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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

338避難民のマジレスさん:2020/11/02(月) 18:53:42 ID:0QoXVJ3I0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十六 神への信念について 3

 では真実とは何でしょうか。神とは何でしょうか。神は言葉ではありません。言葉はもの
ごと・実体ではありません。測ることのできない、時間のものではないものを知るには、精神は時間から自由でなければなりません-それは、精神が、神についてのすべての思考から、すべての観念から自由でなければならない、という意味です。あなたは、神や真理について何を知っているでしょうか。あなたはその真実について、ほんとうは何も知らないのです。あなたが知っているすべては、言葉 [です]、他の人たちの経験や、或る瞬間のあなた自身のかなり漠然とした・あいまいな経験です。確かに、それは神ではありません。それは真実ではありません。それは時間の領域を越えていません。時間を超えているものを知るには、時間の過程が理解されなければなりません-時間は思考過程、なりゆく・なろうとする過程、知識の蓄積です。それが精神の背景 [・地盤]全体です。精神自体が、意識と無意識、集団と個人両方の背景 [・地盤] です。それで精神は、知られたものから自由でなければなりません-それは、精神が静寂にされるのではなく、完全に静寂でなければならない、という意味です。結果としての [静寂] 、決然とした・決断された行動から、実践から、修練から出てきたものとしての静寂を達成する精神は、静寂な精神ではありません。強いられ、制御され、形造られ、枠にはめられ、静かにしている精神は、静寂な精神ではありません。あなたは、一定時間、精神を表面的に静寂であるよう強いることに、成功するかもしれません。しかしそういう精神は、静寂な精神ではありません。あなたが思考の過程全体を理解するときだけ、静寂が来るのです。なぜなら、過程を理解することが、それを終わらせることであるからです。思考の過程の終わりが、静寂の始まりです。
 精神が、上の水準でだけでなく根本的に、ずっととおして-意識の表面的な [水準]とともにより深い水準でも-完全に静寂であるときだけ、そのときだけ知られないものが生じうるのです。知られないものは、何か精神により経験されるものではありません。静寂のみが経験されうるのです-静寂以外に何も [経験]されえません。精神が静寂以外に何かを経験するなら、それはたんにそれ自身の願望を投影しているだけです。そういう精神は静寂ではありません。精神が静寂でないかぎり、意識的、無意識的などんな形でも、思考が動き [の状態]にあるかぎり、静寂はありえません。静寂は、過去から、知識から、意識的とともに無意識的な記憶からの自由です。精神が使われず・使用中でなく、完全に静寂であるとき、努力の産物ではない静寂があるとき、そのときだけ、時間のないもの、永遠のものが、たしかに生じるのです。その状態は、覚えておく状態ではありません-覚えておく、経験する実体はありません。
 ゆえに、神や真理-何であれ-は、瞬間瞬間生じるものです。それは、精神が様式に応
じて修練されるときではなく、自由と自発性の状態においてだけ、起きるのです。神は精神のものごとではありません。それは自己投影をとおして来ません。それは、美徳、すなわち自由があるときだけ、来るのです。美徳は、あるがままの事実に向き合うことです。事実に向き合うことは至福の状態です。精神が、それ自身のどんな動きもなく、意識的、無意識的な思考の投影がなく、至福に満ちて、静かであるときだけ-そのときだけ、永遠のものが生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ


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