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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

266避難民のマジレスさん:2020/09/15(火) 19:25:47 ID:Hg2uwcrw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 3

 私たちは、明白である様々な理由のために、貪欲であることが苦痛であることを、見つけます。私たちがそれを楽しむかぎり、貪欲であることが、私たちに報いてくれるかぎり、問題はないのです。社会は私たちを貪欲であるよう、違った仕方で励まします。宗教もまた、違った仕方で私たちを励まします。それが利益になるかぎり、それが苦痛でないかぎり、私たちはそれを追求するのです。しかしそれが苦痛になった瞬間、私たちはそれに抵抗したいのです。その抵抗が、貪欲に反して・対抗して修練と呼ばれます。しかし私たちは、抵抗をとおし、昇華をとおし、抑圧をとおして、貪欲から自由であるでしょうか。貪欲から自由でありたいと思う「私」の方のどんな行動も、やはり貪欲です。ゆえに、貪欲に関する私の方のどんな行動、どんな応答も、明白に解決ではないのです。
 まず初めに、何かを [理解するには] 、特に、何か私の知らないもの、何か私の精神が推し量れないもの-すなわち、この質問者が言う神-を理解するには、静かな精神、動揺のない精神が、なければなりません。何かを、何か錯綜した問題-生や関係の [問題]、要するに何かの問題-を理解するには、精神にとって一定の静かな深みがなければなりません。その静かな深みは、何かの形の強制をとおして偶然手に入るでしょうか。表面的な精神は、それ自体を強制し、それ自体を静かにさせるかもしれません。しかし、確かにそういう静けさは、腐敗の、死の静けさです。それは適応・順応性、柔軟性、敏感性・感受性の能力がありません。ですから抵抗は [正しい]道ではありません。
 そこで、それがわかるには、智恵を必要とするのではないでしょうか。精神は強制により鈍らされるということがわかることが、すでに智恵の始まりなのではないでしょうか-修練は、たんに恐れをとおした行動の様式への順応であることが、わかることが、です。それが、私たち自身を修練することに示唆されていることです。 私たちは欲しいものを得ないことを恐れています。あなたが精神を修練するとき、あなたが自分の存在を修練するとき、何が起きるでしょうか。それはとても堅く [なる] -柔軟でなく、すばやくなく、適応・調節できなくなるのではないでしょうか。あなたは、自分たち自身を修練してきた人たちを、知らないでしょうか-そういう人たちがいるとして、です。結果は明白に腐敗の過程です。片づけられ、隠された内側の葛藤があるのです。しかし、それはあるし、燃えているのです。
 こうして私たちは、修練、すなわち抵抗は、たんに習慣を造り出すだけであり、習慣は明白に智恵を産み出す力がありえないことが、わかるのです。習慣は決して [智恵を産み出す力がありえ]ない、実践は決して[智恵を産み出す力がありえ]ないのです。あなたは一日中ピアノを練習すること、自分の手で何かを作ることにより、指先がとても器用になるかもしれません。しかし、手に命令するには、智恵が要求されます。私たちは今、その智恵を探究しているのです。
(´・(ェ)・`)つ


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