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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
365
:
避難民のマジレスさん
:2020/11/15(日) 21:54:53 ID:EYmr2PAU0
鬼和尚、いつもありがとうであります。
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二一 性について 1
質問
私たちは逃避できない身体的、心理的必要としての性を知っています。そしてそれは、私たちの世代の私的な生における混沌の、根本原因であるように見えます。どうすれば私たちはこの問題を取り扱えるのでしょうか。
K
私たちは、自分たちが触れるものは何でも、問題に変えてしまうのは、なぜでしょうか。私たちは神を問題にしました。愛を問題にしました。関係を、生きることを問題にしました。そして性を問題にしました。なぜでしょうか。なぜ、私たちがするあらゆることが問題、恐怖なのでしょうか。なぜ私たちは苦しんでいるのでしょうか。なぜ性が問題になってしまったのでしょうか。なぜ私たちは、問題とともに生きることに服従する・甘んじるのでしょうか。なぜそれらを終わらせないのでしょうか。なぜ来る日も、来る年も、自分たちの問題を持ち運ぶかわりに、それらに対して死なないのでしょうか。性は確実に今日的な意義のある・当を得た問題です。しかし第一の・主要な問題があります-なぜ私たちは生を問題にするのか、です。働くこと、性、金を稼ぐこと、考えること、感じること、経験すること-知っているでしょう、生きることにかかわること全体を-なぜそれは問題なのでしょうか。それは本質的に、私たちがいつも特定の視点から、固定した視点から考えるから、 ではないでしょうか。私たちはいつも中心から周辺に向かって考えています。しかし周辺が、私たちのほとんどにとって中心であるし、そのため私たちが触れるどんなことも表面的です。しかし生は表面的ではありません。それは完全に生きることを要求します。私たちは表面的にだけ生きているから、表面的な反動・反応だけを知っているのです。私たちが周辺でするどんなことも、必然的に問題を造り出すにちがいありません。それが私たちの生です。私たちは表面的なもののなかで生きています。そして表面的なものの問題すべてとともに、そこで生きることに満足しています。私たちが表面的なもののなかで、周辺で生きるかぎり、問題は存在しています-周辺は「私」とその感動・感覚です。それは客観化されることも主観的になることもできます。それは普遍的なものと、国と、精神により作り上げられた何か他のものと同一化されることもできます。
私たちが精神の領域の中で生きるかぎり、複雑さがあるにちがいありません。問題があるにちがいありません。それが、私たちが知っているすべてです。精神は感覚です。精神は蓄積された感覚と反応の結果です。それが触れるどんなものも、必ず悲惨、混乱、終わりなき問題を造り出します。精神-昼も夜も、意識的、無意識的に機械的に働いている精神-が、私たちの問題のほんとうの原因です。精神はもっとも表面的なものです。私たちは精神を育成することに、それをますます利口に、ますます微妙に、ますますずるがしこく、ますます不正直で曲がったものにすることに、数世代を使ってきましたし、自分たちの生全体を使います-そのすべては、私たちの生のあらゆる活動において明らかです。まさに私たちの精神の本性そのものが、不正直で曲がって、事実に向き合う能力がないことです。それが問題を造り出すものです。それが、問題自体であるものです。
(´・(ェ)・`)つ
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