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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

90避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 21:18:27 ID:y0myHUlI0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 3

 では、なぜ自己を充実させたいという欲望があるのでしょうか。明白に、充実したい、何ものかになりたいという欲望は、 [無である・] 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じるのです。私は何ものでもない [・無である] から、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘するのです。外側でも内側でも、私は人物やものごとや観念において自己を充実させようと格闘するのです。その空虚を充たすことが、私たちの存在の過程全体です。私たちは、空っぽで、内側で貧しいことに気づくと、外部に物を集めたり、内側の豊かさ [・富] を育成したりしようと格闘するのです。行動をとおし、観想をとおし、取得をとおし、達成をとおし、力などをとおして、その内側の空虚からの逃避があるときだけ、努力があるのです。それが私たちの日常の存在です。私は自分の不十分さ、自分の内側の貧しさに気づきます。そして私はそれから逃げ出そう、またはそれを充たそうと格闘します。この逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴うのです。
 そこで逃げ出そうとする努力をしないなら、何が起きるでしょうか。その寂しさ、その空っぽとともに生きます。そしてその空っぽを受け入れるなかで、闘争、努力とは何の関わりもない創造的状態が来るということを、見つけるでしょう。私たちがその内側の寂しさ、空っぽを避けようとしているかぎり、努力は存在しているのです。しかし私たちはそれを見つめ、それを観察するとき、あるがままを避けずに受け入れるとき、闘争すべてが止む存在の状態が来ることを見つけるでしょう。その存在の状態が創造性です。それは闘争の結果ではありません。
 しかしあるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さ- [について] の理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれるのです。
 ゆえに私たちが知っているような行動は、ほんとうは反動であり、絶えざるなりゆき、すなわちあるがままの否定、回避なのです。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがまま [について] の理解に行動があるし、この行動が創造的存在です。あなたは行動においてあなた自身に気づくなら、これを理解するでしょう。あなたが行動しているままにあなた自身を観察してください。外側だけではなく、またあなたの思考と感情の動きをも見てください。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程-すなわち感情と行動でもあるもの-が、なるという観念に基づいていることがわかるでしょう。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来るのです。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかるでしょう。これがなろうとする努力です。なることはあるがままの直接的回避です。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、あなたは、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つけるでしょう。あなたが、とてつもない平静、組み立てられ、作り上げられていない平静、あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、あなたが内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそなのです。その平静の状態においてだけ、創造的存在があるのです。
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