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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

96避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 21:13:36 ID:NgAX88aw0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 1

 私たちは自分たちのなかと自分たちのまわりに矛盾を見ます。私たちは矛盾 [の状態] にあるから、私たちのなかに、ゆえに私たちの外側に平和の欠如があるのです。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-があるのです。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらしません-それは単純な明白な事実です。この内側の矛盾は、何かの種類の哲学的二元論に翻訳されるべきではありません。なぜなら、それはとても安易な逃避であるからです。すなわち、矛盾は二元論の状態であると言うことにより、私たちはそれを解決してしまったと思うのです-それは明白にたんなる慣習、現実からの逃避に寄与するものにすぎないのです。
 そこで私たちのいう葛藤・抗争、矛盾とはどういう意味でしょうか。なぜ私には矛盾が-あるがままの私から離れた何ものかであろうとするこの常なる格闘が-あるのでしょうか。私はこれである。私はあれになりたい。この私たちにおける矛盾は事実です-形而上学的な二元論ではありません。形而上学は、あるがままを理解することにおいて何の意義もありません。私たちはたとえば二元論を、それは何なのか、それは存在するのかどうかなどについて議論するかもしれません。しかし私たちが自分たちに矛盾が-対立する欲望、対立する興味、対立する追求が-あることを知らなければ、それにどんな価値があるのでしょうか。私は善良でありたいが、そうあることができない。私たちのこの矛盾、この対立は理解されなければなりません。なぜなら、それは葛藤・抗争を造り出すからです。そして葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できません。私たちがおかれた状態について明確でありましょう。矛盾があります。それで格闘があるにちがいありません。そして格闘は破壊、浪費です。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみ以外の何も産み出せません。私たちがこれを充分に理解し、ゆえに矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらすでしょう。
 問題はこうです。矛盾は破壊的で浪費的であることがわかると、私たち各自に矛盾があるのはなぜでしょうか。それを理解するには、私たちはさらにもう少し進まなければなりません。なぜ対立する欲望の感覚があるのでしょうか。私たちは自分たち自身のそれに-この矛盾、この欲しがることと欲しがらないことの感覚、何かを憶えていて、何か新しいものを見つけるためにそれを忘れようとすること-に気づいているかどうか、私は知りません。ただそれを見守ってください。それはとても単純でとても正常です。それは何かとてつもないものではありません。事実は矛盾があるということです。ではなぜこの矛盾は生じるのでしょうか。
 私たちのいう矛盾とはどういう意味でしょうか。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいないでしょうか。私は自分が永久的欲望を持っていると思います。私は自分自身に永久的欲望を位置づけます。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じます。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらします。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つ [という] ことがあるのです。では永久的欲望といったものがあるのでしょうか。確かに、欲望「すべて」が非永久的 [・無常] です-形而上学的にではなくて現実にです。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼るのです。そしてそれを得るとき、不満です。私は経営者になりたい、それから所有者に [なりたい] などなどです。この世 [・世界] においてだけでなく、いわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、です-教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆくのです。
(´・(ェ)・`)つ


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