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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
56
:
避難民のマジレスさん
:2020/07/09(木) 19:38:12 ID:4q82KXfA0
最初と最後の自由 第一部
第六章 信念 3
欲望 [・願望] の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいないということが、わかります。なぜなら、明白にあなたは経済的、霊的 [・精神的] に [安全であるため] 、また内側でも安全であるために信じているからです。私は、経済的理由のために信じている人たちについて話してはいません。なぜなら、彼らは自分たちの仕事に依存するように育てられているし、ゆえに自分たちのために仕事があるかぎり、キリスト教徒、ヒンドウ-教徒-何でもかまいません-であるだろうからです。私たちはまた便宜のために信念にすがりつく人たちについても議論していません。おそらく私たちのほとんどにおいては、それは等しくそうなのです。便宜のために、私たちは一定のものごとを信じています。これら経済的理由は払いのけて、私たちはその中にもっと深く入らなければなりません。何でも経済的、社会的、霊的 [・精神的] なものを強く信じている人たちを [例に] 取り上げましょう。その裏の過程は、安全でありたいという心理的欲望なのではないでしょうか。そのとき継続したいという欲望があります。私たちはここで、継続があるのかないのかについては、議論していません。私たちは、信じようとする駆り立て、常なる衝動について議論しているだけです。平和の人、ほんとうに人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできないのではないでしょうか。彼は自分の欲望が、安全であるための手段としている働いているのがわかります。どうか反対側へ行って、私が無宗教を説いていると言わないでください。それはそもそも私の論点ではありません。私の論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争いがあるにちがいない、葛藤・抗争があるにちがいない、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということです-それは日常、見られます。それで私が、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、私があれかこれかを信じるべきであるということではなくて、私が安全でありたいという欲望から自由になるべきであるということです。精神は、安全への欲望から自由でありうるでしょうか。それが問題です-何を信じるべきか、どのくらい信じるべきかではありません。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ
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