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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

342避難民のマジレスさん:2020/11/04(水) 20:37:32 ID:caBPdlkw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
十七 記憶について 2

 質問者は、「私は、あなたの以前の講話の記憶と生々しい・あざやかな印象を持っています。どんな意味で、それは不完全な経験なのでしょうか」と言います。それがたんに印象、記憶だけであるなら、明白にそれは不完全な経験です。あなたが言われてきたことを理解し、それの真理がわかるなら、その真理は記憶ではありません。真理は記憶ではありません。なぜなら、真理は常に新しく、常にそれ自体を変容させているからです。あなたは以前の講話の記憶を持っています。なぜでしょうか。あなたは以前の講話を導きとして使っているから、それを充分に理解しなかったのです。あなたはそれに入りたいのです。それで意識的、無意識的に、それは維持・保持されているのです。あなたは何かを完全に理解する、すなわち何かについての真理が全体的にわかるなら、何の記憶もないことを見つけるでしょう。私たちの教育は、記憶の育成、記憶の強化です。あなたたちの宗教的実践と儀式、あなたの読書と知識は、すべて記憶の強化です。それはどういう意味でしょうか。なぜ私たちは記憶にすがるのでしょうか。 [人は] 成長するにつれて、過去を、それの喜び、それの苦痛、それの楽しみを振り返る・回想することに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。若ければ、未来の方を見ます。なぜ私たちはこうするのでしょうか。なぜ記憶がこんなに重要になってしまったのでしょうか。私たちがどのようにして現在において全体的に、完全に生きるのかを知らないという単純で明白な理由のためです。私たちは未来への手段として、現在を使っています。ゆえに、現在は意義を持たないのです。私たちは未来への通路として現在を使っているから、現在において生きられないのです。私は何ものかになろうとしているから、自分自身についての完全な理解が決してないのです。自分自身を、今まさに私が何であるかを・今まさにあるがままの私を理解するには、記憶の育成を必要としません。反対に、記憶は、あるがままの理解にとって障害です。精神が記憶の網に捕らわれていないときだけ、新しい思考、新しい感情は来るということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。二つの思考の間、二つの記憶の間に間隔があるとき、その間隔が維持されうるとき、そのとき、その間隔から、もはや記憶ではない新しい存在の状態が、来るのです。私たちは記憶を持っています。そして継続の手段として記憶を育成します。記憶の育成が存在しているかぎり、「私」と「私の」が、とても重要になるのです。私たちのほとんどは、「私」と「私の」で作り上げられているので、記憶が私たちの生においてとても重要な役割を演じるのです。もしもあなたが記憶を持たなかったなら、あなたの財産、あなたの家族、あなたの観念は、それほど重要(というほどのもの)ではないでしょう。それで「私」と「私の」に強さを与えるために、あなたは記憶を育成するのです。あなたは観察するなら、二つの思考の間、二つの情動の間に間隔があることがわかるでしょう。その間隔には-それは記憶の産物ではありません-「私」と「私の」からのとてつもない自由があるのです。その間隔は時間がないのです。
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