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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

81避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 22:38:23 ID:1ImQedTk0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 2

 それで私たちは、努力とは、あるがままのものを、何かあなたがあって欲しいと願うものに変容させようとする闘争や格闘であることが、わかるのです。私は、純粋に技術的である工学や何かの発見や変容のように物理的な問題との格闘 [について] ではなく、心理的な格闘について話しているだけです。私は、心理的であり、いつも技術的なものに打ち勝つその格闘について、話しているだけです。あなたは、科学が私たちに与えてくれた無限の知識を使って、大いに注意を払ってすばらしい社会を築くかもしれません。しかし心理的闘争と格闘と戦いが理解されず、心理的響きと流れに打ち勝たないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、何度も繰り返し起きてきたように、必ず潰れてしまうのです。
 努力はあるがままからの逸脱です。私があるがままを受け入れた瞬間、格闘はないのです。どんな形の格闘や闘争も、逸脱の表示です。そして心理的に、私があるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在するにちがいありません。
 初めに私たちは、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければなりません。創造は努力をとおしてあるのでしょうか。それとも創造は、努力の止むことをもってだけあるのでしょうか。あなたはいつ、書いたり、描いたり、歌ったりするのでしょうか。あなたはいつ、創造するのでしょうか。確かに、努力がないとき、あなたが完全に開いているとき、すべての水準で、あなたが完全な疎通 [の状態] にあり、完全に統合 [融和] しているときです。そのとき喜びがあるし、そのときあなたは歌ったり詩を書いたり絵を描いたり何かを作ったりしはじめのです。創造の瞬間は格闘から生まれません。
 おそらく私たちは創造性の問題を理解するなかで、私たちのいう努力とはどういう意味なのかを理解することができるでしょう。創造性は努力から出てきたものでしょうか。そして私たちは、自分たちが創造的であるそれらの瞬間において気づいているでしょうか。それとも創造性は、全くの自己忘却の感覚 [でしょうか] 、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚でしょうか。その状態は、苦労の [結果] 、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果でしょうか。あなたは何かをたやすくすばやくするとき、努力がなく、完全な格闘の欠如があるということに、今までに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。しかし私たちの生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、私たちは、 [そこにおいて] 闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できないのです。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければなりません。私たちのいう努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味なのではないでしょうか。私はこれです。私はあれになりたい。私はあれではない。あれにならなければならない。「あれ」になるなかに、闘争があり、戦い、葛藤、格闘があるのです。この格闘において私たちは必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心があるのです。私たちは対象に、人物に、観念に自己の充実 [・自己実現] を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求するのです。それで私たちはこの努力を必然的と受け取ったのです。それは-この何ものかになろうとする格闘は、必然的なのかどうか疑わしいと、私は思います。なぜこの格闘があるのでしょうか。どんな程度でも、どんな水準でも、充実への欲望があるところ、格闘があるにちがいありません。充実が、努力の裏の動機、推進力です。偉い経営者にも主婦にも貧しい人にも、このなろうとする [戦い] 、充実しようとする戦いが続いているのです。
(´・(ェ)・`)つ


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