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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
564
:
避難民のマジレスさん
:2022/01/11(火) 00:59:15 ID:2Hdqou3E0
65.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第9章 世界は幻想 ☆ Part2-c①
マーヤー:幻想の力
Q:どのようにして、「私は肉体ではない」と確信することができますか?
あなたは単に肉体ではないのだ。確信するべきものは何もない。静かにして、この肉体をいつ手にしたのか考えて見なさい。そうするとカレンダーを見て1960年、1970年だったと言う。
これらの誕生と死はカレンダーの上のことでカレンダーがないとしたら、いつあなたは生まれたのかね? いつ生まれたか知るためにはキリストの誕生日を見るに違いない。
彼の誕生日からあなたの誕生日を数え出すのだ。他の誰かと取引して計算が始まるのだ。これらの計算はマインドの習癖だ。誰かの誕生や死を見ないとき、あなたは誰か分かるだろう。
Q:目覚めの状態であろうが、夢の状態であろうが、眠りの状態であろうが、私には平和がありません。私はどこにも行くことができません。どうか助けて下さい。
これは非常によい経験だ。これらの三つの状態に平和を見つけることができないなら、これらの三つの状態をこえた第四の状態に行かねばならない。
これがあなたのハートだ。「ここ」にいなさい。どの三つの状態にいようとも「ここ:ハート」にいることができる。肉体の活動はハートの妨げにはならない。ここにいる何人かの人は第四の状態を楽しんでいる。
Q:私はこのハートであると知っているのにどうして水が喉を渇かしているのですか。どうして自由でありたいと望むのですか?
このような経験をするあなたは、功徳に恵まれた人に違いない。これについて面白いジョークを行ったカビールのことを思い出した。
「水の中に住んでいる魚がどうして『私は喉が渇いている』と叫ぶことができるのか? これを言うために口を開いたときには、水は口の中にあるのに。」
私達のすべては真我の恩寵の中で生きている。
しかし、「私達は苦しんでいる」とみんな叫んでいる。
すべての人が神の恩寵の中にいる。
恩寵はすべての人を取り囲んでいる。
内側、外側、いたるところ。
しかし、私達は満足することを知らない。
だから、カビールは笑っているだけだ。彼は魚を見て笑っている。あなたはその叫んでいる魚ではない。あなたは叫び終えて水の中にいる。他には何も必要ないのだ。
Q:どうして肉体が思考でありえるのですか。そして、それは誰の思考ですか?
あなたが考えるとき、肉体がある。吐く息の前、吸う息の前には思考がない。この「私」という思考はそこから起こって来る。人や対象に対する欲望のため、呼気と吸気の間から思考が起こって来る。
眠っているときは無思考で肉体を見ることはない。眠りの状態ではマーヤーのエネルギーが落ちるからだ。しかしまだベールで覆うエネルギーが残っているので、あなたは誰か悟ることはない。
肉体は単なる夢の物体、思考にすぎない。探求してこれは誰の思考か見つけることだ。
思考を作用することなしに夢の肉体で夢の中にいることができる。しかも人生が要求するすべてのことをなし遂げていける。私はいつも「ここ」にいるという思考を内側に保っていると、肉体は単にその反応に応じて行動して行くだろう。
そのとき、責任や義務という観念はそこに入り込むことができないので、あなたの行動に対して責任はない。他人との関係性の中にいるとき、肉体やエゴと同一化するとき、あなたには責任がある。
だから、目を覚ましなさい!! 解放された後に「何も存在しない」ということが、また「何も存在しない」ということも存在しない、と分かる時点が来る。
肉体は一時的な思考だと知りなさい。このポイントをただ意識しているだけでよい。これが完全な解放と言われている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)
自山中昄市中 山中より市中に帰る
狂雲誰識属狂風 狂雲たれかしらん狂風に属するを
朝在山中暮市中 あしたに山中に在り暮には市中
我若當機行棒喝 我若し機に当たって棒喝を行ぜば
徳山臨済面通紅 徳山臨済面通こう
くま訳
山(譲羽山)から(京都)市中へ帰るのだ
狂雲が、実は狂風(悟っているの)だとは誰も知るまい。
朝、山中に居たと思ったら、夕方には市中に居るのだ。
わしが、臨機応変に、棒喝を駆使したら、臨済や徳山でも、ビビッて赤面するであろう。
*山:譲羽山
*風狂:中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、 本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した
用語である。
*臨済の喝徳山の棒:「伝灯録」・臨済禅師はよく大喝を与え、徳山和尚はよく痛棒を加えたことか
ら、禅宗の修行のきびしさのたとえ。
(´・(ェ)・`)b
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