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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
34
:
避難民のマジレスさん
:2020/07/02(木) 23:55:25 ID:ZJ9fzkcg0
最初と最後の自由 第一部
第四章 自己認識 5
確かに私たちの困難は、私たちのほとんどがこの創造性の感覚を失ってしまったということです。創造的であることは、私たちが絵を書いたり詩を書いたりして有名にならなければならない、という意味ではありません。それは創造性ではありません-それはたんに観念を表現する能力にすぎません-それを公衆は喝采したり無視したりするのです。能力と創造性は混同すべきではありません。能力は創造性ではありません。創造性は全く違った存在の状態なのではないでしょうか。それは、 [そこに] 自己が不在である状態、 [そこでは] 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、欲望の焦点ではない状態です。創造性は連続的な状態ではありません。それは瞬間瞬間、新しいのです。それは、[そこに] 「私」、「私の」がなく、思考がどんな特定の経験、野心、達成、目的、動機にも集中していない動きです。創造性-そこにのみ真実がありうるあの存在の状態 、すべてのものごとの創造者-があるのは、自己がないときだけです。しかしその状態は構想したり想像したりできません。それは定式化したりまねたりできません。それはどんな体系をとおしても、どんな哲学をとおしても、どんな修練をとおしても到達できません。反対に、それは、自分自身の総合過程を理解することをとおしてだけ、生じるのです。
自分自身 [について] の理解は結果、頂上ではありません。それは関係-財産、ものごと、人々、観念と自分の関係-の鏡において、瞬間瞬間、自分自身が見えることです。しかし私たちは、鋭敏であること、気づくことは難しいことがわかります。そして方法に付いていくことにより、 [諸々の] 権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好みます。それで私たちの精神は疲れきり、疲労困憊し、無感覚になるのです。そういう精神は創造性の状態にありえません。その創造性の状態は、自己-すなわち認識と蓄積の過程であるもの-が無くなるときだけ来るのです。なぜなら、結局、「私」という意識は認識の中心ですし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるからです。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れています。なぜなら私たちは皆、何ものかでありたいからです。小さい人は大きい人でありたい、不徳な者は徳を持ちたい、弱くて目立たない者は力、地位、権威を渇望します。これが精神の絶えざる活動です。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できません。
私たちのまわりの世界-悲惨、戦争、失業、飢餓、階級分裂、全くの混乱をともなうもの-を変容させるためには、私たち自身に変容がなければなりません。革命は、どんな信念やイデオロギ-に応じてでもなく、私たち自身の中で始まらなければなりません。なぜなら、観念に基づいたり、特定の様式への順応における革命は、そもそも明白に革命ではないからです。自分自身に基本的革命をもたらすには、関係において自分の思考と感情の過程全体を理解しなければなりません。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決です-もっと多くの修練、もっと多くの信念、もっと多くのイデオロギ-、もっと多くの教師たちを持つことではないのです。私たちは蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、私たち自身をあるがままに理解できるなら、そのときどのように、精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れるかということが、わかるでしょう。そしてその平静の状態においてだけ、創造性がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ
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