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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

373避難民のマジレスさん:2020/11/20(金) 18:46:18 ID:eUuVdyI60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二二 愛について 1

質問
 あなたのいわれる愛とはどういう意味でしょうか。

 私たちは何が愛でないのか・愛でないものを理解することによって発見しようとしています。なぜなら、愛は知らない・知られていないものであるので、知っているものを切り捨てることによってそれに至らなければならないからです。知らないものは、知っているもので充ちている精神によって発見されえません。私たちがやろうとしていることは、知っているものの価値を見出し、知っているものを見つめることです。それが純粋に非難なく見つめられるとき、精神は知っているものから自由になるのです。そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それで私たちは肯定的にではなく、否定的に愛に接近しなければなりません。
 私たちのほとんどにとって、愛とは何でしょうか。私たちは誰かを愛していると言うとき、どういう意味なのでしょうか。私たちはその人物を所有しているという意味です。その所有から嫉妬が生じます。なぜなら、私が彼や彼女を失うなら、何が起きるでしょうか。私は空っぽで・空しい、失った気持ちになります。ゆえに私は所有を合法化します。私は彼や彼女を(確保)します。その人物を確保すること、所有することから、嫉妬があります。恐れと、所有から生じる無数の葛藤すべてがあります。確かにそういう所有は愛ではないのではないでしょうか。
 明白に、愛は感情・情緒ではありません。感情的であること、情動的であることは、愛ではありません。なぜなら、情にもろいこと・感傷性と情動は、たんなる感覚・感動であるからです。イエスやクリシュナについて、自分のや他の誰かについて泣く・涙を流す宗教的な人物は、たんに感情的、情動的であるだけです。彼は感動に耽っているのです-それは思考の過程です。思考は愛ではありません。思考は感覚の結果です。ですから感情的である [人] 、情動的である人は、とうてい愛を知ることができません。あらためて私たちは情動的、感情的ではないでしょうか。情にもろいこと、感情的であることは、たんに一つの形の自己拡大です。情動で充ちていることは、明白に愛ではありません。なぜなら、感情的な人物は、自分の感情が応答されないとき、自分の気持ちがはけ口を持たないとき、残酷でありうるからです。情動的な人物は、憎しみへ、戦争へ、虐殺・殺戮へと掻き立てられうるのです。感情的で、自分の宗教のために涙で充ちている人は、確かに愛がありません。
 許しは愛でしょうか。許しに含まれている意味は何でしょうか。あなたは私を侮辱します。私はそれを恨みます、それを覚えています。そのとき、強制をとおし、または悔い・後悔をとおして、私は「私はあなたを許す」と言います。初め、私は保留・保有します。それから拒絶します。それはどういう意味でしょうか。私がやはり中心人物です。私がやはり重要です。誰かを許しているのは私です。許しの態度があるかぎり、重要なのは私であって、私を侮辱したと思われている人ではないのです。ですから私が恨みを蓄積し、それからその恨みを否定するとき-それが許しと呼ばれます-それは愛ではありません。愛している人は明白に憎しみを持っていませんし、これらすべてのことに対して無関心です。同情、許し、所有欲の関係、嫉妬、恐れ-これらすべてのことは愛ではありません。それらはすべて精神のものなのではないでしょうか。精神が判定・調停者であるかぎり、愛はありません。というのは、精神は所有欲をとおしてだけ調停するからです。そしてその調停は、たんに違った形での所有欲です。精神は愛を腐敗させられるだけです。それは愛を生み出せません。それは美・美しさを与えられません。あなたは愛について詩が書けますが、それは愛ではありません。
(´・(ェ)・`)つ


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