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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

44避難民のマジレスさん:2020/07/05(日) 18:42:09 ID:JXZBdWr60
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 3

 そこであなたはどのようにして観念を得るのでしょうか-とても単純な観念です。それは哲学的、宗教的、経済的でなくてもいいのです。明白にそれは思考の過程なのではないでしょうか。観念は思考過程から出てきたものです。思考過程なしに観念はありえません。それで私は、その産物、観念を理解できる前に、思考過程自体を理解しなければなりません。私たちのいう思考とはどういう意味でしょうか。あなたはいつ考えるのでしょうか。明白に、思考は、神経的、心理的な応答の結果なのではないでしょうか。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答です。または心理的な、蓄えられた記憶の応答です。感覚に対する神経の即時の応答があります。そして蓄えられた記憶の [心理的応答] 、人種、集団、導師(グル)、家族、伝統などの影響の心理的応答があります。そのすべてを、あなたは思考と呼びます。それで思考過程は記憶の応答なのではないでしょうか。もしもあなたは記憶を持たなかったなら、思考を持たないでしょう。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させるのです。例えば、私が国家主義・民族主義の蓄えられた記憶を持っていて、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶとします。その過去の応答、行動、含蓄、伝統、慣習の記憶の [諸々の] 貯蔵庫が、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒の挑戦に応答します。そして挑戦に対する記憶の応答が必然的に思考過程をもたらします。あなた自身に作動している思考過程を見つめてください。するとあなたはこれの真理を直接的に試せるのです。あなたは誰かに侮辱されました。そしてそれが、あなたの記憶に残っています。それが背景の一部を形作ります。あなたがその人物に会うとき-それが挑戦です-応答は、その侮辱の記憶です。それで記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出します。ゆえに観念はいつも条件づけられています-これを理解することが重要です。言い換えると観念は思考過程の結果ですし、思考過程は記憶の応答ですし、記憶はいつも条件づけられているのです。記憶はいつも過去にあるし、その記憶は挑戦により現在において命を与えられるのです。記憶はそれ自体では命を持っていません。それは挑戦に直面するとき、現在に生き返るのです。そして休眠していても活動していても、すべての記憶は条件づけられているのではないでしょうか。
 ゆえに全く異なった接近 [法] がなければなりません。あなたは、自分が観念に従って行動しているのかどうか、そして観念作用のない行動はありうるのかどうかを、内側に自分自身で見出さなければなりません。観念に基づかない行動-それは何なのかを見出しましょう。
 あなたはいつ、観念作用なしに行動するのでしょうか。経験の結果でない行動は、いつあるのでしょうか。経験に基づいた行動は、私たちが言ったように制限するし、ゆえに障害です。思考過程-すなわち経験に基づいたもの-が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的です。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味です。それが、 [そこに] 理解のある唯一の状態です。経験に基づいた精神が行動を導いていないとき、経験に基づいた思考が行動を形作っていないとき、です。思考過程がないとき、行動は何でしょうか。思考過程のない行動はありうるのでしょうか。すなわち私は橋を、家を建てたいと思います。私は技術を知っています。技術は私にそれをどう建てるべきかを教えます。それが行動と呼ばれます。詩を書く、絵を描く [行動] 、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動があります。すべてが観念や以前の経験-行動を形作るもの-に基づいています。しかし観念作用のないとき、行動はあるのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ


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