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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
899
:
避難民のマジレスさん
:2022/06/05(日) 20:14:58 ID:932BnNBU0
ラマナ・マハルシとの対話 349
シュリ・シャンカラの識別による救済への道
シュリ・ラマナ・マハルシによる注釈
(『ビジョン』の最新号には、シュリ・ラマナ・マハリシによるシュリ・シャンカラーチャーリャの『ヴィヴェーカ・チューダマニ』または『識別の宝冠』の翻訳に対して彼が書いた序文をS・クリシュナ氏、M.A.が翻訳した、以下の注釈が発表されている。)
この世に存在するすべての者は、悲しみの痕から解放されて常に幸せでありたいと願い、自分の真の本性ではない身体の病を取り除くことを望んでいます。
さらに、誰もが自分自身に対して最大の愛を抱いており、この愛は幸福がない場合には不可能です。
深い眠りの中では、すべてのものがないにもかかわらず、人は幸せであるという体験をします。
しかし、人は幸福そのものである自分自身の真の本性に無知であるために、幸福に至る正しい道を捨てて物質的存在の大海原で彷徨い、この世とあの世の快楽を得ることが幸福になる道であるという誤った信念の下に行動するのです。
安全な道しるべ
しかし、ああ!悲しみの痕のない幸福は実現されていません。
シヴァ神がシャンカラーチャーリャに姿を変えて、この至福の素晴らしさを讃える、ヴェーダーンタの三大聖典(プラスターナ・トラヤ)の解説書を書き、自らの人生の例によってそれを示したのは、まさに幸福へのまっすぐな道を指し示すためなのです。
しかし、これらの解説書は、赦免の至福を実現しようとするけれども、それらを研究する学識のない、熱心な求道者たちにはほとんど役に立ちません。
シュリ・シャンカラが、赦免を求める人々が把握しなければならない点を詳細に説明し、それによって彼らを真正でまっすぐな道へと導くよう、『識別の宝冠』というこの短い論説の中で、解説書の本質を明らかにしたのは、これらのためなのです。
学問は役に立たない
シュリ・シャンカラはこのテーマの冒頭で、人間の誕生を達成することは本当に難しいことであり、人は(それを達成したならば)真に自分の存在の本性である解脱の至福を実現するために努力しなければならない、と述べています。
この至福は、ジュニャーナあるいは知識によってのみ実現され、ジュニャーナは、ヴィチャーラあるいは着実な探究によってのみ達成されます。
この探究の方法を知るために、シュリ・シャンカラは、人はグルの恩恵を求めるべきだと言います。
それから彼は続けて、グルとそのシシュヤ(弟子)の資質、そして後者がどのように師に近づき、仕えるべきかを説明します。
彼はさらに、解脱の至福を実現するためには、自分自身の個人的な努力が不可欠な要素であることを強調します。
単なる書物の学習では、この至福は決して生じません。
それは、探究あるいはヴィチャーラを通してのみ実現され、シュラヴァナあるいはグルの戒律への献身的な注意、マナナあるいは深い黙想、ニディディアーサナあるいは真我への安定した姿勢の養成からなります。
3つの道
粗雑、微細、原因(コーザル)の3つの身体は、非真我であり、非実在です。
真我、または「私」は、それらとは全く異なるものです。
真我ではないものに、真我や「私」という見解を押し付けるのは無知のせいであり、これがまさに束縛です。
無知から束縛が生じるので、知識から解脱が生じます。
グルからこれを知ることが、シュラヴァナです。
5つの鞘(肉体、生気、精神、知性、歓喜)からなる3つの身体を「私」ではないとして拒絶し、その3つの身体すべてとは異なり、そしてアハムまたは「私」としてハートの中で唯一かつ普遍的に存在し、トヴァム(聖典の格言「タット・トヴァム・アシ」─汝それなり)という言葉で示されるもの、── ちょうど草の葉の葉柄が繊細に引き抜かれるように ── それを「私は誰か?」という微妙な問いかけを通して抽出すること、この微妙な探究の過程が、マナナあるいは深い黙想です。
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