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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
135
:
避難民のマジレスさん
:2020/07/27(月) 21:40:20 ID:hdQ2/nGg0
くまめも10-3
恐れは様々な逃避を見つける。国、社会、観念との同一化。同一化は忘我の過程。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがある。しかし何かもっと偉大なもの、価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避がある。ゆえに 同一化は、自己からの逃避。しかし、たとえば、美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に強さを与える。恐れは、いつも代用物を見つける。ゆえに格闘を増加させる。代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなる。あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができている。なぜならその裏には恐れがあるから。
恐れとは、あるがままを受け入れないこと。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはない。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込む。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないこと。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私は、それらを越えてゆけない。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるか。障害がないとき、精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、とてつもない喜びがある。自己が不在であるとき、この状態を経験する。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめるときだけ、理解と、自己からの自由がある。そして私は、願望から生まれた活動すべての過程全体を、正当化、非難、抑圧せずに理解するときだけ、それができる。というのは、思考は願望と異ならないから。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知る。
(´・(ェ)・`)
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