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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
168
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/07(金) 21:45:20 ID:nELsQgfM0
くまめも13-3
問題は、精神が欲望から、感覚から自由でありうるか。創造は、感動として経験されうる状態ではない。経験をするとき、一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらした。当然、憂鬱の状態を避けようとする。しかしそれが喜びの気分であるなら、それを追求する。経験は楽しい感動を生み出した。そしてそれをもっと欲しいと思う。もっとは、精神の死んだ中心を強める− 中心は常にさらなる経験を渇望する。ゆえに精神は何も新しいものを経験できない、なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるから。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造ではない。そういう精神は真実を経験できない。それは感動を経験できるだけ。創造は感動ではない。瞬間瞬間、何か永続的に新しいもの。
感動はいつも古いもの。それで、この機械的過程とともにその感動、もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければならない。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能。新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解する。そのとき、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめる。
物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への欲望も− 心理的過程になる。心理的過程によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強める。
あなたはこの過程がわかるとき、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見する。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえない。それは 、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態 − それが真実。
(´・(ェ)・`)
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