦痛もただの記憶であることがわかれば囚われもなくなるのじゃ。

662避難民のマジレスさん:2022/02/14(月) 21:56:52 ID:HbYTaiSg0
100.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part5③
怒りと不満③

Q:私はこの貴重なサットサンガも含めて多くのものを与えられて来ましたが、私の人生に満足したことがありません。心を開いて幸福になり喜びを感じることができないのです。

 あなたの不幸の原因は楽しむための何かを欲しているからだ。あなたが欲しいものは過去からのものだ。それがあなたに満足を与えることはない。しかし、過去のものは何であろうとも誰にも幸福を与えることはできないと理解しなければならない。

 幸福と平和は「今、ここ」にある。休息、平和、幸福を即座に与えてくれる何かを探しなさい。しかし、そのために努力をする必要はない。

 さて、この不満はあなたを騙した誰かからやって来るのではないのかね? 全ての人があなたを騙そうとするだろうし、現に騙している。この観念をあなたのマインドから取り除きなさい。

 そして、満足したかどうか言ってごらん。人物や対象物や考えにほんの一秒間執着しないとき、どのように感じるかね、言ってごらん。

Q:まだ人に執着していると感じます。

 ああ、しかし、私は一秒間それをしないようにと言ったのだ。あなたはたぶん30歳位だろう。長い間自己不満に悩まされて来た。しかし私は何にも執着しない、フィンガースナップのあなたの時間をほしいだけだ。その後で又執着すれば良いのだ。

 しかし、これを今なぜ実践しないのかね? この一秒をあなた「自身」に与えなさい。それをやったことがないので、この不満の中で死んでいくのだ。しかし、私が言っていることを実践するなら死はあなたに触れることはできない。

 あなたのすべての苦痛は異性との肉体関係から起こって来る。しかし、あなたが60歳になるとどんな姿をしているだろうか? まだ人を魅惑させることができるだろうか? 考えてごらん。

Q:私はそれを考えたくありません。

 それなら、今日美しい少女の姿をして、次の日には年老いて疲れた女を映す鏡を見るのをやめなさい。そのかわりに、私が言っている鏡を見なさい。

 全ての人が自分の利益のために他の人が欲しい。これが世界の通例だ。しかし、あなたの功徳によってサットサンガにやって来る機会を勝ち得たのだからこれを変えることができる。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

663鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/16(水) 00:06:40 ID:1d4drIFg0

 執着や欲望があるかぎり誰も満足することは無いのじゃ。
 それらもまた過去の記憶から起こる観念によってあるものじゃ。
 ただ一瞬でもそれらを忘れることが出来るならば、そこには満足があるじゃろう。
 本当は必要も無いものごとを求めていたと気づくのじゃ。

664避難民のマジレスさん:2022/02/16(水) 00:12:39 ID:uts93Xgw0
101.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part5④
怒りと不満④

 さてこの瞬間、満足しているか? していないのか?

Q:満足しています!!

 今この瞬間に満足している、そして今この瞬間に好きなように走り回ることができる。執着しているものと一緒にいることができる。しかし、この瞬間を決して忘れないことだ。

 あなたが執着しているその人と一緒に座ってこのことを言ってあげなさい。彼が新しくなったあなたについて何と言うか見てごらん。ただ彼の目を見つめるだけでよい。それが全てだ。

Q:私はいつも大変な怒りと多くの問題を抱えていましたが、今私はそれらが何であったか思い出すのに苦労しています。

 おお、あなたはすばらしい!!これは非常に良い経験で、私はそれに感謝したい。

Q:忘れっぽさ、怒り、眠りの中にいようとも、自分は抱擁されているという気づきがあります。

 どんな状態にいようとも、それが怒りであろうと、傲慢さであろうとも、それを気にしないときはこれらの状態を越えている。これらの状態はあなたの前にやって来る。

 しかし、あなたはすでに他の何かすばらしいものを見つけたので、何にも影響されないだろう。これらの状態について考えている暇もない。怒りやこれらの障害を乗り越えたことは非常に良いことだ。

 怒りは体温を上昇させ、食べることや平和に満ちて眠ることも許さない。ある人々は、怒りのために全人生を混乱させてしまう。怒りは平和の恐ろしい敵だ。

Q:あなたと一緒にいることが、怒りの全てを取り除いてくれました。そして大変な平和を与えてくれました。

 グルの一瞥は慈悲で、真に自由になりたい人々の暗闇を取り除く。グルの近くにいると、時間も修行も必要ない。即座に、光はここにある。スイッチに触れたら光がつくように。必要なのは正直でまじめな献身だけだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

665鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/16(水) 23:41:27 ID:1d4drIFg0

 気づきは一瞬で起こるものじゃ。
 それが一度出来ればもはや恐れも執着も無い心境を維持できるのじゃ。
 それらの観念は習慣によるものであるからのう。
 一瞬の気づきで全て消すことも出来るのじゃ。

666避難民のマジレスさん:2022/02/16(水) 23:49:32 ID:708JbwFE0
102.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第10章 空家の盗人 ☆ Part5⑤
怒りと不満⑤

Q:期待について話していただけますか?

 幸福であるためには何も期待すべきでない。真理実現への期待を持たないことだ。単に真理でありなさい。眠りの中ではあなたは独りで誰からも何も期待しない、そして幸福だ。期待がないと幸福だ。結果を期待しないで仕事をしなさい。

 結果はあなたの手中にはない。誰かが結果を決めるのだ。あなたのカルマはあなたの能力が必要とされる行動を成し遂げるだけで、結果を期待してはいけない。これがあなたを幸福にする。誰も期待を満たすことはできない。

Q:私は心の平安を強く望んでいます。つい最近、あなたの家で瞑想していたら誰かが立ち去るように言いました。このことが私を非常に騒がせました。

 瞑想していて、そのすぐ後で心が騒がせられるというならその瞑想はいったい何なのか?

Q:わかりません。

 それならいったい誰が分かるというのか、あなた自身見つけ出しなさい。

 ある王がスーフィーの聖者に会いに行った。膨大なお菓子や食べ物や着物を捧げ物として像に担がせて、王女や大臣たちも馬に乗って従った。この行列は森の中に住んでいる聖者の藁小屋に到着した。王は聖者の付き人に国の王が聖者に敬意を表するためにやって来たと伝えるように言った。

 聖者は王に贈り物の荷を降ろして木陰で休んで待つているようにと伝えた。王は後で呼ばれると伝えられた。王は王女と大臣を国の歳時を司るために送り返した。

 王は一晩木の下で過ごした。朝になって、王は聖者に会えるかどうか尋ねた。後で呼ばれるので待っていなさいと言われた。こうして三日が過ぎた。捧げ物は腐ってくるし雨も降ってきた。再び王は聖者に会うのを待っていると告げて欲しいと頼んだ。答えは後で呼ばれるので待ちなさい。そして一週間が過ぎ、十五日が過ぎた。

 ついに聖者はあと一時間待つようにと王に告げた。一時間後王は聖者に会えるかと尋ねたら、後五分、後一分、王はもう待つことができずに小屋のなかに駆け入り聖者の御足にひれ伏した。聖者は王に以前でなく今なぜ許可もなく小屋に入って来たのかと尋ねた。

 そして聖者は言った、

 「あなたのエゴが消えるまで二十九日かかった。王としてのエゴが王として迎えられることを期待していた。しかしそれは起こらなかった。あなたにはエゴがあったが、今エゴなしで入って来て私の足にひれ付した。あなたを拒絶するものは誰もいない。ここに到着してすぐに小屋に入ってこれたのに。」

 このようにエゴを落とすために王は一ヶ月滞在した。あなたはラクナウに何ヶ月も滞在しているがあなたのエゴはまだ落ちない。誰かに去るように告げられて混乱するようでは瞑想する意味がない。

第10章 空家の盗人 終了
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

667鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/18(金) 00:08:41 ID:1d4drIFg0

 瞑想に専念していれば動揺しなくなるじゃろう。
 我を忘れる境地に至ればそれも可能なのじゃ。
 自分を捨てるまでに集中することが肝要なのじゃ。
 それが出来れば悟りもやってくるのじゃ。

668避難民のマジレスさん:2022/02/18(金) 00:16:50 ID:tcpjqIPM0
103.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-a①

存在は修行では達成できない

    達成すべき存在はない
    あなたは「それ」だ。
    どこにいようともあなたのあるがままでいなさい。
    「ここ」に居て、考える必要はない、マインドを使う必要はない。

    これが平和で、これが美しさだ。

    平和を探すというのは冗談にすぎない、
    実に平和から逃れることができないのだから。
    探求や修行は単なる無知からやって来るのだ。
    唯一愚かさが修行を要求するのだ。
    河が海にたどり着くために何の努力も訓練もしない。
    考えることを、努力をすることを止めたらそこに到達するのだ。
    思考や修行によってあなた自身を複雑にしないことだ。
    無修行でさえ練習しないことだ。
    ただ、静かにしていなさい。

探求、修行、過程という罠

    マインドの沈静、幸福の為にあなたはあらゆる事をする。
    しかし、あなたの「すること」は全てマインドを掻き乱す。
    なぜなら「すること」がマインドで、それは罠だ。
    それによって*1サマディがやってこようと、至福がやってこようと、
    何であろうと、それは罠だ。
    どんな試みもやり手の傲慢さでダイヤモンドを隠してしまう。
    35億年もこれをやり続けてきたのだから、今は単に静かにしていなさい。
    努力をしているときには真我を見ることはできない。
    努力の結果で自由になることもない。
    それはいつも「今、ここ」にすでにあるのだから。
    一時的なものを探し求める為に至福を見逃すのだ。
    しかし、真理は見ることはできない。
    真理は見ている人そのものだからだ!
    探求をするならそれを通じてこの事実を見つけなさい。
    そうすると「あること」が至福だと分かる。

    蚊があらゆる方向から飛んできて注意をかき乱すように、
    試みや探求が、「今」真我を知ることから引き離す。
    努力しないこと、「すること」はマインドだ。
    マインドを清掃するブラシはマインドなのだ!

    最初に「探求者」を創造する。
    これは苦しんでいる個人という概念を強化することだ!
    「私は自由から遠く離れている、真我は今ここにあるのではない、どこか他にあるのだ。」

    第二に「探求」。「探求」することが心を惑わすのだ。
    それが延期することと、限りない無用な苦しみを引き起こすのだ。
    「探求」が宗教と伝統を固守する道を促進する。
    それは、あなたを幻想の中により深く引き込むのを助けるだけだ。
    真理は唯一、「今、ここ」にあるのだ。
    しかし、「探求」は明日に見つけることができるといっているのだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

669鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/18(金) 23:58:40 ID:1d4drIFg0

 修業によってできるのは気づきを起こり易くすることだけなのじゃ。
 気づくことができるのは全てを捨ててただ見ることだけに集中したときだけなのじゃ。
 自分が修業しているとか、修業する自分があればそれは起きないのじゃ。
 一切の観念を放棄して行うことも忘れれば悟りもやってくるのじゃ。

670避難民のマジレスさん:2022/02/19(土) 00:17:38 ID:7j3fwj3I0
104.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-a②

    第三は、「探求」は見つけるべき対象を創り出す。
    これが目に見えない最も人を誤らせる罠だ。「探求」し始めると、
    「探求」しているものは何かと概念化する。
    幻想の本質からして、考えると全てがそれになるのだから、
    到着すべき目標を考えるとその考えた目標に到着する。
    これについては疑う余地はない。
    あなたが考えるようにそれはなるのだ。
    あなたが探しているものはこれだと考えているものを手に入れるのだ。
    獲得しようと念願する天国や至高の精神的状態も、
    概念化してそれを創造したなら、それを獲得することができる。
    そうして天国を獲得したと考えながら、この罠に満足して休息する。
    これがあなたの為に、特別注文された空に描かれたパイだ。
    究極とは何かをあなた自身の思考と条件づけから創り出したのだ。
    真理とは思考、概念、条件づけを越えたもの。
    この真理が「あなた」であるところのものだ。そしてこの真理が
    存在する唯一のものだ。
    だから、「探求」をやめて、ただ静かにしていなさい。
    確実に思考を起こさないこと、努力をしないこと、
    そうすると真理がそれ自体で、それ自体に姿を現す。

    修行には、主体―対象という関係性を強化するエゴが必要だ。
    修行は肉体ーマインドー感覚を通じて行われるために「私」と肉体ーマインドとの同一化が
強化される。

    全ての自己同一化は誤りの同一化だ。
    あなたが考えるものにあなたはなるのだから、

    名前と形を考えていることは、
    エゴーマインドー世界ー感覚ー幻想を考えていることだ。
    考えなければならないのなら、存在ー意識ー至福を考えなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

671鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/19(土) 23:59:19 ID:1d4drIFg0

 探求する実践が障害になるということはクリシュナムルティも言っていたのじゃ。
 探求する自分が強化されてしまうからのう。
 自分が消える恐れも起こるのじゃ。
 そして自分が好む幻想を作り出してしまうのじゃ。
 それが多くの修行者がはまってしまう罠になるのじゃ。
 煩悩となる障害を消すには探求も必要なのじゃ。
 煩悩が消えたならば最後にはただひたすら無為に座る以外に無いのじゃ。

672避難民のマジレスさん:2022/02/20(日) 00:20:34 ID:cWFmG.vo0
105.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-a③

 一番良いのは、単に「私はブラフマンだ。」と知ることだ。
    真の修行は今、ただ、存在そのもので「ある」ことだ。
    何かを成就する為に、次の瞬間や次の思考や次の生を待っているのではない。
    真の修行は、顔を真我に直面させることによって起こる至福だ。
    真の修行は存在することだ。

    与えられた修行は特別な何かになる為にエゴが要求され、エゴが強化される。
    存在を練習することはできない、
    あなたが「それ」なのだから。
    誇りを捨てて、単に真我でありなさい。
    「エゴ」の根元を断ち切らねばならないが、
    エゴの為に、エゴによって行われる修行によってではない。
    エゴー誇りをあなた自身の静寂ー平和ー真我ー存在に差し出しなさい。
    真我探求によってエゴーマインドの源泉に行くことによって、それが可能だ。
    マインドは動きでこれは波だ。真我は静寂でこれは海だ。
    あなた自身を知る為には、動きを止めなければならない、
    一瞬静かにすることだ。

    「私は肉体だ」という概念は時間の概念だ。
    全ての源泉に直面することで、時間の概念を後にしなさい。
    全ての概念は境界線だ。
    一つの概念を受け入れることは境界線を引くことだ。

    もう一つの罠は、「私は無だ」と考えることだ。
    それはエゴだ。
    無の観念が起こって来るのは、
    エゴーマインドの不在、有在に関係しているからだ。
    だから、この無には至福がない。
    唯一、無が存在する為には「私」がなくならなければならない。
    全てが無であるとき、それに向かっていく過程がどうして存在するのか?
    壁を取り除こうとする試みは、壁を強固にするだけだ。
    だから、努力、方法、実践、過程はマインドがあなたを騙しているのだ。
    「何もしない」ということを実践することでもないのだから、
    マインドをきれいにしようとなぜ時間を無駄にするのか?
    マインドは欲望にすぎない、そしてあなたは唯一真理にすぎない。
    あなたの帰るべき家は、「今、ここ」にある。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

673鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/20(日) 21:44:48 ID:1d4drIFg0

 自分が肉体であると思うことと、自分は無であると思うことは同じように障害であるというのじゃ。
 無という観念に囚われてしまうからなのじゃ。
 それでは観念を越える事は出来ないのじゃ。
 無によって観念を破壊したら、無という観念をも放棄しなければならないのじゃ。
 全てを捨てて進むしかないのじゃ。

674避難民のマジレスさん:2022/02/20(日) 23:48:16 ID:X/18ZYfc0
106.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆☆Part1-b①

探求、修行、過程という罠(1)

 Q:あなたは、悟りは今ここにとおっしゃいますが、私は過去に夢から覚めようと一生懸命に努力しましたが、失敗に終わりました。

 あなたの失敗の原因はこれだ。あなたの努力! 悟りを見つけるには、一秒でさえも努力する必要はない。試みること、努力することは延期することだ。それは時間でこの時間がマインドでマインドはエゴだ。それがここラクナウで我々が理解していることだ。

 今ここで、何も望まないで、何もしようとしないで、あなたは誰か言ってごらん。もし見つけようと努力しないなら、失敗することはない。何もしないで、今すぐにそれを手に入れないのかね? 努力しないこと、考えることすらしないこと。そうすると、あなたは誰か分かるだろう。

Q:悟りの道では努力は重要ですか?(彼はパパジに蓮の花を手渡す)

 湖の蓮の花が開くのにどんな努力が必要かね? 蓮の花は湖に育つが、湖に触れることはない。足が湖に触れているだけで、頭は触れていない。このように足で努力し、頭では努力しないことだ。そうすると、あなたはあなたが住んでいる世界と何の関係も接点もないことが分かるだろう。

 このサンサーラは湖だ。蓮の花のように生きたいのなら、世界と何の関係もないように生きなさい。ほとんどの人が湖の底に溺れてしまって、蓮の花と呼ぶことはできない。

 これは関係性に完全に巻き込まれていながら、しかも全ての関係性から自由に生きたいという少数の人々に対する特別の方法だ。これは秘密だ。もし、あなたが覚めていて、それが必要なら、それを手に入れることができる。さもないとそれは不可能だ。

 平和の為に努力するようにと私は助言しない、それは努力の結果から得られるものではないからだ。最良の道は静かにして、努力しないことだ。

どこかに行く為には努力が必要だ、しかし、あなた自身の真我に行くのに努力は必要ない。努力をしたいというのは、事を未来に延期していることだ。あなた自身の真我に到達する為に未来に進んで行くということだ。

 しかし、あなたは何が欲しいのか? それは、あなたからどれ位離れてあるのか? ただ、理解するだけでよい。そしてそれに到達するのにどのような過程を踏むのか、選ぶことだ。

 「それ」は内側の内側、あなたの呼吸よりも近くにある。一度理解したら、努力は独りでに落ちて行く。最愛の人がどこにいるのか知らないのなら、彼に到達する為に努力しなければならない。彼はあなたの網膜の後ろにいるとき、どのようにして彼を探し出すのか? 

 それは不可能だ。目は対象を見ることができるが、目そのものを見ることはできないからだ。内なる「それ」は非常に近くにあり、密接にあり、ハートの内に隠れている。努力を捨てれば、「それ」は「それ自身」で姿を現す。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

675鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/21(月) 21:52:36 ID:1d4drIFg0

 修業によって出来ることは悟りへの障害となる恐れや執着や観念を取り除くことだけなのじゃ。
 それらがなくなったら、全ての法を捨てなければならんのじゃ。
 自分自身をも捨てるのじゃ。
 全てを捨てて無為に座れば悟りはやってくるのじゃ。

676避難民のマジレスさん:2022/02/21(月) 22:22:59 ID:6r5f/eBU0
107.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆☆Part1-b②

Q:長い間探求し続けてきましたので、やっとあなたの処にやってこれて、本当に嬉しく思っています。私は27年間、ヴィッパサナをやり、ハタヨーガを22年間やりました。私は簡単にサマディーにはいることができます。40カ国の300箇所以上の聖地に巡礼しました。ある程度の平和を見つけましたが、まだ充分ではなくあなたの助けを求めてやって来ました。

 多くの修行をし巡礼もし続けて、サマディーと平和も見つけた。しかし、聖地巡礼や修行は決してあなたを満足させることはない。今あなたは消耗してここにやってきた。

 ここでは、どんな修行もどんな教授も与えない。あなたはいまだかってあなた自身の真我に入っていく最高の道を訪ねたことがない。「私」は誰かと質問したことがない。

 修行をしてきた「私」、聖地を巡礼し続けた「私」について尋ねたことがない。あなたはこの「私」がどこからやって来るのか見つけ出す為にここにやって来たのだ。

 これについては、どの教師もあなたに教えなかった。今、確かな答を出してもらいたい、どこから「私」が起こって来るのかね?

Q:(沈黙)

 答えることができないのかね?「私」の源泉を探しているとき、マインドはどこにあるのかね? 修行や巡礼をしてきた「私」の源泉を探しているこの短い時間にマインドは働いているかね? マインドはどこにあるのかね?

 これも又、分からない。それならたぶん、マインドはないと結論を下すことができる。もしそこにあったなら、それを見たに違いない。マインドー時間ー空間の間には何の違いもない。

 あなたを空間と場所に連れていったのはマインドで、全ての修行をしたのも同じマインドで、サマディーに入っていったのもマインドだ。マインドはあなたを騙し続けてきたのだ。

 あなたは功徳をつんで来たに違いない。私はそれを認める。この功徳が、今報われるのだ。エゴがヒマラヤの頂上にある寺院を訪ねようと提案することによってあなたの邪魔をし続けて来た。

 現にそこに行く人々はエゴを大きくして帰って来る。エゴはそれらの寺院を訪ねたと言うことによって、行く前よりももっと大きくなる。彼らは寺院の「神」が何を与えてくれたのか何も言わない。

 それらの寺院から得た*1プラサードは平和でも幸福でもなく、菓子やココナッツや果物である。彼らはこれで幸福だ。彼らが戻ってきて、これらのプラサードを友人や家族の間で分かち合って幸福だ。

 世界中であなたに平和を与えてくれる場所は存在しないし、あなたに悟りを与えてくれる「神」も存在しない。あなたは数多くの寺院を訪ね続けて来たが、私が今あなたを連れて行こうとしているあなた自身のハートの洞窟にある寺院には訪れたことがない。

 「私」の源泉を見つけ出すことから始めたが、以前の「私」はそれを見つけ出すことができなかった、「私」は消えてしまった、マインドは消えた、空間も消えた、時間も又消えた。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

677鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/22(火) 23:12:23 ID:1d4drIFg0
どのような寺院に詣でても、どのような場所に行っても悟りは訪れないのじゃ。
悟りはそのような所にはないのじゃ。
悟りを得るには自分自身の心の奥にある自分という観念の起こる場所に行かなければならないのじゃ。
そこ以外には悟りのある所は無いのじゃ。

678避難民のマジレスさん:2022/02/22(火) 23:18:04 ID:n.Eu1NYk0
だ、場所や人やマインドや時間を考えることなしに、思考や努力なしに「ここ」に滞まって、もし何か見えるのならそれは何なのか言ってごらん。

Q:分かりません。

 ああ、あなたは分からない。「分からない」と言っているのは誰かね?「分からない」というのは知識そのものだ。分からない、何もない、無だと知ることができるこの「私」は何なのか? この「私」は何かね?

Q:分かりません。

 又、あなたは分からない。なぜ、分からないのか言ってあげよう。何かを知る為、又は何かを見る為には必ず「私」がそこにあり、マインドが必要だ。「私はハンカチを見ている」―観察者、見ている人がいるに違いない。

 あなたは対象を見ている人だ。さて、誰が見ている人かね? 見つけ出しなさい。対象を見ているとき、あなたは観察している。そして対象は観察されている。さて、誰が観察者か見つけ出しなさい。

Q:これは難しい。

 なぜ、難しいのかね? あなたは40カ国の300箇所の聖地を観察した。これは難しかったかね?おそらく肉体的な困難があったに違いない、

 これに関して、誰が疲れきったのかと尋ねることが出来る。肉体が疲れた、肉体の疲労を観察したのは誰かね? 見ている人を見る為に何をしなければならないかね?

 答えは見ている人を見ることはできない。なぜなら、そのとき二人の観察者が必要となる。しかし観察者は一人なのだから。観察者を見ることができないのなら、何をすべきかね? 

 答は簡単だ。観察者は見られたことがないし、誰にも触られたことがない。それではどうするのかね? 言ってあげよう、観察者は肉体であるはずがない、なぜなら肉体は見られるからだ。それはマインドであるはずがない、なぜならマインドは考えるが、あなたはマインドが考えるのを見ている人、知っている人だからだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

679避難民のマジレスさん:2022/02/22(火) 23:25:28 ID:n.Eu1NYk0
>>676
用語解説
*1プラサード 神、グルからの贈り物、授け物。
(´・(ェ)・`)b

680鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/24(木) 00:01:08 ID:1d4drIFg0

 観察されたものは対象であるから主体ではないのじゃ。
 肉体も思考や感情も観察できるから主体ではないのじゃ。
 自分という観念さえも観察できるから主体ではないのじゃ。
 自分が主体であるという謬見があるだけなのじゃ。
 観察によってそれがなくなれば悟りもやってくるのじゃ。

681避難民のマジレスさん:2022/02/24(木) 00:29:09 ID:XTrvKRRI0
>>678  補筆
108.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆☆Part1-b③

 さて、三度目(だ、)

109.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆☆Part1-b④

 今、あなたは拒否することなしに「私は観察者だ」ということを受入れなければならない。それをあなたはしていない。あなたは他の誰かを捜し求め続けてきたが、平和の中で忍耐強く静かに座り続けて来たあなた自身の真我を探したことがない。

 これには時間はかからない。とても近くに親密にいるのだから。これがあなたが見逃す理由だ。近すぎるのだ。目は指を見ることができるが、どうして目が目を見ることができるのかね?

Q:鏡の中で見ることができます。

 そうだ、鏡は目を映し出すが、鏡を取り除いたら、反映も取り除かれる。そのように反映そのものである「私」という鏡を取り除きなさい。他の反映を見る為には誰かが「私」の中に反映している。

 それを知る為には目の網膜の後ろに行かねばならない。

Q:どのようにして?

 見るためには網膜の後ろ、どこからかメッセージがやってくる。「私」は反映で網膜が観察者だ。もう一歩後ろに戻りなさい。そうするとあなたが見る全ては真我の中にあり、真我からやってくると分かる。私は真我だと知りなさい。私は真我だ。

 これを疑うことができるかね。

Q:疑いません。しかし、私には分かりません。

「しかし」は疑いだ。疑いと「しかし」の間には何の違いもない。疑うと地獄、7番目の地獄に行くのだ。

Q:私は川の岸にいて、川に飛び込んでいないという感じがします。

 あなたが行ってきた修行や瞑想は川の岸で行ってきたのだ。あなたはどこにも行かなかったし、どこにも隠遁しなかった。

 なぜ長い隠遁を続けるのかね、「今」に定住することが即座の隠遁だ。

 いつか何かを放棄するのではない。どこにいようともあなたは「ここ」にいるのだ。あなたがしなければならないことは「これは実在しない」という考えや「それは実在すると証明すべきだ」という考えを取り除くことだ。だから、どこにも移動しないし、何も放棄しないで、単に何が真実であるか見つけ出すことだ。確実でないものに執着しないことだ。

 教師達との出会いと聖地の訪問は川の岸辺で起こったことだ。サットグルの所に行くと彼はあなたを見つめて、あなたは静かになる。しかし他の教師がこれをやってもうまくいかない。なぜなら、教師達はこの方法ではお金をつくることができないからだ。

 最も近いメッカは内にある。それは「ここ」にある。その為に祈る必要はない。どこにも旅をする必要もない。単に静かにして、マインドが走っていないことを見ることだ。

 最初は、マインドが競争するなら、連れ戻しなさい。再び外に走り出す、再び連れ戻しなさい。ゆっくりとマインドはどのようにして静かにするのか学んでいく。さもなければマインドは叩かれるだけだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

682鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/24(木) 23:38:33 ID:1d4drIFg0
 
 目の裏側を見るようにと言うのじゃ。
 見ることの内側にあるものに気付かせるためなのじゃ。
 見る主体を探求する方法なのじゃ。
 誰が見ているのか、それを探求するべきなのじゃ。
 それを教えることこそが真のグルの役割なのじゃ。

683避難民のマジレスさん:2022/02/25(金) 00:03:10 ID:iMRXlkBM0
110.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆☆Part1-b⑤

 全ての方法は知的、心理的で実践的ではない。無方法が実践的だ。無方法の中で全てが起こる。この無方法の中では、何も切望しない。探求も手放しなさい。無方法は努力でも無努力でもない。それは、考えることでも考えないことでもない。

Q:努力がいらないということをただ信じることが出来ないのです。何かが起こる唯一の方法は、私がその中に私の方法で押し込むことによってだと私はいつも感じて来ました。

 一度押すことをやめたら、引っ張られる力を感じるだろう。この引っ張る力があなたを内に動かして行くのだ。全ての努力を捨てなさい。

 押し込むことでは何の効果も得られない。それはその中にあなたを引っ張り込んで底に沈みこませる渦のようなものだ。櫂を投げ捨て、マストを折って、ただ静かにしていなさい。

 後は、あなたの為に全てがなされる。

Q:もし私が何もしないのなら、これが起こると信頼することができません。

 「それ」はそれ自体で起こっている。あなたが「ここ」でやっていると考えているのかね? ただ静かにして、持っている全てのものを投げ捨てなさい。そうすると非常に楽な航海となる。あなたが船を操縦してきた為に多くの事故が起こった。

 櫂を捨て、川の流れと一緒に行きなさい。ハートが開くのに時間を与えなさい。もし、努力するなら、それは開かない。静かにしていなさい。マインドを内に向けて、ハートに話をさせて、あなたを案内させなさい。

 思考がないとき、ハートが開く。ハートを働かせなさい。努力をすることによって、それを妨げないことだ。

Q:私はこれを感じています。エネルギー・チャンスがやってきているのを感じています。しかし、それは波のように行ったり来たりするように感じます。何かがエネルギーをブロックしているようです。

 「やって来る」というのは開くことだ。「閉じること」は努力という形でそれに反抗していることだ。あなたは何億年もの間、努力し続けて苦しんできた。何が欲しいのか今決めることだ。努力と苦しみか、オープンハートと幸福か? それはあなたに掛かっている。

  ブロックはない。
  「今」があるだけだ。
  達成するべきものは何もないのだから、意図することは何もない
  ブロックを避ける為に何かをすることがブロックなのだ。
  沈黙はいつも存在し、いつも完璧で概念を越えている。

Q:私はそれを終わりにしたい。

 それなら「今」終わりにしなさい。誰があなたを引き留めているのかね? 全てはうまく行く、心配しないことだ。そして、挫けないことだ。それは起こっているのだから。

  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

684鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/25(金) 23:32:03 ID:1d4drIFg0

 何もしないという法を教えれば人はどのようにしてそれをやるのかと聞いてくるじゃろう。
 そのように何もしないと言う事は人には難しいことじゃ。
 本当はこの世で一番簡単なことである筈なのであるがのう。
 
 なぜならば人には不安や恐れや欲があるからなのじゃ。
 何もしないで居るとそれらが心の中に起こってしまうのじゃ。
 そして何かをしないではいられなくなるのじゃ。

 そうであるから実際に何もしない境地に至るには、不安や恐れや欲を滅する修行の実践が必要なのじゃ。

685避難民のマジレスさん:2022/02/25(金) 23:50:13 ID:PU8gVI2o0
111.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-c①
探求、修行、過程という罠(2)

Q:私は20年以上も精神修行をやってきましたが、新しい概念を追い続ける中で全てを見失ったように感じます。私はこの全てに飽き飽きしています。どうか私の本性を示して下さい。私は苦闘に疲れました。

 悟りに苦闘は必要ない。あなたの観念を持ち続けるには苦闘が必要だ。

 例えば、「神の息子」があなたに平和と幸福を与えてくれると考えているかも知れないが、これは起こらないだろう。この「神の息子」は過去からの概念だ。

 あなたが読んだ全てのこと、あなたが聞いた全てのことを忘れなさい。あなたの両親はキリスト教を信じていて、キリストによってあなたは救われると教えた。この古い人々のこの愚かな概念の全てから抜け出しなさい。勇敢でありなさい、そして、単に静かにしていなさい。

 そうすると全てが終わりだ。この静けさの中で平和を見つけなさい。何世紀にも渡って礼拝に参加することで平和を見つけることはなかった。私は修道院にいる多くの僧や教会にいる人々に出会ったが、彼らはいまだに2000年前の古い十字架にぶら下がっている。彼らにはマインドの平和はない。

 ここラクナウで内なる真我の中に平和を見つけなければならない。即座に「神の息子」の全ての概念を取り除くことだ。それをすることができる。ただ、それについて考えないことだ。

Q:考えることは重荷です。

 考えると全てがやって来る、考えないとあなたはあなたの「真我」と一緒にいる。

 今やりなさい、マインドの中に誰かに対する愛があるのかね? 誰が愛する人で、誰が愛される人か?
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

686鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/26(土) 23:44:59 ID:1d4drIFg0

 神という概念も悟りに至るには不要なのじゃ。
 それはただ親の観念に対する依存に過ぎないのであるからのう。
 それに依存している者には心の平和はないのじゃ。
 全ての観念を捨てて心の中の平和を感じるのじゃ。
 そこにこそ真の悟りが訪れるのじゃ。

687避難民のマジレスさん:2022/02/26(土) 23:53:40 ID:OqW8trc20
112.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-c②

Q:それでは真我を実現するのに精神的な修練は必要ないのですか?

 あなたが何かを見逃していると考えるなら、修練が必要だ。例えばあなたがエンジニアになりたいなら、修練して大学で7年間過ごさねばならない。そしてエンジニアの博士号を得るのだ。

 しかし、ここでは「それ」はすでに「ここ」にあるのだから、修練する必要はない。あなたが獲得したものはいずれ失くすだろう。しかし、すでに「ここ」にあるものは、ただ見るだけでよい。

 「私」は一体何か? 誰か? 見てごらん。何らかの方法を通してそれを見つけないことだ。マインドは何億年もの間騙し続けたのだから、マインドに決して耳を貸さないことだ。ただ、静かにしていなさい。そうすると、それはそれ自身でそれ自身に姿を現す。

 マインドは全く必要ない。マインドはあなたを騙すものだ。王や皇帝でさえもマインドに幸福ではない。マインドがないとき、唯一あなたは幸福だ。

 眠るとマインドは不在で、あなたは幸福だ。夢の中や目覚めの状態の中では全ての関係性が存在する為にあなたは幸福ではない。眠っているときは平和に満ちている。

 しかし「それ」は、それらの全ての状態を越えている。眠りを越えた所にいるのは誰か? 眠りの状態の中で幸福を経験しているのは誰か? あなたは「それ」だ。

 あなたが今持っていない何かを手に入れる為には修練が必要だ。もしボクサーになりたいのなら、リングに上がる前にボクシングのやり方を学ばねばならない。修練は何かの不在を後々に達成することを想定している。

   真我はあなたと一つだ、
   だから、それを獲得するのに修練は必要ない。
   真我はいつも存在する!
   修練は後に、未来に何かを延期することだ。
   だからあなたの真我を知るために修練は不要だ
   修練の概念を捨てて静かにしていなさい。
   ただ静かにしているだけで、全てを成し遂げることができる。
   何も頼まないとき、全てがあなたの所にやって来る。
   しかし、あなたが何かを追いかけるなら、
   何もあなたの所にやって来ないだろう。
   だから、唯一静かにして何が起こるか見てごらん。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

688鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/27(日) 23:49:19 ID:1d4drIFg0

 どのような方法も修練も最後には必要ではなくなるのじゃ。
 お釈迦様も筏の例えで示した通りなのじゃ。
 それを知らずに法に執着すればそれが障害になることもあるのじゃ。
 全ての観念を捨ててこそ悟りはやってくるのじゃ。

689避難民のマジレスさん:2022/02/28(月) 00:01:31 ID:BYyQ.3SI0
113.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-c③

 多くの人たちは世界中のアシュラムやセンターで修練やセラピーを充分やってきた。しかし、ここでは何も教えない。あなたはいつも自由である「それ」だと告げるだけだ。

 どうして自由に「なる」ことができるのかとあなたは尋ねる。真我はすでに「ここ」にある。いつも無変化だ。しかし、あなたは違いがあると考える。

 頭の中のこの違いの概念は取り除かれるべきだ。マインドから全ての概念を取り除きなさい。過去にしがみつく記憶を取り除きなさい。記憶の中に入って何かを切望するというのは役に立たない。

  ほんの一瞬 静かにしていなさい。そして、あなたは誰か見てごらん。

眠りたいときどんな修練が必要かね?

Q:修練はいりません。

 このように眠るべきだ。これはクリシュナからの処方箋だ。

  まわりの世界が眠っているとき、あなたは目覚めていなさい。
  まわりの世界が目覚めているとき、あなたは眠り続けなさい。

 これは何という処方箋だ! 宇宙が目覚めているとき、あなたは眠り続ける、これは宇宙が望んでいるもの全てに対して「眠る」べきだという意味だ。

 これらのもの全てを望まないことが「眠り」と呼ばれるのだ。「世界が眠っているとき、あなたは目覚め続ける」は、あなたの「真我」に目覚めているという意味だ。真理の秘密に目覚めていること、「私は真我」だ。

 しかし、世界は、この秘密に対して眠り続けている。これは非常によい処方箋だ。全世界が眠っている、しかし賢者は目覚めている。彼は全てが夢だと知っている。

 全ての人が下流に向かうときは、あなたは上流に向かって行くのだ。それは難しいし、ガンガーの上流に泳いで行く同伴者はいないかも知れないが、あなたはそれをやり遂げることができる。

 この宇宙の流れは下流に向かって全ての人を連れて行く。この流れに逆らって行くには「私はやるぞ」という決意の力が必要だ。これで充分だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

690鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/02/28(月) 23:54:48 ID:1d4drIFg0

 周りの世界が寝ているとは真の世界を見ていないということじゃな。
 その時に自分は目覚めていれば真実が見えるのじゃ。
 世界が目覚めているとは自我に目覚めていることじゃな。
 その時に自分を忘れていればサマーディに入れるのじゃ。
 そのように衆生と反対の道を行けば悟りもやってくるのじゃ。

691避難民のマジレスさん:2022/03/01(火) 00:09:02 ID:0ZzsMw1Y0
114.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-c④

Q:私はクリヤヨガを修練してきて、いくらか平和を見つけました。しかし…

 いくらかとはどういう意味だ。あなたは何も平和を見つけていない。平和は少しずつやって来るのではない。それがやって来るときは、一度にあり余る程にやって来る。

 そしてあなたを滅ぼして、平和そのものにしてしまう。個性というものは無くなってしまう。平和は全力であなたに襲いかかる。

Q:私は平和の中に深く入って行きたいだけです。

 平和は充満しているので深さには全く関係がない。それがやって来るときはやって来る。やって来ないときはやって来ない。

Q:あなたは悟りが起こる前に強烈なサーダナをしています。マインドを純粋化する為にサーダナをしなければならないという意味ではないのですか?

 修練によってどうしてマインドを純粋化できるのかね? このグラスの中の水を見てごらん。そこに不純物があるかね? 不純物は何か見慣れないものだ。

 水は純粋そのものでゴミがその中に入ったなら、水を篩いに掛ければ水は出てきてゴミは残る。これが私があなたにするように言っていることだ。

 根本的にあなたは水のように純粋だ。純粋である為に何もする必要はない。何か他の要素が水の中に入った、これが執着だ。すでに自由である真我から執着を篩いに掛けるだけだ。

  元々あなたであるものに「なる」ことはできない。

 だから、修練することによってあなたの元の状態に戻ることはできない。「あなた」が元の状態だ。それとは異なるものに触れないことだ。

 異なった実体は永遠でない何かに繋がっている。これを取り除きなさい。そして何が残っているか見てごらん。それがいつもあり続けたものだ。

「これは私のもの」「私は彼のものだ」は執着だ。この種の思考はあなたの道にやって来るべきではない。

 自由はすでに「ここ」にある。もし何かを勝ち取ったとしたら、それを得る以前は、そこにはそれがなかったという意味だ。そして、それを得たのならそれを失くすことになる。手に入れたものは必ず失くすものだ。

  いつもあなたのあるがままでいなさい。
  そして永遠でないものに触れないことだ。
  マインド、肉体、感覚、これらは永遠のあなたに属さない。

 事物に触れないとき、あなたはいつも自由であったと分かるだろう。自由は修練して勝ち得ることはできない。修練は一時的なもの、形あるものを持たらすだけで、永遠の自由は持たらさない。そこになかったものがそこにあるはずがない。

  ここにあるものはいつもここにある。
  これに対する確固とした信念が悟りだ。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

692鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/01(火) 23:10:32 ID:1d4drIFg0

 悟れば仏陀になるというが別の何かになるわけではないのじゃ。
 根源的な意識に還るだけなのじゃ。
 余計な観念をふるいにかけて落とし、何もしないでいるだけでよいのじゃ。
 そうすれば波が海に還るように、全てが全てに還って行くのじゃ。

693避難民のマジレスさん:2022/03/01(火) 23:43:12 ID:CSwvtlZM0
115.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-d①
探求、修行、過程という罠(3)

Q:度々あなたは仏陀を例にあげます。私の理解によると、彼は瞑想を通じて悟りを達成したことになります。しかし、あなたは瞑想には限界があると言っているように思えます。これについて話していただけますか? 仏教徒としては瞑想しなければなりません。

 仏陀としてではなく仏教徒としてだ。仏陀は死んで、彼の弟子達は彼がしたようにすることができなかった。弟子達は仏陀がしたように全てを放棄することができなかった。その為に、弟子達ができる事をやらなければならなかった。しかし彼らは静かに座っていない。

 仏陀は全てを、瞑想でさえも放棄して静かに座っていた。彼はただ静かに座っていた。彼の自由は瞑想の結果ではなかった。仏教徒は仏陀について、悟りについて考えたことがない。彼らは宗教的修行と方法に忙しくて仏陀がしたように静かに座るということを忘れてしまった。

 だから、賢明に「私は誰か」というこの質問を解決しなさい。そうすると分かるだろう。これを教える教師はいない。アーナンダが菩提樹の木の下で仏陀が見つけたものは何かと尋ねても仏陀でさえ話すことは出来なかった。沈黙したままだ。この沈黙は説明することは出来ない。

 しかし、どこに行っても沈黙ではなく、教師の言葉の遊びが氾濫している。真理から逃げ出さないことだ。仏陀は逃げ出さなかった。滞まった。それを得るまで何も食べなかった。この強い決意が必要だ。逃げ出さないこと。それはあなたが決めることだから、私はこれ以上何も言う必要はない。

 マスターが死んだ後、弟子達はその教えに従わないものだ。あるマスターの部屋にネズミがたくさんいて、瞑想中に彼の足を噛んで瞑想の邪魔をした。この理由から彼は猫を飼うことにした。そうすると全てのネズミは消え失せた。

 彼には二人の主なる弟子がいた。その一人が二匹の猫を飼うことにした。猫は瞑想中彼の両足に繋がれた。なぜなら彼のマスターがしたよりも二倍の効果があると考えたからだ。

 もう一人の弟子がこれを見て、競争心を起こして4匹の猫を手に入れて、両手両足に猫を繋いだ。さて、彼らの弟子の数が猫の数に比例して増えていったので、お互いに競争して猫の数を増やして行った。今度は彼らの弟子達も猫を飼い始めた。こうして瞑想は忘れられてしまった。

 ネズミを取り除く為にマスターは猫を飼った、これは全く理屈にかなっている。しかし、猫の為に悟りが起こったのではない。これが世間で起こっていることだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

694鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/02(水) 23:44:02 ID:1d4drIFg0

 お釈迦様も最後には筏の喩えで法をも放棄するようにと教えたのじゃ。
 しかし法に執着する者は多いのじゃ。
 今でも自分は何十年と修業してきたとか、勘違いの自慢をする者も居るのじゃ。
 修業する年月で争っているのじゃ。
 それはまだ自分が法を捨てる段階になっていない未熟者であることを誇っていることになるのじゃ。
 そのような争いから離れられない者こそ悟りから最も遠いのじゃ。

695避難民のマジレスさん:2022/03/02(水) 23:53:02 ID:bJevJn4s0
116.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-d②

Q:何年もの精神的訓練は無執着とリラックスを生み出すように思います。悟りの前に過程や進展があるのですか?

 真理は執着と無執着を越えている。執着しているものから無執着になると、他の何かに執着するものだ。だから、無執着は執着する他の何かが必要になるので、それは無執着ではない。執着は無執着に依存し、無執着は執着に依存している。

 本質は全ての概念を越えた所にある。それは想像を超えたものであり、進歩も過程もない。

 進歩するには誰かによって過去からの方法を与えられることだ。誰かが従った方法があなたに与えられる。そうして練習し始めるのだ。だからどんな方法でも、あなたが獲得したいものを頭に描いて練習を始める。何年後には達成することができるだろうと計画されている、前もって計画された達成だ。この計画はあなた自身の思考の産物だ。

 現実にはそれはすでに「ここ」にあるのだから過程はない。すでに「ここ」にないのなら、手段を通じてそれを手に入れてもいずれ失くすだろう。手に入れたものはいずれ失くすものだ。

 しかし、もし手に入れたものでないのなら、それを失くすことはない。なぜならいつも「ここ」にあって、いつも「ここ」にあり続けるからだ。

Q:本や練習は必要ないとあなたは言いますが、あなた自身多くの本を読んで、何千時間という*1サーダナをしたと聞いています。それならなぜこの助言をするのですか?

 理由は、私が7歳か8歳のときある体験をして、真理がそれ自身で姿を現した。私が努力したわけでもなく、訓練したわけでもない。それはただ、それ自身で姿を現したのだ。

 誰もこれについて説明してくれなかったし、どんな本にも書かれていなかった。後に多くの聖者が書いた本を、ギータ、バカバタム、ウパニシャッド、ベーダも含めて全て読んだが、私自身の経験とピッタリ一致するものは何もなかった。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

696鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/03(木) 21:55:37 ID:1d4drIFg0

 悟りの境地はどのような聖典にも書いていないものじゃ。
 既に言葉による表現を超えているのであるからのう。
 聖典に書いてあるのは、悟りに至る法だけなのじゃ。
 全ての聖典は悟りに至れば必要がなくなるものなのじゃ。

697避難民のマジレスさん:2022/03/03(木) 23:23:28 ID:AxTfEQIw0
117.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-d③


 誰もかって「私である」ところの「それ」について話していないと分かった。理解の為に私は多くの本を読んで、北から南まで旅して多くのグルに会った。

 しかし、彼らが話した事は本に書いてある通りで、本に書かれたことをそのまま話しているにすぎなかった。私が会った数人の人たちは誰も真理を達成していなかったし、「それ」について話すこともなかった。

 その為に私は、全ての教えや本や誰かが「それ」についてのべた文章を拒絶した。そうして私は私のマスターに会ったのだ。

 数人の人達は私の言っていることを理解して、「それ」を掴んだが、彼らは何が起こったのか説明することは出来ない。40年間私は人々に説明するようにと頼んでいるが、誰も説明することはできない。理由は説明に必要な知性とマインドが伴って来ないからだ。

 あなたは全く一人だ。マインドなし、知性なし、あなたは一人だ。「それ」を手に入れた人達はそれを説明することは出来ない。彼らは何を手に入れたか分からないが、彼らは手に入れたことを知っている。

 それは経験でさえもない。なぜなら経験はマインドに依存しているからだ。マインドが経験者、経験の対象、それらを信じ続ける経験を創り出す。それらは全て説明することができる。

 しかしマインドを越えたものは説明することはできない。知識の本ベーダでさえ、4巻の後では「ネィティ ネィティ」と述べている。25000年前に書かれたこの本は「それ」は書かれ得るものではないと正直に話している。最良の説明はネィティ ネィティ、「これでもない、これでもない、私は知らない。」

Q:私はとても誇り高いマインドを持っています。しかし、先週あなたはプライドの寄生的性癖を全て明らかにしてくれました。この経験を通過するのは病気を通過するようなものでした。このことに深く感謝しています。パパジ、完全な悟りは過程を踏むのですか? それとも過程という考えは延期するということですか?

 あなたの本質はどんな過程を通しても達成することは出来ない。この過程という考えは悟りを延期しているだけだ。全ての人が過程を踏み、延期したい。

 彼らは巡礼地を回ったら平和を得るだろうと期待して巡礼者になる。しかし平和を得ることはない。彼らは慈善事業をやり、寺院や橋や井戸を建築するが、それによって平和を得ることはない。人々が遂行したこれらの活動は、死後天国に行って報われるだろう。無駄にはならない。

 しかし巡礼先のヒマラヤで高山病で苦しんでも、平和を見つけることはできない。たとえ29000フィートのエベレストの頂上に行ったとしても、平和を見つけることはできない。そこに行った人々は、平和を見つけることができず、消耗して帰って来た。

 平和はどこにも見つけることは出来ない。海の底にも、空の上にも。平和は簡単に、過程を踏まず、手に入れることができると知るまで、平和を求めて、何年も費やさねばならない。ただ、一度か二度サットサンガに出席するだけで、今生で、今年に、この時間に、今に、悟りを得るかも知れないのに。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

698鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/04(金) 23:54:03 ID:1d4drIFg0

 自己に気付く一瞬で悟りは得られるものじゃ。
 しかし、それまでに長く修業しなければならない者も居るのじゃ。
 悟りへの障害となる煩悩があるからなのじゃ。
 それ故に怒りとか貪欲とか無知の煩悩を消すために長い修業が必要である者もいるのじゃ。

699避難民のマジレスさん:2022/03/05(土) 00:04:46 ID:/CP311dE0
118.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-d④

  今生で自由になるのだと決心したなら、
  マインドがあるというのは作り話しだと分かるだろう。

 このマインドが延期だ。延期がある所にはマインドがあるに違いない。そして何世代に渡って延期されてきたに違いない。誰もが延期するのを止めてどんなことをしてもそれをやり遂げると決意するだけでよい。

 この強さがやって来ると「それ」はそれ自体で姿を現す。過程を踏まず、努力とは全く関係なく、それは起こる。ある人はそれを恩寵と言っているが、内なる美によってこの恩寵を勝ち取りなさい。

 外側の美しさはあなたに平和を与えることはない。二日前、ミスユニバースのコンテストで外側の皮の美しさを見ただろう。この美は二・三年で消えてしまう。

 だからまず内なる美を考えなさい。内なる美を見るなら、どんな審判も、競争も必要ない。人々はこの内なる美によってあなたに引きつけられるのだ。

 このティルヴァンナマライのマハルシはどんな称号も持たないが、彼は美しさの全てを持ち合わせた最も美しい人だ。

 女王が彼の所にやってきて、ダイヤモンドや宝石や他の物が彼の前に差し出されたが、彼はそれを見ることさえしなかった。

 スペインのソフィア女王がやってきたとき、私はその場にいた。彼女はアシュラムのマネージャーに近づいて、彼女をマハルシに紹介するように頼んだ。そうして金の装飾品やダイヤモンド、籠一杯の果物がマハルシに運び込まれた。マネージャーはマハルシ自身の弟であるが、マハルシにその贈り物を見てもらいたかった。何千ドルの価値がある物をもって来たのだ。女王を祝福してもらいたかった。

 しかしマハルシは彼女にも彼女の持ってきたものにも目もくれなかった。私はこれを見ていた。多額のお金とあなたの前を女王が歩く、あなたはそれを見ないはずがない。彼女とお金を見て、少なくともありがとうと言うだろう。

 しかしマハルシは山のように不動であった。そのときあるスワミが「マハルシはあなたを祝福しているのですよ」と女王に告げた。しかし彼女は、このインドスタイルの祝福を理解することができなかった。

 不動、何も見ない、目はあいているが、彼女を見ていない。これが本当の美しさだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

700鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/05(土) 23:59:52 ID:1d4drIFg0

 グルによる真の祝福は沈黙によって行われるのじゃ。
 オショーもたまに沈黙の教えを実践したのじゃ。
 それがわかる者達は少なかったがのう。
 沈黙こそ真の悟りへの近道なのじゃ。

701避難民のマジレスさん:2022/03/06(日) 00:16:39 ID:FwRPXiCQ0
119.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-d⑤

Q:パパジ、この美しさ、究極の自由への道をどうか私に示して下さい。

 自由への道があると誰が言ったのかね? どこでこの地図を手に入れたのかね? 道はないのだ。

  自由への道はない、「道」とはどこからか出発して、他のどこかに到着するということだ。
  そして、目的地までの距離がある、
  しかし、あなたはどこにも行く必要がない。
  距離を創り出すのはマインドのトリックだ。
  だから、道も、自由も両方忘れてしまいなさい。
  忘れてしまったら、あなたが「いる」ところにいなさい。
  他の場所に走る必要はない。
  とにかく、このマインドの概念を取り除かねばならない。

  どこにいようともあなたのいる所にいなさい。

  これを実践したなら、即座に、
  何億年もの間、探し求めていたものは、「あなた」であると分かる。
  探求は必要ない。
  探求は失くしたものを探すことだ。
  何も失くしたものはないのだから、
  それを探し求めることは意味がない。

  ここで、ただ、静かにしていなさい。
  マインドから思考を起こらせないことだ。
  そうするとあなたは本当に誰か知るだろう。

用語解説
>>695
爆*1サーダナ 神霊的修練、修行
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

702鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/06(日) 23:19:08 ID:1d4drIFg0

 悟りへの道において捜し求めるのは常に自分自身なのじゃ。
 自分を探すのじゃ。
 自分とは何であるのか、自分とはどのようなものなのか、常に探し続けるのじゃ。
 そして自分が観られたならば、観照が起こるのじゃ。

703避難民のマジレスさん:2022/03/06(日) 23:24:27 ID:8mPrXwrg0
120.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part2①

偽のグルという罠(1)

  今は*1カリユガの時代だ。悪魔でさえ教師として生まれ変わって、あなたを間違った道に導いて行く。

  これらの悪魔によって破壊される人々がいるに違いない。

  グルをテストしなければならない。
  グルの系統を見て、グルをテストしなさい。
  それは非常に重要なことだ。
  その教えによってグルをテストしなさい。
  真我探求なしでは教えなしと同じことだ。
  真我探求を教えない全ての教師は避けるべきだ。
  あなた自身の顔を直接見つめることが唯一の教えだ。
  説教師は暗闇だけを話す、暗闇の理解とそれを取り除くことを話す。
  しかし、暗闇はないし、理解することもない、あるのは光だけだ。

  グルが「私は悟りを得た」と言うとき、
  それはエゴが悟ったという意味で近寄らないことだ。
  これを言う西洋の教師達は説教師だ。
  探求者にもっと無駄を担がせる為に本を書き、
  多くの生徒を引きつける。
  しかし、カリユガでは群衆が引き付けられるものは偽りだ。
  真理と真のグルは無視される。
  一秒間以上教師と生徒が一緒にいたなら、
  両方とも地獄に落ちるのだ。

Q:確かな覚醒の後でさえ、人々は堕落して迷いに落ちるというのはどうしてですか?

 目覚めた人は迷いに落ちることはない。迷いと堕落の全てはマインドから起こるのだから。迷いが起こるのなら、「降伏」がこれに対する唯一の治療だ。あなたがやり手だと考えるなら、これは堕落だ。高い意識に、真我に明け渡しなさい。そうすると堕落はあなたの近くにやって来ることは出来ない。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

704鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/07(月) 23:09:31 ID:1d4drIFg0

 真のグルは人々に自分を探求するようにいうじゃろう。
 それをしないのは真のグルではないのじゃ。
 金を請求したり、自分の自慢話しばかりしているのはにせものなのじゃ。
 そのような者達に付き合っては自分も地獄いきなのじゃ。
 気をつけなければいかんのじゃ。

705避難民のマジレスさん:2022/03/08(火) 00:03:54 ID:VphEeHy20
>>703
用語解説
*1カリユガ 暗黒の時代

121.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part2②
偽のグルという罠(2)

 あなたは「私は『それ』だ」の経験をしたのだから、「それ」を信じているなら「疑い」つまり「私」という思考は現れないはずだ。「疑い」はマインドからやって来る。マインドは過去にすぎない。過去はこの現在の瞬間に入って来ることはできない。

Q:それを知ることなしに究極の真理の状態に確立しているということはありえますか?

 もちろん、これは全ての人にとって真実だ。全ての人、全ての存在が究極の真理の上に確立している。しかし彼らはそのことを知らない。彼らが「それ」を知らないのは、知ろうとしたらマインドを通して知ることになるからだ。

 自分は究極の覚醒を得た人だと「知る」にはマインドを使わなければならない。しかしこの為にマインドを使うということは、それについて疑っているということだ。

 マインドそのものが疑いだ。マインドのもう一つの名前が疑いだ。疑いがないとき、マインドはない。マインドがないとき、疑いはない。

  気づきはマインドを越えた所にある。
  マインドを遙かに越えている。
  マインドは疑いと恐れと心配を与えて、
  マインドを越えた「それ」を気づかないようにする。
  マインドの役目は、人を暗闇に、過去に閉じこめて置くことだ。
  マインドのないところには時間も過去もない。
  これが究極の真理だ。

 ただ本を読んでいるだけでは充分ではない。できることなら、疑いを拭い去ってくれる人を見つけることだ。しかしほとんどの教師はドグマだけを与えて、真の教えを持たない説教師だ。

 この手の説教師のほとんどが西洋に行きわたっている。多くのインド人の説教師はアメリカで茸のように増えてビジネスをしている。彼らはビジネスマンで、教えるべきことを何も知らない。

 これらの教師や説教師はサットグルではない。サットグルは教えることも与えるべき方法も持たない。サットグルは直接、内なるあなたの真我を明らかにする。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

706鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/08(火) 23:48:34 ID:1d4drIFg0

 何かを知るということは、記憶の中にある観念を今ここにあるものに当てはめることなのじせゃ。
 それは観念であり、マインドの働きなのじゃ。
 本来の心の働きではないのじゃ。
 観念無しに悟りを得ていることはありえるのじゃ。
 他人に法を説くために悟りはあると言うだけなのじゃ。

707避難民のマジレスさん:2022/03/09(水) 00:29:23 ID:lK/z9TNY0
122.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part2③
偽のグルという罠(3)

Q:数多くの教師達に裏切られる前に持っていた、精神世界への旅に対する信頼をどのようにして取り戻すことができますか?

 あなたは誕生と死の輪廻から自由であるということを知るためにこの世に生まれてきたのだ。これ
が第一の目的だ。

 あなたは市場では不良品を買わないように注意する。それなら、あなたの命を危険にさらすとき、なぜ注意深くしないのかね? どうしてあなたの人生を危険にさらすことができるのか? 

 まず最初にあなたの教師をテストすべきだ。どんな系統に属するのか?過去に逆のぼって調べなさい。彼の教師は誰か? 注意深く調べなさい。

 インドでは子供の結婚相手を見つけるのに相手の両親の七世代にも逆のぼって調べるのだ。美しい言葉や教えを聞いただけで、あなたの人生を売るものではない。

 立派な言葉が欲しいのなら大学教授に会いなさい。彼らは聖人や賢人よりもうまく表現することが出来る。あなたの魂を不確な人に売ることは出来ない。

 だから教師をテストする全ての権利がある。教師の美しい、甘い言葉に惑わされないことだ。もし、ハートが彼を受け入れているのなら、それが分かるだろう。

 大きい、美しいアシュラムに騙されないことだ。教えはセメントやレンガや鉄の竿から得られるのではない。本当の教師はいつも木の下で教えたものだ。壁から何を得ることができるかね?

あなたの「ハート」が教師を受け入れる。あなたではなく、エゴではなく、マインドではなく、あなたの意識でもない。

 その人と一緒に座りなさい。ハートがその人に献身するなら、そのとき彼があなたの教師だ。教師は生徒から何も要求しない。彼はあなたがすでに平和で、美で、愛だと見ている。

 あなたから得る私の報酬はあなたが幸福であるのを見る喜びだ。それが全てだ。授業料なし、寄付なし。これが私の忠告だ。

  (´・(ェ)・`)
  (おわり)

708鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/09(水) 23:20:01 ID:1d4drIFg0

 真のグルは必要な時に現れるのじゃ。
 にせもののグルに騙されると言う事は、まだ自分に金とか名声への欲があるからなのじゃ。
 そのためににせもののグルに会うのじゃ。
 似た者が引き寄せられるのであるからのう。
 自分の心を浄めて真の悟りを目指せば真のグルは自ずから見出せるのじゃ。

709避難民のマジレスさん:2022/03/09(水) 23:28:30 ID:3G1e0KKw0
123.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆ Part3①
宗教・伝統・アシュラムの罠(1)

 宗教や伝統やアシュラムはすばらしい目的で始まるが、利益や名声を欲しがる人々の手に落ちると堕落する。

 悟りはこれらの宗教の着物ではない。歴史を通じて分かるように、宗教の仕事は恐れと死だ! 地獄と死への恐怖を無信心者に与えることだ。宗教から地獄を取り除くと宗教ではあり得ない。

 宗教は恐怖と偽善だ! 恐怖が宗教のまさにその基盤だ。宗教は自由への妨げになる。宗教は「私は自由だ」さえも禁止した。あなたは自由なのだから、それらから去ってしまいなさい。

  あなたは完全に「今、ここ」にいる!
  羊の囲いは必要ではない。
  どんな宗教も必要ではない。
  あなたはいつも自由だ。

Q:内なる道を進んで行くのに踏むべき慣習や伝統があるのですか?

 内なる道には伝統はない、伝統は全く必要がない。

  外側の慣習は外側だ。
内なる道と何の関係もない。
伝統は外側で、物質的で、観念的だ。
内側ではただ、静かに座るだけだ。
そして、マインドが外側に触れるのを許さないことだ。
このようにほんの一秒、座ってごらん。
  そうすると、人生の目的は満たされたことになる。
マインドをどんな慣習にも触れさせないことだ。
そうするとサンサーラとは縁がない。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

710鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/10(木) 23:08:05 ID:1d4drIFg0

 伝統的な宗教や宗派といっても実際は本当の法を失っているものも多いのじゃ。
 教えが古くなるとどうしても言葉の意味がわからなくなってくるからのう。
 仏教でも真の観察は失われているのじゃ。
 ただひたすらに自分自身を観るだけが真の法なのじゃ。
 現代の目覚めた者達が教えている法が正しいのじゃ。

711避難民のマジレスさん:2022/03/10(木) 23:15:32 ID:3G1e0KKw0
124.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆ Part3②
宗教・伝統・アシュラムの罠(2)

Q:緑の目をしたヒョウが私を食べた夢を見ました、私は羊の姿をしていました。それは真我が私の羊のような精神状態を解放してくれたのだと悟りました。

世界の全ての人はいつも羊飼いを探している羊だ。この羊飼いは普通、ある宗教の創設者だ。あなたはカトリックの神父だからこれが分かるだろう。

 羊飼いは羊が囲いから外に出るのを許さない。だから羊は羊として滞まるのだ。しかし、ある羊は羊飼いや番犬や牧師から逃げ出して、もはやコントロールされることはない。

 これらの宗教の伝統の中でもりっぱな聖人や真理を説いた聖人がいたし、聖典にはよい事が述べられている。しかし私が見たところでは、それらから恩恵を受けている人はほとんどいない。

 宗教の障壁を越えて、あなたがここにやってきたのは嬉しいことだ。あなたは独立した人としてここにやってきた。あなた自身を知るには独立した見方と理解が必要だ。

 真理は「今」にあるのだから、過去に読んだり、聞いたりしたことに依存しないことだ。「今」、あなた自身を解放しなさい。そうすると聖人が言ったことや書いたことを理解する事が出来る。

Q:宗教を通じて真理を見つけることが出来ますか?

どんな宗教を通しても最終的には真理を見つけることはできるが、真に神を愛して、熱心で、真剣で、正直であらねばならない。真理を見つけるということは教会や寺院に行くこととは何の関係もない。そこに神を見つけることはない。神は唯一あなたの内に存在するからだ。

 宗教は人々に恐れを与える以外に人間の生活に役立つことはない。だから宗教なしで生きるのなら、少なくとも恐れを持たずに生きられる。自立して生きなさい、あなたの為にはその方がよい。

 宗教の神は、あなたの安心の為にあなたが創り出した守護神にすぎない。あなたが創り出した恐れや欲望や所持品の世話をしてもらうためだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

712鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/11(金) 23:39:43 ID:1d4drIFg0

 宗教や聖典は方法を教えるだけのものじゃ。
 悟りを求める者はその方法を用いて、今ここで実践しなければならないのじゃ。
 自らの実践がなければ宗教も聖典も無意味なのじゃ。
 無意味な知識ばかり増やし続けても、ただの障害になるばかりなのじゃ。

713避難民のマジレスさん:2022/03/11(金) 23:56:34 ID:/gcm.0S.0
125.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆ Part3③
宗教・伝統・アシュラムの罠(3)

Q:精神的な共同体は階級制度、支配制度、形式で満たされているように思えます。これは自由であることと矛盾しているように思えます。特にマスターのまわりでは階級性と力の闘争が当然のことのように起こっています。

 あなたは自由を経験した。しかし今、他の人々を監視し、何が良い振る舞いで何が悪いことかと判断し始めたのだ。

自由の経験といっしょにいなさい。
他人の不適性な振る舞いを見ないことだ。
さもないと完璧な自由への機会を失うことになる。

他の人が何をして何をしていないかということに巻き込まれて、自由を背景に押し込まないことだ。彼らがやりたい事をやらせておきなさい。それが何であろうとも彼らのカルマの中で行なっているのだ。

 彼らを阻止するあなたは一体誰か? 他人の欠点を見つけるのにどれ位時間をかけるのかね? 100年間? 人々はいつも間違った振る舞いをするものだ。

 それらを判断することであなたは何度も生まれ変わって来なければならない。それには終わりがない。あなた自身の面倒を見てあなたの目的を遂げるほうがもっとよいことだ。

あなたは確かな目的の為にやってきた。
ここ、あそこと見まわさないことだ。
ただ、静かにしていなさい。
あなた自身のことだけ気にかけなさい。
他人はするように運命づけられていることをやっているのだ。
この過程に指を突っ込むことは出来ない。
それは人々を自由に導く方法を知っている非常に賢い人の仕事だ。

あなた自身のめんどうを見なさい。真我を体験したら再び全てを忘れてしまいなさい。あなたが聖人と一緒にいようがいまいが、究極の欲望は自由であるに違いない。

 自由に無知な人々と一緒にいると道に迷うものだ。あるアシュラムは適切な運営をしているが、ほとんどのアシュラムは社交に興味があるだけで、人々は静かに座ることがない。

 あなたのいるアシュラムの状況があなたに平和を与えるかどうか見なくてはいけない。単に他の人と雑談したり、交友したり、本を読む事があなたの為に役に立つとは思わない。

静かに座っていることが最も重要だ。
これをしないで時間を無駄にしないことだ。
  (´・(ェ)・`)
  (おわり)
第11章 精神修行;存在は修行で達成できない 終了

714鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/13(日) 00:12:59 ID:1d4drIFg0

 宗教的な集まりでさえも、やはり組織としての存続を目的とするようになるから俗世間と同じようになってしまうのじゃ。
 派閥を作ったり、権力を求めて闘争したりするのじゃ。
 そのようなことに構っていては修行もできないのじゃ。
 お釈迦様の言うとおりに、他人のことは観ずに自分のしたこととしなかったことを観るのじゃ。
 それが大事なのじゃ。

715避難民のマジレスさん:2022/03/13(日) 00:27:32 ID:7j3fwj3I0
126.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part1①
巧みさの精髄(1)

やって来るものはやって来させなさい。

  留まるものは留まらせなさい。

行くものは行かせなさい。
  いつも静かにして、真我を崇拝しなさい!
  これが世界の様相の中で巧みに生きることの精髄だ。
どんな活動をしていようとも、あなたは真我だといつも知っていなさい。
  幸福で美しい人生を生きる方法は、
  来るものは受け入れ、やって来ないものは気にしないことだ。

事がやって来たら、楽しんで、幸福でいなさい。
  至高のパワーによってこのドラマを起こらせなさい。
  そうするとその力があなたの面倒をみる。
  幸福で、自由でありなさい。
  あなたが幸福なら、全てが幸福だ。あなたが苦しむと全てが苦しむのだ。
  マインドが悪臭を放つと他の人にも影響を与える。
  平和、光、知恵、意識の中で幸福でいなさい。
  これはあなたの責任だ。幸福で慈愛に満ち、自然と協調して生きること。
  これが生きていることを価値あるものにするのだ。
  ハートから始めて、ハートから全てが起こって来ると見ていなさい。
  いつもこれを実践し、いつも「これ」でありなさい。

巧みさと傲慢さは同時に存在することはできない。
  傲慢さがないと全ては巧みにうまく行く。
  一体性に顔を向けなさい。
  全ては一つだと見ることがノーマインドだ。
  これが存在の純粋な状態であり、真我である。
  あなたが全てと一つであるなら、何にも執着することはない。
  執着が全体からあなたを引き離す。
  あなたが「他人」をつくりだすと全体から分離する。

  蓮の花が泥水に触れないように
  世界をあなたのハートに招いてはいけない。
  忙しさに煩わされない限り
  世界で忙しく働くのは問題ではない。
  
  あなたの周りの環境は非常に重要だ。
  緊張のないところにいなさい。
  内側と外側を騒がせる状況を避けなさい。
  心安らぐ場所や生き物と一緒に留まりなさい。
  愛と美と平和に満ちた環境が必要だ。
  あなたの部屋や身体でさえ平安に保ちなさい。
  愛と静けさがあれば十分だ。

他人への悪口は自分への悪口と同じことだ。
  他人を誉めることは自分を誉めることだ。
  言葉には大きな力がある、だからふさわしい言葉だけを使いなさい。
頭脳から話すことは苦痛で、ハートから話すことは快楽だ。
  だから、頭を閉じて、ハートを聞きなさい。
  どんな存在も困らせないこと、どんな存在にもあなたを困らせないこと。
  誰にも怒らないこと!歯が舌を噛んでも、舌は歯を怒ったりしないように。
   (´・(ェ)・`)
 (つづく)

716鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/13(日) 23:42:05 ID:1d4drIFg0

 この世の全ては幻影に過ぎないから関わらなくて善いのじゃ。
 時間を潰すだけのものなのじゃ。
 ただひたすら自分自身を追及するとよいのじゃ。
 そうすれば幻想ではない意識に至れるのじゃ。

717避難民のマジレスさん:2022/03/13(日) 23:52:32 ID:d1zH7XEM0
127.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part1②
巧みさの精髄(2)

「満足すること」は絶対に必要だ。
  現在の満たされない欲望の為にその印象は未来の状況に復活し
  あるいは来生に生まれ変わってくるのだがら、
  唯一無限の空間を望みなさい。
  それ以外の欲望は起こらせて、それらは無から起こって来るのだと見ていなさい。
  そうすると波が必ず海に戻るようにそれらは無に戻っていく。

スクリーンの映像を追いかけないこと、
  賢明でありなさい。
  どんな犠牲を払ってもあなたの平和を失わないことだ。
  物事は起こって消え去るものだから、それに捕まらないことだ。
  平和がもっとも重要だ。
  リーラの中で幸福でいなければならない。
  「ここ」、この瞬間には問題はない。毎日の生活はこの瞬間の連続で、
  そこから抜け出すことはできない。
  この瞬間に過去と未来の問題を招待して試してごらん。
それらは「ここ」に触れることができない、
  だから、今やるべきことは今やりなさい。
  昨日や明日に触れないことだ。

何かに「成る」という考えを取り除きなさい、
  あなたは「ある」ことだ。
  「成る」ことは努力、「ある」ことは無努力。
  あなたはいつも「それ」、
  そよ風のようにありなさい。
  庭にもゴミため場にも関係なく吹き抜けていく。

世間の活動から逃げ出さないことだ。
  いつも「私は真我」を内に守って、スクリーンとして留まりなさい。
  スクリーン上に投影された活動が起こっているのだ。
  あらゆる活動のさ中で静かにしていなさい。
  「私は内なる家にいる」と知っていなさい。
  あなたの仕事は静かにしていることだ。

あなたが目覚めない限り、「全ては夢だ」と断言できない。
  真の目覚めの状態では、知恵の状態では、
  夢の対象があろうがなかろうが問題ではない。
  無は夢の対象に影響されることはない。
  海は十億もの波が踊っているのに不平を言ったりしない。
  だから、思考が起こったり、消えたりすることに無関心でいなさい。
  何にも執着しないのが内なるホームにいることだ。
  思考が起こるのは許しても、着地させないことだ。
  思考が着地すると対象に対する欲望を連れて来るからだ。
  対象に対する所有欲を連れて来るからだ。
  狂気を連れて来るからだ。
選択は二つある!自由か狂気か。
  「私は自由で幸福だ」を選びなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

718鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/14(月) 22:58:18 ID:1d4drIFg0

 心のどこかに俗世間への未練があれば、悟りから逃避してしまう恐れが在るのじゃ。
 まだ個人の欲に取り付かれているからなのじゃ。
 全てに満足して捨て去る決意が必要なのじゃ。
 世間の幻想に惑わされず自分を追及し続けるのじゃ。
 そうすれば悟りも訪れるのじゃ。
 そして世間の全ては夢幻であったと知れるのじゃ。

719避難民のマジレスさん:2022/03/14(月) 23:08:42 ID:a11C67dM0
128.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part2①
巧みさの精髄(1)

Q:どのようにして、世界で生きたらよいのでしょうか?

  「それ」の体験を保っているなら、どんな状況の中でも生きて行くことができる。あなたは最後の欲望を満たしたのだから、どのようにして意識や気づきから離れずに欲望と一緒にいることができるのか言ってごらん? 簡単だ、あなたを騒がせるものに触れないことだ。いつも目覚めていて、各個人の意識としての真我にいつも戻って行くことだ。

この体験をしたならこれについて話す必要はないが、単に「ある」ことで、他の人達を助けることが出来る。「それ」から発散される光は他の人に恩恵を与える。光輝いている美しさで人を引き付ける沈黙のバラの花のように。永遠の愛が人々を引き付ける香水だ。試してごらん、人々はあなたに引き付けられるだろう。

Q:この夢の中では、他の教師達が言うように、愛、親切、寛大さを持って行動した方がよいでしょうか?それともどのように行動するかは問題ではないのですか?

教師からの提案はあるだろうが、真に無を経験した人々には教えも提案もない。

 何かに成るという考えを取り除きなさい。あなたは「ある」ことだ。「成る」ことは努力、「ある」ことは無努力。あなたはいつも「それ」、そよ風のようにありなさい。庭にもゴミため場にも関係なく吹いて行く。

Q:どのようにしたら、足跡を残さずに去って行く鳥のようになれるでしょうか?

 あなたがいつもサットサンガにいるのなら、過去の執着に目を向けることはなく、足跡も残ることはない。執着から自由になると足跡は残らない。これは非常に簡単だ。無執着が幸福を与えるのだ。執着はあなたを箱に閉じこめて、欲望がそれを運んで行くのだ。

  どんな執着にも従わないことだ、
  執着を与える同伴者を切り捨てなさい、
  自由を求める自由な人々と一緒にいなさい。

  自由を考えなさい。自由の中を歩きなさい、
  自由を熱望する人々と一緒にいなさい。
  これが唯一の足跡を残さない方法だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

720鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/15(火) 21:56:25 ID:1d4drIFg0

 目覚めた者は居るだけでも必要とする者にはわかるのじゃ。
 もはや恐れや不安から離れているから静かなのじゃ。
 何も求める必要がなく、言うべきこともないからなのじゃ。
 それが沈黙の美なのじゃ。

721避難民のマジレスさん:2022/03/15(火) 23:31:46 ID:VxPtAv0E0
129.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part2②
巧みさの精髄(2)

Q:どのようにしたら愛することがもっと自然になるでしょうか?

 愛することは自然だ。憎むことが不自然だ。愛が自然に「なる」ことはない。愛が自然な状態だからだ。不自然な状態はあなたを苛立たせる人を憎むことだ。この不自然な状態は今世で大変な問題を引き起こすものだ。 
 そして、この問題を解決しなければ来生が何度もやってくる。過去世であなたを卑下した人々への憎しみを許してくださいと懇願することでこれから自由になりなさい。愛、誰がいらないと言うかね?

  全ての人を愛しなさい、愛は神なのだから、
  全ての人を愛したなら、あなたは神になる
  
  神は神の創造物を決して傷つけることはない。
  これが違いを作る。

  愛は自然だ、
  マインドを説得して、全てを愛しなさい、
  さもないとそれは愛ではない。
 マインドにこのように教えなさい。
  そうするとこのマジックの結果を毎日見ることができる。

  他の人びとがあなたの近くにやって来る。
  これはこのマジックの結果だ。これらの人々を傷つけてはいけない。

Q:愛する人に対する愛情はマインドが創り出したものですか?

 「他人」に対する愛はマインドの戯れだ。真我に対する愛はマインドの作り事ではない。誰か他の人を愛するというのはマインドの戯れだ。それは良い経験を与えてくれることはない。唯一真我だけを愛することができる。あなたの真我を愛すると、マインドは破壊される。マインドで真我を愛することはできない。

Q:数年前、私には夫がいて、子供がいて、家を持ち、仕事を持っていました。しかし子供が死んで、夫は私から去って行き、それでわたしは仕事を止めました。

 これが私が言っていることだ。あなたの夫はこの種の「愛」に巻き込まれた。これが愛と愛欲の違いだ。

 全てを失くすというのは良い兆候だ。さもないとあなたはここにやって来なかっただろう。自由の為には全てを失くすことができる。あなたの場合、それが起こるように定められていたのだ。それを変えることはできなかった。変えることはできないのだから、考える必要も心配する必要もない。

 結局、関係性からどんな利益を得ることができるのかね? どれ位長くそこから利益を得ることができたか? あなたに囀っていた雀も飛び去って行く時は何と早く離れて行くことか? 

 これは起こるべきことで、明日起こることなら今日それを理解しなさい。そうするとあなたは幸福だ。さもないと、ここにいて楽しむゲームを見逃すことになる。だからそれらがやって来るがままに受け取り、この機会に感謝し、幸福でいなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

722避難民のマジレスさん:2022/03/15(火) 23:36:17 ID:VxPtAv0E0
 鬼和尚が別スレで、言及されていた「大乗起信論」の講義は、既にどこかでされているのでありましょうか?

 もし。まだでしたら、講義の下敷きとして「大乗起信論」の漢文と読み下し文を鬼和尚の指定のスレに書き込みさせていただきたいと思います。
(´・(ェ)・`)b

723鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/16(水) 23:03:59 ID:1d4drIFg0

 他人とは自分の観念による幻想であるから、他人への愛は観念遊戯に過ぎないのじゃ。
 幻想であるからそれはいずれ消えてしまう性質のものなのじゃ。
 生きている内に心変わりでわかれるか、最後には死によってわかれる定めなのじゃ。
 自己の追求にその情熱を向ければ全てが一つである意識にも到達できるのじゃ。
 そこには幻想の愛ではない、真の一体化があるのじゃ。

724鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/16(水) 23:05:31 ID:1d4drIFg0
>>722 ご苦労さんなのじゃ。
 まだやっていないのじゃ。
 オショーのスレが、まだかなりあいているようじゃ。

 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/

725避難民のマジレスさん:2022/03/16(水) 23:58:34 ID:5LWll9e.0
130.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part2③
巧みさの精髄(3)

Q:時々、私は自分の仕事を完全に捨てて、真剣に探求者にならねばならないと感じています。

 これは必要ではない。真の探求者であることは家族を捨て、家を捨て、国を捨てヒマラヤの洞窟に行かねばならないということではない。そこでは何も起こらないだろう。

 自由を与えるのは洞窟ではない。それはあなたの熱望だ!「今生で自由になるのだ」という熱望だけで充分だ。この熱望を燃やし続けることだ。仕事をしている時もしていない時も。これが最後に報酬を与えるのだ。

 例えば、誰かが歯痛を抱えているようなものだ。海辺に行く友達に会って誘われても、「私は歯医者に行ってまず歯を治さなければならない、さもないと痛みの為に海辺で楽しむことはできない」と断るだろう。

 だから、海辺で楽しみたいのなら問題を全て取り除きなさい。どこに行こうともこの決心はまるで岩のように硬い。

 「私は自由になる。私は今生で今年、今日、自由になるのだ」と。

Q:私は20歳の時オーストラリアの軍隊に選ばれ、一年間ベトナムで戦いました。今、二十五年たってもその悪夢が消えず神経をダメにします。人生は生きる価値がないと時々考えます。ここにいると私の本質は無限だという美しさを感じますが、どうか私を私の内なる家に連れ戻して下さい。

 なぜ戦うことを恐れるのかね? 全ての兵士は戦わねばならない。私もまた戦ったが、戦うかどうかは問題ではなかった。他国の兵隊の前にいると恐れがやって来る。

 あなたが言っている無限は誰かがあなたの胸にLMGを向けて、あなたは3-0-3を彼らに向ける時だ。その時が無限だ。誰が殺し屋で誰が殺されるのか誰も分からない。どちらであろうと恐れる必要はない。

 あなたの義務はあなたの国の為に戦うことであなたはそれをした。奴隷として生きるより自由の為に戦って死ぬ方がよい。

 あなたが言っているこの無限にどのようにして出会ったのかね? 無限というのは人も概念も対象も何も見えないことだ。
 
 自由とは人と概念と対象が存在しないところと言う意味だ。無限があなたの本質だ。恐れないことだ。

  「ここ」に美が、「ここ」に愛が、「ここ」に永遠が、
  なぜそれを恐れるのかね?
  「ここ」に平和と至福が。
  無限を恐れているので、誰もそれを味わったことがない。
  これがあなたの内なる家で
  全てが戻って行かねばならない所だ。

  手遅れになる前に自由になりなさい。
  さもないと後で後悔する。
  「今」がその時だ。
  一瞬、あなたの為に、この無限の為に使いなさい。
  一瞬、フィンガースナップ、一秒、半秒、それで充分だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

726避難民のマジレスさん:2022/03/17(木) 00:06:09 ID:5LWll9e.0
>>724
承知いたしました。
すぐに始めてもよろしいでありましょうか?

(´・(ェ)・`)b

727鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/17(木) 23:49:37 ID:1d4drIFg0

 懺悔告白したならばもはや許されたのじゃ。
 いつかどこかの無限を求める必要は無いのじゃ。
 今ここにある自分を追及すればよいのじゃ。
 気づきが起これば一瞬にして無限はあるとわかるのじゃ。

728鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/17(木) 23:50:17 ID:1d4drIFg0
>>726 よいのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

729避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 00:01:03 ID:/1rvHmUg0
131.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part2④
巧みさの精髄(4)

 どうしてあなたがこの一瞬に手に入れなかったのかと尋ねるべきだ。誰もこの半秒を使ったことがないからだ。人々は100年間生きるとしても、この一瞬を自分の為に使うことができない。彼らは他の何かを探し求めている。一緒にいたい人や物が欲しい。

 今、あなたはここでやりなさい!私が言っているこの一秒間に何も考えないことだ。フィンガースナップの瞬間、何も考えないこと。努力しないこと。何が起こるか言ってごらん。

 私は考えないようにと言っているのだ! あなたはまだ考えている。何も考えない時は顔つきが変わるものだ。今、もう一度試しなさい。本当は試すことさえ必要ない。試すというのは、聞いたり読んだりしたことを試すということだから。試すことはいつも過去の何かについてであり、今この現在にあるものについて試すことはできない。

 現在は考えることを必要としない。考えない時、達成する価値のあるすべてを達成したと理解する。その時たとえ死に直面しても後悔することはない! 死がやって来ると死があなたを恐れるだろう。(くすくす笑い)やりなさい、他に何か尋ねることがあるかね?

Q:試さないという意味が分かりません。

 試すこと、試みることは過去に属している。過去に属さないものは何か言ってごらん。誰かから聞いたことがないものを試したことがあるかね?
それは過去からやって来る。成し遂げたことは過去に属する。

 しかし、私が言っている「これ」は時間ではないので、過去ではない。過去、未来、現在は存在しない。だから試すことなしに、努力することなしに、それを得ることができる。今、試すという意味が分かったかね

Q:はい、分かりました!

 試みないとあなたは静かで、試みるとトラブルだ。

Q:私達が最初にエゴに気づき始めるのはいつ頃ですか? 「私」が人生を支配し始めるのはいつ頃ですか?

 これは誰も尋ねたことがない良い質問だ。「いつエゴが始まるのか? どのようにして、なぜエゴが始まるのか?」良い質問だ。

 私が思うにはそれは両親と一緒に始まる。両親が関係性を教える、そうしてエゴが起こって来る、子供は兄弟姉妹や親戚に属する。そうして牧師が洗礼を与えて、あなたはキリスト教徒、仏教徒、又はモスリム教徒になる。

 そうして牧師は他の人々は地獄に行きあなたは天国に行くと説く為に、エゴは他の人よりも優れていると考え始める。宗教エゴ、国家エゴ、自分の国は他の国より優れている。アメリカ人、彼らは最も優れていると考えている。経済力と戦力に関してはこれは本当だが、これはエゴを強化する。

 「私はドイツ人」「私はアメリカ人」「私はインド人」というエゴは取り除くのに難しい障害だ。しかし、これを取り除いたら共有の地球に属することになる。アジア、アフリカ、アメリカ、太陽は同じように振り注ぐ。同じ太陽、月、空、母なる大地、しかし私達は全ての人に属しているこの共有物を受け入れようとはしない。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

730避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 19:27:25 ID:x2FQRAbo0
「大乗起信論」講読会始めました。
よろしくお願いします。
∩(`・(ェ)・´)∩

731鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/18(金) 23:01:38 ID:1d4drIFg0

 試すことにもまだ時間の観念が在るのじゃ。
 試すとは本気で何かをやることではなく、本気でする前に予備で行う振りをすることであるからのう。
 今ここにあるべき実践ではないのじゃ。
 今ここでは実践するかしないかの二つしかないのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

732鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/18(金) 23:02:08 ID:1d4drIFg0
>>730 ご苦労さんなのじゃ。
 こちらこそよろしくなのじゃ。

733避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 23:05:38 ID:x2FQRAbo0
132.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part2⑤
巧みさの精髄(5)

 もし私達の関係が知恵に基づいているなら、私達は一つの地球、一つの世界、一つの宇宙に属していると分かるはずだ。その時、環境の一体性を理解して内なる平和に静かに座っていられる。

 近隣がいつ攻撃して来るかと恐れていると静かに座ることはできない。平和に満ちていられる為にはエゴを取り除かねばならない。恐れを取り除かねばならない。

Q:私の娘は2歳になり始めましたが、この頃からエゴが発達し自然な意識の状態から離れて行くのですか?

 自然な意識の状態を子供や親、誰からも取り除くことはできない。むしろ全てを含んでいる。真我は全てを含んでいて真我は決して離れて行くことはない。

Q:時々、彼女は堅固で要求が激しいのですが…

 あなたはその「時々」に同一化している。なぜ、時間を時間として見ないのかね? 時々はあなたの時間だと考えて、あなたの時間に子供の為に何かをしなければならないと考えている。

 あなたはまだ広い観点から物を見ることができない。だから子供は何かが必要で、あなたを通してただその必要を満たしているにすぎないと考えなさい。

 そうすると「時々」は問題ではなくなる。もし子供がそこにいるならキスしてあげなさい、彼女が食物を必要とするなら食物を与えなさい。これが賢い生活の知恵だ。

 彼女が自然な意識の状態から離れていくのではないかと恐れているが、真理は決して誰からも去って行くことはない。真理から我々はやってきて、真理へと戻って行き、真理の中で生きるのだ。
     
Q:どのようにして彼女を導いて行くことができますか?
     
 あなた自身に絶対的な信念を持つことだ。全ての活動は内なる「それ」によってなされると
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

734鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/19(土) 23:37:44 ID:1d4drIFg0

 子供は親の真似をして育つものじゃ。
 親の言う通りには育たないのじゃ。
 子供を叱れば叱る子供になるのじゃ。
 自分が実践すれば、実践する子供になるのじゃ。

735避難民のマジレスさん:2022/03/19(土) 23:58:52 ID:CRqxEvXU0
133.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part2⑥
巧みさの精髄(6)

Q:座ることも歩くこともできない位ひどく背骨を痛めました。3年間苦痛に耐えてきましたが、時々私はこれで死ぬのではないかと思う時がありました。どのようにして肉体との同一化から抜け出すことが出来すか?

 あなたが病気のときは肉体との同一化から抜け出すことはできない。だから良くなって、身体の問題を解決してから他のことについて話しなさい。

 人が病気にかかっているときはいつも苦痛と同一化しているものだ。彼のマインドはいつも苦痛の上にある。どうして真我を自由にすることができるかね? それは不可能だ。あなたの肉体が強丈で、マインドが平静でない限りそれは全く不可能だ。

 肉体とマインド、両方が健康なとき真理の実現について話すことができる。さもないとそれは不可能だ。あなたの肉体をまず面倒みなさい。

Q:結婚していても悟りを得ることが出来ますか?

 人は結婚すべきだと私は思うし、アーリア文化もそれに同意している。もし、結婚しないなら「その人」はあなたのマインドの中にいて、結婚したら「その人」はあなたの側にいる。全ての人にとってセックスは大変重要だ。だから結婚生活は必要だ。セックスの欠如が悟りを助けるのなら、去勢者が最初に自由になったはずだ。

 あなたの人生で結婚は最も重要な要因だ。*ブラフマチャリアは一般に独身・禁欲を意味しているようだが、子供をもうける為に妻や夫と一緒にいるという意味でもある。

 あなたの真我といるのが真のブラフマチャリアだ。


用語解説
*1ブラフマチャリア ① 文字通りの意味はブラーマンとして存在する。 ② 単に独身生活を意味する。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

736鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/20(日) 23:07:53 ID:1d4drIFg0

 お釈迦様も結婚していて子供もあったのじゃ。
 それでも真の悟りを目指して実践して悟れたのじゃ。
 結婚してはいかんということはないのじゃ。
 この世の全てを捨てる気になったら修業の道に入ると善いのじゃ。

737避難民のマジレスさん:2022/03/20(日) 23:21:22 ID:naSg..kE0
134.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part3①
死と死ぬこと(1)

  死を恐れることはない。
  死は怒り、貪欲、好き嫌いのある人を傷つけるだけで
  それ以外は祝うべきめでたい機会だ。
  死に物狂いに働いてきたマインドが死ぬだけだ。
  神々でさえ死に直面しなければならない。
  魂は死ぬことはない、それを知っていれば悲しみはない。
  死とは肉体を作りあげている五つの元素が離散して元に戻ることだ。
  
  サンサーラは欲望、欲望がサンサーラ。
  欲望は夢を与えそれを増殖していく。
  この肉体が死ぬ最後の瞬間には
  眠っている習癖、実在しない恐れ、心配が目の前に現れる。
  走馬灯のように流れていく過去の出来事の中であなたの最も興味があるもの、
  手放すことのできない思いが来世となる。
  記憶に残された足跡があなたの来世を創りだす。
  だから死の瞬間、真我だけを覚えていなさい。

  心臓が止まると、不滅のハートが支配する。
  そう、心配することはない、
  死がやってきたら笑って行きなさい。

Q:娘の死がもたらしたトラウマから立ち直るのにどうか力を貸して下さい。

 娘のことを考えているのならサットサンガにいることにはならない。それらのことを単にあらしめなさい。愛する人を失くさなかった人がどこにいよう。ここにいる間は「ここ」にいて、過去と関わらないことだ。現在を、今あなたに差し出されたものを役立たせなさい。

Q:娘の死は決定的で、愛する焦点を失したように感じます。

 全てはいつか去って行く。死がそのことに対して決定的だと知ったなら物事をどのように取り扱ったら良いか分かるはずだ。子供が生まれたその瞬間から死が後からついて来る。遅かれ早かれ、あなたの娘はこの死という化け物に飲み込まれたはずだ。それは全ての存在に起こることだ。

  死を避ける唯一の方法がある。それはあなた自身を知ることだ。今!

 全ての人が昏睡状態にある。全ての人が分別することなしに眠っている。だから一番大切なのは時間を無駄にしないことだ。明日を見ないこと。あなたの前に現れる存在の実体は何かみつけだしなさい。今やりなさい。

 夢の中で美しい女性と恋をし結婚して何十年と彼女と暮らす、しかし夢から目を醒ますとこの妻はどこにいるのか? このように幾生にわたって妻や夫を所有してきた。兄弟姉妹、彼らはどこにいる? 

 それらは夢だ。現れて消えるものは夢であるに違いない。現れもしないし、消えもしないものが実在であるに違いない。それは何か、あなた自身の内に見つけなさい。顕現でも消滅でもないものはいったい何か?

 今見つけ出しなさい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

738鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/21(月) 23:04:12 ID:1d4drIFg0

 愛する者を失った悲しみは苦しいものじゃ。
 それでも自らを追求するべきだというのじゃ。
 自分自身の内に捜し求めるのじゃ。
 そこには決して滅することのない意識が在るのじゃ。
 そこに至れば亡くなった愛する者と常に共に居たこともわかるのじゃ。
 死は全ての滅亡ではなく、意識に還るだけであるからのう。
 死んだ者とも不死の意識においては永遠に共に居ることもできるのじゃ。

739避難民のマジレスさん:2022/03/21(月) 23:09:37 ID:Cbeq53zc0
135.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part3②
死と死ぬこと(2)

Q:私は死にたい!

 それは不可能だ。肉体は無くなるかもしれないが、あなたは死ぬことはできない。あなたは肉体ではないのだから死ぬことはない。これが経験としてここで得ることだ。

 あなたは誕生と死を越えたものだ。肉体の死が起こる前にこれを見つけ出しなさい。誕生と死とは何か理解しなさい。

Q:私にとって「私は肉体ではない」という考えは完全に理論にすぎません。それを実際に示してくれますか?

 死は肉体に起こって、決して死なない「それ」があなただと知らねばならない。

 唯一の息子を失くし悲嘆にくれた夫婦が、息子の死体を仏陀の所に持ってきて「生きかえらせて下さい」と頼んだ。

 仏陀は「それは簡単なことだ。死人を出したことのない家から一握りの土をもってきなさい。」と言った。

 夫婦は死人を出さなかった家を探し求めて村の至る所を走り回った。もちろん、彼らはそんな家を見つけ出すことはできない。どこにいってもみんな愛する人の死を経験していた。

 遂に彼らは、生まれるものは死ぬ為に生まれて来るのだ。死は名前と形のあるものに起こるのだと悟った。彼らは死についての知識を授けられて仏陀の元に戻ってきた。

 サットサンガがあるところに死は存在しない。サットサンガにいる人は、死は肉体に起こるもので、自分は肉体ではないと知っているからだ。

 死は名前と形のあるものに対して存在する。形のないもの、名前のないものは決して死なない。それを知っている人は肉体、マインド、エゴ、感覚、対象に執着しない。

 あなたの人生の目的を理解してこの理論を実践に移しなさい。執着を楽しみたいのか、自由になりたいのか? その時、あなたの目は開いて死を恐れることはない。

 あなたの目の中に他の恐れがある、それは何かね?

Q:私は今すぐ死ぬだろうという恐れです。ラクナウを去らなければ私は死ぬ、しかし私は去ることができないという感じです。

 この死の恐れは本物だ。それはマインドの死を暗示しているからだ。マインドの死をあなたが死ぬと勘違いしないことだ。マインドが死ぬとあなたは生きるのだ。あなたは自由だ。マインドがあなたにこの恐怖を与えて逃げ出すようにし向けているのだ。

 なぜなら、それは永遠のマインドの死であるからだ。サットサンガでは死への欲望が起こるが、これはマインドだけに起こることだ。恐れないことだ。強くなりなさい。

 ここにいてマインドを死なせなさい。ここにいて死に打ち勝ちなさい。マインドと一緒にいないことだ。臆病であってはいけない。死を招待し、やって来させなさい。あなたは永遠だと分かる。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

740鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/22(火) 23:10:54 ID:1d4drIFg0

 悟りを得たものはもはや死はないと知っているのじゃ。
 誰もが不死の意識と繋がっているのじゃ。
 全ての消滅である死という観念はありえないのじゃ。
 そうであるから誰も死ぬことは不可能なのじゃ。

741避難民のマジレスさん:2022/03/22(火) 23:48:54 ID:.qSC94yI0
136.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part3③
死と死ぬこと(3)

  あなたには二つの選択のみがある。
  マインドが生きるのを許すのか、真我を見つけるのか。
  これはあなたが決めることだ。

Q:死と死ぬこと、天国と地獄について話していただけますか?

 これらはあなたに植えつけられた概念だ。天国の概念と共に「あなたは天国にいない」という概念も植えつけられた。これは障害だ。自由になる為にはこれらの全ての障害を取り除かねばならない。

 これがあなたがここにやって来た理由だ。あなたはいつも自由であったということを確信するために、ここにやって来たのだ。あなたの全人生は「私は束縛されている」「私は苦しんでいる」「私は死ぬ」と繰り返し確信してきた。これらはあなたがもてなした概念だ。

 単にそれらを捨ててしまいなさい。自由はあなたの内であなたを抱擁しようと待っているのだが、あなたはそれを無視し続けてきた。

 今、誰が苦しんでいるのか? 誰が束縛されているのか? 見つけなさい。あなたは誰か見つけなさい。衣服でも皮膚でも髪の毛でも爪でもない。骨や筋肉や頭脳でもない。エゴでもマインドでも感覚でもない。

 これらの全てを一瞬拒絶して、何か残っているか? あなたでないものを拒否したら、あなたの前に何が現れてくるかね? 現れたり消えたりする全ては自分ではないと知ったなら、あなたは何なのか? 何が残っているのか?

Q:ただの「私」。

 「私」は残るだろう。そしてこの「私」は死なない。あなたが拒否したものが死んで行く。すべてを拒否した後に残るものが死と誕生の概念の以前にあるものだ。

 永遠ともてなしてきたこれら全ての概念を取り除き、単にあなた自身を認めなさい。内なる家に戻りなさい。「私は肉体、マインド、エゴ、感覚、私はこの顕現だ」・・これら全ては概念で、眠りの中でこれらの概念は消え去る。

 しかし「眠り」は無知の状態で概念の消滅の後に何が残っているか知ることはない。だから眠りの状態の中で誰が目覚めているか見極めなさい。

 「それ」があなたである。目覚め、眠り、夢みの状態でさえ「それ」に触れることはできない。死や死ぬことや天国・地獄は放っておきなさい。「それ」は決して死にはしない、「それ」があなただ。

 たとえあなたが「私は『それ』ではない」と言っても、「それ」ではないと知って気づいているのは誰か? 無知と疑いを意識しているのは誰か? 苦しみと幸福に気づいているのは誰か? 

 意識が唯一存在するもので、自分は意識ではないと疑うにも意識が必要だ。あなたであるものから、真理から逃げ出すことはできない。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

742鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/23(水) 23:33:19 ID:1d4drIFg0

 悟りを得れば死はないと知れるのじゃ。
 天国も地獄もなく、ただ至福だけがあるのじゃ。
 それが不死の意識なのじゃ。
 自分を追及してそこに至ることができるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

743避難民のマジレスさん:2022/03/23(水) 23:41:58 ID:qDqxAQJQ0
137.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part3
死と死ぬこと(4)

Q:真理でないものは「今ここ」にはない!
 
 確かにそうだ、一度ロープは蛇ではないと知ったなら、たとえ努力してもそれを蛇だと想像するのは難しい。しかも、ロープは決して蛇に変化しなかった。

 それは全てあなたの想像であった、蛇を殺そうと掴んだ石や棒も含めて。自分自身でそれがロープだと確かめなさい。静かにして全ての概念、意図を切り捨てなさい。

Q:私の父の死は私を深い沈黙に連れて行き、私の母は踊るようにして死んで行きました。彼女が彼女の肉体に「さようなら」と言った時、私達は一つの愛として燃えていました。二人の死は大きな愛と自由を私に与えてくれました。あなたといることがこれを思いださせてくれます。パパジ、どうか美しい死の秘密を話して下さい。

 人が完全に意識して死ねるとは、身近な人に別れを告げて死んで行けるとは、何とすばらしい死か!これは大変美しいことだ。ほとんどの人は執着の為に泣き苦しんで死んで行くものだ。

 死に際に何かに執着しているとそれは非常に痛々しい。棘のついた藪から布をはぎ取るようなものだ。執着の棘がマインドの布に付着して、苦痛を引き起こすのだ。

 しかし執着のない稀な人は、ただ呼吸が止まったと感じるだけだ。このように彼は何も苦痛を感じない。ただ呼吸が止まる、それで終わりだ。彼らはこの宇宙から美しく去ってゆく。動物でさえ、この美しい死を経験することができる。

 昔、三人の妻と五人の子供を持った雄象が湖に水浴びに行った。彼が湖に入るや否や巨大なワニが彼の足にかぶりついて引っ張り始めた。彼は妻達や子供達に向かって助けを求めたが、彼らはただ立ちすくんで見ているだけだ。

 彼はどんどん深い水の中に引っ張られて行った、最後の一息の為に鼻を水面から上に伸ばした時、一輪の蓮の花を見た。彼はそれを鼻で摘んで、未知の誰かに助けを求めてその花を差し出した。空に向かって助けを求めた。

 さてその時、象が夢にも見たことのない人が突然現れて、ワニの顎を砕いて象を助けた。象は湖の岸辺に戻って来たが、子供達や妻達とは言葉を交わさず、一人で森の中に入って行った。

 彼が執着していたのもは何の役にも立たないと悟って、彼は決して戻ってこなかった。死後、彼は天国に行ったという話だ。最後の願い、最後の一息があれば神はその人を助けることができる。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

744鬼和尚 ◆01mzPGVdXo:2022/03/24(木) 22:54:26 ID:1d4drIFg0

 死は執着がなければ悲しむことでもないのじゃ。
 ただ変化があるだけなのじゃ。
 意識は消滅しないのじゃ。
 常にいまここにあるものじゃ。

745避難民のマジレスさん:2022/03/24(木) 23:15:23 ID:lIw1Mboo0
138.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第12章 巧みに世界で生きること ☆Part3
死と死ぬこと(5)

Q:私は死を恐れています、私は今死んで行くのではないかと恐れています。

 全ての人が死ぬのだ。全てが。あなたの祖父母はまだ生きているかね? 両親は? 孫が生まれて、あなたが父母から祖父母になるようにこの死ぬことは続いて行く。だから肉体の死については恐れることはない。

 それについて恐れることはない、死には生の中で見つけることができない快楽がある。

 肉体を維持しようという欲望をもたないことだ。肉体が古くなったらそれは死んだ方がよい。年を老いた肉体は維持するのが難しい。肉体を若く保ちたいと望んだ人々の話をしよう。

 タクサラの近くにトンネルのような洞窟があった。その中には不死の湖があった。アレキサンダー大王はほんの33歳であったが大王の死が差し迫っていた。

 大王がインドを侵略した時、ある川辺でヨギに会い、大王は若くして死ぬだろうと予言された。それで、この洞窟にやってきたのだ。唯一の問題はこの湖を探索に行った者は誰も戻って来ないということだ。

 アレキサンダーはもちろん愚かではないので、洞窟の入口に生まれたばかりの子馬を残して、その母馬に乗ってこの洞窟に入って行った。大王は母馬の鋭い臭覚と子馬の所に戻りたいという母性本能を信頼していた。

 遂に大王はこの湖を見つけた。湖の畔に25人程の人が住んでいた。大王は彼らは誰かと尋ねた。

 「私達はこの湖のことを聞いてここにやって来て、この湖のネクターを飲みました。しかし、今私達は10000歳で死ぬことができない。この人生に飽き飽きしています。祝福された死を死ぬことができないのですから。」

 生きた骸骨達と話した後、大王はこのネクターを味わうことなく帰って行った。その代わりに自然な死を味わって死んでいった。

 肉体はこの世で100年位生きるだろう。しかし、心配することはない。生まれる以前「それ」が面倒みていたように、今も面倒みていて、死後も面倒みてくれる。死を恐れることはない!
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)
第12章 巧みに世界で生きること 終了

746鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/25(金) 23:52:55 ID:1d4drIFg0

 既に悟ってしまえば死も恐れる必要はないとわかるのじゃ。
 死とは伸びすぎた爪や髪を切るのと同じことなのじゃ。
 古くなった肉体は自然に衰えて滅びるのじゃ。
 肉体だけが自分と認識していれば、それが恐ろしいと感じるのじゃ。
 その認識が間違いであると観察して気付いたならば、死もまた安心の境地に至れるのじゃ。

747避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 00:01:45 ID:cAswYoqU0
139.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part1①

自由

  自由、解放、悟り、
  これはあなた自身の本質、究極の真我だ。
  これは「ある」こと、
  「私がある」ではない、単に「ある」こと!!
  これが不動のマインドだ。
  この不動性は自由にとって最も偉大な達成だ。
 
  あなたはあなたである波動を全ての人に伝えて行く、
  だからあなた「自身」を満杯の愛で保っていなさい、
  「自由」としてのあなたはどこに行こうとも
  良い波動を残すものだ。

悟り
  
  悟るとはあなたの真の本質を知ることだ。
  沈黙を知ることだ。
  これを知ることは全てを知ることだ。
  自由とはこれといつも一緒にいるということだ。
  解脱は沈黙、この沈黙は平和を伝える言葉だ。

  自由とは独りであること、一体性であること、二元性は存在しない。
  意識に対象が存在しない時に静寂があり、これが自由だ。
  世界は実在すると考える限り自由はない。
  私とあなたが存在する限り自由はない。
  自由とは、私の内の「私」はあなたの内の「私」と同じだと知ることだ。
  この「私」があなた、何の違いもない。

Q:悟りとは何ですか?

 悟りとは全ての基盤だ。実現するとは、「ここ」にあるものはいつも「ここ」にある、と言う確信を得ることだ。

Q:真我実現した人にはどんな兆候が現れるのですか?

 究極に到達した人にはそれを示す確かな兆候が現れるものだ。主な兆候はその人の近くにいるとマインドが平和になることだ。ラマナ・マハルシの写真を見たり、彼の近くに居ると他の人には感じられない何かを感じるものだ。

Q:近い未来に多くの悟った人々がこの地球に現れると予見しますか?

 未来はない。地球はない。悟りを求めている人は誰もいない。悟った人は誰もいない。これが究極の真理だ。時間は観念でそれを考えなければ存在しない。この地球も観念だ。

 静かにしていると、誰もかって存在したことはない。何も存在しない。時間も存在しない。時間はマインドだ。眠りにつくと時間も世界も存在しない。

 マインドが思考、過去。全てがマインドだ。源泉から一つの思考もやってこないとき何が見える? 何が存在する?
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

748鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/26(土) 20:42:45 ID:1d4drIFg0

 いまここですべての者が自由であり、一つであるのじゃ。
 ただ習慣によって自分があると妄想しているから、不自由であり、孤独で苦しいのじゃ。
 自他が一つであることを気付けたならば、もはや孤独も苦もないのじゃ。
 それは全ての者が持つ本質であるから、誰もが悟りを得ることができるのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 23:00:27 ID:hkY/YFiY0
140.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part1②

Q:いつが悟りに熟したときですか?

 功徳のパワーが悟りへとプッシュする。神聖さに接するようにプッシュする。神聖さに触れたものは全て神聖になる。

      神聖な人が真理を実現する。
      神聖さが重要な条件だ。
      マインドの純粋さ、欲望からの解放が自由だ。

 何か一つのことでもマインドが記憶していると悟りの機は熟していない。真の幸福を得るには、感覚の対象物への欲望から自由にならねばならない。対象物に依存する幸福から自由にならねばならない。無欲が唯一の幸せだ。

 幸福感を与える感覚の対象物がやってくるならやってこさせなさい、やって来ないなら幸福を期待して待つのは止めなさい。この世界で何もあなたを幸福にするものはないのだから。

 無が幸福をもたらすのだ。これは確かなことだ。真我以外に誰も誰からも幸福を得ることはない。欲望がないときにこれが手に入る。非常に簡単だ。

Q:目覚めた人と目覚めていない人の物事の見方の違いは何ですか?

 見方が違う。目覚めた人は観察者と観察される物の背後から物を見るのだ。目覚めていない人は観察者として物を見る。目覚めた人は観察者はエゴであると知っている。目覚めた人は観察者・観察の対象・観察を超越している。

 目覚めた人以外、誰が観察者で誰が観察者の背後から見ているのか誰も知らない。だから観察者を見ているその人に顔を向けなければならない。
感覚の対象がある、その前は感覚、感覚の前は感覚に命令するマインド、マインドの前は決定を下す知性、知性の前はエゴ。

 今、エゴを越えて行きなさい。どの意識がエゴに気づいているのか? これはどこから起こって来るのか? 「ここ」から全てが起こってくる。「ここ」は何も影響されない。「ここ」ではあなたはやり手ではないし、あなたが達成したものは何もない。

 これがカルマを越えた悟りであり自由だ。以前に私達が話していたカルマは全てマインドの枠の中にある。マインドの記憶の中でカルマの活動が起こっている。マインドを越えると何も起こらない。

 助言は知的レベルにいる人々に与えられるが、この知的レベル、すなわちマインドを越えてしまったら、かって何も存在しなかったということが分かる。これが根本的な真理だ。何も存在しなかったし、何も存在するものはない。これが究極の真理だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

750鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/27(日) 21:32:51 ID:1d4drIFg0

 観念が小さなことでも浮かばない時が来れば、悟りも近いのじゃ。
 そのような時をできるだけ多くするのじゃ。
 サマーディに度々入れるようになれば、それも可能なのじゃ。
 観察して観念を滅することでもできるようになるのじゃ。
 記憶による観念がない状態でも意識があると気付けば、悟りも近いのじゃ。

751避難民のマジレスさん:2022/03/27(日) 22:02:39 ID:xn.dUYyM0
141.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part1③

 見ることはエゴを通して見る。あなたが見ている顕現はあなたが見る必要があったものにすぎない。あなたが見たかったものは全てあなたの個的な欲望と関係していた。

 眠りにつくとこれら全てが消え去ってしまうように、真理を知った時それらは消え去ってしまう。見たり話したりする物事は目覚めと夢の状態に存在する。

 しかし、あなたの眠りの状態を目撃しているのは誰か? 苦しみの全ては目覚めと夢の状態に属している。しかし、一度目を醒ますと眠りの状態に存在した静かな幸福はどうなるのか? 眠りの後の目覚めの状態でどのようにして、この幸福を賢く利用することができるのか? 

 この静かな幸福からあなたがやって来るのだ。この意識はあなたが気づいていなくても気づいている。目をさますと、なぜこの幸福を忘れてしまうのか? 

 この幸福を尊重すべきだ。眠っている間、目覚めている「それ」を知らなければならない。他の全ての人が(真理に)眠っている時、(真理に)目覚めていなさい。他の全ての人が(欲望に)目覚めている時、(欲望に)眠りなさい。そうすると人生の苦しみに決して影響されることはない。あなたはそれを越えているのだから。

 これを理解するのにどんな修練も必要ない。ただ、それを吸収してそれでありなさい。修練はマインドを強化する。修練は始まって終わる。それは真理ではない。常に存在するものが真理だ。

 修練で何かを獲得することができるかもしれないが、獲得したものはいずれ無くなる。あなたの本質は決してなくすことはできない「それ」だ。眠っている間目覚めている「それ」があなただ。世界が求めているものに対して眠っている「それ」があなただ。この「それ」は説明することはできない。

Q:多くの人があなたは真理を実現した人だと言っています。真理の実現と悟りの間には違いがあるのですか?

 私が真理を実現したと人々が言っているのは、実現についての彼らの概念によるものだ。彼らは私が真理を実現したと言うが彼らと私の間には何の違いもない。
 
 そして、あなたの言うこの二つの言葉は普通交互に同じ意味に使われているが、それらには違いがある。

 「真理の実現」は修練やサーダナの後に実現することだ、実現するものは以前にそこに無かったものだ。方法を通して真理を実現するのが実現と呼ばれる。

 悟りは以前に明瞭でなかった何かに気づくということだ。ダイヤモンドをガラス玉と考えている、後にそれはダイヤモンドだと気づくようなものだ。ガラス玉でないと知った後で光がやって来る。そしてそれに価値を与え始めるのだ。

 しかし、本質は悟りも気づきも越えたところにある。暗闇は全く存在しないのだから、誰が気づくことができて、誰が悟ることができるのか? それはすでにそこにある。概念という埃を拭ぐい去った時、それは姿を現す。

 それはそれ自身で浮かび上がってきて「それ」と合流して、あなたと「それ」の違いを見ることはできない。他に何も見ることはできない。それは言葉では表現することができない。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

752鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/28(月) 21:07:12 ID:1d4drIFg0

 何かを実現すると言えば、本来無かったものごとが実体化するような意味なのじゃ。
 悟りは自我や認識に気づいて本来の意識に還ることなのじゃ。
 そうであるから実現ではないのじゃ。
 それすらもまた言葉による観念に過ぎないのであるがのう。
 言葉に出来ない意識に還れば全ては明瞭になるのじゃ。

753避難民のマジレスさん:2022/03/28(月) 21:42:32 ID:.2ctnplk0
142.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part2①
悟り

Q:パパジ、あなたにはエゴはありますか?

 はい、あります。私にもエゴはあります。彼女は召使いとして私に使えている。召使いなしに家を管理するのは難しい。彼女は非常に役に立って、私に知らせることなしに出来事を処理している。彼女に何の不平もない。彼女を私の家に住ませている。私は彼女と何の問題もなくやっていける。彼女と私の間には何の敵対心もない。彼女は全く幸福にしている。

 ある人は、私がアイスクリームを食べたり、コカコーラを飲むのを見てびっくりする。なぜなら聖人やスワミはコカコーラやアイスクリームを食べたりしないからだ。

 しかし、アイスクリームは悟りと何の関係もないし、悟りはアイスクリームに影響されることはない。アイスクリームは舌から胃に入って行く。だから、アイスクリームがやって来るとそれを食べる。私には何の制約もないので問題はない。私にはスワミの修行としてのすべきこと、すべきでないことを持ち合わせていない。

 あなたがやりたいことは何でもやりなさい。普通の人生を生きなさい。社会からあなたを切り離して他の人と違った何かになろうとしないことだ。

 マラをつけたり、オレンジの服を着たりするのは「それ」と何の関係もない。どんな色の服を着ようが、どのように振る舞おうが問題ではない。これらのことは宗教に属している。

 すべきこと、すべきでないことは宗教だ。「教会に行くと天国に行き、行かないと死後地獄に行く」。死後何をするべきかと私は言わない。私が言いたいことは、「死ぬ前に時間を有効に使って自由になり、好きなように生きなさい」ということだ。

Q:あなたにはまだ思考がありますか?

 その機会がやって来ると思考はやって来る。しかし、私はそれらを追いかけて、掴まえて、実践するということはしない。道で車が走り過ぎて行くようなものだ。私は車を止めたりしない。多くの人は車を追いかけて、それに捕まろうとする。私は車を通過させ、それが行ってしまったら心配しない。私は車ではない。

Q:真理を実現した後で、なぜ「私」があなたと一緒にいるのですか?

 あなたの言う「私」と私の言う「私」の違いをあなたは理解していない。ほとんどの人が言う「私」はエゴ、肉体、マインド、感覚を意味している。それは生まれた誰かを意味している。あなたは自分は形を持っていると考えて、それに名前をつけたい。その基本的な名前が「私」だ。

 しかし、あなたが眠っている時、目覚めている時の両方にいるのは誰かね?

  ただ静かにしていなさい、
  静けさや形や名前を見ないこと、
  そうするとそこに何か気づきのようなものを見る。
  これが「ブラフマン」と呼ばれているものだ。

 対象や場所や概念に一秒間触らないこと、そうすると名前と形態のない至高の意識があることが分かる。それが本当の「私」である「それ」だ。あなたがそれに行き着くとあなたはもはやそこにはいない。「それ」が「私」として話すのだ!!
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

754鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/29(火) 23:58:00 ID:1d4drIFg0

 悟らなければ人は自我や思考の奴隷なのじゃ。
 自我や思考の欲求で愚かなこともしてしまうのじゃ。
 悟れば自我も思考も召使にできるのじゃ。
 他人と話をして法を説くためには自我も思考も必要であるから使うだけなのじゃ。
 もはや自我や思考に囚われることもないのじゃ。

755避難民のマジレスさん:2022/03/30(水) 00:12:05 ID:76Sti3WA0
143.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part2②

 ラーマティアサはこの「私」について美しく話している。24歳の時に彼は真理を実現し、そして語った;

  私が目覚めると全世界が目覚める。
  私が食べると全世界が食べている。
  私が眠ると全世界が眠る。
  この肉体は行かせよう、私は気にしない、
  私はそよ風だ。花や木に口づけをして、ヒマラヤの滝に触れるのだ。

 これが私の言っている「私」だ。「私」という言葉は単にエゴを意味して使われている。この意味で「私」を使う人は決して幸福ではあり得ない。

 サットサンガはあなたに何も与えないが、あなたのハートの洞窟に隠れている、見ることができない何かがあるという事実をあなたに評価してもらいたいだけだ。

 それは光、知識。「それ」に降伏するなら「それ」があなたの責任を持つ。そうするとあなたが、「私」がそれをやっていると言っても、それをやっているのは「それ」だ。それが違いを作るのだ。

Q:私はあなたが笑っているテープを聞いて、ここラクナウにやって来ました。私はあなたの笑いが大好きです。

 ここで私達は理由無しに笑っても問題はないが、西洋でこのように笑うと、人々はあなたが正気でないか、ドラッグを使っているか、両方かと見なすものだ。

 昔、私がスペインでサットサンガを指導している時、誰かが飛び上がって、私の足にキスしようと走って前にやって来た。彼は飛び上がって笑いながら、「私は神だ、私は神だ」と叫んで、それから外に飛び出した。

 「私は神だ」というのはインドでは問題ない、結局それは真理なのだから。これをヨーロッパで宣言したら受け入れられることはない。次の日、どのように受け入れられないか私は理解した。

 この人が至福に高揚して唄い踊っている所へ警官がやって来て、彼を逮捕した。そして彼の妻が彼を引き取りに行った。その後、彼女は何をしたか分かるかね? 彼女は直接、精神病院に彼を連れて行き、彼は気が狂ったというのを理由に離婚の手続きをした。

 これとは逆に、真の実在を味わったこの男は、おそらくその当時のヨーロッパで一番正直な人であったに違いない。彼は何の期待もなく、実在についての考えもなく、彼はただ「実在」であった。

 そう、私はこの男を精神病院に訪ねて、悟った後どのように社会で生きるかを教えた。その後まもなく彼は釈放された。これが笑いについての、社会の規則についての私の経験だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

756鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/03/30(水) 21:55:35 ID:1d4drIFg0

 目覚めた者がいう私とは、全てなのじゃ。
 全てである意識が私であるというのじゃ。
 そうであるから全世界と共に在るのじゃ。
 全てであるから神でもあるのじゃ。
 神また小さな観念に過ぎないのであるがのう。

757避難民のマジレスさん:2022/03/31(木) 23:16:02 ID:0kLA/JdU0
144.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part2③

Q:なぜ、あなたはラマナ・マハルシの写真を飾っているのですか?

 ある人から恩恵を受けた時、どうしてその人を忘れることが出来るのかね? 誰も与えることのできなかった「それ」を与えてくれた人をどうして忘れることが出来るのかね? 

マハルシ以外に誰も幸福は内にあると教えて、苦しみを取り除いてくれた人はいなかった。だからこの地球に生きている限り、その人に恩を返すべきだ。

 誰かがあなたを助けてくれたら、有り難うと言って$100差し出すかも知れない。しかし、全ての苦しみを永遠に取り除いてくれた人にどのようにして恩返しをすることができるのか?

あなたがどこに行こうともその人が後について来て、全ての面倒を見てくれる。彼はパンジャブの私の家にも来てくれた。それは誰も信じることのできない奇跡であった。なぜなら彼がパンジャブに現れた時、彼はアルナーチャラにいたからだ。

 私は「それ」を求めてインド中を探し回った。「『それ』は内にある」ということを知らなかった。その時、マハルシがパンジャブの私の家にやって来て、アルナーチャラの住所を私に与えてくれた。

 しかしどのようにして彼のところに行ったらよいか? 軍隊を引退してグル探しに全てのお金を使ってしまった。その時新聞の求人広告で、マドラスの会社が引退した陸軍の士官を探しているのを見つけ採用された。そして前金も送られて、そのお金で真っ直ぐにマハルシのところに行き、その一ヶ月後仕事に着いた。

 私がアシュラムに着くと、パンジャブで私に住所をくれたその人がいるのだ。私はその人が自分自身の宣伝をしたに過ぎないと落胆して彼には会わなかった。

 その時ある紳士が私に話しかけた、「あなたは北部からやって来た人だね。」

「はい、そうです。」

「しかし、今着いたばかりなのにもう帰るのかね?」

 それで私は説明した。「この人はパンジャブの私の家にやって来て、私が尋ねた質問の答を得る為にはここにやって来なければならないと住所をくれました。」

 紳士は答えて、「それは何かの間違いだ。彼がここに来て以来50年間、彼は一度もアルナーチャラから離れたことはない、他の人にも聞いて見なさい。」

 このようにして全てが始まった。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

758鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/01(金) 00:10:04 ID:1d4drIFg0

 本当に必要としていたら師は目の前にもいるじゃろう。
 全ては心が作り出すのであるからのう。
 奇跡でもないのじゃ。
 観る必要があるものが見えるのじゃ。

759避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 00:26:41 ID:YeVypRL60
145.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part2④

慈悲と奉仕

慈悲は自由である人に飾られた宝石だ。
この種の慈悲は練習することはできない。
全てがあなたの真我だ。いったい誰が誰を助けているというのか。
この種の慈悲はボーディサットヴァとして人間に生まれかっわって来る。
慈悲はやり手が消えた後に生まれるダルマだ。

真理については愚かな人々に話さないことだ。
単に愛と幸福を分かち合いなさい。
ノーマインドは神からの偉大な贈り物だ。
話さなくてもその沈黙は全地球に行き渡る。
沈黙のバラの花がそのその美しさを放つように。
静寂のうちに座りすべての存在に平和を送りなさい。
海の水は空になっても愛と平和には限りがない。
無我の奉仕としてそれを分かち合いなさい。
これが礼拝だ。

Q:全てが消えていきますが、「私以外の他の人々を助けなければならない」という思考が消えません。

 この消えない思考は誰に属しているのかね? 消えないこの思考の根源を探し出さない限りどんな修行も瞑想も役に立たない。この消えない思考が「私」という思考だ。

 「私」は思考だと誰も知らない。「私」という思考が存在しないときは他の思考も存在しない。だから「私」という思考の根源を断ち切りなさい。あなたはうまくやっているが、誰が盗人か知らない。盗人を捕まえなさい。あなたを騙している盗人は「私」だ。

 他人を助けたいのならあなた自身が自由になることだ。地球上でもっとも裕福な人は全世界を2〜3日養うことができるかもしれないが、仏陀は2600年間世界を養ってきた。

Q:どのようにして世界をよくすることができますか? 

 私の教えは世界を改革することでも、あなた自身を改革することでもない。私が話すことをただ聞いて理解しなさい。

  世界は存在したことはない。
  存在しないものをどのようにして改革するのかね?
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)

760鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/01(金) 23:44:32 ID:1d4drIFg0

 他人も世界も自分の心が創った幻影に過ぎないのじゃ。
 自分が自由にならなければ世界も他人も自由にならないのじゃ。
 自分の心の反映であるからのう。
 自分という観念がなければ全ては平和なのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 23:51:56 ID:PAc1Nte.0
146.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3①

愛:彼方から彼方へ

自由とは誰も知らない何かが始まるということだ。
サットサンガには終りがない。
測り知れない至福が常に湧き上がってくる。

「私は存在―意識―至福だ」という揺るぎない確信を得ることが教えの終焉だ。
しかしこの彼方に神聖な秘密がある。
この神聖な秘密は密かに尋ねられ
神々しくそれに従わねばならない。

絶え間なく源泉に行き続けなさい。
源泉にさえ着地しないことだ。
まだ彼方がある、
限りなく深みに進みなさい。

平和ー気づき-至福から最後の半歩を踏み出しなさい、
そこにはマインドの彼方に息づく神秘が・・・。

Q:発展の最後のステージいるあなたにとってまだ進歩がありますか?

 これは非常に良い質問だ。「これが最後のステージで全てが終わった。これ以降は経験すべき発展も進歩もない」これが多くの悟った人が述べたことだ。

 どの本にも書かれていないが、私はこの方面でまだ何か展開すべきことがあると信じている。理解には終りがない。完璧に最終の実現をした後でも純粋な意図がある限り、まだ成されるべき何かがある。

 それについて話したことはないし今も話さないが。それは知的な把握を超えているので、それを知っている人は表現することは出来ない。私はそれが何か言いたいのだ。

 クリシュナがアルジュナに言ったようにそれは神聖な秘密だ。

 「あなたに授けるこの知識は神聖な知識だ。他の誰かに告げられるべきものではない。」

 私には神秘が非常に神聖で秘密だということが分かる。それは言葉では言い表せない。私はそれを隠しているのではない、ただ話せないのだ。おそらく話すときが来るかもしれない。たとえその時が来ても誰も理解することはできないだろう。

Q:神秘について何か話していただけますか?

 神秘について話すことができたとしたらそれは神秘であるはずがない。それはミステリーではなくヒストリーだ。この叡智は何か誰も知らない。そこに行った人々は二度と戻ってこないからだ。

Q:神秘は真我を超えているのですか?

そうだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

762鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/02(土) 21:44:43 ID:1d4drIFg0

 真我は法として人を導くためのものじゃ。
 それはまだ言葉にして語れるものじゃ。
 神秘はもはや言葉にはできないのじゃ。
 言葉にしてしまえば全ては嘘になるのじゃ。
 実践によって自ら達するしかないのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 22:27:19 ID:gUkKzeYA0
147.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3②

Q:愛とは何か知りたくて仕方がありません。

 この愛に対する熱望が100%充分ではないので、愛に関する質問が起こってくるのだ。河の水面から頭が突き出しているときだけ話すことが出来る。頭を愛の河に沈めたまま話そうとしてごらん。話せるかね?

 話すときは頭がいつも河の水面から突き出て河の両岸にいる人々に話しているのだ。頭が完全に愛の河に沈み込めば、愛について質問することはない。

   愛は身体の毛穴を通じてそれ自体で話す。
   口を開けて離す必要はない。
   愛には言葉がない。
   愛について話すことや経験することができるものは愛ではない。
   考えや饒舌は哲学で愛ではない。

   愛すると愛になる。
   誰が誰に話すというのか?
   ただ見つめてごらん、すると愛が起こる。
   全てが偽りだ、人工的だ、愛以外の全てが。

   愛するとどのように愛するかが分かる。
   分からないというのなら愛ではない。
   愛は内からひとりでにやってくる。
   それを妨げることは出来ない。
   愛があるとき残りの全てが終わりだ。
   他のものに対する執着は落ちる。
   愛だけが、愛することだけが存在する。

   時間がかかるというのは延期していることだ、
   愛のほかに興味があるのだ。
   愛は自発的でハートの住人だ。

Q:「私である」私が宇宙の踊り手に見えます。ありがとうございます。

 私はこの経験を祝福しよう、実際にはそれは経験ではないが。これはここで起こって、あなたは真理への最後のステップに入る。これがあなたの人生の目的だ。

 真理を実現した後は全てを目撃する。良い悪いの判断はない。全てがゲームだと悟る。もし誰かがキスするならOK。誰かがあなたを打ったなら、彼の手が傷つかなかったか確かめなさい。

 昔、ある聖人がいて、水を飲むために川に降りて行った。川の中にサソリが押し流されているのに気づいて、助けようと手を差し伸べたら指を噛まれた。サソリに噛まれるとそれは痛いものだ。

 それでも彼は何度もサソリを助けようと試みて、その度に指を噛まれた。これを近くで見ていた人が聖人に尋ねた。

 「あなたを噛もうとしているサソリをなぜ助けようとしているのですか?」

 聖人が言うには、「習性である噛むことをサソリがやめないのに、なせ私の奉仕の習性をやめるべきかね?」

 だから、演じるには難しいゲームであるかも知れない。あなたに噛みつく多くのサソリはいるし、うじ虫が餌になるあなたを待っている。死があなたを待っている。

 だから、あなたの息が続く限りこのゲームを演じなさい。まわりで起こっていることを全て目撃していなさい。そうするとあなたは賢人だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

764鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/03(日) 21:46:39 ID:1d4drIFg0

 愛についての知識は愛ではないのじゃ。
 むしろ愛から遠ざかる障害になるものじゃ。
 知識とは記憶であり、過去のものであるからのう。
 記憶に囚われていては今ここにある愛は感じられないのじゃ。
 言葉もイメージもない愛は、自他の分別がなければただあるものなのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2022/04/03(日) 23:38:33 ID:aPVtJg4A0
148.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3③

Q:パパジ、私は内なる家にいつも永遠にいます。かって離れたことがないものに入るのは不可能だし、入ったことがないものから離れるのは不可能です。広大な動かない平和があるだけです。

 説明することはできないが、ある種の「熱望」がいつも、いまだに底流を流れている。悟りの前にも後にもこの「熱望」は存在し続ける。しかし、無知が叡智に対して持つ「熱望」ではない。

 「叡智を獲得したら全ては終わりだ、これ以上の経験はない」とある人達は言うが、「それ」は測り知れないものだから、いまだに「それ」に向かって行こうとする動きを私は感じている。

 あなたは「それ」そのものであるが、しかも、あなたを愛にもっと近くもっと深く連れて行こうとする力がその底で働いている。あなたはこの経験をしたのだから分かると思うが、「それ」には終わりがない。しかし、それについては説明することができない。

 「それ」が測り知れないなら、この愛の過程もまた測り知ることなく決して終わることはない。それは河が海に流れ込むようなものだ、ただ広がり続けて、海と河という関係は無くなる。そして、海の底から海の表面へと動き続ける!!(笑)

Q:無の中で愛はもっと深まるように思われます。

 無の中には愛も美もないという人がいる。この手の学派にいる人は「無とは全く何もないことだ」と言うが、これは私の経験ではない。

  底知れぬ無。
  無のまさにそのセンター、
  奥深い無に到着くすると、そこに愛と美が・・・・
  それはとても美しい。

Q:パパジ、私達一人一人に与えて下さったものに、心の底から感謝します。

 あなたの人生、時間、身体を完全に明け渡して、私達に必要な全てを与える為に献身して下さった。

 あなたは本当の降伏、献身、慈悲とは何かを示して下さった。あなたの臨在と知恵に溢れた言葉で、真の知識を私達に明らかにし、平和を与えて下さった。

 あなたの日常生活の中に私達を招待して下さって、どのように巧みにこの世界で生きて行くかを教えて下さった。

 あなたのハートに私達を永遠に取り込み、私達を言いようもない至福に満ちた愛に溺れさせて下さった。

 本当に有り難うございます。パパジ、あなたの愛が私達をその中に溶かして行く、この愛は一体何ですか? 私達は心からあなたを愛しています。信じられない位愛しています。(跪いて、マスターの足にキスをする)
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

766鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/05(火) 00:03:21 ID:1d4drIFg0

 自他の観念がなければそこにも愛があるじゃろう。
 他人と自分が同じであるという感情が真の愛の源泉なのじゃ。
 そこには愛別離苦も怨憎会苦もないのじゃ。
 それこそが永遠の愛の始まりなのじゃ。

767避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 00:12:24 ID:oC/z6xpc0
149.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第13章 自由 ☆Part3④

  愛には愛の中に絶え間なく引きずりこむ、測り知れない力がある、
  真我は真我の中に永遠に広がって行く底力を持っている。
  無の深さ、これがどのように私が愛を経験しているかだ。
  この測り知れなさに入って行けば行く程、
  もっと吸引され、魅せられ、その中に溶けて行く。
  この美しさが魅了し続ける
  その中に深く行けば行く程、一瞬ごとにもっともっと愛の中に入って行く、
  この一瞬は純粋の愛、永遠の愛だ、
  全てが愛、全てがこの愛だ、逃げ道はない。

  愛は真我、理解は必要ない、完璧だ。
  愛以外には何もない、それは歓喜の源。

  「ここ」、「ここ」に愛の秘密が、さあこれをあげよう。

  まず、愛しなさい、
  それから話しなさい。
  愛を話すのに頭は必要ない、ハートだけだ。
  このハートの中では家に戻る為の地図は必要ない。
  あなたはすでに家にいるのだから。
  この愛の中で「ここ」にいることが最も簡単なことだ。
  他の全ては努力だ。
  全ての考えを取り除くこと、これが愛だ。

  愛、ハート、この瞬間が真理。
  この愛を見るには、愛で全てを見ることだ。
  ハートから見るとハートだけが見える。
  エゴから見るとエゴが見える。
  この瞬間の愛は「私」にも「あなた」にも属さない。
  だから、私は愛の中にいる。
  マインドはノーマインドの時、それはハート。
  ハートは、真我は、アートマンは、無。

  バラは沈黙して人を引きつける。
  愛の中にいる人はその美しさで輝く。
  愛を貯めておくことができないなら、全てに全てを与えなさい。
  愛はいつも泉のように満ちて来る。
  全てを愛し、何があろうとも、全てを愛しなさい。
  これが全ての戦いに勝つ秘訣だ。

  愛はいつもあなたを愛している。
  この愛なしに呼吸はできない。
  この愛なしに生きることはできない。
  あなたはこの愛、あなたは「それ」だ。

  ただ、静かにしてそのように居なさい。
  (´・(ェ)・`)
 (おわり)
第13章 自由 終了  

「真理のみ」ウェブ掲載版 全編終了

768鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/05(火) 21:47:27 ID:1d4drIFg0

 愛という思いによって人は自分を手放すことができるのじゃ。
 それは恐れの反対であるからなのじゃ。
 誰も恐れの中では自分を明け渡せないのじゃ。
 愛によってのみ人は全てを明け渡せるのじゃ。
 それが愛の道なのじゃ。

769避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:56:49 ID:s83mPz9Y0
1936年12月16日

バローダの代表として国際宗教会議に参加したグジャラート人のナトヴェルラル・パレック氏がこの地を訪れている。
彼は若い男性で、身だしなみがよく、注意深く、自分が積んだ功徳をかなり自覚している。
彼は、いくつかの質問を書いたメモをシュリ・バガヴァンに差し出した。

質問者
 アートマ・パラマートマ・サッチターナンダを悟ることができるようお願いします。

マハルシ
 アートマ・パラマートマ・サッチターナンダとは、一つの同じもの、つまり真我を意味します。
 そうでなければ、そこに喜びはないでしょう。
 もしそれが永遠でないなら、始まりがあるはずです。
 始まりがあれば終わりもあるため、それは一過性のものに過ぎません。
 一時的な状態を求めても仕方がありません。
 事実、それは努力なしに、常に意識している平和の状態です。
 努力なしに気づきを保っている状態が至福であり、それが悟りなのです。

質問者
 私は知的な答えが欲しいのではありません。現実的な答えが欲しいのです。

マハルシ
 そうです。
 直接的な知識には、知的な言説は必要ありません。
 真我は誰もが直接体験しているのですから、そのようなものはまったく必要ないのです。
 誰もが、"I am(私は在る)"と言っているのです。
 それ以上、何か悟るべきことがあるのでしょうか?

質問者
 私にはよくわかりません。

マハルシ
 あなたは存在しています。
 あなたは "I am(私は在る)"と言っています。
 それは存在を意味します。

質問者
 しかし、私はそのこと、すなわち私の存在について確信が持てません。

マハルシ
 ほう!では、今話しているのは誰なのでしょうか?

質問者
 私です、確かに。
 しかし、私が存在するかどうか、確信が持てないのです。
 しかも、私の存在を認めることは、私をどこにも導かないのです。

マハリシ
 存在を否定する誰かさえいるはずです。
 もしあなたが存在しなければ、質問者は存在しませんし、質問も起こりえません。

質問者
 私が存在すると仮定してみましょう。

マハルシ
 なぜ自分が存在するとわかるのですか?

質問者
 私が考え、感じ、見るからです。

マハルシ
 つまり、あなたの存在はこれらから推論されるということですね。
 さらに、眠りの中では、感じたり、考えたりなどしていないのに、存在があるのです。

質問者
 しかし、そうではありません。
 私は、深い眠りの中で自分が存在するとは言えません。

マハルシ
 では、あなたは睡眠中の自分の存在を否定するのですか?

質問者
 眠りの中で私は存在するかもしれませんし、存在しないかもしれません。
 神のみぞ知る、です。

マハルシ
 あなたは眠りから覚めると、眠りにつく前に何をしていたかを思い出します。

質問者
 眠る前と眠った後のことは言えますが、眠りの中にいたのかどうかは言えません。

770避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:58:02 ID:s83mPz9Y0
マハルシ
 あなたは今、眠っていたと言いますね?

質問者
 そうです。

マハルシ
 眠っている状態を覚えていない限り、どうしてわかるのでしょうか?

質問者
 眠っていたとは言えません。
 そのような存在を認めても、どこにも行き着きません。

マハルシ
 人間は、眠りに襲われるたびに死んで、目が覚めたら蘇生しているということですか?

質問者
 そうかもしれません。
 神のみぞ知る、です。

マハルシ
 それなら、神を呼んで、これらの謎の解決策を見出させましょう。
 もし人が眠ったまま死ぬとしたら、人が死を恐れるのと同じように、人は眠りを恐れることでしょう。
 しかし、実際には人は眠りを求めるのです。
 そこに喜びがない限り、なぜそうでなければならないのでしょうか。

質問者
 眠りには積極的な快楽はありません。
 睡眠を求めるのは、疲労を取り除くためだけです。

マハルシ
 そうですね、「疲労から解放されるため」というのは正しいです。
 疲労から解放された人がいるのです。

質問者
 そうです。

マハルシ
 だから、あなたは眠りの中に存在し、今も存在しているのです。
 あなたは眠りの中で、感じたり、考えたりすることなく、幸せでした。
 同じ人[あなた]が今も続いているのに、なぜあなたは幸せでないのでしょうか?

質問者
 どうして、幸せがあると言えるのでしょうか?

マハルシ
 みんな、スッカマハマスヴァプサム(私は幸せに眠った/幸福に眠っていました)と言いますね。

質問者
 私は、彼らが正しいとは思いません。
 スッカ(至福)はなく、悲しみがないだけなのです。

マハリシ
 あなたの存在そのものが至福なのです。
 ですから、誰もが「私は至福の眠りについていた」と言うのです。
 それは、人は眠りの中で原初の無垢の状態にとどまっているということです。
 悲しみについては、何もありません。
 眠りの中に悲しみがないと言うのなら、それはどこにあるのでしょうか?
 現在、真我を身体と間違って同一視していることが、これらすべての誤解を生んでいるのです。

質問者
 私が欲しいのは悟りです。
 私は現在、自分が本来持っている幸福な性質を感じていません。

マハリシ
 それは、現在、真我が非真我と同一視されているからです。
 非真我もまた、真我から離れているわけではありません。
 しかし、肉体が離れているという間違った観念があり、真我が肉体と混同されているのです。
 幸福を実現するためには、この間違った識別を終わらせなければなりません。

質問者
 私は自分ではどうすることもできません。

(エンジニアは師に帰依することを勧めました。)

質問者
 同意します。

マハルシ
 あなたの本性は幸福です。
 あなたはそれが明らかでないと言っています。
 あなたの真の存在から何が邪魔をしているのか見てみましょう。
 その障害とは、間違ったアイデンティティであると指摘されています。
 だから、その誤りをなくしなさい。
 患者は、治るために医者の処方した薬を飲まなければなりません。

質問者
 しかし、患者は自分ではどうすることもできないほど弱いので、無条件に医者の手に身を委ねているのです。

マハルシ
 医者には自由にさせ、患者は何も言わずに黙っていればよいのです。
 同じように、黙っていなさい。
 それは努力を要しません。

質問者
 それが最も効果的な薬でもあるのですね。

771避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 09:39:05 ID:s83mPz9Y0
その他、彼が書き留めた質問は次のようなものだった。

質問者
 神の存在を私に確信させてください。

マハリシ
 真我の実現は、そのような確信に相当します。

質問者
 プラーラブダ(過去のカルマ)とプルシャカラ(ここでの自己努力)とは、どのように関係しているのでしょうか?

マハルシ
 プラーラブダは、カルマ(行為)です。
 そのためのカルタ(実行者)がいなければなりません。
 そのカルタが誰なのかを見なさい。
 プルシャカラとは、努力のことです。
 誰がそれを働きかけるのかを見なさい。
 そこには同一性が確立されています。
 その関係を知ろうとする者自身が繋ぎ目なのです。

質問者
 カルマや生まれ変わりとは何ですか?

マハルシ
 カルタ(行為者)を見れば、カルマ(行為)は明らかになります。
 もし、あなたが今生まれたら、生まれ変わるかもしれません。
 あなたが今生まれているかどうか見てください。

質問者
 ジョーティダルシャナ(光のビジョン)を得るのを助けてください。

マハルシ
 ダルシャナ(見ること)は、ドラシュタ(見る者)を暗示します。
 彼を見つけなさい、そうすればダルシャナ(見ること)は彼の中に含まれます。

772鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/13(水) 00:12:21 ID:1d4drIFg0

 マハリシはいくつもの質問に対して、いずれも自分を見ることを薦めるのじゃ。
 それこそが全ての仏陀達の説いた唯一の法なのじゃ。
 言葉や方法は違っても、心の中に自分を観察する主旨は同じなのじゃ。
 それが観えたら、悟りもやってくるのじゃ。
 そして眠りの中でも消えない意識があると感得するのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 07:12:16 ID:Qgecbs4E0
羊飼いのプーヴァンは、シュリ・バガヴァンを30年前、ヴィルパクシャ洞窟時代から知っていると言う。
彼は、当時、訪問者にミルクを提供することもあったのだった。

6年ほど前、彼は1匹の羊を見失い、3日間探し続けた。
その羊は妊娠しており、彼は野生動物に襲われたと思い、羊を取り戻せる見込みは全くなかった。
ある日、アスラマムの近くを通りかかったシュリ・バガヴァンは、彼を見かけ、最近どうしているか尋ねた。
男は、迷子の羊を探していると答えた。
シュリ・バガヴァンはいつものように黙っていた。
そして、羊飼いに石を持ち上げるのを手伝ってくれるように頼み、彼はとても喜んでそれをやった。
作業が終わると、シュリ・バガヴァンは羊飼いに言った。
「この道を行きなさい」と、町に向かう歩道を指さした。
「この道を行けば、迷子の羊を見つけることができますよ」。
そこで彼はそうすると、2匹の子羊を連れた見失った羊を見つけたのだ。

羊飼いは言う、
「この人はなんというバガヴァンなんだろう!
 彼の言葉の力を見てください!
 彼は偉大だ!
 私のような貧しい者さえ決して忘れません。
 私の息子のマニッカムのことも覚えてくれています、慈悲ぶかく。
 このような人が偉大な人なのです。
 私は、盛った雌牛の世話など、どんな小さなことでも、彼のためにできることがあればうれしいのです」。

774避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 12:20:10 ID:Qgecbs4E0
マハルシも神通力を持っていたのでしょうか?

775鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/13(水) 23:34:39 ID:1d4drIFg0

 ↑もっていたじゃろう。
 それは悟った者にとっては当然のことであるがのう。
 迷い羊がいつもいるところを知っていたのじゃ。
 いつか飼い主がくると思っていたのじゃろう。
 羊飼いが来たからわかったのじゃ。
 不思議に見えても全ては繋がっているからわかるのじゃ。

776避難民のマジレスさん:2022/04/14(木) 06:14:56 ID:6aogKkR.0
ラマナ・マハルシとの対話297

1936年12月18日

コーエン氏が尋ねた。

質問者
 瞑想は、ジャーグラト(目覚め)の状態での心とともにあります。
 夢の状態にも心があります。
 なぜ、夢を見ているときには瞑想がないのでしょうか?
 そもそも可能なのでしょうか?

マハルシ
 夢の中で訊いてください。

短い沈黙の後、シュリ・バガヴァンは続けた。

マハルシ
 あなたは、今瞑想して、自分が誰であるかを知るようにと言われています。
 そうする代わりに、あなたは「なぜ夢や眠りの中では瞑想がないのか」と尋ねるのです。
 もし、誰にとってジャーグラト(目覚め)があるのかがわかれば、夢と眠りもまた同じ者とって存在することが明らかになるはずです。

 あなたはジャーグラト(目覚め)、スワプナ(夢)、スシュプティ(眠り)の目撃者です……むしろ、それらがあなたの前を通り過ぎるのです。
 あなたは今、瞑想から外れているので、このような疑問が湧いてくるのです。
 瞑想に専念し、これらの疑問が生じるかどうか見てみましょう。

777鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/15(金) 00:08:33 ID:1d4drIFg0

 夢の中で何がどうなっているのか、などという疑問は仏陀には無意味なのじゃ。
 そんなことは死すべき人間が気にするべきことでもないのじゃ。
 せっかく死を超えた仏陀に会えたというのに、夢の中の夢について聞いても何の利益も無いのじゃ。
 そうであるからマハリシは夢の中でも起きていても、それを見る者を探すようにいうのじゃ。
 常に自分を追及することだけがこの夢幻の世界から逃れる道なのじゃ。

778避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 06:23:02 ID:rUQBIQ2U0
ラマナ・マハルシとの対話 298

1936年12月23日

ある訪問者が、瞑想は探求よりも直接的である、なぜなら前者は真理を保持し、後者は非真理から真理を選別するからだ、と疑問を呈した。

マハルシ
 初心者にとっては、特定の形に対する瞑想はより簡単で、より好ましいものです。
 瞑想を実践することは、現実から非現実を選別するアートマ・ヴィチャーラにつながります。

 あなたが真理と相反する要素で満たされているときに、真理を持ち続けることに何の意味があるのでしょうか?

 アートマ・ヴィチャーラは、あなたに「真我がまだ実現されていない」と思わせるような障害を取り除くことにより、実現に直接つながるのです。

779鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/15(金) 21:31:30 ID:1d4drIFg0

 瞑想は集中するだけであるから簡単でやりやすいものじゃ。
 しかしそれだけでは悟りは訪れないのじゃ。
 自分を追及しなければならないのじゃ。
 自分についてなにもわからないのに、瞑想だけをしているならば無意味なのじゃ。
 自分がどのようなものか気付いたならば悟りも訪れるのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2022/04/16(土) 08:16:44 ID:VNkG73cE0
ラマナ・マハルシとの対話 299

1936年12月24日

T. K. S. アイヤール氏がシュリ・バガヴァンに音の源について尋ねた。

マハルシ
 パラ(音)は背骨の一番下にあるムーラーダーラから生じるというのが一般的な見解です。
 ヴァイカリー(想念形態)から始まるすべての音は、クンダリニーから生ずるパラに含まれており、クンダリニーはハートと異なるものではありません。
 実際のところ、シャダーダーラ(6つのセンター)全体はハートに含まれています。
 クンダリニーを源とするスシュムナーは、ハートに含まれてます。

ある訪問者がアンタレーナ・タールケー・セーンドラヨーニヒ*について質問した。

マハルシ
 インドラヨーニはスシュムナー・ナディーと共にパラー(至高者)に含まれています。


(福間巌氏註*)

アンタレーナ・タールケー・セーンドラヨーニヒ : 「タイッティリーヤ・ウパニシャド」1-6-1,2

「クンダリニーは口蓋を通過して大脳に達する」と述べられている。
シャンカラーチャーリャはこの経路を「スシュムナー」と呼んだ。
インドラヨーニとは(ブラフマンに通ずる)インドラの通り道(経路)あるいはインドラの生れた場所を意味する。

781鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/17(日) 00:08:35 ID:1d4drIFg0

 マハリシはハートに集中する者であったから全てはハートに含まれるのじゃ。
 ハートもまた至高の意識の中にあるというのじゃ。
 それもまた感得するものなのじゃ。
 他の者は頭とかに感得するかもしれんのじゃ。
 ありのままに今ここにあるものごとを感じるのじゃ。

782避難民のマジレスさん:2022/04/17(日) 06:41:30 ID:pgcQJsWA0
ラマナ・マハルシとの対話 300

1936年12月25日

科学専攻を卒業したブラフマチャリ(ブラフマチャリヤを実践する男性)の青年は、木から熟したリンゴが落ちるように、何か仕事が舞い込んでこないかと、この4、5ヶ月間、ここで恩寵を待っていた。
彼は他に仕事を見つける努力はしていない。
昨日、兄が彼を両親のところに連れて行こうとやって来た。
しかし、青年はそれを断った。
シュリ・バガヴァンにこの件が持ちかけられた。

マハルシ
 私は誰かに来るように言うことも、出て行くように言うこともしません。
 ここでは誰もが自分の好きなようにします。
 彼はホールで平和を感じ、仕事も欲しいと言っています。
 どうやら、彼の平和が妨げられないように、仕事はホール自体で見つけなければならないようです。
 平和はホールの中にあるのではありません。
 それは真我の安息の中にあるのです。
 それはどこでも得ることができます。

数日後、青年は自身の聖紐を捨て、手足を震わせながらシュリ・バガヴァンの前に現れたが、青年は後にそれを至福(アーナンダ)であると表現した。
シュリ・バガヴァンは彼に、ホールで自分の前に座ることを習慣にしないようにと言い、外に出るよう命じた。
そして、さらにこう続けた。

マハルシ
 ひな鳥でさえ、親鳥に守られているのは、翼が生えるまでの間だけです。
 永遠に保護されるわけではありません。
 帰依者も同じです。
 私は道を示しました。
 あなたは今、その道を進み、どこにいても平安を見出すことができるようにならなければなりません。

この若者は、シュリ・バガヴァンが次のような言葉でウパデーシャ(霊的指導)を与えてくれたと思っている。
「自己(エゴ)は自分自身で征服しなければならない」。

しかし、その男は、地元の学校での仕事の依頼を断り、自分はアルナーチャラの丘かシュリ・バガヴァンから強大な仕事を与えられたと考えていた。
「その仕事が何であるかは、後に世界が知ることになる」と彼は言う。
彼は数ヶ月前からこの日の出来事をすべて予期して、母親や友人たちに予言していた。
彼は、この出来事を喜んでいる。

しかし、シュリ・バガヴァンは彼を、まったく誤っている別の男になぞらえた。
その若者は、自分を未完成のバガヴァンだと思い込んでいる。
その後、彼は気が狂って、死んでしまった。

783鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/17(日) 23:46:55 ID:1d4drIFg0

 インドにもこのように宗教に狂うものがいるのじゃ。
 信仰しているようで実は自我肥大なのじゃ。
 自我が自分だと思い、それが傷つくのが怖いのじゃ。
 無我ならば何の仕事でも恐れることもないのじゃ。

784避難民のマジレスさん:2022/04/18(月) 06:07:10 ID:cAHIrcjk0
ラマナ・マハルシとの対話 301

ある紳士が、シュリ・バガヴァンの指示に従ったときの経験を幾つか熱心に語り、彼とシュリ・バガヴァンが同じ曜日に生まれ、同じ名前を持っていることにも付随的に言及した......
シュリ・バガヴァンはこう付け加え、話を終えた。

マハルシ
 同じ真我が両者の中にあるのです。

785鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/18(月) 23:16:46 ID:1d4drIFg0

 誰にでもアートマンは見出せるじゃろう。
 それが法なのじゃ。
 どこまでも追求していけば、いつかは辿りつくのじゃ。
 全てはつながっているからなのじゃ。

786避難民のマジレスさん:2022/04/19(火) 06:25:07 ID:1s9vYmVk0
ラマナ・マハルシとの対話 302

トゥリチから来たある若者が、ウパデーシャ・マンジャリの中で熟達した弟子の資格としてアティヤンタ・ヴァイラーギャム(完全なる無執着)が述べられていることについてシュリ・バガヴァンに質問し、尋ねた。

質問者
 ヴァイラーギャとは何ですか?
 世俗的な物事から離れ、解脱を欲すること。
 そうではないですか?

マハルシ 
 誰がそれを得ていないのですか?

 人はそれぞれ幸福を求めますが、苦痛に伴う快楽を幸福と誤解しています。
 そのような幸福は一過性のものです。
 誤った行為は、つかの間の喜びを与えます。
 世界には苦痛と快楽が交互にやってきます。
 苦痛を生むものと喜びを生むものとを識別し、幸福を生みだす追求だけに専念することがヴァイラーギャです。
 苦痛を伴わないものとは、いったい何でしょうか?
 人はそれを求め、それに従事します。
 そうでなければ、この世に片足を突っ込み、もう片足を霊的な追求に突っ込むことになります(どちらの領域でも満足に進歩しない)。

グルの役割についてまた質問が出た。

マハルシ
 人は自分自身ではどうすることもできず、自分があまりにも弱いことを知り、グルの形をとったより強い力を求めるのです。

787鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/19(火) 23:20:18 ID:1d4drIFg0

 苦痛から逃れ、快楽を得ようとするのは生物の根源的な欲求なのじゃ。
 それは全ての衆生に備わっている本能なのじゃ。
 そうであるから悟りを求めるのも、苦から離れて永遠の喜びを求めるのであるから全ての衆生がもっている欲といえるのじゃ。
 ただ悟りの道が本当に一切の苦から逃れる道で在ると、確かに知らないから俗世の欲を求めてしまうのじゃ。
 正しい知識があれば、誰もが悟りを求めるのは当然なのじゃ。

788避難民のマジレスさん:2022/04/20(水) 06:36:25 ID:1f0uHof.0
ラマナ・マハルシとの対話 303

K.R.V.アイヤール氏は、ナーダ(音)についてさらに光明を求めた。

マハルシ
 それに瞑想する者はそれを感じるのです。
 ナーダには10種類あります。
 最後の雷鳴のようなナーダの後、人はラヤ(一時的な没入)を得ます。
 それが彼の自然で永遠の状態です。
 ナーダ、ジョーティ、あるいは探究は、このように人を同じ地点に導きます(前者は間接的、後者は直接的)。

質問者
 心はしばらくの間穏やかになりますが、再び現れます。
 どうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 たびたび得られる平穏は、他の時にも覚えておかなければなりません。
 その平穏は、あなたの自然で永遠の状態です。
 継続的な修練によって、それは自然になります。
 それは「流れ」と呼ばれています。
 それがあなたの本性です。

 ナーダやビジョンなどは、トリプティ(認識するもの、認識、認識されるものの三位)の存在を暗示します。
 真我への探求から生じる流れは、シュッダ・トリプティまたは純粋な三位……つまり、未分化の三位なのです。

789鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/20(水) 23:33:34 ID:1d4drIFg0

 ナーダとはヨーガで体内の音に集中する瞑想なのじゃ。
 呼吸の音とか、心音等に集中するのじゃ。
 熟練すれば神秘的な音が聞こえるようになるというのじゃ。
 しまいには雷鳴のような音がするというのじゃ。
 それを実践する者には聞こえるものなのじゃ。

790避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 07:30:58 ID:NWX9.iv60
ラマナ・マハルシとの対話 304

1936年12月26日

あるスイス人女性が、シュリ・バガヴァンに対するフォティズム(視覚性共感覚)を描写した。
彼女が目を開いて座っていると、シュリ・バガヴァンの顔がケルビム(智天使)のようになり、絢爛な花々で覆われているのが見えた。
彼女はその子供のような顔に愛情を抱いた。

マハルシ
 ビジョンはあなたの心の中にあります。
 あなたの愛が原因なのです。
 ポール・ブラントンは私を巨人として見ましたが、あなたは私を子供のように見ました。
 どちらもビジョンです。

婦人は言った。

質問者
 ポール・ブラントンは私に、ここで何か霊的な体験をしたかと尋ねたのですが、私はそれを否定しました。
 今、このようなことが起こっています。

マハルシ
 ビジョンに惑わされないでください。

質問者
 もし、何マイルも離れたヨーロッパにいる人が、あなたの助けを求めたら......。

マハルシ
 ヨーロッパはどこにありますか?
 それはあなたの中にあります。

質問者
 私はここに来ました。
 私はマハルシにそこに来てほしいのです。

(そう言って、彼女は優しく笑った。数分間の沈黙)。

マハルシ
 あなたは物理的身体を見るので、限界を感じるのです。
 時間と空間は、この次元に作用します。
 粗大な身体のことを考える限り、異なる身体として見出される差異が存在するでしょう。
 一方、真のマハルシ(聖者)の知識は、すべての疑念を解決します。

 あなたは今、インドにいますか?
 それとも、あなたの中にインドがあるのでしょうか?
 今でさえ、あなたがインドにいるというこの概念は消えなければなりません。
 インドはあなたの中にあるのです。
 それを確かめるためには、自分の眠りを見てください。
 眠っているときに、ヨーロッパにいるとか、インドにいるとか感じたでしょうか?
 それでも、あなたはその時、今と同じように存在していたのです。

 宇宙はあなたの中にあります。
 物理的身体は空間の中にありますが、あなたではありません。

 ポール・ブラントンはビジョンを見たとき目を閉じていましたが、あなたは目を開けていたと言います。

質問者
 そうです。
 でも、私はビジョンを見たことがありませんが、彼はサイキックです。

791避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 07:32:20 ID:NWX9.iv60
数分後、彼女は、このようなビジョンを見ることは、利点なのか欠点なのか、と尋ねた。

マハルシ
 利点です。

シュリ・バガヴァンは続けた。

マハルシ
 おそらく、あなたは子供のことを考えていて、それがビジョンに現れたのでしょう……。

質問者
 そう、シヴァの、彼の子供のような顔だけ……。

マハルシ
 それです。

質問者
 でも、シヴァは破壊者なんですよ……(子供ではないという意味)。

マハルシ
 そうです、悲しみの。

数分後、バガヴァンは続けた。

マハルシ
 あなたはじきに眠りにつくでしょう。
 朝起きると、あなたは「よく眠れて、幸せだった」と言うでしょう。
 眠っている間に起こったものが、あなたの真の本性なのです。
 それは今も続いています。
 そうでなければ、それはあなたの真の本性ではありません。
 今でさえ、眠りの状態を得なさい。
 それがシヴァなのです。

 私たちは形を持っているのでしょうか?
 シヴァの形を想う前に、それを見極めなさい。
 あなたは眠りの中に存在しなかったのでしょうか?
 その時、何か形を意識していたのでしょうか?
 あなたは眠りの中で形を持っていたのでしょうか?
 あなたはまったく同じように存在していたのです。
 眠りの中にいた「私」も今存在しています。
 あなたは、あなたの眠りの体験によれば、身体ではありませんでした。
 あなたは今、同じように存在しています……つまり、身体を持たずに。
 身体を持たずにいて、あなたは睡眠中幸せでした。
 あなたは今も同じです。
 このように、永続するものだけが、あなたの真の本性であるに違いありません。
 眠りの中では身体はなく、幸せな体験だけがありました。
 それは今も続いています。
 真我は身体がありません。
 もしあなたがこのように身体を持たないのであれば、シヴァがどうして身体を持つことができるでしょうか?
 もしあなたが身体を持っているならば、シヴァもまた身体を持っています。
 もしあなたが違うならば、彼もまた違うのです。

質問者
 では、なぜ彼はシヴァなのですか?

マハルシ
 シヴァとは、幸福……吉兆の権化を意味します。

(彼女はとても喜んでいた。しばらくして、彼女は去った。)

792鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/21(木) 23:52:02 ID:1d4drIFg0

 人が見る世界も神も仏も全て自分の心で造られたものじゃ。
 そうであるから現われた心象も、心の中を示すものなのじゃ。
 それが特殊な力によるものでも、また同じように心の中から現われるものじゃ。
 深い睡眠の中でも消えない意識が真の本性なのじゃ。
 そこに世界や神仏がいなくとも全てであるのじゃ。

793避難民のマジレスさん:2022/04/22(金) 07:39:01 ID:LzPV8th.0
ラマナ・マハルシとの対話 305

訪問者同士が話していて、その中の一人が言った。

「我々は、我々の伝統的な教えに慣れ親しんでいるが、これらの教え(シュリ・バガヴァンの教えのこと)に従うができない。我々のやり方に不慣れな外国人が、どうしてそんなに簡単にシュリ・バガヴァンの教えに従うことができるというのか?」

彼は、ハンディキャップがあるにもかかわらず、我々を理解しようとする彼らの試みに共感し、また適切な知識を持たない彼らを哀れんでいるようだった。

シュリ・バガヴァンは最後にこう言った。

マハルシ
 ビジョンはないよりはあったほうがいいのです。
 彼らはそうやって興味を持つのです。
 彼らは異国の思想になじめません。
 しかし、一度なじめば、続けていきます。
 メリットはこれくらいのものです。

シュリ・バガヴァンはその後、シヴァプラカーシャム・ピライ*のビジョンについて言及した。

「ビジョンは外的なものではありません。それらは内面にのみ現れます。もし、外的なものであれば、そこに見る者がいなくても現れなければなりません。その場合、その存在の根拠は何でしょうか?見る者しかありません」。


(福間巌氏註* : シヴァプラカーシャム・ピライのヴィジョン)

シヴァプラカーシャム・ピライは1902年にマハルシに出会い、「私は誰か?」の質疑応答を記録した最も初期の弟子。
以下は彼のヴィジョンの体験である。

シヴァプラカーシャム・ピライは座るとマハルシを見つめた。
すると、突然頭の周りに目も眩むような光の輪が現れ、マハルシの頭から黄金の子供が出現したかと思うと再び戻っていった。
彼はあふれくる恍惚感に満たされた。
長い間抱えてきた疑いと優柔不断からくる緊張が破れ、彼は純粋な解放感の中でむせび泣いたのだった。
次の日の夜、マハルシの前に座ると、彼は再びヴィジョンを見た。
このときマハルシの身体は朝日のように輝き、その周りには満月のときに見える光輪があった。
それからマハルシの全身は聖灰に覆われ、目は慈悲で輝いているのを見た。
2日後、彼は再びヴィジョンを見た。
このときは、マハルシの身体はあたかも純粋な水晶のように見えた。
恐怖に圧倒されて、彼はそこから立ち去った。
さもなければ、彼のハートの中でこみ上げていた喜びさえも消えてしまっただろう。

『ラマナ・マハルシの伝記』(ナチュラルスピリット刊)より。

794鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/23(土) 00:34:15 ID:1d4drIFg0

 伝統がなくとも不可思議なビジョンを見れば信じるものもいるというのじゃ。
 しかしそれもまた自分の心の中の観念から現われるものじゃ。
 見る者がいなければビジョンもないのじゃ。
 見る者という原因がないからなのじゃ。

795避難民のマジレスさん:2022/04/23(土) 07:30:32 ID:hu6VhfHg0
ラマナ・マハルシとの対話 306

質問者
 瞑想するためには具体的な何かが必要です。
 どうやって「私」に瞑想すればいいのでしょうか?

マハルシ
 私たちは完全に形に根ざしてしまっているので、瞑想するための具体的な形が必要なのです。
 私たちが黙想するものだけが、最終的に残ります。
 あなたが黙想するとき、他の想念は消えてしまいます。
 あなたが黙想する必要がある限り、他の想念が存在します。
 あなたはどこにいるのでしょうか?
 あなたは、あなたが存在するからこそ、黙想するのです。
 なぜなら、黙想する者が黙想しなければならないからです。
 黙想は、彼が存在するところにしかありえません。
 黙想は、他のすべての想念を遠ざけます。
 あなたは自分自身を源に融合させるべきです。
 時には、睡眠、死、気絶などのように、私たちは無意識に源に融合します。
 黙想とは何でしょうか?
 それは、意識的に源に融合することです。
 そうすれば、死や気絶などに対する恐怖が消えるでしょう。
 なぜなら、あなたは意識的に源に融合することができるからです。

 なぜ死を恐れるのでしょうか?
 死が非在を意味することはありえません。
 なぜあなたは眠りを愛し、死を愛さないのでしょうか?
 あなたは今思考していないのですか?
 あなたは今存在していないのですか?
 あなたは眠っている間に存在しなかったのでしょうか?
 子供でさえ、よく眠れた、幸せだったと言います。
 しかし、それは無意識のうちに、眠りの中の自分の存在を認めているのです。
 つまり、意識こそが私たちの真の本性なのです。
 私たちは無意識のままではいられないのです。
 しかし、私たちは、制限された意識に注意を向けているため、「私たちは睡眠中に無意識だった」と言います。
 世界や身体などが私たちの中に深く入り込んでいるため、この相対的な意識が真我であると見なされるのです。
 寝ている間に「自分は無意識だ」と言う人がいるでしょうか。
 彼は今そう言うのです。
 これは相対的意識の状態です。
 したがって、彼は抽象的な意識ではなく、相対的な意識について話しているのです。
 意識は相対的な意識や無意識を超えているのです。

再びティルヴァーチャカムの話に戻り、シュリ・バガヴァンはこう言った。

マハルシ
 四大聖人はみな、最初の一節で自分の体験を述べています。(1) 無分別な崇拝 (2) 絶え間ない想起 (3)想念の生じない状態 (4) 自我はなく、真我がある。

すべて同じ意味です。

質問者
 しかし、この真理は実現されていません。

マハルシ
 いずれは実現されるでしょう。
 それまでは、「ほんの一瞬でさえも、あなたは私の心を離れることはありません」という献身(バクティ)があります。 
 彼が一瞬でもあなたのもとを離れるでしょうか?
 あなたの心がさまよいだすのを許すのは、あなたの方です。
 彼は常に変わりません。
 あなたの心が定まったとき、あなたはこう言います。
 「彼は一瞬たりとも私の心を離れることはありません」と。
 なんとばかげたことでしょう!

796鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/24(日) 00:01:07 ID:1d4drIFg0

 黙想とは意識的に源に融合することであると、マハリシは説いたのじゃ。
 それは誰の心の中にもあるものじゃ。
 むしろそれこそが全ての存在の本体なのじゃ。
 全てはそこから起こったものなのじゃ。
 それに身を委ねることが全ての瞑想の目的なのじゃ。

797避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:42:21 ID:qd1MKDrg0
ラマナ・マハルシとの対話 307

1936年12月27日

マイソールから来たシャマンナ氏がシュリ・バガヴァンに尋ねた。

質問者
 どうかアハム・スプラナ(「私-私」の光)について説明してください。

マハルシ
 「私」は眠っている時には知られません。
 目が覚めると、通常、「私」は肉体や世界、そして非真我と結び付いて知覚されます。
 そのように結び付けられた「私」がアハム・ヴリッティです。
 アハムが真我だけを表すとき、それはアハム・スプラナです。
 これはジュナーニにとって自然なもので、これそのものがジュナーニによってジュナーナと呼ばれ、バクタによってバクティと呼ばれているのです。
 それは睡眠中も含めて常に存在するにもかかわらず、知覚されません。
 それは睡眠中に一度に知ることはできません。
 それは、まず起きている状態で認識されなければなりません。
 なぜならそれは、3つの状態すべての根底にある私たちの真の本性だからです。
 努力はジャーグラト(目覚め)の状態でのみ行われ、真我は今ここで実現されなければなりません。
 それはその後、ジャーグラト、スワプナ、スシュプティに中断されない、連続した真我であると理解され、実現されるでしょう。
 このように、それはアハンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない経験)です。
 ヴリッティは、より良い表現がないために使われています。
 文字通りのヴリッティであると理解してはなりません。
 その場合、ヴリッティは「海のような川」と同様ですが、それは不合理です。
 ヴリッティは持続時間が短いものです。
 それは限定された、方向づけられた意識です。
 あるいは、想念や感覚などの認識によって分断された絶対的な意識です。
 ヴリッティは心の機能であるのに対し、継続的な意識は心を超越します。
 これが、ジュニャーニや解脱した存在の自然で原初の状態です。
 それは途切れることのない経験です。
 それは、相対的な意識が収まったときに、自分自身を顕わにします。
 アハム・ヴリッティ(「私」-想念)は途切れますが、アハム・スプラナ(「私-私」の光)は途切れることなく、継続します。
 想念が収まった後、その光は輝きを放つのです。

798鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/24(日) 22:34:39 ID:1d4drIFg0

 アハム・ヴリッティは五体や知覚に投射された自己観念といえるじゃろう。
 その働きがないものがアハム・スプラナなのじゃ。
 無我の状態といえるのじゃ。
 それもまた言葉通りのものではないがのう。
 言葉を超えたものは、自ら体験して確かめるしかないのじゃ。

799避難民のマジレスさん:2022/04/25(月) 07:08:24 ID:slvVrXSM0
ラマナ・マハルシとの対話 308

1936年12月31日

不可触性に関する質問があった。

マハルシ
 非自己は触れることができません。
 社会的な不可触性は人間が作り出したものですが、他の不可触性は自然で神聖なものです。

質問者
 不可触民は、私たちの寺院に入ることを許されるべきでしょうか?

マハルシ
 それを決めるのは、他の人たちです。

ヴィシュヌのアヴァターに関する質問があった。

マハルシ
 私たち自身のアヴァターを知りましょう。
 他のアヴァターの知識は後からついてきます。

再び、イーシュヴァラについての質問があった。

マハルシ
 イーシュヴァラの存在は、私たちのイーシュヴァラに対する観念に従います。

 まず、イーシュヴァラが誰の観念であるかを知りましょう。
 その観念は、それを思い描いた人に従っているだけでしょう。
 あなたが自分が誰であるかを見いだせば、他の問題は自ずと解決されるでしょう。

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/25(月) 22:28:36 ID:1d4drIFg0

 どのような質問にも、マハリシは自分自身の内側に目を向けるようにと誘導するのじゃ。
 それこそが言葉で伝えられる唯一の教えなのじゃ。
 他の知識はいらないのじゃ。
 全て観念遊戯であるからのう。
 観念を優先させて自己の探求を忘れないようにと、マハリシは常に注意するよう説くのじゃ。

801避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 07:25:37 ID:tna/dDuc0
ラマナ・マハルシとの対話 309

1937年1月1日

質問者
 アハム・ブラフマースミ(私はブラフマンである)とブラフマイヴァーハム(ただブラフマンだけが私である)の違いは何でしょうか。

マハルシ
 前者はプラティヤクシャ・ヴリッティ(直接体験)であり、後者はパロークシャ・ジニャーナ(間接的知識)です。
 前者はアハム(「私」)の実現から始まりますが、後者は、同じものが実現されるとしても、真我と不可分である伝聞のブラフマンから始まります。

802鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/26(火) 22:32:28 ID:1d4drIFg0

 自らがブラフマンに没入する体験はありえるのじゃ。
 本当に没入したらもはや私はないのじゃ。
 ブラフマンだけが私であるというのは観念に過ぎないのじゃ。
 ブラフマンは全てであるから、あるものだけがブラフマンであり私であるという限定は出来ないからなのじゃ。

803避難民のマジレスさん:2022/04/27(水) 07:08:37 ID:OSx.b5H.0
ラマナ・マハルシとの対話 310

グリーンリース氏
 10月にこのアーシュラマムを去った後、私は10日間ほどバガヴァンの平安に包まれていることに気づきました。
 仕事に追われている間じゅう、その一体感の平安が奥底を流れていたのです。
 それは、退屈な講義で半分眠っているときの二重意識のようなものでした。
 そして、それは完全に消え去り、代わりに以前の愚かさが戻ってきたのです。

 仕事が、瞑想する時間を残してくれません。
 常に「私は在る(I Am)」を思い出し、実際に仕事をしながらそれを感じようとすることで、十分なのでしょうか。

マハルシ
 それは、心が強くなったときに、常にできるようになります。
 繰り返し修練することで心が強くなり、そのような心は流れにつかまることができるようになります。
 その場合、仕事に従事していようがいまいが、流れは影響を受けず、途切れることはありません。

質問者
 別の瞑想はまったく必要ないのですか?

マハルシ
 瞑想は、今のあなたの真の本性です。
 あなたがそれを瞑想と呼ぶのは、他の想念があなたの気を散らしているからです。
 これらの想念が払い除けられたとき、あなたは一人、つまり想念から解放された瞑想の状態にとどまるのです。
 そして、それこそが、あなたが今、他の想念を遠ざけることによって得ようとしている、あなたの真の本性なのです。
 このように他の想念を遠ざけることが今、瞑想と呼ばれています。
 修練がしっかりしたものになると、真の本性がそれ自身を真の瞑想として顕わします。

 あなたが瞑想しようとすると、他の想念がより力強く生じるのです。

すぐに他の数名が質問を一斉に唱えた。

シュリ・マハルシは続けた。

マハルシ
 そうです、瞑想中にはあらゆる種類の想念が生じます。
 それはまったく正しいことです。
 あなたの中に隠れているものが引き出されるのです。
 それらが浮かび上がってこない限り、どうして破壊されうるのでしょうか?
 それゆえ、それらは、やがて消滅させられるために自然に浮かび上がり、このようにして心を強くするのです。

訪問者
 すべてはブラフマンであると言われています。

マハルシ
 そうです、すべてはブラフマンです。
 しかし、あなたがそれらが分離していると考える限り、それらは避けられなければなりません。
 一方、それらが真我であることが分かれば、「すべて」と言う必要はありません。
 なぜなら、存在するものはすべてブラフマンだけだからです。
 ブラフマンの他には何もありません。

質問者
 リブ・ギーターは、非常に多くの対象を非現実であると語り、最後に、それらはすべてブラフマンであり、したがって現実であると付け加えています。

マハルシ
 そうです。
 あなたがそれらを非常に多くのものとして見るとき、それらはアサット、すなわち非現実です。
 しかし、あなたがそれらをブラフマンとして見るとき、それらは現実であり、それらの基質であるブラフマンから現実性を引き出しているのです。

質問者
 なぜウパデーシャ・サーラムは、身体などをジャダ、すなわち非生命だと語っているのですか?

マハルシ
 あなたが、それらは真我から離れた身体などであると言う限りにおいてです。
 しかし、真我が見いだされれば、この身体なども真我の中にあることがわかります。
 その後、誰もその質問をしなくなり、誰もそれらが非生命であるとは言わなくなります。

質問者
 ヴィヴェーカは、真我と非真我を識別することだと言われています。
 非真我とは何ですか?

マハルシ
 実は、非真我というものはありません。
 非真我は真我の中にも存在します。
 真我が非真我のことを語るのは、自分自身を忘れてしまったからです。
 それは自分自身を見失ってしまったので、結局のところ自分自身以外の何ものでもないものを非真我と思い込んでいるのです。

こうして、諸説の主唱者たちの議論は白熱した。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/28(木) 00:03:47 ID:1d4drIFg0

 瞑想とは真の本性以外の想念を遠ざけることだというのじゃ。
 最初は想念がいろいろと浮かんでくるが、瞑想を続けていれば全て滅して行くのじゃ。
 そして思考に隠されていた真の本性も観えてくるのじゃ。
 それが全てであるブラフマンなのじゃ。
 全てのものごとは全く同じ本性をもっているからなのじゃ。
 自分自身にあるその本性を追求することで、全ての本性も見出せるのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 07:37:13 ID:egdLjUPU0
ラマナ・マハルシとの対話 311

1937年1月2日

マハルシ
 立ち昇る「私」はまた、沈みます。
 それは個の「私」あるいは「私」という観念です。
 立ち昇らないものは、沈むことはありません。
 それは在り、永遠に在り続けます。
 それが普遍的な「私」、完全な「私」、すなわち真我の実現です。

午後5時30分、スイス人の女性がシュリ・バガヴァンに、瞑想をしばらく続けると頭が痛くなると訴えた。

マハルシ
 もし、瞑想者と瞑想が同じものだと理解されれば、頭痛や同様の訴えはなくなるでしょう。

質問者
 しかし、それらは異なっています。
 どうして同じものだと考えられるでしょうか?

マハルシ
 それは、あなたの視点のためです。
 ただ一つしかなく、違いはないのです。
 瞑想すれば、相対的な意識は消え去ります。
 それが全滅ではないのは、絶対的な意識が生じるからです。
 聖書には、「天の国はあなたの内にある」と書かれています。
 もし、あなたが自分自身を身体だとみなしているなら、この言葉を理解するのは難しいでしょう。
 一方、あなたが本当の自分を知っているなら、天の国もすべても、あなたの真我に含まれています。
 それらは、自我が発生した後に生じた概念です。
 ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァ・パシュエード・ブラフママヤン・ジャガト(あなたの目を内に向け、それを絶対化しなさい)。
 その絶対的な自覚を実現した上で、外を見れば、宇宙は実現された絶対なるものと不可分であることに気づくでしょう。

 あなたの視点は外に向けられているので、あなたは「外」のことを話します。
 その状態であるために、あなたは「内」を見ることを勧められているのです。
 この「内」は、あなたが求めている「外」に対して相対的なものです。
 実際は、真我は外でも内でもありません。

 天について語るとき、人は天を上か下か、内か外かのように考えますが、それは人が相対的な知識に慣れているからです。
 人は客観的な知識だけを求めているので、このような考えになってしまうのです。

 現実的に言えば、上も下もなく、内も外もないのです。
 もしそれらが実在するならば、夢のない眠りの中にも存在するはずです。
 なぜなら、実在するものは、連続的で永久的でなければならないからです。
 睡眠中に「内」や「外」を感じたでしょうか?
 もちろん違います。

質問者
 私は覚えていません。

マハルシ
 もしそこに何かがあれば、それは思い出されるでしょう。
 しかし、あなたはそのときの自分の存在を認めています。
 同じ真我が今話しているのです。
 眠っているときには未分化だった真我が、現在の状態では分化しており、多様性を見ているのです。
 真の実在とは、客観的な知識を欠いた唯一のものです。
 それが絶対意識です。
 それこそが、私たち全員が認める幸福の状態です。
 その状態は、この起きている状態においてさえももたらされなければなりません。
 それはジャーグラト・スシュプティと呼ばれます。
 それがムクティです。

806避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 07:38:09 ID:egdLjUPU0
質問者
 自我が、輪廻転生するものです。

マハルシ
 そうです。
 しかし、輪廻転生とは何でしょうか?
 自我は同じままです。
 新しい身体が現れて、それを保持します。
 自我は変わりません。
 それが一つの身体を離れ、別の身体を探して見つけることはありません。
 あなたの粗大な身体にさえも何が起こるのか見てみましょう。
 あなたがロンドンに行くとします。
 どうやって行きますか?
 乗物を使って波止場に行き、汽船に乗り込み、数日でロンドンに到着します。
 何が起こったのでしょうか?
 乗物は動きましたが、あなたの身体は動きませんでした。
 それでもあなたは、地球のある部分から別の部分へと旅したと言います。
 乗物の動きがあなたの身体に重ねられているのです。
 あなたの自我についても同様です。
 輪廻転生は、重ね合わせです。
 例えば、夢の中で何が起こるのでしょうか?
 あなたは夢の世界へ行くのでしょうか、それともそれはあなたの中で起こるのでしょうか?
 間違いなく後者でしょう。
 ちょうど転生と同じです。
 自我はずっと変化しないままです。

 繰り返しになりますが、あなたの眠りの中には時間も空間もありません。
 それらは「私」という想念が生じた後に生じる観念です。
 「私」という想念が立ち昇る前には、観念は存在しません。
 ですから、あなたは時間も空間も超えているのです。
 「私」という想念は限定された「私」に過ぎません。
 真の「私」は無限で、普遍的で、時間も空間も超えています。
 観念は眠っているときは存在しません。
 ちょうど眠りから覚め、外の世界を見る前に、あなたの純粋な真我である自覚の状態が存在します。
 それが知られなければなりません。

質問者
 しかし、私はそれがわかりません。

マハルシ
 それは、理解の対象ではありません。
 あなたがそれです。
 いったい誰が、そして何を理解するというのでしょうか?

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/28(木) 23:05:27 ID:1d4drIFg0

 瞑想をして思考や雑念が消えたならば、それでも消えない意識が在るとわかるじゃろう。
 意識は常にあり、滅することはないのじゃ。
 それは肉体に縛られたものでもないのじゃ。
 常にあり続け変ることはないのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2022/04/29(金) 07:13:21 ID:/kN5DyGE0
ラマナ・マハルシとの対話 312

プーナのV・K・チョールカル氏
 「汝自身を知れ」、あるいは、あなたの中の「私」が誰であるかを知りなさい言われています。
 それを行う方法は何でしょうか?
 ただ機械的にずっとマントラを繰り返すだけでいいのでしょうか、それとも、なぜマントラを繰り返しているのか、その都度思い出しながらやらなければならないのでしょうか。

マハルシ
 あなたは、いつも自動的にマントラを繰り返しています。
 もし、永遠に続いているそのアジャパ(無言の詠唱)に気づいていないのなら、ジャパに取り組むべきです。
 ジャパは努力を伴って行われます。
 その努力とは、他の想念を追い払うことを意味しています。
 そうして、ジャパは精神的、内面的なものになります。
 最後に、そのアジャパと永遠の本性が実現されるでしょう。
 なぜなら、それはあなたの努力なしでも続いていることがわかるからです。

 努力のない状態が、実現の状態なのです。

チョールカル氏は、再び実践的な観点からの、つまり彼自身に適した教えを求めた。

マハルシ
 それは、外的なものではないので、他に求める必要はないのです。
 それは内的なものであり、また永遠でもあります。
 それは常に実現されています。
 しかし、あなたは気づいていないと言います。
 それはそれ自身への絶え間ない注意を必要とします。
 それ以外の努力は必要ありません。
 あなたの努力は、他の想念に気を取られないようにすることだけを意味しています。

その人物は満足した。

809鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/29(金) 23:00:54 ID:1d4drIFg0

 マントラも極め尽くせば悟りへの道になるものじゃ。
 途中で諦めてしまうのではいかんのじゃ。
 長く続けられる方法が自分にあった法なのじゃ。
 合っていなければ長くは続けられないのじゃ。
 そうであるから実現されているとマハリシは言うのじゃ。
 一つの法を極めつくすまで実践し続けることだけが大事なのじゃ。

810避難民のマジレスさん:2022/04/30(土) 12:28:28 ID:R4vJvKO60
ラマナ・マハルシとの対話 313

グリーンリース氏
 バガヴァンは昨日、人が「内なる神」の探求に従事している間は、外側の仕事は自動的に進むだろうとおっしゃいました。
 シュリ・チャイタニヤの生涯には、彼は生徒たちへの講義をしながらクリシュナ(真我)を探し求めているうちに、自分の体がどこにあるのか忘れてしまい、クリシュナのことを話し続けたと説明されています。
 このように考えると、仕事は放っておいても大丈夫なのか、という疑問が湧いてきます。
 身体的な仕事に一部でも注意を向けるべきでしょうか?

マハルシ
 真我がすべてです。
 今、私はあなたに尋ねます。
 あなたは真我から離れているのでしょうか?
 真我から離れて仕事は続けられるでしょうか?
 あるいは、身体は真我から離れているのでしょうか?
 どれも真我から切り離すことはできません。
 真我は普遍的なものです。
 ですから、あなたが自発的に従事するかどうかにかかわらず、すべての行為は続いていきます。
 仕事は自動的に進んでいきます。
 真我に注意を向けることは、仕事に注意を向けることを含んでいます。

質問者
 もし私が仕事に注意を向けなかったら、仕事はうまくいかないかもしれません。

マハルシ
 あなたは自分自身を身体と同一視しているので、仕事は自分によってなされるものだと考えています。
 しかし、身体と、仕事を含む活動は、真我から離れたものではありません。

 あなたが仕事に注意を向けるかどうかが、どうしたというのでしょうか?
 例えば、あなたがある場所から別の場所へ歩いたとします。
 あなたは一歩一歩に注意を払っているわけではありません。
 しかし、しばらくすると、あなたは気づくと目的地に到着しています。
 仕事、つまり歩くという行為は、あなたがそれに注意することなく続いていたことに気づきます。
 他の種の仕事についても同じです。

質問者
 では、それは寝ながら歩いているようなものですね。

マハルシ
 全くその通りです。
 子供がぐっすり眠っているとき、母親は子供に食事を与えます。
 子どもは、起きているときと同じように、その食べ物をよく食べます。
 しかし、翌朝、その子は母親に「お母さん!昨日の夜はご飯を食べなかったよ」と言います。
 それでも、母親や周りの人たちは、その子が食べたことを知っています。
 しかし、本人は「食べていない」と言います。
 本人は気づいていませんが、行為は続いていたのです。
 夢遊病は、まさにこの種の仕事の良いアナロジーです。

 別の例を見てみましょう。
 荷車に乗った乗客が眠ってしまいました。
 その旅の途中で、牛は動いたり、立ち止まったり、頚木を解かれたりします。
 彼はこれらの出来事を知りませんが、目を覚ますと違う場所にいることに気づきます。
 彼は途中の出来事について至って無知でしたが、彼の旅は終わったのです。

 人の真我ついても同じです。
 彼は身体の中で眠っています。
 彼の覚醒状態は牛の動きであり、彼の三昧は牛の静止状態です(なぜなら三昧=ジャーグラト・スシュプティであるため)。
 つまり、彼は行為に気づいていますが執着していないのです。
 だから、牛は引き具につながれていますが、動かないのです。
 彼の眠りは牛の頚木を解くことです。
 なぜなら、活動の完全な停止は、牛が頚木から解放されることに相応するからです。

 さらに別の例もあります。
 映画館では、シーンがスクリーンに映し出されます。
 しかし、動画はスクリーンに影響を与えたり、変化させたりはしません。
 見る者は画像に注意を払い、スクリーンを無視します。
 画像はスクリーンから分離することはできません。
 それでもスクリーンの存在は無視されます。
 このように、真我もまた、その上に画像、すなわち行為が進行しているスクリーンなのです。
 人は、前者を無視して、後者を意識しています。
 それでも、彼は真我から離れていません。
 意識していようがいまいが、行為は続いていくのです。

質問者
 映画館にはオペレーターがいますね。

マハルシ
 映画館は非生命の材料でできています。
 スクリーン、画像、照明などは非生命であり、オペレーター、つまり生命意識を持つ行為者を必要とします。
 真我の場合、それは意識そのものですから、必要なものは全て揃っています。
 オペレーターが別に存在することはありえません。

質問者は、上記の回答が示唆するように、自分が身体とオペレーターを混同していないと抗議した。

811避難民のマジレスさん:2022/04/30(土) 12:29:14 ID:R4vJvKO60
マハルシ
 身体の機能は、オペレーターの要求を伴っていることを覚えておかなければなりません。
 なぜなら身体という非生命体には、オペレーター、生命意識を持った代理人が必要だからです。

 人々は自分がジーヴァだと思っているので、シュリ・クリシュナは、神がジーヴァのオペレーターとしてハートに宿っていると言ったのです。
 実際には、ジーヴァもオペレーターもいません。
 真我がすべてを構成しています。
 それはスクリーンであり、画像であり、観客であり、演者であり、オペレーターであり、照明であり、その他すべてなのです。
 あなたが真我を身体と混同し、自分自身を演者として想像することは、観客を映画の画像の中の演者だと述べているのと同じことです。
 画像の中の演者が、スクリーンなしでシーンを演じることができるかどうか尋ねるのを想像してください。
 真我と離れて行為をしていると考えている人はこのようなものです。

質問者
 観客に映画の画像の中で演技をしてくれと頼んでいるようなものです。
 夢遊病が望ましいようですね。

マハルシ
 カラスは、どんなものを見るにも、どちらかの目に虹彩を1つだけ入れるという説があります。
 虹彩はただ1つですが、眼窩はふたつあります。
 その視覚は望むままに操られます。

 また、象は1本の鼻で呼吸をし、水を飲むなどの行為をします。

 また、蛇は見るにも聞くにも同じ器官を使うといわれています。

 同様に、行為や状態も、その人の視点によります。
 眠りながらの覚醒も、覚醒しながらの眠りも、夢を見ながらの眠りも、夢を見ながらの覚醒もほぼ同じです。

質問者
 私たちは、物理的な覚醒の世界で、物理的な身体を扱わなければなりません。
 もし仕事の最中に眠ったり、眠りが襲ってきたときに仕事をすると、仕事がうまくいかなくなります。

マハルシ
 睡眠は無知ではありません。
 それはあなたの純粋な状態です。
 覚醒状態は知識ではなく、無知です。
 睡眠には完全な自覚があり、覚醒には完全な無知があります。
 あなたの真の本性は、その両方をカバーし、それを超えて広がっています。
 真我は、知識も無知も超えています。

 睡眠、夢、覚醒は、真我の前を通過する様態にすぎません。
 あなたが気づいているかどうかに関わらず、それらは進行します。
 それが、覚醒、三昧、深い眠り、夢の状態が通過するジニャーニの状態であり、それは前述したように、乗客が眠っているときに牛が動いたり立ったり頚木を外されたりするようなものです。
 これらの質問は、アジニャーニの観点からのものであり、そうでなければこれらの質問は生じません。

質問者
 もちろん、真我にとってそれらが生じることはありえません。
 そこに尋ねることができる誰がいるというのでしょうか?
 しかし、残念ながら私はまだ真我を実現していないのです。

マハルシ
 それこそが、あなたの道を阻んでいるものです。
 あなたは、自分がまだ真我を実現していないアジニャーニであるという考えを捨てなければなりません。
 あなたは真我なのです。
 一時でも、あなたが真我から離れていたことがあったでしょうか?

質問者
 つまり、それは夢遊病、あるいは白昼夢の実験なのです。

バガヴァンは笑った。

812鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/04/30(土) 22:52:57 ID:1d4drIFg0

 マハリシは仕事をしている時でも真我に注意を向けるようというのじゃ。
 全ては真我であるからというのじゃ。
 自分が仕事をしているという思いがあれば、自我の強化になってしまうのじゃ。
 肉体が自動的に仕事を処理していく過程を見守るのじゃ。
 そうすれば仕事によって修行も進んでいくのじゃ。

813避難民のマジレスさん:2022/05/01(日) 15:13:36 ID:hWvCue/c0
ラマナ・マハルシとの対話 314

1937年1月3日

甘露の滴

昨日の答えの中で、シュリ・バガヴァンは、真我は深い眠りの中の純粋な意識であると言い、また、実現の理想として、眠りから目覚めた状態へ移行する真我を示した。

このことを説明するようにと請われた。

シュリ・バガヴァンは快く答えた。

マハルシ
 真我は眠りの中の純粋な意識です。
 それは、移行期にはイダム(「これ」)を含まないアハム(「私」)として展開し、目覚めた状態では、アハム(私)とイダム(これ)として現れます。
 個人の体験は、アハム(「私」)のみを用いて行われます。
 ですので、示された方法で(つまり、移行期の「私」を用いて)実現を目指さなければなりません。
 そうでなければ、睡眠体験は彼にとって重要ではありません。
 もし移行期の「私」が認識されれば、基体が発見され、それが目標につながるのです。

 また、睡眠はアジニャーナ(無知)であると言われています。
 それは、起きている状態で蔓延している間違ったジニャーナ(知識)との関係においてのみです。
 起きている状態が本当はアジニャーナ(無知)であり、眠っている状態はプラジニャーナ(完全な知識)なのです。
 プラジニャーナとはブラフマンのことである、とシュルティ(聖典)は言っています。
 ブラフマンは永遠です。
 睡眠を体験する者はプラージニャと呼ばれます。
 彼は3つの状態すべてでプラジニャーナムです。
 睡眠状態の特別な重要性は、彼が知識に満ちている(プラジニャーナガナ)ことです。
 ガナとは何でしょうか?
 ジニャーナとヴィジニャーナがあります。
 両方ともに、すべての知覚の中で作用します。
 ジャーグラトにおけるヴィジニャーナは、ヴィパリータ・ジニャーナ(間違った知識)、すなわちアジニャーナ(無知)です。
 それは常に個人と共存しています。
 これがヴィスパシュタ・ジニャーナ(明確な知識)になると、それがブラフマンです。
 睡眠中のように、間違った知識が完全に存在しないとき、彼はただ純粋なプラジニャーナのままです。
 それがプラジニャーナガナです。
 アイタレーヤ・ウパニシャッドはプラジニャーナ、ヴィジニャーナ、アジニャーナ、サンジニャーナはすべてブラフマンの名前であると言っています。
 知識だけで構成されているなら、彼はどのように体験されるのでしょうか?
 体験は常にヴィジニャーナを伴います。
 したがって、プラジニャーナガナの体験のためには、移行期の純粋な「私」を保持しなければならないのです。
 覚醒状態の「私」は不純であり、そのような体験には役立ちません。
 それゆえ、移行期の「私」、あるいは純粋な「私」を使うのです。
 この純粋な「私」はどのようにして認識されるのでしょう?
 ヴィヴェーカ・チューダーマニは、「ヴィジュニャーナ・コーシェー・ヴィラサティヤジャスラム(彼は常に知的な鞘、ヴィジュニャーナ・コーシャの中で輝いている)」と言っています。
 トリプラ・ラハスャや他の著作は、連続する2つのサンカルパ(観念や思考)の合間が、純粋なアハム(「私」)を表していると指摘しています。
 したがって、純粋な「私」をとらえながら、プラジニャーナガナを有することを目的とすべきであり、そしてその試みの中にヴリッティが存在するのです。
 これらはすべて、しかるべき各々の場と役割があると同時に、実現につながるのです。

814避難民のマジレスさん:2022/05/01(日) 15:14:33 ID:hWvCue/c0
 ヴィヴェーカ・チューダーマニでは、純粋な真我はアサットを超えている、つまりアサットとは異なると説明されています。
 ここでいうアサットとは、汚染された目覚めの「私」のことです。
 アサッドヴィラクシャナは、サット、すなわち眠りの真我を意味します。
 彼はまた、サットとアサットとは異なると説明されています。
 どちらも同じ意味です。
 彼はまた、アシェーシャ・サークシー(すべてを見る観照者)でもあります。

 もし純粋なら、不純な「私」を用いて、どのように彼を体験することができるでしょうか?
 ある人が「私は幸福に眠った」と言います。
 幸せは彼の体験でした。
 もしそうでなければ、どうして体験しなかったことについて話すことができるでしょうか?
 もし真我が純粋であるなら、彼はどうやって睡眠中の幸福を体験したのでしょうか?
 今、その体験を語るのは誰でしょうか?
 その話し手はヴィジニャーナートマン(無知な自己)であり、プラジニャーナートマン(純粋な自己)について話しています。
 どうしてそのようなことができるのでしょう?
 このヴィジニャーナートマンは眠りの中に存在していたのでしょうか?
 睡眠中に幸福を体験したという彼の言葉は、彼が睡眠中に存在したことを推測させます。
 では、どのように彼はとどまっていたのでしょうか?
 確実に、目覚めているときの状態と同じではありません。
 彼はそこでは非常に微妙な存在だったのです。
 非常に微妙なヴィジニャーナートマンは、マーヤーの様態を用いて、幸せなプラジニャーナートマンを体験します。
 それは、木の枝や小枝や葉の下で見られる月の光のようなものです。

 微妙なヴィジニャーナートマンは、今この瞬間の明白なヴィジニャーナートマンとは明らかに無縁の存在に見えます。
 なぜ、私たちは睡眠中に彼の存在を推測しなければならないのでしょうか?
 その幸福の体験を否定して、この推論を終わらせるべきではないのでしょうか?
 いいえ。
 誰もが睡眠を求め、熟睡を楽しむために良いベッドを用意するのですから、幸福の体験の事実を否定することはできません。

 このことから、認識するもの、認識、認識されるものは、各々微妙な差異こそあれ、3つの状態のすべてに存在するという結論に達します。
 移行期では、イダム(「これ」)が抑制されているため、アハム(「私」)はスッダ(純粋)です。
 アハム(「私」)が優位を占めます。

 なぜ、その純粋な「私」が今、認識されないのでしょうか、あるいは、記憶にすら残らないのでしょうか?
 それは、面識(パリチャイ)が欠けているためです。
 それは意識的に成し遂げられた場合にのみ認識することができます。
 したがって、努力して意識的に獲得してください。

815鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/01(日) 22:50:14 ID:1d4drIFg0

 マハリシは悟りを得てない者は起きている時が無知であり、むしろ寝ている時が完全な智恵があるというのじゃ。
 起きている時には自我があり、観念があるから夢幻の中にいるようなものなのじゃ。
 寝ていれば忘我になるから、少しは真我に近いといえるのじゃ。
 眠りの中で意識的にそれが見られれば、起きている時にも覚えていられるのじゃ。

816避難民のマジレスさん:2022/05/02(月) 07:39:58 ID:hWvCue/c0
ラマナ・マハルシとの対話 315

侍者の一人が尋ねた。
 シュリ・バガヴァンは、「現実と虚構はどちらも同じものだ」と仰いました。
 どうしてそうなのでしょうか?

マハルシ
 タントラ派やその種の人々は、シュリ・シャンカラの哲学を、彼のことを正しく理解せずに、マーヤー・ヴァーダと非難しています。
 彼は何を言っているのでしょうか?
 彼はこう言っています。
 1.ブラフマンは現実である。 2.宇宙は虚構である。 3.ブラフマンは宇宙である。
 彼は、2番目の発言に止まらず、3番目の発言で補足を続けています。
 それは何を意味するのでしょうか?
 宇宙はブラフマンから離れたところにあると認識されており、その認識は間違っているということです。
 反論者たちは、彼の「ラッジュ・サルパ(縄ー蛇)」の解説を指摘します。
 これは無条件の重ね合わせです。
 縄の真理が知られた後には、蛇の幻想は完全に取り除かれます。

 しかし、彼らは、例えばマルマリーチカーやムリガトリシュナー(蜃気楼の水)のような、条件付きの重ね合わせも考慮に入れるべきです。
 蜃気楼は、それが蜃気楼であることを知った後でも消えません。
 幻はそこにありますが、人は水を求めてそこに駆け寄りはしません。
 シュリ・シャンカラは、この両方の解説に照らして理解されなければなりません。
 世界は虚構です。
 それを知った後でも、それは現れ続けるのです。
 それはブラフマンであり、分離していないことが知られなければなりません。

 もし世界が現れるなら、しかしそれは誰に対して現れるのか、と彼は問います。
 あなたの答えは何ですか?
 真我、とあなたは言わなければなりません。
 もしそうでなければ、認識する真我がいないのに世界が現れるでしょうか?
 ですから、真我が現実なのです。
 それが彼の結論です。
 現象は真我として現実ですが、真我から離れてたものとして虚構なのです。

 さて、タントラ派などは何と言っているでしょうか?
 彼らは、「現象は現実である。なぜなら、現象は、それが出現する実在の一部だからである」と言います。
 これら二つの声明は同じではないでしょうか?
 それが、私が言った「現実と虚偽は同じものである」という意味です。

 反論者たちは続けます。
 「無条件の幻想だけでなく条件付きの幻想も考慮すると、蜃気楼中の水という現象は、その水がいかなる目的にも使用できないので、純粋に幻想である。
 しかし、世界という現象は違う、それは目的を持っているからだ。
 では、どうして後者が前者と同等であるというのだろうか?」

 現象は、それが目的や用途にかなうというだけでは、現実とはなり得ません。
 たとえば、夢を例にとってみましょう。
 夢の創造物には目的があり、それらは夢の目的にかなうものです。
 夢の水は夢の渇きを癒します。
 しかし、夢の創造は、目覚めている状態では矛盾しています。
 覚醒状態の創造は、他の2つの状態において矛盾しています。
 連続的でないものは現実ではありえません。
 もし実在するなら、それは常に実在していなければならず、短期間は実在し、他の時は非実在ということはありえません。

 魔法の創造物もそうです。
 それらは現実に見えても幻なのです。

 同様に、宇宙はそれ自体として、つまり根底にある実在を離れて実在することはできません。

817鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/02(月) 22:19:30 ID:1d4drIFg0

 今ここにある現実から離れて、どこか遠いところにブラフマンがあるのではないとマハリシは説いているのじゃ。
 天国とか極楽にいくと、ブラフマンも実現されるのではないかという幻想を打破するためなのじゃ。
 この幻想の娑婆世界でさえ、ブラフマンを基底として存在するのじゃ。
 それは全てが心から作られたものであるからなのじゃ。
 全てはブラフマンである意識の表れなのじゃ。
 そこに観念による幻想を投射しているから迷いの世界もあるのじゃ。
 それがなくなれば、全てはもとからブラフマンだけであったと知れるのじゃ。

818避難民のマジレスさん:2022/05/03(火) 07:05:31 ID:zk.NgNfs0
マハルシ
 映画館の上映でスクリーンに炎が映し出されています。
 それはスクリーンを燃やしますか?
 滝が流れています。
 それはスクリーンを濡らしますか?
 工具があります。
 それらはスクリーンを傷つけますか?

 そのため、アッチェーディヨーン、アダーヒョーヨン、アクレーディヨーヤム(魂は、断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない)などと言われるのです。
 火や水などは、ブラフマン(つまり、真我)というスクリーン上の現象であり、ブラフマンに影響を与えることはありません。

819鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/03(火) 22:39:23 ID:1d4drIFg0

 現世が幻影であるとは仏教でもよく言われることじゃ。
 この世で何が起ころうと、不死の境地は影響されないのじゃ。
 夢の中で傷つけられても、起きれば何の傷もないようにのう。
 夢幻である金や名声や権力は得ても失っても何の意味もないのじゃ。
 幻を捨てて永遠の実在に到達することが、この世の唯一の存在理由なのじゃ。

820避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:11:01 ID:T7iCrEFQ0
ラマナ・マハルシとの対話 317

パルキ氏
 ここに来る多くの人が、あなたからビジョンや思念伝達を受けたと言っています。
 私はここ1ヶ月半ほどここにいますが、まだほんの少しもそのような体験はありません。
 それは私があなたの恩寵を受けるに値しないからでしょうか?
 もしそうなら、私はヴァシシュタクロートパンナ(ヴァシシュタの系譜)でありながら、あなたの恩寵を受けられず、遠く離れた外国人たちが受けているのは恥ずべきことだと感じています。
 この不名誉を取り除くために、何かプラーヤシュチッタ(贖罪の方法)を伝授していただけないでしょうか?

マハルシ
 ビジョンと思念伝達は、心の状態によってもたらされます。
 それは個人に依存し、普遍的な存在に依存するものではありません。
 さらに、それらは取るに足らないものです。
 重要なのは、心の平安です。

質問者
 心の平安はトランス状態の結果です。
 トランス状態はどのようにして得られるのでしょうか?

マハルシ
 トランス状態とは、ただ想念がないだけの状態です。
 その状態は眠りの中に存在しています。
 それによって、あなたは永続的な心の平安を得るのでしょうか?

質問者
 アーシュラマムの刊行物に、トランス状態が必要だと書かれていますね。

マハルシ
 トランス状態は、新しく手に入れるべき別のものではありません。
 あなたの自然な状態が、トランス状態です。

質問者
 しかし、私はそれを感じないのです。

マハルシ
 あなたが正反対の信念を持っているということが妨げなのです。

質問者
 私は真我を実現していないので、自分の永続的なトランス状態を理解していないのです。

マハルシ
 これは繰り返しに過ぎません。
 それが障害となっているのです。
 これは、あなたが非真我を自分だと思うから生じるのです。
 それが間違いです。
 非真我を真我とみなしてはいけません。
 そうすれば、真我はあなたに明らかになります。

質問者
 私は理論的には理解していますが、現実的には理解できません。

マハルシ
  自己の非実現を語る自己という、2つの自己は存在しません。

質問者
 私にとっては、それはまだ理論的です。
 どうしたらトランス状態になれるのでしょうか。

マハルシ
 トランス状態は、その効果が一時的なものにすぎません。
 それが続く限り、幸福があります。
 それから覚めると、古いヴァーサナが戻ってきます。
 サハジャ・サマーディ(努力のない三昧)でヴァーサナが破壊されない限り、トランス状態になんの益もありません。

質問者
 しかし、トランス状態はサハジャ・サマーディに先行しなければならないのではありませんか?

マハルシ
 トランス状態は、自然な状態です。
 行為や現象はありますが、それらはトランス状態に影響を与えません。
 もし、それらが真我から離れたものではないと気づけば、真我が実現されます。
 トランス状態が永続的な心の平安をもたらすのでなければ、トランス状態に何の用があるでしょうか?
 今でさえ、何が起ころうとも、あなたはトランス状態にあることを知りなさい。
 それがすべてです。

質問者
 しかし、私はどのようにすればよいのでしょうか?

821避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:12:41 ID:T7iCrEFQ0
ある学者が述べた。
 ヤトー・ヴァーチョー・ニヴァルタンテー・アプラーピャ・マサナー・サハ(心とともに、言葉も届かないところ)。

質問者は反論した。
 マナサイヴァ・アープタッヴャン(ただ心をもってして実現される)とも言われています。

マハルシ
 そうです。
 純粋な心、すなわち、想念から解放された心こそが、真我なのです。
 純粋な心は、不純な心を超えています。

質問者
 精妙な見る者の、最も精妙な知性で見られるのです。

マハルシ
 心について述べられたことは、これにも当てはまります。

質問者
 もしトランス状態が私の生得の状態だとしたら、なぜトランス状態は実現の前に得られる必要があると言われるのでしょうか?

マハルシ
 それは、人は自分の永遠のトランス状態に気づくべきだということです。
 それに対する不注意が無知です。
 プラマードー・ヴァーイ・ムリティユ(不注意は死そのものである)。

質問者
 事前にトランス状態を得ずに、どうして注意深くあることができるでしょうか?

マハルシ
 よく分かりました。
 もしあなたがそんなにトランス状態を得たいと強く願うなら、どんな麻薬でも役に立つでしょう。
 薬物中毒がその結果であり、解脱ではありません。
 トランス状態にさえ、潜在状態のヴァーサナがあります。
 そのヴァーサナが破壊されなければなりません。

別の信奉者
 ヴァーサナが完全に破壊される前に、真我実現はありうるのでしょうか?

マハルシ
 ヴァーサナには2種類あります。
 1. 無知な者に束縛をもたらすバンダ・ヘートゥと、2. 賢明な者に楽しみを与えるボーガ・ヘートゥです。
 後者は、実現を妨げることはありません。

質問者
 例えば、ヴァーマデーヴァ、ジャダ・バラタなどの、真我を実現した人は生まれ変わるのですか?
 
マハルシ
 実現した人が生まれ変わることはありえません。
 再誕は、縛り付けるヴァーサナによるものです。
 しかし、これらは真我実現の状態において破壊されます。

質問者
 彼らはケーヴァラ・ニルヴィカルパの段階には達しましたが、サハジャ・ニルヴィカルパではなかったということでしょうか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 もし享受のためのヴァーサナだけが実現の状態を妨げず、そしてもし至福の状態を妨げられずに世界の出来事を見ることができるのなら、執着だけが束縛であるということになります。
 合っていますか?

マハルシ
 はい、その通りです。
 執着が束縛なのです。
 執着は、自我を滅すれば消えます。

質問者
 実現は、グルの恩寵によって助けられると言われています。

マハルシ
 グルは、真我にほかなりません。

質問者
 クリシュナはサーンディーピニを師に持ち、ラーマはヴァシシュタを持ちました。

マハルシ
 グルは、求道者にとって外的なものだと言われています。
 心の内向はグルによってもたらされます。
 求道者は外向性を有しているため、グルから学ぶようにと勧められるのです。
 やがて彼は、グルが真我であることを見出すことになります。

822避難民のマジレスさん:2022/05/04(水) 10:13:24 ID:T7iCrEFQ0
質問者
 私にグルの恩寵をいただけますか?

マハルシ
 恩寵はいつもそこにあります。

質問者
 しかし、私はそれを感じません。

マハルシ
 明け渡しが、人に恩寵を理解させるのです。

質問者
 私は、心と魂を明け渡しました。
 自分の心の一番の審判は私です。
 それでも、私は恩寵を感じないのです。

マハルシ
 もしあなたが明け渡していたら、疑問は生じなかったでしょう。

質問者
 私は明け渡しました。
 それでも疑問が湧いてきます。

マハルシ
 恩寵は不変です。
 あなたの判断は変わります。
 それ以外に、どこに落ち度があるというのでしょうか?

質問者
 私は、自分自身を明け渡せるようにならなければなりません。

マハルシ
 ターユマーナヴァルは言いました。
 「私にこれほどまでに議論させ、これほどまでにあなたの言葉に従うことを可能にしたあなたに栄光あれ!」。

823鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/04(水) 23:10:09 ID:1d4drIFg0

 恩寵とかトランスとかの変異を欲しがっているならば、それは世間の金や権力や名声を欲しがっているのと変わりないのじゃ。
 自分の欲を出しているのであるからのう。
 自分の欲があるならば明け渡しても居ないのじゃ。
 全ては今ここにいる自分に最初から備わっているものじゃ。
 さらに何かをほしがる必要は無いのじゃ。

824避難民のマジレスさん:2022/05/05(木) 08:23:57 ID:QA3dYefs0
ラマナ・マハルシとの対話 318

1937年1月7日

ヒンドゥ―教徒の紳士が、死の恐怖はどうすれば克服できるのかと質問した。

マハルシ
 死について考える前に、あなたがそもそも生まれてきたかどうかを調べてください。
 生まれた者だけが死ぬことができます。
 あなたは眠っているときでさえ、死んでいるのと同じなのです。
 そこに、死へのどんな恐怖がありますか?

質問者
 眠っている時、私たちはどうなっているのでしょうか?

マハルシ
 睡眠中に質問してください。
 あなたが眠りの体験を思い出すのは、起きている時にだけです。
 あなたはその状態を「幸せに眠った」と言って思い出すのです。

質問者
 その状態を体験するための手段は何ですか?

マハルシ
 それは、私たちが他の状態で慣れ親しんでいるアンタハカラナとは違い、マーヤーカラナと呼ばれています。
 睡眠状態のアーナンダートマンが覚醒状態のヴィジュニャーナートマンと呼ばれるように、同じ手段でも、状態によって呼び方が違うのです。
 
質問者
 マーヤーカラナがアーナンダを体験している様子をご説明ください。

マハルシ
 どうしてあなたは「私は幸せに眠った」と言えるのでしょうか?
 その体験はそこに、あなたの幸福を証明するために存在しているのです。
 眠っている状態での体験がなければ、起きている状態での想起はありえません。

質問者
 そのとおりです。
 しかし、どうか説明をお願いします。

マハルシ
 どうして描写されうるというのでしょうか?
 もし、あなたが物を取り戻すために水に飛び込んだら、水から上がった後で初めて、その回収について話すでしょう。
 あなたが水に沈んでいる最中は、何も言いません。

質問者
 私は眠っている間、恐怖がありませんでしたが、今はあります。

マハルシ
 なぜなら、ドヴィティーヤードヴァイ・バヤン・バヴァティ(2であることにより、恐怖は生ずる)……恐怖は常に他のものだからです。
 何に、あなたは恐れているのですか?

質問者
 身体、感覚、世界、イーシュヴァラ、行為者性、快楽などの知覚のためにです。

マハルシ
 それらが恐怖を引き起こすのであれば、なぜあなたはそれらを見るのですか?

質問者
 それらは避けられないものだからです。

マハルシ
 しかし、それらを見ているのはあなたです。
 恐怖は誰にとってあるのでしょうか?
 それらにとってでしょうか?

質問者
 いいえ、私にとってです。

マハルシ
 あなたがそれらを見るから、あなたはそれらを恐れるのです。
 それらを見なければ、恐れはなくなるでしょう。

質問者
 では、起きている状態ではどうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 真我でありなさい。
 そうすれば、恐怖に惹き起こす別のものは存在しないでしょう。

質問者
 はい。
 今、私は理解しました。
 もし私が真我を見るなら、その見ることが非真我を追い払い、そして幸福が存在するということです。
 しかし、死の恐怖があるのです。

マハルシ
 生まれた者だけが死ぬはずです。
 死があなたを脅かせるために、本当にあなたが生まれてきたかどうかを確かめてください。

825鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/05(木) 22:50:02 ID:1d4drIFg0

 眠りの時の意識は死の意識と同じなのじゃ。
 そうであるからマハリシは死を恐れる者に、眠りの中では恐れがないことを説いているのじゃ。
 眠ることを恐れない者が死を恐れる必要は無いのじゃ。
 毎日眠って起きるということは、毎日死ぬことを体験しているのであるからのう。
 眠りの中で幸福があるならば、死にもまた幸福は在るのじゃ。

826避難民のマジレスさん:2022/05/06(金) 07:59:41 ID:eTa3nqhY0
ラマナ・マハルシとの対話 319

ゴアから来たヒンドゥー教徒、シュリーダー氏が尋ねた。
 
 ヨーガハ・カルマス・カウシャラム(ヨーガは行為における技である)のカウシャラム(技)とは何でしょうか?
 それはどのようにして得られるのでしょうか?

マハルシ
 結果を気にすることなく、行為をしなさい。
 自分が実行者だと考えてはいけません。
 仕事を神に捧げなさい。
 それが技であり、またそれを得る方法です。

質問者
 サマットヴァン・ヨーガ・ウッチャテー(平静がヨーガである)。
 平静とは何ですか?

マハルシ
 それは多様性の中の単一性です。
 宇宙は今、多様であると見られています。
 すべての物に共通する要素(サーマー)を見なさい。
 それがなされれば、対極(ドゥヴァンドワーニ)中の平等は自然に訪れます。
 しかし、通常、平静として語られるのは後者です。

質問者
 多様性の中にある共通の要素はどのように認識されるのですか?

マハルシ
 見る者はただ一人です。
 それらは見る者なしには現れません。
 他のものがいかに変化しようとも、見る者に変化はありません。

ヨーガハ・カルマス・カウシャラム = 仕事における技がヨーガである

サマットヴァン・ヨーガ・ウッチャテー = 平静がヨーガである

マーメーカン・シャラナン・ヴラジャ = 私にのみ明け渡しなさい

エーカーメーヴァードヴィティーヤム = 二のない一なるもの

これらはカルマ、ヨーガ、バクティ、ジニャーナを表しており、同じ意味を伝えています。

それらは、ただ一つの真理を、異なる側面で表現したものなのです。

827避難民のマジレスさん:2022/05/06(金) 08:00:16 ID:eTa3nqhY0
エーカナート・ラーオ氏

 そのためには恩寵が必要なのでしょうか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 神の恩寵を得るにはどうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 明け渡しによって。

質問者
 それでも私は恩寵を感じません。

マハルシ
 誠意が欠けているのです。
 明け渡しは口先だけのものであっても、条件付きであってもいけません。

これらの言葉を説明するために、聖者ジャスティニアンの一節が読み上げられた。

 「祈りは言葉から成るものではない。
  それはハートからのものである。
  ハートに融合することが祈りである。
  それはまた恩寵でもある。」

 アルヴァールは言います。

 「私はずっとあなたを求めていました。
  しかし、真我を実現すると同時に、あなたが真我であることがわかりました。
  真我は私のすべてであり、だからあなたは私のすべてなのです」。

質問者
 限定、無知、欲望(アナヴァ、マーイカ、カーミャ)という不純物は、瞑想の道を阻みます。
 どうやって克服するのですか?

マハルシ
 それらに惑わされないことによって。

質問者
 恩寵が必要です。

マハルシ
 そうです、恩寵は始まりでもあり終わりでもあります。
 内向は恩寵によるものです。
 忍耐は恩寵であり、実現は恩寵です。
 それが、マーメーカン・シャラナン・ヴラジャ(私にのみ明け渡しなさい)という言葉の理由です。
 もし、人が完全に自分自身を明け渡したら、恩寵を求める部位が残っているでしょうか?
 彼はその時、恩寵に飲み込まれてしまうのです。

質問者
 障害は強力で、瞑想を妨害します。

マハルシ
 もし高次の力が認識され、それに明け渡したならば、どんな障害がどうやってあなたを妨害し得るというのでしょうか?
 もしあなたが「それらは強力だ」と言うなら、それらがあなたを妨害しないように、それらの力の源がとらえられなければなりません。

828鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/06(金) 23:01:14 ID:1d4drIFg0

 自分を明け渡したという者がよくいるが、実は何も明け渡して居ないのじゃ。
 自分を明け渡すのは実際には難しいものじゃ。
 極端に言えばいきなりグルに害されても防御せずに死んで本望とさえ思う境地であるからのう。

 呼吸法とか集中で忘我に至る方がまだ容易なのじゃ。
 熟達すれば自然にサマーディにまで至れるからのう。
 自分を明け渡したと偽っていれば、永遠に恩寵は来ないのじゃ。

829避難民のマジレスさん:2022/05/07(土) 08:11:38 ID:MkueXGeY0
ラマナ・マハルシとの対話 320

ある日常会話の中で、シュリ・バガヴァンはこう指摘した。

マハルシ
 真我実現は適者にのみ可能です。
 ヴァーサナは、ジニャーナが明らかになる前に滅されなければなりません。
 ジニャーナが明らかになるには、人はジャナカ王のようになり、真理のためにすべてを犠牲にする覚悟がなければなりません。
 完全なる放棄が、適性の指標となります。

830鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/07(土) 22:56:44 ID:1d4drIFg0

 ヴァーサナは心の奥に植え付けられた行いの観念記憶なのじゃ。
 ジニャーナは智恵なのじゃ。
 つまりは自分がこのように行ったとかいう自我からの観念を滅するべきというのじゃ。
 自我を完全に放棄して自らの行いを観念から解放しなければならないのじゃ。
 それができる者は稀なのじゃ。

831避難民のマジレスさん:2022/05/08(日) 07:28:11 ID:IdPnLSsQ0
ラマナ・マハルシとの対話 321

質問者
 ジャーグラト(覚醒状態)には不幸が現れます
 なぜ現れるのでしょうか。

マハルシ
 もしあなたが、あなたの真我を見るなら、それらは現れないでしょう。

質問者
 私が誰であるかということに目を向けても、私は何も見つけられません。

マハルシ
 あなたは睡眠中、どのように在りましたか?
 そこには「私」という想念はなく、あなたは幸せでした。
 一方、ジャーグラトでは、「私」という根源的な想念をきっかけに種々の想念が開花し、これらがあなたに生得な幸せを隠してしまうのです。
 幸せの障害となるこれらの想念を取り除くのです。
 あなたの自然な状態は、眠っている間に明らかなように、幸せなのです。

質問者
 私は自分の睡眠体験について何も知りません。

マハルシ
 しかし、あなたはそれが幸せであったことを知っています。
 そうでなければ、「私は幸せに眠った」とは言わないでしょう。
 想念がなく、「私」もなく、あなた自身以外の何もないとき、あなたは幸せです。
 それが真理の全てです。

 これこそまさに、マハーヴァーキャ・タットヴァマシ(あなたはそれである)が伝えていることです。
 あなたの真我を見つけなさい。
 そうすれば「それ」が知られます。

質問者
 ブラフマンはどのような存在なのですか?

マハルシ
 なぜあなたは自分とは別のブラフマンを知りたがるのですか?
 聖典は「あなたはそれである」と言います。
 真我はあなたと懇意であり、あなたは真我なしには存在し得ません。
 真我を実現しなさい。
 それがブラフマンの実現でもあるのです。

質問者
 しかし、私にはそれをすることができません。
 私は真我を実現するには弱すぎるのです。

マハルシ
 その場合は、無条件にあなた自身を明け渡しなさい。
 そうすれば、高次の力がそれ自体を明らかにするでしょう。

質問者
 無条件の明け渡しとは何ですか?

マハルシ
 もし人が自分自身を明け渡せば、質問する者も考えるものもなくなります。
 「私」という根源的な想念をしっかりとらえることによって全ての想念が排除されるか、自分自身を高次の力に無条件に明け渡すか、そのどちらかです。
 実現には、これら2つの方法しかありません。

832鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/08(日) 23:41:32 ID:1d4drIFg0

 不幸があるならばそれは自我によってもたらされるのじゃ。
 まだ真我に達していないのじゃ。
 求め続ければそれも実現するのじゃ。
 求めることが出来ないならば、明け渡しをするがよいのじゃ。
 誰もが自分にあった法を実践するべきなのじゃ。

833避難民のマジレスさん:2022/05/09(月) 07:29:50 ID:H1xqWR1I0
ラマナ・マハルシとの対話 322

マドラスの有名な事務弁護士の娘である、教養ある婦人が尋ねた。

あなたがアドバイスされたように、想念から自由でいるためには、人はどうすればよいのでしょうか?
「私は誰なのか?」という探求しかないのでしょうか?

マハルシ
 ただ静かにしていることです。
 それをやって見てください。

質問者
 不可能です。

マハルシ
 その通りです。
 同じ理由から、「私は誰か?」という探求が勧められるのです。

質問者
 その問いを投げかけても、内側からは何の返答もありません。

マハルシ
 どんな返答を期待しているのですか?
 あなたはそこにいないのですか?
 これ以上何を?

質問者
 想念がますます湧き上がってきます。

マハルシ
 その場で直ちに、「私は誰か?」と、同じ問いかけをするのです。

質問者
 1つ1つの想念が湧き上がるたびにそうすればいいのでしょうか?
 世界は私たちの想念でしかないのでしょうか?

マハルシ
 この質問は世界に任せてください。
 世界に、「私はどうやって誕生したのか?」と尋ねさせましょう。

質問者
 それは私に関係ないということですか?

マハルシ
 深い眠りの中では何も知覚されません。
 これらはすべて、起きた後にのみ見られるものです。
 想念が生じた後にのみ、世界は生まれます。
 それが、想念以外の何であり得るというのでしょうか?

別の訪問者が尋ねた。

心を静めるにはどうしたらよいのでしょうか?

マハルシ
 まず、心をとらえさせ、ここに連れてこさせましょう。
 それから、それを静める方法と手段を考えましょう。

質問者
 ジャパをしていときでさえも、心は常に変化していると言いたかったのです。

マハルシ
 ジャパは心を静めるためだけにあるのです。

質問者
 どのようなジャパが良いのでしょうか?

マハルシ
 ガーヤトリーのような、適切なものなら何でも。

質問者
 ガーヤトリーでよいのでしょうか?

マハルシ
 それに優るものがあるというのでしょうか?
 それができない人たちだけが、他のものを探すのです。
 それは、その中に真実の全領域を包含しています。
 詠唱(ジャパ)はディヤーナ(瞑想)につながり、それは真我を実現するための手段なのです。

質問者
 1日30分で十分でしょうか?

マハルシ
 それは常に、あるいはできる限り長く行われなければなりません。

834鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/09(月) 23:02:25 ID:1d4drIFg0

 ガーヤトリーとは神への賛歌と助力を願うマントラなのじゃ。
 インドの人で信仰がある者ならば、唱え続けて集中力が養えるのじゃ。
 ただの言葉ならば無意味なものとしてやめてしまが、マンドラは信仰があるから続けられるのじゃ。
 毎日続ければディヤーナからサマーディにまで到達できるのじゃ。

835避難民のマジレスさん:2022/05/10(火) 15:58:33 ID:AuK7e.NA0
ラマナ・マハルシとの対話 323

アルナーチャラ・アシュタカムの第6連を説明しながら、シュリ・バガヴァンは次のように述べた。

マハルシ
 前の連の最後の言葉は、「一者は在るのか?」と問いかけています。
 今回の連の最初の言葉は、「そうだ、一者は在る……」と答えています。
 そしてこう続きます。
 「それは唯一なる一者であるにもかかわらず、その素晴らしい力によって、無知、あるいは潜在的傾向の集合体としても知られる小さな点である『私』(自我)の上に投影されるのである。
 この投影された光が相対的知識である。
 これは、人のプラーラブダ(今結実している過去のカルマ)に従って、内部の潜在的傾向を外部の粗雑な世界として現し、粗雑な外部の世界を微細な内部の世界として引き入れる。
 外界の粗雑な傾向を内界の微細な傾向として顕在化させ、外界の総体的な傾向を内界の微細な傾向として退出させる。
 そのような力は精妙な次元では心と呼ばれ、物理的な次元では脳と呼ばれている。
 この心や脳は、その永遠の一なる存在に対する拡大鏡として機能し、それを拡大された宇宙として外へ示す。
 目覚めと夢見の状態では心は外向性であり、眠っているときは内向性である。
 心を媒体として、一つの至高なる存在が、目覚めと夢見の状態では多様に見られ、睡眠状態や卒倒などでは引き入れられたままである。
 ゆえに、あなたはただそれであり、それ以外にはありえない。
 どのような変化があっても、同じ一つの存在があなた自身として残り、あなた自身以外に何もないのである。」

 前の連にはこうあります。

 一度太陽光を浴びると、もはや感光板は画像を映すことができない。
 同じように、心(感光板)も、あなたの光にさらされた後は、もはや世界を映すことができなくなる。
 さらに、太陽はあなたに他ならない。
 その光線が像の形成を妨げるほど強力であるなら、あなたの光はさらにどれほどであろうか?
 このように、唯一なる存在であるあなた自身から離れた何ものも存在しないと言われるのだ。

 今回の連では、小さな点=自我、暗闇でできた小さな点=潜在的傾向からなる自我です。
 見る者、主体または自我が立ち現れると、それは自身を、見られるもの、客体またはアンタハカラナ(内的器官)として拡大します。
 自我が立ち現れるためには、光は薄暗くなければなりません。
 白昼では、縄は蛇のように見えません。
 真っ暗闇では縄そのものが見えないので、それを蛇と間違えることはありません。
 薄明かりの中、夕闇の中、影で暗くなった光の中、薄明かりに照らされた闇の中においてのみ、縄が蛇に見えるという間違いが起こるのです。
 同様に、純粋な光を放つ存在が自我として立ち現れるのも、それは、闇を通って拡散するその光の中でこそ可能なのです。
 この闇は、原初の無知(原罪)としても知られています。
 それを通過する光は、投影された光と呼ばれます。
 投影された光は、その真価に基づいて、純粋な心、イーシュヴァラ、あるいは神として一般に知られています。
 イーシュヴァラがマーヤーと一体化されていることはよく知られています。
 つまり、投影された光はイーシュヴァラです。

 もう一つの名前である純粋な心は、不純な心をも暗示します。
 これは、ラージャシックまたは活動的な心、あるいは自我のことです。
 これもまた、別の投影を通してのみ、元のサートヴィックな心から映し出されることができるのです。
 したがって、自我は第二の闇(アヴィディヤー)の産物です。
 次に来るのは、アンタハカラナ(内的器官)の形をとったターマシックまたは不活発な心です。
 これが世界として現れるのです。

 粗雑な身体の立場からすれば、脳を介して、世界として外部に輝いていると言えるかもしれません。

 しかし、粗雑な身体は、心に他なりません。
 心は、四つの内なる器官、あるいは想念からなる原理、あるいは第六感からなるとも言えます。
 あるいは、知性を自我に、チッタを心に(すなわち記憶機能を思考機能に)組み合わせて、二つの部分(自我と心)からなるとすることもできます。
 後者の場合、ヴィジュニャーナートマン(知的自己)、自我、あるいは見る者が主体を形成し、心の鞘あるいは見られる者が客体を形成します。

 覚醒、夢、睡眠の状態は、原初の闇(ムーラ・アヴィディヤー)にその起源があります。
 目覚めているときと夢の中では、心は外に出てその様態から体験を引き出し、眠りの中では、マーヤーの様態を用いて体験しながら内に引き込まれます。
 独自の力が個人と宇宙のすべての活動を制御しているのです。
 これらはすべて、自ら光りを放つ存在の基底に投影された光を通過する現象に過ぎません。

836避難民のマジレスさん:2022/05/10(火) 15:59:38 ID:AuK7e.NA0
 白昼に蛇が縄に見られないように、また濃い闇の中では縄そのものが見られないように、自ら光り輝く純粋な存在の三昧状態にも、深い眠りや卒倒などにも、世界は現れないのです。
 投影された光(闇と混ざった光、無知によって汚された知識)の中でだけ、その源から独立していない世界は、現れ、栄え、滅びるように見えるのです。
 その多様性もまた、本来の源である実在から排除されることはありえません。
 ここでは、一つの単一の存在が多様化し、客体化され、そして撤退する、という芝居が繰り広げられているのです。
 それを行うシャクティ(力)がなければならず、また、見事なものです!
 彼女は、自分の起源から独立していることはできません。
 自ら光り輝く純粋な存在の中では、このシャクティは見られません。
 それにもかかわらず、彼女の行動はこのうえなく有名なのです。
 なんと卓越しているのでしょう!

 彼女の卓越した本来の活動(すなわち振動する力)からサットヴァに満ちた投影が生じます。
 そこからラージャシックな自我、次に一般に知識として知られているタマスの想念形態、あるいは拡大レンズに相応する光が生じます。
 人工の光がレンズを通してスクリーンに映し出されるように、投影された光も想念(拡大鏡)を通過してから、その先にある世界へと広がっていきます。
 さらに、想念は ── それ自体が種子の形態をとった世界であり ── 、広大な外界であるかのように見えます。
 それは並はずれた力です!
 このように、イーシュヴァラも個人も世界も、自ら光り輝く単一の存在を基底に投影された光でしかないのです。

 さて、この「私」という想念(自我)とは何でしょうか?
 成り立ちから見れば、主体なのでしょうか、客体なのでしょうか?

 覚醒状態や夢の状態で他のすべての客体を目撃している以上、あるいは、少なくとも私たちがそう思っている以上、それは主体であると考えられなければなりません。
 しかし、純粋な真我を実現すれば、それは単なる客体でしかありません。

 この「私」という想念(自我)は誰のものなのでしょうか?
 この究明がヴィチャーラを形成します。

 「私」という想念と「これ」という想念は、どちらも同じ光からの放射です。
 それらは、それぞれラジョーグナとタモーグナに関係します。
 ラジャスやタマスから解放された、投影された光(純粋なサットヴァ)を得るためには、それは、「これ」という想念によって断たれることなく、「私-私」として輝きを放たなければなりません。
 この純粋な状態は、一時的に睡眠と覚醒の間に介在します。
 それが長引けば、宇宙意識、あるいはイーシュヴァラにさえなります。
 これが、自ら光り輝く至高の存在の実現に至る唯一の道なのです。

 また、「私は幸せに眠った、何にも気づくことなく」と、目覚めた後に回想される深い眠りには、二種類の体験があります。
 幸福と無知がその体験です。
 このように、私たちはその力が、1. アーヴァラナ(闇)と 2. ヴィクシェーパ(多様性)に改変されるのを見ます。
 心はヴィクシェーパの結果なのです。

837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/10(火) 23:04:03 ID:1d4drIFg0

 自我はただの観念であり、名前とイメージの連結したものに過ぎないのじゃ。
 それを主体で在ると認識してしまうことが、無明なのじゃ。
 そこからさまざまな苦が起こるのじゃ。
 それはただの謬見なのじゃ。
 観察ができればそれが消え去るのじゃ。
 縄が蛇ではないと気付くように、名前とイメージが自分ではなく、自分のものでもないと気づけば無我になるのじゃ。

838避難民のマジレスさん:2022/05/11(水) 12:54:52 ID:AuK7e.NA0
ラマナ・マハルシとの対話 324

1937年1月10日

回想録

(1) スカンダアシュラマムにいた時、シュリ・バガヴァンは、10フィートほど離れたところに小さくて長い白色のヒキガエルを見かけた。
シュリ・バガヴァンはそれを見つめ、それはシュリ・バガヴァンを見つめた。
突然、それは大ジャンプをし、正確にシュリ・バガヴァンの片方の目の上に止まった。
シュリ・バガヴァンはすぐに目を閉じたので、怪我はなかった。

(2) かつて、羽をきらびやかな扇のように広げて気取って歩く2羽の孔雀がいた。
一匹のコブラもその遊びに参加し、その頸部を掲げ、それらの中を動き回っていたものだった。

(3) シュリ・バガヴァン曰く、孔雀は緑のトカゲを見つけるとすぐに、まっすぐそのトカゲのところに行き、おとなしくトカゲの前に首を下ろすと、トカゲはそれを噛み切り孔雀を殺してしまう。

(4) ある時、ランガスワミ・アイエンガール氏が丘に出かけた。
近くに一頭の豹がいた。彼は石を投げた。
豹は彼の方を向いた。
彼は命からがら逃げ出した。
シュリ・バガヴァンは途中で彼に会い、どうしたのかと尋ねた。
アイエンガール氏は走りながら「ヒョウ」とだけ言った。
シュリ・バガヴァンがその獣がいるところへ行くと、獣はすぐに立ち去った。
以上のことが起こったのは、ペストが蔓延していた頃だった。
豹はよく寺院の脇を自由に歩き回っており、時には2頭、3頭でいることもあったものだった。

(5)
シュリ・バガヴァンは言った。
「蛙はよくヨーギに例えられます。
 長い間静かにしていて、首の下の皮がリズミカルに動くのが唯一の生命の兆しなのです」。

「また、カエルは、生気が停止した状態で並外れて長い間とどまることができます。
 それらは舌を飲み込むと言われています。
 舌を飲み込むのはヨーギの修行でもあります。
 生気が停止されるのです。
 ヨーギは死にませんが、生命活動を再開する前に、他の人に舌を引き抜かれなければなりません。
 蛙が飲み込まれた舌を出して活動を再開するのは驚くべきことです」。

1937年1月11日

(6) ラグーヴィーラン ── マラヤーラム語のやさしい散文で書かれた『ラーマーヤナ』 ── を読んでいると、ハヌマーンが身体的にランカに渡る前に、精神的にどのようにその島に到達したかに関する一節があった。
シュリ・バガヴァンは、精神的なアプローチは身体的な行為よりも早く目的を達成する、という点を強調した。

(7) シュリ・バガヴァンは次のような面白い逸話を話した。
マラヤーリの偉大な聖者であり著述家であるエルータチャンが、寺院に入るとき、身に魚を数匹隠し持っていた。
ある敵対者がそれを寺院の参拝者たちに報告した。
その男は調べられ、王のもとに連れて行かれた。
王は彼に「なぜ、魚を寺院に持ち込んだのか?」と尋ねた。
彼は答えた。
「それは私の罪ではありません。
 私は服の中に隠しておいたのです。
 他の者たちが神殿の中で魚を曝したのです。
 過失は曝した者にあります。
 体内の排泄物は不潔とされませんが、排泄されると不潔とされます。
 これも同じです」。

839鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/11(水) 23:32:29 ID:1d4drIFg0

 身に入るものより、身からでるものが自分を傷つけるというのじゃ。
 人は食べ物に毒がはいっていないかとか、腐っていないかとか気をつけるじゃろう。
 それと同じように口から出る言葉や、行いに気をつけるのじゃ。
 暴言や暴力によって遂には自分を傷つけないよにうするためなのじゃ。

840避難民のマジレスさん:2022/05/12(木) 12:01:47 ID:fkqLohAs0
ラマナ・マハルシとの対話 325

1937年1月12日

グントゥール地区のラーマ・シャーストリ氏はシュリ・バガヴァンに関する8つのシュローカを作り、心を込めて読み上げた。
それからシャーストリ氏は導きを請うた。

「私はジニャーナ・マールガにふさわしくないサンサーリーです。
 世俗の物事が私を惑わします。
 どうか、私が何をすればよいのか教えてください」。

マハルシ
 バガヴァンのことを考えなさい。
 世俗の物事がどうして彼を惑わすというのでしょう?
 あなたもそれらもバガヴァンの中にあるのです。

質問者
 私はナーマ・スマラナ(神名の想起)をしてもよろしいのでしょうか?
 どのようなナーマを選べばいいのでしょうか?

マハルシ
 あなたはラーマ・シャーストリです。
 その名前を重要視しなさい。
 ラーマと一つになるのです。

841鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/12(木) 21:12:55 ID:1d4drIFg0

 ラーマとはヴィシュヌの化身であるとされる神なのじゃ。
 質問した者の名前と同じなのじゃ。
 親が神にあやかるようにとつけた名前じゃろう。
 自分と縁のある神に帰依するようにというのじゃ。
 そのようであれば帰依もしやすいからなのじゃ。
 帰依が完全になれば神と一つで在ると感じるのじゃ。

842避難民のマジレスさん:2022/05/13(金) 18:01:20 ID:99qwrTUY0
ラマナ・マハルシとの対話 326

1937年1月13日

長く住んでいる従者の質問に答える形で、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 誰もが、心の落ち着きのなさを訴えています。
 心を見つけさせなさい、そうすれば彼らは知るでしょう。
 確かに、人が座って瞑想するとき、想念はいくらでも急に噴き出してきます。
 心は想念の束に過ぎません。
 想念の弾幕の中を押し進もうとする試みは、うまくいきません。
 もし、何らかの方法で真我に留まることができれば、それが良いのです。
 それができない人たちには、詠唱や瞑想(ジャパやディヤーナ)が処方されます。
 それは、象に鎖を与えて、その鼻を制御するようなものです。
 象の鼻は通常、落ち着きがありません。
 象は町の通りに連れ出されると、四方八方に鼻を伸ばします。
 もし、運ぶ鎖が与えられれば、落ち着きのなさは抑えられます。
 落ち着きのない心も同様です。
 ジャパやディヤーナに従事させられれば、他の想念は追い払われ、心は単一の想念に集中します。
 こうして心は平和になるのです。
 しかし、それは長期間の奮闘なしに平和が得られるというわけではありません。
 他の想念すべてが決着をつけられなければならないのです。

 別の例を挙げましょう。
 牛が悪戯をして、近所の人の畑に入り込んで草を食んでいるとします。
 彼女の盗み癖は簡単には断たれません。
 どうすれば彼女を牛房に閉じ込めさせておけるか考えてみてください。
 無理やり牛房に繋がれれば、彼女は悪戯をする機会を待つだけです。
 もし、牛房の中で良質の草の誘惑を受けたら、初日は一口だけ食べて、また逃げる機会を待ちます。
 翌日には2口と、そのように日を追うごとに口数が増えていき、最終的に邪な性質が断たれます。
 悪癖から完全に解放されれば、安心して放し飼いにされ、近所の牧草地に入り込むこともありません。
 牛房で叩かれたとしても、その場を離れることはありません。
 心も同様です。
 心は、想念として現れる潜在的なヴァーサナの力によって、外に向かってさ迷い出ることに慣れているのです。
 内に秘められたヴァーサナがある限り、それらは外に出てきて自らを使い果たさなければなりません。
 想念が心を構成しています。
 心とは何かを探れば、想念は引き下がり、求道者はそれらが真我から生じることを知ります。
 私たちが心と呼んでいるのは、これらの想念の集合体です。
 もし、想念が真我から生じることを悟り、それらの源に留まれば、心は消えてなくなります。
 心が消滅し、平和の至福が実現した後、今、すべての想念を排除することが困難であると感じているのと同様に、1つの想念を引き出すことが困難であると感じるでしょう。
 ここでは、心は悪戯をする牛で、想念は隣の牧草地、想念から解放された自分自身の原始の存在は牛房です。

 平和の至福は、邪魔されるにはあまりに惜しいものです。
 ぐっすり眠っている人は、起こされて自分の仕事をするよう命じられるのを嫌がります。
 眠りの至福は、想念から生まれる仕事のために犠牲にされるには、あまりにも魅惑的です。
 想念のない状態は、本源の状態であり、至福に満ちています。
 想念にまみれた不幸な状態のためにそのような状態を捨てるのは憐れではないでしょうか?

 もし、想念のない状態に留まりたいのであれば、奮闘は避けられません。
 自身の原初の状態を取り戻す前に、人は戦い抜かなければなりません。
 戦いに勝利し、ゴールに到達すれば、敵、すなわち想念はすべて真我の中に収まり、完全に消滅します。
 想念が敵です。
 それらは宇宙の創造に相当します。
 想念がなければ、世界も創造主である神も存在しません。
 真我の至福とは単一の存在に他なりません。

843避難民のマジレスさん:2022/05/13(金) 18:02:07 ID:99qwrTUY0
 プラハラーダが三昧に入ってたとき、ヴィシュヌは心の中で想いました。

 「このアスラ(悪魔)が三昧に入っていることで、すべてのアスラたちは平和のうちにある。
 戦いも、力試しも、力の探求も、力を得るための手段もない。
 そのような力のための手段(ヤーガ"供物"、ヤグニャ"儀式"など)がない場合、すなわち神々は栄えなければ、新しい創造がないばかりか、いかなる存在も正当化すらされない。
 ゆえに、私は彼を起こさせる。
 そうすれば、アスラたちは立ち上がり、彼らの本来の性質が現れ、神々が彼らに挑戦する。
 そうなれば、アスラや他の者たちは力を求め、その獲得のための手段を取る。
 ヤグニャなどが盛んになり、神々が栄え、よりいっそうの創造が、いっそうの戦いが起こり、私は十分な仕事をすることができるだろう」。

 そこでヴィシュヌはプラハラーダを起こし、彼に永遠の生命とジーヴァン・ムクティを祝福しました。
 宇宙がその永遠の本性の中で続いていくように、デーヴァ(神)とアスラの戦いは再開され、旧秩序が回復されたのです。

質問者
 どうして神ご自身がアスラの要素を目覚めさせ、絶え間ない戦争状態をもたらすというのでしょう?
 純粋な善性が神の本性ではないのでしょうか?

マハルシ
 善性は相対的なものでしかありません。
 善は常に悪を暗示し、それらは常に共存しています。
 一方は他方の裏面なのです。

844鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/13(金) 22:56:07 ID:1d4drIFg0

全ての瞑想や法は心を静めるめのものなのじゃ。
 心を静めて観察がし易くするために実践するものじゃ。
 最初から心が静まっていれば瞑想もいらないのじゃ。
 阿修羅がいなければ、神々も必要はないというがそれを表す比喩なのじゃ。

845避難民のマジレスさん:2022/05/14(土) 14:38:03 ID:ZvNr5i4o0
ラマナ・マハルシとの対話 327

ホールの聴衆は、とても熱心に聞いていた。
その中の一人、シュリ・バガヴァンの誠実な帰依者は、それにとても感銘を受け、すぐに我を忘れてしまった。
彼は後に、その体験を次のように語った。

帰依者
 私は長い間、「流れ」はどこから始まるのか、体の中なのか、それとも別の場所なのかと考えていました。
 突然、私の体は希薄になり、やがて消えてしまいました。
 「私は誰なのか?」という探求が、非常にはっきりと、強制的に続けられました。
 「私-私-私」という音だけが持続していました。
 そこには一つの広大な広がりがあり、それ以外何もありませんでした。
 ホールで起こった出来事について、ぼんやりとした認識がありました。
 ヴェーダの詠唱が終わると、人々が立ち上がって敬礼したことに気づいていました。
 私も立とうと思いましたが、すぐにその思いは消えました。
 私はまた、一つの広がりの中に陥ってしまいました。
 その体験は、シュリ・バガヴァンの声を聞くまで続きました。
 それが自分を取り戻させました。
 そして、立ち上がって敬礼しました。
 不思議な感覚は30分以上続きました。
 私はそれを忘れることができません。
 今も私の頭から離れないのです。

シュリ・バガヴァンは彼の言葉に耳を傾け、何分間か沈黙していた。
彼の唇から、いくつかの見解がこぼれ落ちた。

マハルシ
 人は身体の外に出るように思えるかもしれませんが、身体そのものは私たちの想念以上のものではありません。
 想念のないところに身体はありえず、身体のないところに出たり入ったりすることはありえません。
 しかし、習慣によって、外に出るという感覚が生まれます。

 海面に落ちた雹の一粒が溶けて、海の中の水、波、泡などになります。
 同様に、微細な知性は、ハートから小さな点(自我)として立ち現れ、膨らんで、最後にはハートの中に入り、ハートと一体となります。

 たとえ牛乳が海のように広がっていても、あなたは海のように広い口でそれを飲むことができるでしょうか?
 あなたは、乳頭の小さな毛細管を通してのみ、それを吸うことができます。

 ヴィシュヌ派の聖者であるナンマルヴァールはこう言っています。
 「私の真我のみがあなたである」。
 これはどういう意味でしょうか?
 「私が真我を実現する前は、あなたを探してさまよっていた。
  今、真我を実現したことで、あなたが真我であることがわかった」。
 このことは、限定不二一元論にどう適合するのでしょうか?
 このように説明されるに違いありません。
 「真我に浸透しながら、あなたはアンタルヤーミー(内在する存在)として残存している。
  したがって、私はあなたの身体の一部であり、あなたはその身体の所有者(シャリーリー)である」。

 自分自身ではないとして身体を放棄したのに、なぜ別(神)の身体になるというのでしょうか?
 もし自分の身体が真我でないなら、他の身体もまた非真我なのです。

 限定不二一元論の反論者は、至福を経験するためには個人性が必要だと考えています。
 個人性、つまり「私」という性質が失われてはいけないと。
 嗚呼!真我は身体ではないのに、真我が神の身体となる!
 それは不条理ではありませんか?

 あるいは、もしあなたが神にプラパッティー(自分自身を明け渡すこと)をすれば、あなたは自分自身を彼に委ねたことになり、あなたは彼のものであって、もはやあなたのものではありません。
 もし、神が身体を必要とするのであれば、神に自分で探してもらいましょう。
 あなたが、彼が身体の所有者であると言う必要はありません。

846鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/15(日) 01:38:07 ID:1d4drIFg0

 人の肉体も想念であるとマハリシはいうのじゃ。
 全ては意識であるから、肉体という物理的な存在もまたその一部なのじゃ。
 全てつながり、同じ本質を持つものなのじゃ。
 肉体だけが自分であるという囚われがあれば、肉体の外に出たという観念も起こるのじゃ。
 意識が全てであると理解できれば、肉体への束縛がなくなっただけであると気づくのじゃ。

847避難民のマジレスさん:2022/05/15(日) 15:43:22 ID:asj6Mn/.0
ラマナ・マハルシとの対話 328

あるヨーロッパの紳士が、落ち着いた調子で始め、はっきりと、ゆっくり話した。

「なぜ、個人は世俗の物事に巻き込まれた状態にあり、その結果、悩みを刈り取らねばならないのでしょうか?
 彼らは自由であってはならないのでしょうか?
 もし彼らが霊界にいれば、より大きな自由があるはずです」。

マハルシ
 この世はあくまで霊的なものです。
 あなたは自分を物理的な身体と同一視しているので、この世は物理的であり、あの世は霊的であると語っているのです。
 ところが、在るのは、霊的なものでしかないのです。

質問者
 肉体分離した魂、すなわち霊たちは、より深い洞察力を持ち、より大きな自由を享受しているのでしょうか?

マハルシ
 あなたは自分をこの肉体と同一視しているので、肉体分離した魂たちを霊として語るのです。
 これらの限界から、あなたは彼らの限界について話し、彼らの能力を知ろうとします。
 肉体分離した魂にも、微細な身体があります。
 そうでなければ、あなたは「肉体分離した魂」とは言わないでしょう。
 肉体分離とは、「この粗雑な身体を脱いだ」という意味です。
 あなたが彼らに個人性を与える限り、彼らは微細な身体に属されます。
 彼らの限界は、彼ら自身の状態によって決まります。
 あなたが自身の限界の重荷を感じているように、彼らもまた自身の限界の重荷を感じているのです。
 私が霊や霊界と言ったのは、絶対的な霊のことであり、相対的なものではありません。
 もしあなたが自分自身が霊であると悟ったなら、この世界は霊的なものでしかなく、物理的なものではないことがわかるでしょう。

質問者
 彼らの身体は、私たちの身体と同じように一時的なものなのでしょうか。
 彼らは転生するのでしょうか?

マハルシ
 これらの質問は、あなたが自分自身を身体だと考えているから生じるのです。
 この身体には誕生と死があり、この身体が倒れると別の身体が生まれてきますが、これが転生と呼ばれています。
 しかし、あなたはその身体なのでしょうか?
 もし、あなたがこの身体ではなく、霊であることがわかれば、あなたは粗雑や微細な身体から解放され、何の限界もなくなるでしょう。
 何も限界のないところに、物理的や霊的な世界があるでしょうか?
 転生という問題がどうして生じるというのでしょうか?

 もう一度、別の視点から考えてみましょう。
 あなたは夢の中で自ら夢の身体を作り出し、その夢の身体で行動します。
 覚醒状態でも同じように改竄されます。
 現在、あなたは自分がこの身体であり、夢の身体ではないと思っています。
 夢の中では、この身体は夢の身体によって改竄されます。
 つまり、これらの身体はどちらも実在しないのです。
 なぜなら、それぞれがある時だけは本物であり、他の時は偽物だからです。
 実在であるものは、永遠に実在でなければなりません。
 しかし、あなたは「私」と言います。
 この「私」という意識は、三つの状態を通じてずっと存在しています。
 それには何の変化もありません。
 それだけが実在なのです。
 三態は偽りです。
 それらはただ心のためだけのものです。
 あなた自身の視覚を妨げているのは心です。
 あなたの真の本性は、無限の霊です。
 それがあなたの眠りの状態だったのです。
 あなたは他の二つの状態における限界を認めます。
 どうしてその違いは生じるのでしょう?
 眠っているときには心はありませんでしたが、夢や目覚めている状態には心が存在します。
 限界を感じるのは、心の働きによるものです。
 心とは何でしょう?
 それを見つけてください。
 もしあなたがそれを探せば、それはひとりでに消えていくでしょう。
 なぜなら、心には真の実在がないからです。
 それは想念から構成されていて、想念が停止すれば消滅するのです。

質問者
 そのとき、私は残っているのでしょうか?

マハルシ
 眠りの中でのあなたの体験はどうでしょうか?
 想念も心もなかったのに、そのときあなたは残っていたのです。

848避難民のマジレスさん:2022/05/15(日) 15:45:38 ID:asj6Mn/.0
質問者
 瞑想しようとすると、心がさまよってしまいできません。
 どうしたらいいのでしょうか?

マハルシ
 あなたの質問が答えを与えてくれます。
 まず、質問の最初の部分についてですが、あなたは集中してもうまくかないと言います。
 「あなた」は「真我」を意味します。
 何にあなたは集中するのですか?
 どこで失敗するのですか?
 一つの自己がもう一つの自己に集中するといった、二つの自己があるのでしょうか?
 今、失敗を訴えている自己はどちらなのでしょうか?
 二つの自己があるはずがありません。
 あるのはたった一つの真我だけであり、それは集中する必要がありません。

 「しかし、それなら、なぜ幸福が存在しないのでしょうか?」とあなたは尋ねます。
 あなたが眠っているときの霊のままでいることを妨げるものは何なのでしょうか?
 あなた自身が、それはさまよう心であると認めています。
 その心を探し出してください。
 そのさまよいが止めば、それは真我、つまり永遠の霊である「私」という意識であることが見いだされるでしょう。
 それは、知識も無知も超えているのです。

質問者
 私は仕事で忙しく、集中の練習をする時間がほとんどありません。
 何か集中を助けるものはありますか?
 呼吸の制御は良い助けでしょうか?

マハルシ
 プラーナと心は同じ源から生じます。
 その源には、息を止めるか、心をたどることで到達されます。
 もし後者ができないなら、前者が助けになるのは間違いありません。
 呼吸の統制は、呼吸の動きを観察することによって得られるのです。

 心が観察されれば、想念は止みます。
 平和がもたらされ、それがあなたの真の本性なのです。
 ジャナカ王は言いました。
 「私は今、 私から『私』を奪ってきた泥棒(すなわち心)を見つけた。
  この泥棒を即座に殺してやろう」。
 想念による動揺は、真我から平安を奪っているように見えます。
 この動揺が心です。
 それが止むと、心は飛び立つと言われています。
 真我は乱されることのない基底として残るのです。

別の人が口を挟んだ。
「心が心を殺さなければならないのです」。

マハルシ
 そうです、もし心があるのなら。
 それを探してみれば、存在しないことがわかります。
 存在しないものがどうして殺されるというのでしょうか?

質問者
 精神的なジャパは口頭のジャパより優れていないのですか?

マハルシ
 口頭のジャパは音で構成されています。
 音は想念から生じるものです。
 想念を言葉で表現する前に、考えなければならないからです。
 想念が心を形成するのです。
 したがって、精神的なジャパは口頭のジャパよりも優れています。

質問者
 ジャパに黙想しつつ、口頭で繰り返してはいけないのでしょうか?

マハルシ
 ジャパが精神的になったら、音の必要性はどこにあるというのでしょうか?

 ジャパは精神的になることで、黙想になります。
 ディヤーナ、黙想、精神的なジャパは同じものです。
 想念が乱雑であることを止め、一つの想念が他のすべての想念の排除に固執するならば、それが黙想であると言われています。
 ジャパやディヤーナの目的は、個々の想念を排除し、単一の想念に自身を止めることです。
 そして、その想念もその源である絶対意識、すなわち真我の中に消えていきます。
 心はジャパに取り組み、そして自らの源に沈んでいくのです。

質問者
 心は脳から生じると言われています。

マハルシ
 脳はどこにあるのですか?
 それは身体の中にあります。
 私は、身体そのものが心の投影だと言っています。
 あなたは、身体のことを考えるとき、脳について話します。
 身体とその中の脳を作り出し、そしてまた脳がその座であることを確かめるのは心なのです。

質問者
 シュリ・バガヴァンは、ある著作の中で、ジャパはその源まで辿り着かれなければならないと述べています。
 それは心を意味されているのではないのでしょうか?

マハルシ
 これらはすべて、心の働きにすぎません。
 ジャパは心を単一の想念に固定するのに役立ちます。
 他のすべての想念は、それらが消えるまで従属させられます。
 それが精神的になったとき、ディヤーナと呼ばれます。
 ディヤーナはあなたの真の本性です。
 しかし、それがディヤーナと呼ばれるのは、それが努力によってなされるからです。
 努力は、想念が乱雑である限り必要です。
 あなたが他の想念と共にいるために、単一の想念の継続を瞑想またはディヤーナと呼ぶのです。
 ディヤーナが無努力になれば、それがあなたの真の本性であることが見いだされるでしょう。

849鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/16(月) 00:11:27 ID:1d4drIFg0

 最近は脳科学者というのがいて脳が全てという唯脳論がはやっているが、それもまた幻想だというのじゃ。
 脳は肉体の一部であり、肉体もまた幻想であるからなのじゃ。
 肉体に限定された幻想から生まれる更なる幻想なのじゃ。
 それも観察すれば矛盾に気付けるのじゃ。

850避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 12:38:31 ID:fosx545U0
0720 神も仏も名無しさん 2022/05/16 12:36:12
>>713
音楽は、
鹿子の怨霊の呪い〜
鹿子のテーマ曲
く〜る、鹿っ、くる〜、
鹿っ、く〜る♫
https://m.youtube.co.../watch?v=g7Y2eB6ZLZc
      | _____________  |
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |  ザー
      | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| |
      | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;::::::::::::::| |
      | |:::::::::::/ ̄ ̄ ̄`´    `ヽ:::::::| |
      | |::::::::::|  :ill||||||||||ll: ,-‐‐、l::::::| |
      |  ̄ ̄|  ||||||||||||||||「しi .l ll ̄  .|
      | ̄「 ̄|  ||||||貞|||||||i ̄川リ ̄| ̄|
      |_| ノ   ||||||||||||||||||     |_|
        /    ||||||||||||||||||
        /    /||||||||||||||||||
       / ̄/ ̄ |||||||||||||||||
       /  /    |l|l|l|l|l|l|l|l
     / /    |l|l|l|l|l|l|ll
    / ヘJ      l|l|l|l|l|l|l
    ノ川        ||l||l||ll

851避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 13:34:24 ID:fosx545U0
すまん、誤爆許せ、
鬼和尚

852避難民のマジレスさん:2022/05/16(月) 16:16:58 ID:BvlxYP5M0
ラマナ・マハルシとの対話 329

朝、シュリ・バガヴァンはタミル語版のラーマクリシュナ・ヴィジャヤムの中の聖エステラから短い一節を読み上げた。

その趣旨は…

「あなたの敵は渇望や熱情などです。
 もし、あなたが害されたと感じたら、内に目を向け、その被害の原因を見つけなさい。
 それはあなたの外にあるのではありません。
 外的な原因は単なる重ね合わせに過ぎません。
 もしあなたが自分自身を害することができなければ、慈悲深い神がいかなる形であなたを害するというのでしょうか?」

シュリ・バガヴァンはさらに、聖エステラは優れた聖者であり、その教えは極めて妥当であると述べた。

853鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/17(火) 00:15:06 ID:1d4drIFg0
>>851 許すのじゃ。
 これからはよいAAを投稿するのじゃ。

854鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/17(火) 00:17:49 ID:1d4drIFg0

 全ては自らの心によって創られるのであるから、被害の苦もまた原因は自分の心にあるのじゃ。
 他のどこかにあるのではないのじゃ。
 自分の心にある障害が最も自分を苦しめるのじゃ。
 観察すればそれもまた滅していくのじゃ。

855避難民のマジレスさん:2022/05/17(火) 18:23:13 ID:XdaBfUio0
ラマナ・マハルシとの対話 330

シュリ・バガヴァンは喘息持ちで、喉が嗄れていた。
オレンジが捧げ物として持ってこられた。
いつものように分け前が配られた。
シュリ・バガヴァンは咳込み、口の中からオレンジを吐き出さざるを得なかった。
彼は「仕方なく吐き出してしまったのです」と言った。
ある紳士が言った。
「おそらく、それはシュリ・バガヴァンの健康状態には合わないのでしょう」。

マハルシ
 もし、他の人ではなく、あなたがその果物を持ってきていたなら、そのように言うでしょうか?

856鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/17(火) 23:06:09 ID:1d4drIFg0

 施されたものは何でもありがく頂くのが作法なのじゃ。
 施した者に慈悲を与えるためなのじゃ。
 お釈迦様も最後の布施で病になったが、最後の布施は多いに功徳があるものじゃと、庇ったのじゃ。
 施主に慈悲をかけたのじゃ。

857避難民のマジレスさん:2022/05/18(水) 18:49:37 ID:V5MLrLHI0
ラマナ・マハルシとの対話 331

国際平和連盟のアメリカ人女性、ルールナ・ジェニングス夫人は、世界に平和を広めることについてシュリ・バガヴァンに尋ねた。

シュリ・バガヴァンは答えた。

マハルシ
 もし人が真我の平和を得れば、それは個人の努力なしに自ずと広がっていくものです。
 自分自身が平和でないときに、どうして世界に平和を広めることができるというのでしょうか?

ジェニングス夫人は、東洋には真我の実現に科学的なアプローチがあるというのは本当かと尋ねた。

マハルシ
 あなたはすでに真我なのです。
 それを確立するために、精巧な科学は必要ありません。

質問者
 その一般的な真理は理解できます。
 しかし、私が「科学」と呼んでいるそれには、実践的な方法があるはずです。

マハルシ
 そのような考えの停止が、真我の実現です。

(例え話:失われたと思われたネックレス)

マハルシ
 人は、真我から離れて、世界や自分自身の身体を見ることはありません。
 常に真我でありながら、他のすべてを見るのです。
 神も世界も、すべてハートの中にあります。
 見る者を見なさい。
 そうすれば、すべてが真我であることがわかるでしょう。
 あなたの見方を変えなさい。
 内側を見なさい。
 真我を見つけなさい。
 主体と客体の基底は誰なのか?
 それを見つけなさい。
 そうすれば、すべての問題は解決されます!

その女性はそこで、「私は誰か?」という小冊子について教えられた。
彼女は、シュリ・バガヴァンにさらに質問をする前に、それを読むことに同意した。

858鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/18(水) 22:58:56 ID:1d4drIFg0

 真我は認識てきない認識主体であるから、何をしようと見ているのじゃ。
 それがなくなることはないのじゃ。
 全ての根本にあるものじゃ。
 人の持つ世界はそれを基底にして作られているのじゃ。
 自我のまやかしに気づいたならば、それに達することもできるのじゃ。

859避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 20:00:32 ID:TYl1LFRk0
ラマナ・マハルシとの対話 332

質問者
 タミル語で3つの空白(Muppazh)(முப்பாழ்)とは何ですか?

マハルシ
 (1) タット(それ) = イーシュヴァラ・トゥリーヤ(神の第四の状態)
 (2) トヴァム(汝) = ジーヴァ・トゥリーヤ(個我の第四の状態)
 (3) アシ(在る) = アシ・トゥリーヤ(存在の第四の状態)

トゥリーヤ(第四の状態)は、起きている状態、夢を見ている状態、眠っている状態の基盤です。

質問者
 最初の2つは承知しています。
 3つ目は何ですか?

マハルシ
 すべてに遍満しているのが、覚醒だと言われています。
 すべてが輝いているのが、夢であると言われています。
 完全性(アナンタ)が、眠りであると言われています。
 これらの根底にあるものがアシ・トゥリーヤす。

質問者
 実に奇妙です!

マハルシ
 それだけですか?
 議論に限度はありません。
 聞いてください。
 マハヴァーキャ(偉大なる確言)のタットヴァマシ(汝それなり)は一般的に知られています。
 もう一つの、5つの言葉、タット・トヴァム・アシ・アティ・ニジャム(「汝はそれで在る」が至高の真理である)を含んだものは、沈黙の中でダクシナームールティによって教えられた最も秘密のもので、5つの言葉に対応して、5つの状態を明確に述べています。

 再びヴィチャーラ・サーガラを見てください。
 著者はアーダーラ(土台)とアディシュターナ(基盤)を区別しています。
 彼によると、縄は蛇のように見えるときも、そうでないときも、常にアーダーラです。
 縄は、実際とは違って見えるので、アディシュターナです。
 それは一般的な基盤(サーマーニャ・アディシュターナ)です。
 また、蛇そのもののように見えるのは、特殊な基盤(ヴィセーシャ・アディシュターナ)です。
 ここで質問が提起されます。
 ジヴァのアディシュターナとイーシュヴァラのアディシュターナは別のものなのに、どうしてこれら二つのアディシュターナが一つになるというのか?
 彼は、両方のアディシュターナには同じアーダーラがあると答えます。

 さらに、彼はいくつかのキャーティ(理論)に言及しています。

 (1) アサット・キャーティ:ロープが存在しながら、そこには存在しない蛇が現れる。
 (2) サット・キャーティ:縄自体が蛇のように見える。
 (3) アートマ・キャーティ:縄が正体不明のまま、以前別の場所で見た蛇を思い出して、錯覚を起こす。
 (4) アキャーティ:全くの非実在。
 (5) アナーヤタ・キャーティ:蛇の心象が投影され、それが目の前にあるかのように見られる。
 (6) アニルヴァチャニーヤ・キャーティ:説明不可能。

 ここで彼は疑問を投げかけます。
 幻想であれ非実在であれ、世界はこれらのいずれかであるべきであろうか?
 それは以前の体験の結果であるに違いない。
 それは、その時には実在であったに違いない。
 一度実在であれば、常に実在でなければならない。

 彼は答えます。
 その体験は必ずしも実在である必要はない。
 本物の蛇を見たことがなくても、蛇の絵を見て印象を受けただけで、縄を蛇と勘違いしうる。
 このように、世界は実在である必要はないのだ。

860避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 20:01:14 ID:TYl1LFRk0
 なぜこのような議論に時間を費やすのでしょうか?
 ただ、心を内側に向け、時間を有効に使いなさい。

 個人と至高なるものの融合においては、至高なるものは伝聞であり、個人は直接体験です。
 あなたは直接体験だけを利用することができます。
 ですから、自分が誰であるかを確かめてください。

 では、なぜイーシュヴァラが言及されるのでしょうか?

 それは、あなたが世界を見て、それがどのように生まれたかを知りたがっているからです。
 この世界は神によって創造されたと言われています。
 もし、神があなたや他のすべてのものを創造したと知れば、あなたの心は少し満たされ、そうでない場合よりも落ち着きのなさが減じられます。
 しかし、それは実現ではありません。
 それは、あなたが自分自身を実現する場合にのみ可能なのです。
 これが完全性や実現などです。

 議論を要約するために、ヴリッティ・プラバーカラの著者は、この本を書く前に35万冊の本を勉強したと言っています。
 それが何の役に立つというのでしょうか?

 それらが真我の実現をもたらすことができるのでしょうか?
 ヴィチャーラ・サーガラは、論理と専門用語でいっぱいです。
 このような膨大な巻が、本当の目的にかなうでしょうか?
 しかし、これらを読んで、自分の質問に答えてくれるかどうかだけを確かめるために、聖者を求める人もいます。
 それらを読み、新たな疑問を発見し、それを解決することが、彼らの喜びの源です。
 聖人たちは、それがまったくの無駄であることを知っているので、そのような人たちを奨励しないのです。
 一度奨励すれば、終わりはありません。

 真我への探究だけが役に立つのです。

 論理や、ヴリッティ・プラバーカラ、ヴィチャーラ・サーガラ、スートラ・バーシャ、あるいは同様の大作に親しんでいる人たちは、ヴァーサナが蓄積されているので、真我だけを、それも明白に扱った「明かされた真理」のような小作品を享受することができません。
 心の濁りの少ない人、あるいは純粋な人たちだけが、小さな、目的のある作品を享受することができるのです。

861鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/19(木) 23:14:51 ID:1d4drIFg0

 この世には悟りや真理に関するさまざまな理論があるものじゃ。
 世界はひとつだとか、原理が二つだとか、三つの基盤があるとかいうのじゃ。
 それらは全て実践のための方便に過ぎないのじゃ。
 未だ真我に達していない者に、法を信仰させて日々実践させるためなのじゃ。
 そのために創作された理論なのじゃ。
 全ての観念はどこかに矛盾や欠陥があるものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

862避難民のマジレスさん:2022/05/19(木) 23:35:13 ID:cLgILO2A0
最近、久しぶりに瞑想を再開したのであります。
3〜40分、腹式呼吸に意識を置いて座っております。
3〜40分呼吸から意識が離れずに座ってられる時もあるのでありますが、その際は、無理矢理肉体を意識し続けているようで、瞑想の深まりを感じません。
むしろ、意識が散漫になり、集中から離れ、妄想にとらわれ、そしてそれに気づく瞬間に、自我を離れた意識みたいなものを捉えられそうな気がしたくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

863避難民のマジレスさん:2022/05/20(金) 19:52:28 ID:1GL17l.w0
ラマナ・マハルシとの対話 333

プラティヤビジニャー = プラティ + アビジニャー

アビジニャーは直接的な知覚、プラティは既知のものを思い出すことです。

「これは象だ」というのが直接的な知覚

「これはあの象だ」というのがプラティヤビジニャー(再認識)

専門的な著作では、プラティヤビジニャーは、常に存在する実在を悟り、それを再認識するという意味で用いられます。

シューニャ(虚空、空白)、アティ・シューニャ(シューニャを超えた)、マハ・シューニャ(巨大な虚空)はすべて同じ意味、つまり、真の実在のみを意味します。


*プラティヤビジニャーの説明の参考リンク(英語)
https://religion.fandom.com/wiki/Pratyabhijna

864鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/20(金) 20:53:49 ID:1d4drIFg0
>>862 善いことじゃ。
 どんどん実践するとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

865鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/20(金) 20:55:09 ID:1d4drIFg0

 シューニャは仏教の空なのじゃ。
 空が真の実在゛というのじゃ。
 そこには観念がないからなのじゃ。
 観念があれば空ではないのじゃ。

866避難民のマジレスさん:2022/05/21(土) 19:39:57 ID:1wbqsJME0
1937年1月20日

ラマナ・マハルシとの対話 334

シュリ・バガヴァンは、脚をマッサージされているにもかかわらず感覚がないと言った。
「もし足が歩く目的に適っているなら、感覚がなくなることの何が問題なのでしょうか?」と尋ねた。
そして、会話の中で、次のように述べた。

マハルシ
 光線は、映写されるとき、オペレーターを映し出しませんが、オペレーターにそのシーンを目撃させることを可能にすることがわかります。
 シッダたちも同じです。 
 彼らは純粋な光であり、他者を見ることはできますが、他者によって見られることはできません。
 例えば、プラブリンガは北部を旅していたとき、ゴーラクナートに出くわしました。
 ゴーラクナートは、剣で腕を切られても傷を負うことなく、剣をなまくらにするなど、ヨーガの力を発揮しました。
 これは、身体を怪我に耐えるようにすること(カーヤシッディ)です。
 プラブリンガは、切られるために自身を差し出しました。
 剣が突き刺されると、剣はまるで空気のように彼の体を完全に通り抜け、身体には何の傷もありませんでした。
 ゴーラクは驚き、プラブリンガの弟子となることを自ら申し出たのです。

さらに、カイラースでのシヴァとパールヴァティーの対話があった。

マハルシ
 シヴァは、アッラマは彼女の誘惑に影響されない者であると言いました。
 パールヴァティーはそれを試してみたかったので、アッラマを誘惑するために、彼女のターマシックな質を送って、地上の王の娘として転生しました。
 彼女は非常に洗練された少女に成長しました。
 彼女はよく寺院で歌いました。
 アッラマはよくそこに行き、ドラムを演奏しました。
 彼女はドラムの演奏に我を忘れました。
 彼女は彼と恋に落ちました。
 彼らは彼女の寝室で会いました。
 彼女が彼を抱擁したとき、彼は無形になりました。
 彼女は恋煩いになりました。
 しかし、天女が彼女に地上での目的を思い出させるために送られました。
 彼女はアッラマを撹乱することを決意しましたが、成功しませんでした。
 ついに彼女はカイラースへと昇っていきました。
 そしてパールバティーは、サートヴィックな質を送り、ブラーフマナのサンニャーシーニーとして生まれました。
 彼女は自身をアッラマに明け渡したとき、彼の本当の偉大さを悟ったのです。

シュリ・バガヴァンは、サンガ・プラヴァール(詩人)であるナッキラールが、タミル語で書かれたシヴァ神の賛歌について質問した際に、シヴァ神の怒りに直面し、どのように彼が精霊によって捕らえられ、その後釈放されたかを述べた。

マハルシ
 ナッキラールはティールタのほとりでタパスをしていました。
 一枚の葉が木から落ち、その半分が水に触れ、残りの半分が地面にありました。
 突然、水面の半分は魚になり、地面の半分は鳥になりました。
 それぞれが葉っぱで結ばれ、自身の本領を発揮しようともがきました。
 ナッキラールがそれを不思議に思って見ていると、突然上から精霊が降りてきて、彼を洞窟へ攫って行きました。
 そこにはすでに九百九十九人の囚人がいて、皆タポー・ブラシュター(禁欲から脱落した者)たちでした。

質問者
 ナッキラールはタポー・ブラシュターだったのですか?

マハルシ
 そうです。
 黙想に従事しているというのに、なぜ彼は黙想から脱落し、目の前で起こっている不思議な出来事に目を奪われたのでしょうか?

シュリ・バガヴァンは、ナッキラールがどのようにティルムルカルッパタイを作詞し、千人の囚人全員の釈放を得たかを話し続けた。

867鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2022/05/21(土) 23:02:28 ID:1d4drIFg0

 仏教にも菩薩や如来が化身を世間に派遣すると言う話が在るのじゃ。
 観世音菩薩がいろいろな化身を派遣して人を助けるとかのう。
 人が救いを求める音を観じて、救いに現われるから観世音菩薩というのじゃ。
 師匠が必要な時に現われるのも、そのためなのじゃ。

868避難民のマジレスさん:2022/05/22(日) 19:18:40 ID:DpWU.qG.0
1937年1月21日

ラマナ・マハルシとの対話 335

質問者
 性的衝動はどうしたら止むのでしょうか?

マハルシ
 識別が止めばです。

質問者
 それはどのようにして達成されるのですか?

マハルシ
 反対の性とその関係は、精神的な概念に過ぎません。
 ウパニシャドは、すべてが愛おしいのは、真我がすべてに愛されているからだと言っています。
 人の幸せは内にあます。
 その愛は真我のものに他なりません。
 それは内にのみ在ります。
 外に在ると考えてはいけません。
 そうすれば、識別は働きを止めます。

869鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/22(日) 21:01:00 ID:1d4drIFg0

 男女の区別さえも、ただ観念によるものだというのじゃ。
 美醜も性愛もまた観念によるものなのじゃ。
 全ての愛の源は心の奥にあるのじゃ。
 他にもとめる必要はないのじゃ。

870避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:14:08 ID:EkTCtsfA0
1937年1月22日

ラマナ・マハルシとの対話 336

ウパニシャドとシュリーマッド・バガヴァッド・ギーターを学んだと思われるあるヴァイシャ(商人)が、いくつかの質問をした。

質問者
 どのようにして真我を悟るのですか?

マハルシ
 真我は常に直接的に認識されています。
 そうでない瞬間はありません。
 では、それはどうしたら確かめられるのでしょうか?
 真我を見いだしなさい。
 あなたがそれなのです。

質問者
 しかし、至高者が見つかると、ハートの結び目は切り離され、すべての疑念は終わると言われています。
 ドリシュティ(見ること)という言葉が使われています。

マハルシ
 真我で在るということは、真我を見るということと同じです。
 一方が他方を見るといったような、二つの自己があるわけではありません。
 
その後、彼は真我への探求について同じ質問を続けた。

質問者
 どのように真我を実現するのですか?

マハルシ
 それはすでに実現されています。
 人はこの単純な事実を知るべきなのです。
 それがすべてです。

質問者
 しかし、私はそれを知っていません。
 どうしたら知ることができるのでしょうか?

マハルシ
 あなたは自分の存在を否定するのですか?

質問者
 いいえ、どうしてそのようなことができるでしょうか?

マハルシ
 では、真理は認められています。

質問者
 しかし、私にはわかりません。
 どうすれば、真我を実現することができるのでしょうか?

マハルシ
 誰が「私」といっているのかを見いだしてください。

質問者
 はい。
 私が「私」と言っています。

マハルシ
 その「私」とは誰でしょうか?
 身体ですか、それとも身体以外の誰かですか?

質問者
 身体ではなく、身体以外の誰かです。

マハルシ
 見いだすのです。

質問者
 私にはそうすることができません。
 どうやって探せばよいのでしょうか?

マハルシ
 あなたは今、身体に気づいています。
 深い眠りの中で、あなたは身体に気づいていませんでした。
 それでもあなたは眠りの中に残っていました。
 目覚めた後、あなたは身体を注視し、「私は真我を実現することができない」と言います。
 あなたは眠っているときにそう言ったのでしょうか?
 そのとき、あなたは分裂していなかった(アカンダ)ので、そう言いませんでした。
 今、あなたは身体という範囲内に収縮されているので、「私は実現していない」と言うのです。
 なぜ、あなたの真我を制限しておいて、惨めな気持ちになるのですか?
 あなたの真の本性として在り、幸せで在りなさい。
 あなたは眠っている間、「私」とは言いませんでした。
 今、あなたはそう言っているのです。
 なぜでしょうか?
 なぜなら、あなたが身体にしがみついているからです。
 この「私」がどこから来るのかを見いだしなさい。
 そうすれば、真我は実現されます。

 生命意識を持たない身体は、「私」と言うことはできません。
 無限である真我も「私」と言うことはできません。
 では、誰が「私」と言うのでしょうか?

871避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:15:36 ID:EkTCtsfA0
質問者
 まだ理解できません。
 どうやって「私」を見つけるのですか?

マハルシ
 この「私」がどこから生じるのかを見いだしなさい。
 そうすれば、この「私」は消えて、無限の真我が残るでしょう。
 この「私」は、生命意識を持つものと持たないものとの結び目に過ぎません。
 身体は「私」ではなく、真我は「私」ではありません。
 では、その「私」とは誰なのでしょうか?
 どこから生じるのでしょうか?

質問者
 どこから生じるのですか?

マハルシ
 見いだしなさい。

質問者
 わかりません。
 どうか教えてください。

マハルシ
 それは外側からではありません。
 内側からです。
 どこから来るのでしょうか?
 どこか他の場所からであれば、あなたはそこに導かれることもありうるでしょう。
 内なるものである以上、あなたは自分で見いださなければならないのです。

質問者
 頭からでしょうか?

マハルシ
 「頭」という観念は、「私」の後に生じるのですか、それとも「私」は頭から生じるのでしょうか?
 もし「私」が頭の中にあるのなら、あなたが眠気に襲われたとき、なぜ頭を傾けるのでしょうか。
 「私」は常に不変です。
 そのため、その座も不変でなければなりません。
 もし、頭がある時は傾き、ある時は直立しているとしたら、どうしてそれが「私」の座になるというのでしょうか?
 あなたの頭は、眠っているときは水平に横たわっています。
 目が覚めると、それは持ちあげられます。
 それが「私」であるというのでしょうか?

質問者
 では、どちらなのですか?

マハルシ
 「私」は内側からやってきます。
 眠っているときは「私」はありません。
 目が覚める直前に「私」という想念があるのです。

質問者
 ハートの結び目は眉間にあると言われています。

マハルシ
 「眉間」と言う人もいれば、「尾骶骨」と言う人もいれば、様々です。
 これらはすべて、身体の立場から見たものです。
 身体は「私」という想念の後に来るのです。

質問者
 しかし、私は身体を切り離すことはできません。

マハルシ
 つまり、あなたは自分が身体でないことを認めているのです。

質問者
 この身体に痛みがあれば、それを感じますが、他の身体が傷ついても感じません。
 私はこの身体を克服することができません。

マハルシ
 この自己同一性が、そのような感覚の原因なのです。
 それが、ハートの結び目(フリダヤ・グランティ)です。

質問者
 この結び目はどのようにすれば消えるのですか?

マハルシ
 その結び目は誰のためのものなのですか?
 なぜ、あなたはそれを消したいのでしょうか?
 結び目が尋ねているのでしょうか、それともあなたが尋ねているのでしょうか?

質問者
 それは尋ねることができません。
 私が尋ねています。

マハルシ
 その「私」とは誰でしょうか?
 もしそれが見つかれば、結び目は残りません。

質問者
 結び目は身体に付随しています。
 身体は誕生によるものです。
 どうしたら生まれ変わりを止めることができるのでしょうか?

マハルシ
 誰が生まれるのですか?
 真我が生まれるのですか?
 それとも身体ですか?

質問者
 身体です。

872避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:17:05 ID:EkTCtsfA0
マハルシ
 では、身体に、どうすれば生まれ変わりが止むのかを尋ねさせましょう。

質問者
 身体は尋ねません。
 だから、私が尋ねているのです。

マハルシ
 身体は誰のものですか?
 あなたは深い眠りの中で、身体を持っていませんでした。
 「私」という想念が生じてから、身体が生じたのです。
 最初の誕生は「私」という想念の誕生です。
 身体は「私」という想念に続いて誕生します。
 それゆえ、その誕生は副次的なものなのです。
 第一の原因を取り除けば、第二の原因も自ずと消滅します。

質問者
 その「私」という想念が生じるのをどうやって阻止するのですか?

マハルシ
 真我探求によってです。

質問者
 私は理解しようとしていますが、うまくいきません。
 ジャパで真我を見つけることができますか?
 もしそうなら、その方法を教えてください。

マハルシ
 ジャパとは何ですか?
 なぜあなたは人工的なジャパを作らなければならないのですか?
 あなたは、あなたの中で常に行われている永遠の自然なジャパを見いだすことができるのです。

質問者
 ウパデーシャ(指導)があれば、きっと役に立ちます。

マハルシ
 あなたのように書物で苦労していない人に「ラーマ、ラーマと繰り返しなさい」と言えば、彼はそれを実行し、やり遂げるでしょう。
 あなたのようにたくさん読み、いろいろ調べている人にそう言っても、長くは実行しないでしょう。
 なぜなら、あなたはこう考えるからです。
 「どうして私はそれをすべきなのか?
  なによりも、マントラを繰り返すべき私とは誰なのだろう?
  先に進む前に、私が誰なのかを見つけよう」。
 そして、あなたはジャパをやめて、探求を始めるでしょう。

質問者
 「感覚は外に向かうもの(パラーンチ・カーニ)であり、内に向かうもの(アーヴリッタ・チャクシュフ)が視覚である」と言われています。
 アーヴリッタ・チャクシュフ(内向きの視覚)とは何ですか?

マハルシ
 眼球が反対方向に入れ替わるということではありません。
 チャクシュフとは何ですか?

質問者
 目のことです。

マハルシ
 その目が見るのでしょうか、それとも目の後ろにいる誰かが見るのでしょうか?
 もし目が見ることができるとしたら、死体も見るのでしょうか?
 目の後ろにいる者が、目を通して見るのです。
 彼はチャクシュフという言葉で示唆されています。

質問者
 神の栄光を見るためには、ディヴィヤ・チャクシュフ(神聖な目)が必要です。
 この肉眼は普通のチャクシュフです。

マハルシ
 ああ!なるほど。
 あなたは、百万の太陽の輝きと、それ以外のものを見たいのですね!

質問者
 私たちは、百万の太陽の輝きとして、その栄光を見ることはできないのでしょうか?

マハルシ
 あなたはたった一つの太陽が見えないのですか?
 なぜ何百万もの太陽を求めるのですか?

質問者
 神聖な視覚によってそうすることが可能に違いありません。
 「太陽の輝かないところ…それが私の至高の住処である」(バガヴァッド・ギーター)とあります。
 つまり、この太陽が無力な境地があるのです。
 それが神の境地です。

873避難民のマジレスさん:2022/05/23(月) 20:18:04 ID:EkTCtsfA0
マハルシ
 わかりました。
 クリシュナを見つけなさい。
 そうすれば問題は解決されます。

質問者
 クリシュナは生きていません。

マハルシ
 それが、あなたがギーターから学んだことですか?
 彼は、自分は永遠であると言っていませんか?
 あなたは何について考えているのですか?
 彼の体についてですか?

質問者
 彼は存命中に他の人たちに教えました。
 彼の周りの人たちは実現したに違いありません。
 私は同様の生きているグルを探しているのです。

マハルシ
 それでは、彼が自分の身体から退いた後には、ギーターは役に立たないのでしょうか?
 彼は自分の身体をクリシュナとして語りましたか?

 ナ・トヴェーヴァーハン・ジャートゥ・ナーサン……(私が存在しなかったことは一度もない……)。

質問者
 しかし、私は真理を直に明言することができる、生きているグルが欲しいです。

マハルシ
 グルの運命はクリシュナの運命と同様です。

質問者は引き下がった。

その後、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 神聖な視覚とは真我の輝きを意味します。
 ディヴィヤという言葉がそれを示しています。
 ディヴィヤ・チャクシュフという言葉は真我を意味します。
 誰が神聖な目を授けるのでしょうか?
 そして、誰が見るのでしょうか?
 また、人々は書物の中で「傾聴、熟考、一点集中が必要である」と読みます。
 彼らは、実現に到達する前に、サヴィカルパ・サマーディとニルヴィカルパ・サマーディを通過しなければならないと考えてます。
 だから、こんなにたくさんの質問が出るのです。
 なぜ、彼らはその迷路の中をさまよわなければならないのでしょうか?
 彼らは最後に何を得るのでしょうか?
 それは、求める苦しみが止むというだけなのです。
 彼らは真我が永遠であり、自明であることを見つけます。
 なぜ、彼らはまさに今この瞬間にもその安らぎを得ないのでしょうか?

 無学の、単純な人は、ジャパや礼拝で満足します。
 ジュニャーニはもちろん満たされています。
 すべての苦悩は読書家にとってのものです。
 まあ、まあ、彼らもまた、うまくいくでしょう。

874鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/23(月) 22:44:00 ID:1d4drIFg0

 知識や記憶では真我は実現できないのじゃ。
 今ここで自分の心を観るしかないのじゃ。
 しかし、知識や記憶に囚われていればそれができないのじゃ。
 目の前に真のグルがいてもわからないのじゃ。

875避難民のマジレスさん:2022/05/24(火) 19:31:46 ID:3D76IsQk0
ラマナ・マハルシとの対話 337

K.R.V.アイヤール氏
 心はどのように浄化されるべきですか?

マハルシ
 シャーストラ(聖典)は、「カルマ、バクティなどによって」と言います。
 私の従者が前に一度、同じ質問をしました。
 彼は「神に捧げられたカルマ(行為)によって」と告げられました。
 カルマをしている間に神について考えるだけでは十分ではなく、絶えず神について考えなければならないのです。
 そうして初めて、心は清らかになります。

その従者はそれを自分自身に当てはめて言い聞かせた。
「私はシュリ・バガヴァンに身体的に仕えるだけでは十分ではない。
 そうではなく、私は絶えず彼を覚えていなければならない」。

同じ質問をした別の人に、バガヴァンは次のように答えた。

マハルシ
 真我の探求とは、「私は身体である」という考えが消えなければならないということを意味します。
 (アートマ・ヴィチャーラ = デーハートマ・ブッディの消滅)。

876鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/24(火) 22:00:30 ID:1d4drIFg0

 カルマとはカルマ・ヨーガなのじゃ。
 結果を期待しない行いによって、心も浄化されるというのじゃ。
 バクティは献身なのじゃ。
 心身を神にささげて、行いをもささげつくすのじゃ。
 そうすれば無我にも近づいていくのじゃ。

877避難民のマジレスさん:2022/05/25(水) 19:56:56 ID:UXxPZjRw0
1937年1月23日

ラマナ・マハルシとの対話 338

アメリカ人女性、ジェニングス婦人が以下の質問をした。

質問者
 神を肯定することは、「私は誰か?」という探求よりも効果的ではありませんか?
 肯定はポジティブであるのに対し、他方はネガティブです。
 しかも、それは分離を指し示しています。

マハルシ
 あなたが実現の方法を知ろうとする限り、この助言があなたの真我を見つけるために与えられるのです。
 あなたがその方法を求めていることが、あなたの分離を示しているのです。

質問者
 「私は誰か?」と尋ねるより、「私は至高の存在です」と言う方が良いのではないでしょうか?

マハルシ
 誰が断言するのですか?
 それをする人がいるはずです。
 その人を見つけてください。

質問者
 瞑想は探求より優れているのではないでしょうか?

マハルシ
 瞑想は心的イメージを暗示しますが、探求は実在に対するものです。
 前者は客観的であり、後者は主観的です。

質問者
 このテーマには、科学的なアプローチがあるに違いありません。

マハルシ
 非実在を排除し、実在を追求することが科学的なのです。

質問者
 私が言いたいのは、最初に心の、次に知性の、そして最後に自我の段階的な排除があるに違いないということです。

マハルシ
 真我だけが実在です。
 他のすべては非実在です。
 心や知性はあなた離れたところにあるわけではありません。

 聖書には「静かにして、私が神であると知りなさい」とあります。
 静寂は、神としての真我を実現するための唯一の必要条件です。

質問者
 西洋はいつかこの教えを理解するでしょうか?

マハルシ
 時間と空間の問題はありません。
 理解できるかどうかは、心の成熟度によります。
 東洋に住んでいるか西洋に住んでいるかがどれほど重要だというのでしょうか?

シュリ・バガヴァンは、その女性に 『明かされた真理』のいくつかの連とターユマーナヴァルを紹介した。
彼女は退いた。

その後、シュリ・バガヴァンは、ヴェーダーンタ全体は、聖書の二つの声明に包含されると言った。
「私は私で在るものである」と「静かにして、私が神であると知りなさい」である。

鉄道員であるK.S.N.アイヤール氏は、シュリ・バガヴァンに対して、 『宇宙意識』の編纂者は、個人の一生における一定の年齢制限の範囲内でのみ実現は可能であると考えている、と述べた。

マハルシ
 「私はある年齢の前後に生まれなければならないのだろうか?」と言う人がいるでしょうか?
 彼は今ここにいるのです。
 このような声明は誤解を招きます。
 なぜなら、人々は、今回の転生では真我を実現できないので、別の転生でチャンスをつかまなければならないと信じるようになるからです。
 それはまったく馬鹿げています。

878鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/25(水) 23:47:48 ID:1d4drIFg0

 自分が神であるとか、年が合わなければ実現はないとか、それらは逃避に過ぎないのじゃ。
 自我の喪失を恐れるから逃避している観念遊戯なのじゃ。
 今すぐにでも自分を観ることができるならば、実現は可能なのじゃ。
 迂遠な観念遊戯を繰り返す意味はないのじゃ。

879避難民のマジレスさん:2022/05/26(木) 16:47:48 ID:k8mjt.6A0
ラマナ・マハルシとの対話 339

シヴァ・ヴィシシュタアドヴァイタ(すなわち、シャイヴァ・シッダーンタ)に関して、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 「ガルドーハム・バーヴァナー(私はガルダである)という観念が人をガルダ(インド神話の神鳥)にすることはない。
  同じく、蛇に噛まれたときの毒の作用は治る。
  シヴォーハム・バーヴァナー(私はシヴァである) という観念もまた然り。
  人はシヴァに変身するのではなく、自我の破滅的な作用が終止符を打たれるのだ。
  すなわち、その人物は己の個人性を保ちつつ、純粋なまま、つまりシヴァの身体の一部を構成するのに適した状態になる。
  このようにして、彼は至高の至福を享受することができる。
  それが解脱である」。
 と、シャイヴァ・シッダーンタの人たちは言います。
 これは単に彼らの個人性への愛を曝け出すもので、決して真の解脱の体験ではありません。

880鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/26(木) 23:07:09 ID:1d4drIFg0

 神降ろしの類の話しなのじゃ。
 神や精霊が憑いたという観念によって治療や占いをできるのじゃ。
 それは実際は本人の力なのじゃ。
 その対象とか力に囚われてしまうからそれ以上にはいけないのじゃ。

881避難民のマジレスさん:2022/05/27(金) 08:58:58 ID:k8mjt.6A0
ラマナ・マハルシとの対話 340

ボース氏は、「身体意識が戻った後で……」と話し始めた。

マハルシ
 身体意識とは何ですか?
 まずそれを教えてください。
 意識から分離しているあなたとは誰なのですか?
 身体が見出されるのは身体意識があるからです。
 そして、その身体意識は自己意識から生じます。
 その自己意識は今度は、意識から生じるのです。

 意識 → 自己意識 → 身体意識 → 身体

 常に意識は存在し、それ以外のものは存在しません。
 あなたが今身体意識だとみなしているものは、重ね合わせによるものです。
 意識だけがあり、それ以外には何もないのであれば、アートマナストゥ・カーマーヤ・サルヴァン・プリヤン・バヴァティ(すべてが愛しいのは真我の愛ゆえである)という聖典の意味が明らかになります。

 その場合、なぜ自殺が存在するのかという疑問が生じます。
 なぜ人は自殺をするのでしょうか?
 なぜなら、自分が不幸で、その不幸に終止符を打ちたいと願っているからです。
 彼はすべての不幸を象徴する身体との関わりを絶つことによって、実際にそれを行うのです。
 身体を殺すには、殺す者が存在しているはずです。
 彼が自殺後の生存者なのです。
 それが真我です。

882鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/27(金) 23:33:06 ID:1d4drIFg0

 身体や身体意識もまた自分という観念から起こるとマハリシは説いているのじゃ。
 自分という観念から身体意識や身体という観念も次々に起きていくのじゃ。
 自分があり、自分の身体があるという縁起なのじゃ。
 実際には存在するものは意識だけなの社。
 全ては意識の現われなのじゃ。

883避難民のマジレスさん:2022/05/28(土) 20:00:57 ID:FJGUaaFc0
ラマナ・マハルシとの対話 341

ジェニングス婦人
 シュリ・バガヴァンは、実現の状態とは想念の圧制からの解放だと仰います。
 想念は、より低い次元においてかもしれませんが、物事の仕組の中で役割をもっていないのでしょうか?

マハルシ
 想念は「私」という想念から生じますが、その「私」という想念は次に真我から生じます。
 したがって、真我は「私」という想念や他の想念として現れます。
 想念があるのかないのか、それがどうしたのでしょうか?

質問者
 良い想念は実現に役立つのでしょうか?
 それは本物の中道ではない、つまり実現への低い階梯ではないのでしょうか?

マハルシ
 はい……このように。
 良い想念は悪い想念を遠ざけるのです。
 それは、実現の状態の前に自ら消えなければなりません。

質問者
 しかし、創造的な想念は、実現の一面であり、それゆえ役に立つのではないでしょうか?

マハルシ
 役に立つのは、先ほど述べた点においてのみです。
 それらはすべて真我の中で消えなければなりません。
 想念は、良いものであれ悪いものであれ、あなたを遠くに連れて行き、近くには連れて行かないのです。
 なぜなら、真我は想念よりも親しいからです。
 あなたは真我ですが、想念は真我にとって馴染みのないものなのです。
 
質問者
 では、真我は最終的に、その実現を助けてきた、自らの創造物を吸収するわけですね。
 一方、文明はその前進を助けてきた自らの創造物を誤って崇拝し、分離し、ショートさせるのです。

マハルシ
 あなたは想念と異なっていないのですか?
 想念がなければ、あなたは存在しないのでしょうか?
 そうではなく、想念はあなたなしで存在することができるでしょうか?

質問者
 文明は一般的に、ゆっくりと、しかし確実に、この真我実現に向かって正しい方向に進んでいるのでしょうか?

マハルシ
 文明は物事の条理の中にあります。
 それは最終的に、他のすべてと同じように、真我の実現の中に自らを帰すでしょう。

質問者
 模範的な原始人は、知性と思考に支配された文明人よりも、実現に近いのでしょうか?

マハルシ
 実現した人は、未開人に見えるかもしれませんが、未開人は実現した人ではありません。

質問者
 私たちに起こることは、すべて神の定めであり、したがって善のみであると考えるのは正しいのでしょうか?

マハルシ
 もちろんそうです。
 しかし、他のすべてや神は真我から離れているわけではありません。
 あなたが真我のままでいるときに、どうしてそれらに対する思いが生じるというのでしょうか?

質問者
 「明け渡す」とは、蟻、蚊、蛇などのあらゆる物理的な煩わしさを受け入れ、そして、受け入れることで、それらによって実際に傷つくことを厭わない、あるいは傷つかなくなるということでしょうか?

マハルシ
 それが何であれ、それは見る者や考える者であるあなたから離れているのでしょうか?

聴衆のパールシー教徒の女性が口を挟んだ。

質問者
 もし、離れていないのなら、私たちは蟻に刺される痛みを感じないのでしょうか?

マハルシ
 誰を蟻は刺すのでしょうか?
 それは身体です。
 あなたは身体ではありません。
 あなたが自分自身を身体と同一視している限り、あなたは蟻や植物などを見ます。
 もしあなたが真我のままであれば、真我を離れたどんな他者も存在しません。

質問者
 身体は刺された痛みを感じます。

マハルシ
 身体がそれを感じるのであれば、身体に尋ねさせましょう。
 身体に任せておけばいいのです。
 あなたにどんな関係があるというのですか?

884避難民のマジレスさん:2022/05/28(土) 20:01:45 ID:FJGUaaFc0
再び、アメリカ人女性。

質問者
 完全な明け渡しとは、瞑想中であっても、周囲のあらゆる騒音や妨害が受け入れられなければならないということでしょうか?
 それとも、孤独を求めて山の中の洞窟へ行くべきでしょうか?
 バガヴァンはこのようになさらなかったのでしょうか?

マハルシ
 行くことも帰ることもありません。
 真我は元素に影響されず、無限であり、永遠であると言われています。
 それは動くことができません。
 真我にとって移動する場所など存在しないのです。

質問者
 しかし、真我を見つける過程で、このように外部の助けを求めることは、霊的に妥当なのでしょうか?

マハルシ
 その誤りは、真我を身体と同一視することにあります。
 もしバガヴァンが身体であるなら、あなたはその身体に尋ねることができるでしょう。
 しかし、あなたがバガヴァンと呼ぶ人物を理解しなさい。
 彼は身体ではありません。
 彼は真我なのです。

それから、彼女はハリジャンについての記事を紹介し、そこには、すべては神であり、何も個人に属するものはない、などと述べられていた。

マハルシ
 万物、個人、神、そしてすべてが真我に他なりません。

それから彼女はシェリーの詩行をいくつか読み、シェリーは実現した魂ではないのかどうか尋ねた。

 「人の未踏の霊の洞窟の中に
  玉座に就いた極めて美しい像
  その近くをさまよう冒険的な思考は
  崇拝し、ひざまずき、震え、恐れる
  その存在の輝きと光は
  それらの夢のような枠組に浸透する
  燃えるような力で満たされるまで」

マハルシ
 はい。
 その詩行は秀逸です。
 彼は自分が書いたものを実現していたのでしょう。

その女性はシュリ・バガヴァンに礼を言い、退いた。

885鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/29(日) 00:02:38 ID:1d4drIFg0

 どのような観念も自己追及の役に立つならば、使ってもよいのじゃ。
 真我の実現とか、涅槃とかもまた実践のための観念に過ぎないのであるからのう。
 神も詩人も役立つならば、用いてよいじゃ。
 どこまでも実践していけば、全ては幻影であったと気づくのじゃ。

886避難民のマジレスさん:2022/05/29(日) 19:11:57 ID:sPXS42Mo0
ラマナ・マハルシとの対話 342

夜11時、アーンドラ・プラデーシュ州のグントゥールから、悲しげだがしっかりした表情の中年の女性、その母親、そして2人の男性からなる一行がやって来た。
彼らはシュリバガヴァンに謁見を求めた。

その女性はシュリ・バガヴァンに言った。

質問者
 息子が胎内にいるとき、夫が亡くなりました。
 息子は父の死後生まれたのです。
 5年間は何の問題もなく育ちました。
 その後、小児麻痺に襲われました。
 9歳で寝たきりになりました。
 それでも、明るく元気でした。
 2年間その状態だったのですが、今は死んだと言われています。
 私は、眠っているだけで、すぐに目を覚ますことを知っています。
 息子が倒れたと聞いたとき、私はショックを受けました。
 私はビジョンで、一人のサードゥを見ました。
 彼がその子の身体に手をやると、その子はすっきりと目を覚ましました。
 私はそのサードゥはあなただと信じています。
 その子が起き上がるように、どうか来て触ってあげてください。

シュリ・バガヴァンは、医者は何と言ったのかと尋ねた。

彼女は答えた。

質問者
 彼らは、息子は死んだと言っています。
 しかし、彼らに何がわかるというのでしょう?
 私はグントゥールからこの場所まではるばるその子を連れてきました。

ある人が尋ねた。「何だって!遺体がここに運ばれてきたのですか?」

質問者
 1マイルにつき1/2ルピーの特別料金を払えば、遺体は運ばれると言われました。
 私たちはそのために150ルピーを支払って、荷物として連れてきたのです。

マハルシ
 もしあなたのビジョンが正しければ、その少年は明日目覚めるでしょう。

質問者
 どうぞお触りください。
 息子を屋敷の中に入れてもよろしいでしょうか?

他の者たちが彼らに抗議し、退去するよう説得した。
彼らは去り、翌朝、その遺体は火葬されたとの報告があった。

質問されると、シュリ・バガヴァンはこう言った。

マハルシ
 死者を蘇生させた聖者もいることが伝えられています。
 彼らもまた、すべての死者を蘇らせたわけではありません。
 もしそんなことがなされれば、世界も死も墓地もなくなってしまうでしょう。

一人の男が尋ねた。

質問者
 その母親の信仰は非常に注目に値するものでした。
 彼女はこれほど希望に満ちたビジョンを持っていたのに、どうして失望してしまったのでしょうか?
 それは彼女の子供への愛に伴う重ね合わせなのでしょうか?

マハルシ
 彼女もその子供も実在しないのに、どうしてビジョンだけが重ね合わせだというのでしょうか?

質問者
 では、それはどのように説明されるのでしょうか?

答えはなかった。

887鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/29(日) 23:32:13 ID:1d4drIFg0

 お釈迦様のところにも子供を亡くした母親がきて、生き返らせてくれるように頼んだじゃ・。
 お釈迦様は一度も死人がでたことがない家から水をもらってくれば、生き返らせる薬が作れるといったのじゃ。
 しかし、そんな家はなかったのじゃ。
 どの家でも死人は出ていたじゃ。
 母親は死が自分の子供にだけきたのではないと気づいて囚われから解放されたのじゃ。

888避難民のマジレスさん:2022/05/30(月) 17:07:03 ID:VeAhvEaw0
ラマナ・マハルシとの対話 343

質問者
 手が切断されようとも、人はそれに無自覚でなければなりません。
 なぜならバガヴァッド・ギーターでは、真我は肉体とは異なると宣言しているからです。

マハルシ
 怪我の痛みに気づかないことが、ジュニャーナなのでしょうか?

質問者
 痛みに無自覚であるべきではないのですか?

マハルシ
 大手術は、患者を痛みに気づかない状態にさせるため、麻酔をかけて行われます。
 患者は同時にジュニャーナも得るでしょうか?
 痛みに無感覚であることがジュニャーナであるはずがありません。

質問者
 ジュニャーニ(賢者)は痛みに無自覚であるべきではないのですか?

マハルシ
 身体的な痛みは、身体意識に従っているだけです。
 それは、身体意識がない場合には存在することはできません。
 心は、身体に気づいていないとき、その苦痛や快楽に気づくことはできません。
 ヨーガ・ヴァーシシュタの、インドラとアハリャーの物語を読んでみなさい。
 そこでは、死そのものが心の働きであると言われています。

 痛みは自我に依存しています。
 痛みは「私」なしでは存在することはできませんが、「私」は痛みなしであり続けることができます。

889鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/30(月) 23:02:06 ID:1d4drIFg0

 痛みは肉体に危険があることを知らせる信号に過ぎないのじゃ。
 それを無自覚でなければなない、と思うのも観念への囚われなのじゃ。
 肉体が自然に対処するさまたげになるものじゃ。
 観念がなければ痛みは苦にならないだけなのじゃ。

890避難民のマジレスさん:2022/05/31(火) 20:18:29 ID:cILxtfkc0
ラマナ・マハルシとの対話 344

質問者
 ヴィチャーラ・サーガラは、真我実現への4つの障害について述べています。

マハルシ
 なぜ4つだけなのですか?
 9つあるという人もいます。
 眠りはそのうちの1つです。
 眠りとは何でしょう?
 それは目覚めの裏返しでしかありません。
 それは目覚めから独立することはできません。
 眠りは純粋な真我です。
 自分が目覚めていると考えてはいけません。
 眠りはあり得ませんし、3つの状態もあり得ません。
 ただ真我を忘れているために、あなたは夢を見たというのです。
 真我が不在の状態で、何かが存在できるでしょうか?
 なぜ、あなたは真我を捨てて、非真我を保持するのでしょうか?

 心が外に出ようとするとき、その場で直ちに心を内側に向けなさい。
 心は、自身の外側に幸福を求める習慣があるために、外に出てしまいますが、外側のものが幸福の原因ではないという知識が、それを抑制してくれます。
 これがヴァイラーギャ、あるいは無執着です。
 完璧なヴァイラーギャの後でのみ、心は安定します。

 心は、知識と無知、あるいは睡眠と覚醒の混合物に過ぎません。
 それは5つの状態で機能します。

 クシプタ(活発な)
 ムーダ(鈍い)
 ヴィクシプタ(混乱した)
 カシャーヤ(潜在的な)、そして
 エーカーグリャ(一点集中した)です

 このうちカシャーヤは、傾向の潜在的なものでしかなく、執着や反感などの傾向そのものではありません。

 あなた自身がアーナンダ(至福)であるのに、どうしてあなたは「ああ!なんという至福だ!」と言ってそれを楽しむのでしょうか?
 これがラサースワーダ(至福の味)です。

 結婚式の間、処女は、男性に抱擁された経験がないのに花嫁として幸せを感じます。
 これがラサースワーダです。

質問者
 ジーヴァン・ムクティ(存命中の解脱)そのものがアーナンダである……

シュリ・バガヴァンが口を挟んだ。

マハルシ
 シャーストラ(聖典)を当てにしてはいけません。
 ジーヴァン・ムクティとは何でしょうか?
 アーナンダとは何でしょうか?
 解脱そのものが疑わしいのです。
 これらすべての言葉は何なのでしょうか?
 それらは真我から独立していることができるのでしょうか?

質問者
 私たちはこれらすべてを経験したことがないのです。

マハルシ
 ないものは常に失われ、あるものは、今ここに常に存在しています。
 これが万物の永遠の理法なのです。

(例:首の周りのネックレス)

891鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/05/31(火) 22:24:34 ID:1d4drIFg0

 聖典の言葉は全て実践のための手引きに過ぎないのじゃ。
 それを覚える打では、何の意味もないのじゃ。
 実践の妨げになるならば、有害にさえなるものじゃ。
 実践して聖典の意味を知ったならば、初めて役に立ったと言えるのじゃ。

892避難民のマジレスさん:2022/06/01(水) 17:06:38 ID:LjM.6Lro0
ラマナ・マハルシとの対話 345

シュリ・バガヴァンは、中断の後、こう続けた。

マハルシ
 心を探求することによって、心の力を破壊しなさい。
 心が調べられると、その活動は自動的に停止します。

 心の源を探すことが、もう一つの方法です。
 その源は、神、真我、あるいは意識と言われます。

 一つの想念に集中すると、他のすべての想念は消え、最後にはその想念もまた消えます。
 想念を制御している間は気づいている必要があり、そうでなければそれは眠りをもたらすでしょう。

質問者
 どうやって心を探求するのですか?

マハルシ
 呼吸の制御は助けにはなるでしょうが、目的地(ゴール)そのものに至ることは決してありえません。
 それを機械的に行っている間、心に油断なく注意を払い、「私」という想念を忘れずに、その源を探求しなさい。
 そうすれば、呼吸が沈むところが、「私」という想念が生じるところだとわかるでしょう。
 それらは共に沈み、上がります。
 「私」という想念もまた、呼吸とともに沈んでいきます。
 同時に、もう一つの輝く無限の「私-私」が現れますが、それは連続的で途切れることのないものです。
 それが目的地(ゴール)です。
 それは、神、真我、クンダリニー・シャクティ、意識などなど、さまざまな名前で呼ばれています。

 試みがなされれば、それが自ずとあなたを目的地に連れて行ってくれるでしょう。

893鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/01(水) 22:30:36 ID:1d4drIFg0

 マハリシが説いているのも止観なのじゃ。
 最初は呼吸などに集中して心を止めるのじゃ。
 しかしそれだけでは悟りは訪れないのじゃ。
 自分を観察して、自我の想念に気づくのじゃ。
 そうすれば無我になるのじゃ。
 さらに認識をも滅すれば、永遠の意識に至るのじゃ。
 それが大悟徹底の境地なのじゃ。

894避難民のマジレスさん:2022/06/02(木) 14:41:43 ID:fRv.y3Ww0
ラマナ・マハルシとの対話 346

自由意志と運命は、身体が続く限り続きます。
しかし、叡智はその両方を超越します。
なぜなら、真我は知識と無知を超越しているからです。

895避難民のマジレスさん:2022/06/03(金) 18:42:01 ID:1knILmX.0
ラマナ・マハルシとの対話 347

マハルシ
 心は想念の束です。
 想念が生じるのは、考える者がいるからです。
 考える者が自我です。
 自我は、探求されれば、自動的に消えます。
 自我と心は同じものです。
 自我は、そこから他のすべての想念が生まれる根源の想念です。

896鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/03(金) 22:44:03 ID:1d4drIFg0

 知識もまた観念に過ぎないものであるから、超越されるべきものなのじゃ。
 それは自我が作り出すものじゃ。
 自我がなければそれはなくなるのじゃ。
 ただ見るものがあるのじゃ。
 それさえもなくなれば悟りを得たことになるのじゃ。

897避難民のマジレスさん:2022/06/04(土) 20:28:15 ID:FUMr73XA0
ラマナ・マハルシとの対話 348

質問者
 人や物が、夢の中のように、ぼんやりとした、ほとんど透明な形をとるときがあります。
 人はそれらを外側から観察することをやめ、その存在を受動的に意識しますが、いかなる種類の利己心も積極的に意識しません。
 心の中には深い静寂があります。
 そのようなとき、真我に飛び込む準備ができているのでしょうか?
 それとも、この状態は不健全で、自己催眠の結果なのでしょうか?
 それは、一時的な安らぎを得る手段として奨励されるべきものなのでしょうか?

マハルシ
 心の中には静寂とともに意識があり、これがまさに目指されるべき状態なのです。
 それが真我であることに気づかずに、この点について質問が組み立てられるということが、その状態が確固たるものではなく、不定であることを示しています。

 「飛び込む」という言葉は、心が、外界の事物の水面下に潜るために、方向転換され内側に向けられる際の、外向的な傾向の状態にふさわしいものです。
 しかし、意識を妨げることなく、深い静寂が広がっているとき、潜る必要がどこにあるのでしょうか?
 もし、その状態が真我として認識されていないのであれば、そうするための努力は「飛び込む」と呼ばれます。
 その状態は、その点において、実現あるいは「飛び込む」に適していると言われるのです。
 したがって、最後の2つの質問は不要です。

質問者
 心は子供たちに対して偏愛を持ち続けています。
 ひょっとすると、理想を擬人化するために度々用いられる外観のせいかもしれません。
 どうしたらこの嗜好は失われるのでしょうか?

マハルシ
 真我を保持しなさい。
 なぜ子供たちや、彼らに対する反応について考えるのですか?

質問者
 今回のティルヴァンナーマライへの3度目の訪問は、私の中の自己本位の感覚を強め、瞑想をより容易でないものにしてしまったようです。
 これは重要でない一時的な状態なのでしょうか、それとも今後そのような場所を避けるべきというしるしなのでしょうか?

マハルシ
 それは想像上のものです。
 この場所や別の場所は、あなたの中にあるのです。
 そのような想像は、その場所が心の活動とは何の関係もないよう、終わらなければなりません。
 あなたの周りの環境さえ、あなた自身の意志ではなく、当たり前のようにそこにあるのです。
 あなたはそれらを超え、自分自身を巻き込まないようにしなければなりません。

898鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/04(土) 21:45:55 ID:1d4drIFg0

 ここではマハリシは内側に向けられた静寂な心を真我と言っているのじゃ。
 悟りとは違うものじゃ。
 悟りと等しい意味で使うこともあるのじゃ。
 つまり悟りから、悟りに導かれる心も含む、広範囲の意識を真我と呼んでいるのじゃ。
 真我は全てを含むものであるから、それでよいのじゃ。

899避難民のマジレスさん:2022/06/05(日) 20:14:58 ID:932BnNBU0
ラマナ・マハルシとの対話 349

シュリ・シャンカラの識別による救済への道

シュリ・ラマナ・マハルシによる注釈

(『ビジョン』の最新号には、シュリ・ラマナ・マハリシによるシュリ・シャンカラーチャーリャの『ヴィヴェーカ・チューダマニ』または『識別の宝冠』の翻訳に対して彼が書いた序文をS・クリシュナ氏、M.A.が翻訳した、以下の注釈が発表されている。)

この世に存在するすべての者は、悲しみの痕から解放されて常に幸せでありたいと願い、自分の真の本性ではない身体の病を取り除くことを望んでいます。
さらに、誰もが自分自身に対して最大の愛を抱いており、この愛は幸福がない場合には不可能です。
深い眠りの中では、すべてのものがないにもかかわらず、人は幸せであるという体験をします。
しかし、人は幸福そのものである自分自身の真の本性に無知であるために、幸福に至る正しい道を捨てて物質的存在の大海原で彷徨い、この世とあの世の快楽を得ることが幸福になる道であるという誤った信念の下に行動するのです。

安全な道しるべ

しかし、ああ!悲しみの痕のない幸福は実現されていません。
シヴァ神がシャンカラーチャーリャに姿を変えて、この至福の素晴らしさを讃える、ヴェーダーンタの三大聖典(プラスターナ・トラヤ)の解説書を書き、自らの人生の例によってそれを示したのは、まさに幸福へのまっすぐな道を指し示すためなのです。
しかし、これらの解説書は、赦免の至福を実現しようとするけれども、それらを研究する学識のない、熱心な求道者たちにはほとんど役に立ちません。

シュリ・シャンカラが、赦免を求める人々が把握しなければならない点を詳細に説明し、それによって彼らを真正でまっすぐな道へと導くよう、『識別の宝冠』というこの短い論説の中で、解説書の本質を明らかにしたのは、これらのためなのです。

学問は役に立たない

シュリ・シャンカラはこのテーマの冒頭で、人間の誕生を達成することは本当に難しいことであり、人は(それを達成したならば)真に自分の存在の本性である解脱の至福を実現するために努力しなければならない、と述べています。
この至福は、ジュニャーナあるいは知識によってのみ実現され、ジュニャーナは、ヴィチャーラあるいは着実な探究によってのみ達成されます。
この探究の方法を知るために、シュリ・シャンカラは、人はグルの恩恵を求めるべきだと言います。
それから彼は続けて、グルとそのシシュヤ(弟子)の資質、そして後者がどのように師に近づき、仕えるべきかを説明します。
彼はさらに、解脱の至福を実現するためには、自分自身の個人的な努力が不可欠な要素であることを強調します。
単なる書物の学習では、この至福は決して生じません。
それは、探究あるいはヴィチャーラを通してのみ実現され、シュラヴァナあるいはグルの戒律への献身的な注意、マナナあるいは深い黙想、ニディディアーサナあるいは真我への安定した姿勢の養成からなります。

3つの道

粗雑、微細、原因(コーザル)の3つの身体は、非真我であり、非実在です。
真我、または「私」は、それらとは全く異なるものです。
真我ではないものに、真我や「私」という見解を押し付けるのは無知のせいであり、これがまさに束縛です。
無知から束縛が生じるので、知識から解脱が生じます。
グルからこれを知ることが、シュラヴァナです。

5つの鞘(肉体、生気、精神、知性、歓喜)からなる3つの身体を「私」ではないとして拒絶し、その3つの身体すべてとは異なり、そしてアハムまたは「私」としてハートの中で唯一かつ普遍的に存在し、トヴァム(聖典の格言「タット・トヴァム・アシ」─汝それなり)という言葉で示されるもの、── ちょうど草の葉の葉柄が繊細に引き抜かれるように ── それを「私は誰か?」という微妙な問いかけを通して抽出すること、この微妙な探究の過程が、マナナあるいは深い黙想です。

900避難民のマジレスさん:2022/06/05(日) 20:37:12 ID:932BnNBU0
至福

名前と形の世界は、サットまたはブラフマンの付属物に過ぎず、それと異なるものではないことから、そのようなものとして否定され、そしてブラフマン以外の何ものでもないと肯定されます。
真我と至高者の同一性を宣言する、マハヴァーキャである、タット・トヴァム・アシという、グルによる弟子に対する指導がウパデーシャです。
それから、弟子は、絶対者である「私」、アハム・ブラフマンの至福の中に留まるようにと命じられます。
それにもかかわらず、心の古い傾向が厚く強く芽生え、(その至福の状態への)障害となります。
これらの傾向は三重であり、その根源である自我性は、ヴィクシェーパあるいは散逸(ラジャスによる)と、アーヴァラナあるいは包摂(タマスによる)の力によって引き起こされた外在化し分化した意識の中で繁茂するのです。

心を攪拌する

これらの力が破壊されるまでハートの中に心をしっかりと据えること、そして、 ── アハム・ブラフマスミ(私はブラフマンである)とブラフマ・イヴァーハム(ブラフマンだけが私である)という格言で表される ── アートマンの特徴である真の同質の傾向を、揺るぎない、絶え間ない警戒で呼び起こすことは、ニディディアーサナあるいはアートマーヌサンダーナ、すなわち真我への安住と呼ばれています。
これは、他ではバクティ、ヨーガ、ディヤーナと呼ばれています。

アートマーヌサンダーナは、バターを作るために凝乳を撹拌することに例えられ、心は撹拌棒に、ハートは凝乳に、真我への安住の実践は撹拌のプロセスに例えられます。
ちょうど凝乳を撹拌することによってバターが抽出され、摩擦によって火がつき、 ── 絶え間ない、油の途切れることのない糸状の流れのように ── 真我への揺るぎない油断のない安住によって、自然なあるいは不変のトランス、あるいはニルヴィカルパ・サマーディが生まれ、そしてそれが、知識であり体験であり、時間と空間を超えた、直接の、即時の、妨げられない、そして普遍的なブラフマンの知覚を容易に、自然にもたらすのです。

無限の至福

これが真我実現であり、それによって、フリダヤ・グランティまたはハートの結び目が切り離されます。
この結び目を構成している、無知の誤った妄想や、悪性の長年の心の傾向は、破壊されます。
すべての疑念は払拭され、カルマの束縛は断ち切られます。

このように、シュリ・シャンカラは、この『識別の宝冠』の中で、疑いと二元性を超えた解脱の無限の至福であるサマーディや超越したトランスを説明し、同時に、その達成のための方法を示しています。
この二元性から自由の状態を実現することが、人生の至高善です。
そして、それを勝ち取った者だけが、ジーヴァン・ムクタ(生きている間に解脱した者)であり、プルシャールタあるいは人間の努力の望ましい究極の目的を構成するものについて単に理論的に理解している者ではありません。

最終的な解脱

このように、ジーヴァン・ムクタは三重のカルマ(サンチタ、アーガーミ、プラーラブダ)の束縛から解放されていると宣言されます。
この段階に到達した弟子は、自分の個人的な体験を話します。
解脱した者は本当に好きなように自由に行動し、死すべき体を離れるときに赦免を遂げ、この「死である生」に戻ることはありません。

シュリ・シャンカラはこのように、解脱を含意する実現を、上記のように二重のものとして、すなわちジーヴァン・ムクティ(生きている間の解脱)とヴィデーハ・ムクティ(身体を離れた後の解脱)として説明しています。
さらに、グルとその弟子との対話形式で書かれたこの短い論説の中で、彼は多くの関連する主題を考察しています。

901 さと:2022/06/05(日) 23:33:54 ID:1d4drIFg0

 これはシャンカラの本の序文だというのじゃ。
 ほぼ悟りへの道の概要を示しているのじゃ。
 苦から逃れるための動機から、観念を捨てて悟りに至る道なのじゃ。
 仏教とも通じる道なのじゃ。

902鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/05(日) 23:34:41 ID:1d4drIFg0
上もわしなのじゃ。

903避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 14:23:13 ID:Uyqn4ylU0
上のシャンカラの話に、5つの鞘(肉体、生気、精神、知性、歓喜)からなる3つの身体を「私」ではないとして拒絶し
とありますが、

http://samten.seesaa.net/article/455727606.html
歓喜鞘の内の、我執球が末那識、心素球が阿頼耶識に対応していると考えてもいいのでしょうか?

904避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 14:29:03 ID:Uyqn4ylU0
1心を攪拌するこれらの力が破壊されるまでハートの中に心をしっかりと据えること
2アートマンの特徴である真の同質の傾向を、揺るぎない、絶え間ない警戒で呼び起こすこと

1.2についてもう少し解説をお願いします!

905避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 16:53:28 ID:IMSfZzUs0
日本語訳がわかりにくいかもしれないので
該当箇所の英語版も置いておきますねm(__)m

*To reject the three bodies consisting of the five sheaths (physical, vital,
mental, gnostic and blissful) as not ‘I’

*THE BEATITUDE: The world of name and form is but an adjunct of
Sat or Brahman, and being not different from it is rejected as such
and is affirmed as nothing else but Brahman. The instruction by the
Guru to the disciple of the Mahavakya, Tat-tvam-asi, which declares
the identity of the Self and the Supreme, is upadesa. The disciple is
then enjoined to remain in the beatitude of Aham-Brahman - ‘I’ the
Absolute. Nevertheless the old tendencies of the mind sprout up thick
and strong and form an obstruction (to that state of beatitude). These
tendencies are threefold and egoism, which is their root, flourishes in
the externalised and differentiating consciousness caused by the forces
of vikshepa or dissipation (due to rajas) and avarana or envelopment
(due to tamas).

*CHURNING THE MIND: To install the mind firmly in the heart until
these forces are destroyed and to awaken with unswerving, ceaseless
vigilance the true and cognate tendency which is characteristic of
the Atman and is expressed by the dicta, Aham Brahmasmi (I am
Brahman), and Brahmaivaham (Brahman alone am I) is termed
nididhyasana or atmanusandhana, i.e., constancy in the Self. This is
otherwise called Bhakti, Yoga and Dhyana.

906避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 17:07:10 ID:IMSfZzUs0
1937年2月6日

ラマナ・マハルシとの対話 350

非常に誠実な弁護士の帰依者であるG.シャンムガム氏と話しているとき、バガヴァンは述べた。

マハルシ
 シャーストラによると、人は真我実現を得るために12年間グルに仕えなければならないそうです。
 グルは何をするのでしょうか?
 弟子にそれを渡すのでしょうか?
 真我は常に実現されているのではないのでしょうか?
 では、その通説は何を意味するのでしょうか?
 人は常に真我でありながら、それを知りません。
 彼はそれを非真我、すなわち身体などと混同しています。
 そのような混乱は、無知によるものです。
 もし無知が一掃されれば、混乱はなくなり、真の知識が開かれるでしょう。
 実現した聖者と交際し続けることで、人は徐々に自分の無知を失い、やがてその除去は完了します。
 永遠の真我は、こうして明らかにされるのです。

 これがアシュターヴァクラとジャナカの物語が伝えている意味です。
 その逸話は書物によって異なります。
 私たちは名称と装飾には関心がありません。
 タットヴァ、すなわち寓意が見失われてはいけないのです。
 弟子は師に自分自身を明け渡します。
 それは、弟子によって維持される個人性の痕跡がまったく存在しないという意味です。
 もし明け渡しが完全であれば、すべての個人性の感覚は失われ、したがって、不幸の原因もなくなります。
 永遠の存在とは、幸福に他なりません。
 それが明らかにされるのです。

 それを正しく理解せずに、人々は、グルは弟子に「タット・トヴァム・アシ」のようなものを教え、弟子は「私はブラフマンである」を実現すると考えています。
 無知なので、彼らはブラフマンを他の何よりも巨大で強力なものとして想像しています。
 限定された「私」で、人はこれほど高慢で狂暴なのです。
 同じ「私」が巨大に成長したらどうなるでしょうか?
 彼はとてつもなく無知で愚かになるでしょう!
 この偽りの「私」が滅びなければならないのです。
 その絶滅がグル・セーヴァー(グルへの無私の奉仕)の成果です。
 実現は永遠であり、それはグルによって新たにもたらされるものではありません。
 彼は無知を取り除く助けをします ── ただそれだけなのです。

907避難民のマジレスさん:2022/06/06(月) 21:54:24 ID:Uyqn4ylU0
>>905ありがとうございます!
「この心臓には5つの神孔あり。その東方の孔は生気なり」
(チャーンドギァ・ウパニシャッドIII-13-1)
歓喜鞘上部にある五つのプラーナが流出している門は常知覚できているので
ハートセンターの場所はおそらく掴めています。
今は集中してひたすらここに私の実感を探求しています。

これが、心を攪拌するこれらの力が破壊されるまでハートの中に心をしっかりと据えること
で大丈夫でしょうか?

908鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/06(月) 22:45:15 ID:1d4drIFg0
>>903 違うのじゃ。
 末那識や阿頼耶識は肉体に存在しているものではないのじゃ。
 謬見により、起こっているものの名称なのじゃ。
 心の働きであり、悟りとともに滅するものであるから、霊眼であろうが見ることはできないのじゃ。

>>904 つまりは集中して雑念が起こらないようなるまで実践することなのじゃ。

 そして瞑想の静寂な心の静まった状態に常に留意するこどというのじゃ。
 分別の無い意識の状態を、常に保つようにするのじゃ。
 そうすれば観察に適した心の環境が整うのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。

909鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/06(月) 22:48:13 ID:1d4drIFg0
>>907 それでよいのじゃ。
 雑念が自ら静まっていくまで、集中し続けることなのじゃ。
 そうすれば次の状態にも近づいていくのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

910避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 09:23:38 ID:Uyqn4ylU0
おそらく原因体(歓喜鞘)のどこかに同一化しているのでひたすら観察していきます。
ありがとうございます。

911避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 10:59:29 ID:Uyqn4ylU0
1あと最近脳が静まっていても首に意識が行くことが増えてきたんですがこれは何なのでしょうか?
2心臓にサンヤマをほどこすならばチッタ(心)を知ることができる。(ヨーガスートラ)
2の詳細も解説をお願いしたいです。

912避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 11:12:37 ID:Uyqn4ylU0
すいませんこれ以降別のスレッドで質問します。
鬼和尚、906見逃しています。

913避難民のマジレスさん:2022/06/07(火) 12:34:06 ID:Uyqn4ylU0
911ですが、首に意識が行ったときにただ気付いている意識という感じで
そこが清浄であるのでそれを本心としてしまっている。という感じです。
ただこれも超えられそうという感じがしています。

914鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/07(火) 22:10:34 ID:1d4drIFg0
>>911 意識が脳から神経に移ってきたのじゃ。
 脳が止まったからなのじゃ。
 更に続ければ肉体の外にも意識が感じられるようになるじゃろう。
 恐れずに実践し続けるのじゃ。

 つまり心臓に集中すれば、自他の心の働きがわかるということなのじゃ。
 心の働きはそこで行われているからなのじゃ。
 
 そうであるから集中の法では、それもまた奨励されるのじゃ。
 実践して確かめてみるのじゃ。

915避難民のマジレスさん:2022/06/08(水) 15:59:29 ID:bljtR/Ek0
ラマナ・マハルシとの対話 351

セーラムの元保健衛生官、スブラマニア・アイヤール博士が、「この世は束の間のものであり、世俗の快楽は無益であることを知るべきである。それゆえ、それらから嫌悪して離れ、感覚を抑え、真我に瞑想して実現すべきである」という教えが含まれた一節を読み上げた。

シュリ・バガヴァンは述べた。

マハルシ
 人は、この世が束の間のものであるということをどのように知るのでしょうか?
 永続的なものをがとらえられないかぎり、この世の束の間の性質を理解することはできません。
 人はすでに真我であり、真我は永遠の実在であるため、彼の注意はそれに引き寄せられます。
 そのため彼は、永遠の実在である真我に自身の注意を留めるよう教示されるのです。

916鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/08(水) 21:46:28 ID:1d4drIFg0

 人が世間を束の間のものとわかるのは、真我に触れているからとマハリシは言うのじゃ。
 深い眠りの中や、生まれる前に人はそれを経験しているのじゃ。
 苦のない永遠の意識はそれによって感じることができるのじゃ。
 そこに帰ろうとする想念が悟りに導く意志となるのじゃ。

917避難民のマジレスさん:2022/06/09(木) 20:04:56 ID:lyR1iwAw0
ラマナ・マハルシとの対話 352

さまざまな信条

 想念は主体と客体として立ち上がる。
 「私」だけが保持されると、他のすべては消滅する。
 それで十分だが、資格ある少数の者にとってのみである。

 他の者たちが主張した。

 「全くそうだ。
  私が眠っている間に存在している世界は、私が生まれる前から存在したし、私が死んだ後も存在するだろう。
  他の者たちはそれを見ないのだろうか?
  私の自我が現れなければ、世界は消滅するというのだろうか?」
  
 世界の成り立ちや様々な学派は、そのような人々を満足させるためのものである。

質問者
 しかし、知性の産物でしかないので、それらが心を内側に向けることはできません。

マハルシ
 まさにこのために、聖典は「内を見ること」「一点集中して見ること」などについて語っているのです。

 真我は常に真我であるのに、なぜディーラだけに光が当てられるのでしょうか?
 それは勇気ある人という意味でしょうか?
 いいえ、ディー=知性、ラハ=注視、保護です。
 それゆえ、ディーラとは、心を弛めさせることなく、常に内側に向けたままにしておく人のことなのです。

918鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/09(木) 21:39:12 ID:1d4drIFg0

 世界が一つであるとか、三つであるとかいうのはただ好奇心を満足させるためだけにあるものじゃ。
 それらが真の悟りに導くことはないのじゃ。
 そうであるから聖典には自分の心を集中して観ることが勧められているのじゃ。
 それこそが人を悟りに導く実践であるからなのじゃ。

919避難民のマジレスさん:2022/06/10(金) 20:40:51 ID:uTVwmeWc0
1937年2月8日

ラマナ・マハルシとの対話 353

質問者
 トゥリーヤとは何ですか?

マハルシ
 覚醒、夢、眠りという3つの状態しか存在しません。
 トゥリーヤは4つ目の状態ではなく、これら3つの根底にあるものです。
 しかし、人々は容易にそれを理解しません。
 それゆえ、これが4つ目の状態であり、唯一の実在であると言われているのです。
 実際には、それは何からも離れていません。
 なぜならそれは、すべての出来事の土台を形成しているからです。
 それは唯一の真理であり、あなたの存在そのものなのです。
 3つの状態は、その上で儚い現象として現れ、その後、その中にただ沈んでいきます。
 したがって、それらは非実在です。

 映画館の映像は、スクリーンの上を通り過ぎる影にすぎません。
 それらは登場し、前進したり後退したり、次から次へと変化します。
 したがってそれらは非実在ですが、スクリーンはずっと変化していません。
 絵画も同様です。
 画像は非実在であり、キャンバスは実在です。
 私たちも同様です。
 世界の現象は、内であれ外であれ、私たちの真我から独立していない一過性の現象に過ぎないのです。
 ただ、それらを自分の外にある実在とみなす習慣が、私たちの真の存在を隠し、他を現出させる原因となっているのです。
 常に存在する唯一の実在である真我が見つかれば、他のすべての非実在のものは、それらが真我以外の何ものでもないという知識を残して消え去るでしょう。

 トゥリーヤは、真我の別名にすぎません。
 覚醒、夢、眠りの状態に気づいていながら、私たちは自分自身の真我に気づいていません。
 しかし、真我は今ここにあり、それが唯一の実在なのです。
 それ以外には何もありません。
 身体との同一化が続く限り、世界は私たちの外側にあるように見えます。
 ただ真我に気づきなさい。
 そうすれば、それらは存在しません。

920鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/10(金) 21:33:42 ID:1d4drIFg0

 通常のインドの教義では起きている状態、寝て夢を見ている状態、熟睡状態とは違うものとしてトゥリーヤがあるというのじゃ。
 しかし、マハリシは実際にはそれこそが唯一の実在と説くのじゃ。
 それは真我でもあり、全てであるというのじゃ。
 それが大乗の言う真如であり、永遠の意識なのじゃ。
 それ以外のものは幻影の観念に過ぎないのじゃ。

921避難民のマジレスさん:2022/06/11(土) 20:19:04 ID:8gqKogHk0
ラマナ・マハルシとの対話 354

神智学者であるアメリカ人の女性が尋ねた。

質問者
 私の師へのアプローチをより近づけさせることができる手段は何でしょうか?

マハルシ
 あなたは今、彼からどれくらい離れていますか?

質問者
 私は彼から離れています。
 しかし、私はもっと近づきたいのです。

マハルシ
 あなたがまず最初に自分の真我を知れば、次に他者がどれだけ離れているかを見いだすでしょう。
 あなたは今誰ですか?
 あなたは人格ですか?

質問者
 はい、私は人格です。

マハルシ
 人格は真我から独立していますか?

質問者
 時々です。

マハルシ
 いつですか?

質問者
 私は実在の閃光を得る時がありますが、他の時にはないという意味です。

マハルシ
 誰がその閃光に気づいていますか?

質問者
 私、つまり人格を意味しています。

マハルシ
 この人格は、自己から離れていることに気づいていますか?

質問者
 どの自己ですか?

マハルシ
 人格はどちらだと思いますか?

質問者
 低次の自己です。

マハルシ
 それでは尋ねましょう。
 低次の自己は高次の自己から独立して気づいているのですか?

質問者
 はい、時々。

マハルシ
 ちょうど今、師から離れているということを、誰が感じているのでしょうか?

質問者
 高次の自己です。

マハルシ
 高次の自己には身体があり、その身体が「師は離れている」と言うのですか?
 それはあなたの口を通して話すのですか?
 あなたはそれから離れているのですか?

質問者
 睡眠中のように、身体がなくても自分の行為に気づくよう、自分自身を訓練できる方法を教えていただけますか?

マハルシ
 気づきはあなたの本性です。
 深い眠りの中でも目覚めていても、それは同じです。
 どうしてそれが新たに手に入れられるというのでしょう?

質問者
 しかし私は、睡眠中に何をしたかを覚えていません。

マハルシ
 誰が「私は覚えていません」と言っているのですか?

質問者
 私が今言っています。

マハルシ
 あなたはその時も同じでした。
 なぜ睡眠中にそう言わないのですか?

質問者
 私は睡眠中に何を言ったのか覚えていません。

マハルシ
 あなたは、目覚めた状態で、「私は知っている、私は覚えている」と言います。
 この同じ人格が、「睡眠中に私は知りませんでした、私は覚えていませんでした」と言うのです。
 なぜこの質問は睡眠中に起こらないのですか?

922避難民のマジレスさん:2022/06/11(土) 20:36:11 ID:8gqKogHk0
質問者
 私には睡眠中に何が起きるのか知りません。
 それが、私が今尋ねている理由です。

マハルシ
 その疑問は睡眠状態に関わっているので、そこで提起される必要があります。
 それは覚醒状態に関わっていないので、それに明白な理由はありません。

 実際は、睡眠中は制限がなく、疑問も生じません。
 ところが今、あなたは制限を課し、自分自身を身体と同一視するため、この種の疑問が生じるのです。

質問者
 私はそれを理解していますが、実現していません(つまり、多様性の中の単一性)。

マハルシ
 あなたは多様性の中にいるので、単一性を理解している、閃光を得た、物事を覚えているなどと言うのです。
 あなたはこの多様性を実在だと思っています。
 それに反して、単一性は実在であり、多様性は偽りです。
 単一性がそれ自体を、その実在を明らかにする前に、多様性は去らなければなりません。
 それは常に実在です。
 それは、この偽りの多様性の中に自身の存在の閃光を放つことはありません。
 それどころか、この多様性が真理を妨げるのです。

それから他の者たちが会話を続けた。

マハルシ
 無知の除去が実践の目的であり、実現の獲得ではありません。
 実現は常に存在し、今ここにあります。
 それが新たに獲得されるものであれば、実現は、ある時点では存在せず、別の時点では存在すると理解されなければなりません。
 その場合、それは永続的ではないため、試みる価値はありません。
 しかし、実現は永続的で不滅であり、今ここにあります。

質問者
 無知を取り除くには恩寵が必要です。

マハルシ
 その通りです。
 しかし、恩寵はずっとそこにあります。
 恩寵が真我です。
 それは獲得されるものではありません。
 必要なのはその存在を知ることだけです。
 たとえば、太陽は輝きのみあり、闇を見ません。
 とろこが他の人たちは、太陽が近づくと消える闇について話します。
 同様に、無知もまた幻影であり、実在ではありません。
 非実在であるため、その非実在性が見つけられれば、取り除かれたと言われるのです。

 繰り返しますが、太陽はそこにあり、また輝いています。
 あなたは日の光に包まれています。
 それでも、あなたが太陽を知りたいなら、あなたはその方向に目を向けて、それを見なければなりません。
 ですから、恩寵も今ここにありますが、実践によってのみ見つけられるのです。

質問者
 絶えず明け渡したいという願望によって、より大きな恩寵が経験されることを願っています。

マハルシ
 きっぱりと明け渡し、願望を終わらせなさい。
 行為者の感覚が保たれている限り、願望があります。
 それもまた人格です。
 これが消えれば、真我は純粋に輝きを放っていることがわかります。

 行為者の感覚が束縛であり、行為そのものではありません。
 
 「静かにして、私が神であると知りなさい」
 ここでの静けさは、個人性の痕跡のない完全な明け渡しです。
 静けさが広がり、心の動揺はありません。
 心の動揺が、願望や行為者の感覚や人格の原因です。
 それが止められれば、静寂があります。
 そこでは「知ること」とは「存在する」という意味です。
 それは、知識、主体、客体という三位を伴う相対的な知識ではありません。

質問者
 「私は神です」または「私は至高の存在です」という考えは役に立ちますか?

マハルシ
 「私は私で在るものである(I AM that I AM)」。
 「私は在る(I AM)」が神です。
 「私は神である」と考えるのではありません。
 「私は在る」を認識しなさい。
 「私は在る」と考えてはいけません。
 「私が神であると知りなさい」と言われているのです。
 「私が神であると考えなさい」ではありません。

923避難民のマジレスさん:2022/06/11(土) 20:43:09 ID:8gqKogHk0
その後、シュリ・バガヴァンは続けた。

マハルシ
 「私は私で在るものである」と言われています。
 それは、人は「私」としてとどまらなければならないということです。
 彼はいつも「私」だけなのです。
 彼は他の何ものでもありません。
 それでも彼は「私は誰ですか?」と尋ねます。
 幻想の犠牲者は「私は誰ですか?」と尋ねるでしょうが、自分自身を完全に気づいている人はそうではありません。
 真我と非真我の誤った同一視が、あなたに「私は誰ですか?」と尋ねさせるのです。

さらに後…

マハルシ
 ティルヴァンナーマライへのさまざまなルートがありますが、ティルヴァンナーマライはどのルートを取っても同じです。
 同様に、主体へのアプローチは人格によって異なります。
 しかし、真我は同じです。
 しかしそれでも、ティルヴァンナーマライにいながら、ルートを尋ねるなら、それは滑稽です。
 ですからまた、真我でありながら、真我を実現する方法を尋ねるなら、それはばかばかしいように見えます。
 あなたは真我です。
 真我としてありなさい。
 以上です。
 疑問は、真我と身体との現在の誤った同一視のために生じます。
 それは無知です。
 これが消えなければなりません。
 それが除去されれば、真我だけがあります。

924鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/11(土) 22:53:44 ID:1d4drIFg0

 グルの恩寵をえるための願望とか、アプローチを近づけさせる手段とかは自我の抵抗に過ぎないのじゃ。
 自分を放棄しないために、そのような遠回りの方法を考え出すのじゃ。
 それもまた幻想の自我に依存しているからなのじゃ。
 考えるのではなく、自分を観ることで気づくだけで真我も実現するのじゃ。

925避難民のマジレスさん:2022/06/12(日) 16:35:10 ID:KL8/a/wE0
ラマナ・マハルシとの対話 355

質問者
 教養は聖者を、無教養よりも世の中により役立たせるのではないでしょうか?

マハルシ
 学問のある人でも、無学な賢者の前では頭を下げなければなりません。

 無教養は無知であり、教養は学識のある無知です。
 それらは共に真の目的に対して無知なのです。
 一方、聖者は無知ではありません。
 なぜなら彼には目的がないからです。

926鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/12(日) 22:28:29 ID:1d4drIFg0

 教養や道徳も本来は悟りを得るためのものだったのじゃ。
 しかし今では世間の欲のための手段となってしまったのじゃ。
 金や権力や名声という目的のために、教養や道徳が学ばれるようになったのじゃ。
 それは悟りという本来の目的には無知なのじゃ。
 目的を果たした聖者は、そのような教養や道徳の真の目的を知っているから無知ではないのじゃ。

927避難民のマジレスさん:2022/06/13(月) 20:22:31 ID:vp.zmIcw0
ラマナ・マハルシとの対話 356

質問者
 なぜ、この世に眠りがあるのでしょうか?

マハルシ
 ただ罪のためだけに。

質問者
 それは破壊されうるのでしょうか?

マハルシ
 はい。

質問者
 眠りは、それ自体を悟らせた後にのみ終わるのだそうです。

マハルシ
 では、なぜ神に帰依するのでしょうか?

質問者
 眠りはどうしたら破壊されるのですか?

マハルシ
 その活動や結果を意識せずにいなさい。

質問者
 それはどのようになされるのですか?

マハルシ
 真我を探究することによってのみです。

928鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/13(月) 22:02:15 ID:1d4drIFg0

 悟りを得ていなければ眠りは常にあるじゃろう。
 肉体と精神の疲れを癒すためなのじゃ。
 悟ればもはや眠りはないのじゃ。
 肉体は休める時があっても、精神は常にあり続けるからなのじゃ。

929避難民のマジレスさん:2022/06/14(火) 20:13:21 ID:.UpKQqtA0
ラマナ・マハルシとの対話 357

回顧録

シュリ・バガヴァンは、ティルヴァンナーマライに滞在していた時の出来事をいくつか語った。

1. ある日、彼は、葉の上に小さな粒のようなものを舐め取るようにと与えられた。それは消化をよく助けると言われていた。彼はそれを舐めた。その後、食事をした。しばらくすると、集まった人々が光に包まれているように見えた(テージョーマヤ)。その体験はしばらくしてなくなった。

2. パヴァラクンルに住んでいたとき。彼は丘の中腹にある細流の一つで水浴びをするつもりだった。パラニ・スワミはそのことを知らされた。その噂は広まり、丘に住んでいたジャダ・パドマナーバ・スワミがパラニ・スワミと手配して、シュリ・バガヴァンを彼の小屋近くの丘に連れて行った。パラニ・スワミはシュリ・バガヴァンに知らせることなく、どうにか彼をそこに連れて行くことに成功した。すばらしい歓迎が彼を待ち受けていた。席が彼のために整えられ、牛乳や果物が供され、ジャダ・パドマナーバ・スワミは心を尽くして彼をもてなした。

3. ジャダ・パドマナーバ・スワミは、『真我実現』という本の中では、シュリ・バガヴァンを傷つけようとしたように表現されているが、彼には本当に親切で、彼の悪戯が悪意ある行為だと誤解されたのだ。彼の唯一の弱みは、資金調達のためにシュリ・バガヴァンを利用にしようとしたことだった。もちろんそれをマハルシは好まない。ジャダ・パドマナーバ・スワミには何の問題もなかったのだ。

4. 従者のマーダヴァ・スワミが、シュリ・バガヴァンは寺院の地下室に何ヶ月も食べ物なしでいたのかと尋ねた。

マハルシ
 うむ!うむ!ミルクや果物など、食べ物は手近に得られましたが、いったい誰が食べ物のことを考えるというのでしょう。

5. マンゴー樹の洞窟に滞在している間、シュリ・バガヴァンは寺院の像に、蓮や黄色い花(サラコンナイ)や緑の葉で花輪をよくつくっていた。

6. カリャナ・マンタパムが完成した後、シュリ・バガヴァンは変装して一晩そこに滞在した。

7. 寺院の敷地内の木の下に座っていたとき、バガヴァンは埃にまみれていた。なぜなら、以前は彼は決して水浴びをしなかったからだ。12月の寒い夜、バガヴァンは脚をたたみ、頭を脚の間に置き、動かずにそこに留まっていた。早朝になると、彼の体についた埃の層が露と霧に濡れて白く見えた。太陽の下で乾燥させると、黒く見えた。

8. 丘に住んでいた時、シュリ・バガヴァンはジャダ・パドマナーバ・スワミのプージャー(儀式)を手伝い、鐘を鳴らし、器を洗うなどしていたが、ずっと黙っていた。彼はまた、マラヤーラム語の 『アシュタンガ・フリダヤム』 などの医学書を読み、他のサードゥの助けを求める患者のために、その本に書かれている治療法を指南することもあった。そのサードゥ自身は、これらの書物の読み方を知らなかった。

930鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/14(火) 21:59:50 ID:1d4drIFg0

 悟りを得れば肉体を気にかけなくなるから食べなかったり、洗わなかったりするのじゃ。
 しかし、衆生のために法を説くならば、肉体が必要になるから食べたり、洗ったりするのじゃ。
 生きるのもただ衆生のためなのじゃ。
 肉体が滅びていくのも惜しくはないのじゃ。

931避難民のマジレスさん:2022/06/15(水) 17:57:36 ID:7UPy86HY0
1937年2月12日

ラマナ・マハルシとの対話 358

ホールでの一場面

午後8時20分。
シュリ・バガヴァンは夕食を終えて戻り、ソファーの上で体を伸ばしていた。
明かりは薄暗く、床に3人の男が座っている。
一人は雑誌から何かを写すのに忙しく、もう一人は瞑想に没頭し、三人目は手持ち無沙汰に周囲を見回している。
シュリ・バガヴァンが時折喉を鳴らす以外、ホールは静まり返っている。

侍従の帰依者マーダヴァ・スワミが、キンマの葉の束を手に音もなく静かに入ってくる。
彼はテーブルへ移動する。
ソファに横になっていたシュリ・バガヴァンは、彼を見て、優しく声をかける。

マハルシ
 しー、しー、何をしているのですか?

侍従はそっと「何も…」とつぶやき、キンマをそこに置き、口ごもる。

マハルシ
 私には必要ありません。

 (侍従はそっと床の上に腰を下ろす)

 カストゥーリーの錠剤 ── 毎日、次から次へと…瓶が空になります ── そのうえ、さらに注文されるのです。
 私には必要ありません。

ある帰依者が、シュリ・バガヴァンの健康が思わしくないことを、巧みに昼食のオジャ・ポドリーダのせいにする。

マハルシ
 いえ、いえ、よくできていましたよ。
 それは良いものでした。

沈黙…痰とげっぷを除いて。

数分後、侍従が静かに抜け出して瓶を手に戻ってくると、シュリ・バガヴァンの近くに行き、「クミンの種の錠剤です」と言って一錠差し出す。

シュリ・バガヴァンはそっとつぶやく。

マハルシ
 それにはライムの果汁が入ってます。
 ライムの果汁はこれには良くないのです。

帰依者の一人、ランガスワミー・アイエンガールは、その間に瞑想からすっかり覚め、その様子を見ている。
侍従はまだ錠剤を持った手を差し出している。

シュリ・バガヴァンは続ける。

マハルシ
 誰がそれを噛むのですか?

ランガスワミー・アイエンガール
 噛む必要はありません。
 口の中に入れて、舐めればよいのです。

侍従は慌てて同意する。

侍従
 そうです、そうです。
 舐めるだけです。

マハルシ
 彼に渡してください。

 (ランガスワミー・アイエンガールを指差す)

 彼が噛むか、舐めればよいのです。
 私には必要ありません。

 (侍従はがっかりて戻り、床にしゃがみ、再び立ち上がる)

マハルシ
 えー!えー!何をするのですか?
 いりませんよ。

侍従は「カストゥーリーの錠剤…効きます」とつぶやきながら、薬棚の前まで移動する。

シュリ・バガヴァン
 それがなくても、私は直によくなるでしょう。
 取り出さないでください。
 えー!えー!そこに置いておきなさい。
 私は飲みませんから…好きにしなさい。

 (侍従は再び腰を下ろし、皆は床に就くまで黙っている)

932避難民のマジレスさん:2022/06/16(木) 16:18:42 ID:64.El.9Q0
1937年2月13日

ラマナ・マハルシとの対話 359

午前7時30分頃、シュリ・バガヴァンは朝食を終えて丘に登っていた。
パダーナンダは行ってひれ伏し、立ち上がって、「確かに、私はダルシャンを受けました…私は戻ります」と言った。

シュリ・バガヴァンは微笑みながら…「誰のダルシャンですか?なぜ、あなたが私にダルシャンを与えたと言わないのですか?」

午前9時頃、プーナの帰依者(パルキ氏)がシュリ・バガヴァンに敬礼し、シュリ・バガヴァンの恩寵を祈願するアシュタカム(詩)を読み上げた。
その作品は、迅速な解脱(ジャティティ・ムクティ)の祈りで終わっており、その帰依者はそれを強調した。

マハルシ
 ムクティ、すなわち解脱は、今後得られるものではありません。
 それは今ここに、永遠にあるのです。

質問者
 同意しますが、私はそれを体験していないのです。

マハルシ
 その体験は、今ここにあるのです。
 人は、自分自身の自己を否定することはできません。

質問者
 それは存在であって、幸福ではないということですね。

マハルシ
 存在=幸福=在ること。
 ムクティ(解脱)という言葉は、とても刺激的です。
 なぜ人はそれを求めるのでしょうか?
 彼は束縛があると信じているので、解脱を求めるのです。
 しかし、実際には、束縛はなく、解脱だけがあります。
 なぜそれを名前で呼び、それを求めるのでしょうか?

質問者
 その通りです…しかし、私たちは無知なのです。

マハルシ
 ただ無知を取り除きなさい。
 なされるべきことはそれだけです。

933鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/16(木) 23:32:37 ID:1d4drIFg0

 悟りとはつまるところ気づくこと、知ることに尽きるのじゃ。
 今自分と認識しているものが、自分ではないと気づくことが悟りの始まりなのじゃ。
 さらに自分という観念さえもないと気づくのじゃ。
 観念そのものも幻想と気づいて捨てられれば、大悟徹底なのじゃ。

934避難民のマジレスさん:2022/06/17(金) 19:30:37 ID:N8xCb/AQ0
1937年2月14日

ラマナ・マハルシとの対話 360

ラクナウの上流階級の紳士はポール・ブラントン氏に、彼の妻がシュリ・バガヴァンへの訪問によって得ていた心の平和を失ってしまったので、彼はシュリ・バガヴァンが同じ平和を回復してくれることを望んでいる、と手紙を書いた。

その願いに対し、シュリ・バガヴァンは「一度得た平和が後に失われてしまうのは、心の弱さのためです」と言った。

935鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/17(金) 22:39:31 ID:1d4drIFg0

 実践を続けてサマーディに達したとしてもも実践をやめれば入れなくなるのじゃ。
 実践を続けられないのが、心の弱さなのじゃ。
 悟りを得られれば、もはや実践も要らなくなるのじゃ。
 悟りを得るまで油断せずに実践し続けるのが大事なのじゃ。

936避難民のマジレスさん:2022/06/18(土) 20:19:48 ID:3JHk7lKI0
ラマナ・マハルシとの対話 361

シュリ・バガヴァンに毎日ビクシャー(施しもの)を持ってくる女性の息子であるムダリアール・スワミは、次のような興味深い出来事を語った。

シュリ・バガヴァンがヴィルーパークシャ洞窟に滞在していた時、彼とムダリアール・スワミはスカンダアシュラマムの裏を一緒に歩いていた。

そこには高さ15フィートほどの大きな岩があり、それは裂け目になっていて、少女(羊飼いの娘)がそこに立って泣いていた。
シュリ・バガヴァンは彼女の悲しみの理由を尋ねた。

彼女は「私の羊がこの裂け目に滑り込んだので、私は泣いているのです」と言った。

シュリ・バガヴァンはその裂け目に降りて、羊を肩に乗せ、表面に登って、彼女に羊を届けた。

ムダリアール・スワミは、「それは誰にとっても、非常に素晴らしい偉業だった」と言う。

937鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/18(土) 22:25:31 ID:1d4drIFg0

 さすがじゃ。
 恐れがないからそのようなこともできるのじゃ。
 命を捨ててもよいと思っているわけではないがのう。
 自我がないから恐れなく行動できるのじゃ。

938避難民のマジレスさん:2022/06/19(日) 20:12:15 ID:Aw7bFW0A0
ラマナ・マハルシとの対話 362

ネロールの大学教授であるスッバラーミアー氏が、ムクティ(解脱)について尋ねた。

マハルシ
 ムクティに関する質問はすべて認められません。
 なぜなら、ムクティとは束縛からの解放を意味し、それは束縛が現在存在していることを暗示するからです。
 束縛は存在せず、したがってムクティも存在しないのです。

質問者
 シャーストラ(聖典)は、ムクティとその等級について述べています。

マハルシ
 シャーストラは賢者のためのものではありません。
 なぜなら彼らはそれらが不要だからです。
 無知な人たちはそれらを欲しません。
 シャーストラを尊ぶのは、ムムクシュ(解脱を志す者)だけです。
 つまり、シャーストラは、知恵のためのものでも、無知のためのものでもないのです。

質問者
 ヴァシシュタはジーヴァン・ムクタ(生きている間に解脱した者)と言われていますが、ジャナカはヴィデーハ・ムクタ(身体を離れた後に解脱した者)でした。

マハルシ
 なぜヴァシシュタやジャナカについて話すのでしょうか?
 自分自身のことはどうなのですか?

939鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/19(日) 23:29:13 ID:1d4drIFg0

 解脱も本来は言葉では語られないものじゃ。
 まだ悟りを得ていない者のために、仮に言葉にしているだけなのじゃ。
 それについて聞いたり論じたりするのは、無意味なのじゃ。
 自分がわからないことを無理に観念にしようとしているのであるからのう。
 それによって新たな観念が心に植えつけられ、結局は真の悟りを見逃すことにもなるのじゃ。
 自らの実践が全てなのじゃ。

940避難民のマジレスさん:2022/06/20(月) 18:34:35 ID:eRW6ATeE0
この日は、多くの新しい訪問者が来ていた。
そのうちの二人はシュリ・バガヴァンの前でガナパティ・ムニについて話していた。
シュリ・バガヴァンは彼らの話にいくつかの言葉を付け加えた。

(1)ジニャーナ(叡知)とウパーサナ(瞑想)がムクティ(解脱)へ飛ぶための2つの翼だと言う人もいます。
  ジニャーナとは何でしょうか?
  ウパーサナとは何でしょうか?
  ジニャーナは常に存在するものです。
  それが究極の目標でもあります。
  努力がなされたとき、その努力はウパーサナと呼ばれます。
  それが無努力であるとき、それはジニャーナであり、ムクティと同じものです。

(2)自分たちの間で議論した後、ある訪問者が言った。
  「何らかの優れた力が、私たちが外形を振り払うのを助けてくれるに違いありません。」
  シュリ・バガヴァンは言った。

  誰が外形を見ているのでしょうか?
  あるいは、それらが自らが存在すると言っているのでしょうか?
  もしそうなら、世界に自らが存在すると言わせておけばいいのです。
  繰り返しますが、もし世界が内面からの投影であるならば、それは「私」という想念と同時に投影されていることが認められなければなりません。
  いずれにせよ、「私」は根本的な基盤であり、それを知れば他のすべては知られるのです。

(3)別の者は、ガナパティ・ムニが、自分はインドラ・ローカに行ってインドラがやっていることを言うことはできても、自分の内側に入って「私」を見つけることはできないと言っていた、と言った。

  シュリ・バガヴァンは、「ガナパティ・ムニは、前進するのは簡単だが、後退するのは不可能だ」とよく言っていたと付け加えた。
  そしてシュリ・バガヴァンは述べた。

  どんなに遠くに行っても、そこには自分がいます。
  どこに後退するというのでしょうか?
  同じ真理が、 『 イーシャ・ウパニシャッド』のマントラに含まれているのです。

(4)ガナパティ・ムニがどのようにしてアーシュ・カヴィ(霊感のある詩人)になったかという質問に対して、シュリ・バガヴァンは言った。

  彼がタパスヤ(苦行)を行っている時にシヴァが現れ、彼にミルクや蜂蜜を飲ませ、その後彼はアーシュ・カヴィになったと言われています。

941鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/20(月) 22:22:31 ID:1d4drIFg0

 叡知は常にあるものじゃ。
 しかし、無明によって迷わされているのじゃ。
 瞑想によって忘我になれば、叡知も少し解放されるのじゃ。
 それによって自我が観られれば解脱も起こるのじゃ。
 そして叡知も永遠に解放されるのじゃ。

942避難民のマジレスさん:2022/06/21(火) 18:55:49 ID:lrOwutps0
少し休止します!
また再開すると思いますのでその時はよろしくお願いします!
鬼和尚、いつもコメントありがとうございましたm(__)m

943鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/21(火) 21:50:00 ID:1d4drIFg0
↑ ご苦労さんだったのじゃ。
 ゆっくり休むとよいのじゃ。
 
 どういたしまして、またおいでなさい。

944避難民のマジレスさん:2022/06/21(火) 23:22:23 ID:6Vl66ftc0
ありがとうでありました。
再開を楽しみにしてるであります。

ところで、
ジャンカラの解説本『バーマティー』をネットで見つけましました。
この本を鬼和尚は、読むべき価値があると思われますでしょうか?

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3186361/99?tocOpened=1

(´・(ェ)・`)つ

945鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/22(水) 22:17:46 ID:1d4drIFg0
↑ あるじゃろう。
 不二一元論じゃな。
 囚われなければ参考になるのじゃ。

946避難民のマジレスさん:2022/06/22(水) 22:58:50 ID:dsxzq4TQ0
ありがとうであります。
↓のスレで始めるであります。

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/l30
(´・(ェ)・`)b

947避難民のマジレスさん:2023/03/30(木) 11:50:47 ID:zHMDf6U60
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1605702581/
↑からのつづきであります。
荘子70.
大宗師第六(10)
子祀、子輿、子犁、子來四人相與語曰。孰能
以無爲首。以生爲脊。以死爲尻。孰知死生存
亡之一體者。吾與之友矣。四人相視而笑。莫
逆於心。遂相與爲友。俄而子輿有病。子祀往
問之。曰。偉哉。夫造物者將以予爲此拘拘
也。曲僂發背。上有五管。頤隱於齊。肩高於
頂。句贅指天。陰陽之氣有沴。其心間而無
事。跰◯(𧾷+鮮)而鑑於井曰。嗟乎夫造物
者。又將以予爲此拘拘也。子祀曰。女惡之
乎。曰亡。予何惡。浸假而化予之左臂以爲
鶏。予因之以求時夜。浸假而化予之右臂以爲
彈。予因之以求鸮炙。浸假而化予之尻以爲
輪。以神爲馬。予因乘之。豈更駕哉。且夫得
者時也。失者順也。安時而處順。哀樂不能入
也。此古之所謂縣解也。而不能自解者。物有
結之。且夫物不勝天久矣。吾又何惡焉。

子祀(しし)、子輿(しよ)、子犁(しり)、子來
(しらい)四人相與(あいとも)に語りて曰く。
孰(たれ)か能く無を以て首と爲し。生を以て
脊(せき)と爲し。死を以て尻と爲す。孰(た
れ)か死生存亡の一體たるを知る者ぞ。吾れ之
と友たらんと。四人相視て笑ふ。心に逆らふ
こと莫し。遂に相與に友爲り。俄にして子輿
病有り。子祀往いて之を問ふ。曰く。偉な
る哉。夫(か)の造物者將に予を以て此の拘拘
(こうこう)たらしめんとす。曲僂(きょくろ)
背に發す、と。上に五管有り。頤(おとがひ)
齊(へそ)を隱し。肩項(うなじ)より高く。句
贅(くがう)天を指す。陰陽の氣沴(みだ)るゝ
こと有り。其の心間にして無事。跰◯(𧾷
+鮮)(へんせん)として井に鑑みて曰く。嗟
乎(あゝ)夫(か)の造物なる者。又將に予を以
て此の拘拘(こうこう)爲(た)らしめんとする
やと。子祀曰く。女(なんぢ)之を惡むかと。
曰く亡(な)し。予何ぞ惡まん。浸假(しんか)
して予の左臂(さひ)を化して以て鶏と爲さ
ば。予は因って以て時夜(じや)を求めん。浸
假して化予の右臂を化して以て彈(たま)と爲
さば、予因って以て鸮炙(げうしゃ)を求め
ん。浸假して予の尻を以て輪(りん)と爲し。
神を以て馬と爲さば。予は因って之に乘ら
ん。豈に更に駕せんや。且つ夫れ得るは時
也。失ふは順也。時に安んじて順に處(を)れ
ば。哀樂入ること能はざる也。此れ古の所謂
縣解也。而して自ら解くこと能はざる者は。
物之を結ぶこと有れば也。且つ夫れ物天に勝
たざること久し。吾又何ぞ惡まんやと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

948避難民のマジレスさん:2023/03/30(木) 11:52:52 ID:zHMDf6U60
注:

子祀、子輿、子犁、子來;仮設的人物なり。
首、脊、尻;首尾始終の意なり。
莫逆於心;意気相投じて心中逆らふ所なきな
 り、親友のことを莫逆(ばくげき)などと云
 ふは此の意なり。
偉;大なり
拘拘;物事にとらわれて融通のきかない様。
 拘繋(こうけい)伸びざるなり。
曲僂;曲身の貌なり。セムシなり。
發背;瘡(きず)背に発するなり。
五官;五臓の穴にて、肛門なり。
頤;あごなり。
齊;臍なり。
句贅;髻(もとどり);髪の毛を頭の上に束ね
 た所。
沴(レイ、よどむ、とどこお);亂なり。陰陽
 の気和せずして、病を爲す。別字、濔;(み
 ちる)数が多い様。
跰◯(𧾷+鮮);蹒跚(ハンサン?);よろよろ
 と歩くさま.ふらつくさま。と同じ。病を
 勉めてよろげ行く状なり。
浸假而化予之左臂以爲鶏。予因之以求時夜;
 浸;漸なり。假;使なり。今もし陰陽二気
 が漸々(ぜんぜん)自分の左臂(ひじ)を化し
 て鶏とするならば、自分は幸ひ時を告げる
 であらう。
浸假而化予之右臂以爲彈。予因之以求鸮炙;
 又、右臂を化して弾とするならば、自分は
 幸ひ焼鳥を求めよう。
浸假而化予之尻以爲輪。以神爲馬。予因乘
 之。;又、尻を化して車輪と為し、魂を化
 して馬としたら、自分は幸ひ之に乗って四
 方に遊びに行かう。
豈更駕哉;さうすれば別に駕(馬に乗る)を求
 めるまでもなからう。
且夫得者時也;(思ふに人となり、僂となり、
 鶏となり、弾となり、其の形を得るのは、)
 時の自然てわあり、
失者順也;(其の身死して、)造化に復帰する
 のは物の順理である。
安時而處順;されば、生の時に安んずれば、
 生を厭はす、死の順に処すれば、死を惡ま
 ず、(千変万化、一として自適の境に非ざる
 はない。)
哀樂不能入也;故に哀楽の情も決して此心を
 侵すことは出来ぬ。
縣解;懸りしものを解きおろせし如く、心に
 係累なきをいふたり。
而不能自解者。物有結之;(若し哀楽の為に束
 縛せられて、)自ら解脱することの出来ない
 者は、外境の事物が愈々(いよいよ)むすぼ
 り著いて、累(わずら)ひを為すのである。
且夫物勝天久矣。吾又何惡焉;且つ夫れ凡て
 の物は、皆天の命ずる所であって、到底天
 に勝つことは出来ない。そは今に始まった
 ことではない。何うして疾など惡むやうな
 ことがあらう。
(´・(ェ)・`)つ

鬼和尚、いつもありがとうであります。
前スレの末尾に質問を載せました。
宜しくお願いいまします。

949鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/31(金) 00:11:06 ID:p8IlWA5E0
子祀、子輿、子犁、子來の四人がともに語っていたのじゃ。
 無を首として、生を背中だとしたら死は尻だというのじゃ。
 みんな笑って認めたのじゃ。

 生も死も一体だというのじゃな。


 子輿が病になり子祀が見舞にいったらこう言ったのじゃ。
 自分をこのような病にした造物主は偉大だと。

 子祀はそれを憎むのかと聞いたのじゃ。

 
 子輿は憎まないといったのじゃ。
 病になった体でいろいろやればよいというのじゃ。
 肉体を得れば失うのは天の順序であるというのじゃ。
 それに安じていれば悲しんだり楽しんだりすることもないのじゃ。
 肉体が天に勝てるものではないと知るゆえに憎まないのじゃ。
 


 死は生があれば必然的についていくるものであるから、生死一体なのじゃ。
 病も肉体を得た時からあるべきものであるから、天を憎むこともないというのじゃ。

950避難民のマジレスさん:2023/03/31(金) 15:40:56 ID:wdU94hBM0
荘子71.
大宗師第六(11)
俄而子來有病。喘喘然將死。其妻子環而泣
之。子犁往問之曰。叱。避。無怛化。倚其戶
與之語曰。偉哉。造化又將奚以汝為。將奚以
汝適。以汝為鼠肝乎。以汝為蟲臂乎。子來
曰。子於父母東西南北唯命之從。陰陽於人不
翅於父母。彼近我死而我不聽。我則悍矣。彼
何罪焉。夫大塊載我以形。勞我以生。佚我以
老。息我以死。故善吾生焉。乃所以善吾死
也。今大冶鑄金。金踴躍曰。我且必為鏌鋣。
大冶必以為不祥之金。今一犯人之形。而曰。
人耳人耳。夫造化者必以為不祥之人。今一以
天地為大爐。以造化為大冶。惡乎往而不可
哉。成然寐。蘧然覺。

俄にして子來病有り。喘喘(ぜんぜん)然とし
て將に死せんとす。其の妻子環(めぐ)りて之
を泣く。子犁往きて之を問うて曰く。叱(し
つ)。避けよ。化を怛(おどろ)かすこと無かれ
と。其の戶に倚りて之と語って曰く。偉なる
哉造化。又將に奚(いかん)ぞ汝を以て爲さん
とする。將に奚(いづく)にか汝を以て適(ゆ)
かしめんとする。汝を以て鼠肝(そかん)と爲
すか。汝を以て蟲臂(ちひ)と爲すかと。子來
曰く。父母の子に於ける。東西南北唯命に之
れ從ふ。陰陽の人に於ける。翅(ただ)父母に
於けるのみならず。彼吾を死に近くして。我
聽かずんば。我則ち悍(かん)なり。彼れ何の
罪ぞ。夫れ大塊(たいくわい)。我を載するに
形を以てし。我を勞するに生を以てし、我を
佚(いつ)するに老を以てし、我を息(いこ)は
するに死を以てす。故に吾が生を善しとする
は乃ち吾が死を善とする所以也。今大冶(たい
や)金を鑄(い)んに。金踴躍(ようやく)し
て。我れ且(まさ)に必ず為鏌鋣(はくや)爲ら
んとすると曰はば。大冶必ず以て不祥の金と
爲さん。今一たび人の形を犯して。而して人
のみ人のみと曰はば夫(が)の造化者必ず以て
不祥の人と爲さん。今一たび天地を以て大爐
(たいろ)と爲し。造化を以て大冶と爲さば。
惡(いづく)にか往いて可ならざらんや。成然
として寐(い)ね。蘧然(きょぜん)として覺め
ん。

注;
叱。避。無怛化;静かに、あまり近づかない
 方が良い。臨終の人を驚かせてはいかぬ。
虫臂鼠肝;「虫臂」は虫の肘。「鼠肝」は鼠
 の肝。取るに足ない、くだらないこと。ま
 たは、物事の変化は人間には予想すること
 が難しいということのたとえ。
彼近我死而我不聽。我則悍矣;今、造化は自
 分を死に近づかせたから、若し之に従わな
 かったならば、自分は陰陽に逆らふことに
 なる。悍;迕逆(ごぎゃく。逆らうこと)
彼何罪焉;造化其のものには固より罪もなに
 もない。
佚;閑逸ならしむる
鏌鋣;古の名刀
今一犯人之形。而曰。人耳人耳。夫造化者必
 以為不祥之人;一たび人間に生まれ出て、
 人間に限る、他の物になるのは嫌だ、など
 といふならば、造化は、それこそ不詳の人
 として、もう二度と人間にしないかもしれ
 ぬ。
惡乎往而不可哉。成然寐。蘧然覺;何処に住
 くとして自適しないことがあらう。胸中酒
 酒安んじて死に就き、楽しんで生を受ける
 のみである。
(´・(ェ)・`)つ

951鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/03/31(金) 23:58:58 ID:HgjaGfF.0
今度は子來が病になったというのじゃ。
妻子は歩き回って泣いていたのじゃ。
子犁が来て嫁たちに騒いではいかんと叱ったのじゃ。
そして子來に言ったのじゃ。
造化は偉大でおぬしを変化させたのじゃ。

子來は答えたのじゃ。
父母よりも従うべき造化のすることに従うのみなのじゃ。
造化が与えた生を善とするならば死も善だというのじゃ。
自然なままに死に、安楽に覚めるのみなのじゃ。



これもまた生死が一つであるというのじゃ。
さらに生も死も善であり、楽しんだらよいというのじゃ。
それが造化の与えたものであるからなのじゃ。

952避難民のマジレスさん:2023/04/03(月) 19:12:28 ID:CNrs9E1s0
荘子72.
大宗師第六(12)
子桑戶、孟子反、子琴張三人相與友。曰。孰
能相與於無相與。相為於無相爲。孰能登天游
霧。撓挑無極。相忘以生。無所終窮。三人相
視而笑。莫逆於心。遂相與爲友莫然。有間而
子桑戶死。未葬。孔子聞之。使子貢往待事
焉。或編曲。或鼓琴。相和而歌曰。嗟來桑戶
乎。嗟來桑戶乎。而已反其真。而我猶為人
猗。子貢趨而進曰。敢問臨尸而歌。禮乎。二
人相視而笑曰。是惡知禮意。子貢反。以告孔
子曰。彼何人者邪。修行無有。而外其形骸。
臨尸而歌。顏色不變。無以命之。彼何人者
邪。孔子曰。彼游方之外者也。而丘游方之內
者也。外內不相及。而丘使女往吊之。丘則陋
矣。彼方與造物者爲人。而游乎天地之一氣。
彼以生爲附贅縣疣。以死爲決◯(疒+丸)潰
癰。夫若然者。又惡知死生先後之所在。假於
異物。托於同體。忘其肝膽。遺其耳目。反覆
終始。不知端倪。芒然彷徨乎塵埃之外。逍遙
乎無爲之業。彼又惡能憒憒然爲世俗之禮。以
觀衆人之耳目哉。

子桑戶(しさうこ)、孟子反(まうしはん)、子
琴張(しきんちゃう)三人は相與(あいとも)に
友たり。曰く。孰(たれ)か能く相與にするこ
と無きに相與にし。相爲すこと無きに相爲さ
ん。孰か能く天に登り。霧に游び。無極に撓
挑(ぜうてう)して相忘るゝに生を以てし。終
窮(しゆうきう)する所無からんと。三人相視
て笑ふ。心に逆らふこと莫し。遂に相與に友
として莫然爲り。間(しばらく)有りて子桑戶
死す。未だ葬らず。孔子之を聞き。子貢をし
て往いて事を待たしむ。或るものは曲を編
し。或るものは琴を鼓し。相和して歌って曰
く。嗟(あゝ)來たれ桑戶や。嗟來たれ桑戶
や。而(なんぢ)已に其の眞に反りて。我猶ほ
人爲り猗(あゝ)と。子貢趨(はし)って進んで
曰く。敢へて問ふ尸(し)に臨んで歌ふは禮か
と。二人相視て笑ふて曰く。是れ惡んぞ禮の
意を知らんと。子貢反つて以て孔子に告げて
曰く。彼は何人ぞや。修行(しうこう)有るこ
と無くして。其の形骸を外にす。尸に臨んで
歌ひ。顏色變せず。以て之に命ずる無し。彼
何人ぞやと。孔子曰け。彼は方の外に游ぶ者
也。而して丘は方の内に游ぶ者也。外內(ぐわ
いだい)相及ばず。而るに丘女(なんぢ)をして
往いて之を吊(てう)せしむ。丘は則ち陋(ろ
う)なり。彼方(まさ)に造物者と人爲り。而し
て天地の一氣に游ばんとす。彼は生を以て附
贅縣疣(ふぜいげんいふ)と爲し。死を以て決
◯(疒+丸)潰癰(けつくわんくわいよう)と爲
す。夫れ然るが若くば。又惡んぞ死生先後の
在る所を知らんや。異物に假り。同體に托
し。其の肝膽を忘れ。其の耳目を遺(わす)
れ。終始を反覆して。端倪(たんげい)を知ら
ず。芒然として塵埃の外に彷徨し。無爲の業
に逍遙す。彼又惡んぞ能く憒憒(くわいくわ
い)然として世俗の禮を爲し。以て衆人の耳目
に觀(しめ)さんや。

注;
無相與;無心に 無心を以て相与し
無相爲;無為なり 無為を以て相為す
無極;止まる所無き。極まりなし。
撓挑;踊躍(ようやく);喜んで、おどり上が
 る。別訳、宛転(えんてん):言葉、声など
 がよどみなく、なめらかに発せられる様
終窮;=困窮
是惡知禮意;お前などに礼の真意など解らぬ
游方之外者;世俗の外に超然たる者。(死生を
 一視し、区区たる礼法に依って拘繋せられ
 ない人
游方之內者;世俗の内に住して規範礼法に牽
 (ひ)かれる者
丘則陋矣;自分(孔子)の過ちであった。別
 訳、卑陋(ひろう);卑しい、下品なこと
彼方與造物者爲人;彼らはまさに形体を人に
 仮らるも心を造物者と同じうして
而游乎天地之一氣;天地混沌たる一気の初
 め、即ち不生不死の域に遊ばしむる者。
付贅懸疣;余計な厄介もののたとえ。ひっつ
 いているこぶや、引っかかっているいぼの
 意から。
決◯(疒+丸);腫物破れて膿出づるをいふ。
潰癰;同じく、潰れて膿出づるをいふ。
端倪;物事の在り方・成り行きを見通すこ
 と。 端倪すべからざる(=推し量れない
 ほどの)
(´・(ェ)・`)つ

953鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/04(火) 00:34:41 ID:zrDxbZtE0
子桑戸;、孟子反、子琴張の三人がかたりあったのじゃ。
 無心でことにあたり、無為でものごとをなすものがいるのかと。
 また天に昇り、霧に遊び、物質を超越して跡もとどめず、生死を超越して永遠の境地に入るものがいるじゃろうかと。
 
 三人は笑いあい心合わせて友になったのじゃ。

 子桑戸は死んだのじゃ。
 まだ葬らないうちに孔子が子貢を弔いにいかせたのじゃ。
 するとみんな歌ったり琴をひいていたりしのじゃ。

 子貢は人が死んだのに歌うのが礼であろうかと、問うたのじゃ。
 二人は笑ってこれが礼の本当の意味だといったのじゃ。

 子貢が帰ってそのことを孔子にいったのじゃ。
 すると孔子は彼らは世間の外に住むもの、我は世間の内に住むものといったのじゃ。
 内のものは外のものにかなわんのじゃ。
 わしがおぬしを弔いに゛したのは間違いじゃった。

 彼らは造物主と同じ心で、天地が一つの境地に遊んでいるのじゃ。
 生を余計なもの、死をも腫れ物のように見るのじゃ。
 そのようでなければ生れるまえと死後までしることができないのじゃ。
 世間の外にあるものであり、無為の業をなすものなのじゃ。
 そうであるから世間の礼をして、人に見せることもないのじゃ。


 今度は生死も余計なものであり、体にできるできもの程度のものというのじゃ。
 俗世間から離れて天地も一気と見るものには、俗世間の葬式もしないというのじゃ。

954避難民のマジレスさん:2023/04/06(木) 11:59:05 ID:rJ/r/6PM0
荘子73.
大宗師第六(13)
子貢曰。然則夫子何方之依。孔子曰。丘天之
戮民也。雖然,吾與汝共之。子貢曰。敢問其
方。孔子曰。魚相造乎水。人相造乎道。相造
乎水者。穿池而養給。相造乎道者。無事而生
定。故曰。魚相忘乎江湖。人相忘乎道術。子
貢曰。敢問畸人。曰。畸人者。畸於人而侔於
天。故曰。天之小人人之君子。人之君子天之
小人也。

子貢曰く。然らば則ち夫子は何(いづれ)の方
にか依れると。孔子曰く。丘は天の戮民(りく
みん)也。然りと雖も。吾汝と之を共にせん
と。子貢曰く。敢へて其の方を問ふと。孔子
曰く。魚は水に相造(いた)り。人は道に相造
る。水に相造る者は。池を穿(うが)てば養(や
しな)ひ給( つ)ぐ。道に相造る者は。事無け
れば生定まる。故に曰く。魚は江湖に相忘
れ。人は道術に相忘ると。子貢曰く。敢へて
畸人を問ふと。曰く。畸人なる者は。人に畸
にして天に侔(ひと)し。故に曰く。天の小人
は人の君子。人の君子は天の小人也。

注;
夫子何方之依;先生は、世俗の内か外か何れ
 に依って生活をなさいますか
戮民;天の刑を受ける者(俗塵の外に出ること
 の出来ぬもの)
吾與汝共之;汝と共に修養して世俗の中に在
 って而も世累を超越する境地に進もう。
魚相造乎水。人相造乎道;魚は水によって生
 育し、人は道によって生育する。
相造乎水者。穿池而養給;水中に生育するも
 のは、池を穿てば養をとれる。給(つ)ぐ ;
 物資が足りる。
相造乎道者。無事而生定;道に生育する物
 は、逍遙として天然を保つ
魚相忘乎江湖;魚は江湖に相忘れて従容自
 適(しょうようじてき)し、
人相忘乎道術;人は道術に相忘れて、不死不
 生に入、従容自適す。
畸人者。畸於人而侔於天;天に異にして、天
 に侔(ひと)しき者なり
故曰。天之小人人之君子。人之君子天之小人
也。

明日は、荘子74.を載せます。
(´・(ェ)・`)つ

955鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/07(金) 00:34:13 ID:L4aFwqMo0
子貢は孔子にではあなたは世俗のどちらに属するのかと。
孔子は自分は俗世間のうちにいきるしかない者だと言ったのじゃ。
しかしおぬしと共に道を学ぼうと言ったのじゃ。

子貢はその方法を聞いたのじゃ。
孔子は魚は水によって生き、人は道によって生きると言うのじゃ。
魚は池によって生きられる。
人は道によって生が養われるのじゃ。
魚は川海によって水に入っていることも忘れる。
人は道によって生きているのに道を忘れるのじゃ。

子貢はあえて道に達した畸人についてきいたのじゃ。
孔子は畸人は人とは違い、天と等しい者と言ったのじゃ。
それゆえに天では小人でもこの世では君子なのじゃ。
この世で君子であって、天では小人になれるのじゃ。



道とは人を生かしているものだというのじゃ。
しかしそれを人は忘れてしまうのじゃ。
魚が水によって生きているのにそれを忘れるようなものというのじゃ。
道とは全てであるのじゃ。ものな

956避難民のマジレスさん:2023/04/07(金) 12:22:54 ID:33SmhiDY0
荘子74.
大宗師第六(14)
顏回問仲尼曰。孟孫才其母死。哭泣無涕。中心不戚
。居喪不哀。無是三者。以善喪蓋魯國。固有無其實
而得其名者乎。回壹怪之。仲尼曰。夫孟孫氏盡之矣
。進於知矣。唯簡之而不得。夫已有所簡矣。孟孫氏
不知所以生。不知所以死。不知就先。不知就後。若
化爲物。以待其所不知之化已乎。且方將化。惡知不
化哉。方將不化。惡知已化哉。吾特與汝。其夢未始
覺者邪。且彼有駭形而無損心。有旦(且)宅而無情死
。孟孫氏特覺。人哭亦哭。是自其所以乃且也。相與
吾之耳矣。庸詎知吾所謂吾之乎。且汝夢爲鳥而厲乎
天。夢爲魚而沒於淵。不識今之言者。其覺者乎。其
夢者乎。造適不及笑。獻笑不及排。安排而去化。乃
入於寥天一。

顏回仲尼に問うて曰く。孟孫才(まうそんさい)其の
母死して。哭泣(こくきふ)するに涕無く。中心戚(い
た)まず。喪に居て哀しまず。是の三者無くして。善
喪(ぜんさう)を以て魯國を蓋(おほ)へり。固より其の
實無くして其の名得る者有るか。回壹(一)に之を怪
しむと。仲尼曰く。夫(か)の孟孫氏は之を盡(つく)せ
り。知よりも進めり。唯(々)之を簡にすることを得
ず。夫れ已に簡にする所有り。孟孫氏は生くる所以
を知らず。死する所以知らず。先に就くことを知ら
ず。後に就くことを知らず。化に若(したがう)て物と
爲し。以て其の知らざる所の化を待つのみか。且方
(まさにまさに)將(もつ)てに化するの。惡(いづく)ん
ぞ化せざるなるを知らんや。方(まさ)に將(もつ)て化
せざるを。惡んぞ已に化せるなるを知らんや。吾れ
特(ひと)り汝と。其の夢未だ始めより覺めざる者か
。且彼は駭形有れども損心無く。旦宅(たんたく→且
宅;しょたく?)有れども情死無し。孟孫氏は特り覺
めたり。人哭すれば亦哭す。是れ其の乃ち且とする
所以に自(よ)るなり。相與に之を吾とする耳(のみ)。
庸詎(いづくん)ぞ吾が所謂之を吾とする者なるを知
らん。且汝夢に鳥と爲つて天に厲(いた)り。夢に魚
と爲つて淵(ふち)に沒(い)る。識らず今の言ふ者は。
其れ覺めたる者か。其れ夢むる者か。適に造(いた)
れば笑ふに及ばず。笑(わらひ)を獻(けん)ずれば排す
るに及ばず。排に安んじて而して化を去れば。乃ち
寥天(れうてん)一に入ると。

注;
無是三者;涕無く、戚まず、哀しまず。
以善喪蓋;喪事を善せしとの評判が蓋った
進於知矣;死生を無視して知者の域に逹せり
唯簡之而不得;至情の開する所、之を簡易に
 せんとするも得ず。
夫已有所簡矣;しかるに彼は已に之を簡易に
 せり
若化爲物;造物者の化するがままに其の時々
 の物となりて
以待其所不知之化已乎;我々が知らざる所の
 化を待つのみならんか
且方將化。惡知不化哉;今将に死せんとする
 も実は不死かも知れぬ
方將不化。惡知已化哉;将に死せざらんとす
 るも、実は已に死んでいるのかも解らぬ
其夢未始覺者邪;(死を見て悲しいことと思っ
 て居るのは、)夢を見て未だ覚めざる者と謂
 ふべきであらう
有駭形而無損心;形に変化あるも、心を損す
 ることなく。駭形;死生の形に驚くべき変
 化あるをいふ
有旦(且)宅而無情死;生を以て且(しばら)く
 の仮住居と思って居るから、実の死と云ふ
 ものは認めない。旦宅(→且宅;しょたく)
孟孫氏特覺。人哭亦哭。是自其所以乃;孟孫
 氏は生死を一と悟って居るが、(強いて世俗
 に随ひ)人が哭すれば、己も哭するのは、是
れ自られ其暫くの仮住居とする所以なり。
相與吾之耳矣。庸詎知吾所謂吾之乎;(然るに
 人は)各自ら信ずる所のみを固執して是なり
 とし、何ぞ吾が是とする所を以て単に吾が
 徒丈のこととなさざるを知らんや。
不識今之言者。其覺者乎。其夢者乎;今汝は
 喪事を云々するも、其の言ふ所果して覚め
 たるか夢なるかを知るべからず。
造適不及笑;意に適するも笑ふに及ばず
獻笑不及排;人より笑ひを呈し来るも排し去
 るに及ばず
安排而去化。乃入於寥天一;人の排する所に
 安んじて去らば、天地と同化して彼の大宗
 師の道に達することを得ん。寥天一;寂寥
 天(せきりょうてん)と一致する。=大宗師
 の道
(´・(ェ)・`)つ

957鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/07(金) 23:35:54 ID:V0ftDjTE0
顏回が孔子に言ったのじゃ。
孟孫才という者は母が死んだのに儀礼的に泣き声をあげるだけで涙を長さなかった。
心に悼むこともなく、喪につくこともなかったのに、魯国ではよく母親を弔ったと評判だったが実のない名誉かと。

孔子は答えたのじゃ。
孟孫氏は母親を完全に弔ったのじゃ。
知者がするより良い弔いなのじゃ。
ただ世間にあわせて簡略にしなかっただけなのじゃ。
孟孫氏は生死を忘却し、取捨選択をもしないのじゃ。
造化に従って不知の知を持つのじゃ。
造化がなすところをありのままに受け入れるのじゃ。

わしとおぬしは夢の中にいるようなものじゃ。
孟孫氏は目覚めているのじゃ。
世間にあわせて儀礼的になくまねをしただけなのじゃ。
人が恐れる死をも嫌がらずに受け入れれば天と一致するのじゃ。


孟孫氏は生死を全く忘却したというのじゃ。
生きるも死ぬもただ夢の中の出来事と知っているのじゃ。
目覚めた者なのじゃ。

958避難民のマジレスさん:2023/04/13(木) 08:47:11 ID:43HwC0AI0
荘子75.
大宗師第六(15)
意而子見許由。許由曰。堯何以資汝。意而子曰。堯
謂我。汝必躬服仁義。而明言是非。許由曰。而奚來
為軹。夫堯既黥汝以仁義。而劓汝以是非矣。汝將何
以游夫遙蕩恣睢轉徙之涂乎。意而子曰。雖然。吾願
游於其藩。許由曰。不然。夫盲者無以與乎眉目顏色
之好。瞽者無以與乎青黃黼黻之觀。意而子曰。夫無
莊之失其美。據梁之失其力。黃帝之亡其知。皆在爐
錘之間耳。庸詎知夫造物者之不息我黥而補我劓、使
我乘成以隨先生邪。許由曰。噫。未可知也。我爲汝
言其大略。吾師乎。吾師乎。齏萬物而不爲義。澤及
萬世而不為仁。長於上古而不爲老。覆載天地。刻雕
眾形而不爲巧。此所游已。

意而子(いじし)許由(きょいう)を見る。許由曰く。堯(
げう)何を以て汝に資せると。意而子曰く。堯我に謂
ふ。汝必ず躬(み)に仁義を服して。而して明かに是非
を言え。許由曰く。而(なんぢ)奚(なんぞ)來ることを
するや。夫(か)の堯既に汝を黥(いれずみ)するに仁義
を以てして。汝を劓(はなき)るに是非を以てせり。汝
將に何を以て夫(か)の遙蕩恣睢轉徙(えうたうしきて
んし)の涂(みち)に游ばんとするかと。意而子曰く。
然りと雖も。吾願はくは其の藩(かき)に游ばんと。
許由曰くん。然らず。夫れ盲者は以て眉目顏色の好
きに與(あづか)ることなく。瞽者(こしゃ)は以て與乎
青黃黼黻(せいくわうほふつ)の觀に與(あづか)ること
なし。意而子曰く。夫れ無莊の其の美を失ひ。據梁(
きょりょう)の其の力を失ひ。黃帝の其の知を亡(うし
な)へる。皆爐錘(ろすゐ)の間に在れば耳(のみ)。庸詎
(いかん)ぞ夫(か)の造物者の我が黥(げい)を息(け)し我
が劓(ぎ)を補ひ、我をして成るに乘じて以て先生に隨
はしめざるを知らんや。許由曰く。噫(あゝ)。未だ知
る可からざる也。我れ汝の爲に其の大略を言はん。
吾が師や。吾が師や。萬物を齏(さい)すれども義と爲
さず。澤萬世に及べども仁と爲さず。上古より長ず
れども老と爲さず。天地を覆載(ふさい)し。衆形を刻
雕(こくてう)すれども巧を爲さず。此れ游ぶ所已(の
み)と。

注;
意而子;仮設の人名
許由;堯が天下を譲らんとせしを辞せし隠者
資;助なり
服;身に體し行ふことなり
夫堯既黥汝以仁義;汝は既に堯より仁義や是
 非などのことを聞きし為大にその害を受け
 居れり
游夫遙蕩恣睢轉徙之涂乎;放蕩と果てしなく
 縦横に行き渡りて変動極りなき吾道に遊ぶ
藩;大宗師の藩籍にて道の浅近なる所
盲者;瞳子なきめくら。
瞽者;瞳子ある失明者。
無以與乎眉目顏色之好;そもそも盲者は眉目 
 顔色の美に与ることはできず、
瞽者無以與乎青黃黼黻之觀;瞽者は五色文彩
 の観に与ることができない(=汝は既に堯の
 道(仁義、是非)を聞きて失明者となりたれ
 ば、到底吾道の美観に与ることを得ず。)
無莊;美人の名なり
據梁;力士の名なり
知;知者
失;忘れ
亡;忘れ
爐錘;爐(タタラ) ;金属を溶かす入れ物。錘
 (ツチ) ;金属を鍛える器。 
〜失〜。〜失〜。〜亡〜。皆在爐錘之間
 耳;〜を忘れ、〜を忘れ、〜を忘れしは、
 皆造物者が爐と錘の間に於いて鍛え直せし
 によるなり。
庸詎知夫造物者之不息我黥而補我劓、使我乘
 成以隨先生邪;造物者が我入墨を補い、我
 が鼻の切られしを補い、我が体の完成する
 に乗じ即ち堯より聞きしことを悉く打ち忘
 るゝに至らば以て先生に就きて自然の妙道
 を聞くことを得んか。
未可知也。我為汝言其大略;汝の言の如く果
 して造物者をして汝の入墨を息め、劓を補
 はしめ得るや否やは知らざれども、折角の 
 訪問故、汝の爲に我が道の大略を語らん
吾師乎;=大宗師
齏萬物而不爲義;齏;齏粉(セイフン)こなみ
 じんになること。身を粉にして働くこと。
 粉骨砕身。秋季霜露を降ろし草木を凋落せ
 しめるな意。 (吾が師は)万物を粉砕する
 も義とせず、
澤及萬世而不為仁;恩沢を万世に及ぼすも仁 
 とせず、
長於上古而不為老;上古より長存せるも老い
 たりとせず、
覆載天地。刻雕眾形而不為巧;天を生じ地を
 造り、万物衆形を刻彫したからとて巧とし
 ない。
此所游已;而してこは吾が遊ぼうとする処で
 ある(が、御前は果して能くこゝに到り得る
 と思うか、どうか)
(´・(ェ)・`)つ

959鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/13(木) 23:44:37 ID:usvfWiWw0
意而子という者が許由にあったのじゃ。
許由は堯はおぬしに何を教えたのじゃ、と聞いたのじゃ。
意而子は仁義を行い、良いと悪いとをはっきり言えと教えられたというのじゃ。

許由はそれではもはやいかんというのじゃ。
仁義とか是非を受け入れたらもはや道と合一はできないというのじゃ。

意而子はそれでもなんとか道に入れないかと聞いたのじゃ。
許由は目が見えない者は美しいものがあっても見えないように、もはやいかんというのじゃ。

意而子はわしはそんなになってしまったがまだ何とか道にはいれないかと、聞いたのじゃ。
許由はもはや知ることもできないであろうが、大略をいうのじゃ。といったのじゃ。
我が師匠は万物を裁量しても義ではなく、万物に恩を施しても仁ではないのじゃ。
大昔からあっても老人ではなく、天地を創造し、万物を造っても巧みではないのじゃ。
それが我が境地であるが、おぬしがたどり着けるかどうかわからんのじゃ。



仁義とか是非とかに囚われていては道と合一はできないというのじゃな。
それらは人が観念によって作り上げた価値観によるものであるからなのじゃ。
万物を生み出す造化の道にはたどり着けないのじゃ。

960避難民のマジレスさん:2023/04/14(金) 05:42:28 ID:HSjSCDrA0
荘子 76.
大宗師第六(16)
顏回曰回益矣。仲尼曰何謂也。曰回忘仁義
矣。曰可矣猶未也。他日復見曰。回益矣。曰
何謂也。曰回忘禮樂矣。曰可矣猶未也。他日
復見曰。回益矣。曰何謂也。曰回坐忘矣。仲
尼蹴然曰何謂坐忘。顏回曰墮肢體黜聰明離形
去知同於大通。此謂坐忘。仲尼曰同則無好惡
也。化則無常也。而果其賢乎。丘也請從而後
也。

顏回曰く回益せりと。仲尼曰く何の謂ぞや
と。曰く回仁義を忘れたりと。曰く可なり猶
ほ未だしと。他日復た見えて曰く。回益せり
と。曰く何の謂ぞやと。曰く回禮樂(れいが
く)を忘れたりと。曰く可なり猶ほ未だしと。
他日復た見えて曰く。回益せりと。曰く何の
謂ぞやと。曰く回坐忘せりと。仲尼蹴然(しゅ
くぜん)として曰く何をか坐忘と謂ふと。顏回
曰く肢體(したい)を墮(す)て聰明を黜(しり
ぞ)け形を離れ知を去って大通に同じ。此を坐
忘と謂ふと。仲尼曰く同なれば則ち好悪無き
也。化すれば則ち常無き也。而(なんぢ)果し
て其れ賢(まさ)れるか。丘や請ふ而(なんぢ)
が後(しりへ)に從はんと。

注;
猶未也;未だ足らざる所あり
蹴然;色を変ずる貌
墮肢體;四肢耳目を堕(やぶ)りて形を離るゝ
黜聰明;知慮を去りて聡明を黜(しりぞ)くる
大通;大道

大宗師第六(17)
子輿與子桑友。而霖雨十日。子輿曰。子桑殆
病矣。裹飯而往食之。至子桑之門。則若歌若
哭。鼓琴曰父邪母邪天乎人乎。有不任其聲而
趨舉其詩焉。子輿入。曰子之歌詩何故若是。
曰吾思夫使我至此極者而弗得也。父母豈欲吾
哉。天無私覆。地無私載。天地豈私貧我哉。
求其為之者而不得也。然而至此極者命也夫。

子與(しよ)子桑と友たり。而して霖雨(りん
う)十日。子輿曰く。子桑殆ど病みなんと。飯
を裏(つゝ)んで往いて之を食はしめんとす。
子桑の門に至れば。則ち歌ふが若く哭(こく)
するが若し。琴を鼓して曰く父か母か、天か
人かと。其の聲に任(た)へざる有りて而して
趨(すみや)かに其の詩を舉す。子輿入つて曰
く。子の詩を歌ふ何の故にか是(かく)の若く
なると。曰く吾れ夫(か)の我をして此の極に
至らしむる者を思へども得ざる也。父母豈に
吾が貧を欲せんや。天に私覆(しふ)無く。地
に私載無し。天地豈に私に我を貧しくせん
や。其の之を爲す者を求むれども得ざる也。
然り而して此の極に至る者は命なるかなと。

注;
子桑;別字、子葉
霖雨;三日以上の雨を霖といふ、長雨なり。
裹飯;飯を包むなり。
趨;にはかなり
若歌若哭。鼓琴曰父邪母邪天乎人乎;歌って
 いるとも哭しているとも分からぬ哀れな声 
 で、琴を弾じながら、「こんな貧乏者に誰
 がしたのか、父か母か天か人か、」という
 てゐたが、
有不任其聲而趨舉其詩焉;(飢ゑて)ゆっくり
 声も出せないと見えて、此詩を口ずさむの
 が極めて早かった。
天無私覆。地無私載;天は万物を覆い、地は
 万物を載せているが、それには決して私も
 なく、偏することもないから、
此極者命也夫;命;自然の理、大宗師。天地
 自然の道にて天命とも云ふべきものなり

大宗師第六
(´・(ェ)・`)
(おわり)
次回より応帝王第七

961鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/15(土) 00:00:47 ID:Ph5kamMY0
顏回が孔子にわしは得た所があると言ったのじゃ。
孔子は何を得たのじゃ、と聞いたのじゃ。
顏回は仁義を忘れたといったのじゃ。
それはよいが、まだまだじゃなと孔子は言ったのじゃ。

さらに顏回は孔子にわしは得た所があると言ったのじゃ。
孔子は何を得たのじゃ、と聞いたのじゃ。
わしは礼と楽を忘れたと言ったのじゃ。
それはよいが、まだまだじゃなと孔子は言ったのじゃ。


さらに顏回は孔子にわしは得た所があると言ったのじゃ。
孔子は何を得たのじゃ、と聞いたのじゃ。
わしは坐忘に入ったといったのじゃ。
孔子は坐忘とは何じゃ、と聞いたのじゃ。

顏回は肢体を捨てて、聡明を退け、形を離れて知を去り大通に動じたと言ったのじゃ。
孔子はそれほどならばもはや好悪もないと言ったのじゃ。
わしがおぬしの後に従いたいほどじゃ、と言ったのじゃ。

仁義とか礼楽を忘れ、肉体も知識も捨てた境地が坐忘なのじゃ。
自己のすべてを忘れてしまうのじゃ。
サマーディと同じなのじゃ。

962鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/15(土) 00:08:12 ID:Ph5kamMY0
子與と子桑は友達なのじゃ。
雨が十日続いたから子與は貧乏な子桑が飯も食えぬのではないかと、食をもって訪ねたのじゃ。
すると子桑が琴を演奏してなくように歌っていたのじゃ。

子與が家に入ってなんじゃその歌はと、聞いたのじゃ。
子桑はなぜ自分がこんなに貧乏であるのかわからないというのじゃ。


それも天命であるからしかたないというのじゃ。



貧乏なのも天命というのじゃ。
イスラム教のようなすべては神のなせる業というのじゃな。

963避難民のマジレスさん:2023/04/16(日) 05:49:27 ID:sBUrDyBw0
荘子 77.
應帝王第七(1)
齧缺問於王倪。四問而四不知。齧缺因躍而大
喜。行以告蒲衣子。蒲衣子曰。而乃今知之
乎。有虞氏不及泰氏。有虞氏其猶藏仁以要
人。亦得人矣。而未始出於非人。泰氏其臥徐
徐。其覺于于。一以己爲馬。一以己爲牛。其
知情信。其德甚眞。而未始入於非人。

齧缺(げっけつ)王倪(わうげい)に問ふ。四た
び問うて四たび知らずといふ。齧缺因って躍
(おど)って大に喜び。行いて以て蒲衣子(ほい
し)に告ぐ。蒲衣子曰く。而(なんぢ)今之を知
るか。有虞(いうぐ)氏泰(たい)氏に及ばざる
を。有虞氏は其れ猶ほ仁を藏して以て人に要
(もと)め。亦人を得たり。而れども未だ始め
より非人に出でず。泰氏は其の臥するや徐
徐。其の覺むるや于于(うう)。一は己を以て
馬と爲し。一は己を以て牛と爲す。其の知情
(まこと)に信。其の德甚だ眞。而して未だ始
めより非人より入らずと。

注;
應帝王;此の道を修めて応に帝王たるべし。
齧缺、王倪;cf.荘子8,25,26等に既出
因躍而大喜;(之に因りて大知は到底無知にあ
 ることを悟り)小躍りして大に喜び、
有虞氏;舜帝
泰氏;古の帝王
其猶藏仁以要人。亦得人矣;仁といふ徳を懐
 きて以て人心を己へ結びつけたり、
出於非人:人を人として扱ひたるものにあらず
其臥徐徐。其覺于于;臥する時は安寛に、覚
 めたる時は自得して、眠覚ともに無心で
一以己爲馬。一以己爲牛;人が或は馬と呼
 び、牛と呼ぶに任せた
其知情信。其德甚眞;其の知は真実にして虚
 ならず、其の徳は順一にして偽なく、
而未始入於非人;始めから人を是非するよう
 な有為の中に入らぬものである。有為;因
 縁によって生じた、生滅・変化してやまな
 い現実のありさま。

應帝王第七(2)
肩吾見狂接輿。狂接輿曰。日中始何以語女。
肩吾曰。告我。君人者以己出經式義度。人孰
敢不聽而化諸。狂接輿曰。是欺德也。其於治
天下也。猶涉海鑿河。而使蚊負山也。夫聖人
之治也。治外乎。正而後行。確乎能其事者而
已矣。且鳥高飛以避矰弋之害。鼷鼠深穴乎神
丘之下。以避熏鑿之患。而曾二蟲之無知。

肩吾狂接輿(きょうせつよ)を見る。狂接輿曰
く。日中始(じつちうし)何を以て女(なんぢ)
に語れると。肩吾曰く。我に告ぐ。人に君た
る者己を以て經式義度を出さば。人孰(たれ)
か敢へて聽いて諸(これ)に化せざらんやと。
狂接輿曰く。是れ欺德也。其の天下を治むる
に於けるや。猶ほ海を涉(わた)り河を鑿(う
が)ち。而して蚊に山を負はしむるがごとき
也。夫の聖人の治たる。外を治めんや。正し
て後行ふ。確乎(かくこ)として其の事を能く
する者のみ。且鳥は高飛(かうひ)して以て矰
弋(そうよく)の害を避け。鼷鼠(けいそ)は深
く神丘(しんきゅう)の下に穴して。以て避熏
鑿(くんさく)の患ひを避く。而かも曾て二蟲
(もう)より知無からんと。

注;
狂接輿;cf.荘子53.
日中始;古の賢人
以己出經式義度;自ら身を引き当てて、常法
 制度を布き、自ら民の模範となるならば、
是欺德也;所詮不実の徳である。
其於治天下也。猶涉海鑿河。而使蚊負山也;
 其れ(虚偽の徳)を以て天下を治めるのは、
 譬へば海を徒渉し、人工を以て大河を穿つ
 が如く(労して功無く)又、蚊に山を負はせ
 るやうなもので(到底任に耐へぬであらう)
夫聖人之治也。治外乎;眞正なる聖人の治と
 いふものは、決して外形上の経式義度など
 を以てするものにあらず、
正而後行。確乎能其事者而已矣;性命の理に
 順ひ自ら正しうして而して後に行ひ、確乎
 としてそのことを能くするのみ
矰弋;矢グルミとて、糸のつきし矢を放ち飛
 鳥を射る具なり
鼷鼠;ハツカネズミ
神丘;社壇なり、人憚りて侵すことなし
熏鑿;いぶり出す
而曾二蟲之無知;(人民を治むるに、矰弋や熏
 鑿と相類する経常義度を以てせんとするは)
 人民を以て鳥鼠よりも知なしとするか、人
 民豈鳥鼠より無知ならんや。
(´・(ェ)・`)つ

964鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/16(日) 23:48:19 ID:IuN.i8S60
げっけつがおうげいにものを四度聞いたのにみんな知らんといったのじゃ。
げっけつは喜んで蒲衣子に告げたのじゃ。
蒲衣子は汝は今これを知るかというのじゃ。
有虞(いうぐ)氏に及ばないというのじゃ。

有虞は仁の人で、人が集まるのじゃ。
しかし人を超越したものではないのじゃ。

泰氏は寝てもさめても心が静まり、牛や馬に同化したりするのじゃ。
真の知があり純粋な徳をもっているのじゃ。


無知の知が実は尊いということじゃな。
世間の物事に通達しなくとも、真の知があればよいのじゃ。
自らを知る知なのじゃ。

965鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/16(日) 23:57:31 ID:IuN.i8S60
肩吾が狂接輿にあうと、日中始から何を教わったのかと聞かれたのじゃ。
肩吾は王である者は自らの身をもって法を行い、民の模範となるべきだと教わったというのじゃ。

狂接輿はそんなことはにせものの徳だというのじゃ。
蚊に山を負わせたりするようなものというのじゃ。
聖人が国を治める時は人の本能に従って法制を行うというのじゃ。
できないことを無理にやらせようとはしないのじゃ。

鳥が敵をさけ、鼠も穴を掘ってにげるように動物にも知恵があるのじゃ。


仁義とか徳とかを無理におしつけてはいかんということじゃな。
 本能の知恵を生かすようにするべきだというのじゃ。

966避難民のマジレスさん:2023/04/23(日) 18:07:39 ID:aQFgsFlw0
荘子 80.
應帝王第七(5-1)
鄭有神巫曰季咸。知人之死生。存亡。禍福。壽夭。期以歲月旬日。若神。鄭人見之。皆棄而走。列子見之。而心醉。歸以告壺子曰。始吾以夫子之道爲至矣。則又有至焉者矣。
壺子曰。吾與汝既其文。未既其實。而固得道與。衆雌而無雄。而又奚卵焉。而以道與世亢必信夫。故使人得而相汝。嘗試與來。以予示之。
明日列子與之見壺子。出而謂列子曰。嘻。子之先生死矣。弗活矣。不以旬數矣。吾見怪焉。見溼灰焉。列子入。泣涕沾襟以告壺子。
壺子曰。鄉吾示之以地文。萌乎不震不正。是殆見吾杜德機也。嘗又與來。

鄭に神巫(しんふ)有り季咸(きかん)と曰(い)ふ。人の死生、存亡、禍福、壽夭を知る。期するに歲月旬日を以てすること神(しん)の若し。鄭人之を見て。皆棄て走る。列子之を見て心醉し。歸りて以て壺子(こし)に告げて曰く。始めて吾れ夫子の道を以て至れりと爲せり。則ち又焉(これ)より至れる者有と。
壺子曰く。吾は汝と其の文を既(つ)くして。未だ其の實を既くさず。而(なんぢ)固より道を得たりとするか。衆雌(しゅうし)あるも而かも雄無くんば。又奚(なん)ぞ卵せん。與(なんぢ)道を以て世と亢して必ず信ぜられんとするかな。故に人をして得て汝を相せしむるなり。嘗試(こころみ)に與(とも)に來り。予を以て之を示せと。
明日列子之と與(とも)に壺子を見る。出でて列子に謂って曰く。嘻(あゝ)。子の先生死なん。活(い)きず。旬を以て數へじ。吾れ怪を見たり。溼灰(しつかい)を見たりと。列子入り。泣涕(きふてい)して襟を沾(うるほ)して以て壺子に告ぐ。壺子曰君。鄉(さき)に吾れ之に示すに地文を以てせり。萌乎(ぼうこ)として震(うご)かず正しからず。是れ殆んど吾が杜德機(どとくき)を見たる也。嘗(こころみ)に又與に來れと。

注;
神巫;巫女、相者(人相見)
旬日;十日
壺子;列子の師
夫子之道爲至矣。則又有至焉者矣;先生の道
 をば最上至極のものと思って居ましたが、
 尚より以上のものがあります。
吾與汝既其文。未既其實;吾が汝に授けてき
 た所は文字の限りを尽くしているが、未だ
 妙理の実を尽くしていない。
而固得道與;然るに汝は道を得たものと早合 
 点しているのか
衆雌而無雄。而又奚卵焉;鶏は雌ばかり居て
 も雄がいなければ卵は生めない。(これと同
 じで、文(理屈)を尽くしも実(実践)を尽く
 さねば、未だ道を得た者ではない。
而以道與世亢必信夫。故使人得而相汝;(未熟
 であるのに)其の道を振りかざして自ら世に
 高ぶり、人をして自分を信ぜさせようとす 
 るから、其の浅はかな心がちゃんと人相に
 現はれて、神巫などに容易に看破されるの
 だ。
以予示之;予の人相を観させよ。
明日;翌日
弗活矣。不以旬數矣;とても救うことはでき
 ないようだ。しかも十日ともたないだろう
吾見怪焉。見溼灰焉;先生の相貌は甚だ不思
 議な処があって、謂はば湿灰のような生気
 のない象が現れてゐる。
鄉吾示之以地文;先程予は彼に示すに心
 を中に蔵して地文(=土色)の如く暗く、
萌乎不震不正;生気の萌生(ほうせい)せんと
 しても未だ動かず、定まらず、寂然として
 全く勢いが無いように見える(からそう言っ
 たので、)
是殆見吾杜德機也;即ち予が徳機を杜(ふさ)
 いで灰死のようになったのを見たのである
(´・(ェ)・`)つ

967避難民のマジレスさん:2023/04/23(日) 18:13:07 ID:aQFgsFlw0
荘子 78.
應帝王第七(3)
天根游於殷陽至蓼水之上。適遭無名人而問焉曰。請問爲天下。無名人曰。去。汝鄙人也。何問之不豫也。予方將與造物者為人。厭則又乘夫莽眇之鳥。以出六極之外。而游無何有之鄉。以處壙垠之野。汝又何帠(爲)以治天下感予之心為。又復問。無名人曰。汝游心於淡。合氣於漠。順物自然而無容私焉。而天下治矣。

天根殷の陽に游びて蓼水(れうすゐ)の上(ほとり)に至る。適(たまたま)無名人に遭(あうて)問うて曰く。天下を爲(おさ)むることを請ひ問ふと。無名人曰く。去れ。汝は鄙人(ひじん)也。何ぞ問ふの不豫(ふよ)也。予は方(まさ)に將(まさ)に造物者と與(とも)に人を爲(をさ)めんとす。厭(いと)へば則ち又夫の莽眇(まうべう)の鳥に乘じて。以て六極の外に出て。無何有(むかう)の鄉に游び。以て壙垠(かうらう)の野に處らんとす。
汝又何の帠(ゆゑ)ぞ天下を治むるを以て予の心を感ぜしむることを爲すと。又復問ふ。無名人曰く。汝心を淡(たん)に游ばし。氣を漠(ばく)に合はせ。物の自然に順うて而して私を容るゝこと無くんば。天下治まらんと。

注;
天根、無名人;仮設の人名
殷陽;殷山の南
爲;治
鄙人;量見狭き人
不豫;不愉快。別字、不預;唐突、
厭則又乘夫莽眇之鳥。以出六極之外。而游何
 有之鄉;若し世が厭(いや)になったら、
 軽虚の鳥(虚無の気)に乗って宇宙の外に出
 で、何の障礙(碍)もない無何有の鄉に遊び
 莽眇之鳥;高飛の鳥。 六極;天地四方、 
 宇宙 無何有;何もないこと、無為である
 こと
以處壙垠之野;広々として涯(はて)しもない
 太虚壙垠の野に住まうとしてゐる
治天下;天下を治める(術)
汝游心於淡。合氣於漠;汝宜しく心を恬淡(て
 んたん)の域に遊ばしめて欲を去り、気を沖
 漠(ちうばく)の地に合はせて知を棄て、
 恬淡(てんたん);あっさりとしていて、名
 誉・利益などに執着しない様。 沖漠;む
 なしくひっそりとしている。ぼんやりとし 
 て定まらない
順物自然而無容私焉。而天下治矣;万物自然
 の理に順がって、一毫の私を雜(まじ)へる
 ことがなければ、天下は即ちよく治るであ
 らう。
(´・(ェ)・`)つ

968鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/23(日) 23:55:52 ID:ChGNh2Es0
應帝王第七(3)の方じゃな。

 天根が殷の陽地方に遊びにいくと無名人にあって天下をおさめる方法をきいたのじゃ。
 無名人は、去れ、汝は了見せまき人だ、不愉快じゃといかったのじゃ。
 わしは政治ではなく造物主とともに人を治めるのじゃ。
 世を捨てて世間を解脱し、無為の境地に至り、太虚の地に遊ぶのじゃ。 
 そんなわしに政治のことを聞くのは間違いじゃ、と言ったのじゃ。

 天根がまた聞くと、
 おぬしは心を淡白にして、気を漠然とした境地に合致させ、造化の自然に従って私欲をなくせば天下は治まるといったのじゃ。


 これは政治に託して、道の境地を教えたのじゃな。
 心を道に合致させれば政治も自然によくなるというのじゃ。

969避難民のマジレスさん:2023/04/24(月) 05:34:12 ID:KwPu6BvM0
荘子 79.
應帝王第七(4)
陽子居見老聃曰。有人於此。嚮疾強梁。物徹
疏明。學道不倦。如是者可比明王乎。老聃
曰。是於聖人也。胥易技系勞形怵心者也。且
也虎豹之文來田。猨狙之便。執斄之狗來藉。
如是者。可比明王乎。陽子居蹵然曰。敢問明
王之治。老聃曰。明王之治。功蓋天下。而似
不自己。化貸萬物。而民弗恃。有莫擧名。使
物自喜。立乎不測。而游於無有者也。

陽子居老聃(らうたん)を見て曰く。此に人有
り。嚮疾強梁(きゃうしつきゃうりゃう)にし
て。物徹疏明なり。道を學んで倦(う)まず。
是の如き者は明王に比すべきかと。老聃曰
く。是の聖人に於けるや。胥易技系(しょえき
ぎけい)の形を勞し心を怵(うれへ)しむる者
也。且也虎豹(こへう)の文(ぶん)は田(かり)
を來(き)し。猨狙(えんそ)の便と。斄(り)を
執(とら)ふるの狗(いぬ)とは藉を來す。是の
如き者は明王に比す可べきかと。陽子居蹵然
(しゅくぜん)として曰く。敢へて明王の治を
問ふと。老聃曰く。明王の治は。功天下を蓋
(おほ)へども己よりせざるに似たり。化萬物
に貸(ほどこ)せども民恃(たの)まず。有れど
も名を擧ぐる莫く。物をして自ら喜ばしむ。
不測に立つて。而して無有に游ぶ者也。

注;
老聃;老子
嚮疾;嚮は響と通じ、物に敏捷なること
強梁;意志強くして物に屈せぬこと
物徹;よく事物に通徹する
疏明;聡明、利発
胥;胥徒、小役人
易;更番時に当る、宿直者
技系;技芸の巧みなる為身に系累あるをいふ
勞形怵心者也;体を苦しめ、心を労し、役目
 の為仕事の為にただ人に使はれて役々とし
 て働くに過ぎぬ
虎豹之文;虎豹の皮には文飾ある(=美しい)
 をいふ
來田;田獵(猟)捕獲され
便;便捷(べんしょう);動作が早い、すばし
 っこい
斄;=狸
來藉;藉=縄、藉糜;繋ぎ止める縄(猿や狗は
 能力ある故に禍いを招く)
蹵然;安らかざる貌、顔色を変えて、
化;徳化
貸;施す
而民弗恃。有莫擧;民は之を忘れて、君を頼
 ることを知らず、功徳百姓に及んで其の名
 を顕さず
使物自喜;唯民をして欣然として自得せしむ
 るのみである
立乎不測。而游於無有者也;此の如く明王は
 神妙不測の地に立ち、心を虚無にして遊ば
 しめて、其の跡を絶し、天下を治めること
 を以て事としないのである。
(´・(ェ)・`)つ

荘子80.は、>>966であります。

970鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/24(月) 23:00:57 ID:9X9iqe/Q0
陽子居が老子に言ったのじゃ。
鋭敏で物事に通じていて、道を学んで飽きない人は明王であるか、と。
老子は答えたのじゃ。
そんな者は小役人程度じゃ。
心身を疲れさせるばかりであるからなのじゃ。
縄でつながれる犬のようなものじゃ。

陽子居は、では明王の政治とはどんなものかと聞いたのじゃ。
老子は答えたのじゃ。
天下に比類なき仕事をしても自分がしたとは思わせず、
万物を教えても民にはそう思わせないのじゃ。
名声を求めず、民を自ら喜ばせるのじゃ。
測ることもできず、無為に遊ぶものというのじゃ。


これもまた政治に託して聖人の境地を教えたものじゃな。
知識や仕事に通じていても、それだけでは小役人なのじゃ。
無為の心境で万人を自ら動くようにするのが聖人の政治というのじゃ。

971鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/24(月) 23:09:59 ID:9X9iqe/Q0
鄭に季咸という人相見がおったそうじゃ。
列子がこれを見て心醉し師匠の壺子に、先生より優れたものを見た、と言ったのじゃ。
壺子はそれを聞いてつれてこいといったのじゃ。
季咸は壺子を見て死相が出ているから死ぬといったのじゃ。
列子はそれを聞いてないたのじゃ。
壺子は自分は塞がりの相をみせたから当然だと言ったのじゃ。
またつれてこいと言ったのじゃ。

972避難民のマジレスさん:2023/04/25(火) 18:28:26 ID:y.TCDgrI0
荘子 81.
應帝王第七(5-2)
明日又與之見壺子。出而謂列子曰幸矣。子之先生遇我也有瘳矣。全然有生矣。吾見其杜權矣。列子入以告壺子。壺子曰。鄉吾示之以天壤。名實不入。而機發於踵。是殆見吾善者機也。嘗又與來。

明日又與之見壺子。出而謂列子曰。子之先生不齊。吾無得而相焉。試齊。且復相之。列子入以告壺子。壺子曰。鄉吾示之以太沖莫勝。是殆見吾衡氣機也。鯢桓之審爲淵。止水之審爲淵。流水之審爲淵。淵有九名。此處三焉。嘗又與來。

明日又之と與に壺子を見る。出でて列子に謂つて曰く。幸(さいはひ)なり。子の先生我に遇(あ)うて瘳(い)ゆること有り。全然として生有らん。吾れ其の杜權(とけん、けんをとつる)を見たりと。列子入つて以て壺子に告ぐ。壺子曰く。鄉に吾れ之に示すに天壤を以てす。名實入らずして。而して機踵(くびす)に發す。是れ殆んど吾が善者機を見たる也。嘗(こころみ)に又與に來れと。

明日又之と與に壺子を見る。出でて列子に謂ひて曰く。子の先生齊(ひと)しからず。吾れ得て相すること無し。試みに齊(ひと)しくせよ。且(まさ)に復た之を相せんとすと。列子入つて以て壺子に告ぐ。壺子曰く。吾鄉に之に示すに太沖莫勝(たいちうはくしょう)を以てす。是れ殆んど吾が衡氣機(かうきき)見たる也。鯢桓(げいくわん)の審(はん)を淵と爲し。止水の審を淵と爲し。流水の審を淵と爲す。淵に九名有り。此れ三に處(を)れり。嘗みに又與に來れと。

注;
吾見其杜權矣;杜權;不動中の動 不動の中
 に微(すこ)しく活気の動くのを認めた。
鄉吾示之以天壤。名實不入;先に吾天地
 の気を以て示した。蓋し心を大虚に遊ばし
 むるが故に天下地上に一団の生気ありて名
 付くべからず
而機發於踵;生動の機が最も深き所から発す
 るに依って一点の動を認め得たのである。
是殆見吾善者機也;即ち彼は我が善徳微発の
 動機を見たのであらう。 
太沖莫勝;大虚であって、動静何が優勢を占
 めるといふことなく、静中動あり、動中静
 あり、往来屈伸、気機変化極りない状態
是殆見吾衡氣機也;予が陰陽動静其の一に偏
 せず、気機を均しうしているのを見た
鯢桓之審爲淵;大魚のくねり回る所は、水が
 渦を巻いて淵を為す
止水(流水)之審爲淵;止水(流水)の渦巻く所
 も淵を為す
淵有九名。此處三焉;淵には九種類あり、こ
 れは其の内三種類であるが、(これと同じく
 予が道の妙用も、千変万化限りはないが、
 前には、地文、天壤、太沖莫勝の三つを示
 したに過ぎない。
(´・(ェ)・`)つ

973鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/25(火) 22:48:05 ID:bsk6jBDI0
次の日にきた季咸が壺子を見ていったのじゃ。
汝の師匠はわしにあってよくなったから死相が消えた。よかったのじゃ。

列子がそれを告げると壺子は天の壤の気をみせたからじゃ、また明日こさせるとよいといったのじゃ。

また次の日にきた季咸が壺子を見ていったのじゃ。
おぬしの師匠は相が一定していないから見れない。

列子がそれを告げると壺子は、わしはまだ気が安定していない相をみせたからなのじゃ、 
わしの気は水の相に似て九つあるがまだそのうちの三つをみせただけなのじゃ。
また明日来させるとよいのじゃ。と、言ったのじゃ。

974避難民のマジレスさん:2023/04/27(木) 03:40:32 ID:CHJszw3Y0
荘子 82.
應帝王第七(5-3)
明日又與之見壺子。立未定。自失而走。壺子
曰。追之。列子追之不及。反以報壺子曰。已
滅矣已失矣。吾弗及已。壺子曰。鄉吾示之以
未始出吾宗。吾與之虛而委蛇。不知其誰何。
因以為弟靡。因以為波流。故逃也。然後列子
自以為未始學而歸。三年不出。爲其妻爨。食
豕如食人。於事無與親。雕琢復朴。塊然獨以
其形立。紛而封哉。一以是終。

明日又之と與に壺子を見る。立つて未だ定ま
らず。自失して走る。壺子曰君。之を追へ
と。列子之を追へども及ばず。反りて以て壺
子に報じて曰く。已に滅せり已に失せり。吾
及ばざる已(のみ)と。壺子曰く。鄉に吾之に
示すに未だ始めより吾が宗(そう)を出さざる
を以てす。吾之と與に虛にして委蛇(ゐい)
す。其の誰何(すいか)たるを知らず。因つて
以て弟靡(たいび)爲(た)り。因つて以て波流
(はりう)爲り。故に逃れたる也と。然る後列
子自ら以て未だ始めより學ばずと爲して歸
る。三年出でず。其の妻の爲に爨(かし)ぎ。
豕(し)を食(やしな)ふこと人を食ふが如く。
に於て與(あづか)り親(みづか)らすること無
し。雕琢(てうたく)を朴に復(かへ)し。塊然
(くわいぜん)として獨り其の形を以て立つ。
紛として封(まも)り哉。一に是を以て終れ
り。

注;
自失而走;(容貌の変幻測る可ざるを知り)茫
 然自失して走り去った
不知其誰何;相するに由なく
波流弟靡(はりゅうたいび):変化し続ける
 世の中の形容。世の中の変化に従って生き
 ていくこと。また、自分に定見がなく、世
 に流されること。 弟靡;草木が風になび
 くこと。外の世界の物事になびき従うこと
示之以未始出吾宗;始めより吾が本領を示さ 
 ずに。  示すに、泰初の無を以てした。 
吾與之虛而委蛇;終に至ては、虚無にして自
 然に順ひしを以て相する。 委蛇;順
列子自以為未始學而歸;列子は壺子の本領を
 学び得ざりしを悔い、我が家に帰りて、
豕;豚
於事無與親;俗事を自らすることなく、
雕琢復朴: ものはすべてはじめは細工をほど
 こしたり磨いたりするが、最後にはそのよ
 うな飾りを取りのぞいて、素朴にかえるの
 がほんとうだ。人間も、学問をし知識を広
 めるが、しまいには素直な天然自然の形に
 かえるのがよい
塊然;孤立している.不動であるさま
獨以其形立。紛而封哉。一以是終;形を以て 
 立つも、さながら枯木死灰の如く、事物紛
 乱の間に処るも専ら無心虚淡を得て、道に
 達した人として一生を終わった。
(´・(ェ)・`)つ

975鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/27(木) 23:26:47 ID:j.X/.RCc0
次の日にまた季咸が壺子を見ると、いきなり逃げたのじゃ。
追いかけてもつかまらなかったのじゃ。

戻ってきた列子が壺子に告げると、このように言ったのじゃ。
あたりまえなのじゃ。
わしはまだ概念もない原初の姿を見せたのじゃ。
造化の自然に従い、無我の境地を見せたから季咸はなにかわからず逃げたのじゃ。

それを聞いた列子は自分はまだ壺子の法を初歩すら知らなかったと反省したのじゃ。
それからは三年間も家にこもって修行したのじゃ。
自己の根源に帰り、無我無心の道と合一した境地に到達して生を終えたのじゃ。


相を見ることなどは自らの心を操縦する法には及ばないということじゃな。
悟りの相が見られるならは、もはや悟った者なのじゃ。
悟っていなければわからないから相を見る者は逃げるとしかないのじゃ。

976避難民のマジレスさん:2023/04/28(金) 08:26:53 ID:XKChfn0A0
荘子 83.
應帝王第七(5-4)
無爲名尸。無爲謀府。無爲事任。無爲知主。體盡無窮。而遊無朕。盡其所受乎天。而無見得。亦虛而已。至人之用心若鏡。不將不迎。應而不藏。故能勝物而不傷。

南海之帝爲儵。北海之帝爲忽。中央之帝爲渾沌。儵與忽時相與遇於渾沌之地。渾沌待之甚善。儵與忽謀報渾沌之德曰。人皆有七竅以視聽食息。此獨無有。嘗試鑿之。日鑿一竅。七日而渾沌死。

名の尸(し)爲(た)ること無かれ。謀(はかりごと)の府爲ること無かれ。事の任爲ること無かれ。知の主爲ること無かれ。無窮(むきう) を體盡(たいじん)して。而して無朕に遊び。其の天に受くる所を盡して。而して得るを見(あらは)すこと無かれ。亦虛なる已(のみ)。至人の心を用ふるは鏡の若し。將(おく)らず迎(むか)へず。應じて而して藏(をさ)めず。故に能く物に勝(た)へて而して傷(そこな)はず。

南海の帝を儵(しゅく)と爲し。北海の帝を忽と爲し。中央の帝を渾沌と爲す。儵と忽と時に相與に渾沌の地に遇へり。渾沌之を待つこと甚だ善し。儵と忽と渾沌の徳に報いんことを謀りて曰く。人皆七竅(けう)有り。以て視聽食息す。此れ獨り有ること無し。嘗試(こころみ)に之を鑿(うが)たんと。日に一竅(きょう)を鑿(うが)ち。七日にして渾沌死す。

注;
無爲名尸;尸;主 名誉の主となることな
 かれ
無爲謀府;謀を其の心に運らすことなかれ
無爲事任;衆務の責に任ずることなかれ
無爲知主;知の主となることなかれ
體盡無窮;此の四無為を体尽して無窮に応
 じ、  別訳、無窮を体し尽くして  
而遊無朕;心を無始の境に遊ばしめ、 兆
 し、始め  別訳、跡を現すことなく
盡其所受乎天。而無見得;己に固有の天性を
 極めて道を得るも之を外に示すことなかれ
亦虛而已;終始虚無で一貫すること
至人之用心若鏡;至人の心を用ふる様は宛も
 明鏡の如く、
不將不迎;物來りて之に映し、物去て消える
 に任せて、送らず、迎へず  將;送る
應而不藏;物に応じて而も留めない 藏;留
 める  形、物に応じて見はするが、心に
 留めない
故能勝物而不傷;(物にさからはない)故に物
 に勝へて其の本体の明を傷けることはな
 い。(畢竟至人の心は虚明である。)

儵、忽;どちらも「短い時間」を意味する。
 人為的であることを意味している。それを
 擬人化している。
待之甚善;大変よくもてなした。
人皆有七竅以視聽食息;人には皆七つの穴
 (=目・耳・口・鼻)があって、それを使
 って見たり聞いたり食べたり呼吸したりし
 ている。

内篇
應帝王第七
(´・(ェ)・`)
(おわり)

次回より外篇、駢拇第八

977鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/04/28(金) 23:33:23 ID:Jz/at8F.0
名声を求めず、謀をせず、仕事を引き受けず、知識を求めずにいるのじゃ。
無窮を体得して、無我に遊び、天のもたらすことを受けても己のものとはしないのじゃ。
至人の心は鏡のようで、なにも招かずむかえず、ただありのままに写ることを受け入れるのじゃ。
そうであるからものごとに惑わされないのじゃ。

南海の帝は霞であり、北海の帝は忽なのじゃ。
中央の帝は混沌なのじゃ。
ある時三人が混沌の地であい、歓待されたから霞と忽はお礼に混沌に人の七つの穴をあけてやろうとしたのじゃ。
そしたら混沌は死んだのじゃ。



前半は名声や知識を求めず、道に合一するようにというのじゃ。
後半は混沌が七つの穴で人の見聞香味触等の感覚を得たら死んだというのじゃ。
感覚によって真の意識が惑わされてしまうということの比喩なのじゃ。

978避難民のマジレスさん:2023/05/04(木) 01:59:12 ID:YkT5ogzw0
荘子 84.
外篇
駢拇第八(1)
駢拇枝指。出乎性哉。而侈於德。附贅縣疣。
出乎形哉。而侈於性。多方乎仁義而用之者。
列於五藏哉。而非道德之正也。是故駢于足
者。連無用之肉也。枝於手者。樹無用之指
也。多方駢枝於五藏之情者。淫僻於仁義之
行。而多方於聰明之用也。是故駢於明者。亂
五色。淫文章。青黃黼黻之煌煌非乎。而離朱
是已。多於聰者。亂五聲。淫六律。金石絲竹
黃鐘大呂之非乎。而師曠是已。枝於仁者。擢
德塞性以收名聲。使天下簧鼓。以奉不及之法
非乎。而曾史是已。駢於辯者。累瓦結繩竄句
游心於堅白異同之間。而敝跬譽無用之言。非
乎。而楊墨是已。故此皆多駢旁枝之道。非天
地之至正也。

駢拇(へんぼ)枝指(しし)。性に出たるかな。
而かも德に侈(あま)れり。附贅縣疣(ふぜいけ
んいう)。形(けい)に出でたるかな。而かも性
(せい)に侈(おご)れり。仁義に多方にして而
して之を用ふる者は。五藏に列なるかな。而
かも道德の正に非ざる也。是の故に足に駢(へ
ん)ある者は。無用の肉を連ぬる也。手に枝の
ある者は無用の指を樹(た)つる也。五藏の情
に多方駢枝ある者は。仁義の行に淫僻(いんへ
き)にして。而して聰明の用に多方たる也。是
の故に明に駢(へん)なる者は。五色を亂り。
文章に淫する。青黃黼黻(せいくわうほふつ)
の煌煌(くわうくわう)たるに非ずや。而して
離朱(りしゅ)是れ已(のみ)。聰(そう)に多な
る者は五聲を亂り。六律に淫する。金石絲竹
(きんせきしちく)黃鐘大呂(くわうしょうたい
りょ)の聲に非ずや。而して師曠(しくわう)是
れのみ。仁に枝(し)なる者は德を擢(えら)び
性を塞(ふさ)ぎ以て名聲を收(おさ)め。天下
をして簧鼓(くわうこ)して以て及ばざる法を
奉ぜしむるに非ずや。而して曾史是れのみ。
辯(べん)に駢(へん)なる者は、累瓦結繩竄句
(るゐぐわけつじょうざんく)して。心を堅白
同異(けんぱくどうい)の間に游ばして。而し
て敝跬(へいせつ)して無用の言を譽(ほむ)る
に非ずや。而して楊墨(やうぼく)是れのみ。
故に此れ皆多駢旁枝(たへんぼうし)の道にし
て天地の至正に非ざる也。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

979避難民のマジレスさん:2023/05/04(木) 02:01:00 ID:YkT5ogzw0
注;
外篇 駢拇;内篇は篇名に深い意味があった
が、外雑領篇は大抵篇首の二字或は三字を取
って名付けたのである。•••一篇の意は性徳と
所謂仁義礼楽との内外軽重を論じたものであ
る。(荘子 : 現代語訳 (支那哲学叢書:第7)より)

駢拇枝指。出乎性哉。而侈於德;足の四本
 指、手の六本指は生来のもの、即ち先天的
 なものであるが、天から享ける徳に対して
 は余計なものである。  駢拇;駢は合、
 拇は足の大指、拇が第二指とくっついて四
 本指となったもの
附贅縣疣;贅;瘤(こぶ)疣;(いぼ) 余計な厄
 介者の喩え
出乎形哉。而侈於性;既に生まれた後、即ち
 後天的に体に出来たもので、人間の天性に
 とりては余計なものである
多方乎仁義而用之者;凡ての方面に仁義を振
 り回して五常の節目を立て。五常;仁義礼
 智信、儒教に於いて人が常時守るべき項目
列於五藏哉;それが肉体五臓の作用に適応し
 ているというて排(配)列するけれども、
而非道德之正也;道徳の真正のものではな
 く、(人為的な無用の長物に過ぎない)
是故駢于足者。連無用之肉也。枝於手者。樹
 無用之指也;足に四指あるは無用の肉を連
 ねたるものであり、手に六指を有するは、
 一本だけ要らぬ指を立てて居るものであり
多方駢枝於五藏之情者;五体の自然なものに
 無用なものを付加するのは、
淫僻於仁義之行;仁義のために邪僻(正しくな
 い、偏っている)になり、
而多方於聰明之用也;強いて聡明を用ひて無
 用有害の行を為し、(人為を以て本然の性を
 損ふものである)
是故駢於明者。亂五色。淫文章;更に進ん
 で、目に就いて無用の明を用ふる者は、五
 色の眞を乱して、物の彩飾に淫するのであ 
 る。
青黃黼黻之煌煌非乎;青黄文色のキラキラと
 して人を幻惑するものは誠につまらぬもの
 であるが、
而離朱是已;(古の眼力が強いので有名な) 離
 朱はそれを美観としている
多於聰者。亂五聲。淫六律;耳の働きに就い
 て無用の聡を用ふる者は五声の眞を乱し、
 六律に淫するのである
金石絲竹黃鐘大呂之聲非乎。而師曠是已;か
 の金石絲竹黃鐘大呂の聲は実に下らぬもの
 であるが、古の聡敏を以て名のあった師曠
 そは是れを美音としている。
枝於仁者。擢德塞性以收名聲;仁に就いて無
 用のことを為す者は、むやみに道徳を抽出
 し、天性を抑へて、強いて仁義を行うて世
 間の評判を取り、
使天下簧鼓。以奉不及之法非乎; 天下の
 人々を惑わせて、無理な礼法を奉ぜしめよ
 うとする。  簧鼓;惑わす、扇動する
而曾史是已;曾参や史鰌のような輩は此の上
 もないことをしている。 曾参(そうし
 ん)史鰌(ししゅう);自然の徳や性を妨
 げ、名声を我がものにしようとする道家
駢於辯者。累瓦結繩竄句游心於堅白異同之
 間;弁説に就いて無用の言説を用ふる者
 は、宛かも瓦を累(かさ)ね縄で結んだやう
 に多く無用の語を集め、解らぬ文句を無理
 に作り出し、心を詭弁に馳せ  堅白異
 同;詭弁をもてあそぶ。 こじつけの論理。
 「白くてかたい石は、見たときは白い石と   
 わかるが、かたいことまではわからない。
而敝跬譽無用之言非乎;而も自ら労苦して無
 用の言を誉めはやす、
而楊墨是已;楊朱.墨翟のような徒は高尚なこ
 とと考えている。 楊朱.墨翟;弁論家、自
 愛説を唱えた
故此皆多駢旁枝之道。非天地之至正也;要す 
 るに此れ等は皆無用のことを為すもので、
 決して天下の至正ではなく、又固より宇宙
 の理法に叶ったものではない。
(´・(ェ)・`)つ

980鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/05/04(木) 23:51:06 ID:PIKuBXnY0
ここからまた儒教の仁義への批判とかなのじゃ。


 先天的に指が多かったりするものは天のしこととはいえ、余計なものなのじゃ。
 後天的にできたこぶとかいぼも天のしわざでも余計なのじゃ。
 それと同じように仁義というものも余計なものなのじゃ。
 道徳にとっては不正なものなのじゃ。
 内臓に余計なものをつけくわえるようなものじゃ。
 
 聡明であることも余計なのじゃ。
 目とか耳とかに余計なものをつけくわえるのじゃ。
 心が乱れるものなのじゃ。
 多弁であることもまた余計なものじゃ。

 これらすべては天地の正しい道ではないのじゃ。


 儒教の仁義とか、耳目の豪華な音色とか、弁論は余計なものだというのじゃ。
 それは道徳には不正なものというのじゃ。
 天地の正しい至正ではないのじゃ。

981避難民のマジレスさん:2023/05/05(金) 06:05:19 ID:pNCXZClw0
荘子 85.
駢拇第八(2)
彼至正者。不失其性命之情。故合者不爲駢。
而枝者不為跂。長者不爲有餘。短者不爲不
足。是故鳬脛雖短。續之則憂。鶴脛雖長。斷
之則悲。故性長非所斷。性短非所続。无所去
憂也。意仁義非人情乎。彼仁人何其多憂也。
夫駢於拇者。決之則泣。枝於手者。齕之則
啼。二者或有餘於數。或不足於數。其於憂一
也。今世之仁人。蒿目而憂世之患。不仁之人
決性命之情而饕貴富。故意仁義其非人情乎。
自三代以下者。天下何其囂囂也。

彼の至正なる者は。其の生命の情を失はず。
故に合する者を駢と為さず。而して枝ある者
も跂(き)と為さず。長き者を余ありと為さ
ず。短き者を足らざると為さず。是の故に鳬
脛(ふけい)短しと雖も。これを続がば則ち憂
ひなん鶴脛(くわくけい、つるはぎ)長しと雖
も、これを断たば則ち悲しみなん。故に性の
長は断ずる所に非ず。性の短は継ぐ所に非ら
ず。憂いを去る所無きなり。意(おも)ふに、
仁義は其れ人の情に非ざるか。彼の仁人は何
ぞ其れ憂い多きや。且つ夫れ拇((おや)ゆび)
に駢(へん)なる者は、これを決(さ)かば則ち
泣かん。手に枝ある者は、これを齕(か)まば
則ち啼(な)かん。二者、或は数に余りあり、
或いは数に足らず、其の憂いに於けるは一な
り。今、世の仁人は、蒿目(かうもく)にして
而して世の患(うれ)ひを憂え。不仁の人は、
性命の情を決して貴富を饕(むさぼ)る。故に
意ふに、仁義は其れ人の情に非ざるか。三代
より以下は、天下なんぞ其れ囂囂(がうがう)
たるや。

注;
性命之情;性命の実 性命の自然な在り方 
 性命;生まれながらの素質と天から授かっ
 た運命。
跂;奇形
鳬脛;(ふけい)カモの脛(はぎ)。カモの脚は
 短いが、これをつぎ足してのばしてやれ
 ば、カモは嫌がる。物には、それぞれに
 ふさわしい自然の特徴があるから、いたず
 らに手を加えたりしないで自然のままに従
 うのがよいということ。
性;天性 自然な在り方
无所去憂也;(仁義の如き無用のものを用ひ
 て、)憂ひを去る必要はない。
非人情乎;本来固有の性ではない。 人とし
 ての自然なあり方ではないであろう。
蒿目而憂世之患;心配そうな目付きをして世
 の患難を憂ひ
自三代以下者。天下何其囂囂也;夏・殷・周
 の三代以降は、天下は仁義を振りかざして
 騒ぎ乱れて居る
(´・(ェ)・`)つ

982鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/05/05(金) 23:25:03 ID:neMrB5TA0

 至正な者は生命の情を失っていないというのじゃ。
 何事にもこだわらないのじゃ。
 
 とり足が短いからと継ぎ足したりしないようなものじゃ。
 
 仁義などはそのような天から与えられた性質に逆らうものじゃ。
 仁義にしたがって生きた者は憂いが多いのじゃ。
 指が多いからと切ったりしたら痛くて泣くようなものじゃ。
 
 仁義によって生きるものはそれ故に世の中を憂いているのじゃ。

983鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/05/05(金) 23:26:55 ID:neMrB5TA0

 また仁義の批判じゃな。
 仁義などは天性のものではないから憂いの原因になるというのじゃ。
 大儀として戦争の原因にもなるというのじゃ。

984避難民のマジレスさん:2023/05/07(日) 22:42:47 ID:ymd.0iNA0
荘子 86.
駢拇第八(3)
且夫待鉤繩規矩正者。是削其性者也。待繩約膠漆而
固者。是浸其徳者也。屈折禮樂。鉤兪仁義。以慰天
下之心者。此失其常然也。天下有常然。常然者。曲
者不以鉤。直者不以繩。圓者不以規。方者不以矩。
附離不以膠漆。約束不以繩約。故天下誘然皆生。而
不知其所以生。同焉皆得。而不知其所以得。故古今
不二。不可虧也。則仁義又奚連連如膠漆纆索。而遊
乎道徳之間爲哉。使天下惑也。

且夫れ鉤繩規矩(こうじょうきく)を持ちて正す者
は、是れ其の性を削る者なり。繩約膠漆(じゃうやく
かうしつ)を持ちて固むる者は、是れ其の徳を浸す者
なり。礼楽に屈折し、仁義に呴兪(くゆ)して、以て天
下の心を慰むる者は、此れ其の常然を失するなり。
天下に常然あり。常然とは、曲る者鉤(かぎ)を以て
せず、直き者繩を以てせず。円き者規(き)を以てせ
ず、方なる者矩(く)を以てせず、附離するに膠漆を以
てせず、約束するに纆索(じょうさく)を以てせず。故
に天下誘然として皆な生じて、而して其の生ずる所
以を知らず。同焉(どうえん)として皆な得て、而して
其の得る所以を知らず。故に古今は二ならず、虧(か)
くべからざるなり。則ち仁義又た奚んぞ連連として
膠漆纆索の如くにして、而して道徳の間に遊ぶこと
を為さんや。天下をして惑わしむ。

注;
鉤縄規矩;物事や行為の標準・基準になるも
 ののこと。 物事の手本。 きまり  
 鉤:先の曲がった金属製の道具である「か
 ぎ」。曲線を描くための道具。
 縄:直線を引くための墨縄(すみなわ)。
 規:コンパス・ぶんまわし。円を描く道具。
 矩:四角を描く差し金
 鉤や墨繩やコンパスや曲尺(かねじゃく)
 の力を借りて規格通りの形になるのは、
削其性者;素質を削ることになる。
繩約膠漆而固者;縄で締めたり、にかわやう
 るしで固めたりすること
是浸其徳者也;生来の性格を損なうことになる
鉤兪仁義;仁義により穏やかに安らげて、
失其常然也;本質的な姿(道)を失ふことになる
纆索;縄:細いなわ、索:太いなわ
故天下誘然皆生;全て自然に具合良く出来ていて、
同焉皆得;天下の者皆自得満足して
故古今不二;古今を通じて異なることなく、
不可虧也; (徳性は)何処に於いても、備わ
 らざるはない、掛け替えのないものである
(´・(ェ)・`)つ

985鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/05/08(月) 23:48:07 ID:2vVrLGNM0
かぎ縄とかで正すものはその本性を削るのじゃ。
漆とかで固めるものはその徳を侵すものじゃ。
それらが仁義なのじゃ。

礼楽とか仁義に溺れる者は常然のありのままの本性を失うのじゃ。
天下に常然はあるのじゃ。
常然とは鉤で曲がるのではなく、墨縄で真っ直ぐになるのではなく、コンパスで丸になるのでもなく、漆膠でくっつくものではないのじゃ。

生じる所も得るところも知らないありのままの姿なのじゃ。
二ではなく一であり欠けるところもないのじゃ。

仁義はそのような漆膠のようなものとして天下を惑わすものなのじゃ。


さらにま仁義の批判じゃな。
仁義などは大工が用いる道具のように、本性を損なって常然のありのままの姿を失うものというのじゃ。
それは道徳とは反するものなのじゃ。
天下の人民を惑わすだけのものというのじゃ。

986避難民のマジレスさん:2023/05/11(木) 17:46:37 ID:tDyZoguo0
荘子 87.
駢拇第八(4)
夫小惑易方。大惑易性。何以知其然邪。自虞
氏招仁義以撓天下也。天下莫不奔命於仁義。
是非以仁義易其性與。故嘗試論之。
自三代以下者。天下莫不以物易其性矣。小人
則以身殉利。士則以身殉名。大夫則以身殉
家。聖人則以身殉天下。
故此數子者。事業不同。名聲異號。其於傷性
以身爲殉一也。
臧與穀。二人相與牧羊。而倶亡其羊。問臧奚事。則挾筴讀書。問穀奚事。則博塞以遊。二人者。事業不同。其於亡羊均也。
伯夷死名於首陽之下。盗跖之利於東陵之上。
二人者。所死不同。其於殘生傷性均也。奚必
伯夷之是。而盗跖之非乎。
天下盡殉也。彼其所殉仁義也。則俗謂之君
子。其所殉貨財也。則俗謂之小人。其殉一
也。則有君子焉。
有小人焉。若其殘生損性。則盗跖亦伯夷已。
又惡取君子小人於其間哉。

夫れ小惑は方を易(か)え。大惑は性を易う。
何を以て其の然ることを知るや。虞(ぐ)氏、
仁義を招(かか)げて以て天下を撓(みた)せし
より、天下仁義に奔命せざるは莫し。是れ仁
義を以て其の性を易ふるに非ずや。故に嘗試
(こころ)みにこれを論ぜん。
三代より以下の者、天下物を以て其の性を易
へざること莫し。小人は則ち身を以て利に殉
じ、士は則ち身を以て名に殉じ、聖人は則ち
身を以て天下に殉ず。
故に此の数子(すうし)の者は、事業は同じか
らず、名声号を異にすれども、其の性を傷(や
ぶ)り身を以て殉と為すに於ては、一なり。
臧(ざう)と穀(こく)と、二人相い与に羊を牧
(やしな)うて、而して倶に其の羊を亡ふ。臧
に奚をか事とせしと問へば、則ち筴(さく)を
挟みて書を読みしといふ。穀に奚をか事とせ
しと問へば、則ち博塞(はくさい)して以て遊
べりといふ。二人の者、事業は同じからざれ
ども、其の羊を亡ふに於ては均しきなり。
伯夷は名に首陽(しゅやう)の下に死し、盗跖
(たうせき)は利に東陵の上に死す。二人の
者、死する所は同じからざれども、其の生を
残(そこな)ひ、性を傷(やぶ)るに於ては均し
きなり。奚んぞ必ずしも伯夷の是にして、而
して盗跖の非ならんや。
天下は尽(ことごと)く殉なり。彼れ其の殉ず
る所、仁義なれば、則ち俗にこれを君子と謂
ふ。その殉ずる所、貨財なれば、則ち俗にこ
れを小人と謂ふ。その殉は一なり。則ち君子
あり、小人あり、其の生を残ひ性を損ずるが
若きは、則ち盗跖も亦た伯夷のみ。又た惡く
んぞ君子と小人を其の間に取らんや。

注;
小惑易方;惑ひの小なる者は(知識の確実を失
 ひ)方角を取り違へる位で済むが
大惑易性;惑ひの大なる者になると、其の天
 性を失ってしまふ 
自虞氏招仁義以撓天下也;昔舜が仁義を標榜
 して天下を紊乱してから  有虞氏;古代
 の伝説上の聖天子、舜
天下莫不奔命於仁義;萬人挙(こぞ)ってその
 わざとらしい仁義に奔走しない者はいない
 といふあり様で、
是非以仁義易其性與;それが為に天性を移し
 てしまったということではないか
自三代以下者;夏、殷、周の三代から後では
天下莫不以物易其性矣;天下萬人すべ外にあ
 る事物のために天性を変えざるはないとい
 ふ始末。
其於傷性以身爲殉一也;外物の為に其の天性
 を滅却して奪い一身を犠牲に供してゐる点
 に於ては全く同一である。
挾筴讀書;竹簡を手にして書を読んでいた
博塞以遊;賭博に興じていた
伯夷;殷代末期の高名な隠者で、儒教では聖
 人とされる。
盗跖;春秋時代(又は黄帝時代)の盗賊団の親
 分。九千人の配下を従えて各地を横行
殘生傷性;生命をそこない、本然の性を傷付
 けた
天下盡殉也;天下の人は外物の為にその身を
 殉じて顧みない
若其殘生損性。則盗跖亦伯夷已;身を殉し、
 天性を損ふ上からいへば、盗跖も伯夷と均
 しいので、
又惡取君子小人於其間哉;君子と小人の別を
 設けることはできない
(´・(ェ)・`)b

987鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/05/11(木) 23:23:11 ID:dxUEMAP20

 小さな惑いは方角を間違うぐらいですむが、大きな惑いは性情さえも変えてしまうというのじゃ。
 舜が仁義というもので天下を惑わしてから、万民の性情がかわってしまったというのじゃ。
 みんな仁義のために奔走するようになったのじゃ。
 そのために天から与えられた性情さえも失ったのじゃ。
 
 小人は利益のため、武士は名誉のため、聖人は天下のためという違いはあるが、皆天からあたえられた性情を破り、外物のため身をすてるようになったのじゃ。
 羊飼いは書を読んだり、博打のために羊を失ったりするがどちらも同じなのじゃ。
 聖人も泥棒も同じなのじゃ。

 皆仁義のために身を失ったのじゃ。
 それを君子と呼ぶのじゃ。
 金のためならば小人と呼ぶのじゃ。
 それらもまた同じなのじゃ。


さらに仁義が天下万人の性情を破り、身を滅ぼす事になったというのじゃ。
それは金のために身を滅ぼすのと同じというのじゃ。

988避難民のマジレスさん:2023/05/17(水) 07:03:15 ID:M1D.9BBY0
荘子 88.
駢拇第八(5)
且夫屬其性乎仁義者。雖通如曾史。非吾所謂
臧也。屬其性於五味。雖通如兪兒。非吾所謂
臧也、屬其性乎五聲、雖通如師曠、非吾所謂
聰也、屬其性乎五色、雖通如離朱、非吾所謂
明也、吾所謂臧、非仁義之謂也、藏於其徳而
已矣、吾所謂臧者、非所謂仁義之謂也、任其
性命之情而已矣、吾所謂聰者、非謂其聞彼
也、自聞而已矣、吾所謂明者、非謂其見彼
也、自見而已矣、夫不自見而見彼、不自得而
得彼者、是得人之得、而不自得其得者也、適
人之適、而不自適其適者也、夫適人之適、而
不自適其適、雖盗跖與伯夷、是同爲淫僻也、
余愧乎道徳、是以上不敢爲仁義之操、而下不
敢淫僻之行也、

且夫れ其の性を仁義に属する者は、通ずるこ
と曾史の如しと雖も、吾が謂はゆる臧(ざう)
に非ざるなり。其の性を五味に属すれば、通
ずること兪児(ゆじ)の如しと雖も、吾が謂は
ゆる臧に非ざるなり。其の性を五色に属すれ
ば、通ずること離朱の如しと雖も、吾が謂は
ゆる明には非らざるなり。吾が謂はゆる臧と
は、仁義の謂に非ざるなり。其の徳を臧する
のみ。吾が謂はゆる臧なる者は、謂はゆる仁
義の謂に非ざるなり。其の性命の情に任ずる
のみ。吾が謂はゆる聰(そう)なる者は、其の
彼を聞くを謂ふに非ざるなり。自ら聞くの
み。吾が謂はゆる明なる者は、其の彼を見る
を謂に非ざるなり。自ら見るのみ。夫(か)の
自ら見ずして而して彼れを見、自ら得ずして
而して彼れを得る者は、是れ人の得を得とし
て、而して自ら其の得を得とせざる者なり。
人の適を適として、自ら其の適を適とせざる
者なり。夫れ人の適を適として、而して自ら
其の適を適とせざれば、盗跖と伯夷と雖も、
是れ同じく淫僻を為(た)るなり。余は道徳に
愧(は)づ。是を以て上は敢えて仁義の操を為
さず、而して下は敢えて淫僻の行を為さざる
なり。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

989避難民のマジレスさん:2023/05/17(水) 07:03:57 ID:M1D.9BBY0

注;
且夫屬其性乎仁義者。;そこで、仁義などと
 いふやうなものに天性を繋属する者は、つ
 まり仁義に殉ずる者であって、
雖通如曾史。非吾所謂臧也;その仁義に達す
 ることかの曾参は史鰌ほどであっても、決
 して予の善とする所(優れたもの)ではな
 い。 曾参(そうしん)、史鰌(ししゅ
 う);仁の心が過剰で、自然の徳や性を妨
 げ、名声を我がものにしようとする道徳家
 臧;善、善(よし)とする所
屬其性於五味。雖通如兪兒。非吾所謂臧也;
 五味に捕らわれる者は、五味に殉ずる者で
 あって、之に通ずることかの兪兒ほどであ
 っても、予の善とする所ではない。    
 兪児;登山の神様。天下に覇王があらわれ
 ると姿を見せると言われる。
人間の本性を失わせるもの
①五色;目の本性を乱し、視力を失わせる。
②五声;耳の本性を乱し、聴力を失わせる。
③五臭;鼻を刺激し、鼻すじをつまらせて額
 を痛くさせる。
④五味であり、口を濁し、口の感覚をゆがめ 
 て味をわからなくさせる。
⑤取捨選択の行為であり、心を乱し、自然の
 性をとんでもない方向に逸脱させる。
師曠;春秋時代の晋の平公に仕えた楽人。盲
 であったが琴の名手であり、酒色に耽溺す
 る平公にたびたび箴言を述べた。
聰;理解することが早い。 判断が的確ですば
 やい。 理性がある。 かしこい。
離朱;黄帝時代、古伝説上の人。視力にすぐ
 れ、百歩離れた所からでも毛の先まで見る
 ことができた。
明;物事を見分け、見通す力がある
藏於其徳而已矣;其の天然の徳を善くし、全
 うすることであって、
任其性命之情而已矣;天眞の性能に順適して
 ゆくことである。 天眞;自然のままで飾
 り気のないこと。性能;性質、能力。順
 適;逆らわずに順応すること
非謂其聞彼也、自聞而已矣;其の彼(師曠など
 の正した標準に)従って音を聞き分けること
 ではなく、我自ら自然に従って聞くことで
 ある(自分の内なる声を聞きとることだ
夫不自見而見彼、不自得而得彼者。是得人之
 得。而不自得其得者也;元来自然そのまま
 を見ないで、人の決めた標準に依って見よ
 うとしたり、自然そのまゝの眞を得ない
 で、人の善とする所を得ようとするから、
 (人の得た外的なものに支配されて、)自得
 することのできぬものである。
適人之適、而不自適其適者也、夫適人之適、
 而不自適其適;徒に心を外に馳せて、自己
 の境遇に満足できない。他人の満足してい
 る所に満足して、本当に自己の本心に満足
 しなければ、
雖盗跖與伯夷、是同爲淫僻也;(心が常に外的
 の誘惑にひかされるのであって、)(利の為
 にする) 盗跖の悪も、(名の為にする) 伯夷
 の善も等しく淫僻の行為である。 淫僻;
 道徳や風潮が度を越えてかたよっている
余愧乎道徳;(かく、自然を没却しているか
 ら、)予は所謂道徳なる者はを愧に思ふ。
是以上不敢爲仁義之操、而下不敢淫僻之行也
 ;上は敢て仁義を操守せず、下は敢て淫僻
 の行為を為さず。 操守;信念を貫き、心
 変わりがしないこと

駢拇第八
(´・(ェ)・`)
(おわり)
次回より、外篇 馬蹄第九

990鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/05/17(水) 23:15:11 ID:KiDqHaFU0

 本性を仁義とか、五味とか、五色などに通じる者はわしはよいとは思わないというのじゃ。
 わしの蔵とは仁義ではなく、徳を蔵する者と言うのじゃ。
 姓命の情に任じるものというのじゃ。

 わしの聡明とは他人の聞ではなく、自らに聞くもの、自らを見る者なのじゃ。
 そうすれば他人のことより、自分のことが知れるのじゃ。

 人がよいとするところをよいとしていれば、自らわよしとすることができないのじゃ。
 人のよいとするところを求めず、自らよしとするところを求めるべきなのじゃ。
 そうでなければ利益を求める泥棒も、名誉を求める聖人も同じになるのじゃ。
 
 そのように名を求める世間の道徳家は恥かしいものじゃ。
 政府は仁義を守らず、民は貪欲でなく心変わりしなければよいだけなのじゃ。


 仁義は道徳より劣るものというのじゃな。
 自らの本性に従うべきだというのじゃ。
 利益を求めるのも、名誉を求めるのも同じと言うのじゃ。

991避難民のマジレスさん:2023/05/19(金) 18:05:35 ID:L4550tNs0
荘子 89.
馬蹄第九(1)
馬、蹄可以踐霜雪、毛可以禦風寒、齕草飮
水、𧄍足而陸、此馬之真性也、雖有義臺路
寝、无所用之、及至伯樂曰、我善治馬、焼之
剔之、刻之雒之、連之以羈馽、編之皁棧、馬
之死者、十二三矣、飢之渇之、馳之驟之、整
氏齊之、前有橛飾之患、而後有鞭筴之威、而
馬之死者、已過半矣、陶者曰、我善治埴、圓
者中規、方者中矩、匠人曰、我善治木、曲者
中鉤、直者應繩、夫埴木之性、豈欲中規矩鉤
繩哉。
然且世世稱之曰、伯楽善治馬、而陶匠善治埴
木、此亦治天下者之過也。

馬は、蹄(てい)以て霜雪を踐むべく、毛以て
風寒を禦ぐべし。草を齕(か)み水を飲み、足
を𧄍(あ)げて陸(おど)る。此れ馬の真性な
り。義台路寝ありと雖も、これを用う所な
し。伯楽の我れは善く馬を治むと曰ひて。こ
れを焼きこれを剔(そ)り、これを連ぬるに羈
馽(きてう)を以てし、これを編むに皁桟(そう
さん、うまや)を以てするに至るに及んで。馬
の死する者、十に二三あり。これを飢(き)し
これを渇し、これを馳せこれを驟(はし)ら
せ、これを整えこれを斉う、前に橛飾(けっし
ょく)の患ひありて、而して後に鞭筴(べんさ
く)の威(ゐ)あり。而して馬の死する者、已に
半ばに過ぐ。
陶者の曰く、我れ善く埴(はに)を治む。円な
る者は規(黄)に中(あ)たり、方なる者は矩
(く)に中たると。匠人(しゃうにん)の曰く、
我れ善く木を治む。曲れる者は鉤(こう)に中
たり、直き者は繩(じょう)に応ずと。夫れ埴
木(しょくぼく)の性は、豈に規矩鉤繩(きくこ
うじょう)に中たるを欲せんや。
然れども且お世世これを称して曰く、伯楽は
善く馬を治め、而して陶匠は善く埴木を治む
と。此れ亦た天下を治むる者の過ちなり。

注;
義臺路寝;高層な建物やりっぱな座敷
羈馽;羈(おもがい) :轡(くつわ)を固定するた
 めに、馬の頭にかける緒。馽(ちゅう):馬を
 つなぎとめる綱。
橛飾;くつわの飾り
鞭筴;むち
埴;きめの細かい、黄赤色の粘土。かわら・
 陶器の原料にした。
陶者;焼物職人
鉤;先の曲がった金属製の器具
鉤縄規矩;物事や行為の標準、基準、手本。
(´・(ェ)・`)つ

992鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/05/20(土) 00:02:26 ID:.bl4Vdew0
馬はひずめで霜雪を踏み、毛で風寒をふせぎ、草をたべ水を飲み、大地を走るのじゃ。
それが馬の真の性質なのじゃ。
立派な屋敷があっても使わないのじゃ。

馬の調教師として名高い伯楽は焼き鏝を使ったり、邪魔な毛をそったり過酷な調教で半分は死なしてしまうのじゃ。
陶器を作るものは丸いものや四角なものを適所に使うのじゃ。
木工の人も同じなのじゃ。

世間ではこれらを同じような名人と思っているのじゃ。
それは天下を治める者の過ちだというのじゃ。


伯楽は馬の本性を歪めて半分は死なしてしまうが、陶器や木材の名人は適材適所に使うのじゃ。
同じ名人でもやり方は違うのじゃ。

993避難民のマジレスさん:2023/06/04(日) 12:22:55 ID:TRrxuEIk0
荘子 90.
馬蹄第九(2-1)
吾意、善治天下者、不然、彼民有常性、織而食、是謂同徳、一而不黨、命曰天放、故至徳之世、其行塡塡、其視顚顚、
當是時也、山无蹊隧、澤无舟梁、萬物群生、連屬其郷。禽獸成群、草木遂長、是故禽獸可係羈而遊、鳥鵲之集、可攀援而闚、
夫至徳之世、同與禽獸居、族與萬物並、惡乎知君子小人哉、同乎无知、其徳不離、同乎无欲、是謂素樸、素樸而民性得矣、
及至聖人、蹩躠爲仁、踶跂爲義、而天下始疑矣、澶漫爲樂、摘僻爲禮、而天下始分矣、
故純樸不殘、孰爲犠樽、白玉不毀、孰爲珪璋、道徳不廢、安取仁義、性情不離、安用禮樂、

吾れ意(おも)ふに、善く天下を治むる者は、然らず。彼の民には常性(じゃうせい)あり。織りて衣(き)、耕して食(くら)ふ。是れを同徳と謂ふ。一にして而して党せず。命じて天放と曰ふ。故に至徳の世は、其の行ふや塡塡(てんてん)たり、其の視るや顚顚(てんてん)たり。
是の時に当たりてや、山には蹊隧(けいすゐ)なく、沢には舟梁(しうりゃう)なし。万物群生して其の郷(きゃう)に連属す。禽獸は群を成し、草木は遂長す。是故に禽獸は係羈(けいき)して遊ぶべく、鳥鵲(てうじゃく)の巣も攀援(はんえん)して闚(うかが)ふべし。
夫れ至徳の世は、同じく禽獸と居り、族(あつ)まりて万物と並ぶ。惡くんぞ君子と小人とを知らんや。同乎として無知、其の徳離れず。同乎として無欲、是れを素樸(そぼく)と謂う。素樸にして民の性得たり。
聖人、蹩躠(べつせつ)して仁を為し、踶跂(ていか、ちき)して義を為すに至るに及びて、而して天下始めて疑ふ。澶漫して楽を為し、摘僻して礼を為し、而して天下始めて分かる。
故に純樸残(そこな)はずんば、孰(た)れか犠樽(ぎそん)を爲(つく)らん。白玉毀(こぼた)ざれば、孰れか珪璋を爲らん。道徳廃(すた)れずんば、安ぞ仁義を取らん。性情離れずんば、安ぞ礼楽を用いん。

注;
塡塡;響く音 塡:ふさぐ・うずめる・みた 
 す・ひさしい。  
 是非を忘れて自得満足し
顚顚; 顚: いただき。てっぺん。はじめ。は
 じまり。たおれる。ころぶ。くつがえる 
 物事に対する考え方は直感的であった
蹊隧;径路
舟梁;舟橋
連属;一団を為して安住し
遂長;勝手に繁茂した
係羈;つらなって  よく馴れて一所に集ま
 って
鳥鵲;かささぎ
攀援;よじのぼる
闚(うかが);のぞく、示す
同乎;一様に
素樸而民性得矣;素樸にして民各々その性を
 得て、(天下おのづから治った)
蹩躠(へつさつ):めぐり歩く様
踶跂(ちき)」は、苦心して力を尽くす様
疑;惑う
澶漫;淫蕩して
摘僻;腰を曲げて礼する
而天下始分矣;天下の人心は分離していよい
 よ本然の性と遠ざかるようになった。
犠樽;鳥獣形の酒樽
毀;壊す
珪璋;礼式に用いる飾り玉
道徳不廢、安取仁義;道徳が廃れなければ、
 どうして仁義が必要になろう。
性情不離、安用禮樂;本来の生まれつきや真
 情が失われなければ、どうして礼儀や音楽
 が必要になろう。
(´・(ェ)・`)つ

994鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/06/05(月) 00:21:53 ID:esS4gL9M0

 荘子は前節のような天下の治めかたはいかんというのじゃ。
 民には日常的な本性があるというのじゃ。
 服を作り、田畑を耕して食べるのじゃ。
 徳と同じなのじゃ。
 一つであり集まりではないのじゃ。
 天の放任するところなのじゃ。
 至徳の世は全てが満たされ、還帰するのじゃ。
 そうなれば山に道なく、川に船なく、獣も喜び草木も健やかに成長するのじゃ。
 君子も小人もなく、民は無知であり、無欲であり、素僕なのが民の本性なのじゃ。

 聖人は苦労して仁義を行うから天下の人々から疑われるのじゃ。
 礼楽に溺れて天下は乱れるのじゃ。
 道徳が廃れたから仁義がおこり、性情を離れたから礼楽を用いるのじゃ。



 老子も説いている道徳が廃れたから、仁義がおこったというのじゃな。
 本来の性情がなくなって礼楽もあるというのじゃ。
 そのようなにせものでは天下は乱れるばかりというのじゃ。

995避難民のマジレスさん:2023/07/13(木) 12:26:36 ID:CDGu72g20
荘子 91.
馬蹄第九(2-2)

五色不亂、孰爲文采、五聲不亂、孰應六律、夫残樸以爲器、工匠之罪也、毀道徳以爲仁義、聖人之過也、
夫馬、陸居則食草飮水、喜則交頸相靡、怒則分背相踶、馬知已姿矣、夫加之以衡扼、齊之以月題、而馬知兀倪、 闉扼鷲曼、詭銜竊轡、
故馬之知而態至盗者、伯樂之罪也、夫赫胥氏之時、民居不知所爲、行不知所之、含哺而熙、鼓腹而遊、民態以此矣、
及至聖人、屈折禮樂、以匡天下之形、縣跂仁義、以慰天下之心、而民乃始踶跂好知、争歸於利、不可止也、此亦聖人之過也、

五色乱れずんば、孰れか文采を為(つく)らん。五声乱れずんば、孰れか六律に応ぜん。夫れ樸を残(そこな)ひて以て器を為るは、工匠の罪なり。道徳を毀(こぼ)ちて以て仁義を為るは、聖人の過ちなり。
夫れ馬は、陸居すれば草を食み水を飲み、喜べば則ち頸(くび)を交えて相い靡(したが なびか)ひ、怒れば則ち背を分かちて相い踶(け)る。馬の知は此に已(や)むのみ。夫れこれに加うるに衡扼(かうやく)を以てし、これを斉(ととの)ふるに月題を以てして、而して馬の知は兀(こつ)を倪(かぎ)り、扼(やく)をくだき曼を鷲(わし)り、銜(くつばみ)に詭(さか)らひ轡(くつわ)を竊(ぬす)む。
故に馬の知にして能く盗に至る者は、伯楽の罪なり。
 夫れ赫胥(かくしょ)氏の時、民は居るも為す所を知らず、行くも之く所を知らず、含哺(がんほ)して熙(たの)しみ、腹を鼓ちて遊ぶ。民能く此に止む。
聖人に至に及びて、礼楽に屈折して、以て天下の形を匡し、仁義に県跂して、以て天下の心を慰む。而して民乃ち始めて踶跂して知を好み、争いて利に帰し、止むべからざるなり。此れ亦聖人の過ちなり。

注;
樸;あらき、切り出したままの木材。ありの
まま。飾り気がない。
靡;なびく 寄り添う
衡軛(こうやく);牛車の軛(ながえ)の先端に
ある牛の首につける横木。くびき
月題;首木どめ(?)
兀倪;横木を折り(介倪;束縛を逃れようと横目でにらみ)
曼;馬車の幌(御者?)
鷲;突き破る(突く)
詭銜;銜(くつばみ。手綱)に詭(そむ)いて
(銜を吐き出したり)
竊轡;轡(くつわ、手綱)を竊(ぬす)無。手綱
を奪い取る。(手綱を噛んだり)
闉;くだく、ふさぐ、ふさがる 
扼;横木どめ、おさえる しめる
赫胥氏之時;太古赫胥氏の時代は、
民居不知所爲、行不知所之;民に機を狙う心
がないから、別に何を為そうとも考えず、何
処へ行こうとも考えない
含哺而熙、鼓腹而遊、民態以此矣;食べもの
をたらふく食べてたのしみ、腹つづみをう
って遊んでいた。民衆のできることはこれ
ぐらいのものであった。
屈折禮樂;儀礼や音楽に従って体を折りかが
めて、
以匡天下之形、縣跂仁義、以慰天下之心;そ
れで世界の人々の心を[むりに]やわらげ
ようとしたり、仁や義によってつなぎとめ
て、それで世界の人々の心を[むり]とと
のえようとすることになった
而民乃始踶跂好知、争歸於利、不可止也、此
亦聖人之過也;そこで、民衆ははじめてあ
くせくと努めて知識を求め、争って利益を
追求して、とてもひき止めようもないほど
になったのである。これはやはり聖人のあ
やまちである。
(´・(ェ)・`)つ

996鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/07/15(土) 00:07:18 ID:stp/RCz.0
 五色が乱れたら、誰も色彩の模様を作れないのじゃ。
 5音が乱れなければ歌も歌えるのじゃ。
 原木を傷つけて器にするのは工匠の罪なのじゃ。
 仁義によって人を誤導して道徳を失わせるのは聖人の罪なのじゃ。
 自然の馬は草を食べ、水を飲み仲良く暮らしているのじゃ。
 人が頚木をつけたり調教しようとするから、人をうらんでにらんだり馬具を壊したりするのじゃ。
 それゆえに馬が悪くなるのは調教する者の罪なのじゃ。

 古の王の時代には民は何も知らず、日々を楽しく暮らしていたのじゃ。
 聖人が礼とか楽とか仁義を教えるから、人々は知識を求め、金を争って奪い合うようになったのじゃ。
 これは聖人の罪なのじゃ。


 
 これもまた仁義の批判じゃな。
 馬が自然に暮らして何も不満がないように、民も自然に暮らせば満足だったのじゃ。
 聖人が仁義とかを教えるから知識とか利益を求めて争うようになった、というのじゃ。


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