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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

258避難民のマジレスさん:2020/09/11(金) 21:39:28 ID:sfCtiVOE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 1

質問
 私はあなたから、学び・学問と知識は妨害であるということを、明確に推測します。それらは何に対して妨害なのでしょうか。 

 明白に、知識と学びは、新しいもの、時間のないもの、永遠のものの理解にとって妨害です。完璧な技術を発達させることは、あなたを創造的にしません。あなたはどのようにすばらしく絵を描くかを知っているかもしれません。あなたは技術を持っているかもしれません。しかし、あなたは創造的画家ではないかもしれません。あなたは、技術的にもっとも完璧な詩を、どのようにして書くかを知っているかもしれません。しかし、あなたは詩人ではないかもしれません。詩人であるとは、新しいものを受け入れる能力がある、何か新しい新鮮なものに応答するに充分敏感である、という意味を含むのではないでしょうか。私たちのほとんどにとって、知識や学びは中毒・耽溺になってしまいました。私たちは、知ることをとおして創造的であるだろうと、考えるのです。事実を、知識を詰め込んで身を固めた精神-それは、何か新しい、突然の・不意の、自発的なものを受け入れる能力があるでしょうか。あなたの精神が知られたもので詰め込まれているなら、そこには、知られないもののものである何かを受け入れる空間が、何かあるでしょうか。確かに知識はいつも知られたものについてです。そして知られたものをもって、私たちは知られないものを、何か尺度を超えたものを、理解しようとしているのです。
 私たちのほとんどに起こるごく普通のものごとを、例に取りましょう。宗教的な人たちは-さしあたり・当座は、その言葉が何を意味するとしても-神が何であるかを想像しようとしたり、神が何であるかについて考えようとしたりします。彼らは無数の書物を読んできました。彼らは様々な聖者たち、大師たち、マハトマ(偉大な魂)たちとその他すべての経験について読んできました。そして他の一人の経験が何であるかを想像しようとしたり、感じようとしたりするのです。すなわち、知られたものをもって、知られないものに接近しようとするのです。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、何か知ることのできないものについて考えられるでしょうか。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。しかし現在の世界には、このとてつもない倒錯・歪曲が起きているのです。私たちはもっと多くの情報、もっと多くの書物、もっと多くの事実、もっと多くの印刷物を持つなら、理解するだろうと思うのです。
 知られたものの投影ではない何かに気づくには、理解をとおして、知られたものの過程の排除・除去がなければなりません。精神がいつも知られたものにすがりつくのは、なぜでしょうか。それは、精神が常に確実性、安全を求めているから、ではないでしょうか。まさにその本性こそが、知られたものに、時間に固定されているのです。そういう精神が-まさにその基盤・土台そのものが、過去に、時間に基づいているのですが-どうして時間のないものを経験できるでしょうか。それは知られないものを考えつき・構想し、定式化し、思い描く・描き出すかもしれません。しかしそれはすべて不合理です。知られたものが理解され、解消され、脇に置かれるときだけ、知られないものが生じうるのです。それは極めて難しいのです。なぜなら、あなたが何かについての経験をした瞬間、精神はそれを知られたものの用語に翻訳して、それを過去に還元するからです。あらゆる経験が即時に知られたものに翻訳され、名前をつけられ、一覧表にされ、記録されるということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。それで知られたものの動きが知識です。明白にそういう知識、学習は障害です。
(´・(ェ)・`)つ


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