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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

47避難民のマジレスさん:2020/07/06(月) 21:29:37 ID:yBquKmmc0
最初と最後の自由  第一部
  第五章 行動と観念 4

 確かに、観念が止むとき、そういう行動があるのです。そして愛があるときだけ、観念は止みます。愛は記憶ではありません。愛は経験ではありません。愛は、自分の愛する人について考えることではありません。というのは、そのときそれはたんに思考であるからです。あなたは愛について考えられません。あなたは、自分が愛したり献身したりしている人-あなたの導師(グル)、あなたの像(イメ-ジ)、あなたの妻、あなたの夫について考えられるのです。しかし思考、象徴(シンボル)は真実 [のもの] -すなわち愛-ではありません。ゆえに愛は経験ではないのです。
 愛があるとき、行動があるのではないでしょうか。その行動は解放するのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。観念と行動の間にあるような隔たりは、愛と行動の間にはありません。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落としています。そして私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとしています。愛があるとき-それは精神作用ではなく、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から [出てきたもの] 、実践された修練から出てきたものではありません-そのとき、その愛こそが行動です。それが、自由にしてくれる唯一のものです。精神作用があるかぎり、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえません。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限されます。これの真理がわかるとき、愛の性質-すなわち精神作用ではないもの、あなたがそれについて考えられないもの-が生じるのです。
 この総合過程、どのように観念が生じるのか、どのように行動が観念から発生するのか、どのように観念が行動を制御し、ゆえに、感覚に依存して行動を制限するのかに、気づかなければなりません。それらが誰の観念なのか、左翼からか極右からかどうかは大事なことではありません。私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にあるのです。そのとき私たちはたんに時間の領域に-過去すなわちさらなる感覚を与えるものに、またはもう一つの形の感覚である未来に-生きているだけです。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけです。
 観念は真理ではありません。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないものです。それは、あなたが「欲しい」経験ではありません-そのとき、それはたんに感覚にすぎません。観念の束を越えてゆけるとき-すなわち「私」であり、精神であり、部分的または完全な連続性を持つもの-、それを越えてゆけるとき、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態があるのです。そのとき、真理が何であるかを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ


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