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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
183
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/12(水) 19:15:55 ID:2Vk6aJ6Y0
くまめも15-2
一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときの状態を経験することは、可能。そのとき、創造的であることがどんなことか、人がどんなときにも退廃・堕落のない状態がどんなものかを、見出す。私と貪欲は二つの違った状態ではない。ただ一つのものすなわち貪欲だけがある。
私は、自分が貪欲であることに気づくなら、私は社会的または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力する。その努力はいつも小さな制限された環のなかにある。ゆえに退廃・堕落する要因がある。
しかしもう少し厳密に見るとき、努力をする者が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることがわかる。ただ貪欲だけがあることがわかる。自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき疑問全体、それに対する応答は全く違ってくる。そのとき私たちの努力は破壊的ではない。
あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたはどうするか。「私」、上位の実体、制御し支配している戦士がいる。私にとって、その過程は破壊的。それは幻影。私たちはなぜそうするのかを知っている。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割する。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではない。そこには肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がない。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければならない。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではない。重要であることは、努力する者と彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかること。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るには途方もなく大きな理解力、見守りを必要とする。しかしそれはやはり思考の過程、時間の過程にとどまっている。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることがわかる。
(´・(ェ)・`)
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