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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
48
:
避難民のマジレスさん
:2020/07/06(月) 21:30:23 ID:yBquKmmc0
くまめも1-5-4
観念が止むとき、そういう行動がある。愛があるときだけ、観念は止む。愛は記憶、経験ではない。愛は、自分の愛する人について考えることではない。そのときそれはたんに思考。あなたは愛について考えられない。
愛があるとき、行動がある。その行動は解放する。それは精神作用の結果ではない。愛と行動の間に隔たりはない。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落とす。私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとする。愛があるとき-それは精神作用、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から、実践された修練から出てきたものではない。そのとき、その愛こそが行動。それが、自由にしてくれる唯一のもの。精神作用、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえない。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限される。この真理がわかるとき、愛の性質。、が生じる。
私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にある。そのとき私たちはたんに時間の領域に、過去または未来に生きているだけ。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけ。
観念は真理ではない。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないもの。それは、あなたが「欲しい」経験ではない。そのとき、それはたんに感覚にすぎない。観念の束を越えてゆけるときだけ、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態。そのとき、真理が何かを知る。
(´・(ェ)・`)
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