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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
293
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/29(火) 19:55:14 ID:yjDFQbds0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 4
あなたはとても単純に、とてもたやすく、自分自身でこれを実験できるのです。今度あなたが怒ったり、嫉妬したり、欲張ったり、暴力的であったり-何であろうと-するとき、自分自身を見守ってください。その状態には、「あなた」はいません。その存在の状態だけがあるのです。瞬間、一瞬後、あなたはそれを用語づけ、名づけ、それを嫉妬、怒り、貪欲と呼ぶのです。それであなたは即時に、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものを造り出したのです。経験者と経験されるものがあるとき、そのとき経験者は経験を修正しよう、変えよう、それにまつわるものごとを覚えていよう、などとするのです。ゆえに自分自身と経験されるものの間の分割を維持するのです。あなたはその感情に名づけないなら-それは、あなたが結果を求めていない、非難していない、たんに静かに感情に気づいている、という意味です-そのとき、感情の、経験のその状態には、観察者がなく、観察されるものがないということが、わかるでしょう。なぜなら、観察者と観察されるものは共通の現象であって、そのため経験することだけがあるからです。
ゆえに、内省と気づきはまったく異なっています。内省は挫折に、さらなる葛藤につながります。というのは、それには変化への願望という意味が含まれているし、変化はたんに修正された継続であるからです。気づきは、 [そこに]非難のない、正当化や同一化のない状態です。ゆえに理解があります。その受動的で鋭敏な気づきの状態には、経験者も経験されるものもどちらもないのです。
内省は一つの形の自己改善、自己拡大ですが、それは決して真理につながりえません。なぜなら、それはいつも自己閉鎖の過程であるからです。ところが、気づきは、 [そこに]真理が-あるがままについての真理、日常の存在についての単純な真理が-生じうる状態です。私たちが遠くへ行けるのは、私たちが日常の存在の真理を理解するときだけです。あなたは遠くへ行くには近くから始めなければなりません。しかし私たちのほとんどは飛びたい、近くにあるものを理解せずに、遠くから始めたいのです。私たちは近いものを理解するにつれて、近いものと遠いものの間に距離がないのを見つけるでしょう。距離はありません-始まり・初めと終わりは一つです。
(´・(ェ)・`)つ
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