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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

190避難民のマジレスさん:2020/08/15(土) 21:23:53 ID:dnNbHAY60
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 3

 精神の活動が存在しているかぎり、確かに愛はありえません。愛があるとき、私たちはどんな社会的問題も持たないでしょう。しかし愛は何か取得されるものではありません。精神は、新しい思考、新しい道具・装置、新しい考え方 [を取得するの]と同じように、それを取得しようと求めることはできます。しかし思考が愛を取得しようとしているかぎり、精神は愛の状態にありえません。精神が無欲の状態であろうと求めているかぎり、確かにそれはやはり貪欲なのではないでしょうか。同様に精神が、[そこに] 愛のある状態にあるために、願い、願望し、実践するかぎり、確かにそれはその状態を否定するのではないでしょうか。
 この問題、この複雑な生きることの問題が見えて、私たち自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき-私たちが深くそれを悟るとき、そのとき確かに、個人的でも集団的でもない智恵の状態があるのです。そのとき個人と社会、個人と共同体、個人と真実との関係の問題は止むのです。なぜなら、そのとき智恵だけがあるからです-それは個人的・人格的でも非個人的・非人格的でもないのです。私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみであると、私は感じます。それは結果ではありえません。それは、私たちがこの考えることの過程全体、総体を-意識的な水準においてだけでなく、また意識のより深い隠れた水準においても-理解するときだけ、生じるのです。
 これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静かな精神、とても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければなりません。それが私たちの困難の一つです-なぜなら思考は散漫になってしまったからです。私は何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいいのです-私はそれを見つめるのです。私はそれについて考え [始め] 、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ているのです。それで思考は、あなたが問題を持つとき、散漫になるのです-思考は観念、意見、判断、比較です-それは、私たちが問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げるのです。不幸にも私たちのほとんどにとって、思考はあまりに重要になってしまったのです。あなたは「どのようにして私は考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして私は空白の精神を持てるのか」と、あなたは言います。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいることです。あなたの本能的反応はそれを拒絶することです。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神、開けた精神は、とても直接的に、とても単純に、問題を見つめられるのです。それでただ一つの解決であるのは、私たちの問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力です。そのためには、静かな精神、平静な精神がなくてはなりません。
 そういう精神は、実践、瞑想、制御の結果ではありません。最終産物・成果ではありません。それは、「私」の、思考のどんな努力もなく、どんな形の修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じるのです。それは、私が考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じるのです。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛があるのです。そして私たち人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)つ


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