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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
151
:
避難民のマジレスさん
:2020/08/01(土) 20:30:47 ID:Cm90o6.Y0
くまめも12-1
自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味。観念と人々の世界、自然、所有するものごととの関係。生は全体との関係。その関係を理解することは、全体としての生に出会うための気づきを要求する。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきか-それは、隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの 関係。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきか。関係なしに生はない。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではない。反対にそれは、関係の総合過程の充分な認識や気づきを要求する。
どのように何かに気づくのか。初めに刺激に対する応答に気づく。木々を見る→応答がある→感覚、接触、同一化、欲望がある。→楽しみと苦痛を持つ。
私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれる→即時に「能力」がある。即時に、その事実への気づきがある。それが苦痛である→「能力」はそれを避けるために開発される。
私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗する。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないから。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術でない。この自分自身への気づきは、関係の行動・作用、話し方、ふるまい方において試せる。どんな同一化、比較、非難もなく、あなた自身をただ見守れ。するととてつもないことが起きていることがわかる。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく、あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づく。
(´・(ェ)・`)
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