したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1 避難民のマジレスさん :2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

2 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/18(水) 22:10:39 ID:1d4drIFg0
それは悟りの喩えじゃな。
悟りは他に求めるものではなく、自分の心の奥にあることを喩えているのじゃ。
全て忘れてしまった者の記憶のように、悟りは何も感じない者の心の奥底にあるというのじゃ。
仏教では仏性と言ったりするものじゃ。

3 避難民のマジレスさん :2020/11/19(木) 07:54:21 ID:Dp/qMVVc0
ありがとうございます。
習慣により、文の意味を思考によって分析的に解釈しがちなことに気づきました。自分ごととして、自然に読めるように精進します。

古い思い出せない記憶を思い出そうとすると、注意が内側に向きました。身体では下腹の中心あたりに感覚が生じます。そういえば、自分の名前を呼ばれたときにも、その辺りに感覚が生じるのですが、そこには何かあるのでしょうか?

4 避難民のマジレスさん :2020/11/19(木) 20:50:13 ID:Dp/qMVVc0
しかし、これは自然なことだ。人の心の中に光がなければ、人生には何の意味もない。心の中に光がなければ、生に喜びを感じることはできない。

今日、自分自身が不必要で過剰な重荷を見つけるという事実は、生自体が無駄だからではない。生はひとつの無限の充足だ。しかし、私たちは、その充足に、その目的地につながる道を忘れてしまった。私たちは単に存在し、生とは何の関係もない。これは生きているのではなく、死を待っているだけだ。そして死を待つことが退屈以外の何物でもないとしたら、どうしたらいいのか? どうしたらそれは喜びになるのか?

私はあなたにこれを伝えるためにここに来た:あなたが生と勘違いしているこの悪夢から目を覚ます方法がある。道はいつもそこにあった。闇から光への道は永遠だ。それは確かにそこにあるが、私たちはそこから顔を背けてきた。その道に顔を向けて欲しい。この道がダルマ、法であり、宗教である。それは人間の中の光を再び点火させる手段であり、人間の漂流する船に方向性を与えている。マハヴィーラは言う。老いと死を伴う世界の急速な流れに流されている人々のために、宗教こそが唯一の安全の島であり、錨であり、目的地であり、避難所であると。

あなたは人生を喜びで満たす光を渇望しているか? 人間に不老不死を与える真理に到達したいか? もしそうなら、私はあなたを招待する。私の招待を受け入れなさい--喜びのために、光のために、不死のために。それは単にあなたの目を開くという問題だ。そうすれば、あなたは光の新しい世界に住むことになる。他に何もする必要は無い、ただ目を開けるだけでよい。ただ目を覚まして見ればよい。

人間には本当は何も消えていないし、本当は方向性も失っていないが、もし目を閉じていれば、闇はどこにでも広がり、方向性の感覚はすべて失われる。目を閉じれば人はすべてを失い、目を開ければ王となる。

私は、あなたを没落の夢から皇帝の威厳に目覚めさせようと呼びかけている。あなたの敗北を勝利に変えたい。あなたの闇を光に変えたい。あなたの死を不死に変えたい。あなたは、私と一緒にこの航海に乗り出す準備ができているだろうか?
――
オショーは折に触れて、あなたは仏性を忘れているとか、思い出すようにと説いていますが、それによって修行者の目を自分の心の奥深くに向けるように働きかけているということでしょうか。
それにしても、力があって魅力的な文で、勇気づけられます。

5 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/19(木) 22:59:56 ID:1d4drIFg0
>>3 そこにおぬしの自己観念の投射があるのじゃろう。
 その感覚に自分というものがあるという観念を記憶から思い出しているのじゃ。
 それがなければ自分がどうなるのか見てみると善いのじゃ。

>>10 そうじゃ、心を見るように勧めているのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

6 避難民のマジレスさん :2020/11/20(金) 20:36:17 ID:Dp/qMVVc0
>>5 ありがとうございます。
下腹の中心あたりの感覚が無い時は、思考や鼻の先あたりに自分を感じました。
以前は自我を見ようとすると強い拒否感が起こったのですが、今は弱めの拒否感と共に好奇心が起こることが多いです。
起こる拒否感をさらに観察して、厭離しようと思います。

7 避難民のマジレスさん :2020/11/20(金) 20:46:29 ID:Dp/qMVVc0
ワークを始める前に、私の愛をどうか受け取って欲しい。 それは、この丘の孤独で人里離れた場所にあなたを歓迎することができる唯一のものだ。他にあげられるものは何も無い。 神の臨在が私の中に創り出した無限の愛をあなたと分かち合いたい。皆に配りたい。そして不思議なことに、分かち合えば分かち合うほど、それは大きくなっていく。本当の富は分配することで増えていくが、分配することで減っていく富は決して本当の富ではない。それでは、私の愛を受け入れてくれるだろうか? 私には見える。あなたの目には受け入れられていて、それに呼応して愛が溢れているのが。

愛は愛を生み、憎しみは憎しみを生む。私たちがあなたに与えるものは何でも、それは現物で返される。これは永遠の法則だ。だから、あなたが望むものは何でも、世に与えるべきものだ。茨と引き換えに花を受け取ることはできない。

私はあなたの目に愛と平和の花が咲いているのを見て、深く感謝している。今、ここにはそれほど多くの異なる人々はいない。愛は多くのものを一つにまとめ、一つに変えていく。それぞれの肉体は分離していて、これからもそうあり続けるだろうが、この肉体の背後には、人々を一つにし、愛で一つにする何かがある。この一体感が得られて初めて、何かを語ることができ、何かを理解することができる。コミュニケーションは愛の中で、愛の中でのみ可能なのだ。

私たちがこの孤独な場所に集まったのは、私があなたに何かを伝え、あなたが聴いてくれるようにするためだ。この伝えることと聴くことは、愛のレベルでしかできない。心の扉は愛だけにしか開かれない。そして、頭ではなく心で聴いてこそ、本当に何かを聴くことができるということを覚えておきなさい。あなたは「心も聴くのですか」と尋ねるかもしれないが、私は聴くことがあるときはいつでも、聴くのは心だけだと言う。これまでのところ、頭は何も聴いたことがない。頭は石のように耳が聞こえない。そして、これは話すことにも当てはまる。言葉は心から出たものだけが意味を持つ。心から発する言葉だけが新鮮な花の香りを持っている。

私はあなたに私の心を注ぐ。あなたの心に私が入ることを許すならば、そこには出会いとコミュニケーションがあるだろう。言葉では表現できないことが伝わるのは、この交わりの瞬間だ。こうして、多くの語られていないことも聴くことができ、言葉にできないこと、行間にあることも伝えることができる。言葉は非常に無力な記号だが、完全な安らぎと静寂の中で聴けば、力強くなる。これを私は「心で聴く」と言う。
―-
オショーも因果の法則を説いていますね。
心で聴く、心で読むというのは、鬼和尚が自分ごととして、意味を確かめながら読むというのと同じでしょうか?
また、頭ではなく、心で読めている場合、それを確かめることはできますか? 例えば私の場合、悟りを得た人の文を読んでいると、心が静かになったり、何か新しいことに気づくことがありますが、他にも目安となり得ることがありましたら、お教えください。

8 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/20(金) 22:53:03 ID:1d4drIFg0
>>6 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>7 そう言えるじゃろう。
 ちゃんと心で読めているならば直ぐにでも実践したくなるじゃろう。
 読み終えて直ぐ瞑想したりするのじゃ。
 それが全てのブッダ達の真の願いであるからのう。
 その願いが届いた証なのじゃ。

9 避難民のマジレスさん :2020/11/21(土) 21:00:57 ID:Dp/qMVVc0
しかし、人の話を聞いていても、私たちは自分の考えで頭がいっぱいだ。そして、それは偽りの聴き方だ。それでは、あなたは真の聴き手ではない。聴いているような錯覚に陥っているのだが、実際には聴いていない。正しい聴き方をするためには、心が完全な、すなわち静かな見守りの状態にあることが必要だ。あなたはただ耳を傾けるだけで、他のことは何もしてはならない。そうして初めて、聴き、理解することができる。そして、その理解は光となり、あなたの中に変容をもたらす。この心の状態がなければ、あなたは誰の話にも耳を傾けず、ただ自分の話を聞いているだけだ。あなたの中で激しさを増している騒動が、あなたを吸収してしまう。そして、あなたが夢中になっているとき、何も伝えることはできない。見ているように見えても見てはいないし、聞いているように見えても聞いてはいない。

キリストはまた、「見る目を持つ者は見なさい。聞く耳を持つ者は聞きなさい。」と言った。キリストが話した人たちは目と耳を持っていなかったのだろうか?もちろん彼らには目と耳があったが、目と耳があるだけでは、見ることも聞くこともできない。何か他のものが必要であり、それがなければ、目と耳の有無は関係ない。その何かとは、内なる沈黙と注意深い意識だ。これらの資質があってこそ、心の扉が開き、何かを言ったり聴いたりすることができる。

私はこのサーダナキャンプの期間中、あなたのこのような聴き方を期待する。一度この技をマスターしたら、それはあなたの生涯の伴侶となる。それだけで、つまらない先入観を取り除くことができる。それはあなたを外の偉大で神秘的な世界に目覚めさせ、意識の永遠の光を体験し始めることができる。それが、心の騒動の背後にあるものなのだ。

正しく見ることと正しく聞くことは、このサーダナ・キャンプに必要なだけでなく、すべての正しい生き方の基礎となる。すべてのものが波紋のない完全に穏やかな湖にはっきりと映し出されるように、真実であるもの、神であるものは、あなたが湖のように静かで静止した状態になれば、あなたの中に反映されるだろう。

私はそのような静けさと穏やかさがあなたのもとにやってくるのを見て、あなたの目が私が言いたいことを言うように招いているのを見る。私が見た真実、私の魂を動かしたことを分かち合うように促している。あなたの心はそれらについて聴きたいと切望している。私の話を聴こうと前向きで準備ができているのを見て、私の心はあなたに自分自身を注ぎ出したいという衝動に駆られている。このような平和な環境の中で、あなたの心が完全に静まっているときに、私は必ずあなたに言いたいことを言うことができるだろう。目の前に耳の聞こえない心を見ると、私は口を慎まなければならないことがよくある。あなたの家のドアが閉まっていても、光は外に残っているのではないだろうか? 同じように、私はしばしば多くの家の外に立っている。しかし、あなたのドアが開いているのは良いサインだ。それは良い始まりだ。
――
自分の心を観る実践が全てのブッダ 達の真の願いなのですね。私も実践を続けます。
今日の文では特に分からないことはありませんでした。これまでの文で、これを読む現代の日本人のために修正したり、あるいは補足したりすることがありましたら、お願いします。

10 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/21(土) 21:52:11 ID:1d4drIFg0
オショーは正しく観ることと正しく聞くことを語っているのじゃ。
それはどんな善い教えもエゴに拠って破壊されてしまった歴史を見ているからなのじゃ。
お釈迦様も生まれによる差別を否定したが、大乗では生まれによる差別を説いているのじゃ。
まるで正反対のことをエゴに拠って正しい教えとしているのじゃ。
そのようなことがないように正しく見て、正しく聞くことが推奨されるのじゃ。

11 避難民のマジレスさん :2020/11/22(日) 20:39:06 ID:Dp/qMVVc0
このサーダナキャンプの5日間のプログラムを明日の朝から始めるが、最初にいくつかのことを話させて欲しい。
自分の修行、真理の実現のためには、花を育てるための土を準備するように、心を準備しなければならない。それゆえに、いくつかの格言を心に留めておいてもらいたい。

最初の格言は、「今を生きる」だ。キャンプ中は、過去や未来について考える習慣に流されてはならない。もしあなたが流されてしまうならば、生の瞬間、本当に大切なものは無駄になり、意味もなく過ぎ去ってしまうだろう。過去も未来も存在しない。過去は記憶の中だけであり、未来は想像の中だけだ。現在だけが現実であり、生きている。そして、もし真実が知られるとしたら、それは現在を通して知られることしかできない。

キャンプ中は、どうか過去からも未来からも距離を置いてもらいたい。それらは存在しないことを受け入れて欲しい。あなたがいる、この瞬間だけが存在する。あなたがいるこの瞬間だけが存在し、他には何もない。あなたはその中で生き、完全に生きなければならない。あなたの過去のすべてが漂流してしまったかのように、今夜はぐっすりと眠りなさい。過去に死になさい。朝には新しい人として起きなさい。なぜならば、それは新しい朝だからだ。眠った者を目覚めさせないように。良い眠りにつくように。永遠に新しく,いつまでも新鮮な者に起きさせなさい。

現在に生きるために、覚えておきなさい - そして、毎日24時間見張っていなさい。過去と未来についての機械的な思考が再び立ち上がらないように。見ているだけで十分だ。見ていれば、再び立ち上がることはない。見ていることと気づいていることがその習慣を断ち切る。
――
今は思考が観察できるようになったので、思考に流されていない時には、それが分かるようになりました。思考と同時に起こっている感覚や感情などが同時に認識できている時には、思考に流されていないことが分かります。私はそれを訓練するために、集中の瞑想の後に、例えば指を一つ一つ折り曲げながら、明日やりたいことなどを考えて、指の折れ曲がる感覚と、思考という行為が同時に認識できるように繰り返していました。今日も試しにやってみたのですが、サイコロを回転させながら裏と表の目の数を足すという思考と、右手で指を折りながら、左腕を左右に動かすという行動を同時に認識しようとしたところ、途中から思考に流されてしまいました。
このように、少しずつ行動を複雑にしながら、流されないように観察する方法は有効なのではないかと思うのですが、全体が観念遊戯になっている可能性があります。とりあえず新しい発見があれば大丈夫かと判断しているのですが、これらに関してアドバイスやコメントなどをいただけますでしょうか?
あともうひとつ、オショーは観察ができていれば思考が再び立ち上がることはないと述べていますが、私の場合、観察中でも縁起により勝手に思考が働くことがあります。観察力が上がれば思考は立ち上がらなくなるのでしょうか?

12 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/22(日) 23:52:24 ID:1d4drIFg0
↑訓練としてはよいじゃろう。
 しかし、それによって自分を観察して理解できるものでなければ長く続けるべきではないのじゃ。
 全ての実践は自分を観るためにあるのであるからのう。
 
 自分を観察できて無我になれば思考も立ち上がらないようにできるのじゃ。
 それまでは観察に拠って思考が起きないようにするのは無理なのじゃ。
 自我の危険を感じれば思考で対処しようとするからのう。
 その反応は意志によってとめられるものではないのじや。

13 避難民のマジレスさん :2020/11/23(月) 08:46:34 ID:Dp/qMVVc0
>>12 ありがとうございます。
確かに自分を観察して理解することを怠り、逃避として行うのであれば無意味なだけでなく有害ですね。

鬼和尚は修行に関して、観察だけすればよいとか、ただ静かに何もせずにいればよいなど、衆生にとって困難なことは説かない印象があります。
自他の区別が無いのにどうやって、衆生を適切に理解し、道標となれるのでしょうか?

14 避難民のマジレスさん :2020/11/23(月) 20:58:53 ID:Dp/qMVVc0
第二の格言は、「自然に生きる」だ。人間の全ての行動は人工的であり、条件付けの結果だ。私たちは常に偽の外套に身を包んでおり、この覆いのために、徐々に本当の存在を忘れている。この偽りの外被を脱ぎ捨てなさい。私たちはドラマを上演するためにここに集まったのではなく、本当の自分自身を知り、見るために集まったのだ。劇中の俳優たちが、演技の後に衣装や化粧を取って脇に置くのと同じように、この5日間では、あなたの偽りの仮面を外して脇に置かなければならない。あなたの中にある根源的で自然なものに出て来させなさい - そして、その中に生きなさい。自分の修行、自分の道は、単純で自然な生を通してのみ開く。このサーダナキャンプの間、あなたは何の地位も、職業も、地位も持っていないことを意識しなさい。これらすべての仮面を捨てなさい。あなたはただのあなたであり、名前も身分も階級も家族もカーストもない普通の人、名も無い、ごく普通の人だ。あなたはこのように生きることを学ばなければならない。なぜならば、本当のところ、それがあなたなのだ。

第三の格言は、「一人で生きる」だ。修行は、完全な孤独の中、全くの一人である時に生まれる。しかし、一般に人は決して一人あることはない。常に他の人たちに囲まれている。外側の周りに群衆がいなければ、その人は内側の群衆の中心にいることになる。この群衆を散り散りにさせなければならない。

内側では、物事が自分に群がってくるのを許してはならない。そして、外にも同じことが言える-このキャンプでは、完全に一人であるかのように、生きなさい。誰か他の人との関係を保ち続ける必要はない。数え切れないほどの人間関係の中で、あなたは自分自身を忘れてしまっている。敵か味方か、父か息子か、妻か夫か、これらすべての関係があなたを飲み込んでしまい、自分の中に自分の存在を見つけることも知ることもできなくなってしまっているのだ。

あなたは今までに、これらの関係から離れて、自分が何であるかを想像しようとしたことがあるだろうか? あなたは今までに、これらの関係の衣装を捨てて、それからかなり離れた自分を見たことがあるだろうか? これらすべての関係から自分自身を取り除き、自分が父親や母親の息子ではなく、妻の夫でもなく、子供の父親でもなく、友人の友人でもなく、敵の敵でもないことを知りなさい - そして残っているものが、あなたの本当の存在だ。あなたの中に残るものが、あなた自身だ。これらの日々の間、あなたはその存在の中で一人で生きなければならない。
―-
自然に生きているのが分かるのは、それが自分にとって楽だったり、生き生きとしたりすることだと思いますが、他に何かありますでしょうか。またもし、仮面の外し方が分からない場合は、どのようにしたら良いのでしょうか?
あと、自分の内側の人間関係から自分自身を取り除く方法もお教えください。

15 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/23(月) 21:53:01 ID:1d4drIFg0
>>13 悟った後にもよく学ぶことで可能になるのじゃ。
 お釈迦様も悟った直後の説法では失敗しているのじゃ。
 人の苦を知り、四諦を説く事で説法もよくなったのじゃ。

>>14 人の居ない所で一週間位生活すると善いのじゃ。
 自然に仮面はなくなるのじゃ。
 仮面とは人との付き合いで必要になるものであるからのう。

 ただひたすらそれを観ることでできるのじゃ。
 無理に取り除こうとしてもできないのじゃ。
 それがどのような原因から起こるのか観ることで消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

16 避難民のマジレスさん :2020/11/24(火) 20:52:24 ID:Dp/qMVVc0
これらの格言に従うことで、あなたは到達することができるだろう。修行を続け平安と真理の実現を得るために絶対に必要な、心の状態に。これらの3つの格言に加えて、明日から始める2つの瞑想についても説明したい。

最初の瞑想は朝のためのものだ。この瞑想では、背筋をピンと伸ばし、目を閉じ、首をまっすぐにしなければならない。唇は閉じ、舌は口蓋に触れる。ゆっくりと、しかし深く呼吸する。へそに注意を集中しなさい。呼吸のためにへそに感じる揺れを意識するのだ。これだけで良い。これで心が落ち着き、思考が静まる。この空(くう)から、あなたはついに内側に入る。

二番目の瞑想は夜のためのものだ。床にあなたの体を広げ、手足を完全にリラックスさせる。目を閉じて、約2分間、体がリラックスしていることを自分自身に暗示しなさい。だんだん体がリラックスしてくる。その後、2分間、呼吸が静かになることを暗示する。すると呼吸は静かになる。最後に、2分間、思考が止まってゆくことを暗示する。この意志を伴った自己暗示は、完全なリラクゼーションと空につながる。心が完全に穏やかになったら、あなたの内なる存在の中で完全に目を覚まし、静けさを観る者となりなさい。この観ることは、あなたを自己へと導いてくれるだろう。

この二つの瞑想は必ず実践しなければならない。しかし、実際のところ、これらは本当に人工的な仕掛けであり、あなたはそれらに固執すべきではない。この二つの瞑想の助けを借りれば、心の落ち着きのなさは消えてゆく。そして、私たちが登った後に梯子を必要としないように、いつの日か私たちもこれらの仕掛けを手放さなければならない。瞑想は、それが不要になった瞬間に完全なものとなる。まさにこの段階がサマーディだ。

今、夜は更け、空は星で満たされている。木々や谷間は眠りについている。私たちも今、眠りにつこう。何と静かで静穏なのだろう。私たちもまた、この平和の中に溶け込もう。深い眠りの中で、夢のない眠りの中で、私たちはまさに神が宿る場所に行く。これは自然が私たちに与えてくれた自発的な無意識のサマーディだ。このサーダナキャンプの助けを借りて、私たちもまた同じ目的地に到達することができる。しかし、その時、私たちは意識し、気づいているだろう。これが違いであり、実際、大きな違いだ。前者では私たちは眠っているが、後者では目覚めている。

私たちは今、サマーディを得ることを願って眠りの床に着こう。願いが決意と正しい努力を伴っているとき、それは必ず叶う。

神の導きがありますように。これが私の唯一の祈りだ。

第1章はここまでです。
オショーも止観を説いていますが、もし何か補足などがありましたら、お願いします。横になって行う観の行は、私も試してみます。
あと、サマーディの言葉に関して、鬼和尚は忘我の意味で使っていますが、オショーはどのような意味で使っているのでしょうか?
もう一点、寝る直前に「自我が観られますように」のように願って眠りの床に着くのは効果的なのでしょうか?

17 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/24(火) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
深い意識との一体化というような意味でサマーディと言っているようじゃ。
意識的な瞑想すらもない段階なのじゃ。

そのような願いも効果はあるじゃろう。
寝る時には潜在意識が優先的に成るからのう。
無意識に達成することができるのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

18 避難民のマジレスさん :2020/11/25(水) 21:03:51 ID:Dp/qMVVc0
第2章 最初の朝 1964年6月4日 午前

あなたに会えて嬉しい。この孤独な場所で、あなたは神を悟り、真実を見つけ、自分自身を知るために集まってきた。しかし、ひとつ質問させてもらってよいだろうか? あなたが求めているのは自分とは別のものだろうか? あなたは離れている人を探すことはできるが、どうやって自分自身を捜し求めることができるのか? 他のすべてのものが捜し求められるという意味では、自分自身を捜し求めることはできない。なぜならばこの場合、捜し求める者と捜し求められる者の間には違いがないからだ。外に世界を求めることはできても、自己を求めることはできない。自己を求めて出て行く者は、自己から遠く離れて行く。この事実を十分に理解することが重要だ。そうすることで初めて、自己の探求が可能になるだろう。もしあなたがこの世の物質的なものを求めるならば、自分自身の外に目を向けなければならないが、もし自分自身を見つけたいと思うならば、あなたは、落ち着いて、平静でなければならない、そして、すべての探求を放棄しなければならない。あなたの本当の姿は、完全な静けさと空虚さの中でしか見ることができない。

探求は興奮でもあり、緊張でもあり、欲求でもあり、情熱でもあることを忘れずにいなさい。しかし、魂は情熱によって実現することはできない。これが難しいところだ。情熱とは、人が何かになりたい、何かを達成したいと願うことを示しているが、魂はすでに人の中に存在している。魂とは、私自身である。情熱と魂は正反対の方向にある。それらは正反対の次元だ。

したがって、魂は実現することができるが、それは欲望の対象にはなりえないことを完全に理解しなさい。魂に対しては、そのような欲望はありえない。すべての欲望は世俗的なものであり、欲望は霊的なものではない。世界を作り上げるのは欲望と情熱だ。この情熱や欲望が、お金のためか宗教のためか、権威のためか神の実現のためか、世俗的な快楽のためか解脱の自由のためか、それは何の違いもない。すべての情熱は無知と束縛だ。

私はあなたに魂への欲望を求めてはいない。欲望の本質を理解して欲しいだけだ。情熱の理解は、その痛みを伴う性格を明らかにするので、情熱から人を解放する。痛みを知ることは、痛みからの自由だ。誰も、痛みを知ったことで、それを望むことはできない。欲望がないとき、心が情熱に邪魔されることも何かを探していることもないとき、その瞬間に、その穏やかで静かな瞬間に、あなたはあなたの本当の、本物の存在を経験する。情熱が消えたとき、魂は自分自身を宣言する。

それゆえに、我が友よ、私はあなたに魂を渇望するのではなく、欲望そのものを理解し、それを取り除くようにと願う。そうすれば、アートマン、魂を知り、悟りを得ることができるだろう。

情熱や欲望と修行について、お教えください。
最近、瞑想は時により、悟りを得たいという欲望があったり、欲望は無くとも意志があったり、あるいは偶然起こったりしています。
オショーによると、悟りへの欲望も厭離することを説いていますが、例えばこの翻訳も欲望によって進められている面があります。
いつ、どのように悟りへの欲望を厭離するのかは、智慧に任せて、とにかく自分の観察に励めば良いのでしょうか?

19 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/25(水) 21:55:47 ID:1d4drIFg0
その欲望以外に全てがなくなった時には捨てるが善いのじゃ。
もはや他の全ての観念を捨て去ってから捨てるのじゃ。
その時にはその欲望に自分を投射しているであろうからのう。
それが捨てられた時に自分もなくなるのじゃ。

20 避難民のマジレスさん :2020/11/26(木) 20:59:18 ID:Dp/qMVVc0
宗教とは何か? 宗教、ダルマは思考や考えることとは何の関係もない。それは無思考と関係がある。考えることは哲学だ。それはあなたに結果や結論を与えるが、あなたに充足感をもたらしはしない。ダルマとは充足だ。論理のプロセスは思考への入り口であり、サマーディは充足への入り口だ。

サマーディはシューニャとチャイターニャ、空虚と意識の結果だ。心は空っぽだが注意深いものでなければならず、その静けさの状態で、真理への扉が開く。真実は空からのみ実現され、その後、生全体が変容する。

私たちは瞑想を通してサマーディの段階に到達するが、一般的に瞑想として理解されているものは、真の瞑想ではない。それもまた思考だ。思考は魂や神に関係しているかもしれないが、それらはまだ思考だ。思考が何に関係しているかに違いはない。現実には、すべての思考は別のもの、外部に関わる。それらは自己ではないもの、物質的なものに関係する。自己についての思考はありえない、なぜならば思考が存在するためには二つが必要だからだ。したがって、思考は二元性を超えたところには連れて行ってはくれない。もしこの統一を実現し、自己の中に生き、それを知るためには、思考ではなく、瞑想がその道だ。

思考と瞑想は正反対の方向にある。 前者は外に向かって動き、後者は内に向かって動く。思考は他を知る方法であり、瞑想は自己を知る方法である。しかし、思考は一般的に瞑想と見なされている。これは非常に深刻で広範囲に広がっている間違いであり、私はこの根本的な間違いに対して警告したい。瞑想とは、行動のない状態になることを意味する。瞑想は行動ではなく、存在の状態だ。それは、自分自身の中で安定していることだ。

行動の中では、私たちは外の世界と接触し、不行動の中では、自分自身と接触する。何もしていないときは、自分が何者であるかに気づくことができるが、私たちは常にさまざまな活動に関わっていて、自分自身のことを知らない。私たちは、自分が存在していることさえ覚えていない。私たちは深く夢中になっている。少なくとも身体は休んでいるが、心は全く休んでいない。起きているときは考え、眠っているときは夢を見る。このような絶え間無い関心事や活動に没頭していると、私たちは自分自身を忘れてしまう。自分の用事で頭がいっぱいになり、自分自身を見失ってしまう。何と奇妙なことだろう! しかし、これは事実なのだ。人ごみの中ではなく、自分の考えや夢の中で、自分の用事や活動に夢中になって、自分を見失ってしまっているのだ。私たちは自分の中で自分自身を見失ってしまった。瞑想は、この自作の群衆から、この精神的な迷いから、自分自身を解放するための道だ。

いつも回答をくださり、ありがとうございます。今回は特に意味がわからないことはありませんでした。
気づいた時にはできるだけ自分の観察に励みます。

21 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/26(木) 21:49:31 ID:1d4drIFg0
オショーは一般的に言われている瞑想は瞑想ではないというのじゃ。
それはまだ思考の過程であり、注意が外に向いているからなのじゃ。
外とは心以外の対象なのじゃ。
呼吸とか眉間とか心臓もまた心の働きではない故に外のものといえるのじゃ。
それらの外の対象から離れて自分という観念を生み出す心の中を観ることが瞑想だというのじゃ。

22 避難民のマジレスさん :2020/11/27(金) 20:56:46 ID:Dp/qMVVc0
その性質上、瞑想はいかなる行動も含むことができない。それは無行動だ。無行動とは空な心を表す用語だ。これが私が教えていることだ。私が無行動を教えていると言うのは奇妙に見えるかもしれないし、私たちが無行動を実践するためにここに集まったと言うのも奇妙に見えるかもしれないが、人間の言語は非常に貧弱で、非常に限定的なものだ。行動のみを表現するように設計されていて、決して魂を表現することはできない。発話のために作られたものが、どうやって沈黙を表現できるのか? 世界の「瞑想」は、それがある種の行動であることを示唆しているが、それは決していかなる種類の行動でもない。私が瞑想を「実践していた」と言うのは間違っているだろう。瞑想の「中にいた」と言うのが正しいだろう。それはまさに愛と同じだ。私は愛の中にいるが、愛は作り出され得ない。それゆえに、私は瞑想は心の状態だと言う。最初にこのことをはっきりさせることが何よりも重要だ。

私たちは何かをするためにここに集まったのではなく、ある状態を経験するために集まった。すなわち、そこでは私たちはただ存在し、行動も起こらず、行動を暗示する煙さえもなく、存在の燃える炎だけが残り、自己だけが残り、「私」という思考さえももはや残らず、単に「存在」が残っている。これがシュンニャ、空だ。これは、私たちが世界ではなく、真実を見るポイントだ。この空虚さの中で、この空の中で、自己を知ることからあなたを保つ壁が倒れることで、思考のカーテンが上がり、知恵が明ける。この時点では、あなたは考えていない、あなたは知っている。そしてそこには、洞察があり、実現がある。

しかしここでは、主体と客体に違いはなく、知る者と知られるものの違いもないので、 「洞察」と 「実現 」という言葉は全く適切ではない。ここでは、知られるものも知る者もなく、単に知ることがある。この文脈ではどんな言葉も適切ではない。「無語」が唯一適切な言葉だ。もし誰かがこの状態について私に尋ねたら、私は黙ったままである。あるいは、沈黙の中で答えを伝えていると言ってもいいかもしれない。

瞑想は無行動だ。行動とは、自分の思い通りにするかしないかのことだ。しかし、人の本質と行動には違いがある。人の本質は行動ではなく、行うことでも、行わないことでもない。例えば、わかることと観ることは、私たちの本質の一部であり、存在の一部だ。私たちが何もしなくても、それらはそこに存在している。本質は常に私たちの中に存在しており、不変で絶え間ないものだけが本質と呼ぶことができる。本質は私たちが作ったものではなく、私たちの基盤だ。それは私たち自身なのだ。それは私たちが作るのではなく、内在的なまとまりだ。私たちはそれをダルマと呼ぶ。ダルマとは私たちの本質を意味し、純粋な存在を意味する。

瞑想で心の中を観ていると、状況によって、思考が内側にあると感じられたり、外側にあると感じられたり、内側でも外側でもなく、ただあると感じられたりします。内とか外というのも観念だということでしょうか。具体的にどのようなイメージなのか観察力が増せば、わかりますか?
今日の文章の最後の段落で、「それは私たちが作るのではなく、内在的なまとまり(intrinsic cohesion)だ。」とあるのですが、「まとまり(cohesion)」が、訳していて違和感を感じました。元の言葉にこだわらず、もし良い表現がありましたら、お教えください。また、もしそのままで大丈夫でしたら、少し解説をいただければと思います。

23 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/27(金) 21:58:11 ID:1d4drIFg0
機能とか力じゃな。
エネルギーでもよいのじゃ。
働きでも善いのじゃ。
ダルマとはそのようなイメージであるからのう。
それは本質であり、機能であり、力としても働き、エネルギーそのものでもあるのじゃ。
働きがある故にダルマと名づけられるが本来は空であり、無でもあるものじゃ。
そのように理解すると善いのじゃ。

24 避難民のマジレスさん :2020/11/28(土) 21:15:35 ID:Dp/qMVVc0
このような不変で絶え間のない本質は、私たちの行動の方向性が散漫になることによって抑制されている。海が波に覆われ、太陽が雲に覆われているように、私たちは自分の行動によって覆われている。表面上の活動の層は、心の奥底にあるものを隠している。取るに足らない波が、私たちの視界から海の計り知れない深さを隠している。些細なことで壮大なものが抑圧され、目の中の一点が山を見えなくするのは、なんと奇妙なことだろう! しかし、海は波のために存在しなくなることはない。それは波の魂であり、波の中にも存在している。知っている人は波の中にでさえ海を認識しているが、知らない人は波が鎮まるまで待たなければならない。彼らは波が去った後にしか海を見ることができない。

私たちはこの海に、本質そのものに飛び込まなければならない。波のことを忘れて、海に飛び込まなければならない。波のない海、なることなく存在している自分自身、の深さを知らなければならない。

この波がなく、動かない意識の万象は常に存在しているが、私たちはそれに気付いていない。その存在から顔を背けている - 私たちは外を見て、物事を見て、世界を見ている。しかし、一つのことを心に留めておいて欲しい - 私たちは見ていて、見られているものは世界のものだ。しかし、見る者は世界ではなく、自己である。

もし視覚が見ている対象に関連しているならば、それは思考であり、もし視覚が見ている対象から解放されて、見ている者自身の方を向いているならば、それは瞑想である。あなたは思考と瞑想の間の私の区別に従うだろうか? 見ることは思考と瞑想の両方に存在するが、前者では客観的であり、後者では主観的だ。しかし、私たちが思考の中にいようが瞑想の中にいようが、行動の中にいようが無行動の中にいようが、見ることは一定の要素だ。起きているときは世界を見、眠っているときは夢を見、サマーディでは自分自身を見るが、これらの条件のそれぞれに「見ること」がある。見ることは一定で絶え間ないものだ。それが私たちの本質だ。それはどのような状態であっても、決して欠けることはない。

ダルマについて、ありがとうございました。実践でしか確かめようがないですが、無であり、全てであるという感じがしました。
文章に関して、今日は特に疑問は湧きませんでした。心を鎮めて、深くを観る実践を続けます。

25 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/28(土) 22:39:15 ID:1d4drIFg0
海の波がわきたつように人の心も欲とか不安とか恐れで波立っているのじゃ。
その波に囚われていると本質が見えないのじゃ。
波がどんなに荒くとも海の底は静かなものじゃ。
そのように真の静寂な本質の意識に眼を向けることが瞑想だというのじゃ。

26 避難民のマジレスさん :2020/11/29(日) 20:22:04 ID:Dp/qMVVc0
たとえ気絶していても「見る」ということは存在する。気絶から覚めた後、「私は何もわからない。どこにいたのかわからない。」と言う。これは無知だと思わないでほしい。これも知識だ。もし、「見る」ということが全くなかったら、「何も知らない」という知識はありえないし、その場合、あなたにとって、気絶中に流れた時間は存在しなかっただろう。それはあなたの経験の一部ではなく、記憶には何の痕跡も残されていないだろう。しかし、あなたは何も意識していない状態にあったことを知っている。これもまた知識だ。そして、見ることもまたここに存在している。記憶はこの時間の間、内部的、外部的な現象を記録していないが、私たちの見ることは間違いなく、この隔たり、この間隔を経験している。そして、出来事の記録の隔たり、間隔の経験は、後で同様に記憶に残っている。同じように、夢がない場合でも、睡眠中には見ることは常に存在している。私たちは朝、目が覚めた時に、夢も見なかったほど熟睡していたと言えるだろう。この状態もまた、観察されているのだ。

これらすべてのことから、状況が変化し、意識の内容が変化しても、見ることは変化しないことをあなたは理解しなければならない。私たちの経験の領域のすべてが変化し、すべてのものは無常である。見ること、見ることだけが常に存在している。見る者だけが、このすべての変化の証人であり、このすべての流れの証人だ。この不変の永遠の見者を知ることが、自分自身を知ることなのだ。他のすべてはよそ者であり、他のものだ。他のすべては輪廻、世界だ。

この見ること、証人は、どのような行動によっても、どのような種類の礼拝や崇拝によっても、マントラやテクニックによっても、達成したり実現したりすることはできない。なぜならば、それはこれらすべてのものの目撃者だからだ。それはこれらすべてのものとは異なっていて、離れている。見られるもの、行うことができるものは何でも、見者とは別のものであり、それとは異なる。それは行動によってではなく無行動によって、努力ではなく静寂によって実現される。活動がないとき、見るべき対象がないとき、見る者や目撃者だけが残っているとき、見ることだけが残っているときにのみ実現される。が見ていても何も見られていない時、知っていても何も知られていない時、この中身のない意識では、すべてを知る者が知られる。見るべき対象がないときは、見る者の前のカーテンは落ち、知るべき対象がないときは、知識はそれ自体を認識するようになる。波がなければ海を見ることができ、雲がなければ青空を見ることができる。

この海、この空は誰の中にもあり、この空、この空間を知りたいと思えば知ることができる。そこに通じる道があり、それは誰の中にも存在し、誰もが利用できるようになっている。そして、それぞれがこの道の歩き方を知っている。しかし、私たちは一方向への歩き方しか知らない。道は一方向にしか通れないということはありえないということを考えたことがあるだろうか? それぞれの道は必然的に二つの方向、二つの反対方向に進む。そうでなければ、それは道ではない。あなたをこの丘の人里離れた場所に連れてきた道は、あなたを連れて帰る道と同じだ。来るための道と行くための道は一つしかない。同じ道は両方の目的を果たす。道は同じだが、方向は同じではない。

輪廻へと続く道、世界へと続く道は、自己へと続く道と同じだ。方向だけが違う。長い間あなたの前にあったものは、今あなたの後ろにあり、あなたは後ろにあったものに目を向けなければならないだろう。道は同じだ。私たちは単純に回れ右しなければならない。私たちは、これまで顔を向けていたものに背を向け、背中にあったものに向き合わなければならない。

どんな状況でも永遠の「見ること」は存在し、それを知ることが自分自身を知ることだとオショーは述べています。私の実践ですと、記憶が止まる瞬間までのことしか分からず、記憶が止まってからは空白があるのか無いのかすらも何も分からない状況です。
これは認識を厭離して、真の悟りを得ない限りは分からないものなのでしょうか。

27 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/29(日) 23:07:52 ID:1d4drIFg0
まだ悟りを得ていない者は大抵、記憶が意識であると誤認しているのじゃ。
記憶が無い状態は意識が無い状態だと思うのじゃ。
記憶したものが認識されたものとしているからなのじゃ。
実際は記憶が無くとも意識はあるものじゃ。
オショーも気絶していても見ることは存在するというのじゃ。
深いサマーディに入ってもそれは感得できるのじゃ。

28 避難民のマジレスさん :2020/11/30(月) 20:52:43 ID:Dp/qMVVc0
今、あなたの顔がどこに向いているのか、自分に問いかけてみてほしい。あなたは何を見ているのだろうか? 視線、意識は、どの方向に向いて流れているのだろうか? 感じなさい。観察しなさい。あなたはそれが外に向かって流れていることに気づくだろう。あなたの思考はすべて、外の世界についてのものだ。あなたはいつも外の世界について、外のことを考えている。目が開いているときは外を見ているが、目を閉じているときも同じように外を見ている - なぜなら、目を閉じていても、心に刷り込まれた外のものの形やイメージが浮かび上がり、私たちを取り囲んでいるからだ。外には物の世界があり、私たちの内側には、外の物の反響である思考のもう一つの世界がある。このもう一つの世界は内側だが、また、外側でもある。なぜならば、自我である「私」もまた外側だからだ。見者もまた、自我である「私」を見ているので、自我もまた外側にある。

私たちは物と思考に囲まれている。しかし深く考えてみると、物に囲まれていることは自己実現の道を妨げるものではないが、思考に囲まれていることは障害であることがわかるだろう。物は魂を包み込むことができるのだろうか? 物は物を取り囲むことしかできない。魂は思考に囲まれている。視覚の流れ、意識の流れは思考に向かって流れている。思考、思考だけがどこでも私たちの目の前にあり、私たちの視界はそれによって遮られている。

思考から無思考へと顔を向けなければならない。しかし、この方向転換は革命的だ! どうすればよいのか? まず、思考がどのようにして生まれてくるのかを知り、それによって初めて思考の発生を止めることができる。一般的に、いわゆる求道者は、思考がどのようにして生まれてくるかを理解する前に、思考を抑制し始める。ある者は狂ったように努力するかもしれないが、誰一人として思考から自由になることはない。思考を抑圧しても、新しい思考が刻々と現れるので、思考の抑圧は助けにはならない。彼らは神話の巨人のようなもので、一つの頭が切り落とされると、さらに十個の頭が生えてくるのだ。

私はあなたに思考を破壊してくれとは頼まない。思考は瞬く間に勝手に死んでしまうからだ。思考は非常に短命で、どんな思考も長くは続かない。特定の思考は長続きしないが、思考過程は長続きする。思考は次々と死んでいくが、思考の流れは持続する。一つの思考が死ぬとすぐに別の思考が代わりに現れる。この過程は非常に早く行われ、これが問題なのだ。本当の問題は、思考の死ではなく、その素早い再生だ。それゆえに、私はあなたに思考を殺せとは頼まない。思考の誕生の過程を理解し、どうすればこの過程から自分自身を取り除くことができるのかを理解して欲しいのだ。思考が生まれる過程を理解している者は、簡単に思考から解放される。しかし、その過程を理解していない者は、新たな思考を生み出し、同時にそれに抵抗しようとする。その結果、思考が終わるどころか、思考と闘う者自身が壊れてしまうのだ。

意識の流れの観察についてお教えください。私の場合、「意識の流れ」自体を観察することはできませんでした。ただ、例えば思考を観察するときに、なんとなく観察すると、それが内側にあるように感じられ、心を鎮めて観察すると、それが外側にあったり、内も外もなく、ただ思考があるように感じられます。このように、内側、外側、ただ存在する、というのは分かるのですが、「意識が流れている」のは感じられません。
このような状況で観察はできているのでしょうか。

29 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/11/30(月) 21:38:21 ID:1d4drIFg0
意識の流れを観察しようとしなくてよいのじゃ。
心の働きをありのままに観ることが大事なのじゃ。
それだけが法なのじゃ。
それができれば悟ったものが何を語っていたのかわかるのじゃ。

30 避難民のマジレスさん :2020/12/01(火) 20:49:15 ID:Dp/qMVVc0
もう一度繰り返す。思考は問題ではなく、思考の誕生が問題なのだ。思考がどのように生まれてくるかが問題なのだ。もし私たちが思考の誕生を止めることができれば、もし思考の誕生をコントロールすることができれば、すでに誕生した思考は一瞬で消える。思考は刻一刻と消えていくが、新しい思考が絶え間なく湧いてくるので、思考の全滅は起こらない。

私が言うのは、思考を破壊するのではなく、思考が生まれるのを止めなければならないということだ。思考の誕生を止めることは、思考の破壊と同じくらい良いことだ。私たちは皆、心は気まぐれだと知っている。しかし、これは何を意味するのだろうか? それは、どんな思考も長くは続かないことを意味する。思考は生まれては消えていくのだ。もし私たちがその誕生を止めることさえできれば、私たちはそれを殺すことに伴う暴力から救われ、それは自発的に死んでいくのだ。

思考はどのようにして生まれるのか?思考の受胎と誕生は、外の世界に対する私たちの反応の結果だ。外には出来事や物の世界があり、この世界に対する私たちの反応が思考の誕生を単独で担っている。私は花を見る。見ることは考えることではなく、ただ見ているだけでは何の思考も生まれない。しかし、見た時に「とてもきれいな花だ」と言えば、思考が生まれる。一方で、もし花を見続けていれば、その美しさを体験し、楽しむことはできるが、思考は生まれない。しかし、私たちは経験をするとすぐにそれを言葉で表現し始める。この経験を言葉という記号で表現することで、思考が生まれてくるのだ。

この反応、経験を言葉で表現する習慣は、経験、実現、視覚を、思考で窒息させる。経験は抑圧され、視覚は抑圧され、心の中には言葉だけが浮かんでいる。これらの言葉はまさに私たちの思考だ。これらの思考は非常に短命なので、一つの思考が死ぬ前に、私たちは別の経験を思考に変換する。この過程は、私たちの生涯を通じて続く。そして、私たちは言葉で満たされ、言葉に圧倒されて、言葉の中で自分自身を見失ってしまうのだ。自分の視覚や経験を言葉で包む習慣を手放すことは、思考の誕生をコントロールすることなのだ。そのことをどうか理解してほしい。

覚者が述べているのは、ただ心の働きをありのままに観ることだけで、それができない衆生のために、様々な技を教え、勇気づけているのですね。
再び自分の中で言葉の意味を分析して正確に理解しようとする習慣が現れたのに気づきました。
また、オショーが言葉で包む習慣を手放すように説いているのに、私自身が自分の経験を言葉で分析しようとしていました。
意味を頭ではなく、心で確かめながら読むことの難しさを実感しています。
日々、心の働きをありのままに観る実践に励みます。

31 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/01(火) 21:29:29 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに己の心を観ることが大事なのじゃ。
どのような教えも言葉にして記憶されると、囚われてしまうこともあるのじゃ。
言葉に囚われないようにと、教えられればその言葉に囚われてしまうことすらあるのじゃ。
ただひたすらに真摯に己の心の働きを観るのじゃ。

32 避難民のマジレスさん :2020/12/02(水) 20:45:19 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたを見ているが、もし言葉で表現せずにこのまま見続けていたら、何が起こるだろうか? 今のあなたには何が起こるか想像もつかないだろう。 今までに見たこともないような大革命が起こるだろう。言葉が邪魔をして、その革命を止めてしまう。思考の誕生が革命の妨げになる。もし私があなたを見続け、それを言葉で表現せず、ただ見続けるならば、私はその過程で、素晴らしく神聖な恵みが私の上に降りてきて、空虚さの質、空の質が周囲に広がっていることに気づくだろう。そして、この空の中で、言葉がない中で、意識の方向が新たに変わり、あなたを見ないだけではなく、私たちを見守っている者が徐々に現れてくる。まるで夢から覚めたかのように、意識の地平線上に新たな覚醒があり、私たちの心は純粋な光と無限の平安に満たされる。

最終的には、このサーダナキャンプでは、ある一つの実験をしなければならないと言いたい。それは、私たちの視覚が言葉によって窒息しないようにすることだ。私はこれを正しいマインドフルネスの実験と呼ぶ。言葉が形成されないように注意しなければならない。言葉の展開を止めることはできる、なぜならば結局のところそれは、私たちの習慣にすぎないからだ。生まれたばかりの子供は、言葉の仲介なしで世界を見る。これは純粋な、直接の視覚だ。後にその子は徐々に言葉を使う習慣を形成する。なぜならば、言葉は外の生活や外の世界で役に立つからだ。しかし、外面の生で役立つものは、内面の生を知る上で障害となる。このような理由から、年長者であっても、自分自身を知るためには、子供の純粋な視覚の能力を自分の中に呼び覚まさなければならない。彼らは言葉の助けを借りて世界を知ったが、今は空虚、空の助けを借りて自分自身を知るようにならなければならない。

この実験では何をするのだろうか? 私たちは、体をリラックスして背骨を立てたまま、静かに座る。体のすべての動きが停止していく。ゆっくりと深く、あらゆる動揺なく呼吸する。静かに自分の呼吸を観察し、外から耳に落ちる音に耳を傾けてゆく。どんなことがあっても反応せず、1秒の思考すらも与えない。言葉の干渉を受けずに、ただの見者となるような心の状態に入ってゆく。離れたところに立って、何が起きているかを観察する。全く集中しようとしないでもらいたい。単に静かにして、何が起こっているかを観なさい。聴きなさい。ただ目を閉じて聴きなさい。静寂の中で静かに耳を傾ける。スズメのさえずりに耳を傾け、風に揺れる木々に耳を傾け、子供の鳴き声に耳を傾け、井戸の水車の音に耳を傾ける。ただ聴く。そして何もしない。

まず、自分自身の中で、あなたは呼吸の動きと心臓の鼓動を経験するだろう - その後、新しい種類の静けさと平和が降りてくる。外には雑音があるが、内には静けさがあることに気づくだろう。あなたは、平和の新しい次元に入ったことに気づく。それから、思考がなく、純粋な意識だけが残っていることに気づくだろう。そして、この虚空の中で、注意はあなたの本当の住まいである場所に向けられる。外から見ると、あなたは自分の家の方を向いている。

一点に集中することを修練していくと、私の場合、そのうちに、努力しなくとも全体として集中するようになりましたが、人体というのは、そのようなものなのでしょうか?

33 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/02(水) 21:18:29 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
 日々集中していけば自分が全て集中の対象と一体化したように感じるのじゃ。
 それがサマーディの入り口なのじゃ。
 外の刺激には反応しなくなるのじゃ。
 それが静寂なのじゃ。

34 避難民のマジレスさん :2020/12/03(木) 20:56:39 ID:Dp/qMVVc0
あなたの視覚が内向きに導いている。ただ観続けなさい。思考、呼吸、おへその動きを観なさい。反応しないこと。その結果、心の創造物ではない、あなたの創造物では全くないものが現れる。これは実際にはあなたであるものであり、存在だ。これは、私たちすべてを支えている働きだ。それは私たちに自分自身を明らかにし、そして、そのとき、自分自身、つまり、すべての中で最大の驚きが現れるのだ。

ある物語を思い出した。 ある時、サドゥー、求道者が丘の上に立っていた。朝は早く、太陽は輝き始めていた。何人かの友人同士が散歩に出かけていた。彼らは、たった一人で立っているサドゥーを見た。そして、お互いに尋ね合った。「このサドゥーはここで何をしているのだろう?」 そのうちの一人は、「たぶん牛がジャングルでよく迷子になるので、丘の上に立って探しているんだろう。」と言った。他の友人は同意しなかった。もう一人は、「立っている様子からすると、何かを探しているようには見えない。むしろ誰かを待っているように見える、たぶん同行した友人がどこかに取り残されてしまったのかもしれない。」しかし、他の人たちはこれにも同意しなかった。三人目は、「誰かを探しているわけでも、誰かを待っているわけでもない。神の観想に没頭しているんだ。」と言った。

皆が同意できなかったので、状況を明らかにするためにサドゥー自身に近づいた。最初の人は、「失われた牛を探しているのですか?」と尋ねた。サドゥーは、「違います。」と答えた。次の人は「それでは、誰かを待っているのですか?」と聞き、サドゥーは「いいえ。」と答えた。三人目は「神を観想しているのですか?」と聞くと、サドゥーはまたしても否定的な答えをした。三人とも驚いた。全員で「では、ここで何をしているのですか?」と聞くと、サドゥーは言った。「私は何もしていません。ただ立っているだけです。ただ存在しているだけです。」

私たちは、このように単純に存在しなければならない。何もしないでいなければならない。すべてを捨てて、ただ存在しなければならない。そうすると、言葉にできない何かが起こる。起こるであろう経験は、言葉では表現できない。それは経験の体現だ。それは真実の実現であり、自己の実現であり、神の実現なのだ。

第2章はここまでです。悟りを得るのに最大の障害は自我だと思うのですが、自我に対する執着が弱まると、例えばどのようなことが起こるでしょうか?
私の場合ですと、以前に比べてこだわりが無くなり、感情の働きが薄くなり、何もなくとも楽な感じが増えたように思います。また、様々なことに対して、意味を感じられにくくなっているようにも思います。

35 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/03(木) 21:47:01 ID:1d4drIFg0
自我に対する囚われがすくなくなれば、怒りは少なくなるじゃろう。
欲も少なくなるじゃろう。
何もしないこともできるじゃろう。
ただ存在していることもできるじゃろう。

36 避難民のマジレスさん :2020/12/04(金) 20:20:36 ID:Dp/qMVVc0
第3章 初日の夜 1964年6月4日午後
質問1
最初の質問:宗教と科学の間に矛盾はありますか?
ない。 科学の知識は不完全だ。 それは、世界中に光がある一方で、あなた自身の家に暗闇があるようなものだ。そのような不完全な知識では、自己の知識なしでは、生は単に不幸になる。生が平和、満足、充足感を得て輝くには、物質的なものを知るだけでは十分ではない。そのような道では、人は繁栄を得るかもしれないが、満たされはしない。そのような道では、所有物を得るかもしれないが、光は持てない。そして、光がなければ、知識がなければ、所有物は束縛となり、自分で作った縄で自分の首を吊ることになる。

世界だけを知る者は不完全であり、不完全さは不幸につながる。世界を知ることによって、人は力を得る。そして、科学は知識と力の探求だ。科学はすでに人類の手に無限の力への秘密の鍵を握らせているのではないだろうか? しかし、そのような力を得ても何の価値も生まれてこない。間違いなく人間は力を持っているが、平和は持っていない。平和は、物質的なものではなく、神を知ることによって得られる。この神を探すことが宗教だ。

平和のない力は自滅的なものだ。自己を知らずに物質的なものを知ることは、無知な者の手に力があることを意味する。そこからは良いことは何も生まれてこない。科学と宗教の間に蔓延している対立は、これまでのところ悲惨な結果をもたらしている。科学の領域だけを研究してきた者は、力を持つようになったが、彼らは落ち着きがなく、不幸だ。そして、宗教だけを研究してきた者は、間違いなく平和を手に入れたが、彼らは弱くて貧しい。このようにサーダナ、これまで行われてきた探求は不完全で、部分的なものだ。これまでのところ、真理のための不足なく完全なサーダナはなかった。

私は、その完璧さの中にある力と平和を見たい。私は、宗教と科学の統合、調和が欲しい。そうすることで、完璧な個人、完璧な文化、内なる価値と外なる成果に富む人々が生まれるのだ。個人は肉体でも魂でもなく、この二つの組み合わせだ。したがって、これらのうちのどれか一つだけに基づいたものは不完全なものだ。

これは、科学を信じる人への対機説法ということでしょうか?

37 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/04(金) 21:40:29 ID:1d4drIFg0
↑そうではないのじゃ。
科学が本当に観察とその結果だけを尊重したならば、悟りに導く真の宗教と全く合致したものとなるのじゃ。
神とか幻想を信じる宗教とは矛盾するがのう。
科学が正しく発展されたならば、悟りの境地も証明され、悟りへの道もあかされるのじゃ。
間違えば破滅への道となるのじゃ。

38 避難民のマジレスさん :2020/12/05(土) 21:17:35 ID:Dp/qMVVc0
質問2
第2の質問:世界における生の放棄について、あなたの考えはどうですか?サニヤスは、求道者になることは、世界を放棄しければできないのでしょうか?

世界とサニヤスの間には競合はない。放棄しなければならないのは世界ではなく、無知だ。世界を放棄することはサニヤスではない。知識、自己認識の知識の覚醒が、サニヤスだ。この覚醒は、世界ではなく、世界への執着の放棄につながる。世界はあるがままの場所に留まるが、私たちは変容していく。私たちの視座が変容する。この変容は非常に基本的なものだ。この覚醒した状態では、何も手放す必要はない。無用なものや余計なものは、木から熟した果実のように自動的に落ちていく。 闇が光の到来で消えるように、知識の夜明けには不純物が去り、その後に残るのがサニヤスだ。

サニヤスは世界とは何の関係もない。それは自己と関係がある。それは自己の浄化だ。それはまさに合金化した金の浄化のようなものだ。

自己無知の立場から生を見ることは、輪廻、世俗であり、自己認識の立場から生を見ることは、サニヤスだ。それゆえに、誰かが私にサニヤスを「取った」と言う時はいつでも、私には偽りのように思える。サニヤスを「取った」というのは、世界と敵対する行為のような印象を与える。サニヤスは取ることのできるものなのだろうか? 知識を「取った」と言えるのだろうか? そして、そのように取られた知識は、本物の価値があるのだろうか? 取られたサニヤスは本当のサニヤスではない。真実の仮面を被ることはできない。真実は目覚めなければならない。

サニヤスは生まれる。それは知識によってもたらされる。そして、その知識の中で私たちは変容していく。知識が変容すると、私たちの視座が変わり、行動は自動的に変容する。世界はその場に留まり、徐々に私たちの中にサニヤスが生まれてくるのだ。サニヤスとは、「私は肉体ではない」という知識であり、「私は魂である」という知識だ。この知識が芽生えると、無知や執着が離れていく。世界は外にあったし、これからもそこにあり続けるだろう。しかし、内側にはそれに対する執着がなくなる。言い換えれば、内側には世界も輪廻もないということだ。

外の世界に執着しようとするのは無知であり、それを放棄しようとするのも無知だ。世界に執着することも、世界への嫌悪感も、どちらも無知だ。どちらも世界との関係なのだ。この関係がないことが自由、執着と嫌悪からの自由だ。忌避や嫌悪だけではない。この愛着と嫌悪の不在を私はサニヤスと呼ぶ。

科学に関して、ありがとうございました。質問に自我が出ていました。科学者も慈悲を持ち、自分の心を外の世界と同様に観察するということでしょうか。
今日の文で、オショーは知識について述べています。この知識は一般的な、記憶できて伝達できる知識とは別のものだと思うのですが、鬼和尚の言う観察によって得られる「気づき」と同じようなものと捉えて良いのでしょうか?

39 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/05(土) 21:53:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、科学の観察は自分を見る観察と同じなのじゃ。
観察を自分の心の中に向ければ悟りもやってくるのじゃ。

気づきと言えるのじゃ。
ただの記憶では人は変らないのじゃ。
自分の性質に気付くことで変容していくのじゃ。
実践で確かめるのじゃ。

40 避難民のマジレスさん :2020/12/06(日) 20:50:09 ID:Dp/qMVVc0
愛着と嫌悪の両方からの自由は、知によって達成される。執着は一種の無知であり、執着にうんざりした時の反応は嫌悪だ。この反応もまた無知だ。最初のケースでは、人は世界に向かって走り、2番目のケースでは世界から逃げる。どちらの場合も人は走る。しかし、私たちの内に秘められている人の喜びが、世界を追いかけたり、世界から逃げたりすることによってではなく、自分自身にしっかりと留まることによって達成されることを、皆はほとんど知らない。世界に向かって走ってはならないし、世界から逃げてもならない。私たちは、本当の自分自身に、入っていかなければならないのだ。

覚えておきなさい。私たちは自分自身の中に入っていかなければならない。この自己の中に入ることは、愛着や嫌悪によっては不可能だ。愛着と嫌悪の間に内在する対立の見者になることによってのみ可能なのだ。私たちの中には、愛着と嫌悪の両方を観るものがいる。私たちはそれを知らなければならない。知ることで、私たちは自動的に愛着と嫌悪の両方からの自由を得ることができる。知ることは、自己認識の自然な結果なのだ。

質問3
第三の質問:家庭や家族の放棄は無意味だと思いますか?
マハヴィーラの格言を覚えている。彼は言った、「愛着とは所持である」と。 彼は「所持とは愛着である」とは言わなかった。 なぜか? 無知のため、愚かさのために、私たちは世俗的なものに執着している。内面が空っぽなので、自分を大切な存在だと錯覚させるために、外のもので自分を満たしたいのだ。このような状況下で執着を放棄し、無知が残っている場合、本当に執着を取り除くことができるだろうか? 人は物事からは解放されるだろうが、執着心からは解放されない。執着はまだそこにあるだろう。

もし僧院のために自分の家を離れた場合、僧院への執着が自分の家への執着の代わりになるだろう。宗派に入るために家族のもとを離れた場合、家族と同じように宗派に執着することになる。愛着は内面にあり、それはどんな新しい状況下でも表現される。したがって、知る人たちは、物質的なものではなく、欲望と無知の放棄を勧めている。一旦知が明けると、役に立たないものは放棄する必要さえなく、自動的に離れ落ちるのだ。

他者から伝えられるのではなく、自分で気づくことに近づけるため、訳語の「知識」を「知」に変えました。
好きな物事を放棄するのではなく、その物事に対する執着を放棄するというのは納得です。私の場合も物事そのものを放棄するよりも、物事への執着を放棄することを決めて、その物事を楽しんでいる時に自分自身を観察することで、そのいくつかを厭離することができています。

41 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/06(日) 21:59:14 ID:1d4drIFg0
執着が心に残っているならば家族を捨てても無駄なのじゃ。
執着が無いならばあえて捨てることも無いのじゃ。
ありのままにそれを観ることができたならば自動的に滅するのじゃ。
何か変ったことをしようとするのではなく、ただひたすらにありのままに心を観ればよいのじゃ。

42 避難民のマジレスさん :2020/12/07(月) 21:12:14 ID:Dp/qMVVc0
質問4
第四の質問:無思考になるために私たちは心を集中させるべきでしょうか?
私はあなたに集中しなさいとは言わない。集中は一種の強制であり、一種の緊張だ。何かのアイデア、何かの形やイメージ、または何かの言葉に集中した場合、それは無思考にも意識の覚醒にもつながらず、無意識の精神的な昏睡状態になる。それは自己催眠のようなものだ。強制的な集中は無意識につながる。そして、この無意識をサマーディと勘違いするのは間違いだ。サマーディは無意識の状態でも昏睡状態でもない、サマーディは完全な意識の実現だ。サマーディとは、無思考と完全な意識の組み合わせなのだ。

質問5
第五の質問:どのように瞑想で吸うことと吐くことのプロセスを見るのですか?
背骨を直立させなさい。曲がらないように。背骨が直立している状態では、体は自然なバランスを保っている。その姿勢では地球の引力が身体に均一に作用し、その引力から解放されやすくなる。重力の力が最小になると、身体は、人が空になること、思考がなくなることを妨げない。体の緊張や硬直なしで、背骨の直立した状態を保ちなさい。あたかも布をフックに引っかけるかのように、身体を背骨に引っかけるように、体をリラックスさせなさい。

体を完全にリラックスさせてから、ゆっくりと深く呼吸しなさい。吸うことと吐くことで、臍の中心は上下に動く。この動きを見続けなさい。それに集中する必要はない、ただそれを見る。それの見者でいなさい。集中を勧めているのではないことを覚えておきなさい。私は単純な油断のなさと気づいていることをアドバイスしている。子供たちがするように呼吸する - 彼らの胸は動かない、彼らのお腹が動く。これは、吸うことと吐くことの自然なプロセスだ。この自然な呼吸の結果として、安らぎはより深く、より深くなって、私たちの上に降りてくる。

心の乱れと緊張状態のために、私たちは徐々に深く、完全に呼吸する能力を失っている。思春期になる頃には、表面的で人工的な呼吸が習慣化する。あなたは間違いなく気づく。心が乱れれば乱れるほど、自然でリズミカルな呼吸ができなくなることに。リズミカルに、楽に、自然な方法で呼吸しなさい。自然な呼吸の調和は、精神的な落ち着きのなさを一掃する助けになる。

これは一箇所を見続けるということで、止の瞑想と言って良いのでしょうか。初心の頃は集中しないと一箇所を見続けるのが難しかった記憶があります。私の場合は、慣れるまでは努力して集中して一箇所に意識をとどめ、そのうちに勝手に集中するようになってきたら、集中の意志を減らしてゆくという方法が合っていました。
いつも数息観では鼻先の息の出入りを見守っていたのですが、今日は試しに、自分の名前を呼ばれた時に感覚が生じる臍の下あたりを見続けてみます。

43 避難民のマジレスさん :2020/12/08(火) 20:17:56 ID:Dp/qMVVc0
第6問
第六の質問:なぜあなたは呼吸プロセスを観察するように私たちに助言するのですか?
私がそうするのは、呼吸は、吸ったり吐いたりすることで、肉体と魂の間の橋渡しをしているからだ。魂は呼吸を通して、そして呼吸のために体の中に存在している。自分の呼吸に気づくことで、呼吸を直接知ることで、人は次第に自分が肉体ではないことを経験する。

私は肉体だが、肉体であるだけではない。それは住まいではあるが、土台ではない。呼吸の直接の認識が深まるにつれて、人は、体ではない何かの存在の間近さを経験する。一瞬の間、人は自己が身体ではないことをはっきりと見る。そうすると、あなたは3つの層、あなたの人格の3つの鞘を見ることができる - 身体、呼吸、魂。身体は殻であり、呼吸は橋であり、接続リンクであり、魂である自己は基礎である。

呼吸が中心点であるため、自己実現への道における呼吸の役割は最も重要なものだ。一方には肉体があり、もう一方には魂がある。私たちはすでに物理的なレベルで存在しているが、私たちが憧れるのは、魂の領域に入ることだ。しかし、それができるようになる前に、プラーナ、呼吸の、自然な調和に至ることが不可欠だ。そうしなければ、魂の王国に入ることはできない。

呼吸のレベルで見ていると、人は両方の道を見ることができる。ここから、肉体と魂への道が明らかになる。道は一つで同じであるが、二つの方向ははっきりとしている。その結果、魂の領域に向かって、内側に向かって一歩を踏み出すことが可能になる。私が呼吸を強調する理由が分かってもらえただろうか。

ここでの「魂」とは何を指すのでしょうか?

44 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/08(火) 21:32:33 ID:1d4drIFg0
アートマンとかじゃな。
認識できない認識主体なのじゃ。
自己の基盤となるものじゃ。
それが存在するのではないが、意識がそれに向かって行くことで悟りも得られるのじゃ。

45 避難民のマジレスさん :2020/12/09(水) 20:50:30 ID:Dp/qMVVc0
質問7
第七の質問:なぜ、ディヤーナ、瞑想は行為ではないと言うのですか? それは同様に行為ではありませんか?
どうか、ここを見て欲しい。 私の拳は閉じている。拳を閉じるには、積極的に行動しなければならない。拳を閉じることは行為だ。しかし、それを開きたいと思ったとき、私は何をしなければならないのだろうか? 開くために何もする必要はない。拳を閉じる努力を捨てれば、自動的に拳は開き、手は自然で正常な状態に戻る。したがって、私は拳を開くことを行為とは呼ばない。それは無行為であり、お望みであれば、それを負の行為と呼んでもよい。しかし、それは何の違いもない。私は言葉では議論しない。私の言っていることを理解して欲しい。その本当の意味を理解して欲しい。

瞑想を「無行為」と呼ぶことで、瞑想を仕事や活動として捉えてはいけないということを示したい。瞑想はそのような業務から解放されている。それは自然な状態であり、それをいかなる種類の精神的緊張に変えることはできない。もし瞑想が精神的な緊張状態になってしまったら、あなたを自然な状態にも精神的な平穏にも導くことはできない。緊張は一種の落ち着きのなさであり、もし平安を得たいと思うならば、まず静かになることから始めるべきだ。もし最初の段階で平穏も静けさもないのであれば、最後の段階では確かに何もないだろう。最後の段階は、最初の段階の集大成に過ぎないのだ。

私は人々が寺院に行くのを見て、神々を崇拝するのを見る。また、瞑想の中で座っているのも見る。しかし、彼らにとっては、それはすべて活動であり、緊張した落ち着きのなさのようなものであり、このような活動のすべてが平穏の花と実を結ぶことを期待するのは、全くの愚かなことだ。もしあなたが平安を望むのであれば、平穏になりたいのであれば、今この瞬間から平穏の中でスタートすることが不可欠だ。

皆に言いたい。真実を探してはならない。真実を探すことにはエゴがあり、障害となるのはエゴなのだ。ただ自分自身を失いなさい。あなたのアイデンティティを失いなさい。単に自分自身であることを止めなさい。エゴである「私」がいなくなって初めて、本当の自分が見えてくるのだ。自我、「私」の感覚が消えてこそ、本物が見えてくるのだ。自分を失うことによってのみ、人は自分自身に到達する。種から新しい生命が芽を出すのと同じように、不老不死は、種である魂の鞘である「私」がバラバラになり消えた時にのみ芽を出すのだ。どうかこの原理を覚えておいて欲しい:自己を達成するためには、自分が存在することを止めなければならない。不老不死は、死の犠牲を払うことで得られる。雨粒は海の中でそれ自身を失うときに海になるのだ。

坐る時には、姿勢を保つためにどうしても腰に緊張が生じるのですが、これは問題ないのでしょうか?

46 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/09(水) 21:43:44 ID:1d4drIFg0
腰と腹に力が入り、緊張するのはよいのじゃ。
問題はないのじゃ。
上体からは力を抜かないといかんのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

真のディヤーナは行為ではなく、行為しないことだというのじゃ。
手から力を抜けばこぶしが開くように、行為しないことで心が解放されるのじゃ。
自己をも手放すことで、永遠に達するのじゃ。
自分を失うことで真の意識に回帰するのじゃ。

47 避難民のマジレスさん :2020/12/10(木) 20:56:51 ID:Dp/qMVVc0
あなたは魂だが、もしあなたが自分自身の中でそれを探せば、あなたは欲望以外のものを見つけることはできない。私たちの人生のすべては欲望だ。何かになりたい、何かを達成したいという欲望。誰もが何かになりたい、何かを達成したいと思っている。その競争は、私たちの人生のあらゆる瞬間に続いている。誰も今いる場所に留まりたいとは思わない。誰もが、自分がいないところにいたいと思っている。欲望とは、自分や持っているものに対する漠然とした不満であり、自分でないものや持っていないものに対する盲目的な憧れだ。なぜなら、何かを手に入れるとすぐにそれが無意味になり、欲望はまだ持っていないものを囲い始めてしまうからだ。欲望は常に未達成のもののためにある。

欲望は地平線のようなものだ。あなたが地平線に近づこうとすればするほど、地平線は遠ざかっていく。これは、地平線が単に存在しないからだ。それはただの外観、錯覚だ。それは現実ではない。もしそれが現実であれば、それはあなたが近づくにつれてあなたに近づいてくるだろうが、もしそれが非現実であれば、あなたが近づくと消えてしまうだろう。もしそれが現実でも非現実でもないならば、現れたもの、夢、幻影、想像の産物であるならば、それは、あなたがどんなに懸命に近づこうとしても、以前と同じように遠くに残るだろう。

真実でないものは、真実の反対だ。幻想の世界、マーヤーは、真実の反対ではなく、そのベール、覆いだ。欲望は、魂の反対ではなく、アートマンの反対ではなく、そのベール、覆いなのだ。それは霧であり、私たちの存在を隠す煙だ。私たちは自分ではないものを追い求め、その結果、自分が何者であるかを見ることができない。欲望は魂の上に落ちたカーテンであり、そのために私たちは自分の魂を知ることができない。私たちは常に他の何かになりたいと思っているので、私たちは自分自身の存在を実現することができない。

この競争、何か他のものになりたいというこの欲望が一瞬でも止まれば、存在するものは、目に見えるようになる - 雲のない空が一瞬だけでも、太陽が目に見えるようになるのと同じように。この競争の不在を私はディヤーナ、瞑想と呼ぶ。そして、実際に何があるのかを知った瞬間に体験する驚きの感覚は、なんというものだろう! それにより、人がこれまで望んでいたすべてのことが達成される。魂の視座は欲望の完全な充足だ。なぜならば、そこには何も欠けていないからだ。

悟りへの欲望によって修行を進めても良いが、最後にはその欲望も捨てるという解釈で良いのでしょうか? 私の場合、悟りへの欲望は常に一定ではないのですが、その欲を厭離しなくとも、欲が現れていない時に偶然に自我の成り立ちが全部観られて、無我になることもありますか?

48 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/10(木) 21:37:45 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、最後に捨てるがよいのじゃ。

そのようなこともあるじゃろう。


人生の全ては欲望だというのじゃ。
何かになりたいとか達成したいという欲ばかりなのじゃ。
欲が捨てられれば自分も見えるのじゃ。
そして全ての欲がかなっていることを知るのじゃ。
欲も本当は孤独や不安や恐れからの逃避であるからのう。

49 避難民のマジレスさん :2020/12/11(金) 20:42:22 ID:Dp/qMVVc0
思考は無知のしるしだ。知の中には思考はなく、直接の知覚がある。思考の道では、知にたどり着くことはできない。思考から解放された意識は、知への扉だ。知は達成ではなく、発見なのだ。私たちはそれを達成する必要はなく、発見する必要がある。それは私たちの中に常に存在している。私たちは井戸を掘るように、掘り出さなければならない。新鮮な水の泉は、大地の下、岩や石の下に深く埋まっている。それらが取り除かれると泉はすぐに湧き出てくる。

私は、知の泉の床に岩と思考の石の山が横たわっているのを見る。これらが取り除かれるとすぐに、私たちは意識の切れ目のない流れを持つことになる。自分の中に井戸を掘りなさい。瞑想の鋤で思考の層を取り除きなさい。そして、正しいマインドフルネスと絶え間ない気づきによって、思考は出涸らしになる。存在からそれを一掃しなさい。あなたが知っていることは知になるだろう。思考がないところでは、意識が思考の煙に隠れていないところでは、あなたは知を見つけるだろう。

私は孤独になれと言わない。自分の中に孤独を作って欲しいと言うのだ。場所を変えただけでは何の役にも立たない。環境ではなく、私たちの精神的な態度が最も重要なのだ。人は孤独の中に入るかもしれないが、もし自分の中に孤独がなければ、孤独な隠れ家の中で群衆に囲まれることになるだろう。

友よ、群衆は外にいるのではなく、あなたの中にいる。内なる群衆に囲まれているのなら、外の群衆から逃げることが何の助けになるだろうか。今あなたと一緒にいる群衆は、あなたと一緒に孤独の中に入っていくのだ。群衆から逃げても無駄だ。内なる欲望の群衆こそが取り除かれなければならない。それゆえに、どこか他の場所に孤独を求めてはならない。ただ内なる孤独であれ。隠遁するのではなく、内に無欲を作りなさい。あなたがこれを実現する瞬間、平穏、至福、恍惚感が染み渡るだろう。そして、この瞬間、人ごみがあったこともなく、外の世界があったこともないことに気づくだろう。すべてはあなたの中にあったのだ! 創造者と被造物は、互いに切り離されたものではない。それらは、本当は一つであり、同じものなのだ。それはウパニシャッドの神秘家が叫んだような至福の瞬間であったに違いない。「Aham brahmasmi - 私は彼であり、創造者であり、神である。」

今日は特に質問はありません。オショーの文を読んでいると、勇気が湧き、瞑想に誘われます。

50 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/11(金) 22:50:54 ID:1d4drIFg0
オショーの言う知とは知識ではないのじゃ。
知識は記憶によるものであるから思考もできるのじゃ。
真の知とは直接の知覚によるものというのじゃ。
思考や記憶に拠っては辿りつけない意識に至れるのじゃ。

51 避難民のマジレスさん :2020/12/12(土) 20:52:40 ID:Dp/qMVVc0
時代の埃が私たちの心の上に積もっている。古い習慣、古い伝統や迷信は、廃墟やさびれた家がクモの巣でいっぱいで、暗闇の鳥が住んでいるのと同じように、私たちを包んでいる。それと同じように、私たちは他人から借りた思考でいっぱいになっている。そして、真実と神についてのこれらの借りられた思考は、大きな障害となる。それらは真実を知ることから私たちを妨げている。そしてそれゆえに、自己の探求、眠っている意識を目覚めさせることができる探求は、決して私たちの中で始まることはない。

人が自分自身で真実を知ることができるようになる前に、他人から借りた知識を自分自身から取り除く必要がある。それは知ではなく、単なる情報だ。帽子の埃を払うように、他の人や古い伝統から得たすべての情報をブラシで払いのけなさい。そうすれば、あなたははっきりとした視界を持つようになり、真実と自分自身の間にあるカーテンはもうそこにはないだろう。思考の群れが壁のようにそれらの間に立っている。

真実について知ることと、真実そのものを知ることの間には、世界の違いがある。真実について知ることは、死んだ、借りた知識への隷属であり、真実そのものを知ることは、自己実現の空(そら)の自由な広がりなのだ。一方はあなたの飛ぶ能力を奪い、他方はあなたを神へ連れて行くことができる翼を与える。

私があなたに空虚について、空(くう)について話しているのは、このような理由からだ。空は思考の重荷を取り除く。人が山に登る前に自分の重荷を平地に置かなければならないのと同じように、人は真理への遠征に出発する前に、思考の重荷から解放されなければならない。登山家は軽くなればなるほど、高く登ることができるようになる。同じように、真理の山に登ろうとする者は、その重荷の無さ、空に比例して高みを目指す。頂点を目指す者、至高の存在を目指す者は、存在が無になる究極の虚無に到達しなければならない。完璧さの頂点は虚無の深淵で起こり、存在の音楽は無存在の沈黙から出てくる - そして、涅槃そのものがブラフマン、創造者、神の実現であることを知る。

できるだけの時間、自分の心を観ようとするのですが、つい忘れてしまうことがあります。あと、観察に疲れたり飽きたりするというのは、観察ができていないという証拠なのでしょうか?

52 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/12(土) 23:44:43 ID:1d4drIFg0
↑それで善いのじゃ。
人は忘れたり、疲れたり、飽きたりすることもあるものじゃ。
その時は誤魔化したりせずに忘れた、疲れた、飽きたと観察するのじゃ。
ただひたすらにありのままに観るのじゃ。

思考の慣習が続く限り、自分を観ることは難しいというのじゃ。
記憶からの投射である思考は今ここにあるものごとから目を逸らさせてしまうからなのじや。
思考を止めるために空を説くのじゃ。
存在が無になるまで空を念じるのじゃ。

53 避難民のマジレスさん :2020/12/13(日) 21:11:50 ID:Dp/qMVVc0
真理が未知のものである以上、思考によってどうやって知ることができるのか? 思考もまた知られているものだ。努力は全く不合理だ。既知のものから未知のものへの道はない。既知のものが未知のものへと導くことはできない。未知のものは考えることができない。それは不可能だ。既知は既知の輪の中を移動することしかできない。既知の領域の中でどんなに頑張って考えても、その領域を超えることも、その領域から出ることもできない。私は間違いなく移動するだろうが、それは水車を回す雄牛のように、円を描くように移動するだろう。私はどこにも行くことなく、同じ地面を何度も何度も覆うだろう。これまで誰も、考えて真理にたどり着くことはできなかった。その目的地に到達した者は、別の方法でやってきたのだ。私は、マハヴィーラも老子もブッダもイエスも思想家だとは思わない。彼らの達成はどれも思考の結果ではなかった。では、どうやって目的地に到達したのだろうか? それは、思考の道を歩いたのではなく、思考の道から飛び降りたのだ。既知の道を歩いても、未知の世界には到達できない。その道を離れて、未知の中へジャンプしなければならないのだ。

どうか「ジャンプ」という言葉の意味を理解して欲しい。この「ジャンプ」をよく知るのだ。あなたもそれをしなければならない。あなたは思考のレベルに立っている。思考の中に立っていて、思考の中に生きていて、そこからあなたは無思考の領域にジャンプしなければならない。沈黙以外の何もない世界に飛び込まなければならない。あなたは音から静寂へとジャンプしなければならないだろう。このジャンプのことを考えれば、そこに行けるのだろうか? あなたはどうやってジャンプするかを考えるのだろうか? 違う。あなたは再び思考の輪に自分を縛り付けることになり、それはどこにも連れてはいかない。

考えるな - 目を覚ますのだ! 思考の過程を観なさい。それが円の中でどのように移動するかを観なさい。単に観るのだ。そして観ていると、ある幸いな瞬間に、何の努力なしにジャンプが起こり、空虚の底知れない深さにあることを見つけるだろう。既知の海岸を離れた瞬間、あなたのボートは未知の海の上を滑らかに航海していることに気づくだろう。

そして、このように未知の海を航海することは、なんという喜びなのか! 何と表現すればいいのだろう? 落ち着きがないと見ることができない。涙で満たされた目には見えない。それが喜びの涙であろうが 悲しみの涙であろうが 何の違いもない。 何かで満たされた目は真理を見ることができない。真理を見るためには、空っぽの目が必要だ。何も入っていない鏡のような目だけが、すべてのものを見ることができるのだ。

思考では先に進めないことが理論と実践で分かっていても、思考に執着し、期待している感情が残っています。これを厭離するためには原因から観察する必要がありますが、例えばどのような原因があり得るでしょうか?

54 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/13(日) 21:59:45 ID:1d4drIFg0
思考が自分と思うならばそれをもっと詳しく観察すると善いのじゃ。
オショーも思考の過程を観よと言っているのじゃ。
それはただの観念を対象とする道具に過ぎないのじゃ。
思考は対象とする観念がなければ存在しない虚ろな道具なのじゃ。
石の観念があれば石について思考が起きるものじゃ。
おぬしは石についての思考なのじゃろうか。
犬の糞の観念があれば犬の糞についての思考が起きるものじゃ。
おぬしは犬の糞についての思考という存在なのじゃろうか。

そのように対象が無ければ存在し無いものはただの道具であり、在るものではなく、幻想であり空であると観るが善いのじゃ。

55 避難民のマジレスさん :2020/12/14(月) 20:53:02 ID:Dp/qMVVc0
ある村で起きた出来事について話そう。ある人がどうやって神を見つけるかを尋ねてきた。私は問いによって答えた。今、神を見つけようとしているのなら、もうあなたは自分を見つけたのかと。私たちは神を知りたいと思っているが、自分自身を知らない! 自分に最も近い存在すら知らないのだ! どのような存在も、自己よりも近いものはない - だから、はじめに無知が付けられたに違いなく、それは今の時点で打ち負かされなければならない。自分自身について無知な人は、他のどのレベルでも知を得ることはできない。

知の炎は、最初に人間の内なる存在の中で燃え始める。それは知の東であり、知の太陽はそこから昇る。もしそこに闇があるとすれば、他のどこにも光があるはずがない。神ではなく、自分自身を知りなさい。この一筋の光は、最終的には太陽へと成長していく。自己を知ることによって、サット-チット-アーナンド、存在、意識と至福があることが実現するが、そこでは 「私」、自我はない。その実現こそが、神の実現なのだ。

人間は自我に覆われた魂だ。そして、これが無知だ。自我を取り払った魂が神だ。そして、これが知なのだ。自分の魂を求めてどこへ行こうとしているのか? 十のどの方角に行っても、それはどこにも見つからない。しかし、もう一つの方角がある。あなたは知っているだろうか? 私がその方角を案内しよう。

あなた自身がその十一番目の方角であり、他の十の方角を探すのをやめれば、この方角を見つけることができる。この十一番目の方向は他の十の方向とは違う。実際には、それは全く方向ではない。それは無方向であり、方向の否定だ。それはあなたが去ったことのないところに連れて行ってくれる。それはあなた自身の実体であり、あなた自身の自然な状態だ。十の方向はすべて外に向かっている。世界はそれらの創造物だ。十の方向が世界だ。 それらは距離だ。しかし、これらの方向のすべてを知っていて、その中を移動する者は、確かに世界から切り離されていて、確かに異なっている-そうでなければ、その者は世界を知ることも、その中を移動することもできなかっただろう。その者は移動すると同時に、移動しない。もし自分自身の存在の中でしっかりと確立されていないならば、動くことはできない、なぜならば、その者の回転輪の中心には固定があるからだ。馬車の車輪に気を留めたことがあるだろうか? 車輪が動くことができるのは、車軸が静止しているからに他ならない。どんな動きも常に固定されたものがあり、それを支えているのだ。人生は不安定で一過性のものだが、魂は恒久的で安定している。魂は第十一の方向だ。人はそれを求めてどこかに行く必要はない。すべての探し物を捨てて、あなたの中に誰がいるのかを見なさい。存在する者に目覚めなさい。これは、探究を放棄すれば可能だ。それは走ることによっては不可能だが、停止することによって可能なのだ。

思考の観察について、ありがとうございます。囚われず、ただ停止して、対象の縁起から起こる思考の過程を観ることに励みます。

56 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/14(月) 22:01:22 ID:1d4drIFg0
神がどのようにして見つけることが出来るのか、それを知る前に自分について知らなければならないとオショーはいうのじゃ。
自分を知らなければ、神についても知れるはずも無いのじゃ。
それは歩き方を知らないのに、走り方を知ろうとするようなものじゃ。
自分を知ることで神への最短の道を通過することが出来るのじゃ。

57 避難民のマジレスさん :2020/12/15(火) 20:25:58 ID:Dp/qMVVc0
止まって、観なさい。この二つの言葉は宗教の核心、あなたの修行の道標であり、ヨーガの全体の鍵だ。止まって、観ると、第11の方向が開かれる。そこを通って、あなたは内なる空間に入る。その内なる空間が魂だ。私は、あなた方が皆何かを追いかけて走っているのを見るが、この走りは結局は倒れることで終わってしまう。あなたは毎日、人々が倒れているのを見ないだろうか? それはすべて走りの結果ではないのか? 走ることはすべて死で終わるのではないか? しかし、最初にこの真実を知る者は、最後にその災難から救われるのだ。

止まって、観て欲しい。 あなたはそうするだろうか? 必死で走っている最中に、私の呼び声が聞こえるだろうか?止まって、走っている人を見なさい。止まって、探している人を見なさい。止まって「私」を見つめるのだ。走ることの熱が冷めるとすぐに十の方向はすべて消え、ただ一つの方向、その無方向だけが残る。それはあなたを根源に、源に、最高の知の泉に連れて行く。

ある求道者がかつて、人々に、生まれる前にどのようなものであったかを尋ねた。もしあなたがその求道者に会いに行ったら、彼に何と言うだろうか? あなたは、生まれる前に自分がどうだったかを知っているだろうか? 死んだ後に自分がどうなるかを知っているだろうか? もしあなたが止まって観ることを学べば、知ることができる。生まれる前の存在、死んだ後の存在、そして今この瞬間に内側にいる存在を知ることができる。それは、少し振り返って見るだけだ。止まって、観なさい。

あなたをこの素晴らしい世界への旅に招待する。 止まって、観なさい。

第3章は以上です。ここまででもし、訳におかしなところがありましたらご指摘ください。
止観を続けます。

58 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/15(火) 21:52:02 ID:1d4drIFg0
心を止めて、観ること、それが止観なのじゃ。
本来は観察が真の道なのじゃ。
しかし、悟りを得ず、修行もしていない者が心を観察することは難しいものじゃ。
そうであるから心を止める修行もしなければならないのじゃ。

59 避難民のマジレスさん :2020/12/16(水) 20:50:26 ID:Dp/qMVVc0
第4章 2日目の朝 1964年6月5日 午前

友よ、私たちは自分自身と戦ってはならない、自分自身を知らなければならない。自己についての無知のために私たちの中で発展してきた矛盾や自己矛盾はすべて、自己を知ることによって蒸発していくのだ - 草の上に落ちる露が太陽が昇るとともに消えていくように。

私はあなたの知への好奇心と意気込みをよく理解している。あなたは真理を知りたい、理解したいと思っている。あなたは生の謎を解き明かして、その完全性を得られるようにしたいと思っている。しかし、私たちが今、生と呼んでいるものは、本当の意味での生ではない。それはあたかも、ただ死ぬことの長い、引き延ばされた過程と呼べる。生を知らずして生を得ることはできないというのは事実だ。誕生は一つのことであり、生は全く別のものだ。ただ生きているだけのことと、生の完成の間には大きな違いがある。その違いは、死と不死の間と同じくらい大きい。死は生の必然的な終わりであるのに対し、生の完全な完成は、神的な生によって冠される。

神的な生を送りたいと願う者、神と真理を知りたいと願う者には、二種類のアプローチがあるように思える。一つは道徳のアプローチ、もう一つは宗教のアプローチだ。道徳と宗教は通常、二つの異なる道とは見られていない。道徳と宗教は、同じはしごの上にある2つの連続したステップと見なされている。一般的に、人が宗教的になるためには、まず道徳的にならなければならないと信じられている。しかし、これは私の見解ではない。

私が知っていることを話そう。宗教的な人は常に道徳的だが、道徳的な人が本質的に宗教的であるとは思わない。人は単に道徳的になることによって宗教的になるのではないし、道徳は宗教の出発点でもないし、基礎でもない。それどころか、道徳は宗教的になることの結果なのだ。道徳の花は宗教の草の上に咲く。道徳とは、宗教的生活の表現だ。私は、宗教と道徳を二つの異なる道、ただ異なるだけでなく、互いに正反対の二つの道と見ている。

道徳、規律とは、振舞いの浄化、行いの浄化を意味する。それは、人間の人格を周辺部で変えようとするものだ。この人格の周辺部は、他者との付き合いの結果だ。それは、自分の振舞い、他者との関係だ。自分が他人にどのように反応したり、行為したりするかは、自分の振舞いだ。振舞いとは関係性なのだ。

宗教と道徳が互いに正反対の二つの道というのが、分かりにくかったので、少し詳しく教えていただけますでしょうか? 慈悲と道徳は違うということでしょうか?

60 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/16(水) 21:24:54 ID:1d4drIFg0
道徳とは振る舞いであり、肉体的な行動によるものじゃ。
それが心の中に変容を起こすことは無いのじゃ。
真の宗教は心の中に変容を起こす方法を教えるものじゃ。
それでこそ真理も理解できるのじゃ。
道徳的な行いも出来るのじゃ。

61 避難民のマジレスさん :2020/12/17(木) 20:39:19 ID:Dp/qMVVc0
私は一人ではなく、四方八方人に囲まれている。そして、私は社会の中にいるので、人生のあらゆる瞬間に誰か、あるいは他の人と接触し、関係を持つ。これらの相互関係が、私たちの人生のあり方のように思える。そして、私の行動の善し悪しは、その人間関係が良いか悪いかで決まる。

私たちは良い行動を教えられている。それが社会のために必要だから、社会的必要性だからだと教えられている。しかし、社会はあなたには何の関係もない、あなたの素朴で生まれながらの性格とは関係ない。その観点から見れば、あなたがいなくなっても社会は何も失わない。誰かとの関わりや何かとの関わりがあってこそ、社会にとって重要な存在になる。社会にとって重要なのは、あなたではなく、あなたと他者との関わりだ。社会にとって重要なのは、あなたではなく、あなたの行動だ。したがって、善行が社会から伝えられる教育の目的であることは、驚くべきことではない。社会にとって人間とは、その人の行動であり、それ以上のものではない。

しかし、この善行の教育、社会が教える道徳は、錯覚を生み出している。それは非常に根本的な錯覚を生み出している。神を悟り、宗教に到達したいと願う人たちが、真理と正義に到達するためには徳を積む必要があると信じるのは当然のことだ。神の実現は正しい行いによってのみ可能であり、真理の到来の前に徳を身につけなければならないと信じるのは当然だ。宗教と真理の実現は、道徳だけの生活から発展すると信じるのは当然で、道徳は基底であり、宗教は頂点であり、道徳は種であり、宗教は実であり、道徳は原因であり、宗教は結果であると信じているのだ。この考え方は非常に明快で正しいように見えるが、この一見単純明快な考え方は全く誤解を招くものであり、真の事実を歪曲した見方をしていることを、私はあなたに伝えたい。真相は全く違うものなのだ。

実際のところ、道徳を教えても、宗教的なことはおろか、人を道徳的にすることはできない。単なる善行は人を道徳的にはしない。変容には内面の浄化が必要なのだ。自分の内面を変えなければ、行動を変えることはできない。中心を変えずに周辺を変えようとするのは夢物語だ。その努力は無益なだけでなく、有害だ。それは自殺行為だ。それは自分自身に苦悩を押し付けることに他ならない。

この抑圧は社会の要求を満たすものであることは間違いないが、個人はその下で亀裂が入り、粉々になってしまう。それは人の中に裂け目、二面性を作り出す。人格は、その自然な単純さを失い、自分自身の中の葛藤に苦しむ。
それは連続的な闘争であり、勝利で終われない永遠の内部抗争だ。これは、個人を犠牲にして社会の要求を満たすことだ。私はこれを社会的暴力と呼ぶ。

お釈迦様や鬼和尚が善行を説くのは、悟りを得たいと思わない人に対しても、少しでも福楽がもたらされるようにという慈悲からでしょうか?

62 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/17(木) 22:46:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、善事は人の環境をよくするものじゃ。
 悟りには間接的にしか役に立たないのじゃ。
 自分の心を観察する事で悟りもやってくるのじゃ。
 善事はそのための環境を造るだけなのじゃ。

63 避難民のマジレスさん :2020/12/18(金) 20:49:19 ID:Dp/qMVVc0
人が自分の行動を通して何を表現しようと、それは重要ではない。本当に重要なのは、その行動につながる内的な原因だ。行動は内なる精神の表れであって、根源ではない。行動とは、内なる精神の外向きの表現なのだ。無知な人々だけが、その表現の原因を変えることなく、外向きの表現を変えようとする。

この種の修行は役に立たない。それは、枝を切り落として木を切り枯らそうとする人の行動のようなものだ。そのような行動は、木を枯らすのではなく、その成長を促進する可能性が高い。木の生命は枝の中にあるのではなく、根の中にある。土に埋もれた目に見えない根の中にあるのだ。木とその枝の形になったのは、根の潜在的な希望と願望なのだ。枝を切ることがいったいどんな助けになるのか? もしあなたが本当に生に革命をもたらしたいならば、根に行かなければならない。人の行動の根は、内なる存在の中にある。行動は内なる存在に従う。内なる存在は自分の行動には従わない。したがって、行動を変えようとする努力は、必然的に抑圧の形をとる。そして、抑圧は何か変容をもたらすことができるだろうか?

そもそも抑圧とは何だろう? 抑圧とは、内なる存在の中で自然発生的な感情が育つことを許さず、その表現を許さないことであり、実際には存在しないものを強制的に育て、表現することだ。

しかし、私たちが抑圧しているものはどこへ行くのだろうか? 私たちはそれから自由になれるのだろうか? いったいどうやって抑圧によって自由が得られるのか? 抑圧された感情は、私たちの中にあり続けるだろうが、それらは今、より深く、より暗く、より無意識の凹みの中に生きていくための場所を見つけなければならないだろう。それらはまだ、より深い領域に入るだろう。抑圧の意識でさえも居場所を特定できないところに、身を隠すだろう。しかし、深く入った根は芽を出し続け、枝は花を咲かせ実を結び、そして意識と無意識の心の間に、狂気となって終わる戦いが生じるだろう。

狂気は、このような偽りの中空の道徳に基づく文明の当然の結果だ。したがって、狂気は文明の進歩とともに増大し、私たちの文明全体が狂気に終わる時が来るかもしれない。過去の二つの大戦争はこの種の狂気であり、私たちは第三の、おそらく最終的な戦いに向かっている。

身体と心は相互に影響を及ぼすという考え方を聞き、ある程度は正しいと経験から思っていました。しかし実際は、身体の行動により、心の表層部分には影響を及ぼせても、深層部分は変わらないということでしょうか。そして、心の深層部分を変えるには自分自身の心を観察して気づく必要があるという理解で良いでしょうか?

64 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/18(金) 21:49:48 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、行動だけを変えようとしても無意味なのじゃ。
心の中にある原因から観察しなければ行動も変らないのじゃ。
心の中の原因を無視して行動だけを矯正しようとすれば抑圧が生まれるのじゃ。
それが憎しみとなっていつか爆発するのじゃ。
自らの心を観察できればそれも制御できるのじゃ。

65 避難民のマジレスさん :2020/12/19(土) 20:59:49 ID:Dp/qMVVc0
人の個人的な生活の中で起こる爆発と、社会の中で起こる爆発-暴力、レイプ、不道徳、蛮行-は、すべて抑圧の結果だ。人は抑圧のために道徳的で自然な生活を送ることができず、ある日突然その緊張に屈してしまう。偽善に頼る者は、この内なる葛藤から自分自身を救うことは間違いない。その者は自分ではない者のふりをしている。常に何らかの役割を演じているので、どんな内なる葛藤からも解放されている。

偽善もまた、抑圧に基づく道徳から生まれる。それは、自分自身を内なる葛藤から解放するための手段だ。すでに述べたように、私たちのいわゆる道徳的な生活の中では、自然発生的な感情が成長し、表現されることを許さず、実際には存在しない感情を表現してしまう。二つの過程のうちの最初のものは抑圧につながり、二つ目は偽善につながる。最終的には、最初の過程はあなたを狂人に変え、二つ目は偽善者に変える。これらの結果はどちらも良いものではなく、どちらもあなたにはふさわしくない。残念ながら、私たちの文明は、この二つの選択肢しか提供していない。しかし、第三の選択肢もある:動物の生を生きることだ。犯罪者はこの選択肢から生まれる。もし私たちが動物になることから自分自身を救いたいと願うならば、私たちの文明には二つの選択肢しかない。

動物になるということは、無意識の本能に完全に身を委ねるということだ。人間の中で意識的になったものが再び無意識になることはできないので、これも不可能だ。私たちは酔うと、まさにこの無意識を求める。酔わせるものを求めるのは、動物になりたいという欲求の表れだ。徹底的に酔っぱらって無意識になったときにのみ、人間は自然と一致し、動物と一致するのだ。しかし、これは死に等しい。これは深刻であり、非常に慎重な検討に値する。

酔っているときに人間はどのようにして動物になり、なぜ動物になるために酩酊しようとするのだろうか。それは、人間の意識が動物の世界や自然の一部ではなく、神性の一部であるという事実を示している。それは魂の可能性だ。それは種であり、破壊されるべきものではなく、育まれるべきものだ。その完全な成長には、自由、解放、至福がかかっている。

では、どうすればいいのか? 文明は、私たちに3つの選択肢を与える。動物、狂人、偽善者の。ひょっとして、第四番目の選択肢があるのだろうか?

抑圧を観察するヒントやコツのようなものがありましたら、お教えください。

66 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/19(土) 23:38:30 ID:1d4drIFg0
抑圧を見るには先ずはそれを受け容れることじゃ。
抑圧によるどんな衝動が心の中にあってもそれを受け容れることを自分に許すのじゃ。
しかしその衝動に流されてはいかんのじゃ。
そのように長く抑圧された衝動には誰か憎むものを殺したいとかもあるかもしれんからのう。
それもまた受け入れなくてはいかんが、その衝動に流されて行動してはいかんのじゃ。
その原因から観察できれば、それもまた消えるのじゃ。

67 避難民のマジレスさん :2020/12/20(日) 20:48:07 ID:Dp/qMVVc0
そうだ、第四番目の選択肢がある。私はそれを宗教と呼んでいる。それは知性と直観の道であって、獣や狂気や偽善の道ではない。耽溺や抑圧や演技の道ではなく、本物の生と知の道だ。

それは善行の実を結び、人間の中の動物性を排除するものであり、無意識の情熱を抑制するのではなく、人間をその支配から解放するものだ。宗教は単に仮面や外面的な行動を前提としたものではなく、内なる存在の変容だ。それは社会的なものではなく、個人的な充足だ。それは私たちの関係を変えないが、私たちの自己そのものを変容する。関係は結果として自動的に変わる。宗教は、自分自身の中にある存在に、革命をもたらす。そうすれば、周囲のすべてのものが自動的に変容されるのだ。

道徳は社会的なものであり、宗教は完全に個人的なものだ。道徳は行動であり、宗教は内なる存在だ。道徳とは周辺部であり、宗教とは中心部だ。道徳とは人格であり、宗教とは魂だ。宗教は道徳の尻尾にはついてこないが、道徳は必ず宗教についてくる。道徳は人を道徳的にすることさえできないのだから、いったいどうやって人を宗教的にすることができるのだろうか? 道徳は自分自身に物事を積み上げることから始まるが、宗教は知から始まる。

生の中には、悪、不純、不真実がある。私たちはそれらの根源を見つけなければならない。悪はどこで、どのようにして生まれるのだろうか? これらの毒がどこから来て、人の行動を毒にする中心はどこにあるのだろうか? 人が徳や善を考えているときでさえ、なぜ悪はこれらの考えをすべて追い払い、生を取り囲み、行動に浸透してしまうのだろうか? 情熱はなぜいつも人の思考を変えさせるのだろうか?

私たちは注意深く観察し、自分自身でこれを見つけ出さなければならない。他人から借りた結論は役に立たない。なぜなら、この観察のみが、観察の過程を通して、自己観察を通して、悪を生み維持するまさに源を崩壊させ破壊する、力とエネルギーを生み出すからだ。この継続的な観察自体が修行なのだ。なぜならば、継続的な観察は、悪を知るための方法であるだけではなく、同様にそれを排除するための方法でもあるからだ。内なる「私」を観察することによって、目を覚まし、それに向かって注意深くなることによって、光は内なる暗い凹部に届く。そして、この光は、自分の行動の根源を照らすだけでなく、それらを変容させ始める。

自分自身を観察して厭離していくと楽で自由になっていくのですが、未だに観察に向かうのに意志力を必要とする時があります。これは自我が完全に厭離されるまでは仕方のないことなのでしょうか? 観察自体を阻む感情を観察で厭離しようとしているのですが、今のところうまく行ってません。覚者の動画や文章に接することなどで自然に観察が起きる時もあります。

68 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/20(日) 23:27:32 ID:1d4drIFg0
初心の内は意志に拠って観察しなければ出来ないのじゃ。
毎日続けていくことで自然に出来るようになるのじゃ。
まだ無我にならなくとも毎日続けることで、無意識のうちにも観察できるようになるのじゃ。
そのような無意識の観察に拠って自我も観ることができるのじゃ。
それが観照なのじゃ。

69 避難民のマジレスさん :2020/12/21(月) 20:35:10 ID:Dp/qMVVc0
常にこの格言を心に留めておきなさい:観察は知のみでなく、変容ももたらす。実際、観察は知をもたらし、知は変容を引き起こす。知自体が変容、存在全体の変容だ。それは、木の根を探し出し、光にさらすために土を掘っているようなものだ。そうすれば根をよく知ることができるだけでなく、根を暗闇から出し、土から切り離すことで、根を滅ぼすことができる。そして木の根を観察している間に、枝は枯れていく。

観察は、情熱の根の破壊をもたらすことができる。それは光に耐えることができない。悪は知に耐えられない。ソクラテスが「知は美徳である」と言ったとき、彼はまさにこの事を伝えることを意味した可能性が最も高い。私もまさに同じことを言う:知は美徳であり、無知は悪である。光は道徳であり、暗闇は不道徳である。

観察すること、自分自身を常に観察すること、心の無意識の傾向を観察することで、意識が覚醒し、無意識の心の中に入り込むことができるようになる。無意識は、昏迷、無知、酩酊、不注意の扉から意識に入り込み、意識を支配することができる。私たちは、動物的な傾向が愛着から発展することを見てきた。怒りと欲望は、無意識の時だけ私たちをつかみ、動物的な本能を満たすために酔わせるものを探す。

意識は、無意識の心の中に、酩酊を克服することによって、気をつけること、注意、気づいていることを通じて入り込み、そこに権威を確立する。気をつけることと気づいていることが私たちの中で成長し、私たちの傾向、行為、情熱、欲望に対する正しい気づきと観察が成長するにつれて、それと同程度に意識が私たちを満たすようになる。そして、それらの駆り立てや情熱の爆発、盲目の、無意識の衝動は、消えてゆく。なぜならばそれらは、睡眠、無感覚と妄想の状態でのみ存在することができるからだ。意識状態では存在できないのだ。

文を読んでいて、未だ気づいた時に常には自分自身を観察できていないことがわかりました。正しく観察ができているかどうかにも気をつけつつ、さらに観察に励みます。

70 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/21(月) 22:04:08 ID:1d4drIFg0
毎日観察し続けることで、表層意識だけでなく、無意識の段階まで観察できるようになるのじゃ。
自我の想起は無意識に行われる故に、そこまで至らなければ自我は見えないのじゃ。
さまざまな障害を観察して滅していけば自我も観られるようになるのじゃ。
それまで日々精進あるのみなのじゃ。

71 避難民のマジレスさん :2020/12/22(火) 20:56:30 ID:Dp/qMVVc0
意識している間、正しい感覚の中では、誰も何か間違ったことをしたことがないということを心に留めておきなさい。すべての罪は愛着から生まれる。それは愛着そのものだ。私にとって、愛着だけが罪深い。観察は愛着を追放する。それゆえに、観察とは何か、それがどのようにもたらされるのかを理解することが重要なのだ。

では、自己観察とは何だろうか? 静かに座って、昨日正しいマインドフルネスの実験について話したときに説明したように、私の中で起きていることを、それがどんなことでも観察する。内側には思考と情熱の世界がある。私はその世界を観察する。海辺に立っている人が海の波を見るように、私はそれを見続けている。クリシュナムルティはこれを「選択のない気づき」と呼んでいる。それは完全に切り離された観察だ。

切り離されたとは、私が選択も決断もしないことを意味する。私はどんな情熱や欲望にも善悪のレッテルを貼らない。善と悪、徳と悪徳の間で判断を下すことはない。ただ観察するだけだ。私はただ、知っていることと見ていること以外には何の興味もないかのように、超然と離れて立っているだけの見者になる。目的が忍び寄る瞬間、選択や判断が入ってきた瞬間、観察は終わりを迎える。その時、私は観察しているのではなく、考え始めているのだ。

どうか、考えることと観察することの違いを理解するようにしてほしい。この過程では、私たちは考えることはしない。考えることは意識の中の意識的行為だ、一方、観察は無意識の中に意識が入り込むことだ。思考が入ってくるとすぐに、人は善と悪を区別し始め、抑圧が微妙な形で始まる。すると無意識はそのドアを閉じ、そしてその神秘の知は私たちから隠されている。無意識はその秘密を、思考ではなく観察を通して明らかにする。なぜなら、抑圧がなければ、無意識の衝動や性癖は、自然に、ひとりでに、ありのままに現実の中で立ち上がってくるからだ。そうなると、それらの衝動、性癖、情熱を隠す必要はもはやない。無意識は、ありのままで、完全に隠されずに私たちの前に立っている。それは何と恐ろしいことだろう! 自分の心の奥底にあるありのままの姿を見ると、人はどれほど怯えてしまうのだろうか! 目を閉じたくなる。この深い観察を放棄し、世俗的な平面に戻りたくなる。

オショーは選択や判断が入ってきた瞬間、観察は終わりを迎えると述べています。私の場合、どこか一点に集中していない限りは、観察をしてても縁起により勝手に思考が始まり、それに続いて好悪の感情が生じることがあるのですが、その思考や感情自体を観察できることもあります。起きていることに巻き込まれずに、新しい発見がある場合には、完全ではなくとも観察ができていると判断してよいのでしょうか?

72 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/22(火) 23:34:57 ID:1d4drIFg0
心に起こることが観えていたならば観察しているのじゃ。
それに失敗はないのじゃ。
感情や選択に巻き込まれてしまった時でさえ、それを観続けることはできるのじゃ。
それもまた自分のした選択とか想いと見ることもできるのであるからのう。
もはや失敗だとか終わりだとか想ってやめてしまう時に観察は終わるのじゃ。

73 避難民のマジレスさん :2020/12/23(水) 21:11:35 ID:Dp/qMVVc0
この時こそ、勇気と落ち着きが試される時だ。これは、私が言うところの贖罪の瞬間だ。勇気と平静でこの瞬間を通り抜ける人は、知のマスターになり、素晴らしい神秘が解き明かされる。その人は情熱の根源の直視を得て、無意識のまさに中心に入る。そして、この入り口は一種の超自然的な自由をもたらす。

瞑想から観察へ、観察から知へ、知から自由へ、これが道だ。これが宗教の道であり、ヨーガの道だ。私はあなたにこの道を理解し、この道を歩いて欲しい。そうすればあなたは、内なる革命による行動の変容の錬金術を知ることになるだろう。そうすれば、道徳ではなく宗教が根本的なものであり、道徳は宗教から流れ出るものであることに気づくだろう。道徳は、牛車の車輪が牛車に従うように、軌道のように宗教の後に続く。もしこれが明らかになれば、あなたは非常に偉大な真理を見ることになり、大きな幻想は消散するだろう。

私は、この内なる革命、意識による無意識の浸透という観点から、人類の変容を見ている。この知に基づいて、新しい人間が生まれ、新しい文化と新しい人間性の基礎を築くことができる。このような人は、自己認識によって目覚めた人であり、自然に道徳的だ。その人は道徳を培う必要はない。道徳は、行動や努力の結果ではなく、ランプから光が放射されるように、その人から放射される。善行は、無意識の心の反対に基づいているのではなく、内なる存在の完全性から出てくるものだ。すべてのことを、その人は全存在で行う。その中には二重性も多重性もなく、統一性がある。そのような人は統合されており、二元性から解放されている。

そして、すべての葛藤や束縛を超えたときに聞く神聖な音楽は、この世界のものでも、この空間のものでもない。そこには時を超えた交響曲、至福の音があり、それは平和、無心、そしてすべての不和からの解放のその瞬間に、私たちの中に響く。この音楽のリズムは、無限との同調をもたらす。

私にとって、この実現こそが神なのだ。

第4章は以上です。
>>72 観察と、観察の終わりについて、ありがとうございました。お釈迦様が、「つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は死者のごとくである。」と述べていますが、それと同じことでしょうか? 私も悟りを得るまで自己観察に励むことを誓います。

74 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/23(水) 23:36:56 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
絶望に陥っても日々修業し続ける者が常に新しく生まれ変わるのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。

瞑想をして心を止め、観察して気付くと自我が無と理解できて厭離も起こるのじゃ。
更に認識まで気づけば大悟なのじゃ。
そして全てが自由になるのじゃ。
それが出来れば仏陀なのじゃ。

75 避難民のマジレスさん :2020/12/24(木) 20:37:24 ID:Dp/qMVVc0
第5章 2日目の夜 1964年6月5日 午後
最初の質問:道徳的であることは悪いことだと思いますか?

私は道徳的であることは悪いことだとは見なさないが、道徳的であるという幻想は悪いことだと見なす。それは本当の道徳の邪魔になる。

偽りの道徳は、外側の塗装、覆いだ。偽善を満足させる以外の目的はなく、私からしてみれば、偽善とエゴイズムほど不道徳な心の状態はない。偽りの道徳は謙虚さとエゴイズムからの解放の見せ物を作るが、その下ではエゴが養われ、繁栄している。あなたはこの国のいわゆる求道者や聖人たちの中に、私が言っていることの真実が見えないだろうか? 努力によって採用され、育成され、達成されたこのいわゆる道徳は、私の見解では、演技以外の何ものでもない。多くの場合、人の心の中にあるものは正反対のものだ。表面に見えるものは、内面にはない。上には花があり、下には茨がある。そして、行動と内なる存在との間の絶え間ない戦い、意識と無意識との間のこの橋渡しのできないギャップが、人格を分裂させ、崩壊させてしまうのだ。そのような人には調和はない。そして、調和も音楽もないところには、喜びもない。私の見解では、本当の道徳的な生とは、喜びの表現だ。

道徳とは、喜びの表現であり、自然発生的な表現だ。喜びが自分の内なる存在から流れ出るとき、それは善行や道徳として外に表現される。そのような人から発せられる至福の香りは、まさに生の善良さだ。

それゆえに、争いではなく、調和を作ってほしい。どうかこの真実を見ようとしてもらいたい。私の言うことをただ聞くのではなく、生きてみなさい。そうすれば、私たちがいかに自分たちの手で、生を争いと内なる二重性の無秩序の中に投げ込んできたかがわかるだろう。

道徳は、木に花が咲くように、自ずとやってくる。それは達成ではない。瞑想の種が蒔かれ、道徳の作物が収穫されるのだ。道徳は努力によって達成されるものではない。瞑想によって達成され、到達されるものなのだ。瞑想からは、平穏と調和と美しさが流れてくる。そして、自分の中で平穏である者は、他の人を落ち着かなくさせることはできない。自分の中に音楽を持っている者は、自分の音楽の響きが周囲から反響していることに気づき、自分の中に美を持っている者は、自分の振る舞いがすべての醜さを消し去る原因になることに気づくだろう。これらすべては、それ自体が道徳ではないだろうか。

例えば怒りが生じた時に、それを表現すると自他を傷つけることがあります。その場の観察ですぐに怒りを厭離できれば良いのですが、それがうまくいかない場合はどうしたら良いでしょうか? もしその場を離れることができるのなら、離れてじっくり観察したり、気分転換に自然の中を歩いたりするのですが。

76 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/24(木) 22:23:56 ID:1d4drIFg0
怒りが起こっていると気付いたならば何もしないようにするのじゃ。
怒りがある時、どのような行いも怒りによって暴力的なものになってしまうからなのじゃ。
仕事かをしなくてはならないときには丁寧に行うことを心がけて行うと善いのじゃ。
怒りが収まったら普通に動くと善いのじゃ。

77 避難民のマジレスさん :2020/12/25(金) 21:16:51 ID:Dp/qMVVc0
第二の質問:あなたは「道徳性は社会的有用性である」と言いますが、個人にとっては無益なのでしょうか? それは個人には全く役に立たないのでしょうか?
道徳や道徳的行動は、社会に関する限り、単に実用主義的なものだが、個人にとっては、それは実用ではなく、喜びだ。したがって、社会のニーズは疑似道徳でも満たされるが、個人にとってはそれだけでは十分ではない。他人に対して良い振る舞いをすることは、社会にとってはそれで十分だが、個人にとってはそれで十分ではない。自分の内面が良いかどうか--このことをこそ、見極めなければならない。社会はあなたの内面ではなく、あなたの人格に関心を持っている。しかし、あなたにとって人格は衣服にすぎない。この覆いが外れたところからあなたは始まるのだ。この人格の仮面から離れて、その背後にあるのがあなたの本当の存在だ。そして、ここに本当の道徳が生まれるのだ。

偽りの道徳によって作られた社会を文明と呼び、本当の生に到達した人間で構成された社会を文化と呼ぶ。これが文明と文化の区別である。文明は実用であり、文化は内なる調和と喜びだ。

今日の私たちには文明はあるが、文化はない。文明は他人との関係を浄化することから生まれ、文化は自分自身を浄化することから、徳を積むことから生まれる。文明とは肉体であり、文化とは魂だ。魂にしっかりと根を張っている者だけが文化を創ることができるのだ。

第三の質問:宗教は社会的なものではないのですか? 完全に個人的なものなのでしょうか?
そうだ。宗教は絶対に個人的な問題だ。社会には魂も意識の中心もない。社会は、私たちの相互関係の産物に過ぎない。魂を持っているのは個人であり、それゆえに宗教も同様に個人的なものでなければなならない。宗教は私の関係の一つではなく、私の存在だ。自分の本性、自分の本当の存在を発見することと、その後に続く表現が宗教なのだ。

宗教、ダルマは自己認識だ。宗教は社会的なものではないので、修行、宗教の実践は集団とは関係ないが、宗教的な経験は集団や社会に光を当てる。宗教の実践は個人的なものだが、社会にも影響を与える。人が内なる光に満たされていれば、その人の行動も内なる光で満たされる。内なる存在は個々のものであり個人的だが、行動は社会的なものだ。

修行は決して集団的ではあり得ない。なぜならば、他者と一緒にではなく、独りで、完全に独りで自分自身を知るようになる必要があるからだ。プロティノスはよくそれを表現した:「独りから独りへの飛翔。」 まさにその通りだ。その飛翔は確かに非常に孤独で、仲間のいないものだ。しかし、飛翔から得られる喜びは他の人に感染し、彼らもまた動かされる。孤独の中で得られるもの、自己の孤独の中で得られるものは、四方にその香りを広げていくのだ。

プロティノスは悟りを得ていたのでしょうか?

78 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/25(金) 23:18:16 ID:1d4drIFg0
プロティノスは悟っては居ないのじゃ。
しかし、サマーディにまでは到達していたのじゃ。
エクスタシスとは忘我であるから正にサマーディなのじゃ。

79 避難民のマジレスさん :2020/12/26(土) 21:02:32 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:神とは何ですか?
神とは人ではなく、経験だ。観ること、自我を解体した後の宇宙についての経験、それが私が神と呼ぶものだ。神の経験には特定の種類のものはなく、むしろ、完全で普遍的な愛の経験が神だ。それは中心を持たず、すべての存在だ。すべての存在がその中心だ。神の経験を語るのは間違いだが、あなたは完全な愛の経験は神だと言い得る。

愛とは、二人の人間の間の関係だ。この同じ関係が個人と存在の間にあるとき、私はそれを神と呼ぶ。究極の段階、愛の開花こそが神なのだ。そして、ここで私は、「神は愛なり」というキリストの格言を思い出す。

「私」が消えたとき、残るものは愛だ。自我を取り囲む壁が崩れたとき、残るものは愛だ。愛そのものが神なのだ。それゆえに、神を知ることは不可能だが、神になることは可能だ。

第五の質問:あなたは、私たちが生きているこの生は、全く生ではなく、死ぬことの長い引き延ばしの過程だと言いました。これはどのようなことを意味していますか?
我々が生と呼んでいるものが生ではないことは、まったくの真実だ。もしそれが本当に生であるならば、いったいどうやって死で終わるのだろうか? 生と死は二つの矛盾したものなので、どうして死が生の成就になるのだろうか? 死は誕生の終わりであって、生の終わりではない。

そして、死は最後に来るということから、死は最後にだけ始まると考えてはならない。死は誕生そのものの中に現前しているのだ。それは生まれたその日から始まるのだ。生まれた後、私たちは刻一刻と死んでいく。この死の過程が完了したとき、私たちはそれを死と呼ぶ。生まれた時に種として存在していたものが、最後には完熟した形で現れる。したがって、死後には何も確実なものはないが、死は確実だ。それは、誕生そのものと一緒にやってくるからだ。誕生は死の別名にすぎない。このことをよく理解しておこう。あなたは生まれたその日から死に始める。だからこそ、私たちが知っているような生は、生ではなく、ゆっくりと徐々に死んでいく長い過程であると言いたいのだ。

私たちはこのゆっくりとした死に慣れていて、生には慣れていないので、いつもこの死から自分自身を救おうと忙しくしている。私たちの計画や活動はすべて、ある種の安全と自己防衛を目的としている。そして、私たちは何をしているのだろうか? 私たちはいつも死から身を守ることに忙しくないだろうか? また人は、同じ理由で、防衛のために宗教的になる。死が近づいていると感じた時に宗教に入るのは、そのためだ。 ほとんどの場合、老人の宗教はこの種のものだ。私はこれを本当の宗教性とは呼ばない。それは死への恐怖の一側面に過ぎない。それは最後の安全対策だ。真の宗教性とは、恐怖からではなく、生の経験から出てくるものなのだ。

仕事や娯楽に打ち込むのも、死から身を守るというか、死を忘れるための活動だと感じ、何をしているのだろうと思う時があります。一方で、そのような活動から得られる快を好ましく感じる時もあります。引き続き、偽りの観念の観察に励みます。

80 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/26(土) 23:13:49 ID:1d4drIFg0
神とは愛だというのじゃ。
そして無我になった時から現われる宇宙の体験も神だというのじゃ。
キリストも神は愛と言ったのじゃ。
神を知ることは不可能だが神にはなれるというならば、愛を知ることは不可能だが愛には成れるという事なのじゃ。

81 避難民のマジレスさん :2020/12/27(日) 21:11:02 ID:Dp/qMVVc0
私たちが現在知っていることは何であれ、死以外の何物でもないということを認識すべきだ。そして、この死を知ることが、不死につながるのだ。この体は死ぬ。それは刻一刻と死んでいく。身体を観察することで、この死すべき器の認識に目覚めることで、私たちは身体ではないものを経験し始める。身体ではないものを知ること、魂を知ることは、魂は決して生まれず、したがって決して死ぬことがないゆえに、現実の生を知ることだ。真理はあなたの誕生前から存在しており、あなたが死んだ後も存在し続ける。これが生だ。生は誕生と死の間の広がりではない - それどころか、誕生と死はその過程で起こる多くの出来事にすぎない。

瞑想中、心が静かで空になっているとき、身体とは別の、離れた何かが見えてくる。それは、湖の水面にさざ波があるときに湖の深さを覗くことができないのと同じように、心が落ち着かないときには見ることができない。そして、心の上で波打つ思考の波の連続的な流れのために、それらの下に隠されているものは隠されたままである - そして、私たちは、真理全体の表面を得る。自分の居場所でしかない身体は、すべてであり、すべてであるかのように見える。それは、身体が自分の存在であり、自分の生命であるかのような錯覚を生み出す。あなたは自分の全体を身体に限定されたものと考え、それ以上のものは何もないと考えている。このような身体との同一化、身体と一体であるという幻想は、私たちが本当の自分を知ることを許さず、私たちは、一定期間にわたって行われている、徐々に死へと向かう過程を生として見ている。これは、自分の家屋の建設と破壊を自分の誕生と死と見なしているのと同じような間違いだ。

この闇は、精神的な平穏の到来とともに消えていく。この精神的な不安が作り出した幻想は、静けさによって払拭される。波によって隠されていたものが、波の無いことによって明らかになる。そして初めてこの身体の住人を知る。それを知るとすぐに、死は古い服を脱ぎ捨てること以上のものではなくなり、誕生は新しいものを着ることとなる。そして、服を必要としない存在がいる。私が生きていると呼ぶ唯一の人間は、このような生を知る者である。身体を自分の存在として見ている人たちは皆、まだ死んでいる。本当の生はまだ始まっていない。その人たちは夢の中にいて、眠っていて、気絶している。

この夢から目を覚まさなければ、身体が自分の存在であるというこの妄想から目を覚まさなければ、人は自分の自己、本質、大黒柱、生を知ることは決してできないだろう。この世界は、死者、生きている死者で溢れていて、大多数の人は生きたことがないまま死んでいくのだ。彼らは死から身を守ろうとして消耗し、内なる者、死を超えた、不死の者を知ることはない。

夢から目を覚ましたいです。今日も観察に励みます。

82 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/27(日) 21:56:54 ID:1d4drIFg0
身体もよく観察すれば全てと繋がっていることがわかるのじゃ。
呼吸を通して、食物やエネルギーを通して、全てと一つなのじゃ。
身体に拠って全てと分かれた自己があるという認識は誤認なのじゃ。
それが理解できれば不死の境地に至れるのじゃ。

83 避難民のマジレスさん :2020/12/28(月) 20:43:02 ID:Dp/qMVVc0
第六の質問: 私は死んでいることをあなたの言葉で知りました。生き返るためにはどうすればよいですか?
友よ、もしあなたが私の言葉だけでそう思うなら、それは何の価値もない。私が言ったことを忘れて、他の人が言ったことを忘れて、もう一度見なさい。あなた自身がそれを見なければならない。その観ることそのものが、あなたを生へと導く道になるのだ。そうすれば、「生き返るためにはどうすればよいですか?」 という問いかけはなくなる。

自分が死んでいること、自分の存在も人格もずっと死んでいたことに気づく人は、同時に死んでいないものが見えてくるのだ。しかし、あなたがこれを観るためには、精神的な落ち着きの無さを捨てなければならない。見ること、ダルシャンは、心が静かで、空っぽで、情熱のないときにのみ可能だ。今は思考だけしかない。見ることもダルシャンもない。 私があなたに言ったことが正しいと考えることもまた、それ自体が思考だ。この思考は全く役に立たないだろう。

すべての思考は借り物なので、思考は真理を明らかにすることはできない。すべての思考は他人のものだ。それらは真実を余すところなく隠しているだけなのだ。あなたは、自分の思考がすべて他人から借りてきたものであり、本当に他人のものであることに気づいたことがあるだろうか? あなたは偽物の資本を蓄積している。それは全く資本ではないので、それに頼ってはならない。この種の資本の上に築かれた城は、あたかも、あなたが夢の中で築くもののようだ。トランプの家ほどの現実性もない。

確かに、記憶するためには記憶の対象が必要であり、思考は記憶がなければできないので、思考の全ては借りものですね。そして、そう思うと抵抗感が生じるというのは、思考に執着しているということなのでしょう。さらに観察します。

84 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/28(月) 23:03:46 ID:1d4drIFg0
思考に拠っては真実は見えないというのじゃ。
自ら自分を観察して真実を明らかにするのじゃ。
観察して死んでいるものがみえれば、生きているものもみえるのじゃ。
それが不死の境地なのじゃ。

85 避難民のマジレスさん :2020/12/29(火) 20:58:16 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたに考えさせたくない。借り物で満たしたくない。考えさせるのではなく、目覚めさせたいのだ。考えることを放棄して、見てほしい。そして、何が起こるかを見てほしい。考えることから見ることへと進む。このことだけが、あなたを真理へと、本当の資本、あなた自身の本当の富へと導くだろう。考えることをせずに見るというこのプロセスが、どのようにして神秘のカーテンを外すのかは、実際に自分でやってみないとわからない。

覚えておきなさい、他の人があなたに与えることができる世界には価値のある経験はない。与えられるものは、決して価値のあるものではない。また、経験も与えられることはない。物質的なものは与えられたり、取られたり、交換されたりすることができるが、生きた経験を物々交換する方法はない。経験というものの性質上、マハヴィーラもブッダもクリシュナもキリストも何も与えることはできない。そして、思考にしがみつき、自分の思考を真理として受け入れる者こそが、真理を奪われた者だ。人を解放するのは、他人から借りたものではなく、自分で気づく真実なのだ。

ギータやコーランや聖書を暗記しても何の役にも立たない。それはあなたに知をもたらすものではない。それどころか、それはあなた自身の自己認識能力を窒息させ、決して真理に直面することができなくなる。シャスターラや聖典から記憶した世界は、常にあなたと真理の間に入ってくるだろう。それらは霧と埃を作り出し、あなたが実際に何であるかを見ることができなくなる。私たちは、自分と真理の間に立っているすべてのものを取り除かなければならない。

真理を知るためには、思考からの助けは必要ない。すべてのものを取り除けば、あなたは心を開くだろう。そうすれば、真理が中に入ってきて、あなたを変容させるような開きがあるだろう。思考を放棄して、見なさい。ドアを開いて、見なさい。これが私が言わなければならないことのすべてだ。

どうなれば悟りを得られるかは完全に頭で理解していて実践しているのに、それが起こらないのがもどかしいです。気をつけて観察します。

86 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/29(火) 21:37:37 ID:1d4drIFg0
今まで教育された文字や公式等の知識を記憶して思考する方法は悟りの役に立たないのじゃ。
ただひたすらに自分の心を観察することが悟りへの道なのじゃ。
それにはむしろ思考を放棄しなくてはならないのじゃ。
記憶された知識による思考は障害になるばかりなのじゃ。
自分の心の働きを少しでも理解できれば、進んでいくことができるのじゃ。

87 避難民のマジレスさん :2020/12/30(水) 20:50:51 ID:Dp/qMVVc0
第七の質問:あなたは、シャーストラの研究は必要ないと思いますか?
シャーストラ、聖典の研究は、どのような目的のために役立つのだろうか? そのような方法では知を得ることはできない。それはあなたの記憶を訓練するだけだ。いくつかのことを学ぶことができるが、学ぶことと知ることは全く異なるものだ。あなたが学ぶのは、神について、真理について、魂についてだ。あなたは、それらについての質問に既成の回答を与えることができるようになる。しかしそれは、あなたの家のオウムが毎朝繰り返していること、つまり、オウムが言うように教えられてきたことと何の違いもない。真理は聖典の中には見つからない。それは自分自身の中に、あなた自身の中にある。

シャーストラは単なる言葉に過ぎず、自分自身の中で真理を実現した場合にのみ意味がある。そうでなければ、それらは役に立たないだけでなく、有害なものだ。真理はシャーストラを学ぶことによって知ることはできないが、真理を知っていれば、シャーストラは確かに知ることができる。

しかし、私の目の前には何が見えるだろうか? 人々は真理の代わりにシャーストラを研究していて、これらの研究から得た知識に満足している。なんという空虚で偽りの満足感なのだ! それは、私たちが本当に真理を知りたいと思ってはいないことを示唆しているのではないか。私たちはただ真理を知っていると人々に信じてもらいたいだけなのだ。「水」という言葉で人の渇きが癒されるという話を聞いたことがあるだろうか? そして、もしそれが簡単な言葉で癒されたとしたら、そこには全く本当の喉の渇きがなかったことを示しているのではないだろうか?

もしシャーストラが一つのことを教えてくれるとしたら、真理はシャーストラを通しては実現できないということ、それだけで十分だ。それが唯一の用途だ。もし言葉が私たちに、その言葉が役に立たないことを教えることができれば、その目的を果たすだろう。もしシャーストラが私たちに満足をもたらすのではなく、私たちに不満を与え、知を与える代わりに、私たちの無知に気づかせてくれるのであれば、それだけで十分だ。

私も言葉を話しているが、これがシャーストラがどのようにして生まれたかを示している。もしあなたが言葉にしがみついているだけなら、私の努力は無駄になる。どんなに多くの言葉を暗記しても、何の役にも立たないだろう。これらはまた、あなたの心を投獄し、その後、あなたは自分で作った、言葉で作った牢獄の中であなたの人生のすべての間さまようことになる。私たちは皆、自分で作った牢獄に閉じ込められているのだ。真理を知りたければ、言葉のこの牢獄から抜け出し、壁を壊し、情報の玉座を灰に焼きつくしなさい。これらの灰から知が生まれ、自由な意識の中であなたは真理を見るだろう。真理は遅かれ早かれやってくるだろうが、自分の中にそれを受け入れる余地を作らなければならない。もしあなたが言葉を捨てれば、真理は空になった空間を占めることになるだろう。

私も悟りを得た人たちの言葉を集めて逃避しないように、気をつけて精進します。

88 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/30(水) 21:58:32 ID:1d4drIFg0
知識を盾にして自分の心の探求を怠るならば、悟りはやってこないのじゃ。
そのような状態では聖典もむしろ障害になったと言えるのじゃ。
読まないほうが良かったのじゃ。
真の教えは自らの心を観る実践を教えるものじゃ。
実践しなければ聖典も何の意味も無いのじゃ。

89 避難民のマジレスさん :2020/12/31(木) 21:03:55 ID:Dp/qMVVc0
第八の質問:人間は、抑圧によって、また、自分自身との戦いによって、自分自身を征服することはできないのでしょうか?
「抑圧」と「自分自身との戦い」という言葉はどういう意味だろうか? 個人が自分自身を分裂させるという意味ではないだろうか? その人は自分自身と戦うことになる。つまり、攻撃と防御を同時に行うということだ。味方であると同時に敵でもある。エネルギーは両方の側に使われる。これは決して勝利にはつながらず、その人を弱体化させ、その人の力を粉々にするだけだ。私の両手をお互いに戦わせるとどうなるか想像してみなさい。自分と喧嘩しても同じことが起こる。そのような戦いは、全くの馬鹿げたものだ。

友よ、自分と戦うのではなく、自分を知ることだ。無知から生まれた矛盾や自己撞着は、自己認識の光の中で消えていく。自己に対する勝利は、競合からではなく、知を介してやってくる。というのも、倒すべき相手はいないからだ。他はなく、無知だけがある。そしてもし無知があるとしたら? 無知に勝つために何があるのだろうか? それは知が来た瞬間に消えてしまう。 無知とは、知がないことを否定的に捉えているに過ぎない。無知と戦う者は影と戦う。その人は最初から失敗の道を歩いている。

この自己征服のための自己戦争という概念は、外の世界での敵同士の争いの反映から来ている。私たちは、外の世界の敵に対して暴力を犯すのと同じように、内なる世界で暴力を犯そうとするのだ。何という狂気の沙汰なのだろうか! 外の世界でさえ、暴力が誰かを征服したことはない。征服と敗北は全く異なるものだ。

しかし、内なる世界では、いわゆる敵を倒すために暴力を使うことさえできない。なぜならば、倒すべき人などいないからだ。自己認識は争いの結果ではなく、知ることの結果なのだ。だから私は言う「戦うな、知れ。争いを忘れ、知を選べ。」と。

そして、これをあなたの格言としよう:自分自身を発見し、知りなさい。あなたの中に、あなたの知らないことが何もないようにしよう。一隅として、暗く未検査に、放置してはいけない。自分の奥の部屋のすべてに精通していれば、その知は自己征服になる。

私たちは皆、暗い家の中や、日光や新鮮な空気が届かない隅や地下室に、蛇やサソリやコウモリが住み着いていることを知っている。そして家の所有者が家の外で生活し、家の中に入ることなく過ごしているならば、家がこのような悲惨な状態になっていることは驚くべきことでもないし、不自然でもないのではないか? これが私たちの身に起こったことなのだ。私たちもまた、そのような家の所有者であり、家に入るための扉がどこにあるのかさえ忘れてしまっている。私たちがおらず、光がないために、敵の隠れ家になってしまったのだ。

とにかく、徹底的に自分自身を観察する必要がありますね。自分自身と戦わず、焦らず着実にできるだけ観察します。

90 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2020/12/31(木) 21:25:53 ID:1d4drIFg0
自分自身と戦うということはできないのじゃ。
攻撃するのも防御するのも自分であるからのう。
何をしているのかわからんのじゃ。
自分自身を理解することができることなのじや。

91 避難民のマジレスさん :2021/01/01(金) 21:06:32 ID:Dp/qMVVc0
第九の質問:あなたは、情熱の抑制は有害であると言います。放縦が適切な道だと言いたいのですか?
私は抑制を説かないし、放縦も説かない。抑制と放縦を知ることを説く。抑制と放縦は両方とも無知であり、両方とも有害だ。抑制は放縦への反動に過ぎない。それは他を逆の形にしたものに過ぎない。抑制は逆さま置かれた放縦に過ぎない。放縦は抑制とあまり変わらない。頭の上に立っているものは同じだ。

ある人が、お金から顔を背けていたサードゥについて話してくれました。顔を背けるのと、お金を見てよだれを出すのとでは、大きく違うのだろうか? 欲から逃げようとしても同じことが起こる。欲はなくならならず、別の形をとる。そして、大きな問題は、この別の形では、それはこれまでと同じように強くなるということだ - そして今、それはあなたには見えないので、より安全だ。それゆえに、それは無傷のままであり続けるだろう。それに加えて、無欲だという錯覚が入り込んでくる。これは、一つを追い出そうとしている間に二つの敵を招き入れているようなものだ。

私はここにいる皆に、欲望を知り、怒りを知って欲しいと思う。それらと戦ってはいけないし、それらに盲目的に従ってもいけない。油断なくいるべきなのだ。観察し、それらすべての形、強さ、技量に精通する必要がある。
今までにあなたは怒りを見たときに、怒りが消えることに気づいたことがあるだろうか? しかしあなたはすぐに、それを甘やかすか、抑え始める。いずれにしても、あなたはそれを観察しない。それは目に見えないまま、未知のままだ。ここで私たちは間違いを犯すのであり、放縦と抑制の両方がこの間違いを助長しているのだ。

この二つとは別に、第三の選択肢がある。私はそれを提案したい。それはあなたの性癖を見て、観察することだ - それと何かをするのではなく、単にそれを見る。目がはっきりと着実に見始めると、あなたはそれが離れて落ち、消えてしまうことに気づくだろう。それはあなたが観ている目の中で立っていることはできない。その存在は幻想の状態でのみ可能であり、見守る意識の中では、生命を失って死んでしまうのだ。私たちの妄想、私たちが観察しないことがその存在だ。それは暗闇の中でしか生きられない昆虫のようなものだ。光があるとすぐに死んでしまう。

実践しようとすると、実際に怒りが生じた瞬間を観察できることは少ないので、どうしても、怒り→ 行動の欲求 → 抑制 → 観察 となってしまいますが、それが自分で分かっていれば、大丈夫でしょうか?

92 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/01(金) 21:38:12 ID:1d4drIFg0
怒りもその瞬間に観ているのがよいのじゃ。
それが出来なくとも思い出したときに観れば善いのじゃ。
日々続けていれば瞬間にも見ることができるようになれるのじゃ。
それまで日々精進あるのみなのじゃ。

93 避難民のマジレスさん :2021/01/02(土) 20:48:03 ID:Dp/qMVVc0
他の人にどのように見られているかは関係ないということも伝えておきたい。自分をどのように見るかこそが重要なのだ。しかし、私たちは他人の目を通して自分自身を見る習慣に陥っていて、自分自身を見るための直接で即時の方法があることを忘れている。これは、見るための本当の方法だ。直接なのだ。しかし、私たちは自分自身の偽のイメージを創り出し、他の人を欺くために仮面を被り、その後、我々は他の人がどのように私たちを見ているかで自分自身の意見を基礎づける!

自己欺瞞のこの過程は、生涯を通して私たちと共にある。それは、自己実現の道において主要な障害の一つになる。私たちは、この障壁を打破しなければならない。最初は、すべての自己欺瞞を打ち破り、自分がどのようなものか、全くの裸の自分を知ることが必要だ。なぜならば、これが行われた後にのみ、自己実現の方向への本当の一歩を得ることができるからだ。

人は、自分自身について誤った観念を持っている限り、また、役割を演じている人格が本当の自分であるという妄想が続く限り、真理の領域に入ることはできない。神、全能者、真実、あるいは私たちの本当の存在を知る前に、私たちは自分自身を覆ってきた架空の人格を灰にしなければならない。この欺瞞の仮面は、私たちが本当の生を生きることを許さず、私たちが演じている人工的な生の上に立つことを許さないのだ。生の道を歩きたい人は、その偽の夢から目覚めなければならない。

あなたは今まで自分がドラマの中で演じている、演技していると感じたことはないだろうか? 今までにあなたが内側では一つのものであり、外側ではかなり別のものであると感じたことはないだろうか? 正気の瞬間、自分が自分自身である時には、この欺瞞の意識があなたを悩ませることはないだろうか? もしそのような疑問があなたの中に起こり、悩ませているのなら、この事実はあなたをドラマの外に連れ出し、舞台から堅実な地平に連れ出し、役を演じるのではなく、あなた自身が自分自身であるしっかりとした地面に連れて行くことができるのだ。

社会的な場面で演技が必要な場合は、演技している自分に気づいているようにすれば良いでしょうか? 会話中に自分を観察するのは、特に難しく感じます。

94 避難民のマジレスさん :2021/01/02(土) 20:48:46 ID:Dp/qMVVc0
他の人にどのように見られているかは関係ないということも伝えておきたい。自分をどのように見るかこそが重要なのだ。しかし、私たちは他人の目を通して自分自身を見る習慣に陥っていて、自分自身を見るための直接で即時の方法があることを忘れている。これは、見るための本当の方法だ。直接なのだ。しかし、私たちは自分自身の偽のイメージを創り出し、他の人を欺くために仮面を被り、その後、我々は他の人がどのように私たちを見ているかで自分自身の意見を基礎づける!

自己欺瞞のこの過程は、生涯を通して私たちと共にある。それは、自己実現の道において主要な障害の一つになる。私たちは、この障壁を打破しなければならない。最初は、すべての自己欺瞞を打ち破り、自分がどのようなものか、全くの裸の自分を知ることが必要だ。なぜならば、これが行われた後にのみ、自己実現の方向への本当の一歩を得ることができるからだ。

人は、自分自身について誤った観念を持っている限り、また、役割を演じている人格が本当の自分であるという妄想が続く限り、真理の領域に入ることはできない。神、全能者、真実、あるいは私たちの本当の存在を知る前に、私たちは自分自身を覆ってきた架空の人格を灰にしなければならない。この欺瞞の仮面は、私たちが本当の生を生きることを許さず、私たちが演じている人工的な生の上に立つことを許さないのだ。生の道を歩きたい人は、その偽の夢から目覚めなければならない。

あなたは今まで自分がドラマの中で演じている、演技していると感じたことはないだろうか? 今までにあなたが内側では一つのものであり、外側ではかなり別のものであると感じたことはないだろうか? 正気の瞬間、自分が自分自身である時には、この欺瞞の意識があなたを悩ませることはないだろうか? もしそのような疑問があなたの中に起こり、悩ませているのなら、この事実はあなたをドラマの外に連れ出し、舞台から堅実な地平に連れ出し、役を演じるのではなく、あなた自身が自分自身であるしっかりとした地面に連れて行くことができるのだ。

社会的な場面で演技が必要な場合は、演技している自分に気づいているようにすれば良いでしょうか? 会話中に自分を観察するのは、特に難しく感じます。

95 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/02(土) 23:25:50 ID:1d4drIFg0
演技している自分に気付くとよいのじゃ。
それは集中の瞑想をしていればできるようになるのじゃ。
集中している意識と雑念が同時に気付くことができるようになるからのう。
日常でも自分と縁起に同時に気づくことが出来るのじゃ。

96 避難民のマジレスさん :2021/01/03(日) 20:53:58 ID:Dp/qMVVc0
自分自身にこの問いを訊ねなければならない。「私は本当に自分が思っていた通りの人間なのだろうか?」この問いは、あなたの存在の奥底に響くに違いない。その問いは、それが幻想であるかもしれないと考える余地がないような鋭敏さと意識を持って、あなたの深みに立ち上がらなければならない。

この問い、この探求、この内省は、私たちが眠りから揺り起こされたと感じるような、意識の新鮮な目覚めをもたらす。すると、私たちが建てた城は夢の中で建てられていることを見始め、航行している船は紙で作られていたことを見始める。あなたの生が非現実的なものに思えてくる。実際には、それはあなたのものではなく、演じてきたいくつかのドラマの一部であり、教育、訓練、文化、伝統、社会があなたをキャスティングしたドラマだ。しかし、このドラマはあなたの中に根を下ろしているわけではない。

私たちはほとんど人間ではない。ただのかかしで、何の根もなく、何の基盤もなく、おとぎ話の登場人物のように、夢の中の登場人物のように、現実には何の存在もない。私はあなたが夢の中で迷子になって動いているのを見る。 あなたの行動はすべて睡眠の中で行われている。活動はすべて眠りの中で行われている。しかし、あなたはいつでもこの眠りから目覚めることができる。これが睡眠と死の違いだ。あなたは前者からは目覚めることができるが、後者からは目覚めることができない。どんなに深い眠りの中にいても、必ず目覚める可能性がある。眠りにはこの可能性が隠されている。

あなたが自分自身に直面すると、自分自身を非常にハンサムだと思っている男が、まさに初めて鏡の前に立ったときに幻滅するように、多くの幻想が粉々になるだろう。身体を見るための鏡があるように、自己を見るための鏡がある。私はこの鏡の話をしている。自己観察とは、この鏡のことだ。

あなたは本当に自分の真実を見たいだろうか? 本当の自分に会いたいと思っているだろうか? そして、全裸の自分を見られる可能性があることを知って、怖くないだろうか? このような恐怖はごく自然なことだ。私たちが常に自分自身についての新しい夢を思い浮かべ、本当に誰であるかを忘れようとすることは、この恐怖のためだ。しかし、この夢はあなたの仲間になることはできない。夢の助けを借りても、どこにも行くことはできない。それは単に時間を無駄にし、あなたは自分を家に導くことができる貴重な機会を失う。

オショーの述べる通りに自分を観ると、場面や状況に応じて、異なった自己イメージが生じるのが判ります。しかし、独りでリラックスしているときの自分自身も、この心身の性質にぴったり合っているように思えるだけで、イメージには変わりがないです。このようなイメージがどのような条件で、どのように生じるのか、日常の中でもさらに詳しく観察するようにします。

97 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/03(日) 23:39:00 ID:1d4drIFg0
観念の自分は全て幻想で在るとオショーは言うのじゃ。
幻想の世界で幻想の自分が動いていると想っているだけなのじゃ。
それをありのままに観ることすら拒んでいるのじゃ。
自らを観る強い意志を起こして自己観察に取り組むべきなのじゃ。

98 避難民のマジレスさん :2021/01/04(月) 20:51:28 ID:Dp/qMVVc0
あなたは、なぜ私があなたのこの裸、醜さと自分自身の空虚さを見ることをこんなに主張するのか、不思議に思うに違いない。見るのに相応しくないものは見ない方がいいのではないか? 醜いものは宝石で飾り、見る価値のないものはカーテンで覆うのもいいのではないか? 一般的には、これがまさに私たちがしていることだ。これが一般的な習慣だ。しかし、この習慣は非常に有害だ。なぜならば、私たちが隠しても傷は癒えないからだ。それどころか、感染して危険な状態になる。そして、覆い隠してきた醜さは取り除かれるのではなく、人格の内なる流れに入っていく。悪臭が内部に広く行き渡る間、私たちは表面に人工的な香水を振りかける。そして、香水がもはや役に立たず、内なる悪臭や病気が臭うようになる時が、宝石がもはや役に立たず、根底にある醜さが際立つようになる時が来るのだ。

私は香水を振りかけるためにいるのではない。私は悪臭を根絶やしにするためにいる。私は醜さを宝石や花で覆うためにいるのではない。醜さを取り除き、内側にある美しさと音楽を目覚めさせるためにいる。それらがなければ、他のすべてのものは無意味だ。私たちの努力はすべて無意味だ。それは砂を搾って油を得ようとするようなものだ。

だから私はあなた自身の中に隠されているものを明らかにするように願うのだ。自分自身を明らかにし、自分自身を知りなさい。自分から逃げてはいけない。そして、自分から逃げることはできない。あなたはどこに行くのか? 逃げて何を得るのか? どこに行ってもあなたはあなたと一緒なのだ。あなたは自分自身を変容させることはできるが、自分自身から逃げることはできない。

この変容の連鎖の最初の環は、自己観察だ。そして驚くべきことに、醜さを知ると、そこから解放されるのだ! 自己の恐れを知ることは、その恐れから自由になることであり、憎しみを知ることは、憎しみから自由になることだ。私たちが見ていないからこそ、それはそこにあるのだ。逃げようとしているので、それは私たちを追いかけている。私たちが停止した瞬間、それはまた停止する - 私たちが走っているときに影が一緒に走り、私たちが停止するときに停止するのと同じように。

会話中に自己観察することができました。相手とやりとりできないのではないかという心配がこれまで観察を阻んでいましたが、簡単な会話なら、全体で何が起こっているのかを失うことなく、問題なくできることが分かりました。さらに精進します。

99 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/04(月) 23:14:23 ID:1d4drIFg0
苦しみや悲しみが多くつまった心を観ることは誰にでも辛いことじゃ。
しかし、それを観ることで苦しみや悲しみは滅していくのじゃ。
そうすれば飾りの無い自分が見えるようになるのじゃ。
心を隈なく観ることで悟りもやってくるのじゃ。

100 避難民のマジレスさん :2021/01/05(火) 21:09:40 ID:Dp/qMVVc0
そして、もしこれらのことに目を向けることができれば、全体の状況はすぐに変化する。私たちが幽霊や霊だと思っていたものは、単なる影だったのだ! 私たちが走っていたので、これらの幽霊や霊は追いかけて走ってきた - そして、これは私たちをさらに走らせた! 私たちが走るのを止めた瞬間、それらは無生命となり、私たちが見るとすぐに、それらは存在しなくなる。それらはただの影にすぎない。そして確かに影は何もできない。醜さの影があったので、それを覆うために、私たちはそれを花で飾った。こうして私たちは錯覚を起こした。今、それがただの影であって他には何もなく、それを覆う必要がなくなったことがわかると、私たちは影から解放され、それが常にそこにあった影であったことに気づくのだ。そして、このまさに実現は、私たちに美の視覚、最も美しいものの視覚を与えてくれるのだ。

私はこの視覚を持っている。私は影から逃げるのをやめ、そのことが私に影の向こう側を見る力を与えた。そしてそこで見たもの、その真理は、すべてを変えた。真理はすべてを変える。その存在そのものが革命なのだ。だから私はあなた方に恐れないようにと言う。そこに本当にあるものを見なさい。夢や想像の中に避難所を探してはならない。これらの避難所を手放す勇気のある者は、真理に守られている。

今朝、ある人から「自分を直接知るとはどういうことですか」と聞かれた。自分を直接知るということは、自分についての他人の意見を受け入れないということだ。自分の思考、情熱、行動、希望、願望、欲望の中に隠されたものが何であるかを自分自身で見なさい。目的地に着いた後で新しい場所を見るように、これらのものを直接見なさい。馴染みのない人や見知らぬ人を見るように、自分自身を見なさい。それはあなたに多くの良いことをするだろう。何よりも、それはあなたが心の中に作った自分自身の彫像を粉々に粉々に砕くだろう。この偶像が粉々に砕け散り、あなたは夢の国から現実の国へと移る。

私たちが正直で善良な者になる前に、まず、自分の中にある真実でないものや、悪を隠すために作り出した真実と善の幻想を払拭しなければならない。これらの幻想は、いずれにしても自己欺瞞である。無駄に自分のために架空のイメージや人格を作る人はいない。それは必要に迫られて行われる。それは、自分の目に映る屈辱から自分を守るために行われているのだ。自分の中に宿っている動物を垣間見ると、その動物の存在そのものが自分を苦しめ、自分の中で屈辱を感じる。

未だに瞑想で深い意識に落ちていく時に身体に緊張が生じます。この恐れを気をつけて観察します。眠りに落ちる時には緊張が生じないのは興味深いです。

101 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/05(火) 23:29:34 ID:1d4drIFg0
自分自身の欺瞞を観ることはなかなか難しいものじゃ。
それは屈辱とか苦からの逃避として作り上げたものであるからのう。
逃避していることから逃げずに直面しようとするから今までとは反対の視点を持たねば成らないのじゃ。
困難なことであるが全て乗り越えて進むしかないのじゃ。

102 避難民のマジレスさん :2021/01/06(水) 21:22:10 ID:Dp/qMVVc0
この屈辱から身を守るには、二つの方法がある。動物が消えてしまうか、動物のことを忘れてしまうかだ。動物が消えるためには、サーダナ、つまり修行を通さなければならない。しかし、動物を忘れるのはとても簡単だ。それはとても簡単なことだ。想像力だけでトリックを行うことができる。私たちは自分自身の偽りのイメージを作り、そのイメージの助けを借りて動物を抑圧する。しかし、動物は消えない。このイメージの背後で活動的になるのだ。イメージの背後には動物があるので、このイメージは外見だけだ。現実の生活の中で、このイメージが失われ、毎日打ち負かされているのに気づかないだろうか?これは当然のことだ。内側の動物は本物なので、私たちの努力すべてを打ち負かしてしまう。毎日、想像上のイメージが打ち負かされているのだ。

にもかかわらず、あなたは自分のイメージを生かしつづけ、大切にしている。慈善活動や犠牲、思いやりや奉仕の行為、いわゆる道徳的な行動のすべてを通して、他人や自分自身にそれが本物であることを証明する方法を見つけようと、いつも忙しくしているのだ。これらのすべては、ただ証拠を探しているだけではないだろうか? イメージが本物であることを証明しようとしているだけではないだろうか? しかし、これらはすべて無駄なのだ。あなたが作り上げた自分自身のイメージは、まだ死んだままだ。それは命を持たないままであり、そこに命が入る可能性はない。

この死んだ重荷からあなた自身を解放してもらいたい。この偽りの、死んだ仲間を解放して、本当のものを知り、理解しなさい。偽りのイメージを植え付けることは道を塞ぐことになるが、自分の中の動物を観察し、この欺瞞から解放することが道を示してくれるだろう。

昨晩私は畑を通ったが、そこでかかしを見た。棒が立てられ、シャツを着ていた。てっぺんには頭として、土の壺が置かれていた。暗闇の中で鳥や動物たちは、それを見張り番と見なして怖がって逃げていった。私はかかしを見て、また私と一緒にいる人々を見た。私は言った、「私たちもかかしではないかと、自分の中を見てみよう」と。すると、仲間たちが笑い出した。しかし、私は彼らの笑い声が完全に偽物であることを見た。

抑制と抑圧についてお教えください。抑制は意識して抑えること、抑圧は無意識で抑えることと解釈していますが、英語では両方とも suppress です。社会的場面では、抑制が必要になることがあり、お釈迦様も怒りを抑えよと説いています。オショーは surpressを説かず、自分の真正な感情の表現を勧めることもあるように思います。 私は自分で本心が分かってさえいれば、場面によって、抑制は問題ないと思っているのですが、お釈迦様とオショーの違いは、対機説法のためなのでしょうか?

103 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/06(水) 23:25:16 ID:1d4drIFg0
怒りは日常においては常に抑えるべきものじゃ。
怒りのために自他を傷付けたりすることもあるからのう。
修業ではありのままに観察するべきなのじゃ。
ありのままに観ることができればそれが起こっては消えることがわかるのじゃ。
そして囚われなくなるのじゃ。

104 避難民のマジレスさん :2021/01/07(木) 20:39:58 ID:Dp/qMVVc0
私たちについてのすべてが偽物になっている - 私たちの生活全体、取引、笑い、涙。すべてが偽物になっているのだ。私たちは、この偽のかぶり物の重さに疲れ果てている。そして、この偽のかぶり物はとても重いのだが、私たちは偽りの背後にあるものをさらに恐れているので、それを投げ捨てることはない。そこに入るのを恐れている。それどころか、私たちがいつも他人の中に軽蔑してきた存在が、そこに満開の花を咲かせているのだ。私たちの恐れは、自分自身を発見することを許さない。

自分のサーダナのために、自己実現のためには、恐れないことがまず第一だ。勇気を出せない人は、自分自身の中に入ることさえできない。自分自身に入るためには、暗い夜に孤独な岩場の道を歩くために必要な勇気よりも、はるかに大きな勇気が必要だ。なぜならば、人が自分の中に入るとすぐに、長い間大切にしてきた自分自身についてのすべての甘い夢が打ち砕かれ、自分自身が、最も醜く、最も不潔な罪に直面していることに気づくからだ。その罪から、自分は完全に自由だと思っていたのに。

しかし、自分を発見する勇気を持った者が、自分の中の暗い路地や谷間、長い間見捨てられていた場所に移動したとき、自分が新しい生に乗り出したことに気づく。闇の中に勇敢に飛び込んだ者は、最終的に光を得られる旅に出る。それは多くの生で求めてきた目標であり、これまであえて暗闇に足を踏み入れなかったために、常に避けられてきた目標なのだ。

闇は、灰の山が火の粉を隠すように、光を包み込み、隠している。闇の中に入るとすぐに光が見えてくる。だから私はあなたに言う:もしも光を望むならば、暗闇を恐れてはならない。暗闇を恐れる者は光を見つけることはできない。光への道は闇の中を通る。実際のところ、この勇敢な暗闇への侵入により、それ自体が内なる光へと変容するのだ。この勇敢さのおかげで、今まで眠っていた者が目を覚ますのだ。

あなたは自己認識を得たいのではなく、ありのままの自分を恐れているのではないだろうか。あなたは「サット・チット・アーナンダ-存在・意識・至福」のような言葉を聞くのが好きだ。「永遠」や「純粋」のような言葉を聞くのが好きだ。しかし、その理由はそれらの言葉があなたが本当に何であるかを忘れてしまうのを助けるからなのだ。サット・チット・アーナンダの完全な正反対だ。

細かく観察すると、本心も矛盾する二つがあったりします。例えば自我を解体して重荷を下ろしたいという心と、消えるのは怖いという心です。その上に、さらに人に良く見られたいという心があり、そのために自分の本当の気持ちとは違う態度を表現するというような心があります。時々、自分の本心が何なのかと迷う時がありますが、いずれにしてもイメージされるものは全て偽物なので、徹底的に観察して、何もなくなるまで、一つ一つ覆いを取っていくということで良いのでしょうか?

105 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/07(木) 22:01:26 ID:1d4drIFg0
感情も思考も対象によって変るものであるから、本心も次々に変るものじゃ。
恐れずに観ていければ全て無くなるのじゃ。
ただの反応であったと気付くからのう。
何も無くなるまで観察し続けると善いのじや。

106 避難民のマジレスさん :2021/01/08(金) 21:00:26 ID:Dp/qMVVc0
しかし、あなたは自分の自我を養いたいのだ。そしてそれが、罪人がサドゥーの周りに群がる理由だ。なぜならば、そこに聞く話は魂の純粋さについてであり、ブラフマンと一体であることについてであり、それはその人たちにとって非常に喜ばしいからだ。説教を聞いたとき、その人たちは申し訳ないと感じて、劣等感を抑圧し、その後、再び自分自身の前に真っ直ぐに立つことができるのだ。魂は純粋であり、その影響を受けないので、罪を犯すのはとても簡単で無害であると感じ始める。自分の魂が純粋で、その影響を受けていないと信じることは、罪を終わらせることにはならない。それは非常に深い自己欺瞞でしかない。それは人間の心の最後のトリックだ。ただ闇がないと信じているだけでは、光はない。

罪は存在しない、魂は罪に関与していないと信じるように教えるイデオロギーは非常に危険だ。それは、自分の罪深い状態を忘れるための手段に過ぎない。それは、罪を消滅させることではなく、罪を忘れることにつながる。そして、罪を忘れることは、罪が存在することよりも悪いことなのだ。あなたは自分の罪を見ることができるだろうか? 罪に気づくことは良いことで、有益なことだが、それらを見ることができず、無知であることは有害なのだ。なぜならば、それらが見られるようになると、私たちを追い立て始め、私たち自身を変容させようと突き刺すからだ。罪を意識することは変化をもたらし、罪を完全に意識することは瞬間的な変容をもたらす。

それゆえに、どうか魂の純粋さや悟りなどの話に巻き込まれないようにしてほしい。魂は信念とは何の関係もない。それは、罪にまみれた人格が投げ出され、暗闇の層を突破して、求道者が自分の秘密の、心の奥の、光の中心に入るときに、直接実現されるものなのだ。それは直接の実現だ。それは想像できるものではない。

どんな想像上の概念でも、おそらくは大きな害になるだろう。それは邪魔者になり、光を得るための妨げとなりうる。なぜならば、もし闇は存在しないと信じているならば、存在するとは思わないものを取り除けるはずはないからだ。そしてもし、魂が善も悪も犯していないならば、その上に立つ意味は何なのだろうか? 私たちのいわゆる哲学者たちのこのような無意味な発言や疑問は、多くの人々を妄想の世界に投げ込んできた。この毒は広範囲に広がっており、そのせいで私たちは自分たちを神だと思っている。そして同時に、この地球上では、私たちよりも大きな罪人を見つけるのは難しいだろう!

私自身も、苦滅ができる自分や善行に励む自分のイメージによって、自我を養ったことがあります。最近は自我の拡大を感じられるようになったので、気づけるようになってきましたが、油断せずに正しい観察に励みます。

107 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/08(金) 23:33:29 ID:1d4drIFg0
宗教的な観念はむしろ有害になるというのじゃ。
宗教に拠って自分はもはや無罪であるとか、浄化されたなどという概念は有害なのじゃ。
ありのままの自分を観る妨げになるからのう。
何の観念も無く今ここにある己を観るのじゃ。

108 避難民のマジレスさん :2021/01/09(土) 21:01:10 ID:Dp/qMVVc0
また、このような自己賛美や魂の純粋さについての話は、本当は罪の存在を無視することに向けられていることも忘れてはならない。この話の罠にはまってしまった人が、後になってそこから抜け出すのはとても難しい。罪から自由になることは簡単だが、このような種類の危険な哲学の魔手から逃れることは非常に難しいのだ。

魂が純粋であるという事実は、理論でも原理でもなく、直接の実現だ。そして、それについて議論しても何の役にも立たない。それは、病気の人の心の中に、自分の病気が存在しないという幻想を作り出すようなものだ。もしその病人が福音としてこれを受け入れた場合、結果は回復ではなく、確かな死となるだろう。

知っている人は、実現、悟りを議論しない。彼らは修行、悟りにつながる道について話す。考慮されるべきなのは悟りではなく、修行なのだ。悟りは修行に従うように結びつけられている。悟りについて考えることは無意味だ。そして誰もが当たり前のように悟りを取るとしたら、そのような人の修行は不可能になる。

それなのに、修行のない悟りを当たり前のように受け止めてしまうのは、どれほど簡単なことなのだろうか! このようにして、人は喜びを感じるようになる。このようにして、実際にそれを取り除くことなく、罪からの自由の喜びを感じ始め、幻想の深い呪文の中で、乞食は皇帝の喜びを感じ始める。乞食が自分は皇帝だと言われるのは、何と嬉しいことだろう。そう告げる者が尊敬され、その足元にひれ伏して崇拝されるのも不思議ではない。貧しさと罪からの解放には、これほど簡単で安上がりなものはない。このインチキ哲学はあなたに非常に簡単な自由を与えるが、修行はあなたの側で多大な努力を必要とする。

私はあなたがどんな哲学や哲学者の罠にもかからないことを願っている。私はあなたがそのような早道に頼らないことを願っている。最も簡単で安あがりな方法は、魂が純粋で悟りを開いていること、魂はブラフマンそのものであり、あなたがするべきことは何もないと信じることだ - そしてもちろん、あなたがその時にたまたまやっていることは何であれ、あきらめるべきことは何もないので、最高のものであると信じることだ。

修行者がこのような観念の罠を避けるためにはどうしたら良いのでしょうか? 私の場合は正しい観察ができているか、すなわち新しい発見、心の変化があるかどうかを確認することと、本当に悟りを求めているのかを自分自身に真摯に尋ねることをしています。

109 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/09(土) 23:58:53 ID:1d4drIFg0
はっきり言ってしまえば全ての者がこのような罠を避けられるような方法や術はないのじゃ。
本当は悟りを求めていない者はこのような罠に引っかかってしまうじゃろう。
霊的に浄化されたとかアセンションにはいったとか、奇跡のコースを修了したとか言われてもはや修業もやめてしまうのじゃ。
そのような者は本当はそのような安っぽい金で買える権威とか名前を求めていただけであるからそれを手に入れて満足するのじゃ。
真摯に悟りを求める者は老病死の苦を超えない限り修業し続けるべきなのじゃ。

110 避難民のマジレスさん :2021/01/10(日) 21:03:46 ID:Dp/qMVVc0
真実でさえも悪用されることがあり、最も高貴な真実でさえも下劣なものを隠すために使われることがあることを忘れてはならない。これは過去にも起きたし、今も毎日のように起きていることだ。臆病は非暴力によって隠すことができ、罪は魂の純粋さと悟りの哲学の下で隠すことができ、無行為はサニヤスの衣の下で隠すことができる。

私はこれらの危険に対して警告したい。もしあなたがこれらの危険を警戒していなければ、自己の方向に大きく前進することはできない。あなたを包み込んでいる罪と闇から逃れようとして、哲学的な安住の地を求めてはならない。それらを知りなさい。精通しなさい。それらはそこにある。その存在を忘れてはならない。それらは夢のようであっても、まだそこにある。そして、夢は存在しないと思ってはならない。夢にも存在があるのだ。それはまた、私たちを圧倒し、邪魔することができる。「それはただの夢だった 」と言っても、どこにもつながらない。目覚める以外に解決策はない。しかし、もし望むならば、人は目覚めた夢をさえ見ることができる。偽りの哲学、修行のない哲学は全く同じことをする。それはあなたを覚醒させない、それは単に覚醒の夢を引き起こす。それは夢の中の夢だ。自分が起きているように見える夢を見たことはないだろうか?

単に信じて、そこに罪は無い、闇は無いと言っても、何の意味もない。それはあなたの願望の表現に過ぎず、真実ではない。罪がないこと、闇がないことは私たちの願望だが、願望だけでは十分ではない。このことは重要だ。そして、これらの哲学者たちは、王になりたいと願う乞食が最終的に王になった夢を見始めるように、次第に達成の夢を信じ始めるのだ。その人たちは常にそれを望んでいて、最終的には自分が望んでいたことを達成したと想像するが、実際には何も達成していないのだ。だから、敗北を忘れるのは簡単だ。そして、現実にはできなかったことを夢の中で達成したので、眠りの中で満足のため息をつくのだ。

あなたがそのような満足感をここに求めていないことを願っている。もしそうなら、あなたは間違った人のところに来てしまった。私はあなたに夢を与えることはできない。私はあなたに自己欺瞞の根拠を与えることはできない。私は夢破りであり、あなたを眠りから目覚めさせたいのだ。

苦を逃れようとして修行をはじめたのに、苦が無い夢を本物と信じて、死ぬ時に偽りに気づくなら、それ以上恐ろしいことはないと思いました。気をつけて観察に励みます。

111 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/10(日) 21:48:18 ID:1d4drIFg0
聖典の教えも本当は悟りを求めていない者には利用されるだけなのじゃ。
夢幻を追いかけて時間を費やしてはいかんとオショーは言うのじゃ。
現実に今ここにある心を観るために励まなければいかんのじゃ。
それができれば進んでいくことが出来るのじゃ。

112 避難民のマジレスさん :2021/01/11(月) 20:40:11 ID:Dp/qMVVc0
目覚めは間違いなく痛みを伴うが、それが唯一の苦行だ。この苦行、この痛みは、あなたの実際の罪深い状態、自己のろくでもない状態の現実に気づくことから始まる。あなたはこれ以上の幻想を抱くことができなくなる。現実が何であるかを、ありのままに知るのだ。それはあなたが皇帝として自分自身を見ている甘い夢を破壊するので、不幸を引き起こすだろうし、痛みを引き起こすだろう。皇帝は消え、乞食は光の中に立ち、美は消え、醜いものが現れ、善は蒸発し、悪が現れ、あなたの中の動物は裸になって目の前に立つだろう。

これはすべて必要なことだ。とても必要なことだ。この苦しみを乗り越えることは不可欠なのだ。それは出産の苦しみであるため、避けられない。そしてこの後でなければ、動物を直視した後でなければ、動物ではない者をはっきりと知ることはできない。

この動物を目の前で見る人は、動物とは違う存在になる。内なる動物を認識することで、動物との同一性が破られるのだ。観察は観察者と観察された者を分離させる。すると、覚醒の種が蒔かれ、それが完全に発達すると、自己実現へと花を咲かせるのだ。

罪から逃げること、闇から逃げること、動物から逃げることは、修行ではなく、修行からの逃避だ。それは現実からの逃避だ。それは砂の中に頭を隠し、敵を見ることができないので、敵は存在しないという考えに安心を感じているダチョウのようなものだ。これが本当なら、どんなに素晴らしいだろう! しかし、そうではない。敵が見えないからといって、敵が存在しないわけではない。それどころか、その方がもっと危険になる。目を閉じていれば獲物になりやすい。 敵の存在下では、敵について知ることは私たちの利益になるので、私たちの目はすべて広く開かれているべきだ。

無知は弊害以外の何物でもない。 このような理由から、私はあなたに自分の暗黒面を完全に見つけ出し、それを観察してほしい。すべての服を脱ぎ捨て、自分が何者であるかを見なさい。すべての原則や理論を脇に置いて、自分が何者であるかを見なさい。砂から頭を上げて、見なさい。

観察により自分を観て様々な苦を滅しているにも関わらず、自己観察を日に何度も忘れてしまいます。恐らく逃避もあることでしょう。めげずに気づいた時には観察に戻り、観察の時間を増やしていきます。

113 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/11(月) 23:38:07 ID:1d4drIFg0
自分を観ることは間違いなく痛みを伴うとオショーは言うのじゃ。
今まで恐ろしく、不安であるから逃避してきた自分の心を見直すのであるから苦しいのは当然なのじゃ。
自分を飾ってきた幻想のイメージを捨てて、ありのままの自分をみることが必要なのじゃ。
敵が怖いから観ないようにすれば、むしろ危険は増すように逃避してきた自分を観ないでいるのは、いずれは老病死の苦が来た時に苦を増すことになるのじゃ。
自分の暗黒面を見つけ出して、観察すればそれはもはや暗黒ではなくなるのじゃ。

114 避難民のマジレスさん :2021/01/12(火) 20:52:47 ID:Dp/qMVVc0
まさにあなたの目を開くこと、この見ることこそが変容であり、新しい生の始まりだ。目を開くと変化が始まり、その後の行動は何をするにしても、あなたを真理へと導く。闇の層を突き破り、光の中へと歩を進め、罪の網を一掃して神を得る、無知に致命的な打撃を与えて、魂に到達するのだ。

これは、自己実現への旅のための、修行のための正しい道だ。そして、その前に夢を見る必要はない - 魂と神についての夢、サット・チット・アーナンダとブラフマンについての夢を見る必要は無いのだ。これは本当の楽園が失われている間、愚か者の楽園に住んでいるようなものだ。あなたもまた、行為の道によって、カルマによって、無知と闇を払拭することによって、完全な状態、サット・チット・アーナンダに到達することができる。

昨夜、ある人にサットサンガとは何かと聞かれた。私は答えた。サットサンガとは、自己の仲間、真理の仲間を意味する、そして真理は外では見つけられない。グルも、先生も、シャスターラも、あなたにそれを与えることはできない。それはあなたの中にあり、もしそれを得たいのなら、あなた自身の仲間を求めなさい。自分自身と一緒にいなさい。しかし、私たちは常に誰か他の人と一緒にいるのであって、決して自分一人ではない。

エックハルトは、かつて孤独な野原の木立の下に一人で座っていた。通りすがりの友人が彼がそこに座っているのを見た。その友人は近づいて言った。 「私はあなたが一人で座っているのを見て、一緒にいてあげようと思ったので、あなたに加わるためにやってきました。」 あなたはエックハルトが何と答えたか知っているだろうか? 彼は言った。「私は自分自身といたが、あなたが来てくれたので、今私は完全に独りになった。」

こんなふうに独りでいたことがあるだろうか? これがサットサンガだ。 これが祈りだ。 これが瞑想だ。私は自分の中に独りでいて、何の考えも、誰についての考えもないとき、私は自分自身の仲間の中にいる。外の世界が不在の時、内には自己の仲間がいる。その同伴者のない孤独の中で、あなたの純粋な存在の中で、真理が実現される。

「カルマによって」とありますが、意味がよくわかりませんでした。行為の道(the path of action)→(良い)カルマ→無知と闇を払拭でしょうか? カルマと関係なく、正しく観察すれば気づきがあるのかと思っていました。
また、エックハルトの答えについても教えてください。自分の思考に気づいたということかと思ったのですが、もし完全に独りになったのなら、友人と会話できないのではないでしょうか。

115 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/12(火) 21:47:38 ID:1d4drIFg0
カルマとはもともと行いの報いを解釈するために作られた概念なのじゃ。
そうであるから実践の成果とか、因果とか、結果でよいのじゃ。
行いとその成果で無知と闇を払拭するのじゃな。

悟っても会話はできるのじゃ。
友人の訪問によって自分を観ている自分に気付いたのじゃ。
そして独りになったのじゃ。
それがアートマンの独存なのじゃ。
実践に拠ってのみ理解できるのじゃ。

116 避難民のマジレスさん :2021/01/13(水) 21:05:00 ID:Dp/qMVVc0
それゆえに、これは宗教的であることの問題であって、宗教的に見えることの問題ではない。誰かが宗教的であることについて尋ねてきたとき、私が最初に尋ねるのは、「あなたは宗教的に見えたいのか、それとも宗教的になりたいのか?」ということだ。この二つの道は全く違う。宗教的であることは修行であり、自己実現の過程だ。サドゥーや聖人の服装、ステレオタイプのありきたりなローブ、本、額や体にある印など、これらはすべて宗教的に見えるためのものだ。もしあなたもこのように宗教的に見えるようになりたいなら、それはとても簡単だ。

しかし、覚えておきなさい。見えることは他人のためであり、なることは自分のためであるということを。私は、他人が外から知っているような私ではない。私は内側から自分自身が知っているような存在なのだ。もし私が自分自身と調和して、落ち着いてあなたの前に現れたとして、それはあなたにとって何か価値があるだろうか? 実際には、その価値は私自身の存在としか関係がない。

宗教的な資質は、宗教的な服のように着用することもできる。人々はそれを飾り用の装飾品のように身につける。そして、これはさらに危険だ。人間の行動には、本物の花のようなものと、紙の花のようなものの二種類がある。前者は、植物の生命そのものと活力から生まれたもので、後者は生命を持たない。花は咲かず、花びらを貼り合わせなければならない。

私たちに熱があり、体が温度を上げているとき、私たちは体温を下げて熱を取り除こうとはしない。熱を下げることで体温を正常に戻すのだ。体温は熱の症状に過ぎず、それ自体が病気ではない。あくまでも指標であって、敵ではない。体温との戦いを始めた医師を何と呼ぶだろうか?

結局悟りの境地の説明は、実践により悟りを得ないと理解できないので、それらには囚われずにひたすら自分を観ることに励みます。オショーの説法が魅力的で、油断すると習慣によって思考で解釈しようとしていました。

117 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/13(水) 23:30:55 ID:1d4drIFg0
宗教的な装飾は危険だというのじゃ。
坊主の飾り立てた袈裟や大きな寺等は悟りとは関係ないものじゃ。
むしろ悟りから遠ざかるものであるから危険なのじゃ。
紛い物の宗教からは遠ざかり、真摯に自己の本心を観るのじゃ。

118 避難民のマジレスさん :2021/01/14(木) 20:56:44 ID:Dp/qMVVc0
このような正気の欠如は、宗教生活にも見られる。外面的な現れを敵と勘違いし、その症状を病気と受け止めて戦い始める。これでは、病気を取り除くことはできない。それどころか、確実に取り除かれるのは患者、病気の患者なのだ。

エゴイズム、不誠実、暴力、欲望、貪欲、情熱は、すべて現れであり、すべて症状だ。それらは温度だ。病気ではない。私たちの戦いはそれらに向けられるべきではなく、それらを通して、内に犯人がいることを学ぶ必要があるだけだ。この犯人とは、自己の無知だ。それは、エゴイズム、欲望、恐怖、怒り、暴力、嘘などのように、様々な方法で表現されている、自己の無知なのだ。そして、それらは単なる現れであり、表現に過ぎないので、叩くことによって取り除くことはできない。

では、私たちは何をしなければならないだろうか? 真実、非暴力、博愛、勇気の造花を展示することによって、それらを隠そうとしなければならないのだろうか? あなたもまた、いつであったか、そのような花で自分自身を飾ったに違いない。気をつけなさい。たとえ他人を惑わすことに成功したとしても、あなたはそれらにだまされないように注意しなさい。

問題は、不誠実、暴力、恐怖を取り除くことではなく、自己のこの無知の上に上昇することだ。それらはすべて、この無知のために存在している。無知がなければ、存在することができない。もし自己の無知がなければ、それらすべては独りでに消え、その場所は独りでに真実、謙虚さ、無欲、怒りからの自由、非暴力、非独占性に取って代わられる。それらもまた現れだ。それらは自己の知を示すものなのだ。

第5章はここまでです。ここまでで何かおかしなところなどがありましたら、ご指摘ください。
オショーが、「ブッダは常に誤解される」( https://www.youtube.com/watch?v=-nSMi0whFEA ) と言っていますが、自分自身を観て、私自身を含めた衆生も、恐れから誤解したがり、誤解することがわかりました。日頃から恐れや怒りや逃避に注意して、観察を続けます。

119 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/14(木) 21:59:50 ID:1d4drIFg0
おかしなところはないのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。

120 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/14(木) 22:02:00 ID:1d4drIFg0
エゴイズムや不誠実、暴力等は不安や恐れからの逃避でしかないのじゃ。
それもまたただの反応なのじゃ。
戦ってそれらを無くそうとする努力は無意味なのじゃ。
反応を観察して滅することが出来ればそれが自己への理解であり、真実の知恵なのじゃ。

121 避難民のマジレスさん :2021/01/15(金) 20:38:33 ID:Dp/qMVVc0
第6章 3日目の朝 1964年6月6日 午前

私はあなたに真理を与えることはできない。もし誰かが、あなたに真理を与える能力があると言うならば、その人はあなたに虚偽を与えることにより始めていることは間違いない。誰も真実を与える能力を持っていない。これは与える者の能力についての批評ではなく、真実が生きているものであることを示しているだけだ。それは、与えることも奪うこともできる無生物ではない。それは生きた経験であり、自分自身で獲得しなければならない。

死んだものは人から人へ移すことができるが、経験は移せない。私が持っていた愛、愛の経験をあなたに移すことができるだろうか? 私が出会った美しさや音楽をあなたに与えることができるだろうか? このありふれた身体で、私がこのような並外れた経験をした喜びを、あなたに与えられるならどんなによいだろうか! しかし、そうする方法はない。落ち着かないし、苦しいが、何もできない。なんと無力なことか!

私の友人は生まれつき目が見えない。私は彼に視力を移すことができたらと願ったが、それは不可能だった。もしかしたら、目は体の一部であり、移植できる日が来るかもしれない。しかし、真理を見る視力は、どんなに強く願ったとしても、決して移すことはできない。それは魂のものであって、肉体のものではないのだ。

自己の世界で達成されるものは何でも、自己の努力によってのみ達成される。魂の世界では、借金も、借物も、他人に頼ることもできない。誰も借りた足でそこを歩くことはできない。そこには自己から離れて避難する場所はない。真理に到達するためには、あなた自身が自分自身の避難所にならなければならない。これは避けられない条件だ。

私はあなたに真理を与えることができないと言ったのは、これが理由だ。言葉だけが伝えることができる、言葉は命がなく、死んでいる-そして真理はいつも後ろに残っている。そして、この言葉の伝達は、全く本当の伝達ではない。生きているもの-その意味、その魂、その本質である経験-は、言葉と一緒に行くことはない。言葉は空の薬莢のようなものであり、火薬のない弾丸のようなものだ。それは死体、死人のようなものだ。あなたにとって重荷となるだけで、決してあなたを解放することはできない。言葉によって、あなたは真理の死体を運ぶだけだ。死体には真実の鼓動はない。

欲望や情熱もまた、不安や恐れからの逃避でしかないと頭では分かります。が、直接不快をもたらすことと違って、一時的な快をもたらす心の働きを厭離するのは、特に難しいと感じます。そのような快をもたらす心身の働きの連鎖も、気をつけて粘り強く観察します。

122 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/15(金) 21:55:48 ID:1d4drIFg0
真理は誰もが自分で見出さなければならないのじゃ。
言葉として伝えることは出来ないのじゃ。
オショーは言葉は命が無く、死んでいるというのじゃ。
言葉ではわからないことを自らの心を観察して気付くのじゃ。

123 避難民のマジレスさん :2021/01/16(土) 20:50:01 ID:Dp/qMVVc0
私が話したように、真理は与えられない。しかし、私はあなたが背中に背負っているこの重荷を下ろす手伝いはできる。それはあなたが何年も背負ってきた重荷であり、それは非常に重く、耐え難いものになっている。あなたはこの言葉の重荷から解放されなければならない。旅人が道を歩いているうちに埃をかぶってしまうのと同じように、人生の旅の中で、言葉や考えの埃が人の上に集まるのは当然のことだ。しかし、この埃を払わなければならない。

言葉は死んだものであり、真理ではない。誰の言葉も真理ではない。集めてはならない。それらを集めることは有害だ。真理への巡礼は、この重さを背負って行うことはできない。登山家が高みを求めるために、山を登る前に荷物を捨てなければならないのと同じように、真理への旅に乗り出した人は、言葉の重荷を捨てるべきだ。言葉から解放された意識だけが、真理の高みに到達することができる。

私が教えるのは、ただ一種の非所有、言葉と思考の非所有だけだ。その重荷はあなたの旅を非常に困難にしている。荘子は「網は魚を捕るためのものである。魚を捕まえて網を捨てよ」と言った。しかし、私たちはとても悪い漁師なので、網に巻き込まれ、魚のことを忘れてしまった。自分の頭の上を見なさい。あなたは頭の上に船を乗せているが、それに乗って航海することを忘れている。

言葉は記号だ。 それは標識・指し示すものだ。それ自体が真実ではない。標識の意味を理解してから捨てなさい。標識を集めることは、死体を集めることと何ら変わらない。

言葉は月を指す指のようなものだ。指にすべての注意を集中する人は、月を逃してしまう。もし指があなたを指から引き離すなら、指は目的を果たす。しかし、逆に、指があなたを指自身に引き寄せてしまうと、指は役に立たないばかりか、本当に有害なものになってしまう。

あなたが学んだ真理についての言葉は、すでにあなたにとって不幸のもとになっていなかっただろうか? それはあなたがたを互いに、人と人とを隔ててしまったのではないか? 宗教の名の下に行われているすべての愚かさと残酷さは、言葉のためではないのか? 様々な宗教として知られているそれらの宗派は、言葉の違いだけに基づいているのではないのか?

思考中に厭離が起こることもあるのだから、思考より観察が常に良いわけではないのではないかと、自分自身への言い訳が起こり、それが逃避であることに気づきました。焦らずに一歩一歩励みます。

124 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/17(日) 00:22:47 ID:1d4drIFg0
言葉は悟りへの障害となる重荷であるというのじゃ。
言葉を集めるのは有害であるとまで言うのじゃ。
知識や言葉ばかり集めて自分の心を観察する実践を忘れてしまうならば、確かに言葉は有害じゃろう。
言葉は人と人を隔て、宗教を残酷なものにして、宗派をも作り上げて争いを起こしているというのじゃ。
言葉を捨てて心を観る実践をすべきなのじゃ。

125 避難民のマジレスさん :2021/01/17(日) 20:51:50 ID:Dp/qMVVc0
真理は一つであり、一つでしかありえないが、言葉は多くある。月が一つであるのに対して、それを指し示す指は千と一つあるかもしれないように。真理を指し示す無数の言葉のうちの一つ以上にしがみついている人たちが、多くの宗教宗派の責任者たちだ。これらの宗教は真理からではなく、言葉から生まれたものだ。真理は一つ。宗教もまた一つだ。言葉を捨てる者は、この宗教だけに、そしてこの真理だけに到達する。それは比類のないものだ。

それゆえに、私はこれ以上の話をすることで、あなたの言葉の重荷を増やしたくはない。あなたはすでにこの言葉の重い荷の下で壊れている。あなたの首がその重さで曲がっているのがよくわかる。

真理を知った者は口を開かない。唇はしっかりと閉ざされている。そこからは何も聞こえない。このやり方で十分話してはいないだろうか? その者は真理が沈黙の中にあることを示唆しているのではないだろうか? 沈黙自体が真理であることを。しかし、私たちはその者の言葉を理解することができない。言葉なしでは何も理解できない。私たちの理解は言葉に限られているので、真理を知った者は言葉という媒体を通して私たちに語りかけてくるのだ。言葉では伝えられないことを言葉で教えてくれる。この不可能な偉業を成し遂げようとするのはその者の思いやりであり、私たちは無知であるがゆえに、その言葉の一つ一つを聞き取ろうとするのだ。言葉と無知が結びついて宗派を形成し、再び私たちは真理を奪われ、真の宗教はこれまでと同様に私たちから遠く離れている。

あなたは言葉の上に立ち上がらなければならない。そうして初めて、言葉の背後に何があるのかを知ることができる。言葉は私たちの記憶を埋めるだけだ。知はそこからは得られない。そして、どうか記憶を知と勘違いしないで欲しい。記憶とは過去の記録にすぎないことを、きっぱりと認識しなさい。それは学習であり、知ではない。

ある人がラマナ・マハルシに真理を知るために何をすべきかと尋ねた。彼は答えた。「あなたが知っていることをすべて忘れなさい」。あなたが知っていることをすべて忘れることができれば! この忘却の中から、真理と自己が知られる無邪気さと単純さが現れてくるだろう。

言葉の一つ一つを聞き取ろうとする。まさに、私も陥りがちなことでした。覚者の言葉を読んで、実践し、観察が自分の心に向かえば良い方向で、覚者の言葉の解釈や、違いの比較などに囚われるのが間違った方向ですね。気をつけて実践を続けます。

126 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/17(日) 21:58:51 ID:1d4drIFg0
真理は一つとオショーは言うのじゃ。
それは言葉には出来無いものなのじゃ。
言葉で真理を伝えるというのはにせものの宗教なのじゃ。
今まで集めてきた知識を捨てて自分を観るとよいのじゃ。

127 避難民のマジレスさん :2021/01/18(月) 20:36:23 ID:Dp/qMVVc0
言葉や言葉から形成された思考があなたの意識を混雑させないとき、光はその自由な瞬間を見つけて入る。それは輝きわたり、あなたは知に到達する。あなたは意識の窓とドアを開かなければならない。そして今意識を取り囲んでいる壁も、同様に取り除かなければならない。そうすれば、あなたの本性である光に出会うだろう。実のところ、空(そら)に出会うには、空のようにならなければならない - 空(くう)、自由、無限に。思考はこれを許さない。雲のようにあなたを取り囲んでいる。これらの雲は散らされなければならない。それならばいったいどうして、私はこれ以上あなたの心の上に思考の雲を広げることができるだろうか?

私があなたに伝えていること、あなたに伝えたいが、できないことは、そのような思考やアイデアではない - それは経験、直接の実現だ。それが単に私が伝えたいと思っていた思考であったならば、私はあなたに伝えることができただろう - そして、その経験が外の世界のものであったならば、何らかの言葉がそれを伝えていただろう。しかし、この経験は外の世界のものではない。それはすべてを経験する者の経験だ。それは知る者の知だ。そして、そこに困難がある。

受け入れられた知識では、知るものと知られるものは別々であり、見ているものと見られているものは区別されるが、自己の実現においては、それらは別々ではない。そこでは、知るもの、知られるものと知はすべてひとつだ。そしてここでは、言葉は全く役に立たない。言葉はこの文脈で使われることを意図していない。そのように使うことは、言葉の能力を超えて、その可能性を超えて、それを引き伸ばすことだ。この綱引きの中で、言葉が不具になったり、命を失ったりするのも不思議ではない。そして、それらは真理の身体、外面的な形を示すが、真理の心に触れることはできない。真理は、言葉が存在しないときにのみ知ることができる。

言葉はいったいどのようにして真理を表現することができるのだろうか? 思考のない状態で得られるものは、思考によって地縛りにすることはできない。空(そら)を縛る方法はあるのだろうか? そして空を縛ることができれば、それを空と呼ぶことができるのだろうか? しかし、なぜ私たちは真理をこのように考えないのだろうか? 真理は空よりも限りなく、無限ではないのか?

ここまで訳を書き終わったあと、思考が心に浮かびませんでした。観察あるのみ。

128 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/18(月) 23:20:48 ID:1d4drIFg0
言葉や言葉から生成された思考は悟りの邪魔になるというのじゃ。
思考が無い時に気づきも起こるのじゃ。
そして言葉に拠って表現できない真理を体現できるのじゃ。
難しいことではあるがのう。

129 避難民のマジレスさん :2021/01/19(火) 21:01:51 ID:Dp/qMVVc0
もし空が束になって市場で売られていたら、誰も買おうとはしないだろう。しかし、私たちは真理を買おうとしている。真理、神、そして解脱はすべて市場で売られている。そして、売り手は非難されるべきではない。その人たちは買い手の需要を満たしているだけなのだ。そして、買い手がいる限り、真理を求める顧客がいる限り、既製の真理を提供する店を閉鎖することはできない。宗教の名の下に運営されているすべての組織とすべての宗派が店になっている。その中であなたは既製の真理を買うのだ。既製服だけでなく、既製真理もそこで売っている。私はあなたに既製の真理を与えることはできない。既製の真理は単に存在しないのだ。

ある話を思い出した。 グル、教師はかつて弟子に真理についての質問をした。弟子は答え、そしてグルは言った、「そう、その通りだ。」 次の日、グルは同じ質問をした。弟子は前日にすでに答えたと言った。グルは彼にもう一度答えるように頼んだ。弟子は前日に言ったことを繰り返した、するとすぐにグルは「違う!違う!」と言った。弟子は驚いてグルに言った。「昨日、あなたは『そう、その通りだ』と言いましたが、今日はいったいどうして『違う』と言ったのですか。」グルは言った。「昨日は『その通り』だったが、今日は『違う』だ。」

この話の要点は何だろうか? わかっただろうか? それは弟子の答えが紋切型になり、固定されたパターンに幽閉されたということだ。それは命を失い、死んでいたのだ。それは記憶の一部となり、知ではなかった。私たちの記憶は、そのような死んだ答えでいっぱいで、生きているものは、そのすべての死体のために浮かび上がることができない。

友よ、記憶ではなく、経験を呼び覚まさなければならない。記憶は死んだ重荷であり、経験は生きた解放なのだ。真理の経験を事前に想像することは不可能だ。真理は、いかなる専門用語によっても、また何らかの哲学、宗教、理念によって仕立てられたいかなる厳格な定義によっても、幽閉されることはできない。私たちは、真理がいかなる理念にも、いかなる思想の流派にも適合することを期待してはならない。それを任意のパターンに限定するためのあらゆる努力は無駄になる。
―-
昨日鬼和尚が難しいと答えられたのは、思考なく、ただ在ることで悟りを得るということでしょうか。多くの人にとっては、縁起を観るのがより易しい方法なのですか?

130 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/19(火) 22:38:51 ID:1d4drIFg0
難しいのは言葉に拠らない学びなのじゃ。
子供の頃から教えられてきた学びとは、全てを言葉や数字や記号として記憶することだったのじゃ。
しかし悟りの道はそれらを全て否定し、言葉ではなくありのままに見て記憶しない方法なのじゃ。
今までと全く反対の学びであるから、非常に困難なのじゃ。
今回のオショーの話のように、昨日と今日ではもはや今ここにあるものが違っているから答えも刹那毎に違うのじゃ。
次々に移り変わる心のありようを、今ここで観ることが大事なのじゃ。

131 避難民のマジレスさん :2021/01/20(水) 21:14:33 ID:Dp/qMVVc0
真理を幽閉するのではなく、逆に、自分自身を解放しなければならない。真理への道は、それを閉じ込めることではなく、その道は自分自身を発見することだ。真理を幽閉するのではなく、自分自身の束縛を解きなさい。これが到達するための唯一の方法だ。真理の実現は、経験を通してのみ可能だ。自己実現や自己体験以外の手段では知ることはできない。ただ唯一、経験だけが決め手となる。

かつて私は滝のそばにいた。私はその水を飲んで、それが甘いものであることを知った。これは真理にも当てはまる。飲んで知る。飲んでみなければわからない、味のようなものがある。

真理はあなたの知識の産物ではない。あなたの創造物でもない。あなたはそれを作り出していない。誰もしないし、誰にもできない。それはすでに存在している。どこでも買うことはできないが、すでにそこにあるのだ。目を開けた瞬間に見えるようになり、目を閉じた瞬間に見えなくなる。光のようなものだ。それを買う必要はない。ただ目を開くだけで、真理がそのすべての純真さ、完全な純粋さ、存在の充実した状態で現れ、あなたを一変させる。これを可能にするためには、使い古されたものや借り物の思考で自分を歪めたり、他者の残飯を受け入れたりしないことが不可欠だ。生には古臭いものや死んだものを受け入れる余地がないことを知らなければならない。

では、私はあなたに何を言わなければならないのだろうか? 私は真理について話さない。では、何について話そうか? 私はあなたに真理を知る方法について話す。光について話すのではなく、どのようにしてあなたの目を開いて光を見ることができるかについて話す。私は何を見ているかは言わないが、どのように見ているかは言うだろう。そのことのみが語られ得る。 そして、少なくともそれだけは有害な影響なしに話せると言うことは、あなたの大いなる幸運のおかげだ。

宗教、真の宗教は、真理の教義に関心を持つのではなく、むしろ真理を知る方法に関心を持つ。したがって、私は真理については何も言わないことにしよう。あなたが自分で見る前に、私はそれを明らかにしたくないのだ。私は、あなた自身がそれを知ることができる場所に、あなた自身がそれを見ることができる場所に、あなたの無知が蒸発し、あなた自身である燃え上がる火に出会う沸騰点に、あなたを連れて行きたいと思っている。

言葉に拠らない学びは、難しいですが、悟りを得るためには避けられず、そのために日々正しく止観につとめ励む必要があるということでしょうか。
自分の経験では、今のところ観察ができて気づきが得られることがあったとしても、それを記憶しないことはできないように思います。

132 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/20(水) 22:35:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、日々の精進で難しいことも出来るようになるのじゃ。

 記憶士はしても善いのじゃ。
 ただそれに囚われないことが大事なのじゃ。
 気付いたことを記憶して再び心の中に探そうとしたり、記憶した体験を再現しようとしてはいかんのじゃ。
 気付いた知識も体験も捨てて日々心の中に新しい知見を求めるのじゃ。
 そうすれば己も見えるのじゃ。

133 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/20(水) 22:37:24 ID:1d4drIFg0
真理への道とは自分自身を発見することにあると言うのじゃ。
それも知識に拠って知るのではなく、直接に観ることが大事なのじゃ。
水を飲んでその味を知るように、自分の性質を直接に味わうのじゃ。
真の宗教とは真理を知る方法を教えるものなのじゃ。

134 避難民のマジレスさん :2021/01/21(木) 21:12:25 ID:Dp/qMVVc0
では、その過程について話そう。真理への道を歩もうとする人は、二つの扉が開かれているのを見つける。ひとつは真理について考えること、もう一つは真理に到達するための修行に従うことだ。一つは論理の道であり、もう一つはヨーガの道だ。一つは真理を熟考する道であり、もう一つは真理の達成につながる規律の道だ。しかし、私の見たところ、扉は一つしかない。私にとってもう一つの扉は存在せず、単に存在しているように見えるだけだ。このもう一つの扉はただの幻想だ。

真理を考える道は、本当の道ではない。それは偽りの幻想の扉であり、そのために多くの人が迷子になってしまう。思考の扉を通って、真理について考えることによって、あなたはどこにも到達することはない。この道は疑いもなくあなたを迷わせるが、それはあなたをどこにも連れて行ってはくれない。非常に長い間この道を歩いた後でさえ、あなたが始めた場所とまさに同じ場所に立っていることに気づくだろう。それは始まりに過ぎず、終わりはない。そして、終わりのない歩き始めは夢でしかあり得ない。

真理について考えるとして、あなたは何をするのだろう? あなたはどのように真理を考えるのだろうか? 知られていないことを考えることはできない。いったいどうやって未知のものを考えるのか? その範囲は既知の領域にしかない。思考は問題を提起することはできるが、問題を解決することはできない。思考を追求する者は誰でも混沌の中に迷い込み、その心はある種の狂気の中で終わるだろう。多くの思想家が狂ったのは偶然ではない。これが思考の集大成であり、究極の目的地だ。思考の道は、全く真理を達成するための道ではないのだ。

ひとつ話をしよう。素晴らしい話を。

むかしむかし、一人の男が世界の終わりを求めて旅に出た。長い旅の後、ほとんど終わりのない巡礼の後、彼は「これが世界の終わりである」という言葉が書かれた寺院に到着した。彼は非常に驚き、そこで見たものを信じることができなかった。彼は旅を続けるとすぐに、世界が終わる場所にたどり着いた。深い深淵が目の前に横たわっていた。彼はその深淵を見下ろした。そこには全く何もなかった。彼の息はあっという間に上がり、頭が回り始めた。彼は振り返って走った。 そして二度と深淵を見るために戻ってくることはなかった。

全く何もない深淵に消えていきたいと思う心と、それに抵抗する心が、長い間せめぎ合っているように思います。ひたすら観察に励みます。

135 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/21(木) 23:31:11 ID:1d4drIFg0
真理について考えることは悟りへの道ではないというのじゃ。
実践することだけがただ一つの道だというのじゃ。
真理について考えてもどこへも行けないのじゃ。
終いには考えすぎて発狂したりもする罠の道なのじゃ。

136 避難民のマジレスさん :2021/01/22(金) 20:55:34 ID:Dp/qMVVc0
これは、思考の終わりの話だ。真理について考えれば、私たちは考え続け、考え続け、考え続け、考え続け、それ以上の思考が不可能になる地点に到達する。これが思考の終わりだ。目の前には底知れぬほど深い空虚な空間があり、私たちの心はもう一歩を踏み出すことを拒むだろう。

思考を最後まで続けていれば、思考の過程でそのような瞬間が訪れる。それは避けられない。もしそれでもまだ考えるべきことがあると感じたら、まだ最後まで到達していないということを私から受け止めて欲しい。考えるべきことがもう何もなく、完全に何もなく、それ以上のことができなくなったとき、終わりが現実であること、世界の終わりの寺院に到着したことを知りなさい。

もし世界の終わりに到達した人が私に何をすべきかと尋ねてきたとしたら、どんなアドバイスをしたか想像できるだろうか? 逃げろとは言わなかっただろう。 せっかく旅をしてきたのだから、もう一歩、最後の、そして最も大事な一歩を踏み出しなさい、と言っただろう。奈落の底へ、空っぽな空間へ、目の前の空虚な空間へ、大胆に飛び込むように頼んだだろう。私はその人に、この最後の一歩だけが必要であることを伝え、世界が終わるところから神の王国が始まることを心に留めておいてほしいと頼んだだろう。

世界が終わる地点ほど重要な地点はない、なぜならそれは神の領域が始まる地点だからだ。神の視座は、思考が終わるところから始まる。思考が終わるところで真理が実現する。思考を手放して、無思考に飛び込まなければならない。言葉から、空に、空虚に飛び込まなければならない。これが道だ。これが勇気だ。これが苦行だ。これが修行だ。

昨日、a wonderful story を「素晴らしい話」と訳しましたが、「不思議な話」の方が良いように思いました。
空を目の前にした時、恐れで体に緊張を感じましたが、飛び込もうと意志をふるい起こそうとすると、その意志に自我が投射されて、空が無くなってしまいました。結局その恐れを観察して厭離しない限りは、飛び込めないように思うのですが、どうなのでしょうか?

137 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/22(金) 23:06:19 ID:1d4drIFg0
その恐れは自我が自分であるということから来ているのじゃ。
自我が無くなれば自分が無くなるという謬見があればその恐れが起こるのじゃ。
それが観られるならば恐れも消えるじゃろう。
その時には自然に一歩踏み出せるようになるじゃろう。

138 避難民のマジレスさん :2021/01/23(土) 20:50:30 ID:Dp/qMVVc0
もしこの時点であなたがブラフマー、ヴィシュヌやマへーシャのビジョンを見た場合、あなたはまだ考えているということを自覚しなさい。もしマハヴィーラ、仏陀やクリシュナを見た場合は、まだ夢を見ているということを自覚しなさい。その時、あなたは本当の終わりには到達していない。真の終わりは、何も考えられず、何も見られず、何も知られないところにあるのだ。唯一、あなたの空(くう)が残っている。実際には、あなたもそこにはいない。そこにあるのは、空虚、無だけだ。

あなたは世界の果てに立っている。あなたの心は戻りたいと思うだろう。この瞬間に勇気が必要で、もう一歩踏み出さなければならない。もう一歩、一回のジャンプで十分だ。そうすれば、すべてが変容する。そうすれば、そこにはもう何の思考もない。そうすれば、実現がある。そうすれば、あなたは知る。

知ることをすべて捨てたとき、見ることをすべて放棄したとき、あなたは知る。そして、あなたがどの点から見ても存在しなくなった時、初めてあなたは本当に存在しているのだ。修行とは死の谷に飛び込むことだ。しかし、それは不死を実現する唯一の方法だ。必要なのは、考えることではなく、考えることから飛び出すことだ。そして、その考えることからの飛び出しが、瞑想だ。私は毎日、まさにこのことを言っている。思考は意識の海の波だ。それらは儚い泡のようなものだ。形づくられる前にほとんどが消えてゆく。思考は問題を抱えて揺れ動く表面を示している、しかしその中に見られるものは、その下の深さには見られない。泡や波と共にいることは、浅い水の中にとどまることだ。すべての思考は浅い。深い思考というものはあり得ない。海の深さに波がありえないのと同じように。波は表面だけで可能であり、思考もまた意識の表面の遊びに過ぎない。海は波の中にはなく、波は海の中にあるのだ。海のない波はありえないが、波のない海はあり得る。意識のない思考はありえないが、思考のない意識はあり得る。

意識は源であり、泉である。もしそれを知りたければ、あなたは波を超えなければならない。波を超越しなければならない。海岸に座っているだけではいけない。カビールは「私は探求しに行ったが、愚かにも岸辺に座り続けた」とかつて言った。どうかカビールのように岸辺に座らないでほしい。岸を越えなければならない。岸はあなたが海に飛び込むためにあるだけだ。

勇気づけられます。心の観察に励みます。

139 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/23(土) 23:58:56 ID:1d4drIFg0
瞑想中にはいろいろなことが起こるものじゃ。
神や仏が目の前に出てきてもはや悟ったとかいうこともあるじゃろう。
それは幻想に過ぎないのじゃ。
それらも雑念として乗り越えて何も無いところにまで行かなければならんのじゃ。

140 避難民のマジレスさん :2021/01/24(日) 20:49:48 ID:Dp/qMVVc0
また、人は岸に立ったままではなく、波に浮いたままということもあるだろう。私からしてみれば、これもまた岸辺だ。飛び込んで溺れるのを止めるものが岸辺なのだ。思考の中で泳いでいる人は、このようなものだ。岸を離れたような錯覚に陥っているが、実際には離れていない。海を知るためには、その人もまた、波を後にして離れなければならない。

マハヴィーラが亡くなる時、その時不在だった最愛の弟子ゴータマにメッセージを残した。彼は、「ゴータマに、あなたは川をとてもうまく渡った。が、なぜ今、岸にしっかりとつかまっているのかと聞きなさい。そして、それも手離すように言いなさい。」と言った。マハヴィーラはどの岸のことを言っていたのか? 私も同じ岸のことを言っている。それは思考の岸であり、思考の中で泳いでいる人の岸だ。

真理は泳ぐことによってではなく、潜ることによって達成される。水泳は表面で行われるが、ダイビングは、あなたを計り知れない深さに連れて行く。あなたは思考の岸から空の深さに飛び込まなければならない。ビハールの美しい二行連句がある: 「半分溺れたものたちは完全に溺れてしまった。完全に溺れたものたちは海を渡った。」

その時、あなたはどうするつもりなのだろうか? 海を渡りたいのであれば、自分を溺れさせる勇気は絶対に必要だ。私は、あなたが海を渡ることができるように、あなたが本当の自分になれるように、まさに自分を溺れさせる行為を教えている。

第6章はここまでです。もし何かありましたら、ご指摘ください。
また、マハヴィーラの話で、川を渡った後に思考の岸につかまっているというのは、どういうことなのでしょうか?

141 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/24(日) 23:16:17 ID:1d4drIFg0
無我になった境地でとまっている者が、岸辺に掴まっている者なのじゃ。
自我という川は渡ったが、無我の境地という岸辺からは離れられないのじゃ。
それだけではまた観念があり、観念による思考も起こるのじゃ。
更に認識をも離れて観念が無くなり、思考も起こらなくなるのじゃ。

142 避難民のマジレスさん :2021/01/25(月) 20:59:12 ID:Dp/qMVVc0
第7章 3日目の夜 1964年6月6日 午後

最初の質問:あなたによれば、誰も真理を伝えることはできません。それではあなたが言っていることは真理ではないと言うことですか?
私があなたに言っていることは、単なる指標であり、それ自体が真理とみなされるべきではない。真理は、指標とはかけ離れている。真理は、あなたが見なければならない道標ではなく、あなたを導く道標の先だ。その導く方向を見ていると、あなたが知覚するものが真理だ。その真理を語る方法はない。口にされるとすぐに、それは偽りになる。真理は決して表現することはできない、しかしそれは自分の経験となることはできる。

第二の質問: あなたは私たちが完全に融合され、溺れることを提案していますね。どうすればいいのでしょうか?
私は自分自身の経験から、自分自身と融合することほど簡単な道はないと話す。人がしなければならない唯一のことは、心の表面でいかなる支えを求めるのもやめることだ。思考を捕らえ掴むことで、溺れることはできず、その支えのために、あなたは表面にとどまる。

私たちは思考を捕らえ掴む習慣がある。一つの思考が過ぎ去るとすぐに、私たちは別の思考を掴む。しかし、連続する二つの思考の間の隙間に入ることはない。この隙間自体が、深みの中で溺れることへの道筋なのだ。連なる思考の中で動いてはいけない - 隙間の中でそれらの間に深く潜っていきなさい。

どのようにしてこれを行うことができるだろうか? それは、思考の流れを観察することによって、気づいていることによって行うことができる。道路の側に立っている人が通り過ぎる人々を見ているのと同じように、あなたはあなたの思考を観察する必要がある。思考は単なる歩行者であり、あなたの中の心の道を通り過ぎているだけだ。ただ見ていればいい。そのいずれについても、判断を下してはならない。もしあなたが思考を無関心で観察することができれば、それを掴んでいた拳は自動的に開き、あなたは思考の中ではなく、その隙間に立っている自分に気づくだろう。しかし、その隙間には土台がないので、ただそこに立つことはできない。そこにいるだけであなたは溺れる。

そして、この溺れること自体が本当の支えとなる。なぜならば、これを通してあなたは本当の存在に到達するからだ。思考の領域で支えを求める者は、本当は支えなしで宙に浮いているが、すべての松葉杖を捨てた者は、自分自身の支えを得るのだ。

ふと、眠りに落ちるときは怖くないのに、自我が消えてゆくのを観るのが怖いというのも変だと思いました。今日は眠りに落ちるときにも、できるだけ観察してみようと思います。

143 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/25(月) 23:00:32 ID:1d4drIFg0
言葉では真理を示すことが出来ないから、ただ道標として自ら進む以外に無いのじゃ。
そうすれば真理を見出すことは出来るのじゃ。
集中する瞑想では数息観でも思考が止まる時を持つことが出来るのじゃ。
思考が止まってもそれを認識することが出来るのじゃ。
思考が止まっても存在する意識に没入するのじゃ。

144 避難民のマジレスさん :2021/01/26(火) 21:00:10 ID:Dp/qMVVc0
第三の質問:私は自分の心を征服したいのですが、それは不可能だと思われます。しかし、あなたはそれがとても簡単だと言います。どうやるのですか?
まさに征服という考えの中に、私は征服は不可能であることの種を見る。そしてそれは、人間が征服することを全く許さない、まさにそのようなものだ。もしあなたが自分の影を征服したいと思ったら、征服することができるだろうか? 影が影であることを知った時点で、あなたは影の真実を自覚したことになる。影は征服すべきものではなく、知られるべきものなのだ。そして、影の真実はまた、心の真実でもある。私はあなたに心を知ることを求めているのであって、それを征服することではない。

ある人がブッダに「私の心はとても落ち着きがありません。それを落ち着かせる方法を教えてくださいませんか。」と言った。ブッダは質問によって答えた。「あなたの心はどこにありますか? それを持ってきなさい、そうしたら私は落ち着かせるでしょう。」その人は言った。「それが難しいのです。それを捕まえようとしましたが、どうしてもできませんでした。」

もし私がブッダのところにいたならば、言っただろう、「それを捕まえようとしないで、そのままにしておきなさい。それを捕まえようとするあなたの願望が、まさにその落ち着きのなさなのだ。あなたは影を捕まえることができるだろうか?」

ブッダが他に何と言ったか知っているだろうか? 彼は言った、「私を見てください。私はそれを落ち着かせたのではないですか?」と。

もしあなたが自分の心を観察できて、それを捕まえようとしたり、征服しようとしないならば、それがもう見つからないことに気づくだろう。昔の人はよく馬の鞍替えをしようとするときに、馬を疲れさせた方がいいのか、それとも手綱を締めた方がいいのか、と尋ねたものだ。また、心を征服するために、心を支配するために、この二つの方法があった。しかし、私はこの二つの方法のどちらも処方しない。

まず第一に、本当に馬がいるのかどうかを確認してほしい。あなたは疲れ果てている、全く存在しないものに馬具や鞍をつけようとして。馬がいないのだから、どちらの努力も役に立たない。馬はあなたの無知の影なのだ。目覚めた時、 征服すべき馬も心もないし、支配すべき馬も心もない。

オショーの文も読むと心が静かになり、注意が内側に向きます。

145 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/26(火) 23:17:14 ID:1d4drIFg0
個人の心は観察すれば消えて行くものなのじゃ。
個体であるものの心は存在しない故に征服も出来ないのじゃ。
在ると言えるのは意識だけなのじゃ。
ただひたすらに観察する事でそれに到達できるのじゃ。

146 避難民のマジレスさん :2021/01/27(水) 21:00:00 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:あなたはまた、思考にしがみつかないように私たちに求めています。これは良い考えにも当てはまりますか?
もしあなたの本当の存在を知りたいなら、善と悪の両方の自分自身を取り除き、中身なしで、空になる必要がある。思考は、善と悪の両方とも、すべて後天的なものだ。それらは外から入ってくるものだ。あなたの本当の存在は、この鎖の重荷の下に隠されている。これらの鎖を解く必要がある。鎖が鉄であろうと金であろうと違いはない。

外から入ってくるものは何であれ、後天的なもの、獲得されたものだ - しかし、私たちの内側には、外部からの印象が入ることのできない純粋な意識の状態がある。魂は、自分の外面的な装飾や外面的な条件がすべてない状態でのみ、自分自身となる。自分の魂を発見するためには、条件づけられていない心を持っていなければならない。しかし私たちは思考でいっぱいであり、そして宗教的な人たちはさらにいっぱいで、常に宗教についての思考の山を増やしている。そして、これが「宗教的であること」として理解されていることなのだ! 聖典に満ちていることは、宗教的であると考えられている。これは完全に間違いだ。

ある師がある時、弟子に言ったことがある。「他のことはすべて問題ないが、あなたにはまだ一つの欠点がある。」と。その弟子は長い間考えたが、自分の行動の欠点を見つけることができなかったので、師に尋ねた。師は答えた「あなたの中は宗教でいっぱい過ぎる。これはあなたの中に残っている唯一の欠点だが、それは決して取るに足らないものではない。」

どうして宗教でいっぱい過ぎるのだろう? 宗教の聖典が多すぎて、宗教的な思考が多すぎて、心が重荷になって、真理の空に飛び立つことができなくなることがある。

私はあなたに空であることを求める。すべての思考、すべての印象を完全に取り除き、その空虚さの中で何が起こるかを見なさい。人生の最大の奇跡は、その空虚さの中で、その空の中で起こる。その空虚さは、あなたを自己と対面させる。これ以上に素晴らしい奇跡はない! あなたが自分自身と対面するとすぐに、あなたは神と対面するのだ。

心を観察しようとすると目に自我が投射されることがあります。習慣とは興味深いものです。そのような時、私は頭の下部の後ろあたりに意識を置いたほうが、心の観察がし易いです。

147 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/27(水) 23:22:02 ID:1d4drIFg0
善いものでも悪いものでも思考は全て止めると善いのじゃ。
思考では辿りつけない領域まで行かなくてはならないのじゃ。
全ては思考では把握できないからなのじゃ。
自分も思考では把握できないから思考をとめて観るしかないのじゃ。

148 避難民のマジレスさん :2021/01/28(木) 20:48:59 ID:Dp/qMVVc0
第五の質問: 私は偶像崇拝者ですが、あなたの視点から見ると、偶像の必要性がないように思えます。あなたはそれを諦めるように私に助言しますか?
私は何も諦めなさいとは頼んでいないし、引き受けなさいとも頼んでいない。目覚めなさいと呼びかけているだけだ。あなたが目を覚ますとき、あなたの夢が終わっているときには、それは別の話になる。行動は意識のレベルに応じて変化する。子供は大人になると自動的に人形遊びをしなくなる。それを手放すための努力をせず、それは自動的に止まる。

昔、村のはずれに一人のサドゥーが住んでいた。彼は扉のない小屋で一人で暮らしていた。家の中には扉を必要とするものは何もなかった。ある日、何人かの兵士が通りがかった。彼らは小屋に入り、水を求めた。そのうちの一人が、なぜサドゥーなのに、小屋のどこにも神の偶像がないのかと尋ねた。サドゥーは答えた。「この小屋はとても小さい。二人分の場所があるでしょうか?」と。

兵士たちはサドゥーの言葉を面白がって、次の日には神の像をプレゼントした。しかし、サドゥーは「神自身が長い間ここに住んでいるので、どんな神のイメージも必要ありません。そして『私』は無くなってしまった。ここには二人分の場所がないのがわかりませんか?」と言いました。兵士たちは、彼が自分の心を指し示しているのを見た。それが彼の小屋だった。

神には形がない。そしてそれゆえに、その存在は無定型で、形がない。意識も形を持つことはできない。それは無限なのだ。それは始まりも終わりもなく、ただ存在し、始まるということも終わるということもない。

これらの像を作る私たちは何と愚かなのだろう。私たちは自分で作った偶像を崇拝しているのだ。人間は自分の形に基づいて神の像を作ったので、このようにして、自分自身を崇拝することになってしまう。これは、自己欺瞞、エゴイズム、無知の極みだ。

私もイメージに惹かれる自分が愚かだとよく思いますが、結局は自我を滅しない限りは解決しません。イメージに惹かれる心も詳しく観察し続けます。

149 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/28(木) 22:52:24 ID:1d4drIFg0
偶像崇拝は無意味だというのじゃ。
神と呼べるものが自らの心の中にあるのに、外にあるという概念設定の神の似姿を作って拝む必要は無いのじゃ。
それは自己観念の崇拝なのじゃ。
不安からの逃避に過ぎないのじゃ。

150 避難民のマジレスさん :2021/01/29(金) 21:15:17 ID:Dp/qMVVc0
神は崇拝されるべきものではない。神は生きるべきものだ。神殿ではなく、自分の生の中に神を据えなければならない。あなたは、神が心の中に入ってきて、あなたの息の一つ一つの中にいることができるように、あらゆる努力をしなければならない。そのためには、「私」の消失が不可欠なのだ。現在、その「私」があなたの心を占め、人生のあらゆる瞬間に浸透している。そして、その「私」があなたの中にある限り、神が入ることは不可能だ。カビールの歌の中で、愛の道は非常に狭く、二人が同時にその道を歩くことはあり得ないと言っている。

ある夜、私はランプの灯りのそばで、とても遅くまで読書をしていた。ランプを消したとき、私は驚いた。満月が外を照らしていたが、私の小さなランプの灯りが、月明かりが部屋に入るのを妨げていたのだ。ランプが消えた途端、月の甘露が部屋に浸透してきた。その日、私は「私」の光が中で輝いている限り、神の光は外で待たなければならないと悟った。

「私」の消滅、涅槃、サマーディは、すべて神の到来を意味する言葉だ。それらは同義語だ。それゆえにどうか、どのような神のイメージも作らず、ただ「私」のイメージを破壊してほしい。その不在そのものが神の存在となる。

そうすれば、真理を悟るのは何と簡単なことだろうか。しかし、簡単で単純に見えるものは、常に難しいものであることがわかる。それは、簡単で単純なものは、同じ理由ですぐに忘れ去られてしまうからだ。私たちは、遠くにあるものに夢中になり、近くにあるものを見失う。私たちは、他のものに占領されたままで、自己であるものを忘れてしまう。

観客が目の前の芝居に夢中になって、自分自身を忘れてしまうことは、劇場ではよくあることではないだろうか? 人生でも同じことが起こる。人生もまた巨大な舞台であり、私たちは舞台で演じられていることに夢中になり、観客、見者、自己を忘れてしまっているのだ。真理を得るために、自分自身を得るために、あなたはただ一つのことをしなければならない - ただ目を覚まし、自分が演劇の中にいることに気づくだけだ、他には何もない。

今日も何回も観客を忘れました。ただ、以前よりは確実に、舞台と観客を観られるようになって来ました。目を覚ますまで続けます。

151 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/29(金) 23:33:17 ID:1d4drIFg0
神は崇拝されるべきものではく、生きるべきものだと、オショーは言うのじゃ。
神として在る事が本来の意識なのじゃ。
それには自我を完全に観てその無存在を理解しなければならないのじゃ。
自我がある限り本来の意識は気付けないのじゃ。
ランプの光で月の光に気付けなかったようにのう。

152 避難民のマジレスさん :2021/01/30(土) 20:57:42 ID:Dp/qMVVc0
私は、あなたが座っていても、立っていても、歩いていても、寝ていても、行動に表れる一種の落ち着きのなさに常に囲まれているのを見る。それは偉大なものであれ、小さなものであれ、すべての行動の中にある。あなた自身もそれを感じないだろうか? 何をするにしても、あなたは落ち着きのない心でそれを行うことに気づいたことはないだろうか?

あなたは、この落ち着きのなさの弾幕に歯止めをかけ、沈黙の領域を作る必要がある。沈黙を背景にしてのみ、あなたの中に常に存在する喜びと音楽を経験することができる - しかし、あなたはそれを聞くことができず、自身の中の騒動と混乱のために、それを生きることができない。友よ、外の騒動はまったく邪魔ではない。もしあなたが自分の中で平穏であれば、外の騒動はないのと同じだ。しかし、私たちは自分自身の中で落ち着きがないのだ。そして、これが唯一の困難だ。

今朝、ある人が私に尋ねてきた。「内なる安らぎを手に入れるにはどうすればいいのですか?」と。私は言った、「花を見なさい。それがどのように開くかを見なさい。流れを見なさい。それがどのように流れるのかを見るのだ。」 そこにどんな落ち着きのなさを見るだろうか? 何と安らかにすべてが続いているのか!人間以外にはどこにも落ち着きのなさはない。

あなたも花のように生きることができる。そのように生きて、自然の一部としての自分を体験してみなさい。「私」が分離しているという信念が、このような落ち着きのなさと緊張感を生み出しているのだ。何か行動をする前に、どんなことでも何かをする前に、「私」を完全に取り除きなさい。そうすれば、神聖な安らぎがあなた全体に広がるのに気づくだろう。

風が吹いているときは、風であるかのようにいなさい、雨が降っているときは、あなたも雨であると感じなさい。そうして、安らぎが徐々に深まるのを見なさい。空とともにある時は空であり、闇とともにある時は闇であり、光とともにある時は光である。離れてはいけない。あなたという一滴を海に落としなさい。そうすれば、美であり、音楽であり、真理であることを知るだろう。

もし私が歩くならば、歩いていることを意識しなければならず、もし立ち上がるならば、立ち上がっていることを意識しなければならない。身体や心の行為は、無意識のうちに、半分眠っている間に起こってはならない。このようにして目覚め、意識して生活すれば、あなたの心は、純粋で、完全な、透明なものになる。

己を空しくして自然の一部としての自分を体験することと、目覚め、意識して生活することは、私としては両立が難しく感じられます。前者は主に集中によってもたらされ、後者は観察によって得られるように思います。何かコメントをいただけますでしょうか。

153 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/31(日) 00:06:15 ID:1d4drIFg0
それは言わば表層の意識でできることではないのじゃ。
もっと深い意識に到達すれば、同時にできるのじゃ。

そのように想うのもそれを観る意識が在るからなのじゃ。
更に深く心の中に没入して、その観る意識と同調するのじゃ。
そうすれば全てであることと、目覚めて意識していることが同時に出来るのじゃ。
それに到達することが集中の瞑想の目的でも在るのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

154 避難民のマジレスさん :2021/01/31(日) 20:48:36 ID:Dp/qMVVc0
このような意識した生活と行動を通して、瞑想は生の各活動に浸透していく。その内なる流れは、夜も昼も私たちに寄り添う。それは私たちを落ち着かせてくれる。瞑想は私たちの行動を浄化し、私たちを徳のある人間にしてくれる。目を覚まし、物理的にせよ精神的せよ、全ての行動を意識している人は、他の人に間違ったことができないことを覚えておきなさい。悪行は、妄想の状態で、無意識のうちにのみ犯すことができる。それらは、覚醒して意識した状態では、とても簡単に避けることができる。

私は瞑想の集大成である 「偉大な死」を、サマーディと呼ぶ、そして実際のところ、それはまさにそれだ。普通の死を経て、あなたは死ぬだろう - しかし、あなたは生まれ変わるだろう。なぜならば、その死であなたの自己がなくなることはないからだ。自己は新たに生まれ変わり、また別の死を通過するのだ。普通の死は本当の死ではない。なぜならば、普通の死の後には生まれ変わり、また死が続くからだ。そして、このサイクルはサマーディまで続き、大いなる死が来て、誕生と死のサイクルから解放されるまで続く。

サマーディとは大いなる死のことであり、サマーディの中では「私」が消滅し、それに伴って誕生と死のサイクルも消滅する。そうして残るのが生だ。サマーディの大いなる死を経て、人は誕生も死もない不滅の生に到達する。不死には始まりも終わりもない。私たちがモクシャ、解放、涅槃、ブラフマンと呼ぶこの大いなる死こそが、それなのだ。

私はまた、ディヤーナ、瞑想を活動としてではなく、休息としてみなすようにと頼む。「無活動 」とは、まさにこのことを意味する。それは完全な休息であり、すべての行為を完全に停止することだ。そして、すべての行為が無に還元され、心の脈動が静止したとき、その安らかな状態では、世界のすべての宗教が一緒になっても教えられない何かが現れ始める。行為がないときにのみ、無行為であること、つまりすべての行為の中心であり生命であることを見ることができる。そのときにのみ、行為者を見ることができる。

サラハパーダは、「心よ、行って休め - どこか太陽と月が届かない所、空気さえも敢えて入らぬ所で 」と述べている。そのような場所はあなたの中にあり、他の誰も入ることはできない。それがアートマン、あなたの魂だ。

延髄の上あたりに感じられる、観る意識と同調しても、自我がその観る意識に投射されており、全てであることを感じることはできていません。同調が不十分なのでしょうか?

155 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/01/31(日) 23:48:52 ID:1d4drIFg0
オショーは偉大な死をサマーディと呼ぶのじゃ。
それは肉体の活動をも超越しているからなのじゃ。
意識はその時、肉体の外にも感じられるじゃろう。
肉体のどこかで止まっているならば、それはまだ恐れや常識、観念の範囲から抜け出して居ないのじゃ。
意識が肉体の外にも感じられることはヨーガでは脱身といい、仏教でも意生身とか識無辺定というのじゃ。
全てである意識の片鱗を味わっているだけなのじゃ。

肉体の活動を全て休息させてそこに至るのじゃ。
思考する脳が止まっていることさえ感じられるのじゃ。
意識は思考ではないからなのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

156 避難民のマジレスさん :2021/02/01(月) 20:34:45 ID:Dp/qMVVc0
一方、あなたの身体は、他者が接触できるところまで伸びている。世界があなたの中に入ることができる限界は、あなたの身体の境界だ。世界はそこに入ることができる、なぜならばそれは輪廻の世界の一部だからだ。感覚は世界が入る扉だ。心は、このようにあなたの中に入ってきた印象の寄せ集めなのだ。

肉体を超え、心や感覚を超えたものが魂であり、アートマンだ。その魂を得ない限り、生は無意味だ。なぜならば、それを知り、それを達成しなければ、すべての知識や成果は無価値だからだ。

私は、輪廻と涅槃、世界と解放を二つの異なるものとはみなしていない。それらの間に存在する区別は、その性質とは何の関係もない。それは客観的な区別ではない。区別はそれらの間にあるのではなく、それらを見るあなたの見方にあるのだ。輪廻と涅槃は二つの異なる存在ではない。輪廻と涅槃は、一つの現実を見るあなたの二つの見方だ。現実はただ一つだが、その見方は二つだ。知の観点から見ると、それは一つのものに見え、無知の観点から見ると別のものに見える。無知では輪廻として見えるものが、知では涅槃になる。この世では無知であるものが、神の中では知となる。したがって、問題は、外部の世界ではなく、内部の世界をどのように変えるかということだ。あなたが変われば、他のすべてが変わる。あなたは輪廻であり、涅槃でもあるのだ。

真理はどんな代償を払っても手に入れることはできない。それは何かと引き換えに他人から得ることはできない。それは自己啓発の賜物だ。

大きな心配事や痛みなどがある時には、それがない時よりも体験上、厭離が難しいのですが、これはその大きさにより観察が疎かになるからなのでしょうか?

157 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/01(月) 23:34:44 ID:1d4drIFg0
苦が大きかったりすると逃避したり、それが起こす感情に巻き込まれたりするからなのじゃ。
止による集中力が十分でないと、そのようなこともおこるのじゃ。
心が止まらず動いてしまうのじゃ。
その感情と同一化したり、逆に逃避する動きに同一化してしまうのじゃ。
強く集中して肉体をも客観的に観られるようになれば、それも回避できるのじゃ。

158 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/01(月) 23:41:04 ID:1d4drIFg0
オショーは輪廻と涅槃は一つであると言うのじゃ。
それは人の見方による区別でしかないからなのじゃ。
全ての世界は一つであるからなのじゃ。
それは自らの進歩に拠ってのみ気付く事が出来るのじゃ。

159 避難民のマジレスさん :2021/02/02(火) 21:04:58 ID:Dp/qMVVc0
ビンビサーラ皇帝はかつてマハヴィーラのもとに行き、「私は真理を得たい。私は自分が持っているものは何でも喜んで与えるが、人のすべての悲しみを取り除く真理を持たなければならない。」と言った。マハヴィーラは、支配者が世界を征服したのと同じ方法で真実を征服したいと思っていること、さらには真実を買いたいと思っていることを見た。それで、マハヴィーラはエゴが話されたことを理解して、ビンビサーラに言った、 「閣下、最初にあなたの帝国の市民である、プンヤ・シュラヴァクのところに行き、彼から瞑想の果実を手に入れてください。それは解放と真理へのあなたの旅をより簡単にするでしょう。」

ビンビサーラはプンヤ・シュラヴァクのところに行って言った、「私はお願いしに来た。あなたの瞑想の果実を買いたいのだ。幾らでも支払おう。」

皇帝の要求を聞いて、プンヤ・シュラヴァクは答えた。「閣下、瞑想は静けさを意味します。それは心を誘惑や憎しみから解放し、自分自身の中で安定した状態を保つことを意味します。これが、どのようにして、ある人から別の人に与えられるのでしょうか? あなたはそれを買いたいと思っていますが、それは不可能です。自分で手に入れなければなりません。」

他に方法はない。真理は買うことができない。贈り物としても、物乞いによっても得ることはできない。そして、攻撃によって征服することはできない。真理を攻撃することは、それを達成する方法ではない。暴力は自我の表現であり、自我があるところに真理は存在できない。真理を達成するためには、自分自身をゼロにしなければならない。真理は空虚、空の扉を通って来る。それは自我の攻撃ではなく、感受性と空の受容を通してやって来るのだ。真理を攻撃してはならない - それが入ってくるために自分自身を開いて準備しなさい。

少し油断すると、すぐに自我によって振りまわされてしまいます。忍耐強く観察に励みます。

160 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/02(火) 22:35:09 ID:1d4drIFg0
悟りはどれほど金を積んでも得られないのじゃ。
権力に拠っても得られず、他人から強奪することも出来ないのじゃ。
それは自ら実践することでのみやってくるものじゃ。
ただひたすらに実践し、己の心を開いて待つのみなのじゃ。

161 避難民のマジレスさん :2021/02/03(水) 20:55:28 ID:Dp/qMVVc0
慧能は、真理に到達する方法があると言った:無修行による修行。修行に力を使うのを避けるため、無修行を条件としている。これは無行為であり、無修行だ。それは達成ではなく、空になることだが、それが真理を達成する道だ。あなたが自分を空にする分だけ、あなたは達成する。

雨水はどこへ行くのだろうか? それは丘の上にとどまるのではなく、空っぽの溝に流れていく。真理の性質は水の性質に似ている。もしあなたが真理を達成したいなら、自分自身を完全に空にしなさい。空になるとすぐに、真理はその空の場所をそれ自体で満たすだろう。

真理はあなたの中にある。それは私の中にある。探すために他のどこかに行く必要はない。水のために井戸を掘るように、それを自分の中から掘り出さなければならない。魂の井戸を掘らなければならない。そして瞑想は、その井戸を掘るための鋤なのだ。瞑想の鋤を使って、私たちの本質を覆っている外界の土を掘り出さなければならない - そうすれば、私たちが求めているものは近くにある。それは求道者自身の中に隠されているのだ。

第7章はここまでです。もし何かございましたら、ご指摘ください。
掘っても掘っても自分が出てきますが、励み続けます。

162 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/03(水) 21:19:48 ID:1d4drIFg0
慧能の法は法ではなく、むしろ法をも放棄した法といえるじゃろう。
何もしないことで悟りを迎え入れるのじゃ。
それは無為の法なのじゃ。
自ら無になって無我になるのじゃ。


特にないのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。

163 避難民のマジレスさん :2021/02/04(木) 21:08:04 ID:Dp/qMVVc0
第8章 4日目の朝 1964年6月7日 午前

あなた方に会うことができて本当に嬉しい!あなたの真理を知りたいというあこがれの深さ、渇きの深さを感じる。私はあなたの目にそれを見て、あなたが呼吸するたびにそれを感じる。そして、あなたの胸が真理の達成を求めて高鳴っているように、私の胸もまた高鳴っている。私はあなたの知への渇きに深く感動している。こんなに嬉しいことはない! それはとても美しい!この世には真理を知りたいという願いほど甘美で美しいものはない。

この喜びの瞬間に...何と言おうか? 私の言葉を待つあなたの探求のこの瞬間に、何を言おうか?このような瞬間にこそ、私たちは、言葉がいかに取るに足らないものであり、無意味で無力なものであるかに気づくのだ。特に言う価値のあることが何もないときには、言葉はそれを伝えることができるが、何か深いことを言うべきときには、言葉は惨めなほど不十分だ。真理の実現、至福の経験、そして美の洞察は、地上の形に帰することができないほどに繊細で霊妙なので、これは当然のことだ。そして、それらに形を与えようとするとすぐに、それらの経験は死んで無意味となり、生きている経験は生きたまま私たちの手の中に入ってくるのではなく、その死体となって現れる。霊は取り残され、言葉が言及するものは何であれ、もはや真理ではない。

では、私は何を言えばいいのだろうか。何も言わない方が良かったのだろうか、何も聞かない方が良かったのだろうか。私たちが静かに穏やかに、言葉もなく黙ったままでいられたら、どんなにすばらしかっただろうか。あなたは目を覚まして、その沈黙の中にある何か、本当にある何かを見ることができたかもしれない。その場合、私は話さずに済んだし、あなたは聞かずに済んだが、それでも真理は伝わっただろう。なぜならば、永遠の真理はすべての人の中にあるのだから。あなたが探し求めている音楽は、すべての瞬間にあなたの存在の奥底で響いている、そして真理を求めている瞬間は、たとえそれが沈黙であっても、祈りへと変わっていく。神を渇望することも、静かに待つことも、どちらも祈りなのだ。

私の経験では、渇望と同時には自然な観察ができません。渇望により、修行の動機を得て、修行の実践により、観察に熟達していくというような過程で良いのでしょうか?

164 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/04(木) 23:14:28 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
渇望は最後に捨てれば善いのじゃ。
そうすれば全ての重荷を下ろした安らぎがあるじゃろう。
もはやなすべきことも無い安らぎなのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

165 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/04(木) 23:26:03 ID:1d4drIFg0
オショーは言葉として教えを説くことに限界があるというのじゃ。
沈黙こそが最大最高の教えなのじゃ。
師と共に沈黙を味わうことができる者には速やかに悟りに導けるのじゃ。
それがまだ出来ない者のために言葉としての法も説かなければならないのじゃ。

166 避難民のマジレスさん :2021/02/05(金) 20:52:28 ID:Dp/qMVVc0
人が求めているものは、自分自身の中にある。あなた方がここに集まってきて、私に問いかけ知るためのものは、常にあなた方の中にある。あなたはそれを失ったことはない。また、決してそれを失うことはできない。それはあなたの存在であり、あなたの本質だ。それは、決して失われることのない唯一の宝だ、なぜならばあなた自身がその宝だからだ。しかし私たちは皆、それを探している。失われることのない、まさにそのものを探しているのだ。なんという矛盾なのだろうか!

私は素晴らしい説法を覚えているが、それがいつ、誰によってなされたのかは覚えていない。

ある晩、お寺でとても大きな集会が行われることになっていたので、多くの僧侶が集まっていた。長い待ち時間の後、話者が到着した。彼が話をするために立ち上がると、聴衆の誰かが質問をした、「真理とは何ですか?」と。 警戒と期待の沈黙が部屋を満たした。話者が答えを知っていることが知られていたので、言葉の一つ一つが重要であると考えられていた。しかし、あなたは彼が何を言ったかわかるだろうか? 彼は非常に大きな声で言った、「おお、僧侶たちよ!」 静寂がこの二つの言葉で響きわたり、すべての目が彼を見ていた。全員が沈黙し、注意していた。 しかし、話者はそれ以上話すことはなかった。彼は説法を終えたのだ。

あなたは彼が言ったことを理解しただろうか? 彼は何かを言ったのか? 私からしてみれば、彼はすべてを言っていた。話す価値のあるものは何でも、彼の二つの言葉で足りていた。私も同じことを言いたい。私も同じことを語る。それは言葉では伝えられない何かを語るに値する、唯一のものなのだ。

では、彼は何を言ったのだろうか。彼は、「外のどこにも真理を求めてはいけない。誰にも聞いてはいけない。それが全く存在するならば、それはあなたの中に存在する。」と言った。だから、彼は真理について尋ねられたとき、それについて全く何も言わなかった。彼は単に会衆に呼びかけた。あなたが眠りから誰かを目覚めさせるように、彼は会衆に呼びかけた。これが真理についての質問への唯一の答えなのだ。

寝ていても、死んでいても、この中に変わらずにあるもの。それに気づけるように、心を静めて観察を続けます。

167 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/05(金) 23:51:14 ID:1d4drIFg0
悟った者が言葉として言えるのは、ただ悟りが人の中にあるということだけなのじゃ。
真理は言葉では表せないのじゃ。
表そうとすれば沈黙になるのじゃ。
言葉ではなく体現するしかないのじゃ。
真理そのものの姿を自らあらわして見せるのみなのじゃ。

168 避難民のマジレスさん :2021/02/06(土) 20:54:14 ID:Dp/qMVVc0
目覚めることは、真理を達成することだ。他の方法はない。あなたは眠っているので、側に立っているものを見ることができない、あなたが本当は何であるかを見ることができない。そして、夢の中であなたは、広く遠くさまよう。あなたの中、探求者の中にすでにある何かを求めて。あなたは麝香を求めてさまよう麝香鹿のようなものだ。

しかし、あなたがどんなに頑張って自分の中にあるものを見つけようとしても、それを見つけることはできない。それは探して得ることはできない。外のものは探して得ることができるが、人はこのような探求で自分自身を達成することはできない。真理は探し求めることによってではなく、目を覚ますことによって発見されるのだ。そして、それが話者が会衆に呼びかけて、それ以上話さなかった理由だ。そして、この同じ理由で、マハヴィーラ、ブッダ、クリシュナ、キリストは皆、あなたに呼びかけている。それは話しているのではなく、呼びかけているのだ。これは説教ではなく、話しかけ、呼びかけだ。

私も話すつもりはなく、呼びかけるつもりだ。聞こえるだろうか? 睡眠を邪魔して夢を壊すのを許してくれるだろうか? あなたの夢は甘く満足のいくものかもしれない。しかし、甘くて満足している夢は有害なのだ、なぜならば、その夢はあなたを目覚めさせず、睡眠中毒をさらに酷くするからだ。

私が目覚めた結果として経験している喜びを、あなたにも目撃してもらいたいのだ。それで、私はあなたに呼びかけることにした。話すつもりはない、ただ呼びかけるだけだ。もし私の呼びかけがあなたの眠りを妨げ、夢の霧を消してしまったら、許して欲しい。私は無力だ。あなたの夢を打ち砕かなければ、真理について何も語ることはできない。私たちは眠りに包まれている。この眠りが続く限り、私たちの行動は何の役にも立たない。あなたが眠っている限り、あなたが知っていることは何でも、夢に過ぎない。

夢から覚めるよう、気をつけて観察します。

169 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/07(日) 00:06:43 ID:1d4drIFg0
オショーは自分を探求する者を麝香を求めるジャコウジカのようだというのじゃ。
なかなか上手いことを言うのじゃ。
正に悟りを求める者は、悟りを求めている自分そのものを見つけなければならないのじゃ。
探し当てるべき者は自分なのじゃ。
それを教えるためには言葉による話ではなく、呼びかけが必要だというのじゃ。
探す物は探している者の中にあると悟りを得たものは呼びかけるのじゃ。

170 避難民のマジレスさん :2021/02/07(日) 20:59:51 ID:Dp/qMVVc0
まずはこの眠りから覚めることだ。他のことは後からやってくる。その前には何もしてはならない。この眠りの中での思考や行動を全く重要視しないように。ただ夢の中の出来事としてそれらを見なさい。あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。あなたの知識、行動、すべてが偽りに縛られている。そして、あなたの信条も、信仰も、信念も、すべて盲目になるだろう。あなたがどのような道をたどっても、それは真理につながることはない。しかし、現時点では道を歩くことに疑問はない。あなたは眠りながら道を歩いているのだろうか? それは歩いているという夢でしかないのだ。

自己の無知とは、私があなたに話している眠りのことだ。そこから目覚める必要がある。この眠りから覚めるためには、今のままのあなたと、この目覚めの間に立ちはだかる要因を理解することも必要だ。宗教を知る前に、まず宗教が何ではないのかを知り、自分が宗教として何にしがみついているのかを理解しなければならない。この宗教はあなたを覚醒させるどころか、睡眠薬のようなものである可能性が高いのだ。

カール・マルクスは、宗教をアヘンを含む麻薬であり、あなたを眠らせるためのものだと言った。宗教は断じてアヘンではないが、一般的に宗教と勘違いされているものはアヘンだ。マルクスが宗教をアヘンだと決めつけたのは間違っていたし、あなたもまた、間違っている。あなたがしたことは、アヘンを宗教と勘違いしたことだ。それゆえに、どちらが宗教で、どちらがアヘンなのかを知ることが不可欠だ。

まず、宗教とは何でないかを考えてから、宗教とは何かを体験してみよう。無宗教について考えるだけで、宗教が何でないかを知ることができるが、宗教について考えるだけでは十分ではない。宗教を達成するためには、サーダナ、修行を経験しなければならない。

最近新しい気づきが減っていることに気づきました。初心にかえって観察します。

171 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/07(日) 23:53:19 ID:1d4drIFg0
オショーは「あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。」というのじゃ。
自分の心を知らなければ、善事でさえ悪事であることさえあるのじゃ。
それは善事でも実は悪しき動機からしているのかもしれんからなのじゃ。
例えば人に金を与えるのは実は人を何でも言いなりになる奴隷にしようとしているのかもしれんからのう。
自分を知り、目覚めなければ何も出来ずどこにも行けないのじゃ。

172 避難民のマジレスさん :2021/02/08(月) 21:18:11 ID:Dp/qMVVc0
まず最初に、一つのことを言っておきたい。もしあなたが本当に宗教や宗教的な生活の中である程度のレベルに到達したいと思うならば、どんな信念や考えも当然のこととして受け止めないことから始めなければならない。真理を知りたいのであれば、それに関するどんな先入観にとらわれてもいけない。あなたは、完全な冷静さと空虚さの中で、どんな教義にもとらわれずに、真理に近づかなければならない。先入観や偏見は、あなたの視覚をぼんやりと歪める。その時、あなたが知るのは真理ではなく、あなた自身の思考の投影だ。そうすれば、真理はあなたの中に降りてこない。それどころか、あなたは自分自身を真理に押し付ける。

真理についての理論や特定の見解を持たないこと。自分自身で判断しなさい。そうして初めて、何が真理であるかがわかる。そうでなければ、心の網から抜け出すことはできない。あなたが知るのは知ではなく、想像になる。

人間の想像というものは際限のない力を持っており、この想像があなたと真理との間の壁となっている。もし、神と真理と魂について事前に心が決まっていれば、心はその決めたことに固執し、あなたが本当に何かを知っていたと信じるように導くだろう。しかし、実際のところ、あなたは何も知らず、想像の領域をさまよっているのだ。これは真理の洞察ではなく、夢なのだ。

あなたは、心が夢を見るための果てしない能力を持っていることをよく知っている。私たちの欲望は、全く存在しないものを私たちに見せる。それは蜃気楼を作り出し、そうすると、本当にあるものは隠され、そうでないものが明らかになる。

しかし、あなたは夢を見ることは眠りの中にしか起こらないと言うだろう。確かに夢は眠りの中で起こるが、眠りは誘発されることもあるし、ある意味では起きている間に眠っていることもある。あなたは白昼夢を見ないだろうか?

気をつけて観察していると、自分のイメージに関する否定的なことと、それを嫌悪する感情に気づきました。いつの間にか、観ないようになっていました。毎日できるだけ全てを観察するようにしていたのですが、知らないうちに避けていたようです。恐ろしいことです。

173 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/08(月) 22:01:14 ID:1d4drIFg0
悟りへの道に最初に必要なのはどんな先入観にも囚われてはいかんということだというのじゃ。
先入観があればそれに応じた幻想を自ら作り出ししまうからなのじゃ。
例えば白ひげの神がいると思っていれば、それを瞑想中に見たりするじゃろう。
自分が作り出した幻想とはわからずに囚われてしまうじゃろう。
難しいことではあるが何の先入観もなしで観察を始めるのじゃ。

174 避難民のマジレスさん :2021/02/09(火) 20:43:32 ID:Dp/qMVVc0
それで、もし人が神についての特定の観念を持ち続けていて、目が覚めていても眠っていても、そのイメージで自分自身を満たしているならば、ほとんど間違いなくそのイメージを投影して、それの直覚を得ることになる。それは強化された白昼夢だ。実際には目の前には何もないが、目の後ろで養われ、育まれてきたものが目の前に現れる。これは投影であり、このようにして夢は見られる。

そして、先入観に基づく真理の洞察も同様に可能となる。キリストの帰依者はキリストのビジョンを見、クリシュナの信奉者はクリシュナを見、他の誰かの弟子は他の誰かを見る。これは決して神や真理の洞察や実現ではない。二つの真理、二つの神が存在することはあり得ないので、これは自分の想像の投影だ。真理は一つであり、実現は一つであり、真理を知ろうとする者は、自分の無数の観念や想像を手放さなければならない。私は、ある特定の観念のために他の観念を手放せと言っているのではなく、すべての観念を手放せと言っているのだ。これらの観念こそが多くの信条や教義を生み出し、そのために無数の信条が存在しているが、宗教は存在しない。

真理を知るためには、それに関するすべての理論を捨てなければならない。すべての偏見や部分性を超えた、完全無垢で独立した状態にある者だけが真理を知ることができる。観念も概念も期待もないところにこそ、真理が実現できるのだ。本当のところ、真理を実現するための努力とは、真理を実現するための努力ではなく、夢を見ている状態から脱却するための努力なのだ。

真理の実現とは何だろうか。それは、簡単に言えば、幻覚からの自由だ。この自由こそが真理の実現なのだ。私たちは夢の中で失われているので、常に存在しているものは、その継続的な存在にもかかわらず、不在であるように見える。

幻覚からの自由に、強いあこがれを感じています。しかし、それは期待もないところにあるので、一つ一つ自分の観念を厭離していきます。

175 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/09(火) 23:38:52 ID:1d4drIFg0
幻覚からの自由、その自由こそが真理の実現とオショーは言うのじゃ。
それは人に教えられ、自らも信じている観念の夢から覚めることなのじゃ。
修業に入るのに観念を信じる者にはその観念が見えてしまうじゃろう。
全ての偏見や先入観を捨ててこそ真理を知り、実現できるのじゃ。

176 避難民のマジレスさん :2021/02/10(水) 20:58:47 ID:Dp/qMVVc0
真理が存在するのは、真理が常に存在しているからだ。それはどこからももたらされる必要はない。それは常に存在している。しかし、私たちは存在していない。私たちは夢の荒野で迷子になっているのだ。いや、真理を自分自身に持ってこなければならないのではなく、真理に自分自身を持ってこなければならない。それは、神についての夢や幻を見ることによってではなく、すべての夢や幻を取り除き、目覚めることで可能だ。

それゆえに、私は真理には想像は必要なく、実現が必要だと言う。すべての想像から解放された心の実現とは、真理の状態にある心の実現だ。私たちは、心が分かれているとき、二元性の状態にあるときに世界を見る。心が分かれていない存在、単一性であるとき、私たちは真理を見る。

すべての観念や信念は思い込みであり、真理への入り口ではない。それらは障害物であり、どこにも導びかない。それどころか、あなたの道を塞いでしまう。真理の道は、それらを通るのではなく、それらを超えた先にあるのだ。

どうか、いかなる考えや概念を採用したり、真理についての信条や信念を身につけたりしないでもらいたい。なぜならば、あなたが身につけた信念は経験となるからだ。そして、その経験は現実ではなく、精神、想像上のものだ。その経験は霊的なものではない。無知のうちに形成された真理に関する信念はすべて偽りだ。真理とは何か、それがどのようなものであるかについて考えてはならない。そのような考えはすべて盲目だ。それは盲人が光を想像しようとしているようなものだ。かわいそうに! 光が何であるかをどのように想像することができるのか!視力がなければ、その人は光について何も想像することができない。何を考えても根本的に間違っているだろう。光はおろか、暗闇を正確に想像することさえできない。暗闇を見るにも目が必要だ。

何度も何度も観察を忘れますが、気づいたときには忍耐強く観察に戻ります。

177 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/10(水) 21:57:55 ID:1d4drIFg0
全ての観念や信念は思い込みであるとオショーは言うのじゃ。
それは真理の入り口ではなく障害物だともいうのじゃ。
ただ悟りへと導く観念のみが法として実践されるべきなのじゃ。
そうでなければ全ての観念は捨てるべきなのじゃ。
法さえも最後には捨てるべきなのじゃ。

178 避難民のマジレスさん :2021/02/11(木) 20:56:52 ID:Dp/qMVVc0
視力のない人はその時何ができるのだろうか? 私はその人に言いたい、「光のことは考えないで、目を治療しなさい」と。 考えることではなく、治療をすることが助けになるのだ。しかし、私は何を見るだろうか? その人が説教されているのを見て、光の哲学を説明されているのを見る。しかし、誰も目の治療には関心がない。

そして、より驚くべきことは、光を主題として説教している人たちは、自分自身が光を見たことがないということだ!その人たちも光については知っているが、光を知らないのだ。私がこう言うのは、もしその人たちが光を知っていたならば、説教の無益さに気づき、失明の治療に関心と同情を集中させただろうからだ。視力が治れば、光は自動的に経験される。視覚に必要なものは常に存在している。視覚があるならば、光がある。

「視覚」と「光」は、全く異なる方向に導く言葉だ。光を考えることは哲学につながる。それは、考えることだけに向かう方向性だ。それは経験にはつながらず、単なる思考にすぎない。たくさんの歩みがあるが、目的地にたどり着くことはない。結論はたくさんあるが、私たちの問題を解決できるものはない。これは当然のことだ。水についての最も完璧な考えでも、喉の渇きを少しも癒すことはできない。喉の渇きを癒す方法は全く異なる。

道、修行はものの考え方ではなく、視覚の治療だ。私は光について考えることが哲学であると言ったが、今、視覚によって洞察することが宗教であると言いたい。考えることで知的な結論に達することができるが、一方で修行は霊的な洞察、霊的な経験を与えてくれる。前者は水について考えるようなもので、後者は喉の渇きを癒すようなものだ。前者は問題であり、後者は解決策だ。

自我が自由を妨げているので厭離したいという思いと、自我を失くしたくないという思いの、両方で引っ張られている感覚です。そのような思いと感覚も気をつけて観察します。

179 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/11(木) 22:00:46 ID:1d4drIFg0
盲人に光の説明をしても無意味だとオショーはいうのじゃ。
光に導く治療が必要なのじゃ。
考えることは光に導かないのじゃ。
視覚を取り戻させることが光に導く事なのじゃ。

180 避難民のマジレスさん :2021/02/12(金) 20:51:25 ID:Dp/qMVVc0
私は皆にこの質問をする。「あなたは光を知りたいのか、それとも光について知りたいのか?」と、そしてあなたは-あなたは真理を知りたいのか、それとも真理について知りたいのか? 水について知りたいのか、それとも渇きを癒やしたいのか? これらの質問に対する答えによって、あなたが知に渇いているのか、それともただ情報を集めたいだけなのかが決まる。

そして、これらは正反対の方向であることを忘れてはならない。一つは自我の根本的な消滅につながり、もう一つは自我の絶頂につながる。一方では無邪気になり、他方では複雑になる。知は自我を破壊する一方で、情報は自我を強め、さらに膨らませる。すべての収集、すべての獲得は自我を満たし、このような理由から、自我は常により多くのものを求める。

思考もまた、かなり微妙なものではあるが、獲得だ。思考もまた自我を養う。あなたが学者の間で見かける偽善は、自然発生的でも偶然でもなく、思考の自然な結果なのだ。

思考は後天的なものだ。それらは外界から押し寄せてくるものであり、内に生まれたものではない。それらは魂のものではないが、魂の壁であり、ある意味では罪なのだ。外界からは光に関する情報を盲人に与えることができるが、光の感覚は、内から盲人の中に生み出されなければならない。獲得とエネルギーの違いは、情報と知の違いだ。獲得は外に由来し、エネルギーは内に由来する。

しかし、獲得はエネルギーの錯覚を与える。この錯覚はかなり強く、自我を養う。エゴイズムはエネルギーではなく、エネルギーの錯覚だ。真実のほんの小さな閃きがそれを破壊し、蒸発させることができるので、エゴイズムは実際には非エネルギーだ。このような理由から、自分の真のエネルギーは全くエゴイズムが無いのだ。

私も思考によって自我が養われるのを感じる事があります。気をつけて観察していると、時に、思考によって何かを得たその瞬間に、自分のイメージが自分の身体を超えて拡がるのが分かります。油断せずに精進します。

181 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/12(金) 23:39:25 ID:1d4drIFg0
思考も自我を養うとオショーは言うのじゃ。
思考している自分が常に起こるからなのじゃ。
自我が起これば自我を守る働きも生じるのじゃ。
そのために攻撃や偽善が起こるのじゃ。

182 避難民のマジレスさん :2021/02/13(土) 21:06:03 ID:Dp/qMVVc0
学習と智慧の区別を理解してもらえただろうか。それを理解することは必要不可欠だ。誤った知は、無知よりも自己実現の道でさらに大きな障害となる。誤った知とは、あなたが本当には知らないときに 「私は知っている 」という印象だ。このような誤った印象は、学習や学校教育による他者の考えから簡単に成長し得る。その誤った印象は、聖典の知識、言葉の知識からも生じる。そして、このような言葉の知識のために、人は自分が真理を悟ったと思っているようだ。

言葉は記憶の一部となる。言葉は質問の形になり、それぞれの質問には自動的に答えが返ってくる。人の区別の感覚は、借用された考えの中で失われ、支配される。そして人が自分の中から答えを探す前に、借用された言葉と考えの厚い層により、既成の答えが飛び出してくる。このようにして、私たちは問題を解決することができず、その答えを奪われている。もし問題が自分のものならば、それは自分の答えだけが必要とされる。借り物や中古の答えは何の役にも立たない。

人は生を借りることも、問題の答えを借りることもできない。問題の答えは外から来るものではない。それは問題の中に内在しているのだ。答えは問題の中から発展する。もし問題が内にあるならば、真理は外にはありえない。そして、真理はそれゆえに学ぶことができない。それはむき出しにされなければならない。あなたはそれを発見しなければならない。真理は訓練によってではなく、実現によってのみ知ることができる。そしてこれが、聖典を学んだ者と、魂を実現した者との根本的な違いだ。この世界では、聖典に精通していれば十分だが、霊の領域ではそうではない。聖典に精通している範囲にいるならば、それは出発点よりもはるかに劣っている。

思考している自分が常に起こるから、思考も自我を養うのでしたら、思考の他にも感情や感覚、意志など、自我が投射されるものは全て自我を養うと言えるのでしょうか?

183 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/13(土) 22:26:45 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全て自我を養っているのじゃ。
 それらが起こる度に自我も想起されるのじゃ。
 そして自分があるという確固とした認識をもってしまうのじゃ。
 全てを捨てて進むのじゃ。

184 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/13(土) 22:29:15 ID:1d4drIFg0
知識は人に誤まった達成感を与えてしまうのじゃ。
例えば水泳の知識があれば自分は泳げると想ってしまうようなものじゃ。
知識と実際の体験は全く違うものじゃ。
知識を信奉して実践をおろそかにしてしまえば、初心の者よりも後退してしまったことになるのじゃ。

185 避難民のマジレスさん :2021/02/14(日) 21:07:32 ID:Dp/qMVVc0
あなたは、あなたではないもの、世界について、物質の世界についての情報しか持つことができない。あなたでないものについては、あなたは知を持つことができない。外側に関係するものは何でも、外側からしか知ることができない。あなたはそれに非常に近いかもしれないが、それはまだ遠くにあるだろう。私たちとの距離がどんなに小さくても、それがなくなることはない。それは常にあるのだ。だから、私たちは自分以外のものには親しむことができるだけで、それの知を持つことはできない。私たちは何かについて知ることはできるが、その何か自体を知ることはできない。

距離を完全に無くすことが、すべての知の前提条件だ。そうして初めて、自分の内なる存在に入ることができるのだ。しかし、距離のあるものは、決して距離のあるもの以外の何物でもあり得ない。現実に距離がないならば、その場合にのみ、そうでないことはあり得る。距離は、それが幻想である場合にのみ無くすことができる。それが現実であるならば、その排除は不可能だ。

私から離れていない存在はひとつ、ただひとつある。この存在が私から離れていることは不可能だ。私がその存在だ。そう、それは私自身なのだ。その存在だけで、本当の知が可能なのだ。この存在からの距離は幻想に過ぎない、なぜならばどうやって自分自身からの距離があり得るのだろうか。私だけが自己の中心であり、ここに私の内側の入り口、私の内側の住まい、そして完璧さの玉座がある。このことだけを知ることができる。

もう一つの事実を思い出してほしい。私たちは世界を知ることはできない。世界と交わり、情報を集めることができるだけだ。しかし、自己については、唯一の知が可能だ。だから、自己についての情報は無いし、アートマンについての情報も無い - 魂の知のみが可能だ。だからこそ、物体の場合は、物質的なものの場合は、私たち以外のものの場合は、経典や聖典の専門家であれば十分だが、自己の場合はそれだけでは十分ではないのだ。

わかるようでわからない話でした。特に三番目の段落の「私」が、自我の意味で使われているのか、記憶では認識できない存在の意味で使われているのか、よく分かりません。ただ、自分の内側に注意が向くのを感じました。

186 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/14(日) 23:19:58 ID:1d4drIFg0
それは自我なのじゃ。
自我とも存在は離れていないのじゃ。

187 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/14(日) 23:22:10 ID:1d4drIFg0
外側の世界について知ることは出来ないというのじゃ。
ただ情報を持つことができるだけなのじゃ。
自己についてのみ知ることが出来るというのじゃ。
それは存在と自己が同一であるからなのじゃ。
そこに距離の無い知である、気づきが起こる可能性があるのじゃ。

188 避難民のマジレスさん :2021/02/15(月) 20:50:17 ID:Dp/qMVVc0
科学は聖典であるが、宗教はそうではない。科学は対象物に関する情報であり、宗教は自己の知だ。科学は聖典、経典だ。宗教は修行、実現への道だ。

私は説教をしているのではない。そのアプローチは全く実りのないものだ。必要なのは説教ではなく、治療だ。私は真理に関連する教義を解説するつもりはない。それは全く役に立たない。だが、価値があるのは、真理を見ることができる方法だ。この方法は病気の治療法として機能し、それゆえに目は開く。そうすれば、光について考える必要はない。あなたはすぐにそれを見る。視力がないときは考えなければならないが、視力があれば考えることは問題外となる。失明しているときは、考えることが目の働きをしているが、視力が回復するとすぐに、考えることは不要になる。

私が見るに、思考は知ではなく無知の証だ。知とは、思考がない状態のことだ。それは思考ではなく、洞察なのだ。そして、この洞察は、真理に関するいかなる教義によっても不可能だ。教義は単に物事を知的な獲得に還元し、それらは記憶の一部になる。教義は決して知の一部になることはできない。

教義は教えることはできても、人の本当の人格を変えることはできない。衣服のように、外側のレベルでは変化をもたらすが、内側の存在は以前のままだ。精神は教義に影響されず、そしてベール、カバーが新しい形と新しい色をしている。あなたがこのようであれば、智慧はあなたの上に降りることはできない。それどころか、偽善の溝に落ちてしまう。

自分という感覚を観ようとしていて、かえって自我に囚われていることに気づきました。対象を決めずに観察に励みます。

189 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/15(月) 21:49:32 ID:1d4drIFg0
オショーは思考や知識は知ではないとさえ言うのじゃ。
それは記憶に過ぎないからなのじゃ。
記憶は過去と同じことを繰り返すのみであるから変容をもたらさないのじゃ。
洞察することこそ知であり、変容をもたらすものなのじゃ。

190 避難民のマジレスさん :2021/02/16(火) 20:47:35 ID:Dp/qMVVc0
人の存在と、知識の間には大きな溝がある。人は一つのものであり、その人が知っていることは全く別のものだ。人格は二つに分かれている。その人の内なる存在と外なる殻の間には葛藤と二元性がある。そして、その自然な結果が偽善なのだ。そのような人は、自分の中に実際には存在しない誰かとして自分自身を見せ始め、存在する人を隠し始める。この行為は無宗教だ。他人の生を台無しにするだけでなく、自分の生も台無しにしてしまう。これは自己欺瞞だが、それは宗教的だとして通用する。

教理や教義の知的な教えは、これだけしかできない:外側の包みを変えること。しかし、精神的な革命のためには、それ以外の取り組み方が必要だ。その取り組みは、教義ではなく、自己実現の道を歩くこと、修行であるべきだ。それは説教の取り組み方ではなく、治療の取り組み方だ。真理について考えるのではなく、真理に目を開くことだ。

宗教とは、目を開く方法だ。目が開かれれば、神の視覚は簡単に実現する。しかし、教義はあなたの目を開かないだろう。それどころか、それに惑わされている人たちは、自分の目が閉じていることを忘れ、論じる真理は、自分の目で見たのではなく、他人の目で見たものであることを忘れてしまう。他者によって見られる真理は、他者によって食べられる食事のようなものだ。それは他の誰の何の役にも立たない。

真理の実現は、完全に私的で個人的なものであり、決して譲渡可能なものではない。それは受け取ることも与えることもできない。それは自分自身で得なければならない。それは盗まれたり、施しで受け入れられたりすることはできない。それは財産の一部ではなく、自分自身そのものだ。真理は財産ではなく、自分自身そのものであり、それゆえに譲渡することはできない。これまでのところ、誰もそれを誰かに与えたことはない。また、未来の誰もがそれを誰かに与えることはできないだろう。なぜならば、与えられた瞬間、それは真理であることをやめて、物になるからだ。物は与えることも、奪うこともできる。真理は、自分自身の中で、自分自身によって達成されなければならない。それは主観的だ。実際には、それは本当は達成されるものではない - 人はそれにならなければならない。それはあなた自身あること、あなた自身の実存なのだ。

特に何も思い浮かびません。ただ観察します。

191 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/16(火) 23:06:30 ID:1d4drIFg0
知識は自他の人生を台無しにしてしまうとまでオショーは言うのじゃ。
実際に多くの知識を集めても、自分について知らなかったばかりに破滅する者は多いのじゃ。
不要な知識に囚われて自己の探求を怠れば、破滅が待っているのじゃ。
自らの実践によって自己の探求をすることができるのは自分だけなのじゃ。

192 避難民のマジレスさん :2021/02/17(水) 21:09:20 ID:Dp/qMVVc0
では、真理を学ぶという問題はどこから来るのだろうか? それは発見されなければならない。学ぶことは、自己の上に層を形成するだけだ。すべての外部の教えは、真理を覆うだけだ。外から来るものは全て、覆うことしかできない。覆うことは、外からできるただ一つのことだ。そして、思考の衣はますます自己を覆い続ける。これらの衣を脱ぎ捨て、裸になりなさい。これらの衣服をすべて捨てなさい。自己を知るためには、学ぶのではなく、学びを放棄しなければならない。すべての外部の客が去ったとき、あなたは客ではなく、主人であるものを知ることになる。

真理は教えることができないが、真理を知る方法は教えることができる。今日では、この方法を語る人はいない。真理についての多くの話があるが、真理を実現する方法についての話はない。これほど大きな間違いはない。肉体にしがみつき、生を見失っているのだ。その結果、無数の宗教(religions)が存在するが、大文字Rの(世界に一つしかない)宗教は存在しない。

宗教という名の下に仮装している多数の宗派は、全く宗教ではない。宗教は一つしかない。それを説明する形容詞はない。それは何の修飾語もない。ダルマはダルマを意味し、宗教は宗教を意味する。私の言葉では「このダルマ」「あのダルマ」とは言えない。「これ」と「あれ」があるところには宗教はない。

これらの宗派は真理についての多くの教義や理論のために生まれてきたし、人々が理論や教義を要求する限り存在し続けるだろう。教義は言葉で構成されており、宗派はまさにその言葉を中心に形成されている。言葉は恨みや狭量な憎しみを助長し、争いの原因となる。これらの言葉は人と人を分断する。そしてなんと不思議なことだろうか! 人々は、人と人を分断する言葉そのものが、人と神を結びつけると信じているのだ! 人と人を分断するものは、人を神、真理、また自己と結びつけることはできない。

「学びを放棄しなければならない」という部分で心に抵抗を感じました。もう悟りを得る方法は分かっているのだから、悟りを得るためにはこれ以上外から学ぶ必要はないはずです。それでも外からの言葉を求めるのは、勇気を得るためと思いつつ、逃避もあるのでしょう。また、自我を養っている面もあると気づきました。オショーが述べて、鬼和尚が解説してくださっている側から自我を養っているとは、恐ろしいことです。
さらに自己観察に励みます。

193 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/18(木) 00:24:41 ID:1d4drIFg0
世間に言う学びとは知識を多く記憶していくことなのじや。
記憶する知識が多くなるほど自分について知る機会は減ってしまうじゃろう。
知識や教義を増やす宗教は悟りに導く宗教ではないのじゃ。
言葉や知識を捨てて自分を明らかにすることこそ悟りに導く実践なのじゃ。

194 避難民のマジレスさん :2021/02/18(木) 21:20:51 ID:Dp/qMVVc0
このような宗教の宗派への分裂は、様々な教義、言葉、信念、意見にまで及んでいる。これらはすべて無知に基づくものであり、知に基づくものではない。真理に宗派は無い。すべての宗派は教義から発展する。人は真理を知るとすぐに宗派から解放され、その瞬間に宗教に入る。宗教とは、ヒンドゥー教でもジャイナ教でもなく、キリスト教でもイスラム教でもなく、ただの宗教であり、それは修飾されていない、光以外の何物でもなく、意識以外の何物でもない。宗教とは、真に自己の実現なのだ。

宗派は宗教ではない。組織は宗教と何の関係があるのだろうか? すべての組織は政治的または社会的なものであり、すべて世俗的なものだ。組織はお互いへの恐れに基づいており、恐れがあるところには憎しみがある。組織は、真実からではなく、安全のために存在している。国であれ、社会であれ、宗派であれ、すべてのものは恐怖から生まれ、恐怖から生まれたものによる満足は、他者に恐怖を引き起こすことにある。

すべての宗派はまさにこれに似ている。それらは誰かを宗教的にする意図はなく、自分たちの数を増やしたいのだ。数は力であり、安全性の保証だ。それらは自己防衛であり、攻撃する能力でもある。宗派はずっとこのようなものだった。今もそうだし、これからも同じだ。それらは人間と宗教を一つにしたのではなく、宗教から引き離したのだ。

ダルマ、宗教は社会現象ではなく、純粋に、そして単純に、最も個人的な変容だ。それは他者とは何の関わりもなく、自分自身だけに関わる。他の人と何をするかではなく、自分自身と何をするかに関わる。ダルマは、完全な孤立と孤独の中で、自分自身とどのように振る舞うかに関わるのだ。

普段落ち着いている時には、自我の感覚が弱まることを観察することもあります。ところが大きな痛みや心理的なショックを受けると、そこに強く自我が投射され、巻き込まれて、一旦無理やり他の場所に集中しないとうまく観察ができなくなります。引き続き観察に励みます。

195 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/19(金) 00:15:58 ID:1d4drIFg0
派閥や組織は常に腐敗するものじゃ。
お釈迦様のサンガでさえ分裂したりしたのじゃ。
悟りとは関係ないものじゃ。
ただひたすらに自己の内面を追求した者だけが悟りを得るのじゃ。

196 避難民のマジレスさん :2021/02/19(金) 20:44:46 ID:Dp/qMVVc0
完全に独りある中で、あなたは何なのだろうか? それが知らなければならないことだ。あなたとは何か。あなたの存在を知ることだけが、宗教に導く。誰かを宗教に導く方法は他には無い。どんなお寺も、どんなモスクも、どんな教会も、私を自分のいる場所に連れて行ってはくれない。そこに行くために外の階段を登る必要はない。すべての寺院は外にある。すべての寺院は輪廻の一部であり、世界の一部であり、その扉を通って自己に到達することはできない。外の世界での旅は、真理への巡礼、聖なる場所への巡礼にはならない。その場所は内にあり、そこでは宗教の経験があり、人生の神秘、喜び、美しさが見つかる。これらがなければ、すべてのものは悲惨なものであり、すべてのものは役に立たず、無意味なものだ。

自己を知るためには、外ではなく内に入らなければならない。しかし、すべての人間の感覚は、外に連れて行く。すべての感覚は外に向かっていく。目は外を見、手は外向きに広がり、足は外向きに動き、心さえも外の現象を反映し、反響させる。そして、そのために人は偶像、神の像を建立し、真理のための神殿を作った。それは、その目が神を見ることができ、その足が真理への巡礼をすることができるようにするためだ。 私たちはこの自己欺瞞を自分たちで作り出してしまった。この毒を自分の手で飲んでしまった。そして今、私たちは自分の生を浪費し、この毒と自己欺瞞によってもたらされた昏睡の中で過ごしている。

自分の感覚の都合に合わせて、私たちは宗教を自分の外にあるものとして視覚化し、そのために自分の視界を外に向けてきた。しかし、ダルマを知るためには、宗教を知るためには舞台裏に行かなければならない。世界に対するあなたの知識と意識は、感覚を媒介にしてもたらされる。同じ道筋で自己を知ることはできない。知る者を知ることはできない。他の人や物を知るように、知自身を知ることはできない。見る力である見者は、普通の物体のように見ることはできない。知は、物体に移すことも、劣化させることもできない。そして、すべての問題の理由は、この単純な事実が理解されていないことだ。人々は、神が外的なものであるかのように、神を探し求める。これは何と愚かなことだろうか! 神は探されるべきものではなく、求める者自身の中に隠されているのだ。

瞑想が深まり、意識を保ったまま落ちていく感じになると、それを引き止める力が生じます。これが自我の厭離を妨げているものなので、気をつけて観察して正体を見極めたいです。

197 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/20(土) 00:10:47 ID:1d4drIFg0
自分とはなにであるか知ることだけが真の宗教たどオショーは言うのじゃ。
それがなければどんな寺や神殿も無意味というのじゃ。
自分を知るためには注意を内側に向けなければ成らんのじゃ。
神でさえ求める者の中に隠されているというのじゃ。

198 避難民のマジレスさん :2021/02/20(土) 20:35:00 ID:Dp/qMVVc0
真理はあなたの中にある。それは私の中にある。それは明日あなたの中にあるのではなく、今ここで、この瞬間に、あなたの中にあるのだ。私はある。私の存在自体が私の真理だ。私が見たものは真理ではないかもしれないし、それはすべて夢かもしれない。私も夢を見ていて、その間に見ているものは真実のように見える。あなたは私にとって夢なのかもしれない。私が夢の中にいて、あなたはここにまったくいないのかもしれない。しかし、見者は偽りではありえない。見者は夢の中にいることができない、なぜならばもし、いたとしたら、それが夢であることがわからないからだ。夢は夢を見ることがでない。真理でないものは真理でないものを知ることができない。夢を見るためには、自分自身が夢ではない者が必要だ。真理でないものを見るためにさえも、真の見者が必要だ。したがって私は、私が真理であると言う。真理は私の存在だ。私はそれを求めてどこかに行く必要はない。

自分の中から真理を掘り出すだけでいい。井戸を掘るのと同じように、真理を掘り出さなければならない。水の泉を覆う石や土の層が常にいくつかあるが、それらの層を取り除くとすぐに泉は解放される。同じように、あなたの自己も他のもの、非自己に属するものの層によって圧迫されている。あなたはこれらの層を突破するだけで、数え切れないほどの過去世を通して探し求めてきたものが達成される。

これまでのところ、あなたは真理に到達することができなかったが、それは、あなたが遠く離れたところでそれを探していたからだ、実際のところ、それはいつもとても近くにいる。本当に探しているのはそれ自身なのだ。あなたの魂の井戸を掘り出さなければならない。瞑想はそのための手段だ。瞑想の鋤を使って、自己の上に積み重なった土の層、他者性の層を取り除かなければならない。それが唯一の救済策であり、唯一の治療法だ。これが私が話したいことだ。

静まった心を観察します。

199 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/20(土) 23:24:56 ID:1d4drIFg0
真理とは今ここに自分の中にあるものだとオショーは言うのじゃ。
それは一度も自分から離れたことは無いのじゃ。
それが見出せなかったのはどこか外にあると思って知識を求めていたからなのじゃ。
井戸を掘るように自分ではない知識をどこまでも掘り下げて観ていくことでそれは現われるのじゃ。

200 避難民のマジレスさん :2021/02/21(日) 21:11:44 ID:Dp/qMVVc0
まず第一に、あなた自身の存在、あなたの本質を覆い隠しているものが何であるかを知る必要がある。あなた自身からあなたを隠しているものは何だろうか? 見えないだろうか? 覆い隠しているものが見えないだろうか? 中に入ってみると、何が見つかるだろうか?

ヒュームは言った 「中に入っても、思考以外のものは見つからない」と。 ヒュームはどんな魂も見つけられなかったし、あなたもこのようにして自分の魂を見つけることはできない。ヒュームは覆っている層だけを見て戻ってきたのであって、ただ殻のところまで行って戻ってきたのだ。あなたが中に何があるのかを見るのは、殻を破った時だけだ。これは、湖に行って苔と葉で覆われた湖面を見て、湖は全くないと言って戻ってくる人のようなものだ。一般的には、このようなことが起こる。私たちは毎日中に入り、思考の覆いを見て戻ってくる。思考は常に自己を取り囲み、あなたは思考以外は何も知らない。思考はあなたの世界であり、思考だけで生きている者は世俗的な人間だ。思考を超えた何かを知ることは、宗教的になることの始まりだ。思考のない状態を知ること、思考の先にあるものを知ることは、宗教の領域に入ることだ。

もしかしたら、あなたの思考はこの世のことではなく、魂のこと、神のことを考えているのかもしれないし、自分が宗教的であるという幻想を抱いているのかもしれない。私はあなたのこの幻想を打ち砕きたい。すべての思考は覆い、外殻だ。それらはすべて欲望、情熱であり、外に向けられた外面的なものだからだ。自己についての思考はありえない。知はあるが、自己についての思考はない。思考は覆い、殻だ。

今日は自我の拡大を感じて、その心地良さを感じています。観察はするのですが、本心から厭離しようと思っていないのか、変化がみられません。偽物の殻に騙されていますね。粘り強く観察します。

201 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/22(月) 00:04:24 ID:1d4drIFg0
本質を覆い隠しているものを知ることが修業には必要だとオショーは説くのじゃ。
それは思考に囚われているものには思考じゃろう。
金とか、名声とか、権力に囚われている者にはそれらが覆いじゃろう。
外面的なものに囚われていれば、自分を知るための道に入ることは出来ないのじゃ。

202 避難民のマジレスさん :2021/02/22(月) 20:22:02 ID:Dp/qMVVc0
無思考は覆いを取り除く。無思考は瞑想だ。思考がないとき、私たちは思考によって隠されたものを知るようになる。雲がなければ青い空が見えてくる。友よ、あなたの中にも空がある。思考の雲を取り除いて、それが見えるように、それが知られるようにしなさい。これは可能だ。心が静止していて思考がないとき、静寂の中で、その深い無思考の中で、思考の完全な不在の中で、真理が見られる。

これを実現するためにはどうすればいいのだろうか? 非常に簡単なことをしなければならないが、あなたは非常に複雑になっているので、それが非常に難しいことに気づくだろう。生まれたばかりの赤ちゃんに可能なことが、あなたには不可能だ。子供はただ見ているだけで、何も考えない。ただ見ているだけだ。そして、ただ見ていることは素晴らしいことだ。これが秘密であり、真理の門を開ける鍵なのだ。

私はあなたを見ている。私はただあなたを見ているだけだ。あなたは私についてきてくれるだろうか? 私はただあなたを見ているだけで、何も考えていない。そして、空前の静けさ、生きた沈黙が私の上に降りてきて、すべてが見え、すべてが聞こえてくるが、内なるものは何も乱されていない。内側には何の反応もなく、思考もない。あるのはダルシャンだけであり、見ることだけだ。

思考以外にも、感情や記憶したイメージが覆いなのですね。オショーは、すべてが見え、聞こえてくると述べていますが、このことは、感覚は覆いではないということでしょうか?

203 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/22(月) 23:11:19 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、感覚は本来ありのままに感じることの出来る器官なのじゃ。
日常では思考や分別に影響されるから覆いになってしまうのじゃ。
思考や分別がなければそれに影響されることもないのじゃ。
全てがありのままに感得できるのじゃ。
それによって観察も可能になるのじゃ。

204 避難民のマジレスさん :2021/02/23(火) 22:11:49 ID:Dp/qMVVc0
正しく気づいていることが瞑想の方法だ。あなたは見なければならない、ただ、外に何があるか、内に何があるかを。外には物があり、内には思考がある。あなたは何の目的もなくそれらを見なければならない。何の目的もなく、ただ見ているだけだ。あなたは目撃者、無関係の目撃者であり、ただ見ているだけだ。この観察、この注意深さは、徐々にあなたを平和に導く、空虚に、空に、無思考に。試してみればあなたは知るだろう。思考が消えていくと、意識が目覚め、浮かび上がってくる。ただふと止まりなさい、しばらくの間 - いつでも、どこででも。ただ見て、聞いて、世界と自分自身の目撃者でありなさい。考えてはならない。ただ目撃者になって、何が起こるかを見なさい。そして、この見ることが広がるようにさせなさい、あなたの肉体的、精神的活動のすべてに浸透するようにさせなさい。それが常にあなたと一緒にいるようにさせなさい。もし見ていることが在れば、あなたの自我はなくなり、あなたは本当の自分に気づくだろう。「私」は死に、自己が達成される。

この見ることの修行の中で、自分の精神状態の観察の中で、容易な変容、容易な切り替わりが、目撃されているものと目撃者であるものの間で起こる。あなたが自分の思考を観察していると、観察する者が垣間見えてくる。そしてある日、見者がそのすべての威厳と栄光の中に顕れ、すべてのあなたの貧困と惨めさは終わりとなる。

これは、たまにしか修行できないが、それでも解放を得るという修行ではない。これは昼夜を問わず、継続的に修行しなければならない。見ることを修行していくうちに、見ている状態にさらに移行していくと、その状態がより安定してきて、常に存在し始める。徐々にそれは、起きているときも眠っているときも、常にあなたと一緒にいるようになる。それは睡眠中にも存在し始める。そうなったとき、それが眠りの中にも存在し始めたとき、あなたはそれが心の奥深くに入り込み、その根を遠く広大に広げていることを確信することができる。今日、あなたは起きている時でさえ眠っている。明日、あなたは眠っている時でさえ、起きている。

観察が失われる状況がわかってきています。例えば他者と会話したり、強く興味を惹かれることに出会ったり、深く眠ったりする場合です。特にそのような状況では気をつけて観察を保つようにしたいと思います。ただ深い眠りでは、今のところできそうな感じはありません。

205 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/23(火) 23:11:01 ID:1d4drIFg0
オショーは観察の瞑想を説いたのじゃ。
心を鎮めて心をありのままに観れば悟りも自ずからやってくるのじゃ。
初めはなかなかうまくいかず、難しいかもしれんが慣れれば全ての目撃者になるのじゃ。
そして夢の中でも観察していることがわかるのじゃ。
無意識の観察が出来るようになるのじゃ。
それができれば自我を観ることも可能になるのじゃ。

206 避難民のマジレスさん :2021/02/24(水) 20:47:48 ID:Dp/qMVVc0
この見ることは、私たちを夢からも眠りからも目覚めさせることで思考を消していく。思考や夢から解放された心の中で、波は消えていく。心は、波がないときに海が穏やかであるように、家に吹き込む風がないときにランプの炎がちらつかないのと同じように、揺れもなく、波のない、穏やかな状態になる。自己であり、私であり、真理である神が知られるのは、そのような状態の中でだ。そうして、神の宮殿への門が開く。

この門、この入り口は、経典の中にあるのではなく、言葉の中にあるのでもなく、自己の中にあるのだ。だからこそ、私は他の場所を掘るのではなく、自分自身の中を掘れと言う。他のどこにも行ってはならない。自分自身の中に入りなさい。私は入る方法を説明してきた。

あなたの静けさと目の輝きから、あなたが私が言わなければならなかったことを理解しているとわかった。しかし、この理解だけでは十分ではない。真実の生の基礎となるのは、理解ではなく、霊的な経験だけなのだ。私が示した方向に少し歩いてみなさい。その方向に少しだけ進んで、そして見なさい。あなたが真理に向かって移動するとき、それに近づくとき、その引っ張りの影響を受けるので、あなたが少しだけ歩いたとしても、長い道のりを行っているだろう - そしてその後、あなたは全く歩かない、ただただ引き寄せられていく。

そして最後に、歩き続ける人はいつか目的地に到達することを覚えておきなさい。神の方向へのどんな一歩も無駄ではない。私はこの真理の証人だ。あなたにもこの真理を一瞬でも実現して欲しい!それであなたも真理の証人になれる。それはあなたのすぐそばにある。太陽はすでに昇っている。あなたはただ目を開けてそれを見る必要があるだけだ。

目を開けて欲しい。私の呼びかけを聞いて、目を開けてくれるだろうか? 決めるのはあなた、あなただけだ。開けるか開けないか?

目を開けます。目を開けたいです。
これで8章は終わりです。もしおかしな訳などがございましたら、お願いします。

207 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/25(木) 00:00:51 ID:1d4drIFg0
前日の>>204「これは、たまにしか修行できないが、それでも解放を得るという修行ではない。」
というところが少しおかしいのう。
 下から五行目なのじゃ。

 あとはよいようじゃ。

208 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/25(木) 00:04:31 ID:1d4drIFg0
心を止めることと、心を観ることは上手くできれば速やかに進歩することができるのじゃ。
心を鎮めることで観察が良く出来るようになり、観察が出来ることで心の静けさも増していくのじゃ。
そして自分も容易に見られるようになるのじゃ。
たとえそれで少し迷い道に入ったとしてもその経験は無駄ではないのじゃ。
思考の悟りに至れば迷い道さえも最も近い道だったとわかるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

209 避難民のマジレスさん :2021/02/25(木) 21:05:03 ID:Dp/qMVVc0
第9章 最後の夜 1964年6月7日午後
[第一の質問は失われています。]
実際に気づく前に真理を知ることはできない。そして、真理について何かを知ることは、真理を知ることとは全く異なる。あなたが真理について知っていることが何であれ、それは真理ではないに違いない。なぜならば、個人的な経験がなければ、単に理解することができないからだ。それは、話し手の視点からではなく、聞き手の視点から見た場合、真理ではない。

私が真理について何かを言ったら、あなたは私が言ったのと同じようにそれを理解してくれるだろうか? それは不可能だ。なぜなら、全く同じように何かを理解するためには、あなたは私と同じで、同じ状況にいなければならないからだ。私が言ったことがあなたに届く時には、それは真理ではなくなる。これは、私が言葉を話すことしかできず、その解釈はあなたから来なければならないからだ。意味はあなたから来るので、あなたと異なるものではない。言葉は私のものであり、意味と解釈はあなたのものだ。

その意味や解釈は、あなたが現在いる以上のものではあり得ないし、あなたの現在の経験を超えたものでもあり得ない。あなたはギータを読むときにクリシュナを読んでいると思っているだろうか? もしそうなら、あなたは大きく間違っている。そうでなければ、どうしてこんなにも多くの解釈や解説があるのだろうか。すべてのシャスターラや経典の中に、私たちは自分のイメージを見ているのだ。

>>207 の該当部分は、 This is not a sadhana one can practice only once in a while and still attain liberation.
です。「これは、たまにしか実践できなくとも解脱を得られるような修行ではない」ではいかがでしょうか。

毎日観察を続けていても、欲に流されたり、観察が失われているのを忘れたりして、本当に進んでいるのかと思う時もあります。精進あるのみですね。

210 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/25(木) 23:08:12 ID:1d4drIFg0
「これはたまにしかできなかったら、解放を得られる修業とはならない」というほうがよいじゃろう。
そうすればあとの「これは昼夜を問わず、継続的に修行しなければならない。」という文とつながるのじゃ。

211 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/25(木) 23:10:11 ID:1d4drIFg0
誰でも自分のイメージの世界に生きている故に、聖人や聖典の言葉を鵜呑みにしても、真実とはならないのじや。
自ら経験したことしか人は言葉に出来ないのじゃ。
無理にしようとすれば嘘になるのじゃ。
真理は自ら実践して気付くしかないのじゃ。

212 避難民のマジレスさん :2021/02/26(金) 21:27:41 ID:Dp/qMVVc0
真理を知る前に知ることができるのは言葉だけだ、真理ではない。それらの言葉は、他の人や聖なる書物、神の化身やティールタンカラ、悟りを開いた人たちからのものだろうが、その意味と解釈はあなたのものになる。あなたの「私」はそれらの中にあるだろう。多くのいわゆる宗教の間にこれほどまでに多くの対立や相違があるのは、このためではないだろうか? ブッダとキリストの間には、何か対立や敵対が存在しうるのだろうか? 解釈の違い、対立、敵対はあなたと私の間にあり、私たちはそれをすべて彼らの名の下に貫いているだけなのだ。

宗教は真理を知る者から生まれ、宗派はただ聞いて信じるだけの者によって組織されている。そして、それゆえに多数の宗派が存在する。真理を知るという経験は唯一無二であり、その経験はすべての人にとって同一だ。しかし、信仰の場合はそうではない。知は一つであり、唯一無二のものだが、信仰は信じる人の数と同じくらい多いのだ。

「宗教(Religion)」はダルシャンの結果であり、真理の洞察の結果であるが、宗教(religions)は真理を見ないことの結果だ。「宗教」は知る者によって設立されるが、宗教は知らない者によって組織される。そして、彼らが善意の努力をしても、宗教は無宗教になってしまうのだ。人間は、その全歴史を通して、この呪いの犠牲者であり、この言葉の矛盾の犠牲者であり続けてきた。

>>210 ありがとうございます。そのように修正します。
話しながらの観察に少し慣れてきました。複雑な会話はまだできませんが、よく知っている人との簡単な会話は観察できるようになってきました。この文をタイプしながらも観察できていますが、さらに観察の時間を増やせるよう精進します。

213 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/26(金) 23:47:06 ID:1d4drIFg0
↑よいことじゃ。
どんどん実践すれば上達していくのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。

214 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/26(金) 23:50:25 ID:1d4drIFg0
言葉は常に受け取る者によって解釈が違ってしまうとオショーは言うのじゃ。
解釈の違いに拠って宗派が生まれ、闘争も起きてしまうのじゃ。
実際に同じ教祖の宗教でも派閥が多く生まれ、闘争も起きているのじゃ。
宗教が教祖によって正しく説かれても、言葉に拠って真理を知らない者たちが派閥を作り、争いを始めてしまうのじゃ。

215 避難民のマジレスさん :2021/02/27(土) 20:42:30 ID:Dp/qMVVc0
第二の質問:私たちは真理についての概念を形成せずに、真理について考えることができるのではないでしょうか?
私はあなたに考えなさいとは全く言っていない。思考は、あなたが知っていることを超えて行くことはできないし、もしあなたが真理を知らないとしたら、いったいどのように、それについて考えることができるだろうか? 思考は常にあなたの経験の境界内にとどまる。それは知っていることについて、くよくよ考えるだけだ。思考は決して創造的ではなく、それは単に反復的だ。未知のものは、思考によって知ることはできない。未知のものを知りたければ、知っていることから抜け出さなければならない。未知の世界に入るためには、既知の世界から出なければならない。

したがって、真理についての概念を全く形成しない方がよい。その概念は全く真理ではなく、生きた意味を持たない無生命の言葉になってしまう。その言葉は伝統によって尊敬され、何千人もの人々によって崇められ、シャスターラによって支持されているかもしれないが、あなたにとっては全く価値のない言葉になるだろう。その言葉の狭く限られた枠組みを通して真理の壊れたイメージを見ることは一つのことであり、枠組みが崩れた時に空の全体の広がりを見ることとは全く別のことなのだ。

空は何にも囲まれていない。また、真理は何にも包まれていない。すべての枠組みは人工的に作られたものであり、すべての概念は人工的に作られたものだ。もしあなたが真理を知りたければ、あなたの枠組みから抜け出しなさい。言葉や思考、いわゆる知識を忘れて、既知のものから離れなさい、未知のものが入って来られるように、そして、すべての人工的な概念を手放しなさい。そうすれば、あなたは誰の創造物でもない、すべての創造の基礎そのものを知ることになるだろう。

自我がだいぶ観えているのに無我にならないのは、まだ執着を残しているからです。恐れ、怒りなど心に引っかかる時には、特にしっかりと観察しようと思います。

216 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/27(土) 23:24:50 ID:1d4drIFg0
↑善いことじゃ。
常に困難な時にこそしっかり実践するのじゃ。
そうすれば悟りも自ずからやってくんるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

217 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/27(土) 23:27:35 ID:1d4drIFg0
真理についていかなる概念も形成しない方が善いとオショーは言うのじゃ。
そして考えることもしないほうがよいというのじゃ。
真理について全く知らない者が真理について考えることなどできはしないからなのじゃ。
真理について知らないのに真理について考えるのは、ただ単に自分に嘘をついている事になるのじゃ。
言葉も思考も捨ててただ真理に没入することができるだけなのじゃ。

218 避難民のマジレスさん :2021/02/28(日) 21:01:05 ID:Dp/qMVVc0
第三の質問: シャスターラの助けなしで、どのようにして私たちは真理を知ることができるのでしょうか? それを通してのみ、真理を知ることができるのではありませんか?

あなたは、もしすべての聖典、すべてのシャスターラが破壊されたならば、真理もまたそれらと一緒に破壊されるだろうと言いたいのだろうか? 真理がシャスターラに依存しているのか、それともシャスターラが真理に依存しているのか? 友よ、真理はシャスターラによって達成されたことはない。それどころか、シャスターラは、真理が実現した後に得られ、明らかにされた。価値があるのはシャスターラではなく、真理だ。根本的なものは真理であって、シャスターラではないのだ。そして、もし真理がシャスターラを通して達成できたならば、それは非常に安い真理となるだろう。あなたは自分自身を変えることなく、それを達成することができるのだから。

しかし、シャスターラはあなたの記憶を埋めることができるだけで、自己の知を与えることはできない。そして、真理の道筋では、訓練された記憶は全く助けにならない。真理のためには、自己変革の代償を払わなければならない。シャスターラはあなたを専門家や学者にすることはできるが、知を与えることはできない。シャスターラはより多くのシャスターラを生み出すことができる。これは自然なことだ。物質は物質を生み出すことができるだけだ。しかし、どのようにして知はそこから生まれるのだろうか? 知は意識の一形態だ。無意識の物質からは生まれない。シャスターラには生命がなく、意識がない。ゆえにこれは真理のためのものではない。シャスターラは無意識で生命のない記憶を豊かにするだけだ。意識的な知は、それらを通して達成することはできないが、自分自身の中に入ることによってのみ達成することができる。

あなたは、いったいどうやって真理がシャスターラの助けなしで知ることができるかと尋ねている。これに対して私は、あなたがシャスターラに自分自身を閉じ込める限り、いったいどうやって真理を知ることができるのかと尋ねよう。真理は他の誰かから、シャスターラから、あるいはグルから得ることができるというのは間違った考えだ、なぜならば、あなた自身の中への探究をできなくするからだ。この考えは大きな障害だ。これもまた、輪廻の中、世界の中での探求だ。シャスターラもまた世界の一部であることを心に留めておきなさい。外にあるものは何でも世界だ。真理は内側、自己の中にあり、外側にはない。自己は本当のシャスターラだ。それはまた、唯一の真のグルでもある。自己に入ることによって、真理は達成される。

自己が真のグルだというのはラマナマハルシも述べていましたが、どのように修行に役立てられるのでしょうか。少し詳しくお教えください。

219 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/28(日) 22:16:28 ID:1d4drIFg0
自己の真のグルは悟りへの願望が生みだすものじゃ。
悟りへの願望が強いほど、正確に悟りへの道に導いてくれるのじゃ。
悟りへの願望が弱ければ、その導きも弱くなってしまうのじゃ。
誰でも永遠の安らぎには憧れるが、欲に囚われていては真のグルもどうしようもないのじゃ。
全ての欲を捨てて悟りへの願望を強く保てば、心の奥から自然に行く道が示されるのじゃ。
それが真のグルなのじゃ。

220 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/02/28(日) 22:31:30 ID:1d4drIFg0
強い願望に拠ってそのように心にあるグルが確立したならば、例えば日々の修業に怠け心が生じたならば、それを咎めることもあるのじゃ。
誰でも日々の修業は辛いから、怠けたくなるものじゃ。
特に体の怪我とか心に苦があったり、日常にトラブルがあった時等は怠ける口実が出来たせいで休みたくなるものじゃ。
そのとき休もうとしたら心に咎めが生じて、やはり実践しようとする気持ちになるじゃろう。

座っていても金とか異性のことばかり考えていたとしたら、その時も心に咎めが生じてちゃんと修業しなくてはという気持ちになるのじゃ。
それが自分の心にある真のグルの働きなのじゃ。

外のグルにはそのような内心の小さな働きまではわからないからのう。
自分の心にあるグルであるからそのように心の中の小さな働きまで確かに知って、導くことが出来るのじゃ。
これもまた一例に過ぎないのじゃ。
まだ多くの働きがあるが、実践によって確かめるのじゃ。

221 避難民のマジレスさん :2021/03/01(月) 21:09:59 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:知性が真理ではないと主張することは真ではないのですか?

知性とは考えることだ。知性とは知ではない。考えることは暗闇の中で手探りすることであり、知ることではない。真理は思考することはできない - それは見られて、実現される。それは知性によって実現されるのではなく、知性が静かで空っぽになったときに実現されるのだ。内なる知のこの状態が直観だ。直観は思考ではなく、洞察だ。真理を見たいと思っている人にとって、直観は、盲人にとっての視力の獲得のようなものだ。考えることによっては、誰もどこにもたどり着けない。それは終わりのないの手探りだ。盲目の人は何年も手探りをするかもしれないが、光を得ることができるだろうか? 手探りと光の間に関係がないように、思考と真理の間には何の関係もない。それらは全く異なる次元のものだ。

自己の真のグルについてお教えくださり、ありがとうございます。非常に忙しく、眠くて疲れていても坐ろうとする気が起こるなど、心当たりがあります。また、ふと強く無常を感じて、何もかも全く意味がないように思えることがありますが、それも真のグルの導きのひとつなのでしょうか?

222 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/01(月) 23:03:15 ID:1d4drIFg0
↑そう言えるじゃろう。
 この世の全てのものごとは泡のようにはかなく、消え去る性質のものじゃ。
 囚われれば時間を失い、苦になるばかりなのじゃ。

 この世で唯一意味があるのは、有限な肉体で無限の存在に至る事だけなのじゃ。
  それを教えてくれる心の働きは内なるグルの導きと言えるのじゃ。

223 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/01(月) 23:23:14 ID:1d4drIFg0
知性が真理ではないという主張もまた真理についての考えなのじゃ。
それが真であることはないのじゃ。
知性もまた観念の枠から逃れられないものじゃ。
真の知は気づきであり、洞察によるものじゃ。
思考を介さずありのままの今ここにあるものごとを見抜く働きなのじゃ。

224 避難民のマジレスさん :2021/03/02(火) 20:49:21 ID:Dp/qMVVc0
第五の質問:あなたは、クリシュナのビジョンやキリストのビジョンを霊的な経験だとは見なさないのですか?

そうだ、それは霊的な経験ではない。どのビジョンも霊的な経験ではない、なぜならば、その水準でのすべての経験は心理的だからだ。他の誰かのビジョンや実現がある限り、それは自己の実現ではありえない。そのような経験であっても、あなたはまだ自分自身の外にいて、自分自身に入ってきていない。自分の中に入ってくるということは、外の経験がないときに起こるのだ。意識が何の対象にも関係していないとき、それは自然に自己に落ち着く。対象のない意識だけが自己に落ち着くことができる。

自己の外では、私は物質の世界と心の世界という二つの世界に囲まれている。これらはどちらも私の外にある。物質が外にあるだけでなく、心も外にある。心は身体の内側にあるので、内側にあるような錯覚を起こすが、心は内側にはない。自己は内側にあり、心の背後にあり、心を超えたところにあるのだ。

私たちは物理的な経験を霊的な経験と間違うことはないが、私たちの心理的な経験は霊的であるかのような錯覚を作り出す。なぜならば、私たちが見ている心のイメージは、私たちが知っている世界のものとは異なり、目を閉じた後にもそれを見るからだ。しかし、私たちは心理的な経験の中で、夢を霊的経験とは考えない。夢もまた目を閉じている時にのみ現れ、目覚めて外の世界との接触すると終わるにもかかわらず。

現実的で霊的であるかのような錯覚を引き起こす、特定の心理的経験がある。それは、心理的な投影だ。心は、目を開いた後でも、目を閉じて見ている夢を見ることができる程度に自分自身に催眠術をかける能力を持っている。それは一種の覚醒した眠りの中で起こる。こうして、私たちは見たいように神を見るのだ - クリシュナやキリストを。そのようなビジョンは、ただの心理的な投影だ。そこでは私たちは実際にあるものではなく、誰であれ見たいと願うものを見る。これらの経験は霊的なものでも神的なものでもない。それらは単に心理的な経験であり、自己催眠によって引き起こされる。

上で、「心理的(psychological)」、「心の(mental)」と訳したものは、「精神的」、「精神の」とも訳すことができます。肉体的-精神的-霊的 という分類はより明確かもしれませんが、最後は分類も捨てるとすれば、そこにこだわらなくとも良いようにも思います。いかがでしょうか?

225 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/02(火) 21:36:32 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
ここでは心理と霊的なものとの二つの分類であるからのう。
拘らなくて善いのじゃ。

226 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/02(火) 21:41:05 ID:1d4drIFg0
瞑想中にいろいろな映像を見るのはよくあることじゃ。
お釈迦様も悟りを得る前に見たというのじゃ。
それらは自らの心理的な原因から見るものであり、悟りとは何の関係も無いものじゃ。
全ての映像もなく、感じられるものも無く、感じる自分も無くなれば悟りに近いのじゃ。
何かが感じられるのならばまだ悟りには程遠いと覚えておくのじゃ。

227 避難民のマジレスさん :2021/03/03(水) 21:17:18 ID:Dp/qMVVc0
第六の質問:では、神はどのようにして見られるのでしょうか?
ここでは、「見られる」という言葉は誤解を招く。それは、見られるべき人がいると思わせ、「神」という言葉自体が人、人格の錯覚を生み出す。人格神は存在しない。神性はあり、力はある。人格は存在しないが、力はある。神はエネルギーの無限の海、意識の無限の海だ。それはあらゆる形で自らを顕現する。創造者として、神は分離されていない、神自身が創造だ。それ自身が創造的な現実だ。神自身が生だ。

自我に囲まれていると、自分は他と異なり、生から切り離されているような錯覚に陥る。これがあなたの隔たりであり、神からの分離だ。そして実際、事実として、隔たりも分離も不可能だ - まさに「私」という錯覚が隔たりなのだ。この分離は、無知のためだ。実際には、無知こそが分離だ。ゆえに、本当は分離は全くない。

自我の解消によって実現される無限の、境界のない、創造的な生命力が神だ。「私」の死後、自我が消滅した後に経験するものは、神の真の視覚だ。では、そこでは何が見えるのだろうか?どこにも「私」は見えず、どこにも「あれ」や「他のもの」は見えない。海の波の中にあるものは私の中にあり、新春の花の中にあるものは私の中にあり、秋の落ち葉の中にあるものは私の中にある。私が宇宙の存在から切り離されているところはどこにもない。私はその中にいる。これが神の真の視覚だ。ある見者は、「Tattvamasi svetaketu - 汝はそれである」と言った。あなたがこれを感じ、体験した日、あなたは神を悟ったのだ。これに満たないもの、あるいはこれとは異なるものは、すべて想像だ。

自分を神と同一視しないとしたら、神のビジョンとは何だろうか? 雨粒にとって、海のビジョンとは何だろうか? 雨粒は自己のアイデンティティを失い、海そのものになるだけだ。雨粒が雨粒である限り、海は雨粒とは別のものであり、海からは遠く離れているが、一旦雨粒がそのアイデンティティ、実体を失うと、海と一体となる。本当は、雨滴は海になってしまったのだ。
あなたは神を求めているのかね? 神性の達成を求めなさい。この探求の道は、雨粒が海を求めるのと同じなのだ。

文を読んだときに解放感がありました。日頃自我の牢獄を実感しています。観察に励みます。

228 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/03(水) 21:49:00 ID:1d4drIFg0
神を見る者にはまだ主体と客体があり、分裂が在るのじゃ。
オショーの言う神とは全てであり、何一つ分裂していない全体なのじゃ。
そこに見られる神は居らず、見る者もいないのじゃ。
ただ雨粒が海と一つになるように、神と一つになる達成だけが在るのじゃ。

229 避難民のマジレスさん :2021/03/04(木) 21:20:46 ID:Dp/qMVVc0
第七の質問:私は神の信仰を持っていますが、あなたは信仰が有害であると言います。私は信仰を放棄すべきでしょうか?

あなたの質問への答えは、質問自体の中に発見されるべきではないだろうか? 願いによって持ったり手放したりできる信仰に何の価値があるのか? それは明らかに全く価値のない盲目の心的な概念に過ぎない。それは盲目の信仰であり、あなたは人生において盲目でなければないほど良いのだ。

私はあなたに信じて欲しいと頼んでいるのではなく、知って欲しいと頼んでいるのだ。知を得て、実現によって到達した心の状態だけが価値を持つ。あなたが望むならば、それを正しい信念と呼ぶこともできるが、それは信念ではなく、知だ。いくつかの漠然とした真実を信じてはならない。真理を探しなさい。それを求めなさい。しかし、どんな信念や概念にもしがみついてはならない。これは心の弱さの表れだ。それは無気力であり、注意の欠如だ。それは、自己を見るという務めから免れるための有害な方法なのだ。

盲信とは、修行からの逃避であり、自己実現のための努力からの逃避だ。それはある意味では自殺に他ならない、なぜならば一度この地下溝に落ちてしまうと、真理の頂点に登ることができなくなるからだ。これらの道は、二つの反対方向にあなたを導く。一つは、あなたが陥る溝であり、もう一つは、あなたが登らなければならない高遠な山頂だ。

質問が浮かぶと智慧が答えることがあるのですが、それには自己の真のグルとして完全に従って大丈夫でしょうか?

230 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/04(木) 23:10:16 ID:1d4drIFg0
↑いかんのじゃ。
それは自分の願望から出たものであることもあるからなのじゃ。
なんでも実践して自らの体験から真実を見出さなくてはいかんのじゃ。
現実のグルでもその言葉を鵜呑みにせず真実を自ら見出すべきなのじゃ。
それがオショーも説いていることなのじゃ。

231 避難民のマジレスさん :2021/03/05(金) 20:39:25 ID:Dp/qMVVc0
信仰とは簡単なものだ、なぜならば人は何もする必要がないからだ。その意味では、知はそう簡単ではない。知とは生の完全な変容だ。信仰は外側の衣服であり、知は内側の革命だ。単純な信仰は、あなたの魂が努力している贖罪の頂点に到達できるようにするよりもむしろ、あなたを盲目的な信仰の眠りに簡単に戻しうる。「宗教(Religion)」は信仰ではないが、残念ながら宗教(religion)は信仰だ。私にとって「宗教」とは何かというと、世界の宗教の概念とは一致しない。その点では、カール・マルクスが宗教をアヘンだと決めつけたのは正しかったが、本当の宗教についてそう言うのは大きく間違っている!

あなたは、シャスターラへの信仰、神の言葉への信仰、教師への信仰を持つように言われてきた。私は全くそうは言わない。私が言いたいのは、自分自身を信じなさいと言うことだ。自分自身を知ることによってのみ、シャスターラが何を言ったか、神が何を言ったかを知ることができる。 自分自身を信じていない者にとって、他の信仰に従うことは無駄なことだ。あなたは誰か他の人の足で立つことができるだろうか? ブッダは、「自分自身を灯明にしなさい。自分自身を避難所としなさい。自分自身の避難所以外に適切な避難所はない。」と言った。 私も同じ事を言う。

ある夜、あるサドゥーが客人だった別のサドゥーに別れを告げようとしたとき、別のサドゥーが「夜はとても暗い。どうやって行けばいいのでしょうか?」と言った。 主人はランプを灯して、それを客人に渡した。しかし、客が階段を降りようとしたとき、主人はランプを吹き消した。場所は再び暗闇に包まれた。すると主人は言った、「私のランプはあなたの道を照らすことはできません。そのためには、あなた自身のランプを持っている必要があります。」 客人はサドゥーのアドバイスを理解した。この理解はその人自身の人生の道を照らすランプとなり、二度と消されることはなかった。

智慧に関しても、鵜呑みにしてはいけないのですね。自分の願望から出たものと、そうでは無いものを、実践して体験する以外に見分ける方法はないのでしょうか。また、智慧に関してもうひとつ質問がございます。私の経験ですと、自分自身の変容が伴う場合と、ただ知識のみが得られる場合があります。鬼和尚が実践して確かめよと述べられたのは、後者に関してでしょうか?

232 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/05(金) 22:48:46 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、自ら実践して見分ける以外にないのじゃ。
 経典でさえもそのようにするべきなのじゃ。

 後者になるじゃろう。
 変容が起きたのならばもはや正しいことは確かめられたのであるからのう。
 知識でしかないものが正しのかどうか、自ら確かめるのじゃ。

233 避難民のマジレスさん :2021/03/06(土) 20:55:48 ID:Dp/qMVVc0
修行は単なる生活の一部ではなく、立っている時、座っている時、話している時、笑っている時など、生活全体に浸透していなければならない。修行は常に在らねばならず、そうすることで初めて自然発生的なものとなるのだ。宗教とは、特定の行為や礼拝、祈りからなるものではない。それは、生のすべてが礼拝と祈りになるような生き方だ。それは儀式ではなく、生き方なのだ。この宗教では、宗教的であるのは自分の行為ではなく、宗教的であるのは個人だ。どんな行動も宗教的ではなく、生が宗教的なのだ。

自我や「私」の束縛から自由になることによってのみ、意識は個人を超越し、全体と一体となることができる。土瓶が海から水を離すように、自我の土瓶は真理から個人を遠ざけている。

この自我、この「私」とは何か? あなたは自分の中でそれを探したことがあるだろうか? あなたが探したことがないので、それは存在しているに過ぎない。私自身がそれを見つけようとしたとき、それが存在しなかったことがわかった。静かな瞬間に自分自身の中に深く入り、見なさい。あなたはどこにも「私」を見つけることはできない。「私」は存在しない。それは、私たちがその社会的有用性のために存在をもたらしてきた単なる幻想だ。あなたが名前を持つのと同じように、あなたは自我も持つ。両方とも実用性があり、実用的な観点からは価値があるが、それらは実在しない。あなたの中にあるものには、名前も自我もない。

常に観察を保つというのはなかなか難しいのですが、少しずつ増えてきているように思います。さらに励みます。

234 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/07(日) 00:08:34 ID:1d4drIFg0
私とは何か探したことが無い者にそれは存在しているというのじゃ。
探していないから私があると漠然と認識しているのじゃ。
詳細に探してみればそれがないとわかるのじゃ。
人間本来無名無色なのじゃ。

235 避難民のマジレスさん :2021/03/07(日) 21:06:42 ID:Dp/qMVVc0
涅槃に入ることも、モクシャに入ることも、解放に入ることも、魂に入ることも、アートマンに入ることもない。あなたが去ったことのない場所にどうやって入ることができるのだろうか? そして何が起こるのだろう? 先ほど言ったように、涅槃に入るということはないが、何が起こるかというと、今までいた世界が夢のように溶けて、自分自身の中に自分自身がいることに気づくのだ。このように、その体験は「入る」ということでは全くなく、夢の中でしていた旅が突然終わり、ベッドの上にいる自分を発見するようなものだ。あなたはどこにも行っていないので、戻ることに関する質問はない。何も失っていないので、何かを達成するという話は無意味だ。あなたは夢を見ているだけだ。あなたの旅と探索は夢の中にある。あなたはどこかに行ったり、何かを見つける必要はない。しなければならないことは、目覚めることだけだ。

真理の実現は、常に完璧であり、常に完全だ。そして、その経験、その達成は、徐々にではない。それは進化ではなく、革命だ。夢から覚める人は、徐々に少しずつ覚めるだろうか? 夢があるか、夢がないかのどちらかだ。中間段階はない。そう、修行は長い時間がかかるかもしれないが、真理の実現は、稲妻の閃きのように行われる - 瞬間に、そのすべての全体で。

実現はそのように起こるために、時間がかからない。なぜならば、時間をかけて起こるものは何でも、常に漸進的で、進行的だからだ。修行はある時間を占め、その時間の間で起こるが、実現には全く時間がかからない。それは時間を超えている。

時間を超えた、今、ここにある真理に気付けるよう、今日また新たに観察します。

236 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/07(日) 22:52:16 ID:1d4drIFg0
涅槃や解脱やアートマンなどの言葉はもはや観念になってしまったのじゃ。
それらに囚われれば逆に障害にもなるのじゃ。
ただ目覚めることが在るだけとオショーは言うのじゃ。
それは一瞬で起こるものじゃ。
自己の存在が幻想であると気付くことで瞬時に起こるのじゃ。

237 避難民のマジレスさん :2021/03/08(月) 20:49:23 ID:Dp/qMVVc0
真理の実現のためには、善と放棄の修行だけでは不十分だ。それは部分的な修行だ。真理の実現のためには、善と悪、愛と憎しみ、輪廻とモクシャ、世界と解放の両方の上に昇ることが不可欠だ。その状態は、私たちの言葉では、ヴェータラガタと呼ばれ、執着と隔絶の両方を超えた状態だ。ヴェータラガ・チャイターニャ(無欲の意識)とは、愛も憎しみもなく、善も悪もなく、ただ純粋なチャイターニャ、純粋な意識、自己の中での不動性だけが存在する状態のことだ。真理の実現はこの状態でのみ起こる。

あなたは無頓着で注意深い心を養わなければならない。夜も昼もあなたの生全体に織り込まれている、まさに呼吸のように、自分自身にその心の状態を織り込まなければならない。俳優が役を演じるとき、自分が演技をしていることをよく認識しているのと同じように、 あなたは、行為中に行為しないことを実践し、すべての活動で無頓着かつ注意深くなければならない。俳優は役に夢中になり、その中で意識を失うことはない。演技をしていても、切り離されたままでいる。あなたもそのようになり、そのようなままでなければならない。

人が活動に従事している間、注意深く見ていれば、無頓着のままでいることは難しいことではない。それは観察の自然な結果だ。私は道を歩いている。もし歩くという行為を完全に観察するならば、私は歩いていると同時に、歩いていないことを感じるだろう。歩くという行為は物理的な水準では行われているが、意識のレベルでは歩きは無い。食事をしていても、他のことをしていても、同じように感じるだろう。あなたの中には、ただ見る者である一点が存在するだろう。それは行為者でも、享楽者でもないだろう。この見ることの経験が深まれば深まるほど、幸福や悲しみの感情は徐々に解消されていき、絶対的で純粋な意識であるアートマン、あなたの自己を実現するだろう。

自分の中で同時に複数起こることに気づけていれば、観察ができていると思っていました。しかし、静かにしている時は、何か行為している時よりも微細な観察ができていることに気づきました。逆に言えば、行為中の観察は不十分だったということです。精進します。

238 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/08(月) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
↑善い気付きなのじゃ。
そのようにしてどんどん進むと善いのじゃ。
精進あるのみなのじや。

239 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/08(月) 21:58:46 ID:1d4drIFg0
真理の実現には善と放棄だけではいかんというのじゃ。
注意深い観察が必要なのじゃ。
自分が観察されなければ自我はなくならないのじゃ。
日々観察し続けることで感情さえも要らないものと気づき、アートマンにも達するのじゃ。

240 避難民のマジレスさん :2021/03/09(火) 21:05:28 ID:Dp/qMVVc0
心とは何だろうか? 心とは、感覚によって知覚されたものの収集者であり、また収集物でもある。心を自己と見なす人は誰でも、使用人を主人と勘違いしている。そして、もし本当の自己を実現したいならば、あなたが知っているものをあきらめなければならないし、知る者に従わなければならないだろう。心はあなたが知っているものに過ぎず、自己はあなたがすべてを知っていることを意味する。

見者、知る者とは自己のことだ。この自己は、生と死とは異なり、マーヤーとモクシャとも異なり、幻想と解放とも異なる。それはただ見者であり、光の、闇の、世界の、涅槃の、すべてのものの見者だ。自己はすべての二元性を超えている。

人はこの見者を知るとすぐに、蓮のようになる - それが生まれた泥から離れ、生きている水から切り離される。そのような人は、喜びの中にも痛みの中にも、名誉の中にも屈辱の中にも - ただの目者であるため - 生のすべての状況で穏やかであり、落ち着いている。どんなことでも、起こることは、起こる。しかし、それはその人に起こるのではなく、その目の前で起こる。その人は目撃する。その人はちょうど鏡のようになる。鏡は何千ものイメージを映し出すが、痕跡は残らない。

以前は縁起を観察するように意識していたのですが、いつの間にか最近はただ観察するようになっていました。縁起に注意するようにした方が良いでしょうか? それとも、新たな発見があるうちは、今のままで良いですか?

241 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/09(火) 21:55:35 ID:1d4drIFg0
↑縁起が観えるならば観ると善いのじゃ。
そうでなければ観ないでよいのじゃ。
いずれはそれも自然に観えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。

242 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/09(火) 21:58:28 ID:1d4drIFg0
心とは主人ではなく、使用人であるというのじゃ。
それは主体ではなく、認識されたものなのじゃ。
全てのものを見るのが自己であると言うのじゃ。
ただ見るだけであり何も知識とはしないのじゃ。

243 避難民のマジレスさん :2021/03/10(水) 20:30:50 ID:Dp/qMVVc0
年老いたサドゥーが若い仲間と一緒に川の岸辺に来た。若者は「どうやってこの川を渡りましょうか」と尋ねた。老人は「足が濡れないように」と答えた。若者は老人の言葉を聞いて、雷の閃光のように、何かが非常にはっきりと、明らかになった。川は来て、去っていたが、神秘的な格言は彼の心に深く浸透していた。それが人生の指針となった。足が濡れないように川を渡ることを学んだのだ。

あなたはこの若者のようにならなければならない - 食べていてもなお、食べていない人のように、群衆の中にいてもひとりでいる人のように、眠っていても起きている人のように - というのも、そのような人だけがこの世での解放を得て、すべての石の中に神を見出すからだ。

誰かが、「心は世界を含むべきではなく、世界は心を占めるべきではない」と言った。これは従うべき教義だ。そして、もしこの格言の前半が完全なものであれば、後半は自動的に従う。前半は原因であり、後半はその効果だ。しかし、後半から始める人は誤りを犯す。したがって、私は格言のこれだけを言う:心に世界を含ませてはならない。これに続くものは格言ではなく、結果だ。心が世界を含まなければ、世界は決して心を占領することはない。心に含まれていないものは、決してそれを占有することはできない。

この格言は、記憶をすべきでないということなのでしょうか?

244 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/10(水) 22:00:16 ID:1d4drIFg0
↑それが出来れば一番善いのじゃ。
しかし、記憶に依存している者にはできないじゃろう。
全ての世界の知識は幻想の観念であると、心得ておく位が出来ることじゃろう。
そのように実践するとよいのじゃ。

245 避難民のマジレスさん :2021/03/11(木) 21:13:32 ID:Dp/qMVVc0
サマーディでは、既知のものに対象がないので、サマーディの状態を知と呼ぶことはできない。それは確かに普通の意味での知ではないが、同時にそれは無知でもない。そこには知るべきものは何もない。それは、知と無知の両方とも異なる。対象が全く存在しないから、対象を知ることも知らないこともないのだ。そこにあるのは主観だけだ。そこにあるのは知る者だけだ。どんな対象についての知もなく、純粋な知、つまり中身が空な意識があるだけだ。

ある人がサドゥーに「瞑想とは何ですか?」と尋ねたことがある。サドゥーは、「近いものの中にいることが、ディアーナ、瞑想だ」と答えた。

何があなたに近いだろう? 自分自身を除いて、すべてのものは自分から離れていないだろうか?あなただけがあなたの自己の近くにいる。しかし、あなたは永遠に自分自身を離れ、常に自分自身から遠く離れている。あなたはいつもどこか周囲にいる。自己の中にいて、周囲にいないことが瞑想だ。あなたがどこにもいなくて、あなたの心もどこにもないとき、そのときでさえもあなたはどこかにいる。そのどこかが瞑想だ。

私がどこにもいないとき、私は自分自身の中にいる。それは周囲にいることではなく、離れていることでもない。それは内向きであり、親密だ。そこにいることによってのみ、人は真理に目覚めることができる。あなたは周囲にいることによってすべてを失っているが、それはすべてあなたの自己の中にいることによって取り戻すことができる。

忘我の体験では、自分という主体や感覚がないとき、どこにも自分はなく、ただ何も無いという観ることがあるだけでした。ですので、「あなたがどこにもいなくて、…、そのときでさえもあなたはどこかにいる。」という状況が腑に落ちない感じです。元が主語を必要とする英語の言い回しだからでしょうか。今日のオショーのことばを、少し詳しく教えてください。

246 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/11(木) 22:01:43 ID:1d4drIFg0
自分という観念も、感覚も無く、心の働きさえも感じられない時、そこにも確かに意識は在るのじゃ。
それらを認識している意識が在るからそれもわかるのじゃ。

自分が全ての認識の主体であると思っていると、自分が無いと何もないと想うのじゃ。
自分さえも実は認識の主体ではなく、ただ観念として認識されたものとして知れば、自分の無い意識も感得できるのじゃ。
何か存在するものがあると言えるのは、その意識だけなのじゃ。
全てを捨ててその意識に回帰すればそれが瞑想なのじゃ。

247 避難民のマジレスさん :2021/03/12(金) 21:02:49 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたに世界を捨てなさいと頼むのではなく、自分を変えなさいと頼む。世界を否定してもあなたは変わらないが、あなたが変われば世界はあなたにとって存在しなくなる。真の宗教とは、世界を否定するものではなく、自己変革するものだ。世界のことを考えるのではなく、世界に対する自分の見方を考えなさい。それを変えなければならない。それが原因で、世界があり、束縛がある。見方が変われば、創造物全体が変わる。輪廻にも世界にも落ち度はない。誤りはあなたとあなたの見方にある。

ヨーガは生の変容、自己変革の科学だ。自分自身を分析することで、物理学は原子と原子のエネルギーに到達するが、ヨーガは霊と霊的なエネルギーに到達する。前者では物質に隠された神秘が発見され、後者では自己に隠された世界が明らかにされる。

しかし、この宇宙には自己よりも重要なものはないので、ヨーガは科学よりも重要だ。人間は物質についてはよく知っていても、自己については何も知らないので、バランスを崩している。人は海の計り知れない深さに飛び込み、驚くほどの高さまで飛ぶ方法を学んだが、自己の中に隠退する方法を忘れてしまったのだ。これは自殺的な状態だ。これはまさに私たちの不幸だ。ヨーガはこのバランスを回復させることができるからこそ、ヨーガを教えることが必要なのだ。

停滞感があるのは、正しい観察ができていないということなのでしょうか? 初心にかえり、姿勢から見直してみます。

248 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/12(金) 23:32:35 ID:1d4drIFg0
停滞していると感じる時は最も進歩しているものじゃ。
自分が進んでいるから気付かないのじゃ。
周りを観察してみて以前とは感じ方が違うことを知ると善いのじゃ。
あるいは日記をつけて時々読み返すと善いのじゃ。

249 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/12(金) 23:35:44 ID:1d4drIFg0
世界を否定しても自分は変らないが、自分が変れば世界は存在しなくなるとオショーは言うのじゃ。
世界とは自分が観念に拠って作り出したものであるからのう。
自分が変れば以前の世界と想っていたものがなくなるのじゃ。
世界にも全てのものごとにも何も間違いはなく、自分の観念に誤りが在るのじゃ。
それが苦の原因なのじゃ。

250 避難民のマジレスさん :2021/03/13(土) 20:57:58 ID:Dp/qMVVc0
ヨーガを通してのみ、真の意味での新しい人間の誕生が起こり、その時に初めて新しい人間性の基礎が築かれる。科学は物質を征服し、今、人間は自分自身を征服しなければならない。物質を征服したことで、人間は今、自分自身を知り、征服することが必須となった。さもなければ物質の無限の力、原子力を支配することが、自らの破滅を招くことになる、なぜならば、無知な者の手にある力は常に致命的だからだ。

もし科学が無知な者の手に落ちれば、科学と無知の組み合わせは破壊的なものになるに違いない。しかし、もし科学が知を持つ者の手にあれば、世界を天国に変える前例のない創造的なエネルギーの誕生につながるだろう。

それゆえに、私はあなたに、未来と人間の運命は今、ヨーガの手の中にあると言う。ヨーガは未来の科学であり、それは人間の科学だからだ。

第9章はこれで終わりです。残り1章です。ここまでで何かおかしなところなどがありましたら、ご指摘ください。
昨日、夢の中でも観察による気づきが起こったように思うのですが、そのようなこともあり得るのでしょうか?

251 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/13(土) 21:53:39 ID:1d4drIFg0
↑特におかしなところは無いのじゃ。
 
 そのようなこともあるのじゃ。
 潜在意識で観察と気づきが行われているのじゃ。
 そこまで進歩すれば観照も近いといえるのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

252 避難民のマジレスさん :2021/03/14(日) 22:02:01 ID:Dp/qMVVc0
第10章 別れの言葉 1964年6月8日午前

たった一瞬の決意、サンカルパ、完全な決意だけで十分であり、それなしの人生は無意味だ。重要なのは時間ではなく、決意であることを覚えておきなさい。世界における成果は時間の領域で達成され、真理の成果は決意の領域で達成される。サンカルパ、決意は、あなたの修行の中に生きていなければならない。

さて、今日は何を話そうか? 今夜、私たちは別れることになるが、あなたたちの心はその見通しで、すでに重くなっているのが私には見える。この孤独な場所に皆で集まってから、たった5日しか経っていない。誰が旅立つことを考えただろう?

しかし、忘れてはならないのは、別れは共になることに内在しているということだ。それらは同じコインの表裏だ。一見違うように見えても、いつも一緒なのだ。それらは別々に、また別の機会に現れるので、私たちはそれらがつながっていないという誤った信念に騙されている。しかし、もう少し深く掘り下げてみると、出会いとはそれ自体が別れであり、幸せとは悲しみでもあり、誕生とは死でさえあることがわかる。実際には、来ることと行くことの間にはほとんど違いはない - むしろ、全く違いはない。それは人生においても同じだ。行く過程が始まったときには、あなたはほとんど来ていない、そして、私たちの心に留まっているように見えるものは、単に去るための準備に過ぎないのだ。

はじめの文、「たった一瞬の決意、完全な決意だけで十分」を少し詳しくお教えください。完全な決意というのはわかるように思いますが、たった一瞬の決意(one and only one moment of determination) をどのように実践したら良いかわかりません。

253 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/14(日) 23:08:51 ID:1d4drIFg0
↑ それは悟りの寸前に成される決意なのじゃ。
 真摯に修業を続けていれば、やが自分が消える瞬間が訪れるじゃろう。
 その時、自分がなくなってもよいから悟りを得たいと強い決意をすれば観照が起こるのじゃ。
 その一瞬だけで決意は十分なのじゃ。
 後は無我になり、認識も容易に滅することが出来るのじゃ。
 時間ではなく、その決意こそが大事なのじゃ。

 長年修業しているのに悟りが来ないと言うものは、恐らく何度か自分が消える瞬間を体験しているが、恐れからその決断ができなかったものなのじゃ。
 そうであるから一瞬の決意が大事なのじや。

254 避難民のマジレスさん :2021/03/15(月) 20:47:55 ID:Dp/qMVVc0
実のところ、生まれてから死ぬまでの隔たりはどのくらいだろうか? その隔たりは無限になりうる。もし生が、誕生と死の間のこの隔たりが自己実現のための追求になるならば、この隔たりには全く終わりがなくなり得る。もし人生がサーダナ、自己実現への旅になれば、死はモクシャ、解放になる。生まれてから死ぬまでの隔たりはそれほど離れていないが、モクシャと死の間の隔たりは無限だ。その隔たりは、肉体と魂の間、夢と真実の間の隔たりと同じくらい大きなものだ。その隔たりは、他のすべての隔たりを合わせたものよりもはるかに大きい。モクシャと死ほど離れたふたつの地点はない。

「私は肉体である」という幻想が死であり、「私は魂である」という悟りが解放であり、救いであり、モクシャである。そしてあなたの人生は、真理の実現のための機会だ。もしこの機会を無駄にせず、正しく使えば、生と死の隔たりは無限になる。

それと同じように、あなたがここに来てから去るまでの間にも、私たちがここで過ごしたわずか数日の間にも、途方もない隔たりが存在し得るのだ。帰ってきたときには、来たときと同じではないかもしれないではないか? 全く新しい、変化した人間として帰ってくる可能性もあるのではないだろうか?

心静かに、観察に励みます。

255 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/15(月) 22:34:26 ID:1d4drIFg0
生と死の隔たりわ無限にすることが出来るとオショーは言うのじゃ。
それは不死の境地わ得られるということなのじゃ。
人は誰でも死を永遠に無きものとすることができるのじゃ。
その変容はほんの短い期間にでも起こりうるのじゃ。

256 避難民のマジレスさん :2021/03/16(火) 20:44:08 ID:Dp/qMVVc0
その気になれば、この革命や変革は一瞬で起こせる。5日は多すぎる。過去世の5回の誕生でさえ少なすぎるのなら、なぜ5日間の話をするのだろうか? ただ一瞬の意志、完全な決意だけで十分なのだ。決意のない一生は無に等しい。

決意と時間が重要であることを忘れてはならない。世の中の達成は時間の中で作られ、真理の達成は決意の中で作られる。サンカルパの強さ、つまり決意の強さが、一つの瞬間に底知れぬ深さと無限の広がりを与えるのだ。実際のところ、サンカルパの強さの中では、時間は存在しなくなり、永遠だけが残る。

決意とは、あなたを時間から解放し、永遠に結びつける扉だ。決意を深く、そして強烈にしよう。あなたの一息一息に浸透させよう。眠っていても起きていても、記憶にとどめておこう。この決意があって初めて、死を知らない新たな誕生が起こるのだ。これが本当の誕生だ。肉体の誕生という、必然的に死を迎える誕生があるが、私はこれを本当の誕生とは呼ばない。いったいどうして、死で終わるものが生の始まりになるのか?

鬼和尚も、悟りを得る前から非常に強い決意を持ち続けていたのでしょうか? このまま何も知らずに死ぬのは絶対に嫌なのですが、観察を続けたり、悟りを得るという決意は日に何度も忘れて、思い出したら観察に戻るといった具合です。

257 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/16(火) 21:59:43 ID:1d4drIFg0
↑ わしは常に死を考えていたからのう。
悟りを得る以外に死を超越する手段はないとおもっていたのじゃ。
誰も死を逃れられないと覚悟していれば自然に決意もできるのじゃ。
 常に死を想うのじゃ。

258 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/16(火) 22:02:59 ID:1d4drIFg0
悟りの瞬間はいつやってくるのかわからない故に、常に決意を新たにしなくてはいかんのじゃ。
自分が無くなる時がいつきてもよいように、覚悟するのじゃ。
その時になってあわてないようにするのじゃ。
決意があれば自分がなくなっても永遠の意識に還れるのじゃ。

259 避難民のマジレスさん :2021/03/17(水) 20:56:17 ID:Dp/qMVVc0
しかし、死に至らないもう一つの誕生がある。それが本当の誕生だ。その成就は不老不死にある。この誕生のために、私はあなた方をここに招待し、この数日間、この誕生のために呼びかけてきたのだ。私たちはまさにこの誕生のためにここに集まった。しかし、ここに集まっただけでは何の価値もない。もしあなたが全体になり、一つになり、自分の存在の渇きから呼びかけるならば、あなたの全存在の決意があなたを真理の前に連れて行くだろう。真理はすぐ近くにあるが、それに近づくためには決意と意志が必要だ。真理への渇きはあなたの中にあるが、決意も必要だ。この渇きが修行になるのは、決意と手を取り合っているときだけだ。

「決意」とは何だろうか?

ある男が托鉢僧に、神に到達する方法を尋ねたことがある。托鉢僧は彼の目の中に、渇きを見た。托鉢僧は川に行く途中だったので、男に同行を求め、水浴びをした後に神に到達する方法を教えると約束した。

川に着いて、男が水に飛び込むと、托鉢僧は男の頭をつかんで、ものすごい力で水の中に押し込んだ。男は托鉢僧の手から逃れようともがき始めた。命の危機にさらされていた。彼は托鉢僧に比べてはるかに弱かったが、潜在的な力が徐々に発揮され、やがて托鉢僧は彼を押さえつけることができなくなった。男は限界まで自分を追い込み、ついに川から抜け出すことができた。彼はショックを受けた。托鉢僧は大きな声で笑っていて、彼はその行動が理解できなかった。

私に足りないものは決意ですね。できるだけいつも、無常、死を想い、決意を新たにして励みます。これを書いているときに抵抗がありました。気をつけて観察しようと思います。

260 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/17(水) 23:24:28 ID:1d4drIFg0
不死の境地に人々は集まったとオショーは言うのじゃ。
しかし、それだけではいかんのじゃ。
決意と意志が必要というのじゃ。
決意があれば実践もできるのじゃ。

261 避難民のマジレスさん :2021/03/18(木) 20:55:56 ID:Dp/qMVVc0
男が落ち着いた後、托鉢僧は彼に「あなたが水中にいたとき、心の中にどんな欲望がありましたか?」と尋ねた。男は答えた。「欲望! 欲望はありませんでした。ただ、一つだけ、空気を吸いたいという欲求がありました。」托鉢僧は言った。「これが神に到達する秘訣です。これが決意なのです。そして、あなたの決意は、あなたの潜在的な力をすべて目覚めさせました。」

強烈な決意の瞬間には大きな力が生まれ、人は世界を離れて真理に入ることができる。決意だけで、人は世界から真理に入ることができ、決意だけで、人は夢から真理に目覚めることができる。

別れ際のこの時に、私はあなたにこのことを思い出させたいと思う:決意が必要だ。そして他には? 決意が必要であり、それに加えて修行を続けることが必要だ。あなたの修行は継続的でなければならない。山々から流れ落ちる滝を見たことがあるだろうか? それは巨大な岩さえも砕くことができる連続的な水の流れだ。もし人が絶えず無知の岩を砕くように努力するならば、最初は砕くことが不可能に見えた岩も、いつの日か塵と化すだろう。そして、その人は自分の道を見つける。

強い決意を持つと、そこに自我が投射されてしまいます。常に新たな決意を持って励み続けることで、いつしか自我が投射されていない時に観照が起きると、さしあたり理解すれば良いでしょうか?

262 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/18(木) 23:02:22 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、毎日決意わもつて実践し続けることで、自我をも超えた力を発揮できるようになるのじゃ。
 日々続ければ実践は無意識の働きにまで上達して行くのじゃ。
 無意識に成される観察で自我も見られるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじや。

263 避難民のマジレスさん :2021/03/19(金) 21:16:46 ID:Dp/qMVVc0
道は間違いなくそこにある。しかし、既成の道を見つけようとしてはならない。自分で探すのだ、自分の努力で。 そして、それがなんと人に尊厳をもたらすことか! 自分自身の努力によって真理を手に入れることができるというのは、何とありがたいことだろう! マハヴィーラは、このことを伝えたくて、労苦によって得られる真理について語ったのだ。

真理は慈善で与えられる施しでは無く、達成することだ。決意と継続的な努力、そしてもう一つ、無限の忍耐が必要だ。真理は無限であり、終わりのないものであるから、それを待つためには無限の忍耐が必要だ。限りなく待って初めて、神が現れる。忍耐力のない者は、神に到達できない。このことも忘れないでほしい。

最後に、私はある話を思い出したので、あなたに伝えたい。架空の話ではあるが、これはまったくの真実だ。

ある天使が、年老いたサドゥーが座っている場所を通りかかった。そのサドゥーは天使に、「どうか神に、私がモクシャに到達し、解放を達成するのにどれくらいの時間がかかるか、尋ねてください」と言った。年老いたサドゥーの近くには、とても若く、入門したばかりのサニヤシンが住んでいた。彼はガジュマルの木の下に座っていた。天使は若いサニヤシンに、自分のモクシャについても神に尋ねて欲しいかどうかを尋ねた。しかし、サニヤシンは何も言わなかった。静かに、穏やかに、黙っていた。

心を静めて、今日も励みます。

264 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/19(金) 23:49:31 ID:1d4drIFg0
誰でも悟りへの道は自分で探さなければならないとオショーは言うのじゃ。
自分の心を追求することは自分だけができることだからなのじゃ。
それには自分の決意や努力や忍耐が必要なのじゃ。
経典や師匠の言葉もその実践の参考にできる程度なのじゃ。

265 避難民のマジレスさん :2021/03/20(土) 21:06:52 ID:Dp/qMVVc0
しばらくすると天使は戻ってきた。そして年老いたサドゥーに言った、「私はあなたのモクシャについて神に尋ねました。神は、さらに3つの誕生が必要になると言っています。」 老人は激怒し、目が充血した。彼は数珠を投げ捨てて言った。「あと3回もの誕生!それは非道だ!」

その後、天使は若者のところに行って言った、「私はあなたのことも神に尋ねました。神は、あなたが下に座っているガジュマルの木の葉の数と同じくらい多くの生の間、修行を実践しなければならないと言いました。」若いサンニヤシンは非常に幸せを感じ、彼の目は喜びの涙でいっぱいになった。彼は飛び上がって踊り始めた。「それなら、私は到達しています!」と言った。この世界にはたくさんの木があり、それぞれの木にはたくさんの葉があります!もし私がこの小さなガジュマルの木に葉があるのと同じくらいの数の誕生で神に到達するならば、私はほとんど神に到達しています。」

このようにして、真理の作物は収穫される。そして、あなたはこの物語の結末を知っているだろうか? 若いサニヤシンは踊り続け、踊り続け、まさにその瞬間、彼は自由になり、神に到達した。静謐と無限の愛と忍耐のその瞬間がすべてだった。まさにその瞬間に解放されたのだ。これを私は無限の忍耐と呼ぶ。そして、無限の忍耐を持つ者は、今ここですべてを達成する。この精神的態度そのものが最終的な達成だ。 あなたはこれほど長く待つことができるだろうか? この質問であなたに別れを告げよう。

これで『Sadhana path 修行の道』の翻訳は終わりです。
ここまでで翻訳などにおかしなところがありましたら、ご指摘ください。
また、このオショーの説法全体に関して、何か付け加えることやコメントなどがありましたら、お願いします。

これまで、毎日コメントをくださり、ありがとうございました。
読み終えるまでに無我まで行きたいと思っていましたが、未だかなわずです。しかし、
ふたりの本物の覚者に同時に関わることができて、言葉で表現できないくらいありがたく、幸運に感じています。
悟りを得るまで、決意を持って努力を続け、無限の忍耐で精進します。

266 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/20(土) 23:04:42 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんだったのじゃ。
大変な翻訳の作業を良くがんばったのじゃ。
立派なのじゃ。

よい翻訳なのじゃ。
オショーの説きたかった事がよくわかったのじゃ。

この説法では悟りの道に必要なことを一通り説いているのじゃ。
まだ慣れない説法に苦心している様子がうかがえるのじゃ。
お釈迦様の初転法輪にも似た初々しさがあるのじゃ。
基本的な悟りへの道を概要にしたものといえるのじゃ。
後には更に詳しく一つ一つの道や注意を説いていくことになるのじゃ。
迷った者はよく吟味して読んでみると善いのじゃ。

267 避難民のマジレスさん :2021/03/21(日) 00:23:49 ID:Y54sIEBM0
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦)つ旦
と_)_)
どうも、ありがとうでありました。
たいへん勉強になったであります。

268 避難民のマジレスさん :2021/03/21(日) 21:18:32 ID:Dp/qMVVc0
>>266
>>267
ありがとうございます。実践しつつ、吟味して読もうと思います。
ひと通り確認しましたら、自由にダウンロードできるように電子書籍化します。

269 鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM :2021/03/22(月) 22:08:18 ID:1d4drIFg0
↑善いことじゃ。
どんどん実践すると善いのじゃ。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) / 岩波書店

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。


掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板