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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
310
:
避難民のマジレスさん
:2020/10/11(日) 18:55:13 ID:bu6mK1kE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十一 恐怖・恐れについて 3
私は仮に[言ってみれば・たとえば]寂しさに対する反動を持っているとします。すなわち、私は無である[何でもない・何ものでもない]ことを恐れていると、言います。私は事実自体を恐れているのでしょうか、それともその恐れは、私が事実についての以前[前もって]の知識-言葉、象徴、イメ-ジである知識を持っているから目覚めさせられるのでしょうか。どうして事実への・について恐れがありうるでしょうか。私は事実と向き合い、直接に親しく交わっているとき、それを見つめ、観察できるのです。ゆえに事実について恐れはないのです。恐れを起こす原因になるものは、事実 [についての] ―事実が何であるかや何をするかについての私の不安[心配・恐れ]です。
恐れを造り出すのは、事実についての私の意見、私の観念、私の経験、私の知識です。事実を言語化する[言葉に表す・言葉にする]こと、事実に名前をつける[事実を名づける]こと、ゆえにそれと[それを]同一化したりそれを非難したりすることがあるかぎり、思考が観察者として事実を判断[判定]しているかぎり、恐れがあるにちがいありません。思考は過去の産物です。それは言語化をとおし、象徴をとおし、イメ-ジをとおして存在できるだけです。思考が事実を見たり[見守ったり]翻訳[解釈]したりしているかぎり、恐れがあるにちがいありません。
こうして、恐れを造り出すのは精神です-精神は考える過程です。考えることは言語化です。言葉なしに、象徴、イメ-ジなしには考えられません。これらのイメ-ジ-先入観、以前[前もって]の知識、精神の不安[心配・恐れ]-が、事実[の上]に投影されます。そこから恐れが生じるのです。精神が事実を翻訳・解釈せず、名前、レッテルをつけずに見る能力があるときだけ、恐れからの自由があるのです。これは全く[かなり・相当]難しいのです。なぜなら私たちの持っている感情、反応、不安[心配・切望]は、即座に精神によって同一化され、言葉を与えられるからです。嫉妬の感情は、その言葉によって同一化されます。感情を同一化しないこと、名づけることなしにその感情を見ることは、可能でしょうか。感情に連続性を与えるのは、強さを与えるのは、それを名づけることです。恐れと呼ぶものに名づけた瞬間、それを強めるのです。しかしその感情に用語づけることなく見ることができるなら、それはしぼみ去る[しぼんでしまう]ことがわかるでしょう。ゆえに恐れから完全に自由であろうと思うなら、用語づけること、象徴、イメ-ジを投影すること、事実に名づけること、この過程全体を理解することが、本質的[不可欠]です。自己認識があるときだけ、恐れからの自由がありうるのです。自己認識が英知の始まりです―それが恐れの終わりです。
(´・(ェ)・`)つ
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