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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
138
:
避難民のマジレスさん
:2020/07/28(火) 21:40:28 ID:9Bjm15Z60
最初と最後の自由 第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)1
私は、単純さとは何であるかを議論したいと思います。するとおそらくそこから、感受性の発見にたどり着くでしょう。私たちは、単純さとはたんに外側の表現、退くことであると考えるように、見えます-わずかの所有物しかもたないこと、腰布を着けること、家を持たないこと、わずかの服しか身につけないこと、少ない銀行預金を持つこと [であると] 。確かにそれは単純さではありません。それはたんに外側の表示であるだけです。単純さは本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。しかし単純さは、私たちが自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうるのです。
単純さは、たんに様式への適応だけではありません。単純であって、たとえどんなに外的に価値があっても、たんに特定の様式に順応しないことは、たいへんな智恵を必要とします。不幸にも私たちのほとんどは、外側のものごとにおいて外的に単純であることより始めます。わずかのものしか持たないこととわずかなもので満足することは、比較的にたやすいのです-ほんの少しで満足することと、おそらくそのほんの少しを他の人たちと分け合うことは、です。しかし、ものごと、所有物における単純さというたんなる外側の表現は、確かに内側の存在の単純さという意味を含んでいません。なぜなら、世界が現在そうであるように、外側から、外的にますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているからです。生はますます複雑になりつつあります。それから逃避するために、私たちは断念したり、ものごとから無執着であろうとします-車から、家から、組織から、映画から、そして外側から私たちに押しつけてくる無数の境遇から。私たちは退くことにより単純であるだろうと、考えます。非常に多くの聖者たち、非常に多くの教師たちは世界 [・世間] を放棄してきました。そして私たちの誰に関しても、そういう放棄は問題を解決しないように、私には見えます。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけです。そこから外側の表現があるのです。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題です。なぜなら、その単純さは [人を] ますます敏感にするからです。敏感な精神、敏感な心は本質的 [・不可欠] です。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるからです。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているのですが、それらを理解することによってだけ、確かに、内側で単純でありえます。しかし私たちのほとんどは囚われることが好きなのです-人々により、所有物により、観念により。私たちは囚人であることが好きなのです。私たちは外側ではとても単純であるように見えるけれども、内側では囚人です。内側では、私たちは自分たちの願望、欲、理想、無数の動機づけの囚人です。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられません。ゆえに、それは外側でではなく、内側で始まらなければなりません。
信念の過程全体を [理解する] 、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由があります。信念からの自由があるとき、単純さがあります。しかしその単純さは智恵を必要とします。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければなりません。気づくには、思考や行動のどんな特定の溝、どんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければなりません。結局、内側で何であるかが、外的なものに影響を及ぼすのです。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影です。そして内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がありません。それは一定の改善、一定の適応をもたらすかもしれません。しかし内側で何であるかが、いつも外的なものに打ち勝つのです。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒するのです。
(´・(ェ)・`)つ
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