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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

383避難民のマジレスさん:2020/11/26(木) 19:46:58 ID:T9jfcAc60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二四 時間について 2

 背景から自由であるには、あらゆる応答、あらゆるコンプレックス、あらゆる障害、あらゆる閉塞物(障害・妨害)を検討しなければならないと、分析者の多くは言います-それは明白に時間の過程という意味を含んでいます。これは、分析者は自分が分析しているものを理解しなければならない、自分が分析するものを誤って解釈(誤解)してはならない、という意味です。彼は自分が分析するものを誤って解釈するなら、それは彼を間違った結論に導き、ゆえにもう一つの背景を確立するでしょう。分析者は自分の思考と感情を、極わずかの逸脱もなく分析する能力がなければなりません。そして彼は自分の分析において一歩も失敗して(はずして・見失って)はなりません。なぜなら、間違った歩みをすること、間違った結論を引き出すことは、違った線に沿って、違った水準で、背景を再確立することであるからです。この問題もまた生じます-分析者は自分が分析するものとは違っているのだろうか。分析者と分析されるものとは接合した(共通の・共有の)現象ではないでしょうか。
 確かに、経験者と経験とは接合した現象です。それらは二つの分離した過程ではありません。それでまず最初に、分析することの難しさを見ましょう。私たちの意識の内容全体を分析して、よってその過程をとおして自由になることは、ほとんど不可能です。結局、分析者とは誰でしょうか。分析者は、自分が分析しているものと自分は違っていると思うかもしれませんが、違っていません。彼は自分が分析するものから自分自身を分離するかもしれませんが、分析者は自分が分析するものの一部です。私は或る思考を持っています。或る感情を持っています-例えば、私は怒っているとします。怒りを分析する人物は、やはり怒りの一部です。ゆえに分析されるものと共に分析者は、接合した現象です。それらは二つの分離した力や過程ではありません。ですから私たち自身を分析すること、展開すること、次から次へとぺ-ジをめくって私たち自身を見つめること、あらゆる反応、あらゆる応答を見張ることの難しさは、計算できないほど難しくて長いのです。ゆえにそれは、私たちを背景から自由にする道ではないのではないでしょうか。もっと単純でもっと直接の道があるにちがいないし、それが、あなたと私が見出そうとしていることです。見出すためには、偽りであるものを切り捨て [なければなりません] 、それにすがりついてはなりません。ですから分析は道ではありません。私たちは分析の過程から自由でなければなりません。
 そのときあなたは何を去ったのでしょうか。あなたは分析することに慣れているだけではないでしょうか。観察している観察者-観察者と観察されるものは接合した現象です-自分が観察するものを分析しようとしている観察者は、自分の背景から自由にならないでしょう。そうであるなら-そうなのですが-あなたはその過程を捨て去るのではないでしょうか。あなたは、それが偽りの道であることがわかるなら、それが偽りの過程であることを、たんに言葉の上だけでなく現実に悟るなら、そのときあなたの分析に何が起きるでしょうか。あなたは分析するのを止めるのではないでしょうか。そのときあなたは何を去ったのでしょうか。それを見守ってください。それに付いてきてください。すると、どんなに急速にすばやく、背景から自由になれるかがわかるでしょう。それが道でないなら、他に何を去ったのでしょうか。分析すること、探り、覗き込むこと、解剖すること、結論を引き出すことなどに慣れている精神の状態は、どんなものでしょうか。その過程が止んでしまったなら、あなたの精神の状態はどんなものでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ


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