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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
167
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/07(金) 21:30:15 ID:nELsQgfM0
最初と最後の自由 第一部
十三章 欲望(願望) 3
あなたの問題と私の問題は、精神がいったい欲望から、感覚から自由でありうるかどうかが、わかることです。確かに、創造は、感動とは何の関わりもありません。真実、神、何であれ、 [それらは] 感動として経験されうる状態ではありません。あなたが経験をするとき、何が起きるでしょうか。それはあなたに一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらしたのです。当然、あなたは憂鬱の状態を避けよう、脇へ置こうとします。しかしそれが喜び、得意の気分であるなら、あなたはそれを追求します。あなたの経験は楽しい感動を生み出しました。そしてあなたはそれをもっと(多く)欲しいと思います。もっと(多く)は、精神の死んだ中心を強めます-それ [中心] は常にさらなる経験を渇望しています。ゆえに精神は何も新しいものを経験できません。それは何も新しいものを経験する能力がありません。なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるからです。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造、真実ではありません。そういう精神は真実を経験できません。それは感動を経験できるだけです。そして創造は感動ではありません。それは、瞬間瞬間、何か永続的に新しいものです。
そこで(今)私は自分自身の精神の状態を悟ります。それは感動と欲望の道具であること、というよりむしろ感動と欲望であること、それは決まった日課に機械的に捕らわれているということが、わかります。そういう精神は決して新しいものを受け取ったり、打診する・感じ尽くす能力がありません。というのは、新しいものは明白に何か感動を越えたものであるにちがいないからです-それ [感動] はいつも古いものです。それで、この機械的過程とともにその感動は、終わりにならなければならない、のではないでしょうか。もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければなりません。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能です-そこ [創造性の状態] に、新しいものがいつも生じうるのです。あなたは、言葉により、習慣により、観念によって催眠術をかけられることなく理解して、新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解するでしょう。そのときあなたは、本当に求めている人にとって、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめるだろうと、私は思います。明白に、一定の身体 [・物質] 的必要はあります-衣・食・住とその他すべてです。しかしそれらは決して心理的欲求に[なりません]- 精神が欲望の中心としてそれ自体を築き上げるものに-なりません。物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への [欲望も] -心理的過程になります。それ [心理的過程] によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強めます。
あなたはこの過程がわかるとき、反対なく、誘惑の感動なく、抵抗なく、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見するでしょう。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえません。それは 、[そこに] 招待なく、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態です-それが真実です。
(´・(ェ)・`)つ
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