[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
449
:
避難民のマジレスさん
:2020/12/26(土) 18:10:15 ID:dLTm0wg60
最初と最後の自由 第二部質疑応答
三五 精神の静寂について 2
精神は、それが静かであるときだけ、理解が来るという真理がわかるとき、静かです-
私はあなたを理解しようと思うなら、静かでなければならない。あなたに対して反応を持ってはならない。先入観を持ってはならない。自分の結論、自分の経験すべてを片づけて、あなたに面と向き合って出会わなければなりません。そのときだけ、精神が自分の条件づけから自由であるとき、私はほんとうに理解するのです。私がそれの真理がわかるとき、そのとき精神は静かです-そのときどのようにして精神を静かにさせるか、という問いはありません。真理だけが、精神をそれ自身の観念作用から解放できるのです。真理がわかるには、精神は、それが興奮・動揺しているかぎり、理解を得られないという事実を、悟らなければなりません。精神の静けさ、精神の平静さは、意志力により、願望のどんな作用によっても生み出されるものではありません。それが [産み出] されるなら、そのときそういう精神は、囲い込まれ・閉じ込められ、孤立しています。それは死んだ精神です。ゆえに適応性、柔軟性、すばやさの能力がないのです。そういう精神は創造的ではありません。
私たちの問題は、そのときどのようにして精神を静かにさせるのかではなくて、あらゆる問題が私たちに生じるままに、それの真理がわかることです。それは、風が止むとき、静かになる池に似ています。私たちの精神は、私たちが問題を持つから、動揺しています。問題を避けるために、私たちは精神を静かにさせるのです。そこで精神はこれらの問題を投影してきました。それで精神から離れて問題はありません。精神がどんな感受性の着想でも投影し、どんな形の静寂でも実践するかぎり、それは決して静寂でありえません。静寂であることによってだけ、理解があることを、精神が悟るとき、そのときそれはとても静かになります。その静けさは課されません。修練されません。それは、動揺した精神が理解できない静けさです。
精神の静けさを求める多くの人たちは、活動的な生から村へ、修道院へ、山へ退きます。
または観念の中へ退いたり、信念の中に閉じこもったり、自分たちに迷惑・面倒をかける人たちを避けたりします。そういう孤立は精神の静寂ではありません。観念における精神の閉鎖や、生をやっかいに・面倒にする人たちを避けることは、精神の静寂をもたらしません。蓄積をとおした孤立の過程がなくて、関係の過程全体についての完全な理解があるときだけ、精神の静寂が来るのです。蓄積は精神を老けさせ・古くします。蓄積の過程なしに、精神が新しいとき、新鮮であるとき、そのときだけ、精神の平静さを持つ可能性があるのです。そういう精神は死んでいません。それはもっとも活動しています。静寂な精神が最も活動的な精神です。しかしあなたはそれを実験し、それに深く入る気があるなら、静寂には思考の投影がないことが、わかるでしょう。思考はすべての水準で、明白に記憶の反応です。それで思考は決して創造の状態でありえないのです。それは創造性を表現するかもしれませんが、思考それ自体には決して創造性がありえません。静寂が、結果ではない精神の平静さがあるとき、そのとき、その静けさには、思考により動揺させられた精神が決して知ることのできないとてつもない活動、とてつもない行動があることが、わかるでしょう。その静寂には、定式化がありません。観念がありません。記憶がありません。その静寂は、「私」という過程全体の完全な理解があるときだけ、経験されうる創造の状態です。そうでないと、静寂は意味がありません。結果ではないその静寂においてだけ、永遠のものが発見されます-それは時間を超えています。
(´・(ェ)・`)つ
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板