- 1 :避難民のマジレスさん :2023/12/07(木) 20:51:29 ID:Dp/qMVVc0
- 金剛般若経
如是我聞。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。 與大比丘衆千二百五十人倶。 爾時世尊食時著衣持鉢入舍衞大城乞食。 於其城中次第乞已。還至本處飯食訖。 收衣鉢洗足已敷座而坐。 (一) わたしはこのように聞きました。 ある時師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。 ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。 すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。 --- 中国語の原文を日本語に機械翻訳し、他の訳文も参考にしつつ内容を整えています。 日本語で著作権を気にせずに使えるものがなかったので、鬼和尚に協力していただき、 現代の修行者にも使いやすい訳を作りたいです。 もし、間違いや補足などがありましたらご指摘ください。 鬼和尚は前世で、コーサラ国の祇園精舎にいたことはありましたか? お釈迦様の托鉢や、修行者とのやり取りの様子がわかればと思いまして。
- 125 :避難民のマジレスさん :2024/06/01(土) 12:47:05 ID:GMPZ6gtE0
- 【天空時】悟りをひらいた人のスレ635【鬼・和尚】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1643032241/ より以下抜粋
195鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/25(火) 23:44:51.04ID:1qbD/h3V
*** (二十二) スブーティは、師に尋ねました。 「師よ、如来がこの上ない正しいさとりを得た時、何も得なかったのでしょうか。」
「スブーティよ、その通り、その通りだ。私がこの上ない正しいさとりを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しいさとりと言われるのだ。」
「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しいさとりと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しいさとりを得ることができる。スブーティよ、善法と呼ばれるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 126 :避難民のマジレスさん :2024/06/02(日) 13:00:32 ID:yjDfwsxg0
- 274鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/26(水) 23:30:14.42ID:FZ5ktjQi>>275
*** (二十五) 「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は須菩提長老に、 如来が衆生を滅度させたというようなことを思ってはいかん、 というのじゃ。
なぜならば如来が滅度させた衆生はないから、というのじゃ。 もし如来が滅度させた衆生があるとするならば、自己の四つの観念を如来がもっていたといことになるからなのじゃ。 そのようなものがないから、如来が滅度させた衆生はいないのじゃ。 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 127 :避難民のマジレスさん :2024/06/03(月) 12:56:16 ID:j8lz7Juk0
- 295鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/27(木) 23:35:36.19ID:d1GOtp5D
*** (二十六) 「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」
スブーティは答えました。 「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」
師は言いました。 「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」 スブーティは言いました。 「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」
その時、師は、次のような詩を歌われました。 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 128 :避難民のマジレスさん :2024/06/04(火) 12:28:15 ID:tzB6bB2U0
- 305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS
*** (二十七) 「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」
***
それからお釈迦様は 如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。 そのようなことはないからというのじゃ。
なぜならば相は相ではないからなのじゃ。 そうであめから相とよばれるのじゃ。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 129 :避難民のマジレスさん :2024/06/05(水) 11:59:21 ID:sCrl/u8g0
- 324鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/30(日) 00:02:30.07ID:56BL9zOh
*** (二十八) 「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」
スブーティは師に問いました。 「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」
師は答えました。 「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 130 :避難民のマジレスさん :2024/06/06(木) 10:51:58 ID:U5n9iQq20
- 423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw
*** (三十) 「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
スブーティは答えました。 「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。
師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。 如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」
「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」
*** (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 131 :避難民のマジレスさん :2024/06/07(金) 10:39:01 ID:VG/pkc6M0
- 460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0
*** (三十一) 「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」
スブーティは答えました。 「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」
「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」
***
お釈迦様は更に須菩提長老に、 もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 132 :避難民のマジレスさん :2024/06/08(土) 11:16:16 ID:ABGgMtuA0
- 488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU
*** (三十二) 「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。 それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。
世界の一切のものごとは 夢や幻、泡や影、 露や稲妻のよう、 そのように観るがよい。」
師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。
*** (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 133 :避難民のマジレスさん :2024/06/09(日) 11:03:48 ID:2FR8Sx8o0
- 500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU
金剛般若経も終わったのじゃ。 全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。 仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。 それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。
もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。 そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。 阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。
全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。 そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。 その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 134 :避難民のマジレスさん :2024/09/27(金) 11:26:14 ID:3mnA./cI0
- ※抜けがありました。追加いたします。
___
0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41 *** (二十九)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」
***
それからお釈迦様は、 もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
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