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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

147避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 20:47:17 ID:D8qZy99Q0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)4

 こうして、宗教的な人は、ほんとうはロ-ブ [聖職者の長い礼服] や腰巻きを着けたり、一日一食で生きたり、これであるべきで、あれであるべきでないという無数の誓いをたててきた人ではなくて、内側で単純である [人] 、何ものにもなろうとしていない人です。そういう精神は、とてつもない受容性の能力があります。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないからです。ゆえにそれは、恵み、神、真理または何であれ、受け取る能力があるのです。しかし真実を追求している精神は、単純な精神ではありません。捜し出し、探求し、手探りし、扇動されている精神は、単純な精神ではありません。内側でも外側でも、どんな権威の様式にも順応する精神は、敏感でありえません。そして精神が本当に敏感で、鋭敏で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやなろうとしていない [とき] 、もはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力があるのです。幸せがありうるのは、そのときだけです。というのは、幸せは [終わりの] 目的ではないからです-それは真実の結果です。精神と心が単純に [なって] ゆえに敏感になったとき-どんな形の強制、指令、または賦課をとおしてでもなく-そのとき私たちは、自分たちの問題にとても単純に取り組めることが、わかるでしょう。私たちの問題がたとえどんなに複雑でも、私たちはそれらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができるでしょう。それが、現在の時代に求められているものです-この外側の混乱、騒乱、敵対に、左翼のであれ右翼のであれ、理論でも定式でもってでもなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、です。あなたは単純でなければ、それに新たに出会えません。

 問題は、私たちがこのように接近するときだけ、解決されうるのです。私たちは、宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できません。ですから私たちは、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければなりません。そういうわけで、気づくこと、私たち自身の考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、これほど重要なのです。そこから、単純さが訪れます。美徳や実践ではない謙虚さが訪れます。獲得される謙虚さは、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではありません。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけです-育成された謙虚さではありません。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないからです。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができるのです。
(´・(ェ)・`)つ


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