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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
157
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/03(月) 21:28:31 ID:hkn8ohjE0
くまめも12-3
そもそも私たちが気づいているとするなら、問題は、日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されえないなら、それらに取り組むことは、どのようにして可能か。問題を理解するには、一定の智恵が必要。その智恵は自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じる。それは、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくこと。受動的に気づくとき、その受動性の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかる、それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味。常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうる。それが困難。なぜなら、受動的に気づく、解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないから。どのように問題を冷静に見るべきかを知らない。その能力がない。なぜなら、問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているから。または自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようするまたは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っている。ゆえに新しい問題に、古い様式をもって接近する。挑戦はいつも新しいが、応答はいつも古いもの。そして困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うこと。問題はいつも関係の問題 − ものごととの、人々との、観念との関係。他に問題はない。
関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく、適切に出会うには-受動的に気づかなければならない。この受動性は決意、意志、修練の問題ではない。受動的でないことに気づくことが、始まり。特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-それが始まり。問題との関係のなかで自身を知ること、問題をどのように扱うのかを知ること。そのとき問題との関係のなかで自分自身を知りはじめるにつれて、この気づきが、自身の考える過程、内部の本性の過程を開示する。そこに解放がある。
(´・(ェ)・`)
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