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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

842避難民のマジレスさん:2022/05/13(金) 18:01:20 ID:99qwrTUY0
ラマナ・マハルシとの対話 326

1937年1月13日

長く住んでいる従者の質問に答える形で、シュリ・バガヴァンは言った。

マハルシ
 誰もが、心の落ち着きのなさを訴えています。
 心を見つけさせなさい、そうすれば彼らは知るでしょう。
 確かに、人が座って瞑想するとき、想念はいくらでも急に噴き出してきます。
 心は想念の束に過ぎません。
 想念の弾幕の中を押し進もうとする試みは、うまくいきません。
 もし、何らかの方法で真我に留まることができれば、それが良いのです。
 それができない人たちには、詠唱や瞑想(ジャパやディヤーナ)が処方されます。
 それは、象に鎖を与えて、その鼻を制御するようなものです。
 象の鼻は通常、落ち着きがありません。
 象は町の通りに連れ出されると、四方八方に鼻を伸ばします。
 もし、運ぶ鎖が与えられれば、落ち着きのなさは抑えられます。
 落ち着きのない心も同様です。
 ジャパやディヤーナに従事させられれば、他の想念は追い払われ、心は単一の想念に集中します。
 こうして心は平和になるのです。
 しかし、それは長期間の奮闘なしに平和が得られるというわけではありません。
 他の想念すべてが決着をつけられなければならないのです。

 別の例を挙げましょう。
 牛が悪戯をして、近所の人の畑に入り込んで草を食んでいるとします。
 彼女の盗み癖は簡単には断たれません。
 どうすれば彼女を牛房に閉じ込めさせておけるか考えてみてください。
 無理やり牛房に繋がれれば、彼女は悪戯をする機会を待つだけです。
 もし、牛房の中で良質の草の誘惑を受けたら、初日は一口だけ食べて、また逃げる機会を待ちます。
 翌日には2口と、そのように日を追うごとに口数が増えていき、最終的に邪な性質が断たれます。
 悪癖から完全に解放されれば、安心して放し飼いにされ、近所の牧草地に入り込むこともありません。
 牛房で叩かれたとしても、その場を離れることはありません。
 心も同様です。
 心は、想念として現れる潜在的なヴァーサナの力によって、外に向かってさ迷い出ることに慣れているのです。
 内に秘められたヴァーサナがある限り、それらは外に出てきて自らを使い果たさなければなりません。
 想念が心を構成しています。
 心とは何かを探れば、想念は引き下がり、求道者はそれらが真我から生じることを知ります。
 私たちが心と呼んでいるのは、これらの想念の集合体です。
 もし、想念が真我から生じることを悟り、それらの源に留まれば、心は消えてなくなります。
 心が消滅し、平和の至福が実現した後、今、すべての想念を排除することが困難であると感じているのと同様に、1つの想念を引き出すことが困難であると感じるでしょう。
 ここでは、心は悪戯をする牛で、想念は隣の牧草地、想念から解放された自分自身の原始の存在は牛房です。

 平和の至福は、邪魔されるにはあまりに惜しいものです。
 ぐっすり眠っている人は、起こされて自分の仕事をするよう命じられるのを嫌がります。
 眠りの至福は、想念から生まれる仕事のために犠牲にされるには、あまりにも魅惑的です。
 想念のない状態は、本源の状態であり、至福に満ちています。
 想念にまみれた不幸な状態のためにそのような状態を捨てるのは憐れではないでしょうか?

 もし、想念のない状態に留まりたいのであれば、奮闘は避けられません。
 自身の原初の状態を取り戻す前に、人は戦い抜かなければなりません。
 戦いに勝利し、ゴールに到達すれば、敵、すなわち想念はすべて真我の中に収まり、完全に消滅します。
 想念が敵です。
 それらは宇宙の創造に相当します。
 想念がなければ、世界も創造主である神も存在しません。
 真我の至福とは単一の存在に他なりません。


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