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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

162避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 22:27:49 ID:88HzfH7Q0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 1

 私たちのほとんどにとって、欲望は実に問題です-財産、地位、力、慰め [安楽・快適さ] 、不死、継続 [存続] への欲望、愛されたい [という欲望] 、何か永久的な [もの]、 満足させ持続するもの、何か時間を超えているものを持ちたいという欲望です。では欲望とは何でしょうか。私たちを駆り立て強制しているこのものは何でしょうか。私たちは持っているものやあるがままの私たちに満足すべきであると、私は提唱しているのではありません-それはたんに私たちが欲しいものの対極であるだけです。私たちは欲望とは何であるのかを見ようとしています。私たちは仮に、ためらいがちにそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの欲望の対象を用いるだけではない変容をもたらすであろうと、私は思います。これが一般に私たちのいう「変化」という意味なのではないでしょうか。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、私たちはその代用物を見つけます。私たちは、一つの欲望の対象から、私たちがより高くより高尚でより洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いているのです。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望です。そしてこの欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤があるのです。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか。欲望とは何でしょうか。それは象徴とその感動 ・感覚ではないでしょうか。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚です。象徴とその感動を伴わない欲望があるでしょうか。明白に、ありません。象徴は、私に感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念であるかもしれません-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせるのです。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまるのです。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変えるのです。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈してしまいます。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求めます。私は古い感動を拒絶して、新しいものを採り入れます-新しい言葉、新しい意義、新しい経験をもったもの、です。私は古いものに抵抗して、より高くより高尚でより満足させてくれると考える新しいものに屈します。こうして欲望には、抵抗と屈することがあります-それには誘惑が関与しています。そしてもちろん、欲望の特定の象徴に屈することには、いつも挫折への恐れがあるのです。
 私は自分自身の欲望の過程全体を観察するなら、いつも対象 [がある] -私の精神が、さらなる感動のためにそれに向けられているもの-があるということ、そしてこの過程には抵抗、誘惑、修練が関与しているということが、わかります。知覚、感覚、接触、欲望があります。そして精神はこの過程の機械的な道具になります-そこでは象徴、言葉、対象が中心です-そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれるのです。その中心が「私」です。私はその欲望の中心を解消できるでしょうか-一つの特定の欲望、一つの特定の欲望や渇望ではなくて、欲望、あこがれ、希望-そこにはいつも挫折の恐れがあります-の構造全体を、です。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまいます。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がありますし、それがまた・さらに中心を強めるのです。そして革命は、その中心においてだけ可能です-表面にではありません-それはたんに逸脱・散漫の過程 [であり] 、有害な行動につながる表面的変化であるだけです。
(´・(ェ)・`)つ


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