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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
272
:
避難民のマジレスさん
:2020/09/18(金) 19:04:09 ID:vvZ4Fpoo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 6
修練、順応、実践は、何ものかであるという自意識に、強調を与えるだけです。精神は無欲を実践します。ゆえにそれは、無欲であるというそれ自身の意識から、自由ではないのです。ゆえにそれは、ほんとうは無欲ではないのです。それはたんに無欲と呼ぶ新しいマントを採用した・選び取っただけです。私たちはこのすべての総合過程がわかります-動機づけ、目的への願望、様式への順応、様式を追求するなかで安全でありたいという願望-このすべては、いつも精神自身の自己閉鎖的な過程の制限の中で、たんに知られたものから知られたものへ動くことです。このすべてがわかること、それに気づくことが、智恵の始まりです。そして智恵は、美徳があるのではなく、また美徳がないのでもありません。それは、美徳や不徳として様式にはめ込むことはできません。智恵は自由をもたらします-それは放蕩ではなく、無秩序ではありません。この智恵なしには、美徳はありえません。美徳は自由を与えてくれます。そして自由において、真実が生じるのです。あなたは過程全体を、完全な形で・まるごと総合的にわかるなら、そのとき葛藤がないことを見つけるでしょう。私たちが様々な形の修練、否定、適応に頼る・訴えるのは、私たちが葛藤 [の状態]にあるから、その葛藤から逃避したいから、です。何が葛藤の過程であるかがわかるとき、修練の問題はないのです。なぜなら、そのとき私たちは、葛藤の仕方を瞬間瞬間理解するからです。それは、大いなる鋭敏さ、いつのときも自分自身を見守る・見つめることを、必要とします。それが好奇心をそそる・不思議な部分は、いったん意図があれば、あなたがいつのときも見守っているわけではないとしても、記録する過程が内側で続いているということです-敏感さ、内的な敏感さが、いつのときも写真を撮り、そのためあなたが静かになった瞬間、内的なものがその写真を投影するでしょう。
ゆえに、それは修練の問題ではありません。敏感さは、強制をとおしては、決して生じえません。あなたは子どもに何かをするように強制し、隅に追い込むかもしれません。そして子どもは静かになるかもしれません。しかし内側で、子どもはたぶん波立ち・沸き立ち、窓の外を見、逃げようと何かをしているのです。それは、私たちもやはりしていることです。それで修練 [の問題] と、誰が正しく、誰が間違っているのかという問題は、あなた自身によってだけ、解決されうるのです。
またあなたは、私たちは成功したいから、間違う・うまくいかないことを恐れていることも、わかります。恐れが、修練されたいという願望の底にあります。しかし、知られないものは、修練の網に捕らえられません。反対に、知られないものは、あなたの精神の様式 [を持つの]ではなく、自由を持つ・有するにちがいありません。そういうわけで、精神の平静さが本質的 [・不可欠]です。精神が平静であることを意識するとき、それはもはや平静ではありません。精神が無欲で [あること] 、貪欲から自由であることを意識するとき、それは無欲という新しいロ-ブ(礼服)を身につけたそれ自身を認識します。しかし、それは平静さではありません。そういうわけで、制御する人と制御されるものというこの疑問においても、また問題を理解しなければならないのです。それらは分離した現象ではなくて、共通の現象です。制御するものと制御されるものは一つです。
(´・(ェ)・`)つ
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