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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

262避難民のマジレスさん:2020/09/13(日) 16:16:00 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 1

質問
すべての宗教は、人の残忍性・獣性の本能を調節する・適度にするために、何らかの種類の自己修練を、主張してきました。自己修練をとおして、聖者たちと神秘主義者・論者たちは、神性・神格に到達したと断言・主張してきました。今あなたは、そういう修練は、神の実現・悟りにとって障害であることを示唆しているように見えます。私は混乱しています。この事柄において正しいのは誰でしょうか。

 それは、この事柄において誰が正しいのか、という問題ではありません。重要であることは、私たち自身で事柄の真理を見出すことです-特定の聖者や、インドからやどこか他の所-異国的であればあるほどいいのです-から来た人物に応じて [見出すの] ではありません。
 あなたはこれら二つの間に捕らわれて・挟まれています。ある人は修練を唱えます。他の一人は無修練を唱えます。一般的に起きることは、より便利である・都合のいいもの、より満足させるものを、あなたは選択するということです。あなたは、 [その] 人、彼の容貌、彼の私的な性向、彼の私的な偏愛、その他すべてが好きなのです。そのすべてを脇に置いて、直接的にこの疑問を検討して、私たち自身で事柄の真理を見出しましょう。この疑問には、たいへん多くの意味が含まれています。私たちは用心・注意深くためらいがちに、それに接近しなければなりません。
 私たちのほとんどは、何をすべきかを私たちに教えてくれる誰か権威者が、欲しいのです。私たちは行いの指示を期待します。なぜなら、私たちの本能は、安心すること、もはや苦しまないことであるからです。誰かが幸せ、至福-何であれ-を実現したと言われています。すると私たちは、そこに到り着くために何をすべきかを、彼が私たちに教えてくれるだろうと、願うのです。それが、私たちの欲しいものです。私たちはその同じ幸せ、その同じ内側の静けさ、喜びが欲しいのです。そしてこの狂った混乱の世界で、私たちは、誰かに何をすべきかを自分たちに教えてもらいたいのです。それが、私たちのほとんどにとって、ほんとうに基本的本能です。その本能に応じて、私たちは自分たちの行動を様式化するのです。神、その最高の、名づけられない、言葉で測るべきでないもの-それは、修練をとおし、特定の行動の様式に付いていくことをとおして、偶然手に入るのでしょうか。私たちは特定の目標、特定の目的に到り着きたいのです。そして私たちは、実践により、修練により、抑圧することや解放すること、昇華することや代用することにより、自分たちが求めているものを見つけることができるだろうと、思うのです。
(´・(ェ)・`)つ


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