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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

836避難民のマジレスさん:2022/05/10(火) 15:59:38 ID:AuK7e.NA0
 白昼に蛇が縄に見られないように、また濃い闇の中では縄そのものが見られないように、自ら光り輝く純粋な存在の三昧状態にも、深い眠りや卒倒などにも、世界は現れないのです。
 投影された光(闇と混ざった光、無知によって汚された知識)の中でだけ、その源から独立していない世界は、現れ、栄え、滅びるように見えるのです。
 その多様性もまた、本来の源である実在から排除されることはありえません。
 ここでは、一つの単一の存在が多様化し、客体化され、そして撤退する、という芝居が繰り広げられているのです。
 それを行うシャクティ(力)がなければならず、また、見事なものです!
 彼女は、自分の起源から独立していることはできません。
 自ら光り輝く純粋な存在の中では、このシャクティは見られません。
 それにもかかわらず、彼女の行動はこのうえなく有名なのです。
 なんと卓越しているのでしょう!

 彼女の卓越した本来の活動(すなわち振動する力)からサットヴァに満ちた投影が生じます。
 そこからラージャシックな自我、次に一般に知識として知られているタマスの想念形態、あるいは拡大レンズに相応する光が生じます。
 人工の光がレンズを通してスクリーンに映し出されるように、投影された光も想念(拡大鏡)を通過してから、その先にある世界へと広がっていきます。
 さらに、想念は ── それ自体が種子の形態をとった世界であり ── 、広大な外界であるかのように見えます。
 それは並はずれた力です!
 このように、イーシュヴァラも個人も世界も、自ら光り輝く単一の存在を基底に投影された光でしかないのです。

 さて、この「私」という想念(自我)とは何でしょうか?
 成り立ちから見れば、主体なのでしょうか、客体なのでしょうか?

 覚醒状態や夢の状態で他のすべての客体を目撃している以上、あるいは、少なくとも私たちがそう思っている以上、それは主体であると考えられなければなりません。
 しかし、純粋な真我を実現すれば、それは単なる客体でしかありません。

 この「私」という想念(自我)は誰のものなのでしょうか?
 この究明がヴィチャーラを形成します。

 「私」という想念と「これ」という想念は、どちらも同じ光からの放射です。
 それらは、それぞれラジョーグナとタモーグナに関係します。
 ラジャスやタマスから解放された、投影された光(純粋なサットヴァ)を得るためには、それは、「これ」という想念によって断たれることなく、「私-私」として輝きを放たなければなりません。
 この純粋な状態は、一時的に睡眠と覚醒の間に介在します。
 それが長引けば、宇宙意識、あるいはイーシュヴァラにさえなります。
 これが、自ら光り輝く至高の存在の実現に至る唯一の道なのです。

 また、「私は幸せに眠った、何にも気づくことなく」と、目覚めた後に回想される深い眠りには、二種類の体験があります。
 幸福と無知がその体験です。
 このように、私たちはその力が、1. アーヴァラナ(闇)と 2. ヴィクシェーパ(多様性)に改変されるのを見ます。
 心はヴィクシェーパの結果なのです。


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