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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

218避難民のマジレスさん:2020/08/25(火) 21:59:12 ID:peDpOx2g0
くまめも19-2
自己中心的活動が災いと混沌を造り出す。他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思う。
私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけ。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識する。そのとき抵抗があるし、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形がある-目的は、私に喜び、満足を与える。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づく。意識的に美徳を追求する人は、美徳がない。謙虚さは追求できない。それが謙虚さの美しさ。
この自己中心的過程は、時間の結果。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがあるし、私は、未来と結合した過去と現在を意識する。「私」の自己中心的活動は時間の過程。中心すなわち「私」の活動に連続性を与えるのは、記憶。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の過程、経験する過程、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかる。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかる-それもまた精神の過程。
 精神はこのすべてから自由でありうるか。それは希な瞬間に可能であるかもしれない。それは、私たちが意識的、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれない。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることは可能か。それは、重要な疑問。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるから。この自己中心的活動の総合過程に気づき、その活動を充分に認識するなら、そのとき、その活動が終わること、時間という見地に立って考えないこと、私は将来何であるべきか、 過去から現在まで何であったか、現在何であるのかと見地に立って考えないことは可能か。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の結果またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まる−それはすべて時間の過程。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見える。
(´・(ェ)・`)


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