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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
179
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/11(火) 22:03:17 ID:PGnztOo20
最初と最後の自由 第一部
第十五章 思考者と思考 1
私たちの経験すべてには、いつも経験者、観察者がいます-それ [経験者、観察者]が 自分自身のためにもっともっと多くのものを集めたり、自分自身を否定したりしています。それはまちがった過程ではないでしょうか。そしてそれは創造的状態をもたらさない追求ではないでしょうか。それがまちがった過程であるなら、私たちはそれを完全に一掃して、脇へ置くことができないでしょうか。それは、私が経験するときだけ [生じうる]-思考者として経験するのではなく-私が偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうるのです。
私が経験をしているかぎり、私が [何かに] なろうとしているかぎり、この二元的行動 [・作用] があるにちがいありません。思考者と思考が [ある] 、二つの分離した過程が働いているにちがいありません。統合はありません。集団的に、個人的に、国家的になど、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもあるのです。普遍的に、これが過程です。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落があるにちがいありません。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけです。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っています。二つの違った状態があります。私たちの努力は、二つのものに橋を架けることです。
行動の意志はいつも二元的です。分離的であるこの意志を乗り越えて、 [そこに] この二元的行動 [・作用] のない状態を発見することは、可能でしょうか。それは、[そこに] 思考者が思考である状態を、私たちが直接的に経験するとき、見つけられるだけです。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考えます。しかしそうなのでしょうか。私たちはそうであると考えたいように思うのです。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるからです。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなることです。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因があるのです。私たちは、真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求しています。
思考者と思考の間に分割はあるのでしょうか。それらが分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費され [ムダになり] ます。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求しています。思考者は自分の思考から分離していると、私たちは考えます。私たちは、自分が貪欲・欲張りで、所有欲が強く、残忍・野蛮であることを見つけるとき、このすべてであるべきでないと考えます。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとします。ゆえに努力をして「なろう」とします。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある [ところの] 偽りの幻影を追求します。ところが、ただ一つの過程だけがあるのです。そこに、退廃・堕落の根本的要因があると、私は思います。
(´・(ェ)・`)つ
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