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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

797避難民のマジレスさん:2022/04/24(日) 07:42:21 ID:qd1MKDrg0
ラマナ・マハルシとの対話 307

1936年12月27日

マイソールから来たシャマンナ氏がシュリ・バガヴァンに尋ねた。

質問者
 どうかアハム・スプラナ(「私-私」の光)について説明してください。

マハルシ
 「私」は眠っている時には知られません。
 目が覚めると、通常、「私」は肉体や世界、そして非真我と結び付いて知覚されます。
 そのように結び付けられた「私」がアハム・ヴリッティです。
 アハムが真我だけを表すとき、それはアハム・スプラナです。
 これはジュナーニにとって自然なもので、これそのものがジュナーニによってジュナーナと呼ばれ、バクタによってバクティと呼ばれているのです。
 それは睡眠中も含めて常に存在するにもかかわらず、知覚されません。
 それは睡眠中に一度に知ることはできません。
 それは、まず起きている状態で認識されなければなりません。
 なぜならそれは、3つの状態すべての根底にある私たちの真の本性だからです。
 努力はジャーグラト(目覚め)の状態でのみ行われ、真我は今ここで実現されなければなりません。
 それはその後、ジャーグラト、スワプナ、スシュプティに中断されない、連続した真我であると理解され、実現されるでしょう。
 このように、それはアハンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない経験)です。
 ヴリッティは、より良い表現がないために使われています。
 文字通りのヴリッティであると理解してはなりません。
 その場合、ヴリッティは「海のような川」と同様ですが、それは不合理です。
 ヴリッティは持続時間が短いものです。
 それは限定された、方向づけられた意識です。
 あるいは、想念や感覚などの認識によって分断された絶対的な意識です。
 ヴリッティは心の機能であるのに対し、継続的な意識は心を超越します。
 これが、ジュニャーニや解脱した存在の自然で原初の状態です。
 それは途切れることのない経験です。
 それは、相対的な意識が収まったときに、自分自身を顕わにします。
 アハム・ヴリッティ(「私」-想念)は途切れますが、アハム・スプラナ(「私-私」の光)は途切れることなく、継続します。
 想念が収まった後、その光は輝きを放つのです。


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