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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

2鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/18(水) 22:10:39 ID:1d4drIFg0
それは悟りの喩えじゃな。
悟りは他に求めるものではなく、自分の心の奥にあることを喩えているのじゃ。
全て忘れてしまった者の記憶のように、悟りは何も感じない者の心の奥底にあるというのじゃ。
仏教では仏性と言ったりするものじゃ。

3避難民のマジレスさん:2020/11/19(木) 07:54:21 ID:Dp/qMVVc0
ありがとうございます。
習慣により、文の意味を思考によって分析的に解釈しがちなことに気づきました。自分ごととして、自然に読めるように精進します。

古い思い出せない記憶を思い出そうとすると、注意が内側に向きました。身体では下腹の中心あたりに感覚が生じます。そういえば、自分の名前を呼ばれたときにも、その辺りに感覚が生じるのですが、そこには何かあるのでしょうか?

4避難民のマジレスさん:2020/11/19(木) 20:50:13 ID:Dp/qMVVc0
しかし、これは自然なことだ。人の心の中に光がなければ、人生には何の意味もない。心の中に光がなければ、生に喜びを感じることはできない。

今日、自分自身が不必要で過剰な重荷を見つけるという事実は、生自体が無駄だからではない。生はひとつの無限の充足だ。しかし、私たちは、その充足に、その目的地につながる道を忘れてしまった。私たちは単に存在し、生とは何の関係もない。これは生きているのではなく、死を待っているだけだ。そして死を待つことが退屈以外の何物でもないとしたら、どうしたらいいのか? どうしたらそれは喜びになるのか?

私はあなたにこれを伝えるためにここに来た:あなたが生と勘違いしているこの悪夢から目を覚ます方法がある。道はいつもそこにあった。闇から光への道は永遠だ。それは確かにそこにあるが、私たちはそこから顔を背けてきた。その道に顔を向けて欲しい。この道がダルマ、法であり、宗教である。それは人間の中の光を再び点火させる手段であり、人間の漂流する船に方向性を与えている。マハヴィーラは言う。老いと死を伴う世界の急速な流れに流されている人々のために、宗教こそが唯一の安全の島であり、錨であり、目的地であり、避難所であると。

あなたは人生を喜びで満たす光を渇望しているか? 人間に不老不死を与える真理に到達したいか? もしそうなら、私はあなたを招待する。私の招待を受け入れなさい--喜びのために、光のために、不死のために。それは単にあなたの目を開くという問題だ。そうすれば、あなたは光の新しい世界に住むことになる。他に何もする必要は無い、ただ目を開けるだけでよい。ただ目を覚まして見ればよい。

人間には本当は何も消えていないし、本当は方向性も失っていないが、もし目を閉じていれば、闇はどこにでも広がり、方向性の感覚はすべて失われる。目を閉じれば人はすべてを失い、目を開ければ王となる。

私は、あなたを没落の夢から皇帝の威厳に目覚めさせようと呼びかけている。あなたの敗北を勝利に変えたい。あなたの闇を光に変えたい。あなたの死を不死に変えたい。あなたは、私と一緒にこの航海に乗り出す準備ができているだろうか?
――
オショーは折に触れて、あなたは仏性を忘れているとか、思い出すようにと説いていますが、それによって修行者の目を自分の心の奥深くに向けるように働きかけているということでしょうか。
それにしても、力があって魅力的な文で、勇気づけられます。

5鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/19(木) 22:59:56 ID:1d4drIFg0
>>3 そこにおぬしの自己観念の投射があるのじゃろう。
 その感覚に自分というものがあるという観念を記憶から思い出しているのじゃ。
 それがなければ自分がどうなるのか見てみると善いのじゃ。

>>10 そうじゃ、心を見るように勧めているのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

6避難民のマジレスさん:2020/11/20(金) 20:36:17 ID:Dp/qMVVc0
>>5 ありがとうございます。
下腹の中心あたりの感覚が無い時は、思考や鼻の先あたりに自分を感じました。
以前は自我を見ようとすると強い拒否感が起こったのですが、今は弱めの拒否感と共に好奇心が起こることが多いです。
起こる拒否感をさらに観察して、厭離しようと思います。

7避難民のマジレスさん:2020/11/20(金) 20:46:29 ID:Dp/qMVVc0
ワークを始める前に、私の愛をどうか受け取って欲しい。 それは、この丘の孤独で人里離れた場所にあなたを歓迎することができる唯一のものだ。他にあげられるものは何も無い。 神の臨在が私の中に創り出した無限の愛をあなたと分かち合いたい。皆に配りたい。そして不思議なことに、分かち合えば分かち合うほど、それは大きくなっていく。本当の富は分配することで増えていくが、分配することで減っていく富は決して本当の富ではない。それでは、私の愛を受け入れてくれるだろうか? 私には見える。あなたの目には受け入れられていて、それに呼応して愛が溢れているのが。

愛は愛を生み、憎しみは憎しみを生む。私たちがあなたに与えるものは何でも、それは現物で返される。これは永遠の法則だ。だから、あなたが望むものは何でも、世に与えるべきものだ。茨と引き換えに花を受け取ることはできない。

私はあなたの目に愛と平和の花が咲いているのを見て、深く感謝している。今、ここにはそれほど多くの異なる人々はいない。愛は多くのものを一つにまとめ、一つに変えていく。それぞれの肉体は分離していて、これからもそうあり続けるだろうが、この肉体の背後には、人々を一つにし、愛で一つにする何かがある。この一体感が得られて初めて、何かを語ることができ、何かを理解することができる。コミュニケーションは愛の中で、愛の中でのみ可能なのだ。

私たちがこの孤独な場所に集まったのは、私があなたに何かを伝え、あなたが聴いてくれるようにするためだ。この伝えることと聴くことは、愛のレベルでしかできない。心の扉は愛だけにしか開かれない。そして、頭ではなく心で聴いてこそ、本当に何かを聴くことができるということを覚えておきなさい。あなたは「心も聴くのですか」と尋ねるかもしれないが、私は聴くことがあるときはいつでも、聴くのは心だけだと言う。これまでのところ、頭は何も聴いたことがない。頭は石のように耳が聞こえない。そして、これは話すことにも当てはまる。言葉は心から出たものだけが意味を持つ。心から発する言葉だけが新鮮な花の香りを持っている。

私はあなたに私の心を注ぐ。あなたの心に私が入ることを許すならば、そこには出会いとコミュニケーションがあるだろう。言葉では表現できないことが伝わるのは、この交わりの瞬間だ。こうして、多くの語られていないことも聴くことができ、言葉にできないこと、行間にあることも伝えることができる。言葉は非常に無力な記号だが、完全な安らぎと静寂の中で聴けば、力強くなる。これを私は「心で聴く」と言う。
―-
オショーも因果の法則を説いていますね。
心で聴く、心で読むというのは、鬼和尚が自分ごととして、意味を確かめながら読むというのと同じでしょうか?
また、頭ではなく、心で読めている場合、それを確かめることはできますか? 例えば私の場合、悟りを得た人の文を読んでいると、心が静かになったり、何か新しいことに気づくことがありますが、他にも目安となり得ることがありましたら、お教えください。

8鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/20(金) 22:53:03 ID:1d4drIFg0
>>6 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>7 そう言えるじゃろう。
 ちゃんと心で読めているならば直ぐにでも実践したくなるじゃろう。
 読み終えて直ぐ瞑想したりするのじゃ。
 それが全てのブッダ達の真の願いであるからのう。
 その願いが届いた証なのじゃ。

9避難民のマジレスさん:2020/11/21(土) 21:00:57 ID:Dp/qMVVc0
しかし、人の話を聞いていても、私たちは自分の考えで頭がいっぱいだ。そして、それは偽りの聴き方だ。それでは、あなたは真の聴き手ではない。聴いているような錯覚に陥っているのだが、実際には聴いていない。正しい聴き方をするためには、心が完全な、すなわち静かな見守りの状態にあることが必要だ。あなたはただ耳を傾けるだけで、他のことは何もしてはならない。そうして初めて、聴き、理解することができる。そして、その理解は光となり、あなたの中に変容をもたらす。この心の状態がなければ、あなたは誰の話にも耳を傾けず、ただ自分の話を聞いているだけだ。あなたの中で激しさを増している騒動が、あなたを吸収してしまう。そして、あなたが夢中になっているとき、何も伝えることはできない。見ているように見えても見てはいないし、聞いているように見えても聞いてはいない。

キリストはまた、「見る目を持つ者は見なさい。聞く耳を持つ者は聞きなさい。」と言った。キリストが話した人たちは目と耳を持っていなかったのだろうか?もちろん彼らには目と耳があったが、目と耳があるだけでは、見ることも聞くこともできない。何か他のものが必要であり、それがなければ、目と耳の有無は関係ない。その何かとは、内なる沈黙と注意深い意識だ。これらの資質があってこそ、心の扉が開き、何かを言ったり聴いたりすることができる。

私はこのサーダナキャンプの期間中、あなたのこのような聴き方を期待する。一度この技をマスターしたら、それはあなたの生涯の伴侶となる。それだけで、つまらない先入観を取り除くことができる。それはあなたを外の偉大で神秘的な世界に目覚めさせ、意識の永遠の光を体験し始めることができる。それが、心の騒動の背後にあるものなのだ。

正しく見ることと正しく聞くことは、このサーダナ・キャンプに必要なだけでなく、すべての正しい生き方の基礎となる。すべてのものが波紋のない完全に穏やかな湖にはっきりと映し出されるように、真実であるもの、神であるものは、あなたが湖のように静かで静止した状態になれば、あなたの中に反映されるだろう。

私はそのような静けさと穏やかさがあなたのもとにやってくるのを見て、あなたの目が私が言いたいことを言うように招いているのを見る。私が見た真実、私の魂を動かしたことを分かち合うように促している。あなたの心はそれらについて聴きたいと切望している。私の話を聴こうと前向きで準備ができているのを見て、私の心はあなたに自分自身を注ぎ出したいという衝動に駆られている。このような平和な環境の中で、あなたの心が完全に静まっているときに、私は必ずあなたに言いたいことを言うことができるだろう。目の前に耳の聞こえない心を見ると、私は口を慎まなければならないことがよくある。あなたの家のドアが閉まっていても、光は外に残っているのではないだろうか? 同じように、私はしばしば多くの家の外に立っている。しかし、あなたのドアが開いているのは良いサインだ。それは良い始まりだ。
――
自分の心を観る実践が全てのブッダ 達の真の願いなのですね。私も実践を続けます。
今日の文では特に分からないことはありませんでした。これまでの文で、これを読む現代の日本人のために修正したり、あるいは補足したりすることがありましたら、お願いします。

10鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/21(土) 21:52:11 ID:1d4drIFg0
オショーは正しく観ることと正しく聞くことを語っているのじゃ。
それはどんな善い教えもエゴに拠って破壊されてしまった歴史を見ているからなのじゃ。
お釈迦様も生まれによる差別を否定したが、大乗では生まれによる差別を説いているのじゃ。
まるで正反対のことをエゴに拠って正しい教えとしているのじゃ。
そのようなことがないように正しく見て、正しく聞くことが推奨されるのじゃ。

11避難民のマジレスさん:2020/11/22(日) 20:39:06 ID:Dp/qMVVc0
このサーダナキャンプの5日間のプログラムを明日の朝から始めるが、最初にいくつかのことを話させて欲しい。
自分の修行、真理の実現のためには、花を育てるための土を準備するように、心を準備しなければならない。それゆえに、いくつかの格言を心に留めておいてもらいたい。

最初の格言は、「今を生きる」だ。キャンプ中は、過去や未来について考える習慣に流されてはならない。もしあなたが流されてしまうならば、生の瞬間、本当に大切なものは無駄になり、意味もなく過ぎ去ってしまうだろう。過去も未来も存在しない。過去は記憶の中だけであり、未来は想像の中だけだ。現在だけが現実であり、生きている。そして、もし真実が知られるとしたら、それは現在を通して知られることしかできない。

キャンプ中は、どうか過去からも未来からも距離を置いてもらいたい。それらは存在しないことを受け入れて欲しい。あなたがいる、この瞬間だけが存在する。あなたがいるこの瞬間だけが存在し、他には何もない。あなたはその中で生き、完全に生きなければならない。あなたの過去のすべてが漂流してしまったかのように、今夜はぐっすりと眠りなさい。過去に死になさい。朝には新しい人として起きなさい。なぜならば、それは新しい朝だからだ。眠った者を目覚めさせないように。良い眠りにつくように。永遠に新しく,いつまでも新鮮な者に起きさせなさい。

現在に生きるために、覚えておきなさい - そして、毎日24時間見張っていなさい。過去と未来についての機械的な思考が再び立ち上がらないように。見ているだけで十分だ。見ていれば、再び立ち上がることはない。見ていることと気づいていることがその習慣を断ち切る。
――
今は思考が観察できるようになったので、思考に流されていない時には、それが分かるようになりました。思考と同時に起こっている感覚や感情などが同時に認識できている時には、思考に流されていないことが分かります。私はそれを訓練するために、集中の瞑想の後に、例えば指を一つ一つ折り曲げながら、明日やりたいことなどを考えて、指の折れ曲がる感覚と、思考という行為が同時に認識できるように繰り返していました。今日も試しにやってみたのですが、サイコロを回転させながら裏と表の目の数を足すという思考と、右手で指を折りながら、左腕を左右に動かすという行動を同時に認識しようとしたところ、途中から思考に流されてしまいました。
このように、少しずつ行動を複雑にしながら、流されないように観察する方法は有効なのではないかと思うのですが、全体が観念遊戯になっている可能性があります。とりあえず新しい発見があれば大丈夫かと判断しているのですが、これらに関してアドバイスやコメントなどをいただけますでしょうか?
あともうひとつ、オショーは観察ができていれば思考が再び立ち上がることはないと述べていますが、私の場合、観察中でも縁起により勝手に思考が働くことがあります。観察力が上がれば思考は立ち上がらなくなるのでしょうか?

12鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/22(日) 23:52:24 ID:1d4drIFg0
↑訓練としてはよいじゃろう。
 しかし、それによって自分を観察して理解できるものでなければ長く続けるべきではないのじゃ。
 全ての実践は自分を観るためにあるのであるからのう。
 
 自分を観察できて無我になれば思考も立ち上がらないようにできるのじゃ。
 それまでは観察に拠って思考が起きないようにするのは無理なのじゃ。
 自我の危険を感じれば思考で対処しようとするからのう。
 その反応は意志によってとめられるものではないのじや。

13避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 08:46:34 ID:Dp/qMVVc0
>>12 ありがとうございます。
確かに自分を観察して理解することを怠り、逃避として行うのであれば無意味なだけでなく有害ですね。

鬼和尚は修行に関して、観察だけすればよいとか、ただ静かに何もせずにいればよいなど、衆生にとって困難なことは説かない印象があります。
自他の区別が無いのにどうやって、衆生を適切に理解し、道標となれるのでしょうか?

14避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 20:58:53 ID:Dp/qMVVc0
第二の格言は、「自然に生きる」だ。人間の全ての行動は人工的であり、条件付けの結果だ。私たちは常に偽の外套に身を包んでおり、この覆いのために、徐々に本当の存在を忘れている。この偽りの外被を脱ぎ捨てなさい。私たちはドラマを上演するためにここに集まったのではなく、本当の自分自身を知り、見るために集まったのだ。劇中の俳優たちが、演技の後に衣装や化粧を取って脇に置くのと同じように、この5日間では、あなたの偽りの仮面を外して脇に置かなければならない。あなたの中にある根源的で自然なものに出て来させなさい - そして、その中に生きなさい。自分の修行、自分の道は、単純で自然な生を通してのみ開く。このサーダナキャンプの間、あなたは何の地位も、職業も、地位も持っていないことを意識しなさい。これらすべての仮面を捨てなさい。あなたはただのあなたであり、名前も身分も階級も家族もカーストもない普通の人、名も無い、ごく普通の人だ。あなたはこのように生きることを学ばなければならない。なぜならば、本当のところ、それがあなたなのだ。

第三の格言は、「一人で生きる」だ。修行は、完全な孤独の中、全くの一人である時に生まれる。しかし、一般に人は決して一人あることはない。常に他の人たちに囲まれている。外側の周りに群衆がいなければ、その人は内側の群衆の中心にいることになる。この群衆を散り散りにさせなければならない。

内側では、物事が自分に群がってくるのを許してはならない。そして、外にも同じことが言える-このキャンプでは、完全に一人であるかのように、生きなさい。誰か他の人との関係を保ち続ける必要はない。数え切れないほどの人間関係の中で、あなたは自分自身を忘れてしまっている。敵か味方か、父か息子か、妻か夫か、これらすべての関係があなたを飲み込んでしまい、自分の中に自分の存在を見つけることも知ることもできなくなってしまっているのだ。

あなたは今までに、これらの関係から離れて、自分が何であるかを想像しようとしたことがあるだろうか? あなたは今までに、これらの関係の衣装を捨てて、それからかなり離れた自分を見たことがあるだろうか? これらすべての関係から自分自身を取り除き、自分が父親や母親の息子ではなく、妻の夫でもなく、子供の父親でもなく、友人の友人でもなく、敵の敵でもないことを知りなさい - そして残っているものが、あなたの本当の存在だ。あなたの中に残るものが、あなた自身だ。これらの日々の間、あなたはその存在の中で一人で生きなければならない。
―-
自然に生きているのが分かるのは、それが自分にとって楽だったり、生き生きとしたりすることだと思いますが、他に何かありますでしょうか。またもし、仮面の外し方が分からない場合は、どのようにしたら良いのでしょうか?
あと、自分の内側の人間関係から自分自身を取り除く方法もお教えください。

15鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/23(月) 21:53:01 ID:1d4drIFg0
>>13 悟った後にもよく学ぶことで可能になるのじゃ。
 お釈迦様も悟った直後の説法では失敗しているのじゃ。
 人の苦を知り、四諦を説く事で説法もよくなったのじゃ。

>>14 人の居ない所で一週間位生活すると善いのじゃ。
 自然に仮面はなくなるのじゃ。
 仮面とは人との付き合いで必要になるものであるからのう。

 ただひたすらそれを観ることでできるのじゃ。
 無理に取り除こうとしてもできないのじゃ。
 それがどのような原因から起こるのか観ることで消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

16避難民のマジレスさん:2020/11/24(火) 20:52:24 ID:Dp/qMVVc0
これらの格言に従うことで、あなたは到達することができるだろう。修行を続け平安と真理の実現を得るために絶対に必要な、心の状態に。これらの3つの格言に加えて、明日から始める2つの瞑想についても説明したい。

最初の瞑想は朝のためのものだ。この瞑想では、背筋をピンと伸ばし、目を閉じ、首をまっすぐにしなければならない。唇は閉じ、舌は口蓋に触れる。ゆっくりと、しかし深く呼吸する。へそに注意を集中しなさい。呼吸のためにへそに感じる揺れを意識するのだ。これだけで良い。これで心が落ち着き、思考が静まる。この空(くう)から、あなたはついに内側に入る。

二番目の瞑想は夜のためのものだ。床にあなたの体を広げ、手足を完全にリラックスさせる。目を閉じて、約2分間、体がリラックスしていることを自分自身に暗示しなさい。だんだん体がリラックスしてくる。その後、2分間、呼吸が静かになることを暗示する。すると呼吸は静かになる。最後に、2分間、思考が止まってゆくことを暗示する。この意志を伴った自己暗示は、完全なリラクゼーションと空につながる。心が完全に穏やかになったら、あなたの内なる存在の中で完全に目を覚まし、静けさを観る者となりなさい。この観ることは、あなたを自己へと導いてくれるだろう。

この二つの瞑想は必ず実践しなければならない。しかし、実際のところ、これらは本当に人工的な仕掛けであり、あなたはそれらに固執すべきではない。この二つの瞑想の助けを借りれば、心の落ち着きのなさは消えてゆく。そして、私たちが登った後に梯子を必要としないように、いつの日か私たちもこれらの仕掛けを手放さなければならない。瞑想は、それが不要になった瞬間に完全なものとなる。まさにこの段階がサマーディだ。

今、夜は更け、空は星で満たされている。木々や谷間は眠りについている。私たちも今、眠りにつこう。何と静かで静穏なのだろう。私たちもまた、この平和の中に溶け込もう。深い眠りの中で、夢のない眠りの中で、私たちはまさに神が宿る場所に行く。これは自然が私たちに与えてくれた自発的な無意識のサマーディだ。このサーダナキャンプの助けを借りて、私たちもまた同じ目的地に到達することができる。しかし、その時、私たちは意識し、気づいているだろう。これが違いであり、実際、大きな違いだ。前者では私たちは眠っているが、後者では目覚めている。

私たちは今、サマーディを得ることを願って眠りの床に着こう。願いが決意と正しい努力を伴っているとき、それは必ず叶う。

神の導きがありますように。これが私の唯一の祈りだ。

第1章はここまでです。
オショーも止観を説いていますが、もし何か補足などがありましたら、お願いします。横になって行う観の行は、私も試してみます。
あと、サマーディの言葉に関して、鬼和尚は忘我の意味で使っていますが、オショーはどのような意味で使っているのでしょうか?
もう一点、寝る直前に「自我が観られますように」のように願って眠りの床に着くのは効果的なのでしょうか?

17鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/24(火) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
深い意識との一体化というような意味でサマーディと言っているようじゃ。
意識的な瞑想すらもない段階なのじゃ。

そのような願いも効果はあるじゃろう。
寝る時には潜在意識が優先的に成るからのう。
無意識に達成することができるのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

18避難民のマジレスさん:2020/11/25(水) 21:03:51 ID:Dp/qMVVc0
第2章 最初の朝 1964年6月4日 午前

あなたに会えて嬉しい。この孤独な場所で、あなたは神を悟り、真実を見つけ、自分自身を知るために集まってきた。しかし、ひとつ質問させてもらってよいだろうか? あなたが求めているのは自分とは別のものだろうか? あなたは離れている人を探すことはできるが、どうやって自分自身を捜し求めることができるのか? 他のすべてのものが捜し求められるという意味では、自分自身を捜し求めることはできない。なぜならばこの場合、捜し求める者と捜し求められる者の間には違いがないからだ。外に世界を求めることはできても、自己を求めることはできない。自己を求めて出て行く者は、自己から遠く離れて行く。この事実を十分に理解することが重要だ。そうすることで初めて、自己の探求が可能になるだろう。もしあなたがこの世の物質的なものを求めるならば、自分自身の外に目を向けなければならないが、もし自分自身を見つけたいと思うならば、あなたは、落ち着いて、平静でなければならない、そして、すべての探求を放棄しなければならない。あなたの本当の姿は、完全な静けさと空虚さの中でしか見ることができない。

探求は興奮でもあり、緊張でもあり、欲求でもあり、情熱でもあることを忘れずにいなさい。しかし、魂は情熱によって実現することはできない。これが難しいところだ。情熱とは、人が何かになりたい、何かを達成したいと願うことを示しているが、魂はすでに人の中に存在している。魂とは、私自身である。情熱と魂は正反対の方向にある。それらは正反対の次元だ。

したがって、魂は実現することができるが、それは欲望の対象にはなりえないことを完全に理解しなさい。魂に対しては、そのような欲望はありえない。すべての欲望は世俗的なものであり、欲望は霊的なものではない。世界を作り上げるのは欲望と情熱だ。この情熱や欲望が、お金のためか宗教のためか、権威のためか神の実現のためか、世俗的な快楽のためか解脱の自由のためか、それは何の違いもない。すべての情熱は無知と束縛だ。

私はあなたに魂への欲望を求めてはいない。欲望の本質を理解して欲しいだけだ。情熱の理解は、その痛みを伴う性格を明らかにするので、情熱から人を解放する。痛みを知ることは、痛みからの自由だ。誰も、痛みを知ったことで、それを望むことはできない。欲望がないとき、心が情熱に邪魔されることも何かを探していることもないとき、その瞬間に、その穏やかで静かな瞬間に、あなたはあなたの本当の、本物の存在を経験する。情熱が消えたとき、魂は自分自身を宣言する。

それゆえに、我が友よ、私はあなたに魂を渇望するのではなく、欲望そのものを理解し、それを取り除くようにと願う。そうすれば、アートマン、魂を知り、悟りを得ることができるだろう。

情熱や欲望と修行について、お教えください。
最近、瞑想は時により、悟りを得たいという欲望があったり、欲望は無くとも意志があったり、あるいは偶然起こったりしています。
オショーによると、悟りへの欲望も厭離することを説いていますが、例えばこの翻訳も欲望によって進められている面があります。
いつ、どのように悟りへの欲望を厭離するのかは、智慧に任せて、とにかく自分の観察に励めば良いのでしょうか?

19鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/25(水) 21:55:47 ID:1d4drIFg0
その欲望以外に全てがなくなった時には捨てるが善いのじゃ。
もはや他の全ての観念を捨て去ってから捨てるのじゃ。
その時にはその欲望に自分を投射しているであろうからのう。
それが捨てられた時に自分もなくなるのじゃ。

20避難民のマジレスさん:2020/11/26(木) 20:59:18 ID:Dp/qMVVc0
宗教とは何か? 宗教、ダルマは思考や考えることとは何の関係もない。それは無思考と関係がある。考えることは哲学だ。それはあなたに結果や結論を与えるが、あなたに充足感をもたらしはしない。ダルマとは充足だ。論理のプロセスは思考への入り口であり、サマーディは充足への入り口だ。

サマーディはシューニャとチャイターニャ、空虚と意識の結果だ。心は空っぽだが注意深いものでなければならず、その静けさの状態で、真理への扉が開く。真実は空からのみ実現され、その後、生全体が変容する。

私たちは瞑想を通してサマーディの段階に到達するが、一般的に瞑想として理解されているものは、真の瞑想ではない。それもまた思考だ。思考は魂や神に関係しているかもしれないが、それらはまだ思考だ。思考が何に関係しているかに違いはない。現実には、すべての思考は別のもの、外部に関わる。それらは自己ではないもの、物質的なものに関係する。自己についての思考はありえない、なぜならば思考が存在するためには二つが必要だからだ。したがって、思考は二元性を超えたところには連れて行ってはくれない。もしこの統一を実現し、自己の中に生き、それを知るためには、思考ではなく、瞑想がその道だ。

思考と瞑想は正反対の方向にある。 前者は外に向かって動き、後者は内に向かって動く。思考は他を知る方法であり、瞑想は自己を知る方法である。しかし、思考は一般的に瞑想と見なされている。これは非常に深刻で広範囲に広がっている間違いであり、私はこの根本的な間違いに対して警告したい。瞑想とは、行動のない状態になることを意味する。瞑想は行動ではなく、存在の状態だ。それは、自分自身の中で安定していることだ。

行動の中では、私たちは外の世界と接触し、不行動の中では、自分自身と接触する。何もしていないときは、自分が何者であるかに気づくことができるが、私たちは常にさまざまな活動に関わっていて、自分自身のことを知らない。私たちは、自分が存在していることさえ覚えていない。私たちは深く夢中になっている。少なくとも身体は休んでいるが、心は全く休んでいない。起きているときは考え、眠っているときは夢を見る。このような絶え間無い関心事や活動に没頭していると、私たちは自分自身を忘れてしまう。自分の用事で頭がいっぱいになり、自分自身を見失ってしまう。何と奇妙なことだろう! しかし、これは事実なのだ。人ごみの中ではなく、自分の考えや夢の中で、自分の用事や活動に夢中になって、自分を見失ってしまっているのだ。私たちは自分の中で自分自身を見失ってしまった。瞑想は、この自作の群衆から、この精神的な迷いから、自分自身を解放するための道だ。

いつも回答をくださり、ありがとうございます。今回は特に意味がわからないことはありませんでした。
気づいた時にはできるだけ自分の観察に励みます。

21鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/26(木) 21:49:31 ID:1d4drIFg0
オショーは一般的に言われている瞑想は瞑想ではないというのじゃ。
それはまだ思考の過程であり、注意が外に向いているからなのじゃ。
外とは心以外の対象なのじゃ。
呼吸とか眉間とか心臓もまた心の働きではない故に外のものといえるのじゃ。
それらの外の対象から離れて自分という観念を生み出す心の中を観ることが瞑想だというのじゃ。

22避難民のマジレスさん:2020/11/27(金) 20:56:46 ID:Dp/qMVVc0
その性質上、瞑想はいかなる行動も含むことができない。それは無行動だ。無行動とは空な心を表す用語だ。これが私が教えていることだ。私が無行動を教えていると言うのは奇妙に見えるかもしれないし、私たちが無行動を実践するためにここに集まったと言うのも奇妙に見えるかもしれないが、人間の言語は非常に貧弱で、非常に限定的なものだ。行動のみを表現するように設計されていて、決して魂を表現することはできない。発話のために作られたものが、どうやって沈黙を表現できるのか? 世界の「瞑想」は、それがある種の行動であることを示唆しているが、それは決していかなる種類の行動でもない。私が瞑想を「実践していた」と言うのは間違っているだろう。瞑想の「中にいた」と言うのが正しいだろう。それはまさに愛と同じだ。私は愛の中にいるが、愛は作り出され得ない。それゆえに、私は瞑想は心の状態だと言う。最初にこのことをはっきりさせることが何よりも重要だ。

私たちは何かをするためにここに集まったのではなく、ある状態を経験するために集まった。すなわち、そこでは私たちはただ存在し、行動も起こらず、行動を暗示する煙さえもなく、存在の燃える炎だけが残り、自己だけが残り、「私」という思考さえももはや残らず、単に「存在」が残っている。これがシュンニャ、空だ。これは、私たちが世界ではなく、真実を見るポイントだ。この空虚さの中で、この空の中で、自己を知ることからあなたを保つ壁が倒れることで、思考のカーテンが上がり、知恵が明ける。この時点では、あなたは考えていない、あなたは知っている。そしてそこには、洞察があり、実現がある。

しかしここでは、主体と客体に違いはなく、知る者と知られるものの違いもないので、 「洞察」と 「実現 」という言葉は全く適切ではない。ここでは、知られるものも知る者もなく、単に知ることがある。この文脈ではどんな言葉も適切ではない。「無語」が唯一適切な言葉だ。もし誰かがこの状態について私に尋ねたら、私は黙ったままである。あるいは、沈黙の中で答えを伝えていると言ってもいいかもしれない。

瞑想は無行動だ。行動とは、自分の思い通りにするかしないかのことだ。しかし、人の本質と行動には違いがある。人の本質は行動ではなく、行うことでも、行わないことでもない。例えば、わかることと観ることは、私たちの本質の一部であり、存在の一部だ。私たちが何もしなくても、それらはそこに存在している。本質は常に私たちの中に存在しており、不変で絶え間ないものだけが本質と呼ぶことができる。本質は私たちが作ったものではなく、私たちの基盤だ。それは私たち自身なのだ。それは私たちが作るのではなく、内在的なまとまりだ。私たちはそれをダルマと呼ぶ。ダルマとは私たちの本質を意味し、純粋な存在を意味する。

瞑想で心の中を観ていると、状況によって、思考が内側にあると感じられたり、外側にあると感じられたり、内側でも外側でもなく、ただあると感じられたりします。内とか外というのも観念だということでしょうか。具体的にどのようなイメージなのか観察力が増せば、わかりますか?
今日の文章の最後の段落で、「それは私たちが作るのではなく、内在的なまとまり(intrinsic cohesion)だ。」とあるのですが、「まとまり(cohesion)」が、訳していて違和感を感じました。元の言葉にこだわらず、もし良い表現がありましたら、お教えください。また、もしそのままで大丈夫でしたら、少し解説をいただければと思います。

23鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/27(金) 21:58:11 ID:1d4drIFg0
機能とか力じゃな。
エネルギーでもよいのじゃ。
働きでも善いのじゃ。
ダルマとはそのようなイメージであるからのう。
それは本質であり、機能であり、力としても働き、エネルギーそのものでもあるのじゃ。
働きがある故にダルマと名づけられるが本来は空であり、無でもあるものじゃ。
そのように理解すると善いのじゃ。

24避難民のマジレスさん:2020/11/28(土) 21:15:35 ID:Dp/qMVVc0
このような不変で絶え間のない本質は、私たちの行動の方向性が散漫になることによって抑制されている。海が波に覆われ、太陽が雲に覆われているように、私たちは自分の行動によって覆われている。表面上の活動の層は、心の奥底にあるものを隠している。取るに足らない波が、私たちの視界から海の計り知れない深さを隠している。些細なことで壮大なものが抑圧され、目の中の一点が山を見えなくするのは、なんと奇妙なことだろう! しかし、海は波のために存在しなくなることはない。それは波の魂であり、波の中にも存在している。知っている人は波の中にでさえ海を認識しているが、知らない人は波が鎮まるまで待たなければならない。彼らは波が去った後にしか海を見ることができない。

私たちはこの海に、本質そのものに飛び込まなければならない。波のことを忘れて、海に飛び込まなければならない。波のない海、なることなく存在している自分自身、の深さを知らなければならない。

この波がなく、動かない意識の万象は常に存在しているが、私たちはそれに気付いていない。その存在から顔を背けている - 私たちは外を見て、物事を見て、世界を見ている。しかし、一つのことを心に留めておいて欲しい - 私たちは見ていて、見られているものは世界のものだ。しかし、見る者は世界ではなく、自己である。

もし視覚が見ている対象に関連しているならば、それは思考であり、もし視覚が見ている対象から解放されて、見ている者自身の方を向いているならば、それは瞑想である。あなたは思考と瞑想の間の私の区別に従うだろうか? 見ることは思考と瞑想の両方に存在するが、前者では客観的であり、後者では主観的だ。しかし、私たちが思考の中にいようが瞑想の中にいようが、行動の中にいようが無行動の中にいようが、見ることは一定の要素だ。起きているときは世界を見、眠っているときは夢を見、サマーディでは自分自身を見るが、これらの条件のそれぞれに「見ること」がある。見ることは一定で絶え間ないものだ。それが私たちの本質だ。それはどのような状態であっても、決して欠けることはない。

ダルマについて、ありがとうございました。実践でしか確かめようがないですが、無であり、全てであるという感じがしました。
文章に関して、今日は特に疑問は湧きませんでした。心を鎮めて、深くを観る実践を続けます。

25鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/28(土) 22:39:15 ID:1d4drIFg0
海の波がわきたつように人の心も欲とか不安とか恐れで波立っているのじゃ。
その波に囚われていると本質が見えないのじゃ。
波がどんなに荒くとも海の底は静かなものじゃ。
そのように真の静寂な本質の意識に眼を向けることが瞑想だというのじゃ。

26避難民のマジレスさん:2020/11/29(日) 20:22:04 ID:Dp/qMVVc0
たとえ気絶していても「見る」ということは存在する。気絶から覚めた後、「私は何もわからない。どこにいたのかわからない。」と言う。これは無知だと思わないでほしい。これも知識だ。もし、「見る」ということが全くなかったら、「何も知らない」という知識はありえないし、その場合、あなたにとって、気絶中に流れた時間は存在しなかっただろう。それはあなたの経験の一部ではなく、記憶には何の痕跡も残されていないだろう。しかし、あなたは何も意識していない状態にあったことを知っている。これもまた知識だ。そして、見ることもまたここに存在している。記憶はこの時間の間、内部的、外部的な現象を記録していないが、私たちの見ることは間違いなく、この隔たり、この間隔を経験している。そして、出来事の記録の隔たり、間隔の経験は、後で同様に記憶に残っている。同じように、夢がない場合でも、睡眠中には見ることは常に存在している。私たちは朝、目が覚めた時に、夢も見なかったほど熟睡していたと言えるだろう。この状態もまた、観察されているのだ。

これらすべてのことから、状況が変化し、意識の内容が変化しても、見ることは変化しないことをあなたは理解しなければならない。私たちの経験の領域のすべてが変化し、すべてのものは無常である。見ること、見ることだけが常に存在している。見る者だけが、このすべての変化の証人であり、このすべての流れの証人だ。この不変の永遠の見者を知ることが、自分自身を知ることなのだ。他のすべてはよそ者であり、他のものだ。他のすべては輪廻、世界だ。

この見ること、証人は、どのような行動によっても、どのような種類の礼拝や崇拝によっても、マントラやテクニックによっても、達成したり実現したりすることはできない。なぜならば、それはこれらすべてのものの目撃者だからだ。それはこれらすべてのものとは異なっていて、離れている。見られるもの、行うことができるものは何でも、見者とは別のものであり、それとは異なる。それは行動によってではなく無行動によって、努力ではなく静寂によって実現される。活動がないとき、見るべき対象がないとき、見る者や目撃者だけが残っているとき、見ることだけが残っているときにのみ実現される。が見ていても何も見られていない時、知っていても何も知られていない時、この中身のない意識では、すべてを知る者が知られる。見るべき対象がないときは、見る者の前のカーテンは落ち、知るべき対象がないときは、知識はそれ自体を認識するようになる。波がなければ海を見ることができ、雲がなければ青空を見ることができる。

この海、この空は誰の中にもあり、この空、この空間を知りたいと思えば知ることができる。そこに通じる道があり、それは誰の中にも存在し、誰もが利用できるようになっている。そして、それぞれがこの道の歩き方を知っている。しかし、私たちは一方向への歩き方しか知らない。道は一方向にしか通れないということはありえないということを考えたことがあるだろうか? それぞれの道は必然的に二つの方向、二つの反対方向に進む。そうでなければ、それは道ではない。あなたをこの丘の人里離れた場所に連れてきた道は、あなたを連れて帰る道と同じだ。来るための道と行くための道は一つしかない。同じ道は両方の目的を果たす。道は同じだが、方向は同じではない。

輪廻へと続く道、世界へと続く道は、自己へと続く道と同じだ。方向だけが違う。長い間あなたの前にあったものは、今あなたの後ろにあり、あなたは後ろにあったものに目を向けなければならないだろう。道は同じだ。私たちは単純に回れ右しなければならない。私たちは、これまで顔を向けていたものに背を向け、背中にあったものに向き合わなければならない。

どんな状況でも永遠の「見ること」は存在し、それを知ることが自分自身を知ることだとオショーは述べています。私の実践ですと、記憶が止まる瞬間までのことしか分からず、記憶が止まってからは空白があるのか無いのかすらも何も分からない状況です。
これは認識を厭離して、真の悟りを得ない限りは分からないものなのでしょうか。

27鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/29(日) 23:07:52 ID:1d4drIFg0
まだ悟りを得ていない者は大抵、記憶が意識であると誤認しているのじゃ。
記憶が無い状態は意識が無い状態だと思うのじゃ。
記憶したものが認識されたものとしているからなのじゃ。
実際は記憶が無くとも意識はあるものじゃ。
オショーも気絶していても見ることは存在するというのじゃ。
深いサマーディに入ってもそれは感得できるのじゃ。

28避難民のマジレスさん:2020/11/30(月) 20:52:43 ID:Dp/qMVVc0
今、あなたの顔がどこに向いているのか、自分に問いかけてみてほしい。あなたは何を見ているのだろうか? 視線、意識は、どの方向に向いて流れているのだろうか? 感じなさい。観察しなさい。あなたはそれが外に向かって流れていることに気づくだろう。あなたの思考はすべて、外の世界についてのものだ。あなたはいつも外の世界について、外のことを考えている。目が開いているときは外を見ているが、目を閉じているときも同じように外を見ている - なぜなら、目を閉じていても、心に刷り込まれた外のものの形やイメージが浮かび上がり、私たちを取り囲んでいるからだ。外には物の世界があり、私たちの内側には、外の物の反響である思考のもう一つの世界がある。このもう一つの世界は内側だが、また、外側でもある。なぜならば、自我である「私」もまた外側だからだ。見者もまた、自我である「私」を見ているので、自我もまた外側にある。

私たちは物と思考に囲まれている。しかし深く考えてみると、物に囲まれていることは自己実現の道を妨げるものではないが、思考に囲まれていることは障害であることがわかるだろう。物は魂を包み込むことができるのだろうか? 物は物を取り囲むことしかできない。魂は思考に囲まれている。視覚の流れ、意識の流れは思考に向かって流れている。思考、思考だけがどこでも私たちの目の前にあり、私たちの視界はそれによって遮られている。

思考から無思考へと顔を向けなければならない。しかし、この方向転換は革命的だ! どうすればよいのか? まず、思考がどのようにして生まれてくるのかを知り、それによって初めて思考の発生を止めることができる。一般的に、いわゆる求道者は、思考がどのようにして生まれてくるかを理解する前に、思考を抑制し始める。ある者は狂ったように努力するかもしれないが、誰一人として思考から自由になることはない。思考を抑圧しても、新しい思考が刻々と現れるので、思考の抑圧は助けにはならない。彼らは神話の巨人のようなもので、一つの頭が切り落とされると、さらに十個の頭が生えてくるのだ。

私はあなたに思考を破壊してくれとは頼まない。思考は瞬く間に勝手に死んでしまうからだ。思考は非常に短命で、どんな思考も長くは続かない。特定の思考は長続きしないが、思考過程は長続きする。思考は次々と死んでいくが、思考の流れは持続する。一つの思考が死ぬとすぐに別の思考が代わりに現れる。この過程は非常に早く行われ、これが問題なのだ。本当の問題は、思考の死ではなく、その素早い再生だ。それゆえに、私はあなたに思考を殺せとは頼まない。思考の誕生の過程を理解し、どうすればこの過程から自分自身を取り除くことができるのかを理解して欲しいのだ。思考が生まれる過程を理解している者は、簡単に思考から解放される。しかし、その過程を理解していない者は、新たな思考を生み出し、同時にそれに抵抗しようとする。その結果、思考が終わるどころか、思考と闘う者自身が壊れてしまうのだ。

意識の流れの観察についてお教えください。私の場合、「意識の流れ」自体を観察することはできませんでした。ただ、例えば思考を観察するときに、なんとなく観察すると、それが内側にあるように感じられ、心を鎮めて観察すると、それが外側にあったり、内も外もなく、ただ思考があるように感じられます。このように、内側、外側、ただ存在する、というのは分かるのですが、「意識が流れている」のは感じられません。
このような状況で観察はできているのでしょうか。

29鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/30(月) 21:38:21 ID:1d4drIFg0
意識の流れを観察しようとしなくてよいのじゃ。
心の働きをありのままに観ることが大事なのじゃ。
それだけが法なのじゃ。
それができれば悟ったものが何を語っていたのかわかるのじゃ。

30避難民のマジレスさん:2020/12/01(火) 20:49:15 ID:Dp/qMVVc0
もう一度繰り返す。思考は問題ではなく、思考の誕生が問題なのだ。思考がどのように生まれてくるかが問題なのだ。もし私たちが思考の誕生を止めることができれば、もし思考の誕生をコントロールすることができれば、すでに誕生した思考は一瞬で消える。思考は刻一刻と消えていくが、新しい思考が絶え間なく湧いてくるので、思考の全滅は起こらない。

私が言うのは、思考を破壊するのではなく、思考が生まれるのを止めなければならないということだ。思考の誕生を止めることは、思考の破壊と同じくらい良いことだ。私たちは皆、心は気まぐれだと知っている。しかし、これは何を意味するのだろうか? それは、どんな思考も長くは続かないことを意味する。思考は生まれては消えていくのだ。もし私たちがその誕生を止めることさえできれば、私たちはそれを殺すことに伴う暴力から救われ、それは自発的に死んでいくのだ。

思考はどのようにして生まれるのか?思考の受胎と誕生は、外の世界に対する私たちの反応の結果だ。外には出来事や物の世界があり、この世界に対する私たちの反応が思考の誕生を単独で担っている。私は花を見る。見ることは考えることではなく、ただ見ているだけでは何の思考も生まれない。しかし、見た時に「とてもきれいな花だ」と言えば、思考が生まれる。一方で、もし花を見続けていれば、その美しさを体験し、楽しむことはできるが、思考は生まれない。しかし、私たちは経験をするとすぐにそれを言葉で表現し始める。この経験を言葉という記号で表現することで、思考が生まれてくるのだ。

この反応、経験を言葉で表現する習慣は、経験、実現、視覚を、思考で窒息させる。経験は抑圧され、視覚は抑圧され、心の中には言葉だけが浮かんでいる。これらの言葉はまさに私たちの思考だ。これらの思考は非常に短命なので、一つの思考が死ぬ前に、私たちは別の経験を思考に変換する。この過程は、私たちの生涯を通じて続く。そして、私たちは言葉で満たされ、言葉に圧倒されて、言葉の中で自分自身を見失ってしまうのだ。自分の視覚や経験を言葉で包む習慣を手放すことは、思考の誕生をコントロールすることなのだ。そのことをどうか理解してほしい。

覚者が述べているのは、ただ心の働きをありのままに観ることだけで、それができない衆生のために、様々な技を教え、勇気づけているのですね。
再び自分の中で言葉の意味を分析して正確に理解しようとする習慣が現れたのに気づきました。
また、オショーが言葉で包む習慣を手放すように説いているのに、私自身が自分の経験を言葉で分析しようとしていました。
意味を頭ではなく、心で確かめながら読むことの難しさを実感しています。
日々、心の働きをありのままに観る実践に励みます。

31鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/01(火) 21:29:29 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに己の心を観ることが大事なのじゃ。
どのような教えも言葉にして記憶されると、囚われてしまうこともあるのじゃ。
言葉に囚われないようにと、教えられればその言葉に囚われてしまうことすらあるのじゃ。
ただひたすらに真摯に己の心の働きを観るのじゃ。

32避難民のマジレスさん:2020/12/02(水) 20:45:19 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたを見ているが、もし言葉で表現せずにこのまま見続けていたら、何が起こるだろうか? 今のあなたには何が起こるか想像もつかないだろう。 今までに見たこともないような大革命が起こるだろう。言葉が邪魔をして、その革命を止めてしまう。思考の誕生が革命の妨げになる。もし私があなたを見続け、それを言葉で表現せず、ただ見続けるならば、私はその過程で、素晴らしく神聖な恵みが私の上に降りてきて、空虚さの質、空の質が周囲に広がっていることに気づくだろう。そして、この空の中で、言葉がない中で、意識の方向が新たに変わり、あなたを見ないだけではなく、私たちを見守っている者が徐々に現れてくる。まるで夢から覚めたかのように、意識の地平線上に新たな覚醒があり、私たちの心は純粋な光と無限の平安に満たされる。

最終的には、このサーダナキャンプでは、ある一つの実験をしなければならないと言いたい。それは、私たちの視覚が言葉によって窒息しないようにすることだ。私はこれを正しいマインドフルネスの実験と呼ぶ。言葉が形成されないように注意しなければならない。言葉の展開を止めることはできる、なぜならば結局のところそれは、私たちの習慣にすぎないからだ。生まれたばかりの子供は、言葉の仲介なしで世界を見る。これは純粋な、直接の視覚だ。後にその子は徐々に言葉を使う習慣を形成する。なぜならば、言葉は外の生活や外の世界で役に立つからだ。しかし、外面の生で役立つものは、内面の生を知る上で障害となる。このような理由から、年長者であっても、自分自身を知るためには、子供の純粋な視覚の能力を自分の中に呼び覚まさなければならない。彼らは言葉の助けを借りて世界を知ったが、今は空虚、空の助けを借りて自分自身を知るようにならなければならない。

この実験では何をするのだろうか? 私たちは、体をリラックスして背骨を立てたまま、静かに座る。体のすべての動きが停止していく。ゆっくりと深く、あらゆる動揺なく呼吸する。静かに自分の呼吸を観察し、外から耳に落ちる音に耳を傾けてゆく。どんなことがあっても反応せず、1秒の思考すらも与えない。言葉の干渉を受けずに、ただの見者となるような心の状態に入ってゆく。離れたところに立って、何が起きているかを観察する。全く集中しようとしないでもらいたい。単に静かにして、何が起こっているかを観なさい。聴きなさい。ただ目を閉じて聴きなさい。静寂の中で静かに耳を傾ける。スズメのさえずりに耳を傾け、風に揺れる木々に耳を傾け、子供の鳴き声に耳を傾け、井戸の水車の音に耳を傾ける。ただ聴く。そして何もしない。

まず、自分自身の中で、あなたは呼吸の動きと心臓の鼓動を経験するだろう - その後、新しい種類の静けさと平和が降りてくる。外には雑音があるが、内には静けさがあることに気づくだろう。あなたは、平和の新しい次元に入ったことに気づく。それから、思考がなく、純粋な意識だけが残っていることに気づくだろう。そして、この虚空の中で、注意はあなたの本当の住まいである場所に向けられる。外から見ると、あなたは自分の家の方を向いている。

一点に集中することを修練していくと、私の場合、そのうちに、努力しなくとも全体として集中するようになりましたが、人体というのは、そのようなものなのでしょうか?

33鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/02(水) 21:18:29 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
 日々集中していけば自分が全て集中の対象と一体化したように感じるのじゃ。
 それがサマーディの入り口なのじゃ。
 外の刺激には反応しなくなるのじゃ。
 それが静寂なのじゃ。

34避難民のマジレスさん:2020/12/03(木) 20:56:39 ID:Dp/qMVVc0
あなたの視覚が内向きに導いている。ただ観続けなさい。思考、呼吸、おへその動きを観なさい。反応しないこと。その結果、心の創造物ではない、あなたの創造物では全くないものが現れる。これは実際にはあなたであるものであり、存在だ。これは、私たちすべてを支えている働きだ。それは私たちに自分自身を明らかにし、そして、そのとき、自分自身、つまり、すべての中で最大の驚きが現れるのだ。

ある物語を思い出した。 ある時、サドゥー、求道者が丘の上に立っていた。朝は早く、太陽は輝き始めていた。何人かの友人同士が散歩に出かけていた。彼らは、たった一人で立っているサドゥーを見た。そして、お互いに尋ね合った。「このサドゥーはここで何をしているのだろう?」 そのうちの一人は、「たぶん牛がジャングルでよく迷子になるので、丘の上に立って探しているんだろう。」と言った。他の友人は同意しなかった。もう一人は、「立っている様子からすると、何かを探しているようには見えない。むしろ誰かを待っているように見える、たぶん同行した友人がどこかに取り残されてしまったのかもしれない。」しかし、他の人たちはこれにも同意しなかった。三人目は、「誰かを探しているわけでも、誰かを待っているわけでもない。神の観想に没頭しているんだ。」と言った。

皆が同意できなかったので、状況を明らかにするためにサドゥー自身に近づいた。最初の人は、「失われた牛を探しているのですか?」と尋ねた。サドゥーは、「違います。」と答えた。次の人は「それでは、誰かを待っているのですか?」と聞き、サドゥーは「いいえ。」と答えた。三人目は「神を観想しているのですか?」と聞くと、サドゥーはまたしても否定的な答えをした。三人とも驚いた。全員で「では、ここで何をしているのですか?」と聞くと、サドゥーは言った。「私は何もしていません。ただ立っているだけです。ただ存在しているだけです。」

私たちは、このように単純に存在しなければならない。何もしないでいなければならない。すべてを捨てて、ただ存在しなければならない。そうすると、言葉にできない何かが起こる。起こるであろう経験は、言葉では表現できない。それは経験の体現だ。それは真実の実現であり、自己の実現であり、神の実現なのだ。

第2章はここまでです。悟りを得るのに最大の障害は自我だと思うのですが、自我に対する執着が弱まると、例えばどのようなことが起こるでしょうか?
私の場合ですと、以前に比べてこだわりが無くなり、感情の働きが薄くなり、何もなくとも楽な感じが増えたように思います。また、様々なことに対して、意味を感じられにくくなっているようにも思います。

35鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/03(木) 21:47:01 ID:1d4drIFg0
自我に対する囚われがすくなくなれば、怒りは少なくなるじゃろう。
欲も少なくなるじゃろう。
何もしないこともできるじゃろう。
ただ存在していることもできるじゃろう。

36避難民のマジレスさん:2020/12/04(金) 20:20:36 ID:Dp/qMVVc0
第3章 初日の夜 1964年6月4日午後
質問1
最初の質問:宗教と科学の間に矛盾はありますか?
ない。 科学の知識は不完全だ。 それは、世界中に光がある一方で、あなた自身の家に暗闇があるようなものだ。そのような不完全な知識では、自己の知識なしでは、生は単に不幸になる。生が平和、満足、充足感を得て輝くには、物質的なものを知るだけでは十分ではない。そのような道では、人は繁栄を得るかもしれないが、満たされはしない。そのような道では、所有物を得るかもしれないが、光は持てない。そして、光がなければ、知識がなければ、所有物は束縛となり、自分で作った縄で自分の首を吊ることになる。

世界だけを知る者は不完全であり、不完全さは不幸につながる。世界を知ることによって、人は力を得る。そして、科学は知識と力の探求だ。科学はすでに人類の手に無限の力への秘密の鍵を握らせているのではないだろうか? しかし、そのような力を得ても何の価値も生まれてこない。間違いなく人間は力を持っているが、平和は持っていない。平和は、物質的なものではなく、神を知ることによって得られる。この神を探すことが宗教だ。

平和のない力は自滅的なものだ。自己を知らずに物質的なものを知ることは、無知な者の手に力があることを意味する。そこからは良いことは何も生まれてこない。科学と宗教の間に蔓延している対立は、これまでのところ悲惨な結果をもたらしている。科学の領域だけを研究してきた者は、力を持つようになったが、彼らは落ち着きがなく、不幸だ。そして、宗教だけを研究してきた者は、間違いなく平和を手に入れたが、彼らは弱くて貧しい。このようにサーダナ、これまで行われてきた探求は不完全で、部分的なものだ。これまでのところ、真理のための不足なく完全なサーダナはなかった。

私は、その完璧さの中にある力と平和を見たい。私は、宗教と科学の統合、調和が欲しい。そうすることで、完璧な個人、完璧な文化、内なる価値と外なる成果に富む人々が生まれるのだ。個人は肉体でも魂でもなく、この二つの組み合わせだ。したがって、これらのうちのどれか一つだけに基づいたものは不完全なものだ。

これは、科学を信じる人への対機説法ということでしょうか?

37鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/04(金) 21:40:29 ID:1d4drIFg0
↑そうではないのじゃ。
科学が本当に観察とその結果だけを尊重したならば、悟りに導く真の宗教と全く合致したものとなるのじゃ。
神とか幻想を信じる宗教とは矛盾するがのう。
科学が正しく発展されたならば、悟りの境地も証明され、悟りへの道もあかされるのじゃ。
間違えば破滅への道となるのじゃ。

38避難民のマジレスさん:2020/12/05(土) 21:17:35 ID:Dp/qMVVc0
質問2
第2の質問:世界における生の放棄について、あなたの考えはどうですか?サニヤスは、求道者になることは、世界を放棄しければできないのでしょうか?

世界とサニヤスの間には競合はない。放棄しなければならないのは世界ではなく、無知だ。世界を放棄することはサニヤスではない。知識、自己認識の知識の覚醒が、サニヤスだ。この覚醒は、世界ではなく、世界への執着の放棄につながる。世界はあるがままの場所に留まるが、私たちは変容していく。私たちの視座が変容する。この変容は非常に基本的なものだ。この覚醒した状態では、何も手放す必要はない。無用なものや余計なものは、木から熟した果実のように自動的に落ちていく。 闇が光の到来で消えるように、知識の夜明けには不純物が去り、その後に残るのがサニヤスだ。

サニヤスは世界とは何の関係もない。それは自己と関係がある。それは自己の浄化だ。それはまさに合金化した金の浄化のようなものだ。

自己無知の立場から生を見ることは、輪廻、世俗であり、自己認識の立場から生を見ることは、サニヤスだ。それゆえに、誰かが私にサニヤスを「取った」と言う時はいつでも、私には偽りのように思える。サニヤスを「取った」というのは、世界と敵対する行為のような印象を与える。サニヤスは取ることのできるものなのだろうか? 知識を「取った」と言えるのだろうか? そして、そのように取られた知識は、本物の価値があるのだろうか? 取られたサニヤスは本当のサニヤスではない。真実の仮面を被ることはできない。真実は目覚めなければならない。

サニヤスは生まれる。それは知識によってもたらされる。そして、その知識の中で私たちは変容していく。知識が変容すると、私たちの視座が変わり、行動は自動的に変容する。世界はその場に留まり、徐々に私たちの中にサニヤスが生まれてくるのだ。サニヤスとは、「私は肉体ではない」という知識であり、「私は魂である」という知識だ。この知識が芽生えると、無知や執着が離れていく。世界は外にあったし、これからもそこにあり続けるだろう。しかし、内側にはそれに対する執着がなくなる。言い換えれば、内側には世界も輪廻もないということだ。

外の世界に執着しようとするのは無知であり、それを放棄しようとするのも無知だ。世界に執着することも、世界への嫌悪感も、どちらも無知だ。どちらも世界との関係なのだ。この関係がないことが自由、執着と嫌悪からの自由だ。忌避や嫌悪だけではない。この愛着と嫌悪の不在を私はサニヤスと呼ぶ。

科学に関して、ありがとうございました。質問に自我が出ていました。科学者も慈悲を持ち、自分の心を外の世界と同様に観察するということでしょうか。
今日の文で、オショーは知識について述べています。この知識は一般的な、記憶できて伝達できる知識とは別のものだと思うのですが、鬼和尚の言う観察によって得られる「気づき」と同じようなものと捉えて良いのでしょうか?

39鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/05(土) 21:53:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、科学の観察は自分を見る観察と同じなのじゃ。
観察を自分の心の中に向ければ悟りもやってくるのじゃ。

気づきと言えるのじゃ。
ただの記憶では人は変らないのじゃ。
自分の性質に気付くことで変容していくのじゃ。
実践で確かめるのじゃ。

40避難民のマジレスさん:2020/12/06(日) 20:50:09 ID:Dp/qMVVc0
愛着と嫌悪の両方からの自由は、知によって達成される。執着は一種の無知であり、執着にうんざりした時の反応は嫌悪だ。この反応もまた無知だ。最初のケースでは、人は世界に向かって走り、2番目のケースでは世界から逃げる。どちらの場合も人は走る。しかし、私たちの内に秘められている人の喜びが、世界を追いかけたり、世界から逃げたりすることによってではなく、自分自身にしっかりと留まることによって達成されることを、皆はほとんど知らない。世界に向かって走ってはならないし、世界から逃げてもならない。私たちは、本当の自分自身に、入っていかなければならないのだ。

覚えておきなさい。私たちは自分自身の中に入っていかなければならない。この自己の中に入ることは、愛着や嫌悪によっては不可能だ。愛着と嫌悪の間に内在する対立の見者になることによってのみ可能なのだ。私たちの中には、愛着と嫌悪の両方を観るものがいる。私たちはそれを知らなければならない。知ることで、私たちは自動的に愛着と嫌悪の両方からの自由を得ることができる。知ることは、自己認識の自然な結果なのだ。

質問3
第三の質問:家庭や家族の放棄は無意味だと思いますか?
マハヴィーラの格言を覚えている。彼は言った、「愛着とは所持である」と。 彼は「所持とは愛着である」とは言わなかった。 なぜか? 無知のため、愚かさのために、私たちは世俗的なものに執着している。内面が空っぽなので、自分を大切な存在だと錯覚させるために、外のもので自分を満たしたいのだ。このような状況下で執着を放棄し、無知が残っている場合、本当に執着を取り除くことができるだろうか? 人は物事からは解放されるだろうが、執着心からは解放されない。執着はまだそこにあるだろう。

もし僧院のために自分の家を離れた場合、僧院への執着が自分の家への執着の代わりになるだろう。宗派に入るために家族のもとを離れた場合、家族と同じように宗派に執着することになる。愛着は内面にあり、それはどんな新しい状況下でも表現される。したがって、知る人たちは、物質的なものではなく、欲望と無知の放棄を勧めている。一旦知が明けると、役に立たないものは放棄する必要さえなく、自動的に離れ落ちるのだ。

他者から伝えられるのではなく、自分で気づくことに近づけるため、訳語の「知識」を「知」に変えました。
好きな物事を放棄するのではなく、その物事に対する執着を放棄するというのは納得です。私の場合も物事そのものを放棄するよりも、物事への執着を放棄することを決めて、その物事を楽しんでいる時に自分自身を観察することで、そのいくつかを厭離することができています。

41鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/06(日) 21:59:14 ID:1d4drIFg0
執着が心に残っているならば家族を捨てても無駄なのじゃ。
執着が無いならばあえて捨てることも無いのじゃ。
ありのままにそれを観ることができたならば自動的に滅するのじゃ。
何か変ったことをしようとするのではなく、ただひたすらにありのままに心を観ればよいのじゃ。

42避難民のマジレスさん:2020/12/07(月) 21:12:14 ID:Dp/qMVVc0
質問4
第四の質問:無思考になるために私たちは心を集中させるべきでしょうか?
私はあなたに集中しなさいとは言わない。集中は一種の強制であり、一種の緊張だ。何かのアイデア、何かの形やイメージ、または何かの言葉に集中した場合、それは無思考にも意識の覚醒にもつながらず、無意識の精神的な昏睡状態になる。それは自己催眠のようなものだ。強制的な集中は無意識につながる。そして、この無意識をサマーディと勘違いするのは間違いだ。サマーディは無意識の状態でも昏睡状態でもない、サマーディは完全な意識の実現だ。サマーディとは、無思考と完全な意識の組み合わせなのだ。

質問5
第五の質問:どのように瞑想で吸うことと吐くことのプロセスを見るのですか?
背骨を直立させなさい。曲がらないように。背骨が直立している状態では、体は自然なバランスを保っている。その姿勢では地球の引力が身体に均一に作用し、その引力から解放されやすくなる。重力の力が最小になると、身体は、人が空になること、思考がなくなることを妨げない。体の緊張や硬直なしで、背骨の直立した状態を保ちなさい。あたかも布をフックに引っかけるかのように、身体を背骨に引っかけるように、体をリラックスさせなさい。

体を完全にリラックスさせてから、ゆっくりと深く呼吸しなさい。吸うことと吐くことで、臍の中心は上下に動く。この動きを見続けなさい。それに集中する必要はない、ただそれを見る。それの見者でいなさい。集中を勧めているのではないことを覚えておきなさい。私は単純な油断のなさと気づいていることをアドバイスしている。子供たちがするように呼吸する - 彼らの胸は動かない、彼らのお腹が動く。これは、吸うことと吐くことの自然なプロセスだ。この自然な呼吸の結果として、安らぎはより深く、より深くなって、私たちの上に降りてくる。

心の乱れと緊張状態のために、私たちは徐々に深く、完全に呼吸する能力を失っている。思春期になる頃には、表面的で人工的な呼吸が習慣化する。あなたは間違いなく気づく。心が乱れれば乱れるほど、自然でリズミカルな呼吸ができなくなることに。リズミカルに、楽に、自然な方法で呼吸しなさい。自然な呼吸の調和は、精神的な落ち着きのなさを一掃する助けになる。

これは一箇所を見続けるということで、止の瞑想と言って良いのでしょうか。初心の頃は集中しないと一箇所を見続けるのが難しかった記憶があります。私の場合は、慣れるまでは努力して集中して一箇所に意識をとどめ、そのうちに勝手に集中するようになってきたら、集中の意志を減らしてゆくという方法が合っていました。
いつも数息観では鼻先の息の出入りを見守っていたのですが、今日は試しに、自分の名前を呼ばれた時に感覚が生じる臍の下あたりを見続けてみます。

43避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 20:17:56 ID:Dp/qMVVc0
第6問
第六の質問:なぜあなたは呼吸プロセスを観察するように私たちに助言するのですか?
私がそうするのは、呼吸は、吸ったり吐いたりすることで、肉体と魂の間の橋渡しをしているからだ。魂は呼吸を通して、そして呼吸のために体の中に存在している。自分の呼吸に気づくことで、呼吸を直接知ることで、人は次第に自分が肉体ではないことを経験する。

私は肉体だが、肉体であるだけではない。それは住まいではあるが、土台ではない。呼吸の直接の認識が深まるにつれて、人は、体ではない何かの存在の間近さを経験する。一瞬の間、人は自己が身体ではないことをはっきりと見る。そうすると、あなたは3つの層、あなたの人格の3つの鞘を見ることができる - 身体、呼吸、魂。身体は殻であり、呼吸は橋であり、接続リンクであり、魂である自己は基礎である。

呼吸が中心点であるため、自己実現への道における呼吸の役割は最も重要なものだ。一方には肉体があり、もう一方には魂がある。私たちはすでに物理的なレベルで存在しているが、私たちが憧れるのは、魂の領域に入ることだ。しかし、それができるようになる前に、プラーナ、呼吸の、自然な調和に至ることが不可欠だ。そうしなければ、魂の王国に入ることはできない。

呼吸のレベルで見ていると、人は両方の道を見ることができる。ここから、肉体と魂への道が明らかになる。道は一つで同じであるが、二つの方向ははっきりとしている。その結果、魂の領域に向かって、内側に向かって一歩を踏み出すことが可能になる。私が呼吸を強調する理由が分かってもらえただろうか。

ここでの「魂」とは何を指すのでしょうか?

44鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/08(火) 21:32:33 ID:1d4drIFg0
アートマンとかじゃな。
認識できない認識主体なのじゃ。
自己の基盤となるものじゃ。
それが存在するのではないが、意識がそれに向かって行くことで悟りも得られるのじゃ。

45避難民のマジレスさん:2020/12/09(水) 20:50:30 ID:Dp/qMVVc0
質問7
第七の質問:なぜ、ディヤーナ、瞑想は行為ではないと言うのですか? それは同様に行為ではありませんか?
どうか、ここを見て欲しい。 私の拳は閉じている。拳を閉じるには、積極的に行動しなければならない。拳を閉じることは行為だ。しかし、それを開きたいと思ったとき、私は何をしなければならないのだろうか? 開くために何もする必要はない。拳を閉じる努力を捨てれば、自動的に拳は開き、手は自然で正常な状態に戻る。したがって、私は拳を開くことを行為とは呼ばない。それは無行為であり、お望みであれば、それを負の行為と呼んでもよい。しかし、それは何の違いもない。私は言葉では議論しない。私の言っていることを理解して欲しい。その本当の意味を理解して欲しい。

瞑想を「無行為」と呼ぶことで、瞑想を仕事や活動として捉えてはいけないということを示したい。瞑想はそのような業務から解放されている。それは自然な状態であり、それをいかなる種類の精神的緊張に変えることはできない。もし瞑想が精神的な緊張状態になってしまったら、あなたを自然な状態にも精神的な平穏にも導くことはできない。緊張は一種の落ち着きのなさであり、もし平安を得たいと思うならば、まず静かになることから始めるべきだ。もし最初の段階で平穏も静けさもないのであれば、最後の段階では確かに何もないだろう。最後の段階は、最初の段階の集大成に過ぎないのだ。

私は人々が寺院に行くのを見て、神々を崇拝するのを見る。また、瞑想の中で座っているのも見る。しかし、彼らにとっては、それはすべて活動であり、緊張した落ち着きのなさのようなものであり、このような活動のすべてが平穏の花と実を結ぶことを期待するのは、全くの愚かなことだ。もしあなたが平安を望むのであれば、平穏になりたいのであれば、今この瞬間から平穏の中でスタートすることが不可欠だ。

皆に言いたい。真実を探してはならない。真実を探すことにはエゴがあり、障害となるのはエゴなのだ。ただ自分自身を失いなさい。あなたのアイデンティティを失いなさい。単に自分自身であることを止めなさい。エゴである「私」がいなくなって初めて、本当の自分が見えてくるのだ。自我、「私」の感覚が消えてこそ、本物が見えてくるのだ。自分を失うことによってのみ、人は自分自身に到達する。種から新しい生命が芽を出すのと同じように、不老不死は、種である魂の鞘である「私」がバラバラになり消えた時にのみ芽を出すのだ。どうかこの原理を覚えておいて欲しい:自己を達成するためには、自分が存在することを止めなければならない。不老不死は、死の犠牲を払うことで得られる。雨粒は海の中でそれ自身を失うときに海になるのだ。

坐る時には、姿勢を保つためにどうしても腰に緊張が生じるのですが、これは問題ないのでしょうか?

46鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/09(水) 21:43:44 ID:1d4drIFg0
腰と腹に力が入り、緊張するのはよいのじゃ。
問題はないのじゃ。
上体からは力を抜かないといかんのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

真のディヤーナは行為ではなく、行為しないことだというのじゃ。
手から力を抜けばこぶしが開くように、行為しないことで心が解放されるのじゃ。
自己をも手放すことで、永遠に達するのじゃ。
自分を失うことで真の意識に回帰するのじゃ。

47避難民のマジレスさん:2020/12/10(木) 20:56:51 ID:Dp/qMVVc0
あなたは魂だが、もしあなたが自分自身の中でそれを探せば、あなたは欲望以外のものを見つけることはできない。私たちの人生のすべては欲望だ。何かになりたい、何かを達成したいという欲望。誰もが何かになりたい、何かを達成したいと思っている。その競争は、私たちの人生のあらゆる瞬間に続いている。誰も今いる場所に留まりたいとは思わない。誰もが、自分がいないところにいたいと思っている。欲望とは、自分や持っているものに対する漠然とした不満であり、自分でないものや持っていないものに対する盲目的な憧れだ。なぜなら、何かを手に入れるとすぐにそれが無意味になり、欲望はまだ持っていないものを囲い始めてしまうからだ。欲望は常に未達成のもののためにある。

欲望は地平線のようなものだ。あなたが地平線に近づこうとすればするほど、地平線は遠ざかっていく。これは、地平線が単に存在しないからだ。それはただの外観、錯覚だ。それは現実ではない。もしそれが現実であれば、それはあなたが近づくにつれてあなたに近づいてくるだろうが、もしそれが非現実であれば、あなたが近づくと消えてしまうだろう。もしそれが現実でも非現実でもないならば、現れたもの、夢、幻影、想像の産物であるならば、それは、あなたがどんなに懸命に近づこうとしても、以前と同じように遠くに残るだろう。

真実でないものは、真実の反対だ。幻想の世界、マーヤーは、真実の反対ではなく、そのベール、覆いだ。欲望は、魂の反対ではなく、アートマンの反対ではなく、そのベール、覆いなのだ。それは霧であり、私たちの存在を隠す煙だ。私たちは自分ではないものを追い求め、その結果、自分が何者であるかを見ることができない。欲望は魂の上に落ちたカーテンであり、そのために私たちは自分の魂を知ることができない。私たちは常に他の何かになりたいと思っているので、私たちは自分自身の存在を実現することができない。

この競争、何か他のものになりたいというこの欲望が一瞬でも止まれば、存在するものは、目に見えるようになる - 雲のない空が一瞬だけでも、太陽が目に見えるようになるのと同じように。この競争の不在を私はディヤーナ、瞑想と呼ぶ。そして、実際に何があるのかを知った瞬間に体験する驚きの感覚は、なんというものだろう! それにより、人がこれまで望んでいたすべてのことが達成される。魂の視座は欲望の完全な充足だ。なぜならば、そこには何も欠けていないからだ。

悟りへの欲望によって修行を進めても良いが、最後にはその欲望も捨てるという解釈で良いのでしょうか? 私の場合、悟りへの欲望は常に一定ではないのですが、その欲を厭離しなくとも、欲が現れていない時に偶然に自我の成り立ちが全部観られて、無我になることもありますか?

48鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/10(木) 21:37:45 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、最後に捨てるがよいのじゃ。

そのようなこともあるじゃろう。


人生の全ては欲望だというのじゃ。
何かになりたいとか達成したいという欲ばかりなのじゃ。
欲が捨てられれば自分も見えるのじゃ。
そして全ての欲がかなっていることを知るのじゃ。
欲も本当は孤独や不安や恐れからの逃避であるからのう。

49避難民のマジレスさん:2020/12/11(金) 20:42:22 ID:Dp/qMVVc0
思考は無知のしるしだ。知の中には思考はなく、直接の知覚がある。思考の道では、知にたどり着くことはできない。思考から解放された意識は、知への扉だ。知は達成ではなく、発見なのだ。私たちはそれを達成する必要はなく、発見する必要がある。それは私たちの中に常に存在している。私たちは井戸を掘るように、掘り出さなければならない。新鮮な水の泉は、大地の下、岩や石の下に深く埋まっている。それらが取り除かれると泉はすぐに湧き出てくる。

私は、知の泉の床に岩と思考の石の山が横たわっているのを見る。これらが取り除かれるとすぐに、私たちは意識の切れ目のない流れを持つことになる。自分の中に井戸を掘りなさい。瞑想の鋤で思考の層を取り除きなさい。そして、正しいマインドフルネスと絶え間ない気づきによって、思考は出涸らしになる。存在からそれを一掃しなさい。あなたが知っていることは知になるだろう。思考がないところでは、意識が思考の煙に隠れていないところでは、あなたは知を見つけるだろう。

私は孤独になれと言わない。自分の中に孤独を作って欲しいと言うのだ。場所を変えただけでは何の役にも立たない。環境ではなく、私たちの精神的な態度が最も重要なのだ。人は孤独の中に入るかもしれないが、もし自分の中に孤独がなければ、孤独な隠れ家の中で群衆に囲まれることになるだろう。

友よ、群衆は外にいるのではなく、あなたの中にいる。内なる群衆に囲まれているのなら、外の群衆から逃げることが何の助けになるだろうか。今あなたと一緒にいる群衆は、あなたと一緒に孤独の中に入っていくのだ。群衆から逃げても無駄だ。内なる欲望の群衆こそが取り除かれなければならない。それゆえに、どこか他の場所に孤独を求めてはならない。ただ内なる孤独であれ。隠遁するのではなく、内に無欲を作りなさい。あなたがこれを実現する瞬間、平穏、至福、恍惚感が染み渡るだろう。そして、この瞬間、人ごみがあったこともなく、外の世界があったこともないことに気づくだろう。すべてはあなたの中にあったのだ! 創造者と被造物は、互いに切り離されたものではない。それらは、本当は一つであり、同じものなのだ。それはウパニシャッドの神秘家が叫んだような至福の瞬間であったに違いない。「Aham brahmasmi - 私は彼であり、創造者であり、神である。」

今日は特に質問はありません。オショーの文を読んでいると、勇気が湧き、瞑想に誘われます。

50鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/11(金) 22:50:54 ID:1d4drIFg0
オショーの言う知とは知識ではないのじゃ。
知識は記憶によるものであるから思考もできるのじゃ。
真の知とは直接の知覚によるものというのじゃ。
思考や記憶に拠っては辿りつけない意識に至れるのじゃ。

51避難民のマジレスさん:2020/12/12(土) 20:52:40 ID:Dp/qMVVc0
時代の埃が私たちの心の上に積もっている。古い習慣、古い伝統や迷信は、廃墟やさびれた家がクモの巣でいっぱいで、暗闇の鳥が住んでいるのと同じように、私たちを包んでいる。それと同じように、私たちは他人から借りた思考でいっぱいになっている。そして、真実と神についてのこれらの借りられた思考は、大きな障害となる。それらは真実を知ることから私たちを妨げている。そしてそれゆえに、自己の探求、眠っている意識を目覚めさせることができる探求は、決して私たちの中で始まることはない。

人が自分自身で真実を知ることができるようになる前に、他人から借りた知識を自分自身から取り除く必要がある。それは知ではなく、単なる情報だ。帽子の埃を払うように、他の人や古い伝統から得たすべての情報をブラシで払いのけなさい。そうすれば、あなたははっきりとした視界を持つようになり、真実と自分自身の間にあるカーテンはもうそこにはないだろう。思考の群れが壁のようにそれらの間に立っている。

真実について知ることと、真実そのものを知ることの間には、世界の違いがある。真実について知ることは、死んだ、借りた知識への隷属であり、真実そのものを知ることは、自己実現の空(そら)の自由な広がりなのだ。一方はあなたの飛ぶ能力を奪い、他方はあなたを神へ連れて行くことができる翼を与える。

私があなたに空虚について、空(くう)について話しているのは、このような理由からだ。空は思考の重荷を取り除く。人が山に登る前に自分の重荷を平地に置かなければならないのと同じように、人は真理への遠征に出発する前に、思考の重荷から解放されなければならない。登山家は軽くなればなるほど、高く登ることができるようになる。同じように、真理の山に登ろうとする者は、その重荷の無さ、空に比例して高みを目指す。頂点を目指す者、至高の存在を目指す者は、存在が無になる究極の虚無に到達しなければならない。完璧さの頂点は虚無の深淵で起こり、存在の音楽は無存在の沈黙から出てくる - そして、涅槃そのものがブラフマン、創造者、神の実現であることを知る。

できるだけの時間、自分の心を観ようとするのですが、つい忘れてしまうことがあります。あと、観察に疲れたり飽きたりするというのは、観察ができていないという証拠なのでしょうか?

52鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/12(土) 23:44:43 ID:1d4drIFg0
↑それで善いのじゃ。
人は忘れたり、疲れたり、飽きたりすることもあるものじゃ。
その時は誤魔化したりせずに忘れた、疲れた、飽きたと観察するのじゃ。
ただひたすらにありのままに観るのじゃ。

思考の慣習が続く限り、自分を観ることは難しいというのじゃ。
記憶からの投射である思考は今ここにあるものごとから目を逸らさせてしまうからなのじや。
思考を止めるために空を説くのじゃ。
存在が無になるまで空を念じるのじゃ。

53避難民のマジレスさん:2020/12/13(日) 21:11:50 ID:Dp/qMVVc0
真理が未知のものである以上、思考によってどうやって知ることができるのか? 思考もまた知られているものだ。努力は全く不合理だ。既知のものから未知のものへの道はない。既知のものが未知のものへと導くことはできない。未知のものは考えることができない。それは不可能だ。既知は既知の輪の中を移動することしかできない。既知の領域の中でどんなに頑張って考えても、その領域を超えることも、その領域から出ることもできない。私は間違いなく移動するだろうが、それは水車を回す雄牛のように、円を描くように移動するだろう。私はどこにも行くことなく、同じ地面を何度も何度も覆うだろう。これまで誰も、考えて真理にたどり着くことはできなかった。その目的地に到達した者は、別の方法でやってきたのだ。私は、マハヴィーラも老子もブッダもイエスも思想家だとは思わない。彼らの達成はどれも思考の結果ではなかった。では、どうやって目的地に到達したのだろうか? それは、思考の道を歩いたのではなく、思考の道から飛び降りたのだ。既知の道を歩いても、未知の世界には到達できない。その道を離れて、未知の中へジャンプしなければならないのだ。

どうか「ジャンプ」という言葉の意味を理解して欲しい。この「ジャンプ」をよく知るのだ。あなたもそれをしなければならない。あなたは思考のレベルに立っている。思考の中に立っていて、思考の中に生きていて、そこからあなたは無思考の領域にジャンプしなければならない。沈黙以外の何もない世界に飛び込まなければならない。あなたは音から静寂へとジャンプしなければならないだろう。このジャンプのことを考えれば、そこに行けるのだろうか? あなたはどうやってジャンプするかを考えるのだろうか? 違う。あなたは再び思考の輪に自分を縛り付けることになり、それはどこにも連れてはいかない。

考えるな - 目を覚ますのだ! 思考の過程を観なさい。それが円の中でどのように移動するかを観なさい。単に観るのだ。そして観ていると、ある幸いな瞬間に、何の努力なしにジャンプが起こり、空虚の底知れない深さにあることを見つけるだろう。既知の海岸を離れた瞬間、あなたのボートは未知の海の上を滑らかに航海していることに気づくだろう。

そして、このように未知の海を航海することは、なんという喜びなのか! 何と表現すればいいのだろう? 落ち着きがないと見ることができない。涙で満たされた目には見えない。それが喜びの涙であろうが 悲しみの涙であろうが 何の違いもない。 何かで満たされた目は真理を見ることができない。真理を見るためには、空っぽの目が必要だ。何も入っていない鏡のような目だけが、すべてのものを見ることができるのだ。

思考では先に進めないことが理論と実践で分かっていても、思考に執着し、期待している感情が残っています。これを厭離するためには原因から観察する必要がありますが、例えばどのような原因があり得るでしょうか?

54鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/13(日) 21:59:45 ID:1d4drIFg0
思考が自分と思うならばそれをもっと詳しく観察すると善いのじゃ。
オショーも思考の過程を観よと言っているのじゃ。
それはただの観念を対象とする道具に過ぎないのじゃ。
思考は対象とする観念がなければ存在しない虚ろな道具なのじゃ。
石の観念があれば石について思考が起きるものじゃ。
おぬしは石についての思考なのじゃろうか。
犬の糞の観念があれば犬の糞についての思考が起きるものじゃ。
おぬしは犬の糞についての思考という存在なのじゃろうか。

そのように対象が無ければ存在し無いものはただの道具であり、在るものではなく、幻想であり空であると観るが善いのじゃ。

55避難民のマジレスさん:2020/12/14(月) 20:53:02 ID:Dp/qMVVc0
ある村で起きた出来事について話そう。ある人がどうやって神を見つけるかを尋ねてきた。私は問いによって答えた。今、神を見つけようとしているのなら、もうあなたは自分を見つけたのかと。私たちは神を知りたいと思っているが、自分自身を知らない! 自分に最も近い存在すら知らないのだ! どのような存在も、自己よりも近いものはない - だから、はじめに無知が付けられたに違いなく、それは今の時点で打ち負かされなければならない。自分自身について無知な人は、他のどのレベルでも知を得ることはできない。

知の炎は、最初に人間の内なる存在の中で燃え始める。それは知の東であり、知の太陽はそこから昇る。もしそこに闇があるとすれば、他のどこにも光があるはずがない。神ではなく、自分自身を知りなさい。この一筋の光は、最終的には太陽へと成長していく。自己を知ることによって、サット-チット-アーナンド、存在、意識と至福があることが実現するが、そこでは 「私」、自我はない。その実現こそが、神の実現なのだ。

人間は自我に覆われた魂だ。そして、これが無知だ。自我を取り払った魂が神だ。そして、これが知なのだ。自分の魂を求めてどこへ行こうとしているのか? 十のどの方角に行っても、それはどこにも見つからない。しかし、もう一つの方角がある。あなたは知っているだろうか? 私がその方角を案内しよう。

あなた自身がその十一番目の方角であり、他の十の方角を探すのをやめれば、この方角を見つけることができる。この十一番目の方向は他の十の方向とは違う。実際には、それは全く方向ではない。それは無方向であり、方向の否定だ。それはあなたが去ったことのないところに連れて行ってくれる。それはあなた自身の実体であり、あなた自身の自然な状態だ。十の方向はすべて外に向かっている。世界はそれらの創造物だ。十の方向が世界だ。 それらは距離だ。しかし、これらの方向のすべてを知っていて、その中を移動する者は、確かに世界から切り離されていて、確かに異なっている-そうでなければ、その者は世界を知ることも、その中を移動することもできなかっただろう。その者は移動すると同時に、移動しない。もし自分自身の存在の中でしっかりと確立されていないならば、動くことはできない、なぜならば、その者の回転輪の中心には固定があるからだ。馬車の車輪に気を留めたことがあるだろうか? 車輪が動くことができるのは、車軸が静止しているからに他ならない。どんな動きも常に固定されたものがあり、それを支えているのだ。人生は不安定で一過性のものだが、魂は恒久的で安定している。魂は第十一の方向だ。人はそれを求めてどこかに行く必要はない。すべての探し物を捨てて、あなたの中に誰がいるのかを見なさい。存在する者に目覚めなさい。これは、探究を放棄すれば可能だ。それは走ることによっては不可能だが、停止することによって可能なのだ。

思考の観察について、ありがとうございます。囚われず、ただ停止して、対象の縁起から起こる思考の過程を観ることに励みます。

56鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/14(月) 22:01:22 ID:1d4drIFg0
神がどのようにして見つけることが出来るのか、それを知る前に自分について知らなければならないとオショーはいうのじゃ。
自分を知らなければ、神についても知れるはずも無いのじゃ。
それは歩き方を知らないのに、走り方を知ろうとするようなものじゃ。
自分を知ることで神への最短の道を通過することが出来るのじゃ。

57避難民のマジレスさん:2020/12/15(火) 20:25:58 ID:Dp/qMVVc0
止まって、観なさい。この二つの言葉は宗教の核心、あなたの修行の道標であり、ヨーガの全体の鍵だ。止まって、観ると、第11の方向が開かれる。そこを通って、あなたは内なる空間に入る。その内なる空間が魂だ。私は、あなた方が皆何かを追いかけて走っているのを見るが、この走りは結局は倒れることで終わってしまう。あなたは毎日、人々が倒れているのを見ないだろうか? それはすべて走りの結果ではないのか? 走ることはすべて死で終わるのではないか? しかし、最初にこの真実を知る者は、最後にその災難から救われるのだ。

止まって、観て欲しい。 あなたはそうするだろうか? 必死で走っている最中に、私の呼び声が聞こえるだろうか?止まって、走っている人を見なさい。止まって、探している人を見なさい。止まって「私」を見つめるのだ。走ることの熱が冷めるとすぐに十の方向はすべて消え、ただ一つの方向、その無方向だけが残る。それはあなたを根源に、源に、最高の知の泉に連れて行く。

ある求道者がかつて、人々に、生まれる前にどのようなものであったかを尋ねた。もしあなたがその求道者に会いに行ったら、彼に何と言うだろうか? あなたは、生まれる前に自分がどうだったかを知っているだろうか? 死んだ後に自分がどうなるかを知っているだろうか? もしあなたが止まって観ることを学べば、知ることができる。生まれる前の存在、死んだ後の存在、そして今この瞬間に内側にいる存在を知ることができる。それは、少し振り返って見るだけだ。止まって、観なさい。

あなたをこの素晴らしい世界への旅に招待する。 止まって、観なさい。

第3章は以上です。ここまででもし、訳におかしなところがありましたらご指摘ください。
止観を続けます。

58鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/15(火) 21:52:02 ID:1d4drIFg0
心を止めて、観ること、それが止観なのじゃ。
本来は観察が真の道なのじゃ。
しかし、悟りを得ず、修行もしていない者が心を観察することは難しいものじゃ。
そうであるから心を止める修行もしなければならないのじゃ。

59避難民のマジレスさん:2020/12/16(水) 20:50:26 ID:Dp/qMVVc0
第4章 2日目の朝 1964年6月5日 午前

友よ、私たちは自分自身と戦ってはならない、自分自身を知らなければならない。自己についての無知のために私たちの中で発展してきた矛盾や自己矛盾はすべて、自己を知ることによって蒸発していくのだ - 草の上に落ちる露が太陽が昇るとともに消えていくように。

私はあなたの知への好奇心と意気込みをよく理解している。あなたは真理を知りたい、理解したいと思っている。あなたは生の謎を解き明かして、その完全性を得られるようにしたいと思っている。しかし、私たちが今、生と呼んでいるものは、本当の意味での生ではない。それはあたかも、ただ死ぬことの長い、引き延ばされた過程と呼べる。生を知らずして生を得ることはできないというのは事実だ。誕生は一つのことであり、生は全く別のものだ。ただ生きているだけのことと、生の完成の間には大きな違いがある。その違いは、死と不死の間と同じくらい大きい。死は生の必然的な終わりであるのに対し、生の完全な完成は、神的な生によって冠される。

神的な生を送りたいと願う者、神と真理を知りたいと願う者には、二種類のアプローチがあるように思える。一つは道徳のアプローチ、もう一つは宗教のアプローチだ。道徳と宗教は通常、二つの異なる道とは見られていない。道徳と宗教は、同じはしごの上にある2つの連続したステップと見なされている。一般的に、人が宗教的になるためには、まず道徳的にならなければならないと信じられている。しかし、これは私の見解ではない。

私が知っていることを話そう。宗教的な人は常に道徳的だが、道徳的な人が本質的に宗教的であるとは思わない。人は単に道徳的になることによって宗教的になるのではないし、道徳は宗教の出発点でもないし、基礎でもない。それどころか、道徳は宗教的になることの結果なのだ。道徳の花は宗教の草の上に咲く。道徳とは、宗教的生活の表現だ。私は、宗教と道徳を二つの異なる道、ただ異なるだけでなく、互いに正反対の二つの道と見ている。

道徳、規律とは、振舞いの浄化、行いの浄化を意味する。それは、人間の人格を周辺部で変えようとするものだ。この人格の周辺部は、他者との付き合いの結果だ。それは、自分の振舞い、他者との関係だ。自分が他人にどのように反応したり、行為したりするかは、自分の振舞いだ。振舞いとは関係性なのだ。

宗教と道徳が互いに正反対の二つの道というのが、分かりにくかったので、少し詳しく教えていただけますでしょうか? 慈悲と道徳は違うということでしょうか?

60鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/16(水) 21:24:54 ID:1d4drIFg0
道徳とは振る舞いであり、肉体的な行動によるものじゃ。
それが心の中に変容を起こすことは無いのじゃ。
真の宗教は心の中に変容を起こす方法を教えるものじゃ。
それでこそ真理も理解できるのじゃ。
道徳的な行いも出来るのじゃ。

61避難民のマジレスさん:2020/12/17(木) 20:39:19 ID:Dp/qMVVc0
私は一人ではなく、四方八方人に囲まれている。そして、私は社会の中にいるので、人生のあらゆる瞬間に誰か、あるいは他の人と接触し、関係を持つ。これらの相互関係が、私たちの人生のあり方のように思える。そして、私の行動の善し悪しは、その人間関係が良いか悪いかで決まる。

私たちは良い行動を教えられている。それが社会のために必要だから、社会的必要性だからだと教えられている。しかし、社会はあなたには何の関係もない、あなたの素朴で生まれながらの性格とは関係ない。その観点から見れば、あなたがいなくなっても社会は何も失わない。誰かとの関わりや何かとの関わりがあってこそ、社会にとって重要な存在になる。社会にとって重要なのは、あなたではなく、あなたと他者との関わりだ。社会にとって重要なのは、あなたではなく、あなたの行動だ。したがって、善行が社会から伝えられる教育の目的であることは、驚くべきことではない。社会にとって人間とは、その人の行動であり、それ以上のものではない。

しかし、この善行の教育、社会が教える道徳は、錯覚を生み出している。それは非常に根本的な錯覚を生み出している。神を悟り、宗教に到達したいと願う人たちが、真理と正義に到達するためには徳を積む必要があると信じるのは当然のことだ。神の実現は正しい行いによってのみ可能であり、真理の到来の前に徳を身につけなければならないと信じるのは当然だ。宗教と真理の実現は、道徳だけの生活から発展すると信じるのは当然で、道徳は基底であり、宗教は頂点であり、道徳は種であり、宗教は実であり、道徳は原因であり、宗教は結果であると信じているのだ。この考え方は非常に明快で正しいように見えるが、この一見単純明快な考え方は全く誤解を招くものであり、真の事実を歪曲した見方をしていることを、私はあなたに伝えたい。真相は全く違うものなのだ。

実際のところ、道徳を教えても、宗教的なことはおろか、人を道徳的にすることはできない。単なる善行は人を道徳的にはしない。変容には内面の浄化が必要なのだ。自分の内面を変えなければ、行動を変えることはできない。中心を変えずに周辺を変えようとするのは夢物語だ。その努力は無益なだけでなく、有害だ。それは自殺行為だ。それは自分自身に苦悩を押し付けることに他ならない。

この抑圧は社会の要求を満たすものであることは間違いないが、個人はその下で亀裂が入り、粉々になってしまう。それは人の中に裂け目、二面性を作り出す。人格は、その自然な単純さを失い、自分自身の中の葛藤に苦しむ。
それは連続的な闘争であり、勝利で終われない永遠の内部抗争だ。これは、個人を犠牲にして社会の要求を満たすことだ。私はこれを社会的暴力と呼ぶ。

お釈迦様や鬼和尚が善行を説くのは、悟りを得たいと思わない人に対しても、少しでも福楽がもたらされるようにという慈悲からでしょうか?

62鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/17(木) 22:46:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、善事は人の環境をよくするものじゃ。
 悟りには間接的にしか役に立たないのじゃ。
 自分の心を観察する事で悟りもやってくるのじゃ。
 善事はそのための環境を造るだけなのじゃ。

63避難民のマジレスさん:2020/12/18(金) 20:49:19 ID:Dp/qMVVc0
人が自分の行動を通して何を表現しようと、それは重要ではない。本当に重要なのは、その行動につながる内的な原因だ。行動は内なる精神の表れであって、根源ではない。行動とは、内なる精神の外向きの表現なのだ。無知な人々だけが、その表現の原因を変えることなく、外向きの表現を変えようとする。

この種の修行は役に立たない。それは、枝を切り落として木を切り枯らそうとする人の行動のようなものだ。そのような行動は、木を枯らすのではなく、その成長を促進する可能性が高い。木の生命は枝の中にあるのではなく、根の中にある。土に埋もれた目に見えない根の中にあるのだ。木とその枝の形になったのは、根の潜在的な希望と願望なのだ。枝を切ることがいったいどんな助けになるのか? もしあなたが本当に生に革命をもたらしたいならば、根に行かなければならない。人の行動の根は、内なる存在の中にある。行動は内なる存在に従う。内なる存在は自分の行動には従わない。したがって、行動を変えようとする努力は、必然的に抑圧の形をとる。そして、抑圧は何か変容をもたらすことができるだろうか?

そもそも抑圧とは何だろう? 抑圧とは、内なる存在の中で自然発生的な感情が育つことを許さず、その表現を許さないことであり、実際には存在しないものを強制的に育て、表現することだ。

しかし、私たちが抑圧しているものはどこへ行くのだろうか? 私たちはそれから自由になれるのだろうか? いったいどうやって抑圧によって自由が得られるのか? 抑圧された感情は、私たちの中にあり続けるだろうが、それらは今、より深く、より暗く、より無意識の凹みの中に生きていくための場所を見つけなければならないだろう。それらはまだ、より深い領域に入るだろう。抑圧の意識でさえも居場所を特定できないところに、身を隠すだろう。しかし、深く入った根は芽を出し続け、枝は花を咲かせ実を結び、そして意識と無意識の心の間に、狂気となって終わる戦いが生じるだろう。

狂気は、このような偽りの中空の道徳に基づく文明の当然の結果だ。したがって、狂気は文明の進歩とともに増大し、私たちの文明全体が狂気に終わる時が来るかもしれない。過去の二つの大戦争はこの種の狂気であり、私たちは第三の、おそらく最終的な戦いに向かっている。

身体と心は相互に影響を及ぼすという考え方を聞き、ある程度は正しいと経験から思っていました。しかし実際は、身体の行動により、心の表層部分には影響を及ぼせても、深層部分は変わらないということでしょうか。そして、心の深層部分を変えるには自分自身の心を観察して気づく必要があるという理解で良いでしょうか?

64鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/18(金) 21:49:48 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、行動だけを変えようとしても無意味なのじゃ。
心の中にある原因から観察しなければ行動も変らないのじゃ。
心の中の原因を無視して行動だけを矯正しようとすれば抑圧が生まれるのじゃ。
それが憎しみとなっていつか爆発するのじゃ。
自らの心を観察できればそれも制御できるのじゃ。

65避難民のマジレスさん:2020/12/19(土) 20:59:49 ID:Dp/qMVVc0
人の個人的な生活の中で起こる爆発と、社会の中で起こる爆発-暴力、レイプ、不道徳、蛮行-は、すべて抑圧の結果だ。人は抑圧のために道徳的で自然な生活を送ることができず、ある日突然その緊張に屈してしまう。偽善に頼る者は、この内なる葛藤から自分自身を救うことは間違いない。その者は自分ではない者のふりをしている。常に何らかの役割を演じているので、どんな内なる葛藤からも解放されている。

偽善もまた、抑圧に基づく道徳から生まれる。それは、自分自身を内なる葛藤から解放するための手段だ。すでに述べたように、私たちのいわゆる道徳的な生活の中では、自然発生的な感情が成長し、表現されることを許さず、実際には存在しない感情を表現してしまう。二つの過程のうちの最初のものは抑圧につながり、二つ目は偽善につながる。最終的には、最初の過程はあなたを狂人に変え、二つ目は偽善者に変える。これらの結果はどちらも良いものではなく、どちらもあなたにはふさわしくない。残念ながら、私たちの文明は、この二つの選択肢しか提供していない。しかし、第三の選択肢もある:動物の生を生きることだ。犯罪者はこの選択肢から生まれる。もし私たちが動物になることから自分自身を救いたいと願うならば、私たちの文明には二つの選択肢しかない。

動物になるということは、無意識の本能に完全に身を委ねるということだ。人間の中で意識的になったものが再び無意識になることはできないので、これも不可能だ。私たちは酔うと、まさにこの無意識を求める。酔わせるものを求めるのは、動物になりたいという欲求の表れだ。徹底的に酔っぱらって無意識になったときにのみ、人間は自然と一致し、動物と一致するのだ。しかし、これは死に等しい。これは深刻であり、非常に慎重な検討に値する。

酔っているときに人間はどのようにして動物になり、なぜ動物になるために酩酊しようとするのだろうか。それは、人間の意識が動物の世界や自然の一部ではなく、神性の一部であるという事実を示している。それは魂の可能性だ。それは種であり、破壊されるべきものではなく、育まれるべきものだ。その完全な成長には、自由、解放、至福がかかっている。

では、どうすればいいのか? 文明は、私たちに3つの選択肢を与える。動物、狂人、偽善者の。ひょっとして、第四番目の選択肢があるのだろうか?

抑圧を観察するヒントやコツのようなものがありましたら、お教えください。

66鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/19(土) 23:38:30 ID:1d4drIFg0
抑圧を見るには先ずはそれを受け容れることじゃ。
抑圧によるどんな衝動が心の中にあってもそれを受け容れることを自分に許すのじゃ。
しかしその衝動に流されてはいかんのじゃ。
そのように長く抑圧された衝動には誰か憎むものを殺したいとかもあるかもしれんからのう。
それもまた受け入れなくてはいかんが、その衝動に流されて行動してはいかんのじゃ。
その原因から観察できれば、それもまた消えるのじゃ。

67避難民のマジレスさん:2020/12/20(日) 20:48:07 ID:Dp/qMVVc0
そうだ、第四番目の選択肢がある。私はそれを宗教と呼んでいる。それは知性と直観の道であって、獣や狂気や偽善の道ではない。耽溺や抑圧や演技の道ではなく、本物の生と知の道だ。

それは善行の実を結び、人間の中の動物性を排除するものであり、無意識の情熱を抑制するのではなく、人間をその支配から解放するものだ。宗教は単に仮面や外面的な行動を前提としたものではなく、内なる存在の変容だ。それは社会的なものではなく、個人的な充足だ。それは私たちの関係を変えないが、私たちの自己そのものを変容する。関係は結果として自動的に変わる。宗教は、自分自身の中にある存在に、革命をもたらす。そうすれば、周囲のすべてのものが自動的に変容されるのだ。

道徳は社会的なものであり、宗教は完全に個人的なものだ。道徳は行動であり、宗教は内なる存在だ。道徳とは周辺部であり、宗教とは中心部だ。道徳とは人格であり、宗教とは魂だ。宗教は道徳の尻尾にはついてこないが、道徳は必ず宗教についてくる。道徳は人を道徳的にすることさえできないのだから、いったいどうやって人を宗教的にすることができるのだろうか? 道徳は自分自身に物事を積み上げることから始まるが、宗教は知から始まる。

生の中には、悪、不純、不真実がある。私たちはそれらの根源を見つけなければならない。悪はどこで、どのようにして生まれるのだろうか? これらの毒がどこから来て、人の行動を毒にする中心はどこにあるのだろうか? 人が徳や善を考えているときでさえ、なぜ悪はこれらの考えをすべて追い払い、生を取り囲み、行動に浸透してしまうのだろうか? 情熱はなぜいつも人の思考を変えさせるのだろうか?

私たちは注意深く観察し、自分自身でこれを見つけ出さなければならない。他人から借りた結論は役に立たない。なぜなら、この観察のみが、観察の過程を通して、自己観察を通して、悪を生み維持するまさに源を崩壊させ破壊する、力とエネルギーを生み出すからだ。この継続的な観察自体が修行なのだ。なぜならば、継続的な観察は、悪を知るための方法であるだけではなく、同様にそれを排除するための方法でもあるからだ。内なる「私」を観察することによって、目を覚まし、それに向かって注意深くなることによって、光は内なる暗い凹部に届く。そして、この光は、自分の行動の根源を照らすだけでなく、それらを変容させ始める。

自分自身を観察して厭離していくと楽で自由になっていくのですが、未だに観察に向かうのに意志力を必要とする時があります。これは自我が完全に厭離されるまでは仕方のないことなのでしょうか? 観察自体を阻む感情を観察で厭離しようとしているのですが、今のところうまく行ってません。覚者の動画や文章に接することなどで自然に観察が起きる時もあります。

68鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/20(日) 23:27:32 ID:1d4drIFg0
初心の内は意志に拠って観察しなければ出来ないのじゃ。
毎日続けていくことで自然に出来るようになるのじゃ。
まだ無我にならなくとも毎日続けることで、無意識のうちにも観察できるようになるのじゃ。
そのような無意識の観察に拠って自我も観ることができるのじゃ。
それが観照なのじゃ。

69避難民のマジレスさん:2020/12/21(月) 20:35:10 ID:Dp/qMVVc0
常にこの格言を心に留めておきなさい:観察は知のみでなく、変容ももたらす。実際、観察は知をもたらし、知は変容を引き起こす。知自体が変容、存在全体の変容だ。それは、木の根を探し出し、光にさらすために土を掘っているようなものだ。そうすれば根をよく知ることができるだけでなく、根を暗闇から出し、土から切り離すことで、根を滅ぼすことができる。そして木の根を観察している間に、枝は枯れていく。

観察は、情熱の根の破壊をもたらすことができる。それは光に耐えることができない。悪は知に耐えられない。ソクラテスが「知は美徳である」と言ったとき、彼はまさにこの事を伝えることを意味した可能性が最も高い。私もまさに同じことを言う:知は美徳であり、無知は悪である。光は道徳であり、暗闇は不道徳である。

観察すること、自分自身を常に観察すること、心の無意識の傾向を観察することで、意識が覚醒し、無意識の心の中に入り込むことができるようになる。無意識は、昏迷、無知、酩酊、不注意の扉から意識に入り込み、意識を支配することができる。私たちは、動物的な傾向が愛着から発展することを見てきた。怒りと欲望は、無意識の時だけ私たちをつかみ、動物的な本能を満たすために酔わせるものを探す。

意識は、無意識の心の中に、酩酊を克服することによって、気をつけること、注意、気づいていることを通じて入り込み、そこに権威を確立する。気をつけることと気づいていることが私たちの中で成長し、私たちの傾向、行為、情熱、欲望に対する正しい気づきと観察が成長するにつれて、それと同程度に意識が私たちを満たすようになる。そして、それらの駆り立てや情熱の爆発、盲目の、無意識の衝動は、消えてゆく。なぜならばそれらは、睡眠、無感覚と妄想の状態でのみ存在することができるからだ。意識状態では存在できないのだ。

文を読んでいて、未だ気づいた時に常には自分自身を観察できていないことがわかりました。正しく観察ができているかどうかにも気をつけつつ、さらに観察に励みます。

70鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/21(月) 22:04:08 ID:1d4drIFg0
毎日観察し続けることで、表層意識だけでなく、無意識の段階まで観察できるようになるのじゃ。
自我の想起は無意識に行われる故に、そこまで至らなければ自我は見えないのじゃ。
さまざまな障害を観察して滅していけば自我も観られるようになるのじゃ。
それまで日々精進あるのみなのじゃ。

71避難民のマジレスさん:2020/12/22(火) 20:56:30 ID:Dp/qMVVc0
意識している間、正しい感覚の中では、誰も何か間違ったことをしたことがないということを心に留めておきなさい。すべての罪は愛着から生まれる。それは愛着そのものだ。私にとって、愛着だけが罪深い。観察は愛着を追放する。それゆえに、観察とは何か、それがどのようにもたらされるのかを理解することが重要なのだ。

では、自己観察とは何だろうか? 静かに座って、昨日正しいマインドフルネスの実験について話したときに説明したように、私の中で起きていることを、それがどんなことでも観察する。内側には思考と情熱の世界がある。私はその世界を観察する。海辺に立っている人が海の波を見るように、私はそれを見続けている。クリシュナムルティはこれを「選択のない気づき」と呼んでいる。それは完全に切り離された観察だ。

切り離されたとは、私が選択も決断もしないことを意味する。私はどんな情熱や欲望にも善悪のレッテルを貼らない。善と悪、徳と悪徳の間で判断を下すことはない。ただ観察するだけだ。私はただ、知っていることと見ていること以外には何の興味もないかのように、超然と離れて立っているだけの見者になる。目的が忍び寄る瞬間、選択や判断が入ってきた瞬間、観察は終わりを迎える。その時、私は観察しているのではなく、考え始めているのだ。

どうか、考えることと観察することの違いを理解するようにしてほしい。この過程では、私たちは考えることはしない。考えることは意識の中の意識的行為だ、一方、観察は無意識の中に意識が入り込むことだ。思考が入ってくるとすぐに、人は善と悪を区別し始め、抑圧が微妙な形で始まる。すると無意識はそのドアを閉じ、そしてその神秘の知は私たちから隠されている。無意識はその秘密を、思考ではなく観察を通して明らかにする。なぜなら、抑圧がなければ、無意識の衝動や性癖は、自然に、ひとりでに、ありのままに現実の中で立ち上がってくるからだ。そうなると、それらの衝動、性癖、情熱を隠す必要はもはやない。無意識は、ありのままで、完全に隠されずに私たちの前に立っている。それは何と恐ろしいことだろう! 自分の心の奥底にあるありのままの姿を見ると、人はどれほど怯えてしまうのだろうか! 目を閉じたくなる。この深い観察を放棄し、世俗的な平面に戻りたくなる。

オショーは選択や判断が入ってきた瞬間、観察は終わりを迎えると述べています。私の場合、どこか一点に集中していない限りは、観察をしてても縁起により勝手に思考が始まり、それに続いて好悪の感情が生じることがあるのですが、その思考や感情自体を観察できることもあります。起きていることに巻き込まれずに、新しい発見がある場合には、完全ではなくとも観察ができていると判断してよいのでしょうか?

72鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/22(火) 23:34:57 ID:1d4drIFg0
心に起こることが観えていたならば観察しているのじゃ。
それに失敗はないのじゃ。
感情や選択に巻き込まれてしまった時でさえ、それを観続けることはできるのじゃ。
それもまた自分のした選択とか想いと見ることもできるのであるからのう。
もはや失敗だとか終わりだとか想ってやめてしまう時に観察は終わるのじゃ。

73避難民のマジレスさん:2020/12/23(水) 21:11:35 ID:Dp/qMVVc0
この時こそ、勇気と落ち着きが試される時だ。これは、私が言うところの贖罪の瞬間だ。勇気と平静でこの瞬間を通り抜ける人は、知のマスターになり、素晴らしい神秘が解き明かされる。その人は情熱の根源の直視を得て、無意識のまさに中心に入る。そして、この入り口は一種の超自然的な自由をもたらす。

瞑想から観察へ、観察から知へ、知から自由へ、これが道だ。これが宗教の道であり、ヨーガの道だ。私はあなたにこの道を理解し、この道を歩いて欲しい。そうすればあなたは、内なる革命による行動の変容の錬金術を知ることになるだろう。そうすれば、道徳ではなく宗教が根本的なものであり、道徳は宗教から流れ出るものであることに気づくだろう。道徳は、牛車の車輪が牛車に従うように、軌道のように宗教の後に続く。もしこれが明らかになれば、あなたは非常に偉大な真理を見ることになり、大きな幻想は消散するだろう。

私は、この内なる革命、意識による無意識の浸透という観点から、人類の変容を見ている。この知に基づいて、新しい人間が生まれ、新しい文化と新しい人間性の基礎を築くことができる。このような人は、自己認識によって目覚めた人であり、自然に道徳的だ。その人は道徳を培う必要はない。道徳は、行動や努力の結果ではなく、ランプから光が放射されるように、その人から放射される。善行は、無意識の心の反対に基づいているのではなく、内なる存在の完全性から出てくるものだ。すべてのことを、その人は全存在で行う。その中には二重性も多重性もなく、統一性がある。そのような人は統合されており、二元性から解放されている。

そして、すべての葛藤や束縛を超えたときに聞く神聖な音楽は、この世界のものでも、この空間のものでもない。そこには時を超えた交響曲、至福の音があり、それは平和、無心、そしてすべての不和からの解放のその瞬間に、私たちの中に響く。この音楽のリズムは、無限との同調をもたらす。

私にとって、この実現こそが神なのだ。

第4章は以上です。
>>72 観察と、観察の終わりについて、ありがとうございました。お釈迦様が、「つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は死者のごとくである。」と述べていますが、それと同じことでしょうか? 私も悟りを得るまで自己観察に励むことを誓います。

74鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/23(水) 23:36:56 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
絶望に陥っても日々修業し続ける者が常に新しく生まれ変わるのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。

瞑想をして心を止め、観察して気付くと自我が無と理解できて厭離も起こるのじゃ。
更に認識まで気づけば大悟なのじゃ。
そして全てが自由になるのじゃ。
それが出来れば仏陀なのじゃ。

75避難民のマジレスさん:2020/12/24(木) 20:37:24 ID:Dp/qMVVc0
第5章 2日目の夜 1964年6月5日 午後
最初の質問:道徳的であることは悪いことだと思いますか?

私は道徳的であることは悪いことだとは見なさないが、道徳的であるという幻想は悪いことだと見なす。それは本当の道徳の邪魔になる。

偽りの道徳は、外側の塗装、覆いだ。偽善を満足させる以外の目的はなく、私からしてみれば、偽善とエゴイズムほど不道徳な心の状態はない。偽りの道徳は謙虚さとエゴイズムからの解放の見せ物を作るが、その下ではエゴが養われ、繁栄している。あなたはこの国のいわゆる求道者や聖人たちの中に、私が言っていることの真実が見えないだろうか? 努力によって採用され、育成され、達成されたこのいわゆる道徳は、私の見解では、演技以外の何ものでもない。多くの場合、人の心の中にあるものは正反対のものだ。表面に見えるものは、内面にはない。上には花があり、下には茨がある。そして、行動と内なる存在との間の絶え間ない戦い、意識と無意識との間のこの橋渡しのできないギャップが、人格を分裂させ、崩壊させてしまうのだ。そのような人には調和はない。そして、調和も音楽もないところには、喜びもない。私の見解では、本当の道徳的な生とは、喜びの表現だ。

道徳とは、喜びの表現であり、自然発生的な表現だ。喜びが自分の内なる存在から流れ出るとき、それは善行や道徳として外に表現される。そのような人から発せられる至福の香りは、まさに生の善良さだ。

それゆえに、争いではなく、調和を作ってほしい。どうかこの真実を見ようとしてもらいたい。私の言うことをただ聞くのではなく、生きてみなさい。そうすれば、私たちがいかに自分たちの手で、生を争いと内なる二重性の無秩序の中に投げ込んできたかがわかるだろう。

道徳は、木に花が咲くように、自ずとやってくる。それは達成ではない。瞑想の種が蒔かれ、道徳の作物が収穫されるのだ。道徳は努力によって達成されるものではない。瞑想によって達成され、到達されるものなのだ。瞑想からは、平穏と調和と美しさが流れてくる。そして、自分の中で平穏である者は、他の人を落ち着かなくさせることはできない。自分の中に音楽を持っている者は、自分の音楽の響きが周囲から反響していることに気づき、自分の中に美を持っている者は、自分の振る舞いがすべての醜さを消し去る原因になることに気づくだろう。これらすべては、それ自体が道徳ではないだろうか。

例えば怒りが生じた時に、それを表現すると自他を傷つけることがあります。その場の観察ですぐに怒りを厭離できれば良いのですが、それがうまくいかない場合はどうしたら良いでしょうか? もしその場を離れることができるのなら、離れてじっくり観察したり、気分転換に自然の中を歩いたりするのですが。

76鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/24(木) 22:23:56 ID:1d4drIFg0
怒りが起こっていると気付いたならば何もしないようにするのじゃ。
怒りがある時、どのような行いも怒りによって暴力的なものになってしまうからなのじゃ。
仕事かをしなくてはならないときには丁寧に行うことを心がけて行うと善いのじゃ。
怒りが収まったら普通に動くと善いのじゃ。

77避難民のマジレスさん:2020/12/25(金) 21:16:51 ID:Dp/qMVVc0
第二の質問:あなたは「道徳性は社会的有用性である」と言いますが、個人にとっては無益なのでしょうか? それは個人には全く役に立たないのでしょうか?
道徳や道徳的行動は、社会に関する限り、単に実用主義的なものだが、個人にとっては、それは実用ではなく、喜びだ。したがって、社会のニーズは疑似道徳でも満たされるが、個人にとってはそれだけでは十分ではない。他人に対して良い振る舞いをすることは、社会にとってはそれで十分だが、個人にとってはそれで十分ではない。自分の内面が良いかどうか--このことをこそ、見極めなければならない。社会はあなたの内面ではなく、あなたの人格に関心を持っている。しかし、あなたにとって人格は衣服にすぎない。この覆いが外れたところからあなたは始まるのだ。この人格の仮面から離れて、その背後にあるのがあなたの本当の存在だ。そして、ここに本当の道徳が生まれるのだ。

偽りの道徳によって作られた社会を文明と呼び、本当の生に到達した人間で構成された社会を文化と呼ぶ。これが文明と文化の区別である。文明は実用であり、文化は内なる調和と喜びだ。

今日の私たちには文明はあるが、文化はない。文明は他人との関係を浄化することから生まれ、文化は自分自身を浄化することから、徳を積むことから生まれる。文明とは肉体であり、文化とは魂だ。魂にしっかりと根を張っている者だけが文化を創ることができるのだ。

第三の質問:宗教は社会的なものではないのですか? 完全に個人的なものなのでしょうか?
そうだ。宗教は絶対に個人的な問題だ。社会には魂も意識の中心もない。社会は、私たちの相互関係の産物に過ぎない。魂を持っているのは個人であり、それゆえに宗教も同様に個人的なものでなければなならない。宗教は私の関係の一つではなく、私の存在だ。自分の本性、自分の本当の存在を発見することと、その後に続く表現が宗教なのだ。

宗教、ダルマは自己認識だ。宗教は社会的なものではないので、修行、宗教の実践は集団とは関係ないが、宗教的な経験は集団や社会に光を当てる。宗教の実践は個人的なものだが、社会にも影響を与える。人が内なる光に満たされていれば、その人の行動も内なる光で満たされる。内なる存在は個々のものであり個人的だが、行動は社会的なものだ。

修行は決して集団的ではあり得ない。なぜならば、他者と一緒にではなく、独りで、完全に独りで自分自身を知るようになる必要があるからだ。プロティノスはよくそれを表現した:「独りから独りへの飛翔。」 まさにその通りだ。その飛翔は確かに非常に孤独で、仲間のいないものだ。しかし、飛翔から得られる喜びは他の人に感染し、彼らもまた動かされる。孤独の中で得られるもの、自己の孤独の中で得られるものは、四方にその香りを広げていくのだ。

プロティノスは悟りを得ていたのでしょうか?

78鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/25(金) 23:18:16 ID:1d4drIFg0
プロティノスは悟っては居ないのじゃ。
しかし、サマーディにまでは到達していたのじゃ。
エクスタシスとは忘我であるから正にサマーディなのじゃ。

79避難民のマジレスさん:2020/12/26(土) 21:02:32 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:神とは何ですか?
神とは人ではなく、経験だ。観ること、自我を解体した後の宇宙についての経験、それが私が神と呼ぶものだ。神の経験には特定の種類のものはなく、むしろ、完全で普遍的な愛の経験が神だ。それは中心を持たず、すべての存在だ。すべての存在がその中心だ。神の経験を語るのは間違いだが、あなたは完全な愛の経験は神だと言い得る。

愛とは、二人の人間の間の関係だ。この同じ関係が個人と存在の間にあるとき、私はそれを神と呼ぶ。究極の段階、愛の開花こそが神なのだ。そして、ここで私は、「神は愛なり」というキリストの格言を思い出す。

「私」が消えたとき、残るものは愛だ。自我を取り囲む壁が崩れたとき、残るものは愛だ。愛そのものが神なのだ。それゆえに、神を知ることは不可能だが、神になることは可能だ。

第五の質問:あなたは、私たちが生きているこの生は、全く生ではなく、死ぬことの長い引き延ばしの過程だと言いました。これはどのようなことを意味していますか?
我々が生と呼んでいるものが生ではないことは、まったくの真実だ。もしそれが本当に生であるならば、いったいどうやって死で終わるのだろうか? 生と死は二つの矛盾したものなので、どうして死が生の成就になるのだろうか? 死は誕生の終わりであって、生の終わりではない。

そして、死は最後に来るということから、死は最後にだけ始まると考えてはならない。死は誕生そのものの中に現前しているのだ。それは生まれたその日から始まるのだ。生まれた後、私たちは刻一刻と死んでいく。この死の過程が完了したとき、私たちはそれを死と呼ぶ。生まれた時に種として存在していたものが、最後には完熟した形で現れる。したがって、死後には何も確実なものはないが、死は確実だ。それは、誕生そのものと一緒にやってくるからだ。誕生は死の別名にすぎない。このことをよく理解しておこう。あなたは生まれたその日から死に始める。だからこそ、私たちが知っているような生は、生ではなく、ゆっくりと徐々に死んでいく長い過程であると言いたいのだ。

私たちはこのゆっくりとした死に慣れていて、生には慣れていないので、いつもこの死から自分自身を救おうと忙しくしている。私たちの計画や活動はすべて、ある種の安全と自己防衛を目的としている。そして、私たちは何をしているのだろうか? 私たちはいつも死から身を守ることに忙しくないだろうか? また人は、同じ理由で、防衛のために宗教的になる。死が近づいていると感じた時に宗教に入るのは、そのためだ。 ほとんどの場合、老人の宗教はこの種のものだ。私はこれを本当の宗教性とは呼ばない。それは死への恐怖の一側面に過ぎない。それは最後の安全対策だ。真の宗教性とは、恐怖からではなく、生の経験から出てくるものなのだ。

仕事や娯楽に打ち込むのも、死から身を守るというか、死を忘れるための活動だと感じ、何をしているのだろうと思う時があります。一方で、そのような活動から得られる快を好ましく感じる時もあります。引き続き、偽りの観念の観察に励みます。

80鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/26(土) 23:13:49 ID:1d4drIFg0
神とは愛だというのじゃ。
そして無我になった時から現われる宇宙の体験も神だというのじゃ。
キリストも神は愛と言ったのじゃ。
神を知ることは不可能だが神にはなれるというならば、愛を知ることは不可能だが愛には成れるという事なのじゃ。

81避難民のマジレスさん:2020/12/27(日) 21:11:02 ID:Dp/qMVVc0
私たちが現在知っていることは何であれ、死以外の何物でもないということを認識すべきだ。そして、この死を知ることが、不死につながるのだ。この体は死ぬ。それは刻一刻と死んでいく。身体を観察することで、この死すべき器の認識に目覚めることで、私たちは身体ではないものを経験し始める。身体ではないものを知ること、魂を知ることは、魂は決して生まれず、したがって決して死ぬことがないゆえに、現実の生を知ることだ。真理はあなたの誕生前から存在しており、あなたが死んだ後も存在し続ける。これが生だ。生は誕生と死の間の広がりではない - それどころか、誕生と死はその過程で起こる多くの出来事にすぎない。

瞑想中、心が静かで空になっているとき、身体とは別の、離れた何かが見えてくる。それは、湖の水面にさざ波があるときに湖の深さを覗くことができないのと同じように、心が落ち着かないときには見ることができない。そして、心の上で波打つ思考の波の連続的な流れのために、それらの下に隠されているものは隠されたままである - そして、私たちは、真理全体の表面を得る。自分の居場所でしかない身体は、すべてであり、すべてであるかのように見える。それは、身体が自分の存在であり、自分の生命であるかのような錯覚を生み出す。あなたは自分の全体を身体に限定されたものと考え、それ以上のものは何もないと考えている。このような身体との同一化、身体と一体であるという幻想は、私たちが本当の自分を知ることを許さず、私たちは、一定期間にわたって行われている、徐々に死へと向かう過程を生として見ている。これは、自分の家屋の建設と破壊を自分の誕生と死と見なしているのと同じような間違いだ。

この闇は、精神的な平穏の到来とともに消えていく。この精神的な不安が作り出した幻想は、静けさによって払拭される。波によって隠されていたものが、波の無いことによって明らかになる。そして初めてこの身体の住人を知る。それを知るとすぐに、死は古い服を脱ぎ捨てること以上のものではなくなり、誕生は新しいものを着ることとなる。そして、服を必要としない存在がいる。私が生きていると呼ぶ唯一の人間は、このような生を知る者である。身体を自分の存在として見ている人たちは皆、まだ死んでいる。本当の生はまだ始まっていない。その人たちは夢の中にいて、眠っていて、気絶している。

この夢から目を覚まさなければ、身体が自分の存在であるというこの妄想から目を覚まさなければ、人は自分の自己、本質、大黒柱、生を知ることは決してできないだろう。この世界は、死者、生きている死者で溢れていて、大多数の人は生きたことがないまま死んでいくのだ。彼らは死から身を守ろうとして消耗し、内なる者、死を超えた、不死の者を知ることはない。

夢から目を覚ましたいです。今日も観察に励みます。

82鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/27(日) 21:56:54 ID:1d4drIFg0
身体もよく観察すれば全てと繋がっていることがわかるのじゃ。
呼吸を通して、食物やエネルギーを通して、全てと一つなのじゃ。
身体に拠って全てと分かれた自己があるという認識は誤認なのじゃ。
それが理解できれば不死の境地に至れるのじゃ。

83避難民のマジレスさん:2020/12/28(月) 20:43:02 ID:Dp/qMVVc0
第六の質問: 私は死んでいることをあなたの言葉で知りました。生き返るためにはどうすればよいですか?
友よ、もしあなたが私の言葉だけでそう思うなら、それは何の価値もない。私が言ったことを忘れて、他の人が言ったことを忘れて、もう一度見なさい。あなた自身がそれを見なければならない。その観ることそのものが、あなたを生へと導く道になるのだ。そうすれば、「生き返るためにはどうすればよいですか?」 という問いかけはなくなる。

自分が死んでいること、自分の存在も人格もずっと死んでいたことに気づく人は、同時に死んでいないものが見えてくるのだ。しかし、あなたがこれを観るためには、精神的な落ち着きの無さを捨てなければならない。見ること、ダルシャンは、心が静かで、空っぽで、情熱のないときにのみ可能だ。今は思考だけしかない。見ることもダルシャンもない。 私があなたに言ったことが正しいと考えることもまた、それ自体が思考だ。この思考は全く役に立たないだろう。

すべての思考は借り物なので、思考は真理を明らかにすることはできない。すべての思考は他人のものだ。それらは真実を余すところなく隠しているだけなのだ。あなたは、自分の思考がすべて他人から借りてきたものであり、本当に他人のものであることに気づいたことがあるだろうか? あなたは偽物の資本を蓄積している。それは全く資本ではないので、それに頼ってはならない。この種の資本の上に築かれた城は、あたかも、あなたが夢の中で築くもののようだ。トランプの家ほどの現実性もない。

確かに、記憶するためには記憶の対象が必要であり、思考は記憶がなければできないので、思考の全ては借りものですね。そして、そう思うと抵抗感が生じるというのは、思考に執着しているということなのでしょう。さらに観察します。

84鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/28(月) 23:03:46 ID:1d4drIFg0
思考に拠っては真実は見えないというのじゃ。
自ら自分を観察して真実を明らかにするのじゃ。
観察して死んでいるものがみえれば、生きているものもみえるのじゃ。
それが不死の境地なのじゃ。

85避難民のマジレスさん:2020/12/29(火) 20:58:16 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたに考えさせたくない。借り物で満たしたくない。考えさせるのではなく、目覚めさせたいのだ。考えることを放棄して、見てほしい。そして、何が起こるかを見てほしい。考えることから見ることへと進む。このことだけが、あなたを真理へと、本当の資本、あなた自身の本当の富へと導くだろう。考えることをせずに見るというこのプロセスが、どのようにして神秘のカーテンを外すのかは、実際に自分でやってみないとわからない。

覚えておきなさい、他の人があなたに与えることができる世界には価値のある経験はない。与えられるものは、決して価値のあるものではない。また、経験も与えられることはない。物質的なものは与えられたり、取られたり、交換されたりすることができるが、生きた経験を物々交換する方法はない。経験というものの性質上、マハヴィーラもブッダもクリシュナもキリストも何も与えることはできない。そして、思考にしがみつき、自分の思考を真理として受け入れる者こそが、真理を奪われた者だ。人を解放するのは、他人から借りたものではなく、自分で気づく真実なのだ。

ギータやコーランや聖書を暗記しても何の役にも立たない。それはあなたに知をもたらすものではない。それどころか、それはあなた自身の自己認識能力を窒息させ、決して真理に直面することができなくなる。シャスターラや聖典から記憶した世界は、常にあなたと真理の間に入ってくるだろう。それらは霧と埃を作り出し、あなたが実際に何であるかを見ることができなくなる。私たちは、自分と真理の間に立っているすべてのものを取り除かなければならない。

真理を知るためには、思考からの助けは必要ない。すべてのものを取り除けば、あなたは心を開くだろう。そうすれば、真理が中に入ってきて、あなたを変容させるような開きがあるだろう。思考を放棄して、見なさい。ドアを開いて、見なさい。これが私が言わなければならないことのすべてだ。

どうなれば悟りを得られるかは完全に頭で理解していて実践しているのに、それが起こらないのがもどかしいです。気をつけて観察します。

86鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/29(火) 21:37:37 ID:1d4drIFg0
今まで教育された文字や公式等の知識を記憶して思考する方法は悟りの役に立たないのじゃ。
ただひたすらに自分の心を観察することが悟りへの道なのじゃ。
それにはむしろ思考を放棄しなくてはならないのじゃ。
記憶された知識による思考は障害になるばかりなのじゃ。
自分の心の働きを少しでも理解できれば、進んでいくことができるのじゃ。

87避難民のマジレスさん:2020/12/30(水) 20:50:51 ID:Dp/qMVVc0
第七の質問:あなたは、シャーストラの研究は必要ないと思いますか?
シャーストラ、聖典の研究は、どのような目的のために役立つのだろうか? そのような方法では知を得ることはできない。それはあなたの記憶を訓練するだけだ。いくつかのことを学ぶことができるが、学ぶことと知ることは全く異なるものだ。あなたが学ぶのは、神について、真理について、魂についてだ。あなたは、それらについての質問に既成の回答を与えることができるようになる。しかしそれは、あなたの家のオウムが毎朝繰り返していること、つまり、オウムが言うように教えられてきたことと何の違いもない。真理は聖典の中には見つからない。それは自分自身の中に、あなた自身の中にある。

シャーストラは単なる言葉に過ぎず、自分自身の中で真理を実現した場合にのみ意味がある。そうでなければ、それらは役に立たないだけでなく、有害なものだ。真理はシャーストラを学ぶことによって知ることはできないが、真理を知っていれば、シャーストラは確かに知ることができる。

しかし、私の目の前には何が見えるだろうか? 人々は真理の代わりにシャーストラを研究していて、これらの研究から得た知識に満足している。なんという空虚で偽りの満足感なのだ! それは、私たちが本当に真理を知りたいと思ってはいないことを示唆しているのではないか。私たちはただ真理を知っていると人々に信じてもらいたいだけなのだ。「水」という言葉で人の渇きが癒されるという話を聞いたことがあるだろうか? そして、もしそれが簡単な言葉で癒されたとしたら、そこには全く本当の喉の渇きがなかったことを示しているのではないだろうか?

もしシャーストラが一つのことを教えてくれるとしたら、真理はシャーストラを通しては実現できないということ、それだけで十分だ。それが唯一の用途だ。もし言葉が私たちに、その言葉が役に立たないことを教えることができれば、その目的を果たすだろう。もしシャーストラが私たちに満足をもたらすのではなく、私たちに不満を与え、知を与える代わりに、私たちの無知に気づかせてくれるのであれば、それだけで十分だ。

私も言葉を話しているが、これがシャーストラがどのようにして生まれたかを示している。もしあなたが言葉にしがみついているだけなら、私の努力は無駄になる。どんなに多くの言葉を暗記しても、何の役にも立たないだろう。これらはまた、あなたの心を投獄し、その後、あなたは自分で作った、言葉で作った牢獄の中であなたの人生のすべての間さまようことになる。私たちは皆、自分で作った牢獄に閉じ込められているのだ。真理を知りたければ、言葉のこの牢獄から抜け出し、壁を壊し、情報の玉座を灰に焼きつくしなさい。これらの灰から知が生まれ、自由な意識の中であなたは真理を見るだろう。真理は遅かれ早かれやってくるだろうが、自分の中にそれを受け入れる余地を作らなければならない。もしあなたが言葉を捨てれば、真理は空になった空間を占めることになるだろう。

私も悟りを得た人たちの言葉を集めて逃避しないように、気をつけて精進します。

88鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/30(水) 21:58:32 ID:1d4drIFg0
知識を盾にして自分の心の探求を怠るならば、悟りはやってこないのじゃ。
そのような状態では聖典もむしろ障害になったと言えるのじゃ。
読まないほうが良かったのじゃ。
真の教えは自らの心を観る実践を教えるものじゃ。
実践しなければ聖典も何の意味も無いのじゃ。

89避難民のマジレスさん:2020/12/31(木) 21:03:55 ID:Dp/qMVVc0
第八の質問:人間は、抑圧によって、また、自分自身との戦いによって、自分自身を征服することはできないのでしょうか?
「抑圧」と「自分自身との戦い」という言葉はどういう意味だろうか? 個人が自分自身を分裂させるという意味ではないだろうか? その人は自分自身と戦うことになる。つまり、攻撃と防御を同時に行うということだ。味方であると同時に敵でもある。エネルギーは両方の側に使われる。これは決して勝利にはつながらず、その人を弱体化させ、その人の力を粉々にするだけだ。私の両手をお互いに戦わせるとどうなるか想像してみなさい。自分と喧嘩しても同じことが起こる。そのような戦いは、全くの馬鹿げたものだ。

友よ、自分と戦うのではなく、自分を知ることだ。無知から生まれた矛盾や自己撞着は、自己認識の光の中で消えていく。自己に対する勝利は、競合からではなく、知を介してやってくる。というのも、倒すべき相手はいないからだ。他はなく、無知だけがある。そしてもし無知があるとしたら? 無知に勝つために何があるのだろうか? それは知が来た瞬間に消えてしまう。 無知とは、知がないことを否定的に捉えているに過ぎない。無知と戦う者は影と戦う。その人は最初から失敗の道を歩いている。

この自己征服のための自己戦争という概念は、外の世界での敵同士の争いの反映から来ている。私たちは、外の世界の敵に対して暴力を犯すのと同じように、内なる世界で暴力を犯そうとするのだ。何という狂気の沙汰なのだろうか! 外の世界でさえ、暴力が誰かを征服したことはない。征服と敗北は全く異なるものだ。

しかし、内なる世界では、いわゆる敵を倒すために暴力を使うことさえできない。なぜならば、倒すべき人などいないからだ。自己認識は争いの結果ではなく、知ることの結果なのだ。だから私は言う「戦うな、知れ。争いを忘れ、知を選べ。」と。

そして、これをあなたの格言としよう:自分自身を発見し、知りなさい。あなたの中に、あなたの知らないことが何もないようにしよう。一隅として、暗く未検査に、放置してはいけない。自分の奥の部屋のすべてに精通していれば、その知は自己征服になる。

私たちは皆、暗い家の中や、日光や新鮮な空気が届かない隅や地下室に、蛇やサソリやコウモリが住み着いていることを知っている。そして家の所有者が家の外で生活し、家の中に入ることなく過ごしているならば、家がこのような悲惨な状態になっていることは驚くべきことでもないし、不自然でもないのではないか? これが私たちの身に起こったことなのだ。私たちもまた、そのような家の所有者であり、家に入るための扉がどこにあるのかさえ忘れてしまっている。私たちがおらず、光がないために、敵の隠れ家になってしまったのだ。

とにかく、徹底的に自分自身を観察する必要がありますね。自分自身と戦わず、焦らず着実にできるだけ観察します。

90鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/31(木) 21:25:53 ID:1d4drIFg0
自分自身と戦うということはできないのじゃ。
攻撃するのも防御するのも自分であるからのう。
何をしているのかわからんのじゃ。
自分自身を理解することができることなのじや。

91避難民のマジレスさん:2021/01/01(金) 21:06:32 ID:Dp/qMVVc0
第九の質問:あなたは、情熱の抑制は有害であると言います。放縦が適切な道だと言いたいのですか?
私は抑制を説かないし、放縦も説かない。抑制と放縦を知ることを説く。抑制と放縦は両方とも無知であり、両方とも有害だ。抑制は放縦への反動に過ぎない。それは他を逆の形にしたものに過ぎない。抑制は逆さま置かれた放縦に過ぎない。放縦は抑制とあまり変わらない。頭の上に立っているものは同じだ。

ある人が、お金から顔を背けていたサードゥについて話してくれました。顔を背けるのと、お金を見てよだれを出すのとでは、大きく違うのだろうか? 欲から逃げようとしても同じことが起こる。欲はなくならならず、別の形をとる。そして、大きな問題は、この別の形では、それはこれまでと同じように強くなるということだ - そして今、それはあなたには見えないので、より安全だ。それゆえに、それは無傷のままであり続けるだろう。それに加えて、無欲だという錯覚が入り込んでくる。これは、一つを追い出そうとしている間に二つの敵を招き入れているようなものだ。

私はここにいる皆に、欲望を知り、怒りを知って欲しいと思う。それらと戦ってはいけないし、それらに盲目的に従ってもいけない。油断なくいるべきなのだ。観察し、それらすべての形、強さ、技量に精通する必要がある。
今までにあなたは怒りを見たときに、怒りが消えることに気づいたことがあるだろうか? しかしあなたはすぐに、それを甘やかすか、抑え始める。いずれにしても、あなたはそれを観察しない。それは目に見えないまま、未知のままだ。ここで私たちは間違いを犯すのであり、放縦と抑制の両方がこの間違いを助長しているのだ。

この二つとは別に、第三の選択肢がある。私はそれを提案したい。それはあなたの性癖を見て、観察することだ - それと何かをするのではなく、単にそれを見る。目がはっきりと着実に見始めると、あなたはそれが離れて落ち、消えてしまうことに気づくだろう。それはあなたが観ている目の中で立っていることはできない。その存在は幻想の状態でのみ可能であり、見守る意識の中では、生命を失って死んでしまうのだ。私たちの妄想、私たちが観察しないことがその存在だ。それは暗闇の中でしか生きられない昆虫のようなものだ。光があるとすぐに死んでしまう。

実践しようとすると、実際に怒りが生じた瞬間を観察できることは少ないので、どうしても、怒り→ 行動の欲求 → 抑制 → 観察 となってしまいますが、それが自分で分かっていれば、大丈夫でしょうか?

92鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/01(金) 21:38:12 ID:1d4drIFg0
怒りもその瞬間に観ているのがよいのじゃ。
それが出来なくとも思い出したときに観れば善いのじゃ。
日々続けていれば瞬間にも見ることができるようになれるのじゃ。
それまで日々精進あるのみなのじゃ。

93避難民のマジレスさん:2021/01/02(土) 20:48:03 ID:Dp/qMVVc0
他の人にどのように見られているかは関係ないということも伝えておきたい。自分をどのように見るかこそが重要なのだ。しかし、私たちは他人の目を通して自分自身を見る習慣に陥っていて、自分自身を見るための直接で即時の方法があることを忘れている。これは、見るための本当の方法だ。直接なのだ。しかし、私たちは自分自身の偽のイメージを創り出し、他の人を欺くために仮面を被り、その後、我々は他の人がどのように私たちを見ているかで自分自身の意見を基礎づける!

自己欺瞞のこの過程は、生涯を通して私たちと共にある。それは、自己実現の道において主要な障害の一つになる。私たちは、この障壁を打破しなければならない。最初は、すべての自己欺瞞を打ち破り、自分がどのようなものか、全くの裸の自分を知ることが必要だ。なぜならば、これが行われた後にのみ、自己実現の方向への本当の一歩を得ることができるからだ。

人は、自分自身について誤った観念を持っている限り、また、役割を演じている人格が本当の自分であるという妄想が続く限り、真理の領域に入ることはできない。神、全能者、真実、あるいは私たちの本当の存在を知る前に、私たちは自分自身を覆ってきた架空の人格を灰にしなければならない。この欺瞞の仮面は、私たちが本当の生を生きることを許さず、私たちが演じている人工的な生の上に立つことを許さないのだ。生の道を歩きたい人は、その偽の夢から目覚めなければならない。

あなたは今まで自分がドラマの中で演じている、演技していると感じたことはないだろうか? 今までにあなたが内側では一つのものであり、外側ではかなり別のものであると感じたことはないだろうか? 正気の瞬間、自分が自分自身である時には、この欺瞞の意識があなたを悩ませることはないだろうか? もしそのような疑問があなたの中に起こり、悩ませているのなら、この事実はあなたをドラマの外に連れ出し、舞台から堅実な地平に連れ出し、役を演じるのではなく、あなた自身が自分自身であるしっかりとした地面に連れて行くことができるのだ。

社会的な場面で演技が必要な場合は、演技している自分に気づいているようにすれば良いでしょうか? 会話中に自分を観察するのは、特に難しく感じます。

94避難民のマジレスさん:2021/01/02(土) 20:48:46 ID:Dp/qMVVc0
他の人にどのように見られているかは関係ないということも伝えておきたい。自分をどのように見るかこそが重要なのだ。しかし、私たちは他人の目を通して自分自身を見る習慣に陥っていて、自分自身を見るための直接で即時の方法があることを忘れている。これは、見るための本当の方法だ。直接なのだ。しかし、私たちは自分自身の偽のイメージを創り出し、他の人を欺くために仮面を被り、その後、我々は他の人がどのように私たちを見ているかで自分自身の意見を基礎づける!

自己欺瞞のこの過程は、生涯を通して私たちと共にある。それは、自己実現の道において主要な障害の一つになる。私たちは、この障壁を打破しなければならない。最初は、すべての自己欺瞞を打ち破り、自分がどのようなものか、全くの裸の自分を知ることが必要だ。なぜならば、これが行われた後にのみ、自己実現の方向への本当の一歩を得ることができるからだ。

人は、自分自身について誤った観念を持っている限り、また、役割を演じている人格が本当の自分であるという妄想が続く限り、真理の領域に入ることはできない。神、全能者、真実、あるいは私たちの本当の存在を知る前に、私たちは自分自身を覆ってきた架空の人格を灰にしなければならない。この欺瞞の仮面は、私たちが本当の生を生きることを許さず、私たちが演じている人工的な生の上に立つことを許さないのだ。生の道を歩きたい人は、その偽の夢から目覚めなければならない。

あなたは今まで自分がドラマの中で演じている、演技していると感じたことはないだろうか? 今までにあなたが内側では一つのものであり、外側ではかなり別のものであると感じたことはないだろうか? 正気の瞬間、自分が自分自身である時には、この欺瞞の意識があなたを悩ませることはないだろうか? もしそのような疑問があなたの中に起こり、悩ませているのなら、この事実はあなたをドラマの外に連れ出し、舞台から堅実な地平に連れ出し、役を演じるのではなく、あなた自身が自分自身であるしっかりとした地面に連れて行くことができるのだ。

社会的な場面で演技が必要な場合は、演技している自分に気づいているようにすれば良いでしょうか? 会話中に自分を観察するのは、特に難しく感じます。

95鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/02(土) 23:25:50 ID:1d4drIFg0
演技している自分に気付くとよいのじゃ。
それは集中の瞑想をしていればできるようになるのじゃ。
集中している意識と雑念が同時に気付くことができるようになるからのう。
日常でも自分と縁起に同時に気づくことが出来るのじゃ。

96避難民のマジレスさん:2021/01/03(日) 20:53:58 ID:Dp/qMVVc0
自分自身にこの問いを訊ねなければならない。「私は本当に自分が思っていた通りの人間なのだろうか?」この問いは、あなたの存在の奥底に響くに違いない。その問いは、それが幻想であるかもしれないと考える余地がないような鋭敏さと意識を持って、あなたの深みに立ち上がらなければならない。

この問い、この探求、この内省は、私たちが眠りから揺り起こされたと感じるような、意識の新鮮な目覚めをもたらす。すると、私たちが建てた城は夢の中で建てられていることを見始め、航行している船は紙で作られていたことを見始める。あなたの生が非現実的なものに思えてくる。実際には、それはあなたのものではなく、演じてきたいくつかのドラマの一部であり、教育、訓練、文化、伝統、社会があなたをキャスティングしたドラマだ。しかし、このドラマはあなたの中に根を下ろしているわけではない。

私たちはほとんど人間ではない。ただのかかしで、何の根もなく、何の基盤もなく、おとぎ話の登場人物のように、夢の中の登場人物のように、現実には何の存在もない。私はあなたが夢の中で迷子になって動いているのを見る。 あなたの行動はすべて睡眠の中で行われている。活動はすべて眠りの中で行われている。しかし、あなたはいつでもこの眠りから目覚めることができる。これが睡眠と死の違いだ。あなたは前者からは目覚めることができるが、後者からは目覚めることができない。どんなに深い眠りの中にいても、必ず目覚める可能性がある。眠りにはこの可能性が隠されている。

あなたが自分自身に直面すると、自分自身を非常にハンサムだと思っている男が、まさに初めて鏡の前に立ったときに幻滅するように、多くの幻想が粉々になるだろう。身体を見るための鏡があるように、自己を見るための鏡がある。私はこの鏡の話をしている。自己観察とは、この鏡のことだ。

あなたは本当に自分の真実を見たいだろうか? 本当の自分に会いたいと思っているだろうか? そして、全裸の自分を見られる可能性があることを知って、怖くないだろうか? このような恐怖はごく自然なことだ。私たちが常に自分自身についての新しい夢を思い浮かべ、本当に誰であるかを忘れようとすることは、この恐怖のためだ。しかし、この夢はあなたの仲間になることはできない。夢の助けを借りても、どこにも行くことはできない。それは単に時間を無駄にし、あなたは自分を家に導くことができる貴重な機会を失う。

オショーの述べる通りに自分を観ると、場面や状況に応じて、異なった自己イメージが生じるのが判ります。しかし、独りでリラックスしているときの自分自身も、この心身の性質にぴったり合っているように思えるだけで、イメージには変わりがないです。このようなイメージがどのような条件で、どのように生じるのか、日常の中でもさらに詳しく観察するようにします。

97鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/03(日) 23:39:00 ID:1d4drIFg0
観念の自分は全て幻想で在るとオショーは言うのじゃ。
幻想の世界で幻想の自分が動いていると想っているだけなのじゃ。
それをありのままに観ることすら拒んでいるのじゃ。
自らを観る強い意志を起こして自己観察に取り組むべきなのじゃ。

98避難民のマジレスさん:2021/01/04(月) 20:51:28 ID:Dp/qMVVc0
あなたは、なぜ私があなたのこの裸、醜さと自分自身の空虚さを見ることをこんなに主張するのか、不思議に思うに違いない。見るのに相応しくないものは見ない方がいいのではないか? 醜いものは宝石で飾り、見る価値のないものはカーテンで覆うのもいいのではないか? 一般的には、これがまさに私たちがしていることだ。これが一般的な習慣だ。しかし、この習慣は非常に有害だ。なぜならば、私たちが隠しても傷は癒えないからだ。それどころか、感染して危険な状態になる。そして、覆い隠してきた醜さは取り除かれるのではなく、人格の内なる流れに入っていく。悪臭が内部に広く行き渡る間、私たちは表面に人工的な香水を振りかける。そして、香水がもはや役に立たず、内なる悪臭や病気が臭うようになる時が、宝石がもはや役に立たず、根底にある醜さが際立つようになる時が来るのだ。

私は香水を振りかけるためにいるのではない。私は悪臭を根絶やしにするためにいる。私は醜さを宝石や花で覆うためにいるのではない。醜さを取り除き、内側にある美しさと音楽を目覚めさせるためにいる。それらがなければ、他のすべてのものは無意味だ。私たちの努力はすべて無意味だ。それは砂を搾って油を得ようとするようなものだ。

だから私はあなた自身の中に隠されているものを明らかにするように願うのだ。自分自身を明らかにし、自分自身を知りなさい。自分から逃げてはいけない。そして、自分から逃げることはできない。あなたはどこに行くのか? 逃げて何を得るのか? どこに行ってもあなたはあなたと一緒なのだ。あなたは自分自身を変容させることはできるが、自分自身から逃げることはできない。

この変容の連鎖の最初の環は、自己観察だ。そして驚くべきことに、醜さを知ると、そこから解放されるのだ! 自己の恐れを知ることは、その恐れから自由になることであり、憎しみを知ることは、憎しみから自由になることだ。私たちが見ていないからこそ、それはそこにあるのだ。逃げようとしているので、それは私たちを追いかけている。私たちが停止した瞬間、それはまた停止する - 私たちが走っているときに影が一緒に走り、私たちが停止するときに停止するのと同じように。

会話中に自己観察することができました。相手とやりとりできないのではないかという心配がこれまで観察を阻んでいましたが、簡単な会話なら、全体で何が起こっているのかを失うことなく、問題なくできることが分かりました。さらに精進します。

99鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/04(月) 23:14:23 ID:1d4drIFg0
苦しみや悲しみが多くつまった心を観ることは誰にでも辛いことじゃ。
しかし、それを観ることで苦しみや悲しみは滅していくのじゃ。
そうすれば飾りの無い自分が見えるようになるのじゃ。
心を隈なく観ることで悟りもやってくるのじゃ。

100避難民のマジレスさん:2021/01/05(火) 21:09:40 ID:Dp/qMVVc0
そして、もしこれらのことに目を向けることができれば、全体の状況はすぐに変化する。私たちが幽霊や霊だと思っていたものは、単なる影だったのだ! 私たちが走っていたので、これらの幽霊や霊は追いかけて走ってきた - そして、これは私たちをさらに走らせた! 私たちが走るのを止めた瞬間、それらは無生命となり、私たちが見るとすぐに、それらは存在しなくなる。それらはただの影にすぎない。そして確かに影は何もできない。醜さの影があったので、それを覆うために、私たちはそれを花で飾った。こうして私たちは錯覚を起こした。今、それがただの影であって他には何もなく、それを覆う必要がなくなったことがわかると、私たちは影から解放され、それが常にそこにあった影であったことに気づくのだ。そして、このまさに実現は、私たちに美の視覚、最も美しいものの視覚を与えてくれるのだ。

私はこの視覚を持っている。私は影から逃げるのをやめ、そのことが私に影の向こう側を見る力を与えた。そしてそこで見たもの、その真理は、すべてを変えた。真理はすべてを変える。その存在そのものが革命なのだ。だから私はあなた方に恐れないようにと言う。そこに本当にあるものを見なさい。夢や想像の中に避難所を探してはならない。これらの避難所を手放す勇気のある者は、真理に守られている。

今朝、ある人から「自分を直接知るとはどういうことですか」と聞かれた。自分を直接知るということは、自分についての他人の意見を受け入れないということだ。自分の思考、情熱、行動、希望、願望、欲望の中に隠されたものが何であるかを自分自身で見なさい。目的地に着いた後で新しい場所を見るように、これらのものを直接見なさい。馴染みのない人や見知らぬ人を見るように、自分自身を見なさい。それはあなたに多くの良いことをするだろう。何よりも、それはあなたが心の中に作った自分自身の彫像を粉々に粉々に砕くだろう。この偶像が粉々に砕け散り、あなたは夢の国から現実の国へと移る。

私たちが正直で善良な者になる前に、まず、自分の中にある真実でないものや、悪を隠すために作り出した真実と善の幻想を払拭しなければならない。これらの幻想は、いずれにしても自己欺瞞である。無駄に自分のために架空のイメージや人格を作る人はいない。それは必要に迫られて行われる。それは、自分の目に映る屈辱から自分を守るために行われているのだ。自分の中に宿っている動物を垣間見ると、その動物の存在そのものが自分を苦しめ、自分の中で屈辱を感じる。

未だに瞑想で深い意識に落ちていく時に身体に緊張が生じます。この恐れを気をつけて観察します。眠りに落ちる時には緊張が生じないのは興味深いです。

101鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/05(火) 23:29:34 ID:1d4drIFg0
自分自身の欺瞞を観ることはなかなか難しいものじゃ。
それは屈辱とか苦からの逃避として作り上げたものであるからのう。
逃避していることから逃げずに直面しようとするから今までとは反対の視点を持たねば成らないのじゃ。
困難なことであるが全て乗り越えて進むしかないのじゃ。

102避難民のマジレスさん:2021/01/06(水) 21:22:10 ID:Dp/qMVVc0
この屈辱から身を守るには、二つの方法がある。動物が消えてしまうか、動物のことを忘れてしまうかだ。動物が消えるためには、サーダナ、つまり修行を通さなければならない。しかし、動物を忘れるのはとても簡単だ。それはとても簡単なことだ。想像力だけでトリックを行うことができる。私たちは自分自身の偽りのイメージを作り、そのイメージの助けを借りて動物を抑圧する。しかし、動物は消えない。このイメージの背後で活動的になるのだ。イメージの背後には動物があるので、このイメージは外見だけだ。現実の生活の中で、このイメージが失われ、毎日打ち負かされているのに気づかないだろうか?これは当然のことだ。内側の動物は本物なので、私たちの努力すべてを打ち負かしてしまう。毎日、想像上のイメージが打ち負かされているのだ。

にもかかわらず、あなたは自分のイメージを生かしつづけ、大切にしている。慈善活動や犠牲、思いやりや奉仕の行為、いわゆる道徳的な行動のすべてを通して、他人や自分自身にそれが本物であることを証明する方法を見つけようと、いつも忙しくしているのだ。これらのすべては、ただ証拠を探しているだけではないだろうか? イメージが本物であることを証明しようとしているだけではないだろうか? しかし、これらはすべて無駄なのだ。あなたが作り上げた自分自身のイメージは、まだ死んだままだ。それは命を持たないままであり、そこに命が入る可能性はない。

この死んだ重荷からあなた自身を解放してもらいたい。この偽りの、死んだ仲間を解放して、本当のものを知り、理解しなさい。偽りのイメージを植え付けることは道を塞ぐことになるが、自分の中の動物を観察し、この欺瞞から解放することが道を示してくれるだろう。

昨晩私は畑を通ったが、そこでかかしを見た。棒が立てられ、シャツを着ていた。てっぺんには頭として、土の壺が置かれていた。暗闇の中で鳥や動物たちは、それを見張り番と見なして怖がって逃げていった。私はかかしを見て、また私と一緒にいる人々を見た。私は言った、「私たちもかかしではないかと、自分の中を見てみよう」と。すると、仲間たちが笑い出した。しかし、私は彼らの笑い声が完全に偽物であることを見た。

抑制と抑圧についてお教えください。抑制は意識して抑えること、抑圧は無意識で抑えることと解釈していますが、英語では両方とも suppress です。社会的場面では、抑制が必要になることがあり、お釈迦様も怒りを抑えよと説いています。オショーは surpressを説かず、自分の真正な感情の表現を勧めることもあるように思います。 私は自分で本心が分かってさえいれば、場面によって、抑制は問題ないと思っているのですが、お釈迦様とオショーの違いは、対機説法のためなのでしょうか?

103鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/06(水) 23:25:16 ID:1d4drIFg0
怒りは日常においては常に抑えるべきものじゃ。
怒りのために自他を傷付けたりすることもあるからのう。
修業ではありのままに観察するべきなのじゃ。
ありのままに観ることができればそれが起こっては消えることがわかるのじゃ。
そして囚われなくなるのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2021/01/07(木) 20:39:58 ID:Dp/qMVVc0
私たちについてのすべてが偽物になっている - 私たちの生活全体、取引、笑い、涙。すべてが偽物になっているのだ。私たちは、この偽のかぶり物の重さに疲れ果てている。そして、この偽のかぶり物はとても重いのだが、私たちは偽りの背後にあるものをさらに恐れているので、それを投げ捨てることはない。そこに入るのを恐れている。それどころか、私たちがいつも他人の中に軽蔑してきた存在が、そこに満開の花を咲かせているのだ。私たちの恐れは、自分自身を発見することを許さない。

自分のサーダナのために、自己実現のためには、恐れないことがまず第一だ。勇気を出せない人は、自分自身の中に入ることさえできない。自分自身に入るためには、暗い夜に孤独な岩場の道を歩くために必要な勇気よりも、はるかに大きな勇気が必要だ。なぜならば、人が自分の中に入るとすぐに、長い間大切にしてきた自分自身についてのすべての甘い夢が打ち砕かれ、自分自身が、最も醜く、最も不潔な罪に直面していることに気づくからだ。その罪から、自分は完全に自由だと思っていたのに。

しかし、自分を発見する勇気を持った者が、自分の中の暗い路地や谷間、長い間見捨てられていた場所に移動したとき、自分が新しい生に乗り出したことに気づく。闇の中に勇敢に飛び込んだ者は、最終的に光を得られる旅に出る。それは多くの生で求めてきた目標であり、これまであえて暗闇に足を踏み入れなかったために、常に避けられてきた目標なのだ。

闇は、灰の山が火の粉を隠すように、光を包み込み、隠している。闇の中に入るとすぐに光が見えてくる。だから私はあなたに言う:もしも光を望むならば、暗闇を恐れてはならない。暗闇を恐れる者は光を見つけることはできない。光への道は闇の中を通る。実際のところ、この勇敢な暗闇への侵入により、それ自体が内なる光へと変容するのだ。この勇敢さのおかげで、今まで眠っていた者が目を覚ますのだ。

あなたは自己認識を得たいのではなく、ありのままの自分を恐れているのではないだろうか。あなたは「サット・チット・アーナンダ-存在・意識・至福」のような言葉を聞くのが好きだ。「永遠」や「純粋」のような言葉を聞くのが好きだ。しかし、その理由はそれらの言葉があなたが本当に何であるかを忘れてしまうのを助けるからなのだ。サット・チット・アーナンダの完全な正反対だ。

細かく観察すると、本心も矛盾する二つがあったりします。例えば自我を解体して重荷を下ろしたいという心と、消えるのは怖いという心です。その上に、さらに人に良く見られたいという心があり、そのために自分の本当の気持ちとは違う態度を表現するというような心があります。時々、自分の本心が何なのかと迷う時がありますが、いずれにしてもイメージされるものは全て偽物なので、徹底的に観察して、何もなくなるまで、一つ一つ覆いを取っていくということで良いのでしょうか?

105鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/07(木) 22:01:26 ID:1d4drIFg0
感情も思考も対象によって変るものであるから、本心も次々に変るものじゃ。
恐れずに観ていければ全て無くなるのじゃ。
ただの反応であったと気付くからのう。
何も無くなるまで観察し続けると善いのじや。

106避難民のマジレスさん:2021/01/08(金) 21:00:26 ID:Dp/qMVVc0
しかし、あなたは自分の自我を養いたいのだ。そしてそれが、罪人がサドゥーの周りに群がる理由だ。なぜならば、そこに聞く話は魂の純粋さについてであり、ブラフマンと一体であることについてであり、それはその人たちにとって非常に喜ばしいからだ。説教を聞いたとき、その人たちは申し訳ないと感じて、劣等感を抑圧し、その後、再び自分自身の前に真っ直ぐに立つことができるのだ。魂は純粋であり、その影響を受けないので、罪を犯すのはとても簡単で無害であると感じ始める。自分の魂が純粋で、その影響を受けていないと信じることは、罪を終わらせることにはならない。それは非常に深い自己欺瞞でしかない。それは人間の心の最後のトリックだ。ただ闇がないと信じているだけでは、光はない。

罪は存在しない、魂は罪に関与していないと信じるように教えるイデオロギーは非常に危険だ。それは、自分の罪深い状態を忘れるための手段に過ぎない。それは、罪を消滅させることではなく、罪を忘れることにつながる。そして、罪を忘れることは、罪が存在することよりも悪いことなのだ。あなたは自分の罪を見ることができるだろうか? 罪に気づくことは良いことで、有益なことだが、それらを見ることができず、無知であることは有害なのだ。なぜならば、それらが見られるようになると、私たちを追い立て始め、私たち自身を変容させようと突き刺すからだ。罪を意識することは変化をもたらし、罪を完全に意識することは瞬間的な変容をもたらす。

それゆえに、どうか魂の純粋さや悟りなどの話に巻き込まれないようにしてほしい。魂は信念とは何の関係もない。それは、罪にまみれた人格が投げ出され、暗闇の層を突破して、求道者が自分の秘密の、心の奥の、光の中心に入るときに、直接実現されるものなのだ。それは直接の実現だ。それは想像できるものではない。

どんな想像上の概念でも、おそらくは大きな害になるだろう。それは邪魔者になり、光を得るための妨げとなりうる。なぜならば、もし闇は存在しないと信じているならば、存在するとは思わないものを取り除けるはずはないからだ。そしてもし、魂が善も悪も犯していないならば、その上に立つ意味は何なのだろうか? 私たちのいわゆる哲学者たちのこのような無意味な発言や疑問は、多くの人々を妄想の世界に投げ込んできた。この毒は広範囲に広がっており、そのせいで私たちは自分たちを神だと思っている。そして同時に、この地球上では、私たちよりも大きな罪人を見つけるのは難しいだろう!

私自身も、苦滅ができる自分や善行に励む自分のイメージによって、自我を養ったことがあります。最近は自我の拡大を感じられるようになったので、気づけるようになってきましたが、油断せずに正しい観察に励みます。

107鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/08(金) 23:33:29 ID:1d4drIFg0
宗教的な観念はむしろ有害になるというのじゃ。
宗教に拠って自分はもはや無罪であるとか、浄化されたなどという概念は有害なのじゃ。
ありのままの自分を観る妨げになるからのう。
何の観念も無く今ここにある己を観るのじゃ。

108避難民のマジレスさん:2021/01/09(土) 21:01:10 ID:Dp/qMVVc0
また、このような自己賛美や魂の純粋さについての話は、本当は罪の存在を無視することに向けられていることも忘れてはならない。この話の罠にはまってしまった人が、後になってそこから抜け出すのはとても難しい。罪から自由になることは簡単だが、このような種類の危険な哲学の魔手から逃れることは非常に難しいのだ。

魂が純粋であるという事実は、理論でも原理でもなく、直接の実現だ。そして、それについて議論しても何の役にも立たない。それは、病気の人の心の中に、自分の病気が存在しないという幻想を作り出すようなものだ。もしその病人が福音としてこれを受け入れた場合、結果は回復ではなく、確かな死となるだろう。

知っている人は、実現、悟りを議論しない。彼らは修行、悟りにつながる道について話す。考慮されるべきなのは悟りではなく、修行なのだ。悟りは修行に従うように結びつけられている。悟りについて考えることは無意味だ。そして誰もが当たり前のように悟りを取るとしたら、そのような人の修行は不可能になる。

それなのに、修行のない悟りを当たり前のように受け止めてしまうのは、どれほど簡単なことなのだろうか! このようにして、人は喜びを感じるようになる。このようにして、実際にそれを取り除くことなく、罪からの自由の喜びを感じ始め、幻想の深い呪文の中で、乞食は皇帝の喜びを感じ始める。乞食が自分は皇帝だと言われるのは、何と嬉しいことだろう。そう告げる者が尊敬され、その足元にひれ伏して崇拝されるのも不思議ではない。貧しさと罪からの解放には、これほど簡単で安上がりなものはない。このインチキ哲学はあなたに非常に簡単な自由を与えるが、修行はあなたの側で多大な努力を必要とする。

私はあなたがどんな哲学や哲学者の罠にもかからないことを願っている。私はあなたがそのような早道に頼らないことを願っている。最も簡単で安あがりな方法は、魂が純粋で悟りを開いていること、魂はブラフマンそのものであり、あなたがするべきことは何もないと信じることだ - そしてもちろん、あなたがその時にたまたまやっていることは何であれ、あきらめるべきことは何もないので、最高のものであると信じることだ。

修行者がこのような観念の罠を避けるためにはどうしたら良いのでしょうか? 私の場合は正しい観察ができているか、すなわち新しい発見、心の変化があるかどうかを確認することと、本当に悟りを求めているのかを自分自身に真摯に尋ねることをしています。

109鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/09(土) 23:58:53 ID:1d4drIFg0
はっきり言ってしまえば全ての者がこのような罠を避けられるような方法や術はないのじゃ。
本当は悟りを求めていない者はこのような罠に引っかかってしまうじゃろう。
霊的に浄化されたとかアセンションにはいったとか、奇跡のコースを修了したとか言われてもはや修業もやめてしまうのじゃ。
そのような者は本当はそのような安っぽい金で買える権威とか名前を求めていただけであるからそれを手に入れて満足するのじゃ。
真摯に悟りを求める者は老病死の苦を超えない限り修業し続けるべきなのじゃ。

110避難民のマジレスさん:2021/01/10(日) 21:03:46 ID:Dp/qMVVc0
真実でさえも悪用されることがあり、最も高貴な真実でさえも下劣なものを隠すために使われることがあることを忘れてはならない。これは過去にも起きたし、今も毎日のように起きていることだ。臆病は非暴力によって隠すことができ、罪は魂の純粋さと悟りの哲学の下で隠すことができ、無行為はサニヤスの衣の下で隠すことができる。

私はこれらの危険に対して警告したい。もしあなたがこれらの危険を警戒していなければ、自己の方向に大きく前進することはできない。あなたを包み込んでいる罪と闇から逃れようとして、哲学的な安住の地を求めてはならない。それらを知りなさい。精通しなさい。それらはそこにある。その存在を忘れてはならない。それらは夢のようであっても、まだそこにある。そして、夢は存在しないと思ってはならない。夢にも存在があるのだ。それはまた、私たちを圧倒し、邪魔することができる。「それはただの夢だった 」と言っても、どこにもつながらない。目覚める以外に解決策はない。しかし、もし望むならば、人は目覚めた夢をさえ見ることができる。偽りの哲学、修行のない哲学は全く同じことをする。それはあなたを覚醒させない、それは単に覚醒の夢を引き起こす。それは夢の中の夢だ。自分が起きているように見える夢を見たことはないだろうか?

単に信じて、そこに罪は無い、闇は無いと言っても、何の意味もない。それはあなたの願望の表現に過ぎず、真実ではない。罪がないこと、闇がないことは私たちの願望だが、願望だけでは十分ではない。このことは重要だ。そして、これらの哲学者たちは、王になりたいと願う乞食が最終的に王になった夢を見始めるように、次第に達成の夢を信じ始めるのだ。その人たちは常にそれを望んでいて、最終的には自分が望んでいたことを達成したと想像するが、実際には何も達成していないのだ。だから、敗北を忘れるのは簡単だ。そして、現実にはできなかったことを夢の中で達成したので、眠りの中で満足のため息をつくのだ。

あなたがそのような満足感をここに求めていないことを願っている。もしそうなら、あなたは間違った人のところに来てしまった。私はあなたに夢を与えることはできない。私はあなたに自己欺瞞の根拠を与えることはできない。私は夢破りであり、あなたを眠りから目覚めさせたいのだ。

苦を逃れようとして修行をはじめたのに、苦が無い夢を本物と信じて、死ぬ時に偽りに気づくなら、それ以上恐ろしいことはないと思いました。気をつけて観察に励みます。

111鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/10(日) 21:48:18 ID:1d4drIFg0
聖典の教えも本当は悟りを求めていない者には利用されるだけなのじゃ。
夢幻を追いかけて時間を費やしてはいかんとオショーは言うのじゃ。
現実に今ここにある心を観るために励まなければいかんのじゃ。
それができれば進んでいくことが出来るのじゃ。

112避難民のマジレスさん:2021/01/11(月) 20:40:11 ID:Dp/qMVVc0
目覚めは間違いなく痛みを伴うが、それが唯一の苦行だ。この苦行、この痛みは、あなたの実際の罪深い状態、自己のろくでもない状態の現実に気づくことから始まる。あなたはこれ以上の幻想を抱くことができなくなる。現実が何であるかを、ありのままに知るのだ。それはあなたが皇帝として自分自身を見ている甘い夢を破壊するので、不幸を引き起こすだろうし、痛みを引き起こすだろう。皇帝は消え、乞食は光の中に立ち、美は消え、醜いものが現れ、善は蒸発し、悪が現れ、あなたの中の動物は裸になって目の前に立つだろう。

これはすべて必要なことだ。とても必要なことだ。この苦しみを乗り越えることは不可欠なのだ。それは出産の苦しみであるため、避けられない。そしてこの後でなければ、動物を直視した後でなければ、動物ではない者をはっきりと知ることはできない。

この動物を目の前で見る人は、動物とは違う存在になる。内なる動物を認識することで、動物との同一性が破られるのだ。観察は観察者と観察された者を分離させる。すると、覚醒の種が蒔かれ、それが完全に発達すると、自己実現へと花を咲かせるのだ。

罪から逃げること、闇から逃げること、動物から逃げることは、修行ではなく、修行からの逃避だ。それは現実からの逃避だ。それは砂の中に頭を隠し、敵を見ることができないので、敵は存在しないという考えに安心を感じているダチョウのようなものだ。これが本当なら、どんなに素晴らしいだろう! しかし、そうではない。敵が見えないからといって、敵が存在しないわけではない。それどころか、その方がもっと危険になる。目を閉じていれば獲物になりやすい。 敵の存在下では、敵について知ることは私たちの利益になるので、私たちの目はすべて広く開かれているべきだ。

無知は弊害以外の何物でもない。 このような理由から、私はあなたに自分の暗黒面を完全に見つけ出し、それを観察してほしい。すべての服を脱ぎ捨て、自分が何者であるかを見なさい。すべての原則や理論を脇に置いて、自分が何者であるかを見なさい。砂から頭を上げて、見なさい。

観察により自分を観て様々な苦を滅しているにも関わらず、自己観察を日に何度も忘れてしまいます。恐らく逃避もあることでしょう。めげずに気づいた時には観察に戻り、観察の時間を増やしていきます。

113鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/11(月) 23:38:07 ID:1d4drIFg0
自分を観ることは間違いなく痛みを伴うとオショーは言うのじゃ。
今まで恐ろしく、不安であるから逃避してきた自分の心を見直すのであるから苦しいのは当然なのじゃ。
自分を飾ってきた幻想のイメージを捨てて、ありのままの自分をみることが必要なのじゃ。
敵が怖いから観ないようにすれば、むしろ危険は増すように逃避してきた自分を観ないでいるのは、いずれは老病死の苦が来た時に苦を増すことになるのじゃ。
自分の暗黒面を見つけ出して、観察すればそれはもはや暗黒ではなくなるのじゃ。

114避難民のマジレスさん:2021/01/12(火) 20:52:47 ID:Dp/qMVVc0
まさにあなたの目を開くこと、この見ることこそが変容であり、新しい生の始まりだ。目を開くと変化が始まり、その後の行動は何をするにしても、あなたを真理へと導く。闇の層を突き破り、光の中へと歩を進め、罪の網を一掃して神を得る、無知に致命的な打撃を与えて、魂に到達するのだ。

これは、自己実現への旅のための、修行のための正しい道だ。そして、その前に夢を見る必要はない - 魂と神についての夢、サット・チット・アーナンダとブラフマンについての夢を見る必要は無いのだ。これは本当の楽園が失われている間、愚か者の楽園に住んでいるようなものだ。あなたもまた、行為の道によって、カルマによって、無知と闇を払拭することによって、完全な状態、サット・チット・アーナンダに到達することができる。

昨夜、ある人にサットサンガとは何かと聞かれた。私は答えた。サットサンガとは、自己の仲間、真理の仲間を意味する、そして真理は外では見つけられない。グルも、先生も、シャスターラも、あなたにそれを与えることはできない。それはあなたの中にあり、もしそれを得たいのなら、あなた自身の仲間を求めなさい。自分自身と一緒にいなさい。しかし、私たちは常に誰か他の人と一緒にいるのであって、決して自分一人ではない。

エックハルトは、かつて孤独な野原の木立の下に一人で座っていた。通りすがりの友人が彼がそこに座っているのを見た。その友人は近づいて言った。 「私はあなたが一人で座っているのを見て、一緒にいてあげようと思ったので、あなたに加わるためにやってきました。」 あなたはエックハルトが何と答えたか知っているだろうか? 彼は言った。「私は自分自身といたが、あなたが来てくれたので、今私は完全に独りになった。」

こんなふうに独りでいたことがあるだろうか? これがサットサンガだ。 これが祈りだ。 これが瞑想だ。私は自分の中に独りでいて、何の考えも、誰についての考えもないとき、私は自分自身の仲間の中にいる。外の世界が不在の時、内には自己の仲間がいる。その同伴者のない孤独の中で、あなたの純粋な存在の中で、真理が実現される。

「カルマによって」とありますが、意味がよくわかりませんでした。行為の道(the path of action)→(良い)カルマ→無知と闇を払拭でしょうか? カルマと関係なく、正しく観察すれば気づきがあるのかと思っていました。
また、エックハルトの答えについても教えてください。自分の思考に気づいたということかと思ったのですが、もし完全に独りになったのなら、友人と会話できないのではないでしょうか。

115鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/12(火) 21:47:38 ID:1d4drIFg0
カルマとはもともと行いの報いを解釈するために作られた概念なのじゃ。
そうであるから実践の成果とか、因果とか、結果でよいのじゃ。
行いとその成果で無知と闇を払拭するのじゃな。

悟っても会話はできるのじゃ。
友人の訪問によって自分を観ている自分に気付いたのじゃ。
そして独りになったのじゃ。
それがアートマンの独存なのじゃ。
実践に拠ってのみ理解できるのじゃ。

116避難民のマジレスさん:2021/01/13(水) 21:05:00 ID:Dp/qMVVc0
それゆえに、これは宗教的であることの問題であって、宗教的に見えることの問題ではない。誰かが宗教的であることについて尋ねてきたとき、私が最初に尋ねるのは、「あなたは宗教的に見えたいのか、それとも宗教的になりたいのか?」ということだ。この二つの道は全く違う。宗教的であることは修行であり、自己実現の過程だ。サドゥーや聖人の服装、ステレオタイプのありきたりなローブ、本、額や体にある印など、これらはすべて宗教的に見えるためのものだ。もしあなたもこのように宗教的に見えるようになりたいなら、それはとても簡単だ。

しかし、覚えておきなさい。見えることは他人のためであり、なることは自分のためであるということを。私は、他人が外から知っているような私ではない。私は内側から自分自身が知っているような存在なのだ。もし私が自分自身と調和して、落ち着いてあなたの前に現れたとして、それはあなたにとって何か価値があるだろうか? 実際には、その価値は私自身の存在としか関係がない。

宗教的な資質は、宗教的な服のように着用することもできる。人々はそれを飾り用の装飾品のように身につける。そして、これはさらに危険だ。人間の行動には、本物の花のようなものと、紙の花のようなものの二種類がある。前者は、植物の生命そのものと活力から生まれたもので、後者は生命を持たない。花は咲かず、花びらを貼り合わせなければならない。

私たちに熱があり、体が温度を上げているとき、私たちは体温を下げて熱を取り除こうとはしない。熱を下げることで体温を正常に戻すのだ。体温は熱の症状に過ぎず、それ自体が病気ではない。あくまでも指標であって、敵ではない。体温との戦いを始めた医師を何と呼ぶだろうか?

結局悟りの境地の説明は、実践により悟りを得ないと理解できないので、それらには囚われずにひたすら自分を観ることに励みます。オショーの説法が魅力的で、油断すると習慣によって思考で解釈しようとしていました。

117鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/13(水) 23:30:55 ID:1d4drIFg0
宗教的な装飾は危険だというのじゃ。
坊主の飾り立てた袈裟や大きな寺等は悟りとは関係ないものじゃ。
むしろ悟りから遠ざかるものであるから危険なのじゃ。
紛い物の宗教からは遠ざかり、真摯に自己の本心を観るのじゃ。

118避難民のマジレスさん:2021/01/14(木) 20:56:44 ID:Dp/qMVVc0
このような正気の欠如は、宗教生活にも見られる。外面的な現れを敵と勘違いし、その症状を病気と受け止めて戦い始める。これでは、病気を取り除くことはできない。それどころか、確実に取り除かれるのは患者、病気の患者なのだ。

エゴイズム、不誠実、暴力、欲望、貪欲、情熱は、すべて現れであり、すべて症状だ。それらは温度だ。病気ではない。私たちの戦いはそれらに向けられるべきではなく、それらを通して、内に犯人がいることを学ぶ必要があるだけだ。この犯人とは、自己の無知だ。それは、エゴイズム、欲望、恐怖、怒り、暴力、嘘などのように、様々な方法で表現されている、自己の無知なのだ。そして、それらは単なる現れであり、表現に過ぎないので、叩くことによって取り除くことはできない。

では、私たちは何をしなければならないだろうか? 真実、非暴力、博愛、勇気の造花を展示することによって、それらを隠そうとしなければならないのだろうか? あなたもまた、いつであったか、そのような花で自分自身を飾ったに違いない。気をつけなさい。たとえ他人を惑わすことに成功したとしても、あなたはそれらにだまされないように注意しなさい。

問題は、不誠実、暴力、恐怖を取り除くことではなく、自己のこの無知の上に上昇することだ。それらはすべて、この無知のために存在している。無知がなければ、存在することができない。もし自己の無知がなければ、それらすべては独りでに消え、その場所は独りでに真実、謙虚さ、無欲、怒りからの自由、非暴力、非独占性に取って代わられる。それらもまた現れだ。それらは自己の知を示すものなのだ。

第5章はここまでです。ここまでで何かおかしなところなどがありましたら、ご指摘ください。
オショーが、「ブッダは常に誤解される」( https://www.youtube.com/watch?v=-nSMi0whFEA ) と言っていますが、自分自身を観て、私自身を含めた衆生も、恐れから誤解したがり、誤解することがわかりました。日頃から恐れや怒りや逃避に注意して、観察を続けます。

119鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/14(木) 21:59:50 ID:1d4drIFg0
おかしなところはないのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。

120鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/14(木) 22:02:00 ID:1d4drIFg0
エゴイズムや不誠実、暴力等は不安や恐れからの逃避でしかないのじゃ。
それもまたただの反応なのじゃ。
戦ってそれらを無くそうとする努力は無意味なのじゃ。
反応を観察して滅することが出来ればそれが自己への理解であり、真実の知恵なのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2021/01/15(金) 20:38:33 ID:Dp/qMVVc0
第6章 3日目の朝 1964年6月6日 午前

私はあなたに真理を与えることはできない。もし誰かが、あなたに真理を与える能力があると言うならば、その人はあなたに虚偽を与えることにより始めていることは間違いない。誰も真実を与える能力を持っていない。これは与える者の能力についての批評ではなく、真実が生きているものであることを示しているだけだ。それは、与えることも奪うこともできる無生物ではない。それは生きた経験であり、自分自身で獲得しなければならない。

死んだものは人から人へ移すことができるが、経験は移せない。私が持っていた愛、愛の経験をあなたに移すことができるだろうか? 私が出会った美しさや音楽をあなたに与えることができるだろうか? このありふれた身体で、私がこのような並外れた経験をした喜びを、あなたに与えられるならどんなによいだろうか! しかし、そうする方法はない。落ち着かないし、苦しいが、何もできない。なんと無力なことか!

私の友人は生まれつき目が見えない。私は彼に視力を移すことができたらと願ったが、それは不可能だった。もしかしたら、目は体の一部であり、移植できる日が来るかもしれない。しかし、真理を見る視力は、どんなに強く願ったとしても、決して移すことはできない。それは魂のものであって、肉体のものではないのだ。

自己の世界で達成されるものは何でも、自己の努力によってのみ達成される。魂の世界では、借金も、借物も、他人に頼ることもできない。誰も借りた足でそこを歩くことはできない。そこには自己から離れて避難する場所はない。真理に到達するためには、あなた自身が自分自身の避難所にならなければならない。これは避けられない条件だ。

私はあなたに真理を与えることができないと言ったのは、これが理由だ。言葉だけが伝えることができる、言葉は命がなく、死んでいる-そして真理はいつも後ろに残っている。そして、この言葉の伝達は、全く本当の伝達ではない。生きているもの-その意味、その魂、その本質である経験-は、言葉と一緒に行くことはない。言葉は空の薬莢のようなものであり、火薬のない弾丸のようなものだ。それは死体、死人のようなものだ。あなたにとって重荷となるだけで、決してあなたを解放することはできない。言葉によって、あなたは真理の死体を運ぶだけだ。死体には真実の鼓動はない。

欲望や情熱もまた、不安や恐れからの逃避でしかないと頭では分かります。が、直接不快をもたらすことと違って、一時的な快をもたらす心の働きを厭離するのは、特に難しいと感じます。そのような快をもたらす心身の働きの連鎖も、気をつけて粘り強く観察します。

122鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/15(金) 21:55:48 ID:1d4drIFg0
真理は誰もが自分で見出さなければならないのじゃ。
言葉として伝えることは出来ないのじゃ。
オショーは言葉は命が無く、死んでいるというのじゃ。
言葉ではわからないことを自らの心を観察して気付くのじゃ。

123避難民のマジレスさん:2021/01/16(土) 20:50:01 ID:Dp/qMVVc0
私が話したように、真理は与えられない。しかし、私はあなたが背中に背負っているこの重荷を下ろす手伝いはできる。それはあなたが何年も背負ってきた重荷であり、それは非常に重く、耐え難いものになっている。あなたはこの言葉の重荷から解放されなければならない。旅人が道を歩いているうちに埃をかぶってしまうのと同じように、人生の旅の中で、言葉や考えの埃が人の上に集まるのは当然のことだ。しかし、この埃を払わなければならない。

言葉は死んだものであり、真理ではない。誰の言葉も真理ではない。集めてはならない。それらを集めることは有害だ。真理への巡礼は、この重さを背負って行うことはできない。登山家が高みを求めるために、山を登る前に荷物を捨てなければならないのと同じように、真理への旅に乗り出した人は、言葉の重荷を捨てるべきだ。言葉から解放された意識だけが、真理の高みに到達することができる。

私が教えるのは、ただ一種の非所有、言葉と思考の非所有だけだ。その重荷はあなたの旅を非常に困難にしている。荘子は「網は魚を捕るためのものである。魚を捕まえて網を捨てよ」と言った。しかし、私たちはとても悪い漁師なので、網に巻き込まれ、魚のことを忘れてしまった。自分の頭の上を見なさい。あなたは頭の上に船を乗せているが、それに乗って航海することを忘れている。

言葉は記号だ。 それは標識・指し示すものだ。それ自体が真実ではない。標識の意味を理解してから捨てなさい。標識を集めることは、死体を集めることと何ら変わらない。

言葉は月を指す指のようなものだ。指にすべての注意を集中する人は、月を逃してしまう。もし指があなたを指から引き離すなら、指は目的を果たす。しかし、逆に、指があなたを指自身に引き寄せてしまうと、指は役に立たないばかりか、本当に有害なものになってしまう。

あなたが学んだ真理についての言葉は、すでにあなたにとって不幸のもとになっていなかっただろうか? それはあなたがたを互いに、人と人とを隔ててしまったのではないか? 宗教の名の下に行われているすべての愚かさと残酷さは、言葉のためではないのか? 様々な宗教として知られているそれらの宗派は、言葉の違いだけに基づいているのではないのか?

思考中に厭離が起こることもあるのだから、思考より観察が常に良いわけではないのではないかと、自分自身への言い訳が起こり、それが逃避であることに気づきました。焦らずに一歩一歩励みます。

124鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/17(日) 00:22:47 ID:1d4drIFg0
言葉は悟りへの障害となる重荷であるというのじゃ。
言葉を集めるのは有害であるとまで言うのじゃ。
知識や言葉ばかり集めて自分の心を観察する実践を忘れてしまうならば、確かに言葉は有害じゃろう。
言葉は人と人を隔て、宗教を残酷なものにして、宗派をも作り上げて争いを起こしているというのじゃ。
言葉を捨てて心を観る実践をすべきなのじゃ。

125避難民のマジレスさん:2021/01/17(日) 20:51:50 ID:Dp/qMVVc0
真理は一つであり、一つでしかありえないが、言葉は多くある。月が一つであるのに対して、それを指し示す指は千と一つあるかもしれないように。真理を指し示す無数の言葉のうちの一つ以上にしがみついている人たちが、多くの宗教宗派の責任者たちだ。これらの宗教は真理からではなく、言葉から生まれたものだ。真理は一つ。宗教もまた一つだ。言葉を捨てる者は、この宗教だけに、そしてこの真理だけに到達する。それは比類のないものだ。

それゆえに、私はこれ以上の話をすることで、あなたの言葉の重荷を増やしたくはない。あなたはすでにこの言葉の重い荷の下で壊れている。あなたの首がその重さで曲がっているのがよくわかる。

真理を知った者は口を開かない。唇はしっかりと閉ざされている。そこからは何も聞こえない。このやり方で十分話してはいないだろうか? その者は真理が沈黙の中にあることを示唆しているのではないだろうか? 沈黙自体が真理であることを。しかし、私たちはその者の言葉を理解することができない。言葉なしでは何も理解できない。私たちの理解は言葉に限られているので、真理を知った者は言葉という媒体を通して私たちに語りかけてくるのだ。言葉では伝えられないことを言葉で教えてくれる。この不可能な偉業を成し遂げようとするのはその者の思いやりであり、私たちは無知であるがゆえに、その言葉の一つ一つを聞き取ろうとするのだ。言葉と無知が結びついて宗派を形成し、再び私たちは真理を奪われ、真の宗教はこれまでと同様に私たちから遠く離れている。

あなたは言葉の上に立ち上がらなければならない。そうして初めて、言葉の背後に何があるのかを知ることができる。言葉は私たちの記憶を埋めるだけだ。知はそこからは得られない。そして、どうか記憶を知と勘違いしないで欲しい。記憶とは過去の記録にすぎないことを、きっぱりと認識しなさい。それは学習であり、知ではない。

ある人がラマナ・マハルシに真理を知るために何をすべきかと尋ねた。彼は答えた。「あなたが知っていることをすべて忘れなさい」。あなたが知っていることをすべて忘れることができれば! この忘却の中から、真理と自己が知られる無邪気さと単純さが現れてくるだろう。

言葉の一つ一つを聞き取ろうとする。まさに、私も陥りがちなことでした。覚者の言葉を読んで、実践し、観察が自分の心に向かえば良い方向で、覚者の言葉の解釈や、違いの比較などに囚われるのが間違った方向ですね。気をつけて実践を続けます。

126鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/17(日) 21:58:51 ID:1d4drIFg0
真理は一つとオショーは言うのじゃ。
それは言葉には出来無いものなのじゃ。
言葉で真理を伝えるというのはにせものの宗教なのじゃ。
今まで集めてきた知識を捨てて自分を観るとよいのじゃ。

127避難民のマジレスさん:2021/01/18(月) 20:36:23 ID:Dp/qMVVc0
言葉や言葉から形成された思考があなたの意識を混雑させないとき、光はその自由な瞬間を見つけて入る。それは輝きわたり、あなたは知に到達する。あなたは意識の窓とドアを開かなければならない。そして今意識を取り囲んでいる壁も、同様に取り除かなければならない。そうすれば、あなたの本性である光に出会うだろう。実のところ、空(そら)に出会うには、空のようにならなければならない - 空(くう)、自由、無限に。思考はこれを許さない。雲のようにあなたを取り囲んでいる。これらの雲は散らされなければならない。それならばいったいどうして、私はこれ以上あなたの心の上に思考の雲を広げることができるだろうか?

私があなたに伝えていること、あなたに伝えたいが、できないことは、そのような思考やアイデアではない - それは経験、直接の実現だ。それが単に私が伝えたいと思っていた思考であったならば、私はあなたに伝えることができただろう - そして、その経験が外の世界のものであったならば、何らかの言葉がそれを伝えていただろう。しかし、この経験は外の世界のものではない。それはすべてを経験する者の経験だ。それは知る者の知だ。そして、そこに困難がある。

受け入れられた知識では、知るものと知られるものは別々であり、見ているものと見られているものは区別されるが、自己の実現においては、それらは別々ではない。そこでは、知るもの、知られるものと知はすべてひとつだ。そしてここでは、言葉は全く役に立たない。言葉はこの文脈で使われることを意図していない。そのように使うことは、言葉の能力を超えて、その可能性を超えて、それを引き伸ばすことだ。この綱引きの中で、言葉が不具になったり、命を失ったりするのも不思議ではない。そして、それらは真理の身体、外面的な形を示すが、真理の心に触れることはできない。真理は、言葉が存在しないときにのみ知ることができる。

言葉はいったいどのようにして真理を表現することができるのだろうか? 思考のない状態で得られるものは、思考によって地縛りにすることはできない。空(そら)を縛る方法はあるのだろうか? そして空を縛ることができれば、それを空と呼ぶことができるのだろうか? しかし、なぜ私たちは真理をこのように考えないのだろうか? 真理は空よりも限りなく、無限ではないのか?

ここまで訳を書き終わったあと、思考が心に浮かびませんでした。観察あるのみ。

128鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/18(月) 23:20:48 ID:1d4drIFg0
言葉や言葉から生成された思考は悟りの邪魔になるというのじゃ。
思考が無い時に気づきも起こるのじゃ。
そして言葉に拠って表現できない真理を体現できるのじゃ。
難しいことではあるがのう。

129避難民のマジレスさん:2021/01/19(火) 21:01:51 ID:Dp/qMVVc0
もし空が束になって市場で売られていたら、誰も買おうとはしないだろう。しかし、私たちは真理を買おうとしている。真理、神、そして解脱はすべて市場で売られている。そして、売り手は非難されるべきではない。その人たちは買い手の需要を満たしているだけなのだ。そして、買い手がいる限り、真理を求める顧客がいる限り、既製の真理を提供する店を閉鎖することはできない。宗教の名の下に運営されているすべての組織とすべての宗派が店になっている。その中であなたは既製の真理を買うのだ。既製服だけでなく、既製真理もそこで売っている。私はあなたに既製の真理を与えることはできない。既製の真理は単に存在しないのだ。

ある話を思い出した。 グル、教師はかつて弟子に真理についての質問をした。弟子は答え、そしてグルは言った、「そう、その通りだ。」 次の日、グルは同じ質問をした。弟子は前日にすでに答えたと言った。グルは彼にもう一度答えるように頼んだ。弟子は前日に言ったことを繰り返した、するとすぐにグルは「違う!違う!」と言った。弟子は驚いてグルに言った。「昨日、あなたは『そう、その通りだ』と言いましたが、今日はいったいどうして『違う』と言ったのですか。」グルは言った。「昨日は『その通り』だったが、今日は『違う』だ。」

この話の要点は何だろうか? わかっただろうか? それは弟子の答えが紋切型になり、固定されたパターンに幽閉されたということだ。それは命を失い、死んでいたのだ。それは記憶の一部となり、知ではなかった。私たちの記憶は、そのような死んだ答えでいっぱいで、生きているものは、そのすべての死体のために浮かび上がることができない。

友よ、記憶ではなく、経験を呼び覚まさなければならない。記憶は死んだ重荷であり、経験は生きた解放なのだ。真理の経験を事前に想像することは不可能だ。真理は、いかなる専門用語によっても、また何らかの哲学、宗教、理念によって仕立てられたいかなる厳格な定義によっても、幽閉されることはできない。私たちは、真理がいかなる理念にも、いかなる思想の流派にも適合することを期待してはならない。それを任意のパターンに限定するためのあらゆる努力は無駄になる。
―-
昨日鬼和尚が難しいと答えられたのは、思考なく、ただ在ることで悟りを得るということでしょうか。多くの人にとっては、縁起を観るのがより易しい方法なのですか?

130鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/19(火) 22:38:51 ID:1d4drIFg0
難しいのは言葉に拠らない学びなのじゃ。
子供の頃から教えられてきた学びとは、全てを言葉や数字や記号として記憶することだったのじゃ。
しかし悟りの道はそれらを全て否定し、言葉ではなくありのままに見て記憶しない方法なのじゃ。
今までと全く反対の学びであるから、非常に困難なのじゃ。
今回のオショーの話のように、昨日と今日ではもはや今ここにあるものが違っているから答えも刹那毎に違うのじゃ。
次々に移り変わる心のありようを、今ここで観ることが大事なのじゃ。

131避難民のマジレスさん:2021/01/20(水) 21:14:33 ID:Dp/qMVVc0
真理を幽閉するのではなく、逆に、自分自身を解放しなければならない。真理への道は、それを閉じ込めることではなく、その道は自分自身を発見することだ。真理を幽閉するのではなく、自分自身の束縛を解きなさい。これが到達するための唯一の方法だ。真理の実現は、経験を通してのみ可能だ。自己実現や自己体験以外の手段では知ることはできない。ただ唯一、経験だけが決め手となる。

かつて私は滝のそばにいた。私はその水を飲んで、それが甘いものであることを知った。これは真理にも当てはまる。飲んで知る。飲んでみなければわからない、味のようなものがある。

真理はあなたの知識の産物ではない。あなたの創造物でもない。あなたはそれを作り出していない。誰もしないし、誰にもできない。それはすでに存在している。どこでも買うことはできないが、すでにそこにあるのだ。目を開けた瞬間に見えるようになり、目を閉じた瞬間に見えなくなる。光のようなものだ。それを買う必要はない。ただ目を開くだけで、真理がそのすべての純真さ、完全な純粋さ、存在の充実した状態で現れ、あなたを一変させる。これを可能にするためには、使い古されたものや借り物の思考で自分を歪めたり、他者の残飯を受け入れたりしないことが不可欠だ。生には古臭いものや死んだものを受け入れる余地がないことを知らなければならない。

では、私はあなたに何を言わなければならないのだろうか? 私は真理について話さない。では、何について話そうか? 私はあなたに真理を知る方法について話す。光について話すのではなく、どのようにしてあなたの目を開いて光を見ることができるかについて話す。私は何を見ているかは言わないが、どのように見ているかは言うだろう。そのことのみが語られ得る。 そして、少なくともそれだけは有害な影響なしに話せると言うことは、あなたの大いなる幸運のおかげだ。

宗教、真の宗教は、真理の教義に関心を持つのではなく、むしろ真理を知る方法に関心を持つ。したがって、私は真理については何も言わないことにしよう。あなたが自分で見る前に、私はそれを明らかにしたくないのだ。私は、あなた自身がそれを知ることができる場所に、あなた自身がそれを見ることができる場所に、あなたの無知が蒸発し、あなた自身である燃え上がる火に出会う沸騰点に、あなたを連れて行きたいと思っている。

言葉に拠らない学びは、難しいですが、悟りを得るためには避けられず、そのために日々正しく止観につとめ励む必要があるということでしょうか。
自分の経験では、今のところ観察ができて気づきが得られることがあったとしても、それを記憶しないことはできないように思います。

132鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/20(水) 22:35:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、日々の精進で難しいことも出来るようになるのじゃ。

 記憶士はしても善いのじゃ。
 ただそれに囚われないことが大事なのじゃ。
 気付いたことを記憶して再び心の中に探そうとしたり、記憶した体験を再現しようとしてはいかんのじゃ。
 気付いた知識も体験も捨てて日々心の中に新しい知見を求めるのじゃ。
 そうすれば己も見えるのじゃ。

133鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/20(水) 22:37:24 ID:1d4drIFg0
真理への道とは自分自身を発見することにあると言うのじゃ。
それも知識に拠って知るのではなく、直接に観ることが大事なのじゃ。
水を飲んでその味を知るように、自分の性質を直接に味わうのじゃ。
真の宗教とは真理を知る方法を教えるものなのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2021/01/21(木) 21:12:25 ID:Dp/qMVVc0
では、その過程について話そう。真理への道を歩もうとする人は、二つの扉が開かれているのを見つける。ひとつは真理について考えること、もう一つは真理に到達するための修行に従うことだ。一つは論理の道であり、もう一つはヨーガの道だ。一つは真理を熟考する道であり、もう一つは真理の達成につながる規律の道だ。しかし、私の見たところ、扉は一つしかない。私にとってもう一つの扉は存在せず、単に存在しているように見えるだけだ。このもう一つの扉はただの幻想だ。

真理を考える道は、本当の道ではない。それは偽りの幻想の扉であり、そのために多くの人が迷子になってしまう。思考の扉を通って、真理について考えることによって、あなたはどこにも到達することはない。この道は疑いもなくあなたを迷わせるが、それはあなたをどこにも連れて行ってはくれない。非常に長い間この道を歩いた後でさえ、あなたが始めた場所とまさに同じ場所に立っていることに気づくだろう。それは始まりに過ぎず、終わりはない。そして、終わりのない歩き始めは夢でしかあり得ない。

真理について考えるとして、あなたは何をするのだろう? あなたはどのように真理を考えるのだろうか? 知られていないことを考えることはできない。いったいどうやって未知のものを考えるのか? その範囲は既知の領域にしかない。思考は問題を提起することはできるが、問題を解決することはできない。思考を追求する者は誰でも混沌の中に迷い込み、その心はある種の狂気の中で終わるだろう。多くの思想家が狂ったのは偶然ではない。これが思考の集大成であり、究極の目的地だ。思考の道は、全く真理を達成するための道ではないのだ。

ひとつ話をしよう。素晴らしい話を。

むかしむかし、一人の男が世界の終わりを求めて旅に出た。長い旅の後、ほとんど終わりのない巡礼の後、彼は「これが世界の終わりである」という言葉が書かれた寺院に到着した。彼は非常に驚き、そこで見たものを信じることができなかった。彼は旅を続けるとすぐに、世界が終わる場所にたどり着いた。深い深淵が目の前に横たわっていた。彼はその深淵を見下ろした。そこには全く何もなかった。彼の息はあっという間に上がり、頭が回り始めた。彼は振り返って走った。 そして二度と深淵を見るために戻ってくることはなかった。

全く何もない深淵に消えていきたいと思う心と、それに抵抗する心が、長い間せめぎ合っているように思います。ひたすら観察に励みます。

135鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/21(木) 23:31:11 ID:1d4drIFg0
真理について考えることは悟りへの道ではないというのじゃ。
実践することだけがただ一つの道だというのじゃ。
真理について考えてもどこへも行けないのじゃ。
終いには考えすぎて発狂したりもする罠の道なのじゃ。

136避難民のマジレスさん:2021/01/22(金) 20:55:34 ID:Dp/qMVVc0
これは、思考の終わりの話だ。真理について考えれば、私たちは考え続け、考え続け、考え続け、考え続け、それ以上の思考が不可能になる地点に到達する。これが思考の終わりだ。目の前には底知れぬほど深い空虚な空間があり、私たちの心はもう一歩を踏み出すことを拒むだろう。

思考を最後まで続けていれば、思考の過程でそのような瞬間が訪れる。それは避けられない。もしそれでもまだ考えるべきことがあると感じたら、まだ最後まで到達していないということを私から受け止めて欲しい。考えるべきことがもう何もなく、完全に何もなく、それ以上のことができなくなったとき、終わりが現実であること、世界の終わりの寺院に到着したことを知りなさい。

もし世界の終わりに到達した人が私に何をすべきかと尋ねてきたとしたら、どんなアドバイスをしたか想像できるだろうか? 逃げろとは言わなかっただろう。 せっかく旅をしてきたのだから、もう一歩、最後の、そして最も大事な一歩を踏み出しなさい、と言っただろう。奈落の底へ、空っぽな空間へ、目の前の空虚な空間へ、大胆に飛び込むように頼んだだろう。私はその人に、この最後の一歩だけが必要であることを伝え、世界が終わるところから神の王国が始まることを心に留めておいてほしいと頼んだだろう。

世界が終わる地点ほど重要な地点はない、なぜならそれは神の領域が始まる地点だからだ。神の視座は、思考が終わるところから始まる。思考が終わるところで真理が実現する。思考を手放して、無思考に飛び込まなければならない。言葉から、空に、空虚に飛び込まなければならない。これが道だ。これが勇気だ。これが苦行だ。これが修行だ。

昨日、a wonderful story を「素晴らしい話」と訳しましたが、「不思議な話」の方が良いように思いました。
空を目の前にした時、恐れで体に緊張を感じましたが、飛び込もうと意志をふるい起こそうとすると、その意志に自我が投射されて、空が無くなってしまいました。結局その恐れを観察して厭離しない限りは、飛び込めないように思うのですが、どうなのでしょうか?

137鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/22(金) 23:06:19 ID:1d4drIFg0
その恐れは自我が自分であるということから来ているのじゃ。
自我が無くなれば自分が無くなるという謬見があればその恐れが起こるのじゃ。
それが観られるならば恐れも消えるじゃろう。
その時には自然に一歩踏み出せるようになるじゃろう。

138避難民のマジレスさん:2021/01/23(土) 20:50:30 ID:Dp/qMVVc0
もしこの時点であなたがブラフマー、ヴィシュヌやマへーシャのビジョンを見た場合、あなたはまだ考えているということを自覚しなさい。もしマハヴィーラ、仏陀やクリシュナを見た場合は、まだ夢を見ているということを自覚しなさい。その時、あなたは本当の終わりには到達していない。真の終わりは、何も考えられず、何も見られず、何も知られないところにあるのだ。唯一、あなたの空(くう)が残っている。実際には、あなたもそこにはいない。そこにあるのは、空虚、無だけだ。

あなたは世界の果てに立っている。あなたの心は戻りたいと思うだろう。この瞬間に勇気が必要で、もう一歩踏み出さなければならない。もう一歩、一回のジャンプで十分だ。そうすれば、すべてが変容する。そうすれば、そこにはもう何の思考もない。そうすれば、実現がある。そうすれば、あなたは知る。

知ることをすべて捨てたとき、見ることをすべて放棄したとき、あなたは知る。そして、あなたがどの点から見ても存在しなくなった時、初めてあなたは本当に存在しているのだ。修行とは死の谷に飛び込むことだ。しかし、それは不死を実現する唯一の方法だ。必要なのは、考えることではなく、考えることから飛び出すことだ。そして、その考えることからの飛び出しが、瞑想だ。私は毎日、まさにこのことを言っている。思考は意識の海の波だ。それらは儚い泡のようなものだ。形づくられる前にほとんどが消えてゆく。思考は問題を抱えて揺れ動く表面を示している、しかしその中に見られるものは、その下の深さには見られない。泡や波と共にいることは、浅い水の中にとどまることだ。すべての思考は浅い。深い思考というものはあり得ない。海の深さに波がありえないのと同じように。波は表面だけで可能であり、思考もまた意識の表面の遊びに過ぎない。海は波の中にはなく、波は海の中にあるのだ。海のない波はありえないが、波のない海はあり得る。意識のない思考はありえないが、思考のない意識はあり得る。

意識は源であり、泉である。もしそれを知りたければ、あなたは波を超えなければならない。波を超越しなければならない。海岸に座っているだけではいけない。カビールは「私は探求しに行ったが、愚かにも岸辺に座り続けた」とかつて言った。どうかカビールのように岸辺に座らないでほしい。岸を越えなければならない。岸はあなたが海に飛び込むためにあるだけだ。

勇気づけられます。心の観察に励みます。

139鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/23(土) 23:58:56 ID:1d4drIFg0
瞑想中にはいろいろなことが起こるものじゃ。
神や仏が目の前に出てきてもはや悟ったとかいうこともあるじゃろう。
それは幻想に過ぎないのじゃ。
それらも雑念として乗り越えて何も無いところにまで行かなければならんのじゃ。

140避難民のマジレスさん:2021/01/24(日) 20:49:48 ID:Dp/qMVVc0
また、人は岸に立ったままではなく、波に浮いたままということもあるだろう。私からしてみれば、これもまた岸辺だ。飛び込んで溺れるのを止めるものが岸辺なのだ。思考の中で泳いでいる人は、このようなものだ。岸を離れたような錯覚に陥っているが、実際には離れていない。海を知るためには、その人もまた、波を後にして離れなければならない。

マハヴィーラが亡くなる時、その時不在だった最愛の弟子ゴータマにメッセージを残した。彼は、「ゴータマに、あなたは川をとてもうまく渡った。が、なぜ今、岸にしっかりとつかまっているのかと聞きなさい。そして、それも手離すように言いなさい。」と言った。マハヴィーラはどの岸のことを言っていたのか? 私も同じ岸のことを言っている。それは思考の岸であり、思考の中で泳いでいる人の岸だ。

真理は泳ぐことによってではなく、潜ることによって達成される。水泳は表面で行われるが、ダイビングは、あなたを計り知れない深さに連れて行く。あなたは思考の岸から空の深さに飛び込まなければならない。ビハールの美しい二行連句がある: 「半分溺れたものたちは完全に溺れてしまった。完全に溺れたものたちは海を渡った。」

その時、あなたはどうするつもりなのだろうか? 海を渡りたいのであれば、自分を溺れさせる勇気は絶対に必要だ。私は、あなたが海を渡ることができるように、あなたが本当の自分になれるように、まさに自分を溺れさせる行為を教えている。

第6章はここまでです。もし何かありましたら、ご指摘ください。
また、マハヴィーラの話で、川を渡った後に思考の岸につかまっているというのは、どういうことなのでしょうか?

141鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/24(日) 23:16:17 ID:1d4drIFg0
無我になった境地でとまっている者が、岸辺に掴まっている者なのじゃ。
自我という川は渡ったが、無我の境地という岸辺からは離れられないのじゃ。
それだけではまた観念があり、観念による思考も起こるのじゃ。
更に認識をも離れて観念が無くなり、思考も起こらなくなるのじゃ。

142避難民のマジレスさん:2021/01/25(月) 20:59:12 ID:Dp/qMVVc0
第7章 3日目の夜 1964年6月6日 午後

最初の質問:あなたによれば、誰も真理を伝えることはできません。それではあなたが言っていることは真理ではないと言うことですか?
私があなたに言っていることは、単なる指標であり、それ自体が真理とみなされるべきではない。真理は、指標とはかけ離れている。真理は、あなたが見なければならない道標ではなく、あなたを導く道標の先だ。その導く方向を見ていると、あなたが知覚するものが真理だ。その真理を語る方法はない。口にされるとすぐに、それは偽りになる。真理は決して表現することはできない、しかしそれは自分の経験となることはできる。

第二の質問: あなたは私たちが完全に融合され、溺れることを提案していますね。どうすればいいのでしょうか?
私は自分自身の経験から、自分自身と融合することほど簡単な道はないと話す。人がしなければならない唯一のことは、心の表面でいかなる支えを求めるのもやめることだ。思考を捕らえ掴むことで、溺れることはできず、その支えのために、あなたは表面にとどまる。

私たちは思考を捕らえ掴む習慣がある。一つの思考が過ぎ去るとすぐに、私たちは別の思考を掴む。しかし、連続する二つの思考の間の隙間に入ることはない。この隙間自体が、深みの中で溺れることへの道筋なのだ。連なる思考の中で動いてはいけない - 隙間の中でそれらの間に深く潜っていきなさい。

どのようにしてこれを行うことができるだろうか? それは、思考の流れを観察することによって、気づいていることによって行うことができる。道路の側に立っている人が通り過ぎる人々を見ているのと同じように、あなたはあなたの思考を観察する必要がある。思考は単なる歩行者であり、あなたの中の心の道を通り過ぎているだけだ。ただ見ていればいい。そのいずれについても、判断を下してはならない。もしあなたが思考を無関心で観察することができれば、それを掴んでいた拳は自動的に開き、あなたは思考の中ではなく、その隙間に立っている自分に気づくだろう。しかし、その隙間には土台がないので、ただそこに立つことはできない。そこにいるだけであなたは溺れる。

そして、この溺れること自体が本当の支えとなる。なぜならば、これを通してあなたは本当の存在に到達するからだ。思考の領域で支えを求める者は、本当は支えなしで宙に浮いているが、すべての松葉杖を捨てた者は、自分自身の支えを得るのだ。

ふと、眠りに落ちるときは怖くないのに、自我が消えてゆくのを観るのが怖いというのも変だと思いました。今日は眠りに落ちるときにも、できるだけ観察してみようと思います。

143鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/25(月) 23:00:32 ID:1d4drIFg0
言葉では真理を示すことが出来ないから、ただ道標として自ら進む以外に無いのじゃ。
そうすれば真理を見出すことは出来るのじゃ。
集中する瞑想では数息観でも思考が止まる時を持つことが出来るのじゃ。
思考が止まってもそれを認識することが出来るのじゃ。
思考が止まっても存在する意識に没入するのじゃ。

144避難民のマジレスさん:2021/01/26(火) 21:00:10 ID:Dp/qMVVc0
第三の質問:私は自分の心を征服したいのですが、それは不可能だと思われます。しかし、あなたはそれがとても簡単だと言います。どうやるのですか?
まさに征服という考えの中に、私は征服は不可能であることの種を見る。そしてそれは、人間が征服することを全く許さない、まさにそのようなものだ。もしあなたが自分の影を征服したいと思ったら、征服することができるだろうか? 影が影であることを知った時点で、あなたは影の真実を自覚したことになる。影は征服すべきものではなく、知られるべきものなのだ。そして、影の真実はまた、心の真実でもある。私はあなたに心を知ることを求めているのであって、それを征服することではない。

ある人がブッダに「私の心はとても落ち着きがありません。それを落ち着かせる方法を教えてくださいませんか。」と言った。ブッダは質問によって答えた。「あなたの心はどこにありますか? それを持ってきなさい、そうしたら私は落ち着かせるでしょう。」その人は言った。「それが難しいのです。それを捕まえようとしましたが、どうしてもできませんでした。」

もし私がブッダのところにいたならば、言っただろう、「それを捕まえようとしないで、そのままにしておきなさい。それを捕まえようとするあなたの願望が、まさにその落ち着きのなさなのだ。あなたは影を捕まえることができるだろうか?」

ブッダが他に何と言ったか知っているだろうか? 彼は言った、「私を見てください。私はそれを落ち着かせたのではないですか?」と。

もしあなたが自分の心を観察できて、それを捕まえようとしたり、征服しようとしないならば、それがもう見つからないことに気づくだろう。昔の人はよく馬の鞍替えをしようとするときに、馬を疲れさせた方がいいのか、それとも手綱を締めた方がいいのか、と尋ねたものだ。また、心を征服するために、心を支配するために、この二つの方法があった。しかし、私はこの二つの方法のどちらも処方しない。

まず第一に、本当に馬がいるのかどうかを確認してほしい。あなたは疲れ果てている、全く存在しないものに馬具や鞍をつけようとして。馬がいないのだから、どちらの努力も役に立たない。馬はあなたの無知の影なのだ。目覚めた時、 征服すべき馬も心もないし、支配すべき馬も心もない。

オショーの文も読むと心が静かになり、注意が内側に向きます。

145鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/26(火) 23:17:14 ID:1d4drIFg0
個人の心は観察すれば消えて行くものなのじゃ。
個体であるものの心は存在しない故に征服も出来ないのじゃ。
在ると言えるのは意識だけなのじゃ。
ただひたすらに観察する事でそれに到達できるのじゃ。

146避難民のマジレスさん:2021/01/27(水) 21:00:00 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:あなたはまた、思考にしがみつかないように私たちに求めています。これは良い考えにも当てはまりますか?
もしあなたの本当の存在を知りたいなら、善と悪の両方の自分自身を取り除き、中身なしで、空になる必要がある。思考は、善と悪の両方とも、すべて後天的なものだ。それらは外から入ってくるものだ。あなたの本当の存在は、この鎖の重荷の下に隠されている。これらの鎖を解く必要がある。鎖が鉄であろうと金であろうと違いはない。

外から入ってくるものは何であれ、後天的なもの、獲得されたものだ - しかし、私たちの内側には、外部からの印象が入ることのできない純粋な意識の状態がある。魂は、自分の外面的な装飾や外面的な条件がすべてない状態でのみ、自分自身となる。自分の魂を発見するためには、条件づけられていない心を持っていなければならない。しかし私たちは思考でいっぱいであり、そして宗教的な人たちはさらにいっぱいで、常に宗教についての思考の山を増やしている。そして、これが「宗教的であること」として理解されていることなのだ! 聖典に満ちていることは、宗教的であると考えられている。これは完全に間違いだ。

ある師がある時、弟子に言ったことがある。「他のことはすべて問題ないが、あなたにはまだ一つの欠点がある。」と。その弟子は長い間考えたが、自分の行動の欠点を見つけることができなかったので、師に尋ねた。師は答えた「あなたの中は宗教でいっぱい過ぎる。これはあなたの中に残っている唯一の欠点だが、それは決して取るに足らないものではない。」

どうして宗教でいっぱい過ぎるのだろう? 宗教の聖典が多すぎて、宗教的な思考が多すぎて、心が重荷になって、真理の空に飛び立つことができなくなることがある。

私はあなたに空であることを求める。すべての思考、すべての印象を完全に取り除き、その空虚さの中で何が起こるかを見なさい。人生の最大の奇跡は、その空虚さの中で、その空の中で起こる。その空虚さは、あなたを自己と対面させる。これ以上に素晴らしい奇跡はない! あなたが自分自身と対面するとすぐに、あなたは神と対面するのだ。

心を観察しようとすると目に自我が投射されることがあります。習慣とは興味深いものです。そのような時、私は頭の下部の後ろあたりに意識を置いたほうが、心の観察がし易いです。

147鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/27(水) 23:22:02 ID:1d4drIFg0
善いものでも悪いものでも思考は全て止めると善いのじゃ。
思考では辿りつけない領域まで行かなくてはならないのじゃ。
全ては思考では把握できないからなのじゃ。
自分も思考では把握できないから思考をとめて観るしかないのじゃ。

148避難民のマジレスさん:2021/01/28(木) 20:48:59 ID:Dp/qMVVc0
第五の質問: 私は偶像崇拝者ですが、あなたの視点から見ると、偶像の必要性がないように思えます。あなたはそれを諦めるように私に助言しますか?
私は何も諦めなさいとは頼んでいないし、引き受けなさいとも頼んでいない。目覚めなさいと呼びかけているだけだ。あなたが目を覚ますとき、あなたの夢が終わっているときには、それは別の話になる。行動は意識のレベルに応じて変化する。子供は大人になると自動的に人形遊びをしなくなる。それを手放すための努力をせず、それは自動的に止まる。

昔、村のはずれに一人のサドゥーが住んでいた。彼は扉のない小屋で一人で暮らしていた。家の中には扉を必要とするものは何もなかった。ある日、何人かの兵士が通りがかった。彼らは小屋に入り、水を求めた。そのうちの一人が、なぜサドゥーなのに、小屋のどこにも神の偶像がないのかと尋ねた。サドゥーは答えた。「この小屋はとても小さい。二人分の場所があるでしょうか?」と。

兵士たちはサドゥーの言葉を面白がって、次の日には神の像をプレゼントした。しかし、サドゥーは「神自身が長い間ここに住んでいるので、どんな神のイメージも必要ありません。そして『私』は無くなってしまった。ここには二人分の場所がないのがわかりませんか?」と言いました。兵士たちは、彼が自分の心を指し示しているのを見た。それが彼の小屋だった。

神には形がない。そしてそれゆえに、その存在は無定型で、形がない。意識も形を持つことはできない。それは無限なのだ。それは始まりも終わりもなく、ただ存在し、始まるということも終わるということもない。

これらの像を作る私たちは何と愚かなのだろう。私たちは自分で作った偶像を崇拝しているのだ。人間は自分の形に基づいて神の像を作ったので、このようにして、自分自身を崇拝することになってしまう。これは、自己欺瞞、エゴイズム、無知の極みだ。

私もイメージに惹かれる自分が愚かだとよく思いますが、結局は自我を滅しない限りは解決しません。イメージに惹かれる心も詳しく観察し続けます。

149鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/28(木) 22:52:24 ID:1d4drIFg0
偶像崇拝は無意味だというのじゃ。
神と呼べるものが自らの心の中にあるのに、外にあるという概念設定の神の似姿を作って拝む必要は無いのじゃ。
それは自己観念の崇拝なのじゃ。
不安からの逃避に過ぎないのじゃ。

150避難民のマジレスさん:2021/01/29(金) 21:15:17 ID:Dp/qMVVc0
神は崇拝されるべきものではない。神は生きるべきものだ。神殿ではなく、自分の生の中に神を据えなければならない。あなたは、神が心の中に入ってきて、あなたの息の一つ一つの中にいることができるように、あらゆる努力をしなければならない。そのためには、「私」の消失が不可欠なのだ。現在、その「私」があなたの心を占め、人生のあらゆる瞬間に浸透している。そして、その「私」があなたの中にある限り、神が入ることは不可能だ。カビールの歌の中で、愛の道は非常に狭く、二人が同時にその道を歩くことはあり得ないと言っている。

ある夜、私はランプの灯りのそばで、とても遅くまで読書をしていた。ランプを消したとき、私は驚いた。満月が外を照らしていたが、私の小さなランプの灯りが、月明かりが部屋に入るのを妨げていたのだ。ランプが消えた途端、月の甘露が部屋に浸透してきた。その日、私は「私」の光が中で輝いている限り、神の光は外で待たなければならないと悟った。

「私」の消滅、涅槃、サマーディは、すべて神の到来を意味する言葉だ。それらは同義語だ。それゆえにどうか、どのような神のイメージも作らず、ただ「私」のイメージを破壊してほしい。その不在そのものが神の存在となる。

そうすれば、真理を悟るのは何と簡単なことだろうか。しかし、簡単で単純に見えるものは、常に難しいものであることがわかる。それは、簡単で単純なものは、同じ理由ですぐに忘れ去られてしまうからだ。私たちは、遠くにあるものに夢中になり、近くにあるものを見失う。私たちは、他のものに占領されたままで、自己であるものを忘れてしまう。

観客が目の前の芝居に夢中になって、自分自身を忘れてしまうことは、劇場ではよくあることではないだろうか? 人生でも同じことが起こる。人生もまた巨大な舞台であり、私たちは舞台で演じられていることに夢中になり、観客、見者、自己を忘れてしまっているのだ。真理を得るために、自分自身を得るために、あなたはただ一つのことをしなければならない - ただ目を覚まし、自分が演劇の中にいることに気づくだけだ、他には何もない。

今日も何回も観客を忘れました。ただ、以前よりは確実に、舞台と観客を観られるようになって来ました。目を覚ますまで続けます。

151鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/29(金) 23:33:17 ID:1d4drIFg0
神は崇拝されるべきものではく、生きるべきものだと、オショーは言うのじゃ。
神として在る事が本来の意識なのじゃ。
それには自我を完全に観てその無存在を理解しなければならないのじゃ。
自我がある限り本来の意識は気付けないのじゃ。
ランプの光で月の光に気付けなかったようにのう。

152避難民のマジレスさん:2021/01/30(土) 20:57:42 ID:Dp/qMVVc0
私は、あなたが座っていても、立っていても、歩いていても、寝ていても、行動に表れる一種の落ち着きのなさに常に囲まれているのを見る。それは偉大なものであれ、小さなものであれ、すべての行動の中にある。あなた自身もそれを感じないだろうか? 何をするにしても、あなたは落ち着きのない心でそれを行うことに気づいたことはないだろうか?

あなたは、この落ち着きのなさの弾幕に歯止めをかけ、沈黙の領域を作る必要がある。沈黙を背景にしてのみ、あなたの中に常に存在する喜びと音楽を経験することができる - しかし、あなたはそれを聞くことができず、自身の中の騒動と混乱のために、それを生きることができない。友よ、外の騒動はまったく邪魔ではない。もしあなたが自分の中で平穏であれば、外の騒動はないのと同じだ。しかし、私たちは自分自身の中で落ち着きがないのだ。そして、これが唯一の困難だ。

今朝、ある人が私に尋ねてきた。「内なる安らぎを手に入れるにはどうすればいいのですか?」と。私は言った、「花を見なさい。それがどのように開くかを見なさい。流れを見なさい。それがどのように流れるのかを見るのだ。」 そこにどんな落ち着きのなさを見るだろうか? 何と安らかにすべてが続いているのか!人間以外にはどこにも落ち着きのなさはない。

あなたも花のように生きることができる。そのように生きて、自然の一部としての自分を体験してみなさい。「私」が分離しているという信念が、このような落ち着きのなさと緊張感を生み出しているのだ。何か行動をする前に、どんなことでも何かをする前に、「私」を完全に取り除きなさい。そうすれば、神聖な安らぎがあなた全体に広がるのに気づくだろう。

風が吹いているときは、風であるかのようにいなさい、雨が降っているときは、あなたも雨であると感じなさい。そうして、安らぎが徐々に深まるのを見なさい。空とともにある時は空であり、闇とともにある時は闇であり、光とともにある時は光である。離れてはいけない。あなたという一滴を海に落としなさい。そうすれば、美であり、音楽であり、真理であることを知るだろう。

もし私が歩くならば、歩いていることを意識しなければならず、もし立ち上がるならば、立ち上がっていることを意識しなければならない。身体や心の行為は、無意識のうちに、半分眠っている間に起こってはならない。このようにして目覚め、意識して生活すれば、あなたの心は、純粋で、完全な、透明なものになる。

己を空しくして自然の一部としての自分を体験することと、目覚め、意識して生活することは、私としては両立が難しく感じられます。前者は主に集中によってもたらされ、後者は観察によって得られるように思います。何かコメントをいただけますでしょうか。

153鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/31(日) 00:06:15 ID:1d4drIFg0
それは言わば表層の意識でできることではないのじゃ。
もっと深い意識に到達すれば、同時にできるのじゃ。

そのように想うのもそれを観る意識が在るからなのじゃ。
更に深く心の中に没入して、その観る意識と同調するのじゃ。
そうすれば全てであることと、目覚めて意識していることが同時に出来るのじゃ。
それに到達することが集中の瞑想の目的でも在るのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

154避難民のマジレスさん:2021/01/31(日) 20:48:36 ID:Dp/qMVVc0
このような意識した生活と行動を通して、瞑想は生の各活動に浸透していく。その内なる流れは、夜も昼も私たちに寄り添う。それは私たちを落ち着かせてくれる。瞑想は私たちの行動を浄化し、私たちを徳のある人間にしてくれる。目を覚まし、物理的にせよ精神的せよ、全ての行動を意識している人は、他の人に間違ったことができないことを覚えておきなさい。悪行は、妄想の状態で、無意識のうちにのみ犯すことができる。それらは、覚醒して意識した状態では、とても簡単に避けることができる。

私は瞑想の集大成である 「偉大な死」を、サマーディと呼ぶ、そして実際のところ、それはまさにそれだ。普通の死を経て、あなたは死ぬだろう - しかし、あなたは生まれ変わるだろう。なぜならば、その死であなたの自己がなくなることはないからだ。自己は新たに生まれ変わり、また別の死を通過するのだ。普通の死は本当の死ではない。なぜならば、普通の死の後には生まれ変わり、また死が続くからだ。そして、このサイクルはサマーディまで続き、大いなる死が来て、誕生と死のサイクルから解放されるまで続く。

サマーディとは大いなる死のことであり、サマーディの中では「私」が消滅し、それに伴って誕生と死のサイクルも消滅する。そうして残るのが生だ。サマーディの大いなる死を経て、人は誕生も死もない不滅の生に到達する。不死には始まりも終わりもない。私たちがモクシャ、解放、涅槃、ブラフマンと呼ぶこの大いなる死こそが、それなのだ。

私はまた、ディヤーナ、瞑想を活動としてではなく、休息としてみなすようにと頼む。「無活動 」とは、まさにこのことを意味する。それは完全な休息であり、すべての行為を完全に停止することだ。そして、すべての行為が無に還元され、心の脈動が静止したとき、その安らかな状態では、世界のすべての宗教が一緒になっても教えられない何かが現れ始める。行為がないときにのみ、無行為であること、つまりすべての行為の中心であり生命であることを見ることができる。そのときにのみ、行為者を見ることができる。

サラハパーダは、「心よ、行って休め - どこか太陽と月が届かない所、空気さえも敢えて入らぬ所で 」と述べている。そのような場所はあなたの中にあり、他の誰も入ることはできない。それがアートマン、あなたの魂だ。

延髄の上あたりに感じられる、観る意識と同調しても、自我がその観る意識に投射されており、全てであることを感じることはできていません。同調が不十分なのでしょうか?

155鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/31(日) 23:48:52 ID:1d4drIFg0
オショーは偉大な死をサマーディと呼ぶのじゃ。
それは肉体の活動をも超越しているからなのじゃ。
意識はその時、肉体の外にも感じられるじゃろう。
肉体のどこかで止まっているならば、それはまだ恐れや常識、観念の範囲から抜け出して居ないのじゃ。
意識が肉体の外にも感じられることはヨーガでは脱身といい、仏教でも意生身とか識無辺定というのじゃ。
全てである意識の片鱗を味わっているだけなのじゃ。

肉体の活動を全て休息させてそこに至るのじゃ。
思考する脳が止まっていることさえ感じられるのじゃ。
意識は思考ではないからなのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

156避難民のマジレスさん:2021/02/01(月) 20:34:45 ID:Dp/qMVVc0
一方、あなたの身体は、他者が接触できるところまで伸びている。世界があなたの中に入ることができる限界は、あなたの身体の境界だ。世界はそこに入ることができる、なぜならばそれは輪廻の世界の一部だからだ。感覚は世界が入る扉だ。心は、このようにあなたの中に入ってきた印象の寄せ集めなのだ。

肉体を超え、心や感覚を超えたものが魂であり、アートマンだ。その魂を得ない限り、生は無意味だ。なぜならば、それを知り、それを達成しなければ、すべての知識や成果は無価値だからだ。

私は、輪廻と涅槃、世界と解放を二つの異なるものとはみなしていない。それらの間に存在する区別は、その性質とは何の関係もない。それは客観的な区別ではない。区別はそれらの間にあるのではなく、それらを見るあなたの見方にあるのだ。輪廻と涅槃は二つの異なる存在ではない。輪廻と涅槃は、一つの現実を見るあなたの二つの見方だ。現実はただ一つだが、その見方は二つだ。知の観点から見ると、それは一つのものに見え、無知の観点から見ると別のものに見える。無知では輪廻として見えるものが、知では涅槃になる。この世では無知であるものが、神の中では知となる。したがって、問題は、外部の世界ではなく、内部の世界をどのように変えるかということだ。あなたが変われば、他のすべてが変わる。あなたは輪廻であり、涅槃でもあるのだ。

真理はどんな代償を払っても手に入れることはできない。それは何かと引き換えに他人から得ることはできない。それは自己啓発の賜物だ。

大きな心配事や痛みなどがある時には、それがない時よりも体験上、厭離が難しいのですが、これはその大きさにより観察が疎かになるからなのでしょうか?

157鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/01(月) 23:34:44 ID:1d4drIFg0
苦が大きかったりすると逃避したり、それが起こす感情に巻き込まれたりするからなのじゃ。
止による集中力が十分でないと、そのようなこともおこるのじゃ。
心が止まらず動いてしまうのじゃ。
その感情と同一化したり、逆に逃避する動きに同一化してしまうのじゃ。
強く集中して肉体をも客観的に観られるようになれば、それも回避できるのじゃ。

158鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/01(月) 23:41:04 ID:1d4drIFg0
オショーは輪廻と涅槃は一つであると言うのじゃ。
それは人の見方による区別でしかないからなのじゃ。
全ての世界は一つであるからなのじゃ。
それは自らの進歩に拠ってのみ気付く事が出来るのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2021/02/02(火) 21:04:58 ID:Dp/qMVVc0
ビンビサーラ皇帝はかつてマハヴィーラのもとに行き、「私は真理を得たい。私は自分が持っているものは何でも喜んで与えるが、人のすべての悲しみを取り除く真理を持たなければならない。」と言った。マハヴィーラは、支配者が世界を征服したのと同じ方法で真実を征服したいと思っていること、さらには真実を買いたいと思っていることを見た。それで、マハヴィーラはエゴが話されたことを理解して、ビンビサーラに言った、 「閣下、最初にあなたの帝国の市民である、プンヤ・シュラヴァクのところに行き、彼から瞑想の果実を手に入れてください。それは解放と真理へのあなたの旅をより簡単にするでしょう。」

ビンビサーラはプンヤ・シュラヴァクのところに行って言った、「私はお願いしに来た。あなたの瞑想の果実を買いたいのだ。幾らでも支払おう。」

皇帝の要求を聞いて、プンヤ・シュラヴァクは答えた。「閣下、瞑想は静けさを意味します。それは心を誘惑や憎しみから解放し、自分自身の中で安定した状態を保つことを意味します。これが、どのようにして、ある人から別の人に与えられるのでしょうか? あなたはそれを買いたいと思っていますが、それは不可能です。自分で手に入れなければなりません。」

他に方法はない。真理は買うことができない。贈り物としても、物乞いによっても得ることはできない。そして、攻撃によって征服することはできない。真理を攻撃することは、それを達成する方法ではない。暴力は自我の表現であり、自我があるところに真理は存在できない。真理を達成するためには、自分自身をゼロにしなければならない。真理は空虚、空の扉を通って来る。それは自我の攻撃ではなく、感受性と空の受容を通してやって来るのだ。真理を攻撃してはならない - それが入ってくるために自分自身を開いて準備しなさい。

少し油断すると、すぐに自我によって振りまわされてしまいます。忍耐強く観察に励みます。

160鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/02(火) 22:35:09 ID:1d4drIFg0
悟りはどれほど金を積んでも得られないのじゃ。
権力に拠っても得られず、他人から強奪することも出来ないのじゃ。
それは自ら実践することでのみやってくるものじゃ。
ただひたすらに実践し、己の心を開いて待つのみなのじゃ。

161避難民のマジレスさん:2021/02/03(水) 20:55:28 ID:Dp/qMVVc0
慧能は、真理に到達する方法があると言った:無修行による修行。修行に力を使うのを避けるため、無修行を条件としている。これは無行為であり、無修行だ。それは達成ではなく、空になることだが、それが真理を達成する道だ。あなたが自分を空にする分だけ、あなたは達成する。

雨水はどこへ行くのだろうか? それは丘の上にとどまるのではなく、空っぽの溝に流れていく。真理の性質は水の性質に似ている。もしあなたが真理を達成したいなら、自分自身を完全に空にしなさい。空になるとすぐに、真理はその空の場所をそれ自体で満たすだろう。

真理はあなたの中にある。それは私の中にある。探すために他のどこかに行く必要はない。水のために井戸を掘るように、それを自分の中から掘り出さなければならない。魂の井戸を掘らなければならない。そして瞑想は、その井戸を掘るための鋤なのだ。瞑想の鋤を使って、私たちの本質を覆っている外界の土を掘り出さなければならない - そうすれば、私たちが求めているものは近くにある。それは求道者自身の中に隠されているのだ。

第7章はここまでです。もし何かございましたら、ご指摘ください。
掘っても掘っても自分が出てきますが、励み続けます。

162鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/03(水) 21:19:48 ID:1d4drIFg0
慧能の法は法ではなく、むしろ法をも放棄した法といえるじゃろう。
何もしないことで悟りを迎え入れるのじゃ。
それは無為の法なのじゃ。
自ら無になって無我になるのじゃ。


特にないのじゃ。
ご苦労さんなのじゃ。

163避難民のマジレスさん:2021/02/04(木) 21:08:04 ID:Dp/qMVVc0
第8章 4日目の朝 1964年6月7日 午前

あなた方に会うことができて本当に嬉しい!あなたの真理を知りたいというあこがれの深さ、渇きの深さを感じる。私はあなたの目にそれを見て、あなたが呼吸するたびにそれを感じる。そして、あなたの胸が真理の達成を求めて高鳴っているように、私の胸もまた高鳴っている。私はあなたの知への渇きに深く感動している。こんなに嬉しいことはない! それはとても美しい!この世には真理を知りたいという願いほど甘美で美しいものはない。

この喜びの瞬間に...何と言おうか? 私の言葉を待つあなたの探求のこの瞬間に、何を言おうか?このような瞬間にこそ、私たちは、言葉がいかに取るに足らないものであり、無意味で無力なものであるかに気づくのだ。特に言う価値のあることが何もないときには、言葉はそれを伝えることができるが、何か深いことを言うべきときには、言葉は惨めなほど不十分だ。真理の実現、至福の経験、そして美の洞察は、地上の形に帰することができないほどに繊細で霊妙なので、これは当然のことだ。そして、それらに形を与えようとするとすぐに、それらの経験は死んで無意味となり、生きている経験は生きたまま私たちの手の中に入ってくるのではなく、その死体となって現れる。霊は取り残され、言葉が言及するものは何であれ、もはや真理ではない。

では、私は何を言えばいいのだろうか。何も言わない方が良かったのだろうか、何も聞かない方が良かったのだろうか。私たちが静かに穏やかに、言葉もなく黙ったままでいられたら、どんなにすばらしかっただろうか。あなたは目を覚まして、その沈黙の中にある何か、本当にある何かを見ることができたかもしれない。その場合、私は話さずに済んだし、あなたは聞かずに済んだが、それでも真理は伝わっただろう。なぜならば、永遠の真理はすべての人の中にあるのだから。あなたが探し求めている音楽は、すべての瞬間にあなたの存在の奥底で響いている、そして真理を求めている瞬間は、たとえそれが沈黙であっても、祈りへと変わっていく。神を渇望することも、静かに待つことも、どちらも祈りなのだ。

私の経験では、渇望と同時には自然な観察ができません。渇望により、修行の動機を得て、修行の実践により、観察に熟達していくというような過程で良いのでしょうか?

164鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/04(木) 23:14:28 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
渇望は最後に捨てれば善いのじゃ。
そうすれば全ての重荷を下ろした安らぎがあるじゃろう。
もはやなすべきことも無い安らぎなのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

165鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/04(木) 23:26:03 ID:1d4drIFg0
オショーは言葉として教えを説くことに限界があるというのじゃ。
沈黙こそが最大最高の教えなのじゃ。
師と共に沈黙を味わうことができる者には速やかに悟りに導けるのじゃ。
それがまだ出来ない者のために言葉としての法も説かなければならないのじゃ。

166避難民のマジレスさん:2021/02/05(金) 20:52:28 ID:Dp/qMVVc0
人が求めているものは、自分自身の中にある。あなた方がここに集まってきて、私に問いかけ知るためのものは、常にあなた方の中にある。あなたはそれを失ったことはない。また、決してそれを失うことはできない。それはあなたの存在であり、あなたの本質だ。それは、決して失われることのない唯一の宝だ、なぜならばあなた自身がその宝だからだ。しかし私たちは皆、それを探している。失われることのない、まさにそのものを探しているのだ。なんという矛盾なのだろうか!

私は素晴らしい説法を覚えているが、それがいつ、誰によってなされたのかは覚えていない。

ある晩、お寺でとても大きな集会が行われることになっていたので、多くの僧侶が集まっていた。長い待ち時間の後、話者が到着した。彼が話をするために立ち上がると、聴衆の誰かが質問をした、「真理とは何ですか?」と。 警戒と期待の沈黙が部屋を満たした。話者が答えを知っていることが知られていたので、言葉の一つ一つが重要であると考えられていた。しかし、あなたは彼が何を言ったかわかるだろうか? 彼は非常に大きな声で言った、「おお、僧侶たちよ!」 静寂がこの二つの言葉で響きわたり、すべての目が彼を見ていた。全員が沈黙し、注意していた。 しかし、話者はそれ以上話すことはなかった。彼は説法を終えたのだ。

あなたは彼が言ったことを理解しただろうか? 彼は何かを言ったのか? 私からしてみれば、彼はすべてを言っていた。話す価値のあるものは何でも、彼の二つの言葉で足りていた。私も同じことを言いたい。私も同じことを語る。それは言葉では伝えられない何かを語るに値する、唯一のものなのだ。

では、彼は何を言ったのだろうか。彼は、「外のどこにも真理を求めてはいけない。誰にも聞いてはいけない。それが全く存在するならば、それはあなたの中に存在する。」と言った。だから、彼は真理について尋ねられたとき、それについて全く何も言わなかった。彼は単に会衆に呼びかけた。あなたが眠りから誰かを目覚めさせるように、彼は会衆に呼びかけた。これが真理についての質問への唯一の答えなのだ。

寝ていても、死んでいても、この中に変わらずにあるもの。それに気づけるように、心を静めて観察を続けます。

167鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/05(金) 23:51:14 ID:1d4drIFg0
悟った者が言葉として言えるのは、ただ悟りが人の中にあるということだけなのじゃ。
真理は言葉では表せないのじゃ。
表そうとすれば沈黙になるのじゃ。
言葉ではなく体現するしかないのじゃ。
真理そのものの姿を自らあらわして見せるのみなのじゃ。

168避難民のマジレスさん:2021/02/06(土) 20:54:14 ID:Dp/qMVVc0
目覚めることは、真理を達成することだ。他の方法はない。あなたは眠っているので、側に立っているものを見ることができない、あなたが本当は何であるかを見ることができない。そして、夢の中であなたは、広く遠くさまよう。あなたの中、探求者の中にすでにある何かを求めて。あなたは麝香を求めてさまよう麝香鹿のようなものだ。

しかし、あなたがどんなに頑張って自分の中にあるものを見つけようとしても、それを見つけることはできない。それは探して得ることはできない。外のものは探して得ることができるが、人はこのような探求で自分自身を達成することはできない。真理は探し求めることによってではなく、目を覚ますことによって発見されるのだ。そして、それが話者が会衆に呼びかけて、それ以上話さなかった理由だ。そして、この同じ理由で、マハヴィーラ、ブッダ、クリシュナ、キリストは皆、あなたに呼びかけている。それは話しているのではなく、呼びかけているのだ。これは説教ではなく、話しかけ、呼びかけだ。

私も話すつもりはなく、呼びかけるつもりだ。聞こえるだろうか? 睡眠を邪魔して夢を壊すのを許してくれるだろうか? あなたの夢は甘く満足のいくものかもしれない。しかし、甘くて満足している夢は有害なのだ、なぜならば、その夢はあなたを目覚めさせず、睡眠中毒をさらに酷くするからだ。

私が目覚めた結果として経験している喜びを、あなたにも目撃してもらいたいのだ。それで、私はあなたに呼びかけることにした。話すつもりはない、ただ呼びかけるだけだ。もし私の呼びかけがあなたの眠りを妨げ、夢の霧を消してしまったら、許して欲しい。私は無力だ。あなたの夢を打ち砕かなければ、真理について何も語ることはできない。私たちは眠りに包まれている。この眠りが続く限り、私たちの行動は何の役にも立たない。あなたが眠っている限り、あなたが知っていることは何でも、夢に過ぎない。

夢から覚めるよう、気をつけて観察します。

169鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/07(日) 00:06:43 ID:1d4drIFg0
オショーは自分を探求する者を麝香を求めるジャコウジカのようだというのじゃ。
なかなか上手いことを言うのじゃ。
正に悟りを求める者は、悟りを求めている自分そのものを見つけなければならないのじゃ。
探し当てるべき者は自分なのじゃ。
それを教えるためには言葉による話ではなく、呼びかけが必要だというのじゃ。
探す物は探している者の中にあると悟りを得たものは呼びかけるのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2021/02/07(日) 20:59:51 ID:Dp/qMVVc0
まずはこの眠りから覚めることだ。他のことは後からやってくる。その前には何もしてはならない。この眠りの中での思考や行動を全く重要視しないように。ただ夢の中の出来事としてそれらを見なさい。あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。あなたの知識、行動、すべてが偽りに縛られている。そして、あなたの信条も、信仰も、信念も、すべて盲目になるだろう。あなたがどのような道をたどっても、それは真理につながることはない。しかし、現時点では道を歩くことに疑問はない。あなたは眠りながら道を歩いているのだろうか? それは歩いているという夢でしかないのだ。

自己の無知とは、私があなたに話している眠りのことだ。そこから目覚める必要がある。この眠りから覚めるためには、今のままのあなたと、この目覚めの間に立ちはだかる要因を理解することも必要だ。宗教を知る前に、まず宗教が何ではないのかを知り、自分が宗教として何にしがみついているのかを理解しなければならない。この宗教はあなたを覚醒させるどころか、睡眠薬のようなものである可能性が高いのだ。

カール・マルクスは、宗教をアヘンを含む麻薬であり、あなたを眠らせるためのものだと言った。宗教は断じてアヘンではないが、一般的に宗教と勘違いされているものはアヘンだ。マルクスが宗教をアヘンだと決めつけたのは間違っていたし、あなたもまた、間違っている。あなたがしたことは、アヘンを宗教と勘違いしたことだ。それゆえに、どちらが宗教で、どちらがアヘンなのかを知ることが不可欠だ。

まず、宗教とは何でないかを考えてから、宗教とは何かを体験してみよう。無宗教について考えるだけで、宗教が何でないかを知ることができるが、宗教について考えるだけでは十分ではない。宗教を達成するためには、サーダナ、修行を経験しなければならない。

最近新しい気づきが減っていることに気づきました。初心にかえって観察します。

171鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/07(日) 23:53:19 ID:1d4drIFg0
オショーは「あなたが自分自身を知らない間は、本当の意味でどんな正しいことをすることも不可能だ。」というのじゃ。
自分の心を知らなければ、善事でさえ悪事であることさえあるのじゃ。
それは善事でも実は悪しき動機からしているのかもしれんからなのじゃ。
例えば人に金を与えるのは実は人を何でも言いなりになる奴隷にしようとしているのかもしれんからのう。
自分を知り、目覚めなければ何も出来ずどこにも行けないのじゃ。

172避難民のマジレスさん:2021/02/08(月) 21:18:11 ID:Dp/qMVVc0
まず最初に、一つのことを言っておきたい。もしあなたが本当に宗教や宗教的な生活の中である程度のレベルに到達したいと思うならば、どんな信念や考えも当然のこととして受け止めないことから始めなければならない。真理を知りたいのであれば、それに関するどんな先入観にとらわれてもいけない。あなたは、完全な冷静さと空虚さの中で、どんな教義にもとらわれずに、真理に近づかなければならない。先入観や偏見は、あなたの視覚をぼんやりと歪める。その時、あなたが知るのは真理ではなく、あなた自身の思考の投影だ。そうすれば、真理はあなたの中に降りてこない。それどころか、あなたは自分自身を真理に押し付ける。

真理についての理論や特定の見解を持たないこと。自分自身で判断しなさい。そうして初めて、何が真理であるかがわかる。そうでなければ、心の網から抜け出すことはできない。あなたが知るのは知ではなく、想像になる。

人間の想像というものは際限のない力を持っており、この想像があなたと真理との間の壁となっている。もし、神と真理と魂について事前に心が決まっていれば、心はその決めたことに固執し、あなたが本当に何かを知っていたと信じるように導くだろう。しかし、実際のところ、あなたは何も知らず、想像の領域をさまよっているのだ。これは真理の洞察ではなく、夢なのだ。

あなたは、心が夢を見るための果てしない能力を持っていることをよく知っている。私たちの欲望は、全く存在しないものを私たちに見せる。それは蜃気楼を作り出し、そうすると、本当にあるものは隠され、そうでないものが明らかになる。

しかし、あなたは夢を見ることは眠りの中にしか起こらないと言うだろう。確かに夢は眠りの中で起こるが、眠りは誘発されることもあるし、ある意味では起きている間に眠っていることもある。あなたは白昼夢を見ないだろうか?

気をつけて観察していると、自分のイメージに関する否定的なことと、それを嫌悪する感情に気づきました。いつの間にか、観ないようになっていました。毎日できるだけ全てを観察するようにしていたのですが、知らないうちに避けていたようです。恐ろしいことです。

173鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/08(月) 22:01:14 ID:1d4drIFg0
悟りへの道に最初に必要なのはどんな先入観にも囚われてはいかんということだというのじゃ。
先入観があればそれに応じた幻想を自ら作り出ししまうからなのじゃ。
例えば白ひげの神がいると思っていれば、それを瞑想中に見たりするじゃろう。
自分が作り出した幻想とはわからずに囚われてしまうじゃろう。
難しいことではあるが何の先入観もなしで観察を始めるのじゃ。

174避難民のマジレスさん:2021/02/09(火) 20:43:32 ID:Dp/qMVVc0
それで、もし人が神についての特定の観念を持ち続けていて、目が覚めていても眠っていても、そのイメージで自分自身を満たしているならば、ほとんど間違いなくそのイメージを投影して、それの直覚を得ることになる。それは強化された白昼夢だ。実際には目の前には何もないが、目の後ろで養われ、育まれてきたものが目の前に現れる。これは投影であり、このようにして夢は見られる。

そして、先入観に基づく真理の洞察も同様に可能となる。キリストの帰依者はキリストのビジョンを見、クリシュナの信奉者はクリシュナを見、他の誰かの弟子は他の誰かを見る。これは決して神や真理の洞察や実現ではない。二つの真理、二つの神が存在することはあり得ないので、これは自分の想像の投影だ。真理は一つであり、実現は一つであり、真理を知ろうとする者は、自分の無数の観念や想像を手放さなければならない。私は、ある特定の観念のために他の観念を手放せと言っているのではなく、すべての観念を手放せと言っているのだ。これらの観念こそが多くの信条や教義を生み出し、そのために無数の信条が存在しているが、宗教は存在しない。

真理を知るためには、それに関するすべての理論を捨てなければならない。すべての偏見や部分性を超えた、完全無垢で独立した状態にある者だけが真理を知ることができる。観念も概念も期待もないところにこそ、真理が実現できるのだ。本当のところ、真理を実現するための努力とは、真理を実現するための努力ではなく、夢を見ている状態から脱却するための努力なのだ。

真理の実現とは何だろうか。それは、簡単に言えば、幻覚からの自由だ。この自由こそが真理の実現なのだ。私たちは夢の中で失われているので、常に存在しているものは、その継続的な存在にもかかわらず、不在であるように見える。

幻覚からの自由に、強いあこがれを感じています。しかし、それは期待もないところにあるので、一つ一つ自分の観念を厭離していきます。

175鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/09(火) 23:38:52 ID:1d4drIFg0
幻覚からの自由、その自由こそが真理の実現とオショーは言うのじゃ。
それは人に教えられ、自らも信じている観念の夢から覚めることなのじゃ。
修業に入るのに観念を信じる者にはその観念が見えてしまうじゃろう。
全ての偏見や先入観を捨ててこそ真理を知り、実現できるのじゃ。

176避難民のマジレスさん:2021/02/10(水) 20:58:47 ID:Dp/qMVVc0
真理が存在するのは、真理が常に存在しているからだ。それはどこからももたらされる必要はない。それは常に存在している。しかし、私たちは存在していない。私たちは夢の荒野で迷子になっているのだ。いや、真理を自分自身に持ってこなければならないのではなく、真理に自分自身を持ってこなければならない。それは、神についての夢や幻を見ることによってではなく、すべての夢や幻を取り除き、目覚めることで可能だ。

それゆえに、私は真理には想像は必要なく、実現が必要だと言う。すべての想像から解放された心の実現とは、真理の状態にある心の実現だ。私たちは、心が分かれているとき、二元性の状態にあるときに世界を見る。心が分かれていない存在、単一性であるとき、私たちは真理を見る。

すべての観念や信念は思い込みであり、真理への入り口ではない。それらは障害物であり、どこにも導びかない。それどころか、あなたの道を塞いでしまう。真理の道は、それらを通るのではなく、それらを超えた先にあるのだ。

どうか、いかなる考えや概念を採用したり、真理についての信条や信念を身につけたりしないでもらいたい。なぜならば、あなたが身につけた信念は経験となるからだ。そして、その経験は現実ではなく、精神、想像上のものだ。その経験は霊的なものではない。無知のうちに形成された真理に関する信念はすべて偽りだ。真理とは何か、それがどのようなものであるかについて考えてはならない。そのような考えはすべて盲目だ。それは盲人が光を想像しようとしているようなものだ。かわいそうに! 光が何であるかをどのように想像することができるのか!視力がなければ、その人は光について何も想像することができない。何を考えても根本的に間違っているだろう。光はおろか、暗闇を正確に想像することさえできない。暗闇を見るにも目が必要だ。

何度も何度も観察を忘れますが、気づいたときには忍耐強く観察に戻ります。

177鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/10(水) 21:57:55 ID:1d4drIFg0
全ての観念や信念は思い込みであるとオショーは言うのじゃ。
それは真理の入り口ではなく障害物だともいうのじゃ。
ただ悟りへと導く観念のみが法として実践されるべきなのじゃ。
そうでなければ全ての観念は捨てるべきなのじゃ。
法さえも最後には捨てるべきなのじゃ。

178避難民のマジレスさん:2021/02/11(木) 20:56:52 ID:Dp/qMVVc0
視力のない人はその時何ができるのだろうか? 私はその人に言いたい、「光のことは考えないで、目を治療しなさい」と。 考えることではなく、治療をすることが助けになるのだ。しかし、私は何を見るだろうか? その人が説教されているのを見て、光の哲学を説明されているのを見る。しかし、誰も目の治療には関心がない。

そして、より驚くべきことは、光を主題として説教している人たちは、自分自身が光を見たことがないということだ!その人たちも光については知っているが、光を知らないのだ。私がこう言うのは、もしその人たちが光を知っていたならば、説教の無益さに気づき、失明の治療に関心と同情を集中させただろうからだ。視力が治れば、光は自動的に経験される。視覚に必要なものは常に存在している。視覚があるならば、光がある。

「視覚」と「光」は、全く異なる方向に導く言葉だ。光を考えることは哲学につながる。それは、考えることだけに向かう方向性だ。それは経験にはつながらず、単なる思考にすぎない。たくさんの歩みがあるが、目的地にたどり着くことはない。結論はたくさんあるが、私たちの問題を解決できるものはない。これは当然のことだ。水についての最も完璧な考えでも、喉の渇きを少しも癒すことはできない。喉の渇きを癒す方法は全く異なる。

道、修行はものの考え方ではなく、視覚の治療だ。私は光について考えることが哲学であると言ったが、今、視覚によって洞察することが宗教であると言いたい。考えることで知的な結論に達することができるが、一方で修行は霊的な洞察、霊的な経験を与えてくれる。前者は水について考えるようなもので、後者は喉の渇きを癒すようなものだ。前者は問題であり、後者は解決策だ。

自我が自由を妨げているので厭離したいという思いと、自我を失くしたくないという思いの、両方で引っ張られている感覚です。そのような思いと感覚も気をつけて観察します。

179鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/11(木) 22:00:46 ID:1d4drIFg0
盲人に光の説明をしても無意味だとオショーはいうのじゃ。
光に導く治療が必要なのじゃ。
考えることは光に導かないのじゃ。
視覚を取り戻させることが光に導く事なのじゃ。

180避難民のマジレスさん:2021/02/12(金) 20:51:25 ID:Dp/qMVVc0
私は皆にこの質問をする。「あなたは光を知りたいのか、それとも光について知りたいのか?」と、そしてあなたは-あなたは真理を知りたいのか、それとも真理について知りたいのか? 水について知りたいのか、それとも渇きを癒やしたいのか? これらの質問に対する答えによって、あなたが知に渇いているのか、それともただ情報を集めたいだけなのかが決まる。

そして、これらは正反対の方向であることを忘れてはならない。一つは自我の根本的な消滅につながり、もう一つは自我の絶頂につながる。一方では無邪気になり、他方では複雑になる。知は自我を破壊する一方で、情報は自我を強め、さらに膨らませる。すべての収集、すべての獲得は自我を満たし、このような理由から、自我は常により多くのものを求める。

思考もまた、かなり微妙なものではあるが、獲得だ。思考もまた自我を養う。あなたが学者の間で見かける偽善は、自然発生的でも偶然でもなく、思考の自然な結果なのだ。

思考は後天的なものだ。それらは外界から押し寄せてくるものであり、内に生まれたものではない。それらは魂のものではないが、魂の壁であり、ある意味では罪なのだ。外界からは光に関する情報を盲人に与えることができるが、光の感覚は、内から盲人の中に生み出されなければならない。獲得とエネルギーの違いは、情報と知の違いだ。獲得は外に由来し、エネルギーは内に由来する。

しかし、獲得はエネルギーの錯覚を与える。この錯覚はかなり強く、自我を養う。エゴイズムはエネルギーではなく、エネルギーの錯覚だ。真実のほんの小さな閃きがそれを破壊し、蒸発させることができるので、エゴイズムは実際には非エネルギーだ。このような理由から、自分の真のエネルギーは全くエゴイズムが無いのだ。

私も思考によって自我が養われるのを感じる事があります。気をつけて観察していると、時に、思考によって何かを得たその瞬間に、自分のイメージが自分の身体を超えて拡がるのが分かります。油断せずに精進します。

181鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/12(金) 23:39:25 ID:1d4drIFg0
思考も自我を養うとオショーは言うのじゃ。
思考している自分が常に起こるからなのじゃ。
自我が起これば自我を守る働きも生じるのじゃ。
そのために攻撃や偽善が起こるのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2021/02/13(土) 21:06:03 ID:Dp/qMVVc0
学習と智慧の区別を理解してもらえただろうか。それを理解することは必要不可欠だ。誤った知は、無知よりも自己実現の道でさらに大きな障害となる。誤った知とは、あなたが本当には知らないときに 「私は知っている 」という印象だ。このような誤った印象は、学習や学校教育による他者の考えから簡単に成長し得る。その誤った印象は、聖典の知識、言葉の知識からも生じる。そして、このような言葉の知識のために、人は自分が真理を悟ったと思っているようだ。

言葉は記憶の一部となる。言葉は質問の形になり、それぞれの質問には自動的に答えが返ってくる。人の区別の感覚は、借用された考えの中で失われ、支配される。そして人が自分の中から答えを探す前に、借用された言葉と考えの厚い層により、既成の答えが飛び出してくる。このようにして、私たちは問題を解決することができず、その答えを奪われている。もし問題が自分のものならば、それは自分の答えだけが必要とされる。借り物や中古の答えは何の役にも立たない。

人は生を借りることも、問題の答えを借りることもできない。問題の答えは外から来るものではない。それは問題の中に内在しているのだ。答えは問題の中から発展する。もし問題が内にあるならば、真理は外にはありえない。そして、真理はそれゆえに学ぶことができない。それはむき出しにされなければならない。あなたはそれを発見しなければならない。真理は訓練によってではなく、実現によってのみ知ることができる。そしてこれが、聖典を学んだ者と、魂を実現した者との根本的な違いだ。この世界では、聖典に精通していれば十分だが、霊の領域ではそうではない。聖典に精通している範囲にいるならば、それは出発点よりもはるかに劣っている。

思考している自分が常に起こるから、思考も自我を養うのでしたら、思考の他にも感情や感覚、意志など、自我が投射されるものは全て自我を養うと言えるのでしょうか?

183鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/13(土) 22:26:45 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全て自我を養っているのじゃ。
 それらが起こる度に自我も想起されるのじゃ。
 そして自分があるという確固とした認識をもってしまうのじゃ。
 全てを捨てて進むのじゃ。

184鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/13(土) 22:29:15 ID:1d4drIFg0
知識は人に誤まった達成感を与えてしまうのじゃ。
例えば水泳の知識があれば自分は泳げると想ってしまうようなものじゃ。
知識と実際の体験は全く違うものじゃ。
知識を信奉して実践をおろそかにしてしまえば、初心の者よりも後退してしまったことになるのじゃ。

185避難民のマジレスさん:2021/02/14(日) 21:07:32 ID:Dp/qMVVc0
あなたは、あなたではないもの、世界について、物質の世界についての情報しか持つことができない。あなたでないものについては、あなたは知を持つことができない。外側に関係するものは何でも、外側からしか知ることができない。あなたはそれに非常に近いかもしれないが、それはまだ遠くにあるだろう。私たちとの距離がどんなに小さくても、それがなくなることはない。それは常にあるのだ。だから、私たちは自分以外のものには親しむことができるだけで、それの知を持つことはできない。私たちは何かについて知ることはできるが、その何か自体を知ることはできない。

距離を完全に無くすことが、すべての知の前提条件だ。そうして初めて、自分の内なる存在に入ることができるのだ。しかし、距離のあるものは、決して距離のあるもの以外の何物でもあり得ない。現実に距離がないならば、その場合にのみ、そうでないことはあり得る。距離は、それが幻想である場合にのみ無くすことができる。それが現実であるならば、その排除は不可能だ。

私から離れていない存在はひとつ、ただひとつある。この存在が私から離れていることは不可能だ。私がその存在だ。そう、それは私自身なのだ。その存在だけで、本当の知が可能なのだ。この存在からの距離は幻想に過ぎない、なぜならばどうやって自分自身からの距離があり得るのだろうか。私だけが自己の中心であり、ここに私の内側の入り口、私の内側の住まい、そして完璧さの玉座がある。このことだけを知ることができる。

もう一つの事実を思い出してほしい。私たちは世界を知ることはできない。世界と交わり、情報を集めることができるだけだ。しかし、自己については、唯一の知が可能だ。だから、自己についての情報は無いし、アートマンについての情報も無い - 魂の知のみが可能だ。だからこそ、物体の場合は、物質的なものの場合は、私たち以外のものの場合は、経典や聖典の専門家であれば十分だが、自己の場合はそれだけでは十分ではないのだ。

わかるようでわからない話でした。特に三番目の段落の「私」が、自我の意味で使われているのか、記憶では認識できない存在の意味で使われているのか、よく分かりません。ただ、自分の内側に注意が向くのを感じました。

186鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/14(日) 23:19:58 ID:1d4drIFg0
それは自我なのじゃ。
自我とも存在は離れていないのじゃ。

187鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/14(日) 23:22:10 ID:1d4drIFg0
外側の世界について知ることは出来ないというのじゃ。
ただ情報を持つことができるだけなのじゃ。
自己についてのみ知ることが出来るというのじゃ。
それは存在と自己が同一であるからなのじゃ。
そこに距離の無い知である、気づきが起こる可能性があるのじゃ。

188避難民のマジレスさん:2021/02/15(月) 20:50:17 ID:Dp/qMVVc0
科学は聖典であるが、宗教はそうではない。科学は対象物に関する情報であり、宗教は自己の知だ。科学は聖典、経典だ。宗教は修行、実現への道だ。

私は説教をしているのではない。そのアプローチは全く実りのないものだ。必要なのは説教ではなく、治療だ。私は真理に関連する教義を解説するつもりはない。それは全く役に立たない。だが、価値があるのは、真理を見ることができる方法だ。この方法は病気の治療法として機能し、それゆえに目は開く。そうすれば、光について考える必要はない。あなたはすぐにそれを見る。視力がないときは考えなければならないが、視力があれば考えることは問題外となる。失明しているときは、考えることが目の働きをしているが、視力が回復するとすぐに、考えることは不要になる。

私が見るに、思考は知ではなく無知の証だ。知とは、思考がない状態のことだ。それは思考ではなく、洞察なのだ。そして、この洞察は、真理に関するいかなる教義によっても不可能だ。教義は単に物事を知的な獲得に還元し、それらは記憶の一部になる。教義は決して知の一部になることはできない。

教義は教えることはできても、人の本当の人格を変えることはできない。衣服のように、外側のレベルでは変化をもたらすが、内側の存在は以前のままだ。精神は教義に影響されず、そしてベール、カバーが新しい形と新しい色をしている。あなたがこのようであれば、智慧はあなたの上に降りることはできない。それどころか、偽善の溝に落ちてしまう。

自分という感覚を観ようとしていて、かえって自我に囚われていることに気づきました。対象を決めずに観察に励みます。

189鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/15(月) 21:49:32 ID:1d4drIFg0
オショーは思考や知識は知ではないとさえ言うのじゃ。
それは記憶に過ぎないからなのじゃ。
記憶は過去と同じことを繰り返すのみであるから変容をもたらさないのじゃ。
洞察することこそ知であり、変容をもたらすものなのじゃ。

190避難民のマジレスさん:2021/02/16(火) 20:47:35 ID:Dp/qMVVc0
人の存在と、知識の間には大きな溝がある。人は一つのものであり、その人が知っていることは全く別のものだ。人格は二つに分かれている。その人の内なる存在と外なる殻の間には葛藤と二元性がある。そして、その自然な結果が偽善なのだ。そのような人は、自分の中に実際には存在しない誰かとして自分自身を見せ始め、存在する人を隠し始める。この行為は無宗教だ。他人の生を台無しにするだけでなく、自分の生も台無しにしてしまう。これは自己欺瞞だが、それは宗教的だとして通用する。

教理や教義の知的な教えは、これだけしかできない:外側の包みを変えること。しかし、精神的な革命のためには、それ以外の取り組み方が必要だ。その取り組みは、教義ではなく、自己実現の道を歩くこと、修行であるべきだ。それは説教の取り組み方ではなく、治療の取り組み方だ。真理について考えるのではなく、真理に目を開くことだ。

宗教とは、目を開く方法だ。目が開かれれば、神の視覚は簡単に実現する。しかし、教義はあなたの目を開かないだろう。それどころか、それに惑わされている人たちは、自分の目が閉じていることを忘れ、論じる真理は、自分の目で見たのではなく、他人の目で見たものであることを忘れてしまう。他者によって見られる真理は、他者によって食べられる食事のようなものだ。それは他の誰の何の役にも立たない。

真理の実現は、完全に私的で個人的なものであり、決して譲渡可能なものではない。それは受け取ることも与えることもできない。それは自分自身で得なければならない。それは盗まれたり、施しで受け入れられたりすることはできない。それは財産の一部ではなく、自分自身そのものだ。真理は財産ではなく、自分自身そのものであり、それゆえに譲渡することはできない。これまでのところ、誰もそれを誰かに与えたことはない。また、未来の誰もがそれを誰かに与えることはできないだろう。なぜならば、与えられた瞬間、それは真理であることをやめて、物になるからだ。物は与えることも、奪うこともできる。真理は、自分自身の中で、自分自身によって達成されなければならない。それは主観的だ。実際には、それは本当は達成されるものではない - 人はそれにならなければならない。それはあなた自身あること、あなた自身の実存なのだ。

特に何も思い浮かびません。ただ観察します。

191鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/16(火) 23:06:30 ID:1d4drIFg0
知識は自他の人生を台無しにしてしまうとまでオショーは言うのじゃ。
実際に多くの知識を集めても、自分について知らなかったばかりに破滅する者は多いのじゃ。
不要な知識に囚われて自己の探求を怠れば、破滅が待っているのじゃ。
自らの実践によって自己の探求をすることができるのは自分だけなのじゃ。

192避難民のマジレスさん:2021/02/17(水) 21:09:20 ID:Dp/qMVVc0
では、真理を学ぶという問題はどこから来るのだろうか? それは発見されなければならない。学ぶことは、自己の上に層を形成するだけだ。すべての外部の教えは、真理を覆うだけだ。外から来るものは全て、覆うことしかできない。覆うことは、外からできるただ一つのことだ。そして、思考の衣はますます自己を覆い続ける。これらの衣を脱ぎ捨て、裸になりなさい。これらの衣服をすべて捨てなさい。自己を知るためには、学ぶのではなく、学びを放棄しなければならない。すべての外部の客が去ったとき、あなたは客ではなく、主人であるものを知ることになる。

真理は教えることができないが、真理を知る方法は教えることができる。今日では、この方法を語る人はいない。真理についての多くの話があるが、真理を実現する方法についての話はない。これほど大きな間違いはない。肉体にしがみつき、生を見失っているのだ。その結果、無数の宗教(religions)が存在するが、大文字Rの(世界に一つしかない)宗教は存在しない。

宗教という名の下に仮装している多数の宗派は、全く宗教ではない。宗教は一つしかない。それを説明する形容詞はない。それは何の修飾語もない。ダルマはダルマを意味し、宗教は宗教を意味する。私の言葉では「このダルマ」「あのダルマ」とは言えない。「これ」と「あれ」があるところには宗教はない。

これらの宗派は真理についての多くの教義や理論のために生まれてきたし、人々が理論や教義を要求する限り存在し続けるだろう。教義は言葉で構成されており、宗派はまさにその言葉を中心に形成されている。言葉は恨みや狭量な憎しみを助長し、争いの原因となる。これらの言葉は人と人を分断する。そしてなんと不思議なことだろうか! 人々は、人と人を分断する言葉そのものが、人と神を結びつけると信じているのだ! 人と人を分断するものは、人を神、真理、また自己と結びつけることはできない。

「学びを放棄しなければならない」という部分で心に抵抗を感じました。もう悟りを得る方法は分かっているのだから、悟りを得るためにはこれ以上外から学ぶ必要はないはずです。それでも外からの言葉を求めるのは、勇気を得るためと思いつつ、逃避もあるのでしょう。また、自我を養っている面もあると気づきました。オショーが述べて、鬼和尚が解説してくださっている側から自我を養っているとは、恐ろしいことです。
さらに自己観察に励みます。

193鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/18(木) 00:24:41 ID:1d4drIFg0
世間に言う学びとは知識を多く記憶していくことなのじや。
記憶する知識が多くなるほど自分について知る機会は減ってしまうじゃろう。
知識や教義を増やす宗教は悟りに導く宗教ではないのじゃ。
言葉や知識を捨てて自分を明らかにすることこそ悟りに導く実践なのじゃ。

194避難民のマジレスさん:2021/02/18(木) 21:20:51 ID:Dp/qMVVc0
このような宗教の宗派への分裂は、様々な教義、言葉、信念、意見にまで及んでいる。これらはすべて無知に基づくものであり、知に基づくものではない。真理に宗派は無い。すべての宗派は教義から発展する。人は真理を知るとすぐに宗派から解放され、その瞬間に宗教に入る。宗教とは、ヒンドゥー教でもジャイナ教でもなく、キリスト教でもイスラム教でもなく、ただの宗教であり、それは修飾されていない、光以外の何物でもなく、意識以外の何物でもない。宗教とは、真に自己の実現なのだ。

宗派は宗教ではない。組織は宗教と何の関係があるのだろうか? すべての組織は政治的または社会的なものであり、すべて世俗的なものだ。組織はお互いへの恐れに基づいており、恐れがあるところには憎しみがある。組織は、真実からではなく、安全のために存在している。国であれ、社会であれ、宗派であれ、すべてのものは恐怖から生まれ、恐怖から生まれたものによる満足は、他者に恐怖を引き起こすことにある。

すべての宗派はまさにこれに似ている。それらは誰かを宗教的にする意図はなく、自分たちの数を増やしたいのだ。数は力であり、安全性の保証だ。それらは自己防衛であり、攻撃する能力でもある。宗派はずっとこのようなものだった。今もそうだし、これからも同じだ。それらは人間と宗教を一つにしたのではなく、宗教から引き離したのだ。

ダルマ、宗教は社会現象ではなく、純粋に、そして単純に、最も個人的な変容だ。それは他者とは何の関わりもなく、自分自身だけに関わる。他の人と何をするかではなく、自分自身と何をするかに関わる。ダルマは、完全な孤立と孤独の中で、自分自身とどのように振る舞うかに関わるのだ。

普段落ち着いている時には、自我の感覚が弱まることを観察することもあります。ところが大きな痛みや心理的なショックを受けると、そこに強く自我が投射され、巻き込まれて、一旦無理やり他の場所に集中しないとうまく観察ができなくなります。引き続き観察に励みます。

195鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/19(金) 00:15:58 ID:1d4drIFg0
派閥や組織は常に腐敗するものじゃ。
お釈迦様のサンガでさえ分裂したりしたのじゃ。
悟りとは関係ないものじゃ。
ただひたすらに自己の内面を追求した者だけが悟りを得るのじゃ。

196避難民のマジレスさん:2021/02/19(金) 20:44:46 ID:Dp/qMVVc0
完全に独りある中で、あなたは何なのだろうか? それが知らなければならないことだ。あなたとは何か。あなたの存在を知ることだけが、宗教に導く。誰かを宗教に導く方法は他には無い。どんなお寺も、どんなモスクも、どんな教会も、私を自分のいる場所に連れて行ってはくれない。そこに行くために外の階段を登る必要はない。すべての寺院は外にある。すべての寺院は輪廻の一部であり、世界の一部であり、その扉を通って自己に到達することはできない。外の世界での旅は、真理への巡礼、聖なる場所への巡礼にはならない。その場所は内にあり、そこでは宗教の経験があり、人生の神秘、喜び、美しさが見つかる。これらがなければ、すべてのものは悲惨なものであり、すべてのものは役に立たず、無意味なものだ。

自己を知るためには、外ではなく内に入らなければならない。しかし、すべての人間の感覚は、外に連れて行く。すべての感覚は外に向かっていく。目は外を見、手は外向きに広がり、足は外向きに動き、心さえも外の現象を反映し、反響させる。そして、そのために人は偶像、神の像を建立し、真理のための神殿を作った。それは、その目が神を見ることができ、その足が真理への巡礼をすることができるようにするためだ。 私たちはこの自己欺瞞を自分たちで作り出してしまった。この毒を自分の手で飲んでしまった。そして今、私たちは自分の生を浪費し、この毒と自己欺瞞によってもたらされた昏睡の中で過ごしている。

自分の感覚の都合に合わせて、私たちは宗教を自分の外にあるものとして視覚化し、そのために自分の視界を外に向けてきた。しかし、ダルマを知るためには、宗教を知るためには舞台裏に行かなければならない。世界に対するあなたの知識と意識は、感覚を媒介にしてもたらされる。同じ道筋で自己を知ることはできない。知る者を知ることはできない。他の人や物を知るように、知自身を知ることはできない。見る力である見者は、普通の物体のように見ることはできない。知は、物体に移すことも、劣化させることもできない。そして、すべての問題の理由は、この単純な事実が理解されていないことだ。人々は、神が外的なものであるかのように、神を探し求める。これは何と愚かなことだろうか! 神は探されるべきものではなく、求める者自身の中に隠されているのだ。

瞑想が深まり、意識を保ったまま落ちていく感じになると、それを引き止める力が生じます。これが自我の厭離を妨げているものなので、気をつけて観察して正体を見極めたいです。

197鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/20(土) 00:10:47 ID:1d4drIFg0
自分とはなにであるか知ることだけが真の宗教たどオショーは言うのじゃ。
それがなければどんな寺や神殿も無意味というのじゃ。
自分を知るためには注意を内側に向けなければ成らんのじゃ。
神でさえ求める者の中に隠されているというのじゃ。

198避難民のマジレスさん:2021/02/20(土) 20:35:00 ID:Dp/qMVVc0
真理はあなたの中にある。それは私の中にある。それは明日あなたの中にあるのではなく、今ここで、この瞬間に、あなたの中にあるのだ。私はある。私の存在自体が私の真理だ。私が見たものは真理ではないかもしれないし、それはすべて夢かもしれない。私も夢を見ていて、その間に見ているものは真実のように見える。あなたは私にとって夢なのかもしれない。私が夢の中にいて、あなたはここにまったくいないのかもしれない。しかし、見者は偽りではありえない。見者は夢の中にいることができない、なぜならばもし、いたとしたら、それが夢であることがわからないからだ。夢は夢を見ることがでない。真理でないものは真理でないものを知ることができない。夢を見るためには、自分自身が夢ではない者が必要だ。真理でないものを見るためにさえも、真の見者が必要だ。したがって私は、私が真理であると言う。真理は私の存在だ。私はそれを求めてどこかに行く必要はない。

自分の中から真理を掘り出すだけでいい。井戸を掘るのと同じように、真理を掘り出さなければならない。水の泉を覆う石や土の層が常にいくつかあるが、それらの層を取り除くとすぐに泉は解放される。同じように、あなたの自己も他のもの、非自己に属するものの層によって圧迫されている。あなたはこれらの層を突破するだけで、数え切れないほどの過去世を通して探し求めてきたものが達成される。

これまでのところ、あなたは真理に到達することができなかったが、それは、あなたが遠く離れたところでそれを探していたからだ、実際のところ、それはいつもとても近くにいる。本当に探しているのはそれ自身なのだ。あなたの魂の井戸を掘り出さなければならない。瞑想はそのための手段だ。瞑想の鋤を使って、自己の上に積み重なった土の層、他者性の層を取り除かなければならない。それが唯一の救済策であり、唯一の治療法だ。これが私が話したいことだ。

静まった心を観察します。

199鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/20(土) 23:24:56 ID:1d4drIFg0
真理とは今ここに自分の中にあるものだとオショーは言うのじゃ。
それは一度も自分から離れたことは無いのじゃ。
それが見出せなかったのはどこか外にあると思って知識を求めていたからなのじゃ。
井戸を掘るように自分ではない知識をどこまでも掘り下げて観ていくことでそれは現われるのじゃ。

200避難民のマジレスさん:2021/02/21(日) 21:11:44 ID:Dp/qMVVc0
まず第一に、あなた自身の存在、あなたの本質を覆い隠しているものが何であるかを知る必要がある。あなた自身からあなたを隠しているものは何だろうか? 見えないだろうか? 覆い隠しているものが見えないだろうか? 中に入ってみると、何が見つかるだろうか?

ヒュームは言った 「中に入っても、思考以外のものは見つからない」と。 ヒュームはどんな魂も見つけられなかったし、あなたもこのようにして自分の魂を見つけることはできない。ヒュームは覆っている層だけを見て戻ってきたのであって、ただ殻のところまで行って戻ってきたのだ。あなたが中に何があるのかを見るのは、殻を破った時だけだ。これは、湖に行って苔と葉で覆われた湖面を見て、湖は全くないと言って戻ってくる人のようなものだ。一般的には、このようなことが起こる。私たちは毎日中に入り、思考の覆いを見て戻ってくる。思考は常に自己を取り囲み、あなたは思考以外は何も知らない。思考はあなたの世界であり、思考だけで生きている者は世俗的な人間だ。思考を超えた何かを知ることは、宗教的になることの始まりだ。思考のない状態を知ること、思考の先にあるものを知ることは、宗教の領域に入ることだ。

もしかしたら、あなたの思考はこの世のことではなく、魂のこと、神のことを考えているのかもしれないし、自分が宗教的であるという幻想を抱いているのかもしれない。私はあなたのこの幻想を打ち砕きたい。すべての思考は覆い、外殻だ。それらはすべて欲望、情熱であり、外に向けられた外面的なものだからだ。自己についての思考はありえない。知はあるが、自己についての思考はない。思考は覆い、殻だ。

今日は自我の拡大を感じて、その心地良さを感じています。観察はするのですが、本心から厭離しようと思っていないのか、変化がみられません。偽物の殻に騙されていますね。粘り強く観察します。

201鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/22(月) 00:04:24 ID:1d4drIFg0
本質を覆い隠しているものを知ることが修業には必要だとオショーは説くのじゃ。
それは思考に囚われているものには思考じゃろう。
金とか、名声とか、権力に囚われている者にはそれらが覆いじゃろう。
外面的なものに囚われていれば、自分を知るための道に入ることは出来ないのじゃ。

202避難民のマジレスさん:2021/02/22(月) 20:22:02 ID:Dp/qMVVc0
無思考は覆いを取り除く。無思考は瞑想だ。思考がないとき、私たちは思考によって隠されたものを知るようになる。雲がなければ青い空が見えてくる。友よ、あなたの中にも空がある。思考の雲を取り除いて、それが見えるように、それが知られるようにしなさい。これは可能だ。心が静止していて思考がないとき、静寂の中で、その深い無思考の中で、思考の完全な不在の中で、真理が見られる。

これを実現するためにはどうすればいいのだろうか? 非常に簡単なことをしなければならないが、あなたは非常に複雑になっているので、それが非常に難しいことに気づくだろう。生まれたばかりの赤ちゃんに可能なことが、あなたには不可能だ。子供はただ見ているだけで、何も考えない。ただ見ているだけだ。そして、ただ見ていることは素晴らしいことだ。これが秘密であり、真理の門を開ける鍵なのだ。

私はあなたを見ている。私はただあなたを見ているだけだ。あなたは私についてきてくれるだろうか? 私はただあなたを見ているだけで、何も考えていない。そして、空前の静けさ、生きた沈黙が私の上に降りてきて、すべてが見え、すべてが聞こえてくるが、内なるものは何も乱されていない。内側には何の反応もなく、思考もない。あるのはダルシャンだけであり、見ることだけだ。

思考以外にも、感情や記憶したイメージが覆いなのですね。オショーは、すべてが見え、聞こえてくると述べていますが、このことは、感覚は覆いではないということでしょうか?

203鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/22(月) 23:11:19 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、感覚は本来ありのままに感じることの出来る器官なのじゃ。
日常では思考や分別に影響されるから覆いになってしまうのじゃ。
思考や分別がなければそれに影響されることもないのじゃ。
全てがありのままに感得できるのじゃ。
それによって観察も可能になるのじゃ。

204避難民のマジレスさん:2021/02/23(火) 22:11:49 ID:Dp/qMVVc0
正しく気づいていることが瞑想の方法だ。あなたは見なければならない、ただ、外に何があるか、内に何があるかを。外には物があり、内には思考がある。あなたは何の目的もなくそれらを見なければならない。何の目的もなく、ただ見ているだけだ。あなたは目撃者、無関係の目撃者であり、ただ見ているだけだ。この観察、この注意深さは、徐々にあなたを平和に導く、空虚に、空に、無思考に。試してみればあなたは知るだろう。思考が消えていくと、意識が目覚め、浮かび上がってくる。ただふと止まりなさい、しばらくの間 - いつでも、どこででも。ただ見て、聞いて、世界と自分自身の目撃者でありなさい。考えてはならない。ただ目撃者になって、何が起こるかを見なさい。そして、この見ることが広がるようにさせなさい、あなたの肉体的、精神的活動のすべてに浸透するようにさせなさい。それが常にあなたと一緒にいるようにさせなさい。もし見ていることが在れば、あなたの自我はなくなり、あなたは本当の自分に気づくだろう。「私」は死に、自己が達成される。

この見ることの修行の中で、自分の精神状態の観察の中で、容易な変容、容易な切り替わりが、目撃されているものと目撃者であるものの間で起こる。あなたが自分の思考を観察していると、観察する者が垣間見えてくる。そしてある日、見者がそのすべての威厳と栄光の中に顕れ、すべてのあなたの貧困と惨めさは終わりとなる。

これは、たまにしか修行できないが、それでも解放を得るという修行ではない。これは昼夜を問わず、継続的に修行しなければならない。見ることを修行していくうちに、見ている状態にさらに移行していくと、その状態がより安定してきて、常に存在し始める。徐々にそれは、起きているときも眠っているときも、常にあなたと一緒にいるようになる。それは睡眠中にも存在し始める。そうなったとき、それが眠りの中にも存在し始めたとき、あなたはそれが心の奥深くに入り込み、その根を遠く広大に広げていることを確信することができる。今日、あなたは起きている時でさえ眠っている。明日、あなたは眠っている時でさえ、起きている。

観察が失われる状況がわかってきています。例えば他者と会話したり、強く興味を惹かれることに出会ったり、深く眠ったりする場合です。特にそのような状況では気をつけて観察を保つようにしたいと思います。ただ深い眠りでは、今のところできそうな感じはありません。

205鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/23(火) 23:11:01 ID:1d4drIFg0
オショーは観察の瞑想を説いたのじゃ。
心を鎮めて心をありのままに観れば悟りも自ずからやってくるのじゃ。
初めはなかなかうまくいかず、難しいかもしれんが慣れれば全ての目撃者になるのじゃ。
そして夢の中でも観察していることがわかるのじゃ。
無意識の観察が出来るようになるのじゃ。
それができれば自我を観ることも可能になるのじゃ。

206避難民のマジレスさん:2021/02/24(水) 20:47:48 ID:Dp/qMVVc0
この見ることは、私たちを夢からも眠りからも目覚めさせることで思考を消していく。思考や夢から解放された心の中で、波は消えていく。心は、波がないときに海が穏やかであるように、家に吹き込む風がないときにランプの炎がちらつかないのと同じように、揺れもなく、波のない、穏やかな状態になる。自己であり、私であり、真理である神が知られるのは、そのような状態の中でだ。そうして、神の宮殿への門が開く。

この門、この入り口は、経典の中にあるのではなく、言葉の中にあるのでもなく、自己の中にあるのだ。だからこそ、私は他の場所を掘るのではなく、自分自身の中を掘れと言う。他のどこにも行ってはならない。自分自身の中に入りなさい。私は入る方法を説明してきた。

あなたの静けさと目の輝きから、あなたが私が言わなければならなかったことを理解しているとわかった。しかし、この理解だけでは十分ではない。真実の生の基礎となるのは、理解ではなく、霊的な経験だけなのだ。私が示した方向に少し歩いてみなさい。その方向に少しだけ進んで、そして見なさい。あなたが真理に向かって移動するとき、それに近づくとき、その引っ張りの影響を受けるので、あなたが少しだけ歩いたとしても、長い道のりを行っているだろう - そしてその後、あなたは全く歩かない、ただただ引き寄せられていく。

そして最後に、歩き続ける人はいつか目的地に到達することを覚えておきなさい。神の方向へのどんな一歩も無駄ではない。私はこの真理の証人だ。あなたにもこの真理を一瞬でも実現して欲しい!それであなたも真理の証人になれる。それはあなたのすぐそばにある。太陽はすでに昇っている。あなたはただ目を開けてそれを見る必要があるだけだ。

目を開けて欲しい。私の呼びかけを聞いて、目を開けてくれるだろうか? 決めるのはあなた、あなただけだ。開けるか開けないか?

目を開けます。目を開けたいです。
これで8章は終わりです。もしおかしな訳などがございましたら、お願いします。

207鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 00:00:51 ID:1d4drIFg0
前日の>>204「これは、たまにしか修行できないが、それでも解放を得るという修行ではない。」
というところが少しおかしいのう。
 下から五行目なのじゃ。

 あとはよいようじゃ。

208鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 00:04:31 ID:1d4drIFg0
心を止めることと、心を観ることは上手くできれば速やかに進歩することができるのじゃ。
心を鎮めることで観察が良く出来るようになり、観察が出来ることで心の静けさも増していくのじゃ。
そして自分も容易に見られるようになるのじゃ。
たとえそれで少し迷い道に入ったとしてもその経験は無駄ではないのじゃ。
思考の悟りに至れば迷い道さえも最も近い道だったとわかるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。

209避難民のマジレスさん:2021/02/25(木) 21:05:03 ID:Dp/qMVVc0
第9章 最後の夜 1964年6月7日午後
[第一の質問は失われています。]
実際に気づく前に真理を知ることはできない。そして、真理について何かを知ることは、真理を知ることとは全く異なる。あなたが真理について知っていることが何であれ、それは真理ではないに違いない。なぜならば、個人的な経験がなければ、単に理解することができないからだ。それは、話し手の視点からではなく、聞き手の視点から見た場合、真理ではない。

私が真理について何かを言ったら、あなたは私が言ったのと同じようにそれを理解してくれるだろうか? それは不可能だ。なぜなら、全く同じように何かを理解するためには、あなたは私と同じで、同じ状況にいなければならないからだ。私が言ったことがあなたに届く時には、それは真理ではなくなる。これは、私が言葉を話すことしかできず、その解釈はあなたから来なければならないからだ。意味はあなたから来るので、あなたと異なるものではない。言葉は私のものであり、意味と解釈はあなたのものだ。

その意味や解釈は、あなたが現在いる以上のものではあり得ないし、あなたの現在の経験を超えたものでもあり得ない。あなたはギータを読むときにクリシュナを読んでいると思っているだろうか? もしそうなら、あなたは大きく間違っている。そうでなければ、どうしてこんなにも多くの解釈や解説があるのだろうか。すべてのシャスターラや経典の中に、私たちは自分のイメージを見ているのだ。

>>207 の該当部分は、 This is not a sadhana one can practice only once in a while and still attain liberation.
です。「これは、たまにしか実践できなくとも解脱を得られるような修行ではない」ではいかがでしょうか。

毎日観察を続けていても、欲に流されたり、観察が失われているのを忘れたりして、本当に進んでいるのかと思う時もあります。精進あるのみですね。

210鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 23:08:12 ID:1d4drIFg0
「これはたまにしかできなかったら、解放を得られる修業とはならない」というほうがよいじゃろう。
そうすればあとの「これは昼夜を問わず、継続的に修行しなければならない。」という文とつながるのじゃ。

211鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 23:10:11 ID:1d4drIFg0
誰でも自分のイメージの世界に生きている故に、聖人や聖典の言葉を鵜呑みにしても、真実とはならないのじや。
自ら経験したことしか人は言葉に出来ないのじゃ。
無理にしようとすれば嘘になるのじゃ。
真理は自ら実践して気付くしかないのじゃ。

212避難民のマジレスさん:2021/02/26(金) 21:27:41 ID:Dp/qMVVc0
真理を知る前に知ることができるのは言葉だけだ、真理ではない。それらの言葉は、他の人や聖なる書物、神の化身やティールタンカラ、悟りを開いた人たちからのものだろうが、その意味と解釈はあなたのものになる。あなたの「私」はそれらの中にあるだろう。多くのいわゆる宗教の間にこれほどまでに多くの対立や相違があるのは、このためではないだろうか? ブッダとキリストの間には、何か対立や敵対が存在しうるのだろうか? 解釈の違い、対立、敵対はあなたと私の間にあり、私たちはそれをすべて彼らの名の下に貫いているだけなのだ。

宗教は真理を知る者から生まれ、宗派はただ聞いて信じるだけの者によって組織されている。そして、それゆえに多数の宗派が存在する。真理を知るという経験は唯一無二であり、その経験はすべての人にとって同一だ。しかし、信仰の場合はそうではない。知は一つであり、唯一無二のものだが、信仰は信じる人の数と同じくらい多いのだ。

「宗教(Religion)」はダルシャンの結果であり、真理の洞察の結果であるが、宗教(religions)は真理を見ないことの結果だ。「宗教」は知る者によって設立されるが、宗教は知らない者によって組織される。そして、彼らが善意の努力をしても、宗教は無宗教になってしまうのだ。人間は、その全歴史を通して、この呪いの犠牲者であり、この言葉の矛盾の犠牲者であり続けてきた。

>>210 ありがとうございます。そのように修正します。
話しながらの観察に少し慣れてきました。複雑な会話はまだできませんが、よく知っている人との簡単な会話は観察できるようになってきました。この文をタイプしながらも観察できていますが、さらに観察の時間を増やせるよう精進します。

213鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/26(金) 23:47:06 ID:1d4drIFg0
↑よいことじゃ。
どんどん実践すれば上達していくのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。

214鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/26(金) 23:50:25 ID:1d4drIFg0
言葉は常に受け取る者によって解釈が違ってしまうとオショーは言うのじゃ。
解釈の違いに拠って宗派が生まれ、闘争も起きてしまうのじゃ。
実際に同じ教祖の宗教でも派閥が多く生まれ、闘争も起きているのじゃ。
宗教が教祖によって正しく説かれても、言葉に拠って真理を知らない者たちが派閥を作り、争いを始めてしまうのじゃ。

215避難民のマジレスさん:2021/02/27(土) 20:42:30 ID:Dp/qMVVc0
第二の質問:私たちは真理についての概念を形成せずに、真理について考えることができるのではないでしょうか?
私はあなたに考えなさいとは全く言っていない。思考は、あなたが知っていることを超えて行くことはできないし、もしあなたが真理を知らないとしたら、いったいどのように、それについて考えることができるだろうか? 思考は常にあなたの経験の境界内にとどまる。それは知っていることについて、くよくよ考えるだけだ。思考は決して創造的ではなく、それは単に反復的だ。未知のものは、思考によって知ることはできない。未知のものを知りたければ、知っていることから抜け出さなければならない。未知の世界に入るためには、既知の世界から出なければならない。

したがって、真理についての概念を全く形成しない方がよい。その概念は全く真理ではなく、生きた意味を持たない無生命の言葉になってしまう。その言葉は伝統によって尊敬され、何千人もの人々によって崇められ、シャスターラによって支持されているかもしれないが、あなたにとっては全く価値のない言葉になるだろう。その言葉の狭く限られた枠組みを通して真理の壊れたイメージを見ることは一つのことであり、枠組みが崩れた時に空の全体の広がりを見ることとは全く別のことなのだ。

空は何にも囲まれていない。また、真理は何にも包まれていない。すべての枠組みは人工的に作られたものであり、すべての概念は人工的に作られたものだ。もしあなたが真理を知りたければ、あなたの枠組みから抜け出しなさい。言葉や思考、いわゆる知識を忘れて、既知のものから離れなさい、未知のものが入って来られるように、そして、すべての人工的な概念を手放しなさい。そうすれば、あなたは誰の創造物でもない、すべての創造の基礎そのものを知ることになるだろう。

自我がだいぶ観えているのに無我にならないのは、まだ執着を残しているからです。恐れ、怒りなど心に引っかかる時には、特にしっかりと観察しようと思います。

216鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/27(土) 23:24:50 ID:1d4drIFg0
↑善いことじゃ。
常に困難な時にこそしっかり実践するのじゃ。
そうすれば悟りも自ずからやってくんるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

217鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/27(土) 23:27:35 ID:1d4drIFg0
真理についていかなる概念も形成しない方が善いとオショーは言うのじゃ。
そして考えることもしないほうがよいというのじゃ。
真理について全く知らない者が真理について考えることなどできはしないからなのじゃ。
真理について知らないのに真理について考えるのは、ただ単に自分に嘘をついている事になるのじゃ。
言葉も思考も捨ててただ真理に没入することができるだけなのじゃ。

218避難民のマジレスさん:2021/02/28(日) 21:01:05 ID:Dp/qMVVc0
第三の質問: シャスターラの助けなしで、どのようにして私たちは真理を知ることができるのでしょうか? それを通してのみ、真理を知ることができるのではありませんか?

あなたは、もしすべての聖典、すべてのシャスターラが破壊されたならば、真理もまたそれらと一緒に破壊されるだろうと言いたいのだろうか? 真理がシャスターラに依存しているのか、それともシャスターラが真理に依存しているのか? 友よ、真理はシャスターラによって達成されたことはない。それどころか、シャスターラは、真理が実現した後に得られ、明らかにされた。価値があるのはシャスターラではなく、真理だ。根本的なものは真理であって、シャスターラではないのだ。そして、もし真理がシャスターラを通して達成できたならば、それは非常に安い真理となるだろう。あなたは自分自身を変えることなく、それを達成することができるのだから。

しかし、シャスターラはあなたの記憶を埋めることができるだけで、自己の知を与えることはできない。そして、真理の道筋では、訓練された記憶は全く助けにならない。真理のためには、自己変革の代償を払わなければならない。シャスターラはあなたを専門家や学者にすることはできるが、知を与えることはできない。シャスターラはより多くのシャスターラを生み出すことができる。これは自然なことだ。物質は物質を生み出すことができるだけだ。しかし、どのようにして知はそこから生まれるのだろうか? 知は意識の一形態だ。無意識の物質からは生まれない。シャスターラには生命がなく、意識がない。ゆえにこれは真理のためのものではない。シャスターラは無意識で生命のない記憶を豊かにするだけだ。意識的な知は、それらを通して達成することはできないが、自分自身の中に入ることによってのみ達成することができる。

あなたは、いったいどうやって真理がシャスターラの助けなしで知ることができるかと尋ねている。これに対して私は、あなたがシャスターラに自分自身を閉じ込める限り、いったいどうやって真理を知ることができるのかと尋ねよう。真理は他の誰かから、シャスターラから、あるいはグルから得ることができるというのは間違った考えだ、なぜならば、あなた自身の中への探究をできなくするからだ。この考えは大きな障害だ。これもまた、輪廻の中、世界の中での探求だ。シャスターラもまた世界の一部であることを心に留めておきなさい。外にあるものは何でも世界だ。真理は内側、自己の中にあり、外側にはない。自己は本当のシャスターラだ。それはまた、唯一の真のグルでもある。自己に入ることによって、真理は達成される。

自己が真のグルだというのはラマナマハルシも述べていましたが、どのように修行に役立てられるのでしょうか。少し詳しくお教えください。

219鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/28(日) 22:16:28 ID:1d4drIFg0
自己の真のグルは悟りへの願望が生みだすものじゃ。
悟りへの願望が強いほど、正確に悟りへの道に導いてくれるのじゃ。
悟りへの願望が弱ければ、その導きも弱くなってしまうのじゃ。
誰でも永遠の安らぎには憧れるが、欲に囚われていては真のグルもどうしようもないのじゃ。
全ての欲を捨てて悟りへの願望を強く保てば、心の奥から自然に行く道が示されるのじゃ。
それが真のグルなのじゃ。

220鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/28(日) 22:31:30 ID:1d4drIFg0
強い願望に拠ってそのように心にあるグルが確立したならば、例えば日々の修業に怠け心が生じたならば、それを咎めることもあるのじゃ。
誰でも日々の修業は辛いから、怠けたくなるものじゃ。
特に体の怪我とか心に苦があったり、日常にトラブルがあった時等は怠ける口実が出来たせいで休みたくなるものじゃ。
そのとき休もうとしたら心に咎めが生じて、やはり実践しようとする気持ちになるじゃろう。

座っていても金とか異性のことばかり考えていたとしたら、その時も心に咎めが生じてちゃんと修業しなくてはという気持ちになるのじゃ。
それが自分の心にある真のグルの働きなのじゃ。

外のグルにはそのような内心の小さな働きまではわからないからのう。
自分の心にあるグルであるからそのように心の中の小さな働きまで確かに知って、導くことが出来るのじゃ。
これもまた一例に過ぎないのじゃ。
まだ多くの働きがあるが、実践によって確かめるのじゃ。

221避難民のマジレスさん:2021/03/01(月) 21:09:59 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:知性が真理ではないと主張することは真ではないのですか?

知性とは考えることだ。知性とは知ではない。考えることは暗闇の中で手探りすることであり、知ることではない。真理は思考することはできない - それは見られて、実現される。それは知性によって実現されるのではなく、知性が静かで空っぽになったときに実現されるのだ。内なる知のこの状態が直観だ。直観は思考ではなく、洞察だ。真理を見たいと思っている人にとって、直観は、盲人にとっての視力の獲得のようなものだ。考えることによっては、誰もどこにもたどり着けない。それは終わりのないの手探りだ。盲目の人は何年も手探りをするかもしれないが、光を得ることができるだろうか? 手探りと光の間に関係がないように、思考と真理の間には何の関係もない。それらは全く異なる次元のものだ。

自己の真のグルについてお教えくださり、ありがとうございます。非常に忙しく、眠くて疲れていても坐ろうとする気が起こるなど、心当たりがあります。また、ふと強く無常を感じて、何もかも全く意味がないように思えることがありますが、それも真のグルの導きのひとつなのでしょうか?

222鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/01(月) 23:03:15 ID:1d4drIFg0
↑そう言えるじゃろう。
 この世の全てのものごとは泡のようにはかなく、消え去る性質のものじゃ。
 囚われれば時間を失い、苦になるばかりなのじゃ。

 この世で唯一意味があるのは、有限な肉体で無限の存在に至る事だけなのじゃ。
  それを教えてくれる心の働きは内なるグルの導きと言えるのじゃ。

223鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/01(月) 23:23:14 ID:1d4drIFg0
知性が真理ではないという主張もまた真理についての考えなのじゃ。
それが真であることはないのじゃ。
知性もまた観念の枠から逃れられないものじゃ。
真の知は気づきであり、洞察によるものじゃ。
思考を介さずありのままの今ここにあるものごとを見抜く働きなのじゃ。

224避難民のマジレスさん:2021/03/02(火) 20:49:21 ID:Dp/qMVVc0
第五の質問:あなたは、クリシュナのビジョンやキリストのビジョンを霊的な経験だとは見なさないのですか?

そうだ、それは霊的な経験ではない。どのビジョンも霊的な経験ではない、なぜならば、その水準でのすべての経験は心理的だからだ。他の誰かのビジョンや実現がある限り、それは自己の実現ではありえない。そのような経験であっても、あなたはまだ自分自身の外にいて、自分自身に入ってきていない。自分の中に入ってくるということは、外の経験がないときに起こるのだ。意識が何の対象にも関係していないとき、それは自然に自己に落ち着く。対象のない意識だけが自己に落ち着くことができる。

自己の外では、私は物質の世界と心の世界という二つの世界に囲まれている。これらはどちらも私の外にある。物質が外にあるだけでなく、心も外にある。心は身体の内側にあるので、内側にあるような錯覚を起こすが、心は内側にはない。自己は内側にあり、心の背後にあり、心を超えたところにあるのだ。

私たちは物理的な経験を霊的な経験と間違うことはないが、私たちの心理的な経験は霊的であるかのような錯覚を作り出す。なぜならば、私たちが見ている心のイメージは、私たちが知っている世界のものとは異なり、目を閉じた後にもそれを見るからだ。しかし、私たちは心理的な経験の中で、夢を霊的経験とは考えない。夢もまた目を閉じている時にのみ現れ、目覚めて外の世界との接触すると終わるにもかかわらず。

現実的で霊的であるかのような錯覚を引き起こす、特定の心理的経験がある。それは、心理的な投影だ。心は、目を開いた後でも、目を閉じて見ている夢を見ることができる程度に自分自身に催眠術をかける能力を持っている。それは一種の覚醒した眠りの中で起こる。こうして、私たちは見たいように神を見るのだ - クリシュナやキリストを。そのようなビジョンは、ただの心理的な投影だ。そこでは私たちは実際にあるものではなく、誰であれ見たいと願うものを見る。これらの経験は霊的なものでも神的なものでもない。それらは単に心理的な経験であり、自己催眠によって引き起こされる。

上で、「心理的(psychological)」、「心の(mental)」と訳したものは、「精神的」、「精神の」とも訳すことができます。肉体的-精神的-霊的 という分類はより明確かもしれませんが、最後は分類も捨てるとすれば、そこにこだわらなくとも良いようにも思います。いかがでしょうか?

225鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/02(火) 21:36:32 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。
ここでは心理と霊的なものとの二つの分類であるからのう。
拘らなくて善いのじゃ。

226鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/02(火) 21:41:05 ID:1d4drIFg0
瞑想中にいろいろな映像を見るのはよくあることじゃ。
お釈迦様も悟りを得る前に見たというのじゃ。
それらは自らの心理的な原因から見るものであり、悟りとは何の関係も無いものじゃ。
全ての映像もなく、感じられるものも無く、感じる自分も無くなれば悟りに近いのじゃ。
何かが感じられるのならばまだ悟りには程遠いと覚えておくのじゃ。

227避難民のマジレスさん:2021/03/03(水) 21:17:18 ID:Dp/qMVVc0
第六の質問:では、神はどのようにして見られるのでしょうか?
ここでは、「見られる」という言葉は誤解を招く。それは、見られるべき人がいると思わせ、「神」という言葉自体が人、人格の錯覚を生み出す。人格神は存在しない。神性はあり、力はある。人格は存在しないが、力はある。神はエネルギーの無限の海、意識の無限の海だ。それはあらゆる形で自らを顕現する。創造者として、神は分離されていない、神自身が創造だ。それ自身が創造的な現実だ。神自身が生だ。

自我に囲まれていると、自分は他と異なり、生から切り離されているような錯覚に陥る。これがあなたの隔たりであり、神からの分離だ。そして実際、事実として、隔たりも分離も不可能だ - まさに「私」という錯覚が隔たりなのだ。この分離は、無知のためだ。実際には、無知こそが分離だ。ゆえに、本当は分離は全くない。

自我の解消によって実現される無限の、境界のない、創造的な生命力が神だ。「私」の死後、自我が消滅した後に経験するものは、神の真の視覚だ。では、そこでは何が見えるのだろうか?どこにも「私」は見えず、どこにも「あれ」や「他のもの」は見えない。海の波の中にあるものは私の中にあり、新春の花の中にあるものは私の中にあり、秋の落ち葉の中にあるものは私の中にある。私が宇宙の存在から切り離されているところはどこにもない。私はその中にいる。これが神の真の視覚だ。ある見者は、「Tattvamasi svetaketu - 汝はそれである」と言った。あなたがこれを感じ、体験した日、あなたは神を悟ったのだ。これに満たないもの、あるいはこれとは異なるものは、すべて想像だ。

自分を神と同一視しないとしたら、神のビジョンとは何だろうか? 雨粒にとって、海のビジョンとは何だろうか? 雨粒は自己のアイデンティティを失い、海そのものになるだけだ。雨粒が雨粒である限り、海は雨粒とは別のものであり、海からは遠く離れているが、一旦雨粒がそのアイデンティティ、実体を失うと、海と一体となる。本当は、雨滴は海になってしまったのだ。
あなたは神を求めているのかね? 神性の達成を求めなさい。この探求の道は、雨粒が海を求めるのと同じなのだ。

文を読んだときに解放感がありました。日頃自我の牢獄を実感しています。観察に励みます。

228鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/03(水) 21:49:00 ID:1d4drIFg0
神を見る者にはまだ主体と客体があり、分裂が在るのじゃ。
オショーの言う神とは全てであり、何一つ分裂していない全体なのじゃ。
そこに見られる神は居らず、見る者もいないのじゃ。
ただ雨粒が海と一つになるように、神と一つになる達成だけが在るのじゃ。

229避難民のマジレスさん:2021/03/04(木) 21:20:46 ID:Dp/qMVVc0
第七の質問:私は神の信仰を持っていますが、あなたは信仰が有害であると言います。私は信仰を放棄すべきでしょうか?

あなたの質問への答えは、質問自体の中に発見されるべきではないだろうか? 願いによって持ったり手放したりできる信仰に何の価値があるのか? それは明らかに全く価値のない盲目の心的な概念に過ぎない。それは盲目の信仰であり、あなたは人生において盲目でなければないほど良いのだ。

私はあなたに信じて欲しいと頼んでいるのではなく、知って欲しいと頼んでいるのだ。知を得て、実現によって到達した心の状態だけが価値を持つ。あなたが望むならば、それを正しい信念と呼ぶこともできるが、それは信念ではなく、知だ。いくつかの漠然とした真実を信じてはならない。真理を探しなさい。それを求めなさい。しかし、どんな信念や概念にもしがみついてはならない。これは心の弱さの表れだ。それは無気力であり、注意の欠如だ。それは、自己を見るという務めから免れるための有害な方法なのだ。

盲信とは、修行からの逃避であり、自己実現のための努力からの逃避だ。それはある意味では自殺に他ならない、なぜならば一度この地下溝に落ちてしまうと、真理の頂点に登ることができなくなるからだ。これらの道は、二つの反対方向にあなたを導く。一つは、あなたが陥る溝であり、もう一つは、あなたが登らなければならない高遠な山頂だ。

質問が浮かぶと智慧が答えることがあるのですが、それには自己の真のグルとして完全に従って大丈夫でしょうか?

230鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/04(木) 23:10:16 ID:1d4drIFg0
↑いかんのじゃ。
それは自分の願望から出たものであることもあるからなのじゃ。
なんでも実践して自らの体験から真実を見出さなくてはいかんのじゃ。
現実のグルでもその言葉を鵜呑みにせず真実を自ら見出すべきなのじゃ。
それがオショーも説いていることなのじゃ。

231避難民のマジレスさん:2021/03/05(金) 20:39:25 ID:Dp/qMVVc0
信仰とは簡単なものだ、なぜならば人は何もする必要がないからだ。その意味では、知はそう簡単ではない。知とは生の完全な変容だ。信仰は外側の衣服であり、知は内側の革命だ。単純な信仰は、あなたの魂が努力している贖罪の頂点に到達できるようにするよりもむしろ、あなたを盲目的な信仰の眠りに簡単に戻しうる。「宗教(Religion)」は信仰ではないが、残念ながら宗教(religion)は信仰だ。私にとって「宗教」とは何かというと、世界の宗教の概念とは一致しない。その点では、カール・マルクスが宗教をアヘンだと決めつけたのは正しかったが、本当の宗教についてそう言うのは大きく間違っている!

あなたは、シャスターラへの信仰、神の言葉への信仰、教師への信仰を持つように言われてきた。私は全くそうは言わない。私が言いたいのは、自分自身を信じなさいと言うことだ。自分自身を知ることによってのみ、シャスターラが何を言ったか、神が何を言ったかを知ることができる。 自分自身を信じていない者にとって、他の信仰に従うことは無駄なことだ。あなたは誰か他の人の足で立つことができるだろうか? ブッダは、「自分自身を灯明にしなさい。自分自身を避難所としなさい。自分自身の避難所以外に適切な避難所はない。」と言った。 私も同じ事を言う。

ある夜、あるサドゥーが客人だった別のサドゥーに別れを告げようとしたとき、別のサドゥーが「夜はとても暗い。どうやって行けばいいのでしょうか?」と言った。 主人はランプを灯して、それを客人に渡した。しかし、客が階段を降りようとしたとき、主人はランプを吹き消した。場所は再び暗闇に包まれた。すると主人は言った、「私のランプはあなたの道を照らすことはできません。そのためには、あなた自身のランプを持っている必要があります。」 客人はサドゥーのアドバイスを理解した。この理解はその人自身の人生の道を照らすランプとなり、二度と消されることはなかった。

智慧に関しても、鵜呑みにしてはいけないのですね。自分の願望から出たものと、そうでは無いものを、実践して体験する以外に見分ける方法はないのでしょうか。また、智慧に関してもうひとつ質問がございます。私の経験ですと、自分自身の変容が伴う場合と、ただ知識のみが得られる場合があります。鬼和尚が実践して確かめよと述べられたのは、後者に関してでしょうか?

232鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/05(金) 22:48:46 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、自ら実践して見分ける以外にないのじゃ。
 経典でさえもそのようにするべきなのじゃ。

 後者になるじゃろう。
 変容が起きたのならばもはや正しいことは確かめられたのであるからのう。
 知識でしかないものが正しのかどうか、自ら確かめるのじゃ。

233避難民のマジレスさん:2021/03/06(土) 20:55:48 ID:Dp/qMVVc0
修行は単なる生活の一部ではなく、立っている時、座っている時、話している時、笑っている時など、生活全体に浸透していなければならない。修行は常に在らねばならず、そうすることで初めて自然発生的なものとなるのだ。宗教とは、特定の行為や礼拝、祈りからなるものではない。それは、生のすべてが礼拝と祈りになるような生き方だ。それは儀式ではなく、生き方なのだ。この宗教では、宗教的であるのは自分の行為ではなく、宗教的であるのは個人だ。どんな行動も宗教的ではなく、生が宗教的なのだ。

自我や「私」の束縛から自由になることによってのみ、意識は個人を超越し、全体と一体となることができる。土瓶が海から水を離すように、自我の土瓶は真理から個人を遠ざけている。

この自我、この「私」とは何か? あなたは自分の中でそれを探したことがあるだろうか? あなたが探したことがないので、それは存在しているに過ぎない。私自身がそれを見つけようとしたとき、それが存在しなかったことがわかった。静かな瞬間に自分自身の中に深く入り、見なさい。あなたはどこにも「私」を見つけることはできない。「私」は存在しない。それは、私たちがその社会的有用性のために存在をもたらしてきた単なる幻想だ。あなたが名前を持つのと同じように、あなたは自我も持つ。両方とも実用性があり、実用的な観点からは価値があるが、それらは実在しない。あなたの中にあるものには、名前も自我もない。

常に観察を保つというのはなかなか難しいのですが、少しずつ増えてきているように思います。さらに励みます。

234鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 00:08:34 ID:1d4drIFg0
私とは何か探したことが無い者にそれは存在しているというのじゃ。
探していないから私があると漠然と認識しているのじゃ。
詳細に探してみればそれがないとわかるのじゃ。
人間本来無名無色なのじゃ。

235避難民のマジレスさん:2021/03/07(日) 21:06:42 ID:Dp/qMVVc0
涅槃に入ることも、モクシャに入ることも、解放に入ることも、魂に入ることも、アートマンに入ることもない。あなたが去ったことのない場所にどうやって入ることができるのだろうか? そして何が起こるのだろう? 先ほど言ったように、涅槃に入るということはないが、何が起こるかというと、今までいた世界が夢のように溶けて、自分自身の中に自分自身がいることに気づくのだ。このように、その体験は「入る」ということでは全くなく、夢の中でしていた旅が突然終わり、ベッドの上にいる自分を発見するようなものだ。あなたはどこにも行っていないので、戻ることに関する質問はない。何も失っていないので、何かを達成するという話は無意味だ。あなたは夢を見ているだけだ。あなたの旅と探索は夢の中にある。あなたはどこかに行ったり、何かを見つける必要はない。しなければならないことは、目覚めることだけだ。

真理の実現は、常に完璧であり、常に完全だ。そして、その経験、その達成は、徐々にではない。それは進化ではなく、革命だ。夢から覚める人は、徐々に少しずつ覚めるだろうか? 夢があるか、夢がないかのどちらかだ。中間段階はない。そう、修行は長い時間がかかるかもしれないが、真理の実現は、稲妻の閃きのように行われる - 瞬間に、そのすべての全体で。

実現はそのように起こるために、時間がかからない。なぜならば、時間をかけて起こるものは何でも、常に漸進的で、進行的だからだ。修行はある時間を占め、その時間の間で起こるが、実現には全く時間がかからない。それは時間を超えている。

時間を超えた、今、ここにある真理に気付けるよう、今日また新たに観察します。

236鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 22:52:16 ID:1d4drIFg0
涅槃や解脱やアートマンなどの言葉はもはや観念になってしまったのじゃ。
それらに囚われれば逆に障害にもなるのじゃ。
ただ目覚めることが在るだけとオショーは言うのじゃ。
それは一瞬で起こるものじゃ。
自己の存在が幻想であると気付くことで瞬時に起こるのじゃ。

237避難民のマジレスさん:2021/03/08(月) 20:49:23 ID:Dp/qMVVc0
真理の実現のためには、善と放棄の修行だけでは不十分だ。それは部分的な修行だ。真理の実現のためには、善と悪、愛と憎しみ、輪廻とモクシャ、世界と解放の両方の上に昇ることが不可欠だ。その状態は、私たちの言葉では、ヴェータラガタと呼ばれ、執着と隔絶の両方を超えた状態だ。ヴェータラガ・チャイターニャ(無欲の意識)とは、愛も憎しみもなく、善も悪もなく、ただ純粋なチャイターニャ、純粋な意識、自己の中での不動性だけが存在する状態のことだ。真理の実現はこの状態でのみ起こる。

あなたは無頓着で注意深い心を養わなければならない。夜も昼もあなたの生全体に織り込まれている、まさに呼吸のように、自分自身にその心の状態を織り込まなければならない。俳優が役を演じるとき、自分が演技をしていることをよく認識しているのと同じように、 あなたは、行為中に行為しないことを実践し、すべての活動で無頓着かつ注意深くなければならない。俳優は役に夢中になり、その中で意識を失うことはない。演技をしていても、切り離されたままでいる。あなたもそのようになり、そのようなままでなければならない。

人が活動に従事している間、注意深く見ていれば、無頓着のままでいることは難しいことではない。それは観察の自然な結果だ。私は道を歩いている。もし歩くという行為を完全に観察するならば、私は歩いていると同時に、歩いていないことを感じるだろう。歩くという行為は物理的な水準では行われているが、意識のレベルでは歩きは無い。食事をしていても、他のことをしていても、同じように感じるだろう。あなたの中には、ただ見る者である一点が存在するだろう。それは行為者でも、享楽者でもないだろう。この見ることの経験が深まれば深まるほど、幸福や悲しみの感情は徐々に解消されていき、絶対的で純粋な意識であるアートマン、あなたの自己を実現するだろう。

自分の中で同時に複数起こることに気づけていれば、観察ができていると思っていました。しかし、静かにしている時は、何か行為している時よりも微細な観察ができていることに気づきました。逆に言えば、行為中の観察は不十分だったということです。精進します。

238鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/08(月) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
↑善い気付きなのじゃ。
そのようにしてどんどん進むと善いのじゃ。
精進あるのみなのじや。

239鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/08(月) 21:58:46 ID:1d4drIFg0
真理の実現には善と放棄だけではいかんというのじゃ。
注意深い観察が必要なのじゃ。
自分が観察されなければ自我はなくならないのじゃ。
日々観察し続けることで感情さえも要らないものと気づき、アートマンにも達するのじゃ。

240避難民のマジレスさん:2021/03/09(火) 21:05:28 ID:Dp/qMVVc0
心とは何だろうか? 心とは、感覚によって知覚されたものの収集者であり、また収集物でもある。心を自己と見なす人は誰でも、使用人を主人と勘違いしている。そして、もし本当の自己を実現したいならば、あなたが知っているものをあきらめなければならないし、知る者に従わなければならないだろう。心はあなたが知っているものに過ぎず、自己はあなたがすべてを知っていることを意味する。

見者、知る者とは自己のことだ。この自己は、生と死とは異なり、マーヤーとモクシャとも異なり、幻想と解放とも異なる。それはただ見者であり、光の、闇の、世界の、涅槃の、すべてのものの見者だ。自己はすべての二元性を超えている。

人はこの見者を知るとすぐに、蓮のようになる - それが生まれた泥から離れ、生きている水から切り離される。そのような人は、喜びの中にも痛みの中にも、名誉の中にも屈辱の中にも - ただの目者であるため - 生のすべての状況で穏やかであり、落ち着いている。どんなことでも、起こることは、起こる。しかし、それはその人に起こるのではなく、その目の前で起こる。その人は目撃する。その人はちょうど鏡のようになる。鏡は何千ものイメージを映し出すが、痕跡は残らない。

以前は縁起を観察するように意識していたのですが、いつの間にか最近はただ観察するようになっていました。縁起に注意するようにした方が良いでしょうか? それとも、新たな発見があるうちは、今のままで良いですか?

241鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/09(火) 21:55:35 ID:1d4drIFg0
↑縁起が観えるならば観ると善いのじゃ。
そうでなければ観ないでよいのじゃ。
いずれはそれも自然に観えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。

242鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/09(火) 21:58:28 ID:1d4drIFg0
心とは主人ではなく、使用人であるというのじゃ。
それは主体ではなく、認識されたものなのじゃ。
全てのものを見るのが自己であると言うのじゃ。
ただ見るだけであり何も知識とはしないのじゃ。

243避難民のマジレスさん:2021/03/10(水) 20:30:50 ID:Dp/qMVVc0
年老いたサドゥーが若い仲間と一緒に川の岸辺に来た。若者は「どうやってこの川を渡りましょうか」と尋ねた。老人は「足が濡れないように」と答えた。若者は老人の言葉を聞いて、雷の閃光のように、何かが非常にはっきりと、明らかになった。川は来て、去っていたが、神秘的な格言は彼の心に深く浸透していた。それが人生の指針となった。足が濡れないように川を渡ることを学んだのだ。

あなたはこの若者のようにならなければならない - 食べていてもなお、食べていない人のように、群衆の中にいてもひとりでいる人のように、眠っていても起きている人のように - というのも、そのような人だけがこの世での解放を得て、すべての石の中に神を見出すからだ。

誰かが、「心は世界を含むべきではなく、世界は心を占めるべきではない」と言った。これは従うべき教義だ。そして、もしこの格言の前半が完全なものであれば、後半は自動的に従う。前半は原因であり、後半はその効果だ。しかし、後半から始める人は誤りを犯す。したがって、私は格言のこれだけを言う:心に世界を含ませてはならない。これに続くものは格言ではなく、結果だ。心が世界を含まなければ、世界は決して心を占領することはない。心に含まれていないものは、決してそれを占有することはできない。

この格言は、記憶をすべきでないということなのでしょうか?

244鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/10(水) 22:00:16 ID:1d4drIFg0
↑それが出来れば一番善いのじゃ。
しかし、記憶に依存している者にはできないじゃろう。
全ての世界の知識は幻想の観念であると、心得ておく位が出来ることじゃろう。
そのように実践するとよいのじゃ。

245避難民のマジレスさん:2021/03/11(木) 21:13:32 ID:Dp/qMVVc0
サマーディでは、既知のものに対象がないので、サマーディの状態を知と呼ぶことはできない。それは確かに普通の意味での知ではないが、同時にそれは無知でもない。そこには知るべきものは何もない。それは、知と無知の両方とも異なる。対象が全く存在しないから、対象を知ることも知らないこともないのだ。そこにあるのは主観だけだ。そこにあるのは知る者だけだ。どんな対象についての知もなく、純粋な知、つまり中身が空な意識があるだけだ。

ある人がサドゥーに「瞑想とは何ですか?」と尋ねたことがある。サドゥーは、「近いものの中にいることが、ディアーナ、瞑想だ」と答えた。

何があなたに近いだろう? 自分自身を除いて、すべてのものは自分から離れていないだろうか?あなただけがあなたの自己の近くにいる。しかし、あなたは永遠に自分自身を離れ、常に自分自身から遠く離れている。あなたはいつもどこか周囲にいる。自己の中にいて、周囲にいないことが瞑想だ。あなたがどこにもいなくて、あなたの心もどこにもないとき、そのときでさえもあなたはどこかにいる。そのどこかが瞑想だ。

私がどこにもいないとき、私は自分自身の中にいる。それは周囲にいることではなく、離れていることでもない。それは内向きであり、親密だ。そこにいることによってのみ、人は真理に目覚めることができる。あなたは周囲にいることによってすべてを失っているが、それはすべてあなたの自己の中にいることによって取り戻すことができる。

忘我の体験では、自分という主体や感覚がないとき、どこにも自分はなく、ただ何も無いという観ることがあるだけでした。ですので、「あなたがどこにもいなくて、…、そのときでさえもあなたはどこかにいる。」という状況が腑に落ちない感じです。元が主語を必要とする英語の言い回しだからでしょうか。今日のオショーのことばを、少し詳しく教えてください。

246鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/11(木) 22:01:43 ID:1d4drIFg0
自分という観念も、感覚も無く、心の働きさえも感じられない時、そこにも確かに意識は在るのじゃ。
それらを認識している意識が在るからそれもわかるのじゃ。

自分が全ての認識の主体であると思っていると、自分が無いと何もないと想うのじゃ。
自分さえも実は認識の主体ではなく、ただ観念として認識されたものとして知れば、自分の無い意識も感得できるのじゃ。
何か存在するものがあると言えるのは、その意識だけなのじゃ。
全てを捨ててその意識に回帰すればそれが瞑想なのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2021/03/12(金) 21:02:49 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたに世界を捨てなさいと頼むのではなく、自分を変えなさいと頼む。世界を否定してもあなたは変わらないが、あなたが変われば世界はあなたにとって存在しなくなる。真の宗教とは、世界を否定するものではなく、自己変革するものだ。世界のことを考えるのではなく、世界に対する自分の見方を考えなさい。それを変えなければならない。それが原因で、世界があり、束縛がある。見方が変われば、創造物全体が変わる。輪廻にも世界にも落ち度はない。誤りはあなたとあなたの見方にある。

ヨーガは生の変容、自己変革の科学だ。自分自身を分析することで、物理学は原子と原子のエネルギーに到達するが、ヨーガは霊と霊的なエネルギーに到達する。前者では物質に隠された神秘が発見され、後者では自己に隠された世界が明らかにされる。

しかし、この宇宙には自己よりも重要なものはないので、ヨーガは科学よりも重要だ。人間は物質についてはよく知っていても、自己については何も知らないので、バランスを崩している。人は海の計り知れない深さに飛び込み、驚くほどの高さまで飛ぶ方法を学んだが、自己の中に隠退する方法を忘れてしまったのだ。これは自殺的な状態だ。これはまさに私たちの不幸だ。ヨーガはこのバランスを回復させることができるからこそ、ヨーガを教えることが必要なのだ。

停滞感があるのは、正しい観察ができていないということなのでしょうか? 初心にかえり、姿勢から見直してみます。

248鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/12(金) 23:32:35 ID:1d4drIFg0
停滞していると感じる時は最も進歩しているものじゃ。
自分が進んでいるから気付かないのじゃ。
周りを観察してみて以前とは感じ方が違うことを知ると善いのじゃ。
あるいは日記をつけて時々読み返すと善いのじゃ。

249鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/12(金) 23:35:44 ID:1d4drIFg0
世界を否定しても自分は変らないが、自分が変れば世界は存在しなくなるとオショーは言うのじゃ。
世界とは自分が観念に拠って作り出したものであるからのう。
自分が変れば以前の世界と想っていたものがなくなるのじゃ。
世界にも全てのものごとにも何も間違いはなく、自分の観念に誤りが在るのじゃ。
それが苦の原因なのじゃ。

250避難民のマジレスさん:2021/03/13(土) 20:57:58 ID:Dp/qMVVc0
ヨーガを通してのみ、真の意味での新しい人間の誕生が起こり、その時に初めて新しい人間性の基礎が築かれる。科学は物質を征服し、今、人間は自分自身を征服しなければならない。物質を征服したことで、人間は今、自分自身を知り、征服することが必須となった。さもなければ物質の無限の力、原子力を支配することが、自らの破滅を招くことになる、なぜならば、無知な者の手にある力は常に致命的だからだ。

もし科学が無知な者の手に落ちれば、科学と無知の組み合わせは破壊的なものになるに違いない。しかし、もし科学が知を持つ者の手にあれば、世界を天国に変える前例のない創造的なエネルギーの誕生につながるだろう。

それゆえに、私はあなたに、未来と人間の運命は今、ヨーガの手の中にあると言う。ヨーガは未来の科学であり、それは人間の科学だからだ。

第9章はこれで終わりです。残り1章です。ここまでで何かおかしなところなどがありましたら、ご指摘ください。
昨日、夢の中でも観察による気づきが起こったように思うのですが、そのようなこともあり得るのでしょうか?

251鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/13(土) 21:53:39 ID:1d4drIFg0
↑特におかしなところは無いのじゃ。
 
 そのようなこともあるのじゃ。
 潜在意識で観察と気づきが行われているのじゃ。
 そこまで進歩すれば観照も近いといえるのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

252避難民のマジレスさん:2021/03/14(日) 22:02:01 ID:Dp/qMVVc0
第10章 別れの言葉 1964年6月8日午前

たった一瞬の決意、サンカルパ、完全な決意だけで十分であり、それなしの人生は無意味だ。重要なのは時間ではなく、決意であることを覚えておきなさい。世界における成果は時間の領域で達成され、真理の成果は決意の領域で達成される。サンカルパ、決意は、あなたの修行の中に生きていなければならない。

さて、今日は何を話そうか? 今夜、私たちは別れることになるが、あなたたちの心はその見通しで、すでに重くなっているのが私には見える。この孤独な場所に皆で集まってから、たった5日しか経っていない。誰が旅立つことを考えただろう?

しかし、忘れてはならないのは、別れは共になることに内在しているということだ。それらは同じコインの表裏だ。一見違うように見えても、いつも一緒なのだ。それらは別々に、また別の機会に現れるので、私たちはそれらがつながっていないという誤った信念に騙されている。しかし、もう少し深く掘り下げてみると、出会いとはそれ自体が別れであり、幸せとは悲しみでもあり、誕生とは死でさえあることがわかる。実際には、来ることと行くことの間にはほとんど違いはない - むしろ、全く違いはない。それは人生においても同じだ。行く過程が始まったときには、あなたはほとんど来ていない、そして、私たちの心に留まっているように見えるものは、単に去るための準備に過ぎないのだ。

はじめの文、「たった一瞬の決意、完全な決意だけで十分」を少し詳しくお教えください。完全な決意というのはわかるように思いますが、たった一瞬の決意(one and only one moment of determination) をどのように実践したら良いかわかりません。

253鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/14(日) 23:08:51 ID:1d4drIFg0
↑ それは悟りの寸前に成される決意なのじゃ。
 真摯に修業を続けていれば、やが自分が消える瞬間が訪れるじゃろう。
 その時、自分がなくなってもよいから悟りを得たいと強い決意をすれば観照が起こるのじゃ。
 その一瞬だけで決意は十分なのじゃ。
 後は無我になり、認識も容易に滅することが出来るのじゃ。
 時間ではなく、その決意こそが大事なのじゃ。

 長年修業しているのに悟りが来ないと言うものは、恐らく何度か自分が消える瞬間を体験しているが、恐れからその決断ができなかったものなのじゃ。
 そうであるから一瞬の決意が大事なのじや。

254避難民のマジレスさん:2021/03/15(月) 20:47:55 ID:Dp/qMVVc0
実のところ、生まれてから死ぬまでの隔たりはどのくらいだろうか? その隔たりは無限になりうる。もし生が、誕生と死の間のこの隔たりが自己実現のための追求になるならば、この隔たりには全く終わりがなくなり得る。もし人生がサーダナ、自己実現への旅になれば、死はモクシャ、解放になる。生まれてから死ぬまでの隔たりはそれほど離れていないが、モクシャと死の間の隔たりは無限だ。その隔たりは、肉体と魂の間、夢と真実の間の隔たりと同じくらい大きなものだ。その隔たりは、他のすべての隔たりを合わせたものよりもはるかに大きい。モクシャと死ほど離れたふたつの地点はない。

「私は肉体である」という幻想が死であり、「私は魂である」という悟りが解放であり、救いであり、モクシャである。そしてあなたの人生は、真理の実現のための機会だ。もしこの機会を無駄にせず、正しく使えば、生と死の隔たりは無限になる。

それと同じように、あなたがここに来てから去るまでの間にも、私たちがここで過ごしたわずか数日の間にも、途方もない隔たりが存在し得るのだ。帰ってきたときには、来たときと同じではないかもしれないではないか? 全く新しい、変化した人間として帰ってくる可能性もあるのではないだろうか?

心静かに、観察に励みます。

255鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/15(月) 22:34:26 ID:1d4drIFg0
生と死の隔たりわ無限にすることが出来るとオショーは言うのじゃ。
それは不死の境地わ得られるということなのじゃ。
人は誰でも死を永遠に無きものとすることができるのじゃ。
その変容はほんの短い期間にでも起こりうるのじゃ。

256避難民のマジレスさん:2021/03/16(火) 20:44:08 ID:Dp/qMVVc0
その気になれば、この革命や変革は一瞬で起こせる。5日は多すぎる。過去世の5回の誕生でさえ少なすぎるのなら、なぜ5日間の話をするのだろうか? ただ一瞬の意志、完全な決意だけで十分なのだ。決意のない一生は無に等しい。

決意と時間が重要であることを忘れてはならない。世の中の達成は時間の中で作られ、真理の達成は決意の中で作られる。サンカルパの強さ、つまり決意の強さが、一つの瞬間に底知れぬ深さと無限の広がりを与えるのだ。実際のところ、サンカルパの強さの中では、時間は存在しなくなり、永遠だけが残る。

決意とは、あなたを時間から解放し、永遠に結びつける扉だ。決意を深く、そして強烈にしよう。あなたの一息一息に浸透させよう。眠っていても起きていても、記憶にとどめておこう。この決意があって初めて、死を知らない新たな誕生が起こるのだ。これが本当の誕生だ。肉体の誕生という、必然的に死を迎える誕生があるが、私はこれを本当の誕生とは呼ばない。いったいどうして、死で終わるものが生の始まりになるのか?

鬼和尚も、悟りを得る前から非常に強い決意を持ち続けていたのでしょうか? このまま何も知らずに死ぬのは絶対に嫌なのですが、観察を続けたり、悟りを得るという決意は日に何度も忘れて、思い出したら観察に戻るといった具合です。

257鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/16(火) 21:59:43 ID:1d4drIFg0
↑ わしは常に死を考えていたからのう。
悟りを得る以外に死を超越する手段はないとおもっていたのじゃ。
誰も死を逃れられないと覚悟していれば自然に決意もできるのじゃ。
 常に死を想うのじゃ。

258鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/16(火) 22:02:59 ID:1d4drIFg0
悟りの瞬間はいつやってくるのかわからない故に、常に決意を新たにしなくてはいかんのじゃ。
自分が無くなる時がいつきてもよいように、覚悟するのじゃ。
その時になってあわてないようにするのじゃ。
決意があれば自分がなくなっても永遠の意識に還れるのじゃ。

259避難民のマジレスさん:2021/03/17(水) 20:56:17 ID:Dp/qMVVc0
しかし、死に至らないもう一つの誕生がある。それが本当の誕生だ。その成就は不老不死にある。この誕生のために、私はあなた方をここに招待し、この数日間、この誕生のために呼びかけてきたのだ。私たちはまさにこの誕生のためにここに集まった。しかし、ここに集まっただけでは何の価値もない。もしあなたが全体になり、一つになり、自分の存在の渇きから呼びかけるならば、あなたの全存在の決意があなたを真理の前に連れて行くだろう。真理はすぐ近くにあるが、それに近づくためには決意と意志が必要だ。真理への渇きはあなたの中にあるが、決意も必要だ。この渇きが修行になるのは、決意と手を取り合っているときだけだ。

「決意」とは何だろうか?

ある男が托鉢僧に、神に到達する方法を尋ねたことがある。托鉢僧は彼の目の中に、渇きを見た。托鉢僧は川に行く途中だったので、男に同行を求め、水浴びをした後に神に到達する方法を教えると約束した。

川に着いて、男が水に飛び込むと、托鉢僧は男の頭をつかんで、ものすごい力で水の中に押し込んだ。男は托鉢僧の手から逃れようともがき始めた。命の危機にさらされていた。彼は托鉢僧に比べてはるかに弱かったが、潜在的な力が徐々に発揮され、やがて托鉢僧は彼を押さえつけることができなくなった。男は限界まで自分を追い込み、ついに川から抜け出すことができた。彼はショックを受けた。托鉢僧は大きな声で笑っていて、彼はその行動が理解できなかった。

私に足りないものは決意ですね。できるだけいつも、無常、死を想い、決意を新たにして励みます。これを書いているときに抵抗がありました。気をつけて観察しようと思います。

260鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/17(水) 23:24:28 ID:1d4drIFg0
不死の境地に人々は集まったとオショーは言うのじゃ。
しかし、それだけではいかんのじゃ。
決意と意志が必要というのじゃ。
決意があれば実践もできるのじゃ。

261避難民のマジレスさん:2021/03/18(木) 20:55:56 ID:Dp/qMVVc0
男が落ち着いた後、托鉢僧は彼に「あなたが水中にいたとき、心の中にどんな欲望がありましたか?」と尋ねた。男は答えた。「欲望! 欲望はありませんでした。ただ、一つだけ、空気を吸いたいという欲求がありました。」托鉢僧は言った。「これが神に到達する秘訣です。これが決意なのです。そして、あなたの決意は、あなたの潜在的な力をすべて目覚めさせました。」

強烈な決意の瞬間には大きな力が生まれ、人は世界を離れて真理に入ることができる。決意だけで、人は世界から真理に入ることができ、決意だけで、人は夢から真理に目覚めることができる。

別れ際のこの時に、私はあなたにこのことを思い出させたいと思う:決意が必要だ。そして他には? 決意が必要であり、それに加えて修行を続けることが必要だ。あなたの修行は継続的でなければならない。山々から流れ落ちる滝を見たことがあるだろうか? それは巨大な岩さえも砕くことができる連続的な水の流れだ。もし人が絶えず無知の岩を砕くように努力するならば、最初は砕くことが不可能に見えた岩も、いつの日か塵と化すだろう。そして、その人は自分の道を見つける。

強い決意を持つと、そこに自我が投射されてしまいます。常に新たな決意を持って励み続けることで、いつしか自我が投射されていない時に観照が起きると、さしあたり理解すれば良いでしょうか?

262鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/18(木) 23:02:22 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、毎日決意わもつて実践し続けることで、自我をも超えた力を発揮できるようになるのじゃ。
 日々続ければ実践は無意識の働きにまで上達して行くのじゃ。
 無意識に成される観察で自我も見られるのじゃ。
 それまで精進あるのみなのじや。

263避難民のマジレスさん:2021/03/19(金) 21:16:46 ID:Dp/qMVVc0
道は間違いなくそこにある。しかし、既成の道を見つけようとしてはならない。自分で探すのだ、自分の努力で。 そして、それがなんと人に尊厳をもたらすことか! 自分自身の努力によって真理を手に入れることができるというのは、何とありがたいことだろう! マハヴィーラは、このことを伝えたくて、労苦によって得られる真理について語ったのだ。

真理は慈善で与えられる施しでは無く、達成することだ。決意と継続的な努力、そしてもう一つ、無限の忍耐が必要だ。真理は無限であり、終わりのないものであるから、それを待つためには無限の忍耐が必要だ。限りなく待って初めて、神が現れる。忍耐力のない者は、神に到達できない。このことも忘れないでほしい。

最後に、私はある話を思い出したので、あなたに伝えたい。架空の話ではあるが、これはまったくの真実だ。

ある天使が、年老いたサドゥーが座っている場所を通りかかった。そのサドゥーは天使に、「どうか神に、私がモクシャに到達し、解放を達成するのにどれくらいの時間がかかるか、尋ねてください」と言った。年老いたサドゥーの近くには、とても若く、入門したばかりのサニヤシンが住んでいた。彼はガジュマルの木の下に座っていた。天使は若いサニヤシンに、自分のモクシャについても神に尋ねて欲しいかどうかを尋ねた。しかし、サニヤシンは何も言わなかった。静かに、穏やかに、黙っていた。

心を静めて、今日も励みます。

264鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/19(金) 23:49:31 ID:1d4drIFg0
誰でも悟りへの道は自分で探さなければならないとオショーは言うのじゃ。
自分の心を追求することは自分だけができることだからなのじゃ。
それには自分の決意や努力や忍耐が必要なのじゃ。
経典や師匠の言葉もその実践の参考にできる程度なのじゃ。

265避難民のマジレスさん:2021/03/20(土) 21:06:52 ID:Dp/qMVVc0
しばらくすると天使は戻ってきた。そして年老いたサドゥーに言った、「私はあなたのモクシャについて神に尋ねました。神は、さらに3つの誕生が必要になると言っています。」 老人は激怒し、目が充血した。彼は数珠を投げ捨てて言った。「あと3回もの誕生!それは非道だ!」

その後、天使は若者のところに行って言った、「私はあなたのことも神に尋ねました。神は、あなたが下に座っているガジュマルの木の葉の数と同じくらい多くの生の間、修行を実践しなければならないと言いました。」若いサンニヤシンは非常に幸せを感じ、彼の目は喜びの涙でいっぱいになった。彼は飛び上がって踊り始めた。「それなら、私は到達しています!」と言った。この世界にはたくさんの木があり、それぞれの木にはたくさんの葉があります!もし私がこの小さなガジュマルの木に葉があるのと同じくらいの数の誕生で神に到達するならば、私はほとんど神に到達しています。」

このようにして、真理の作物は収穫される。そして、あなたはこの物語の結末を知っているだろうか? 若いサニヤシンは踊り続け、踊り続け、まさにその瞬間、彼は自由になり、神に到達した。静謐と無限の愛と忍耐のその瞬間がすべてだった。まさにその瞬間に解放されたのだ。これを私は無限の忍耐と呼ぶ。そして、無限の忍耐を持つ者は、今ここですべてを達成する。この精神的態度そのものが最終的な達成だ。 あなたはこれほど長く待つことができるだろうか? この質問であなたに別れを告げよう。

これで『Sadhana path 修行の道』の翻訳は終わりです。
ここまでで翻訳などにおかしなところがありましたら、ご指摘ください。
また、このオショーの説法全体に関して、何か付け加えることやコメントなどがありましたら、お願いします。

これまで、毎日コメントをくださり、ありがとうございました。
読み終えるまでに無我まで行きたいと思っていましたが、未だかなわずです。しかし、
ふたりの本物の覚者に同時に関わることができて、言葉で表現できないくらいありがたく、幸運に感じています。
悟りを得るまで、決意を持って努力を続け、無限の忍耐で精進します。

266鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/20(土) 23:04:42 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんだったのじゃ。
大変な翻訳の作業を良くがんばったのじゃ。
立派なのじゃ。

よい翻訳なのじゃ。
オショーの説きたかった事がよくわかったのじゃ。

この説法では悟りの道に必要なことを一通り説いているのじゃ。
まだ慣れない説法に苦心している様子がうかがえるのじゃ。
お釈迦様の初転法輪にも似た初々しさがあるのじゃ。
基本的な悟りへの道を概要にしたものといえるのじゃ。
後には更に詳しく一つ一つの道や注意を説いていくことになるのじゃ。
迷った者はよく吟味して読んでみると善いのじゃ。

267避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 00:23:49 ID:Y54sIEBM0
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦)つ旦
と_)_)
どうも、ありがとうでありました。
たいへん勉強になったであります。

268避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 21:18:32 ID:Dp/qMVVc0
>>266
>>267
ありがとうございます。実践しつつ、吟味して読もうと思います。
ひと通り確認しましたら、自由にダウンロードできるように電子書籍化します。

269鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/22(月) 22:08:18 ID:1d4drIFg0
↑善いことじゃ。
どんどん実践すると善いのじゃ。

270避難民のマジレスさん:2022/01/06(木) 16:20:18 ID:l5IobA3w0
>>268
書籍化の進行は如何なものでしょうか?

271避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 00:17:04 ID:/1rvHmUg0
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号4-5)国訳大蔵経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号25-26)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大蔵経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

◎第一歸敬序

 *歸命盡十方。
 最勝業徧知。色無礙自在。救世大悲者。及彼身體相。法性眞如海。無量功徳藏。
 如實修行等。
 爲欲令衆生除疑捨邪執。起大乘正信。佛種不斷故。

     盡十方の
     最勝業の徧知色無礙自在救(ぐ)世大悲者と及び、彼(か)の身(しん)の體相、法性(ほっしょ
    う)眞如海、無量の功徳藏と、
     如實修行等とに
     歸命(きみゃう)したてまつる。
     衆生をして疑を除き邪執を捨て、大乘の正信を起し、佛種をして斷ぜざらしめんと欲する  
    爲の故に。

◎第二正宗分

論曰有法能起摩訶衍信根是故應説。
説有五分云何爲五。
一者因緣分。
二者立義分。
三者解釋分。
四者修行信心分。
五者歡修利益分。

  論じて曰はく、法有り、能く摩訶衍(えん)の信根を起こす。是の故にまさに説くべし。
  説に五分(ぶん)有り、いかんが五と為す。
  一には因緣分。
  二には立義分。
  三には解釋(げしゃく) 分。
  四には修行信心分。
  五には歡修利益(かんじゆりやく)分。

脚注;主に 国訳大蔵経より抜粋。

 歸命盡十方〜:始に佛・法・僧の三寶に帰敬することを述べたり。歸敬序と名く。經論の發端に之を置くは印度の古習たり。
 最勝業:三寶の中、佛寶を示す。其名を呼ばず、唯其徳を擧げて、佛たるを知らしむ。
 彼身體相〜:次に佛の説きたまへる法寶をいふ。
 如實修行:次に僧寶を示す。卽ち眞如の理を證(あか)りて、行を修する聖者をいふ。
 歸命:南無(Namas)譯、己が身命を盡して、三寶に歸依するをいふ。
 爲欲令衆生〜:次に、三寶に歸依する趣意を述ぶ。
 佛種:衆生が佛となる種子なる。
 論曰:本論の著者、馬鳴菩薩が論じて曰ふ也。既に三寶に歸依し終りたれば、以下本論(正宗分)に入る。先に 益を標して説を起こす也。
 法:(Dharma)、以下此の論に説く所の教を意味する也。
 摩訶衍:(Mahayana)、大乘と譯す。
 信根:(Sraddhendriya)、能くものを生じ,又増長せしむるの謂なり。信はよく一切の善法を生ぜしむるが故に信根といふ。
五分:五章と云ふが如し。
(´・(ェ)・`)b

272鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/18(金) 21:20:56 ID:1d4drIFg0
↑ ご苦労さんなのじゃ。

 大乗起信論とはインドの馬鳴が書いたというが、実際はあやしいのじゃ。
 もっと後の行者の著作であると言うのじゃ。
 あるいは中国で書かれたとさえいうのじゃ。

 誰が書いたものでもよいのじゃ。
 仏教徒にとって意義のある文なのじゃ。

 論とはいうが実際には大乗仏教の概要のようなものじゃ。
 今で言うガイドブックなのじゃ。
 簡略に大乗仏教の全容が記されているのじゃ。

 最初の章は因縁分、この論を何故書いたのかという動機なのじゃ。
 二立義分、大乗の二つの大事な教えなのじゃ。
 三は解釋(げしゃく) 分、前章の解釈なのじゃ。
 四は修行信心分 大乗の実践法なのじゃ。
 五は歡修利益分、大乗を信仰して実践した利益の教えなのじゃ。

273避難民のマジレスさん:2022/03/18(金) 23:00:28 ID:x2FQRAbo0
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号5-6)国訳大蔵経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号26-27)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大蔵経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第一因緣分

 初説因緣分。
 問曰有何因緣而造是論。
 答曰是因緣有八種。云何爲八。

     初(はじめ)に因緣分を説かん。
     問うて曰く、何の因緣有って、此の論を造るや。
     答へて曰く、是の因緣に八種有り。云何(いかん)が八と爲す。

 一者因緣總相。所謂爲令衆生離一切苦。得究竟樂。非求世間名利恭敬故
 
     一には、因緣總相(そうさう)。所謂(いはゆる)、衆生をして、一切の苦を離れ、究竟樂(くきゃうらく)を得せしめん 
    が爲にして、世間の名利恭敬(くぎゃう)を求むるにあらざるが故に。

 二者爲欲解釋如來根本之義。令諸衆生正解不謬故  

     二には、如來根本之義を解釋(げしゃく)し、諸(もろもろ)の衆生をして、正しく解(げ)してあやまらざらしめんと欲 
    する爲の故に。

 三者爲令善根成熟衆生。於摩訶衍法。*堪任不退信故。

     三には、善根成熟(じょうじゅく)の衆生をして、摩訶衍(まかえん)の法に於いて、*堪忍(かんにん)不退信ならしめ
    んが爲の故に。 

 四者爲令善根微少衆生。修習信心故。

     四には、善根微少(みしょう)の衆生をして、信心を修習(しゅじふ)せしめんが爲の故に。

 五者爲示法便。消悪業障善護其心。遠離癡慢。出邪網故。

     五には、法便を示し、悪業障を消(せう)して、善く其の心(しん)を護り、痴慢(ちまん)を遠離(をんり)し、邪網を
   出(い)でしめんが爲の故に。

 六者爲示修習止觀。對冶凡夫二乘心過故

     六には、止觀を修習することを示し、凡夫・二乘の心過を對冶せしめんが爲の故に。

 七者爲示專念方便。生於佛前。必定不退信心故。

     七には、專念の方便を示し、佛前に生ぜしめ、必定して信心を退せざらしめんが爲の故に。

 八者爲示利益勸修行故。

     八には、利益(りやく)を示し、修行を勸(すす)むる爲の故に。
   
 有如是等因緣所以造論。

     是(かく)の如き等の因緣有り、所以(ゆゑ)に論を造る。



脚注;主に 国訳大蔵経より抜粋。

 因緣總相:此の論を造る因緣を概括し説くなり。動機
 究竟樂:佛果涅槃をさす。
 如來根本之義:佛陀教説の根本義なり。
 初に立義分と、解釋分の中、顯示正義と對冶邪執との爲に、この發起因緣を作る。
 善根:種々の善を生じる根本のこと。無貪,無瞋,無痴を三善根という。
 癡慢(ちまん):愚痴(Moha)と高慢(Mana)
 止觀:奢摩他(Samatha止)と毘鉢舎那(Vipasyana觀)となり。止とは妄念を止息するの義、觀とは觀智通達して、眞如に契會するの義なり
 二乘:聲聞乘(Sravakayana)と緣覺乘(Pratyekabuddha)となり。修行の上に於ては、凡夫二勝るること遥かなるも、いまだ佛の域に達せざる聖者をいふ。 
 二乘の心過とは、此等凡聖の有する邪なる執着なり、卽ち個人的我の存在と、萬有諸法の實在とを信ずる、所謂我執法執を云ふ。
 專念:専修念佛
.(´・(ェ)・`)b

274鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/19(土) 23:47:02 ID:1d4drIFg0

 因縁分には論を表す八つの動機が書かれているのじゃ。
 
 一 衆生を一切の苦から離れさせて、究竟樂、つまりは悟りを得させるためというのじゃ。

 二 如来の教えの根本の意味を解き明かし、衆生に正しく教えるためというのじゃ。

 三 善根があり、教えを受ける心根の成熟した者に大乗の道から不退転にするためというのじゃ。
 
 四 善根がまだ小さい者には信心を習わせるためというのじゃ。

 五 方便を示して、罪悪業を消して、心を守り、愚かさや傲慢を離れさせるためというのじゃ。

 六 止観を習わせ、凡夫や二乗をなくすためというのじゃ。

 七 念仏を示して、仏の前に生まれさせて不退転にすためというのじゃ。

 八 実践の利益を示して、修業を勧めるためというのじゃ。

 なかになか立派な動機であるが、実際には止観を知らないのじゃ。

275避難民のマジレスさん:2022/03/20(日) 10:26:55 ID:Mb4sDN120
くま質問
「実際には止観を知らない」とは、「止観を習わせ、・・二乗をなくすため」と説いているからでありましょうか?
自己の悟りのみを追求する「聲聞」、独力で悟り、それを他人に説かない「縁覚」を、心のあやまち「心過」としているからでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

276鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/20(日) 23:04:00 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、止観を教えるというが、実際にはもはやわかっていなのじゃ。
 二乗とは関係ないのじゃ。
 ただ単に大乗の者も、この著者ももはや正しい止観は知らないというだけなのじゃ。

277避難民のマジレスさん:2022/03/20(日) 23:18:34 ID:naSg..kE0
3.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号27)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 問曰修多羅中具有此法。何須重説。
 答曰修多羅中雖有此法。以衆生根行不等受解緣別。
 所謂如來在世衆生利根。能説之人色心業勝。圓音一演異類等解則不須論。

     問うて曰はく、修多羅の中(うち)に、具(つぶさ)に此の法有り、何ぞ重ねて説くことを須(もち)ふるや。
     答へて曰はく、修多羅の中に此の法有りと雖(いへど)も、衆生の根行等しからざると、受解(じゅげ)の緣、別なる
    を以てなり。
     所謂(いはゆる)如來の在世は、衆生利根にして、能説の人(にん)も色心の業勝(すぐ)れ、圓音(ゑんのん)一た
    び演(の)べたまふに、異類等しく解(げ)すれば、則(すなは)ち論を須(もち)ひず。

 若如來滅後。或有衆生能以自力廣聞而取解者。或有衆生亦以自力少聞而多解者。或有衆生無自*智力於廣論。而得解者。*亦有衆生復以廣論文多爲煩。心樂總持少文而攝多義能取解者。
 如是此論爲欲總攝如來廣大深法無邊義故。應説此論

     若し如來の滅後は、或(あるひ)は衆生の、能く自力を以て、廣く聞いて解(げ)を取る者有り。」或は、衆生の亦
    (また)自力を以て、少しく聞いて多く解する者有り。」或は衆生の、自(じ)の*心力無くして、廣論に因って解を得 
    る者有り。」*自ら衆生の、復(ま)た廣論の文(もん)多きを以て煩(わずら)はしと爲し、心(しん)に、總持の文(もん)
    少くして多義を攝(せつ)するを樂(よろこ)び能く解(げ)を取る者もあり。  
     是(かく)の如く此の論は如來の廣大深法(じんぽう)の無邊(むへん)の義を總攝せんと欲するが爲の故に、まさに
    此の論を説くべし。  
 
脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 修多羅(Sutara):經
 根行:根とは衆生の機根、卽ち心的素養をいふ。行とは實踐的意力をいふ。
 受解:了解なり。
 能説の人:佛陀をいふ。能説:所説に對す。卽ち説かるる方(所説)に對して、説く方をいふ。法を説く側のこと。仏・菩薩等をさす
 色(Rupa):心に對していふ。身の謂なり。業とは、はたらきなり。
 異類:機類の異れる輩。
 自力:經を聞いて佛意を解するを得るが故に、他の論などを要するなし。故に自力といふ。
 總持Dharani(陀羅尼)の譯
 總攝:総摂  物事のすべてを支配し、管理すること。統治すること。

(´・(ェ)・`)b

278鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/21(月) 22:44:48 ID:1d4drIFg0

 昔の論文には読む者の疑問を想定して、問答が書かれていたりするのじゃ。
 今で言うQ&Aじゃな。

 質問者は、仏教の法は経典に書かれているのに、なぜ今又このような論を表すのか聞いたのじゃ。
 
 著者は答えてお釈迦様が居た時は修業者も賢い者達ばかりであり、説法する方も心身が優れていて、
 説法も優れてみんな理解できたというのじゃ。
 そうであるから論も表さなくてよかったのじゃ。

 今の者は自力で広く聞いて解るも者もあり、少し聞いただけで解るものもあり、
 或いは自力ではわからないが、多くの者達が論争してわかるものがあり、
 或いは覚えていることは少ないが、意味を考えて解るものもいるのじゃ。

 このように、如来の法の広大な意味を集めて理解する者もいるから論を説くというのじゃ。

279避難民のマジレスさん:2022/03/21(月) 23:05:22 ID:Cbeq53zc0
4.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号28)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第二立義分

已説因緣分。次説立義分。摩訶衍者。總説有二種。云何爲二。一者法。二者義。所言法者謂衆生心。是心則攝一切世間出世間法。依此心顯示摩訶衍義。

   已(すで)に因緣分を説けり。次に立義(りふぎ)分を説かん。
   摩訶衍(まかえん)とは、總じて説くに二種有り。云何(いかん)が二と爲す。
    一には法。
    二には義。
    謂ふ所の法とは、謂(い)はく衆生心なり。是の心は則ち、一切世間出世間の法を攝す。此の心 
   に依って、摩訶衍の義を顯示す。

何以故。是心眞如相。卽示摩訶衍體故。
是心生滅因緣相。能示摩訶衍自體相用故。
所言義者則有三種。云何爲三。
一者體大。謂一切法眞如平等不増滅故。
二者相大。謂如來藏。具足無量性功徳故。
三者用大。能生一切世間出世間善因果故
一切諸佛本所乘故。一切菩薩。皆乘此法到如來地故。 

   何を以っての故に。是の心眞如の相は、卽ち摩訶衍の體を示すが故に。
   是の心生滅因緣の相は、能く摩訶衍の自體・相用を示すが故に。
   言ふ所の義とは、則ち三種有り。云何(いかん)が三と爲す。
   一には體大。謂はく、一切法は眞如平等にして、増滅せざるが故に。
   二には相大。謂はく、如來藏は無量の性・功徳故を具足するが故に。
   三には用大。能く一切世間・出世間の善因果を生ずるが故に。
   [此の法は]一切諸佛の本所乘の故に。一切の菩薩は、皆此の法に乘じて、如來地に到るが故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 因緣分:論を造る緣由
 立義分:論の根本要素
 摩訶衍:大乘を概説して、(1)その實體は。如何なるものかを示すを「法」とし、(2)其の有する意義、如何を説くを「義」とす。 
 出世間:世間(世俗)に對して超世間的なる聲聞、緣覺、菩薩佛の境をいふ。
 眞如:(Bhutatathata)眞實にして虚妄を離れたるを眞、常住にして不變なるを如といふ。
 相:意義をいふ。是の心眞如の相とは、吾人の有する衆生心の實體たる眞如の至純なるを指していへる。
 心生滅因緣の相:かの衆生心の起滅する現象的方面をいふなり
 體と相と用を三大といふ。
 體大:實體といふ程の意なり。
 一切法:(Saravadharma).。現在にあらはれたる現象を該羅していふ。(該羅:すべてに精通している)諸法、萬法。
 眞如平等不増滅:一切諸法は、もと唯一眞如に外ならず、故に迷ひて衆生となり、悟りて佛となるも、時空を超越せざるものなり。
 粗大:實體に具有する屬生なり。
 如來藏(Tathagata-gabha) 眞如の相大〔屬性〕に名づけたる名。衆生心の本性の、清浄不變なるを云ふ。
 性・功徳:性は性能、功徳(Punya)はたらきといふ程の意。
 用大:屬性(相大)の有するはたらきをいふ。
 本所乘:本とは因本。卽ち諸佛が尚ほ菩薩因位に在りし時、この法を乗りものとして修行せられたるをいふ。
(´・(ェ)・`)b

280鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:23:32 ID:1d4drIFg0

 大乗には二つの説法の方法があると言うのじゃ。

 一つは法であり、
 二つは義なのじゃ。

 その法とは衆生の心だというのじゃ。
 全ての法は世間の法も仏教の法も、心で行われるからなのじゃ。
 その心で大乗もまた実践されるのじゃ。

 なぜならばその衆生の心には最初から真如が宿っているからというのじゃ。
 それこそが大乗の本体を示すものなのじゃ。

 その心の生滅因縁の相は、大乗の自体と相用を示すというのじゃ。

 
 二つ目の義には三種あるというのじゃ。

 一つ目は体大、一切法は真如平等にして増減しないからというのじゃ。
 二つ目は相大、如来蔵は無量の功徳をもっているからというのじゃ。
 三つ目は用の大、世間と修業においてよい因果を生ずるからというのじゃ。

 このように大乗の法は諸仏の本来の乗り物であるから、諸仏は皆大乗で如来になったというのじゃ。

281鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/22(火) 23:41:04 ID:1d4drIFg0

 真如とは涅槃であり、仏性であり、オショーのワンネスでもあり、わしがいう不死の意識でもあるものじゃ。
 それは本来衆生の心の中にあるものじゃ。
 それを説き明かすのが大乗の法の本体だというのじゃ。

 仏になれる性質や、目覚めて至る如来の境地とは、本来悟っていない衆生の心の中にあるものじゃ。
 目覚めるとか、仏陀になるということは何か人間ではない別の者になるということではなく、むしろ本来の人間のありように還って行くこととも言えるのじゃ。
 そうでるあから自分は仏陀になれないのではないかとか、思う必要は無いのじゃ。
 衆生は本来仏陀なのじゃ。

 このようなことは確かに今までの仏教では説いて来なかったことなのじゃ。
 お釈迦様も毒矢の例えで説いた通り、仏教には論はなく、ただ実践によって知ればよいという説き方だったのじゃ。
 それでは理解できず実践も出来ないもののために大乗は真如を説いたと言えるのじゃ。

 それこそが大乗の本体であり、真髄といえるのじゃ。
 そして大乗の存在意義も、衆生の心にこの真如があり、衆生本来仏であると説き明かすことにあると言えるのじゃ。

 そうであるからこれからもこの真如はこの論文の至る所に出てくるのじゃ。
 宝珠の例えとか、海と波の例えとか、いろいろに例えても説いているのじゃ。
 それを知れば大乗起信論を読む意義もあったと言えるのじゃ。

282避難民のマジレスさん:2022/03/22(火) 23:44:11 ID:.qSC94yI0
5.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第三解釋分

已説立義分。次説解釋分。
解釋分有三種。如何爲三。
一者顯示正義。
二者對冶邪執。
三者分別發趣道相。

   已(すで)に立義分を説けり。次に解釋(げしゃく)分を説かん。
   解釋分は三種有り。如何(いかん)が三と爲す。
   一には正義を顯示し、
   二には邪執を對冶し、
   三には發趣道相を分別す。

●解釋分第一顯示正義

顯示正義者。依一心法有二種門。云何爲二。
一者心眞如門。
二者心生滅門。
是二種門。皆各總攝一切法。
此義云何。以是二門不相離故。

   正義を顯示すとは、一心の法に依って、二種の門有り。いかんが二と爲す。
   一には心眞如門。
   二には心生滅門。
   この二種の門、皆各(おのおの)總じて一切法を攝す。
   此の義いかん。是の二門相離れざるを以ての故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 正義:正しく所立の大乘の義をいふ。
 邪執:大いに明かせる正に悖(もと)る執著也
 發趣道相:菩提の道に發心趣向する實踐門なり。
 一心:所謂衆生心、卽ち如來藏心なり。
 心眞如門:大乘の實體たる衆生心をその絶對的方面より論じたる一段なり。
 心生滅門:前者に對して衆生心を相對的方面より説く一段なり。
 皆各總攝一切法:この二門はもと一心(衆生心、如來藏心)の兩面にして、生滅差別の中に不生滅平等の性あり、平等不生滅の上に、生滅差別の現象を生ずるなり。
 
(´・(ェ)・`)b

283避難民のマジレスさん:2022/03/22(火) 23:44:11 ID:.qSC94yI0
5.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号6-7)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●正宗五分第三解釋分

已説立義分。次説解釋分。
解釋分有三種。如何爲三。
一者顯示正義。
二者對冶邪執。
三者分別發趣道相。

   已(すで)に立義分を説けり。次に解釋(げしゃく)分を説かん。
   解釋分は三種有り。如何(いかん)が三と爲す。
   一には正義を顯示し、
   二には邪執を對冶し、
   三には發趣道相を分別す。

●解釋分第一顯示正義

顯示正義者。依一心法有二種門。云何爲二。
一者心眞如門。
二者心生滅門。
是二種門。皆各總攝一切法。
此義云何。以是二門不相離故。

   正義を顯示すとは、一心の法に依って、二種の門有り。いかんが二と爲す。
   一には心眞如門。
   二には心生滅門。
   この二種の門、皆各(おのおの)總じて一切法を攝す。
   此の義いかん。是の二門相離れざるを以ての故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 正義:正しく所立の大乘の義をいふ。
 邪執:大いに明かせる正に悖(もと)る執著也
 發趣道相:菩提の道に發心趣向する實踐門なり。
 一心:所謂衆生心、卽ち如來藏心なり。
 心眞如門:大乘の實體たる衆生心をその絶對的方面より論じたる一段なり。
 心生滅門:前者に對して衆生心を相對的方面より説く一段なり。
 皆各總攝一切法:この二門はもと一心(衆生心、如來藏心)の兩面にして、生滅差別の中に不生滅平等の性あり、平等不生滅の上に、生滅差別の現象を生ずるなり。
 
(´・(ェ)・`)b

284鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/23(水) 23:44:03 ID:1d4drIFg0

 立義分を終えて解釈分なのじゃ。

 解釈分は三種あるというのじゃ。

 一 には正義を顕示するのじゃ。

 二 には邪執を対治するのじゃ。
 
 三 には發趣道相を分別するのじゃ。
 

 正義を顕示するとは、一つの心の法によって、二種の門があると言うのじゃ。

 一つは真如の門なのじゃ。

 二つ目は心生滅の門なのじゃ。・

 この二つの門で全ての法をとくことができるというのじゃ。
 なぜならばこの二門は離れることができないからというのじゃ。

 
 また真如がでてきたのじゃ。
 真如のありようから法をとくことが正義の顕示の一つなのじゃ。
 もう一つは心が無明によって生滅を繰り返すからそこから説くことなのじゃ。

 それは心のありようによって説くことであるから二つの門は同じであり、離れられないのじゃ。

285避難民のマジレスさん:2022/03/24(木) 00:08:35 ID:qDqxAQJQ0
6.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号7-8)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号29-30)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

●第一 心眞如門

心眞如者。卽是一法界大總相法門體。
所謂心性不生不滅。
一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念則無一切境界之相。
是故一切法從本已來。離言説相。離名字相。離心緣相。畢竟平等無有變異。不可破壊。唯是一心故名眞如。
以一切言説假名無實。但隋妄念不可得故。言眞如亦無有相。
謂言説之極。因言遺言。
此眞如體。無有可遺。以一切法悉皆眞故。亦無可立。一切法皆同如故。
當知一切法。不可説不可念。故名爲眞如。

   心眞如とは、卽ち是一法界大總相法門の體なり。
   所謂心性は不生不滅なり。
   一切の諸法は、唯妄念に依って差別(しゃべつ)有り。若し心念を離るれば、すなはち一切境界の相無し。
   是の故に、一切法は本(もと)より已來(このかた)、言説(ごんせつ)の相を離れ、名字の相を離れ、心緣の相を離れ、
  畢竟平等にして、變異有ること無く、破壊すべからず。唯是れ一心なり。故に眞如と名づく。
   一切の言説は、假名(けみゃう)にして實無く、ただ妄念に随って、不可得なるを以ての故に、眞如と言ふも、亦相
  有ること無し。
   謂はく、言説の極(ごく)、言(ごん)に因って言を遣(や)る。
   此の眞如の體は遺(や)るべき有ること無し。一切の法は、悉(ことごと)く皆眞なるを以ての故に。亦立つべき無し。
  一切の法は皆同じく如(にょ)なるを以ての故に。
   當(まさ)に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからず、故に名づけて眞如と爲す。

問曰。若如是義者。諸衆生等云何隨淳而能得入
答曰。若知一切法雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念是名隨順。若離於念。名爲得人。

   問うて曰はく、若し是くの如き義ならば、諸(もろもろ)の衆生等(とう)は、云何(いかん)が隨順し、而も能く得入(とく 
  にゅう)せん。
   答へて曰はく、若し、一切の法は、説くと雖も能説の説くべき有ること無く、念ずると雖も亦能念の念ずべき無しと
  知らば、是を隨順と名づく。若し念を離るれば、名づけて得人と爲す。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 眞如門:初に、その本體を擧示す。眞如は、もと、吾人の言語思慮を絶したるものにて、唯自ら證悟して始めて知る 
べき所なるを、假に消極的言説を洩って其の一斑をあらはさんとするが、此の一段なり。故に慈(ここ)に説く所を稱して離言眞如といふ。
 一法界大總相法門:平等無二にして、出世見間の聖法も、之を基として起こるが故に、法界(聖法の源)といひ、此の中一切の諸法を含有するが故に大と呼び、生滅門を別相門といふに對して眞如門を總相門とす。
 心性:衆生一心の本性。之は迷ふと悟るとに於て、生ずる事も滅する事もなし。
 妄念:通常吾人の有する思慮をいふ。佛陀の心識の澄浄(ちょうじょう)なるに對していふなり。妄心
 心念:心とは吾人の有する心。念とは、この心の差別的にはたらきをいふ。妄念・相對的の思慮
 無一切境界之相 :我他 彼此(がたひし)等と差別する如き執着なく、随って、一切の境界を差別することなし。
 心緣:思慮といはんが如し。
 〜不可得:總ての言語は吾人の相對的の心によって與へたるものなる故、絶對の説明に契當すべからざるをいふ。
 謂言説之極。因言遺言。此眞如體。無有可遺。:眞如てふ(と言う)名は、あらゆる相対的名字を拝して最後に穢たる(言説の極)なれば、この眞如という名(言)に因って、總ての他の差別的言説を否定し(遣る)たるなり。
 遣る:否定するなり。
 立つ:相対的言説を以て説くをいふ。
 随順:眞如の妙理に随順するなり。
 得入:悟入と云はんが如し
 能説:所説に對す。卽ち説かるる方(所説)に對して、説く方をいふ。法を説く側のこと。仏・菩薩等をさす
(´・(ェ)・`)b

286鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/24(木) 23:37:17 ID:1d4drIFg0
一つ目の心真如門の解説なのじゃ。

 心眞如とはこれは一法界大総相法門の体だというのじゃ。
 つまり全ての法の本体だというのじゃ。
 これこそが真の法であり、他の法は方便であるとも言えるのじゃ。

 しかしそれを解き明かすことは困難なのじゃ。
 それは言葉を離れたものであるからのう。
 故に方便の法も説いているのじゃ。

 心性は不生不滅とは真如であるからなのじゃ。
 一切の法は妄想であれこれと差別があるというのじゃ。
 もし観念を離れれば一切の境界の相はないというのじゃ。
 全てが一つであると言うのじゃな。

 このゆえに一切法は元来 言葉や名前や縁起の相も離れて平等であり、変異なく、破壊も出来ないものなのじゃ。
 ただ一つの心があるだけなのじゃ。
 それゆえに真如と名づけるというのじゃ。
 一切の言葉や説は仮の名前であり、実際は無いものであり、ただ妄想にしたがって、得られないものであるから、真如と言うのも本当は何も無いのじゃ。
 
 言説の極まるところは言葉で言葉を遺すことにあるのじゃ。
  真如の体は遺す言葉も無いのじゃ。
 一切の法はことごとく皆真如であるからというのじゃ。

 観念を立てることも無いのじゃ。
 一切の法は皆、如であるからというのじゃ。
 本体のない、なにかの如きものというのじゃな。

 正に知るべきなのは、一切の法は説いてはいかんもの、念じてはいかんものであるから名づけて真如なのじゃ。

 また質問するのじゃ。
 もしそのようであれば衆生はどのように修業したらよいのかと聞いたのじゃ。
 答えは 一切の法はよく説いたものでも説いたものではなく、念じることも念じたものではないと知るべきなのじゃ。
 これが正しい実践というのじゃ。
 もし観念を離れれば、それが法に得入したといえるのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2022/03/24(木) 23:42:11 ID:98qjeB4I0
7.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号8-9)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号30-31)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二種ノ眞如

 復次眞如者。依言説分別有二種義。云何爲二。
 一者如實空。以能究竟顯實故。二者如實不空。以有自體具足無漏性功徳故。
 所言空者。從本巳來。一切染法不相應故。謂離一切法差別之相。以無虚妄心念故。當知眞如自性。非有相。非無相。非非有相。非非無相。非有無倶相。非一相。非異相。非非一相。非非異相。非一異倶相。
 乃至總説依一切衆生以有妄心。念念分別。皆不相應故。説爲空。若離妄心。更無可空故。
 所言不空者。巳顯法體空無妄故。即是眞心常恒不變。浄法滿足則名不空。
 亦無有相可取。以離念境界。唯證相應故。

    復(また)次に、眞如は、言説(ごんぜつ)に依って分別するに、二種の義有り。いかんが二と爲
   す。
    一には如實空。能く究竟(くきゃう)して實を顕はすを以ての故に。
    二には如實不空。自體有り、無漏の性(しょう)功徳を具足するを以ての故に。
    言ふ所の空とは、本よりこのかた、一切の染法(ぜんほふ)相應せざるが故に。謂はく一切差別(しゃべつ)の相を離
   れ、虚妄(こまう)の心念無きを以ての故に。當(まさ)に知るべし、眞如の自性は、有相(うさう)に非ず、無相に非ず、
   非有相に非ず、非無相に非ず、有無倶相(うむくさう)に非ず、一相に非ず、異相に非ず、非一相に非ず、非異相
   に非ず、一異倶相に非ず。
    乃至(ないし)、總じて説く、一切の衆生は、妄念有るを以て、念念分別するに依って、皆相應せず。故に説いて
   空と爲す。若し妄心を離るれば、實に空すべき無きが故に。
    言ふ所の不空とは、已に法體、空にして妄無きことを顕はすが故に。卽ち是れ眞心は、常恆(じゃうがう)不變に 
   して、浄法滿足するを、則ち不空と名づく。
    亦相の取るべき有ること無し。離念の境界は、唯證のみ相應するが故に。


脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

 如實空:眞如といふに同じ。空(Sunyata)とは眞如に迷執妄染の無きをいふ。
 不空:(Asunyata)。眞如の體は空漠たるものならずして〔不空〕其の中に種種の性能功用を具するをいふ。
 無漏:(Anasrava).汚れ〔煩惱)なきをいふ。
 染法(ぜんぽう):吾人の分別妄想にあらはるる一切の境界をいひ、佛陀聖者にあらはるる浄法に對して用ふ。
 相:義(道理)にして、すがたの謂に非ず。
 妄念:佛陀の心念に對して、衆生のそれを妄念といふ。
 説爲空 :凡て吾人の考へ得る所は妄なり。眞如とはこの妄を離れたる所をいふ。故に眞如とは妄空なり。
 法體:諸法の實體なり。
 眞心:眞如なり。
 浄法:眞如には清浄なる功徳の無盡藏なるを浄法滿足といふ。
 離念:妄念を離れし(眞如の)境地
 唯證相應:徒らに言語思慮を以て云々するも當らず、自ら實踐して心の妄を離れ、眞智を證して始めて眞如と相應すべきのみ。
(´・(ェ)・`)b

288鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 00:09:22 ID:1d4drIFg0

 真如は言葉に出来ないが、敢えて言葉で分別すれば二種の意義があるというのじゃ。
 その二とは、

 一つは如実空なのじゃ。
 空を極めれば実を表すが故なのじゃ。
 
 二つ目は如実不空なのじや。

 一つ目の空とは本よりこのかた一切の妄想分別に応じるものではないのじゃ。
 一切の差別の相を離れ、虚妄の心念がないものじゃ。
 真如の自性は、有相(うさう)ではなく、無相でもなく、非有相でもなく、非無相でさえもなく、有無倶相(うむくさうでもないのじゃ。
 更に一相ではなく、異相でもなく、非一相ですらなく、非異相でもないのじゃ。
 一異倶相でもないのじゃ。
 
 まとめれば一切衆生は妄念があり、いろいろと分別するから皆真如と相応じないのじゃ。
 故に空と説いているのじゃ。
 もし妄想を離れれば空と説くこともないのじゃ。

 二つ目の不空とは、既に法の本体は空にして、妄想がないことを表しているからなのじゃ。
 即ち真心である真如は常に不変で。清浄なる功徳無尽蔵であることを即ち不空と説いているのじゃ。
 また相の取るべきところが無いのじゃ。
 妄想を離れた境地は、真如と相応じるが故なのじゃ。

289避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 00:13:16 ID:AuwEkFmw0
8. 大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号9-10)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号31-33)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第二 心生滅門

心生滅者。依如來藏故有生滅心。
所謂不生不滅。與生滅和合。非一非異名爲阿棃耶識(ありやしき)
此識有二種義。能説一切法。生一切法。
*云何爲二。一者覺義。二者不覺義。

   心生滅とは如來藏に依るが故に、生滅の心有り。
   所謂(いはゆる)、不生不滅と生滅と和合して一に非らず異に非ず、名づけて阿棃耶識と爲す。
   此の識に二種の義有り、能く一切の法を攝し、一切の法を生ず。
   *如何(いかん)が二と爲す。一には覺の義。二には不覺の義。

▲一ニ覺ノ義

 所言覺義者。謂心體離念。離念相者。等虚空海。無所不徧。法界一相。即是如來平等法身。依此法身説名本覺。
 何以故。
 本覺義者對始覺義説 以始覺者。即同本覺。

 始覺義者。依本覺故。而有不覺故。依不覺故。説有始覺。

     言ふ所の覺の義とは、謂はく心體念を離る。離念の相は、虚空海に等しく、徧せざる所無し。法界一相、卽ち
    是れ如來の平等法身なり。此の法身に依って、説いて本覺と名づく。
     何を以っての故に。
     本覺の義は、始覺の義に対して説く。始覺は、卽ち本覺に同するを以てなり。
 
     始覺の義とは、本覺に依るが故に、不覺有り、不覺に依るが故に、始覺有りと説く。

 又以覺心源故名究竟覺。不覺心源故。非究竟覺。
   
     又心源を覺するを以ての故に、究竟覺(くきゃうかく)と名づく。心源を覺せざるが故に、究竟覺に非ず。
      
此義云何 
如凡夫人。覺知前念起悪故。能止後念令其不起。雖復名覺即是不覺。
故如二乘勸智。初發意菩薩等。覺於念異。念無異相。以捨麤分別執着相故名相似覺。
如法身菩薩*等。覺於念住念無住相。以離分別麤念相故隨分覺
如菩薩地盡。滿足方便。一念相應。覺心初起。心無初相。以遠離微細念故。得見心性。心即常住。名究竟覺。

    此の義云何(いかん)
    凡夫人(にん)の如きは、前念の起悪を覺知するが故に、能く後(ご)念を止め、其れをして起らざらしむ。また 
   覺と名づくと雖も。卽ち是れ不覺の故に。
    二乘の勸智と初發意(しょほっち)の菩薩等の如き簸、念異を覺して、念に異相無し。麤(そ)分別執着の相を捨 
   するを以ての故に、相似覺と名づく。
    法身の菩薩の如きは、念住を覺して念に住相無し。分別麤(そ)念の相を離るるを以ての故に、隨分覺と名づく。
    菩薩地盡くる如きは、方便を滿足し、一念相應す。心の初起を覺して、心に初相無し。微(み)細の念を遠(を   
   ん)離するを以ての故に、心性を見ることを得。心〔性〕は卽ち常住なるを以て、究竟覺(くきゃうかく)と名づく。

是故修多羅。説若有衆生。能觀無念者。即爲向佛智故。
又心起者無有初相可知。而言知初相者。即謂無念 是故一切衆生不名爲覺。以從本來念念相續。未曾離念故。説無始無明。
若得無念者。則知心相生住異滅。以無念等故。而實無有故*覺之異。以四相倶時而有。皆無自立。本來平等同一覺故。

     是の故に、修多羅に、若し衆生有って、能く無念を觀すれば、即ち佛に向ふの智爲す説けるが故に。
     又心起とは、初相の知るべき有ること無し。而も初相を知ると言ふは、卽ち無念を謂ふなり。是の故に一切の
    衆生は、名づけて覺と爲さず。本より來(このかた)、念念相續して、未だ曾(いまだかつて)念を離れざるを以ての 
    故に、無始の無明と説く。
     若し無念を得(とく)すれば、則ち心相の生・住・異・滅を知る。無念と等しきを以ての故に。而も實には、*始覺
    の異有ること無し。四相は倶時にして、而も有り、皆自立(りゅう)無く、本來平等にして、同一覺なるを以ての故
    に。 
(´・(ェ)・`)b

290避難民のマジレスさん:2022/03/26(土) 00:15:34 ID:AuwEkFmw0
>>289

脚注;主に 国訳大藏経より抜粋。

心生滅:心の現象的方面卽ち心生滅門。
 如來藏(Tathagathagarobaタターガタガルバ・スートラ):衆生心の本性、清浄不變なるに名づけてたる名なり。
 依如來藏故有生滅心:不生滅なる如來藏心「無明の風」の爲に動かされて生滅心となる。故に「生滅の心は不生滅の心に依る」といふ也。
 和合:不生滅の如來藏が動いて生滅となる端的をいふにて、生滅が別に他より來りて合する謂にあらず。
 阿棃耶識(ālaya-vijñāna.):. 新譯は阿頼耶識と記す。玄奘は阿頼耶の語を藏識(萬法の種子を含藏するの謂)とし譯し、眞諦(本論の譯者)は無歿識の意と譯す。名は異なれど義は一なり。
 阿棃耶識は、生滅と不生滅との和合したる非一非異の法なるが故、浄も染もその中に包括せられ、發しては迷とも悟ともなるなり。(非一非異:同じでないこと(非一)と、異ならないこと(非異)が、. 同時的に成立することを指して如来蔵と称す。)
 覺:眞如の平等一相、不生不滅なる所以を自覺するなり。或は単に不生滅なる眞如とも見得るなり。
 不覺:覺に反し、眞如の性に無自覺なるをいふ。
 心體離念:一心の本體の、妄念を璃れたるをいふ。
 虚空海:絶體無限なる虚空界に譬へたり。
 法身(Dharmakaya):菩提涅槃と佛陀との、形而上的に合一せる體をいふ。卽ち人格化せられたる眞如の謂也。
 本覺:は、眞如の徳性として、吾人本來之具有するも、我が迷妄の爲にその性を覆はれ居るなり。而かも之を顯はすには、實踐修行するの外無し。此の修行により眞如の理を證するを始覺といふ。此の始覺は本覺あるによって起こるもの故、始覺に對して本覺の名あり。修行の結果、妄染盡きて、一心の源に到達する時、始覺は卽ち本覺となる(同ず)。眞如門に於ては始覺の名も本覺の名もあるべからず。
 覺心源:衆生の有する染心も、其の本性(心源)は清浄なる本覺なるを覺るなり。
 究竟覺:心の妄を斷じ盡し、本覺に徹底せるを究竟覺(佛陀の地位)とし、未だ全く徹底するに至らざるも、始覺の漸次進む道程を「非究竟覺」とす。
眞如が謎の爲に妄なる活(はた)らきを起こす(流轉門)際に、その微細なるものより麤大なるものに至る間を四級に分ちて四相(生・住・異・滅)とす。しかして、此等の妄法を退治する始覺には、無量の階段あるべきなれども、暫く右の四相に約して四級を設け、以て之を説かんとするなり。
 凡夫(Prthagjana)人:菩薩の修行を積み漸次に煩惱を斷じ、涅槃を成ずるに至る迄に五十一(又は二)の階級を置く。その低級なるものより漸次之をいへば、十信、十住・十囘(え)向(之を三賢ともいふ)、十地、妙覺これなり。
茲に云ふ凡夫人とは、この第一の十信の位に至れるをいふ。四位の最後也。
(´・(ェ)・`)b

291鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 20:58:19 ID:1d4drIFg0

 二つ目の心生滅門の解釈なのじゃ。

 まだ悟りを得ていない心に生滅の観念を持つ者は、真如が心の底に隠され居ている如来蔵の状態であるから生滅があると認識するのじゃ。
 更に真如の不生不滅と生滅の観念が和合して、一つでもなく、異なることもない阿頼耶識になるのじゃ。
 この阿頼耶識にまた2種の意義がまたあるのじゃ。
 
 それは一切の法を包含し、一切の法を生じるのじゃ。
 その二つとは覚と、不覚なのじゃ。

 一つ目の覚とは心が観念を離れた状態なのじゃ。
 観念を離れた有様は虚空の海に等しいのじゃ。
 全てに遍満している本質に達しているのじゃ。
 法界の一相のみであり、これが即ち如来の平等法身なのじゃ。
 この法身によって本覚と説いているのじゃ。

 この本覚があるから対して始覚があるのじゃ。
 それも実は本覚と同じなのじゃ。

 始覚とは本覚があるから不覚があり、不覚によって始覚ありと説かれるのじゃ。
 心源を覚るが故に究極覚とも名づけるのじゃ。
 心源を覚らなければ究極覚ではないのじゃ。

292鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/26(土) 21:18:45 ID:1d4drIFg0

 つまり凡夫の者は、悪い観念が起こったら、それを覚って念が起こらないようにするのじゃ。
 そのようなものは覚と言っても、まだ不覚なのじゃ。
 二乗の知恵と新人の菩薩は、妄念を覚って間違わないのじゃ。
 粗大な分別執着の相を捨てるが故に、相似覚と名づけるのじゃ。

 法身の菩薩は、法への執着をも覚って法に執着する相も無くすのじゃ。
 分別と粗大な観念の相を離れるから随分覚と名づけるのじゃ。

 菩薩が修業を終える時などは、方便をも満ちたり、一念相応じるのみなのじゃ。
 心が起こる最初の兆しをも覚り、心に認識するものもなくなるのじゃ。
 細密な観念をも厭離する故に、心性を観ることができるのじゃ。
 心は不動にして常住なるが故に、究境覚と名づけるのじゃ。

 そうであるから経典にはもし衆生がよく観念がない状態になれば、仏陀になると説いているのじゃ。
 又心起とは、心の働きを知覚することもないのじゃ。
 しかも初相を知るとは無念であるからなのじゃ。
 この故に一切衆生は名づけて覚とは為さないのじゃ。

 元来観念がどこまでも続いて、観念から離れられないから、無始の無明があると説いているのじゃ。
 もし無念を習得すれば、即ち心の生、住、異、滅を知るじゃろう。
 それは無念と等しいからなのじゃ。

 しかも実際には本覚と始覚の違いはないのじゃ。
 菩薩の段階である四つの相は、時によるものであり、みんな自立なく、本来平等で同一の覚りである故になのじゃ。

293避難民のマジレスさん:2022/03/27(日) 00:50:48 ID:bGH6hMPY0
9.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号11)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号33-34)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲隨染本覺二種ノ相

復次本覺隨染分別生二種相。與彼本覺不相捨離。云何爲二。一者智浄相。二者不思議業相。 

    また次に、本覺隨染(ほんがくずいぜん)、分別するに、二種の相を生ず。彼(か)の本覺と、相捨離せず。いかんが
   二と爲す。一には智浄相、二には、不思議業相。

智浄相者。謂依法力薫習如實修行。滿足方便故。破和合識相。滅相續心相。顯現法身。智淳浄故   
  
    智浄相とは、謂はく、法力薫習に依って、如實に修行し、方便を滿足するが故に、和合識の相を破し、相續心
   の相を滅して、法身を顕現し、智淳浄なるが故に   
  
 此義云何。
 以一切心識相。皆是無明。無明之相不離覺性。非可壌非不可壌。如大海水因風波動水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。

    此の義云(いかん)。
    一切の心識の相は、皆是れ、無明なるを以て、無明の相は、覺性(かくしょう)を離れず、壌(え)すべきに非ず、壌
   すべからざるに非ず。大海の水、風に因って波動じ、水相と風相と相捨離せず、而も水は動性(どうしょう)に非ず。
   若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自
   性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、。心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は
   動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

 不思議業相者。以依智浄相能作一切勝妙境界。所謂無量功徳之相。常無斷絶。隨衆生根自然相應。種種而現得利 益故。

    不思議業相とは、智浄相に依るを以て、能く一切勝妙の境界を作(な)す。所謂(いはゆる)、無 
   量功徳の相は、常に斷絶すること無く、衆生の根に随って自然(じねん)に相應し、種種(しゅ 
   じゅ)に現じて、利 益(りやく)を得せしむるが故に。
    
(´・(ェ)・`)b

294鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/27(日) 21:53:08 ID:1d4drIFg0

 本覚随染は分別すれば二種の相を生じるというのじゃ。
 本覚と離れたものではないのじゃ。
 
 一つは智浄相なのじゃ。

 二つ目は不思議業相なのじゃ。

 智浄相とは法力の薫習、つまり日々の実践によって如実に修業し、方便を満了した故に、和合識の相を破り、
 観念が相続するという心の作用を滅して、法身を顕現して智慧が純粋清浄であることなのじゃ。

 その意味とは一切の心のありようは皆これ無明であり、しかも無明であっても覚性、仏性、真如というものから離れていないからなのじゃ。
 実らせるべきではなく、実らせないべきでもないのじゃ。
 
 大海の水は風によって波が生じるが、水と風が共に離れずにいるからなのじゃ。
 そして水が動いているのではないのじゃ。
 もし風か止まれば波は動かなくなるが、水の性質はなくならないのじゃ。

 このように衆生も本来は自性清浄な心をもっているが、無明の風で動じるのじゃ。
 心と無明は共に形あるものではなく離れたものではないようなものじゃ。
 しかも心は動くものではないのじゃ。
 もし無明が滅すれば、心の相続する観念はないが、知恵を持つ性質は滅しないのじゃ。

 不思議業相とは智浄相によって、一切に打ち勝つ妙なる境界をなすことから不思議というのじゃ。
 いわゆる無量功徳の相は常に断絶する事無く、衆生の心根にしたがって自然に相続し、いろいろに現われて利益を得させるのじゃ。

295避難民のマジレスさん:2022/03/27(日) 23:27:07 ID:AHRy/E2g0
10.大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号11-12)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号34-35)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲性浄本覺四種の大義

 復次覺體相者有而四種大義。與虚空等。猶如浄鏡。云何爲四。

    また次に、覺の體・相とは、四種(ししゅ)の大義(だいぎ)有り、虚空と等しく、猶ほ浄鏡の如し。云何(いかん)が四
   (し)と爲す。
 
 一者如實空鏡。遠離一切心境界相。無法可現。非覺照義故。

    一には如實空鏡。一切の心、境界の相を遠離し、法の現ずべき無し。覺照の義に非ざるが故に。

 二者因薫習鏡。謂如實不空。一切世間境界。悉於中現。不出不入不失不壊常住一心。以一切法即眞實性
故。
 又一切染法。所不能染。智體不動。具足無漏薫衆生故。

     二には因薫習鏡。謂はく、如實不空にして、一切世間の境界は、。悉く中に現ず。出(いで)ず入らず、失せず 
    壊(ゑ)せず、常住一心なり。一切の法は、卽ち眞實の性なるを以ての故に。
     又一切の染法(ぜんぽう)も、染するあたはざる所、智體動ぜずして、無漏(むろ)を具足し、衆生に薫ずるが故に。

 三者法出離鏡。謂不空法。出煩悩礙智礙。離和合相。淳浄明故。

     三には法出(しゅつ)離鏡。謂はく、不空の法は、煩悩礙と智礙とをで(いで)、和合の相を離れて、淳浄明(みょ
    う)なるが故に。 
 
 四者緣薫習鏡。謂依法出離故。徧照衆生之心。令修善根。隨念示現故。   
 
     四には、緣薫習鏡。謂はく、法出(しゅつ)離に依るが故に、あまねく衆生の心を照らして善根を修せしむ。念に
    随って示現するが故に。   

 (´・(ェ)・`)b

296鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/28(月) 21:53:33 ID:1d4drIFg0
 覚の本体と特長には四種の大きな智慧の意義があるというのじゃ。
 それは虚空と等しいものであり、清浄な鏡のようだというのじゃ。
 
 一つ目は如実空鏡なのじゃ。
   一切の心の境界の相を遠離し、法をも現れない智慧というのじゃ。
   覚の叡知が照らすからというのじゃ。

 二つ目は因薫習鏡なのじゃ。
    如実不空にして、一切世間の境界が悉く中に現じるというのじゃ。
    どこにも出ず入らず、なくならず壊れないのじゃ。
    常住にして一心、真如なのじゃ。
    一切の法は、即ち真実の本性があるからというのじゃ。
    又一切の染法にも、染められないのじゃ。
    智慧の本体は動じないものであり、無漏を具足し、衆生に薫じるというのじゃ。

 
 三つ目は法出離鏡なのじゃ。
   いわゆる不空の法は、煩悩の礙と智の礙とを出て、和合の相をも離れて、浄明なる智慧が篤いからというのじゃ。

 
 四つ目は縁薫習鏡なのじゃ。
   法出離によるが故に、あまねく衆生の心を照らして善根を修めさせるというのじゃ。
   それも念じることで現れるというのじゃ。

297避難民のマジレスさん:2022/03/28(月) 22:11:42 ID:.2ctnplk0
11.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号12-13)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号35)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二ニ不覺ノ義

所言不覺義者。謂不如實知眞如法一故。不覺心起而有其念。念無自相不離本覺。
猶如迷人依方故迷。若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覺故迷。若離覺性則無不覺。
以有不覺妄想心故能知名義。爲説眞覺。若離不覺之心。則無眞覺自相可説。

     言ふ所の不覺義とは、謂はく、如實に眞如の法一なりと知らざるが故に、不覺の心起って、其の念有り。念に
    自相無ければ、本覺を離れず。
     猶ほ迷人の、方に依るが故に迷ふ。若し方を離るれば、則ち迷有ること無きが如し。衆生もまた爾(しか)り。覺 
    に依るが故に迷ふ。若し覺性(しょう)を離るれば、則ち不覺無し。
     不覺の妄想心有るを以ての故に、能く名義(みょうぎ)を知って。爲に眞覺と説く。若し不覺の心を離るれば、則
    ち眞覺の自相の説くべき無し。

▲一ニハ三細

復次依不覺故生三種相。與彼不覺相應不相離

     また次に、不覺に依るが故に、三種の相を生ず。彼(か)の不覺と相應して、相離れず。

 云何爲三。

     云何(いかんが)三と爲す。

 一者無明業相。以依不覺故。心動説名爲業。覺則不動。動則有苦。果不離因故。

     一には無明業相。不覺に依るを以ての故に、心動するを説いて、名づけて業と爲す。覺すれば則ち動ぜず。動
    ずれば則ち苦あり。果は因を離れざるが故に。

 二者能見相。以依動故能見。不動則無見。

     二には能見相。動に依るを以ての故に、能見有り。動ぜざれば則ち見無し。

 三者境界相以依能見故境界妄現。離見則無境界。

     三には境界相(きゃうがいさう)能見に依るを以ての故に、境界妄(みだり)に現ず。見を離るれば則ち境界無し。

(´・(ェ)・`)b

298鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/29(火) 23:36:35 ID:1d4drIFg0

 次は不覚の意味なのじゃ。
 
 如実に真如の一法を知らないから、不覚の心が起こって誰彼の念が有ってしまうというのじゃ。
 念に自分とか他人の分別が無ければ本覚を離れていないのじゃ。

 迷い人が方角を頼っているから迷うようなものじゃ。
 方角を離れれば迷いが無いようなものじゃ。
 衆生もまたそのようなものじゃ。
 覚りに依存するから迷うのじゃ。
 もし覚性も離れれば不覚もないのじゃ。

 不覚の妄想心があるから、名前と意味を弁えて、そのために真覚があると説くのじゃ。
 もし不覚を離れれば、真覚の自他の観念をも説くこともないのじゃ。

 更に不覚に依って三種の相、特徴をを生じるというのじゃ。
 不覚と相応じて、離れないというのじゃ。
 その三つとは、

 一つ目が無明業相なのじゃ。
 不覚に依って心が動じることを説いて、それを業とよぶのじゃ。
 覚ればもはや動じないのじゃ。
 動じるから苦もあるのじゃ。
 結果は原因から離れられないからなのじゃ。

 二つ目は能見相なのじゃ。
 心が動じるから能見もあるのじゃ。
 心が動じなければ見ることもないのじゃ。

 三つ目は境界相なのじゃ。
 能見に依って境界があるという観念を妄想するのじゃ。
 見る事が無ければ境界もないのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2022/03/29(火) 23:53:50 ID:995UA7p60
12.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号13)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号36)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲二ニハ六麁(そ・麤)

以有境界緣故復生六種相。云何爲六。

    境界の緣有るを以ての故に、また六種の相を生ず。*云何(いかんが)六と爲す。

一者智相依於境界心起分別愛與不愛故。

    一には智相。境界に依って、心起って、愛と不愛とを分別するが故に。

二者相續相。依於智故生其苦樂覺心。起念相應不斷故。

    二には相續相。智に依るが故に、其の苦樂の覺心を生じ、念を起こし、相應して斷ぜざるが故に。

三者執取相。依於相續緣念境界。住持苦樂心起着故

    三には執取相。相續に依って、境界を緣念し、苦樂を住持して、心(こころ)着(ぢゃく)を起こすが故に。

四者計名字相。依於妄執。分別假名言相故。

    四には計名(みゃう)字相。妄執(じふ)に依って、假名言(けみゃうごん)の相を分別するが故に。

五者起業相。依於名字。尋名*取着。造種種業故。
     
    五には起業相。名字に依って名を尋ね、*取執(しゅじふ)して種種(しゅじゅ)の業を造るが故に。 

六者業繫苦相。以依業受報不自在故。

    六には業繫苦相(ごつけくさう)。業に依って報を受け、自在ならざるを以ての故に。

當知無明能生一切染法。以一切染法皆是不覺相故。

    まさに知るべし、無明能く一切の染法を生ずることを。一切の染法は、皆是れ不覺の相なることを以ての故に。

(´・(ェ)・`)b

300鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/03/30(水) 21:48:23 ID:1d4drIFg0

 そして更に上記の境界の縁によって六種の相が生じるというのじゃ。

 その六とは

 一つ目が智相、境界に依って心が起こり、愛と不愛を分別するのじゃ。
 
 二つ目が相続相、智に依って苦楽の覚心を生じ、相続して絶えないのじゃ。

 三つ目が執取相、相続に依って、境界を縁念として、心に執着を起こすからなのじゃ。
 
 四つ目が名字相、妄執に依って、仮名言の相を分別するからなのじゃ。

 五つ目が起業相、名字依って、名を尋ねて取執していろいろな業を作るからなのじゃ。

 六つ目が業繋苦相、業に依って報いを受けて自在にはできないからなのじゃ。

 このように無明から一切の染法が生じることを知るべきなのじゃ。
 これらは皆不覚の特徴である故なのじゃ。

 
 これは大体十二縁起と同じようなものじゃな。
 大乗の教義として無明から業によって縛られて苦から抜けだせない心のありようを説いたものじゃ。

301避難民のマジレスさん:2022/03/30(水) 22:51:36 ID:kqqE/TR.0
13.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号13-14)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号36-37)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲覺不覺ノ異同

復次覺與不覺有二種相。云何爲二。一者同相。二者異相。

    復(また)次に、覺と不覺と、二種の相有り。云何が二と爲す。一には同相、二には異相。

 同相者譬如種種瓦器皆同微塵性相。如是無漏無明種種業幻。皆同如性相。是故修多羅中。依於此義説一切衆生本來常住入於涅槃。菩提之法非可修相。非可作相。畢竟無得。亦無色相可見而有見色相者。
唯是隨染業幻所作。非是智色不空之性以智相無可見故。
 幻異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明。隨染幻差別。性染幻差別故。
     
     同相とは、譬へば種種の瓦器(ぐわき)皆同じく微塵の性相(しゃうさう)なるが如し。かくのごとく、無漏と無明との 
    種種の業幻も、皆同じく眞如の性相なり。この故に、修多羅の中(うち)に、此の義に依って、一切衆生は、本來
    常住にして、涅槃に入ると説く。菩提の法は、修すべき相に非ず、作(な)すべき相に非ず、畢竟無得(とく)なり。ま
    た色相のるべき無し。而も色相を見ること有るは、唯これ隨染業幻の所作なり。是の智には色不空の性(しゃう)
    あるに非ず、智相は見るべき無きを以ての故に。
     異相と言うは、種種の瓦器(ぐわき)、各各不同なるが如く、是くの如く無漏と無明との隨染幻の差別と、性染
    幻の差別となるが故に。

(´・(ェ)・`)b

302鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/01(金) 00:26:11 ID:1d4drIFg0

 更に又。、覚と不覚に二つの特徴があるというのじゃ。
 一つは同じという特徴であり、二つ目は異なるという特徴であるというのじゃ。

 例えば陶器が皆同じく泥土から作られている性質のものという特徴があるようなものじゃ。
 このように如来の無漏も衆生の無明といういろいろな表れも、実は真如の本性があるからなのじゃ。
 この故に経典には一切衆生は本来、常住にして涅槃に入るものと説いているのじゃ。
 
 仏道は修めるものがなく、作すべきものごともないのじゃ。
 何かを得ることもないのじゃ。
 色形もなく、しかも色形をみることがあるのは、ただ随染業の幻のせいなのじゃ。
 この智恵には色不空の性もないのじゃ。
 智恵の相は見るべきものもないからなのじゃ。

 
 異なる特徴とはいろいろな陶器が、皆違うようなものじゃ。
 このように無漏と無明との隨染幻の差別と、性染幻の差別があるからというのじゃ。


 これもまた真如の意義を説いているのじゃな。
 悟った者と悟っていない者は、真如の本性からは同じというのじゃ。
 しかし、無明に染まっている者と、法に染まった者の違いで差別があると言うのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2022/04/01(金) 22:18:11 ID:2KCgQ.x.0
14.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号14-15)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号37-38)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第三 生滅因緣ノ義

復次生滅因緣者。所謂衆生依心意意識轉故。

    また次に、生滅の因緣とは、いはゆる衆生は、心に依って意と意識と転ずるが故に。

此義云何。  
以依阿棃耶識説有無明。不覺而起能見能現。能取境界*起。念相續故。説爲意。

    此の義いかん。  
    阿耶棃識(ありやしき)に依るを以て、無明有りと説く。不覺にして起り、能見(のうけん)、能現(のうげん)。能く境
   界を取り、*念を起して相續す。故に説いて意と爲す。

 此意復有五種名。云何爲五.

     此の意に、また五種の名有り。云何(いかん)が五と爲す。

 一者名爲業識。謂無明力不覺心動故。

     一には、名づけて業識と爲す。謂はく、無明の力にて、不覺の心動ずるが故に。

 二者名爲轉識。依於動心。能見相故。

     二には、名づけて轉識と爲す。動心に依って、能見の相あるが故に。

 三者名爲現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。隨其五塵對至。即現無有前後。以一切時任運而起常在前故。
     
     三には、名づけて現識と爲す。所謂(いはゆる)、能く一切の境界を現ず。猶ほ明鏡の、色像(しきざう)を現ずる
    が如し。現識もまた爾(しか)り。五塵に随って對至(たいし)すれば、卽ち現じて前後有ること無し。一切時に、任
    運(にんぬん)に起りて、常に前に在るを以ての故に。

 四者名爲智識。謂分別染浄法故。

     四には、名づけて智識と爲す。謂はく、染浄の法を分別するが故に。 

 五者名爲相續識。以念相應不斷故。住持過去無量世等善悪之業。令不失故。復能成熟現在未來苦樂等報無差違故。能令現在己經之事。忽然而念。未來之事不覺妄慮。是故三界虚偽唯心所作。離心則無六塵境界。

     五には、名づけて相續識と爲す。念相應して斷ぜざるを以ての故に。過去無量世等の善悪の業を住持して、
    失せざらしむるが故に。また能く、現在未來の苦樂等の報を成熟(じゃうじゅく)して差違すること無きが故に、能く
    現在・己經(いきゃう)の事を、忽然(こつねん)として念じ、未來の事を不覺に妄慮せしむ。是の故に三界は虚偽
    (こぎ)にして、唯心の所作なり。心を離るれば、則ち六塵の境界無し。     

(´・(ェ)・`)b

304鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 00:19:52 ID:1d4drIFg0

 また次は生滅の因縁についてなのじゃ。
 衆生は心によって意と意識を転じるというのじゃ。

 この意味は阿頼耶識があるから無明があると説くからなのじゃ。
 不覚にして起こり、能見、能現なのじゃ。
 能く境界を取り、念を起して相続するのじゃ。
 それを説いて意とするのじゃ。 

 その意にはまた五種の名前があると言うのじゃ。

 一つ目は業識なのじゃ。
 無明の力によって、不覚の心が動くからなのじゃ。

 二つ目は転識なのじゃ。
 動く心によって能見の相があるからなのじゃ。

 三つ目は現識なのじゃ。
 いわゆる一切の境界を現すからなのじゃ。
 鏡が色形を現すようなものじゃ。
 現識もまた同じようなものじゃ。
 五塵に従って対すれば、直ぐに現われて前後ありとするのじゃ。
 全ては自然に起こって常に主体の前にあるからなのじゃ。
 
 四つ目は智識なのじゃ。 
 染浄の法を分別するからなのじゃ。

 五つ目は相続識なのじゃ。
 念が相応じて断絶しないからなのじゃ。
 過去の無量世等の善悪の業を持ち運び、失くさないからなのじゃ。
 また現在未来の苦楽等の報いを成り立たせ、間違いがないからなのじゃ。
 現在や過去のことを念じて、未来のことを不覚に妄想させる能力が在るのじゃ。
 この故に三界は虚偽にして、ただ心が創るものなのじゃ。
 心を離れれば、六塵の境界もないのじゃ。

305避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 09:10:56 ID:2onbSBYc0
15.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号15-16)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号38-39)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 此義云何。
 以一切法皆從心起。妄念而生。一切分別則分別自心。心不見心無相可得 
 當知世間一切境界。皆依衆生*妄心而得住持。是故一切法如鏡中像無體可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故。

     此の義云何(いかん)。
     一切の法は、皆心より起り、妄念より生ずるを以て、一切の分別は卽ち自心を分別す。心を見ざれば、相とし
    て得べき無し。
     まさに知るべし、世間一切の境界は、皆衆生の*無明妄心に依って、住持することを得。是の故に、一切の法
    は、鏡中の像の、體の得べきこと無きが如く、唯心にして虚妄(こもう)なり。心生ずれば、則ち種種の法生じ、心 
    滅すれば、則ち種種の法滅するを以ての故に。

 復次言意識者。*即此相續識。依諸凡夫取着轉深。計我我所。種種妄執隨事攀緣。分別六塵名爲意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。
      
     また次に、意識と言うは、*卽ち此れ相續識なり。諸(もろもろ)の凡夫、取着(しゅぢゃく)轉(うた)た深きに依って、 
    我(が)と我所(わがしょ)とを計し、種種に妄執し、事に随って攀緣(はんえん)し、六塵を分別す、名づけて意識と 
    爲す。亦分離識と名づく。又復(またまた)説いて分別事識と名づく。此の識は見愛煩悩に依って増長する義の 
    故に。

 依無明薫習所起識者。非凡夫能知。亦非二乘智慧所覺。謂依菩薩。從初正信發心觀察。若證法身得少分知。乃至菩薩究竟地不能盡知。唯佛窮了。
 何以故。
 是心從本己來自性清浄。而有無明爲無明所染有其染心。雖有染心而常恒不變。是故此義唯佛能知。   

     無明薫習に依って起す所の識は、凡夫の能く知る所に非ず。亦二乘の智慧の覺する所に非ず。謂はく、菩薩
    に依るに、初めの正信より發心(はつしん)觀察し、若し法身(ほつしん)を証 すれば、少分の知を得、乃至菩薩
    究竟地(ぢ)も、盡(ことごと)く知るあたわず、唯佛のみ窮了(ぐうれう)す。
     何を以ての故に。
     是心の本より己來(このかた)、自性(じしゃう)清浄なり、而も無明有り、無明の爲に染(ぜん)せられて、其の染
    心有り、染心有りと雖も、而も常恒(じゃうごう)不變なり。是の故に、此の義は唯佛のみ能く知る。

 所謂心性常無念故名爲不變以不達*一法界故。心不相應忽然念起。名爲無明。

     所謂(いはゆる)、心性は常に念無し、故に名づけて不變と爲す。*一切法界に達せざるを以ての故に。心相應
    せず、忽然(こちねん)として念起るを名づけて無明と爲す。

(´・(ェ)・`)b

306鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/02(土) 22:03:42 ID:1d4drIFg0

 この意味は、一切の法は皆心より起こり、妄念より生じて、一切の分別は自らの心を分別しているからなのじゃ。
 心を見なければ、何か見るべき心象もないのじゃ。
 世間の一切の境界は、皆衆生の無明妄心に依って、あり続けることを知るべきなのじゃ。
 この故に一切の法は、鏡の中の象が本体がないように、ただ心から創られた虚妄なのじゃ。
 心が生じれば、即ちいろいろな法も生じ、心が滅すれば即ちいろいろな法も滅するのじゃ。


 次に意識と言うのは、すなわち相続識のことなのじゃ。
 凡夫は皆、執着がとても深いから、我という観念や我が物という観念を計り、
 いろいろに妄想し、いろいろに妄執し、事に随って囚われ、六塵を分別するのじゃ。
 それらの働きを名づけて意識というのじゃ。
 またまた説いて分別事識と名づけるのじゃ。
  この識は見愛煩悩に依って増長するという意味からなのじゃ。

 無明薫習によって起こる識は凡夫がしることの出来ないものじゃ。
 また二乗の智恵で覚れるものでもないのじゃ。
 菩薩でも初正信より発心観察し、もし法身を証すれば、少しはわかるのじゃ。
 しかし菩薩の究境地でも総てしることはできないのじゃ。
 ただ仏陀だけが知り尽くすことができるのじゃ。

 なぜならばこの心はもとよりこのかた、自性は清浄であるからなのじゃ。
 無明のために染められて、染心があるのじゃ。
 染心があってもしかも常恒不変なのじゃ。
 それ故にこの意味はただ仏陀だけが知りえるのじゃ。

 いわゆる心性は常に念がないのじゃ。
 故に名付けて不変とするのじゃ。
 一切の法界に達していないからなのじゃ。
 心相応せず、忽然として念が起こるのを無明とするのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2022/04/02(土) 22:32:04 ID:gUkKzeYA0
16.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号16-17)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号39-40)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲六種ノ染心

 染心者六種。云何爲六。
 一者執相應染。依二乘解脱。及信相應地。遠離故。

     染心(ぜんしん)とは六種有り。云何(いかん)が六と爲す。
     一には執相應染(しふさうおうぜん)。二乘(にじょう)の解脱と、及び信相應地とに依り、遠離(をんり)するが故に。
     
 二者不斷相應染。依信相應地修學方便。漸漸能捨得浄心地。究竟離故。

     二には不斷相應染 信相應地(ぢ)に、方便を修學するに依り、漸漸に能く捨して、浄心地(ぢ)を得、究竟(く
    きゃう)して離するが故に。

 三者分別智相應染。依倶戒地漸離。乃至無相方便地。究竟離故。

     三には分別智相應染。倶戒地に依って漸(やうや)く離れ、乃至無相方便地に究竟(くきゃう)して離するが故に。
 
 四者現色不相應染。依色自在地。能離故。

     四には現色(しき)不相應染。依色自在地(ぢ)に依り、能く離するが故に。

 五者能見心不相應染。依自在地。能離故。
 
     五には能見心不相應染。自在地に依り、能く離するが故に。

 六者根本業不相應染。依菩薩盡地得入如來地能離故。

     六には根本業不相應染。菩薩の盡地に依り、如來地に入るを得て、能く離るるが故に。     

 不了一法界義者。從信相應地。觀察學斷。入浄心地。隨分得離。乃至如來地。能究竟離故。

     一法界を了せざる義〔と〕は、信相應地より、觀察學斷して、浄心地に入り、分に随って離るるを得、乃至如 
    來地に、能く究竟して離するが故に。
 
 言相應義者。謂心念法異。依染浄差別而知相緣相同故。
 不相應義者謂即心不覺。常無別異。不同知相緣相故。

     相應の義と言ふは、謂はく、心と念法と異なり(なるも)、染浄の差別(しゃべつ)に依って、知相と緣相と同じきが  
    故に。
     不相應の義とは、謂はく、心に卽するの不覺は、常に別異無し。知相と緣相とを同ぜざるが故に。

(´・(ェ)・`)b

308鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/03(日) 22:02:45 ID:1d4drIFg0

 染心は六種あるというのじゃ。
 その六とは、

 一つ目は執相応染なのじゃ。
 二乗の解脱と、大乗の信相応地により厭離されるのじゃ。

 二つ目は、 不断相応染なのじゃ。
 信相応地に、方便を修学するに依って、次第に捨てることが出来て、浄心地を得て究めれば厭離できるのじゃ。

 三つ目は、 分別智相応染なのじゃ。
 具戒地に依ってようやく離れるのじゃ。
 或いは無相方便地を究めて厭離できるのじゃ。

 四つ目は、現色不相応染なのじゃ。
 依色自在地に依って、厭離できるのじゃ。

 五つ目は、能見心不相応染なのじゃ。
 自在地によって厭離できるのじゃ。

 六つ目は根本業不相応染なのじゃ。
 菩薩の最終境地から更に如来の境地に入って厭離できるのじゃ。

 
 一法界を修了していないという意味は、信相応地より観察学習して浄心地に入り、
 修業の進み具合に応じて厭離も次第に出来るからなのじゃ。
 そして最後に如来地によってのみ究めて厭離できるからなのじゃ。

 相応の意味とは、心と念法は異なるが、染、浄の差別によって知相と縁相が同じだからなのじゃ。

 不相応の意味とは、心に即する不覚は、常に別異がないからなのじゃ。
 知相と縁相が同じではないからなのじゃ。

309避難民のマジレスさん:2022/04/03(日) 23:33:54 ID:6QJo63rA0
17.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号40-41)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲染心ノ二礙

 又染心義者。名爲煩悩礙。能障眞如根本智故。
 無明義者。名爲智礙。能障世間自然業智故。

     又染心の義とは、名づけて煩悩礙と爲す。能く眞如根本智を障(さ)ふるが故に。
     無明の義とは、名づけて智礙と爲す。能く世間の自然(じねん)業智を障ふるが故に。

 此義云何。 以依染心能見能現。妄取境界遠平等性故。
 以一切法常静無有起相。無明不覺妄與法違故。不能得隨順世間一切境界。種種知故。

     此の義云何(いかん)。染心に依って、能見能現あり、妄(みだり)に境界(がい)を取って、平等性に違するを以て
    の故に。
     一切の法は、常に静にして、起相有ること無し。無明の不覺、妄(みだり)に法と違するを以ての故に、世間一
    切の境界に隨順することを得て種種に知ることあたわざるが故に。

▲第四 分別生滅ノ相

復次分別生滅相者。有二種、云何爲二。
 一者麁。與心相應故。
 二者細。與心不相應故。
 亦麁中之麁凡夫境界。麁中之細。細中之麁・菩薩境界。細中之細是佛境界。

     また次に、生滅の相を分別せば、二種有り。いかんが二と爲す。
     一には麤(そ)。心と相應するが故に。
     二には細。心と相應せざるが故に。
     又麤中の麤とは、凡夫の境界なり、麤中の細と、及び細中の麤とは・菩薩の境界なり。細中の細とは、是れ佛 
    の境界なり。

 此二種生滅依無明薫習而有。所謂依因依緣。依因者不覺故。依緣者妄作境界義故。若因滅則緣滅。因滅故不相應心滅。緣滅故相應心滅。

     此の二種の生滅は、無明薫習に依って有り。所謂(いはゆる)、因に依り緣に依る。因に依るとは、不覺の義の
    故に。緣に依るとは、妄(みだりい)に境界を作(な)すの義なるが故に。若し因滅すれば則ち緣滅す。因滅するが
    故に、不相應の心滅す。緣滅するが故に、相應の心滅す。

 問曰若心滅者云何相續若相續*。者云何説究竟滅。

     問うて曰はく、若し心滅せば、云何が相續せん。若し相續せば、いかんが究竟滅(くきゃうめつ)と説かん。

 答曰所言滅者唯心相滅。非心體滅。如風依水而有動相。若水滅者則風相斷絶無所依止。以水不滅風相相續。唯風滅故動相隨滅。非是水滅無明亦爾 依心體而動若心體滅者則衆生斷絶無所依止。以體不滅故心得相續唯癡滅故心相隨滅非心智滅。

      答へて曰はく、言う所の滅とは、唯心相の滅にして、心體の滅に非ず。風の、水に依っての動相有るが如し。
     若し水滅せば、則ち風相斷絶して、依止(えし)する所けん。水滅せざるを以て、風相相續す。唯風の滅するが
     故に、動相隨って滅す。是れ水の滅するに非ず。無明も亦爾(しか)り。心體に依って動ず。若し心體滅すれば、
     則ち衆生斷絶して、依止(えし)する所無し。體は滅せざるを以て、心相續することを得。唯癡(ち)の滅するが故 
     に、心相も隨って滅す。心智の滅するに非ず。

(´・(ェ)・`)b

310鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:22:38 ID:1d4drIFg0

 又染心という意味は、名づけて煩悩のさまたげとするのじゃ。
 真如の根本の智恵の障害となるからなのじゃ。
 無明の意味とは、名づけて智のさまたげとするのじゃ。
 世間の自然業智の障害となるからなのじゃ。

 この意味とは、染心に依って、能見能現があるからなのじゃ。
 みだりに境界を作って、平等性とは違う観念をもつからなのじゃ。

 一切の法は常に静かで、起こる相すらもないものじゃ。
 無明の不覚が妄りに法と違う観念を作るだけなのじゃ。
 世間一切の境界に随って、いろいろに知ることができないだけなのじゃ。

 
 第四 分別生滅の相なのじゃ。

 又次に生滅の相を分別すると、二種あるのじゃ。
 その二とは、

 一つ目が粗なのじゃ。
 心と相応じるからなのじゃ。

 二つ目は細なのじゃ。
 心と相応じないからなのじゃ。

 又粗の中の租とは、凡夫の境涯なのじゃ。
 粗の中の細と、細の中の粗とは菩薩の境涯なのじゃ。
 細の中の細は如来の境涯なのじゃ。

 この二種の生滅は無明薫習によってあるのじゃ。
 いわゆる因に依り、縁に依るのじゃ。
 因に依るとは、不覚の意味であるからなのじゃ。
 縁に依るとは、妄りに境界を作るからなのじゃ。
 
 もし因が滅すれば、即ち縁も滅するのじゃ。
 因が滅すれば不相応の心も滅するのじゃ。
 縁が滅すると、相応の心も滅するのじゃ。

311鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 00:33:34 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし心が滅すれば、どのようにして相続するのかと。
 もし相続しないのであれば、どうして究竟滅と説くのかと。

 答えたのじゃ。
 言うところの滅とは、ただ心の相が滅したのであって、心の本体が滅したのではないのじゃ。
 風で水の面が動くようなものじゃ。
 もし水がなければ風が動いたことはわからないのじゃ。
 水があれば風の動いたこともわかるのじゃ。
 風がなければ水は動かないが、水がなくなったわけではないのじゃ。

 無明もまた同じようなものじゃ。
 心の本体によって動きもあるのじゃ。
 もし心の本体が滅すれば、即ち衆生も断絶して、よるところもないのじゃ。
 心の本体は滅しないから、心は相続するのじゃ。
 ただ妄想がなくなるから、心の相も滅するのじゃ。
 心智が滅するのではないのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 00:35:00 ID:oC/z6xpc0
18.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号18-19)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号41-42)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第五 四種ノ法薫習

 復次有四種法薫習義故。染法浄法起不斷絶。
 云何爲四。
 一者浄法。名爲眞如。
 二者一切染因。名爲無明。
 三者妄心名爲業識。
 四者妄境界。所謂六塵。

     復次に、四(し)種の法薫習の義有るが故に、染法と浄法と起って、斷絶せず。
     云何が四と爲す。
     一には浄法、名づけて眞如と爲す。
     二には一切の染因、名づけて無明と爲す。
     三には妄心、名づけて業識と爲す。
     四には妄境界(がい)、所謂六塵なり。

 薫習義者。如世間衣服實無於香。若人以香而薫習故則有香氣。此亦如是。眞如浄法實無於染。但以無明而薫習故。則有染相。無明染法實無浄業。但以眞如而薫習故。則有浄用。

     薫習の義とは、世間の衣服(えぷく)、實に香(にほひ)無きも、若し人香(にほひ)を以て薫習するが故に、則ち香 
    氣有るが如し。此れも亦是くの如く、眞如の浄法は、實に染無し。但無明を以て薫習するが故に、則ち染相有
    り。無明染法は、實に浄業無し。但眞如を以て薫習するが故に、則ち浄用有り。

 云何薫習起染法不斷。
 所謂以依眞如法故有於無明。以有無明染法因故即薫習眞如。以薫習故則有妄心。以有妄心即薫習無明。不了眞如法故不覺念起現妄境界以有妄境界染法緣故。即薫習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。

     云何が薫習し、染法を起こして、斷ぜざる。
     所謂、眞如の法に依るを以ての故に、無明有り、無明染法の因有るを以ての故に、卽ち眞如に薫習す。薫習
    を以ての故に、則ち妄心有り、妄心有るを以て、卽ち無明に薫習す。眞如の法を了せざるが故に、不覺の念 
    起って、妄境界を現ず。妄境界染法の緣有るを以ての故に、卽ち妄心に薫習し、其れをして念著し、種種の業 
    を造って、一切の身心等の苦を受けしむ。

 此妄境界薫習義則有二種。云何爲二。
 一者増長念薫習。二者増長取薫習  

     此の妄境界薫習の義に、則ち二種有り。云何が二と爲す。
     一には増長念薫習、二には増長取薫習なり。  
 
 妄心薫習義有二種 云何爲二。
 一者業識根本薫習。能受阿羅漢辟支佛一切菩薩生滅苦故。
 二者増長分別事識薫習。能受凡夫業繋苦故。       

     妄心薫習の義に二種有り、云何が二と爲す。
     一には業識根本薫習。能く受阿羅漢・辟支佛(びゃくしぶつ)一切の菩薩をして、生滅の苦を受けしむるが故に。
     二には増長分別事識薫習。能く凡夫をして、業繋(ごふけ)の苦を受けしむるが故に。       

(´・(ェ)・`)b

313鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:01:25 ID:1d4drIFg0

 また次に四種の法薫習があるから、染法と浄法とが起こって断絶しないのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は浄法、真如なのじゃ。
 二つ目は一切の染因、無明なのじゃ。
 三つ目は妄心、業識なのじゃ。
 四つ目は、妄境界、いわゆる六塵なのじゃ。

 薫習の意味とは、例えば世間の衣服には本来臭いはないが、もし人がお香で薫習すれば臭いがつくのじゃ。
 このように真如の浄法は本来、染がないものじゃ。
 ただ無明をもって薫習するから染相があるのじゃ。

 無明染法は本来、浄業がないものじゃ。
 ただ真如によって薫習するから浄用があるのじゃ。

314鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/05(火) 22:04:38 ID:1d4drIFg0
 どのようにして薫習して、染法を起こして絶えないのかといえば、
 いわゆる真如の法に依って無明もあるのじゃ。
 無明染法の因があるから真如に薫習するのじゃ。

 薫習によって妄心もあるのじゃ。
 妄心があるから無明に薫習するのじゃ。
 真如の法を修了できないから不覚の念が起こって、妄境界を現すのじゃ。
 妄境界染法の縁があるから、妄心に薫習して、それに念着して、いろいろな業わ作って一切の心身の苦を受けるのじゃ。

 この妄境界薫習の意味にまた2種あるのじゃ。

 一つ目は増長念薫習なのじゃ。
 二つ目は増長取薫習なのじゃ。

  妄心薫習にも二種の意味が在るのじゃ。

 一つ目は業識根本薫習なのじゃ。
 阿羅漢や辟支佛、菩薩にも生滅の苦を受けさせるものじゃ。

 二つ目は増長分別事識薫習なのじゃ。
 凡夫に業繋の苦を受けさせるものなのじゃ。

315避難民のマジレスさん:2022/04/05(火) 23:04:24 ID:66RvJFcI0
19.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号20)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号42-43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 無明薫習義有二種。云何爲二。
 一者根本薫習。以能成就業識義故。
 二者所起見愛薫習。以能成就分別事識義故。

     無明薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には根本薫習。能く業識を成就するの義を以ての故に。
     二には所起見愛薫習。分別事識を成就する義を以ての故に。

 云何薫習起浄法不斷。
 所謂以有眞如法故能薫習無明。以薫習因緣力故則令妄心厭生死苦樂求涅槃。以 此妄心有厭求因緣故即薫習眞如。 

     云何が薫習し、浄法を起こして斷ぜざる。
     所謂(いはゆる)、眞如の法有るを以ての故に、能く無明に薫習す。薫習の因緣力を以ての故に、則ち妄心を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)せしむ。此の妄心に厭求(をんぐ)の因緣有るを以ての故に、卽 
    ち眞如に薫習す。 

 自信己性。知心妄動無前境界 修遠離法以如實知無前境界故。種種方便起隨順行。不取不念乃至久遠薫習力故無明則滅。
 以無明滅故心無有起。以無起故境界隨滅。以因緣倶滅故。心相皆盡。名得涅槃成自然業。

     自ら己(おの)が性(しゃう)を信じ、心は妄に動じたるのみ、前境界無しと知り、遠離(をんり)の法を修し、如實に、    前境界無しと知るを以ての故に、種種の方便もて、隨順の行を起こし、不取不念、乃至久遠(くをん)薫習力の 
    故に、無明卽ち滅す。
     無明滅するを以ての故に、心起こること有ること無し。起こることなきを以ての故に、境界隨って滅す。因と緣と
    倶(とも)に滅するを以ての故に、心相皆盡くるを、涅槃を得て、自然業を成(じゃう)ず名づく。
     
 妄心薫習義有二種。云何爲二。
 一者分別事識薫習。依諸凡夫二乘人等。厭生死苦隨力所能。以漸趣向無上道故。
 二者意薫習。謂諸菩薩發心勇猛速趣涅槃故。

     妄心薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。
     一には分別事識薫習。諸(もろもろ)の凡夫、二乘の人等に依って、生死の苦を厭(いと)ひ、力の所能に随って、    漸(やうや)く無上道に趣向するを以ての故に。
     二には意薫習。謂はく、諸の菩薩は、發心勇猛(ほっしんゆうみゃう)にして、速に涅槃に趣(おもむ)くが故に。

(´・(ェ)・`)b

316鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/06(水) 22:02:40 ID:1d4drIFg0

 無明薫習にも二つの種類があるのじゃ。

 一つ目は根本薫習なのじゃ。
 業識を成就することができるものなのじゃ。

 二つ目は所起見愛薫習なのじゃ。
 分別事識を成就するものなのじゃ。

 ではどのようにして浄法によって薫習して実践し続けることができるのかというのじゃ。
 いわゆる真如の法があるから、無明にも薫習することができるのじゃ。
 薫習の因縁力があるから、妄心を持つ者にも生死の苦をいやがり、涅槃を求めさせることもできるのじゃ。
 この妄心にも苦を厭い、涅槃を求めさせる因縁があるから、真如で薫習することもできるのじゃ。
 
 自ら己の性を信じて、心は妄想に動じているだけであり、もとより境界なしと知って、遠離の法を実践して、如実にもとより境界無しと気づくのじゃ。
 いろいろな方便をもって随順の行を起こし、何も取らず、何も念じる事無く、長年薫習力を実践すれば無明も滅するのじゃ。

 無明が滅すれば心が起こることもないのじゃ。
 心が起こらないのであるから境界もそれにしたがって滅するのじゃ。
 因と縁もともに滅するからなのじゃ。
 心の相が皆尽きることで涅槃を得て、自然業を成就するというのじゃ。

 妄心薫習にも二種あるのじゃ。

 一つ目は分別事識薫習なのじゃ。
 もろもろの凡夫や二乗の者達によって、生死の苦を厭い、各自の能力によってようやく無上道に向かうからなのじゃ。

 二つ目は意薫習なのじゃ。
 諸々の菩薩は発心勇猛にして、速やかに涅槃にいくからなのじゃ。

317避難民のマジレスさん:2022/04/06(水) 22:10:52 ID:7I2EyRWQ0
20.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号21-22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号43)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 眞如薫習義有二種。云何爲二。一者自體相薫習。二者用薫習者。
 自体相薫習者。從無始世來具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義恒常薫習。以有薫習力故。能令衆生厭生死苦。樂求涅槃。自信己身有眞如發心修行。
 
     眞如薫習の義に二種有り。云何が二と爲す。一には自體相薫習、二には用薫習なり。
     自體相薫習とは、〔眞如は〕無始世(むしせ)より來(このかた)、無漏の法を具し、備(つぶさ)に不思議の業有っ
    て、境界の性と作(な)る。此の二義に依って、恒常(ごうじゃう)に薫習す。薫習力有るを以ての故に、能く衆生を
    して、生死の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)し、自ら己身に眞如法有りと信じ、發心修行せしむ。

 問曰若如是義者。一切衆生悉有眞如等皆薫習。云何有信無信無量前後差別。皆應一時自知有眞如法。勤修方便等入涅槃

     問うて曰はく、若し是くの如きの義ならば、一切の衆生は、悉(ことごと)く眞如有り、等しく皆薫習せん。云何ぞ、
    有信(うしん)、無信、無量前後の差別(しゃべつ)あるや。皆應(まさ)に、一時に自ら、眞如の法有りと知って、勤
    修(ごんしゅ)し、方便して、等しく涅槃に入るべし。

 答曰眞如本一而有無量無邊無明。從本己來自性差別厚薄不同故。過恒河沙等上。煩悩依無明起差別。我見愛染煩悩依無明起差。別如是一切煩悩依於無明 起前後無量差別。唯如來能知故。

     答へて曰はく、眞如は本(もと)一(いつ)なり。而も無量無邊の無明有りて、本(もと)より己來(このかた)、自性
    (しゃう)差別して厚薄(こうはく)同じからざるが故に、恒河沙(ごうがしゃ)等に過ぐる上煩悩は、無明に依って起こり、
    差別あり。我見・愛染(あいぜん)の煩悩は、無明に依って起こり、差別有り。是くの如く、一切の煩悩は、無明に 
    依って起こる所の前後無量の差別あり、唯如來のみ能く知るが故に。

 又諸佛法有因有緣。因緣具足乃得成辨。如木中火性是火正因。若無人知不假方便能自焼木無有是處。
 衆生亦爾。雖有正因薫習之力。若不遇諸佛菩薩善知識等。以之爲緣能自斷煩悩。入涅槃者則無是處若雖有外緣之力。而内浄法未有薫習力者。亦不能究竟厭生死苦樂求涅槃。
 若因緣具足者。所謂自有薫習之力。又爲諸佛菩薩等。慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃。修習善根。以修善根成熟故。則値諸佛菩薩。示敎利喜乃能進趣向涅槃道。

     又諸佛の法は、因有り緣有り、因と緣と具足して、乃(すなは)ち成辨(じゃうべん)することを得るなり。木(もく)中
    の火性(くわしゃう)は、是れ火の正因なるも、若し人の知ること無く、方便を假(か)らずんば、能く自ら木を焼くこと、
    無有是の處(ことわり)有ること無きが如し。
     衆生も亦爾(しか)り、正因薫習の力有りと雖も、若し諸佛、菩薩、善知識等に遇(あ)ひ、之を以て緣と爲さず
    んば、能く自ら煩悩を断じ、涅槃に入ることは、則ち是の處(ことわり)無し。外緣の力有りと雖も、而も内の浄法
    に未だ薫習の力有らずんば、亦究竟(くきゃう)して、生死(しゃうじ)の苦を厭(いと)ひ、涅槃を樂求(げうぐ)すること
    能(あた)はず。
     若し因と緣と具足する者は、所謂(いはゆる)、自ら薫習の力有り、又諸佛菩薩等の爲に、慈悲願護せらる。
    故に能く苦を厭(いと)ふの心を起し、涅槃有ることを信じ、善根を修習(しゅじふ)す。善根を修すること成熟(じゃう 
    じゅく)するを以ての故に、則ち諸佛菩薩に値(あ)ひ、示敎利喜(じけうりき)し、乃(すなは)ち能く進趣して、涅槃の
    道に向ふなり。

(´・(ェ)・`)b

318鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:09:25 ID:1d4drIFg0

 真如の薫習、つまり修業の実践にも二種あるというのじゃ。

 一つ目は自体相薫習なのじゃ。
 
 二つ目は用薫習なのじゃ。

 自体相薫習とは、真如ははじまりもない昔から、無漏の法をもっていて、不思議の業を備えており、境界の性となるのじゃ。
 この二つの意味で恒常に薫習するのじゃ。
 薫習力があるから、衆生に生死の苦をいとわしめ、涅槃を求めさせ、自ら真如法ありと信じて発心修業させることができるのじゃ。


 また聞いたのじゃ。
 もしこのようであるならば、一切の衆生はみんな真如があるはずなのじゃ。
 もしみんなよく実践修業するならば、法を信じたり、信じなかったり、無量の前後の差別があるのか。
 みんなまさに一時に真如の法ありと知るならば、実践に勤め、方便して涅槃に入るじゃろう。

 答えたのじゃ。
 真如はもとから一つであるのじゃ。
 しかし無量無辺の無明があり、もとよりこのかた自性差別して、厚薄が同じでないからなのじゃ。
 ガンジス川の砂より多い上煩悩は、無明によって起こり、差別あるものじゃ。
 我見、愛染の煩悩も無明によって差別在るのじゃ。
 このように一切の煩悩は無明によっおこる前後無量の差別が在るのじゃ。
 ただ如来だけがよく知ることが出来るのじゃ。

319避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:17:50 ID:feYdLU8s0
21.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号22)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 用薫習者即是衆生外緣之力。如是外緣有無量義。略説二種。
 云何爲二。一者差別緣。二者平等緣。
 差別緣者此人依於諸佛菩薩等。從初發意始求道時。乃至得佛於中若見若念。或爲眷属。父母諸親。或爲給使或爲知友。或爲怨家。或起四攝。乃至一切所作無量行緣以起大悲薫習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。

     用薫習とは卽ち是れ、衆生外緣(げえん)の力なり。是くの如き外緣に、無量の義有り。畧して説くに、二種有り。
     云何が二と爲す。一には差別緣、二には平等緣。
     差別緣とは、此の人は、諸佛菩薩等に依って、初發意(しょほつち)に始めて道(だう)を求むる時より、乃至佛道
    を得(う)るまで、中(うち)に於いて、若しくは見、若しくは念ず。或ひは、眷属、父母、諸親と爲り、或ひは給使(き 
    ふし)と爲り、或ひは知友(ちう)と爲り、或ひは怨家(をんけ)と爲り、或ひは四攝(しせふ)を起こし。乃至一切の所 
    作、無量の行緣は、大悲を起す薫習の力を以って、能く衆生をして、善根を増長し、若しくは見、若しくは聞き、 
    利益(りやく)を得せしむるが故に。

 此緣有二種云何爲二。一者近緣速得度故。二者遠緣久遠得度故。是近遠二緣分別復有二種。云何爲二一者増長行緣。二者受道緣。

      此の緣に二種有り。云何が二と爲す。一には近緣(ごんえん)。速(すみやか)に度する事を得(う)るが故に。二
     には遠緣(をんえん)。久遠(くをん)に度する事をえるが故に。是の遠近(をんごん)の二緣を分別するに、復(また) 
     二種有り。云何が二と爲す。一には増長行緣。二には受道緣。なり

(´・(ェ)・`)b

320鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/07(木) 22:18:38 ID:1d4drIFg0

 また諸仏の法は因があり、縁があり、因と絵がともなって成るものじゃ。
 木の中にある燃える性質は、火の正しい原因であるが、もし人が知らず方法を使わなければ木を燃やせないようなものじゃ。
 衆生もまた同じなのじゃ。
 正しい原因の薫習の力があっても、しも諸仏、菩薩、善智識などに会ってもこれを縁としなければ、自ら煩悩を断ち、涅槃に入ることは出来ないのじゃ。
 外の縁の力があっても、しかも内の浄法にまだ薫習の力がなければ、また生死の苦を厭い、涅槃を求めることもできないのじゃ。

 もし因と縁とを持つ者は、いわゆる薫習の力を自らもっているのじゃ。
 また諸仏菩薩等のために慈悲で守られるのじゃ。
 それゆえに苦を厭う心を起こし、涅槃が在ると神事、善根を習い修めるのじゃ。
 善根を修めることが成熟すれば、すぐに諸仏菩薩にもあえて、教えを受けて喜び、実践して涅槃の道に向かうのじゃ。

321避難民のマジレスさん:2022/04/07(木) 22:40:23 ID:sL4UV/Rg0
あっ!途中で割り込んでしまったであります。
ごめんなさい。
n(´・(ェ)・`)n

322鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:35:55 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 珍しいことじゃ。
 これもシンクロニシティじゃな。

323鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/08(金) 21:54:53 ID:1d4drIFg0

 用薫習とは衆生の外縁の力なのじゃ。
 このような外縁には無量の意義があるものじゃ。
 無量にあるものを略して説けば、二つになるのじゃ。

 一つ目は差別縁、

 二つ目は平等縁なのじゃ。

 差別縁とは、この縁を持つ者は諸仏菩薩に依って、初発意で道を求める時から、仏道を得るまで、
 中においてもしくは仏の身を見るか、あるいは功徳を念じるのじゃ。
 仏は或いは眷属となり、父母や親戚や召使や知友や恩人となるのじゃ。
 その者のために或いは四摂を実践したり、乃至は一切の所作、無量の行縁を以って大悲薫習の力を起こすのじゃ。
 そうすることで衆生のために善根を増長して、もしくは仏身を見させ、仏の声を聞かせて利益を得させるからなのじゃ。

 この縁にまた2種類在るのじゃ。

 一つ目は増長行縁なのじゃ。

 二つ目は受道縁なのじゃ。

324避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 00:03:21 ID:lmwiEF6E0
22.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号44-45)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

平等緣者。一切諸佛菩薩皆願度脱一切衆生。自然薫習常恒不捨。以同體智力故。随應見聞而現作業。所謂衆生依於三昧。乃得平等見諸佛故。
 此體用薫習。分別復有二種。云何爲二。
 一者未相應。謂凡夫二乘初發意菩薩等。以意意識薫習依信力故。而能修行。未得無分別心。與體相應故未得自在業修行與用相應故。

     平等緣とは、一切の諸佛菩薩は、皆一切の衆生を度脱せんと願ひ、自然(じねん)に薫習して 
    常恆(じゃうごう)に捨せず、同體の智力を以っての故に。應(まさ)に見聞(けんもん)すべきに 
    随って、作業(さごふ)を現ず。所謂(いはゆる)、衆生三昧に於て、乃ち平等に諸佛を見ること
    を得るが故に。
     此の體・用薫習を分別するに、復(また)二種有り。云何が二と爲す。
     一には未相應。謂はく、凡夫二乘初發意(しょほつち)の菩薩等は、意と意識との薫習を以っ 
    て、信力に依るが故に、而も能く修行すれども、未だ無分別心と、體と相應する事を得ざる   
    が故に。未だ自在業の修行、用(ゆう)と相應することを得ざるが故に。

 二者己相應、謂法身菩薩得無分別心。與諸佛自體相應得自在業與諸佛智用相應。唯依法力自然修行薫習眞如。滅無明故

     二には己相應。謂はく、法身の菩薩は、無分別心を得て、諸佛の自體と相應し、自在業を 
    得て、諸佛の智用(ちゆう)と相應す。唯法力に依って、自然に修業(しゅごふ)して眞如に薫習
    し、無明を滅するが故に

 復次染法。從無始巳來薫習不斷。乃至得佛後則有斷。浄法薫習則無有斷。盡於未來。此義云何。以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     復(また)次に染法は、無始より巳來(このかた)、薫習して斷ぜず。乃至、佛を得て後、則ち 
    斷ずること有り。浄法薫習は、則ち斷ずること有ること無く、未來を盡くす。

 此義云何。
 以眞如法常薫習故。妄心則滅法身顯現起用薫習故無用斷

     此の義云何(いかん)。
     眞如の法は、常に薫習するを以っての故に、妄心則ち滅すれば、法身顯現して用(ゆう)薫習 
    を起す。故に斷ずること有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

325鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/09(土) 21:24:32 ID:1d4drIFg0

 二つ目の平等縁とは、一切の諸仏は皆一切の衆生を解脱に導こうと願い、
 自然に薫習して常に永久に捨てることはないのじゃ。
 同体の智慧力をもってるからなのじゃ。

 まさに見聞きすべきことにしたがって、作業をあらわすのじゃ。
 いわゆる平等三昧によって即ち平等に諸仏をみることができるからなのじゃ。

 この本体と用を分別すれば、また二種あるのじゃ。

 一つ目は未相応なのじゃ。
 凡夫や二乗の者達や初発意の菩薩等は、意と意識との薫習をもっ信じる力で修業するのじゃ。
 それで修業はできるが、未だ無分別心と、体と相応することができないから未相応なのじゃ。
 さらにまだ自在業の修行、用とも相応じることもできないからなのじゃ。

 二つ目は己相応なのじゃ。
 法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在業を得て、諸仏の智慧の用と相応するからなのじゃ。
 ただ法力によって、自然に修業して真如に薫習して無明を滅するからなのじゃ。

 
 また次に染法は始まりもない昔から、薫習して断たれることがないのじゃ。
 仏陀になれば断ずることはあるのじゃ。
 浄法薫習は断じることはなく、未来永劫にありつづけるのじゃ。

 この意味とは、真如の法とは常に薫習するから妄心が滅すれば法身が顕現して用薫習を起こすのじゃ。
 その故に断絶することはないのじゃ。


 真如の法は時空を超えて永遠にあり続けるということじゃな。

326避難民のマジレスさん:2022/04/09(土) 22:09:20 ID:b1ygbnlI0
23.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号23-24)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-47)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第六 眞如ノ自體相―六義

 復次眞如自體相者。一切凡夫聲聞緣覺菩薩諸佛。無有増減非前際生。非後際滅。畢竟常恒。
 從本以來自性滿足一切功徳。  
 所謂自體有大智慧光明義故。徧照法界義故。眞實識知義故。自性清浄心義故。常樂我浄義故。清凉變自在義故。具足如是過於恒沙不離不斷不異不思議佛法。乃至滿足無有所少義故名爲如來藏。亦名如來法身

     復次に、眞如の自體相とは、一切の凡夫と聲聞(しゃうもん)と、緣覺と、菩薩と、諸佛とに 
    増減有ること無く、前際に生ずるに非ず、後(ご)際に減するに非ず。畢竟常恆(じゃうごう)な
    り。
     本より巳來(このかた)、自性(じしゃう)に一切の功徳を滿足す。
     所謂、自體に大智慧光明の義有るが故に、徧照法界の義の故に。眞實識知の義の故に。自 
    性清浄心の義の故に。常樂我浄の義の故に。清凉不變自在の義の故に。是くの如く恆沙(ごう 
    しゃ)に過ぎたる、不離・不斷・不異・不思議の佛法を具足し、乃至滿足して、少(か)くるる
    こと無き義の故に、名づけて如來藏と爲す。亦如來法身とも名づく

 問曰上説眞如其體平等離一切相云何復説體有如是種種功徳。

     問うて曰はく、眞如は其の體、平等にして、一切の相を離るると説く。云何ぞ復た、體に
    是くの如く、種種の功徳有りと説くや。

 答曰。雖實有此諸功徳義。而無差別之相。等同一昧唯一眞如

     答へて曰はく、實に此の諸(もろもろ)の功徳の義有りと雖も、而も差別(しゃべつ)の相無く、等同一昧にして、唯一眞如なり。

 此義云何。 
 以無分別離分別相是故無二。
 復以何義得説差別。
 以依業識生滅相示。
 此云何示
 以一切法本來唯心實無於念。而有妄心。不覺起念見諸境界故。説無明心性不起即是大智慧光明義故。
 若心起見則有不見之相。心性離見即是徧照法界義故。
 若心有動非眞識知。
 無有自性。非常非樂非我非浄
 熱悩衰變則不自在 
 乃至具有過恒沙等妄染之義。對此 義故。心性無動」則有過恒沙等諸浄功徳相義示現。
 若心有起更見前法可念者。則有所少。如是浄法無量功徳即是一心。更無所念。是故滿足名爲法身如來之藏。   
     此の義云何。 
     無分別は分別の相を離るるを以て、是の故に無二なり。
     復何の義を以て、差別を説くことを得(う)るや。
     業識(ごっしき)生滅の相に依って示す。
     此れ云何が示すや。
     一切の法は、本來唯心にして、實に念無し。而も妄心有りて、不覺にして念を起こし、諸 
    (もろもろ)の境界を見るを以ての故に、心性起らざれば、卽ち是れ大智慧光明の義の故に。
     若し心、見を起こせば、則ち不見の相有り。心性にして見を離るれば、卽ち徧照法界(へん 
    ぜうほっかい)の義の故に。
     若し心、動あれば、眞の識知に非ず。
     自性有ること無く、常に非ず、樂に非ず、我に非ず、浄に非ず。
     熱悩衰變(ねつなうすいへん)にして、則ち自在ならず。 
     乃至具(つぶさ)に、恆沙(ごうじゃ)に過ぐる等の、妄染の義有り。對此の義に対するが故
    に、心性、動無ければ、則ち過恒沙等の、諸の浄功徳の相の義、示現する有り。
     若し心、起こること有って、更に前法の念ずべきを見る者は、則ち少(か)くる所有り。是く 
    の如き浄法の無量の功徳は、卽ち是れ一心にして、更に念ずる所無し。是の故に滿足するを
    名づけて、法身如來の藏と爲す。
(´・(ェ)・`)b

327鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:57:24 ID:1d4drIFg0
また次に真如の自体相とは、一切の凡夫と声聞と縁覚と菩薩と、諸仏とに増減あることなく、
 以前に生じたのではなく、以後に減るのでもないのじゃ。
 時空を超えて永遠なのじゃ。

 もとよりこのかた自性は一切の功徳に満ち足りているのじゃ。
 いわゆる自体に大智慧光明の意義があるからなのじゃ。
 法界をあまねく照らすからなのじゃ。
 真実を識知するからなのじゃ。
 自性清浄心だからなのじゃ。
 常楽我浄だからなのじゃ。
 清涼で不変常在だからなのじゃ。
 
 このようにガンジス川の砂より多い、不離、不断、不異、不思議の仏法を具足して、ないしは満ち足りていて、かけるところがないからなのじゃ。
 名づけて如来蔵とするのじゃ。
 あるいは如来の法身とするのじゃ。

328鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/10(日) 21:58:01 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。

 真如はその本体が平等で、一切の相を離れると聞いたのじゃ。
 しかしそれならばその本体に、そのようないろいろな功徳があると説いているのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは実にいろいろな功徳があるといっても、そこには差別の相はなく、等同一味にして、唯一真如であるからなのじゃ。

 その意味とは、
 無分別は分別の相を離れるから無二なのじゃ。
 そうであればさらに差別を説くことはないのじゃ。
 業識生滅の相に依って示すだけなのじゃ。

 どのように示すかというと、

 一切の法は本来ただ心だけであり、実に観念はないのじゃ。
 それなのに妄心があって不覚であるから、観念を起こし、いろいろな境界を見るから無明と説いているのじゃ。

 心性が起こらなければ、即ち大智慧光明が起こるのじゃ。

 もし心が見るという観念を起こせば、見ないという観念も起こるのじゃ。
 心性が見を離れれば、法界を遍く照らすのじゃ。

 もし心に動じることがあれば、真の識知ではないのじゃ。
 それでは自性がなく、常ではなく、楽ではなく、我ではなく、浄でもないのじゃ。
 熱脳衰変であり、自在ではないのじゃ。
 さらにいろいろなガンジス川の砂より多い妄想に染まるのじゃ。

 この意味に対して、心性が動じなければ、すなわちガンジス川の砂より多いいろいろな清浄な功徳の相が現われるのじゃ。
 
 もし心が起こってさらに現前する法の観念があると見るものはまだ欠けているのじゃ。
 このような清浄な法の無量の功徳は、すなわち一心、つまり真如であるから観念もないのじゃ。
 この故に、満ち足りていることを、名づけて法身如来の蔵とするのじゃ。
 如来蔵じゃな。

329避難民のマジレスさん:2022/04/10(日) 23:48:38 ID:JBVywH4Y0
24.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号25-26)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号46-48)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第七 眞如ノ用
     
 復次眞如用者。所謂諸佛如來。本在因地發大慈悲。修諸波羅蜜。攝化衆生。立大誓願。盡欲度脱等衆生界。亦不限劫數盡於未來。以取一切衆生如巳身故。而亦不取衆生相。此以何義
 謂如實知一切衆生。及與巳身。眞如平等無別異故。
 以有如是大方便智。除滅無明見本法身。自然而有不思議業種種之用。即與眞如等徧一切處。又亦無有用相可得。
 何以故
 謂諸佛如來唯是法身智相之身。第一義諦無有世諦境界。離於施作。但随衆生見聞得益故説爲用

     復次に眞如の用(ゆう)とは、所謂、諸佛如來、本因地に在って、大慈悲を發(おこ)し、諸の
    波羅蜜を修し、衆生攝化(せふけ)す。大誓願を立て、等しく衆生界を度脱せんと欲し、亦劫數 
    (ごふしゅ)を限らず、未來を盡くす。一切衆生を取ること、巳身の如くなるを以ての故に、而
    も亦衆生の相を取らず。此れ何の義を以てぞ。
     謂はく、實に一切衆生と及び巳身とは、眞如平等にして、別異無しと知るが故なり。
     是くの如き大方便、智有るを以て、無明を除滅して、本法身(ほっしん)を見るに、自然にし
    て不思議の業。種種の用有り、卽ち眞如と等しく、一切處に徧ず。又亦用(ゆう)相の得(う)べ
    き有ること無し。
     何を以っての故に。
     謂はく、諸佛如來は、唯是れ法身智相の身(しん)、第一義諦(たい)にして、世諦の境界有る
    こと無く、施作(せさ)を離る。但衆生の、見聞(けんもん)して益(やく)を得(う)るに随ふが故 
    に、説いて用(ゆう)と爲す。 
    
 此用有二種云何爲二。
 一者依分別事識。凡夫二乘心所見者名爲應身。
 以不知轉識現故。見從外來取色分齊。不能盡知故

     此の用に二種有り。云何が二戸爲す。
     一には、分別事識に依る。凡夫・二乘の心の所見は、名づけて應身(じん)と爲す。
     轉識の現〔ずる所〕なるを知らざるを以ての故に、外(げ)より來ると見、色の分齊(ざい)を 
    取り、盡く知ること能はざるが故に。

 二者依於業識。謂諸菩薩從初發意。乃至菩薩究竟地心所見者。名爲報身。
 身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種荘嚴。随所示現即無有邊。不可窮盡。離分齊相。随其所應。常能住持。不毀不失
 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身

     二には、業識に依る。謂はく、諸の菩薩、初護意より、乃至菩薩究竟地(くきゃうぢ)の心の 
    所見を、名づけて報身と爲す。
     身に無量の色有り、色に無量の相有り、相に無量の好有り。所住の依果も、亦無量種種の
    荘嚴(しゃうごん)有り、示現する所に随って、卽ち邊有ること無く、窮盡(ぐうじん)すべから 
    ず、分齊の相を離る。〔而かも〕其の所應に随って、常に能く住持して、毀(き)せず、失せず。

 如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行薫。及不思議薫之所成就。具足無量樂相故説説爲報身
 
     是くの如きの功徳は、皆諸の波羅蜜等の、無漏行薫と、及び不思議薫との、成就する所に 
    因って、無量の樂相を具足す。故に説いて報身と爲す。

(´・(ェ)・`)b

330避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 16:55:35 ID:wAVU2rfc0
鬼和尚、くまさん失礼します。
購読ゼミのスレのパパジとの対話と解説、お疲れさまでした。
次の予定が入っていなければ、以前途中で中断していたラマナ・マハルシとの対話を
そちらのスレをお借りして再開してもよろしいでしょうか?
もしOKでしたら明日から掲載していこうと思っています。

331鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:17:31 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 どんどんするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

332鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:34:55 ID:1d4drIFg0

 また次に真如の用とは、いわゆる諸仏、如来達は本因地にあって、大慈悲を起こし、
 諸々の波羅蜜を修め、衆生を集めて解脱させるのじゃ。

 大誓願をたてて、等しく衆生界を度脱しようとして、年月を限らず、未来永劫に実践するのじゃ。
 一切衆生を見ること、己の身と同じと見るからなのじゃ。
 しかもまたそれは衆生があるという観念がないのじゃ。

 これはどのような意味であるか。
 いわく、実に一切衆生と自分の身とは真如平等であり、別とか異なることはないと知っているからなのじゃ。
 
 このような大方便、智恵あるから無明を除き滅して、本法身をみると自然にして不思議の業にいろいろな用があるのじゃ。
 すなわち真如と等しく、全ての場所に遍く現われるのじゃ。
 またまたそれであっても観念はないのじゃ。

 なぜであるかといえば、

 諸仏如来はただこれ法身智相の身であり、第一の真理であり、世間のことわりでの境界はなく、俗世の用を離れているのじゃ。
 ただ衆生が見聞きして利益を得られるようにするために、法を説いて利用させるのじゃ。

333鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/11(月) 23:50:18 ID:1d4drIFg0

 この用にも二種在るのじゃ。

 一つ目は分別事識によるものじゃ。
 凡夫や二乗の心の所見は、名づけて応身とするのじゃ。
 仏の身を転識の表れであることを知らないから、外より来たと見るのじゃ。
 肉体の差別に囚われて、仏の智恵を全て知ることが出来ないのじゃ。

 二つ目は業識によるものじゃ。

 諸々の菩薩は初発意から究境地の心の所見を報身とするのじゃ。
 身には無量の色があり、色にも無量の相があり、相にも無量の好みが在るのじゃ。
 
 住む所もまた無量の飾りが在るのじゃ。
 現われた所にしたがって、辺もなく究めつくすこともできず、境界も無いのじゃ。
 しかもその所に応じて、常によく保って、壊れも失くしもしないのじゃ。
 
 このような功徳は皆もろもろの波羅蜜等の無漏の修行の実践と、不思議なる実践が
 成就したことに因って、無量の安楽のありさまを具えたのじゃ。
 ゆえに説いて報身とするのじゃ。

334避難民のマジレスさん:2022/04/11(月) 23:59:45 ID:ysLco47U0
25.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号26-27)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号48-49)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した 

 又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

     又爲凡夫所見者。是其麁色随於六道。各見不同種種異類非受樂相故爲應身。

 復次初發意菩薩等所見者以深く信眞如法故少分而見。知彼色相荘嚴等事無來無去離分齊。唯依心現不離眞如然。此菩薩猶自分別以未入法身位故。若得浄心所見微妙其用轉勝乃至菩薩地盡見之究竟若離業識則無見相以諸佛法身無有彼此色相迭相見故。


     復次に初發意(しょほっち)の菩薩等の所見は、深く眞如の法を信ずるを以ての故に、少分に 
    して見る。彼(か)の色相荘嚴等の事は、來無く去(こ)無く、分齊を離れ、唯心に依って現じて、    眞如を離れずと知る。然れども此の菩薩は、猶ほ自ら分別し、未だ法身(ほっしん)の位(くら  
    ゐ)に入らざるを以ての故に、若し浄心を得れば、所見は微妙(もめう)にして、其の用(ゆう)
    轉(うた)た勝(まさ)れり。乃至菩薩地盡くれば、之を見ること究竟(くきゃう)す。若し業識を 
    離るれば、卽ち見相無し。諸佛の法身(ほっしん)は、彼此(ひし)の色相迭(たがひ)に相(あひ) 
    見ることあること無きを以ての故に。

 問曰若諸佛法身離於色相云何能現色相
 
     問うて曰はく、若し諸佛の法身、色相を離るれば(るといはば)、云何ぞ能く色相を現や。

 答曰 此法身是色體故能現於色所謂從本巳來色心不二以色性即智故色體無形説名智身。以智性即色。故説名法身徧一切處現之色無有分齊随心能示十方世界無量菩薩無量報身無量荘嚴各各差別皆無分齊而不相妨此非心識分別能知以眞如自在用義故
  
     答へて曰はく、卽ち是れ法身(ほっしん)は、是れ色の體なるが故に、能くを現ず。所謂、 
    本より巳來(このかた)、色心不二なり。色性は卽ち智なるを以ての故に、色體形無きを、説い 
    て智身と名づく。智性卽ち色なるを以ての故に、説いて、法身は一切當(まさ)に徧ずると名づ 
    く。所現の色に分齊有ること無く、心に随って、能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、 
    無量の荘嚴(しゃうごん)、各各差別して、皆分齊無くして相妨(さまた)げず。此れ心識分別の 
    能く知る〔所に)非ず。眞如自在の用の義なるを以ての故に。
  
  (´・(ェ)・`)b

335避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 00:04:09 ID:ysLco47U0
>>330
n(´・(ェ)・`)n
わくてかであります。
よろしくお願いします。

336避難民のマジレスさん:2022/04/12(火) 08:48:30 ID:s83mPz9Y0
>>331
>>335
ありがとうございます。
それではよろしくお願いしますm(__)m

337鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:31:42 ID:1d4drIFg0

 また凡夫がみるものは眼耳鼻舌身意とか色声臭味触法等なのじゃ。
 六道輪廻の生まれにしたがっておのおのが見ることは同じではないのじゃ。
 いろいろな異類は涅槃常楽の相ではないから故に応身とするのじゃ。

 また次に初発意の菩薩等の所見は、深く真如の法を信じるだけであるから、少なくみるだけなのじゃ。
 色相の飾りなどは 来ることはなく、去ることもなく、観念を離れて、ただ心によって現われて真如から離れたものではないとしるのじゃ。
 しかしこのような菩薩はまだ分別があり、まだ法身の位に入っていないのじゃ。

 もし清浄な心を得れば、見るところは微妙になり、その用は大変にすぐれたものになるのじゃ。
 さらに菩薩の境地も終われば、真如を究竟的に見られるのじゃ。
 もし業識を離れれば、すなわち見る相もないのじゃ。
 諸仏の法身はかれこれの、身体の相好などを互いに見ることなどはないからなのじゃ。

338鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 00:40:22 ID:1d4drIFg0

 また聞いたのじゃ。
 もし諸仏の法身が身体の相好などを離れているならば、どのようにして見ればよいのかと。

 答えたのじゃ。
 法身とは肉体の本体であるから現れることができるものなのじゃ。
 いわゆるもとよりこのかた色心不二であるからなのじゃ。
 肉体の本性は即ち智恵であるから、身体の形がないことを智恵の身と名づけるのじゃ。
 智恵の本性は身体であるから、法身は全てに遍満していると説いているのじゃ。
 
 心に従って十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の飾り、おのおのが差別して、なおまた皆分際がなくてもお互いにその働きを妨げないように出来るのじゃ。
 これは心の認識や思考分別によって知ることが出来ないものなのじゃ。
 真如の自在の効用の意義であるからなのじゃ。

339避難民のマジレスさん:2022/04/13(水) 06:41:59 ID:7I2EyRWQ0

26.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号27-28)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号49-50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲第八 生滅門ヨリ眞如門ニ入ル

 復次顯示從生滅門即入眞如門所謂推求五陰色之與心六塵境界畢竟無念。以心無形相。十万求之終不可得。
 如人迷故謂東爲西方實不轉衆生亦爾。無明迷故謂心爲念心實不動。若能觀察知心無念。即得随順入眞如門故 

     復(また)次に、生滅門より眞如門に入ることを顯示す。所謂(いはゆる)、五陰を(すゐぐ)す 
    るに、色と心とになり。六塵の境界、畢竟じて念無し。心に形相(ぎゃうさう)無く、十方 
    (じっぱう)に之を求むるに、終(つひ)に不可得なるを以てなり。
     人の迷ふが故に、東を謂って西と爲すも、方は實に轉ぜざるが如し。衆生も亦爾(しか)り。 
    無明の迷(めい)の故に、心を謂って念と爲すも、心は實に動ぜず。若し能く觀察して、心は無
    念なりと知れば、卽ち随順して、眞如門に入ることを得るが故に。 

●解釈分第二 對冶邪執

 對冶邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。是我見有二種
 云何爲二。一者人我見。二者法我見。

     對冶邪執とは、一切の邪執は、皆我見に依る。若し我を離るれば、則ち邪執無し。我見に 
    二種有り。
     云何が二と爲す。一には人我見、二には法我見。

 人我見者依諸凡夫説 五有種云何爲五

     人我見とは、諸の凡夫に依って、説に五種有り。云何が五と爲す。

○一者聞修多羅説如來法身畢竟寂寞。猶如虚空。以不知爲破着故。卽謂虚空是如來性云何對冶。明虚空相是其妄法。體無不實。以對色故。有是可見相。令心生滅。以一切色法。本來是心。實無外色。若無色者。則無虚空相所謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故
 
     一に、修多羅(しゅたら)に「如來の法身(ほっしん)は、畢竟寂寞(じゃくまく)なること、猶ほ 
    虚空の如し。」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破せん爲なるを知らざるを以ての故に、卽ち虚空 
    は是れ如來の性なりと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。虚空の相は、是れ其の妄法、體無にして實ならざるを明す。色に対す
    るを以ての故に、是の可見の相有って、心をして生滅せしむ。一切の色法は、本來是れ心ん 
    なるを以て、實に外(げ)色無し。若し色無ければ、則ち虚空の相無し。所謂一切の境界は、唯 
    心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心に 
    して、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故 
    に。

(´・(ェ)・`)b

340鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:41:30 ID:1d4drIFg0

 また次に生滅門から真如門に入ることを示すのじゃ。
 いわゆる身体の五つの要素を求めれば、肉体と心になるのじゃ。
 六塵の境界はつまるところ観念はないのじゃ。
 心にも形や特徴はなく、十方に求めて得られないのじゃ。
 
 人が迷って東を西といったりしても、方角は変化したりしないようなものじゃ。
 衆生も同じなのじゃ。
 無明の迷いがあるから、心に観念が在ると思うのじゃ。
 
 しかし実際には心は動じることはなく、もしよく観察して心は観念がないと気付けば、
 すなわち直ぐにも真如門に入れるのじゃ。

341鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/13(水) 23:58:24 ID:1d4drIFg0

 退治邪執なのじゃ。
 邪な執着を退治する教えなのじゃ。

 一切の邪執はみんな我見によるのじゃ。
 もし我を離れれば、すなわち我執もないのじゃ。
 
 その我見にも二種あるのじゃ。

 一つ目は人我見なのじゃ。

 二つ目は法我見なのじゃ。

 人我見とは、もろもろの凡夫によって五種あるのじゃ。

 一つ目は、経典に「如来の法身は、畢竟寂寞なること虚空の如し」
 と、説いているのを聞いて、それが執着をなくすための方便であることを知らず、
 すなわち虚空が如来の本性であると思うことなのじゃ。

 どのように退治すべきか。
 虚空の相は 妄想であり本体がないことを明かすのじゃ。
 肉体に対するものとして説かれただけであり、これを見るべきものがあるとして心を滅するための方便なのじゃ。
 一切の身体のありようは、ただ心によってあるものであり、心の外に肉体は無いのじゃ。
 
 もし身体がなければ、すなわち虚空にもなんの観念もないのじゃ。
 いわゆる一切の境界はただ妄想で起こるからあると思うのじゃ。
 もし心が妄想による動揺を離れれば、一切の境界も滅するのじゃ。
 唯一の真如の心があまねくあるだけなのじゃ。

 これを如来の広大なる性智究極の境地というのじゃ。
 虚空の相のような観念ではないのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2022/04/14(木) 00:04:26 ID:f1WT1MX60
27.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号28-29)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○二者聞修多羅説世間諸法畢竟體空乃至涅槃眞如之法亦畢竟空本來自空離一切相以不知爲破着故即謂眞如涅槃之性唯是空
 云何對冶明眞如法身自體不空具足無量性功徳故

     二に、修多羅に、「世間の諸法は、畢竟體空なり、乃至涅槃・眞如の法も、亦畢竟空なり。
    本來自空にして一切の相を離る」と説くを聞き、著(ぢゃく)を破する爲と知らざるを以ての故 
    に、卽ち眞如涅槃の性は唯是れ空なりと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。眞如法身は、自體不空にして、無量の性功徳を具足すると明かすが故 
    に。

○三者聞修多羅。説如來之藏。無有増減體備一切功徳之法。以不解故。即謂如來之藏。有色心法自性差別
 云何對冶以唯依眞如義説故。因生滅染義。示現説差別故。

     三に、修多羅に、「如來の藏は、増減有ること無く、體に一切功徳の法を備ふ」と説くを聞 
    き、解(げ)せざるを以ての故に、卽ち如來の藏は、色心の法の自相差別有りと謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。唯眞如の義に依って説くを以ての故に。生滅染の義に因って、示現す 
    るを、差別と説くが故に。

○四者聞修多羅。説一切世間生死染法。皆依如來藏而有一切諸法不離眞如。以下解故。謂如來藏自體具有一切世間生死等法。云何對冶。依如來藏從本己來。唯有過恒沙等諸浄功徳不離不斷不異眞如義故。以過恒沙等諸煩悩染法。唯是妄有性自本無。從無始世來未曾與如來藏相應故。若如來藏體有妄法。而使 曾永息妄者。則無有是處。

     四に、修多羅に、「一切の世間生死の染法は、皆如來藏に依ってり、一切の諸法は、眞如を
    離れず」と説くを聞き、解せざるを以ての故に、如來藏自體に、一切世間の生死等の法を具有 
    すると謂(おも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は、本より巳來(このかた)、唯過恆沙(ごうじゃ)等の諸の浄功徳 
    の、不離・不斷・不異の眞如の義有るを以ての故に、過恒沙等の、煩悩の染法は、唯是れ妄 
    有(まうう)にして、性自(おのづか)ら本(もと)無なり。無始世(せ)より來(このかた)、未だ曾 
    (かつ)て如來藏と相應せざる以ての故に。若し如來藏の體に妄法有って、而も證曾(しょう 
    ゑ)して永く妄を息(や)めしめば(しむといはば)、則ち是の處(ことわり)有ること無し。

(´・(ェ)・`)b

343鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 00:31:44 ID:1d4drIFg0

 二つ目は経典に「世間のもろもろの法はみんな空である。
 涅槃や真如の法もまたつまるところ空である。本来自ら空であり一切の相を離れている」
 と、説いているのを聞いて、それが執着を破るためと知らずに、真如、涅槃の本性も空と思うことなのじゃ。

 これを退治するには、真如法身は自体、不空にして、無量の本性の功徳があると説くことじゃ。

 三つ目は経典に「如来蔵は、増減あることなく、本体に一切功徳の法を備えている」
 と、説いているのを聞いて理解できず、如来蔵は心身の法の自相に差別ありと思うこと無しの゛ゃ。

 これを退治するには、ただ真如の本当の意味を説くことじゃ。
 生滅染の義に因って現われることが差別と説くのじゃ。

 四つ目は経典に「一切の世間生死の染法は、皆如来蔵に依る。
 一切の諸法は真如を離れず」
 と、説いているのを聞き、理解できずに、如来蔵自体に、一切世間の生死等の法を具え持つと思うことじゃ。

 これを退治するには、如来蔵はもとよりこのかた、ただガンジス川の砂より多いもろもろの清浄な功徳の不離・不斷・不異の眞如の意義が在ると説くことじゃ。
 ガンジス川の砂より多い煩悩の染法は、ただこれ妄想であると思われているだけで、その本性は自ずからもともと無なのじゃ。
 始まりもない昔から今まで、煩悩の染法は未だかつて如来蔵と相応じたことはないのじゃ。
 もし如来蔵の本体に妄想の法があって、それを消して永く続いている妄想をやめさせようとするならば、この理がないと説くのじゃ。

344避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 08:11:57 ID:LnLW7KMw0
28.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号29-30)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号50-51)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○五者聞修多羅。説依如來藏故有生死依如來藏故。得涅槃。以不解故謂衆生有始以見始故。復謂如來所得涅槃有其終盡還作衆生。
 云何對冶。以如來藏無前際故。無明之相亦無有始。若説三界外更有衆生。始起者即是外道經説。又如來藏無有後際。諸佛所得涅槃與之相應則無後際故。

     五に、修多羅に、「如來藏に依るが故に生死有り、如來藏に依るが故に涅槃を得(う)」と説く 
    を聞き、解せざるを以ての故に、衆生に始有りと謂へり。始を見るを以ての故に、復(また)如 
    來所得の涅槃は、其の終盡(じうじん)有って、還って衆生と作(な)るっと謂(をも)へり。
     云何が對冶するや。如來藏は前際無きを以ての故に、無明の相も亦始有ること無し。若し 
    三界の外(ほか)、更に衆生有って、始めて起ると説かば、卽ち是れ外道經の説なり。又如來藏
    は、後際(ごさい)有ること無く、諸佛所得の涅槃も之と相應して、則ち後際無きが故に。

 法我見者。二乘鈍根故如來但爲説人無我。以説不究竟。見有五陰*生滅之法。怖畏生死妄取涅槃。
 云何對冶。以五陰法自性不生。則無有滅本來涅槃故。

     法我見とは、二乘の鈍根に依るが故に如來は、但爲めに、人無我(にんむが)と説く(きたま
    ふ)。説、不究竟(くきゃう)せざるを以て、五陰(ごおん)*生死の法有りと見て、生死を怖畏し、    妄(みだり)に涅槃を取る。
     云何が對冶するや。五陰の法は、自性不生なるを以て、則ち滅有ること無し。本來涅槃な
    るが故に。

○復次究竟離妄執者。當知染法浄法皆悉相待無有。自相可説。是故一切法從本巳來非色非心。非智非識。非有非無畢竟不可説相。
 而有言説者當知如來善巧方便。假以言説引導衆生。其旨趣皆爲離念歸於眞如。以念一切法。令心生滅不入實知故。

     復(また)次に、究竟(くきゃう)して妄執を離るとは、當(まさ)に知るべし、染法・浄法・皆  
    悉(ことごと)く相待して、自相の説くべき有ること無し。是の故に、一切の法は、本より巳來 
    (このかた)、色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ず。畢竟じて不可
    説の相なり。
     而も言説有るは、當(まさ)に知るべし、如來の善巧方便、假(かり)に言説を以て衆生を引導 
    す。其の旨趣は、皆念を離れて眞如に歸せしめんが爲なり。一切の法を念ずれば、心をして 
    生滅して、實知に入らざらしむるを以ての故に。

(´・(ェ)・`)b

345鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:42:48 ID:1d4drIFg0

 五つ目は経典に「如来蔵に依って生死あり、如来蔵に依って涅槃を得る」
 と、説いているのを聞いて、理解できずに衆生に始まりが在ると思うことじゃ。
 衆生に始まりがあるから、如来が得る涅槃も終わりがあって、また還って衆生となると思うのじゃ。
 
 どのように退治すべきか。
 如来蔵は過去の限界がなく、無明の相もまた始めがないと説くのじゃ。
 もし三界の外に更に衆生があって、始めて起こると説くならば外道の説なのじゃ。
 また如来蔵には時間に縛られたものではないから永遠であり、諸仏の得た涅槃もまた永遠なのじゃ。

346鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/15(金) 21:53:20 ID:1d4drIFg0

 法我見とは二乗の鈍根によるが故に、如来は人無我と説いたのじゃ。
 その説を究めていないから、五陰、生死の法があると見て、生死を恐れて妄りに涅槃をとるのじゃ。

 どのように退治するのか。
 五陰の法は自性不生であって滅もないのじゃ。
 本来涅槃であるからなのじゃ。

 また次に究竟して妄執を離れるとは、染法・浄法は皆ことごとくもって、しかも自相の説くべきことが無いとしるのじゃ。
 このゆえに一切の法は、もとよりこのかた色に非ず、心に非ず、智に非ず、識に非ず。有に非ず、無に非ずなのじゃ。
 つまり説くことができない相なのじゃ。

 それでも言説によって教えるのは、如来の巧みな方便であると知るべきなのじゃ。
 仮に言説で衆生を導いているだけなのじゃ。
 その趣旨はみんな観念を離れて、真如に還らせるためなのじゃ。
 一切の法を念じれば、心を生滅して、実際の智恵に入れるからなのじゃ。

347避難民のマジレスさん:2022/04/15(金) 22:34:18 ID:2AWfcS4w0

29.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号30-31)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号52)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

▲解釋分第三 分別發趣道相  

 分別發趣道相者謂一切諸佛諸所證道。一切の菩薩發心修行趣向義故
 略説發心有三種云何爲三。
 一者信成就發心。
 二者解行發心。
 三者證發心。

    分別發趣道相者謂う一切の諸佛諸證の道に、一切の菩薩發心修行して趣向する義の故に。
    略して發心を説くに、三種有り。云何が三と爲す。
    一には信成就發心。
    二には解行(げぎゃう)發心。
    三には證發心。

信成就發心者。依何等人。修何等行。得信成就堪能發心。

     信成就發心とは、何等(ら)の人に依り、何等の行を執し、信成就することを得て、能く發心 
    に堪ふるや。

 所謂依不定聚衆生。有薫習善根力故。信業果報。能起十善。厭生死苦。欲求無上菩薩。得値諸佛。親承供養。修行信心。經一萬劫。信心成就故。諸佛菩薩敎令發心。或以大悲故能自發心。或因正法欲滅。以護法因緣故能自發心。如是信心成就得發心者。入正定聚。畢竟不退。名住如來種中。正因相應。

     所謂、不定聚(ふじゃうじゅ)の衆生に依る。薫習と善根力と有るが故に、業の果報を信じ、 
    能く十善を起こし、生死(しょうじ)の苦厭(いと)ひ、無上菩薩を欲求(よくぐ)し、諸佛に値 
    (あ)ふることを得て、親承し供養(くやう)して、信心を修行す。一萬劫を經て、信心成就する
    が故に、諸佛菩薩、敎へて發心せしめ、或ひは大悲を以ての故に、能く自(みづか)ら發心し、 
    或は正法を滅せんと欲するに因って、護法の因緣を以ての故に、能く自ら發心す。是くの如
    く信心成就して發心を得(う)る者は、正定聚(じゅ)に入りて、畢竟じて退かざれば、如來の種
    中(しゅぢう)に住し、正因相應すと名づく。

 若有衆生善根微少。久遠巳來。煩悩深厚雖値於佛。亦得供養。然起人天種子。或起二乘種子。設有求大乘者。根則不定。若進若退。或有供養諸佛。未經一萬劫。於中遇緣亦有發心。所謂見佛色相而發其心。或因供養衆僧。而發其心。或因二乘之人敎令發心。或學他發心。如是等發心悉皆不定遇悪因緣
或便退失堕二乘地。

     若し衆生有って、善根微少(みせう)にして、久遠より巳來(このかた)、煩悩深厚(じんこう) 
    なれば、佛に値(あ)ひて亦供養することを得と雖も、然も人天(にんてん)の種子(しゅじ)を起 
    こし、或は二乘の種子を起こす。設(たと)ひ大乘を求むるものあるも、根(こん)則ち不定にし 
    て、若しは進み若しは退く。或ひは諸佛を供養すること有るも、未だ一萬劫を經ず。中(うち)
    に於て緣に遇ふて、亦發心すること有り。所謂、佛の色相を見て、其の心を發(おこ)し、或は 
    衆僧を供養することに依って、其の心を發(おこ)し、或ひは二乘の人の敎令(けうりゃう)に 
    因って發心し、或は他を學びて發心す。是の如き等の發心は悉(ことごと)く皆不定にして、遇
    悪因緣に遇はば、或は便(すなは)ち退失して、二乘地(ぢ)に堕す。

(´・(ェ)・`)b

348鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 00:58:04 ID:1d4drIFg0

 一切の諸仏が証明した發趣道相の者を分別して説くのじゃ。
 一切の菩薩が発心し、修行の役に立つように、略して説くのじゃ。
 
 その発心にも三種あるのじゃ。
 その三つとは、

 一つ目が信成就発心なのじゃ。

 二つ目は解行発心なのじゃ。

 三つ目は證発心なのじゃ。

 一つ目の信成就発心の者はどのような人に依り、どのような修行をして、信成就を得て、発心に堪えるのか。

 いわゆる不定聚の者、聖人でもなく悪人でもない人の発心なのじゃ。
 薫習と善根力とが有るから、善の果報を信じて十善を実践して、生死の苦を厭い、無上の菩薩を欲求して、諸仏にあって親しく供養して信心修行するのじゃ。
 一万劫も修行して信心が成就するから、諸仏菩薩は教えて発心させるのじゃ。
 或いは大きな悲しみの故に自ら発心するとか、正法を滅する者から法を守るために自ら発心するのじゃ。

 このように信心成就して発心する者は、不定聚から正定聚の不退転の菩薩になるのじゃ。
 さらに修行して進歩すれば、如来になる予定の者ともなるのじゃ。

349鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 01:05:08 ID:1d4drIFg0

 もし衆生が善根がすくなく、遠い昔から煩悩が厚ければ、仏にあって供養しても、人や天人になるか、二乗のものになるのじゃ。
 たとえ大乗を求める者があっても、根性が不定であるから修行も進んだり退いたりするのじゃ。
 あるいは諸仏を供養しても、まだ一万劫にもならないのじゃ。
 
 修行するうちに縁があってまた発心することもあるのじゃ。
 いわゆる仏の身体をみて発心するとか、僧侶を供養することで発心するとか、あるいは二乗の人に教えられて発心すると、他の教えで発心するとかなのじゃ。
 このような発心は、ことごとくみんな不定であり、たまたま悪因縁にあえば、大乗から退いて二乗になるのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2022/04/17(日) 05:50:20 ID:FI52RlnM0
30.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号31-32)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 復次信成就發心者。發何等心。 略説三種。云何爲三。
 一者直心。正念眞如法故。
 二者深心。樂集一切諸善行故。
 三者大悲心。欲抜一切衆生苦故。

     復(また)次に、信成就發心とは、何等の心を發(おこ)すや。 略して説くに三種有り。云何
    が三と爲す。
     一には直心(ぢきしん)。正しく眞如の法を念ずるが故に。
     二には深心(じんしん)。一切諸の善行を樂集(げうじふ)するが故に。
     三には大悲心。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故に。

 問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

     問曰上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行

答曰譬如大摩尼寶。體性明浄。而有鑛穢之垢。若人雖念寶性。不以方便種種磨治。終無得浄。如是衆生。眞如之法。體性空浄。而有無量煩悩染垢。若人雖念眞如。不以方便種種薫修。亦無得浄。以垢無量無邊徧一切法故。修一切善行。以爲對治。若人修行一切善法。自然歸順眞如法。故
畧説方便有四種。云何爲四。

     答へて曰はく、大摩尼寶の、體性は明浄なるも、而も鑛穢(くわうゑ)の垢(く)有り。若し人 
    寶性を念ずると雖も、方便を以て種種磨治(まぢ)せずんば、終に無浄を得(う)ること無きが如
    し。是くの如く、衆生の眞如の法も、體性は空浄なるも、而も無量の煩悩染垢(ぜんく)有り。
    若し人、眞如を念ずると雖も、方便を以て、種種薫修せずんば、亦浄を得ること無し。垢(く) 
    は無量無邊にして、一切の法に徧ずるを以ての故に、一切の善行を修して、以て對法と爲す。
    若し人、一切の善法を修行せば、自然に眞如の法に歸順するが故に。
     略して方便を説くに四(し)種有り。云何が四(し)と爲す。
(´・(ェ)・`)b

351鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/17(日) 23:58:42 ID:1d4drIFg0

 また次に信成就発心とは、どのような心を発するのかというのじゃ。
 略説して三種あるというのじゃ。

 一つ目は直心なのじゃ。
 正しく真如の法を念じる心なのじゃ。

 二つ目は深心なのじゃ。
 一切のいろいろな善行を実践するのじゃ。

 三つ目は大悲心なのじゃ。
 一切衆生の苦をなくすそうとする心なのじゃ。

 ここでまた聞いたのじゃ。

 上記に法界は一相であり、仏体は無二と説いているのじゃ。
 なぜただ真如を念じるのではなく、またいろいろな善行を求め学ぶべきなのか。

352鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 00:07:04 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 例えばでかい宝石の原石が本体は明るく清浄でも、まわりに石の滓とかがついていたとするのじゃ。
 もし人がその宝石の本来の性質を知っていても、いろいろな方法で磨かなかったら清浄にはならないようなものじゃ。

 このように衆生の真如の法も、体性は空で清浄であっても、無量の煩悩に染められた垢が在るのじゃ。
 そのような人が真如だけを念じても、方便でいろいろに薫修しなければ、清浄にはなれないのじ゜ゃ。
 そのような垢は無量無辺であり、一切の法にも遍くあるので、一切の善行を実践して対処するべきなのじゃ。
 もし人が一切の善法を実践すれば、自然に真如の法にも帰順することになるのじゃ。
 
 そのような方便を略して説けば、四種在るのじゃ。
 その四つとは。

353避難民のマジレスさん:2022/04/18(月) 02:27:07 ID:ETadziFU0
31.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号32-33)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号53-54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○一者行根本方便 謂觀一切法自性無生。離於妄見。不住生死。觀一切法。因緣和合業果不失起於大悲。修諸福徳。攝化衆生不住涅槃以随順法性無住故。

     一には行根本方便。謂はく、一切の法は、自性無生と觀じ、妄見を離れて、生死に住せず。    一切の法、因と緣と和合し、業果失(う)せずと觀じ、大悲を起こし、諸の福徳を修し、衆生を
    攝化(せっけ)して、涅槃に住せず、法性の無住に随順するを以ての故に。。

○二者能止方便 謂慚愧悔過能止一切悪法。不令増長。以随順法性離諸過故

     二には能止(のうし)方便。 謂はく、慚愧悔過(けくわ)して、能く一切の悪法を止(とど)め
    て、増長せしめず。法性の、諸過を離るるに随順するを以ての故に。

○三者發起善根増長方便 謂勸供養禮拝三寶讃歎隋喜勸請諸佛。以愛敬三寶淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。僧力所護故能消業障善根不退。以随順法性離痴障故。

     三には發起善根(ぜんごん)増長方便。謂はく、勸めて三寶を供養し禮拝(らいはい)し、諸佛 
    を讃歎(さんだん)し隋喜(ずゐき)し勸請(くわんじゃう)し、三寶を愛敬(あいぎゃう)する淳厚 
    (じゅんこう)の心を以ての故に。信は増長することを得(え)、能く無上の道(だう)を志求(し
    ぐ)ず。又佛法僧の力(ちから)に護せらるるに因るが故に、能く業障を消(せう)し、善根退(し 
    りぞ)かず。法性の、痴障を離るるに随順するを以ての故に。

○四者大願平等方便 所謂發願盡於未來化度一切衆生使無有餘皆令究竟無餘涅槃。以随順法性無斷絶故。法性廣大徧一切衆生。平等無二。不念彼此究竟寂滅故

     四には大願平等方便。所謂、發願(ほっぐわん)し、未來を盡くして、一切衆生を化度(けど)
    し、餘(あまり)有ること無からしめて、皆究竟(くきゃう)じて無餘涅槃せしむ。法性(ほっ
    しょう)斷絶無きに随順するを以ての故に。法性廣大にして、一切の衆生に徧して、平等無二 
    なり。彼此(ひし)を念ぜず、究竟寂滅の故に
(´・(ェ)・`)b

354鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:37:46 ID:1d4drIFg0

 一つ目は行根本方便なのじゃ。

 一切の法は自性無生と観て、妄見を離れて生死の俗世から離れるのじゃ。
 一切の法は因と縁が和合して、業の結果を生みだすと観るのじゃ。
 大慈悲を起こしていろろいな福徳を修めて、衆生を集めて教化して、涅槃にいかないのじゃ。
 法性が無住であることに随っているからなのじゃ。

 二つ目は能止方便なのじゃ。
 
 慙愧悔過して能く一切の悪法を止めて、増長させないからなのじゃ。
 法性がもろもろの過を離れていることに随っているのじゃ。

 三つ目は発起善根増長方便なのじゃ。

 仏と法と僧の三宝を供養し礼拝することに勤めてるのじゃ。
 諸仏を賛嘆し、喜び、教えを請い、三宝を愛敬することが厚い心を持っているからなのじゃ。
 信心が増長して、無上の道を志して求めるのじゃ。
 また仏法僧の力に護られるから、業の障害を消すことができて、善根も進んでいくだけなのじゃ。
 法性が愚痴の障害を離れることに随っているからなのじゃ。

355鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/18(月) 23:43:07 ID:1d4drIFg0

 四つ目は大願平等方便なのじゃ。

 未来の尽きるまで一切衆生を残らず教化して、みんな無余涅槃に導くと発願するからなのじゃ。
 法性が断絶しないことに随っているからなのじゃ。
 
 法性は広大にして、一切衆生にもあまねく満ちて平等で一つであるからなのじゃ。
 自分とか他人とかの観念も無く、究境寂滅であるからなのじゃ。

356避難民のマジレスさん:2022/04/19(火) 15:49:10 ID:64/cpPPY0
32.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号33-34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号54)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

 菩薩發是心故則得少分見於法身。以見法身故随其願力。能現八種。利益 衆生。所謂從兜率天。退人胎住胎出家成道轉法輸入於涅槃

     菩薩、是の心を發(おこ)すがに、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、    其の願力に随ひ、能く八種を現じて、衆生を利益す。所謂、兜率天(とそつてん)より、退し、      
    人胎(にったい)・住胎(ぢうたい)し、出家成道して、法輸を轉じ、涅槃に入る。

 然是菩薩未名法身以其過去無量世來有漏之業。未能決斷。随其所生與微苦相應。亦非業繫。以有大願自在力故

     然れども、是の菩薩は、未だ法身(ほっしん)と名づけず。其の過去無量世來(このかた)有漏 
    の業、未だ能く決斷せず、其の所生(しょしゃう)に随って、微苦(みく)と相應す。亦業繫(ご 
    うけ)に非ず。大(だい)願自在力有るを以ての故なり。

 如修多羅中 或説有退堕悪趣者非其實退。但爲初學菩薩未入正位而懈怠者恐怖令彼勇猛故

     修多羅の中(うち)に、或(あるひ)は悪趣に退堕する有りと説く如きは、其の實退に非ず。但 
    (ただ)初學の菩薩、未だ正位に入らずして、懈怠するを、恐怖(くふ)せしめ、彼をして勇猛 
    (ゆうみゃう)ならしめん爲の故なり。

 又是菩薩一發心後遠離怯弱畢竟不畏堕二乘地。若聞無量無邊阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱以信知一切怯從本巳來自涅槃故

     又此の菩薩、一たび發心して後は、怯弱(こにゃく)を遠離(をんり)し、畢竟じて二乘地に堕 
    するを畏れず、又無量無邊阿僧祇劫に、勤苦(ごんく)難行して、乃(すなは)ち涅槃を得と聞く 
    も、亦怯弱(こにゃく)ならず。一切の法は、本より巳來(このかた)自(おのずか)ら涅槃なりと 
    信知するを以ての故なり。
(´・(ェ)・`)b

357鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 00:07:41 ID:1d4drIFg0

 このような方便を持つことのできる菩薩は、少し法身を見ることができるのじゃ。
 法身を観ることができるから、その願力に従って、八種の如来の生涯のできごとを表して衆生を助けられるのじゃ。
 その八種とは、兜卒天から降りて、胎に入り、胎の中で成長して、生まれて、出家して、悟りを得て、法輪を転じて、涅槃に入るのじゃ。
 
 しかしこのような菩薩もまだ法身とは名づけられないのじゃ。
 その過去の無量の生の有漏の業はまだ断たれておらず、その生まれに従って僅かな苦をうけるのじゃ。
 
 それは業に縛られたからではないのじゃ。
 大願自在法力があるからなのじゃ。

 経典の中に、或いは悪趣に堕ちる者もあると、説いているのは実は堕ちたのではないのじゃ。
 ただ初学の菩薩でまだ、正式な道に入っておらず怠ける者がいるから恐れさせて勇猛にさせるためなのじゃ。

 またこの菩薩は、一度発心して後には怯弱を厭離して、二乗に堕ちることを恐れないのじゃ。
 また無量無辺阿曽祇劫という長年月も実践修行して、涅槃を得ても怯弱ではないのじゃ。
 一切の法はもとよりこのかた、自ら涅槃で在ると信じ、知っているからなのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2022/04/20(水) 00:12:28 ID:KBYeStX60
33.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○解行發心者當知轉勝。以是菩薩。從初正信巳來。於第一阿僧祇劫將欲滿故。於眞如法中。深解現前所修離相。

     解行(げぎゃう)發心とは、當(まさ)に知るべし、轉(うた)た勝(しょう)なり。是の菩薩は、 
    初(しょ)の正信(しょうしん)より巳來(このかた)、第一阿僧祇劫に於いて、將(まさ)に滿ぜん
    と欲するを以ても故に、眞如の法中に於て、深解(じんげ)現前して、所修、相を離る。
 
 以知法性體無慳貪故。随順修行檀波羅蜜

     法性の體は、慳貪(けんどん)無しと知るを以ての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。

 以知法性無染離五欲過故。随順修行。修行尸羅波羅蜜。    

     法性は染無くして、五欲の過を離ると知るを以ての故に、随順して尸(し)羅波羅蜜を修行す。

 以知法性無垢離瞋悩故随順修行羼提波羅蜜

     法性は苦無く、瞋悩(しんなう)を離(はな)ると知るを以ての故に、随順して羼提(せんだい)
    波羅蜜を修行す。

 以知法性無身心相離懈怠故随順修行。毘黎耶波羅蜜

     法性は身心の相無く、懈怠を離ると知るを以ての故に、随順して毘梨耶(びりや)波羅蜜を修
    行す。

 以知法性常定體無亂故随順修行禪波羅蜜

     法性は常に定にして、體に亂無しと知るを以ての故に、随順して修行禪波羅蜜を修行す。 

 以知法性體明離無明故。随順修行般若波羅蜜

     法性は體明(あきらか)にして、無明を離ると知るを以ての故に、随順して般若波羅蜜を修行  
    す。
 (´・(ェ)・`)b

359鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/20(水) 23:52:53 ID:1d4drIFg0

 解行発心とはとても優れた発心なのじゃ。
 このような発心を持つ菩薩は、初心で正しい信仰を持ち、一あそぎ劫で修行を終えようとするのじゃ。
 それ故に真如の法の中において深く理解して、観念の相を離れるのじゃ。

 法性の本体はけちくさいものではないから、それに随って布施の完成を修行するのじゃ。

 法性は染がないから、五欲の過ちを離れていると知って、それに随って戒の完成を修行するのじゃ。

 法性は苦がなく、怒りや悩みも離れていると知っているから、それに随って忍耐の完成を修行するのじゃ。

 法性は心身の観念がなく、怠けることもないと知っているから、それに随って精進の完成を修行するのじゃ。

 法性は常に定であり、本体に乱れがないと知って、それに随って禅定の完成を修行するのじゃ。

 法性は本体が明らかであり、無明を離れていると知って、それに随って智恵の完成を修行するのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2022/04/21(木) 00:11:44 ID:oV2MQ03.0
34.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号34-35)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号55-56)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。
*テキストに依って表記の異なる箇所には*印を付した

○證發心者。從浄心地乃至菩薩究竟地。證何境界。所謂眞如。以依轉識説爲境界。而此證者。無得境界。唯眞如智名爲法身

     證發心とは、浄心地より、乃至菩薩究竟地に至までなり。何の境界を證するや。所謂、眞 
    如なり。轉識に依るを以て、説いて境界と爲す。而も此の證は、境界有ること無し。唯眞如
    智のみ。名づけて法身と爲す。
     
 是菩薩一於念頃。能至十方無餘世界。供養諸佛請轉法輪。唯爲開導利益衆生。不依文字。或示超地。速成正覺。以爲怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫。當成佛道以爲懈慢衆生故能示如是無數方便不可思議    

      是の菩薩、一念の頃(あひだ)に於て、能く十方無餘の世界に至って、諸佛を供養し、轉法 
     輪を請(しょう)す。唯(ただ)衆生を開導し利益(りやく)せんが爲なり。文字に依らず。」或ひ
     は地(ぢ)を超えて速に正覺を成(じょう)ずと示す。怯弱(こにゃく)の衆生の爲なるを以ての
     故なり。」或ひは無量阿僧祇劫に於て、當に成佛すべしと説く。懈慢の衆生の爲なるを以て
     の故なり。」能く是くの如き無數(むしゅ)の方便を示すこと、不可思議なり。

 而實菩薩種性根等發心即等所證。亦等無得超過之法。以一切菩薩皆經三阿僧祇劫故。
 但随衆生世界不同。所見所聞根欲性異故示。所行亦有差別

     而も實に菩薩の種性(しゅしゃう)は、根等しく、發心卽ち等しく、所證も亦等しくして、超 
    過(てうくわ)の法有ること無し。一切の菩薩は、皆三阿僧祇劫を經(ふ)るを以ての故に。
     但随衆生の世界同じからず、所見・所聞・根・欲・性異なるに随ふが故に、所行を示すこ 
    とも亦差別有り。

 又是菩薩發心相者。有三種心微細之相云何爲三。
 一者眞心無分別故。
 二者方便心自然徧行利益 衆生故。
 三者業識心。微細起滅故

     又是の菩薩の發心の相には、三種の心微細(みさい)の相有り。云何が三と爲す。
     一には眞心。分別無きが故に。
     二には方便心。自然に徧(あまね)く行じて、衆生を利益 するが故に。
     三には業識心。微細(みさい)に起滅するが故に。

 又是菩薩功徳成滿於色究竟處。示一切世間最高大身。
 謂以一念相應慧無明頓盡名一切種智自然而有不思議業能現十方利益衆生。

     又是の菩薩は、功徳成滿(じゃうまん)して、色究竟(しきくきゃう)處に於いて、一切世間の 
    最高大の身(しん)を示す。
     謂はく、一念相應の慧(ゑ)を以て、無明頓(とん)に盡くるを、一切種智と名づく。自然にし 
    て不思議の業有り、能く十方に現じて、衆生を利益す。

 (´・(ェ)・`)b

361鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:34:26 ID:1d4drIFg0
 証発心とは、浄心地より、菩薩の最後の境地に至るまで持つものじゃ。
 何の境界を証明するのか。
 いわゆる真如なのじゃ。
 転識によるから境界にすると説いているのじゃ。
 しかもこの証明は境界がないのじゃ。
 ただ真如の智恵だけなのじゃ。
 法身と名づけるのじゃ。

 このような菩薩は一念の間に、十方の世界に至る事が出来て、諸仏を供養して転法輪を請うこともできるのじゃ。
 ただ衆生を導いて、利益するためなのじゃ。
 文字によらず、或いは境地を超えて、速やかに正覚を得られると示すのじゃ。
 怯弱な衆生のためなのじゃ。

 あるいは無量あそぎ劫において成仏すると説くこともあるのじゃ。
 怠けて慢心している衆生のためなのじゃ。
 このように不可思議の無数の方便を示すことが出来るのじゃ。

362鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/21(木) 23:47:33 ID:1d4drIFg0

 しかも実は菩薩の本性の根幹は等しく、発心も等しく、証も等しいものであり、過ぎたりするところもないのじゃ。
 一切の菩薩は皆、あそぎ劫において成仏するが故に。

 ただ衆生の世界が同じではなく、見る所や、聞く所や、六根や欲や本性が異なるが故に、菩薩の所業もまた差別があるだけなのじゃ。
 またこの菩薩の発心の相にはまた三種の心の微細な相があるのじゃ。

 その三つとは、

 一つ目は真心なのじゃ。
 分別がないからなのじゃ。

 二つ目は方便心なのじゃ。
 自然に遍く修行して、衆生を利益するからなのじゃ。

 三つ目は業識心なのじゃ。
 微細に起こり滅するからなのじゃ。

 またこのような菩薩は功徳が満ち足りていて、色究境所においても、一切世間の最高大の身を示すのじゃ。
 一切相応する智恵をもって、無明を瞬時に滅するのを一切種智と名づけるのじゃ。
 自然にして不可思議な技をもっているのじゃ。
 十方に現れることが出来て、衆生に利益を与えるのじゃ。

363避難民のマジレスさん:2022/04/22(金) 17:05:55 ID:xzr0rbR60
35.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号36.)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号56-57)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲一切種智ノ問答

 問曰虚空無邊故。世界無邊。世界無邊故。衆生無邊。衆生無邊故。心行差別亦復無邊。如是境界不可分齊。難知難解。若無明斷。無有心想云何能了名一切種智

     問うて曰はく、虚空無邊なるが故に、世界無邊なり。世界無邊なるが故に、衆生無邊なり。衆生無邊なるが
故に、心行の差別も亦復(またまた)無邊なり。是くの如く、境界は分齊すべからず。知り難く解(げ)し難し。若し無
明斷ぜば、。心想有ること無し。云何ぞ能く了するを一切種智と名づくるや。
 
 答曰一切境界本來一心。離於想念以衆生妄見境故。心有分齊。以妄起想念。不稱法性故不能決了。

     答へて曰はく、一切の境界は、本來一心にして、想念を離る。以衆生妄(みだり)に境界を見るを以ての故に、
心に分齊(ぶんざい)有り、妄(みだり)に想念を起こし、法性(ほっしょう)に稱(かな)はざる以ての故に、決了する能
(あた)はず。

 諸佛如來。離於見想無所不徧心。眞實故即是諸法之性。自然顯照一切妄法有大智用無量方便随諸衆生所
應得解。皆能開示種種法義是故得名一切種智

     諸佛如來は、見想を離れて、徧せざる所無し。心、眞實の故に(なるが故なり)。卽ち是れ諸法の性(しゃう)な
り。自體〔は〕一切の妄法を顯照し、有大智用(ゆう)・無量の方便有り。諸の衆生、應(まさ)に解(げ)を得べき所
に随って、皆能く種種の法義を開示す。是の故に、一切種智と名づくるを得。

▲自然業智ノ問答

 又問曰。若諸佛有自然業。能現一切處。利益衆生者一切衆生。若見其身。若覩神變若聞其説無不得利云何世間多不能見。

     又問うて曰はく、若し諸佛に、自然業有り、能く一切處に現じ、衆生を利益(りやく)せば、一切の衆生、若しは
其の身を見、若しは神變を覩(み)、若しは其の説を聞いて、利を得ざること無けん。云何ぞ、世間多く見ること能
(あた)はざるや。

 答曰。諸佛如來法身平等徧一切處。無有作意故而説自然但依衆生心現衆生心者。猶如於鏡。鏡若有垢色像。不現如是衆生心。若有垢法身不現故

     答へて曰はく、諸佛如來の法身は、平等に一切處に徧じて、作意(さい)有ること無きが故に、自然と説く。但
衆生の心(しん)に依って現ず。衆生心は、猶ほ鏡の如し。若し垢有れば、色像は現ぜず。是くの如く、衆生の心
も、若し垢有れば、法身は現ぜざるが故に。

 (´・(ェ)・`)b

364鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:11:58 ID:1d4drIFg0
 また聞いたのじゃ。
 
 虚空は無辺であるから、世界も無辺なのじゃ。
 世界が無辺であるから、衆生界も無辺なのじゃ。
 衆生界が無辺であるから、観念の差別もまた無辺なのじゃ。

 このように境界は量る事ができないものじゃ。
 知り難く、理解もし難いものじゃ。
 もし無明が断たれれば、観念はないのじゃ。
 とのようにして全てを知ることを、一切を知ることのできる智恵と名づけられるのか。

 答えたのじゃ。

 一切の境界は本来一心であり、観念を離れたものじゃ。
 衆生は妄りに境界を見るから、心に量ることも在るのじゃ。
 妄りに観念を起こして、法性に適合しないから、理解も出来ないのじゃ。

 諸仏如来は観念を離れて、遍く存在するのじゃ。
 真実であるからなのじゃ。
 それがすなわち諸法の本性なのじゃ。
 
 自体は一切の妄法を明らかにして、大智恵の用いる無量の方便があるのじゃ。
 もろもろの衆生が理解できるように、いろいろに法の意味を開き示すのじゃ。
 この故に一切種智と名づけられるのじゃ。

365鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 00:23:02 ID:1d4drIFg0
更に又聞いたのじゃ。

 諸仏に不可思議な技があるというのじゃ。
 一切の場所に現われて、衆生に利益を与える事が出来るのじゃ。
 姿を現してみせたり、神通力を見せたり、説法したりすれば衆生は必ず利益を得るじゃろう。
 世間ではそのようなことを聞かないのはなぜなのか。

答えたのじゃ。

 諸仏如来の法身は、平等に一切の場所に遍く在り、作意がないから自然と説くのじゃ。
 ただ衆生の心によって現われるのじゃ。

 衆生の心は鏡のようなものじゃ。
 もし鏡に汚れた垢があれば何も写らず形は現われないのじゃ。
 衆生の心も同じく、心に垢があれば、仏も現われないのじゃ。

366避難民のマジレスさん:2022/04/23(土) 00:30:03 ID:Dnnbff0c0
36.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

●正宗五分第四 修行信心分

 巳説解釋分。次説修行信心分。
 是中依未入正定聚衆生故。説修行信心。
 何等信心云何修行。
 畧説信心。有四種云何爲四(上來ハ大乘ヲ明シ今ハ正シク起信ヲ明ス)

      巳(すで)に解釋分を説けり。次に修行信心分を説かん。
      是の中(うち)、未だ正定聚(じう)に入らざる衆生に依るが故に、修行信心を説く。
      何等の信心を、云何が修行するや。
      略して信心を説くに、四(し)種有り。云何が四と爲す。

●四種ノ信心 

 一者信根本。所謂樂念眞如法故。

     一には、根本を信ず。所謂、眞如の法をするが故に。

 二者信佛有無量功徳常念親近供養恭敬發起善根。願求一切智故

     二には、佛に無量の功徳有りと信じ、常に念じて、新近(しんごん)し、供養し、恭敬(くぎゃう)して、善根をし、一
切智を(ぐわんぐ)するが故に。

 三者信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故

     三には、法に大利益有りと信じ、常に念じて、諸(もろもろ)の波羅蜜を修行するが故に。

 四者信僧能正修行自利利他常樂親近諸菩薩衆求學如實行故

     四には、僧は、能く正しく、自利利他を修行すると信じ、常に樂(この)んで、諸の菩薩衆に親近し、如實行を求
學(ぐがく)するが故に。

▲五門ノ修行 

 修行有五門能成此信。
 云何爲五。一者施門。二者戒門。三者忍門。四者進門。五者止觀門

      修行に五門有り、能く此の信を成(じゃう)ず。
      云何が五と爲す。一には施門(せもん)、二には戒門、三には忍門、四には進門、五には止觀門なり。

(´・(ェ)・`)b

367鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/23(土) 23:45:02 ID:1d4drIFg0
 既に解釈分を説いたのじゃ。
 次は修行信心分を説くのじゃ。

 これを読む者の中で、まだ正定摂、つまり悟りをひらくことが定まっていない者のために修行信心分を説くのじゃ。

 どのような信心を、どのように修行するのか。
 略して説けば四種在るのじゃ。

 その四つとは、

 一つ目は根本を信じるのじゃ。
 いわゆる真如の法を安楽に観察し念じるからなのじゃ。

 二つ目は仏に無量の功徳があると信じて、常に念じて親近し、供養し、うやうやしく敬って善根を発起するのじゃ。
 一切智を願い求めるからなのじゃ。

 三つ目は法に大きな利益が在ると信じるのじゃ。
 常に念じてもろもろの波羅蜜を修行するからなのじゃ。

 四つ目は僧は正しく修行して自他の利益をもたらすと信じるのじゃ。
 常に好んでもろもろの菩薩衆に親近し、如実の行を求め学ぶからなのじゃ。

 そしてまたその修行にも五つの門があるのじゃ。
 この五門によって信心も成就するのじゃ。

 どのような門なのか。

 一つ目は布施の門なのじゃ。

 二つ目は戒の門なのじゃ。

 三つ目は忍耐の門なのじゃ。

 四つ目は精進の門なのじゃ。

 五つ目は止観の門なのじや。

368避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:48:58 ID:N9PuVr0M0
37.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号37-38)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号57-58)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲第一 施門  

 云何修行施門。
 若見一切來求索者。所有財物随力施與。以自捨慳貪。令彼歡喜。若見厄難恐怖危逼随巳堪任施與無畏。若有衆生來求法者。随巳能解方便。爲説不應貪求名利恭敬唯念自利利他廻向菩提故

     云何が、施門を修行するや。
     若し一切の、來って求索(ぐさく)する者を見ば、有らゆる財物、力に随って施與(せよ)し、自ら慳貪(けんどん)を
捨つるを以て、彼をして歡喜せしめ、若し厄難(やくなん)・恐怖(くふ)・危逼(きひつ)を見ば、己が堪任するに随っ
て、無畏(むゐ)を施與(せよ)す。若し衆生、來って法を求むる有らば、己が能く解するに随って方便して、爲めに
説いて、應(まさ)に名利恭敬(くぎゃう)を貪求すべからず。唯自利利他を念じ、菩提に廻向(ゑかう)するが故に。

▲第二 戒門  

 云何修行戒門。
 所謂不殺。不盗。不婬。不兩舌。不悪口。不妄言。不綺語。遠離貪嫉欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者。爲折伏煩悩故。亦應遠離憒閙常處寂静修習少欲知足。頭陀等行。乃至小罪心生怖畏慚愧悔不得輕於如來所制禁戒。當護機嫌。不令衆生妄起過罪故

     云何が、戒門を修行するや。
     所謂、殺せず、盗せず、婬せず、兩舌せず、悪口(あくく)せず、妄語せず、綺語せず、遠離貪嫉(とんしつ)・欺
詐・諂曲(てんこく)・瞋恚(しんい)・邪見を遠離す。若し出家の者は、煩悩を折伏(しゃくぶく)せん爲の故に、亦應
(まさ)に憒閙(くわいねう(にょう))をし、常に寂静に處して、少欲知足、頭陀等の業を修習(しゅじふ)し、乃至小
罪にも、心怖畏を生じ、慚愧し、改悔(かいげ)して、如來の制する〔したまふ〕所の禁戒(ごんかい)を輕んずるを
得ざるべし。當(まさ)に機嫌を護って、衆生をして、妄(みだり)に罪過を起こさしめざるべき故に。

▲第三 忍門  

 云何修行忍門。
 所謂應忍他人之惱心不懷報。亦當忍於利衰毀譽稱譏苦樂等法故

     云何が、忍門を修行するや。
     所謂、應(まさ)に他人の惱(なやま)すを忍んで、心に報を懷(いだ)かざるべし。亦當に利衰・毀譽・稱譏(しょう
き)・苦樂等の法を忍ぶべき故に。

▲第四 進門  

 云何修行進門。所謂於諸善事。心不懈退。立志慳強。遠離怯弱。當念過去久遠己來虚受一切身心大苦。無有利益 。是故應勤修諸功徳自利利他遠離修苦

     云何が進門を修行するや。
     所謂、諸の善事に於て、心、懈退せず、志を立つること慳強(けんがう)にして、怯弱(こにゃく)を遠離し、當に過
去久遠己來、虚しく一切身心の大善を受けて、利益有ること無きを念ずべし。是の故に、應に勤めて、諸の功
徳を修め、自利利他して、遠かに衆苦を離るべし。
(´・(ェ)・`)b

369鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/24(日) 23:47:57 ID:1d4drIFg0

第一の施門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もし衆生が法を求めてきたならば、あらゆる財物を力の限り施して自分が貪欲を捨てることで喜ばせるのじゃ。
 もし衆生が厄難、恐怖、危険が逼迫しているところを見たら、自分が出来る限りのことをして、恐れがない状態を施すのじゃ。

 もし衆生が法を求めてきたならば、自分が理解している限りのことを方便して説いて、名利や尊敬されることを求めてはいかんのじゃ。
 ただ自他の利益のために説いて、悟りの道に回向するためなのじゃ。

 第二の戒門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆる殺さず、盗まず、婬せず、両舌せず、悪口をせず、妄語をせず、綺語をしないことを守るのじゃ。
 貪欲、嫉妬、詐欺、怒りや邪見を遠離するのじゃ。
 もし出家の者であれば、煩悩を折伏するために、騒がしい街中から遠ざかり、常に静かな所に定住して、小欲知足をで貪欲を厭離するのじゃ。
 
 小さな罪にも心から恐れ、慙愧して、後悔して、如来が制定した禁戒を重んじるのじゃ。
 まさに他人の悪心を起こさないようにして、妄りに罪過を作らせないようにするのじゃ。

 第三の忍門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 いわゆるまさに他人から悩まされることを忍んで、報復したいという思いを心から遠ざけるのじゃ。
 また正に利衰、毀誉褒貶、苦楽等の法を忍ぶべきであるからなのじゃ。

 第四の進門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 もろもろの善事を心が怠けずに実践して、堅く強く志を立て、怯弱を遠離するのじゃ。
 久遠の過去からの大善を実践しても、その利益を願わないようにするのじゃ。
 正に勤めてもろもろの功徳を修めて、衆苦がないようにするのじゃ。

370避難民のマジレスさん:2022/04/25(月) 00:26:17 ID:ZMugjDbA0
39.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号40-41)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号60-61)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次依是三昧故則知法界一相。謂一切諸佛法身。與衆生身平等無二即名一行三昧。當知眞如是三昧根本。若人修行漸漸能生無量三昧

     復次に、是の三昧に依るが故に、則ち法界一相なりと知る。謂はく、一切諸佛の法身と衆生とは、平等無二
    なり。卽ち一行三昧と名づく。當に知るべし、眞如は是れ三昧の根本なり。若し人、修行すれば、漸漸に能く、
    無量の三昧を生ず。

 或有來生無善根力。則爲諸魔外道鬼神之所惑亂。若於坐中現形恐怖。或現端正男女等相。
 當念唯心境界則滅終不爲惱

     或(ある)は衆生有り、善根の力無ければ、則ち諸魔・外道・鬼神の爲に惑亂せらる。若くは坐中に於て、形(か
たち)を現じて恐怖(くふ)せしめ、或(あるひ)は端正(たんしゃう)の男女(なんにょ)等の相を現ず。 
     當に唯心を念ずべし。境界は則ち滅して、終(つひ)に惱を爲さず。

 或現天像菩薩像亦作如來像。相好具足。或説陀羅尼。若説布施持戒忍辱精進禪定智慧。或説平等空無想無願。無怨無親。無因無果。畢竟空寂是眞涅槃。
 
     或は、天像・菩薩像を現じ、亦は、如來像を作(な)して相好具足し、或は陀羅尼を説き、若くは、布施・持
戒・忍辱・精進・禪定・智慧を説き、或は平等・空・無想・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂なる、是
れ眞の涅槃なりと説く。

或令人知宿命過去之事。亦知未來之事。得他心智辯才無礙能令衆生貪著世間名利之事。
 
     或は人をして、宿命・過去の事を知り、亦は未來の事を知り、他心智・辯才無礙を得せしめ、能く衆生をして、
世間名利の事(じ)に貪著(とんぢゃく)せしむ。
   
 亦令使人數瞋數喜性無常準。或多慈愛多睡多宿多病其心懈怠。或率起精進後便休廢生於不信。多疑多慮。或捨本勝行。更修雜業。若著世事種種牽纏。
 
     又令使人をして、數(しばしば)瞋(いか)り・數喜びて、性に常準なからしめ、或は多く慈愛し、多睡(たすゐ)・多
宿・多病にして、其の心を懈怠ならしむ。或は卒(にはか)に精進を起こし、後便(のちすなは)ち休廢(くはい)して、
不信を生じ、多疑・多慮ならしめ、或は本(もと)の勝行(しょうぎょう)を捨て、更に雜業(ざふごふ)を修し、若くは世
事に著(ぢゃく)して、種種に牽纏(けんてん)せらる。
     
 亦能使人得諸三昧少分相似皆是外道所得非眞三昧 或復令人。若一日若二日若三日乃至七日。住於定中。得自然香美飲食身心適悦不飢不渇。使人愛着。

     亦能く、人をして、諸の三昧の少分の相似を得せしむ。皆是れ外道所得にして、眞の三昧に非ず。或は復、
人をして、若くは一日、若くは二日(ににち)、若しは三日(さんにち)乃至七日(しちにち)、定中(ぢゃうちう)に住して、
    自然の香美(かうみ)の飲食(おんじき)を得て、身心適悦(しんじんちゃくえつ)して、不飢・不渇ならしめ、人をして
    愛着せしむ。

  或令人食無分齊。乍多乍少顔色變異。
  以是義故行者常應智慧觀察勿令此心。堕於邪網。當勤正念不取不着則能遠離是諸業障

     或は人をして、食に分齊なく、乍(たちま)ち多くし乍ち少くし、顔色を變異せしむ。
     是の義を以ての故に、行者は常に應(まさ)に、智慧もて觀察し、此の心を邪網に堕せしむることなかるべし。當
    に勤めて正念にして、不取・不著(ふぢゃく)ならば、則ち能く、是の諸の業障(ごふしゃう)を遠離すべし。

 應知外道所有三昧皆不離見愛我慢之心。貪着世間名利恭敬故
 眞如三昧者。不住見相。不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。

     應に知るべし、外道所有の三昧は、皆不離見愛我慢の心を離れず。世間の名利恭敬に貪著(とんぢゃく)する
    が故に。
     眞如三昧とは、見相に住せず、得相に住せず、乃至定(ぢゃう)を出づるも、亦懈(げ)慢無し。所有の煩惱、漸
    漸に微薄(みはく)なり。
     
 若諸凡夫不習此三昧。法得入如來種性。無有是處
 以修世間諸禪三昧多起味着依我見。繫屬三界。與外道共。若離善知識所護則起外道見故

     若し諸の凡夫、此の三昧法を習せずして、如來の種性(しゅしゃう)に入るを得(う)る、是の處(ことわり)有ること
    無し。
     世間の諸禪三昧を修すれば、多く味著(みぢゃく)を起こし、我見に依って、三界に繫屬(けぞく)するを以て、外
    道と共(とも)なり。若し善知識の所護を離るれば、則ち外道の見を起こすが故に。

(´・(ェ)・`)b

371鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/25(月) 23:35:57 ID:1d4drIFg0
 また次にある人が信心して修行しても、前世からの多くの重罪悪業の障害がある故に、邪魔諸鬼のために悩乱させられることもあるじゃろう。
 或いは世間の仕事等のために、種々に時間を縛られ、或いは病苦に悩まされたりする者達もいるじゃろう。
 このように多くの障害があったりするじゃろう。

 このようなことがある故に、まさに勇猛精進して、昼夜常に諸仏を礼拝し、誠の心で懺悔して、教えを請い願い、教えを受けたら歓喜して菩提に回向するのじゃ。
 このように常に実践して休まず、止めなければ、もろもろの障害も免れるのじゃ。
 善根が増長するからなのじゃ。

 第五の止観門なのじゃ。

 どのように修行するのか。

 言う所の止とは、一切の境界の想念を止めて、シャマタの観に随順するのじゃ。
 
 言う所の観とは、因縁生滅の相を分別して、ヴィパッサナー観に随順するのじゃ。

 どのようにして随順するのか。
 この二つの法を少しずつ実践して、互いに離れる法ではないから、並べて現前するのじゃ。

 もし止を実践したいという者が居れば、静かなところに住んで、座禅して意を正すのじゃ。
 そして呼吸に依らず、形色に依らず、空に依らず、地水火風に依らず、乃至見る聞く等の知覚に依らないようにするのじゃ。
 一切の諸法も憶念に従って皆除き、一切の想念を除く実践をするのじゃ。
 一切の諸法は皆本来無想にして、刹那に生まれず、刹那に滅することもないと念じるのじゃ。

 また常に心の外の世界においては境界は無で在ると念じ、心によって除くことの出来ない心に至るのじゃ。
 心がもし乱れたら、すぐに集中し直して、正しい念に戻るのじゃ。
 この正しい念とは、唯心であり他に境界がないと正に知るべきなのじゃ。
 そしてまたこの心も自らの特徴はなく、刹那に得ることの出来ないものじゃ。

 もし座禅から立って、去来進止の動作をすることがあれば、全ての時において方便を念じて、ありのままに観察するべきなのじゃ。
 その実践に習熟すれば、その心は止まるのじゃ。
 故に少しずつ功徳が増大し、真如三昧に入れるのじゃ。
 煩悩を征服して、信心も増長して、ついに不退転の境地になるのじゃ。

 ただ疑惑や不信や、誹謗や、重罪の業障、我があるという慢心、怠けるというような煩悩を持つ者は除くのじゃ。


372鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:01:59 ID:1d4drIFg0

 以上のような煩悩のある者には入れない境地なのじゃ。



 また次にこの三昧に入れば、法界は一相と知れるのじゃ。
 なぜならば一切諸仏の法身と、衆生の心とは平等で一つであるからなのじゃ。
 それをすなわち一行三昧と名づけるのじゃ。
 真如は正に三昧の根本と知るべきなのじゃ。
 もし人がそれを修行すれば、少しずつできるようになり、無量の三昧を生じるのじゃ。

 あるいは善根の力がない衆生がいれば、即ち諸々の魔、外道、鬼神に惑乱させれられるのじゃ。
 もしくは座禅の最中に、魔が形を現して恐れさせ、あるいは美男美女の心象を表したりするのじゃ。

 そのような時にはまさに唯心を念じるべきなのじゃ。
 そうすれば境界は即ち滅して、悩まされることも無くなるのじゃ。

 そのような魔はあるいは天人、菩薩の心象を現したり、相好を備えた如来を現し陀羅尼や、布施、持戒、忍耐、精進、禅定、智恵の完成を説いたりするのじゃ。
 あるいは平等、空、無相、無願、無怨、無親、無因、無果、畢竟空寂であるこれが涅槃であると説いたりするのじゃ。
 あるいは人に宿命通や過去未来のことを知ったり、他人の心を知り、自由な弁才を得さしめて、名声に執着させたりするのじゃ。

 あるいは人に喜怒の念をたびたび起こらせて、平静な心をなくさせるのじゃ。
 あるいは愛着を多くさせて、多く眠り、多く宿り、多く病を得させて怠けさせるのじゃ。
 あるいは人をいきなり精進させて、次には実践を休ませたり止めさせて不信を生じて、疑いや慮りを多くさせるのじゃ。
 あるいはもともとの優れた法わ捨てさせ、つまらぬ法を修行させて、あるいは世間の仕事に執着させて、いろいろに惑わせるのじゃ。


373鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 00:18:34 ID:1d4drIFg0

 また人にもろもろの三昧に似た境地を得させるのじゃ。
 そのようなものは外道の得るものであり、真の三昧ではないのじゃ。
 あるいは人に数日の三昧において自然の香味を得させて、心身を喜ばせて飢えず渇せず、愛着させるのじゃ。
 あるいは人の食欲を際限なくして、多食や小食にしたりして病で顔色を悪くするのじゃ。
  
 このような魔があるから、修行者は、常に正に智恵を持って観察して、心を邪見の網に落ちないようにするのじゃ。
 正に勤めて正念を保って、何も取らず、何にも執着しないならば、このもろもろの魔の業障を遠離することができるのじゃ。
 
 外道の教える三昧は皆、見愛、我慢の心を離れられないと知るべきなのじゃ。
 世間の名利や尊敬の心を貪り執着するからなのじゃ。

 真如三昧とは、見る相に心を止めず、得る想念にも心を止めず、定を出ても怠け心や慢心が無いのじゃ。
 もっていた煩悩も少しずつなくなっていくのじゃ。

 もしもろもろの凡夫がこの三昧を習得しないで、如来になることはないのじゃ。
 
 世間の諸三昧を修得すれば、多くが三昧に執着して、我見をもって三界に縛られるから外道と一緒なのじゃ。
 もし善知識の守りから離れれば、すなわち外道の見解を起こすからなのじゃ。

374避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:51:12 ID:TPvzETQk0
n(´・(ェ)・`)n
お詫びと訂正。
前回掲載時、38をとばしてしまいました。
本日の鬼和尚訳、>>371 及び >>372の1行目 に該当する部分が、38↓であります。

38.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号39-40)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号59-60)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人雖修行信心。以從先世來多有重罪悪障故。爲邪魔諸鬼之所惱亂。或爲世間事務種種牽纒。或爲病苦所惱有如是等衆多障。礙是故應當勇猛精勤。晝夜六時禮拝諸佛。誠心懺悔。勸請随喜。廻向菩提。常不休廢。得免諸障。善根増長故

     復次に、若し人、信心を修行すると雖も、先世(せんぜ)より來(このかた)、多く重罪悪業の障有るを以て故に、
邪魔諸鬼の爲に惱亂せられ、或は世間の事務の爲めに、種種索纒(さくてん)せられ、或は病苦の爲に所惱まさ
る。是くの如き等の衆多の障礙(しゃうげ)有り。是の故に、應當(まさ)に勇猛精勤(ゆうみょうしゃうごん)して、晝夜
六時に、諸佛を禮拝(らいはい)し、誠心(じゃうしん)に懺悔し、勸請(くわんじゃう)し随喜して。菩提に(ゑかう)すべ
し。常に休廢(くはい)せざれば、諸障を免(まぬか)るるを得、善根増長するが故に

*【纏牽】てんけん:まといつなぐ。束縛

▲第五 止觀門 

 云何修行止觀門。
 所言止者謂止一切境界相随順奢摩他觀義故

     云何が、止觀門を修行するや。
     言ふ所の止とは、謂はく、一切境界の相を止(とど)めて、奢摩他(しゃまた)觀に随順する義の故に。

 所言觀者謂分別因緣生滅相。随毘鉢舍那觀義故

     言ふ所の觀とは、謂はく、因緣生滅の相を分別して、毘鉢舍那(びばしゃな)觀に随順する義の故に。

 云何随順以此二義漸漸修習不相捨離雙現前故

     云何が、随順するや。此の二義、漸漸に修習(しゅじふ)して相捨離せざるを以て、雙(なら)べて現前するが故に。

 若修止者住於静處端坐正意不依氣息不依形色不依於空不依地水火風。乃至不依見聞覺知。一切諸想随念皆除亦遣除想。以一切法本來無想念念不生念念不滅

     若し止を修する者は、静處(じゃうりょ)に住し、端坐して意を正し、氣息に依らず、形色(ぎゃうしき)に依らず、空
に依らず、地水火風に依らず、乃至見聞覺知(けんもん)に依らず、一切の諸想も、念に随って皆除き、亦除想
を遣(や)る。一切の法は、本來無想なるを以て、念念に生ぜず、念念に滅せず。

 亦常不得随心外念境界。後以心除心。若馳心散即當攝來住於正念。是正念者當知唯心無外境界。即復此心亦無自相。念念不可得

     亦常に、心外に随って境界を念じ、後(のち)、心を以て心を除くことを得ず。心若し馳散(ちさん)せば、卽ち當
(まさ)に攝し來(きた)って、正念(しゃうねん)に住すべし。是の正念とは、當に知るべし、唯心にして外(ほか)境界
無し〔きなり〕。卽ち復、此の心も亦、自相無し。念念に不可得(とく)なり。

 若從坐起去來進止有所施作於一切時常念方便随順觀察
 久習淳熟其心得住。以心住故漸漸猛利随順得入。眞如三昧。深伏煩惱。信心增長速成不退。唯除疑惑不信誹謗重罪業障我慢懈怠。如是等人所不能入

     若し坐より起(た)ちて、去來進止に施作する所有れば〔るも〕、一切時に於て常に方便を念じて、随順觀察す
べし。
     久習(くじふ)淳熟すれば、其の心住することを得(う)、故に漸漸に猛利(みゃえうり)にして、眞如三昧に随順し、
得入(とくにゅう)し、深く煩惱を伏(ぶく)し、信心增長して、速(すみやか)に不退を成(じゃう)ず。唯疑惑・不信・誹
謗・重罪業障・我慢・懈怠を除く。是の如き等(とう)の人は、入ること能(あた)はざる所なり。
(´・(ェ)・`)b

375避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 00:56:56 ID:TPvzETQk0
40.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号42-43)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号61-62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲眞如三昧十種ノ利益  

 復次精進專心修學此三昧者現世當得十種利益云何爲十

     復次に、精進して、專心に此の三昧をする者は、現世に當る十種の利益を得べし。云何が十と爲す。

 一者常爲十方諸佛菩薩の所護念
 二者不爲諸魔悪鬼所恐怖
 三者不爲九十五種外道鬼神の所惑亂
 四者遠離誹謗甚深之法重罪業障漸漸微薄
 五者滅一切疑惑諸悪覺觀
 六者於諸如來境界信得增長
 七者遠離憂悔於生死中勇猛不怯
 八者其心柔和捨於憍慢。不爲他人所惱
 九者雖未得定於一切時一切境界處則能滅損煩惱不樂世間
 十者若得三昧不爲外緣一切音聲之所驚動

      一には、常に十方の諸佛菩薩の爲に、護念せらる。
      二には、諸魔・悪鬼の爲に、能く恐怖せられず。
      三には、九(く)十五種の外道・鬼神(じん)の爲に、惑亂せられず。
      四には、甚深(じんじん)の法を誹謗することを遠離し、重罪業障、漸漸に微薄なり。
      五には、一切の疑惑と、諸の悪覺觀(かくくわん)とを滅す。
      六には、諸の如來の境界に於て、信、增長することを得。
      七には、憂悔(うけ)を遠(をん)離し、生死の中(うち)に於て、勇猛にして怯(けふ)ならず。
      八には、其の心柔和にして、憍慢(けうまん)を捨て、他人の爲に惱まされず。
      九には、未だ定(ぢゃう)を得ずと雖も、一切の時(じ)、一切の境界の處に於て、則ち能く煩惱を減損して、世
     間を樂(たのし)まず。
      十には、若し三昧を得れば、外(げ)緣一切の音聲の爲に驚動せられず。

▲修觀ヲ勸ム  

 復次若人唯修於止則心沈歿或起懈怠不樂衆善。遠離大悲是故修觀
 修習觀者當觀一切世間有爲之法無得久停須臾變懷一切心行念念生滅以是故苦。應觀過去所念諸法恍忽如夢。應觀現在所念諸法猶如電光。應觀未來所念諸法猶如於雲歘爾而起。應觀世間一切有身。悉皆不浄種種穢汚無一可樂

     復(また)次に、若し人、唯、止をのみ修すれば、則ち心沈歿(こころちんもつ)し、或は懈(げ)怠を起こし、衆善を
    樂(ねが)はず、大悲を遠離す。是の故に觀を修す。
     觀を修する者は、當に、一切世間有爲の法は、久しく停(とど)まるを得(う)ること無く、須臾(すゆ)に變懷(ゑ)す。
    一切の心行は、念念に生滅す。是を以ての故に苦なりと觀すべし。應に、過去に念ぜる所の諸法は、恍忽とし
    て夢の如し觀ずべし。應に現在に念ずる所の諸法は、猶ほ電光の如しと觀ずべし。應に、未來に念ずる所の諸
    法は、猶ほ雲の、歘爾(こつに)として起るが如しと觀ずべし。應に、世間一切の有身は、悉く皆不浄にして、種種
    の穢汙(ゑま(わいお))、一として樂むべき無しと觀ずべし。

(´・(ェ)・`)b

376鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 22:57:40 ID:1d4drIFg0

 また次に精進して心を専らにしてこの三枚を修行する者は、現世で十種類の利益を得るのじゃ。

 その十とは、

 一つ目は、常に十方の諸仏に護られるのじゃ。
 二つ目は、もろもろの魔もの、悪鬼も恐れなくなるのじゃ。
 三つ目は、95種類の外道、鬼神に惑乱されないのじゃ。
 四つ目は、とても深い意味がある法を誹謗しなくなり、重罪の悪業も少しずつへっていくのじゃ。
 五つ目は、一切の疑惑と、邪悪なる法を滅するのじゃ。
 六つ目は、もろもろの如来の境界において、信じることが増して行くのじゃ。
 七つ目は、愁いや悔いを遠ざけ、生死の中において、勇猛で怯えなくなるのじゃ。
 八つ目は、心が柔和になり、驕りや慢心を捨てて、他人に悩まされないのじゃ。
 九つ目は、まだ定に入れなくとも、一切の時や境界の所で、煩悩を減らして世間を楽しまないのじゃ。
 十では、もし三昧を得れば、外からの全ての音声に驚き動じることがなくなるのじゃ。

377鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/26(火) 23:06:05 ID:1d4drIFg0

 また次にもし人がただ止観の止だけを実践すれば、心が沈んで、あるいは怠けたり、もろもろの善を願わなかったりして、慈悲の心もなくなるのじゃ。
 このために観も修行するのじゃ。

 観を修行する者は、まさに一切世間の有為の法は、ながく止まることがなく、瞬時に変り壊れるものと観るのじゃ。
 一切の心の働きは、刹那に生じ、滅するから苦になると観るのじゃ。
 まさに過去に念じた諸法は、ぼんやりとして、夢幻の如しと観るのじゃ。
 今念じている諸法は電光の如しと観るのじゃ。
 未来に念じるはずの諸法も、雲がもくもくと起こるようものと観るのじゃ。

 世間の一切の肉体も、ことごとくみんな不浄であり、種々の穢れがあり、一つも楽しめるものがないと観るのじゃ。

378避難民のマジレスさん:2022/04/26(火) 23:32:36 ID:GrWkzV0M0
41.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号43-44)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲大悲觀   

 如是當念一切衆生從無始時來皆因無明所薫習故令心生滅巳受一切身心大苦現在即有無量逼迫。未來所苦亦無分齊難捨難離而不覺知衆生如是甚爲可愍

     是くの如く當に念ずべし。「一切の衆生は、無始の時より來(このかた)、皆無明に薫習せらるるに因るが故に、
    心をして生滅せしむ。巳(すで)に一切の身心の大苦を受け、現在に卽ち無量の逼迫有り、未來の所苦も亦分
    齊無く、捨し難く離し難くして、而も覺知せず。衆生は是くの如く、甚だ愍(あはれ)むべしと爲す」と。

▲大願觀   

 作是思惟即應勇猛立大誓願。願令我心離分別故徧於十方修行一切諸善功徳。盡其未來。以無量方便救拔一切苦惱衆生令得涅槃第一義樂

     作是(こ)の思惟を作(な)し、卽ち應に勇猛に大誓願を立つべし。「願はくは、我が心をして、分別を離れしむる
    が故に、徧(あまね)く十方に於て、一切の諸善功徳を修行し、其の未來を盡し、無量の方便を以て、一切の苦
    惱の衆生を救拔(くばつ)し、涅槃第一義の樂を得せしめん」と。

▲精進觀  

 以起如是願故於一切時一切處所有衆善。随巳堪能。不捨修學心無懈怠 
 唯除坐時專念於止若餘一切悉當觀察應作不應作 
 若行若住若坐若臥若起皆應止觀倶行 所謂雖念諸法自性不生而復即念因緣和合善悪之業苦樂等報不失不懷。雖念因緣善悪業報而亦即念性不可得。

     是(かく)の如きの願を起すを以ての故に、一切の時・一切の處(しょ)に於て、有らゆる衆善、己(おのれ)が堪能
    (かんのう)に随って、修學するを捨せず、心に懈怠無し。
     唯坐する時のみ專(もっぱ)ら止を念ずるを除く。若し餘の一切にも、悉(ことごと)く當(まさ)に、應作と不應作とを
    觀察すべし。 
     若くは行、若くは住、若くは坐、若くは臥(ぐわ)、若くは記、皆止と觀とを倶(とも)に行ずべし。所謂、諸法の自性
    は、不生なりと念ずと雖も、而も復(また)、卽ち因緣和合する善悪の業・苦樂等の報は、不失不懷(ゑ)なりと念
    ず。因緣善悪の業報を念ずと雖も、而も亦、卽ち性(しょう)は不可得なりと念ず。
 
 若修止者對治凡夫住着世間能捨二乘怯弱之見。
 若修觀者對治二乘不起大悲狹劣心過遠離凡夫不修善根 
   
     若し止を修すれば、凡夫の、世間に住著するを對治し、能く二乘怯弱(こにゃく)の見を捨す。     
     若し觀を修すれば、二乘の、大悲を起さざる狹劣(けふれつ)の心過を對治し、凡夫の、善根を修せざることを
    遠離す。

 以是義故是止觀二門共相助成不相捨離若止觀不具則無能入菩提之道

     是の義を以ての故に、是の止と觀との二門は、共に相助成(あひじょじゃう)して、相捨離せず。若し止と觀と具
    (そな)はらざれば、則ち能く菩提の道に入ること無し。

(´・(ェ)・`)b

379鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:26:23 ID:1d4drIFg0
 このように念じるのじゃ。

 「一切衆生は始まりもない昔から無明に薫習されているから、心をして生滅させるのじゃ。
  すでに一切の心身の大きな苦痛を受けて、現在にも無量の逼迫があるのじゃ。
  未来に受けるであろう所の苦も限界なく、、捨て難く、遠ざけることも難しく、知覚もできないのじゃ。
  衆生はこのようにとても哀れむべきもの」

 このように思って勇猛に大誓願を立てるのじゃ。
 
 「願わくばわが心が分別を離れるが故に、遍く十方において一切の諸善功徳の法を修行し、
  未来の尽きるまで、無量の方便をもって、苦悩の衆生を救済し、涅槃第一義の楽を得させよう」

 このような誓願をすれば、どんな時や所でも自分が出来る限りのあらゆる善行と修学を捨てず、怠け心もなくなるのじゃ。

380鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 00:35:20 ID:1d4drIFg0

 ただ座禅する時のみ止の行をするのは除くのじゃ。
 他の時にはことごとく自分のしたことやしなかったことを観察するのじゃ。

 行住坐臥や話すときに皆止観をともに行じるのじゃ。
 いわゆる諸法の自性は、不生であるがまた因縁和合する善悪の業、苦楽の報いは失うことも壊れることもないと念じるのじゃ。
 因縁善悪の業の報いを念じるといっても、なおまたまた性は得られるものではないと念じるのじゃ。

 もし止を修行すれば、凡夫の世間に住み執着することを退治して、二乗の怯弱い見解をすとるのじゃ。
 もし観を修行すれば、二乗の大悲を起こさない狭く劣った心の過失を退治して、凡夫が善根を修行することもできるのじゃ。

 このような意義があるから、この止観の二門は、共に相助成して、相捨離することもないのじゃ。
 もし止観を修行しないならば、悟りの道に入ることも出来ないのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 12:40:04 ID:D5cVyf3c0
42.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号44-45)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号62-63)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

▲防退方法勸生浄土文  

 復次衆生初學是法欲求正信其信怯弱以住於娑婆世界自畏不能常値諸佛親承供養懼謂信心難可成就意欲退者當知如來有勝方便攝護信心謂以專意念佛因緣随願得生他方佛土常見於佛。永離悪道如

     復(また)次に、衆生、初めて是の法を學(がく)し、正信(しゃうしん)を欲求(よくぐ)するに、其の信怯弱(こにゃく)に
    て、此の娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸佛に値(あ)って、親承し、供養すること能(あた)はざるを畏(おそ)る。
    懼(おそら)くは、信心成就すべきこと難(かた)し謂(おも)ひ、意に退せんと欲する者は、當(まさ)に知るべし、如來に
    勝方便有りて、信心を攝護す。謂(い)はく、專意念佛の因緣を以て、願に随って、他方の佛土に生ずるを得(う)、
    常に佛を見て、永く悪道を離る。

 修多羅説 若人專念西方極楽世界阿彌陀佛。所修善根廻向願求生彼世界即得住生 
 常見佛故終無有退。若觀彼佛眞如法身常勤修習畢竟得生住正定故

     修多羅に、若し人、專(もっぱ)ら西(さい)方極楽世界の阿彌陀佛を念じ、修する所の善根を廻向(ゑかう)して、
    彼(か)の世界に生ぜんと願求(ぐわんぐ)すれば、卽ち住生することを得と。
     常に佛を見るが故に、終(つひ)に退すること有ること無し。若し彼の佛の眞如法身を觀じ、常に勤めて修習(しゅ
    じふ)すれば、畢竟して生ずることを得。正定(しゃうぢゃう)に住するが故に。

▲正宗五分ノ第五(テキストは表記は四) 勸修利益分  

 已説修行信心分。次説勸修利益分。
 如是摩訶衍諸佛秘藏。我已總説
 若有衆生欲於如來甚深境界得生正信。遠離誹謗。入大乘道當持此論思量修習究竟能至無上之道。
 若人聞是法已。不生怯弱當知此人定紹佛種必爲諸佛所授記
 假使有人能化三千大千世界。滿中衆生令行十善。不如有人於一食頃正思此法過前功徳不可爲喩

     已(すで)に、修行信心分を説けり。次に勸修利益分を説かん。
     是くの如きの摩訶衍(ゑん)は、諸佛の秘藏なり。我已に總じて説く。
     若し衆生有って、如來甚深(じんじん)の境界に於て、正信を生ずることを得て、誹謗をし、大乘の道(だう)に入
    らんと欲せば、當(まさ)に、此の論を持して、思量し修習し究竟(くきゃう)し、能く無上の道(だう)に至るべし。
     若し人、是の法を聞き已(おは)って、怯弱(こにゃく)を生ぜざれば、當に知るべし、此の人は定(さだ)んで佛種を
    紹(つ)ぎ、必ず諸佛の爲に授記せられん。
     假使(たとひ)人有って、能く三千大千世界の中(うち)に滿てる衆生を化(け)して、十善を行ぜしめんも、人有っ
    て、一食頃に於て、正しく此の法を思はんには如かじ。前の功徳に過(く)ぐること、喩(たとへ)と爲すべからず。
(´・(ェ)・`)b

382鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/28(木) 23:33:01 ID:1d4drIFg0
 又次に衆生が初めてこの法を学んで、正信を欲求する時、その心が怯弱でこの娑婆世界に居るから諸仏に会って親しく供養できないことを恐れたりするかもしれん。
 恐らくは信心が成就することは難しいと思って、やめてしまうかもしれんのじゃ。
 そのような者達は如来に勝れた方便があって、信心の者達を擁護することを知るべきなのじゃ。

 いわく専らに念仏すれば、その因縁で願うとおりに、他の仏土に生まれることができるのじゃ。
 そこで常に仏陀を見て、永久に悪道を離れられるのじゃ。

 経典にはもし人が専らに西方浄土の阿弥陀如来を念じて、修めるところの善根を回向して、その世界に生まれたいと願うならばいそこに生まれると説いているのじゃ。
 そこで常に仏陀を見ているのであるから退転することはないのじゃ。
 もしその阿弥陀如来の真如法身を観じ、常に勤めて修行すれば、最終的には西方に行けるのじゃ。
 それが正しい定であるからなのじゃ。

 既に修行信心分を説いたのじゃ。
 次は勤修利益分を説くのじゃ。

 このような大乗は諸仏の秘蔵なのじゃ。
 我はそれを総じて説いたのじゃ。

 もし衆生が如来の甚だ深い境界を信じて、誹謗を遠離して、大乗の道に入ろうと思うならば、正にこの論をもって、思量して、実践を究めれば無上の道に入れるのじゃ。
 もしこの法を聞き終えて怯弱を生じない者がいるならば、そのような者は仏陀の世継ぎとなり、必ず諸仏に悟れると予言されるのじゃ。
 たとえ三千世界に満ちるほどの人を教化して十善を実践させても、その功徳は食事の時間ほどの間でもこの法を思うことで起こった功徳にはかなわんのじゃ。
 その功徳は比べることも出来ないほどなのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2022/04/28(木) 23:55:33 ID:aUvETSdc0
43.
大乗起信論 : 漢和両訳(漢訳)(コマ番号45-46)国訳大藏経. 論部 第5巻(和訳)(コマ番号63-64)
*漢文、章割は漢和両訳に従い、和文、段落分けは国訳大藏経に従った。

 復次若人受持。此論觀察修行若一日一夜所有功徳無量無邊不可得説。假令十方一切諸佛各於無量無邊阿僧祇劫。歎其功徳亦不能盡。何以故謂法性功徳無有盡故。此人功徳亦復如是無有邊際

     復(また)次に、若し人、此の論を受持して、觀察し修行すること、若くは一日一夜ならんも、所有(しょう)の功徳  
    は、無量無邊にして、説くことを得べからず。假令(たとひ)、十方一切の諸佛、各(おのおの)無量無邊(へん)阿僧 
    祇劫に於て、其の功徳を歎ずるも、亦盡くすこと能(あた)はず。何を以ての故に。謂はく、法性(ほっしゃう)の功徳
    は盡くること有ること無きが故に。此の人の功徳も、亦復(またまた)是の如く邊際有ること無し。

     
 其有衆生於此論中毀謗不信所獲罪報經無量劫受大苦惱是故衆生伹應仰信不應毀謗以深自害亦害他人斷絶一切三寶之種以一切如來皆依此法得涅槃故。一切菩薩因之修行得入佛智故
 
     其れ衆生有って、此の論の中(うち)に於て、毀謗(きぼう)して信ぜずんば、獲(う)る所の罪報は、無量劫を經て、    大苦惱を受けん。是の故に衆生は、但(ただ)應(まさ)に仰(あふ)いで信ずべし。不應(まさ)に毀謗して〔すべから 
    ず〕、以て深く自ら害し、亦他人を害し、一切三寶の種を斷絶すべからず。一切の如來は、皆此の法に依って、 
    涅槃を得たまへるが故に。一切の菩薩、之に因って修行し、佛智に入るを以ての故に

 當知過去菩薩已依此法得成浄信現在菩薩今依此法得成浄信未來菩薩當依此法得成浄信是故衆生應勤修學
 
     當に知るべし、過去の菩薩は、已(すで)に此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得たり、現在の菩薩は、
    今此の法に依って、浄信を成(じゃう)ずることを得、未來の菩薩は、當に此の法に依って、浄信を成ずることを得 
    べきが故に。衆生應に勤めて修學すべし。

     
●流通分     

 諸佛甚深廣大義 我今随分總持説
 廻此功徳如法性 普利一切衆生界

      諸佛の甚深(じんじん)廣大の義を 我、今、随分し總持して説きたり、
      此の功徳の法性(ほっしょう)の如きを廻(めぐら)して、普(あまね)く一切衆生界を利せん。

以上で、『大乘起信論』おわりであります。
鬼和尚、ありがとうでありました。
次に取上げるべきおすすめの書籍があれば、ご教示いただきたく、お願い申し上げます。
(´・(ェ)・`)b

384鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:49:20 ID:1d4drIFg0
 また次にもしある人がこの論を受持して、観察して修行すること一日か、一夜であったとしても、得る功徳は無量無辺であり、説くこともできないほどなのじゃ。
 たとえ十方の一切の諸仏が各々、無量あそぎ劫もその功徳を賛嘆しても、尽きないほどなのじゃ。
 なぜなのか。
 
 法性の功徳は尽きないからなのじゃ。
 この人の功徳もまた限界がないほどなのじゃ。

 もしある衆生がこの論を誹謗して信じないならば、得る罪報は無量劫も大苦悩をうけるほどなのじゃ。
 そうであるから衆生はこの論を信仰するのじゃ。
 誹謗したりすれば、深く自分を害し又他人をも害して、一切の三宝の種子を断つことになるのじゃ。

 一切の如来は皆、この法によって涅槃を得たのであるから。
 一切の菩薩は、これによって修行して、仏智に入るからなのじゃ。

 まさに知るとよいのじゃ。
 過去の菩薩は既にこの法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 現在の菩薩は今この法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 未来の菩薩はまさにこの法によって、浄信を成就することができるじゃろう。
 衆生はまさに勤めて修行し学ぶとよいのじゃ。

 諸仏の甚だ深く広く大きな法の意味を、我は今、意味の通りに従って記憶して説いたのじゃ。
 この法性の如き功徳を、回向して遍く一切衆生に利益を得させるのじゃ。

385鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:50:27 ID:1d4drIFg0
>>383 ご苦労さんだったのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
 つぎはまだないから休むとよいのじゃ。

386鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/30(土) 22:07:46 ID:1d4drIFg0

 まとめなのじゃ。

 この論は大乗の教えを総じて説いたものじゃ。
 そうであるから時々二乗が劣っていると、書いてあるが妄想であるから捨てて善いのじゃ。

 この論で重要なのは真如というものが衆生にあると説いたところなのじゃ。
 全ての観念を捨てれば、真如に至れると実践の法も教えているのじゃ。
 それが大事なのじゃ。

 全ての衆生に真如はあるのであるから、自分は悟りを得られないのではないかとか、思わなくて善いのじゃ。
 真如は心の奥底にあり、観念がなければ誰でもたどり着けるのじゃ。

 そして真如は不空であり、大きな功徳があるというのじゃ。
 大抵の大乗の経論等には、空の法を説いているから、全ては空と説くのじゃ。
 しかしこの論では、空とはただ執着や観念を捨てるための方便であるというのじゃ。
 その方便によってたどり着いた、真如は空ではなく、大きな功徳があると言うのじゃ。

 その功徳とは当然ながら悟りの功徳なのじゃ。
 一切の苦から逃れ、永遠の喜びに回帰する大きな功徳なのじゃ。
 それがこの論で最も記憶すべき重要な教えといえるのじゃ。

387避難民のマジレスさん:2022/06/22(水) 23:07:37 ID:dsxzq4TQ0
『パーマティー』和訳

帰敬偶
 1.我々は、[まず]、不死であり、無限の幸福であり、無限の知であるブラフマンに 帰命する。[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない二種の無明に助けられ1、 この主宰者(ブラフマン)は、[現象世界を構成する]虚空と風と火と水と地となって仮現(vivarta)した2。また、こ[のブラフマン]から、現象世界の中の動くものと動 かざるもの3一(それには)種々なものがある一もすべて、生じたのである。
 2.この[ブラフマンの]息がヴェーダであり、眼差しが五元素(虚空・風・火・水・ 地)であり、微笑が動くものと動かざるものであり、眠りが[現象世界の]最終的掃滅である。
 3.[次に]我々は,永遠なるヴェーダとバヴァ神(シヴァ神)に帰命する。[このう ち、ヴェーダには]六種の補助学(ańga)4が付属しており、種々の不変化詞(avyaya) が含まれている。一方、また、[バヴァ神にも]六種の部分(ańga)5と種々の特質 (avyaya)6が備わっている。
 4.[次に]、我々は、マールタンタ神(太陽神)とティラカスヴアーミン神(力一ルッティケーヤ神)7とマハーガナパティ神8に帰命する9。[というのは、これらの神々は]あらゆることをかなえてくれる[ので]、万人の崇敬の的だ[からである]。
 5.[次に、我々は]『ブラフマ・スートラ』の著者ヴェーダ・ヴヤーサ10に帰命する。 [彼は]ハリ神(ヴィシュヌ神)の知的能力の化身であり、[種々な聖典の]創造主(著者)11で[も]ある。
 6.[最後に]我々は、[『ブラフマ・スートラ註解』の著者]シャンカラー[彼は]清らかな知を備え、海のように深い慈悲の心を備えている一に帰命する。そして、師 (シャンカラ)の著した明析かつ深遠な『註解』を[本書『パーマティー』の中で]解 説してゆくつもりである。
 7.我々の言葉は汚れていても、師の著作に触れることで清められるのである。ちょうど、路上の水がガンジス河に流れ込んで清められるように。

脚注
1二種の無明とは、「無始の実体」としての無明と「それぞれ前の誤認より生じた潜在印象」としての無明である。
2仮現とは、不二一元論学派に特有の考え方で、『ブラフマ・スートラ』が現象世界をブラフマンの展開と考え、両者に同等の実在性を認めていたのに対し、シャンカラ以後は現象世界 にブラフマンより低い実在性しか認めないという仮現説に変わってゆき、プラカーシャートマン(890-980 頃)において、いわゆる仮現説が成立した。
3動くものと動かざるものとは個人存在のことである。
4六種の補助学(ańga)とは、祭事学・音韻学・韻律学・天文学・語源学・文法学である。
5六種の部分(ańga)とは、全智者性・充足・無始の悟り・独立性・常に損なわれることのない力・不可思議な力であるなお、 (4)と(5)のańgaは、原文では、これら二種の意味を含 む掛詞となっている。
6種々の特質として、Vedākarupataru、は、次の十種(avyaya)を 挙げている。智・離欲・主宰者・苦行・真実・忍耐 ・堅忍・創造者性・自己覚醒・支配者性。なおこの語も、原文では、不変化詞(avyaya)との掛詞になっている。
7シヴァ神の息子で軍神として名高い神である。
8シヴァ神の息子で象の顔と人間の体を持ち、知恵の神・障害を取り除いてくれる神として崇拝されている。
9Vedāntakalpatruは、典拠として次の文を引用している。「常にア−デイトヤを供養し、スヴァーミンのティラカ(額標)をつけ、マハーガナパティを供養する者は必ず成功を得るだろう」。
10ヴェーダ・ヴヤーサとは、ヴェーダの編者ヴヤーサのことで、彼は、伝説上の聖仙である。『マハーバーラタ』や諸プラーナも、伝説上彼の編纂とされている。
11彼が創造主に比せられるのは、ハリ神の知的能力の化身であることによる。


文中、文末の数字には、脚注が付されているが、くま判断で、本文理解に必須と思われるもの以外は、原文表記は省略した。
(´・(ェ)・`)つ

388避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 07:43:44 ID:buUDcD120
くま質問
脚注の>「無始の実体」としての無明   とは、ブラフマン=全て、に含まれている「無明」という意味でありましょうか?
全てであるから、有も無もなく、従って、本来無い、「無明」、みたいな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

389鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/23(木) 23:11:08 ID:1d4drIFg0
↑ それは始まりもない昔からある無明という意味じゃな。
  本来実体としては無いものであるが、衆生には実体としてはたらくからそのようにいうのじゃ。
 ただ自分が昔からあるという観念なのじゃ。

390避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 23:52:11 ID:sirSeXnI0
『パーマティー』序論  
1.『註解』冒頭文の趣旨説明
1.1。ブラフマンは考察の対象に価しないという反対主張  p201-202  

  [反対主張]疑問の余地のないものや無意昧なものは、賢者の考察の対象[に価し] ない。[疑問の余地のないものとは]、たとえば、思考器官(manas)と結合した感覚 器官が、明るい光のもとで接触した壷12である。また[無意昧なものとは]、たとえば、 烏の歯である。そして、[もし、ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら]、このブラフマンも、[疑問の余地がなく無意昧なものであると いう点では、壷や烏の歯と]同様である13。従って、[ブラフマンには]、領域を覆うもの(vyāpaka)[である疑問の余地があり意味のあるものであるという性質]14とは相反する[領域に存在する性質、すなわち、疑問の余地がなく無音味なものであるという性質]が認められる。[従って、ブラフマンは考察の対象に価しないのである。]
  詳論すれば以下の通りである。[ウパニシャッドでは、アートマンとブラフマンの同一 性が次のように説かれている]。すなわち、[アートマンだけが]偉大であり(brhatva)、 [身体等を]成長させる[存在]である(brmhatva)。従って、アートマンだけがブラフマンと呼ばれるのである」15と。身体・器官・統覚機能(buddhi)・思考器官16ー [それらは]、「これ」という語(経験)の対象の対象(idamkārāspada)17である一とは異なり、こ[のアートマン]は、「私」という直接経験(aparokusāubhava)一[それは]疑いの余地がなく錯倒することのない[経験]である一によって、虫や蛾から神々や聖仙に至るあらゆる生命体に広く知られている。それ故、[アートマンは]考察の対象[に価し]ない。というのは、この世の中に、「私は存在しているのかいないのか」と疑う者は誰もいないし、「私は存在しない」と錯倒した[考えを抱く]者はいないからである。

脚注
12ニヤーヤ学派の知覚論では、直接知覚は、対象一感覚器官一思考器官一アートマンが結合した時に得られるとされている。この種の結合が存在しかつその時に外界の光が不足していなければ、常に正しい知覚が得られるのである。
13『ブラフマ・スートラ』は、冒頭のスートラⅠ.1.1で、その書の考察の対象がブラフマンであることを述べ、スートラI.1.3では、そのブラフマンが、聖典すなわちウパニシャッドから知られることを述べている。この立場は、ヴェーダーンタ学派の基本的立場であり、『ブラフマ・スートラ註解』も複註『パーマティー』もそれを受けついでいる。ここで反対主張が提示しているのは、この立場に対する疑問である。
14領域を覆うもの(vyāpaka)とか領域を覆われるもの(vyāpya)とは、推論において用いられる概念で、・・・丁寧な脚注がつづくが、長いので省略する。
I5ここでは・Brahmanの語義を/brh(増大する)、/brmh(成長させる)という語源から説明しているのである。
16個人存在は、アートマンとその添性を構成する五種の構成要素よりなる。すなわち、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)語・手・足’排便器官・生殖器官の五種の行動器官、(4)視覚・聴覚・臭覚・味覚、触覚の五種の感覚器官(5)統覚機能・思考器官という内官からなる。
17「これという語(経験)と訳したidamkāraという語は、私という語(経験)と訳(し)たahamkāraという語と対をなしており、ahamkāraという語か、ahampratyaya(私という観念)やahamanubhava (私という経験)と同義であるということに見られるように、語レベルと観念や経験レベルのものの両者を含み込んだ語である。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、いつもありがとうであります。

391鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:15:08 ID:1d4drIFg0

 ↑どういたしまして、またおいでなさい。

392鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:24:51 ID:1d4drIFg0

 これはバーチャスパティミシュラが書いたバーマティーの主要部分の抜粋なのじゃ。
 シャンカラが書いたブラフマ・スートラの注解をさらに注解したのじゃ。

 最初にブラフマンとアートマンが一つであり、自己を疑うものはいないから、考察するべきではないという反対意見が出されたのじゃ。
 想定問答なのじゃ。

393避難民のマジレスさん:2022/06/24(金) 23:51:41 ID:IwvwqAX.0
つづき    p202-203
  「『私はやせている。私は太っている。私は行く云々』という表現(経験)に見られ るように、私という語は、身体の属性[を表わす語]と同格関係(sāmānyādhikarnya) 18にあるから、その対象が身体である」というのは誤りである。何故なら、[「私」とい う語(経験)の]対象がそれ(身体)であるとすると、「子供の頃、両親[と共に過ご した]経験を持つ同じ私が、老人となって、[今]、孫達[と共に過ごすこと]を楽しんでいる」という再認識(pratisamdhāna)は存在し得ないことになるからである。と いうのは、子供の頃の身体と老人になった時の身体には、再認識の手がかりとなるもの一もし、そ[の手がかり]があれば、[両者の]同一性が確認しうるのだが が、 全く[認められ]ないからである。従って、変化してゆくものの中にあって変わるこ となく存在するものは、それら(変化してゆくもの)とは異なってい。たとえば、花 びら[を繋ぎとめている、花輪の]糸が、それら(花びら)とは異なっているように。 それと同じように、身体は、子供の頃[から老人になるまで]次々と変化していっても、「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく[身体中に]存在している[ので、それは]それら(身体)とは異なっているのである。また、 夢の中で[人問の身体とは]別の神の身体を得て、そ[の神の身体]にふさわしい楽し みを味わい、目が醒めた時、自分の身体が人問のものであるのを見て、「私は神ではなかった。人間だったのだ」と、[夢の中の]神の身体を拒斥することがある、[その時]でも、「私」という語(経験)の対象は拒斥されない。[このことからも、「私」という
語(経験)の対象が]身体と異なることは明らかである。また、[聖者は]、ヨーガの力で虎となり、[人問の身体と]別の身体[を得て]も、アートマンに変わりがないことを体験している。それ故、「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。この[「私」という語(経験)の]対象が、器官ではないのも、同じ理由による。というの は、「私は、[以前、視覚を通して物を]見ていた。その同じ私が、今、[触覚を通して物に]触れている」という[経験に見られるように]、「私」という[語(経験)の]対象は、[用いられる]器官が異なっても、再認識されているからである。一方、こ[の 「私」という語(経験)の対象]が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、[「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というの は]、統覚機能や思考器官19は、[行為する時に用いられる]手段[であるから]、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現[に用いられる「私」という語]の対 象ではありえないからである。従って、[「私」という語(経験)の対象が身体等と]同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、「ベッドが叫んでいる」など[の表現]と同じように、ある種の比喩的用法(aupacārikā)だと[考えるの が]正しいのだ、と我々は思っているのである。

脚注
18 同格関係は、語レベルでは、複数の語の示す対象が同一であることを示し、存 在レベルでは、複数の属性が同じ基体に存在することを示す語である。
ここでは前者の意味で、「私」という語は「太っている」という語と同格関係にあり、「太っている」とい う語の示す対象は身体であるから、「私」という語の対象も身体ということになる。
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

394鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/25(土) 22:53:08 ID:1d4drIFg0

 ここでは私という主体が肉体ではないと説かれるのじゃ。
 さらに意思決定のための器官や思考のため器官も私ではないと説かれるのじゃ。
 それらは主体によって用いられる手段に過ぎないからというのじゃ。
 言葉によって私が行為するとか、決定するとか、思考するというのは比喩として用いられるだけなのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2022/06/25(土) 23:25:00 ID:GCyNwt.I0
つづき   p203-204
  それ故、全く自明な「私」という経験(anubhava)によって理解されるアートマンは、 「これ」という語(経験)の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。このことが、[まず、これまでの論議により]確認された。
  [また、アートマンが、考察の対象に価いしない第二の理由は、それが]無意味なものだからである。詳論すれば以下の通りである。この[アートマンの考察]に関して、 [ヴェーダーンタ側が]主張しようとしている[考察の]意味(目的 prayojana)は、 輪廻の止滅(samsāranivrtti)すなわち解脱(apavarga)である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに[人々が]開眼(anubhava)しないところにある。 [従って]ありのままのアートマンが知られれば、[輪廻は]止滅するはずである。[これがヴェーダーンタ側の主張であろう]。しかし、この[輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識(ātmayāthātmyajñāna)もまた無始である。[従って、 これらはたえず]共存している。[それ故、ありのままのアートマンが知られたところで]、どうしてこ[の輪廻]が止減したりしようか。というのは、[これらは]相反する ものではないからである。また、[人々が]ありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という万人に自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。[従って]ウパニシヤッドが千[集まって]も、[このアートマンを]別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、[「私」という自明の]経験と反するからである。実に、聖典は、千[集まって]も、壷を布に変えるこ とはできないのである。それ故、[「私」という自明の]経験と反するから、[アートマンとブラフマンの同一性を説く]ウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と[理解するのが]正しい。[これが]我々の考えである。
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/26(日) 22:46:26 ID:1d4drIFg0

 以上のような手段によらない直接経験の主体は、疑問の余地もないものであるから考察に値しないというのじゃ。
 
 さらに二つ目の理由が語られるのじゃ。
 それは無意味であるからというのじゃ。
  
 アートマンの知識とは輪廻があるかぎり存在するものであるというのじゃ。
 その知識によって輪廻がとまるわけではないからというのじゃ。
 
 私という直接経験が得られればアートマンに開眼するというのじゃ。

 そして知識によってアートマンがブラフマンに変化するものできないというのじゃ。
 その知識は比喩でしかないから無意味というのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2022/06/26(日) 23:28:57 ID:D5cVyf3c0
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 204-206 104左/229

  「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象で ある客観は、光と闇のように本性が相反しており、[主・客が]互いに入れ換 わること(itaretarabhāva)は起りえない。[この事実は]広く認められているので、そ(主観と客観)の諸属性に関しても、互いに入れ換わることはなおさら起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤り(mithyā)であると[理解するのが]正しい。[にもかかわらず・・・・]

  [反対主張者が]このような(先に紹介したような)考えを抱いて[まず]疑問を提示し、[それに対し、師シャンカラが答えているのが]「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]は[云々の箇所]である。このうち、「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]はから誤りであると[理解するの]が正しいまでが、[反対主張者の]疑問の箇所であり、にもかかわらず以下が、[それに対する]答えの個所である。この[答えの箇所には]にもかかわらず(tathā api)と述べられているので、疑問の個所に、たとえ...であっても(yady api)[という語]を[補って]読むべきである。[この箇所は]「私」という観念の対象[である主観]と「これ」という観念の対象[である客観]は、と言うぺきところであるが、[ここで]「汝」[という語]が用いられているのは、[主・客が]完全に異なることを暗示するためである。その典拠は、「『汝』という語は、『私』と いう語と相入れない(pratiyogin)。しかし、『これ』という語はそうではない。何故なら、『これが(ete)私達である。この(ime)私達が座っている』という用法が、よく 見られるからである」と[いう章句にある]。主観(visayin)とは、純粋精神を本質と するアートマンのことであり、客観(visaya)とは、物質を本質とする統覚機能・器 官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)[が対象と呼ばれるの]は、 純粋精神であるアートマンを対象化する(visinvanti)22するからである。[すなわち、 アートマンを]束縛したり、[形態のないアートマンを]自己の形態で規定したりなどするからである。[このように主・客の]本質が完全に相反するところに、相互附託の 起りえない理由があり、[その]例として、光と闇のようにと[述べられているのである]。というのは、光と闇のように明らかに異なる存在(samudācaradvrttinī)23か互 いに[相手の]本質を共有しあっていると考えることは、決して誰にもできないから である。[このことが本文中では、主・客が]互いに入れ換わることが起りえないと述べられているのである。[主・客が]互いに入れ換わるとは・[主・客が]互いに[相手の]性質を有すること(itaretaratva)・[主・客の]同一性(tādātmya)等[の意味]である。[そして]それ(互いに入れ換わること)が起りえない時にというのが、[文の脈略である]。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通 して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22ここでは、対象(visaya)の語源を/vis(束縛する)という動詞から説明しているのである。
23
(´・(ェ)・`)
(つづく)

398避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 10:44:15 ID:mgKnwXpc0
くまなりまとめ1。『パーマティー』序論  1.『註解』冒頭文の趣旨説明 

反対主張 
(一)考察の対象に価しない理由1
1、賢者の考察の対象は、疑問の余地があるものであるべき。ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら、このブラフマンは、疑問の余地が無い。(論理的反対主張)
2、(語源的には、)アートマンが偉大であり(brhatva)、 身体等を成長させる[存在]である(brmhatva)ので、ブラフマンと呼ばれるのであり、身体、感覚、思考等とは異なる。
3、身体、感覚、思考等は、経験を通して観念を介して間接的に知れるものであるが、「私」という「直接経験」は疑いの余地が無い。
4、私という語は、身体の属性を表わす語と同格関係にあるから、その対象が身体である
 というのは誤りである。
 加齢に従い身体は変化するが、

 変化してゆくものの中にあって変わることなく存在するものは、それら変化してゆくものとは異なっている。
 「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく身体中に存在しているので、それはそれら(身体)とは異なっているのである。
 「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。又、器官でもない。
 「私は、以前、視覚を通して物を見ていた。その同じ私が、今、触覚を通して物に触れている」という経験に見られるように、「私」という語(経験)の対象は、用いられる器官が異なっても、再認識されているからである。
 一方、この 「私」という語(経験)の対象が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というのは、統覚機能や思考器官19は、行為する時に用いられる手段であるから、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現に用いられる「私」という語の対象ではありえないからである。従って、「私」という語(経験)の対象が身体等と同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、ある種の比喩的用法だと考えるのが正しいのである。

脚注
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。

  全く自明な「私」という経験によって理解されるアートマンは、「経験」の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。

(ニ)考察の対象に価しない理由2
 アートマンを考察の対象にすることが無意味だからである。
 ヴェーダーンタ側が主張しようとしている考察の意味(目的)は、 輪廻の止滅すなわち解脱である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに人々が開眼しないところにある。 従ってありのままのアートマンが知られれば、輪廻は止滅するはずである。これがヴェーダーンタ側の主張であろう。しかし、この輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識もまた無始である。従って、 これらはたえず共存している。それ故、ありのままのアートマンが知られたところで、どうしてこの輪廻が止減したりしようか。というのは、これらは相反する ものではないからである。また、人々がありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。従って、このアートマンを別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、「私」という自明の経験と反するからである。従って、アートマンとブラフマンの同一性を説くウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と理解するのが正しい。

何やら、説得力のある反対主張と思えてしまうくまであります。
(´・(ェ)・`)ゞ

399鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/27(月) 23:07:57 ID:1d4drIFg0
 ↑そのような理解でよいのじゃ。

 それに対する反論として、まずは主客が入れ代わったりしないことをシャンカラは述べているというのじゃ。
 光と闇のように主客はあいいれない性質であるというのじゃ。
 つまりアートマンと、意思とか思考の機能はいれかわることはないというのじゃ。
 相互に依託する事もないというのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 23:33:02 ID:bd.fxOME0
(つづき)   206-207
   [反対主張に対する反論][主観であるアートマンと客観である統覚機能等という]基体[どうし]を互いに入れ換える(相互に附託しあう)ことはないだろう。しかし、 そ[の基体]の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことはありうるのではないか。というのは、[よく]経験されるように、基体[どうし]が違うことは分かっていても、その諸属性を附託することはあるからである。たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと[思う。このように、花の属性である]赤さが[水晶の属性と]誤認されること(vibhrama)があるのである。
   [反対主張者の答え]だから[本文中で]その諸属性に関してもと言っているのである。
[主・客の]諸属性が互いに入れ換って[別々の]基体に存在すること(itaretaratra,dharmini dharmānām bhāvah)、すなわち、相互に交換されること(vinimaya)、そ れは起りえない。[本文のこの箇所の]趣旨は以下の通りである。実に、色彩(rūpa) のある場合には、実体(dravya)Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、[Bの]影を宿し、[AにBの属性があると誤解されることがあり]得るで あろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がない[ので]、客観の影が映ることはありえない。たとえば、[クマーリラも]「[色形のない]音声・香・味等が、どうして、[他のものに]反映しようか」24と言っているではないか。従って、この 場合には、消去法(pāriśasya)25を用いることにより、主観と客観の本質を互い.に混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換される[という可能性]が残ることになる。[それ故]もし、これら[主観と客観という]基体[どうし]が完全に異なることを理解して、[その両者を]混同[さえ]しなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。何故なら、[属性間の関係は]それぞれの基体を介在して[成りたって]いるので、[基体間の関係に比べて]疎遠だからである。だから、[本文中に]なおさら[・・・ない]と述べてあるのである。それとは逆にとは、客観とは逆にという意味である。[また]誤り(mithyā)という語は隠覆(apahnava)26を意味している。
   [従って、本文前半部の]趣旨[を要約すれば]次の通りである。すなわち、「[XとYとの]附託[が存在する領域]は、[両者の]違いに対する無理解[の存在する]領 域により覆われ(vyāpta)27ている。しかし、こ[の主観と客観の場合]には、それとは逆で、[主・客の]違いが理解されている。[従って]これ(主・客の違いに対する理解)が無理解を取り払えば、この[無理解の存在する]領域に覆われている附託も取り 払われることになる」[というのが趣旨である]。[そして]、たとえ[附託は]誤りで ある[と理解するのが]正しくても[という前半部は]にもかかわらず[以下の後半部 に]かかっていくのである。

脚注
24
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合で、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。
26隠覆という語は、誤りが物事の真の姿を覆い隠すことから、ここで誤りと 同義語とされている。Pańcapādicāも、この同じ箇所に対する註で、誤り(虚妄)という語には この隠覆と[非実であるとも非実在であるとも]表現し得ないことの二義あることを述べ、この個所では隠覆の意味にとっている。Bhāmatīもこれに従ったのであろう。
27脚注14参照。
(´・(ェ)・`)つ

401鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/28(火) 23:39:12 ID:1d4drIFg0

 次は基体が入れ替わったり、付託することはなくとも属性が付託されることはあるのではないかというのじゃ。
 透明な水晶に赤い花が反映すると、赤い属性が付託されるようにというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 主観であるアートマンは色形がないので、客観の影が反映することはありえないというのじゃ。
 もしそのように誤認したのならば、それは主観と客観の本質を理解せずに混同したときだけというのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:43:05 ID:t8tOrmO.0
1.3.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[I]に価するという教証  p207-210 105右/229

  ここ(本文の後半部)では、[先に紹介した反対主張に対して、師シャンカラは]、も し「私」という経験にアートマンの真の姿(砒matattVa)が顕現しているのなら、[反 対主張者の]言う通りだろうが、[実際にはコそうではないのだ、ということを言お
うとしているのである。詳論すれば次の通りである。天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プ ラーナには、アートマンの真の姿は、あらゆる添性(upadhi)28に限定されない、無
限の歓喜・精神性そのものであり、無関心(ud酎na)であり、不二(advitTya)であ る、と説かれている。これら[天啓聖典等の章句コは、序論部(upakrama)・本論部 (paramar≦a)・結論部(upas岬hara)を通じて、アートマンのこのような真の姿を繰
り返し(kriy語amabhiharepa)述べている。[従ってコそれ(アートマンのこのような 真の姿)が[天啓聖典等の章句の]主題である。[それ故たとえ]インドラ神でも、[こ れらの章句を]比喩的意味に解することはできない。その典拠は、「『なんて美しいん だろう。なんて美しいんだろう』[という例に見られるコように、繰り返して述へれば (abhy語ena)、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない」29と[いう章句にある]。一方、「私」という経験の示す ところによれぱ・アートマンは・有限であり・多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされ てい乱[この「私」という経験の]対象が・どうして・アートマンの真の姿であった
りしようか。また、どうして、[私という経験に]誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、[聖典よりコ先に存在する認識根拠(jye§tapram師a)30で
あ乱[従って]聖典はそれ(直接知覚)に基づいている。[アートマンとブラフマンの 同一性を説く]聖典は・[この]直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つか[のいずれか]である。
   [答論]こ[の反対主張]は誤りである。何故なら、[聖典]自身から生じた認識の妥当性[を証明するの]に、[聖典が他の認識根拠を]必要とすることはないからであ る。[その第一の理由は]、それ(聖典)は、[天啓であって]人間の手になるものでは ないので、欠陥があるのではと疑う余地が全くないからである。[また、第二の理由は、 他の認識根拠では知ることも拒斥することもできない事柄が、聖典から]知られることからも分かるように、それ(聖典)は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張][確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた]認識の妥当性[を証明するの]に、[直接知覚に]基づくことはない。しかし、[聖典から認識が]生ずるため には、直接知覚が必要である31。[ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は]、そ[の直接知覚(私という経験)]に反している。従って、[この場合、聖 典から認識が]生じないことになり、[聖典は]誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、[アートマンという真理に関する認識を]生み出す[聖典]は、[直接知覚には]反しないからである。何故なら、もし[聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を]否定すれば、[聖典から認識が生ずる ための]原因が存在しなくなるので、[認識が生じ]ないことになる。しかし、[実際には]、聖典[から生ずる]認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、[聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の]究極的な(アートマンとい う真理に対する)認識の妥当牲である。また、それ(究極的な認識根拠としての直接知覚)は、それ(真理の認識)を生み出すことはない。というのは、よく経験されるよ うに、真理の認識は、世俗的な認識根拠[としての直接知覚]一[それが]究極的な (アートマンという真理に対する)認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるか らである、たとえば、[世の人々が]、長いとか短いなどの性質一[それは、音声の属性であって音節の]属性ではないのだが一を、音節に附託して、「真理」を認識する根拠としているように。すなわち、世の人々は、ナーガという語から象を、ナガという 語から木を[それぞれ]理解するが、[それは]誤りではないのである。

脚注
29 30
31 語から認識が生ずるのは、語を聞いたときだけである。この意味で聖典(語)から認識が生ずるのには、直接知覚が必要である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

403避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:45:09 ID:t8tOrmO.0
くまなりまとめ2
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 

 「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象である客観は、主・客が互いに入れ換 わることは起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤りであると理解するのが正しい。
 主観とは、純粋精神を本質とするアートマンのことであり、客観とは、物質を本質とする統覚機能・器官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)が対象と呼ばれるのは、 純粋精神であるアートマンを対象化する22からである。すなわち、 アートマンを束縛したり、形態のないアートマンを自己の形態で規定したりなどするからである。このように主・客の本質が完全に相反するところに、相互附託の起りえない理由があり、その例として、光と闇のようにと述べられているのである。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22

  [反対主張に対する反論]主観、客観の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことがある(=反対主張?)のは、「誤認」に基づいている(=反論)。
たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと思う。このように、花の属性である赤さが水晶の属性と誤認されることがあるのである。
 [反対主張者の答え]色彩(rūpa) のある場合には、実体Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、Bの影を宿し、AにBの属性があると誤解されることがあり得るであろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がないので、客観の影が映ることはあり得ない。
主観と客観の本質を互いに混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換されるという可能性が残ることになる。25(反対主張の答?)
それ故もし、これら主観と客観という基体どうしが完全に異なることを理解して、その両者を混同さえしなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。
 
脚注
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合と、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。

くま質問
「統覚」をググると、↓
哲学,心理学用語。 対象がよく理解され明瞭に意識される知覚の最高段階,あるいは個々の知覚内容を統合する精神機能をさす。 カントによって対象を認識する前提としての意識の統一をさして用いられた
とあるが、脚注20では、>意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能・・・とされている。
これは、「統覚」=精神機能は、意思的な側面よりも条件反射みたいな、物質的側面が本質であるという理解で良いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

404鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:23:29 ID:1d4drIFg0
 ↑そうじゃろう。
 それも肉体の機能にすぎないというような感じじゃな。
 そうであるから主体ではなく、アートマンでもない客体であるというのじゃな。
 アートマンの法は主体でないものを全て排除していくから、全てと融合していくブラフマンの法とは道が違うということじゃな。

405鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:37:54 ID:1d4drIFg0

 聖典に述べられているアートマンは真の姿であり、比喩ではないというじのじゃ。
 また直接経験も間違うことがあるから、考察が必要というのじゃ。

 また反対意見なのじゃ。
 聖典は直接知覚に基づいて書かれただけというのじゃ。
 そのもの直接知覚ではないから誤謬か、比喩であるというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 聖典が誤謬か比喩でしかないならば、それを証明する他の経典が必要となるがそれはいらんというのじゃ。
 聖典は人が書いたのではなく神からの天啓であるからというのじゃ。
 さらに他の認識根拠では知られないことも、聖典で知ることができるからというのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2022/06/29(水) 23:41:27 ID:2Eoa7xoQ0
(つづき)    p210-213

  [反対主張][比喩的意味]以外に趣旨の[理解でき]ない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]こ[の反対主張]は誤りである。というのは、[シャヴァラ]が「儀軌の場合、語には、[原義]以外の意味はない」32と(述べている)からである。また、先に生じたものであるということは、[それが後に生ずるものには]必要でない場合には、[後に生ずるものに]拒斥される(bādhya)理由にはなるが、[後に生ずるものを]拒斥する(bādhaka)理由にはならない33。というのは、よく経験されるように、[真珠母貝を銀と見誤った時に]、銀の認識は[真珠母貝の認識より]先に生じてはいるが、後に生ずる真珠母貝の認識こよって拒斥されるのが経験されるからである。何故なら、それ (真珠母貝の認識)は、それ(銀の認識)を拒斥することで成り立っているので、それ(銀の認識)が拒斥されなければ、生ずることができないからである。そして、すでに明らかにしたように、究極的な(アートマンという真理に対する)認識根拠として[の直接知覚]は、[後に聖典から生ずる認識に]必要ではない。[従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである]。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭(prakrti) のように」34と、同じ趣旨のことを[述べている]。同様に、「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先[に生じた]ものより後に[生じた]もののほうが強力で ある、と理解すべきである」35と[いう章句もある]。


脚注
32ヴェーダは、儀軌・真言・祭名・禁令・ 釈義の五部門に分れる。「この中儀軌とはVeda中、未知の好ましき事柄を教える部分のことである。この儀軌は又、当該儀軌以外の量(認識根拠)によっては知ることの出来ない、有意義な結果をもたらす好ましい事柄を命ずるものであるという点にその存在意義を有する。 例えば、(『天界を望む者は[祭]を行うべし』とい う儀軌は、[当該儀軌]以外の量によっては知ることの出来ない、天界という有意義な結果をもたらす護 摩を行うことを吾等に命じているのである」。
33拒斥とは、本文中の銀と真珠母貝の例に見られるように、先に生じた認識を後に生じた認識が否定することである。不二一元論において、この拒斥の観念は、単に誤認を説明する手段であるばかりでなく、ブラフマンの知により、現象世界の真実性・実在性が拒斥されるというように、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
34「祭式は基本祭と応用祭とに大別できる。基本祭とはその祭式に対して従属関係にあるものがすぺてVedaの中で詳しく述べられている祭式のことである。応用祭とは基本祭に若干の変化をつけて行われる祭式のことである。このために応用祭について述べているVedaの章節中では応用祭に対して従属関係にある凡ゆる要素 が述べられているわけではなく、基本祭と異る部分だけが述べられている。そして基本祭と同じ部分は、『応用祭は基本祭にならって行うべし』)という拡張解釈の法則によって了解されるものとされている」。この場合、ヴェーダの 中で述べられている基本祭の従属要素(これが先に適用される)と、同じくヴェーダの中に述べられてい
る応用祭の従属要素(これが後に適用される)とが矛盾したら、後者が前者を拒斥して応用祭に適用される。例えば・基本祭ではクシャ草を供物として用いるように規定されていても、応用祭でシャラ草を用い るように規定されていれば、後者に従うのである。
35
(´・(ェ)・`)つ

>>402
訂正
以下の他、[  ]←が、コ になっている等細かい間違いがあります。

(matattVa)→ ātmatattva
(upadhi)→ upādhi
(ud酎na)→ udāsīna (advitTya)→ advitīya
(paramar≦a)→ parāmarśa
(upas岬hara)→ upasamhāra
(kriy語amabhiharepa)→
kriyāsamabhiharena
(abhy語ena)→ abhyāsena
(jye§tapram師a)→ jyestapramāna

407鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 00:51:32 ID:1d4drIFg0


 さらに反対意見なのじゃ。

 聖典から正しい認識が生じるためには、直接知覚が必要というのじゃ。
 しかし、聖典は直接知覚に反しているというのじゃ。
 そうであるから聖典からは正しい認識が生じないことになり、誤った認識根拠になるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は直接知覚には反しないというのじゃ。
 聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することはないからというじゃ。
 聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚のアートマンという真理に対する妥当性だというのじゃ。

 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。
 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。
 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。
 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。

408避難民のマジレスさん:2022/06/30(木) 10:11:20 ID:e7ptxvTU0
くまなりまとめ3
  天啓聖典等の章句は、アートマンの真の姿は、あらゆる添性に限定されない、無限の歓喜・精神性そのものであり、無関心であり、不二である、という、アートマンの真の姿を繰り返し述べている。従って、アートマンのこのような 真の姿が天啓聖典等の章句の主題である。それ故、こ れらの章句を比喩的意味に解することはできない。その典拠は、『繰り返して述べれば 、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない』29
一方、「私」という経験の示すところによれぱ、アートマンは、有限であり、多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされている。この「私」という経験の対象が、どうして、アートマンの真の姿であったりしようか。また、どうして、私という経験に誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、聖典より先に存在している。従って、聖典は直接知覚に基づいている。アートマンとブラフマンの 同一性を説く聖典は、この直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つかのいずれかである。
   [答論]この反対主張は誤りである。何故なら、聖典自身から生じた認識の妥当性を証明するのに、聖典が他の認識根拠を必要とすることはないからである。その第一の理由は、聖典は、天啓であって、疑う余地が全くないからである。また、第二の理由は、聖典は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張]確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた認識の妥当性を証明するのに、直接知覚に基づくことはない。しかし、聖典から認識が生ずるためには、直接知覚が必要である。ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は、その直接知覚(私という経験)に反している。従って、この場合、聖典から認識が生じないことになり、聖典は誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、アートマンという真理に関する認識を生み出す聖典は、直接知覚には反しないからである。何故なら、もし聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定すれば、聖典から認識が生ずるための原因が存在しなくなるので、認識が生じないことになる。しかし、実際には、聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の究極的なアートマンという真理に対する認識の妥当牲である。
また、究極的な認識根拠としての直接知覚は、真理の認識を生み出すことはない。というのは、よく経験されるように、真理の認識は、世俗的な認識根拠としての直接知覚一それが究極的な アートマンという真理に対する認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるからである。

  [反対主張]比喩的意味以外に趣旨の理解できない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]この反対主張は誤りである。
 先に生じたものであるということは、それが後に生ずるものには必要でない場合には、後に生ずるものに拒斥される理由にはなるが、後に生ずるものを拒斥する理由にはならない。
究極的なアートマンという真理に対する認識根拠としての直接知覚は、後に聖典から生ずる認識に必要ではない。従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである。「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭のように」34「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先に生じたものより後に生じたもののほうが強力で ある、と理解すべきである」35という章句もある。

鬼和尚解説: 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。
・・・、バーマティーの解説本を読んでも、鬼和尚に↑の様に解説してもらわないと、深い理解ができないくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

409鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:16:54 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
 アートマンやブラフマンについての知識がもとからないと難しいかもしれんのじゃ。
 基本が分かっていれば理解もできるのじゃ。

410鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:32:27 ID:1d4drIFg0
>>406 またまた反対意見なのじゃ。
 比喩として以外に理解できない言葉は比喩であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 比喩ではないと書いてあるのじゃ。
 
 貝を銀と見誤って、後に貝と気づくように、後の認識が正しいというのじゃ。
 瞑想中にアートマンを認識したとか思っても、経典によるアートマンは認識できないという知識で排斥できるというのじゃ。
 そうであめから聖典による考察が必要なじゃ。

411避難民のマジレスさん:2022/07/01(金) 05:39:25 ID:9bAKjdDg0
1.4.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[II]
ブラフマンは考察に価するという論証      p210-211

   また、[反対主張者は]、アートマンが「私」という語(経験)の対象であることを論証しようとしていたが、[その]彼らでさえ、これ(「私」という語(経験)の対象としてのアートマン)が、[アートマンの]真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、[「私」という語(経験)の対象が真のアートマンだとすると、アート マンは]遍在36している[はずなのに]、「私はこの家の中だけにいても知っている」と [いう表現(経験)に見られるように]、有限なものと理解されることになるからである。[それは]ちょうど、平地にいる人には、非常に高い山の頂上にある大木が、草の葉のように見えるようなものである。
  [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマ ンが[有限であることが経験されているのでは]ない。
  [答論]それは誤りである。というのは、もしそうだとすれば、[この表現(経験) は]、「私は」と[いう形を取ら]ずに、[「身体が」という形を取るはずである]。また、 [「私」という語は]比喩的意味[で用いられており、実際には身体を意味している]とすると、[身体は物質的なものだから]、「知っている」と[いう表現には]ならないは ずである。
  さらに、比喩的意味[が成り立つの]は、話し手と聞き手の間に、「X[を意味する]語がYに対して用いられるのは、[XとY に共通に]認められる性質を通してである」 という理解が[成立している]時である。[従って]、それ(比喩的意味が成り立つ)に は、[XとYとの]相違を知っていることが前提となっている。それ(比喩的意味)の例には次のようなものがある。アグニホートラという語は、日々行わなければならないアグニホートラ祭をもともとは意味するが、「アグニホートラ祭を一ヶ月間行うべし」37という[儀軌に見られる]ように、カウンダパーイナーム・アヤナ祭に[用いられる。 これは]比喩的用法である38。何故なら、[この場合、アグニホートラという語が用い られるのは]、行わなければならない事柄(sādhya)が似ているからであり、[両祭式 が]異ることは、文脈(prakarana)39の違いにより確定しているからである。また、 ライオンという語が[人に]用いられるのも、人がライオンと違うことは経験上広く知 られているからである。[従って]、もし[「私」という語がもともとはアートマンを、意味していると経験的に知っていれば]、X(アートマン)[を意味する]語が身体等(Y) に[用いられることになるから]、比喩的用法ということになる。しかし、[実際には、 人々は]、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。[従って、比喩的用法とは考えられない]。

脚注
36アートマンが遍在であることは、『ブラフマ・スートラ』において述べられており、シャンカラもヴァーチャズバティ・ミシュラもこの見解を受けついでいる。
37
38アグニホートラ祭は、日々義務として行わなければならない祭式で、一方、カウンダパーイナーム・アヤナ祭は、臨時に行われる祭式である。 「アグニホートラ祭一ヶ月を間行うべし」という儀軌中のアグニホートラという語がカウンダパー イナーム・アヤナ祭に用いられるのは、第一には両祭式において行わなければならない事柄、すな わち祭式が基本的に同じだからであり、第二には文脈が違うことによる。本文は、実際には、「ウパサッド(供養祭)を行なったのち、アグニホートラ祭を一ヶ月間行なうぺし」となっている。このウパサッド供養祭は、アグニホートラ祭では行われていない。従って、ここで命じられている祭式は、 アグニホートラ祭とは異なることになる。これが文脈の違いである。
39文脈とは、祭式の違いを判断する六つの認識根拠、すなわち、別の語・ 反復・数・従属要素・文脈・名称の一つであ る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

412鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 00:15:23 ID:1d4drIFg0

 さらに反対者が私という言葉の対象がアートマンではないとわかるはずというのじゃ。
 それは観念であるからのう。
 アートマンはどこにでも偏在しているのに、私は部屋にいるとか言えば有限なものとなるからなのじゃ。
 
 それに反論するのじゃ。
 それは身体が有限であるだけだというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それならば身体がというように話すはずだというのじゃ。

 比喩であれば違う物事が、共通することについて喩える筈であるが、
 人々は私という言葉が身体とは別のものとしてのアートマンである事を知っている訳ではないから比喩ではないというのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2022/07/02(土) 00:28:28 ID:wu9WNfNM0
(つづき)    p211-212
   [反対主張][「私」という語が身体等に用いられるのは]、全く慣習的用法なので、[実際には]比喩的用法であるにもかかわらず、[人々は、それが]比喩的用法だとは気 づかないのである。[それは]ちょうど、ごま油(taila)という語がカラシ油(sārsalpa)等の[意味にも用いられる]ようなものである。
  [答論]そのように考えるべきではない。この場合にも、[人々は]、「カラシ油等がごま油という語で表現されるのは、こまから生じた液体と[カラシ油との]違いが良く 知られている時だけである」ということに気づいている。[というのは、同じこま油と いう語の]対象でも、こま油とカラシ油が同じものと決まっているわけではない[から である]。
  従って、[以上の論議から]次のことが確定される。すなわち、「二つの[対象を]示 す[語]が持つ比喩的意味という性質[の存在する領域]は、一義的意味と比喩的意 味との識別智(vivekajñāna)[が存在する]領域により覆われている(vyāpta)。従っ て、この場合、領域を覆うもの(vyāpaka)40である識別智がめつすれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]「彼(子供の頃の私)が[今の]私(老人になってからの私)[になったので]ある」と[いう表現(経験)に見られる]ように、身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが[「私」という語の対象として]再認識され る。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論][このような]主張をすべきではない。何故なら、これは、学者(Parīksaka) の場合の話であって、普通の人の場合の話ではないからである。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、普通の人ととりたてて違いがあるわけではない。その理由 についてはのちに『註解』の神聖な作者(シャンカラ)が、 [日常的経験に関しては、学者も動物も]違いがないからである41と[明らかにするであろう]。[このことは]他 学派の人達ですら言っていることである。たとえば、「実に、聖典を考察する人は、こ のように区別している。[ところが]学者はそうではない42と。
  従って、[ここで]消去法43を用いれば、次のように[考えるのが]正しいと我々は 思っている。すなわち、世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」[と言いながらも、一方では、その語を]「私はこの家の中にだけいても知ってい る」というように用いているが、[これは比喩的用法ではない]。身体等と[アートマン との]違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。[それは]ちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空[が有限だと考 えるようなもので]ある。


脚注
40脚注14参照。
41 42
43 210頁13行以下で・・「私はこの家の中だけにいても知っているという表現(経験)説明しうる可能性として、比喩的意味と附託のいずれかを想定し、ここまでで比喩的意味の可能性は否定されたので、消去法によって附託の可能性だけが残るのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

414鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 23:55:44 ID:1d4drIFg0

 またまた反対論者が。私という言葉が身体等に用いられるのは、比喩だというのじゃ。
 ごま油がからし油にも用いられるようなものというのじゃ。

 答えのじゃ。

 人々はそれらの油の違いが知られている時だけということに気づいているというのじゃ。
 
 また反対するのじゃ。

 子供が年寄りになっても私というからには、アートマンは身体と違うものとして経験しているというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 世の人々は身体とアートマンの違いが分かっていないだけというのじゃ。
 そうであるからアートマンも有限であると思い込んでいるというのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2022/07/03(日) 08:59:29 ID:hbWPqUMk0
(つづき)    p212-213
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語[の用法]の妥当性[を保つ]ために、このような[主張をする]のは、誤りである。この場合には、実に、これ(アートマン)は、原子大であるか身体大であるか[のいずれか]であろう44。[まず]原子大だとすると、「私は太っ ている。私は背が高い」という表現(経験)は[成り立ちえ]ないことになろう。[一方]身体大であるとすると、身体と同じように、[アートマンにも]部分があることになり、[永遠であるアートマンが]無常であるという[理論上の]誤謬に陥ることになる45。さらにまた、この[アートマンは身体大であるという]説に立てば、(アートマンの)精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分か[のいずれか]であろう。[まず]個々の部分が精神活動を行うという説に立てば、[個々に]独立した多くの精神的存在は、統一(ekavākyatā)がとれていないのだから、相反する方向にばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動が[生じ]ないことになるか、[いずれかの理論上の]誤謬に陥ることになるだろう。一方、[アートマンの]精神性は集合体[全体]と結びついている[という説]に立てば46、[その]ー部が破損すると精神アートマンも破損することになり、[アートマンは]精神的活動を行わないことになるだろう。ま た、[個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能性も考えられるが]、多くの[個々の]部分[どうし]には、互いに[集合体を構成する]必然的関係(avinābhāva)47が見あたらない。また、[集合体の]ー部が滅すると、 そ[の一部]がなければ[集合体は成り立たないから、集合体が]精神的活動を行わないことになるだろう。
  [唯識論者の主張するような]識が[「私」という観念(語)の]対象だとしても、 「私」という観念が誤認(bhrānta)である点では、それ(身体)の場合と同じである。 というのは、それ(「私」という観念)からは永遠な実在が明らかになるのに、識は無常だからである48。
  以上[の論議]で、「私は太っている。私は盲目である。私は行く」等の〔日常的表現(経験)]も附託によることを説明し終ったのである。

脚注
44 アートマンの大きさに関しては、インド一般に三種の見解が見られる。(1)アートマンは極大であり、万物に遍在するという説、(2)アートマンは原子大であるという説、(3)アートマンは身体大である という説である。
45部分のあるものは、個々の部分に分解されて消滅するから、無常である。
46アートマンの精神性が集合体と結びついているという説を、(1) 精神性は身体という添性を通して集合体と結びついているという説、(2)精神性はそれ 自体で独立に集合体と結びついているという説、(3)精神性はたまたま偶然に集合体と結び ついているという説の三種に分け、以下の各文をそれぞれの説に対する答えと取っている。
47必然的関係とは、もともとはニヤーヤ字派において、因果関係の必然性を表す語であるが、ここではもっと広く必然性一般を表している。
48唯識論者によれば、識は刹那滅であるから、無常である。
(´・(ェ)・`)つ

416鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/03(日) 23:12:05 ID:1d4drIFg0

 今度は反対論者は、私という用語に妥当性をもたせるために、身体のようにアートマンも有限と言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 有限であるからには、アートマンは原子のように小さいか、身体と同じなのじゃ。
 原子大であれば、私は太っているとか、背が高いとかはなりたたないからいかんのじゃ。
 身体大であるとすると、身体と同じくアートマンにも部分があり、無常になるからこれもいかんのじゃ。

 さらに身体大であれば精神活動も部分であれ、全体であれ、無常になるからいかんのじゃ。
 識も無常であるからアートマンではないというのじゃ。

417避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 00:05:54 ID:Wv7DDlhM0
1.5.『註解』冒頭文後半部の語句説明   p213- 215 108右/229

  にもかかわらず、[それぞれ互いに]完全に異なる[主観と客観の]諸属性および[その諸属性の]基体[である主観と客観と]を互いに識別しないで ([文字通りには]互いの無識別によって)、主観に客観の本質と諸属性を、客 観に主観の本質と諸属性を附託し(adhyasya)([文字通りには]それぞれにそれぞれの本質とそれぞれの諸属性を附託して)、真実と虚妄とを混淆して (mithunikrtya)、「これが私である」「これは私のものである」[と言う。これ が]([文字通りには]というのが)誤った認識に基づく、生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)である。

  さて、以上順を追って述べてきたことから、「私」という観念は腐ったかぼちゃ[のよ うに価値のないもの]であることが明らかとなった。そこで、今や、神聖な天啓聖典は、「私」という経験から生じた[誤った考え]、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であり・楽しみ・苦しみ・悲しみ等をその本質としている[という考え]を、なにはばかることなく否定することができるのである。このように、「私」という観念が 誤りであることは、信頼に価するすべての天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等ですでに良く知られていることである。だから[『註解』は]、それぞれに以下で49、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 ここ(本文中)では、それぞれに、すなわち、[二つの]基体つまりアートマンと身体等に、それぞれの本質を附託して・・これすなわち身体等が、私である。と[というのが文脈である]。「これが[私である]」というのは、[人々がそうとは知らないで身体とアートマンを同一視しているという]事実に基づいて[述べて]いるのであり、 [「これすなわち身体が、私である」と人々が現実に]認識しているからではない50。世俗的な日常的表現(経験)(vyavahāra)とは、世間の人々の日常的表現のことである。 すなわち、それは「これが私である」という表現のことである。[「これが私である」 というのが]のというのが(iti)が暗に意味しているのは、認識対象全体を、正しい 認識根拠に基づいて、身体等に有益なものと有害なものとに識別し、それ(有益なもの)を受け入れ、それ(有害なもの)を排除すること等[の日常的経験]である51。それぞれの基体にそれぞれの諸属性を附託し。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンに[さらに]附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでににアートマンの附託されている身体等 に[さらに]附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人である[といった所有物および属性]が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)すなわち表現である[というのが文脈である]。[「これが私のものである」というのがの]というのが(iti)が暗に意味しているのは、それ(「これは私のものである」という表現) にふさわしい活動等である。

脚注
49『註解』の本文後半部は、実際には、にもかかわらず、それぞれに...という形で始まっている。
50実際には、「私は身体である」と考える人はいない。しかし、「私」という観念自体が、アートマンと アートマン(身体等)との相互附託を前提として成立しているという意味である。
51 『註解』では、日常的表現も日常的経験も意味する語であるが、ヴァーチャスパティ・ミシュラはこの語を表現の意味に取ったので、このというのが(iti)に経験(活動)の意味を含み込ませているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

418避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 08:17:59 ID:mNHkAFtI0
くまなりまとめ4

  反対主張者も、「私」という語(経験)の対象としてのアートマンが、アートマンの真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、「私」という語の対象が真のアートマンだとすると、アートマンは遍在しているはずなのに、有限なものと理解されることになるからである。
 [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマンが有限であることが経験されているのではない。
   [答論]比喩的意味が成り立つのは、話し手と聞き手の間に、「Xを意味する語がYに対して用いられるのは、XとY に共通に認められる性質を通してである」 という理解が成立している時である。従って、比喩的意味が成り立つには、XとYとの相違を知っていることが前提となっている。
実際には、 人々は、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。従って、比喩的用法とは考えられない。
   [反対主張]「私」という語が身体等に用いられるのは、比喩的用法であが、人々はそれが比喩的用法だとは気 づかないのである。
  [答論]そのように考えるべきではない。「二つの対象を示す[語]が持つ比喩的意味という性質の存在する領域は、一義的意味と比喩的意味との識別智が存在する領域により覆われている。従って、この場合、領域を覆うものである識別智が滅すれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが「私」という語の対象として再認識される。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論]このような主張は、学者の場合の話であって、普通の人の場合の話ではない。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、学者も動物も違いがないと明らかにする。(シャンカラ)
  世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」と言いながらも、一方では、身体等とアートマン との違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。それはちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空が有限だと考えるようなものである。
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語の用法の妥当性を保つために、このような主張をするのは、誤りである。この場合には、実に、アートマンは、原子大であるか身体大であるかのいずれかであろう。まず原子大だとすると、「私は太っている。私は背が高い」という表現は成り立ちえないことになろう。一 方身体大であるとすると、アートマンにも部分があることに なり、永遠であるアートマンが無常であることになる。さらにまた、このアートマンは身体大であるという説に立てば、アートマン の精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分かのいずれかであろう。まず個々の部分という説に立てば、個々に独立した多くの精神的存在は、統一がとれていないので、ばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動か生じないことになる。一方、アートマンの精神性は集合体全体と結びついているという説に立てば、そのー部が破損すると精神アートマン も破損することになり、アートマンは精神的活動を行わないことになるだろう。また、個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能 性も考えられるが、多くの個々の部分どうしには、互いに集合体を構成する必然的関係が見あたらない。また、集合体のー部が滅すると、 その一部がなければ集合体は成り立たないから、集合体が精神的活動を行わな いことになるだろう。
 識が「私」という観念(語)の対象だというのも、識は無常だから、誤認である。
(´・(ェ)・`)つ

419鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/04(月) 23:11:41 ID:1d4drIFg0

 ここまでで問答は終わったのじゃ。

 ここから自分という観念の誤りについて説かれるのじゃ。

 自分という観念は腐ったかぼちゃのように価値のないものだというじゃ。
 天啓聖典はアートマンが経験とか行為の主体ではなく感情を持つものでもないと説くのじゃ。
 私という観念が誤りであることは全ての聖典が示しているというのじゃ。
 人々は身体等をアートマンと混同していることが説かれるのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 07:06:19 ID:aoFe30dE0
(つづき)    p215
  また、ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。従って、[両行為の]行為主体が同じだから、附託し・・・日常的表現 (経験)であると[いう文が]成り立つのである。すなわち、[接尾辞ktvā(adhysya のsya)は、附託が日常的表現(経験)より]時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している52。〔このことが]誤った認識 に基づく日常的表現(経験)[と述べられているのである]。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて[日常的表現(経験)がある]。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
  さて、以上のように、[「私」という観念の]本質である附託とその結果である日常的 表現(経験)について述べたのち、[『註解』は次に]その原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。[無識別(無相違)(aviveka)によってとは]相違(viveka)に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、・もし文字通りにとれぱ[両者が同一となり]、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性および[その]基体をと述べられているのであ る。相違(vivekm)とは、本来は、基体間の場合には非同一性(atādātmya)を、諸属性問の場合には混同しないこと(asamkīrnata)を意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在(Vastusat)を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。[それは]ちょう ど、真珠母貝を銀と同一であると誤認するのは銀との相違を理解していないことによ るのと同じである。しかし、この(今問題となっている)場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に53、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンと[それ以外のものと]の相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

脚注
52 接尾辞ktvāが、行為の時間的前後関係を示す
53
(´・(ェ)・`)
(つづく)

421鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/05(火) 23:19:58 ID:1d4drIFg0

 誤った認識とは附託であり、それから日常的な表現があるというのじゃ。
 それは無識別、互いの相違に対する無理解によるものというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 無識別、無相違を文字通りにとれば同一であり、付託はないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは完全に異なるものごとの基体と諸属性を理解していないからというのじゃ。
 基体の非同一性を理解せず、諸属性を混同しているのが無識別だというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 アートマン以外には存在はないから身体はないというのじゃ。
 ないものとの非同一性もないはずだというのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 23:36:43 ID:bM1Ezd960
つづき)    p215-216
  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。すなわち、[真実と虚妄とを混淆して、両者の]相違が分からないために附託して、というのが[本文の脈略なのである]。[また]真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆してすなわち結びつけて、というのが[この句の]意味である。また、本来は、現象的存在と究 極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから[混淆して (mithunīkrtya)という語に、本来]混淆されないものが混淆されるという意味を示す 接尾辞cvi(mithunīkrtyaのī)54が用いられているのである。その趣旨は、「[被附託 者(aropya)は]、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、[附 託に]用いられるのは、被附託者の認識であって、[被附託者という]実在[自体]で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)が[アートマンに]附託される。そして、そ[の被附託者である非 アートマン]の認識は、[非アートマンのアートマンヘの]附託に基づいている。従っ て、[認識と附託とが]相互に依存しあう(parasparāśraya)[という理論的誤謬を]ま ぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得の(naisargika)と言っているのである。この日常的表現(経 験)は、本源的(svābhāvika)であり、無始である。[この]日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、そ れぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである55。こ[の過程]は、種と芽のように無始であるら、[認識と附託が]相互に依存しあうことはない。これが、[この生得のの]意味するところである。

脚注
54原文は「XでなかったものがXになること(あるいはXでなかったものをXにすること)」という意味である。例えば、白くなかったものを白くするという意味で、この接尾辞cviが用いられる。本文の場合、mithunam karotiというと、本来混淆し合って当然のものを混淆するという意味になるが、mithunīkarotiが用いられているので本来混淆されないものが混淆されるという意味になる、というのが本文の趣旨である。
55非アートマンのアートマンヘの附託Aから非アートマンAが生じ、その非アートマンAがアートマンに附託(附託B)される。その附託Bから非アートマンBが生じ、その非アートマンBがアートマンに附託(附託C)される...。このような過程が無始であるといわれているのである。
(´・(ェ)・`)つ

423鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/06(水) 23:41:16 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 それは真実と虚妄を混淆しているというのじや。
 それらの相違がわからないから付託しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンでないものがアートマンに付託されるというのじゃ。
 アートマンでないものの認識は、アートマン゛ないもののアートマンへの付託に基づいている。
 それでは認識と付託が相互に依存しあっているという誤謬があるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それらは無始であり、生得のものというのじゃ。
 誤った認識から生じて意思とか、器官とか、身体がそれぞれ後の付託に用いられているというのじゃ。
 それは無始であるから、相互に依存しあうこともないというのじや。

424避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 04:38:05 ID:XIzJxhik0
くまなりまとめ5

 「私」という観念は、価値のないものである。聖典を読むことにより、「私」という経験から生じた誤った考え、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であるという考えを、否定することができるのである。この『註解』は、以下で、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 人々は、「これが私である」という表現を用いる。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンにさらに附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでにアートマンの附託されている身体等 にさらに附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人であるといった所有物および属性が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)である。
 
  ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。附託が日常的表現(経験)より時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している。誤った認識 に基づく日常的表現(経験)と述べられているのである。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて日常的表現(経験)がある。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
 『註解』は次にその原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。無識別(無相違)によってとは相違に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、もし文字通りにとれぱ両者が同一となり、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性およびその基体をと述べられているのである。相違とは、本来は、基体間の場合には非同一性を、諸属性問の場合には混同しないことを意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。しかし、今問題となっている場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンとそれ以外のものとの相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。両者の相違が分からないために附託して、というのが本文の脈絡なのである。また真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆して、結びつけて、というのがこの句の意味である。また、本来は、現象的存在と究極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから混淆してという語に、本来混淆されないものが混淆されるという意味を示す語が用いられているのである。その趣旨は、「被附託 者は、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、附託に用いられるのは、被附託者の認識であって、被附託者という実在自体で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)がアートマンに附託される。そして、その被附託者である非 アートマンの認識は、非アートマンのアートマンヘの附託に基づいている。従っ て、認識と附託とが相互に依存しあうという理論的誤謬をまぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得のと言っているのである。この日常的表現(経験)は、本源的であり、無始である。この日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、それぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである。この過程は、種と芽のように無始であるら、認識と附託が相互に依存しあうことはない。これが、この生得のの意味するところである。
(´・(ェ)・`)b

425避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 05:02:59 ID:XIzJxhik0
2.附託と無明 2.1.附託の定義  p216-225

   [質問して]言う。この附託とはいったい何なのかと。答えて言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で56別の場所Yに顕現することであると。
   [反対主張]確かに附託に用いられるのは、以前[に認識したことのある実在]の認 識に限られ、現に認識している実在(Paramārthatta)[自体]が[附託に用いられることはない]。しかし、[ヴェーダーンタ側の主張によれば]身体・器官等は・空中の蓮のように、全く実在しない[はずだから、それらが]認識されること自体ありえない [ことになる]。
   [反対主張に対する反論][身体・器官等は、全くの非実在ではない。それらは・実 在であるとも非実在であるとも表現し得ないものである。従って、全く認識しえない わけではない]57。
   [反対主張]実に、純粋精神であるアートマンの場合でも、[それが]実在である[根拠]は、まさに[それが]輝いている(認識の対象となっている)点(prakāśamāntā)にあ るのであり、それ以外の、実在性という普遍との内属関係(sattāsāmānyasamavāya) 58や効用を果す能力を持つものという性質(arthakriyākāritā)59が、[その実在性を決 定する根拠なの]ではない。というのは、[それらが純粋精神であるアートマンの実在 性を決定する根拠だとすると]二元論に陥ってしまうからである60。そしてまた[この場合]、実在性(sattā)[という存在]と効用を果たす能力を持つものという性質[が 実在する根拠として、さらに、それぞれ]に、別の<実在性>と別の<効用を果す能力 を持つものという性質>を想定しなけれぱならなくなり、無限遡及に陥ってしまうから である。従って、輝いている(認識の対象となっている)ことこそが、実在性[を決定 する根拠]なのだ、と認めるべきである。同じく、身体等も、輝いている(認識の対象 となっている)から、純粋精神であるアートマン同様、非実在ではない。あるいは、も し、[身体等が]非実在であれば、輝いていない(認識の対象となっていない)[はずであるが、実際には、輝いている(認識の対象となっている)。従って、身体等は実在で ある]。とすれば、どうして、[ヴェーダーンタ側の言うような]真実[であるアートマ ン]と虚妄(非実在)[である身体等]との混淆がありえようか。[そして]、それ(混淆)が在在しなければ、相違に対する無理解とは、一体、何の[相違に対する無理解]であり、[それは]何から[生じうるの]か。[さらに]、それ(相違に対する無理解)か 存在しなければ、どうして、附託がありえようか。このような考えを抱いて、[反対主 張者が]言う、すなわち反論する。この附託とは一体何のかと。何なのかという[語]は反論[の意味で用いられているの]である。

脚注
56 57
58実在性という普遍との内属関係とは、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシ力学派で、物の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。これらの学派によれば、個々の個物(たとえば個々の火)が共通に同一の語(たとえば火という語)で示されるのは、普遍(たとえば火性)があるからであるとされる。また、これらの学派は、物と物とを結びつける関係には、二種類あると考えてい る。すなわち、関係によって結びつけられた二つの物が不可分の関係にある場合(たとえば属性とその基 体等との関係)と、両者が分離可能な関係にある場合(たとえば壷と壷が置かれている場所等との関係) の二種である。前者は内属関係と呼ばれ、後者は結合関係と呼ばれる。そし て、普遍と物(実体・属性・運動)との関係は、内属関係であるとされている。従って・個々の火が共通 に火という語で示されるためには、それか火性という普遍と内属関係にあることが必要とされる。同じように、個々の物が実在という語で示されるためには(実在であるためには)、それらが実在性という普遍と内属関係にある必要があるのである。
59効用を果す能力を持つものという性質とは、仏教論理学派で対象の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。この派によれば、対象(たとえば壼)が実在であるのは、それ に効用を果す能力(たとえば水が汲める)があるからであるとされている。
60不二一元論学派は、ブラフマン=アートマンのみが実在するという一元論の立場をとっている。従っ て、もし実在性という普遍との内属関係や効用を果たす能力を持つものという性質が実在性を決定する根拠だとすると、ブラフマン=アートマン以外に実在が存在することを認めることになり、その基本的立場
がくずれてしまうことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/07(木) 22:59:55 ID:1d4drIFg0

 質問したのじゃ。
 付託とは何なのかと。

 答えのじゃ。
 付託とは、以前に知覚されたものが想起の形で別の場所に現れたものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体、器官等は実在しないから認識されることもないはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体、器官等は全くの非実在ではなというのじや。
 全く認識されないということもないというじや。

 反対なのじゃ。
 アーマトンさえも実在の根拠はそれが認識の対象であるからというのじゃ。
 身体や器官も認識の対象であるはずだというのじゃ。
 そうであるならばどうして真実であるアートマンと非実在であるアートマンの混淆があるのかというのじゃ。
 混淆が存在しなければ無理解もなく、生じないというのじゃ。
 無理解がなければ付託もないというのじや。

427避難民のマジレスさん:2022/07/08(金) 03:49:46 ID:dqLu5VTI0
(つづき)
   [答論]答論者は、[次のように]、単に附託の定義一[それは]世間の人々に良 く知られたものである ーを述べるだけで、反対主張を退けているのである。答えて 言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で、別の場所Yに顕現することであると。顕現すること(avabhāsa)とは、[のちに]消えざる(avasanna)、あるいは、 価値がなくなる(avamata)現れ(bhāsa )61のことである。そして、消えさること (avasāda)、あるいは、価値がなくなること(svamāna)とは、これ(顕現)が、別の 観念によって拒斥されること[を言っているので]ある。そのため、[顕現が]誤った 認識と言われるのである62。そして、以前に知覚されたX(pūrvavadrsta)等は、これ (顕現)の説明である。以前に知覚されたXが顕現すると(pūrvavadrstavabhāsa)とは、以前に知覚されたXの顕現のことである63。そして、誤った観念は、附託の対象 [たとえば真実である真珠母貝]と被附託者[たとえば虚妄である銀]とが混淆されな ければ、存在しない。それ故、以前に知覚されたXと述べることで、[まず]虚妄であ る被附託者を明示するのである。そして、知覚されたX(drsta)と述べてあるのは、 [附託に]用いられるのは、それ(被附託者)の知覚されたものであるという面だけであり、[それの]実在(vastusat)であるという面が[附託に用いられるの]ではないか らである。しかしながら、現に知覚されているもの、すなわち[その]姿(darśana) が、附託に用いられることはない。そのため、以前に(pūrva)と述べてあるのであ る。このうち、以前に知覚されたXは、本来は実在であるが、被附託者となっているので、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの(anirvacanīya)64、すな わち虚妄(mithyā)である。[また]別の場所Yに(paratra)とは、附託の対象一 [それは]真実である ー のことを言っているのである。すなわち、別の場所Yにとは、 真珠母貝等の実在(paramāthasat)に[という意味である]。従って、以上[の論議]により、真実と虚妄とが混淆されることが明らかになった。
   [反対主張][しかし]以前に知覚されたXが、他の場所Yに顕現することというのは、[附託の十分な]定義ではない。なぜなら[定義の]外延が広すぎる(ativyāpaka)65からである。というのは、以前スヴァスティマティーという[名の]牛で見たことのある牛性が、他の場所すなわち力一ラークシー[という名の牛]に顕れるのは、[正しいことで]あるし、また、以前パータリプトラ[という町]で見たことのあるデーヴァタッタが、他の場所すなわちマヒシュマティー[という町]に顕れるのは正しいことだからである。さらに、顕現という語が、正しい観念(認識)にも[用いられるのは]周知の事実である。たとえば、青の顕現、黄色の顕現というように。

脚注
61 62 63
64ātmakhyātiによれば、誤謬とは内的なものである識を外界に存在する対象であると認識する ことである。第二に、asatkhyātiによれば、誤謬とは、非実在を実在と認識するこ とである。第三に、akhyātiによれば、認識はすべて正しいものだが、二種の正しい認識どうし(たとえば知覚と想起等)を正しく区別して認識しないことで誤謬が生じるとされる。第四 に、anyathākyātiによれば、誤謬とは、実在X(たとえば真珠母貝)を非実在Y(たとえば銀)として認識することであり、Yも本来は実在であるとされる。最後にanirvacanakhyāti(anirvacanīyakhyāti)よれば、誤謬とは、実在であるとも非実在であるとも表現し得な いものを認識することである。本文中では、2-1一附託の定義以下2.4.他学派による附託の定 義(3)までで、附託の定義をめぐって、anirvacanakhyātiの立場から他学派の誤謬論か批判されている のである。
65定義が正しいものであるためには、以下の三つの欠陥のないことが必要である。すなわち、(1)定義 の外延が狭すぎること、(2)定義の外延が広すぎること、(3)定義が全くあては まらないことである。ここで、附託の定義に欠陥(2)が認めら れるから十分な定義ではないと言われているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

428鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/08(金) 23:46:54 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託の一定義を述べるだけで反対主張を退けているというのじゃ。
 付託とは以前に知覚されたものが、想起の形で別の場所に顕現することであるというのじゃ。
 顕現とは後に別の観念によって消え去ること、排斥されることだというのじゃ。
 顕現とは結局、誤った観念だというのじゃ。

 その誤った観念とは付託の対象と被付託者が混淆しなければ存在しないというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 以前に知覚されたものが別の場所に顕現することは、付託の十分な定義ではないというのじゃ。
 なぜならば別の場所に正しい観念の対象が存在することもありえるからというのじゃ。
 顕現も正しい観念に用いられることもあるから正しくないというのじゃ。

429避難民のマジレスさん:2022/07/09(土) 04:37:58 ID:rxilBjuA0
(つづき)
    [答論]そこで答えていう。想起の姿(smrutirūpar)でと。想起の姿とは、それには想起の姿のような姿がある66[という意味である]。すなわち、想起の姿で[と言うことで]、対象を[現に]直接に知覚していないことを言っているのである。一方、正 しい認識である再認識(pratyabhijñāna)の場合には、対象を[現に]直接に認識し ている。従って、[この定義の]外延が広すぎる(ativyāpti)67ということはない。ま た、[この定義の]外延が狭すぎる(avyāpti)68ということもない。何故なら、夢の中の認識も、想起という[姿の]誤認であるが、[これも]このような(附託という)性 質を持っているからである。というのは、こ(夢の中の認識)の場合にも、[人は]、あ ちこちでまさに以前知覚したことのある、現存する場所と時間という性質を、想起した 父親等一[ところが、父親等を現に]直接に知覚しているのではないということは、夢に昏まされて理解されていない一に、附託するからである69。
   また、「真珠母貝が黄色い」とか「黒砂糖が苦い」という場合にも、同様に、こ(附託)の定義が当然適用される。詳論すれば、次の通りである。黄疸にかかった人(dravyamat)70は、胆汁という実体(bittadravya)一[それは]目から外に放射された非常に透明な光と接触している一に存する黄色という性質を、胆汁という実体とは無関係に、経験(知覚)する。一一方、[感官器官に]欠陥があるために、真珠母貝を白いものとは知らずに経験(知覚)する。さらに、黄色という性質が真珠母貝と無関係であることを
経駿(認識)しない。そして、[黄色という性質と黄金とが無関係ではないと考えるのと]71同じように、[黄色という性質と真珠母貝とが]無関係ではないと考えて、 「黄色い黄金」や「黄色いビルヴァの実」等の場合に以前に知覚したことのある[両者の]同格関係を、黄色という性質と真珠母貝に附託して、「真珠母貝が黄色い」と言うので ある。以上[の説明]で、「黒砂糖が苦い」という観念(認識)も説明したことになる。
[また]同様に、[鏡や水に映った顔を自分の顔だと思う]反映による誤認(Pratibimba- vilbhrama)72にも、[附託の]定義があてはまる。[すなわち、この場合には]服[から出た]光は、非常に透明な鏡や水等一[それらは]認識主体である人間と向かい合っている一と接触しても、[それより]強い太陽の光に[はねかえされて]逆流し、 顔と接触して、[認識主体に]顔を認識させる。一方、[眼に]欠陥があるため、[その 光は]、顔の[実際にある]場所および顔が[実際には自分と]向い合ってはいないことを[認識主体に]認識させることはない。そして、以前に知覚したことのある鏡や水 一[それらは、自分と]向い合っていた一のあった場所という性質および[それら が自分と]向い合っているという性質を、顔に附託するのである。以上[の説明]により、二つの月、方角を誤ること、火輪73、ガンダルヴァの町74、竹薮の蛇等の誤認の場 合にも、場合に応じて、[附託の]定義が適用されるはずである。

脚注
66ここで「想起のような姿」と述べているのは、まず、「想起の姿」と述べることで、附託が再認識とは 異なることを示し、「のような」と述べることで、附託が想起とは異なることを示しているのである。
67 68脚注65参照。
69この個所は、夢の場合には、真珠母貝を銀に附託するときの真珠母貝に相当する基体が存在しないから、附託の定義のうち、「他の場所Yに」という部分があては まらなくなるという反論に対する答た だとさている。
70 71 72
73たいまつの火などを速く回すと、実際には輪ができるわけではないのに、輪のように見えること。
74雲を天界の町と見誤ること。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/09(土) 23:45:58 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託では想起の姿で認識されるのであるからそれでよいじゃ。
 想起の姿であるとは、対象を直接に知覚していないのじゃ。

 正しい認識である再認識では、対象を直接に認識しているというのじゃ。
 これによって定義の外延が広すぎることも、狭すぎることもないのじゃ。
 夢の中の認識も誤認であるが、付託という性質を持っているからというのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2022/07/10(日) 04:31:09 ID:bwOC2mBQ0
(つづき)    p221-222
   以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。単に輝いていること(認識の対象に なっていること)だけが、実在性[を決定する根拠]ではない。[もし、それが実在性を 決定する根拠なら]身体・器官等は、輝いている(認識の対象となっている)から、実在であることになろう。[しかし実際には、それらは実在ではない]というのは、[縄等を蛇と見誤る時]、縄等は蛇の姿で顕れ、[水晶に赤い花か映っている時]、水晶等は 赤等の属性を備えたものとして顕れるが、[それら]顕れたもの(蛇等と赤等の)属性を 備えた水晶等)が、それら(蛇等と赤等の属性を備えた水品等)自体であったり、それ らの属性(蛇の属性等と赤等)を備えたりすることはないからである。もしそうなら、 砂漠で、上下に[揺れる]光線の束(唇気楼の河)75を[見て]、「「これは、さざ波という花輪をかけたマンダーキニー(天界のガンジス河)が、近くに降りてきたのだ」と 思って近づいた人は、その水を飲んでも、渇きをいやすことができるはずある。[しかし実際にはそうではない]。従って、たとえ意に添わなくても、「附託されたものは、輝いていても(認識の対象になっていても)、実在ではない」と認めるべきである。
    [反対主張]水は、光線(唇気楼)の姿では非実在である。しかし、それ自体ではまさに実在である。一方、身体・器官等は、それ自体でも非実在である。従って、[身体・ 器官等は]経験の対象とはならないから、附託されることなどどうしてあろうか。
   [答論]それは正しくない。というのは、もし、非実在が経験の対象とはならないのなら、光線(唇気楼)等の非実在が、水として、経験の対象となることはないからであ る。[すなわち、水]それ自体は実在だが、[光線(屡気楼の水)]も、水を本質としており実在である、ということはないのである。
   [反対主張]非実在(abhāva)とは実在(bhāva)と異なるものでは決してない。そうではなくて、まさに実在が、別の実在を[その]本質とすることで、非実在となるのである。[従って、非実在は]それ自体では実在なのである。このことが「非実在とは 実在の別[の形]にほかならない。ただし、[実在が]ある特定の観点から見られたものなのである」76と言われている。従って、[このように、非実在は]本質的には実在であると説明しうるら、これ(非実在)が経験の対象となるのは理にかなっている。 ところが、[身体等の]現象(Prapañca)は、[輝く(顕現する)能力や効用を果す能力 等の]能力をすべて欠き、かつ実在性(tattva)のない・全くの非実在である[から、それが]経験の対象となることはありえない。[従って、身体等の現象が]純粋精神で あるアートマンに附託されることなどありえないのである。
   [反対主張に対する反論]対象には、[輝く(顕現する)能力や効果を果す能力等の]能力がすべて欠けていても、それ(対象)に対応する識(認識、jñāna)一[その]個々の独特な本質は、良く知られており、[識]自らの観念(一瞬時前の識)の力により 得られる一自体が、非実在[である対象]を照らし出す(顕現させる)のであるか。 従って、非実在を照らし出す(顕現させる)こ(識)の力が無明(avidyā)[と言われるの]である。
    [反対主張者の答]それは正しくない。その理由は次の通りである。[そもそも]識
のもつこの非実在を照らし出す(顕現させる)力とは[一体]体]何なのか。また、こ [のカ]は、[一体]何を可能にするのか。もし、[この力が]非実在[の顕現を可能にする]とすると、それ(非実在)とは、これ(識のもつ力)の[生み出した]結果(kārya) なのか、それとも、識のもつ力によって認識させられるもの(jñāpya)なのか。[このうち]まず、[非実在は、識の力が生み出した]結果ではない。非実在がそれ(識の力が生み出した結果)であることはありえないからである。また、[識の力が非実在を]認識させるわけでもない。というのは、[非実在を認識させる識と同時に、それとは] 別の[非実在を認識する]識[が存在すること]は認められないからであり77、また、 [別に非実在を認識する識が存在するとすると、その識をさらに認識させる識が存在することになり]無限遡及に陥るからである。
   [反対主張に対する反論]識は本来非実在を照らし出す(顕現させる)ものなのである。
  [反対主張者の問い]実在と非実在はどのような関係になるのか。

脚注
75文脈に応じて、適宜、光線の束と蜃気楼の河、蜃気楼の水等とを訳し分けた。
76
77唯識論者によれば、識は刹那滅だから、ここに述べられているような二つの識が同時に存在することはありえない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/10(日) 23:28:20 ID:1d4drIFg0
今までのまとめなのじゃ。

 認識の対象であることが実在性を決定する根拠ではないというのじゃ。
 身体、器官も実在ではないというのじゃ。
 縄が蛇と認識されるとか、水晶に赤い色が反映されるとか蜃気楼のように付託があるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 水は光線では非実在であるが、それ自体は実在はするのじゃ。
 身体、器官は自体も非実在であるというのじゃ。
 経験とか認識されるものではないから、非実在であり、附託されることもないのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在が経験の対象とならないならば、光線が水として経験の対象となることはないから正しくないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 非実在が実在と異なるといことはないというじゃ。
 実在が別の実在を本質とすることで非実在になるというのじゃ。
 そうであるから非実在も経験の対象となるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 対象は能力などが欠けていても、識によって顕現するというのじゃ。
 非実在を顕現させる力が無明というのじや。

 反対なのじゃ。

 識の非実在を顕現させる力は何なのかというのじゃ。
 さらに識を認識させる識が必要になり、無限遡及に陥るとのじゃ。

 答えたのじゃ。

 識は本来、非実在を顕現させるものというのじゃ。

 聞いたのじゃ。

 実在と非実在の関係はどのようなものなのかというのじや。

433避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 00:03:26 ID:DotYiV8Q0
(つづき) p223-224
   [反論者の答]実在である識[のあり方]は、非実在に基づいて決定される、という
のが実在である識と非実在との関係である。
  [反対主張][対象が]実在しなくても、これ(識)[のあり方]が決定されるとは、 このあわれな観念(識)は、実になんとまた運のいいことだろう。[そんな馬鹿なこと があるはずはない]。また、観念がそれ(非実在)に基づくことなど全くありえない。 というのは、非実在が基体となるのは埋に合わないからである。
  [反対主張に対する反論][確かに]これ(観念)が非実在に基づくことは決してな い。しかし、観念は、[常に非実在と共存しているから]、非実在がなければ現われる (prathate)ことはない。それが、まさに、観念の本質なのである。
  [反対主張]この観念は、それ(非実在)から生じるわけでも、それ(非実在)を本 質とするわけでもないのに、それ(非実在)と必ず必然的関係(avinābhava)にある とは、実になんとまた、非実在に未練がましいことか。[しかし、そんな馬鹿なことが あるはずはない]。従って、[以上の論議から明らかなように]、身体・器官等は、実在性(tattva)のない完全な非実在(atyantāsat)であって、経験の対象とはなりえない のである。
  [答論]ここで答えて言う。もし、実在性のないものは経験の対象とはならないとす ると、[光線(屡気楼の水)は水を本質とするものとして]経験の対象となっているから、 この場合、光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在している(satattva) ということになるのではないか。
   [反対主張][光線(蟹気楼の水)は]実在ではない。光線(蟹気楼の水)は、それ (水)を本質とするものとしては、実在しない(asat)からである。そもそも、事物のあり方(tattva)には二種ある。すなわち実在(sattva)と非実在(sattva)とである。 このうち、前者は、自らに基づいて(自己を本質として)[存在して]おり、一方、後 者は、他に基づいて(他の事物を本質として)[存在して]いる。このことが、「常に実在でありかつ非実在である事物に関して、ある人々は、ある時に、[事物]それ自体 の姿で、ある姿(実在)を認識し、ある人は、ある時に、[事物とは]別の姿で、ある 姿(非実在)を認識する」78と言われているのである。
  [答論]だとすると、光線(蟹気楼)を[見て]水が現われたと認識するの(pratyaya) は、真理(実在、tattva)を対象とする[認識だ]ということになるのだろうか。そう だとすると、[この認識は]正しい認識であり、従って、誤認ではないことになり、拒 斥されることもないはずである。[しかし実際には、この認識は誤認であり、のちに生じた認識によって拒斥されるではないか]。
   [反対主張]もし、[この認識が]、光線(屡気楼の水)一それは、実際には、水を本質とするものではない一を、水を本質としないものとして認識していれば、確かに、[この認識は]拒斥されることはない[し、誤認でもない]。しかし、[光線(蟹気 楼の水)を]水を本質とするものとして認識している場合には、[その認識が]どうし て誤認でなかったり、拒斥されなかったりしようか。

脚注
78
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/11(月) 23:30:41 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 実在である識は非実在に基づいて決定されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 対象が実在しなくとも、識のありかたが決定されるとはおかしいといのじゃ。
 観念が実在しないものを基底にすることはありえないというのじゃ。
 存在しないのであるからのう。

 答えたのじゃ。

 観念は非実在と共存しているから、非実在がなければあらわれないというのじゃ。
 それが観念の本質というのじゃ。

 反対なのじゃ。

 観念は非実在から生じるのではなく、非実在を本質とするのでもないのに、必然的な関係なのはおかしいというのじゃ。
 そうであるから身体や器官は非実在で経験の対象にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 実在ではないものは経験の対象とはならないならば光線による屡気楼の水は水を本質とするものとして経験の対象となっているから、
 光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在するということになるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは違うというのじゃ。
 実在は自らに基づいて存在するものであるというのじゃ。
 非実在は他を本質とするものというじゃ。

 答えたのじゃ。

 だとすると蜃気楼の光線を見て水だと認識するのは正しいことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 23:54:39 ID:HbYTaiSg0
(つづき) p224-225
  [答論]実に、光線(蟹気楼の水)一[その]本質は水ではない一が、水であることを本質とするのは、まず、実在ではない。というのは、それ(光線=唇気楼の水) は、水でないものと異ならないから、水であることを本質とすることはありえないからである。また、[光線(蟹気楼の水)が水であることを本質とするのは]非実在でもない。というのは、[あなた方反対主張者は]「非実在とは実在の別[の形]である。[実 在と]異なるものでは決してない。何故なら、[実在とは別の非実在は]確証されないからである」79と主張しており、事物Xが実在しないということは、別の事物Y[が実 在すること]にほかならないということを認めているからである。また、[光線に]附託された[水という]姿は、[光線とも、また、水とも]異なるものではない。というの は、[もし、それらとは異なるものだとすると]、それ(光線に附託された水の姿)は、 光線であるか、ガンジス河等の水であるかのどちらかであろう。前者の場合には、光線があるという観念(認識)が[生ずる]はずで、水があるという[観念(認識)は生じ]ないことになる。後者の場合には、ガンジス河に水があるという[認識が生じる] はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。[また]、も し、特定の場所が想い出せない時には、水があるという[認識が生ずる]はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。
   [反対主張]これ(屡気楼の水)は完全な非実在であり、全く実体(svarūpa)のない単なる虚妄(alīka)のはずである。
   [答論]それは正しくない。というのは、それ(虚妄=完全な非実在)が経験の対象となりえないことは、すでに述べた通りだからである。従って、[屡気楼の水は]実在 でもなく、非実在でもない。また、実在でありかつ非実在であるということもない。というのは、[実在でありかつ非実在であるというのは]相矛盾することだからである。 だから、光線に[附託された]水(唇気楼の水)は、[実在であるとも非実在であると も]表現し得ないものであると理解すべきである。それ故、以上の論議から[次のこ とが結論づけられる。すなわち、光線に]附託された水(屡気楼の水)は、実在する水 (paramārthatoya)のようであり、従って、以前に知覚されたもののようであるが、実際には、水ではなく、以前に知覚されたものでもない。そうではなくて、虚妄(mithyā)、 すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである。また、同様 に、身体・器官等の現象も、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであり、[従って、それらは]以前に[知覚されたことは]なくても、以前の誤った観念から顕れたものであるかのように、別の場所すなわち純粋精神であるアートマンに、附 託されるのである。[そして]このことは理にかなっている。というのは、附託の定義 にあてはまるからである。また、身体・器官等の現象が拒斥されることに関しては、の ちに説明するつもりである80。
  一方、純粋精神であるアートマンは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナの対象で あり、[それが]本質的に、清浄で、悟っており、解脱したものであることは、それ(天啓聖典等)に基づきかつそれ(天啓聖典等)と矛盾しない論理によって確定している。 [従って、アートマンは]まさに実在であると表現し得る(nirvacanīya)のである。そ して、それ(アートマン)が実在である[根拠]は、[アートマンは]自ら輝いている[か ら、他の認識によって]拒斥されることはないという点(abādhitā svayamprakāśatā) にこそあるのであり、そして、それこそか、純粋精神であるアートマンの本質なのであ る。一方、それ(他の認識こよって拒斥されることのない、自ら輝いているという性質)とは異なる、実在性という普遍との内属関係や効果を果す能力を持つものという性質は、[アートマンが実在であることを決定する根拠では]ない。こうして、すべては 明らかとなったのである。

脚注
79 80
(´・(ェ)・`)つ

436鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/12(火) 22:48:16 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 蜃気楼の光線は水を本質とするものではないから、実在ではないというのじゃ。
 非実在でもないというのじゃ。
 反対者が実在と非実在は同じというからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 蜃気楼の水は非実在であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在である虚妄が経験の対象になりえないことはすでに述べた通りなのじゃ。
 そうであるから屡気楼の水は実在 でもなく、非実在でもないというじゃ。
 実在であり、非実在であるということもないのじゃ。
 矛盾するからなのじゃ。

 同じように身体や器官等の現象も、また実在であるとも非実在であるとも表現できないものというのじゃ。
 アートマンに付託されたものであるというのじゃ。

 そのアートマンは聖典とかに記された論理で確定されているから実在といえるのじゃ。
 さらにアートマンは自ら輝いているから、他の観念によって排斥されないから実在なのじゃ。
 それがアートマンの本質であるというのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2022/07/13(水) 10:33:39 ID:WCu/3GdE0
2.2.他学派による附託の定義(1):Ātmakhyātivādin 1. p225-226 114右/229

  そして、この[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない附託一[その]定義は先に述べた通りである一は、実に、すべての人が認めているところである。[しかし]、その(附託の)詳細(bheda)に関しては、諸論者間に相当な見解の相違がある。 そのため[『註解』の作者シャンカラは、附託が実在であるとも非実在であるとも] 表明し得ないものであることを確定するために、[次のように]述べているのである。
  ある人々81は、それ(附託)とは、Xの属性82を別の場所Yに附託すること (文字通りには、別の場所Yに対するXの属性の附託)であると言っている。
  Xの属性のとは、識(認識)の属性の、[たとえば]銀の識の形相(jñānākākra)の、 等々[という意味]である。[それを]別の場所Yに、すなわち外界に、附託する。ま ず、経量部の見解では、外界の事物は実在であり、それ(外界の事物)に識の形相が附 託されるのである。[一方、唯識論者によれば]、外界の事物は実在しないが、無始である無明の潜在印象(Vāsanā)より生じた外界[の事物]ー[それは]虚妄であるーが存在する[から]、唯識論者の場合にも、それ(外界の事物)に識の形相が附託され るのである。[唯識論者が、外界の事物は虚妄であっても存在する、と認めている]理 由(upapatti)は次の通りである。すなわち、経験によって良く知られた姿は、[それ を拒斥する観念が生じないうちは]、そのままの姿で[存在するものと]認めておくぺ きである、という原則があるからである。というのは、それ(経験によって良く知られ た姿)が[拒斥されて、それとは]別の姿になるのは、[その経験を]拒斥するより強 力な観念の力によるからである。そして、[たとえば「これは銀ではない」83という拒斥の場合、[それは、銀が外界に存在することを示す] 「これ」という性質のみを拒斥 することによって可能となるのである。[従って]、この場合、[拒斥の]対象が銀であ るというのは適当ではない。というのは、銀という基体が拒斥されると、銀とその属性である「これ」という性質が[共に]拒斥されることになるから、基体である銀も拒 斥される[と考える]よりは、これ(銀)の属性である「これ」という性質だけが拒斥 される[と考える]ほうが、理にかなっているからである。そして、このように、銀が 外界に[存在在すること]は拒斥されるから、当然(arthāt)、銀は内的な識に[存在 するのだと]確定されるのである。従って、外界に、識の形相が附託されることが確立 されるのである。

脚注
81 82
83 以下、真珠母貝を銀と見誤る例に基づいて論議が進められるので、理解しやすくするため、適宜、真珠母貝と銀の例を補った。
くま注、経量部、部派仏教の一派である。説一切有部から分派した。3世紀末に開かれた。説一切有部、及び大乗仏教の中観派・唯識派と共に、「インド仏教4大学派」の1つに数えられたりもする。
説一切有部が論(アビダルマ)を重んじたのに対して、経典を重んじて基準(量)としたため、「経量」部と呼ばれた。
(´・(ェ)・`)つ

438鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/13(水) 23:53:03 ID:1d4drIFg0
このような実在でもなく、非実在でもないという付託の定義はすべての人が認めているというのじゃ。
 しかしその詳細には各派で違いがあるというのじゃ。

 それについてシャンカラが述べているというのじゃ。

 経量部は、外界の事物は実在であり、それに識の内部にある形相が附託されるというのじゃ。

 唯識派は、外界のものは存在しないというのじゃ。
 ただ無明によって生じた虚妄の外界の事物に、職の形相が附託されるというのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 01:07:11 ID:CztdSez.0
2.3.他学派による附託の定義(2):Akhyātivādin p227-228

  しかし、ある人々84は、[附託とは]XがYに附託された時、[Xと]Y85との区別を理解しないことに基づく誤認(bhrama)のことであると[言う]。
  しかし、ある人々は、すなわち、識の形相説に満足しない人々は、[附託とは]Xが Yに附託された時、[Xと]Yとの区別を理解しないことに基づく誤認のことであると [言う]。そして、[識の形相説に]満足しない理由を[次のように]述べている。すな わち、銀等が識の形相であることは、経験に基づいて確定されるか、推論に基づいて確定されるかのいずれかであろう。このうち、推論に関しては、のちに退けるつもり である86。[さてもし、銀等が識の形相であることが経験に基づいて確定されるとすると、その]わ87経験とは、さらに、銀等の観念であるか、[銀等の観念を]拒斥する観念で あるかのいずれかであろう。まず第一に、[それは]銀の観念ではない。というのは、 それ(銀の観念)は、「これ」という語(観念)の対象である(外界に存在する)銀を認識させるのであり、内的なもの(識の形相としての銀)を認識させるのではないからである。何故なら、その場合には(もし、銀の観念が、内的なものである識の形相としての銀を認識させるのなら)[「これは銀である」どういう認識ではなく]、「私は[銀である]」と[いう認識が生ずることに]なるはずだからである。というのは、[唯識論者にとっては]認識主体と観念(識)とは異ならないからである。
  [唯識論者]錯誤せる識が、まさに自己の形相を外界に存在するものとして定立するのである。従って、これ(識)の対象は、[外界に存在するものとして定立された識の 形相であるから]、「私」という語(観念)の対象ではない。さらに、これ(外界に存在 する銀等)が識の形相であることは、[外界に存在する銀等を]拒斥する観念から知られるはずである。[すなわち、外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものすなわち銀等も観念、のはずである]。 [Akhyātivādin]ああ、あなたは長生きするよ88。[銀等を]拒斥する観念をよく考察してごらんなさい。[銀等を拒斥する観念は]ー体、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも、[銀が]識の形相であることを示すのか。このうち、[銀等を]拒斥 する観念の機能は、[銀等が]識の形相であることを示す点にあると[あなたが]言うのなら、[あなたは]見上げた利口者であり、神々のお気に入り(馬鹿)である。
   [唯識論者][銀が]眼前にあることが否定される(pratisedha)のだから、当然(arthāt)、 これ(銀)は、[内的なものであり]識の形相である。
  [Akhyātivādin]そうではない。[銀が認識主体の]近くに存在していないことに対する無理解が否定されると、[銀等が]認識主体の近くに存在していない[ことが理解 されるだけで]あり、[そのことから]どうして、これ(銀)が認識主体を本質とするというような、[銀と認識主体との]極端な近接関係(sannidhāna)が[理解されたり]しようか。

脚注
84 85 86 87
88「長生きするよ」とか「神様のお気にいり」という語は、反対主張者なかでも仏教徒を郷楡して馬鹿よばわりするときに用いられる表現である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/14(木) 23:50:40 ID:wWrqg5gM0
 しかし、他のものは付託とは、XがYに附託された時、それらの区別を理解しないことに基づく誤認だというのじゃ。
 唯識のものがいうように、たとえば銀の形相が経験に基づいて確定されるならば、それは銀の観念ではないというのじゃ。
 なぜならば唯識論者にとって観念と認識主体は異ならないから、私は銀であるという認識が起こるというのじゃ。

 唯識論者は反対するのじゃ。

 認識の対象は自分ではないからそれはないというのじゃ。
 外界に存在する銀等が識の形相であることは、それを拒斥する観念から知られるというのじゃ。
 なぜならば外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものである銀等も観念のはずであるというのじゃ。

 
  答えたのじゃ。

 銀等を排斥する観念は、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも銀が識の形相であることを示すのかと聞くのじゃ。
 銀等を拒斥 する観念の機能は、それ識の形相であることを示す点にあると言うのなら間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀が眼前にあることが否定されたのであるから、当然それは内的なものであり、識の形相だというのじゃ。

答えたのじゃ。

 それはただ銀が認識主体の近くにないことを示しただけなのじゃ。
 それだけで認識主体を本質とするということにはならないのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 23:56:03 ID:cOC89WfM0
(つづき)  p228-229    
  さらに、これ(銀を拒斥する観念)は、銀を否定するのでも、「これ」という性質 を否定するのでもなく、「これは銀である」という銀に関する日常的表現(経験)一 [それは、真珠母貝を対象とする「これ」という認識と想起された銀の認識との]区別 を理解しないことから生じたものである一を否定するのである。
  また、[anyathākhyāivadinが言うように]89、銀の認識によって銀自体が真珠母員貝に現われる(prsañjita)のではない。何故なら、銀が顕現する基体(ālambana)が 真珠母貝であるというのは、理に合わないからである。というのは、[それは]経験に 反するからである90。
  また、[真珠母貝は、真珠母貝であることは知られていなくても]存在するだけで (sattāmātrena)[銀が顕現する]基体となるということはない。というのは、[その場 合には、銀が顕現する基体となりうるものの範囲が]広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。すなわち、すべての事物は、存在であるという点では変わりがないから、 [すべての事物が、銀の顕現する]基体となるという誤謬に陥るのである。さらに、[真珠母貝は、銀が顕現する(認識される)]原因であるから、[銀が顕現する基体(銀とい う認識の対象)である、というわけ]ではない。というのは、感覚器官等も[銀が顕現 する(認識される)]原因だからである。従って、基体(対象、ālambana)91が意味す るのは、顕現すること(認識されること)にほかならない。そして、真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから、どうして、[真珠母貝が銀の顕現の(銀の認識の)]基体(対象)でありえようか。あるいは、[銀の認識に真珠母貝が]顕現することを認めた場合には、[銀の認識の対象が真珠母貝であるということになり]、どうして経験に反しないことがあろうか。[経験に反することになってしまう]。
  さらに、感覚器官等には正しい認識を生み出す能力[のあること]が認められているのだから、どうして、それら(感覚器官等)から、誤った認識が生じようか。
  [反論]これら(感覚器官等)は、欠陥を伴う場合には誤った観念[を生み出す]能力も持つのである。
  [Akhyātivādin]そうではない。何故なら[感覚器官等の]欠陥は、[感覚器官等に備わった]結果を生み出す能力を損う原因となるだけ[であって、誤った認識を生みだ す原因とはならない]からである。というのは、さもなければ、欠陥があればクタジャ の種からでも、バニヤンの芽が出る、という誤謬に陥ることになるからである。さら に、[銀が認識の対象でもないのに、銀が認識されるというように]、諸々の認識が自己 の[正当な]対象からはずれるとすると、あらゆる場合に、[認識が]不確実なものと なる(anāśvāsa)という誤謬に陥ることになる。それ故、認識はすべて正しいと認め るべきである。従って、「銀」という認識と「これ」という認識は、[それぞれ]想起と経験(知覚)という姿をした二種の[正しい]認識なのである。

脚注
89
90何故、経験に反するのかという点については、以下の論議を参照のこと。
91ālambanaという語には、基体という意味と対象という意味がともに含まれているので、ここでは、文脈に応じて、適宜、基体と対象を訳し分けた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2022/07/15(金) 09:56:22 ID:QQibwu9g0
「くまなりまとめ」は、長くなり過ぎるので、中断するであります。
 
鬼和尚の解説が優れた要約になっているので、それを参照しながらの読解の訓練が、集中力の鍛錬になるであります。
たいへんありがたいことであります。
(´・(ェ)・`)b

443鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/15(金) 23:30:30 ID:wWrqg5gM0

 さらに銀を排斥する観念は銀を否定するのではなく、性質を否定するのでもないというのじゃ。
 銀に関する経験を否定するのじゃ。

 また銀の認識で銀が真珠母貝に現れることもないというのじゃ。
 銀が顕現する基体が 真珠母貝であるというのは理に合わず、経験にも反するからなのじゃ。

 真珠母貝は真珠母貝として存在するだけで銀の基体になることもないというのじゃ。
 それだと全ての存在が銀の基体となってしまうからなのじゃ。

 真珠母貝は銀が顕現する原因であるから基体であることもないのじゃ。
 感覚器官も銀が顕現する基体となるかなのじゃ。

 基体とは認識されることに他ならないというのじゃ。
 真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから基体ではないというのじゃ。

 感覚器官も正しい認識を生み出す能力があるから、それから誤った認識が起こることもないというのじゃ。

 反論なのじゃ。

  感覚器官は欠陥があれば、誤った認識を生み出すのじゃ。

 答えたのじゃ。

 感覚器官の欠陥は、結果を生み出す能力を生む原因となるだけで、誤った認識の原因とはならないというのじゃ。
 認識の欠陥である植物の種から、別の植物の実がなることはないからなのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2022/07/16(土) 00:55:58 ID:kcJDodG20
(つづき) p229-230
  このうち、「これ」という[認識]は、眼前に[何か]実体があることだけを知覚しているのである。というのは、そ[の実体]に属す真珠母貝性という[真珠母に]共通 の特質(sāmānyaViśesa)92が、[感覚器官等に]欠陥があるために知覚されていないからである。そして、 「それ(眼前に存在する何らかの実体)だけが知覚されると、[その実体は、銀と]似ているので、[人に、過去に知覚したことのある銀の]印象を想い 起こさせることで(samskārodbhdakakramena)、銀を想起させるのである。そして、 それ(銀の想起)は、[過去に]知覚したことのある認識を本質とするものではあって も、[感覚器官等に]欠陥があるために、[過去に]知覚したことのあるものだという 面が欠落している(pramosa)から、[現存する]知覚としてのみ立ちあらわれているのである。このように、銀の想起と眼前に存在する[何らかの]実体のみを知覚することとは、[両者の]区別が理解されていないために、[認識]それ自体に関しても、ま た、[その]対象に関しても、混同されるのである。「これ」という[認識]と「銀」という[認識]は、知覚と想起というように[それぞれ]異なっているにもかかわらず、 [それらは、感覚器官と]結合した銀(眼前に存在する銀)を対象とする認識と似ているために、[両者を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することを引き起すのである。 また、ある場合には、二種の知覚の区別が互いに理解されないことがある。たとえば、「法螺貝が黄色い」という場合のように。この場合には、[眼から]外た出た光線 一[それは]水晶のように透明である一に存在する胆汁の黄色は知覚されるが、胆汁は知覚されず、[一方]ほら貝も、[感覚器官等に]欠陥があるために、白という属 性のない、単なる実体として知覚される。それ故、これら属性(黄色)と[その]基体 (法螺貝)とが無関係であることを理解しないことから[生ずる]類似性に基づいて、「黄金の塊は黄色い」という観念の場合と同じように、[「法螺員は黄色い」という、両者 を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することが[生ずるので]ある。 また・[想起と知覚あるいは二種の知覚の]区別を理解しないことから生じる、[両者 を]区別しない日常的経験が拒斥されることで、「これは...ではない」という[両者を]識別する観念が拒斥するもの(bādhaka)であることも成り立つのである。そして、こ のことが成り立てば、前に[生じた]観念は、[あとに生じた観念によって拒斥される から]誤認である、という世間で認められている事実も成り立つことになるのである。
  それ故、[次のような椎論式が成立する。すなわち]「(主張)疑問と誤認に満ちた相 矛盾する見解はすべて正しい(yathārtha)。(理由)というのは、[それらは]観念だからである。(実例)たとえば、壷等の観念のように」。
  以上のことが・Xが[Yに]附託される[時]云々と言われているのである。真珠母貝(Y)に銀等(X)が附託されるのは、世間で周知の事実である。[しかし]、それは、 YがXとして認識されること(anyathākhyāti)93に基づくのではない。そうではなく て、[それ(附託)とは、ある場合には、以前に]知覚したことのある銀等およびその [銀等の]想起が、「これ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体) の認識とは異なるということを理解しないこと一[それは銀等の以前に]知覚した ことのあるものであるという面が欠落することによる一に基づく誤認である。また、[ある場合には・附託とは、以前に]知覚したことのあるものが、rこれ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体)の認識とは異なるということを、理解 しないことに基づく誤認である。そして、知覚と想起を互いに同格関係によって表現することや・「[これは]銀である」等の日常的経験は、誤認[の結果]なのである。

脚注
92共通の特質とは、個物に対しては普遍であり、実在性に対しては特殊であるものを言い、類と同義である。
93 脚注64参照。
(´・(ェ)・`)つ

445鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/16(土) 23:24:38 ID:wWrqg5gM0
 認識は眼前に実体があることだけを知覚しているというのじゃ。
 それが実体をも否定する唯識論者との違いなのじゃ。

 実体に属する共通の特質が知覚されず、似たものが想起されるというのじゃ。
 以前に認識したものと眼前のものと区別しないから混同が起こるのじゃ。

 また二種の知覚の区別が理解されないために起こる事もあるというのじゃ。
 対象の属性と基体が無関係であることを理解しないから起こる事もあるというのじゃ。
 それらの無理解が拒斥されることで両者を区別される観念も成り立つというのじゃ。

 付託とは何かが別の何かに認識されるというだけではないのじゃ。
 眼前の対象が、以前に知覚された別の似たものに誤認されることが付託されたということだというのじゃ。

446避難民のマジレスさん:2022/07/17(日) 02:45:26 ID:qTt0I4uw0
2.4.他学派による附託の定義(3):その他の学派   p231-235

  しかし、別の人々は94、[附託とは]XがYに附託された時、Yにはまさに [それに]反する属性があると誤って構想すること(kalpanā)である、と主 張している。

  しかし、別の人々は、すなわち、これ(これまで述べてきたakhyātiの見解)にも満 足しない人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反する 属性があると誤って構想することである、と主張している。ここ(本文中)で言おうと していることは以下の通りである。銀を求める人は、「これは銀である」という観念に 基づいて、眼前に存在する実体に向かったり、[その実体と銀とを]同格関係で表現し たりする。これは、広く知られているところである。[しかし]、知覚と想起およびその [それぞれの]対象が互いに異なることに対する単なる無理解から、このことが[起こ る]ということはありえない。というのは、精神神的存在の日常的経験(vyavahāra, 活動)95と表現は、理解に基づいており、[それらが]単なる無理解から[起こること]は決してありえないからである。
  [Akhyātivādin][それらは]単なる無理解から[起こるの]ではない。そうではなくて、知覚と想起は、それ自体に関しても、また、[その]対象に関しても、互いに異 なることが理解されていない場合には、[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]眼前に存在する銀に関する正しい認識と類似しているために、[「これ」と「銀」とを]区別しない日常的経験(活動)や[両者の]同格関係による表現を引き起すのである。
  [Akhyati批判][このようにあなたは]言っていったが、では、これら(知覚と想 起)が正しい認識と類似していると理解されている時に、[その類似性が]日常経験(活 動)を引き起こす原因となるのか、あるいは、[類似していると]理解されていなくて [も]、単に[類似性が]存在するだけで、[それが日常経験(活動)を引き起す原因と なるの]か。[このうち、知覚と想起が正しい認識と類似していると]理解されている 場合には、[この理解は]、さらに、 「『これ』という[知覚]と『銀』という[想起]と いうこれら二種の認識は、正しい認識と類似している」という形の理解になるか、「こ れら二種[の認識]は、実に、[認識]それ自体に関しても、また、その[それぞれの] 対象に関しても、互いに異なることが理解されていない」という形の理解となるか[のいずれかであろう]。このうち、まず、 「正しい認識と類似している」という認識は、 正しい認識のようには、日常的経験(活動)を引き起すことはない。というのは、「カ ヴァヤ96は牛に似ている」という認識は、牛を求めている人を、ガヴァヤに向かわせる ことはないからである。一方、 「これら二種[の認識]は、実に、異なることが理解 されていない」という認識は、自己矛盾である。というのは、「[両者が]異なることが理解されていな」ければ、 「これら二種[の認識]は」という形はとらないし、 「こ れら二種[の認識]は」という理解があれば、 「[両者が]異なることが理解されてい ない」ということはないからである。従って、[次のように]言うべきである。すなわ ち、[「これ」という知覚と「銀」という想起が眼前に存在する銀に関する正しい認識と 類似しているという事実が]単に存在するだけで、[知覚と想起が]異なることを理解していないということが分からなくなり、[それが]日常的経験(活動)の原因となる のであると。

脚注
94Ratnaprabhāは、「空観派の人々」と解し、Nyāyanirnayaは、中観派の人々 と解している。Bhāmatīがどう解していたかは不明だが、その註釈は、(中観派の人々 )と解している。
95日常的経験という語には、日常的活動という意味あいも含まれている。
96 牛に似て牛に非ざるものの例としてよく用いられる雄牛の一種。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

447鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/18(月) 00:07:57 ID:7bvYmyZM0
さらに別の派のものは付託とは、あるものが付託され時にそれとは反する属性があると、誤って構想することというのじゃ。
 それは単なる無理解ではなく、知覚と想起が主客共々、互いに異なることが理解されていない時に区別しない表現を引き起こすというのじゃ。
 つまり真珠母貝が銀と誤認された時に、実は過去の記憶から想起されたものであるのに、知覚されたと思ってしまうということじゃな。
 それも類似しているからというのじゃ。

 反論なのじゃ。

 正しい認識と類似しているという認識が、それらの認識を引き起こすことはないというのじゃ。
 
 
 さらに二種の認識が異なることが理解されていないというのは自己矛盾であるというのじゃ。
 異なることが理解されていなければ、これら二種の認識はという形はとらないからなのじゃ。
 その理解があれば両者が異なることが理解されていないということはないからだというのじゃ。
 
 そうであるから、対象の知覚と想起が、想起対象の正しい認識と類似しているという事実が単に存在するだけで、
 知覚と想起が異なることの無理解が起こり、誤認の原因となるのであると言うのが正しいというのじゃ。

448避難民のマジレスさん:2022/07/18(月) 00:45:29 ID:ct57SF/Q0

(つづき)    p932-933
  [問]この場合、これ(知覚と想起が異なることに対する無理解)は、附託を生み出 すことで、日常的経験(活動)の原因となるのか、それとも、附託を生み出すことなし に、まさに、それ自身で、[日常的経験(活動)の原因となるのか。]
  [Akhyāti批判者]我々は[次のように]考えている。すなわち、精神的存在の日常 的経験(活動)が無知を前提とすることはありえないから、[知覚と想起が異なること に対する無理解は]、附託という認識を生み出すことによってのみ、[日常経験(活動) の原因となるのである]と。
  [Akhyātivādin][確かに]その通りで、精神的存在の日常的経験(活動)は、無知 を前提とすることはないが、[附託という認識を前提とするのではなくて]、異なること が知られていない知覚と想起とを前提とするのである。
  [Akhyāti批判]そうではない。というのは、「銀」という名詞語幹(prātipadika) の意味を想起しただけでは、活動の役には立たないからである。実に、銀を求める人々 の活動が、[ただ想起しただけの銀に向かうのではなく]、「これ」という語(観念)の 対象に向かっているのは、疑いのない事実である。もし、これ(「これ」という語(観 念)の対象)を求めていなければ、どうして、この人(「銀」という名詞語幹の意味だ けを想起した人)が、「これ」という語(観念)の対象に向かおうか。Xを求めてYに 向かうというのは自己矛盾である。もし、「これ」という語(観念)の対象が銀である と知らなければ、銀を求める人は、どうして、それ(「これ」という語(観念)の対象) を欲しがったりしようか。
  [Akhyāti批判に対する反論]そうでない(銀でない)ことが分かっていないから[銀を求める人は、「これ」という語(鮒念)の村象を欲しがるの]である。
   [Akhyāti批判]もし、そんなことを言うのなら、そうである(銀である)ことが分かっていないのだから、どうして、[「これ」という語(観念)の対象に対して]無関心 でいられないのか答えるべきである。[このように]この[銀を]求める精神的存在が、 [銀を]取りに行くほうにつくか、[銀に対して]無関心であるほうにつくかは確定して いないが、「これ」という語(観念)の対象に銀を附託することによって、[この人は、 銀を]取りに行くほうにのみ、確定させられるのである。従って、[知覚と想起とが]異なることに対する無理解は、附託を生み出すことによって、精神的存在の活動の原因 となるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく

449鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 00:23:36 ID:7bvYmyZM0
聞いたのじゃ。
 
 知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるのか。
 あるいは附託を生み出すことなしに、れ自身で日常的経験原因となるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 精神的存在の日常的経験が無知を前提とすることはありえないのじゃ。
 そうであるから無理解は附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるというのじゃ。

 聞くのじゃ。

 精神的存在の日常的経験は、無知を前提とすることはないが、異なることが知られていない知覚と想起とを前提とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 想起だけでは人は日常的な活動はしないからそれは違うというのじゃ。
 想起の対象が必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀でないことがわかっていないから、人はその想起の対象を欲しがるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 銀でないことがわかっていないならばその対象に無関心でいられないのかというのじゃ。
 観念の対象に銀が付託されているから、人は銀を取りに行くというのじゃ。
 そうであるから知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで日常的経験の原因となるのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 08:03:53 ID:GORVQfcI0
(つづき) p233-234
  詳論すれば次の通りである。[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]異なるこ とに対する無理解から、[まず]「これ」という語(観念)の対象に銀性を附託する。[次 に]その(銀という)種類に属すものは役に立つものであると考える。[そして]「これ」 という語(観念)の対象である銀は、その(銀という)種類に属するものであるから、それ(役に立つもの)であると推論する。[次に]それ(「これ」という語(観念)の対 象である銀)を求めて、人は、[その銀に]向かう。このような順序が確立されるのであ る。[一方]一般的な(tatastha)銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象が役に立 つものであると推論するのには役立たない。というのは、[その場合には、「これ」と いう語(観念)の対象が役に立つものであることを推論する]原因(hetu)である銀性 は、場(paksa)に存在するもの(dharma)ではないからである97。実に、推論を成立 させるの(anumāpaka)は[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因とが]同一の場に見られることであって、[両者が]別々の場に見られることではないのである。たとえば、[そのことが]「[遍充]関係(sambandha) を知る者は、[推論によって立証しなけれぱならないものと推論によって立証するための原因とが]同一の場に見られることに基づいて、[推論を行う]」98と述べられてい る。一方、附託の場合には、[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因が]同一の場に見られる99。従って、[次のような推論が]成立 する。(主張)この論議の対象である銀等の認識は、眼前に存在する事物を対象として いる。(理由)何故なら、銀等を求める人を、必ず、そこ(眼前に存在する事物)へ向かわせるからである。(実例)Xを求める人を、必ず、Yへ向かわせる時、[その]Xに 関する認識はすべて、Yを対象としている。たとえば、[我々]両者が[そうだと]認 めている銀に関する正しい認識のように。(適用)これ(論議の対象となっている銀等 の認識)もそうである(眼前に存在する事物を対象としている)。(結論)従って、そう である(銀等の認識は眼前に存在する事物を対象としている)。

脚注
97推論が正いいものであるためには、二つの条件、すなわち、(1)推論の原因と推論によっ て立証しなければならないものとが同一の場に存在すること、(2)領域を覆うものの存在する領域が領域を覆われるものの存在する領域を覆って(あるいはそれと 重なっ)いるという関係にあることとが、満たされる必要がある。たとえば、山から立ち昇る煙を見て山 に火があることを推論する場合、山が場であり、煙が推論の原因であり、火が推論によって立証しなけれ はならないものである。また、火が領域を覆うものであり、煙が領域を覆われるものである。この推論が 正しいものでああるためには、(1)煙と火が同一の山にあること、(2)火の存在する領域が煙の存在する 領域より広い(あるいは同一である)ことが必要とされる。このことについては、脚注(14)でふれたの で、ここでは、詳しく説明することは避けたい。なお、本文の場合には、銀性が推論の原因であり、「これ」という語(観念)の対象の役に立つものであるという性質が推論によって立証しなけれぱならないも のであるが、銀性は銀という場に存在し、役に立つものであるという性質は「これ」という語(観念)の 対象である真珠母貝という場に存在しており、両者は同一の場に存在していない。従って、条件(1)が 満たされないから、銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象か役に立つものであると推論する原因 とはならないのである。
98
99附託の場合には、銀性は「これ」という語(観念)の対象(真珠母貝)に附託されているのだから、 「これ」という語(観念)の役に立つものであるという性質も銀性もともに、同一の場、すなわち「これ」 という語(観念)の対象(真珠母貝)に存在することになり、推論が正しいものであるための条件(1)が満たされていることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

451鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 22:51:45 ID:7bvYmyZM0
 知覚と想起への無理解から、知覚の対象に銀という観念を付託するのじゃ。
 それから銀が役に立つものと考えるのじゃ。
 そして銀が役に立つ貴金属であると推論するのじゃ。
 それから人は銀を求めて行動するというのじゃ。

 ただ想起するだけでは、人は動かないのじゃ。
 目の前に銀がないからなのじゃ。
 
 付託による認識は目の前にあるものを対象にしているというのじゃ。

452避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 23:42:31 ID:IB25p8NI0
(つづき) p234-235
  [Akhyātivādin]真珠母貝は、[銀の認識に]顕現しないから、[銀の顕現する]基 体([銀の認識の]対象)ではない100。
  [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。この場合、あなたに尋ねる。 説明せよ。「これは銀である」という認識の基体(対象)とならないのは、一体、真珠母貝性なのか、それとも、眼前に存在する白く輝く何らかの実体なのか。もし。真珠母貝性が[「これは銀である」という認識の]基体(対象)ではない[と言うの]なら、確 かにその通りである。[しかし]後者(眼前に存在する白く輝く何らかの実体)が[「こ れは銀である」という認識の]基体(対象)ではないと言うのなら、あなたはまさに、 経験に反することになる。というのは、「これは銀である」と経験している人は、経験しながら、眼前に存在する事物を、指等で指し示しているからである。
  [Akhyātivādin][感覚器官等の欠陥は、感覚器官等に備わった結果を生み出す能力
を損う原因となるだけであって、誤った認識を生み出す原因とはならない。というの は、さもなければ、欠陥があれば、クタジャの種からでも、バニヤン芽が出る、という 誤謬に陥ることになるからである。]101
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。というの は、欠陥のある原因は、通常の結果[が生じること]を妨げることで、[それとは]別 の結果を生み出すことができる、ということが経験されるからである。たとえば、山火事で焼かれると、竹の種から、カダリー木の茎が生ずることがあるし、また、体内の火は、過食病(bhasmaka)にやられると、多くの食物を消化することがある。
   [Akhyātivādin][次のような推論が成り立つことになる。「疑問と誤りに満ちた相矛盾する見解はすべて正しい。というのは、それらは、観念だからである。たとえば、 壼等の観念のように」。]102
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。直接知覚に よって[その]対象が拒斥された誤認が、正しい[などという]推論は、誤り(ānhāsa) である。たとえば、火が熱くないという推論のように。
  [Akhyātivādin][銀が認識の対象でもないのに、銀を認識するというように]誤っ た認識が、[認識自身の正当な対象から]はずれているとすると、あらゆる正しい認識根拠が不確実なものとなってしまう103。
   [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。[しかし]我々は、[認識は、人を]目覚めさせる(bodhaka)から、それ自体で正しいものであるのであって、[認識自体の正当な対象から]はずれることがないから[正しい]というわけではないの だ、と明言しており、これ(あなたの主張)は[すでに]、『ニヤーヤカニガー』の中 で104退けたので、ここでは、詳しくは説明しないことにする。
  また、[誤認の場合には、想起されたものの]想起という面が欠落しているのだ105[と いうakhyātivādinの主張]に対する批判については、ここ(akhyāti批判の箇所)で は、少しふれただけであるが、詳しくは、『タットヴァサミークシャー』106の中で、理解いただけるはずである。
  以上のことが、[『註解』本文中で]次のように述べられているのである。すなわち、
しかし、別の人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反 する属性があると誤って構想することである、と主張していると。[附託とは]Xがす なわち銀等がYにすなわち真珠母貝等に附託された時、Yにはすなわち真珠母貝等に はまさに[それに]反する属性がと誤って構想することである。すなわち、銀牲という属性があると誤って構想することである、というのが本文の脈略である。

脚注
100 本訳228頁15-17行参照。
101 本訳229頁参照。
102 本訳228頁29行参照。
103 本訳230頁5-7行参照。
104
105 本訳229頁13-15行参照。
106これは、マンダナミジュラの『ブラフマ・シッディ』に対するヴァーチャスパティ・ミシュラの註釈であるが、現存しない。
(´・(ェ)・`)

453鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/20(水) 23:45:49 ID:XIHZ8HZ20
 
 また他の派の者は付託とは近くの対象に別のものが付託された時に、その対象に反する属性があると構想されてしまうことであるというのじゃ。
 銀等が真珠母貝等に附託された時、真珠母貝等に はそれに反する属性がと誤って構想することであるだというのじゃ。
 つまり銀牲という属性があると誤って構想することだというのじゃ。

454避難民のマジレスさん:2022/07/21(木) 08:49:14 ID:3wdMPGqs0
2.5.附託の定義のまとめ  p236-237 120左/229

  しかし、いずれにしても、[これら附託の定義は、附託とは]Xの属性がY に顕現することであるとすることがらはずれることはない。世間での経験も また同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するとか、 一つ[しがない]月が二つであるかのように[顕現する]というように。

  [反対対主張]諸論者問の見解の相違はそのままにしておこう。ところで、[「註解』 本文中の]文脈の中で、[シャンカラが]言おうとしていることは、一体、何なのか。
   [答論]それに対して、[師シャンカラは]、しかし、いずれにしても、[これら附託
の定義は、附託とは]Xの属性がYに顕現することであるとすることがらはずれること はないと言っているのである。附託とは]Xの属性をYに誤って構想することである とは、[附託は]虚妄であるということ(anrtatā)である。そして、それ(附託が虚妄 であるということ)は、[附託が実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの である、ということにほかならない。このことは、以前に、明らかにしたところであ る107。従って、[附託が]Xの属性をYに誤って構想すること、すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるということは、あらゆる論者の[附 託に関する]見解の中で、必ず認められている。従って、[附託が実在であるとも非実 在であるとも]表現し得ないものであるというのは、あらゆる学説と矛盾しない事実で ある。以上が[『註解』本文の]意味である。[誤認とは知覚と想起とが異なることを] 認識しないことであるとする人々(Akhyātivādin)も、[「これ」と「銀」とが]必ず同格関係で表現され、[「銀」を求める人が「これ」という語(観念)の対象に]必ず向か
うという事実を無視できないために、いやいやながらも、このこと(附託が実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものであること)を認めている、というのが現状で ある。
  この[附託が]虚妄であるという事実は、単に、諸論者の間で確立しているだけでは なく、世間の人々の間でも[良く知られている]。だから、[師シャンカラは]世間での 経験もまた同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するようにと 言っているのである。[この本文は]「しかし、それは、銀ではない」を補って読むべき である。
  [反対主張]Xの性質がYに存在するという形の誤認は、世間の人々に良く知られて いる。しかし、一つ[しかなくて]かつ区別のないものには、区別に基づく誤認は見られない。従って、純粋精神であるアートマンとの区別のない諸個人存在に関して、ど うして、区別に基づく誤認があろうか。
  [答論]だから、[師シャンカラは]、一っ[しかない]月が二つであるからのよう にと言っているのである。

脚注
107 cf.Bhāmatī,p.18。
(´・(ェ)・`)つ

455鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/21(木) 23:23:12 ID:XIHZ8HZ20

 聞いたのじゃ。

 見解の相違はあるにしても付託は各派皆主張しているというのじゃ。
 その上でシャンカラが主張していることは何か聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 いずれにしても付託の定義は、知覚の対象の属性に、他の想起されたものが顕現することだというのじゃ。
 それは虚妄であり、実在とも非実在とも言えないものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 そのように対象が他のものに誤認されることはよく知られているのじゃ。
 しかし、ただ一つのものであり、区別のないもの、唯一無二のものには誤認などないというのじゃ。

 答えのじゃ。

 シャンカラはそれについて一つしかない月が二つであるかのように見られることはあるというのじゃ。

456避難民のマジレスさん:2022/07/22(金) 00:45:07 ID:QRNVGPEs0
2.6.アートマンに対する附託は不可能であるとする反対主張  p237-238

  しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託できるのか。[附託できないはずである]。というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであるが、あなたは、「内的アートマンは、『汝』という観念とは無関係なもので、対象ではない」と言っているからである。

  さらに、また、[反対主張者が]純粋精神であるアートマンに対する附託を批判して言う。しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託でき るのかと。[その]趣旨は次の通りである。[まず]純粋精神であるアートマンは輝い ている(認識されている)のか、あるいは、輝いていない(認識されていない)のか。 もし、輝いていない(認識されていない)とすると、どうして、これ(純粋精神である アートマン)に対象とその諸属性を附託できるのか。というのは、眼前に存在する実体 が顕現していなければ(認識されていなければ)、それに、銀やその諸属性を附託することは全くできないからである。[一方]、もし、[純粋精神であるアートマンが]顕現 している(認識されている)とすると、実に、アートマンは物質ではないのに、[物質である]壼のように、[自己]以外のものに依存して輝く(認識される)ことになり108、 理に合わない。何故なら]、同一のもの(アートマン)が行為主体でありかつ[行為の] 目的(対象、karma)109であるというのは、矛盾するので、ありえないからである。というのは、[行為の]目的(対象)とは、[自己]以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことであるが、認識行為が[アートマン]以外のものに内属することはないのだから、[アートマンが]それ(認識行為)の自的(対象)とな ることは決してないからである110。また、同一のものが自己に内属しかつ[自己]以外のものに内属する、ということもない。何故なら、[それは、自己]矛盾たからであ る。一方、[認識行為がアートマンAとは]別のアートマンBに内属していることを認 めると、アートマンAは、認識の対象(認識行為の目的)であることになり、アートマ ンはでなくなる、という[理論上の]誤謬に陥ることになる111。[そればかりか]、同 じように、それ(アートマンBも)、[それとは別のアートマンCに内属する認識行為の目的(対象)であることになり、さらに]それ(アートマンC)も、[それとは別の アートマンDに内属する認識行為の目的(対象)であることになる]というように、無限遡及に陥ることになる。

脚注
108ここでは、対象は、自己以外のもの(すなわち認識主体)によって認識されるから、精神的存在である認識主体とは異なり、物質的なものであるという考えが前提とされている。 109ここで、目的(対象)と訳したkarmaという語は、動詞の目的という意味と動詞によって表わされている行為の対象という意味をともに含んでいる。
110「[行為の]目的(対象)とは、それ以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことである 、たとえば、「デーヴァタッタが村へ行くという例で説明すると、次の通りである。まずこの例では、(1)デーヴァタッタが 行為主体であり、(2)村が行くという行為が目的(対象)であり、(3)村に到着することが行くという行為の結果である。ところで、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派によれば、物と物とを結びつける関係には、結びっけられたけられた二つの物が不可分の関係にあ る場合と、分離可能な関係にある場合との二種あると考えられており、前者は内属関係、後者は結合関係と呼ばれる。そして、内属関係にあるものは、部分と全体、属性とその基体、 行為とその行為主体、普遍と個物、特殊性と恒常な実体だけに限られるとされる。従って、ここにあげた例では、行くという行為とその行為主体であるデーウァダツタとの関係だけが、内属関係にあることにな る。一方、行くという行為の結果(到着)は、デーヴァタッタが到着するわけだからデーヴァタッタにあ り、かつ、村に到着するわけだから村にもあることになるが、それらの関係は結合関係である。それ故、「目的(対象)とは、自己以外のもの(デーヴァダヅタ)に内属する行為(行くという行為)[から生じた] 結果(到着)を保持するものである」と言えば、村に限られることになるのである。何故なら、デーヴァ タッタも到着という結果を保持してはいるが、それが行くという行為の目的(対象)だとすると、自己以外のもの(村)は、行為(行くという行為)が内属していないから、この定義はあてはまらないからであ る。
111ここでは、アートマンは認識主体であるということが前提とされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

457鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:01:56 ID:XIHZ8HZ20

アートマンとは認識主体であるから、付託はされないというのじゃ。
 そもそも付託とは認識の対象である客体に他のものの属性が顕現されるという心の働きであるからのう。
 認識主体とは関係ないものなのじゃ。

 認識主体であるアートマンは、認識されることはないのじゃ。
 もし認識主体であるアートマンが認識できたとしたら、別の認識主体が存在することになるからなのじゃ。
 その認識主体もまた他の認識主体に認識されることになり、無限遡及に陥るからなのじゃ。
 認識できない認識主体がアートマンであり、認識主体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

458鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:03:09 ID:XIHZ8HZ20
 ↑ 間違えたのじゃ。

 認識できない認識主体がアートマンであり、認識客体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

459避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 05:24:13 ID:PaUr0f520
(つづき)   p238-240
  [反対主張に対する反論]112アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に 関する認識の中に顕現するもの(認識されるもの)であっても、まさに行為主体であって、[行為の]目的(対象)ではない。というのは、[アートマンは]、チャイトラ[という人]の場合と同じように、[自己]以外のものに内属する行為[から生ずる]結果 を保持することはないからである。たとえば、チャイトラが、チャイトラ[自身]に内 属する「行くという]行為によって、町に到着する場合に、[到着という結果は、チャ イトラと町との]両者に内属していても、町だけが[行くという行為の]目的(対象) である。何故なら、[町は、自己]以外のもの(チャイトラ)に内属する[行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持しているからである。一方、チャイトラは、 [行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持してはいても、行くという行為がチャイトラに内属しているので、[行くという行為の目的(対象)では]ないので ある。
  [反対主張]それ(アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に関する認 識の中に顕現していても、まさに行為主体であって行為の目的では在いというの)は[正しく]ない。何故なら、天啓聖典に反するからである。というのは、天啓聖典は、「ブラフマン(アートマン)は、真実であり、認識であり、無限である」113と述べてい るからである。また、[アートマンが認識それ自体であるということは]理論的にも成 りたつのである。詳論すれば次の通りである。対象の牌き(対象の認識)が[認識行為 の]結果であり、対象とアートマンは、そ(対象の輝き:対象の認識)の中に、顕現する。この場合、それ(対象の輝き=対象の認識)は、一体、物質的なものであるのか、 あるいは、自ら輝いているものであるのか。もし[それが]物質的なものであるとすれ ぱ、対象もアートマンも物質的なものであることになり、[対象の認識と対象とアート マンとの]区別がなくなってしまうから、一体、何がどこで輝く(認識される)というのか。[全く何も認識されないということになってしまう]。従って、全世界が盲目に なってしまうことになる。同じ趣旨で、「盲人につかまっている盲人が、一歩ごとに足 を踏みはずすように」114という格言がある。
  [反対主張に対する反論]認識は、それ自身は輝いていて[も](認識されなくても)、 対象とアートマンとを認識させる。ちょうど、眼等[が、それ自身は知覚されなくて も、対象を知覚させる]ように。
  [反対主張]そのように言うべきではない。というのは、認識させるということは、 認識を生み出すということであり、生み出された認識は、物質的なものであるから、先 に述べた欠陥(対象の認識と対象とアートマンとが物質的なものであることになり、全世界が盲目になってしまうことになるという欠陥)を克服できないからである。同様 に、[物質的なものである認識により生み出された]それぞれ後の認識も、物質的なも のであることになり、[認識は]いつまでたっても[物質的なものであることに]なっ てしまう。従って、認識(samvit)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(自ら輝いている)、と認めるべきである。
   [反対主張に対する反論][認識は、自己以外のものに基づくことなく輝いている、 ということは認めよう。しかし、アートマンは、どうして、物質的なものでないことが あろうか]115。
  [反対主張者]たとえそうだとしても(認識は自己以外のものに基づかずに輝いでいるとしても)、対象とアートマン [それらはあなたがたによれぱ]本質的に物質的 なものである一は、[それで]一体どうなるのか。
  [反対主張に対する反論][対象とアートマンは物質的なものであっても]、それら (対象とアートマン)に関する認識は物質的なものではない、ということになる。
  [反対主張][認識が物質的なものではない(自ら輝いている)からと言って、認識 の原因である対象とアートマンも輝いている(認識されている)とは限らない116。と いうのは]息子が学者だからと言って、[その]父親も学者であるとは限らないからで ある。

脚注
112これは、アートマンが認識の基体であるとする論者の説である とされている。すなわち、反対主張者が、アートマンは認識と同一であり自ら輝いている、という立場を 取るのに対して、反対主張に対する反論者は、アートマンは認識とは異なり、自ら輝いてるのは認識のほうであるという立場を取っているのである。
113 114 115 116
(´・(ェ)・`)
(つづく)

460鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/23(土) 23:07:41 ID:ylLhGWow0

 反対の反対なのじゃ。
 
 アートマンは行為の主体であって、対象ではないというのじや。
 主体は行為の結果を保持しても、行為の目的ではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 聖典ではアートマンは認識であると書いてあるというのじゃ。
 対象の認識が物質的なものであれば、主体も客体も物質的なものとなり区別がつかなくなるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識はそれ自体が認識されなくとも、対象とアートマンを認識させるというのじゃ。
 目などが自身は見えなくとも対象を知覚させることであるとわかるように。

 反対なのじゃ。

 認識は物質的なものであるから、先のとおり何も区別がつかないのじゃ。
 認識は自己以外に基づくことなく自ら認識しているというのじゃ。

 答えのじゃ。

 アートマンは物質的なものではないというのじや。

 反対なのじゃ。

 対象とアートマンは本質的に物質的なものというのじや。

 答えたのじゃ。

 対象とアートマンに関する認識は物質的なものではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 認識が物質的なものではないから、認識 の原因である対象とアートマンも認識されているとは限らないというのじゃ。

461避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 23:33:54 ID:z3augnMs0
(つづき)    p240-241
  [反対主張に対する反論]対象とアートマンとに[常に]結びついているというのが、自ら輝いている認識の本質なのである。[従って、認識が自ら輝いていれば、対象 もアートマンも輝いている(認識されている)ことになるのである]。
  [反対主張]実に、学者である息子の場合でも、父親と[常に]結びついているとい うのが[学者である息子の]本質であるという点では、[認識と対象やアートマンとの関係と]同一である。
  [反対主張に対する反論]認識は、対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に輝く(顕現する)のであって、対象とアートマンが輝いていない(認識されていない)時には、[輝かない(顕現しない)]。これが、認識の本質なのである。
   [反対主張]もしそうだとすれば、認識は、[一方では]認識が輝いていること(顕現していること)と異なることになり、[他方では]対象とアートマンとが輝いていることと異なることになるのだろうか。もしそうだとすれば、認識は、[認識が輝いてい ることとは異なるのだから]、自ら輝いているものではなくなることになり、また、認 識は、[対象とアートマンとが輝いている(認識される)こととは異なるのだから]、対象とアートマンの輝き(認識)ではなくなることになる。
  [反対主張に対する反論]認識が輝いていること(顕現していること)と対象とアー トマンが輝いていること(認識されていること)は、認識[それ自体]と異ならない。それらは共に認識である。
  [反対主張]もし、そうだとすれば、[あなたは、先に] 「認識は、対象とアートマンが輝いて(認識されている)時に共に輝く(顕現する)」と言ったが、[それは] 「認 識は対象とアートマンと共に存在する」と言うのと変わりなくなる。従って、[輝いて いる(認識されている)時に共に牌く(顕現する)」という箇所で、あなたが]言おう としていたことが成り立たなくなってしまう117。[そればかりか]過去や未来の対象に関する[現在の]認識も、[それらの]対象と共に存在することになってしまう。
   [反対主張に対する反論][過去や未来の対象に関する現在の認識は1、それ(過去や 未来の対象)に対する排除、受容、無関心という意識(buddhi)を生み出すから、[それらの]対象に関するものである(それらの対象と共に存在している)。
   [反対主張]排除等の意識も、[過去や未来の]対象に関する[現在の]認識と同じように、それ(過去や未来の対象)に関するものではない(過去や未来の対象と共に存 在していない)。
  [反対主張に対する反論]排除等の意識は、[対象の]排除等を[実際に]生み出す から、対象に関するものである(対象と共に存在している)。そして、対象の認識は、 対象に関する排除等の意識を生み出すから、それ(排除等の意識の対象)に関するもの である(排除等の意識の対象と共に存在している)。[従って、対象の認識は、対象に関 するものであることになる(対象と共に存在していることになる)。] [反対主張][もし、あなたが言うように、対象の認識は、対象を排除したり、受容
したりする原因であるから、対象に関するものである(対象と共に存在している)とすると]、身体と努力の存在する118アートマンとの結合(samyoga)は、身体が対象に向 かったり[対象から]退いたりする原因であるが、[その結合も]、対象の輝き(認識) であることになるのか。
  [反対主張に対する反論]身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の輝き(認識)ではない。

脚注
117
118 身体は物質的存在であるから、精神的存在であるアートマンと結合しなければ、活動しえない。その上に、アートマンに活動しようとする努力(意志)がなければ、身体の活動は生じない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

462鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 00:42:30 ID:TD/s1y0g0
 答えなのじゃ。
 認識の本質は、対象とアートマンに結びついているというのじゃ。
 認識が機能していれば対象もアートマンも認識されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 認識と対象やアートマンは常に結びついているというのじゃ。

 答えなのじゃ。
 対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に(顕現するというのじゃ。
 対象とアートマンが認識されていない時は、顕現しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それならば認識は自ら認識するものではなくなるというのじゃ。
 
 答えなのじゃ。
 認識が顕現していることと、対象とアートマンが認識されていることが認識だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それでは認識は対象とアートマンと共に存在するということになるというのじゃ。
 そして前に説いた認識されている時に顕現するというのと違うのじゃ。
 さらに過去や未来の対象に関する今の認識も、対象と共に存在することになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 過去や未来の対象に対する認識は、排除、受容、無関心という意識を生み出すから、それらの対象と共に存在しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 排除等の意識も対象に関する今の認識と同じように、過去や未来の対象と共に存在していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。 
 排除等の意識は、排除等を[実際に]生み出す から、対象と共に存在しているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 対象の認識は、対象を排除したり、受容したりする原因であるから、対象と共に存在しているとすると、身体とアートマンとの結合は、身体が対象に向 かったり対象から退いたりする原因であるからその結合も、対象の認識になるのかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の認識ではないのじゃ。

463避難民のマジレスさん:2022/07/25(月) 07:31:35 ID:6b9WITxg0
(つづき)   p241-242
  [反対主張]これ(認識)は、[身体とアートマンの結合とは異なり]、自ら輝くもの であるが、[その]輝きは、蛍[の光]のように、自己自身を[照らす]だけであって、 対象に関しては物質的なものである(対象を照らすことはない)。このことは、[学者で ある息子とその父親の例で]119すでに明らかにした通りである。
  また、対象は、輝き(認識)を本質とするものではない。何故なら、それら(対象)は、[外界に存在する]有限なもの、すなわち、長いものや粗大なものとして経験(認識)されるが、この輝き(認識)は、内的なものとして、また、粗大でないもの、微細ででないもの、長くないもの、短くないものとして輝いている(顕現している)からである。従って、対象は、自ら輝いているもの(認識)とは異なり、月が[二つに]見える時の二つ目の月のようにまさに[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである120。このように[考えるのが]正しいと我々は思っている。また、この輝き (認識)には、本来、本質的な違い(svalaksanabheda)は見られない。[従って、この輝き(認識)が同じく自ら輝いている唯一のアートマンと同一であることにさしさわり はない]121。
  また、[対象がそれぞれ異なるから、その輝き(認識)もそれぞれ異なるということはない。実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない対象が異なるからという理由 で、[それとは全く異なり、実在であると]表現し得る輝き(認識)も[それぞれ]異な るとすることはできないのである。何故なら、[理由の適用する範囲が]広すぎる、という[理論上の]誤謬りに陥るからである122。また、対象どうしの相互の違いは、正しい認識への過程の中には存在していないということも、のちに明らかにされること であろう。従って、この輝き(認識)とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で(kūtasthanitya)、部分のない、内的なアートマン(pratyagātman)のことである。[そしてそれは、実在であると]表現し得るアートマンが[実在であるとも 非実在であるとも]表現し得ない身体・器官等とは異なる(pratīpa)と認識している (añcati)から、内的(pratyń)であり123、そのアートマンが内的アートマンなので ある。
  それ(内的アートマン)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いて(認識されて)おり、かつ、部分がないから、対象ではない。それ(対象ではない内的アートマン) に対象の諸属性を、すなわち、身体・器官等の諸属性を、どうして附託できるのか。どうしてというのは反論の意味である。すなわち、その反論とは、この附託は理に合わ ないということである。
  [反対主張に対する反論]では、何故、これ(附託)は理に合わないのか。

脚注
119 本訳239頁23行以下参照。
120 本訳236頁参照。
121
122 その理由として、もし、対象がそれぞれ異なるから、認識もそれぞれ異なるとすると、それは、池などに映った太陽が多数あるから、太陽も多数であると考えるようなものであるという例をあげている。
123ここでは、「内的アートマンの、内的という語を分解して、その語義を説明しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

464鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 23:02:03 ID:OHlZX1Go0
 認識は自己自身を認識するだけであり、 対象を見ることはないというのじゃ。
 対象は認識を本質とするものではないのじゃ。
 対象は外界にある有限なもの、長いものや粗大なものとして認識されるが、この認識は内的なものとして顕現しているからというのじゃ。

 そうであるから対象は認識とは異なり、幻の月のように実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだというのじゃ。
 その認識はアートマンであるというのじゃ。

 さらに対象が異なるから、認識もそれぞれ異なるということはないというのじゃ。
 実在であるとも非実在であるとも表現し得ない対象が異なるからという理由 で、実在であると表現し得る認識も異なるとすることはできないのじゃ。
 何故ならば理由の適用する範囲が広すぎる、という理論上の誤謬に陥るからというのじゃ。

 対象どうしの相互の違いは正しい認識への過程の中には存在していないということも後で語るというのじゃ。
 認識とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で、部分のない、内的なアートマンのことである。
 実在であると表現し得るアートマンが、実在であるとも 非実在であるとも表現し得ない身体や器官等とは異なると認識しているから内的であり、そのアートマンが内的アートマンなのであるというのじゃ。
 
 内的アートマンは、自己以外のものに基づくことなく認識されており、部分がないから対象ではない。
 対象ではない内的アートマンに対象の諸属性を、身体や器官等の諸属性を附託できないというのじゃ。
 故にこの付託とは理に合わないというのじゃ。

465避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 02:44:05 ID:q9S9X5JI0
(つづき) p242-243
  [反対主張]だから[反対主張者は、「註解』本文中で]というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであると言っているのであ る。この(本文の)趣旨は次の通りである。[自己]以外のものに基づいて輝き(認識さ れ)、かっ、部分のあるものXは、[Yと]共通な部分が認識されて[も]、[認識]器官 に欠陥があるために、[Xに]特有の性質が認識されない場合には、Yとして輝く(認 識される)ことがある。しかし、内的アートマンは、もし、[自己を認識するのに、認識器官を必要とするの]なら、それ[認識器官]に存在する欠陥に影響されることもあろうが、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(認識されている)ので、 自己を認識するのに、[認識]器官を必要としない。また、[内的アートマンに]、もし [部分があれ]ば、そのある部分は認識され、ある部分は認識されないということもあろうが、[内的アートマンには]部分はない。実に、XがXそれ自身によって、同時に、 認識されたり認識されなかったりすることはないのである。従って、[内的アートマン は]自ら輝いており(自己自身によって認識され)[部分がない]とする見解においては、附託はありえないのである。また、[内的アートマンが]常に輝かない(認識され ない)場合にも、[内的アートマンに対する]附託はありえない。何故なら[そのよう な内的アートマンには]眼前に存在するという性貰、すなわち、直接に知覚されるとい う性質が存在していないからである。実に、眼前に存在しない真珠母貝に、「これは銀 である」という形で銀を附託することなどないのである。従って、完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえない、と確定した。
  [反対主張に対する反論]もし、純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、[それに対する]附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、まさに、「私」という観念の対象なのである。従って、附託のありえないことなどどうしてあろうか。
   [反対主張][だから『註解』本文中で反対主張者は]どうして、対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのかと言っているのである。実に、もし、純粋精神であるアートマンが対象(客観)であれば、[それとは]別のものが主観である ことになってしまう[が、それは理に合わない]。従って、主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象(客観)は、それ(純粋精神であるアートマン)とは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。それ故、[純粋精神であるアートマ ンが対象(客観)であれば、それは]アートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、[次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るの]を避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではない[と述べられている]のである。まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのである。だから、[アートマンに対する]附託はありないのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

466鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/26(火) 23:44:21 ID:nuS2uxxM0
 反対なのじゃ。

 内的アートマンは自己以外のものに基づくことなく認識されているので、 自己を認識するのに認識器官を必要としないというのじゃ。
 内的アートマンは自己自身によって認識され部分がないとする見解においては、附託はありえないのじゃ。

 さらに内的アートマンが常に認識され ない場合にも、内的アートマンに対する附託はありえないというのじゃ。
 何故ならば内的アートマンには、直接に知覚されるという性質が存在していないからなのじゃ。
 完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえないのじゃ。

 反論なのじゃ。

 もし純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、それに対する附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、私という観念の対象だというのじゃ。
 そうであるから附託されるというじゃ。


 反対なのじゃ。
 対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのはずはないのじゃ。
 主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象である客観は、純粋精神であるアートマンとは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。

 純粋精神であるアートマ ンが対象であり客観であれば、それはアートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るのを避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではないと述べられているのじゃ。
 まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのじゃ。
 そうであるからアートマンに対する附託はありないのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 23:54:37 ID:N0DkOq7A0
2.7.アートマンに対する附託は可能であるという答論  p244-245

  答えて言う。まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわけではない。というのは、これ(内的アートマン)は「私」という観念の対象 なので、内的アートマンは直接に良く知らているがらである(aparoksatvāc ca pratagātmaprasiddheh)124。さらに、眼前に存在する対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則(niyama)はない。というのは、愚者たちは、虚空が直接知覚の対象でなく(apratyaksa) 125でも、それに、面や汚れ(talamalinatā)126などを附託するからである。
 従って、内的なアートマンにアートマンでないものを附託しても、さしつかえ ない。

  [師シャンカラは、以上の反対主張を]退けて言う。答えて言う。まず、これ(内的 アートマン)は、絶対に対象ではないというわではない。何故か。というのは、これ (内的アートマン)は「私」という観念の対象なので、内的アートマンは直接に良く知 られているからであると。
  この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。内的アートマンは、自ら輝いているか ら、対象ではなく部分がない、というのはその通りである。しかし、[内的アートマンは]、本来は、統覚機能・思考器官・粗大身・微細身・器官という限定者(avaccheda) 127一[それらは、実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって誤って構想されたものである一によって、限定されることも区別されることもなく、行 為主体でも経験主体でもないが、個人存在(jīva)という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように、経験主体であるかのように、見えるのである。[それは]ちょうど、[本来、区別も属性もない]虚空が、壷・水差し・水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように[見える]ようなもの である。
  実に、純粋精神そのもの(cidekarasa)であるアートマンは、[その]純粋精神という 側面(部分、amśa)が理解されれば、理解されないものは何も存在しない(アートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになる)。というのは、もし[アートマンの歓声・永遠性・遍在性等が純粋精神という性質とは異なるもの]なら、それ(純粋精神という 性質)が理解されても、[歓喜等は]理解されないことになろうが、[実際には]これ (アートマン)の歓喜・永遠性・遍在性等よ、純粋精神という性貰と異ならないからである。[このようにアートマンの純粋精神という面が理解されていれば、その歓喜等も 本来は]理解されるのである。にもかかわらず、[純粋精神という性質が理解されても 歓喜等は]、誤って構想された[純粋精神という性質との]違いのために、忍識されな いので、理解されていないかのように見えるのである。

脚注
124この箇所は、これまで、次の三通りに解釈されてい る。(1)「内的アートマンの認識は直接的なものであるかわらである」と解す。これは、Bhāmatīの解釈である。(2)「というのは、内的アートマンは、直接的に知られているから、周知のものだからである」と解す。(3)「というのは、内的アートマンは、周知の存在だから、直接に知られるからである」と解す。本訳では、(1)の解釈に従って訳した。
125虚空が直接知覚の対象でない理由については本訳247頁22行以下参照。
126
127 統覚機能等の限定とは、添性のことにほかならないので、これを統覚機能等の限定者の意味に解した。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

468鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 00:38:05 ID:FXbP5sdM0

 シャンカラは反対意見に反論するというのじゃ。

 内的アートマンは本来は統覚機能や思考器官や粗大身や微細身や器官という限定者、限定されることも区別されることもなく、行為主体でも経験主体でもないが、個人存在という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように経験主体であるかのように見えるのじゃ。
 それは虚空が壷や水差しや水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように見えるようなものだというのじゃ。
 無明によってそれらがアートマンであると誤認されるというのじゃ。

 純粋精神そのものであるアートマンは、その純粋精神という側面が理解されればアートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになるというのじゃ。
 アートマンの歓喜、永遠性、遍在性等は純粋精神という性貰と異ならないというのじゃ。

469避難民のマジレスさん:2022/07/28(木) 00:43:32 ID:sGDPqo/s0
(つづき)  p245-247   
  また、もし[アートマンと統覚機能等との違いが、真実であれ]ば、純粋榊神である アートマンが理解されると、それ(アートマンと統覚機能との違い)も理解されようが、[実際には]アートマンと統覚機能との違いは真実(実在、tāttvika)ではない。 というのは、統覚機能等は、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものなので、[アートマンと]それ(統覚機能等)との違いも[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだからである。従って、自ら輝いておりかつ限定されていないアートマンは、限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、それ(統覚機能等)が附託されると、個人存在となるのである。
  また、このアートマンは、「これ」 (対象である)という性質と「これではない」 (対 象ではない)という性質とを[同時に]備えている128[ので]、「私」という観念の対象でありうるのである。詳論すれば次の通りである。純粋精神であるアートマンは、「私」 という観念の中では、行為主体・経験主体として現れている。[しかし]、これ(アートマン)は、無関心な存在(udāsīna)129な[ので]、行為の能力や経験の能力を[本来]備えていることはありえない。[一方]、身体と器官の集合体である統覚機能等には、行 為や経験の能力は備わっているが、精神性は備わっていない。従って、純粋精神であ るアートマンが、身体と器官の集合体と結びついて、行為や経験の能力を獲得するのてある。[このように、アートマンは]自ら輝いでい[るので、本来は対象でなく]ても、 統覚機能等という対象に覆われている(vicchurana)から、なんとか、「私」という観念の対象となり、個人存在、被造物(jantu)、田地の智者(ksetrajña)130と呼ばれう るのである。
   [反対主張][個人存在は、統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるものである。従って、個人存在は、「私」という観念の対象ではないのではないか]131。
  [答論]個人存在は、実に、アートマンと異ならないのである。というのは、天啓聖典が、「[さて、予は]、この個人存在であるアートマンとともに[これらの三神格(熱と水と食物)に入り、名称と形態とを展開しよう]」132と[述べている]からである。 従って、個人存在は、純粋精神であるアートマンと異ならないから、自ら輝いている。 にもかかわらず、[それが]、行為主体・経験主体として日常的に経験される(表現される)ようになるのは、「私」という観念によるのである。そのため、[個人存在は]、 「私」という観念の対象(基体、ālambana)と言われるのである。
  [反対主張][あなたが言うように、アートマンは、個人存在という状態では、「私」 という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、統覚機能等がアートマンに]附託された時に、[アートマンは個人存在として「私」という観念の]対象となり、[アートマンが個人存在として「私」という観念の]対象である時に、 [統覚機能等がアートマンに]附託されることになり、[対象であることと附託とが]相互に依存しあう[という理論的誤謬に陥る]ことになってしまう。
  [答論][それは]正しくない。というのは、[両者の関係は]種と芽のように無始だ からである。何故なら、それぞれ前の附託とその潜在印象(Vāanā)によって対象と なったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは、矛盾しないからである。だ から、『註解』という作品が、このことを、これが生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)であると述べていたのである。従って、[以上の論議から明らかとなるのは、『註解』が]まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわで はない、と述べているのは、[反対主張に対する実に]的をえた答えであるということである。すなわち、個人存在は、純粋精神であるアートマンであり、[従って]、自ら輝 いているから、対象でははないが、添性によって限定された状態では、対象となってい る、というのが[この『註解』本文の]意味なのである。

脚注
128アートマンには、「これ」という面と「これではない」という面とがあるという論議
129「無関心な存在」とは、「何ものとも結びつくことのない存在」という意味であり、従って、それが、行為の能力や経験の能力と結びつくことはありえないのである。
130「『田地』に穀物が実るように、行為の結果が身体に於いて実るので、身体が「田地』と言われる。」アートマンは、身体の中にあって、認識主体であるから、「田地の知音」と呼ばれるのである。
131 132
(´・(ェ)・`)
(つづく)

470鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 23:43:37 ID:A2qoIofg0
 アートマンは限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、統覚機能等が附託されると、個人存在となるのであるというのじゃ。
 このアートマンは、対象であるという性質と対象ではないという性質とを同時に備えているから、私という観念の対象でありうるのじゃ。

 反対なのじゃ。
  個人存在は統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるのじゃ。
  そうであるから個人存在は私という観念の対象ではないのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 個人存在は、アートマンと異ならないというのじゃ。
 聖典には個人存在であるアートマンと書いているからなのじゃ。
 それが行為主体や経験主体として日常的に経験されるようになるのは、私という観念によるのじゃ。
 そのために個人存在は、私という観念の対象と言われるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンは個人存在という状態では私という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、
 統覚機能等がアートマンに附託された時に、アートマンは個人存在として私という観念の対象となり、その時にまた統覚機能等がアートマンに附託されることになり、相互に依存しあう理論的誤謬に陥るというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 それは間違いなのじゃ。
 両者の関係は種と芽のように無始だからなのじゃ。
 それぞれ前の附託とその潜在印象によって対象となったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは矛盾ではないのじゃ。

 註解はまず内的アートマンは、絶対に対象ではないというわではない、と述べているのじゃ。
 個人存在は純粋精神であるアートマンであり、対象でははないが、添性によって限定された状態では対象となっている、というのが註解本文の意味だというのじゃ。

471避難民のマジレスさん:2022/07/29(金) 01:07:34 ID:hkICw4oc0
(つづき)   p247-248
  [反対主張]私たちは、[内的アートマンは自己]以外のものに基づかずに輝いてい る(自ら輝いている)から対象ではないという理由で、[内的アートマンに対する]附 託を否定しているわけではない。そうではなくて、自己に基づこうとも[自己]以外の ものに基づこうとも輝かない(認識されない)という理由で、内的アートマンは対象ではないと言っているのである。従って、内的アートマンは、決して輝かない(認識されない)のだから、どうして、それに附託ができようか。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラが]、内的アートマン(pratyagātman) は、直接に(aparokda)良く知られている(prasiddhi)からであると答えているので ある。すなわち、内的な(pratīca)アートマン133が良く知られていること(prasiddhi)、 つまり[内的アートマンの]認識(prathā)は、直接的だからである(aparoksatvāt)。 [内的アートマンは認識それ自体であるから]、内的アートマンには[それ自身]以外に 認識が存在するわけでないが、[内的アートマンの認識と言うように、内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょ うど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。[従って、『註解』本文の]趣旨は次の通りである。すなわち、純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきである。というのは、そ れ(純粋精神であるアートマン)が認識されないと、すべてが認識されないことにな るから、世界が盲目になってしまうという誤謬に陥ってしまうからである。このことは、すでに述べた通りである134。そして、このことに関して、「まさに、それ(アートマン)が輝くと、すぺてがそれ(アートマン)に従って輝く。その(アートマンの)輝 きによって、この全世界が輝く」135という天啓聖典がある。
  さて、このように、[まず、反対主張を]究極的な意味で退けたのち、[次に、師シャ ンカラは]、純粋精神であるアートマンが直接的に認識されない(paroksa)ことを[一応]認めた上で、付加的な議論(praudhavādin)136として、[反対主張を]別な形で退けて言う。すなわち、眼前に存在する、つまり直接に知覚される対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないと。
  [反対主張]何故、これは定まった規則ではないのか。
  [答論][この問に対して、師シャンカラは]答えて言う。というのは、愚者たちは、 虚空が直接知覚の対象でなくても、それに、面や汚れなどを附託するからであると。と いうのは(hi)とは、何故なら(yasmāt)という意味である。実に、虚空は、実体で はあっても、色彩と感触がないから・外[界を知覚するための]感覚器官によって直接に知覚されることはない。さらに、思考器官によって直接に知覚されることもない。 何故なら、思考器官が、[外界を知覚するための感覚器官に]助けられることなく、外界に対して作用することはないからである。従って、[虚空は]直接知覚の対象ではないのである。しかし、愚者たち、すなわち、識別力のない人たち、他の人々が示した通りに[物事を]見る人たちは、これ(虚空)に、ある時には、大地の影である暗青色を 附託して、[虚空は]青い蓮華の花弁のように暗青色であると見、また、ある時は、光の属性である白色を附託して、[虚空は]白鳥の群のように白いと見る。ここでも、以 前に知覚された光や闇の色が、想起という姿で、別の場所に、すなわち虚空に顯現し ているのである。同じように、[愚者たちは、虚空を]インドラニーラという大きな宝石でできた半円球の鍋をうつむけにしたようなものだと考えて、同じそれ(虚空)に、 [半円球の形の]面を附託するのである。[さてここで、師シャンカラは、以上の論議 を]結論付けて言っている。このように、すなわち、これまで述べてきたような反対主張[とそれに対する]答論すべてから[明らかなように]、内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託しても、さしつかえないと。

脚注
133ここでは、「内的アートマン」という複合語を、「内的な」「アートマン」 と分解しているのである。
134 本訳238頁26行以下参照
135 136
(´・(ェ)・`)つ

472鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/29(金) 23:50:20 ID:3KmJ.Gzg0
 反対なのじゃ。
 内的アートマンは認識されないから、付託も出来ないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきであるというのじゃ。
 純粋精神であるアートマンが認識されないと、すべてが認識されないことになるからなのじゃ。
  
 直接に知覚される対象にのみ別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないというのじゃ。

 聞いたのじゃ。
 なぜこれは定まった規則ではないのかと、問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
  愚かな者たちが知覚出来ない虚空にも、青とか半円球の鍋と付託するように、
  内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託されたりするのじゃ。

473避難民のマジレスさん:2022/07/30(土) 08:52:20 ID:NzE6tTWQ0
2.8.無明と明知  p248-250 126左/229

  賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明(avidyā)であると考える。そして、それ(非アートマン)137を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを明知(vidyā)と呼ぶ。このような場 合138、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずかでも影響を受けることはない。認識根拠一認識対象[等の区別に基づく]日常的経験139はすべて一世俗のものであれ、ヴェーダによるものであれ一この無明と呼ばれる、アートマンと非アートマンとの相互附託に基づ いて起こるのである。また、儀軌・禁令・解脱をもっぱら説いているあらゆる 聖典も140[同様に相互附託に基づいている]。

  [反対主張]附託は何千と存在する。[にもかかわらず]どうして、この(アートマンと非アートマンとの)附託だけが、反対主張と[それに対する]答論を通して説明されているのか。何故、附託一般[を説明し]ないのか。
   [答論][だから師シャンカラは]賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明であると考えると言っているのである。実に、無明があらゆる悪の原因であることは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等で周知の事実である(なおそれ(無明) を取り除くために諸ウパニシャッドが開始されたということについては、のちに141述べるつもりである)。[この]あらゆる悪の原因は内的アートマンに非アートマンを附託するところにのみあり、[真珠母貝等を]銀等と誤認するところに[あるのでは]決してない。従って、それ(内的アートマンに非アートマンを附託すること)こそが無明なのである。[そして]その(無明の)本質を知らなければ、[無明を]取り除くことはできない。だからこそ、それ(無明の本質=内的アートマンに非アートマンを附託 すること)142だけを説明しているのであり、附託一般[を説明し]ないのである。[さらに、この附託が]悪の原因であることは、ここ[『註解』本文中]に[も]、以上のように定義付けられたという形で述べられているのである。[つまり、この附託には]以上のような性質(悪の原因という性質)がある143[と言っているのである。すなわち] 飢え等とは無関係な内的アートマンに、飢え等と結びついた内官などの害になるものを附託することによって、[本来]苦しんだりすることのない内的アートマンが苦しむことになるから、[この附託が]悪の原因なのである。もし[愚かな人々も附託をこのようなものだと考えて]いれば、[附託について]説明する必要はないのだが、愚かな人々は、附託をこのようなものだと考えているわけではない。従って、[師シャンカラは]賢者たちは考えると言っているのである。
   [反対主張]この無明は無始であり、かつ、極めて根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、滅することができない。何故なら[それを滅する]手段が存在しないからである。

脚注
137「それ」を、アートマンに附託されたもの」すなわち統覚機能等の非アートマンと解している
138 Bhāmaltīは、「実在そのものがこのように確知された場合と解している。
139この日常的経験には、(1)世俗的な日常的経験、(2)祭式を説く聖典に基づく日常的経験・(3)解脱を説く聖典に基く日常的 経験の三種があるとされる。
140ヴェーダ聖典は通例、儀軌・禁令を教える祭事部と解脱を教 える知識部に分かれ、前者はミーマーンサー学派の、後者はヴエーンダーンタ学派のそ れぞ研究対象である。
141 本訳263頁11行以下参照
142
143「以上のように定義付けられた」とは、「内的アートマンに非アートマンである内官・自我意識等との同一性を附託すること」を第一に意味しているのだが、この附託が悪の原因にほかならないから、ここ では、この附託が悪の原因なのであるということも暗に意味しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

474鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/30(土) 23:07:40 ID:SR7jmlf.0
 非アートマンを識別することによって実在そのものであるアートマンを確知することを明知と呼ぶというのじゃ。
 それは付託の影響を受けないというのじゃ。
 認識主体と認識対象の区別に基づく認識は、世俗のものでも、経典のものでもアートマンと非アートマンとの相互附託に基づいて起こる無明のなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。

 なぜその付託だけを説いて、他の付託を説かないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは内的アートマンに非アートマンを付託することが無明であるからというのじゃ。
 無明はあらゆる悪の根源であり、苦を生むものなのじゃ。
 そうであるからその無明を生む内的アートマンに非アートマンを付託することを説いているのじゃ。

 
 反対なのじゃ。

 この無明は始まりもない昔からあるから取り除くことはできないというのじゃ。
 取り除く手段がないからというのじゃ。

475避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 00:17:34 ID:DaoHRgDo0
(つづき)   p250-251
   [答論]このように考える人に対して、[師シャンカラは]、それ(無明)を滅する手段を[次のように]述べている。それ(非アートマン)を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを、すなわち疑間の余地のない知識を、賢者た ちは明知と呼ぶと。実に、内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていない。そのため、統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されるのである。この場合、[ウパニシャッドの教えを]聴聞・思惟・[瞑想]144することによって、[内的アートマンと統覚機能等とを]識別する認識が[生ずれば]、そ[の認識]によって[内的アートマンと統覚機能との]違いに対す る無理解が取り除かれる。[その時]実在そのものの確知(その本質は附託を拒斥するところにある)、すなわち明知一[それは]純粋精神であるアートマンそのものである一が、本来の姿を現わすのである。
   [反対主張]無明は、根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、たとえ明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じてくるだろう。そし て、自己にみあった結果一たとえば潜在印象等一を[さらに]生み出すであろう。
  [答論][これに対して、師シャンカラは]答えて言う。このような場合、すなわち 実在そのものがこのように確知された場合、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずがでも影響を受けることはない。すなわち、純粋精神であるアートマンが内官等のもつ欠点である飢え等によって影響されることはないし、 また内官等が純粋精神であるアートマンの特質(美点)である精神性・歓喜等によっ て影響されることもないのである。この(「註解』本文の)趣旨は以下の通りである。 [確かに]、誤った観念は無始であり、かつ、根が深くて頑強な潜在印象と結びついてい る。しかしそれでも、それ(無明)を取り除くところに、実在そのものを確知することの本質があるのである。というのは、認識(dhī)の本質は、真理の側に傾くところに あるからである。たとえば、他学派の人々でさえ[次のように]言っている。「事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはない。というのは、認識(buddhi)は努力しなくてもそ(事物の本質)の側に傾くからである」145と。だが。[ヴェーダーンタ学派の場合には]特に、「真理の認識は、純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に内的(直接的)なものである[のに]、どうして、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって拒斥されているのか」という[問題が 残る]。
  [先に『註解』で]真実と虚妄とを混淆し、[両者の]相違が分がらないために[それらを相互に]附託して、「これが私である」「これは私のものである」と[言う。これ が]([文字通りには]というのが)世俗的な日常的表現(vyavahāa)である146と言 われていたが、そこでは、明らかに、日常的表現という意味でのvyavahāraのことが 説明されていた。[一方、ここでは、先に「これが私である」「これは私のものである」というのがという箇所で]というのが(iti)という語が暗に意味していた、脊俗的な 日常的経験(活動vyvahāra)のほうを説明して、認識根拠・認識対象[等の区別に基 づく日常的経験(vyavahāra)はすべて...[相互附託に基づいている]と言っている のである147。この箇所の意味は自明である。

脚注
144
145 出典不明。
146 本訳214頁参照。
147 「日常的表現」と「日常的経験(活動)」という二義に区別しているという点に関しては、脚注51参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

476鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/31(日) 23:19:04 ID:yOmlILwI0
 シャンカラは無明を滅する手段を説いているというのじゃ。
 アートマンではないものを識別することで、実在するアートマンを確知するのじゃ。
 それを賢者たちは明知と呼ぶのじゃ。
 
 内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていないのじゃ。
 それゆえに統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されてしまうのじゃ。

 ウパニシャッドを聴聞し、思惟して瞑想4することによって、内的アートマンと統覚機能等とを識別する認識が起こり、それらの違いへの無理解が取り除かれるのじゃ。
 そうすれば実在そのものの確知、明知である純粋精神のアートマンが本来の姿を現わすというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 無明は根が深くて頑強な潜在印象と結びついているから明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じるじゃろう。
 一度はなくなっても潜在印象等が再び起こってくるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それにもシャンカラは答えているというのじゃ。
 実在そのものが確知された場合は、附託によってほんのわずがでも影響を受けることはないというのじゃ。
 そもそも認識の本質は、真理の側に傾くからなのじゃ。
 他学派の人々でさえ事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはないといっているのじゃ。
 なぜならば認識は努力しなくても事物の本質の側に傾くからなのじゃ。

 しかしそれならば、真理の認識は純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に直接的なものであるのになぜ無明によって拒斥されているのかという問題があるのじゃ。
 それは人々が認識主体と認識対象を混同して、相互付託しているからだというのじゃ。

477避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 23:36:01 ID:qGJd.G9Q0
2.9.認識根拠は無明を持つ者に基づく p251-253 

  [反対主張]一体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者 に関係しているのか。
  [答論]答えて言う。身体・感覚器官等に関して「私である」「私のもので ある」という誤った観念(abhimāna)を持たない者が認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機能することはありえないからである。 というのは、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しな いからである。さらに、基体(身体)148がなければ、諸感覚器官の活動は成り立たない。身体にアートマンの性質が附託されていなければ、誰ひとり活 動することはない。また、これらすぺてが存在しなければ、アートマンは[何 ものとも]結びつかないので、認識主体ではありえない。さらに、認識主体で あることが存在しなければ、認識根拠が機能することはない。従って、直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのである。

  [反対主張]ー体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのが。正しい認識(Pramā)すなわち明知(vidyā)とは、実に、真理を確定す ることであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりしようか。認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、 無明を持つ者に基づくことはないのである。これが[この『註解』本文の]趣旨なので ある。
  確かに、直接知覚等は世俗的(samvrtti)[な認識根拠]であるから、そう(無明を持つ者に基づくの)かもしれない。しかし、諸聖典は、人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえ ない。だから、[『註解』本文中に]聖典はと述べられているのである。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。身体・ 感覚器官等に関して「私である」「私のものである」という誤った観念を持たない者が、 すなわち、[身体等との]同一性およびそれらの諸属性が[アートマンに]附託されて いなければ149その者が、認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機 能することはありえないがらである。その趣旨は次の通りである。実に、認識生休であるということは、認識に関する行為の主体であるということであり、それ(行為主体である)ということは、自立した存在であるということである150。そして、[認識主体が]自立した存在であるということは、すなわち、認識主体は[それ]以外の<行為に関係する要素>(kāraka)151によって動かされる(prayojya)ことのないものであっ て、それがすべての<行為に関係する要素〉を動かす(Prayojaka)ということであ乱る。従って、これ(認識主体)が認識の手段である認識根拠を動かすはずなのである。だが、 [認識主体]自身が活動しなければ、[認識の]手段を動かすことはできない。ところ が、[認識主体であるべき]純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがない[ので]、それ自身が活動することはない。従って、[アー トマンが]認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのである。だから、[師シャンカラは]認識根拠は無明を持つ者と関係している、すなわち、無明を持つ人がその基体と なっていると言っているのである。

脚注
148「基体」をBhāmatīは、「基体がなければ」を「行為主体によって統御されていなければ」と取り、諸感覚器官の活動は、行為主体すなわち個人存在に制御されていなければ成立しないという意味に解している。筆者はここで、「身体」の意味にとった。
149[アートマンとの]同一性及びその諸属性が[身体等に]附託されていなければ」と解している。
151「行為に関する要素」には、行為の主体、行為の対象、行為の手段、 行為の受益者、分離行為の起点、行為の基体の六種がある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

478鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/01(月) 23:07:59 ID:/kBPxDA.0
 反対なのじゃ。
 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体や感覚器官等を自分とか、自分のものだという誤った観念を持たない者が認識主体となることはありえないからだというのじゃ。 
 その時認識根拠も機能しないからなのじゃ。
 そうであるから直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのじゃ。
 
 さらに聞いたのじゃ。

 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。
 諸聖典は人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえない筈だというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識主体自身が活動しなければ、認識の手段を動かすことはできないのじゃ。
 しかし認識主体である純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがないのじゃ。
 そうであるからアートマン自身が活動することはないのじゃ。
 アー トマンが認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのじゃ。
 シャンカラは認識根拠は無明を持つ者と関係している、無明を持つ人がその基体となるというのじゃ。

479避難民のマジレスさん:2022/08/02(火) 00:57:22 ID:PP8rHRhg0
(つづき) p253-254
  [反対主張]認識根拠が機能しないとしてみよう。[そうすると]我々にどんな不都 合が生ずるのか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]答えて言う。というのは、諸感覚器官を用 いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないからであると。日常的経験は、これ(認識根拠)に基づいて成立しているから、結果である。すなわち、それは直接知覚等の認識根拠[に基づいて生じる]結果なのである152。諸感覚器官をとは、諸感覚器官・徴標(1ińga)等をと解すべきである。たとえば、「棒を持った人たちが行く」と言う場合[「棒を持った人たち」という語カ...、棒を持たない人たちをも意味することがある]ように。というのは、そう取れば、直接知覚等[という本文中に「等」という語の ある理由]が理解できるからである153。また、日常的経験という行為は、日常的経験の主体[の存在]を前提としているので、[その]行為の主体は[諸感覚器官を用いない人と]同一である154。[従って]、ある人が[諸感覚器官を]用いなければ、[その同じ人の]日常的経験は[成立しない]、というのが[本文の]脈略なのである。
   [反対主張]一体どうして認識主体が認識根拠を用いる[必要がある]のか。[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか155。
   [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う、さらに、基体(身体)がなければ、諸感覚器官の活動は、すなわち認識根拠の活動は、成り立たないと。つまり[認識根拠などの]行為手段は、行為主体によって統御156されていなければ(anadhistha)、自らの結果(対象)に対して作用することは決してないのである。というのは、織子が いなければ織機から布が生ずることはないからである。
  [反対主張]では、身体が統御者であっては何故いけないのか。そうすれば、アート マンを[身体に]附託する必要がなくなるではないか。

脚注
152ここでは、「直接知覚等の日常的経験は認識によって達成されるのだから、どうして、諸感覚器官とい う認識根拠なしに、その(直接知覚等の)日常的経験が可能だといえるのか」という疑問に対して、「日 常的経験という語によって、直接知覚等の認識根拠の結果である認識こそが述べられているのだと答えているのである。
153『註解』本文は、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないがらであるとなっているが、ここで「諸感覚器官」という語が文字通りに諸感覚器官だけを指すと考えると、諸感覚器官を通して得られる直接知覚という日常的経験だけが問題になっていることになり、『註解』本文中に「直接知覚等」と書かれていることが説明つかなくなってしまうことになる。そこでここでは、「棒を持った 人たちが行くと言った場合、必ずしもすべての人が棒を持っているわけではなく、「棒を持たない人たち」 をも間接的に表示することがあるように、「諸感覚器官」という語は、諸感覚器官以外の徴標等も間接的的に表示していると解すのである。そうすれば、「直接知覚等」の「等」には徴標等を通して得られる推論等が含まれることになり、『註解』本文中に「等」という語がある理由を説明できる というわけである。
154諸感覚器官を用いなければ、日常的経験は成立しないという『註解』本文中、「用いなければ」の個所で接尾辞が用いられているが、この接尾辞は、二つの行為の主体が同 一である時に用いられるものだとされている。だがここでは、諸感覚器官を用いないのは認識主体であり、成立しないのは日常的経験であるから、二つの行為の主体が異なることになる。従って、「用いなければ」の箇所で接尾辞を用いるのは不適切である 。以上のような疑問に対して、ここでBhāmatīは日常的経験は行為であり、その行為の主体は諸感覚器官を用いない人と同一であるから、二つの行為の主体が同一であることに なり、接尾辞を用いることにさしつかえはないと答えているのである。
155T1では、この箇所では、「[認識主体は〕何故それ自体で機能しないのか」という意味になるが、以下の答論から判断すると、ここでは 諸認識根拠のことが問題になっているので、「[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか」と解した。
156『註解』本文で「基体」と訳した語には、「統御」という意味もあるので、Bhāmatī は、この語を「統御」という意味にとって、「基体がなければ」を「行為主体 (=個人存在)によって統御さてれいなけれぱ」と解しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

480鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/02(火) 22:57:38 ID:368Oa4hw0
 反対なのじゃ。
 認識根拠が機能しないとどんな不都合があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 直接知覚等の日常的経験は諸感覚器官を用いなければ成立しなくなるというのじゃ。
 認識根拠に基づいて日常的経験はあるからなのじゃ。
 
 
 反対なのじゃ。
 なぜ認識主体が認識根拠を用いる必要があるのかというのじゃ。
 認識根拠は何故それ自体で機能しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 基体である身体がなければ、認識根拠の活動は成り立たないというのじゃ。
 認識根拠などの行為手段は、行為主体によって統御されていなければ対象に作用することはないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それでは身体が統御者であっては何故いけないのかと聞いたのじゃ。。
 そうすれば、アートマンを身体に附託する必要がなくなるからというのじゃ。

481避難民のマジレスさん:2022/08/03(水) 01:28:54 ID:18AWXTn60
(つづき)   p254
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。身体にアートマンの性質が 附託されていなければ、誰ひとり活動することはないと。[何故なら、身体にアートマ ンの性質が附託されていなくても活動が成り立つとすると]、熟眠状態においても活動が[成立する]、という誤謬に陥るからである。以上が、[『註解』本文の]趣旨である。
  [反対主張]織子は、自己(アートマン)の附託されていない織機を作動させて、布 を作る主体となるように、それ(身体・感覚器官等)の認識者(アートマン)は、アートマンの附託されていない身体・感覚器官等を作動させて、認識主体となるのではないのか。
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。また、これらすべてが、すな わち、[基体の]相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは[何ものとも]結びつかないので、すなわち、常にどんな形であれ、あらゆる属性および[その]基体と結びつかないので、認識主体ではありえないと。確かに織子等は、活動を備えている[ので]、織機等を統御して作動させている。だがアートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動することはありえないのである。これが、[この本文の]意味なのである。

脚注
157この箇所は、「認識主体であることがなければ、認識根拠が機能することてありえない。このような場合どうして、認識根拠は附託に基づいているのか」という疑問に対して、「認識主体も精神性と物質性という姿の混ざりあった認識の基体(なの)で、それ(附託)を本質 とするものであることはありうる。精神性と物質牲が混ざりあうことは附託がなければ存在しないから、 認識根拠は当然附託に基づくはずである」と答えているのだとされている。
I58 壺の認識というような外的な対象の知覚を例にとると、内官は視覚を通して対象である壷の方に向 かって外に出て、壷に達し、そこで変容して壷の形を取る。このような変容が内官の変容 であるが、この時、正しい認識は、アートマンという純粋精神の二つの限定者、すなわち外界の対象であ る壷と内官の変容とが外界の同一の場を占めた時に、言いかえれば、両者によって限定された純粋精神が 同一である時に、生ずるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

482鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/04(木) 00:32:46 ID:gfiOqVvw0

 答えたのじゃ。

 シャンカラは身体にアートマンの性質が付託されていなければ、誰も活動できないというのじゃ。
 認識主体がないからのう。

 反対なのじゃ。
 
 布を織るための織子は主体がなくとも、織機を作動させて布を織る主体となるのじゃ。
 それと同じようにアートマンは付託されていない身体や感覚器官を作動させて主体になるのではないかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。

 シャンカラは相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは何ものとも結びつかないので認識主体ではないというのじゃ。
 客体がなければ当然主体もないからのう。
 アートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動できないというのじゃ。

483避難民のマジレスさん:2022/08/04(木) 00:58:16 ID:5jZWvCyU0
(つづき)  p254-256
  また、以下の理由からも認識根拠が附託に基づくというので、[師シャンカラは]認識主体であることが存在しなければ、認識根拠が機能することはないと言っているのである。実に、認識主体とは、[認識の]結果である正しい認識から自立した存在なのである157。そして、正しい認識は、[内官が]認識対象に向った[時に生ずる]内官の変容の一種(parināmabheda)158であって、[認識]行為の主体に存在し、かつ、純粋精神を[その]本質としているのである。従って、もしそれ(内官)に純粋精神アートマンが附託されていなかったら、どうして物質的な内官の変容が、純粋精神を[その] 本質としたりしようか159。また、もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託 されていなかったら、どうしてこれ(内官の変容)が、純粋精神アートマンを[認識]行為の主体として有しようか160。それ故、正しい認識という結果一[それは]純粋精神アートマンという[認識]行為の主体に存在する一は、相互附託に基づいて成 り立っているのである。そして、これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]、認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能するのであ る161。従って[『註解・本文中の]認識主体であること[という語]は、正しい認識を暗に意味しているのである162。[つまり]、「結果である正しい認識が存在しなければ、認識根拠が機能することはなく、その結果、認識根拠が正しい認識根拠でなくなってしまうだろう」というのが[『註解』本文の]意味なのである。[それ故、師シャンカラ は]従って、直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているのである。

脚注
159内官は物質的なものであるから、純粋精神アートマンが附託されていなければ、精神的活動である認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
160 逆に、純綿神アートマンには、活動がないから、活動を備えた内官が附託されていなければ、認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
161「これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]。という箇所は、本訳251頁20-21行の「認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、無明に基づくことは ないのである」という反対主張に対する答論であり、「認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能す るのである」という箇所は、本訳251頁19-20行の「正しい認識すなわち明知とは、実に、真理を確定 することであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりし ようか」という反対主張に対する答論である。すなわち、反対主張においては、「正しい認識は、無明と相入れないから、その手段である認識根拠が無明に基づくことはない。とさ れているわけだが、それに対して、「正しい認識が成り立っている時には、その認識主体が存在しており、 その認識主体自体がアートマンと内官との相互附託(=無明)に基づいているわけだから、正しい認識で すら無明に基づいており、その正しい認識に対して機能する認識根拠も当然無明に基づいている」と答え ているのである。
162認識根拠を統御する認識主体の必要性についてはすでに説明済(本訳252頁4行以下参照)なので、 ここで更に同じ説明を繰り返す必要はない。従って、Bhāmatīはここで、認識主体であることという『註解』本文の語を「正しい認識」の意味に取り、この箇所の論議を「正しい認識自体が精神性と物質性のいり混ったものだから、純粋精神であるアートマンと物質的な内官等の相互附託を前提としている」と解すのである。
163「当面」を、附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ

484鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/04(木) 23:43:31 ID:SYPx9A2Y0
 認識根拠は附託に基づき、認識主体であるアートマンがなければ機能しないというのじゃ。
 主体がなければ客体も根拠もないからなのじゃ。

 認識主体であるアートマンは正しい認識からも自立した存在であるというのじゃ。
 正しい認識とは内官が認識対象に向った時に生ずる内官の変容の一種であるというのじゃ。
 認識行為の主体に存在し、純粋精神を本質としているというのじゃ。

 もし内官に純粋精神アートマ附託されていなければ、物質的な内官の変容が純粋精神を本質としたしないのじゃ。
 もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託されていなければ内官の変容が、純粋精神アートマンを認識の主体として有ることもないのじゃ。

 それ故に純粋精神であるアートマンという認識の主体に存在する正しい認識という結果は相互附託に基づいて成 り立っているというのじゃ。
 そして正しい認識が成り立っている時に、認識主体であることも成り立ち、認識根拠は正しい認識に対して機能するのじゃ。
 
 シャンカラは直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているというのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2022/08/05(金) 05:35:15 ID:xFpRaH6I0
2.10.世俗的な日常経験には入間と動物の区別はない  p256-257

  そして、動物等と区別がないからである。動物たちは聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し、不快な音声等の知覚が生ずると、それから退き、また快よい[知覚が生ずる]と、[それに向かって]前進する。[また]棒を持った手を振り上げた男を目の前に見て、「この男は私を打とうとしている」と考えて逃げ始める。[他方]手に青草を一杯持った[男]を見て、その男に向って行く。それと同様に、人間も、たとえ知性が発達していても、恐しい目付きをし、わめき、手に刀を振りかざしている、力の強い男を見て、その男から遠ざかり、そうでない男に向って進んでゆく。それ故に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験に関しては、人間は動物と同じなのである。また、動物等のもつ直接知覚等の日常的経験は、周知のように、[アートマンと 非アートマンとを]識別しないことに基づいており、たとえ知性が発達していても、人間の直接知覚等の日常的経験は、[動物の]それと等しいことが経験されるから、当面163、[動物の日常的経験と]同じである、と結論付けられる。

  [反対主張]愚かな人々の場合には、その通りであるとしておこう。だが、学識ある 人々は、聖典と諭理に基づいて内的アートマンという真理を理解しているが、その人た ちの場合にも、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験が認められるのである。従って、認識根拠は、無明をもつ者のみに関係しているなどということがどうしてあり得ようか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]、そして、動物等と区別がないからであると答えているのである。確かに、[学識のある人々は]聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体・器官とは異なる、と認識しているかもしれない。だが、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験の際には、[彼らもやはり]生命体にすきない のであって、[生命体としての]諸属性を超越することはないのである。というのは、 学識ある人々でも、[日常的経験に関しては]獣や鳥など一[それらが]愚かであることには異論の余地がない一の日常的経験と同様であることが経験されているからである。従って、それ(獣や鳥などの日常的経験)と同じであるから、彼ら(学識あ る人々)も、日常的経験の際には、無明を持っているのだ、と推論すべきなのである。 [『註解』本文中の]そしてという語は、[これまで述べてきた理由と以下の論議を]結 びつける意味で[用いられているので]ある。[すなわち。反対主張者の]提示した疑問を退ける根拠としてこれまで述べてきた理由が、[以下の論議でも]認識根拠が無明を持つ者に関係していることを確定するのであるというのが、[そしてという語の]意 味するところである。まさにこのこと(認識根拠が無明を持つ者に関係しているとい うこと)が、動物たちは以下で具体的に論じられているのである。このうち、聴覚等が音声等[の外界の対象]と接触し[という箇所]では、直接知覚という認識根拠がとり あげられており、音声等の知覚が生ずると[という個所]では、その(直接知覚の)結果が述べられており、不快な[という箇所]では、推論の結果が[述べられているのである]。詳論すれば以下の通りである。[動物等は]音声等[の外界の対象]それ自体を知覚し、その種[の音声等]が不快であったことを思い出す。そして、現在知覚している[音声等]はそれと同類のものであるから、不快であると推論するのである。[そして、さらに]例をあげて、捧[を持った手を振りあけた男を云々]と述べているのである。その他[の箇所]の意味については、極めて明瞭である。

脚注
163「当面」を「附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ

486鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 00:17:39 ID:55Qf8oCo0
 認識根拠や認識対象等の区別に基づく日常的経験に関しては、人間は動物と同じだというのじゃ。
 
 反論なのじゃ。

 おろかな人間はそうかもしれんが、聖典などでアートマンという真理を理解している者は違うはずというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 学識のある人々は聖典と論理に基づいて、内的アー トマンが身体や器官とは異なる、と認識しているかもしんが日常的な経験では同じというのじゃ。
 ただ知識だけではアートマンを実現したことにならないからなのじゃ。

487避難民のマジレスさん:2022/08/06(土) 03:00:05 ID:CrLGiYa20
2.11.聖典に基づ<日常経験も無明に基づく  p257-259

  しかし聖典に基づく日常的経験[たとえば祭式の執行等]に関して言えば、 たとえ思慮深い人であっても、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては、その資格がない164。それにもかかわらず、ウパニシャッドによって知られ、飢餓等を超越し、バラモン・クシャトリヤ等の区別を離れ、輪廻しないアートマンという真理は、[祭式等を執行する]資格として前提とされていない165。何故なら、アートマンは[その]役に立たないし、また資格 とも矛盾するからである166。しかし聖典は、このようなアートマンの認識が起こる前には機能するから、聖典が無明を持っている者に関係しているという事実に背くものではない。例えば、「バラモンは祭式を執行すべきである」等の諸聖典句は、アートマンに対する、階層・生活期・年齢・状態等167の特殊性の附託に基づいて[始めて]機能するのである。

  [反対主張]直接知覚等は無明を持っている者に関係しているのだとしておこう。しかし、「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」168等の聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能するわけではない。実に、この場合には、来 世で果報を享受するのに適した者に[祭式を執行する]資格があると考えられるのであ る169。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、同じ趣旨のこと(果報を享受する者と祭式を執行する者とは同一であるということ)を、「聖典[に命じられて いる行為の]果報は、[行為を実際に]遂行する人に[生ずる]。何故なら、[そのことは]それ(聖典)から明らかだからである。それ故、[人は、聖典に命じられている行 為を実際に]自分で行わなければならない」170と[述べている]。身体等は[死後]灰 に帰す[ので]、他界(天界)で果報[を享受するの]には適しない。従って、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」等]の聖典は、[祭式を執行する]資格のある者が身体とは異なるなにかであることを暗に意味しているのである。そして、それ(祭式を行う資格のある者すなわち身体とは異なるアートマン)171を理 解することが明知なのである。それ故、聖典が、どうして、無明を持つ者と関係していたりしようか。

脚注
164 聖典の命ずる祭式を行なって天界に生まれる場合、天界に達するのは、死後灰となる身体ではなくて、 アートマンである。従って、アートマンが他の世界(天界)と関係していることを知る必要があるのであ る。
165
166アートマンは、行為主体でも経験主体でもないので、祭式を行ってその果報を享受することはありえ ないのである。
167 個々の具体例及ぴ「等」に何が含まれているかについては、本訳260頁参照のこと。 168この儀軌はあらゆるミーマーンサーの文献の中で常にこの形であらわれるにもかかわらず、このままの形では現存のヴェーダ文献中には見当らない。
169この聖典句の場合、身体は、死後灰に化すわけだから、来世(天界)で果報を享受するのに適した者ではなく、死後も存続するアートマンが天界で果報を享受するのに適した者であることになる。従って、祭式を行なう資格があるのはアートマンであって、身体がアートマンに附託されている必要はないのである。
170 供犠の主催者自身が個々の祭式 を直接行なうべきなのか、それとも、供犠の主催者は供物を捧げるだけで十分であって、個々の祭式は供儀僧にまかせておけぱいいのか、という点が問題となっている。このうち前者が反対主張であ り、後者が定説である。ところで、当該スートラは反対主張に属するものなので、ここで典拠として引用 されているのは一見不適当であるように思われるが、反対主張も定説も、果報のために祭式に従事した人 に果報が生ずることは緩めているので、反対主張に属すスートラをここで典拠としても問題はないとされる。
171
(´・(ェ)・`)
(つづく)

488鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/06(土) 23:32:19 ID:DaOPWT1A0
 しかし祭式の執行等に関しては、アートマンが他の世界と関係していることを 知らなくては執行資格はないというのじゃ。
 それでも輪廻しないアートマンという真理の実現は、祭式等を執行する資格として前提とされていないのじゃ。
 アートマンは祭式執行の役には立たず、また資格とも矛盾するからというのじゃ。
 聖典はこのようなアートマンの認識が起こる前には機能するのであるから、聖典が無明を持っている者に説かれることは正しいのじゃ。
 例えばバラモンは祭式を執行すべきである等という諸聖典句は、アートマンに対する、階層や生活期や年齢や状態等の特殊性の附託に基づいて機能するのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである等と書いてある聖典は、身体のアートマンヘの附託を通じて機能しているのではないのじゃ。
 この場合には来世で果報を享受するのに適した者に、祭式を執行する資格があると考えられるのじゃ。
 
 身体等は死後には灰に帰すものであるから、天界で果報を享受できないのじゃ。
 そうであるからそれらの聖典は、祭式を執行する資格のある者が身体とは異なるものであることを暗に意味しているのじゃ。
 祭式を行う資格のある者とは、すなわち身体とは異なるアートマンを理解している者なのじゃ。
 そうであるから聖典は、無明を持つ者と関係していないのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2022/08/07(日) 02:34:30 ID:AhtPDg9.0
(つづき)   p259
  [答論][以上のような反対主張を]想定して、[師シャンカラは]答えて言う。しか し聖典に基づく[日常的経験]に関して言えばと。[ここで]しかしという語は、聖典に基づく[日常的経験]が直接知覚等の日常的経験とは異なることを言っているので ある。実に、[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が他界(天 界)と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で古をい[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。何故なら、行為(祭式)を執行する資格のある人、すなわち[行為の]主とは、行為を行う人(prayoktr)、行為から生じた果報の享受を経験する人のことだ からである。この場合、行為の主体でない者が、どうして、行為を行う人であったりしようか。また、経験主体でない者が、どうして、行為から生じた果報の享受を経験したりしようか。それ故、儀軌と禁令を扱う聖典は、[自分を]行為主体、経験主体、バラ モン等一これらの性質は無始の無明から生ずる一だと思い込んでいる人を対象と して、開始されているのである。同様に諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としている。というのは、認識識主体[・認識対象]等の区別が存在しなければ、そ れ(諸ウパニシャッド)の意味が理解されることはないからである。ただし、それら (諸ウパニシャッド)は、無明を持つ者を教え導いて、無明をすべて拭い去り、その者 を本来の姿に立ちもどらせる。この点だけは、それら(諸ウパニシャッド)が[儀軌と 禁令を扱う聖典とは]異なるところである。従って、諸聖典は無明を持つ者に関係し ているのである、と確定した。

脚注
172 先にミーマーンサー側は、身体は死後灰と化すから、天界に達することはできず、従って、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者は、アートマンであるはずであるとし ていたが、シャンカラ及ぴBhāmatīに言わせれば、天界で果報を享受する者は、その果報が尽きればま たこの世に戻ってくるわけだから、輪廻の主体であり、一方、アートマンは、輪廻の主体ではないのだから、天界で果報を享受する者、すなわち天界を望んで祭式を行なう資格のある者ではありえない。
173「ヴェーダを学習すべきである」(svādhyāyo adhyetavyah,Taittrī iya Āranyaka Ⅱ.15.7)という 儀軌に従って、ヴェーダの一部であるウパニシャッドを学習すれば、行為主体でも経験主体でもない人 (purusa)が理解される。だが、この人(pumsa)は、行為主体でも経験主体でもないわけであるから、祭式を執行する資格を妨げることになり、しいては、先のヴェーダの学習を命ずる儀軌が祭式の執行を命ずる儀軌を妨げることになってしまう。
174このように、ヴェーダの学習を命じる儀軌と祭式の執行を命ずる儀軌という二つのヴェーダの個々の部分が互いに意味を損ないあうとすると、ヴェーダは整合性のないものになるから、正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

490鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 00:02:36 ID:AtgM3b4U0

 答えたのじゃ。

 そのような祭式を執行する資格について述べている聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけというのじゃ。
 天界を望む者が輪廻の主体ではないということを意味していないのじゃ。
 輪廻の主体ではないという性質は、祭式を執行する資格と合わないからというのじゃ。
 
 アートマンは、行為の主体でも経験の主体でもないから、祭式を執行する資格と矛盾するのじゃ。
 何故ならば祭式という行為を執行する資格のある者、行為の主とは、行為から生じた果報の享受を経験する者であるからなのじゃ。
 認識の主体であるアートマンは、行為の主体ではないからなのじゃ。

 そうであるから儀軌と禁令を扱う聖典は、無明によって自分を行為主体、経験主体、バラ モン等と思い込んでいる人を対象と しているのじゃ。
 同じように諸ウパニシャッドも、無明を持つ者だけを対象としているというのじゃ。
 認識識主体や認識対象等の区別がなければ、諸ウパニシャッドの意味が理解されることはないからなのじゃ。
 諸聖典は無明を持つ者に関係しているのである、と確定したのじゃ。

491避難民のマジレスさん:2022/08/08(月) 02:53:03 ID:vI5l2cvI0
(つづき)  p259-261
  [反対主張]ウパニシャッドの説くプルシャは、[祭式を執行する資格と]矛盾するし、[祭式を執行する資格に]適しないので、[祭式を執行する]資格として必要とされることはないが、[それは学習を命ずる儀軌に従うことによって]ウパニシャッドから 理解されるわけだから、[祭式を執行する]資格を妨げることができることになる173。 このように、[ヴェーダの各部分が]互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるであろう174。
  [答論]だから、[師シャン・カラは]、しかし、このようなアートマン[の認識が起る]前には云々と言っているのである。ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。また、 [ヴェーダの各部分の意味が]互いに担いあうということもない。というのは、明知を 備えた者[には祭式を執行する資格はないが]、無明を持つ者[には祭式を執行する資 格がある]というように、[それぞれ関わっている]人の違いに応じて、[ヴェーダの各部分を]区別することが可能だからである。たとえば、「生き物を殺すべきではない」 という[禁令]が、遂行すべき事柄の一部を禁止していても、「敵を殺そうと思う者は シュエーナ祭を執行すべきである」175という聖典があれば、その聖典は、「殺すべきで はない云々」というそれ(禁令)と矛盾しないのである。それはどういう理由によるの かといえぱ、[行為を行う]人が違うからなのである。すなわち、怒りという敵を克服した人々は禁令[に従う]資格があり、一方、怒りという力に支配されている人々は シュエーナ祭を云々と[述べている]聖典に[従う]資格があるのである176。
  [先に、聖典は]無明を持つ者に関係しているという事実に背くものではない、と述 べたが、まさにこのことを[師シャンカラが]例えば以下で明らかにしているのである。 [まず]階層の附託とは、「王はラージャスーヤ祭を執行すべきである」等である。生活期の附託とは、「家住期の人は、同じ[階層の]妻をめとるべきである」等である。年齢 の附託とは、「髪の黒い人(若い人)が火を保つべきである」等である。状態の附託と は、「直る見込みのない病人は、水などに飛び込んで命を捨てるべきである」等である。 [『註解』本文中に]等と述べてあるのは、大罪、小罪、混姓罪(samkarī karana)、不応受罪(apātrīkarana)、不浄罪(malinīkarana)等177の附託をも含めるためである。

脚注
175 176
177「大罪」とは、バラモン殺し等、「小罪」とは牛殺し等であるとされ、「混姓罪」はろば等を殺すこと、「不応受罪」とは非難すべき人から財物を受け取ること等、「不浄罪」とは大小の虫類または鳥類を殺害すること等であり、「等」にはバラモンに苦痛を与えること等の失姓罪等が含まれるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

492鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/08(月) 23:59:52 ID:uRaYg.d.0
反対なのじゃ。

 ウパニシャッドの説くプルシャは、祭式を執行する資格と矛盾するというのじゃ。
 聖典には学習を命ずる儀軌があるが、すでにプルシャ、アートマンを実現している者は学習しなくてよいから、祭式を執行する資格がないのじゃ。
 このようにヴェーダの各部分が互いに意味を担いあうことになるから、すべてのヴェーダが正しい認識根拠としての妥当性を失うことになるというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 シャンカラはプルシャ、アートマンの理解がある以前には祭式の資格があると説いているのじゃ。

 さらにヴェーダの各部分の意味が互いに担いあうということもないのじゃ。
 明知を備えた者には祭式を執行する資格はないが、無明を持つ者には祭式を執行する資格があるというようにそれぞれ関わっている人の違いに応じて、ヴェーダの各部分を区別することが可能なのじゃ。

493避難民のマジレスさん:2022/08/09(火) 10:25:53 ID:mHBnFMpY0
2.12.附託の具体例  p261-262 132右/229

  附託とはXでないものの中にXを認識することである、と我々はすでに述 べた。例えば、妻子等が病気であれば、「私は病気である」と思い、健康であ れば、 「私は健康である」と思うが、これは外的なものの属性をアートマン に附託しているのである。それと同様に、身体の属性を[アートマンに]附託すると、「私は太っている」「私は白い」「私は立っている」「私は行く」「私は 越える」と思うのである。同様に、感覚器官の属性を[アートマンに]附託す ると、「私は唖者である」「私は片目である」「私は不能である」「私は聾者であ る」「私は盲目である」と思うのである。同様に、内官の属性、すなわち、愛欲・思惟・疑惑・決定等を[アートマンに]附託する。このように「私」とい う観念をもつもの(内官)178を、その一切の活動を観照している内的アートマンに附託し、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのである。

  [師シャンカラは]これまで、アートマンと非アートマンとの相互附託を、反対主張 と[それに対する]答論を通じて[まず]明らかにし、次に、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験について論ずることで、[この相互附託を]確固たるもの とした。そして、それ(アートマンとの相互附託)が諸悪の根源であることを[これから]例をあげて詳しく説明するために、[ここで師シャンカラはまず]すでに述べたそれ(相互附託)の本質を[次のように我々に]想起させるのである。附託とはXでない ものの中にXを認識することである、と我々はすでに述べたと。これは、[附託とは]以前に知覚されたXが想起の姿で、別の場所Yに顕現することである179を要約して述 べているのである。この(アートマンと非アートマンとの相互附託の)うち、「私のもの」という[形で経験される]属性の附託の生じていない、単なる基体の同一性の附託 一[それは]「私」という[形で経験される]一は、諸悪の根源ではないのであっ て、属性の附託、すなわち「私のもの」という観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因なのである。

脚注
178
179 本訳216頁参照。
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

494鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/09(火) 23:42:07 ID:cslTyIcU0
 附託とはXでないものの中にXを認識することであるというのじゃ。
 そして愛欲や思惟や疑惑や決定等をアートマンに附託いるのじゃ。
 さらに私という観念をもつものをも、一切の活動を観照している内的アートマンに附託しているのじゃ。
 またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に付託する相互付託をしているのじゃ。
 

 シャンカラは以上のような付託と相互付託を説いたというのじゃ。
 そしてこのアートマンと非アートマンとの相互附託のうち、私という付託は、諸悪の根源ではないというのじゃ。
 属性の附託、私のものという観念こそが、輪廻という一切の諸悪の直接的な原因だというのじゃ。

495避難民のマジレスさん:2022/08/10(水) 00:01:29 ID:ge9fvPmY0
(つづき)  p262-263 
  [このことを、師シャンカラは]例をあげながら詳しく説明して、例えば、妻子等が云々と言っているのである。[人はまず]、身体との同一性をアートマンに附託し、[次 にこの同じアートマンに]妻子等の所有者であるという性質一[これは]やせているという性質と同様に身体の属性である一を附託して、「私は病気(vikala)であ る」 「私は健康(sakala)である」と言うのである。さらに、「所有者」すなわち「支 配者(īśvara)」は、自己の所有物が完全(sakala)180であれば、[その]所有者である という[彼の]性質も完全となるので「完全なのである」、すなわち「満たされている (sampūrna)のである」。同じように、「所有者」すなわち「支配者」は、自己の所有物 が不完全(vikala)であれば、[その]所有者であるという[彼の]性質も不完全とな るので「不完全なのである」、すなわち「満たされない(asampūrna)のである」。こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、[その]所有者という性質を媒介と して、[まず]身体に移される。そして、それ(身体に移された外的な属性)を[人は]アートマンに附託するのである。さて、外的な添性(paropādhi)181に基づく身体の属性一だとえば所有者という性質一の場合には、以上の通りであるとすると、[外的 な]添性に基づかない身体の属性の場合には、いったいどのような話になるのだろう か。このような考えを抱いて[師シャンカラは]、それと同様に、身体の属性を云々と言っているのである。[さらに同様に、感覚器官の属性を以下の]文脈は[次の通りで ある。すなわち人は]身体等よりも内的な器官である諸感覚器官一[それにはすで に]アートマンが附託されている一の属性である唖者という性質などや、さらにこれ(諸感覚器)よりも内的な器官である内官一[それにもすでに]アートマンが附託されている一の属性である愛欲・思惟などをアートマンに附託するのである。

脚注
180『註解』本文では、それそれ、「健康」「病気」を意味するが、BhāmatĪはそれを、「完全」「不完全」の意味にも解している。
I81 「外的な添性」を「息子・妻等を特徴とする添性 と取っている。添性とは、事物.に付加されてその本来的なあり方を限定する、事物そのものにとっては非本来的要素のことで、通常は、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)手・足等の五種の行動器官、(4)聴覚・触覚等の五種の感覚器官、(5)内官、という五種の要素がアートマンの添性を構成するとされるが、ここでは、これら五種の構成要素よりもさらに外的な添性のことを言って いるものと思われる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

496鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 00:54:18 ID:Wf71GXdg0
身体との同一性をアートマンに附託し私は病気であるとか、私は健康であると認識するのじゃ。
所有者、支配者は、自己の所有物が完全であれば、所有者であるという性質も完全となるので完全なので満たされていると思うのじゃ。
同じように所有者、支配者は自己の所有物 が不完全であれば、所有者であるという性質も不完全となるので不完全で不満なのじゃ。
 
こ のように、不完全さという性質等の外的な属性は、所有者という性質を媒介として、身体に付託されるのじゃ。
そして、それ身体に移された外的な属性を人は、アートマンに附託するのじゃ。

 諸感覚器官、愛欲、思惟などの内的器官も同様にアートマンに付託するのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2022/08/11(木) 01:04:21 ID:tKHnzmC.0
(つづき)  p263-264
   以上の説明で[師シャンカラは]、属性の附託について述べ[終っ]て、[次に]そ の(属性の附託の)もととなる基体[どうし]の附託について、このように「私」という観念をもつもの(内官)をと言っているのである。[ここで]「私」という観念をもつものとは、「私」という観念すなわち変容(vrtti)が、内官に[生じている]時の それ(内官)182のことであるが、それをその[一切の]活動を観照している一すな わち純粋精神であって無関心な存在であるために内官の活動の観照者である一内的アートマンに附託するのである。以上で、[内官の附託されたアートマンが]行為主体であり経験主体であるということを説明し終った。[そこで次に師シャンカラは、内官 に備わっている]精神牲について、またそれとは逆に、一切を観照するこの内的アートマンを内官等に附託するのであると説明しているのである。[ここで]それとは逆に (tadviparyena)とは、内官等とは逆に[という意味である]。すなわち、内官等は物 質的なもので、それと逆のものが精神性をのだが、その[精神性という]姿で(tema)一[この]三格は<特定の性質を備えているものを示す特相(itthambhūtalaksana) を表わす>ためのものである183一[人は内的アートマンを]内官等に附託するので ある184。従って、このように内官等に限定された内的アートマンは「これである(物質である)」[という要素=内官]と「これではない(純粋精神である)」[という要素= 内的アートマン]からなる185精神的存在であって、行為主体、経験主体、二種の無明
一原因としての無明と結果としての無明186一の基体、「私」という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器・個人存在(jīva)・相互附託の質料因なのである。そして[逆に]それ(内官等に限定された内約アートマン)の質料因が附託なのである。
このように、[内官に限定された内的アートマンと附託との関係は]種子と芽のように無始なのである。従って、[この両者が]相互に依存しあう(itaretarāśraya)[という理論的欠陥は]存在しないのである。[このことについてはすでに]述べたところであ る187。

脚注
182アートマンの本性である純粋精神が物質的な内官に附託されると、内官はアートマンの形相をとって 変容し、「私はアートマンである」という観念が内官に生ずる。この観念が「私という観念」であり、この ような変容は内官そのものにほかならないから、「私という観念をもつもの」とは内官のことである。
183「特定の性質を備えているものを示す特相を表す三格とは、たとえば、「(彼は)もつれた髭をしているから 苦行行者である」という場合にみられ、この場合、この三格は、苦行者性という特定の性質を備えているものを示す特相を表している。同じように、この本文の場合にも、三格は、精神性という特定の性質を備えている もの(ここでは精神性の附託された内官)を示す特相(精神性)を表している。
184「それとは逆に」とは、『註解』本文では、「内官等を内的アートマンに附託するのとは逆に、内的アートマンを内官等に附託する」という意味にすぎないが、それをBhāmatīは次のように解するのである。 すなわち、これまでは、活動を備えていない内的アートマンが行為主体、経験主体でありうるのは、活動を備えた内官等が内的アートマンに附託されているからであるということを説明してきたので、これからは、物質的な内官等が精神的活動(認識活動)を行ないうるのは、アートマンの精神性という姿が内官に附託されているからだ、ということを説明するのであるという意味で、「それとは逆に」と言っているの だと解するのである。
185 「これであるとこれでないからなるを「精神性と物 質性の混ざりあった」駐しているので、これに従って補った。
186「原因としての無明」と「結果としての無明」が何を指すのかは明確ではないが、二種の無明について、「無始の実体としての無明」と「それぞれ前の錯誤より生ずる潜在印象としての無明」と解している。だが、Bhāmatīは、アートマンと非アートマンとの相互附託を無明と解し (cf.島,1983)、この相互附託を、基体の附託と属性の附託とに区別し、前者が後者の原因だと考えてい る(261頁参照)ので恐らく、「原因としての無明」とは、アートマンと非アートマンとの基体どうしの附託のことを、「結果としての附託」とは、アーマンと非アーマンの属性の附託のことを指しているものと 思われる。
187本訳216頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

498鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/11(木) 23:52:46 ID:DRtoFtpI0
 属性の附託のもととなる、基体の附託である私という観念をもつ内官を説くのじゃ。
 私という観念をもつものとは、私という観念による変容が、内官に生じている時の内官のことなのじゃ。
 それは活動を観照している内的アートマンに附託するのである。
 内官の附託されたアートマンが行為主体であり経験主体であるというのじゃ。

 人は内的アートマンを内官等に附託するのであるから、内官等に限定された物質である内官と、純粋精神である内的アートマンからなる精神的存在なのじゃ。
 行為主体であり、経験主体であり、因果としての無明の基体、私という観念の対象、輪廻主体、あらゆる悪の集まる容器が個人存在という認識を生む相互附託の質料因だというのじゃ。
 そして逆に内官等に限定された、内約アートマンの質料因が附託なのじゃ。
 このように内官に限定された内的アートマンと附託との関係は、種子と芽のように無始であるというのじゃ。
 この両者が相互に依存しあうという理論的欠陥はじゃ。

499避難民のマジレスさん:2022/08/12(金) 00:15:59 ID:4VSQE6nw0
3.本書の目的:ウパニシャッドの目的はアートマンの唯一性に関 する明知を得るところにある   p264-265 134左/229

  このように始めも終りもない生得的な附託は、誤った観念という姿をして おり、行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観される。この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)、すべてのウパニシャッドが開始されるのである。そして 我々は、これ(アートマンの唯一性に関する明知を得ること)188がすべてのウ パニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサー189において明らがにするつもりである。

  [ここまでで師シャンカラは」、認識根拠・認識対象[等の区別に基づく]日常的経験 [について論ずること]によって、附託を確固たるものとしてきたが、 [これからは]、 学生の利益のために、世の人々すべてが直接に理解できるような形で[附託の]本質に ついて述べ、それによって、附託をさらに確固たるものにするのである。 [『註解』本文中の]このように始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きない[という意味である]。[そして]始めも終りもない理由が、生得のと述べられているのである。[また]誤った観念という姿をしておりとは、誤った観念の姿は、[実在 であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるが、それ(このような姿)をそれ(附託)は備えているのである、ということを言っているのである。つまり、[附託は実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだという意味なのである。
  [次に師シャンカラは]この悪の原因を滅するために[述べて、この序論の]主題を を結論付けているのである。
  [反対主張][附託と]対立する観念がなければ、どうしてこれ(附託=悪の原因) を滅することなどできようか。
  [答論]そこで[師シャンカラは]、アートマンの唯一性に関する明知を得るために (pratipattaye)と答えているのである。[ここで]得ること(pratipatti)とは獲得 (prāpti)のことで、そのために[すべてのウパニシャッドが開始されるのであり、それは]単に低唱(japa)のためでもなけれぱ、祭式を行なうためでもないのである。[また]アートマンの唯一性とは、多様性(prapañcatva)がすべて消えさることである。 [従って]諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのである。

脚注
188
189「シャーリーラカ」とは「身体を有するもの」の意味で、個人存在を指している。この個人存在に関する考察、すなわち、個人存在と絶対者ブラフマンは同一であるということを明らか にすることが、『ブラフマ・スートラ』の主題であるところから、「ブラフマ・スートラ』が「シャーリーラカ・ミーマーンサー」と呼ばれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

500鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/12(金) 23:05:25 ID:qe7/Ue9w0
 附託は誤った行為主体、経験主体という観念を生み出し、万人によって直観されるというのじゃ。
 この悪の原因を滅し、アートマンの唯一性に関する明知を得るために、すべてのウパニシャッドが説かれるというのじゃ。
 
 始めも終りもないとは、真理が認識されなければ滅することはで きないという意味なのじゃ。
 生得の性質であるから始めも終りもないと述べられているのじゃ。
 誤った観念とは実在であるとも非実在であるとも表現し得ない姿を附託は備えているからというのじゃ。
 つまり附託は実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだという意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 附託と対立する観念がなければ、どうして附託を滅することができるのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得れば、対立観念がなくとも付託は滅するというのじゃ。
 アートマンの唯一性とは、多様性がすべて消えさることなのじゃ。
  諸ウパニシャッドは、歓喜そのものである実在の獲得を疑いなくもたらして、 附託を根絶するのじゃ。

501避難民のマジレスさん:2022/08/13(土) 03:15:52 ID:xSe4xYGY0
(つづき)   p265-266
  以上述ぺてきたことの趣旨は次の通りである。もし、「私」という観念の対象がアー
トマンであって、その観念が正しいものなら、[アートマンと同一である]ブラフマン は、[「私」という観念によって]すでに知られていることになり、[ブラフマンに関する考察は]意味(目的)のないものとなってしまう。従って、[ブラフマンを]知りたい という欲求が[生ずることは]ありえないであろう190。そして、それ(ブラフマンを 知りたいという欲求)がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習す るということはなく、[諸ウパニシャッドは、それが本来]意図していない意味で、低 唱にのみ用いられるということになろう。[だが]その場合には、実に、ウパニシャッドの説くアートマンに関する[「私」という]観念は、正しい認識根拠とはならないのである191。そして、この誤った[観念]は、反復したところで、アートマンが行為主 体・経験主体等であるという<真実>を否定することはできない。というのは、附託された姿は真理の認識によって否定されるが、<真実>が虚偽の認識によって否定さ れることはないからである。実に、縄が縄であることは、蛇の観念が千連続して[現われて]も、否定することができない。だが、誤った観念によって生み出された姿は、真理の認識によって否定しうるのである。そして、誤った認識[から生じた]潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象、 [それは]真理の認識を注意深く、絶え間なく、長い問、繰り返すことによって生ずる一によって[否定し]うるのである。
   [反対主張]それはその通りかもしれない。[だが]諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想(upāsanā)I92も、しばしば見うけられるではないか。その場合にも、どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところ にあると[言えるのか]。
  [答諭]だから[師シャンカラは]、そして我々は、これ(アートマンの唯一性に関 する明知を得ること)がすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャー リーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのである。
[ここでは]身体(śarīra)それ自身がシャリーラカ(śārīraka)であり、そこ(身体) に住む者がシャーリーラカ(śārīraka)、すなわち個人存在(jīvātman)のアートマン なのである。[そして]「汝」という語で表現されているそれ(個人存在のアートマン) と「それ」という語で表現される最高存在193との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのである。

脚注
190 本訳201頁参照。
191 「属性のないアートマンに、『私は行為主体である』『私は経験主体である』 という行為主体性、経験主体性等の属性をひきおこす『私』という観念は、正しい認識根拠ではない」と いう意味に解しており、ここではそれに従った。
192 「ブラフマンを生気として念想する者たち...」という生気に関する念想について述べている章句がある。
193「汝はそれなり」という有名な聖典句において、「汝」という語は個人存在のアートマンを指し、「それ」という語は最高存在(ブラフマン)を指しており、この聖典句は、両名が同一であることを示している。この聖典句は、個人存在と最高存在との同一性を示す有名な典拠(大文章)として、不二一元論学派では非常に重要視されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

502鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/13(土) 23:06:49 ID:UbsNfmlE0
 もし、私という観念の対象がアートマンであって、その観念が正しいものなら、アートマンと同一であるブラフマン はすでに知られていることになり、ブラフマンに関する考察は意味のないものとなってしまうというのじゃ。
 ブラフマンを知りたいという欲求がなければ、ブラフマンを知るために諸ウパニシャッドを学習するということはなく、それは低唱にのみ用いられるということになるのじゃ。
 その場合はウパニシャッドの説くアートマンに関する私という観念は、正しい認識根拠とはならないのじゃ。

 この誤った観念を反復したところで、アートマンが行為主体であり、経験主体等であるという誤認を否定することはできないのじゃ。
 附託された姿は真理の認識によって否定されるが、真実が虚偽の認識によって否定されることはないからなのじゃ。
 誤った認識から生じた潜在印象も、たとえそれが極めて頑強なものであっても、真理の認識より生じる潜在印象によって厭離されるのじゃ。


  反対なのじゃ。
 諸ウパニシャッドには、生気等に関する念想も、しばしば見うけられるのじゃ。
 どうして、あらゆるウパニシャッドの目的がアートマンの唯一性を明らかにするところにあるというのかというのじゃ。


 答えたのじゃ。

 シャンカラはアートマンの唯一性に関する明知を得ることがすべてのウパニシャッドの目的であることを、以下のシャーリーラカ・ミーマーンサーにおいて明らかにするつもりであると言っているのじゃ。
 身体がシャリーラカであり、身体に住む者がシャーリーラカ、すなわち個人存在のアートマンだというのじゃ。
 汝という語で表現されている個人存在のアートマンとそれという語で表現される最高存在との同一性に関するミーマーンサー(考察)が、このように(シャーリーラカ・ミーマーンサーと)述べられているのじゃ。

503避難民のマジレスさん:2022/08/14(日) 01:34:39 ID:u1Q0ogOM0
(つづき)   p266-267 
  ここで、[以上述べてきた]ことを要約すれば以下の通りである。
  [反対主張](1)ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌194から明らかなように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、「ヴェーダの学習」という語で表現されている全 ヴェーダの意味が理解されることになる。[従って]諸ウパニシャッドも、「ヴェーダの 学習」という語で表わされる[わけだから]、祭式に関する儀軌・禁令のように、[ヴェー ダを学習すれば、その]果報として、意味が理解されることになる。このことが、ヴ ェーダの学習[を命ずる]儀軌から分かるのである。(2)[さらに]「しかし、聖典の 意味は[通常の用法と]異ならない」という格言(nyāya)195から[も明らかなよう に]、諸ウパニシャッドの意味は、真言(mantra)の場合のように196、通常のものな のである。(3)[そして]諸ウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりであって、行為主体であるとか経験主体であるということは無関係で、多様性のない、唯一 の内的アートマンが理解されるのである。[だが、この(1)(2)(3)]にもかからず、 諸ウパニシャッドは、「私」という観念一[それは]疑問や拒斥とは無縁のもので、 アートマンを行為主体・経験主体で、苦しみ・悲しみ・迷妄に満ちたものだと考えている一と矛盾する[ので]、本来の意味からはずれていることになる。[すなわち、諸 ウパニシャッドは]比喩的意味をもつか低唱のみに用いられるかのいずれかであって、 [本来]意図していない意味をもつものなのである。従って、そ(諸ウパニシャッド) の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサー一[それは]四章からな る一は、開始すぺきではないのである197。
  [答論]もし、「私」という観念が正しい認識根拠であれば、それ(反対主張)はその 通りであろう。だが、それ(「私」という観念)は、天啓聖典等を拒斥することができな いし198、また、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められ ていないので、附託されたものなのである。従って、諸ウパニシャッドは、[本来]意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相(laksana)をもっているものなのである。[そして]内的アートマンこそが、それら (諸ウパニシャッド)の一義的意味(mukhyārtha)なのである。[そして]これから述 べるように、これ(内的アートマン)は、疑間の余地のあるものであってかつ意味(目的)のあるものなので、[この内的アートマンについて]考察するのは正当なのである。
以上のような理由で、 『ブラフマ・スートラ』の作者は、そ(内的アートマン=ブラフ マン)の考察をスートラという形で199、[次のように]述べているのである。そこで、 この故に、ブラフマンの考察が[開始されるべきである](Brahmasūtra I.1.1)と。

脚注
194 195
196「真言」(mantra)とは、ヴェーダを構成する五部門、儀軌・真言・余命・禁令・釈義の一つで、祭式の執行と関連した事物を想起させるヴェーダの章句 のことを言う。
197「シャーリーラカ・ミーマーンサー」すなわち「ブラフマ・スートラ」は、四章からなり、諸ウパニ シャッドの意味の考察を目的とするわけだが、諸ウパニシャッド自体が本来的な意味をもたなければ、それについて考察しても無意味なので、『ブラフマ・スートラ』を開始する必要はないというである。
198 天啓聖典は人間の作ったものではないので絶対的権威があり、「私」という観念と矛盾する場合には、 「私」という観念のほうが否定されるべきであるという論議については、本訳207頁以下参照。
199「スートラ」をBhāmati,は次のように定義している。「賢者は、簡潔で、意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスートラと呼ぶ」
(´・(ェ)・`)つ

504鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/15(月) 00:14:40 ID:rC.0kWJY0

 反対なのじゃ。
 
 ヴェー ダを学習すれば、全ヴェーダの意味が理解されることになるのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドからは、純粋精神と歓喜のかたまりである多様性のない、唯一の内的アートマンも理解されるじゃろう。
 それによってもはや理解できるのであるから、ウパニシャッド の意味の考察を本質とするシャーリーラカ・ミーマーンサ一は、開始すぺきではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 私という観念は、天啓聖典等を拒斥することができず、天啓聖典等やあらゆる論者達によって正しい認識根拠だとは認められていない、附託されたものなのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは、本来意 図していない意味をもつのでも比喩的意味をもつのでもなく、述べられている通りの特相をもっているものというのじゃ。

 内的アートマンこそが、それら(諸ウパニシャッドの一義的意味なのじゃ。
 そして内的アートマンは、疑間の余地のあるものであり、悟りという目的のあるものなのじゃ。
 このような理由で内的アートマンについて考察するのは正当なのである。

505避難民のマジレスさん:2022/08/15(月) 02:44:29 ID:9tk31Kbk0
『バーマティー』I.1.1 p269-270 136右/229

1.ブラフマンの考究には目的があり、疑問の余地がある

  これから詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」(VedāntaMīmāmsāśāstra=Brahmasūra)のなかで、次のものが 最初のスートラである。

  そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである](atha atho brahmajijñāsā,BS I-1-1)

  [スートラ中の]「考究」[という語]によって、[ブラフマンの考究には]目的(意味) と疑問[の余地のあること]が暗に示されているのである200。このうち、[ブラフマン の考究の]目的がブラフマンの知識であることは、[スートラ中の「考究」(=知りたいという欲求,jijñāsā)という語によって)はっきりと示されている。というのは、[ブ ラフマンの知識はブラフマンを知りたいという]欲求によって直接に覆われている201 (欲求の直接の対象だ)からである。もし[ブラフマンの知識のあとになにかあれぱ] これ(ブラフマンの知識)は二次的な目的となるだろうが、祭式に関する知識のあとに [祭式の]執行があるのとは異なり、ブラフマンの知識のあとにはなにも存在しないそれどころか、疑問の余地のないブラフマンの知識一[それは]あらゆる苦しみの止滅を本質としており、歓喜そのものであって、諸ウパニシャッド([その]内容は、ブラフマンの考察(BrahmaMīmāmsā)と呼ばれる考察法(tarketikartavyatā)を通して知られる)によって伝えられてきた一こそが、最高の目的なのである。というの は、賢者たちは、まさにその目的に対して向かって行くからなのである。そして、それ (最高の目的=ブラフマンの知識)は、すでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいであたかも獲得されていないかのようであるので、得たいと望まれるのである。[それは]ちょうど、ネックレスが首にかかっているのに、なにかの思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されると、まるで[それまで]なかったもの であるかのように、[そのネックレスを]獲得するようなものである。
  また一方、「考究」は疑間の結果なので、その原因である疑問を暗に示していることになる。そして、疑問が考察を開始させるのである。このようにこのスートラは、賢者が聖典[『ブラフマ・スートラ』]へと向かう原因となる疑問や自的を暗示しているから、聖典の最初にあるのが妥当なのである。だから、神聖なる註解作者は、われわれがこれがら詳細に説明しようとしている「ウパニシャッドの考察に関する聖典」のなかで、次のものが最初のスートラである、と述べているのである。
  [この註解中の]考察(Mīmāmsā)という語は、尊ばれている論考(vicara)を意味する。(そして)論考が尊ばれるということは、[その論考の]結果、人間の最高の目的の原因である最も微妙な事柄が確定される、ということなのである。[そして]その考察に関する聖典が「考察に関する聖典(Mīmāmsāśtra)」なのである。というのは、それ(聖典)が弟子たちに対してそれ(考察)を教授し、真に明らかにするからである。さらにスートラとは、多くの意味を暗示するから[スートラ]なのである。たとえば[それは]次のように定義されている。「賢者たちは、簡潔で、もろもろの意味を暗示し、少しの文字と句でできており、あらゆる点で[教えの]精髄であるものをスー トラと呼ぶ」202と。

脚注
200ブラフマンの考究には目的(意味)と疑問の余地があるので、ブラフマンは考究の対象に価するというこの論議に関しては、本訳201-213頁参照のこと。
201ブラフマンを知りたいという欲求が領域を覆うもので、ブラフマンの知識が領域を覆われるものであって、前者の存在する領域の中に後者が含まれているので、ブラフマンを知り たいという欲求が存在すれば必ずブラフマンの知識も存在するという意味。なお、領域を援うものと領域を覆われるものとの関係については、脚注14参照のこと。
202 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

506鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 00:17:16 ID:0g9kA3Ck0

 スートラ中の考究という語によって、ブラフマンの考究には目的と疑問[の余地のあること]が暗に示されているというのじゃ。
 この中のブラフマン の考究の目的がブラフマンの知識であることは、考究という語によって)はっきりと示されているのじゃ。

 ブラフマンの知識は、実はすでに獲得されているにもかかわらず、無始の無明のせいで獲得されていないかのように人は苦るしむから、得たいと望まれるのじゃ。
 例えばそれは、ネックレスが首にかかっているのに、思い違いのせいでないと思っている人が、他人に指摘されて気づいてネックレスを獲得するようなものじゃ。

 さらに考究は疑間の結果であるから、その原因である疑問を暗に示しているというのじゃ。

507避難民のマジレスさん:2022/08/16(火) 00:23:27 ID:tUSbF34A0
2.スートラの語義解釈(I) 「そこで」の語義
p270-271 137左/229

  この[スートラの]中で、「そこで」(atha)203という語は「直後」(ānantarya) という意味に解すべきであって、「新しい論題の導入」(adhikāra)という意味に[解すぺきでは]ない。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるべきものではないからである204。 また[この語は、「吉祥」(mańgala)205の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意 味]は[スートラの]文意に合わないからである。何故なら、「そこで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられても、[その語を]聞くだけで、吉祥の 効果があるからなのである。さらに[この語は、「前に主題とされた事柄への 言及」(pūrvaprakrtāpeksa)の意味に解すぺきでもない]。とういうのは、 「前に主題とされた事柄への言及」とは結局[前に主題とされた事柄の]「直後」にほがならないがらである206。

脚注
203「そこで(atha)」という語に「直後」「開始」「吉祥」等の意味がある。
204 Brahmajijñāsāのjijñāsāという語は、「知りたいという欲求jñānecchā)」か「考察(vicāre)」の 意味がのどちらかだが、前者だとすると、考察が新しい論題ごとに開始されることはあっても、知りたいという欲求が新しい論題ごととに開始されることはないから、理に合わない。一方、後者の場合だと、「開 始すべきである」という語を最後に補わなけれぱならないことになるが、athaという語に「新しい論題の導入(すなわち開始)」という意味があるのが余計になる。従って、athaは「新しい論題の導入」とい う意味ではない。
205mańgalaとは、著作を著すに際して、著作が無事完成することを祈って、自己の帰依する神や師等に対して捧げる詩句のことであるが、この『ブラフマ・スートラ』にはそのような詩句がみあたらないので、スートラの最初の語athaにこのmańgalaの意味があるのではないかとする議論である。
206この一節の意味は、諸註釈も諸訳もまちまちではっきりしないが、ここではBhāmatīに従った。

2.1.「そこで」の語義(1)ー「直後」という意味である

  このようにスートラの趣旨を説明したのちに、[師シャンカラは]、その(スートラ の)最初の語「そこで」を、[次のように]説明している。この[スートラの]中で、「そこで」という語は「直後」という意味に解すべきであると。[すなわち]スートラ中 の諸語の中で、この「そこで」という語は「直後」という意味である、というのが文脈 なのである。
(´・(ェ)・`)つ

508鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/16(火) 23:10:19 ID:U6BnA6720

 このスートラのそこでという言葉は直後と意味だというのじゃ。
 新しい議題との導入とか、吉祥でもなく、前に主題とされた事柄への言及でもないというのじゃ。

509避難民のマジレスさん:2022/08/17(水) 00:19:01 ID:lIUFXdqk0
2.2.「そこで」の語義(2)ー 「新しい論題の導入」の意味では ない  p271-272

  [反対主張]「そこで」という語には「新しい論題の導入」という意味もみられる。 たとえばヴェーダ聖典には、「そこでこのジュヨーティ祭が[開始されるべきである]」 207と[いう例が]あるし、また世俗的[な用法]では、「そこで言葉に関する教えが[開始されるべきである]」208、「そこでヨーガに関する教えが[開始されるべきである]」 209と[いう例が]ある。従って、どうして「新しい論題の導入」の意味に解さないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]言っているのである。「新しい論題の導入」という意味に[解すぺきでは]ない。何故か。というのは、ブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからである。すなわち、考究.(知り たいという欲求)がブラフマンやその(ブラフマンの)知識よりも主要なものであることは、スートラの中で、[「ブラフマンの考究」(brahmajijñāsā)という]語[自体] から分かるからである210。

  [反対主張]たとえば、「棒を持った僧が、神々を勧請することを許可する真言(praisa) と勧請が終わったことを伝える真言(anuvacana)とを唱える」という場合には、[「棒」 という語は]主要なものではないが、「棒」という語の指すものが意図されているものであるように211、ここ(スートラ中)でも、ブラフマンとその知識[が意図されてい るものなのである]。

脚注
207「そこでこのJyoti祭が[開始されるべきである]云々」)という聖典句は、すでに執行するよう命じられているJyotistoma祭とは異なる新たな祭式であるJyoti祭等を行うよう命じているとされている。すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられている。
すなわち、Jyoti祭等は、すでに執行するように命じられているJyotistoma祭とは別に、新しい祭として導入されたものだと解釈されているのである。
208 athaを「新しい論題の導入」ととっている。
209 athaを「新しい論題の導入」の意味に とっている。
210
211「棒を持った僧が神を勧請が 終ったことを伝える真言を唱える」)との関連で、「祭官が勧請することを許可する真言を唱え、そして勧請が終わったことを伝える真言を唱える」という 聖典句を挙げ、さらに、次のような説明を加えている。adhvaryu祭官か 実際に供物を捧げるのにたいし、maitrāvarna祭官は供物の準備をし、hotr祭官は供物が準備できしだ い神を勧請する役割にある。maitrāvaruna祭官が供物を準備し、adhvaryu祭官がその準備に満足すると、maitrāvaruna祭官は、āśrāvayaという真言を唱えて、hotr祭官に神を勧請する許可を与える。勧 請が行われると、maitrāvaruna祭官は、astu srausatという真言を唱えてそのことをadhvaryu祭官に 伝える。このうちはじめの真言がpraisa、あとの真言がanuvacanaと言われる。さてここで、これら 二種の真言をmaitrāvaruna祭官が唱えるぺきであることは、maitrāvarupah presati云々という聖典 旬から理解されるわけであるから、この聖典旬は、単に同じこと、すなわち maitrāvaruna祭官がこれらの真言を唱えるべきことを繰り返しているだけではなく、これらの真言を唱 える際にmaitrāvaruna祭官に棒をもつ資格があることを示していると解釈される。従ってこの場合に は、棒を持つ人という語は、言葉の上では棒という語が主要なものではないが、棒を持っ人よりむしろ棒のほうに意味がおかれているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

510鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/17(水) 23:27:42 ID:JqRbnjB20
反対なのじゃ。

 そこでという語には新しい論題の導入という意味もあるというのじゃ。


 答えたのし゜ゃ。
 シャンカラは新しい論題の導入という意味に解すぺきではないといっているのじゃ。
 何故ならばブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからなのじゃ。
 考究とは知りたいという欲求であるから、それがブラフマンやブラフマンの知識よりも主要なものであることは、スートラの中でブラフマンの考究という語でわかるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 
 スートラ中でも、主題としてブラフマンとその知識が意図されているというのじゃ。

511避難民のマジレスさん:2022/08/18(木) 00:15:50 ID:o9ybA/5s0
(つづき)   p272-274
   [答論]それは正しくない。というのは、[考究は]ブラフマンの考察に関する聖典へと[賢者たちが]向かう契機となる疑問と[考察の]目的とを暗に示すことを目的と しているから、 [その]考究こそが[スートラの]意図するところなのである。もしそれ(考究)が意図されていなければ、これら(疑問と考察の目的)が暗に示されていな いことになるから、賢者たちは、烏の歯212の考察に向かわないのと同じように、ブラフマンの考察に向かうことほないであろう。その時には実に、ブラフマンあるいはそ の(ブラフマンの)知識が主題(abhidheya)や目的となることはない。というのは、 諸ウパニシャッドは、附託が行われていない[と一般に考えられている]「私」という 観念と矛盾するので、このような種類の(疑問の余地と考察の目的の暗示されていな
い)対象に対して正しい認識根拠たりえないからであり213、また、[ウパニシャッドが 本来]意図していない意味、たとえば、比喩的な意味一[それは一義的には人々を] 祭式へと向かわせるから[比喩的なのである]一や「フム」等の低唱に役立つもの は、ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌に基づいて理解することが可能だからである214。 従って考究は、疑問と[考察の]目的を暗示しているのであって、ここ(スートラ中) では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されていてしかるぺきなのである。
  さらに、もし[考究が各論題ごとに新たに導入されるようなものであれぱ]、それ(考究)[という語]の近くにある「そこで」という語は、「新しい論題の導入」の意味に[解し]うるだろうが、考究(知りたいという欲求)は、(各論題ごとに)新たに導入されるようなものではないから、新しい論題として導入されるぺきものではないのである。
  一方、考究の限定詞(viśessnp)であるブラフマンの知識は、新しい論題として導入 されるぺきものであろうが、それは[「ブラフマンの考究」という語のなかで]主要なものではないから、「そこで」という語と結びつかないのである。
  またもし、[考究(jijñāsā)と考察(MĪmāmsā)が同じであれば]、ヨーガに関する教えのように、新しい論題として導入することができるだろうが、考究は考察ではない。というのは、「測る」という意味の動詞語根māń215一[この動詞語根は]不規則的に nで終わることがある一、あるいは、「尊敬する」という意味の動詞語根mān216に関 する、「[sanという接尾辞は]man,badha云々」217という[パーニニの規定]に基づいて、欲求の意味をもたない[接尾辞]sanを付加して作られたMīmāmsā(考察)と いう語は、尊ばれている論考(vicāra)を表し、一方「考究」(jijñāsā)という語は、知 りたいという欲求(jañāna-icchhā)を表しているからである。実に、「考究(知りたい という欲求)」は、[人々を]「考察(Mīmāmsā)」へと向かわせるもの(pravartaka)なのである。そして、向かうべき対象(pravartya)と向かわせるもの(pravartaka)と は同一ではない。何故なら、同一だとすると、その(両者の)関係が成り立たないから である。
  さらに、[「考究」という語が]本来の対象(知りたいという欲求)を示しうる時に、 それ以外の対象(考察)を示していると想定するのは正しくない。何故なら、[語の意 味を]広げすぎるという誤謬に陥るからである。従って[以上のような理由で、師シャ ンカラは、ブラフマンの]考究は新しい論題として導入されるぺきものではないからで ある、と的確に述べているのである。

脚注
212 いうまでもないが、鳥には歯がないので、鳥の歯についての考察は無意味である。 213この議論に関しては、本訳210-213頁参照。
214この議論に関しては、本訳265頁以下参照。
215 216 217
(´・(ェ)・`)つ

512鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/18(木) 23:01:28 ID:KMC7q63o0
答えたのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。
 考究は賢者達がブラフマンの考察に関する聖典へ向かう契機となる疑問と、考察の目的とを暗に示すことを目的としているからだというのじゃ。
 考究こそがスートラの意図するところなのじゃ。

 考究は疑問と考察の目的を暗示しているのであって、スートラの中では語のうえでも文のうえでも、主要なものと意図されているのじゃ。
 
 考究は各論題ごとに新たに導入されるようなものではないのじゃ。

 文法からも否定されるのじゃ。

 さらに考究という語が本来の対象を示しうる時に、 それ以外の対象を示していると想定するのは間違いなのじゃ。
 何故ならば語の意味を広げすぎるという誤謬に陥るからなのじゃ。
 以上のような理由でシャンカラはブラフマンの考究は新しい論題として導入されるぺきものではない述べているのじゃ。

513避難民のマジレスさん:2022/08/19(金) 01:39:32 ID:BhC18BJU0
2.3.「そこで」の語義(3) 「吉祥」の意味ではない  p274-275 139左/229

  [反対主張]「そこで」という語は、どうして「吉祥」の意味ではないのか。その場合にスートラは、「ブラフマンの考究は吉祥の原因であるから毎日行うべきである」という意味になるであろう。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。また[この語は、「吉祥」の意味に解すぺきでもない]。というのは、「吉祥」[という意味]は[スートラの]文意に合わないからである。実に、文意に合う (文意と文脈上結合する)のが語意であり、それは明示されている(Vācya)か暗示され ている(laksya)かのいずれかである。しかし今の場合には、吉祥はrそこで」という語 によって明示されているわけでも暗示されているわけでもなく、太鼓(mrdańaga)や 法螺貝の音の場合のように、「そこで」という語を問いただけで[生ずる]結果(kārya) なのである。そして、[語より生ずる]結果や[語から]知られるもの(jāpya)が文意に合う(文意と文脈上結びつく)ことは、語の用法上みられないのである218。以上が[『註解』本文の]意味である。
   [反対主張]ところで果たして、「そこで」という語は、吉祥という意味であちこち
で用いるぺきではないのだろうか。[もしそうだとすると]、「オームという語とそこで という語のこれら両者は、太古にブラフマンの喉から発せられたものである。だから両者は吉祥なのである」219という聖伝書に反することになろう。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、何故なら、「そ
こで」という語は、[吉祥]以外の意味に用いられた時にでも、[その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるからなのである、と答えているのである。「そこで」という語は、 [吉祥]以外の意味、すなわち「直後」等[の意味]で用いられた時に、[その語を]聞 けば、すなわち聞くだけで、竹笛や琵琶の音のように吉祥さを生み出すので、他の目的で運ばれてきた水壼を見た時のように220、吉祥の効果があるのである。従って、聖伝書に反することはない。すなわち、この(スートラの)場合、[「そこで」という語は]、「直後」という意味であっても、[その語を]聞いただけで吉祥の意味がある、という意 味なのである。

脚注
218 文は語の集合であるから、当然文意は語意の集合であることになる。そしてこの 語意には、語によって直接に明示されているもの(たとえば「壼」という語が萱を意味する場合)と、間 接的に暗示しているもの(たとえば「ガンジス河に牛飼部落がある」と言った時、河に牛飼部落のあるはずはないので、この場合には「ガンジス河」という語はガンジス河岸を意味するような時)がある。語に 活用語尾が含まれるかどうか、語意どうしを結合させて文意を形成させる条件はなにか、というような問 題はさておいて、「そこで」という語と「吉祥」という意味の関係に的をしぽると、「吉祥」という意味は、「そこで」という語が直接に明示しているわけでもないし、間接的に暗示しているわけでもなぐ、「そこで」 という音と感覚器官が接触して生じた結果なのである。また、「煙」という語から、煙があるところには常に存在する火が同時に知られることもあるが、これも語意ではないので、文意と結びつくこ とはない。
219 出典不明。
220 意図不明
(´・(ェ)・`)つ

514鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/19(金) 23:30:37 ID:g1ui.JIQ0
反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味ではないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはこの語は、吉祥の意味に解すぺきでもないと言っているのじゃ。
 なぜならば吉祥という意味はスートラの文意に合わないからなのじゃ。
 暗示でも明示でも合わないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そこでという語は、吉祥という意味で聖伝に説かれているのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そこでという語は、吉祥以外の意味に用いられた時にでも、その語を]聞くだけで、吉祥の効果があるのじゃ。
 直後という意味でも吉祥の効果はあるというのじゃ。

515避難民のマジレスさん:2022/08/20(土) 01:44:19 ID:mtPwygT60
2.4.「そこで」の語義(4)ー「前に主題とされた事柄への論及」 という意味ではない   p275-276

  [反対主張]atha(そこで)という語は「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。それはたとえば、まさ にこのatha(そこで)という語を主題として、「このathaという語は直後[という意味]なのか、それとも(atha)、新しい論題の導入[という意味]なのか」と考えるようなものである。[すなわち]この疑問文(vimarśavākya)において、atha(それとも)という語は、前に主題とされたatha(そこで)という語に論及して、まず第一の見解 (「直後」という意味)を紹介し、[次に]別の見解(「新しい論題の導入」という意味) を紹介しているのである。まずこの[atha(それとも)という語]は、「直後」という 意味ではない。というのは、[このatha(それとも)という語と]前に主題とされた事柄(atha=「そこで」という語)[とのあいだ]には、第一の見解の紹介が介在しているからである。また[このatha(それとも)という語は]前に主題とされた事柄に反していないわけではない。というのは、[atha(それとも)という語は、それ(前に主題とされた事柄)に論及していなければ、それ(前に主題とされた事柄)を主題とし ていないことになるから、[atha(それとも)という語の前後の]主題が共通でないことになり、その結果[atha(それとも)という形での]選択(vikalpa)が成り立たなくなってしまうからである221。何故なら、「アートマンは永遠なのか、それとも(atha)、 統覚機能は無常なのか」という[選択]は、決して存在しないからである。従って、ここ(スートラ中の)athaという語は、「直後」という意味でなくても、「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]でいいのではないか。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して、次のように]答えているのである。というのは、「前に主題とされた事柄への論及」とは結局[前に主 題とされた事柄の]「直後」に(ほ)かならないからであると。この[『註解』本文の]意味 は以下の通りである。われわれは、やみくもに「直後」という意味を好んでいるわけではなくて、むしろブラフマンの考究の原因である<前に主題とされた事柄>を確定するために、[「直後」という意味を好むのである]。というのは、それ(「直後」という意味)は、「そこで」という語が「前に主題とされた事柄への論及」[という意味]であっても成り立つので、「直後」という意味に決めようとわれわれが執着するのは無意味だからである。だからこそ[『註解』本文に]、結局と述べられているのである。しかし厳密に言えば、前に主題とされた事柄へ論及するのは、[Aそれとも(atha)Bというように]別の見解を紹介する場合であり、ここ(スートラ中)では別の見解が紹介されて いないから、消去法に基づいて「直後」という意味だけが[残ることになるのである]。

脚注
221「そこで」と訳したathaという語には、この反対主張にみられるように、「あるいは」という意味もある。そして「XはAなのかあるいはBなのか」という場合、この「あるいは」(atha) という語は、Xというすでに主題とされた事柄に論及しながら、「AなのかそれともBなのか」という選択をせまっているわけである。もし、この「あるいは」という語が、すでに主題とされたことからXに論 及していなければ、ここに述べられているように「AなのかそれともBなのか」という選択はそもそもなりたたない。
(´・(ェ)・`)つ

516鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/20(土) 23:20:00 ID:m2mt7pXY0

 反対なのじゃ。
 そこでという語は前に主題とされたことへの論及でもよいのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは結局、直後という意味に他ならないというのじゃ。

517避難民のマジレスさん:2022/08/21(日) 00:55:14 ID:d34t4rOI0
3.何の直後にブラフマンの考究が開始されるべきか 140右/229
3.1.ヴェーダの学習の直後ではない  p277-278

  [「そこで」という語が]「直後」という意味だとすれば、ダルマの考究222には前提条件として必ずヴェーダの学習が必要なように、ブラフマンの考究にも必ずなにかが前提条件として必要である[ので]、それについて述べなけれ ばならない。しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)223の直後というのは、[ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に]共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない]。
 
  [反対主張][「そこで」という語は]「直後」という意味だとしておこう。だとすれ ぱどうだというのだ。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、「そこで」という 語が]「直後」という意味だとすれば云々と答えているのである。この場合にはまず、 なにかの直後だと言うべきではない。というのは、それは言わずもがなのことだからである。実に人は、必ずXを行ったのちに、Yを行うものなのである。またわれわれは、[なにかの]直後だけでは、目に見えるものであれ見えないものであれ、[なんら] 意味を認め[ることができ]ない。従って、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがあるときに[ブラフマンの考究が]まさに存在するような、そのXの直後だと言うぺきなのである。だから[師シャンカラは]、次のように言っているのである。 [ブラフマンの考究にも]必ずなにがが前提条件として必要であると。
  [反対主張]ダルマの考究と同じように、ブラフマンの考究にもあてはまるので、 ヴェーダの学習の直後に[ブラフマンの考究が開始されるべきである]。というのは、 (1)ダルマと同じようにブラフマンも、聖典という認識根拠に基づいてのみ知られ、(2) それ(聖典)が理解されなければ、[聖典]それ自身の対象(ダルマとブラフマン)に関する知識は生じず、(3)[聖典の]理解は、「ヴェーダ(svādhyāya)を学習すべきで ある」224と[命じられている]学習(adhyāya)によってのみ必ず生ずるからである。
それ故、ブラフマンの考究の場合にも、ヴェーダの学習の直後こそが、「そこで」という語の意味なのである。
   [答論]だから[師シャンカラは、以上のような反対主張に対して]、しかしながら、ヴェーダの学習(svādhyāya)の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究 の両者に共通であって、[必ずしもブラフマンの考究にのみ必要な前提条件ではない] と答えているのである。ここ(『註解』本文中)で、「ヴェーダ」(svādhyāya)という[学習の]対象[を示す語]は、それ(ヴェーダ)を対象とする学習を表しているのである225。ところで、[もしこのスートラが、ヴェーダの学習の直後に開始されるのだとすると]、このこと(ヴェーダの学習の直後ということ)は、「そこで、この故に、ダルマ の考究が[開始されるべきである]」226というスートラからだけでも分かるので、この スートラ(「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである)」)を開始 する必要はない。というのは、ダルマという語は、ヴェーダの意味するものすべてを表 しており、ダルマ同様ブラフマンも、ヴェーダの意味するものである点では変わりがな いから、[両者は、]ヴェーダの学習の直後に教示されるという点で共通だからである。

脚注
222 ダルマは「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]]」 とMīmāmsā学派の主題とされており、「[ヴェーダの]教令によって規定されている好 ましき事柄がダルマである」と定義されている。
223ヴェーダの学習の直後にのみダルマの考究が開始されるぺきであるとされている。
224
225『註解』本文の訳では、svādhyāyaという語をヴェーダの学習の意味にとったが、ここでBhāmatīは、この語をヴェーダの意味にとり、学習という意味も含むと解釈しているのである。
226
(´・(ェ)・`)つ

518鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/21(日) 23:49:51 ID:TqJjTAe.0

 ヴェーダの学習の直後というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究の両者に共通だというのじゃ。

 反対
 それはどいういうことかときいたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの考究にも前提条件として必要なものがあるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究にも、ヴェーダの学習の直後が、そこでという言葉の意味゛というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ダルマとブラフマンの考究が、ヴェーダの学習の直後に教示されるというのじゃ。

519避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 05:45:32 ID:aWTxRF5w0
3.2.祭式に関する知識の直後であるという反対主張

  [反対主張]この(ブラフマン)の場合には、祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところである。

3.2.1.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(1)一一義軌と禁令の場合  p278-279

  [反対主張]この[ブラフマンの考究]の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところである。この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。[すなわち]、何故なら、「[人々は]供犠によって(yajñena)知ろうと望む」227という場合には、供犠等は、三格で明言(śruti)されているので、ブラフマンの知識に対して従属するもの(ańga)として用いられている(viniyyga)からであ る。というのは228、[知識は知りたいという]欲求の目的(karma)であるから、知識のみが主要なもの(pradhāna)であり、主要なものではないそれ以外のもの(padārtha) は、主要なものに関連している(従属している)からである。だがこの場合にも、供犠等は[天啓聖典の]文章の意味の理解(jñāna)が生ずるのに従属する(前提として必 要である)わけではない。というのは、文章の意味の理解は、文章それ自身から生ずるからである。
  [反対主張に対する反論][天啓聖典の]文章は、[それを理解する]補助として祭式 を必要とする。
  [反対主張]それは正しくない。というのは、祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則(śabdanyāya)についての真理を理解し、主従関係 (gunapapradhanabhāva)・前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係(ākaniksā)・ 近接関係(sannidhi)・適合関係(yogyatā)229に注意を払っていれば、文章の意味の 理解がなんの障害もなく生ずるからである。もし[このようにして文章の意味の理解が]生じないとすると、儀軌と禁令の文章の意味が理解されないことになるから、それ(儀軌の文章)の意味するもの(すなわち儀軌の文章が命ずる行為)を遂行せず、それ (禁令の文章)の意味するもの(すなわち禁令の文章が禁ずる行為)を避けないという 誤謬に陥ることになろう。またもし、[天啓聖典の文章の理解には祭式の執行一すなkわち儀軌の文章が命ずる行為を執行することと禁令の文章が禁ずる行為を避けること一が必要で、かつ]それ(儀軌と禁令の文章の)理解に基づいてそれ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりするのだとすれぱ、それ(儀軌と禁令の文章の理解)が存在する時に、それ(儀軌と禁令の文章)の意味するものを遂行したり避けたりし、またそれ(儀軌と禁令の文章の意味するものを遂行したり避けたりすること)に基づいて、それ(儀軌と禁令の文章)が理解されるという相互依存[に陥ること)になろう。

脚注
227
228viniyogavidhiとは、従属するものと主要なものとの関係を教える儀軌のことである。
たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う」というviniyogavidhiの場合、この手段 を表す三格で示されているdadhiは、それによって実現される目的である護摩(主要なもの)に対して従属する関係にあることが示されているのである。なお次の、動詞の表す行 為の目的(karma)は、行為者の最も望んでいるものであるから主要なものである。
229この三種は、Nyāya学派で、文章の意味の理解を生ずる原因とされている。すなわち、文章の意味 は、先行する語と後続する語に相互依存関係がない場合、たとえば「牛は、馬は、人は」というような文章 の場合や、個々の語の示す意味相互の間に適合関係のない場合、たとえば「火で水をかけよ」というよう な文章の場合、また語と語に近接関係のない場合、たとえば「牛を」と言って何時間がたったのちに「連 れて来い」と言うような場合には、理解されないのである。
(´・(ェ)・`)つ

520鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/22(月) 23:20:26 ID:LGZBOB/k0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究の場合には、祭式の知識の直後というのが、ブラフマンの考究がダルマの考究と異なるところであるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 天啓聖典の文章は、理解する補助として祭式 を必要とするのじゃ。

 反対なのじゃ。
 祭式を行わなくても、語および語の意味 の繋がりを知り、言葉に関する規則についての真理を理解し、主従関係や前後関係にある語の意味どうしの相互依存関係とか 近接関係とか適合関係に注意を払えば文章は理解できるからなのじゃ。

521避難民のマジレスさん:2022/08/22(月) 23:43:58 ID:BEBLCLy60
3.2.2.天啓聖典の文章理解に祭式は必要ではない(2)一ウパニシャッドの場合 p280

   [反対主張に対する反論]ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解する
のに祭式が必要なのであり、それ以外の文章の場合にはそうではない。
  [反対主張]それは正し(く)ない。何故なら、[そんなふうに考える]特別の理由がないからである。
  [反対主張に対する反論]心の清らかでない人たちは、「汝はそれなり」という230[ウ パニシャッドの]文章から、「汝」という語の意味するもの、すなわち、行為の主体であり経験の主体である個人存在と、「それ」という語の意味するもの、すなわち最高存在一[それは]本性上永遠で、清浄で、悟っており、無関心である一とが、そのままで同一であると、即座には理解することができない。何故なら[「汝」という語の意味するものと「それ」という語の意味するものとのあいだに]、適合関係がないことは確実だからである。しかし、供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは、信仰をそなえている[ので]、まず[「汝」という語の意味するものと 「それ」という語の意味するものとのあいだの]適合関係を理解し231、さらに[個人存在と最高存在とが]同一であることを理解するであろう。
   [反対主張]もしそうだとすると、[語の意味どうしの]適合関係を確定する根拠は、
正しい認識根拠にある[のに、それが]正しい認識根拠でない祭式から[生ずる]のだとでも、あなたは言うことにきめているのだろうか。それとも、直接知覚等以外に祭式も正しい認識根拠だ[とでも言うことに決めているのだ]ろうか。だが[いずれにせよ、ウパニシャッドの文章の語どうしの]適合関係は、ウパニシャッドに反せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づく論理の力によって確定されるのだから、祭式は余分なのである。

脚注
230
231「汝」という語は個人存在を指し、「それ」という語は「最高存在」を指すので、通常の意味では両者は異なるから、両者の間には、r汝=それ」というような形で表現されるような適合関係は存在しないは ずだが、心が清らかになり、信仰をそなえると、個人存在と最高存在が本質的に同一であることに気づいてくるから、適合関係が理解されるようになってくるのである。


3.2.3.ブラフマンの念想(修習)には祭式が必要である  p280-281

  従って、「汝はそれなり」等[のウパニシャッドの文章]を聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに[それを]それ(ウパニシャッド)に 基づく論証によって確定したのち、それ(個人存在と最高存在が同一であること)を 長い間、絶え間なく念想一別名修習(bhāvanā)ともいう一すれば、その果報としてブラフマンの直証が[得られるのだが、その念想に]供犠等が役立つのである。[そ のことが]例えば、「しかし、それ(修習abhyāsa)は、長い間、絶え間なく専念して 実行されると、堅固な境地に到達する」232と述べられているのである。そして[ここ で]、「専念」というのは、不淫、苦行、信仰、供犠等のことなのである。またまさに同
じ理由で、「賢明なバラモンは、まさにそれ(アートマン)を知り、智慧を働かせるべきである」233という天啓聖典句がある。論理に支えられた聖典の言葉によって「知り」、 「智慧」すなわち修習を働かすべきである、というのが[この天啓聖典句の]意味なの である。

脚注
232 233
(´・(ェ)・`)
(つづく)

522鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/23(火) 23:20:59 ID:CC8dBTgM0
答えたのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の場合にだけ、その意味を理解するのに祭式が必要だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 そのように考える特別の理由などないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 供犠、苦行、布施によって内面の汚れを少なくした心清らかな人たちは信仰があるから、汝はそれなり、という言葉から自らの主体とアートマンが一つであると気づくのじゃ。
 そのように知識を得るのに祭式も必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の言葉の適合関係は、ウパニシャッドに反せず、ウパニシャッドに基づく論理で確定されるのであるから祭式は不要というのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:12:12 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
  ところである者は、「供犠等は至福の敵である汚れを滅する有益である」と[言う]。 また別の者は、「[供犠等は]人を浄化するから[有益なのである]」と[言う]。というのは、人は、供犠等によって浄化されて、ブラフマンを注意深く、絶え間なく、長い問、修習すれば、無始の無明の潜在印象を根こそぎ絶滅でき、そうすれば、その人の内的アートマンはとても清らかで、純粋で、汚れなくなるからである。そしてまさに同じ理由で、[次のような]法典の句があるのだ。「[五]大供犠と[その他の]供犠 によって、人身はブラフマンに到達しうるものとなる」234「これらの四十八の浄化式[およびアートマンの八つの徳]を備えて[いない]人は、[ブラフマン]との合一にも ブラフマンと同じ世界にも達しない」235と。だが別の者は、祭式は三つの債務を弁済 するという点で、ブラフマンの知識に役立つと言う。というのは、「三つの債務を弁済したのち、心を解脱に向けるべきである」236という法典の句があるからである。とこ ろが、別の者は、「バラモンはヴェーダの学習によって、また供犠によって、まさにそれ(アートマン)を知ろうと望む」237等の天啓聖典句に基づいて、「諸々の祭式は、それぞれの果報のために[行うよう]命じられてはいが、[ある時にはそれぞれの果報と]結びつき(samyoga)、[ある時にはそれぞれの果報を]離れて(prtaktva)、[ブラ フマンの修習と結びつく]から、ブラフマンの修習に対して従属関係にある」と主張 している。[それは]ちょうど、「しかし、同一のものに二つの性格がある時には、結合と分離(samyogaprtaktva)[という関係]がある」238という原則に従って、供犠のためのものであるカーディラ木が、[供犠の主催者が]強くなるためのもの[でも]あ るようなものである239。そしてまさに同じ理由で、[次のような]偉大な聖者(バー ダラーヤナ)のスートラがあるのである。「そして、あらゆるもの(あらゆる宗教的行為)が必要である。というのは、供犠等[の必要性を説く]天啓聖典句があるからであ る。ちょうど馬の場合のように」240と。[ここで]「あらゆるもの」とは、供犠、苦行、布施等であり、ブラフマンの修習にはそれらが必要である、という意味である。従って、もし天啓聖典等が正しい認識根拠であり、またもし、偉大な聖者のスートラ(ブラフマ・スートラ)が[正しい認識根拠で]あれば、いずれにせよ、三つの限定詞(注意深く、長い間、絶え間なく)つきの<ブラフマンの念想>は、供犠等の祭式行為と併合されると、無始の無明およびその潜在印象を滅することによって、ブラフマンの直証一別名解脱とも言う一を生みだすから、その(ブラフマンの念想しいてはブ
ラフマンの直証)のために、諸々の祭式が必要なのである。[ところで]、祭式はそれぞれ互いに異なっており、[それぞれの祭式には]一連の従属要素(ańga)241がつきものである。[そして、その従属要素には、ヴェーダ聖典中に]直接教示されているも の(aupadéika)と[ヴェーダ聖典中の教示を]拡張解釈することで理解されるもの (ātideśika)242とがあり、[それぞれの従属要素は、その遂行の]順序が決まっている。 [さらに、これらの従属要素には、主要な祭式に]内属して目に見える果報あるいは目に見えない果報[を生みだすの]に役立つ原因(drstādrdtsāmavāyikārpakārahetu) となる[祭式行為]と、[主要な祭式の<最終的な目に見えない果報>を生みだすのに] 直接役立つ原因(ārādupakārahetu)となる[祭式行為]とがある243。そして、諸々の祭式は、[このようなそれぞれの]祭式の性質と、それらの[祭式を行う]資格のあ る人(adhikārin)についての知識とがなけれぱ、執行することができない。さらにその知識は、ダルマの考察に学ばなければ[生じ]ないのである。だから[『註解』本文中に]祭式に関する知識の直後というのが[ダルマの考究と]異なるところであると的確に述べられているのである。すなわち、ブラフマンの念想が祭式の執行と併合されるのは、祭式の知識によってである、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

524避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 01:14:42 ID:fZuL8T/c0
(つづき)  p281-283
脚注
234五大供犠とは、生物、人間、父祖、神、ブラフマンに対する供犠のことである。
235四十八の浄化式については、
236三つの債務とは、聖仙、祖霊、神に対する債務(つまりこれらを祭ること)である。
237 脚注227参照。
238
239このsūtraに対するŚabaraの註によれば、祭式に従属する同一の要素、たとえばkhādira木という 同一のものが、一方では、「khādira木に獣をつなぐべきである」という聖典句によって、祭式に用いら れる道具として祭式に欠かすことのできないものとされ、他方では、「強さを望むものはkhādira木の杭 を作るべきである」という聖典旬によって、祭式に必ず必要な要素ではないが強くなりたい人の場合には 必要なものとされるような場合、同一のものが異なる二つの目的に用いられても、これは矛盾だと考えられない。従って、同一祭式が、一方ではそれ固有の果報のために、他方ではブラフマンの修習のために用 いられても、別段矛盾はないのである。
この「馬の場合のように」を、人は歩いていけて も、早く行きたい時には馬に乗るように、早くブラフマンを知りたい時には、祭式を行うという解釈をしている。
241従属要素とは、祭式のために用いられるものや祭式のための行為など祭式に従属するものすぺてをいう。
242 脚注34参照。
243 祭式の従属要素のうち、祭式のための行為がこの二種に分類される。祭式の際の諸行為は、行為を行ったのちすぐに滅するのに、何故、その果報が長い時間を経たのちに生じうるのか(たとえば、祭式を行っても、その果報として天界に生まれるのは死んでからである)、という疑問に答えるため、Mīmāmsā学派は、目に見えない果報(adrsta=新得力apūrva)というものを想定する。そうすることで、行為自体はすぐに滅しても、その果報であるadrsta=apūrvaは、アートマンの層性としてアートマンに残っているから、長い時間ののちにそれが熟して、天界等の果報を生じうると考えるのである。さて、先の祭式のための行為のなかには、たとえばDarśapūrnamāsa祭の場合、聖典の教令に従って穀粒を打って籾殻を取り除くという行為や、穀粒に水をかけるという行為があるが、前者は籾殻がとれるという目に見える果報のある行為であるのに対して、後者はとりたてて目に見える果報を生まない。しかし、ヴェーダ聖 典にはなんら無意味なことは述べられていないとするMīmāmsā 至学派にとっては、聖典が命じている以上、この穀粒に水をかけるという行為が無意味であるはずはないので、この場合には、なにか目に見えない果報が生ずるとされる。しかし、このように果報に違いはあるものの、この両者はともに主要な祭式 であるDarśapūrnamāsa祭に内属した行為である。これが、「主要な祭式に内属して目に見えるあるいは目に見えない果報を生みだすのに役立つ祭式行為」である。一方、Darśapūrnamāsa祭の前に行われ るPrayāja祭等の祭式は、主要な祭式であるDarśapūrnamāsa祭に従属はしているが、別個の祭式であってDarśapūrnamāsa祭に内属しているわけではない。この祭式の場合には、この祭式から生じた果報が他の様々な祭式行為から生じたadrstaと一緒になって、Darśapūrnamāsa祭の最終的な目に見えない果報(最終的新得力)一これが天界とという果報を生む一を生みだすのに直接役立つのである。
(´・(ェ)・`)つ

525鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/24(水) 23:16:25 ID:nbztfViE0
 人は供犠等によって浄化されて、ブラフマンを注意深く、絶え間なく、長い問、修習すれば無始の無明の潜在印象を根こそぎ絶滅できるというのじゃ。
 その人の内的アートマンはとても清らかで、純粋で、汚れなくなるからであるというのじゃ。
 五大供犠とその他の供犠 によって、人はブラフマンに到達しうるものとなるのじゃ。

 注意深く、長い間、絶え間なくという注釈つきのブラフマンの念想は、供犠等の祭式行為と併合されると、無始の無明およびその潜在印象を滅することができるのじゃ。
 それによってブラフマンの直証、解脱を生みだすのじゃ。
 ブラフマンの念想やブラフマンの直証のために、諸々の祭式が必要なのじゃ。

 諸々の祭式は、祭式の性質と、祭式を行う資格のある人についての知識とがなけれぱ、執行することができないのじゃ。。
 その知識は、ダルマの考察に学ばなければ生じないのじゃ。
 そうであるから註解本文中に祭式に関する知識の直後というのがダルマの考究と異なるというのじゃ。
 ブラフマンの念想は祭式の知識によって、祭式の執行と併合されるというのじゃ。

 つまり儀式や祭式をするには長時間のマントラ唱呪や式次第の執行が必要になるのじゃ。
 それによって集中力が高められるのじゃな。
 その集中力によってブラフマンを追求すると、ブラフマンの直証とか悟りも訪れるというのじゃな。

526避難民のマジレスさん:2022/08/24(水) 23:34:22 ID:H/Jsl/Hc0
3.3.祭式に関する知識の直後ではないという答論  143右/229

3.3.1.理由(1)祭式に関する知識以前でもブラフマンの考究は可能である 祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立 つだけでブラフマンの念想に祭式は必要ではない  p283-284

   [答論]そうではない。ダルマの考究以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからである。
 [答論]そこで[師シャンカラは]、これ(以上の反対主張を)退けて[言う]。そうではないと。何故か。何故なら、祭式に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからである。
ここ(『註解』本文中)の趣旨は以下の通りである。「ブラフマンの念想一別名修習とも言う一一には祭式が必要である」と[反対主張]に述べられていた。そこでわれわ れは尋ねる。「一体どのような点で、これ(ブラフマンの念想)に祭式が必要なのか」と。アークネーヤ祭等の場合、最後に生ずる果報(天界)へと導く<最終的な目には見 えない果報(Paramap耐ava)>が将来生ずるのに、サミト祭が必要であるように244、 [ブラフマンの念想の]結果[が生ずるの]に[祭式が必要なの]だろうか。それとも、 まさにそれ(アークネーヤ祭等)には、二つに切った祭餅(Purodāsa)などの供物とアグニという神格等が必要であるように245、 (ブラフマンの念想)それ自体に[祭式 が必要なの]であろうか。

脚注
244Darśapūranamāsa祭は新月の日に行われるDarśa祭と満月の日に行われるPūrna祭からなる が、それぞれ、重要な儀式として、三種の儀式がある。そしてさらに、これらの三種 の儀式にそれぞれ従属する儀式としてSamitという儀式がある。•••長いので省略
245 供物と神格は祭式の本質的要素であり、それらがなけれは祭式自体が成り立たない。
(´・(ェ)・`)つ

527鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/25(木) 23:38:51 ID:L2Ws2G1U0

 答えたのじゃ。
 シャンカラは祭式に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だというのじゃ。
 ブラフマンの念想の結果が生ずるのに[祭式が必要なのか。
 あるいはブラフマンの念想それ自体に祭式 が必要なのかと問うのじゃ。

528避難民のマジレスさん:2022/08/25(木) 23:57:59 ID:oNRFovp20
3.3.1.1.ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(1)一 ブラフマンの直証はutpādya,vikāraya,samskārya,prāpyaではない p284-285

  まず第一に、[ブラフマンの念想の]結果[が生ずるの]に[祭式は必要]ではない。 何故なら、そのような[見解]は疑問に耐えることができないからである。詳論すれば 以下の通りである。[まず]プラフマンの念想の結果は、ブラフマンの本性を直証することであると認めるべきである。だとすれば、それ(直証)は、[小麦粉に練り粉を]混ぜて[できる小麦粉の]玉のように生みだされるもの(utpādya)246か、籾殻を取っ た穀粒のように変化してできるもの(vikārya)247か、[水を]振りかけた日のように浄化されるもの(samskārya)248か、しぼった牛乳のように獲得されるもの(prāpya)249か[のいずれか]であろう。[このうち]まず第一にけ生みだされるものではない。 実にブラフマンの直証は、壼等の直証(直接知覚)一[それは]物質であることを本 性とする壼等とは異なる一が感覚器官などによって生みだされる(ādheya)ように、 修習によって生みだされることはありえないのである。というのは、(1)ブラフマンは(自己)以外のものに基づいて輝く(認識される)わけではないので、その(ブラフマンの)直証はそれ(ブラフマン)の本性上永遠であり、従って、[その直証が]生み だされることはありえないからである。(2)また、直証がブラフマンとは本性が異なり、かつ修習によって生みだされるとすると、それは想像上の観念と同じで疑問につつまれているから、正しい認識根拠であることはありえないからである(というのは、 そのような種類のもの(想像上の観念)は、それ(修習)に助けられていても、しばしば[正しい対象から]はずれること(vyabhicāra)が見られるからである)。実に、推論より生じた火を修習してはいるが、体の各部はひどい寒さで極度に硬直していて寒さに震えている人の場合、もつれた髪のように炎のゆらめく火を[修習によって]直証すること(直接体験すること)は、ほかの認識根拠と合致しないのである。というのは、[この場合には、修習により火を直証している(直接体験している)にもかかわら ず、実際には寒さは知覚しているというように、直証がほかの認識根拠と]合致しな いことがしぱしば経験されるからである。従って、正しい直証という結果[が念想から生みだされること]はないから、念想から[直証という結果が]生みだされるのに 祭式は必要ではない。また、変異することなく永遠で、すべてに遍在するブラフマン [一これがブラフマンの念想の結果である直証の本性である一]が、念想によって 変化してできたり、浄化されたり、獲得されたりすることはない。
  [反対主張]ブラフマンの直証が、生みだされるものなどのかたちで、念想から[生ずること]はないとしておこう。しかし、幕に隠された踊子は、舞台係が幕をあける と、[観客の目に現れる]ように、[ブラフマンの直証は、実在であるとも非実在であるとも]表現しえない二種の無始の無明というヴェイルが取り除かれると、浄化され[て現れてく]るのであろう。そしてこの場合には、祭式が役立つのである。だが、[ブラフマンの直証と踊子を直接目にする(直証する)こととには]、次に述べる程度の違いがある。すなわち、幕があがると観客たちは踊子を直接目にすることになるが、これ (ブラフマンの直証)の場合には、無明というヴエールが取り除かれるだけであって、 それ以外のものが生みだされるわけではない。というのは、ブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としており、永遠なので、生みだされることはないからである。

脚注
246 「練り粉を混ぜる」と命じられて混ぜた場合に生み だされる玉のようなもの、という説明を加えている。
247 「穀粒を打つ」と命じられて打った場合に、籾殻が とれて変化した穀粒のようなもの、という説明を加えている。
248 「水を注ぐ」と命じられて水を注いだ場合に浄化される臼の ようなもの、という説明を加えている。
249 「牛乳をしぼる」と命じられてしぼった場合獲得され る牛乳のようなもの、という説明を加えている。
(´・(ェ)・`)つ

529鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/26(金) 23:30:51 ID:nL.wdU1g0

 そしてブラフマンの念想の結果が生ずるのに[祭式は必要ではないというのじゃ。
 プラフマンの念想の結果とは、ブラフマンの本性を直証することであるのじゃ。
 それは生み出されるものでも、変化して獲得されるものではないからというのじゃ。

 ブラフマンはそれ以外のものに基づいて認識されるのではないから、ブラフマンの直証は本性上永遠であり、その直証が生み だされることはありえないのじゃ。
 さらに直証がブラフマンとは本性が異なり、かつ修習によって生みだされるとすると、それは想像上の観念と同じ妄想なのじゃ。
 正しい直証という結果が念想から生みだされることはないから、念想から直証という結果が生みだされるのに 祭式は必要ではないのじゃ。
 変異することなく永遠で、すべてに遍在するブラフマン念想によって 変化してできたり、浄化されたり、獲得されたりすることはないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの直証は、実在であるとも非実在であるとも表現しえない二種の無始の無明が取り除かれると、浄化され[て現れてくるというのじゃ。
 そしてその場合には、祭式が役立つというのじゃ。
 ブラフマンのち直証は、無明が取り除かれるだけであって、生みだされるわけではないのじゃ。
 ブラフマンの直証は、ブラフマンを本性としており、永遠なので、生みだされることはないのじゃ。

530避難民のマジレスさん:2022/08/27(土) 04:50:56 ID:hxnEjUqg0
3.3.1.2一ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(2)、 ブラフマンの念想とブラフマンの直証について
  p286-287 145左/229

   [答論]一体このブラフマンの念想とは何か。単なる聖典に基づく知識が連続してゆ
くこと(samtati)なのか。それとも、聖典に基づく疑問の余地のない知識が連続してゆくことなのか。もし単なる聖典に基づく知識が連続してゆくことだとすると、これは反復したとしても、無明を滅することができるのだろうか。[いや、できるわけはない]。真理を確定し、それ(真理の確定)を反復すれば、錯誤(viparyāsa)はその潜在印象とともに滅せられるであろうが、疑問や[まだ疑問の余地のある]単なる一般的な認識を反復しても[錯誤が滅せられることは]ないのである。というのは、「柱か人かである」という認識や、「高くて大きなものである」という認識は、確定的な認識がなければ、百回反復しても、「まさに人である」と確定するのに十分ではないからである。
   [反対主張]「[「汝はそれなり」等のウパニシャッドの文章を]聞くと生ずる知識によって、個人存在が最高存在であると理解し、さらに論証によって[それを]確定する」250と、[すでに]述べたように、念想一「それは」聖典に基づく疑問の余地のない知識が連続してゆくことにはかならない一が、祭式に助けられて、二種の無明を 滅する原因となるのである。
  [答論]これ(念想)は、ブラフマンヘの開眼(anubhava)を生じなければ、それ(二 種の無明)を滅するのに十分ではない。というのは、錯誤は直接的な体験(sāksātkāra) であって、直接的な体験(直証)である真理の認識によってのみ、滅せられるのであ り、間接的な認識(paroksāvabhāsa)によって[滅せられるの]ではないからである。 何故なら、方角を誤ること、火輪、動く木251、屡気楼の水等の誤認が直接に現れている時には、方角等についての正しい認識が直接に現れることによってのみ[誤認が]取り除かれるのが経験されるからである。実に、聖典の言葉や徴標などによって正しい方角等が確定されても、方角を誤ること等[の誤認]が取り除かれることはないので ある。従って、「汝」という語の意味するもの(個人存在)が、「それ」という語の意味するもの(最高存在)であるという直証が、望まれるぺきなのである。というのは、このような[直証]によって、苦しい・悲しい云々という、「汝」という語の意味するも の(個人存在)の直接的な体験が滅せられるのであり、それ以外の方法によるのでは ないからである。そしてこの直証は、たとえ考察に助けられても、聖典という認識根拠に基づく結果ではなくて、直接知覚の結果なのである。というのは、いつでもそれ (直接知覚)にだけそれ(直証)という結果がある、と決まっているからである。何故なら、さもなければ、クタジャの種からでもバニヤンの芽が生ずるという誤謬に陥るからである。従って、[聖典の]文章の疑問の余地のない意味についての修習が熟す(完全なものとなる)のに助けられて、内官がそれ(個人存在)の添性を否定することによって、「汝」という語の意味するもの(個人存在)一[それは]直接経験されてい る一が、「それ」という語の意味するもの(最高存在)であるということに、[人を] 開眼させるのだ、[と考えるの]が正当なのである252。

脚注
250本訳280頁22行以下参照。
251船に乗っている人には、岸辺の木が動いて見える
252マンダナミジュラとヴァーチャスパティ・ミシュラの系統では、聖典の言葉それ自体が直接にブラフマンを知らしめるのではなく、感覚器官の一種である内官が、聖典、論証等によって得られた知識に助けられて、ブラフマンを知らしめるとされる。一方、Vivarana学派では、聖典の言葉それ自体がブラフマンを直接に知らしめるのだとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

531鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/27(土) 23:11:58 ID:Q3T3fAyM0

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの念想とは何かというのしや。
 聖典に基づく知識の連続ではないかというのじゃ。
 そのような知識がいくらあっても無明はなくならないというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章による知識で個人存在が最高存在であると理解し、さらに論証によって確定すると、念想が祭式に助けられて無明を滅する原因となるというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 念想はブラフマンへの開眼がなければ二種の無明を滅するのに十分ではないというのじゃ。
 錯誤もまた直接的な体験であるから、直証である真理の認識によってのみ、滅せられるからなのじゃ。
 聖典からの知識という間接的な認識によっては滅せられないのじゃ。

532避難民のマジレスさん:2022/08/28(日) 01:13:47 ID:smMTmFAo0
(つづき) p287
  またもし、[開眼がブラフマンを本性とするもの]であれば、生ずることはないであろうが、この開眼はブラフマンを本性とするものではない。そうではなくて、[開眼とは]まさにブラフマンを対象とする内官の変容の一種(vτttibheda)なのである。しかしだからといって、ブラフマンが[自己]以外のものに基づいて輝く(認識される)ことにはならない。何故なら、聖典に基づく知識によって照らしだされるブラフマンが 自ら輝かないわけはないからである。というのは、[聖典にはブラフマンは]あらゆる添性をはなれており、自ら輝くと唱い上げられており、[ブラフマンに]添性があるとは[述べられて]ないからである。[このようにブラフマンは自ら輝いていても対象でありうることについて]、たとえば神聖なる註釈者(シャンカラ)が、これ(内的アー トマン=ブラフマン)は絶対に対象ではないというわけではない253と述べていたでは ないか。
  またこれ(ブラフマン)は、直証一[それは]内官の変容にほかならない一されている時にでも、すべての添性を離れているわけではない。何故なら、まさにそれ(ブラフマンの直証)は、[それ自身]滅びつつある状態にあるので、自己および[自己] 以外の添性とは対立するものではあるが、[やはり]それ(ブラフマン)の添性である、 と知られているからである254。というのは、さもなければ、内官の変容は、それ自身物質的なものであるので、精粋性が反映されていなければ、白ら輝くことはありえず、従って直証でありえなくなるからである255。

脚注
253 本訳244頁参照
254ヴァーチャスパティ・ミシュラによれば、無明に覆われているのは、添性に限定されたブラフマンであって、添性に限定されていなブラフマンは完全無欠なので、決して無明に覆われたり、無明が取り除かれて現れてきたりすることはない。従って、直証されているのも限定されたブラフマンであることにな る。というのは、覆ったり、現れたりする場合には、主客の関係が存在するが、この場合ブラフマンはなにものにも限定されていないわけではないからである。そして、ブラフマンが直証されている場合、直証は、それ自体が内官の変容であるので、ブラフマンの添性である。だがこの添性(直証)は、他の添性とは異なり、それ自身滅ぴつつあるものであり、また他の添性を滅ぼすような性質のものなのである。
255 たとえば、壼の認識というような外的な対象の知覚の場合、壷は、内官が視覚を通して対象である壼のほうへ向かって外へ出て、壷に達し、そこで変容して壼の形をとったとき認識されるのだが、この内宮の変容自体は物質的なものなので、それに精神性が反映されていなければ、壼の認識とはなりえない。同じように直証の場合も、たとえ直証がブラフマンを対象としていたとしても、それが内官の変容という物質的 なものであることは、壼の認識の場合とかわりないので、この直証が認識であるためには(自ら輝くためには)、萱の認識の場合と同様、精神性が反映されてなけれぱならないのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

533鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/28(日) 23:01:05 ID:BHST3W8k0
 開眼はブラフマンを本性とするものではないというのじゃ。
 開眼とはブラフマンを対象とする内官の変容の一種なのじゃ。
 聖典に基づく知識によって照らしだされるブラフマンが自ら輝くのじゃ。

 ブラフマンは自ら輝いていても対象でありうることについて、シャンカラも内的アートマン、ブラフマンは絶対に対象ではないというわけではないと述べていたのじゃ。
 ブラフマンは、直証されている時にでも、すべての添性を離れているわけではないのじゃ。
 ブラフマンの直証は、それ自身滅びつつある状態にあるから、自己および自己以外の添性とは対立するが、やはりブラフマンの添性であるのじゃ。
 内官の変容は、それ自身物質的なものであるので、精粋性が反映されていなければ、白ら輝くことはありえず、直証でありえないからなのじゃ。

 つまりブラフマンも悟りに導く法であるから、知覚の対象になるのじゃ。
 観念であり、性もあるものじゃ。

 しかし法として対象はなく、添性もないと説かれるのじゃ。
 そのように法と、法の現すものの区別に注意しなくてはならんのじゃ。

534避難民のマジレスさん:2022/08/29(月) 01:43:37 ID:SrlHKUME0
(つづき)   p288
  また「これ(直証)は、推論に基づいて修習した火についての直証(直接体験)のように、想像上のものであるので、正しい認識根拠ではない」256というのは、[正しく]
ない。何故なら、その(火についての直証)の場合には、火自身の特質が間接的であるのに対して、この(ブラフマンの直証の)場合には、個人存在は添性によって汚されてはいて[も、本来は]ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的[に経験 されている]あるからである。というのは、清浄であり、悟っている等の性質は、実際 にはそれ(個人存在)と異ならないからである。実に[聖典にも]、あれこれの添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っている等々を本性とするブラフマンなのだ、 と唱い上げられているではないか。また、あれこれの添性を離れることも、それ(ブ ラフマン)と異ならないのである257。従って、音楽理論の書の意味(音楽理論)に関 する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた、耳という感覚器官によって、[人が]シャドジャ等の一連の音階に関して、上昇音、下降音258の区別を直接経験するよ うに、ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた [個人存在は]、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、[直接に体験する のである。]

脚注
256 本駅258頁参照。
257 この一文は、以下のような反対主張に対する答論であるとされている。「あれこれの添性を離れることは、真実なのかそれとも非真実なのか。後者の場合、すなわち添性を離れたものが非真実である場合には、添性が真実であることになるから、それ(添性)はブラフマンと異なることになり、不二一元論が損なわれることになる。前者の場合でも、添性を離れたものは、真実であってブラフマンと異なるのだから、不二一元論が損なわれることになる。」
258インド音楽の音階には、七音階があるが。それには上昇音と下降音があり、•••従って•••上昇音の場合と下降音の•••区別は音楽理論についての知識がなければ理解できないのである。
(´・(ェ)・`)つ

535鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 00:16:03 ID:a/Epxlw20

 ブラフマンの直証の)場合は、個人存在は添性によって汚されてはいても、本来ブラフマンを本質としており、もともと最初から直接的に経験 されているというのじゃ。
 個人存在はもともと清浄であり、悟っているのじゃ。

 聖典にも添性を 離れた個人存在こそが、清浄であり、悟っていることを本性とするブラフマンなのだ と説かれているのじゃ。
 添性を離れることも、ブ ラフマンと異ならないのじゃ。
 ウパニシャッドの意味に関する知識を反復することで生じた潜在印象を備えた個人存在は、内官によって、個人存在がブラフマンであることを、直接的に体験するのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのじゃな。
 無明の覆いが無ければ、みんな悟っているのじゃ。

536避難民のマジレスさん:2022/08/30(火) 02:28:36 ID:zubZC57E0
3.3.1.3.ブラフマンの念想の結果である直証が生ずるのに祭式は必要ではない(3)一 さまざまな反対主張を退ける  p289 146右/229

  [反対主張]内官の変容というブラフマンの座言正を生ずるのに、それ(ブラフマン) の念想は祭式を必要とするのである。
  [答論]そうではない。それ(ブラフマンの念想)と祭式の執行とが共存することは ないから、[ブラフマンの念想が]それ(祭式)と協同することはありえないからである。実に人は、「汝はそれなり」等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンー[それは]本性上清浄で、悟っており、無関心であって、行為者ではないという性質をそなえ、バラモンという性質等のカーストとは無縁で、身体とは異なる一 を理解すると、[自己の]祭式に対する資格を理解することができないのである。[こ のように祭式に対する資格を理解]できない人がどうして、[祭式の]執行者であったり、[祭式を執行する]資格のある人であったりしようか。
  [反対主張]たとえ真理が確知されても、錯誤に基づいて日常的経験が継続するのが経験されるではないか。たとえば、砂糖は甘いと確知しても、甘い[砂糖]を吐き出して捨てることから分かるように、感覚器官が黄疽で損なわれている人には、あいかわらず苦く感じられるようなものである。従って、無明の潜在印象が続くから、祭式の執行は存在しており、それ(祭式の執行)が明知と協同してそれ(無明とその潜在印象) を滅ぼす、というのは妥当なのである。
  また、「無明を本質とする祭式が、どうやって無明を滅するのか。また、無明を滅ぼすものである祭式が、何によって滅せられるのか」と言うべきではない。というのは、 自己および自己以外の同類のものと対立する(を滅する)存在がしばしば認められるからである。たとえば、牛乳はほかの牛乳を腐らせ
、またそれ自身腐ってゆくし、毒はほかの毒を鎮め、また自らも鎮める。さらにカタカの屑は、ほかの屑で濁った水の中に 投げ込まれると、ほかの屑を沈澱させまた自らも沈澱して、水をきれいにする。このように祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

537鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/30(火) 21:57:24 ID:Ew4smaMg0

 反対なのじゃ。
 内官の変容というブラフマンの直証を生ずるために、ブラフマンの念想は祭式を必要とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの念想と祭式の執行とが共存することは ないというのじゃ。
 そうであるから、[ブラフマンの念想が祭式と協同することはありえないのじゃ。
 聖典の汝はそれなり等の文章に基づいて、疑問の余地のない唯一のアートマンを理解すれば、祭式の資格もなくなるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 真理が確知されても、錯誤に基づいた日常的経験が継続するのではないかというのじゃ。 
 悟っても砂糖は甘いというように。
 祭式は、無明を本質としていても、ほかの無明を除去し、自らも消え去ってゆくのであるから必要だというのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2022/08/31(水) 02:25:19 ID:BkE9XLdk0
(つづき)  p289-290
   [答論]その通りである。「愛児よ、[太初には]この[世界]は有のみ[であった]」で始まり、「汝はそれなり」で終わる章句259一[それは]ブラフマンの考察に役立ち、よく復唱される一に基づいて、身体一[その]質料因が無始の無明である一とは異なる内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続してゆく。にもかかわらず、これらの日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じない。それはちょうど、黄疽で感覚器官の損なわれた人は、砂糖を吐き出して捨てても、それ(砂糖)が苦いと[信じてはいない]ようなものである。また 同様に、[祭式の]行為、行為者、行為手段、行為方法、果報などの様々なものが実在しないと確知している者に、どうして[祭式を執行する]資格があろうか。というのは、 [祭式を執行する]資格があるのは賢者だからである。さもなければ、動物や奴隷にも [祭式を執行する]資格があると認めざるをえないであろう。そしてここ祭事部では、 [祭式の]行為、行為者等の本質の違いを知っている者(vidsyamāna)260が、賢者だと思い込まれているからである。まさにこのような理由で、神聖なる註釈者(シャンカ ラ)は、聖典が無明を持つ者に関係していると説明していたのである261。従って、バラモンや庶民というカーストに属すと思い込んでいる人は、王族というカーストに属す と思い込んでいる人が執行者であるラージャスーヤ祭262に対して、[執行の]資格がな いように、再生族、行為者、行為、行為手段等の区別[があると]思い込んでいない人 は、それら[の区別があると]思い込んでいる人が執行者である祭式に対して、[執行 の]資格がないのである。また、[執行する]能力はあっても[執行する]資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は、バラモンやクシャトリヤの行ったヴァイシュヤストーマ
祭263のように、果報を生みださないのである。従って、目に見える果報のために[行われる]祭式の場合には、[執行の]能力のある人が執り行えば、[果報は]目に見えるので、[その]果報を得るであろうが、目に見えない果報のため[に行われる祭式]の 場合には、[その]果報は聖典に基づいてのみ理解される[ので]、[執行の]資格のな い人にもたらされることはないであろう。以上のような理由で、[ブラフマンの]念想 の結果[が生ずる]のに祭式は必要ではないのである。

脚注
259
260ここで知者を表すのに、未来形の分詞を用いている理由について、実際は賢者でないのに、賢者に見える人という意味をもたせるためだとしている。
261 本訳257-258頁参照。
262この祭式は王の即位式である。
263この祭式は庶民が行うものとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

539鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/31(水) 23:45:32 ID:O4EMOl5U0
答えたのじゃ。
 その通り内的なアートマンという真理に関する疑問の余地のない知識が生じたとしても、 無明の潜在印象が継続している時には、輪廻にまつわる観念やその日常的経験は継続するというのじゃ。
 しかし、日常的経験や諸観念が虚妄であると考えている賢人は、それらを信じないのじゃ。
 そうであるから祭式の行為や行為者や行為手段や行為方法や果報などが実在しないと確知している者には祭式を執行する資格がないというのじゃ。
 それは動物とかが意味を理解しないで祭式を執行するのと同じだというのじゃ。
 
 祭式を執行する資格のない 人が行ったヴェーダの祭式は果報を生じないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの念想の結果が生ずるのに祭式は必要ではないのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2022/09/01(木) 05:03:34 ID:i53sF5860
(つづき)   p290-291
  [反対主張]祭式一[それを執行する]資格には人間であるという思い込みが含まれている一が命じられている時には、そういった思い込みのない人には[祭式を執行 する]資格がないように、禁令の場合も、[それを実行する]資格に人間[であるという思い込みが含まれている]ので、そのような思い込みのない人には、動物などと同じ ように、それ(禁令)に対する資格もないことになろう。従って、この者(人間だという思い込みのない人=ブラフマンの念想が完成した人)264は、禁じられている[行為] を行って[も]、獣などと同じで堕落することはないので、[自己]以外の者[に適し た]行為[を行っている]ということ(bhinnakarmatā)265になってしまうであろう。
  [答論]そうではない。実にこの者(ブラフマンの念想が完成した人)に、人間であ るという思い込みがまったくないわけではない。そうではなくて、この者の場合でも、 無明の潜在印象は継続しているので、そういった(人間であるという)思い込みがすこしは続いているのである266。
  [反対主張]「継続してゆく[日常的経験や諸観念]が虚妄であると考えている人は、 [それらを実在だとは]信じていない」267と述べられていたが、もしそうだとすると、 だからどうだというのか。
  [答論]だから以下の通りなのである。すなわち、儀軌を信じている人が[祭式を執行する]資格のある人であって、信じていない人はそうではないのだ。従って、人間で ある等の思い込みに対して信仰をいだいていない人は、儀軌[を説く]聖典に対して資 格がないのである。そして同じ趣旨で「信仰なしに、供えられた供物、与えられた布施云々」268という聖伝句がある。だが、禁令[を説く]聖典は信仰を必要とせず、それどころか禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのである。従って、信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動して堕落するので、「[その人は自己]以外の者[に適した]行為[を行っているのだ]」という[反対主張者の]見解は、認めることができないのである。 [ともかく]以上の理由で、[ブラフマンの]念想の結果[が生ずるの]に祭式は必要でないのである。

脚注
264
265 自分に行う資格のない祭式(行為)を行っても、祭式(行為)の果報を得ることができないという原則があるので、人間だという思い込みのない者は、人間に対して禁じられている行為を行っても、地獄に落ちるというような悪い結果は生じないことになってしまう。
266 悟ったがまだ生きている人は、まだ依然として修行階梯にあるのか、それとも修行を完 成した人であるのか、あるいはまた、その人に無明が残っているのか、それとも無明の潜在印象だけが残っているのかという問題について、ヴァーチャスパティ・ミシュラがどう考えていたかという 点に関しては•••
267 本訳290頁1行参照。
268
(´・(ェ)・`)つ

541鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 00:51:46 ID:ECK.c7KU0
 
 反対なのじゃ。
 祭式と同じく、自分という思いがなく禁令も効果を生じないならば、それはもはや人間に適した行為ではないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。 
 ブラフマンの念想が完成した人でも無明の潜在印象は継続しているので、人間であるという思い込みがすこしは続いているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの念想が完成した人は日常的経験や諸観念が虚妄であると信じていると述べられていたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 禁令を説く聖典は信仰を必要とせず、禁じられた行為に向かう人に対してのみ作用するのじゃ。
 信仰 によってブラフマンという真理を理解した人でも、輪廻の状態にある人と同じように 禁令を犯して活動すれば堕落するのじゃ。
 そうであるからブラフマンの]念想の結果が生ずるのに祭式は必要でないのじゃ。

542避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 02:42:23 ID:W56OOOXo0
3.3.1.4.ブラフマンの念想それ自体が生ずるのに祭式は必要でない  p292 148左/229

  まさに同じ理由で、[ブラフマンの]念想が生ずるのにも[祭式は必要では]ない。 [というのは、すでに]述べたように、聖典に基づく疑問の余地のない知識が生じたのちには、祭式に対する資格というものが存在しないからである。そして同じ趣旨で、「[人 は]祭式によっても、子孫によっても、また財産によっても[不死に達しない]。放棄 によってのみ不死に達するのである」269という天啓聖典句があるのである。

脚注
269

3.3.1.5.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つ(1)一一供犠等の場合 p292-293

  [反対主張]さて、ところで祭式は、この世でまったく無用なのだろうか、もしそうだとすると、「供犠によって知ろうと望む」等の天啓聖典句が矛盾することになろう。
   [答論]そうではない。というのは、供犠等の祭式は[ブラフマンの知識が生ずるのに]間接的に役立つ(ārādupakāraka)からである。詳論すれば次の通りである。バラモンは、このアートマンを、ヴェーダの学習によってすなわち常にヴェーダを学習す ることによって、知ろうと望むすなわち知りたいと欲するが、知るわけではない。というのは、知識は実際には主要なものであるが、[/vidという]語根(prakrti)の意味なので、言葉の上では従属的な位置にあるのに対し、欲求は[sanという]接尾辞の意味なので主要なものであり、さらに行為は主要なものと一致する(sampratyaya) からである270。実に、「王の家来を連れて来い」と言われた時には、実際には王が主要なものであるが、それは家来を修飾しているので、言葉の上では従属的な位置にある (upasarjana)271[から、王を]連れて来ることはない。そうではなくて、言葉の上ではそれ(家来)が主要な位置にあるので、まさに家来を[連れて来る]のである。このように供犠も、ヴェーダの学習と同じように、欲求[を生ずる]手段として命じられているのである。苦行すなわち節食の場合もまた同じである。苦行とは、欲望のままに食べないことである。実に、清らかな良いものを適度に食べる人に、ブラフマンを知 りたいという欲求が存在するのである。だが、まったく食べない人には、[ブラフマンを知りたいという欲求が存在し]ない。死んでしまうからである。また、cāndrāyana 等の苦行(断食)272に没頭している人にも、[ブラフマンを知りたいという欲求は存在し]ない。気持ちの平静さが崩れること(dhātuvaisamya)になるからである。

脚注
270ここで語根と訳したprakrtiは、語が変化する以前の元の形のことを言い、実際には動詞語根と名詞語幹のことを言うが、ここでは内容的には語根のほうを指しているのでこう訳した 。なお語根や語幹より接尾辞の意味のほ うが主要である。
271従属的な位置にあるものとは、compoundにおいて第一格で示されるものであるが、第六格が第一格で示されているので、compound 中の第六格はupasarjanaである。
272
(´・(ェ)・`)つ

543鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/02(金) 23:18:58 ID:BVnktc520

 今まで述べたように、ブラフマンの知識が起きたらブラフマンの念想が生ずるのにも祭式は必要ではないというのじゃ。
 人は祭式とか、子孫とか、財産によっても不死にはなれないのじゃ。
 放棄によってみ不死に達するというのじゃ。

 自我の放棄じゃな。


 反対なのじゃ。
 それでは祭式は全く必要はないのかと聞いたのじゃ。
 そうだとすると聖典が間違いということになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接的に役立つのじゃ。
 祭式はヴェーダの学習と同じく、ブラフマンを知りたいという欲求を起こすのに役立つのじゃ。

544避難民のマジレスさん:2022/09/02(金) 23:43:37 ID:Ts/y8tnc0
3.3.1.6.祭式はブラフマンの知識が生ずるのに間接白勺に役立つ(2)一時に日々義務 として行わなければならない祭式の場合 p293-

   さらに、これらの日々義務として行わなければならない祭式は、すでに身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのである。同じ趣旨で、「実に、『この自己の一部はこれによって浄化される。この自己の一部はこれによって増大する』と知る者が、自己に対する供(犠)を行う者(ātmayājin)である」273という天啓聖典旬があるが、[そこで]「これによって」で言及されているのは、供犠等だと考えるべきである。また、「これらの四十八の浄化式を備えて[いない]人は、[ブラフマンとの合一にもブラフマンと同じ世界にも達しない]」274という法典句もある。さらに、日々義務として行わなければならない祭式と臨時に行わなければならない祭式を執行することによって、汚れが(滅)せられて、心が浄化され、さらに知りたいという欲求が生じて知識が生ずるのは、無知な人の場合だけであることを示す、アタルヴァ・ヴェーダ系統の[次のような]天啓聖典句がある。「しかし、心が浄化された人は、瞑想しながら、こうして部分のないそれ(ブラフマン)を見る」275と。また、「祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずる」276という聖伝句もある。日々義務として行わなければならない祭式はし常に行えば、すでに身についた罪を滅して人を浄化する、とまさに確定しているので、それは、[浄化の結果である]知識の生起に対して従属関係にある。そして、 [この従属関係が]成り立つ時には、結合と分離という関係による直接的な従属関係277[を想定するの]は正しくない。想定がまわりくどくなってしまうから(gaurava)で ある278。詳論すれば以下の通りである。日々義務として行わなければならない祭式を執行すれば、ダルマが生ずる。それから罪が止滅する。それ(罪)はまさに、無常で、 不浄で、苦である輪廻を・永遠で・清浄で・楽であるとする錯誤によって、心の中の鈍 質(Cittasattva)279を汚しているのである。従って、罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、直接知覚と論理によって、輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解する。そしてこの[理解]から、それ(輪廻)に対する離欲、 [それは]無執着(anabhirati)とも呼ばれる一が生ずる。それから、それ(輪廻)を 捨てたいという欲求がめぐってくる。それから、[輪廻を]捨てる手段を捜し求める。 そして捜し求めている時に、アートマンという真理がその手段であると聞いて、それ (アートマンという真理)を知りたいと望む。それから、聴聞等280の順序に従ってそれ (アートマンという真理)を知る。従って祭式は、心の純質を浄化することによって、真理の知識が生ずるのに間接的に役立つ、[と考えるの]が正しいのである。まさにこの同じことを、『バガヴアッド・ギーター』も[次のように]述べている。「ヨーガ[の高み]にのぽろうとする聖者こは、祭式が手段であると言われる。その[聖者]がヨー ガ[の高み]にのぼった時には、安息が手段であると言われる」281と。

脚注
273
274 脚注235参照。
275
276 出典不明。
277 脚注239参照。
278 ある事柄を説明するために想定された考えは、より簡潔明瞭であるほうが優れているわけだが・「祭式が罪を滅して心を浄化し、その結果、知識の生起に役立つと考える」のと、「祭式が、一方ではその固有の果報に役立ち、他方ではブラフマンの念想が知識を生ずるのに役立つ」と考えるのを比べると、前者 のほうが後者の前半部がない分だけ簡潔である。
279
280「等」には思惟、瞑想が含まれる。
281
(´・(ェ)・`)つ

545鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 00:11:43 ID:9wee1HQQ0

 祭式は身についた罪を滅ぼすことによって、人を浄化するのじゃ。
 聖典には心が浄化された人は、瞑想してブラフマンを見ると説かれているのじゃ。
 祭式に基づいて罪が滅せられると、人に知識が生ずるともいうのじゃ。
 
 祭式によって罪が止滅すると、直接知覚と論理の道が開かれるので、それによって輪廻が無常で、不浄で、苦であるとなんの障害もなく理解するのじゃ。
 そしてこの理解から、輪廻に対する離欲がおこるのじゃ。
 そして輪廻から解脱したいという欲が起こり、輪廻を捨てる手段を求めるのじゃ。

 そしてアートマンの法を知り、法を聞いたりして真理を知るのじゃ。
 このように祭式は間接的に役に立つのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2022/09/04(日) 01:44:29 ID:jWMkK7ss0
3.3.1.7.結論一祭式に関する知識以前でもブラフマンの考究は可能である  p294-295 149左/229

  だとすれば、祭式を執行しなくても、前世に行った祭式の効力で心が浄化され、さら に輪廻には実質がないと見て取ることで離欲が生じていれば、その人には、祭式の執行 一[それは]離欲を生みだすのに役立つ一は余分だということになる。何故なら、前世で祭式を執行するだけでそれ(離欲)はすでに完成されているからである。そして、この同じ特に優れた人に関して、天啓聖典句は「あるいは、もしそうでなければ、 学生期のあとすぐに遊行すべきである」282と述べている。だから[「註解』に]、祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だからであると述べられていたのである。また同じ理由で、学生期の者には[三つの]債務がないのである(もし[彼等に三つの債務が]あれば、それらを弁済するために祭式を執行すべきであろうが)283。そして、「実にバラモンに生まれた者は三つの債務を背負って生まれるのである」284という[法典句]は、これ(先の天啓聖典旬)と合うように、家住期の者のことを説明しているのだと解釈すべきである。さもなければ、「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとに〔遊行すべきである]」285という天啓聖典句に矛盾が生じることになるからである。だが家住期の者の場合でも、債務を弁済するのは心を浄化するためなのである。また、老衰による死に[際して執行される祭式] 関する規定、灰に帰すことに関する規定、葬式(antyesti)286は、祭式に麻痺した無知 な人に対するものであって、アートマンという真理に精通した人に対するものではないのである。従って「そこで」という語は、Xがなければブラフマンの考究が存在せず、Xがある時にそれ(ブラフマンの考究)がまさに存在するような、そのXの直後にという意味なのである。だが、祭式に関する知識はそのようなものではない。それ故、 祭式に関る知識の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない、とすぺてが明らかになったのである。

脚注
282
283 本訳281頁参照。
284 出典不明。
285 脚注282参照。
286 それぞれ人が、老衰あるいは病気等でまさに死なんとする時に行うぺきとされている葬式に関する規定、火葬に関する規定、生涯に渡って供犠を行ってきた人の場合に息子が執行する葬式のこと。
(´・(ェ)・`)つ

547鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/04(日) 23:04:11 ID:Yb3y/KCc0

 そうであれば前世から祭式を実践していて浄化されていて、輪廻からの離欲もしていれば祭式は不要だというのじゃ。
 すでに離欲は完成しているからなのじゃ。
 祭式 に関する知識以前でも、ウパニシャッドを学習した者にはブラフマンの考究が可能だというのじゃ。

 以上の理由で、そこでという言葉は祭式に関する知識の直後ではないというのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:27:36 ID:1UY5tJm60
3.3.2.理由(2)ダルマの考究ののちにブラフマンの考究へという 順序は意図されていない    p295-297

  また、[供犠に用いる動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[心臓ののちに舌を切り取る云々という]順序が意図されているので、 [「そこで」が]直後であることは決まっているが287、この(ダルマの考究と ブラフマンの考究の)場合には、そんなふうに順序が意図されているわけで はない。というのは、ダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するもの (śesa)と主要なもの(śesin)という関係288や、資格ある者(adhiklra)にとっての資格(adhikāra)という関係289を示す認識根拠が存在しないからで ある。

   [反対主張][ダルマの考察とブラフマンの考察の場合、両者の]順序は、アグニホ-トラ祭と粥の場合とは異なり、[それぞれの]目的(用途artha)に基づくことはない であろう290。しかし、明言に基づく(śrauta)291[順序]は存在するであろう。というのは、「家住者となったのち森住者となるべきである。森住者となったのち遊行すべ きである」292というジャーパーラ[・ウパニシャッド]の聖典句が、「家住者」という語によって供犠等の遂行を暗示しているからである。また、「儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に 向かうのである」293という聖伝句もある。さらに、「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」294という非難の言葉もある。
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して]、また、[供犠に用いる 動物の]心臓等を切り取ること[を命ずる儀軌]の場合には、[「そこで」が]直後で あることは決まっていると言っているのである。何故か。何故なら、「まず心臓を、そこで舌を、そこで胸を切り取る」295という場合には、「まず」と「そこで」という語によって、順序が意図されているからである。[だが]、この[ダルマの考究とブラフマンの考究の]場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではない。というのは、 「もしそうでなけれぱ、学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」296という天啓聖典旬が示しているように、そのようには(直後であるとは)決まっていないからである。実に[この天啓聖典旬は]、離欲を暗示しているだけなのである。同じ理由で、「欲を離れたまさに同じ日に、遊行に出るべきである」 297という天啓聖典句もある。また[先の]非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものである。すなわち、心の不浄な人は、解脱を望みながらも、怠慢なためにその(解脱の)手段に向かわないまま、家住期のダルマである日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式を遂行せずに、一一瞬一瞬溜 め込まれてゆく罪を背負って地獄への道を行く、という意味なのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

549避難民のマジレスさん:2022/09/05(月) 02:29:27 ID:1UY5tJm60
(つづき)
脚注
287
288 śesaとは、ほかのもののためのものであって、それには、供物、祭式の際に唱えられる真言、祭式の準備、祭式中の個々の行為、これは果報のためのものである、果報、これは人の ためのものである、人、これは祭式中の諸行為のためのものであるがあるとされる。そして、 このśesaとśesinの関係は、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行う人とphalaを享受する入が 別入であれば、そのkarmaがphalaのためであるというような関係が成立しないように、行為者が同一である時に成り立つのである。そして、行為者が同一であれば、śesaとśesinのどちらかが先に行われるはずであるが、たとえばkarmaとphaIaの場合、karmaを行ってそのphaIaを享受するという順序が あるように、śesaが先でśesinが後に行われるのである。
289Dārsapūrnamāsa祭を行った者にSoma祭を行う資格があるというような場合、両祭式のあいだに、 どちらかがどちらかに従属するという関係があるわけではないが、両祭式を行う人は同一であるので、当然Dārsapūrnamāsa祭が先でSoma祭が後であるという順序がある。
290 諸祭式行為間の遂行順序を知る認識根拠として、明言、目的、 用途、言及、位置、主要、開始の六種を挙げている。この うち・ここにでてくる二番日のarthaとは、次の通りである。 たとえば「アグニホートラ祭を行う」という聖典句と、粥を 料理する」という聖典句とがある時、両者の順序は、粥はアグニホートラ祭に用いられるものであるか ら、粥を料理するほうが先であると決定する。これがartha(目的、用途)による順序である。ところ で、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合、前者が後者のためのものであるとか、後者のために用いられるというような関係はない。
291 次に一番目のśrutiに基づく順序とは、聖典句の一文中で、「まず」「次に」等の語、ablative case,,一ktvε接尾辞(ともに順序を示す機能がある)などで、順序が明言されているような場合である。
292 293 294
295 脚注287参照。
296 脚注282参照。
297
(´・(ェ)・`)つ

550鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/05(月) 23:48:28 ID:NeLjGvWw0

 ダルマの考究と ブラフマンの考究には、順序が意図されているわけではないというのじゃ。
 なぜならばダルマの考究とブラフマンの考究には、従属するものと主要なものという関係や、資格ある者にとっての資格というような関係がないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 明言に基づく順序は存在するというのじゃ。
 ジャーパーラ・ウパニシャッドには家住者という語によって供犠等の遂行を暗示しているのじゃ。
 儀軌とともにヴェーダを 学習し、ダルマに基づいて息子をもうけ、できるかぎり供犠を行ったのち、心は解脱に向かう」という聖伝句もあるのじゃ。
 さらに「再生族の者は、ヴェーダを学習せず、子供をもうけず、供犠を行わずして、解脱を望めば、地獄に落ちる」という非難の言葉もあるのじゃ。

 それらが明言された順序なのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究の場合には、そんなふうに順序が意図されているわけではないのじゃ。
 学生期のすぐあとでも、家住期のあとでも、森住期のあとでも 遊行すべきである」という天啓聖典句が示しているように、直後であるとは決まっていないのじゃ。
 さらにその非難の言葉は、不浄な心を持った人に対して向けられたものなのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 01:21:26 ID:xOFkdVm.0
3.3.2.1.ダルマの考究とブララフマンの考究には従属するものと主要なものという関係がないからである  p297-298 150右/229

  [反対主張]明言に基づくものであれ、目的(用途)に基づくものであれ、[ダルマの考究とブラフマンの考究の間に]順序は存在しないとしておこう。だが、言及(pātha) [の順序]・[占める]位置(sthāna)[の順序]・主要(mukhya)[祭における順序] ・ 開始(pravrtti)[した順序]という認識根拠に基づく298順序が、どうしてないことが あろうか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。 従属するものとはサミト祭等であり、主要なものとはアークネーヤ祭等で、[それらは] 同一の果報に限定されている[ので]、同一の果報に役立つものと知られており、同一の執行儀軌から理解され、同一の[執行]資格を持つ人によって執行され、同一の時期 すなわち新月あるいは満月の日に属す299。しかし、[それらを]同時に執行することは不可能なので、その結果順序を決めなければならないことになるが、このように特定のそれ(順序)が必要な時には、言及[の順序]等[の認識根拠]によって、その(順序の)区別を決定することが可能なのである。しかし、サウルヤ、アールヤマナ、プラージャーバティヤなどのように、従属するものと主要なものという関係がない場合300、ま た同一の資格という限定がない場合には、順序を区別する必要がないので、言及[の順序]等は特定の順序を決定する認識根拠ではない。[しかし、順序がまったくないと いうわけではない301]。というのは、その(サウルヤ等の)場合、[「サウルヤ云々」等
の聖典句を同時に唱えるのは不可能なので、人間の恣意によるものであれ]302、それ (特定の順序)が避けがたいものとして了解されているからである。そして、このダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す 認識根拠すなわち明言などのうちのどれか一ーーは存在しないのである。

脚注
298 言及の順序とは、ヴェーダ聖典のなかで言及されている順序に従って諸祭式行為間の順序が決定されるということ。たとえば、Darśapūrnamāsa祭の前に行われる従属祭として、 聖者を神に捧げる儀式があるが、その場合それらの順序は、ヴェー ダ聖典の言及の順に従うのである。なお、一文中に順序が示されていない点が、明言に基づく順序とは異 なる。次に、位置の順序とは、ある祭式行為が祭式のなかで占める位置に基づいて決まる順序のことで、たとえば、基本祭であるJyotistoma祭に対して、応用祭Sādyaskra祭があり、その祭 では、Jyotistoma祭では三日に渡って別々に捧げられた三匹の動物(第一日目がagnīsomīya、第二日目 がsavanīya、第三日目がānubandhya)が、一日(第二日目)で捧げられるが、この時には、Jyotistoma 祭と異なり、savanīyaが最初に神に捧げられる。というのは、これらの三匹の動物が捧げられるのが、第二日目、すなわち基本祭Jyotistoma祭ではsavanīyaの捧げられる日に位置するからである。さらに, 主要祭おける順序とは、応用祭における祭式行為の順序は基本祭の順序に準ずるとい うことである。最後に開始した順序とは、たとえば、vājapeya祭で十七匹の動物を捧げる時、水をかけて清める等の儀式をどの順序でやるぺきか決まってはいないが、もし最 初の儀式を動物(1)から動物(17)の順で始めたとすると、以下の儀礼はそれと同じ順序で行わなけれ ぱならないような場合である。
299Darśapūrnamāsa祭は、新月の日に行われるDarśa祭と満月の日に行われるPūrna祭からなり、さらに、前者は三種の祭式から、後者は別の三種の祭式からなる。このDarśa祭と、pūrpa祭にはそれぞれ、先駆祭・後続祭等の従属祭が付属している。そしてSamit祭は、Prayāja祭のひとつである。これらの祭式は、すべてがDarśapūrnamāsa祭を構成しているので、Darśapūrnamāsa祭の執行儀軌という同一の儀軌から理解され、これらの祭式すべてからら生じたapūrvaが集まって天界という同一の果報を生じる。そしてこの果報は、同一の人、すなわちDarśapūrnamāsa祭を執行した人に生ずるのである
300saurya祭等「望ましい果報を欲して行う祭式」 には主従関係がない。
301 302
(´・(ェ)・`)つ

552鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/06(火) 23:20:44 ID:6JJtvqTQ0

 反対なのじゃ。
 言及の順序とか、主要な祭式の順序などの認識根拠に基づく順序があるはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは主要なものと従属するものという関係を示す認識根拠がないから、それはないというのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係がない場合とか、同一の資格という限定がない場合、順序を区別する必要がないので、言及の順序等は特定の順序を決定する認識根拠ではないのじゃ。
 そうであるからこのダルマの考究とブラフマンの考究の場合も、従属するものと主要なものという関係を示す認識根拠である明言などのうちのどれも存在しないのじゃ。

553避難民のマジレスさん:2022/09/06(火) 23:51:47 ID:GwuJ8BsY0
3.3.2.2ダルマの考究とブラフマンの考究にはすでに資格ある者にとっての資格という関係がないからである   p298-300

  [反対主張]従属するものと主要なものという関係が存在しない場合でも、順序が決まっていることが見られるではないか。たとえば、ダルジャプールナマーサ祭の従属要素(水を振りかける儀式)の際に[用いられる]牛乳の容器一[これは祭式(ここでは水を振りかける儀式)のためのものではなく]人間のためのものである一の場合303や、「ダルジャプールナマーサ祭を行ったのち、ソーマ祭を行うべきである」という時のダルジャプールナマーサ祭とソーマ祭の場合には304、従属するものと主要なも のという関係は存在しないが、[一定の順序が決まっているのが見られる]ように。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないからであると言っているのである。こ れが[『註解』本文の]文脈なのである。すなわち、ダルジャプールナマーサ祭[を執 行する]資格のある者一つまり天界を望む者一であってかつ家畜を望む者に、水を振りかける儀式一[それは]ダルジャプールナマーサ祭のためのものである一に基 づく牛乳の容器(を用いる)資格がある305。実に、牛乳の容器という用具は、[それ自体で]作用することはないから、直接に家畜を生みだすことができない。また、[牛乳の容器が水を振りかけること]306以外の作用と関わるとも、天啓聖典に述べられてもいない。何故なら、[もし水を振りかけること以外の作用と関わっていれば、その牛乳の容器は]、それ(ダルジャプールナマーサ祭)の従属要素の[執行]順序の範囲外に なってしまうからである。だが、[それが]水を振りかける儀式に基づくことは、[次の理由から]理解される。すなわち、(1)[牛乳の容器と水を振りかける儀式が]、「チャマサ杯で水を振りかけるぺきである。家畜を望む者の場合には、牛乳の容器で」307と 一緒に述べられており、さらに、(2)それ(牛乳の容器)は水を振りかけるのに適しているからである308。従って、牛乳の容器は、祭式のためのものである水を振りかける儀式に基づくから、人間のためのものであっても、牛乳の容器には、それの順序に従って順序がある、と確立されるのである309。また、ダルジャプールナマーサ祭(isti) 310とソーマ祭[には、執行の]順序[がある]のと同じように、[ダルマの考究とブラフマンの考究にも]順序[があるという考え]も、明言に基づく論破によって退けられるのだ311、と知るべきである。

脚注
303Darśapūrnamāsa祭のなかに水をふりかける儀式があり、この祭式自体は、 Darśapūrnamāsa祭のためのものであるので、従属要素の定義に従って、これは祭式に対する従属要素である。だがその時に、家畜を望む人が任意に用いて水をかける道具である牛乳の容器は、家畜を望んでいる人のためのもの、すなわちその人に従属するのであって、水をかける儀式に従属するのではない。従って、この牛乳容器と水をかける儀式には主従関係はない。にもかかわず、牛乳の容器で水を汲むのが先で水をかける儀式が後という順序が見られる。
304この両祭式が主従関係になく、「Darśapūrnamāsa祭を 執行したのちSoma祭を行うべきである」は、単に時間的な前後関係について述べているにすきない。なお、この両祭式の場合、 Darśapūrnamāsa祭を行う資格のあるものにSoma祭を行う資格があるということが言われているわけだから、前者が先で後者が後である。
305 Darśapūrnamāsa祭を執行する資格は、天界を望む者であることであり、この祭式の中の水をふりかける儀式において牛乳の容器を用いる資格は、家畜を望む者であることである。従って、後者の資格は前者の資格を前提としているので、前者が先で後者が後である。
306
307 出典不明。
308 これをすなわち、sāmarthya(効力)というlińgaによる説明であるとしている。
309 牛乳容器は水をかける儀式に基づき(従属し)、水をかける儀式はDarśapūrnamāsa祭に従属する。従って・この従属の順に牛乳の容器で水をすくい、水をかけ等々の順序で行われるのである。だか、 ダルマの考究とブラフマンの考究にこのような従属関係係がないことは、すでに説明済みである。
310istiがDarśapūrnamāsa祭を意味する。
311 Darśapūrnamāsa祭とSoma祭の場合には、順序が一 ktva接尾辞によって明言されているが、ダルマの考究とブラフマンの考究の場合はそう ではない 。
(´・(ェ)・`)つ

554鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/07(水) 23:30:13 ID:Jhtm4LM20

 反対なのじゃ。
 主要なものと従属するものという関係がみられない場合でも、順序が決まっていることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは資格ある者にとっての資格という関係を示す認識根拠が存在しないから順序はないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究に]順序があるという考えも、明言に基づく論破によって退けられるのじゃ。

555避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 08:08:06 ID:.s3PLAMs0
3.3.3.理由(3)ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究 の対象に違いがある  p300-301 152左/229

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いが あるからである。[すなわち]、ダルマの知識の果報は繁栄であり312、それは [祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり313、それはなんら[行為の]遂行に基づかない。また考究の対象であるダルマは、の ちに実現されるべきも(の)であって、考究の時点においては存在しない。何故なら、人間の努力に基づくからである。しかし、考(究)対象であるブラフマンはこの 世にすでに存在しているものである。というのは、ブラフマンは永遠に存在 し、人間の努力に基づかなしいからである。

  [反対主張]たとえ、従属するものと主要なものという関係、あるいは、すでに資格 のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、もし同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるであろう。たとえば、天界という同一の果報によって限定されている、アークネーヤ等の六つの祭式の場合のように314。あるい は、もしダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるので、順序が意図されていることになるのであろう。それはちょうど、[『ブラフマ・スートラ』]四章[全体]で明らかにされるブラフマンが、各章でそれぞれなんらかの観点から明らかにされている時、 四つの章は[その]考究の対象に違いがないので相互に関連しており、その場合には [四章間に]順序が意図されているのと同じである。
  [答論]これら[の条件が]両者とも存在しないという意図で、[師シャンカラは]、 また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には]果報と考究の対象に違いがあるからで あると言っているのである。[さらに]、果報の逢いを区別して、ダルマの知識の果報は繁栄である云々と[言っているのである]。すなわち、考究(知りたいという欲求)は 事実上知識に基づいているので、知識の果報は考究の果報にほかならない、という意味 である。また、ただ単に本性上果報が異なるだけでなく、それ(果報)を生みだす方法 にも違いがあるので、それ(果報)が異なるのである。だから[師シャンカラは]、それ は[祭式の]遂行に基づく。一方、ブラフマンの知識の果報は至福であり、それはなんら[行為の]遂行に基づがないと言っているのである。すなわち、「聖典に基づく知識を反復すること以外の[行為の]遂行に基づかない。というのは、[ブラフマンの念想が]、日々義務として行わなければならない祭式や臨時に行わなければならない祭式と共存するということにしては、すでに論破したからである」315という意味なのである。
  [さらに]考究の対象が完全に異なることを、ダルマは、のちに実現されるべきも(の)で あって云々と言っているのである。のちに実現されるべきもの(bhāvya)とは、のちに生ずぺきもの(bhavitr)のことで、[bhāvyaという語の]krtya接尾辞(一ya)は、 行為主体を表しているのである316。そして、のちに生みだされるぺきものは、生みだ す人の活動によって実現されるから、それ(生みだす人の活動)に基づいているので、 それ(生みだす人の活動)以前一すなわち[のちに生みだされるぺきものが]知られた時点一には存在していない。これが[『註解』のこの箇所の]意味である。[一方]、 すでに存在しているものとは真実(実在)のことで、[それは]絶対に真実(実在)であって、どんな時でも決して非真実(非実在)ではない、という意味である。

脚注
312 天界のこと。
313 解脱のこと。なお、Śańkaraは祭式により繁栄が、知 識により至福が得られるとして、この二つの道をはっきりと対置させている。(くま注、Śańkaraのńはnの上に・であるが、活字がないのでńとした。以下同)
3I4 脚注244,299参照。
315 本訳280頁参照。
316krtya接尾辞(bhavyaの一ya)が行為者(kartr)を表し得ることについてーーの論議は、通常karma(行為の対象)を示す接尾辞一yaが自動詞/bhūにつくのはおかしいとい
う反対主張に対する答論であるとされる。
(´・(ェ)・`)つ

556鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/08(木) 23:22:38 ID:AQuD3DP.0

 ダルマの考究とブラフマンの考究には果報と考究の対象に違いがあるのじゃ。
 ダルマの知識の果報は繁栄なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報は至福なのじゃ。

 考究の対象であるダルマは人間の努力によって実現するのじゃ。
 考究の対象であるブラフマンはすでに存在していて、人間の努力によらずともあるじゃ。

 反対なのじゃ。
 従属するものと主要なものという関係や、すでに資格のある者にとっての資格という関係が存在しなくても、同一の果報という限定があれば、順序は意図されていることになるというのじゃ。
 さらにダルマが考究の対象であるブラフマンの一部であれば、ダルマの考究とブラフマンの考究は、考究の対象が同一であることになるのじゃ。
 そこには順序もあるのじゃ。


 答えたのじゃ。
 シャンカラはダルマの考究とブラフマンの考究には、前記の通り果報と考究の対象に違いがあるからこれらの条件が両者とも存在しないというのじゃ。
 ダルマの考究とブラフマンの考究は果報も、考究の対象も違うのじゃ。
 ダルマは人が実践するものであるから、人が実践する前には存在しないのじゃ。
 ブラフマンは人が実践しなくとも、真実として常にあり続けるものであるから違うのじゃ。

557避難民のマジレスさん:2022/09/08(木) 23:35:51 ID:.s3PLAMs0
3.3.4.理由(4)ダルマの考究とブラフマン考究にはヴェーダの教 令の機能の仕方に違いがある  p302-303

  また、[ダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからである。というのは、教令(codana)は、ダルマの特徴であって317、[人に]それ自身の対象(祭式)を実行するように命じながら人に教えるが、一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだが らである。[後者の場合]、知識は教令から生ずることはないから、入は教令に よって]知識を得るように命じられているわけではない。たとえば、目と対象が接触すれば対象に関する知識が生ずるが、その場合と同じなのである。

  考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっている。だから[師シャンカラは、ヴェーダの]教令の機能[の仕方]に違いがあるからであると言っているのである。[ここで]教令とは、 ヴェーダの言葉のことを言っているのである。何故なら、[教令という]特殊によって [ヴェーダの言葉という]一般が間接的に表示されているからである318。[さらに]機能の違いを区別して、というのは、教令は、ダルマの云々と[言っているのである]。 人間の手になるものではないヴェーダの場合は、人間の意図によって異なる命令等の余地がないので、教令とは教えのことである。同じ趣旨で「それ(ダルマ)を知る手段 が教えである」319とも述べられている。そして、それ(教令)は、それ自身から生み だされる志向(bhāvanā)320、すなわち人間の活動、さらにはその(志向)の対象で ある供犠等を、[実行するよう人に命ずるのである]。実にそれ(供犠等)が志向の対象 なのである。何故なら、(1)志向すなわち[人問の]努力は、それ(供犠等)に基づいて決定されるからであり、(2)対象(visaya・くま注sな下に・)という語は、「siñ[(くま注sな下に・)という語根]は結びつけるという意味である」と[パー二二の規定にある]、この(siñという)語根から派生したものだからである321。[教令は、直接に]志向に基づいて、あるいは[間接的に]それ(志向)を通して322、供犠等が望んでいるもの(天界)[を得る]手段であることを[まず人に]理解させ、[次に]それ(供犠等)に対する欲求を起こさせること によって人に[供犠等を]実行するように命じながら、供犠等のダルマを教えるのである。それ以外のやり方によってではない。一方、ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみである。[人を活動に]向かわせながら教えるのではない。何故か。知識は活動と無縁であって、教令から生ずることはないからである。

脚注
317codanāは、「[人を]行為へと向かわせる言葉」と定義されている。一方、Bhāmatī は、「ヴェーダ の言葉」と解釈する。なお。codanāが、このようにヴェ-ダ全体を意味し得るという解釈は他にも見られる。
318 319
320「天界を望む者は供犠を行うべきである」等のヴェーダの文章を聞くと、人に供犠を行おうという意図が生じ、供犠を行う。通常の命令の場合は、人Aが人Bに その命令を行おうという意図を生じさせるのだが、ヴェーダの場合には、ヴェーダの 文章自体が人にそれを実行しようという意図をおこさせるのである。
321対象という語には語源的に結びつけるという意味があるから、志向は対象に対して結びつけられているのである。
322
(´・(ェ)・`)
(つづく)

558鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/10(土) 00:12:33 ID:TSoLXVsA0
 さらにダルマの考究とブラフマンの考究には、ヴェーダの教令の機能に違いがあるというのじゃ。
 教令はダルマの特徴であり人にそれ自身の対象である祭式を実行するように命じながら人に教えるのじゃ。
 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。

 考究の対象は、ただ単に本性上異なっているだけでなく、知識を生みだす認識根拠にも違いがあるので、異なっているのじゃ。
 教令とはヴェーダの言葉であり、神から授かった教えだというのじゃ。
 ダルマの教令は人間の活動と、志向の対象である供犠等を実行するよう人に命ずるものというのじゃ。
 供犠等が志向の対象なのじゃ。

 ブラフマンに関する教令は、ただ人に教えるのみだというのじゃ。
 人を活動に向かわせながら教えるのではないのじゃ。。
 知識は活動と無縁であり、教令から生ずることはないからだというのじゃ。

559避難民のマジレスさん:2022/09/10(土) 02:29:07 ID:hwrjf2p60
(つづき)  p303-304
   [反対主張]ウパニシャッドは、「アートマンは知られるべきである」323という儀軌
と同一の文脈を構成するから、その儀軌に従属しており(のためのものであり一para)、 [人を]知識へと向かわせる324。[そして]人は、それ(ウパニシャッド)によって、ブラフマンを知るのである。だから、ダルマに関する教令とブラフマンに関する教令は 同じなのである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、人は[教令によっ て)知識を得るように命じられているわけではないと言っているのである。その趣旨は以下の通りである。まず第一に、人はブラフマンの直証を実行するよう命じられるはずはない。何故なら、それ(ブラフマンの直証)は、ブラフマンを本性としているので、永遠であり、行為の結果ではないからである。また、〔ブラフマンの]念想を[実行するよう命じられるはず]もない。というのは、それ(ブラフマンの念想)は、知識 を優れたものとする原因であって、一致(anvaya)と矛盾(vyatireka)という方法によってすでに確立したものとして了解されているので325、教令によって命じられるものではないからである。さらに、聖典に基づく知識を得るように[命じられるはずも ない]。何故なら。人がヴェーダを学習し、話とその(語の)意味を知り、言葉の規則 に関する真理を理解していれば、それ(聖典に基づく知識)は、なんの障害もなく生じてくるからである。まさにこのことに関して例を[挙げて、師シャンカラは]たとえぱ目と対象が云々と述べ、[その例を]例によって示されているものと結びつけて、その場合と同じなのであると[言っているのである]。さらに、ウパニシャッドがアートマンの知識を命ずる儀軌に従属している(のためのもの)とすると、アートマンという真理は聖典に基づいて確知されないことになろう。というのは[その場合には]、それ(ウパニシャッド)は、そのアートマンという真理のためのものではなく、その(アー
トマンの)知識を命ずる儀軌のためのものであることになり、それ(ウパニシャッド) がそれ(アートマンの知識を命ずる儀軌)のためのものであれぱ、それ(アートマンの 知識を命ずる儀軌)がそれ(ウパニシャッド)の意味であることになるからである。ま た、「知識は知識の対象に基づき[知識の対象を]必要としているから、[知識]以外の ものを目的とするものからでも、知識の対象が確知される」326ということはない。何 故なら、それ(知識が知識の対象に基づき知識の対象を必要するということ)は、附託 によっても成り立つからである327。従って、ウパニシャッドは知識を命ずる儀軌に従属しない(のためのものではない)と確定した。

脚注
323
324この論議に関しては、BSBh I.1.4.の、ウパニシャッドは釈義であるという反対主張を参照のこと。
325「AはBである」という同一判断を示す文において、AとBという語に両立し得る意味を追求してゆくのが、一致の方法で