[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
242
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/02(水) 20:15:06 ID:giq2kMYI0
くまめも21-4
私たちは表面的に空っぽ。それは、散漫への願望をとおして正体を現す。私たちは楽しみたい。それで書物、ラジオに向かい、講義、権威へ駆けつける。精神は永続的にそれ自体を充たしている。それは無思慮である空っぽ。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽがある。
経験を集めるために、自分自身を強めるために、思考者がいるかぎり、創造的空っぽは不可能。精神は、すべての象徴、言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、ありうるか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能か。
精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうる。そして精神は、心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる。精神がそれ自身の欲望、要求、衝動、追求、権威の創造、恐れの創造に気づくとき、修練、制御により造り出された抵抗がわかり、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき、これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうる。創造的状態について意見を持たず、経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出す。新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけ。しかし、自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのように自身の過程全体を見守るなら、そのとき、ますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうるところのこの空っぽという究極の疑問に、至る。
真理は、経験されるものでは無い。というのは、経験者は時間の結果、記憶、過去の結果であるから。経験者がいるかぎり、真実はありえない。精神が、分析者、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実がある。そのとき答えを見つける.そのとき求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかる。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れる。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性がある。
(´・(ェ)・`)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板