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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

1 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/

2 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 08:20:08 ID:wCRrWiVM0
訂正
前スレURL
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1560853465/

3 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/23(火) 22:58:44 ID:1d4drIFg0
世界には多くの政治的指導者や独裁者が現れては消えていったが、皆混乱を増すばかりだったのじゃ。
その者達自身が混乱していたからなのじゃ。
実際には欲しても居ない権力とか理想に取り付かれていたのじゃ。
そのような混乱から混乱を生み出して行ったのじゃ。

4 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 23:18:31 ID:yBquKmmc0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 2

 問題を理解したいと願う精神は、問題を完全に、全体的に理解しなければならないだけではなく、それにすばやく付いていくことができなければなりません。なぜなら、問題は決して静止していないからです。問題はいつも新しいのです-飢餓の問題でも、心理的な問題でも、どんな問題でも、です。どんな危機もいつも新しいのです。ゆえに、それを理解するには、精神はいつも新鮮で、明晰で、その追求においてすばやくなければなりません。私が思うには、私たちのほとんどは、内側の革命の緊急性を悟っているのです-それのみが外的なもの、社会の根本的変容をもたらしうるのです。これが、私自身と真剣に意図を持つ人たち皆が専心している問題です。どのようにして社会に基本的、根本的変容をもたらすのかが、私たちの問題です。この外的なものの変容は、内的革命なしには起こりえません。社会はいつも静止しているから、この内側の革命なしに成し遂げられるどんな行動、どんな改革も、等しく静止的になるのです。それで、この常なる内側の革命なしには、希望はないのです。なぜなら、それなしには、外的行動は反復的、習慣的になるからです。あなたと他の一人との間の、あなたと私との間の関係の行動 [・作用] が社会です。そして、この常なる内側の革命、創造的、心理的変容がないかぎり、その社会は静止的になります。それは命を与える性質がありません。そして社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないからです。
 あなた自身と、あなたのなかとまわりの悲惨、混乱との[間の]関係は何でしょうか。確かにこの混乱、この悲惨は、それ自体で生じたのではありません。あなたと私がそれを造り出したのです。資本主義の [社会] でも共産主義の [社会] でもファシストの社会でもなくて、あなたと私が、私たちの互いとの関係においてそれを造り出したのです。あなたが中で何であるかが、外に、世界に投影されてきたのです。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常の存在ですることが、外側に投影されるし、それが世界を構成するのです。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との [間] 、私自身と他の一人との [間の] 関係が社会であるからです-社会は、私たちの関係の産物です-私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制限されて、国家主義・民族主義的であるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

5 避難民のマジレスさん :2020/06/23(火) 23:20:46 ID:yBquKmmc0
くまめも1-3-2b

内側の革命のみが、社会の根本的変容をもたらしうる。社会がいつも静止し、凝結ししつつあり、ゆえに常に壊されなくてはならないのは、この常なる内側の革命がないから。
自身と、まわりの悲惨、混乱は、それ自体で生じたのではない。私たちの互いの関係においてそれを造り出した。あなたのあるがまま、あなたが考えること、感じること、あなたが日常することが、外側に投影されるし、それが世界を構成する。私たちが中で悲惨で混乱し混沌としているなら、投影によってそれが世界になる、それが社会になる。なぜなら、私自身と他の一人との 関係が社会であるから。私たちの関係が混乱し、自己中心的で、狭くて、制されるなら、私たちはそれを投影して世界の中に混沌をもたらす。
(´・(ェ)・`)

6 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/24(水) 23:33:16 ID:1d4drIFg0
世界とは自らの心が作り出すものであるから、自分の心が悲惨で混乱していれば世界もそう見えるのじゃ。
心から悲惨と混乱が取り除かれれば、世界からもそれはなくなるのじゃ。
世界の変化は自らの心の変化なしには達成できないのじゃ。
自らの心を全体として理解すればそれは達成されるのじゃ。

7 避難民のマジレスさん :2020/06/24(水) 23:47:20 ID:YYSZUkJs0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 3

 あなたのあるがままが世界なのです。それであなたの問題は世界の問題なのです。確かにこれは単純で基本的な事実なのではないでしょうか。一人との、または多数との私たちの関係において、私たちはどういうわけか、いつのときもこの点を見過ごしているように見えます。社会を造り出すのは [あなたと私であること] 、自分たちの生き方によって混乱か秩序をもたらすのは、あなたと私であるということを忘れて、私たちは体系をとおし、体系に基づいた観念や価値における革命をとおして、変更をもたらしたいのです。それで私たちは近くから始めなければなりません。すなわち、私たちの生計の立て方に [露呈し] 、観念や信念との関係に露呈している [ところの] 私たちの日常の生存に、日常の思考と感情と行動に、自ら関心を持たなければなりません。これが私たちの日常の生存なのではないでしょうか。私たちは生計の手段に、仕事を得ること、お金を稼ぐことに関心がある。私たちは自分たちの家族と、自分たちの隣人たちとの関係に関心がある。そして観念に、信念に関心がある、ということです。そこで、あなたが私たちの従事していること [・職務] を検討するなら、それは基本的に妬みに基づいています。それはただ生計を立てる手段のみではありません。社会は常なる葛藤・抗争 [の過程] 、常になろうとする過程であるように、構成されているのです。それは貪欲に、妬みに-あなたより上位の人への妬みに基づいているのです。事務員は経営者になりたいのです-それは、彼がただ生計を、生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を取得することに関心があるということを、示しています。この態度は当然、社会に、関係に荒廃を造り出します。しかし、もしもあなたと私がただ生計に関心があるだけであったなら、私たちは、それを得る正しい手段を、妬みに基づかない手段を、見出すでしょう。妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つです。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているからです。それは究極的に政治につながります。両者は密接に関係しています。事務員は経営者になろうと努めるとき、戦争を産み出す [ところの] 武力外交の創造の要因になるのです。それで彼は直接的に戦争に対応する [能力・] 責任があるのです。
 私たちの関係は何に基づいているでしょうか。あなた自身と私自身との [間] 、あなた自身と他の一人との [間の] 関係-すなわち社会は、何に基づいているのでしょうか。確かに、愛に [基づいているの] ではありません-私たちはそれについて話をするけれども。それは愛に基づいていません。なぜなら、もしも愛があったなら、あなたと私の間に秩序があるでしょう、平和が、幸せがあるでしょうから。しかし、あなたと私との [間の] その関係には、尊敬の形を装う多大の悪意があるのです。もしも私たちが共に思考において、感情において等しかったなら、尊敬はないでしょう。悪意はないでしょう。なぜなら、私たちは弟子と教師としてではなく、また妻を支配している夫としてではなく、また夫を支配している妻としてでもなく、出会っている二人の個人であるであろうからです。悪意があるとき、支配したいという欲望-すなわち嫉妬、怒り、激情を喚起するもの-があります。そのすべてが、常なる葛藤・抗争を-すなわち私たちがそれから逃避しようとするものを-私たちの関係に造り出します。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出すのです。
(´・(ェ)・`)つ

8 避難民のマジレスさん :2020/06/24(水) 23:51:59 ID:YYSZUkJs0
くまめも1-3-3
社会は常なる葛藤・抗争の過程、常になろうとする過程であるように、構成されている。それは貪欲に、より上位の人への妬みに基づいている。それは、ただ生活の手段を得ることだけではなくて、地位と威信を得ることに関心があることを示している。この態度は、社会に、関係に荒廃を造り出す。
妬みは、関係において最も破壊的な要因の一つ。なぜなら、妬みは力への、地位への欲望を表示しているから。
社会は、愛に基づいているのではない。なぜなら、もしも愛があるなら、秩序が、平和が、幸せがあるだろうから。
もしも私たちが共に思考、感情において等しかったなら、尊敬はない。悪意はない。なぜなら、私たちは支配関係ではなく、出会っている二人の個人であるであろうから。
そのすべてが、常なる葛藤・抗争を、私たちの関係に造り出す。これがさらなる混沌、さらなる悲惨を生み出す。
(´・(ェ)・`)

9 避難民のマジレスさん :2020/06/24(水) 23:56:08 ID:YYSZUkJs0
うむ。
くまの中の鬼和尚が、くまに語りかけ、
くまの中のケロヨンに、くまは語りかける。
で、ありますね。
(´・(ェ)・`)b

10 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/25(木) 22:58:38 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
社会の職務でさえ妬みに基づいているというのじゃ。
もっと金や地位のある者への妬みから金や地位をもっと欲しがるのじゃ。
その動機が妬みであるから社会には破壊の関係があるのみなのじゃ。
欲が更なる葛藤を生み混乱と悲惨があるばかりなのじゃ。

11 避難民のマジレスさん :2020/06/25(木) 23:32:31 ID:0sYTGrsQ0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 4

 そこで、私たちの日常の生存の一部分である諸観念、信念、定式化に関しては、それらは私たちの精神を歪めていないでしょうか。というのは、愚かさとは何でしょうか。愚かさは、精神が造り出すそれらのものごとに、または手が産み出すそれらのものごとに、間違った価値を与えることなのです。私たちの思考のほとんどは、自己保護的な本能から発生するのではないでしょうか。私たちの諸観念は、ああ、それらのあまりに多くが、間違った意義、それら自体にはないものを受け取らないでしょうか。ゆえに、私たちは宗教的でも経済的でも社会的でも、どんな形でも信じているとき、神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、確かに、間違った意義を信念に与えているのです-それは愚かさを表示しています。というのは、信念は人々を統合せず、分割するからです。それで私たちは、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、平和か抗争を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかるのです。
 それで私たちの問題は、静止している社会 [がありうるの] と同時に、この常なる革命が起きている個人がありうるのかどうか、ということなのではないでしょうか。すなわち、社会の革命は、個人の内的、心理的変化から始まらなければなりません。私たちのほとんどは、社会構造に根本的変化 が [起こるのを] 見たいのです。共産主義的な [手段] または他のどんな手段をとおしてでも社会的革命をもたらすこと-それが、世界で起きている戦いの全体です。そこで、社会的革命-すなわち人の外的構造に関する行動-があるなら、その社会的革命がたとえどんなに根本的であるとしても、個人の内側の革命がなく、心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的なのです。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須なのです。というのは、内側の心理的革命のない、たんなる外的なものの変容は、ほとんど意義がないからです。すなわち、社会はいつも凝結し静止的になりつつあるし、ゆえにいつも崩壊しつつあるのです。たとえ法制度がどんなに多く、どんなに賢明に公布されるとしても、社会はいつも衰退の過程にあるのです。なぜなら、革命はたんに外側にではなく、内側に起こらなければならないからです。
(´・(ェ)・`)つ

12 避難民のマジレスさん :2020/06/25(木) 23:34:11 ID:0sYTGrsQ0
くまめも1-3-4
観念、信念、定式化は私たちの精神を歪める。
愚かさとは精神または手が産み出ものごとに、間違った価値を与えること。
神、観念、人から人を分離する社会体制、国家・民族主義などを信じているとき、間違った意義を信念に与えている。それは愚かさを表示する。というのは、信念は人々を統合せず、分割するから。それで、自分たちの生き方によって、秩序か混沌を、幸せか悲惨を生み出せるということが、わかる。
心理的変容がないなら、まさにその本性が静止的。ゆえに、反復的でなく、また静止的でなく崩壊しない社会、常に生きている社会をもたらすには、個人の心理的構造に革命があるということが必須。
法制度がどんな多くても、社会はいつも凝結し静止的になりつつあり、いつも崩壊、衰退の過程にある。なぜなら、革命は外側にではなく、内側に起こらなければならないから。
(´・(ェ)・`)

13 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/26(金) 22:51:23 ID:1d4drIFg0
社会が変革しても個人の内側に変容が無ければ何の意義も無いというのじゃ。
 社会が幾ら変ったとしてもやはり権力闘争は続いてくのであるからのう。
イデオロギーの変化とか体制の変化と言っても実は何も変っていないのじゃ。
個人の心の変容だけが真の変化なのじゃ。

14 避難民のマジレスさん :2020/06/26(金) 23:15:12 ID:vUSG9j0E0
うむ。
Kは、個人の戦い方の見本を見せたのでありましょうか?oshoと同じでありますね。
(´・(ェ)・`)b

15 避難民のマジレスさん :2020/06/26(金) 23:16:52 ID:vUSG9j0E0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 5

 これを理解し、おろそかにしないことが重要であると、私は思います。外側の行動は成し遂げられたとき、終わっています、静止しています。個々人の間の関係、すなわち社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、ゆえに彼を等しく静止させ、反復的にするのです。これを悟ると、この事実のとてつもない意義を悟ると、同意や不同意の問題はありえません。社会はいつも凝結し、個人を吸収しつつあること、常なる創造的革命は、社会にではなく、外のものにではなく、個人にありうるだけだということは、事実です。すなわち創造的革命は、個人の関係-それが社会です-においてだけ起こりうるのです。私たちは、インド、ヨ-ロッパ、アメリカ、世界のあらゆる地域の現在の社会の構造が、いかに急速に崩壊しつつあるかが、わかります。そして私たちはそれを、自分たち自身の生の中で知っています。私たちは通りを進んでゆきながら、それを観察できるのです。私たちの社会がぼろぼろに崩れかけているという事実を、偉大な歴史家に教えてもらわなくていいのです。そして新しい社会を創造するには、新しい建築家、新しい築き手がなければなりません。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければなりません。そういう建築家はまだ存在していません。築き手は誰もいません。誰一人、観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させようとしていません。それが私たちの問題です。私たちは、社会がぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのが、わかります。そして建築家でなければならないのは、私たち、あなたと私なのです。あなたと私が価値を再発見して、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築かなければならないのです。なぜなら、私たちは職業的建築家、政治的、宗教的建設者に頼るなら、まさに前と同じ位置にいるであろうからです。
あなたと私が創造的でないから、私たちは社会をこの混沌に陥らせたのです。ですから、あなたと私が創造的でなければならないのです。なぜなら問題は切迫しているからです。あなたと私は、社会の崩壊の原因に気づいて、たんなる模倣にではなくて私たちの創造的理解に基づいた新しい構造を、創造しなければなりません。そこで、これは否定的考えという意味を含んでいるのではないでしょうか。否定的考えは、最高の形の理解です。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならないのです。なぜなら、問題-すなわちあなたと私が、社会の新しい構造を築くために、創造的でなければならないということ-への肯定的接近は、模倣的になるからです。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、私たちはそれを肯定的体系、肯定的定式、肯定的結論をもってではなく、否定的に究明し、検討しなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

16 避難民のマジレスさん :2020/06/26(金) 23:19:58 ID:vUSG9j0E0
くまめも1-3-5
社会が、内側の革命から出てきたものでないなら、そのとき社会構造は静止しているので、個人を吸収し、静止させ、反復的にする。新しい社会を創造するには、新しい築き手がなければならない。構造は、新しい基礎の上、新しく発見された事実と価値の上に築かれなければならない。
誰も観察して、構造が崩壊しかけているという事実に気づいて、自分たち自身を建築家に変容させ、もっと基礎的な、永続する基礎の上に築こうとしていないことが、問題。
否定的考えは、最高の形の理解。すなわち、何が創造的な考えなのかを理解するためには、私たちは問題に否定的に接近しなければならない。なぜなら、問題への肯定的接近は、模倣的になるから。ぼろぼろに崩れかけているものを理解するには、否定的に究明し、検討しなければならない。
(´・(ェ)・`)

17 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/27(土) 22:27:35 ID:1d4drIFg0
>>14 そうじゃろう。
 人がなすべきことは自らの心を変容させることだけなのじゃ。
 それは自らを観ることで成し遂げられるのじゃ。
 それだけが真の変容への道なのじゃ。

18 避難民のマジレスさん :2020/06/27(土) 22:45:06 ID:rPwgLfGQ0
最初と最後の自由  第一部
第三章 個人と社会 6

 なぜ社会は、確かにそのとおりなのですが、ぼろぼろに崩れ、崩壊しかけているのでしょうか。基本的理由の一つは、個人が、あなたが創造的であるのを止めたということです。どういう意味なのかを説明しましょう。あなたと私は模倣的になってしまいました。外側でも内側でも、私たちは真似をしています。外側で、技術を学んでいるとき、言葉のレベルで互いに疎通しあっているとき、当然何らかの模倣、真似がなければなりません。私は言葉を真似ます。技師になるには、私は初めに技術を学び、それからその技術を橋を建てるために使わなければなりません。外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければなりません。しかし内側の心理的模倣があるとき、確かに私たちは創造的であるのを止めるのです。私たちの教育、私たちの社会構造、私たちのいわゆる宗教生活は、すべて模倣に基づいているのです。すなわち私は特定の社会的または宗教的定式にはまりこむのです。私はほんとうの個人であるのを止めてしまったのです。心理的に私は、ヒンドウ-教徒のでもキリスト教徒のでも仏教徒のでもドイツ人のでもイギリス人のでも、一定の条件づけられた応答を持ったたんなる反復的機械になってしまったのです。私たちの応答は、東洋のでも西洋のでも、宗教的でも唯物的でも、社会の様式に応じて条件づけられているのです。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣です。そして崩壊する要因の一つは指導者です-その本質そのものが模倣です。
 崩壊する社会の本性を理解するためには、あなたと私が、個人が創造的でありうるかどうかを探究することが重要なのではないでしょうか。私たちは、模倣があるとき崩壊があるにちがいないということがわかります。権威があるとき真似があるにちがいありません。そして私たちの精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければなりません。創造性の瞬間、それらのむしろ生き生きした興味のある幸せな瞬間には、反復の感覚がない、真似の感覚がないということに、あなたは気づいたことはないでしょうか。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せなのです。それで私たちは、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかるのです。
(´・(ェ)・`)つ

19 避難民のマジレスさん :2020/06/27(土) 22:49:19 ID:rPwgLfGQ0
くまめも1-3-6b
社会が崩壊しかけている基本的理由の一つは、個人が創造的であるのを止めたこと。
外側の技術には、一定量の模倣、真似がなければならない。しかし内側の心理的模倣があるとき、私たちは創造的であるのを止める。特定の社会的または宗教的定式にはまりこむ。個人であるのを止めてしまう。心理的に一定の条件づけられた応答を持った、たんなる反復的機械になってしまった。応答は、社会の様式に応じて条件づけられている。それで社会の崩壊の基本的原因の一つは模倣。
精神的、心理的成り立ち全体が権威に基づいているから、創造的であるには、権威からの自由がなければならない。創造性の瞬間、幸せな瞬間には、反復、真似の感覚がない。そういう瞬間はいつも新しく、新鮮で、創造的で、幸せ。それで、社会の崩壊の基本的原因の一つは真似ること-すなわち権威の崇拝-であるということが、わかる。
(´・(ェ)・`)

20 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/28(日) 22:37:25 ID:1d4drIFg0
社会は常に崩壊しかけているのじゃ。
それも人々が記憶に依存して同じ行ないばかりしているからなのじゃ。
常に新しい現実に対応できていないのじゃ。
常に死んだように静止しているのが社会なのじゃ。

21 避難民のマジレスさん :2020/06/28(日) 22:54:48 ID:4lM1mz0I0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 1

 世界の問題はあまりに巨大で、あまりに複雑なので、それらを理解し、そして解決するには、とても単純で直接的な仕方で接近しなければなりません。そして単純さ、直接性は、外側の境遇にも、また私たちの特定の先入観と気分にも、依存しません。私が指摘していたように、解決は、会議、青写真をとおし、古い指導者の代わりに新しい者を用いることなどをとおして見つけられるべきものではありません。解決は明白に、問題の造り手 [にある] 、人間たちの間に存在している過ち、憎しみ、途方もない誤解の造り手に、あるのです。この過ちの造り手、これらの問題の造り手は、個人、あなたと私です-私たちがそれについて考えるような世界ではないのです。世界はあなたと他の一人との関係です。世界は、何かあなたと私から分離したものではありません。世界、社会は、私たちが互いの間に確立する [関係] 、または確立しようと求める関係です。
 それであなたと私が問題なのです-世界が、ではありません。なぜなら、世界は私たち自身の投影ですし、世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならないからです。世界は私たちから分離していません。私たちが世界ですし、私たちの問題は世界の問題です。これはいくらひんぱんに反復しても、しすぎることはありません。なぜなら、私たちの精神性があまりに無精であるために、世界の問題は私たちの [関わるべき]事柄ではない、それらは国連により [解決され] 、または古い指導者の代わりに新しい者を用いることにより、解決されなければならないと考えるからです。そのように考えるのはとても鈍い精神性です。なぜなら、私たちは世界のこの恐ろしい悲惨と混乱、この常に差し迫った戦争に応じる [能力・] 責任があるからです。世界を変容させるには、私たちは私たち自身から始めなければなりません。そして私たち自身から始めるにあたって重要であることは、意図です。 [その] 意図は、私たち自身を理解することでなければなりません。他の人たちに彼ら自身を変容するのを [任せること] や、また左翼や右翼の革命をとおして修正された変化をもたらすのを任せておくことではありません。これが私たちの、あなたと私の責任 [・能力] であるということを、理解することが重要です。なぜなら、私たちの生きている世界がたとえどんなに小さくても、私たちが自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく私たちは広く世界に、他の人たちとの拡大した関係に、影響を及ぼすでしょうから。
(´・(ェ)・`)つ

22 避難民のマジレスさん :2020/06/28(日) 22:55:35 ID:4lM1mz0I0
くまめも1-4-1
世界の問題は巨大で、複雑。それらを理解、解決するには、単純で直接的な仕方で接近しなければらない。単純さ、直接性は、外側の境遇にも、特定の先入観と気分にも依存しない。
解決方法は、問題の造り手にある。
世界は、私たちが確立しようと求める関係。世界は私たち自身の投影。世界を理解するには、私たち自身を理解しなければならない。
世界を変容させるには、私たち自身から始めなければならない。そして自身から始めるにあたって重要であることは、意図。その意図は、自身を理解すること。これがあなたと私の責任 ・能力であるということを、理解することが重要。なぜなら、私たちの生きている世界がどんなに小さくても、自分たち自身を変容させ、日常生活に根本的に違った視点をもたらせるなら、そのときおそらく広く世界に、影響を及ぼすから。
(´・(ェ)・`)

23 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/29(月) 22:42:26 ID:1d4drIFg0
目覚めた者だけが他人に影響を及ぼせるというのじゃ。
目覚めていない者が革命を起こしてもやはり今まで通りの世界なのじゃ。
目覚めれば世界は自らの心が創ったとわかるのじゃ。
そして他人をも目覚めさせてその世界を変えることが出来るのじゃ。
それだけが真の世界を変える方法なのじゃ。

24 避難民のマジレスさん :2020/06/29(月) 23:11:42 ID:uc5m2TlI0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 2

 私が言いましたように、私たちは自分たち自身を理解する過程-それは孤立する過程ではありません-を見出そうとしています。それは世界 [・世間] から退くことではありません。なぜなら、あなたは孤立 [の状態]では生きられないからです。有る [・生きる] ことは関係することですし、孤立 [の状態]で生きているようなものはありません。葛藤・抗争、悲惨、闘争をもたらすのは、正しい関係の欠如です。私たちの世界がどんなに小さくても、私たちがその狭い世界で関係を変容させられるなら、それは、いつのときも外側に広大する波のようになるでしょう。その点が-どんなに狭くても、世界は私たちの関係であるということが、わかることが重要であると、私は思います。そして私たちはそこに変容を-表面的ではなくて根本的変容をもたらせるなら、そのとき活動的に世界を変容させはじめるでしょう。ほんとうの革命は、左翼のでも右翼のでもどんな特定の様式にも応じたものではありません。それは価値の革命-感覚的な価値から感覚的でない[価値] 、または環境的影響によって造り出されない価値への革命です。根本的革命、変容、革新をもたらすであろうこれら真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが本質的 [・不可欠] です 。自己認識は英知の始まりです。ゆえに変容や革新の始まりです。自分自身を理解するには、理解しようとする意図がなければなりません-それが、私たちの困難が入ってくるところです。私たちのほとんどは不満です。私たちは突然の変化をもたらしたいと願望するけれども、私たちの不満はたんに一定の結果を達成することに注がれるのです。私たちは不満であると、違った職を求めたり、たんに環境に屈服したりするのです。不満は私たちを燃え立たせ、生を [問わせ] 、存在の過程全体を問わせる原因になる代わりに、 [ 一定の結果を達成することに] 注がれます。よって私たちは平凡になり、存在の意義全体を見出そうとするあの衝動、あの強烈さを失っていくのです。ゆえに、自分たち自身でこれらのものごとを発見することが重要です。なぜなら、自己認識は他の一人によって与えてもらえないからです。それはどんな書物をとおしても見つけられるべきものではありません。私たちは発見しなければなりません。そして発見するには、意図、探求、探究がなければなりません。見出そう、深く探究しようとするその意図が弱かったり、存在していないかぎり、自分自身について見出したいというたんなる主張や思いつきの願いは、ほとんど意義がありません。
 こうして世界の変容は、自分自身の変容によってもたらされるのです。なぜなら、自己は人間存在の総合過程の産物、一部分であるからです。自己を変容させるには、自己認識が本質的 [・不可欠] です。あなたが何であるかを知ることなしに、正しい思考のための基礎はありません。あなた自身を知ることなしに、変容はありえません。自分自身をあるがままに知らなければなりません。ありたいと願うように-すなわち、たんに理想であり、ゆえに架空であり非真実であるところのもの-ではありません。変容させられるのは、あるがままだけです-あなたがありたいと願うものではありません。自分自身をあるがままに知ることは、とてつもない精神の鋭敏さを必要とします。なぜなら、あるがままは常に変容、変化を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、どんな特定の行動の様式にも繋がれていてはならないからです。あなたは何かに付いていこうとするなら、繋がれていてはだめなのです。あなた自身を知るには、 [そこに] すべての信念から、すべての理想化からの自由がある [ところの] 気づきが、精神の鋭敏さが、なくてはなりません。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるからです。あなたは自分が何であるかを知りたいなら、何か自分がそうでないものを想像したり信じていたりできません。私は欲張りで、妬んでいて、暴力的であるなら、たんに非暴力の、無欲の理想を持つだけでは、ほとんど価値がありません。しかし、自分が欲張りまたは暴力的であることを知るには、それを知って理解するには、とてつもない知覚を必要とするのではないでしょうか。それは思考の正直さ、明晰さを要求します。ところが、あるがままから離れて理想を追求することは逃避です。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げるのです。
(´・(ェ)・`)つ

25 避難民のマジレスさん :2020/06/29(月) 23:26:21 ID:uc5m2TlI0
くまめも1-4-2
自身を理解する過程を見出そうとすることは、世間から退くことではない。有る・生きることは関係すること。葛藤・抗争、悲惨、をもたらすのは、正しい関係の欠如。
ほんとうの革命は、感覚的な価値から感覚的でない価値、環境的影響によって造り出されない価値への革命。真の価値を見つけるには、自分自身を理解することが不可欠。自己認識は英知、変容や革新の始まり。
理解するには、理解しようとする意図がなければならない。それが困難。
私たちは、突然の変化をもたらしたいと願望するが、不満は、一定の結果を達成することに注がれる。よって存在の意義全体を見出そうとする衝動を失っていく。
自分自身をあるがままに知らなければならない。ありたいと願うようにではない。変容させられるのは、あるがままだけ。あるがままは常に変容を受けているし、それにすばやく付いて行くには、精神はどんな特定の教義や信念、行動の様式、理想化からの自由があるところの気づきが、精神の鋭敏さが、必須。なぜなら、信念と理想はただあなたに色を付けて真の知覚を倒錯させるから。
あるがままの自分を知って理解するには、とてつもない知覚を必要。それは思考の正直さ、明晰さを要求する。あるがままから離れて理想を追求することは逃避。それは、あなたが何であるかを発見して、それに対して直接的に作用するのを妨げる。
(´・(ェ)・`)

26 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/06/30(火) 22:07:20 ID:1d4drIFg0
悟りの修行は世間を捨てて世捨て人になることではないのじゃ。
むしろその修行だけが世間の人を救うことができるのじゃ。
全ての社会的な革命が成し遂げられなかったことなのじゃ。
世界が変るのは自分が変わった時だけなのじゃ。

27 避難民のマジレスさん :2020/07/01(水) 00:01:01 ID:NWYNc3.c0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 3

あなたが何であるか [について] の理解は、たとえそれが何であろうと-醜かろうと美しかろうと、意地が悪かろうと邪(よこしま)であろうと-あなたが何であるか [について] の歪みのない理解が、美徳の始まりです。美徳は本質的 [・不可欠] です。というのは、それが自由を与えてくれるからです。あなたが発見できるのは、あなたが生きられるのは、美徳においてだけです。美徳の育成においてではありません-それはたんに体裁 [をもたらす] だけで、理解と自由をもたらしません。美徳があることと美徳を得ることとの間には違いがあります。美徳があることは、あるがまま [について] の理解をとおして訪れます。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すことです。ゆえに美徳を得るなかで、あなたはあるがままに対して直接的に作用することを避けているのです。理想の育成をとおしてあるがままを避けるこの過程が、美徳があると考えられているのです。しかしあなたはそれをきっちりと直接的に見つめるなら、それはそのようなものではないことがわかるでしょう。それはたんに、あるがままと面と向き合うことの延期にすぎません。美徳はあるがままでないものになることではありません。美徳はあるがまま [について] の理解ですし、ゆえにあるがままからの自由です。美徳は、急速に崩壊しかけている社会において本質的 [・不可欠] です。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければなりません。そして自由であるには、美徳がなければなりません。というのは、美徳なしには自由はないからです。美徳を得ようと奮闘している不道徳な人が、そもそも美徳を知ることができるでしょうか。道徳的でない人は決して自由でありえません。ゆえに真実が何なのかを決して見出せません。真実は、あるがままを理解することにおいてだけ、見つけられるのです。そしてあるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければなりません。
 その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければなりません。そしてあるがままを理解することは極めて難しいのです。なぜなら、あるがままは決して止まっていない、静止していないからです。それはいつも動き [の状態] にあるのです。あるがままはあなたのあるがままです-あなたがありたいと思うものではありません。それは理想ではありません。なぜなら、理想は架空であるからです。それは現実に、瞬間瞬間、あなたがして、考え、感じていることです。あるがままが現実ですし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とします。しかし私たちはあるがままを非難しはじめるなら、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しないでしょう。私は誰かを理解したいなら、彼を非難できません。私は彼を観察し研究しなければなりません。私は自分が研究しているものそのものを愛さなければなりません。あなたは子どもを理解したいなら、その子を愛さなければなりません-非難してはなりません。あなたは彼と [一緒に] 遊び、彼の動き、彼の性向、彼の振るまい方を見守らなければなりません。しかし、あなたがたんにその子を非難し、抵抗し、咎めたりするだけなら、子ども [について] の了解はありません。同様に、あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければなりません。それが現実です。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではありません。それはたんにあるがままとは他の何かでありたいという願い、架空の願望にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ

28 避難民のマジレスさん :2020/07/01(水) 00:01:48 ID:NWYNc3.c0
くまめも1-4-3
あなたが何であるかの歪みのない理解が、美徳の始まり。美徳があることと美徳を得る(育成する)ことには違いがある。美徳があることは、あるがままについての理解をとおして訪れる。ところが美徳を得ることは、延期すること-あるがままをあなたがありたいと思うものでもって覆い隠すこと。美徳はあるがままについての理解だし、ゆえにあるがままからの自由。古いものから離れて新しい世界、新しい構造を創造するためには、発見するための自由がなければならない。そして自由であるには、美徳がなければならない。道徳的でない人は決して自由でありえない。ゆえに真実が何なのかを決して見出せない。あるがままを理解するには、自由が、あるがままへの恐れからの自由が、なければならない。
 その過程を理解するには、あるがままを知ろう、あらゆる思考、感情、行動に付いていこうとする意図がなければならない。そしてあるがままを理解することは極めて難しい。なぜなら、あるがままは決して静止していないから。あるがままは理想ではない。なぜなら、理想は架空であるから。あるがままが現実だし、現実を理解するには、気づきを、とても鋭敏なすばやい精神を必要とする。しかし私たちはあるがままを非難しはじめ、咎めたり抵抗したりしはじめるなら、そのときその動きを理解しない。あるがままを理解するには、瞬間瞬間、自分が何を考え、感じ、するのかを観察しなければならない。他のどんな行動も、どんな理想やイデオロギ-的行動も、現実ではない。それはたんに何かでありたいという願い、架空の願望にすぎない。
(´・(ェ)・`)

29 避難民のマジレスさん :2020/07/01(水) 15:04:31 ID:b/R.LjPg0
宗教板で似非覚者相手に無双するの飽きてきた。

誰か弄りがいのある自称覚者を連れて来てくんない?

30 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/01(水) 23:16:10 ID:1d4drIFg0
自分が何であるのか理解することが美徳というのじゃ。
それが自由をもたらしてくれるからなのじゃ。
自分を理解することは今ここでしか行えないから難しいのじゃ。
刹那毎に変っていく心の働きを見なければならんのじゃ。

31 避難民のマジレスさん :2020/07/01(水) 23:50:05 ID:9LpStdNw0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 4

 あるがままを理解するには、 [そこに] 同一化や非難のない精神の状態を、必要とします-それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味です。私たちはほんとうに何かを理解したいと願望するとき、その状態にあります。興味の強烈さがあるとき、その精神の状態が生じます。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていいのです。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがあるのです。この気づきの状態は、興味が [あるとき] 、理解しようとする意図があるとき、来るのです。
 自分自身の基本的理解は、知識をとおし、経験の蓄積をとおして来ません-それはたんに記憶の育成にすぎません。自分自身の理解は瞬間瞬間です。私たちがたんに自己 [について] の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げるのです。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるからです。世界は私たちと私たちの活動と異なっていません。なぜなら、世界の問題を造り出すのは、あるがままの私たちであるからです。私たちの大多数にとっての困難は、私たちが自分たち自身を直接的に知らなくて、多くの人間の諸問題を解決するため体系 [体制]、方法、作業の手段を求めることなのです。
 では自分自身を知る手段、体系はあるのでしょうか。どんな利口な人も、どんな哲学者も、体系、方法を考案できます。しかし確かに、体系に付いていくことはたんに、その体系によって造り出された結果を産み出すだけなのではないでしょうか。私は自分自身を知る特定の方法に付いて行くなら、そのときその体系に必然的に伴う結果を得るでしょう。しかし結果は明白に私自身 [について] の理解ではないでしょう。すなわち、それをとおして私自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、私は自分の考え、活動を、様式に応じて形作るのです。しかし様式に付いていくことは自分自身 [について] の理解ではありません。
 ゆえに自己認識のための方法はないのです。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいます-それが私たちが皆ほしいものです。私たちは権威に付いていきます-人物のものでないなら、体系の、イデオロギ-の[権威]にです。なぜなら私たちは結果 [がほしい] -満足できるであろう、私たちに安全を与えてくれるであろうもの-が、ほしいからです。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくないのです。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したいのです。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への [願望] 、確実性への願望から出てきたものです。そして結果は明白に、自分自身 [について] の理解ではありません。私たちは方法に付いていくとき、私たちが願望するものを保証してくれる権威-教師、導師(グル)、救い主、大師-を持つにちがいありません。そして確かにそれは自己認識への道ではありません。
 権威は自分自身 [について] の理解を妨げるのではないでしょうか。権威、指導者の庇護のもとで、あなたは一時的に安全の感覚、幸福の感覚を持つかもしれません。しかしそれは自分自身の総合過程 [について] の理解ではありません。権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げます。ゆえに究極的に自由を破壊します。自由においてのみ、創造性がありうるのです。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうるのです。私たちのほとんどは創造的ではありません。私たちは反復的機械 [です] 、私たち自身のでも他の一人のでも一定の経験の歌、一定の結論と記憶を何度も繰り返し演奏しているたんなる蓄音機レコ-ドです。そういう反復は創造的な存在ではありません-しかしそれが、私たちのほしいものです。私たちは内側で安全でありたいから、常にこの安全のための方法と手段を求めているのです。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を [破壊し] 、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊するのです。
(´・(ェ)・`)つ

32 避難民のマジレスさん :2020/07/01(水) 23:56:42 ID:9LpStdNw0
くまめも1-4-4
あるがままを理解するには、そこに同一化や非難のない精神の状態が必要。それは鋭敏でありながら受動的である精神という意味。あるがままを、現実の精神の状態を理解することに興味があるとき、それを強いたり修練したり制御したりしなくていい。反対に、受動的な鋭敏さ、見守りがある。
 自己の知識を蓄積するだけなら、その知識こそがさらなる理解を妨げる。なぜなら、蓄積された知識と経験は、それをとおして思考が集中しその存在を持つ中心になるから。困難は、自分たち自身を直接的に知らなくて、人間の諸問題を解決するため体系、体制、方法、作業の手段を求めること。
自分自身を知るための方法、体系、手段に付いていくことにより、自分の考え、活動を、様式に応じて形作る。しかし様式に付いていくことは自分自身の理解ではない。ゆえに自己認識のための方法はない。方法を求めることは、まちがいなく、何かの結果に到達したいという欲望を含んでいる。私たちはほんとうは自分たち自身を、自分たちの衝動と反応を、考える過程全体を、無意識とともに意識を、理解したくない。私たちはむしろ、結果を保証してくれる体系を、追求したい。しかし体系の追求はまちがいなく、安全への願望、確実性への願望から出てきたもの。そして結果は明白に自己認識への道ではない。
権威はまさにその本性において自分自身への充分な気づきを妨げる。ゆえに究極的に自由を破壊する。自由においてのみ、創造性がありうる。自己認識をとおしてだけ、創造性はありうる。私たちは内側で安全でありたいから、常に安全のための方法と手段を求めている。それによって権威を、他の一人の崇拝を造り出し、それが了解を破壊し、それにおいてのみ創造性の状態がありうるあの自発的な精神の平静を破壊する。
(´・(ェ)・`)

33 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/02(木) 22:47:12 ID:1d4drIFg0
あるがままの観察は意志があれば難しいのじゃ。
どうしても自分の見たものごとを解釈しようとしたりするからのう。
見たものごとをありのままに認める受動的な鋭敏さが必要というのじゃ。
それにはどんな方法もありえないのじゃ。
方法があれば意志がそれを実践しようとするからなのじゃ。
ただひたすら見たものを受け容れる心構えが必要なのじゃ。

34 避難民のマジレスさん :2020/07/02(木) 23:55:25 ID:ZJ9fzkcg0
最初と最後の自由  第一部
第四章 自己認識 5

 確かに私たちの困難は、私たちのほとんどがこの創造性の感覚を失ってしまったということです。創造的であることは、私たちが絵を書いたり詩を書いたりして有名にならなければならない、という意味ではありません。それは創造性ではありません-それはたんに観念を表現する能力にすぎません-それを公衆は喝采したり無視したりするのです。能力と創造性は混同すべきではありません。能力は創造性ではありません。創造性は全く違った存在の状態なのではないでしょうか。それは、 [そこに] 自己が不在である状態、 [そこでは] 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、欲望の焦点ではない状態です。創造性は連続的な状態ではありません。それは瞬間瞬間、新しいのです。それは、[そこに] 「私」、「私の」がなく、思考がどんな特定の経験、野心、達成、目的、動機にも集中していない動きです。創造性-そこにのみ真実がありうるあの存在の状態 、すべてのものごとの創造者-があるのは、自己がないときだけです。しかしその状態は構想したり想像したりできません。それは定式化したりまねたりできません。それはどんな体系をとおしても、どんな哲学をとおしても、どんな修練をとおしても到達できません。反対に、それは、自分自身の総合過程を理解することをとおしてだけ、生じるのです。
 自分自身 [について] の理解は結果、頂上ではありません。それは関係-財産、ものごと、人々、観念と自分の関係-の鏡において、瞬間瞬間、自分自身が見えることです。しかし私たちは、鋭敏であること、気づくことは難しいことがわかります。そして方法に付いていくことにより、 [諸々の] 権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好みます。それで私たちの精神は疲れきり、疲労困憊し、無感覚になるのです。そういう精神は創造性の状態にありえません。その創造性の状態は、自己-すなわち認識と蓄積の過程であるもの-が無くなるときだけ来るのです。なぜなら、結局、「私」という意識は認識の中心ですし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるからです。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れています。なぜなら私たちは皆、何ものかでありたいからです。小さい人は大きい人でありたい、不徳な者は徳を持ちたい、弱くて目立たない者は力、地位、権威を渇望します。これが精神の絶えざる活動です。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できません。
 私たちのまわりの世界-悲惨、戦争、失業、飢餓、階級分裂、全くの混乱をともなうもの-を変容させるためには、私たち自身に変容がなければなりません。革命は、どんな信念やイデオロギ-に応じてでもなく、私たち自身の中で始まらなければなりません。なぜなら、観念に基づいたり、特定の様式への順応における革命は、そもそも明白に革命ではないからです。自分自身に基本的革命をもたらすには、関係において自分の思考と感情の過程全体を理解しなければなりません。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決です-もっと多くの修練、もっと多くの信念、もっと多くのイデオロギ-、もっと多くの教師たちを持つことではないのです。私たちは蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、私たち自身をあるがままに理解できるなら、そのときどのように、精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れるかということが、わかるでしょう。そしてその平静の状態においてだけ、創造性がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

35 避難民のマジレスさん :2020/07/02(木) 23:58:56 ID:ZJ9fzkcg0
くまめも1-4-5
創造性は全く違った存在の状態。それは、自己が不在である状態、 精神がもはや私たちの経験、野心、追求、達成、目的、動機、欲望の焦点ではない状態。創造性は連続的な状態ではない。それは瞬間瞬間、新しい。それは、そこに「私」、「私の」がない動き。
創造性があるのは、自己がないとき。
それは、自分自身の総合過程の理解をとおしてだけ、生じる。
自分自身の理解は結果、頂上ではない。それは財産、ものごと、人々、観念と自分の関係の鏡において、瞬間瞬間自分自身が見えること。
鋭敏であること、気づくことは難しいので、権威、迷信、満足のいく理論を受け入れることにより、自分たちの精神を鈍らせるほうを好む。創造性の状態は、自己が無くなるときだけ来る。なぜなら、「私」という意識は認識の中心だし、認識はたんに経験の蓄積の過程であるから。しかし私たちは皆、何ものでもないことを恐れてる。何ものかでありたい。そういう精神は静かでありえないし、ゆえに創造性の状態を決して理解できない。
 私たちのまわりの世界を変容させるためには、私たち自身に変容が必要。そのためには、自分の思考と感情の過程全体を理解しなければならない。それが私たちの問題すべてにとって唯一の解決。
蓄積の過程を経ずに、瞬間瞬間、自身をあるがままに理解できるなら、そのとき精神の産物ではない平静、想像されたのでも育成されたのでもない平静が訪れる。その平静の状態においてだけ、創造性がありうる。
(´・(ェ)・`)

36 避難民のマジレスさん :2020/07/03(金) 21:45:21 ID:jevFIdqw0
一休さん講読会、↓引越しであります。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
(´・(ェ)・`)b

37 避難民のマジレスさん :2020/07/03(金) 21:46:08 ID:jevFIdqw0
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 1
 私は行動 [・作用] の問題を議論したいように思います。これは、初めはむしろ難解で難しいかもしれませんが、それをよく考えることにより、私たちは明確に論点を見ることができるだろうと、私は願っています。なぜなら私たちの存在全体、私たちの生全体が行動の過程であるからです。
 私たちのほとんどは、一連の行動 [のなか]、 見たところ無関係でつながりのない行動のなかで生きています- [それらは] 崩壊、挫折につながっているのです。それは私たち各自に関係する問題です。なぜなら、私たちは行動によって生きていて、行動なしには生はなく、経験はなく、考える [という] ことはないからです。思考は [作用・] 行動です。そしてたんに一つの特定の意識の水準-すなわち外のもの-における [作用・] 行動を追求すること、行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導くでしょう。
 私たちの生は、一連の [作用・] 行動、または意識の異なった水準での [作用・] 行動の過程です。意識は、経験すること、名づけること、記録することです。すなわち意識は挑戦と応答-すなわち経験-です。それから用語や名づけ、それから記録-すなわち記憶-です。この過程が行動なのではないでしょうか。意識は [作用・] 行動です。そして挑戦、応答なしに、経験、名づけや用語なしに、記録、すなわち記憶なしには、行動はありません。
 さて、 [作用・] 行動は [作用者・] 行動者を造り出します。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じるのです。行動において結果がないなら、そのとき行動者はありません。しかし [終わりの] 目的や結果が視野にあるなら、そのとき行動は行動者をもたらします。こうして行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程です-それは、行動が目的を視野に持つとき、生じるのです。結果に向かう行動は意志です。そうでないと意志はないのではないでしょうか。目的を達成したいという欲望が意志をもたらします-それが行動者です-私は達成したい、私は本を書きたい、私は金持ちになりたい、私は絵を描きたい、と。
 私たちはこれら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいます。それは私たちの日常的存在です。私はただあるがままを説明しているだけです。しかし私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめるでしょう。そこで経験を構成するこれら三つの状態-行動者、行動、結果-は、確かに、なっていく過程です。そうでないと、なりゆくことはないのではないでしょうか。行動者がないなら、目的に向かう行動がないなら、なりゆく [という] ことはありません。しかし、私たちが知っているような生、私たちの日常の生は、なりゆく過程です。私は貧しいので、目的-すなわち豊かになること-を視野に入れて行動します。私は醜いので、美しくなりたいのです。ゆえに私の生は何かになる過程なのです。あろうとする意志は、意識の異なった水準で、異なった状態でなろうとする意志です-そこには挑戦、応答、名づけ、記録があります。では、このなることは闘争であり、このなることは苦痛であるのではないでしょうか。それは常なる格闘です-私はこれである、私はあれになりたい、と。
 ゆえにそのとき問題はこうです-このなりゆくことのない行動はあるのでしょうか。この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのでしょうか。目的がなければ、行動者はありません。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すからです。しかし目的を視野に持たない [行動] 、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのでしょうか。そういう行動はなりゆくことではありません。ゆえに闘争ではありません。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態があるのです。これはかなり哲学的に聞こえますが、ほんとうは全く単純です。
(´・(ェ)・`)つ

38 避難民のマジレスさん :2020/07/03(金) 21:59:41 ID:jevFIdqw0
くまめも1-5-1
私たちの存在全体、生全体が行動の過程。
行動自体の過程全体を理解せずに、たんに外側の行動に捕らわれることは、必然的に私たちを挫折に、悲惨に導く。
意識は、作用・行動。挑戦、応答、経験、名づけや用語、記憶なしには、行動はない。
作用・行動は作用者・行動者を造り出す。すなわち行動が結果、目的を視野に持つとき、行動者が生じる。行動において結果がないなら、そのとき行動者はない。行動者、行動、目的や結果は、統一された過程、単一の過程。結果に向かう行動は意志。目的を達成したいという欲望が意志をもたらす。
これら三つの状態-行動者、行動、目的-に慣れ親しんでいる。私たちはあるがままを明確に検討し、そのためそれに関して幻影や先入観がなく、偏見がないときだけ、それをどのように変容させるべきかを、理解しはじめる。あろうとする意志は、異なった状態でなろうとする意志。なることは闘争であり、苦痛。
ゆえにそのとき問題は、この苦痛のない、この常なる戦いのない行動はあるのか。目的がなければ、行動者はない。なぜなら、目的を視野に持つ行動が行動者を造り出すから。目的を視野に持たない、ゆえに行動者のない-すなわち結果への欲望を持たない行動はありうるのか。そういう行動は闘争ではない。経験者と経験のない行動の状態、経験の状態がある。これはかなり哲学的に聞こえるが、ほんとうは全く単純。
(´・(ェ)・`)

39 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/04(土) 00:21:54 ID:1d4drIFg0
認識は経験の蓄積というのじゃ。
それは記憶に基づいているからなのじゃ。
唯識論と同じなのじゃ。
それをあるがままに理解するのじゃ。

40 避難民のマジレスさん :2020/07/04(土) 00:24:37 ID:b/R.LjPg0
.
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

41 避難民のマジレスさん :2020/07/04(土) 20:19:21 ID:X/mJjzWc0
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 2

 経験の瞬間に、あなたは経験から離れた経験者としての自分自身に気づいていません。あなたは経験の状態にあるのです。とても単純な例を取りましょう。あなたは怒っています。その怒りの瞬間には、経験者も経験もないのです。ただ経験だけがあるのです。しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持ったもの-が、あるのです。私たちは繰り返しこの状態に、経験の状態にあるのです。しかし私たちはいつもそれから出てきて、それに用語を与え、名づけ、記録し、よってなりゆくことに連続性を与えているのです。
 私たちは言葉の基本的な意味において [作用・] 行動を理解できるなら、そのときその基本的理解が、私たちの表面的な [諸] 活動にも影響するでしょう。しかし私たちは初めに、行動の基本的本性を理解しなければなりません。そこで行動は観念によりもたらされるのでしょうか。あなたは初めに観念を持って、その後で行動するのでしょうか。それとも行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、あなたはそのまわりに観念を築くのでしょうか。行動が行動者を造り出すのか、それとも行動者が初めに来るのでしょうか。
 どちらが初めに来るのかを発見することは、とても重要です。観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけです。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制です。これを悟ることはとても重要です。なぜなら、私たちの社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、わたしたちのすべてにとって観念が初めに来て行動は [後に] 付いてくるからです。行動はそのとき観念の小間使いです。たんなる観念の構築は、明白に行動にとって有害です。観念はさらなる観念を産み育てるし、たんに観念を産み育てることがあるとき、敵対があるし、社会は、観念作用の知的過程でもって頭でっかちになるのです。私たちの社会構造はとても知的です。私たちは、私たちの存在のあらゆる他の要因を犠牲にして、知能を育成しているのです。ゆえに私たちは観念で窒息しているのです。
 観念ははたして行動を生み出すのでしょうか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけでしょうか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できません。私たちがこの点を理解することがとてつもなく重要です。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせません。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないからです。社会主義者のでも資本主義者のでも共産主義者のでも色々な宗教のでも、観念作用の [究明] 、観念の築き上げの究明が最も重要なのです-とくに私たちの社会が崖っぷちにあってもう一つの破滅、もう一つの切除を招いているときは [そうです] 。私たちの多くの問題への人間的解決を発見しようとする意図においてほんとうに真剣である人たちは、初めにこの観念作用の過程を理解しなければなりません。
 私たちのいう観念とはどういう意味でしょうか。観念はどのようにして生じるのでしょうか。観念と行動はひとまとめにできるのでしょうか。仮に私が観念を持っていて、それを実行したいと願うとします。私はその観念を実行する方法を求めます。そして私たちは思索し、観念がどのように実行されるべきかについてのけんかに、時間とエネルギ-を費やします。それで観念がどのように生じるのかを見出すことが、ほんとうにとても重要です。そしてそれの真理を発見した後で、私たちは行動の問題を議論できるのです。観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がありません。
(´・(ェ)・`)つ

42 避難民のマジレスさん :2020/07/04(土) 20:20:45 ID:X/mJjzWc0
くまめも1-5-2
経験の瞬間に、あなたは経験(怒り)から離れた経験者としての自分自身に気づいていない。あなたは経験(怒り)の状態にある。
しかしあなたがそれから出てきた瞬間、経験の後のほんの一瞬、経験者と経験、行動者と行動-目的すなわち怒りを取り除いたり抑圧することを視野に持った者がある。
行動は観念によりもたらされるのか、行動が初めに来て、それから行動が葛藤を造り出すから、そのまわりに観念を築くのか。
観念が初めに来るなら、そのとき行動はたんに観念に順応するだけ。ゆえにそれはもはや行動ではなくて、観念に応じた模倣、強制。これを悟ることはとても重要。なぜなら、社会はほとんど知的なまたは言葉の水準の上に構築されているので、観念が初めに来て行動は付いてくるから。行動はそのとき観念の小間使い。たんなる観念の構築は、行動にとって有害。観念はさらなる観念を産み育てるし、敵対がある。
観念ははたして行動を生み出すか。それとも観念はたんに思考を型どり、ゆえに行動を制限するだけか。行動が観念により強制されるとき、行動は決して人を解放できない。観念が行動を形作るなら、そのとき行動は決して私たちの悲惨への解決をもたらせない。なぜなら、観念が行動に移される前に、私たちはそれがどのように生じるのかを、初めに発見しなければならないから。観念作用の、観念の築き上げの究明が最も重要。
観念を議論せずに、たんにどのように行動すべきかを見出すことは意味がない。
(´・(ェ)・`)

43 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/04(土) 23:41:33 ID:1d4drIFg0
行いは観念の後にくるというのじゃ。
先に観念があり、それに基づいて人は行動するからなのじゃ。
観念がおかしければ行動もおかしくなるのじゃ。
それ故に先ずは観念がどのようにして生じるのか理解することが重要なのじゃ。

44 避難民のマジレスさん :2020/07/05(日) 18:42:09 ID:JXZBdWr60
最初と最後の自由  第一部

   第五章 行動と観念 3

 そこであなたはどのようにして観念を得るのでしょうか-とても単純な観念です。それは哲学的、宗教的、経済的でなくてもいいのです。明白にそれは思考の過程なのではないでしょうか。観念は思考過程から出てきたものです。思考過程なしに観念はありえません。それで私は、その産物、観念を理解できる前に、思考過程自体を理解しなければなりません。私たちのいう思考とはどういう意味でしょうか。あなたはいつ考えるのでしょうか。明白に、思考は、神経的、心理的な応答の結果なのではないでしょうか。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答です。または心理的な、蓄えられた記憶の応答です。感覚に対する神経の即時の応答があります。そして蓄えられた記憶の [心理的応答] 、人種、集団、導師(グル)、家族、伝統などの影響の心理的応答があります。そのすべてを、あなたは思考と呼びます。それで思考過程は記憶の応答なのではないでしょうか。もしもあなたは記憶を持たなかったなら、思考を持たないでしょう。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させるのです。例えば、私が国家主義・民族主義の蓄えられた記憶を持っていて、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶとします。その過去の応答、行動、含蓄、伝統、慣習の記憶の [諸々の] 貯蔵庫が、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒の挑戦に応答します。そして挑戦に対する記憶の応答が必然的に思考過程をもたらします。あなた自身に作動している思考過程を見つめてください。するとあなたはこれの真理を直接的に試せるのです。あなたは誰かに侮辱されました。そしてそれが、あなたの記憶に残っています。それが背景の一部を形作ります。あなたがその人物に会うとき-それが挑戦です-応答は、その侮辱の記憶です。それで記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出します。ゆえに観念はいつも条件づけられています-これを理解することが重要です。言い換えると観念は思考過程の結果ですし、思考過程は記憶の応答ですし、記憶はいつも条件づけられているのです。記憶はいつも過去にあるし、その記憶は挑戦により現在において命を与えられるのです。記憶はそれ自体では命を持っていません。それは挑戦に直面するとき、現在に生き返るのです。そして休眠していても活動していても、すべての記憶は条件づけられているのではないでしょうか。
 ゆえに全く異なった接近 [法] がなければなりません。あなたは、自分が観念に従って行動しているのかどうか、そして観念作用のない行動はありうるのかどうかを、内側に自分自身で見出さなければなりません。観念に基づかない行動-それは何なのかを見出しましょう。
 あなたはいつ、観念作用なしに行動するのでしょうか。経験の結果でない行動は、いつあるのでしょうか。経験に基づいた行動は、私たちが言ったように制限するし、ゆえに障害です。思考過程-すなわち経験に基づいたもの-が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的です。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味です。それが、 [そこに] 理解のある唯一の状態です。経験に基づいた精神が行動を導いていないとき、経験に基づいた思考が行動を形作っていないとき、です。思考過程がないとき、行動は何でしょうか。思考過程のない行動はありうるのでしょうか。すなわち私は橋を、家を建てたいと思います。私は技術を知っています。技術は私にそれをどう建てるべきかを教えます。それが行動と呼ばれます。詩を書く、絵を描く [行動] 、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動があります。すべてが観念や以前の経験-行動を形作るもの-に基づいています。しかし観念作用のないとき、行動はあるのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

45 避難民のマジレスさん :2020/07/05(日) 18:43:38 ID:JXZBdWr60
くまめも1-5-3
観念は思考過程から出てきたもの。
まず、思考過程自体を理解する。思考は、神経的、心理的な応答の結果。それは感覚に対する感覚機能の即時の応答。または心理的な、蓄えられた記憶の応答。一定の経験に対する記憶の応答が、思考過程を作動させる。
侮辱された→記憶に残る→それが背景の一部を形作る。→その人物に会う。それが挑戦→応答は、その侮辱の記憶→記憶の応答、すなわち思考過程が観念を造り出す
ゆえに観念はいつも条件づけられている。
記憶はいつも過去、その記憶は挑戦により現在において命を与えられる。記憶は挑戦に直面するとき、現在に生き返る。休眠していてもすべての記憶は条件づけられている。
 ゆえに全く異なった接近法が必要。自分が観念に従って行動しているのか、観念作用のない行動はありうるのかを、内側に自分自身で見出さなければならない。観念に基づかない行動-それは何なのか。
 いつ、観念作用なしに行動するのか。経験の結果でない行動は、いつあるのか。経験に基づいた行動は制限する。ゆえに障害。思考過程が行動を制御していないとき、観念から出てきたものでない行動は自発的。それは、精神が行動を制御していないとき、経験に依存しない行動がある、という意味。
橋を、家を建てたい→技術を知っている。→技術は私にそれをどう建てるべきかを教える。それが行動。詩を書く、絵を描く行動、行政の責任の、社会的、環境的応答の行動。すべてが観念や以前の経験に基づいている。しかし観念作用のないとき、行動はあるのか。
(´・(ェ)・`)

46 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/05(日) 23:03:03 ID:1d4drIFg0
観念は思考過程から出てくるというのじゃ。
思考は記憶から起こるのじゃ。
記憶したものの操作が思考なのじゃ。
記憶も思考も観念も無い時に理解はあるのじゃ。

47 避難民のマジレスさん :2020/07/06(月) 21:29:37 ID:yBquKmmc0
最初と最後の自由  第一部
  第五章 行動と観念 4

 確かに、観念が止むとき、そういう行動があるのです。そして愛があるときだけ、観念は止みます。愛は記憶ではありません。愛は経験ではありません。愛は、自分の愛する人について考えることではありません。というのは、そのときそれはたんに思考であるからです。あなたは愛について考えられません。あなたは、自分が愛したり献身したりしている人-あなたの導師(グル)、あなたの像(イメ-ジ)、あなたの妻、あなたの夫について考えられるのです。しかし思考、象徴(シンボル)は真実 [のもの] -すなわち愛-ではありません。ゆえに愛は経験ではないのです。
 愛があるとき、行動があるのではないでしょうか。その行動は解放するのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。観念と行動の間にあるような隔たりは、愛と行動の間にはありません。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落としています。そして私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとしています。愛があるとき-それは精神作用ではなく、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から [出てきたもの] 、実践された修練から出てきたものではありません-そのとき、その愛こそが行動です。それが、自由にしてくれる唯一のものです。精神作用があるかぎり、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえません。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限されます。これの真理がわかるとき、愛の性質-すなわち精神作用ではないもの、あなたがそれについて考えられないもの-が生じるのです。
 この総合過程、どのように観念が生じるのか、どのように行動が観念から発生するのか、どのように観念が行動を制御し、ゆえに、感覚に依存して行動を制限するのかに、気づかなければなりません。それらが誰の観念なのか、左翼からか極右からかどうかは大事なことではありません。私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にあるのです。そのとき私たちはたんに時間の領域に-過去すなわちさらなる感覚を与えるものに、またはもう一つの形の感覚である未来に-生きているだけです。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけです。
 観念は真理ではありません。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないものです。それは、あなたが「欲しい」経験ではありません-そのとき、それはたんに感覚にすぎません。観念の束を越えてゆけるとき-すなわち「私」であり、精神であり、部分的または完全な連続性を持つもの-、それを越えてゆけるとき、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態があるのです。そのとき、真理が何であるかを知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

48 避難民のマジレスさん :2020/07/06(月) 21:30:23 ID:yBquKmmc0
くまめも1-5-4
観念が止むとき、そういう行動がある。愛があるときだけ、観念は止む。愛は記憶、経験ではない。愛は、自分の愛する人について考えることではない。そのときそれはたんに思考。あなたは愛について考えられない。
愛があるとき、行動がある。その行動は解放する。それは精神作用の結果ではない。愛と行動の間に隔たりはない。観念はいつも古いし、その影を現在の上に落とす。私たちは常に観念と行動の間に橋を架けようとする。愛があるとき-それは精神作用、観念作用ではなく、記憶ではなく、経験から、実践された修練から出てきたものではない。そのとき、その愛こそが行動。それが、自由にしてくれる唯一のもの。精神作用、観念すなわち経験による行動の形成があるかぎり、解放はありえない。そしてその過程が継続するかぎり、すべての行動は制限される。この真理がわかるとき、愛の性質。、が生じる。
私たちは観念にすがりつくかぎり、そもそも経験するということがありえない状態にある。そのとき私たちはたんに時間の領域に、過去または未来に生きているだけ。経験するということがありうるのは、精神が観念から自由であるときだけ。
 観念は真理ではない。そして真理は、何か瞬間瞬間、直接に経験されなければならないもの。それは、あなたが「欲しい」経験ではない。そのとき、それはたんに感覚にすぎない。観念の束を越えてゆけるときだけ、思考が完全に静寂であるときだけ、経験する状態。そのとき、真理が何かを知る。
(´・(ェ)・`)

49 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/06(月) 23:00:11 ID:1d4drIFg0
例えば子供が車に轢かれそうになったら親は何の思考も無く直ぐに助けようと行動するじゃろう。
その時には観念も無いのじゃ。
そのように愛は思考も観念も無く行動を起こすものじゃ。
そのような時今ここにある真理が見いだされるのじゃ。

50 避難民のマジレスさん :2020/07/07(火) 22:16:12 ID:j28u/1TI0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 1
 信念と知識はとても密接に欲望に関係しています。そしておそらく、私たちはこれら二つの論点を理解できるなら、欲望がどのように働くかがわかり、その複雑さを理解できるのです。
 私たちのほとんどが熱心に受け入れ、当然のことと思っているものごとの一つは、信念の問題であるように、私には見えるのです。私は信念を攻撃しているのではありません。私たちがしようとしていることは、なぜ私たちは信念を受け入れるのかを見出すことです。そして、受け入れの動機、因果 [関係]を理解できるなら、そのときおそらく、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできるかもしれません。政治的、宗教的な信念、国家主義・民族主義的、他の色々な種類の信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すか [ということ] がわかります-それは明白な事実です。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしないのです。ヒンドウ-教の信念、キリスト教 [の信念] 、仏教の信念-無数の党派的、国家・民族的信念、色々な政治的イデオロギ-があり、すべてが互いに争い、互いに改心 [・改宗] させようとしています。明白に、信念は人々を分離し、不寛容を造り出していることが、わかります。信念をもたずに生きることは可能でしょうか。信念との関係において自分自身を研究できてこそ、それは見出せるのです。信念をもたずに、この世界で生きることは可能でしょうか-信念を変えるのではなく、一つの信念の代わりにもう一つを用いるのではなくて、すべての信念から全く自由であり、そのため毎分、生に新たに出会うことは、です。これが、結局、真理です-過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが。
 あなたは考慮するなら、信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れであるということが、わかるでしょう。もしも信念を持たなかったなら、私たちに何が起きるでしょうか。起きるかもしれないことに、とても怯えるのではないでしょうか。もしも、信念-神への、共産主義への、社会主義への、帝国主義への [信念] 、何らかの種類の宗教的定式、私たちが条件づけられている何らかの教義への信念-に基づいた行動の様式を持たなかったなら、全く途方に暮れた気持ちになるのではないでしょうか。そしてこの信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは [無であること・] 何ものでもないことへの [恐れ] 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすことではないでしょうか。結局、カップは空っぽであるときだけ役に立つのです。そして信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神です。それはたんに反復的な精神です。その恐れ-その空っぽ [・空しさ] への恐れ、その寂しさへの恐れ、その沈滞への、達しないことへの、成功しないこと、達成しないこと、何ものかでないこと、何ものかにならないことへの恐れ-から逃避することが、確かに、なぜ私たちがこんなに熱心に貪欲に信念を受け入れるのかという理由の一つなのではないでしょうか。そして信念の受け入れをとおして、私たちは自分たち自身を理解するでしょうか。反対です。信念は宗教的でも政治的でも、明白に自分たち自身の理解を妨げるのです。それは、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕(スクリ-ン)として、作用するのです。そして私たちは信念をもたずに自分たち自身を見つめられるでしょうか。私たちがそれらの信念を、 持っている多くの信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているでしょうか。私たちは、信念-すなわち精神がそれ自身を [それと]同一化してきたもの-を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力があるのです-そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

51 避難民のマジレスさん :2020/07/07(火) 22:22:10 ID:j28u/1TI0
くまめも1-6-1
なぜ私たちは信念を受け入れるのか。受け入れの動機、因果を理解できるなら、私たちはなぜそうするのかを理解するだけではなくて、またそれから自由になることもできる。信念が、いかに人々を分離するか、葛藤・抗争、混乱、敵対を造り出すかがわかる。それでも私たちは進んでそれらをあきらめようとしない。信念は人々を分離し、不寛容を造り出す。
信念をもたずに生きることは可能か。
過去の条件づける反応なしに、瞬間瞬間、あらゆるものごとに新たに出会う能力を持ち、そのため自分自身と有るものとの間の障壁として作用する累積的影響がない、ということが、真理。
信念を受け入れたいという欲望の理由の一つが恐れ。信念の受け入れは、その恐れ-ほんとうは何ものでもないことへの 、空っぽであることへの恐れ-を覆いかくすこと。信念、教義、主張、引用で満ちている精神は、ほんとうは非創造的な精神。それはたんに反復的な精神。信念は、私たちがそれをとおして自分たち自身を見つめる幕として、作用する。私たち信念を取り除くなら、何か見るべきものが残っているか。私たちは、信念を持たないなら 、そのとき同一化のない精神は、それ自身をあるがままに見る能力がある−そのとき確かに、自分自身の理解の始まりがある。
(´・(ェ)・`)

52 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/07(火) 23:00:32 ID:1d4drIFg0
信念そのものが悪いとは言わないのじゃ。
ただそれを理解することが大事なのじゃ。
理解すれば自由になれるのじゃ。
恐れから信念を受け容れたいという欲が起こるというのじゃ。
それが観られれば消えるのじゃ。

53 避難民のマジレスさん :2020/07/08(水) 21:14:01 ID:0cl365bM0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 2

 それは、この信念と知識の問題は、ほんとうにとても興味深い問題です。それは私たちの生においてなんととてつもない役割を演じるのでしょうか!私たちはいかに多くの信念を持っているのでしょうか!確かに、私がその [霊的という] 言葉を使えるなら、人は知的であるほど、文化的で [・教養が ] あるほど 、霊的 [・精神的] であるほど、理解する能力がないのです。現代の世界においてさえも、未開人は無数の迷信を持っています。思慮深いほど、目覚めているほど、鋭敏であるほど、おそらく信じることがないのです。それは、信念は束縛する [から] 、信念は孤立させるからです。そして、経済的、政治的世界、またいわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、世界中でそうであることがわかります。あなたは神があることを信じています。そしておそらく私は神がないことを信じています。またはあなたは [共産主義者や国家主義者として] あらゆるものごと [に対して] 、あらゆる個人 [に対して] 完全な国家統制を信じています。そして私は [資本主義者として] 民間企業とその他すべてを信じています。あなたは [一神教の信者として] 、唯一人の救い主がいるし、彼をとおしてあなたの目標を達成できるということを信じています。そして私はそんなふうに信じていません。こうしてあなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張しているのです。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をするのです-それは完全に無意味です。なぜなら、現実に信念こそが孤立の過程であるからです。あなたはバラモンです。私は非バラモンです。あなたはキリスト教徒です。私はイスラム教徒です、などです。あなたは同胞愛について話をし、私もまた同じ同胞愛、愛、平和について話をします。しかし現実には、私たちは分離しています。私たちは自分たちを分割しています。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられません。それは明らかでしょうか。それは言葉上はそうであるかもしれません。しかし、あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

54 避難民のマジレスさん :2020/07/08(水) 21:15:51 ID:0cl365bM0
くまめも1-6-2
 あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持って、自己を主張している。それでも二人とも、愛について、平和について、人類の統合について、一つの生命について話をする−それは完全に無意味。なぜなら、現実に信念こそが孤立、分離の過程であるから。私たちは自分たちを分割している。平和が欲しい、新しい世界、幸せな世界を造り出したいと思う人は、確かに、どんな形の信念をとおしても自分自身を孤立させられない。あなたがそれの意義と妥当性と真理がわかるなら、それは作用 [・行動] しはじめる。
(´・(ェ)・`)

55 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/08(水) 23:23:44 ID:1d4drIFg0
信念に拠って人は孤立するというのじゃ。
政治的なイデオロギーとか宗教の信念で分割されるからなのじゃ。
悟った者はもはや信じることがないのじゃ。
何が事実であるか事実でないのかわかるからなのじゃ。
事実でないか未だ事実と認められないことを事実として扱うのが信念なのじゃ。

56 避難民のマジレスさん :2020/07/09(木) 19:38:12 ID:4q82KXfA0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 3

 欲望 [・願望] の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいないということが、わかります。なぜなら、明白にあなたは経済的、霊的 [・精神的] に [安全であるため] 、また内側でも安全であるために信じているからです。私は、経済的理由のために信じている人たちについて話してはいません。なぜなら、彼らは自分たちの仕事に依存するように育てられているし、ゆえに自分たちのために仕事があるかぎり、キリスト教徒、ヒンドウ-教徒-何でもかまいません-であるだろうからです。私たちはまた便宜のために信念にすがりつく人たちについても議論していません。おそらく私たちのほとんどにおいては、それは等しくそうなのです。便宜のために、私たちは一定のものごとを信じています。これら経済的理由は払いのけて、私たちはその中にもっと深く入らなければなりません。何でも経済的、社会的、霊的 [・精神的] なものを強く信じている人たちを [例に] 取り上げましょう。その裏の過程は、安全でありたいという心理的欲望なのではないでしょうか。そのとき継続したいという欲望があります。私たちはここで、継続があるのかないのかについては、議論していません。私たちは、信じようとする駆り立て、常なる衝動について議論しているだけです。平和の人、ほんとうに人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできないのではないでしょうか。彼は自分の欲望が、安全であるための手段としている働いているのがわかります。どうか反対側へ行って、私が無宗教を説いていると言わないでください。それはそもそも私の論点ではありません。私の論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争いがあるにちがいない、葛藤・抗争があるにちがいない、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということです-それは日常、見られます。それで私が、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、私があれかこれかを信じるべきであるということではなくて、私が安全でありたいという欲望から自由になるべきであるということです。精神は、安全への欲望から自由でありうるでしょうか。それが問題です-何を信じるべきか、どのくらい信じるべきかではありません。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎません。
(´・(ェ)・`)つ

57 避難民のマジレスさん :2020/07/09(木) 19:39:56 ID:4q82KXfA0
くまめも1-6-3
欲望の過程が働いているところ、信念をとおした孤立化の過程があるにちがいない。なぜなら、明白にあなたは安全であるために信じているから。そのとき継続したいという欲望がある。平和の人、人間存在の過程全体を理解しようとする人は、信念によって縛られることはできない。彼は自分の欲望が、安全であるための手段として働いているのがわかる。論点は、私たちが信念の形における欲望の過程を理解しないかぎり、争い、葛藤・抗争、悲しみがあるにちがいない、そして人は人と対立するであろう、ということ。それで、この過程が、信念-すなわち内側の安全への渇望の表現であるもの-の形を取るということを知覚するなら、気づくなら、そのとき私の問題は、精神は、安全への欲望から自由でありうるか、何を、どのくらい信じるべきかではない。これらはたんに、心理的に安全でありたい、世界であらゆるものごとがこんなに不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内側の渇望の表現にすぎない。
(´・(ェ)・`)

58 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/09(木) 23:24:24 ID:1d4drIFg0
安全でありたいという欲望から人は信念に縋りつくというのじゃ。
そしてそれを継続したいという執着も生まれるのじゃ。
それから自由でなければならないのじゃ。
それらはただ苦を生み出すだけであるからのう。

59 避難民のマジレスさん :2020/07/10(金) 21:22:52 ID:y27lq8Yo0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 4

 精神は、意識的精神は、人は、この安全でありたいという欲望から自由でありうるでしょうか。私たちは安全でありたいし、ゆえに私たちの地所、財産、家族の助力が要るのです。私たちは信念の壁を築くことによって内側で、また霊的 [・精神的] にも安全でありたいのです-それは、この確実でありたいという渇望の表示です。個人としてあなたは安全でありたいというこの衝動、この渇望-すなわち何かを信じたいという欲望に自ずと表現されるもの-から自由でありうるでしょうか。私たちはそのすべてから自由でないなら、私たちが争いの源です。私たちは平和をもたらしていません。私たちは心に愛を持っていないのです。信念は破壊します。そしてこれは私たちの日常の生で見られます。 私はこの欲望の過程-すなわち信念にすがりつくことにおいて自ずと表現されるもの-に捕らわれているとき、私自身が見えるでしょうか。精神は信念から自由になれる-その代用を見つけるのではなくて、それから全く自由でありうるでしょうか。あなたはこれに対して言葉の上で「はい」とか「いいえ」とか答えられません。しかし、あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せるのです。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至るのです。明白に、あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはありません。あなたのささいな小さなものごとを気をつけて見守り、あなたが誰に会うべきか、何をすべきか、どのようにそれをすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたいのです。これは子どもっぽい未熟な考えです。あなたは、偉大な父が私たちみんなを見守っていると考えます。それは、あなた自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎません。それは明白に真実ではありません。真理は何か全く違ったものであるにちがいありません。
 私たちの次の問題は知識のそれです。知識は真理の理解にとって必要でしょうか。「私は知っている」と私が言うとき、含まれている意味は知識があるということです。そういう精神は、何が真実なのかを究明し探し出す能力があるでしょうか。さらに、私たちが知っているのは何でしょうか-それを私たちはとても誇りに思っていますが。現実に私たちが知っているのは何でしょうか。私たちは情報は知っています。私たちは [情報と経験、すなわち] 、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちています。あなたは「私は知っている」と言うとき、どういう意味でしょうか。あなたが知っているという認知は、事実の [認識] 、一定の情報の認識であるか、それともあなたがしたことのある経験であるか、です。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成します。そしてあなたは自分の背景、欲望、経験に応じて、自分が読んだものを翻訳しはじめます。あなたの知識は、 [そこに] 欲望の過程と類似した過程が働いている [ところの]ものです。信念のかわりに私たちは知識を代用します。「私は知っている。私は経験をした。それは反論できない。私の経験はそれです。私は完全にそれを信頼する」-これらは知識の表示です。しかしあなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを、見つけるでしょう。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めているのです。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなるのです。
(´・(ェ)・`)つ

60 避難民のマジレスさん :2020/07/10(金) 21:28:13 ID:y27lq8Yo0
くまめも1-6-4
人は、安全でありたいという欲望から自由でありうるか。安全でありたい故に信念の壁を築くことにより精神的にも安全でありたい。それは、確実でありたいという渇望の表示。
安全でありたいというこの渇望から自由でないなら、私たちが争いの源。私たちは平和をもたらしていない。私たちは心に愛を持っていない。信念は破壊する。あなたの意図が信念から自由になることであるなら、明確に答えを示せる。あなたはそのとき、安全でありたいという衝動から自由になる手段を求めている地点に、必然的に至る。あなたが信じたいように、継続するであろう安全は、内側にはない。あなたを気をつけて見守り、あなたが何をすべきかを教えている神があるということを、あなたは信じたい。これは子どもっぽい未熟な考え、自身の個人的な好みのたんなる投影にすぎない。それは真実ではない。
 次の問題は知識。知識は真理の理解にとって必要か。私たちは情報は知っている。私たちは情報と経験、すなわち、自分たちの条件づけ、記憶、能力に基づいた情報と経験で充ちている。情報の常なる蓄積、色々な形の知識の取得、すべてが「私は知っている」という主張を構成する。あなたの知識は、欲望の過程と類似した過程が働いているもの。信念のかわりに私たちは知識を代用する。あなたはその裏に行き、それを分析し、もっと智恵をもって気をつけて見つめるとき、「私は知っている」という主張こそが、あなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを見つける。その壁の裏に、あなたは避難し、慰め、安全を求めている。ゆえに精神は知識の重荷を負えば負うほど、理解する能力がなくなる。
(´・(ェ)・`)

61 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/10(金) 22:58:02 ID:1d4drIFg0
信仰や信念も突き詰めれば個人の好みの投影に過ぎないというのじゃ。
そうであるから真理ではないというのじゃ。
そして知識も記憶によるものであるから分離するものでしかないというのじゃ。
知識が増えれば理解する能力もなくなるというのじゃ。

62 避難民のマジレスさん :2020/07/11(土) 19:52:49 ID:y3FE4rAQ0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 5

 あなたは今までにこの知識の取得の問題について [考えたことがあるのか] -知識は究極的に、私たちが愛するのを [助けてくれるのか] 、私たち自身に葛藤を [産み出し] 、私たちの隣人との抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのかについて、考えたことがあるのかどうか、私は知りません。なぜなら、野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つであるからです。私たちが互いに平和に生きようとするなら、確かに、野心は完全に終わりにならなければなりません-政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的 [・精神的] 野心も、です。精神が、この知識の蓄積する過程、この知りたいという欲望から自由であることは、いったい可能でしょうか。
 これら二つ、知識と信念が、私たちの生においていかにとてつもなく強力な役割を演じるかを見つめることは、とても興味深いことです。見てください、いかに私たちが、莫大な知識と学識を持つ人たちを崇拝するのかを!あなたはその意味が理解できるでしょうか。あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならないのではないでしょうか。それは何か新しいものが見える能力がなければなりません。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでにあなたに知られている情報すべて、あなたの知識すべて、あなたの過去の記憶すべてを持ち込みます。そして明白にあなたは、新しいもの、古いものからではないものを見る能力、受け取る能力が何もなくなるのです。どうか即時にこれを細部へと翻訳しないでください。私は自宅にどう戻るのかを知らなければ、迷ってしまうでしょう。私は機械をどう動かすのかを知らなければ、ほとんど役に立たないでしょう。それは全く異なったことです。私たちはここでそれについて議論しているわけではありません。私たちは、安全への手段として使われる知識、何ものかでありたいという心理的、内側の願望について、議論しているのです。あなたは知識をとおして何を得るのでしょうか。知識の権威、知識の重み、重要性 [・尊大さ] 、威厳の感覚、生命力 [・活力] の感覚、等々でしょうか。「私は知っている」とか「ある」とか「ない」とか言う人は、確かに、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまったのです。
 そのとき、私たちの問題は、私が見るところ、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということです。そして精神が昨日から [自由で] 、昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能でしょうか。あなたは質問を理解していますか。個人としての私が、個人としてのあなたがこの社会に生きて、それでも私たちが育てられてきた信念から自由であることは、可能でしょうか。精神がそのすべての知識、そのすべての権威から自由であることは可能でしょうか。私たちは色々な聖典、宗教書を読みます。そこには何をすべきか、何をすべきでないか、どのようにして目標に到達すべきか、目標は何であるか、神は何であるかが、よく気をつけて叙述されています。あなたたちは皆それを暗記して知っているし、それを追求してきたのです。それが、あなたの知識です。それが、あなたが取得してきた [もの・] ことです。それが、あなたが学んできた [もの・] ことです。その道に沿って、あなたは追求します。明白に、あなたは自分が追求し求めるものを見つけるでしょう。しかしそれは真実でしょうか。それはあなた自身の知識の投影ではないでしょうか。それは真実ではありません。それを「今」-明日ではなくて今-悟り、「私はそれの真理がわかる」と言い、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の [過程] 、投影の過程により損なわれないということは、可能でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

63 避難民のマジレスさん :2020/07/11(土) 19:53:57 ID:y3FE4rAQ0
くまめも1-6-5
知識の取得の問題
知識は究極的に、私たちが愛するのを助けてくれるのか、私たち自身に葛藤、抗争を産み出すそれらの性質から自由であるのを助けてくれるのか、知識はいったい精神を野心から自由にするのか。野心は結局、関係を破壊し、人を人と対立させる性質の一つである。
私たちが互いに平和に生きようとするなら、野心は完全に終わりにならなければならない。政治的、経済的、社会的野心だけではなくて、もっと微妙で有害な野心、何ものかでありたいという霊的・精神的野心も。
精神が、この知識の蓄積する過程から自由であることは可能か。
あなたが何か新しいものを見つけ、何かあなたの想像の投影ではないものを経験しようとするなら、あなたの精神は自由でなければならない。それは新しいものが見える能力がなければならない。不幸にも、あなたは何か新しいものを見るたびに、すでに知られている情報、知識、過去の記憶すべてを持ち込む。そして、新しいものを見る能力、受け取る能力がなくなる。 
あなたは知識をとおして何を得るのか。「私は知っている」とか言う人は、考えることを止めてしまい、この欲望の過程全体を追求するのを止めてしまった。
私たちの問題は、私たちが信念により、知識により縛られ、押しつぶされているということ。そして精神が昨日の過程をとおして取得された信念から自由であることは、可能か。精神がそのすべての知識、すべての権威から自由であることは可能か。
色々な聖典、宗教書を読み、その道に沿って、あなたは追求し、自分が求めるものを見つけるでしょう。それはあなた自身の知識の投影。それは真実ではない。それを「今」悟り、それを手放し、そのためあなたの精神がこの想像の、投影の過程により損なわれないということは、可能か。
(´・(ェ)・`)

64 避難民のマジレスさん :2020/07/11(土) 23:14:50 ID:b/R.LjPg0
.
      //
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    /  (__) パカ
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   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
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65 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/11(土) 23:21:22 ID:1d4drIFg0
世間では知識が信奉され、知識を多く持つ者が尊敬されているのじゃ。
しかし、知識は逆に束縛にもなっているのじゃ。
知識のせいで新しいものに気付けないのじゃ。
何か新しいものを見つけたと思っても実は知識の投影でしかないものであったりするのじゃ。

66 避難民のマジレスさん :2020/07/11(土) 23:23:54 ID:b/R.LjPg0
>>65
お前みたいな馬鹿よりはましだろw

67 避難民のマジレスさん :2020/07/12(日) 22:07:23 ID:0xIm3.lY0
最初と最後の自由  第一部
   第六章 信念 6
 精神は信念から自由である能力があるでしょうか。あなたをそれにすがりつかせ、あなたに信じさせる原因の内側の本性を [理解する] -意識的な [動機] だけでなく、また無意識的な動機をも-理解するとき、あなたはそれから自由でありうるだけです。結局、私たちはたんに、意識的な水準で機能している表面的な実体ではないのです。私たちは無意識的な精神に機会を与えるなら、より深い意識的、無意識的活動を見出せるのです。なぜなら、それは意識的精神よりも応答がはるかに速いからです。あなたの意識的精神が静かに考え、聴き、見守っている間、無意識的精神は、はるかに活動的で、はるかに鋭敏で、はるかに受容性があるのです。ゆえにそれは答えを得られるのです。信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神、そういう精神は自由に考えることができるでしょうか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるでしょうか。どうか、信念は人々を [一つに] まとめると言わないでください。そうなりません。それは明白です。どんな組織化された宗教も、今までそうしたことはないのです。あなた自身の国のあなたたち自身を見てください。あなたたちは皆、信じる者です。しかしあなたたちは皆、 [一つに] まとまっているでしょうか。あなたたちは皆、 [一つに] 統合されているでしょうか。あなたたち自身がそうではないことを知っています。あなたたちはこんなに多くの些細な小さな党派、カ-ストに分割されています。無数の分割を知っています。過程は-東洋でも西洋でも-世界中で全く同じです。キリスト教徒はキリスト教徒を破壊し、些細な小さなものごとのために互いに殺し合い、人々を軍隊生活など、戦争の恐怖全体に駆り立てています。ゆえに信念は人々を [一つに] 統合しません。それはこんなに明らかです。それが明らかであり、それが真実であるなら、そしてあなたはそれがわかるなら、そのとき、それに付いていかなければなりません。しかし困難は、わたしたちのほとんどが [そのことが] わからないということです。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないからです。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しいのです-それが国家であろうと、カ-ストであろうと、 [国家主義・] 民族主義であろうと、大師や救い主や他の何であろうと、です。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる [能力がある] -それは一時的に瞬間であるかもしれませんが-能力があるのです。たとえ、それ [真理] がそれ [精神] にとって耐えられないときでさえ、それ [精神] は戻って行くのです。しかし一時的にわかることで充分です。あなたがそれを束の間の瞬間、わかるなら、それで十分です。なぜなら、あなたはそのとき、とてつもないことが起きていることがわかるでしょうからです。意識が拒絶するとしても、無意識が働いています。それは前進の瞬間ではありません。しかしその瞬間が唯一のものです。たとえ意識的な精神がそれに対して格闘するにもかかわらず、それはそれ自体の結果を持つでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

68 避難民のマジレスさん :2020/07/13(月) 00:55:00 ID:b/R.LjPg0
>>65
で、阿頼耶識は現量だろ?

で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?

で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?

69 避難民のマジレスさん :2020/07/13(月) 18:53:29 ID:8yt0vhog0
くまめも1-6-6
精神は信念から自由である能力があるか。あなたをそれにすがりつかせ、信じさせる原因を理解するとき、意識的無意識的な動機を理解するときだけ、それから自由でありうる。
信じるように服従させられ、脅迫され、強いられ、強制されてきた精神は自由に考えることができるか。それは、新たに見て、あなたともう一人との間の孤立化の過程を取り除けるか。信念は人々を一つに統合しない。それが真実であり、そしてあなたはそれがわかるなら、それに付いていかなければならない。しかし困難は、わたしたちのほとんどがそのことがわからないということ。なぜなら、私たちは、その内側の不安定、その内側の一人であるという感覚に向き合う能力がないから。私たちは、何か寄りかかれるものが欲しい。そして私たちはこのすべての偽りがわかるとき、そのとき精神はそれの真理がわかる能力がある。意識が拒絶しても、無意識が働いている。それは前進の瞬間ではない。しかしその瞬間が唯一のもの。
(´・(ェ)・`)

70 ウンコマン :2020/07/13(月) 19:19:43 ID:b/R.LjPg0
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71 避難民のマジレスさん :2020/07/13(月) 20:23:10 ID:I6SFs6uk0
最初と最後の自由  第一部
   
   第六章 信念 7

 そこで私たちの疑問は-「精神が知識と信念から自由であることは可能でしょうか」かです。精神は知識と信念から作り上げられていないでしょうか。精神の構造は信念と知識ではないでしょうか。信念と知識は認識の過程、精神の中心です。過程は閉鎖的です。過程は意識的とともに無意識的です。精神はそれ自身の構造から自由でありうるでしょうか。精神は無くなりうるでしょうか。それが問題です。私たちが知っているような精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っています。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はありえません。あなたは平和について話をするかもしれません。あなたは政党を組織するかもしれません。あなたは屋上から [大声で] 叫ぶかもしれません。しかしあなたは平和を持てません。なぜなら、精神には、矛盾を造り出し、孤立させ分離させる基礎そのものがあるからです。平和の人、熱意の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできません。それはただ政治的、宗教的なゲ-ム、達成と野心の感覚です。これについてほんとうに熱心であり、発見したいと思う人は、知識と信念の問題に向き合わなければなりません。彼はその裏に行き、欲望-安全でありたいという欲望、確実でありたいという欲望-の過程全体が働いているのを、発見しなければなりません。
 新しいものが-真理であっても神であっても何であっても、それが-起こりうる状態にあるであろう精神は、確かに、取得すること、集めることを止めなければなりません。それは知識すべてを脇に置かなければなりません。知識の重荷を負った精神は確かに、真実であり、測ることのできないものを、とうてい理解できません。
(´・(ェ)・`)つ

72 避難民のマジレスさん :2020/07/13(月) 20:58:53 ID:I6SFs6uk0
くまめも1-6-7
そこで私たちの疑問は-精神が知識と信念から自由であることは可能か。精神は知識と信念から作り上げられている。信念と知識は認識の過程、精神の中心。過程は閉鎖的。過程は意識的とともに無意識的。精神はそれ自身の構造から自由でありうるか。精神は無くなりうるか。精神は、その裏に信念を持ち、欲望、安全でありたいという衝動、知識、強さの蓄積を持っている。その力と卓越性すべてをもってしても、自分自身で考えられなければ、世界に平和はない。平和の人は自己を孤立させながら同胞愛と平和について話をすることはできない。それはただ政治的、宗教的なゲ-ム。
新しいものが起こりうる状態にあるであろう精神は、取得すること、集めることを止め、知識すべてを脇に置かなければならない。知識の重荷を負った精神は、真実であり、測ることのできないものを理解できない。
(´・(ェ)・`)

73 ウンコマン :2020/07/13(月) 21:55:46 ID:b/R.LjPg0
      //
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  // |   ヽ/   糞スレって聞いて来たよ?
  " ̄ ̄ ̄"∪

74 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/13(月) 22:49:03 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの言う精神とは、オショーの言うマインドと同じようなものじゃな。
それは知識と信念の集まりに過ぎないのじゃ。
既に記憶され知っている事が知識であり、まだしらないものごとを信念に拠って補っているのじゃ。
精神は知識の重荷を背負っている故に、真実であり、測る事のできないものを理解できないのじゃ。

75 避難民のマジレスさん :2020/07/13(月) 22:50:21 ID:b/R.LjPg0
>>74
で、阿頼耶識は現量だろ?

で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?

で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?

76 避難民のマジレスさん :2020/07/14(火) 19:42:18 ID:AToV857o0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 1
 私たちのほとんどにとって、私たちの生全体は努力に、何らかの種類の意志 [力] に基づいています。私たちは意志なき、努力なき行動を考えつくことはできません。私たちの生はそれに基づいています。私たちの社会的、経済的、いわゆる霊的 [・精神的] な生は一連の努力であり、いつも一定の結果に到達するのです。そして私たちは努力は本質的 [・不可欠] で必要であると思うのです。
 なぜ私たちは努力をするのでしょうか。それは単純に言うと、結果を達成し、何ものかになり、目標に達するためではないでしょうか。私たちは努力をしなければ、沈滞するであろうと思うのです。私たちは、それに向かって常に奮闘している [ところの] 目標について、観念を持っています。そしてこの奮闘が私たちの生の一部分になってしまったのです。私たちは自分たち自身を改めたいなら、自分たち自身に根本的変化をもたらしたいなら、古い習慣を除去しよう、習慣的、環境的影響などに抵抗しようと、ものすごい努力をします。それで私たちは、何かを見つけたり達成したりするため、そもそも生きるためのこの努力の連続に、慣れているのです。
 そういう努力すべては自己の活動ではないでしょうか。努力は自己中心的な活動ではないでしょうか。私たちが自己の中心から努力をするなら、それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、もっと多くの混乱、もっと多くの悲惨を産み出すにちがいありません。それでも私たちは努力に次ぐ努力をしつづけるのです。私たちのほとんどは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をもきれいにかたづけないということを、悟っていません。反対に、それは私たちの混乱と悲惨と悲しみを増大させるのです。私たちはこれを知っています。それでも私たちは、何とかこの自己中心的な努力の活動を、意志の行動を突き破りたいと願いつづけるのです。
 私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろうと、私は思います。幸せは努力をとおして来るでしょうか。あなたは今までに幸せであろうとしたことがあるでしょうか。それは不可能なのではないでしょうか。あなたは幸せであろうと格闘しますが、幸せはないのではないでしょうか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ません。あなたは耽溺するかもしれませんが、終わりに苦さがあるのです。あなたは抑圧したり制御したりするかもしれませんが、いつも隠れたところに闘争があるのです。ゆえに幸せは努力をとおして来ないし、また喜びも制御と抑圧をとおして来ないのです。にもかかわらず私たちの生すべてが一連の抑圧、一連の制御、一連の後悔に満ちた耽溺です。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの常に圧倒される、常なる格闘もあるのです。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をするのではないでしょうか。けれども愛や理解は闘争によって訪れるでしょうか。私たちのいう格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、とても重要であると、私は思います。
 努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味ではないでしょうか。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘しています。またはあるがままから逃げようとしたり、 [それを] 変容させたり修正したりしようとしています。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人です。それが真の満足です。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに [関係しているの] ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係しているのです。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識するとき、それに気づくときだけ、訪れうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

77 避難民のマジレスさん :2020/07/14(火) 19:42:59 ID:AToV857o0
くまめも1-7-1
努力すべては自己中心的な活動。それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、混乱、悲惨を産み出す。私たちは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をかたづけないということを、悟っていない。反対に、それは混乱と悲惨と悲しみを増大させる。
 私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろう。幸せは努力をとおして来るか。あなたは幸せであろうと格闘するが、幸せはないのではないか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ない。耽溺→終わりに苦さ、抑圧、制御→隠れたところに闘争がある。私たちの生すべてが一連の抑圧、制御、後悔に満ちた耽溺。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの、常なる格闘もある。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をする。けれども愛や理解は闘争によって訪れない。格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、重要。
努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘する。またはあるがままから逃げよう、変容させたり修正したりしようとする。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人。それが真の満足。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係している。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識、気づくときだけ、訪れうる。
(´・(ェ)・`)

78 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/14(火) 23:08:24 ID:1d4drIFg0
>>75 わしは既に名誉欲など無いから武勇伝を語る気もないが、そんなに知りたいならば教えてやるのじゃ。
 臨済宗の者は阿頼耶識は現量等という学者の妄想を真に受けてわしに注意されたのじゃ。
 すると臨済宗の者は学者の本に書いてあるとか反論したが、それがどのように書いてあるのか証拠となる文を一行も引用できずに逃げ去ったのじゃ。
 わしに一言も反論できず、泣き喚き、負け惜しみを述べ消えたのじゃ。

 臨済宗の者が僧侶でも無いのに僧侶と名乗るのはやはり金のためじゃろう。
 達磨一人の伝法では出家できず、明治の廃仏毀釈では仏教を捨てたのに葬式商売の金が欲しさに僧と名乗っているのじゃ。

 上記の如く臨済宗の者は証拠となる文の一行すら書けずに論破されてしまったが、宗教板を去るという約束も守らないのじゃ。
 以前には論破されたら腹を切るとか言いながら、自分で自分を論破したが、やはり腹を切ることはなかったのじゃ。
 
 以上の如く臨済宗の者は大悟徹底したわしに悉く論破され、僧侶でもないのに僧侶と嘘をつき、約束も守らないとわかったじゃろう。
 みんな騙されないようにするのじゃ。

79 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/14(火) 23:25:12 ID:1d4drIFg0
努力の全てがいかんのではないのじゃ。
食べるための努力は必要なのじゃ。
逃避や快楽を求める努力が混乱と悲惨を生み出すのじゃ。
それらを止めてあるがままの今ここに気付くことが解放なのじゃ。

80 避難民のマジレスさん :2020/07/15(水) 13:44:54 ID:b/R.LjPg0
>>78
嘘つくなよ?
ちゃんと根拠は出してるぞ?


阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg

81 避難民のマジレスさん :2020/07/15(水) 22:38:23 ID:1ImQedTk0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 2

 それで私たちは、努力とは、あるがままのものを、何かあなたがあって欲しいと願うものに変容させようとする闘争や格闘であることが、わかるのです。私は、純粋に技術的である工学や何かの発見や変容のように物理的な問題との格闘 [について] ではなく、心理的な格闘について話しているだけです。私は、心理的であり、いつも技術的なものに打ち勝つその格闘について、話しているだけです。あなたは、科学が私たちに与えてくれた無限の知識を使って、大いに注意を払ってすばらしい社会を築くかもしれません。しかし心理的闘争と格闘と戦いが理解されず、心理的響きと流れに打ち勝たないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、何度も繰り返し起きてきたように、必ず潰れてしまうのです。
 努力はあるがままからの逸脱です。私があるがままを受け入れた瞬間、格闘はないのです。どんな形の格闘や闘争も、逸脱の表示です。そして心理的に、私があるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在するにちがいありません。
 初めに私たちは、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければなりません。創造は努力をとおしてあるのでしょうか。それとも創造は、努力の止むことをもってだけあるのでしょうか。あなたはいつ、書いたり、描いたり、歌ったりするのでしょうか。あなたはいつ、創造するのでしょうか。確かに、努力がないとき、あなたが完全に開いているとき、すべての水準で、あなたが完全な疎通 [の状態] にあり、完全に統合 [融和] しているときです。そのとき喜びがあるし、そのときあなたは歌ったり詩を書いたり絵を描いたり何かを作ったりしはじめのです。創造の瞬間は格闘から生まれません。
 おそらく私たちは創造性の問題を理解するなかで、私たちのいう努力とはどういう意味なのかを理解することができるでしょう。創造性は努力から出てきたものでしょうか。そして私たちは、自分たちが創造的であるそれらの瞬間において気づいているでしょうか。それとも創造性は、全くの自己忘却の感覚 [でしょうか] 、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚でしょうか。その状態は、苦労の [結果] 、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果でしょうか。あなたは何かをたやすくすばやくするとき、努力がなく、完全な格闘の欠如があるということに、今までに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。しかし私たちの生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、私たちは、 [そこにおいて] 闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できないのです。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければなりません。私たちのいう努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味なのではないでしょうか。私はこれです。私はあれになりたい。私はあれではない。あれにならなければならない。「あれ」になるなかに、闘争があり、戦い、葛藤、格闘があるのです。この格闘において私たちは必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心があるのです。私たちは対象に、人物に、観念に自己の充実 [・自己実現] を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求するのです。それで私たちはこの努力を必然的と受け取ったのです。それは-この何ものかになろうとする格闘は、必然的なのかどうか疑わしいと、私は思います。なぜこの格闘があるのでしょうか。どんな程度でも、どんな水準でも、充実への欲望があるところ、格闘があるにちがいありません。充実が、努力の裏の動機、推進力です。偉い経営者にも主婦にも貧しい人にも、このなろうとする [戦い] 、充実しようとする戦いが続いているのです。
(´・(ェ)・`)つ

82 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/15(水) 22:41:43 ID:1d4drIFg0
>>80 臨済宗の者は世親が阿頼耶識は現量と書いたチベットからの翻訳文があるとか嘯いて、実際には一行も引用できなかったのじゃ。
 嘘を書き、それが暴かれると別の本を晒して詭弁を弄するのみなのじゃ。
 ありもしない伝統にしがみ付いてお釈迦様の禁じた葬式商売に励む者はわしのように正しく大悟徹底した者には到底敵わないのじゃ。

83 避難民のマジレスさん :2020/07/15(水) 22:47:35 ID:1ImQedTk0
くまめも1-7-2
努力とは、あるがままのものを、あって欲しいと願うものに変容させようとする格闘。心理的格闘が理解されないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、必ず潰れてしまう。
 努力はあるがままからの逸脱。あるがままを受け入れた瞬間、格闘はない。そして心理的に、あるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在する。
 初めに、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければならない。
 おそらく創造性の問題を理解するなかで、努力の意味を理解できる。創造的である瞬間は、全くの自己忘却の感覚、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚。その状態は、苦労の、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果ではない。生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できない。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければならない。努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味。この格闘において必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心がある。対象に、自己の充実・自己実現を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求する。充実への欲望があるところ、格闘がある。充実が、努力の裏の動機、推進力。誰にもこのなろうとする戦い、充実しようとする戦いが続いている。
(´・(ェ)・`)

84 避難民のマジレスさん :2020/07/15(水) 22:58:36 ID:b/R.LjPg0
>>82
wwwwwwwwwwwwwww

ぶぁ〜〜かw

そのすべてが現量についての説明だよ。。

読んでも分らないからって人のせいにするなよwww

85 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/15(水) 23:42:42 ID:1d4drIFg0
↑それが臨済宗の詭弁じゃな。
 おぬしはその主張を肯定するチベット語から翻訳した世親の文があると嘯いたのじゃ。
 しかし、今に至るまでそれを一行も書いていないのじゃ。
 引用は商業出版でさえ認められているのにおかしなことじゃ。
 チベット語からの翻訳は一体どこに行ったのじゃ?

 どうせわしには完全に論破されると思って逃げ回っているのじゃろう
 論破ありきで逃げていてはいつまでも無知なまま学者や性質の悪い老婆に騙されている人生なのじゃ。
 腹を切ってから出直すと善いのじゃ。

86 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/15(水) 23:48:21 ID:1d4drIFg0
どんな努力も格闘も無い状態、それをあるがままの状態というのじゃ。
努力無しに開放されているとき、喜びがあり、真の創造があるというのじゃ。
そうでなければ全ては繰り返しであり、何かにならねばならないという葛藤があるのじゃ。
それはありのままであることを受け容れてないからなのじゃ。

87 避難民のマジレスさん :2020/07/15(水) 23:49:21 ID:b/R.LjPg0
>>85
書いてあることを書いてないとか云うのはキチガイだなwww

88 避難民のマジレスさん :2020/07/15(水) 23:58:24 ID:b/R.LjPg0
瞬殺されたことを認めたくないからって、書いてあることを書いてないとか云うとか、人間として終わってるよ。

89 避難民のマジレスさん :2020/07/16(木) 00:01:19 ID:b/R.LjPg0
仕舞いには写メで送った資料もそんなものは送られてないとか言い出すんだろ?

www

90 避難民のマジレスさん :2020/07/16(木) 21:18:27 ID:y0myHUlI0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 3

 では、なぜ自己を充実させたいという欲望があるのでしょうか。明白に、充実したい、何ものかになりたいという欲望は、 [無である・] 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じるのです。私は何ものでもない [・無である] から、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘するのです。外側でも内側でも、私は人物やものごとや観念において自己を充実させようと格闘するのです。その空虚を充たすことが、私たちの存在の過程全体です。私たちは、空っぽで、内側で貧しいことに気づくと、外部に物を集めたり、内側の豊かさ [・富] を育成したりしようと格闘するのです。行動をとおし、観想をとおし、取得をとおし、達成をとおし、力などをとおして、その内側の空虚からの逃避があるときだけ、努力があるのです。それが私たちの日常の存在です。私は自分の不十分さ、自分の内側の貧しさに気づきます。そして私はそれから逃げ出そう、またはそれを充たそうと格闘します。この逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴うのです。
 そこで逃げ出そうとする努力をしないなら、何が起きるでしょうか。その寂しさ、その空っぽとともに生きます。そしてその空っぽを受け入れるなかで、闘争、努力とは何の関わりもない創造的状態が来るということを、見つけるでしょう。私たちがその内側の寂しさ、空っぽを避けようとしているかぎり、努力は存在しているのです。しかし私たちはそれを見つめ、それを観察するとき、あるがままを避けずに受け入れるとき、闘争すべてが止む存在の状態が来ることを見つけるでしょう。その存在の状態が創造性です。それは闘争の結果ではありません。
 しかしあるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さ- [について] の理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれるのです。
 ゆえに私たちが知っているような行動は、ほんとうは反動であり、絶えざるなりゆき、すなわちあるがままの否定、回避なのです。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがまま [について] の理解に行動があるし、この行動が創造的存在です。あなたは行動においてあなた自身に気づくなら、これを理解するでしょう。あなたが行動しているままにあなた自身を観察してください。外側だけではなく、またあなたの思考と感情の動きをも見てください。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程-すなわち感情と行動でもあるもの-が、なるという観念に基づいていることがわかるでしょう。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来るのです。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかるでしょう。これがなろうとする努力です。なることはあるがままの直接的回避です。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、あなたは、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つけるでしょう。あなたが、とてつもない平静、組み立てられ、作り上げられていない平静、あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、あなたが内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそなのです。その平静の状態においてだけ、創造的存在があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

91 避難民のマジレスさん :2020/07/16(木) 21:43:47 ID:y0myHUlI0
くまめも1-7-3
なぜ自己を充実させたいという欲望があるのか。何ものかになりたいという欲望は、 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じる。私は何ものでもない ・無であるから、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘する。外側でも内側でも、自己を充実させようと格闘する。その空虚を充たすことが、存在の過程全体。
逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴う。
あるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さの理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれる。
行動は、ほんとうは反動であり、あるがままの否定、回避。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがままについての理解に行動があるし、この行動が創造的存在。
あなたが行動しているままにあなた自身を観察しなさい。外側だけではなく、思考と感情の動きをも見なさい。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程が、なるという観念に基づいていることがわかる。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来る。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかる。なることはあるがままの直接的回避。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つける。あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそ。その平静の状態においてだけ、創造的存在がある。
(´・(ェ)・`)

92 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/16(木) 22:53:18 ID:1d4drIFg0
>>87 チベット語からの翻訳は何処に。

93 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/16(木) 22:57:23 ID:1d4drIFg0
内側が不十分で空っぽ貧しいという感覚は、孤独や恐れから起こるものじゃ。
それから逃れようとして努力するのじゃ。
それは逃避に過ぎないのじゃ。
逃避に拠って孤独や恐れがなくなることはないのじゃ。
孤独や恐れをありのままに認め観察する事で気付きが起こるのじゃ。
それによって孤独や恐れも消えるのじゃ。

94 避難民のマジレスさん :2020/07/17(金) 14:03:14 ID:b/R.LjPg0
>>92
他スレで説明済

95 避難民のマジレスさん :2020/07/17(金) 15:25:12 ID:b/R.LjPg0
面接官 「普段は何をされてますか?」

コジ  「はい、自宅でウンコを製造しております!」

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96 避難民のマジレスさん :2020/07/17(金) 21:13:36 ID:NgAX88aw0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 1

 私たちは自分たちのなかと自分たちのまわりに矛盾を見ます。私たちは矛盾 [の状態] にあるから、私たちのなかに、ゆえに私たちの外側に平和の欠如があるのです。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-があるのです。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらしません-それは単純な明白な事実です。この内側の矛盾は、何かの種類の哲学的二元論に翻訳されるべきではありません。なぜなら、それはとても安易な逃避であるからです。すなわち、矛盾は二元論の状態であると言うことにより、私たちはそれを解決してしまったと思うのです-それは明白にたんなる慣習、現実からの逃避に寄与するものにすぎないのです。
 そこで私たちのいう葛藤・抗争、矛盾とはどういう意味でしょうか。なぜ私には矛盾が-あるがままの私から離れた何ものかであろうとするこの常なる格闘が-あるのでしょうか。私はこれである。私はあれになりたい。この私たちにおける矛盾は事実です-形而上学的な二元論ではありません。形而上学は、あるがままを理解することにおいて何の意義もありません。私たちはたとえば二元論を、それは何なのか、それは存在するのかどうかなどについて議論するかもしれません。しかし私たちが自分たちに矛盾が-対立する欲望、対立する興味、対立する追求が-あることを知らなければ、それにどんな価値があるのでしょうか。私は善良でありたいが、そうあることができない。私たちのこの矛盾、この対立は理解されなければなりません。なぜなら、それは葛藤・抗争を造り出すからです。そして葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できません。私たちがおかれた状態について明確でありましょう。矛盾があります。それで格闘があるにちがいありません。そして格闘は破壊、浪費です。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみ以外の何も産み出せません。私たちがこれを充分に理解し、ゆえに矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらすでしょう。
 問題はこうです。矛盾は破壊的で浪費的であることがわかると、私たち各自に矛盾があるのはなぜでしょうか。それを理解するには、私たちはさらにもう少し進まなければなりません。なぜ対立する欲望の感覚があるのでしょうか。私たちは自分たち自身のそれに-この矛盾、この欲しがることと欲しがらないことの感覚、何かを憶えていて、何か新しいものを見つけるためにそれを忘れようとすること-に気づいているかどうか、私は知りません。ただそれを見守ってください。それはとても単純でとても正常です。それは何かとてつもないものではありません。事実は矛盾があるということです。ではなぜこの矛盾は生じるのでしょうか。
 私たちのいう矛盾とはどういう意味でしょうか。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいないでしょうか。私は自分が永久的欲望を持っていると思います。私は自分自身に永久的欲望を位置づけます。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じます。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらします。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つ [という] ことがあるのです。では永久的欲望といったものがあるのでしょうか。確かに、欲望「すべて」が非永久的 [・無常] です-形而上学的にではなくて現実にです。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼るのです。そしてそれを得るとき、不満です。私は経営者になりたい、それから所有者に [なりたい] などなどです。この世 [・世界] においてだけでなく、いわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、です-教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆくのです。
(´・(ェ)・`)つ

97 避難民のマジレスさん :2020/07/17(金) 21:20:19 ID:NgAX88aw0
くまめも1-8-1
私たちは矛盾の状態にあるから、私たちのなかに、外側に平和の欠如がある。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-がある。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらさない。この単純な明白な事実を哲学的二元論に翻訳するのでは安易な逃避。
なぜ私には矛盾があるのか。矛盾は葛藤、抗争を造り出す。葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できない。格闘は破壊、浪費。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみを産み出す。私たちがこれを充分に理解し、矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらす。
矛盾とはどういう意味か。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいる。自分が永久的欲望を持っている。自分自身に永久的欲望を位置づける。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じる。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらす。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つことがある。欲望すべてが非永久的・無常。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼る。そしてそれを得るとき、不満。私は経営者になりたい、それから所有者になりたいなどな。この世・世界においてだけでなく、いわゆる霊的・精神的世界においても、教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆく。
(´・(ェ)・`)

98 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/17(金) 22:56:36 ID:1d4drIFg0
理想の自分のイメージと今の自分には常に矛盾があるのじゃ。
理想の自分になりたいと努力することが葛藤を生むのじゃ。
理想の自分になったとしてもやはり時と共に失っていくのじゃ。
老病死は免れないからのう。

99 避難民のマジレスさん :2020/07/17(金) 22:59:38 ID:b/R.LjPg0
阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg

100 避難民のマジレスさん :2020/07/18(土) 09:29:08 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

101 避難民のマジレスさん :2020/07/18(土) 21:44:08 ID:U9p6ScNE0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 2

 この常なるなりゆき、一つの状態に続いてもう一つに達することは、矛盾をもたらすのではないでしょうか。ゆえになぜ生を一つの永久的欲望としてではなくて、いつも互いに対立しあう [・反対しあう] 一連のはかない欲望として見ないのでしょうか。ゆえに精神は矛盾の状態になくてもいいのです。私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はありません。
 精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じるのです。すなわち精神が欲望すべてを動いてはかないものとして見るのではなくて、一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする-そのとき他の欲望が生じる、そのときだけ、矛盾があるのです。しかし欲望すべては、常なる動き [の状態] にあります。欲望の固定はありません。欲望に固定点はありません。しかし精神は固定点を確立します。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うからです。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤があるにちがいありません。あなたは到達したいのです。あなたは成功したいのです。あなたは、あなたの永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたいのです。ゆえにあなたは真理を求めていません。あなたは神を求めていません。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった体裁よく聞こえる言葉をおおいかぶせるのです。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼びます。最低点は飲酒です。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間にたいした違いはありません。社会的に、酒は悪いかもしれません。しかし満足への [願望] 、獲得への内側の願望のほうが、さらにもっと有害なのではないでしょうか。あなたはほんとうに真理を見つけたいなら、たんに言葉の水準でだけではなくて全く、極めて正直でなければなりません。あなたはとてつもなく明晰でなければなりません。あなたは進んで事実に向き合おうとしないなら、明晰でありえません。
 そこで何が私たち各自に矛盾をもたらすのでしょうか。確かにそれは、何ものかになりたいという願望なのではないでしょうか。私たちは皆何ものかになりたいのです-世間で成功したい、内側で結果を達成したいのです。私たちが時間という見地、達成という見地、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾があるにちがいありません。結局、精神は時間の産物です。思考は昨日に、過去に基づいています。思考が時間の領域の中で機能し、未来という [見地] 、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾があるにちがいありません。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないからです。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性があるのです。
 ゆえに私たちの考える過程全体を理解することが [本質的・] 不可欠なのではないでしょうか。というのは、私たちが矛盾を見つけるのは、そこであるからです。思考自体が矛盾になってしまったのです。なぜなら、私たちは自分たち自身の総合過程を理解してこなかったからです。そしてその理解は、私たちが自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能です-自分の思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに [気づくの] です-それは極めて困難です。そのときだけ、こんなに有害でこんなに苦痛なその矛盾の解消が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ

102 避難民のマジレスさん :2020/07/18(土) 22:02:00 ID:U9p6ScNE0
くまめも1-8-2
私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はない。
精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じる。一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする、そのときだけ、矛盾がある。欲望に固定点はない。しかし精神は固定点を確立する。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うから。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤がある。あなたは到達したい。成功したい。永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたい。ゆえにあなたは真理を求めていない。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった言葉をおおいかぶせる。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼ぶ。最低点は飲酒。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間に違いはない。ほんとうに真理を見つけたいなら、極めて正直で、明晰でなければならない。
私たちは皆何ものかになりたい。私たちが時間、達成、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾がある。精神は時間の産物。思考は過去に基づいている。思考が時間の領域の中で機能し、未来という見地、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾がある。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないから。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性がある。
ゆえに考える過程全体を理解することが不可欠。というのは、矛盾を見つけるのは、そこであるから。思考自体が矛盾になってしまった。なぜなら、自分たち自身の総合過程を理解してないから。そしてその理解は、自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能。思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに気づく。そのとき、有害で苦痛なその矛盾の解消がある。
(´・(ェ)・`)

103 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/18(土) 22:50:44 ID:1d4drIFg0
酒を求める欲も、神を求める欲も同じだというのじゃ。
それは満足だけを求めているからなのじゃ。
なにものかになりたいという願望に拠って矛盾があるというのじゃ。
そこには時間による制約があるからなのじゃ。む
それら全ての過程を全体として観察できれば全ての矛盾は消えるのじゃ。

104 避難民のマジレスさん :2020/07/19(日) 21:55:05 ID:lyY6c8gM0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 3

 私たちが心理的な結果を達成しようとしているかぎり、内側に安全を欲しがるかぎり、私たちの生には矛盾があるにちがいありません。私たちのほとんどはこの矛盾に気づいているとは、私は思いません。または私たちは気づいているとしても、そのほんとうの意義がわからないのです。反対に、矛盾は私たちに生きる弾み [・刺激] を与えてくれるのです。まさに摩擦の要素こそが、私たちに生きていることを感じさせてくれるのです。努力、矛盾の格闘が、私たちに生命力 [・活力] の感覚を与えてくれるのです。そういうわけで私たちは戦争を愛しているのです。そういうわけで私たちは挫折の戦いを楽しむのです。結果を達成したいという願望-すなわち心理的に安全でありたいという願望-があるかぎり、矛盾があるにちがいありません。そして矛盾があるところ、静かな精神はありえません。精神の静けさは、生の意義全体を理解するに [本質的・] 不可欠です。思考は決して平静ではありえません。思考-すなわち時間の産物-は、時間のないものを決して見つけられません。時間を超えているものを決して知ることはできません。まさに私たちの考えるということの本性こそが矛盾なのです。なぜなら、私たちはいつも過去や未来という見地に立って考えているからです。ゆえに私たちは決して現在を充分に認識し、充分に気づいていないのです。
 現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業です。なぜなら精神はごまかさずに直接的に事実に向き合う能力がないからです。思考は過去の産物ですし、ゆえに過去や未来という見地に立って考えられるだけです。それは現在の事実に完全に気づくことはできません。思考-すなわち過去の産物-が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけですし、そういう考えはもっと多くの矛盾 [を造り出し] ゆえに葛藤・抗争、悲惨、混乱を私たちのなかに、ゆえに私たちのまわりに造り出すだけです。
 矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければなりません。あなたが事実と直面しているとき、どうして選択がありうるでしょうか。確かに、思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実 [について] の理解は不可能になります。ゆえに自己認識が理解の始まりです。自己認識なしには、矛盾と葛藤 [・抗争] は継続するでしょう。自分自身の過程全体、総体を知るには、どんな熟練者もどんな権威も必要ではありません。権威の追求は恐れを生み育てるだけです。どんな熟練者もどんな専門家も私たちに、自己の過程をどう理解するのかを教えられません。それは自分自身で研究しなければなりません。あなたと私はそれについて話しをすることにより互いに助け合うことはできます。しかし誰も私たちのためにそれを解き明かせません。どんな専門家もどんな教師も、私たちのために [私たちに代わって] それを探検できません。私たちは私たちの関係において-ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づけるのです。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見するでしょう。観念はたんに象徴としての思考の凝結化です。そして象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらすのです。
 こうして思考の様式があるかぎり、矛盾は継続するでしょう。様式を [終わらせ] 、そのため矛盾を終わらせるには、自己認識がなければなりません。この自己の理解は、わずかな者のために取っておかれた過程ではありません。自己は、私たちの日常の話し、私たちの考え [方]と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきものです。私たちはあらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解されるということがわかるでしょう。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうる [ところの] あの精神の平静の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

105 避難民のマジレスさん :2020/07/19(日) 22:01:47 ID:lyY6c8gM0
くまめも1-8-3
心理的な結果達成や内側の安全を欲しがるかぎり、生には矛盾がある。その矛盾は生きる刺激を与えてくれる。
精神の静けさは、生の意義全体を理解するに不可欠。思考は決して平静ではありえない。思考は、時間のないものを見つけられない。まさに考えるということの本性こそが矛盾。なぜなら、いつも過去や未来という見地に立って考えているから。ゆえに決して現在を充分に認識し、充分に気づいていない。
現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業。なぜなら精神は直接的に事実に向き合う能力がないから。思考が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけ。そういう考えはもっと多くの矛盾を造り出すだけ。
矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければならない。思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実についての理解は不可能。自己認識なしには、矛盾は継続する。自分自身の過程全体、総体を知るには、私たちの関係− ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づける。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見する。観念はたんに象徴としての思考の凝結化。象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらす。
思考の様式を終わらせ、矛盾を終わらせるには、自己認識が必要。自己は、日常の話し、考え方と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきもの。あらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解される。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうるところのあの精神の平静の可能性がある。
(´・(ェ)・`)

106 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/19(日) 22:54:14 ID:1d4drIFg0
安全への欲望は却って戦争を生み出すというのじゃ。
敵がいなくなれば安全であるからのう。
そのような欲は悲惨と混乱を生み出すのみなのじゃ。
今ここに気付いていることがそれから逃れる道なのじゃ。

107 避難民のマジレスさん :2020/07/20(月) 22:55:20 ID:uLoVuJFE0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 1

 私たちのいう自己とはどういう意味なのか、知っているでしょうか。観念、記憶、結論、経験、色々な形の名づけることのできる、名づけることのできない意図、あろうとする、あるまいとする意識的な尽力、無意識の [蓄積された記憶]- 人種、集団、個人、氏族の-蓄積された記憶、行動において外部に投影されていても、美徳として霊的・精神的に投影されていても、です。そのすべての全体が、それ [自己という言葉]により私のいう意味です。このすべてを求める奮闘が自己です。それには競争、ありたいという願望が含まれています。その過程全体が自己です。そして私たちはそれに向き合うとき、それが邪悪なものであることを現実に知っています。私は「邪悪」という言葉を意図的に使っています。なぜなら自己は分割するからです。自己は自己閉鎖的です。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させす。私たちはこのすべてを知っています。また私たちは、自己がない [ときの] それらのとてつもない瞬間をも知っています-そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きるのです。
 経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要であるように、私には見えます。私たちは熱心であるなら、この経験の問題を理解すべきです。そこで私たちのいう経験とはどういう意味でしょうか。私たちはいつのときも経験をします-印象です。そして私たちはそれら印象を翻訳します。それらに応じて反応したり行動したりします。私たちは計算高くてずるい、などです。客観的に見られるものとそれに対する私たちの反応との間には、常なる相互作用が [あり] 、意識と、無意識の [諸々の] 記憶の間にも相互作用があるのです。
 私の [諸々の] 記憶に応じて、私は自分が見るどんなものにも、感じるどんなものにも反応します。私が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きているのではないでしょうか。何か見られるものへの反応、応答が経験です。私はあなたを見るとき、反応します。その反応に名づけることが経験です。私がその反応に名づけないなら、それは経験ではありません。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守ってください。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はありません。私はあなたを認識しないなら、どうしてあなたに会う [という] 経験ができるでしょうか。それは単純で正しく聞こえます。それは事実ではないでしょうか。すなわち、私は自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験をしたということをどうして知ることができるでしょうか。
 それから色々な願望の投影があります。私は保護されたい、内側に安全を得たいと願望します。あるいは大師、導師(グル)、教師、神を得たいと願望します。そして私は自分が投影したものを経験します。すなわち私は形を取った [願望] 、それに名をつけた願望を投影したのです。それにたいして反応するのです。それは私の投影です。それは私の命名です。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」「私は大師に会ったことがある」「私は大師に会ったことがない」と言わせるのです。あなたは、経験に名づける過程全体を知っています。願望が経験と呼ぶものなのではないでしょうか。
 私が精神の静寂を願望するとき、何が起きているでしょうか。何が起きるでしょうか。私は色んな理由のために、静寂な精神、静かな精神を持つことの重要性がわかります。なぜなら、ウパニシャッドがそう言ってきたし、宗教書がそう言ってきたし、聖者たちがそう言ってきたし、また時々私自身も静かであることがどんなに良いかを感じるからです。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるからです。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなにすてきか、どんなに楽しいかを感じるのです。願望は静寂を経験することです。私は静寂な精神を持ちたいのです。それで、「私はどうすればそれを得られるのか」と訊くのです。私は、あれこれの書物が瞑想について言うことと色々な形の修練を知っています。それで修練をとおして、私は静寂を経験しようと求めるのです。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立したのです。
(´・(ェ)・`)つ

108 避難民のマジレスさん :2020/07/20(月) 23:00:41 ID:uLoVuJFE0
くまめも1-9-1
 観念、記憶、結論、経験、意図、無意識の蓄積された記憶。その全体が、自己の意味。このすべてを求める奮闘が自己。それには競争、願望が含まれる。その過程全体が自己。自己は邪悪。自己は分割するから。自己は自己閉鎖的。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させる。私たちは、自己がないときの瞬間をも知っている。そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きる。経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要。経験とはどういう意味か。経験する→その印象を翻訳する→それに応じて反応したり行動する。客観的に見られるものとそれに対する反応との間には相互作用があり、意識と無意識の記憶の間にも相互作用がある。記憶に応じて、自分が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きている。何か見られるものへの反応、応答が経験。その反応に名づけることが経験。その反応に名づけないなら、それは経験ではない。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守れ。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はない。自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験したと知れない。
願望の投影がある。保護されたい、内側に安全を得たいと願望する 自分が投影したものを経験する。すなわち形を取った願望、名をつけた願望を投影し、それにたいして反応する。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」と言わせる。
精神の静寂を願望するとき、何が起きるか。静寂な精神を持つことが重要。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるから。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなに楽しいかを感じる。願望は静寂を経験すること。私は、瞑想や修練をとおして、静寂を経験しようと求める。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立した。
(´・(ェ)・`)

109 避難民のマジレスさん :2020/07/21(火) 20:00:37 ID:hp0r5VXk0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 2

 私は何が真理なのかを理解したいのです。それが私の願望、私のあこがれです。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が [後に] 続きます。なぜなら、私はそれについてたくさん読んできたからです。私は多くの人々がそれについて話すのを聞いてきました。宗教書はそれを叙述してきました。私はそのすべてが欲しいのです。何が起きるでしょうか。まさにそのほしがること、まさに願望が投影されるのです。そして私は経験します。なぜなら、その投影された状態を認識するからです。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばないでしょう。私はそれを認識するし、それを経験します。そしてその経験が自己、「私」に強さを与えるのではないでしょうか。それで自己は経験のなかに立てこもるのです。そのときあなたは、「私は知っている」、「大師は存在する」、「神はある」、「神はない」と言うのです。特定の政治体制が正しく、他のすべてはそうでないと、あなたは言うのです。
 それで経験はいつも「私」を強めているのです。あなたが経験のなかに立てこもるほど、ますます自己が強められるのです。このことの結果として、あなたは一定の性格の強さ、知識、信念の強さを持ちます-それを他の人たちに見せびらかすのです。なぜなら、あなたは彼らがあなたほど利口ではないことを知っているから、あなたは文筆 [の才能] や弁舌の才能を持っているし、ずるがしこいからです。自己がやはり作用しているから、それであなたの信念、あなたの大師たち、あなたのカ-スト、あなたの経済的体制はすべて孤立化の過程です。ゆえにそれらは争いをもたらすのです。あなたはそもそもこのことにおいて真剣または熱心であるなら、この [自己という] 中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければなりません。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならないのです。
 精神、自己が投影しないこと、願望しないこと、経験しないことは可能でしょうか。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかります。それでもそれらを肯定的行動と呼ぶのではないでしょうか。それが肯定的な生き方と呼ばれるものです。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定です。あなたはそれでいいのでしょうか。私たちは、あなたと私は個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるでしょうか。では何が自己の解消をもたらすのでしょうか。宗教 [的集団]と その他の集団は同一化を提供してきたのではないでしょうか。「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」 [ということ] が、彼らの言うことです。しかし確かに同一化もやはり自己の過程です。より大きなものは単に「私」の投影です-それを私は経験するし、ゆえにそれは私を強めるのです。
(´・(ェ)・`)つ

110 避難民のマジレスさん :2020/07/21(火) 20:08:52 ID:hp0r5VXk0
くまめも1-9-2
何が真理なのかを理解したい。それが私の願望。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が後に続く。そして私は経験する。なぜなら、その投影された状態を認識するから。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばない。私はそれを認識するし、それを経験する。そしてその経験が自己、「私」に強さを与える。それで自己は経験のなかに立てこもる。そのときあなたは、「私は知っている」、と言う。
経験はいつも「私」を強めている。結果として、あなたは一定の性格、知識、信念の強さを持つ。それを他の人たちに見せびらかす。それであなたの信念はすべて孤立化の過程。ゆえにそれらは争いをもたらす。この自己という中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければならない。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならない。
 精神、自己が投影、願望、経験しないことは可能か。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかる。それでもそれらを肯定的行動、生き方と呼ばれる。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定。私たちは、個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるか。何が自己の解消をもたらすのか。宗教的集団は同一化を提供してきた「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」という。しかし同一化も自己の過程。より大きなものは単に「私」の投影。それを私は経験するし、それは私を強める。
(´・(ェ)・`)

111 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/21(火) 23:40:20 ID:1d4drIFg0
観念により自己はあり、それは記憶に支えられているのじゃ。
そして経験に拠って強められるというのじゃ。
そうであるから伝統的な行はむしろ自己を強める作用をしてしまうのじゃ。
行の経験やその結果として起こる神秘体験などの経験が積み重なっていくからなのじゃ。

112 避難民のマジレスさん :2020/07/22(水) 21:05:48 ID:dinx1qu20
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 3

 色んな形の修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけです。私たちは自己を解消するであろう要素を見つけられるでしょうか。それともそれは間違った擬問でしょうか。それが、私たちが基本的に欲しいものです。私たちは、何か「私」を解消するものを、見つけたいのではないでしょうか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-があると、私たちは思います。しかしそれらのすべては同じ水準にあるのです。一つが他のものより勝れているわけではありません。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるからです。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるでしょうか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力です。それは破壊的な力です。そして私はそれを解消する仕方を見つけたいのです。あなたは自分自身にこう訊ねたことがあるにちがいありません-「私は、『私』がいつのときも機能し、私自身にだけでなく私のまわりの皆に対していつも心配、恐れ、挫折、絶望、悲惨をもたらしているのがわかる。その自己が部分的にではなく完全に解消されることは可能だろうか」と。私たちはその根に遡り、それを破壊できるでしょうか。それが真に機能する唯一の道なのではないでしょうか。私は部分的に智恵があるのではなく、統合された仕方で智恵があるようになりたいのです。私たちのほとんどは [色んな] 層において智恵があるのです-あなたはたぶん一つの仕方で、私は何か他の仕方で、です。あなたたちのうち或る者は営業の仕事に、他の或る者は事務の仕事に智恵がある、などです。人々は違った仕方で智恵があるのです。しかし私たちは統合的 [融和的] に智恵はないのです。統合的 [融和的] に智恵があるということは、自己を持っていないという意味です。それは可能でしょうか。
 自己が今完全に不在であることは可能でしょうか。あなたはそれが可能であることを知っています。必要な要素、要件は何でしょうか。それをもたらす要素は何でしょうか。私はそれを見つけられるでしょうか。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信しています。それで私は、 [そこにおいて] 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないでしょうか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることを必要とします-そのためそれはすり抜けてしまわないのです。私はとても熱心です-自己を解消したいのです。私はそう言うとき、自己を解消するのは可能であることを知っているます。「私はこれを解消したい」と言った瞬間、そこにはやはり自己 [について] の経験があるのです。それで自己は強められるのです。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのでしょうか。創造の状態はそもそも自己の経験ではないということがわかります。創造は [そこに] 自己がないときです。なぜなら、創造は知的ではなく、精神の [もの] ではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるからです。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、 [そこに] 創造が起こりうる状態にあることは可能でしょうか-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味です。問題はこれなのではないでしょうか。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験です。精神が認識しないことは可能でしょうか。それは、自己の経験である [静寂] 、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

113 避難民のマジレスさん :2020/07/22(水) 21:13:00 ID:dinx1qu20
くまめも1-9-3
修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけ。自己を解消するであろう要素を見つけられるか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-がある。しかしそれらのすべては同じ水準にある。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるから。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力。破壊的な力。それを解消する仕方を見つけたい。統合された仕方で智恵があるようになりたい。
自己が今完全に不在であることは可能。必要な要素、要件は何か。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信している。それで私は、 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることが必要-そのためそれはすり抜けてしまわない。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのか。創造の状態はそもそも自己の経験ではない。創造は自己がないとき。なぜなら、創造は知的ではなく、精神のものではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるから。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、そこに創造が起こりうる状態にあることは可能か-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験。精神が認識しないことは可能か。それは、自己の経験である静寂、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけ。
(´・(ェ)・`)

114 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/23(木) 00:06:03 ID:1d4drIFg0
どんな修練も信念も知識も自己を強めるだけというのじゃ。
それをする自分という観念が起こるからのう。
完全な静寂の時に自己は認識されないというのじゃ。
精神の働きも静まった境地にまで至ればそれも可能なのじゃ。

115 避難民のマジレスさん :2020/07/23(木) 00:33:26 ID:b/R.LjPg0
>>114
おい!猿!

阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?

wwwww

116 避難民のマジレスさん :2020/07/23(木) 00:36:02 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

またまたまたまた・・・・・ 馬鹿鬼は瞬殺されたなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

117 避難民のマジレスさん :2020/07/23(木) 00:37:20 ID:b/R.LjPg0
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      〈 〈]  ゚,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´  キチガイだろwwww  
          :ヽ   :i |:     
             :/  :⊂ノ|:     wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

118 避難民のマジレスさん :2020/07/23(木) 21:23:50 ID:tjv95wwU0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 4

 自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのでしょうか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的 [・精神的] 実体があるのでしょうか。私たちは [そういうものが] あると思うのではないでしょうか。ほとんどの宗教的な人たちは、そういう要素があると思うのです。唯物論者たちは言います-「自己が破壊されることは不可能である。それは政治的、経済的、社会的に条件づけられ抑制されうるだけである。私たちはそれを一定の様式の中にしっかりと抑えられるし、壊せる。ゆえにそれは高い生に、道徳的な生に導くように [することができる] 、何ごとにも邪魔しないで社会的様式に付いていくよう、たんに機械としてだけ機能するようにすることができる」と。それを、私たちは知っています。他の人たち、いわゆる宗教的な人たちがいます-私たちはそう呼ぶけれども、彼らはほんとうは宗教的ではありません-彼らは言います「基本的にそういう要素がある。私たちはそれと接触できるならなら、それが自己を解消するだろう」と。
 自己を解消するような要素はあるのでしょうか。どうか私たちが何をしているのかを、わかってください。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいるのです。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるだろうか、わかるでしょう。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思うのです。では、精神が構想できるようなものはあるのでしょうか。あるかもしれないし、ないかもしれません。それは論点ではありません。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験ではないでしょうか。あなたが信じているとき、それが現実に起きていることではないでしょうか。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程ではないでしょうか。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影したのです。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をするのです。そういう経験は自己を強めるだけです。ゆえにあなたは何をしたのでしょうか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけです。自己はやはりあるのです。なぜなら、あなたがそれを経験したからです。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動です-ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけです。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能しているのです。
(´・(ェ)・`)つ

119 避難民のマジレスさん :2020/07/23(木) 22:19:53 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、

>一体となっている感情が
 阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。

>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
 平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?

ここで、現量の定義と照らし合わせると

  直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
  任運にして無分別なり
  諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
  境に任せてこれを縁ずる

上記とまさに合致してると思いますけどね。

上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。

120 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/23(木) 23:06:01 ID:1d4drIFg0
自分から離れて自分を見たり、破壊できる実体はないというのじゃ。
破壊したと思ったらそれが自己なのじゃ。
そこにはまだ破壊する主体の観念が在るのじゃ。
違う名前をつけただけなのじゃ。

121 避難民のマジレスさん :2020/07/24(金) 00:29:59 ID:MutNoc3w0
くまめも1-9-4
自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的・精神的実体があるのか。
 自己を解消するような要素はあるのか。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいる。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるか。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思う。では、精神が構想できるようなものはあるのか。あるかもしれないし、ないかもしれない。それは論点ではない。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験。あなたが信じているとき、それが現実に起きていること。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影した。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をする。そういう経験は自己を強めるだけ。ゆえにあなたは何をしたのか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけ。自己はやはりある。なぜなら、あなたがそれを経験したから。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動。ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけ。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能している。
(´・(ェ)・`)

122 避難民のマジレスさん :2020/07/24(金) 21:43:32 ID:zr.JxX7M0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 5

 あなたは、自己の過程全体、ずるがしこい、とてつもない考案、智恵 [ がわかるとき]、同一化をとおし、美徳をとおし、経験をとおし、信念をとおし、知識をとおして、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき-精神がそれ自体が作った循環、檻のなかで動いていることがわかるとき、何が起きるでしょうか。あなたはそれに気づき、充分に認識するとき、そのときとてつもなく静かではないでしょうか-強制をとおしてではなく、どんな報賞をとおしてでもなく、どんな恐れをとおしてでもなく。あなたは、精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、あなたはそれを観察し、わかるとき、行動においてそれに完全に気づくとき、その地点に至るとき-イデオロギ-として、言葉としてではなく、投影された経験をとおしてではなくて、現実にその状態にあるとき-そのとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかるでしょう。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にあるのです。精神が創造していないとき、創造があるのです-それは認識できる過程ではありません。
 真実、真理は認識されるべきものではありません。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求-このすべては去らなければなりません。美徳の追求を意識している美徳の人は、決して真実を見つけられません。彼はとてもまともな人であるかもしれません。しかしそれは、真理の人、理解する人であるのとは全く異なっているのです。真理の人にとって、真理は生じたのです。美徳の人は正義の人です。正義の人は、何が真理なのかを決して理解できません。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから、彼は美徳を追求しているからです。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけです。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要なのです。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないでしょうし、すべての災いと悲惨の中心になるでしょう。しかしあなたと私が個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革であることを、私はあなたに保証します。愛は自己の[もの] ではありません。自己は愛を認識できません。「私は愛している」とあなたは言います。しかしそのとき、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はないのです。しかしあなたが愛を知るとき、自己はないのです。愛があるとき、自己はないのです。
(´・(ェ)・`)つ

123 避難民のマジレスさん :2020/07/24(金) 21:47:01 ID:zr.JxX7M0
くまめも1-9-5
自己の過程全体、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき、そのときとてつもなく静かになる。精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、現実にその状態にあるとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかる。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にある。精神が創造していないとき、創造がある。それは認識できる過程ではない。
 真理は認識されるべきものではない。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求、このすべては去らなければならない。美徳の人、正義の人は、何が真理なのかを決して理解できない。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけ。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないし、すべての災いと悲惨の中心になる。しかし個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき愛が何であるかを知る。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革である。愛は自己のものではない。自己は愛を認識できない。「私は愛している」とあなたは言う。しかし、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はない。しかしあなたが愛を知るとき、自己はない。愛があるとき、自己はない。
(´・(ェ)・`)

124 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/24(金) 23:00:40 ID:1d4drIFg0
自己に気付いたならば静寂があるというのじゃ。
真理は認識されるものではなく、真理の人に生じるというのじゃ。
世界を変えられる心の改革とは自己を滅し、愛を知った時であるというのじゃ。
 愛がある時自己は無いからなのじゃ。
それは慈悲なのじゃ。

125 避難民のマジレスさん :2020/07/25(土) 17:41:33 ID:b/R.LjPg0
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      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
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       :, -‐ (_).        /     
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126 避難民のマジレスさん :2020/07/25(土) 22:24:19 ID:oeQgDAXg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 1

  恐れとは何でしょうか。恐れは、何かとの関係においてだけ存在できるのです、[それだけが]孤立して存在できません。どうして私は死を恐れることができるでしょうか。どうして私は知らないものを恐れることができるでしょうか。私は知っているものだけを恐れることができるのです。私は死を恐れていると言うとき、ほんとうは、知らないもの-すなわち死-を恐れているのでしょうか。それとも知っているものを失うことを恐れているのでしょうか。私の恐れは、死についての [恐れ] ではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての [恐れ] です。私の恐れはいつも、知らないものと [の関係において]ではなく、知っているものとの関係においてあるのです。
そこで私の探究は[今や]、知っているものへの恐れ―すなわち私の家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れ-からどのようにして自由になるのか、です。恐れは良心から生じると、あなたは言うかも知れません。しかしあなたの良心は、あなたの条件付けにより形成されています。ですから良心はやはり、知っているものの結果です。私は何を知っているでしょうか。知識は、[せいぜい]観念を持つこと、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における [継続性の] ように、継続性の感覚を持つことです-それ以上ではないのです。観念は、記憶であり、経験の結果です-それは挑戦に対する応答です。私は知っているものを恐れています-それは、 [こういう意味です-] 私は人々やものごとや観念を失うことを恐れている。あるがままの自分を発見することを恐れている。途方に暮れることを恐れ [ている] 、失ってしまったり、獲得しなかったり、もはや楽しみを得られないとき生じるかもしれない苦痛を恐れている、という意味です。
 苦痛への恐れがあります。身体的苦痛は神経的応答ですが、心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じるのです。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるからです。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれるのです。すなわち、私は蓄積物、経験の束です-それらが、どんな深刻な形の動揺をも防いでくれるのです。そして私は動揺したくないのです。ゆえに私は、誰でもそれら[蓄積物]を動揺させる者を、恐れるのです。こうして私の恐れは、知っているものについて [の恐れ] です。私は物質的、心理的な蓄積物-私が苦痛をかわしたり、悲しみを防いだりする手段として集めてきたもの-を恐れています。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにあるのです。知識もまた苦痛を防ぐのを助けてくれます。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けてくれるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助けてくれるのです。そういうわけで私は自分の信念を失うことを恐れるのです―そういう信念の真実性について完全な知識や具体的証拠を持っていないにもかかわらず、です。私は自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれません。なぜなら私自身の経験が、私に強さ、確信、理解を与えてくれるからです。しかし、私が習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じものです―苦痛をかわす手段です。
(´・(ェ)・`)つ

127 避難民のマジレスさん :2020/07/25(土) 22:28:45 ID:oeQgDAXg0
くまめも10-1
恐れは、何かとの関係においてだけ存在できる。孤立して存在できない。死を恐れること、知らないものを恐れることはできない。私は死を恐れていると言うとき、死についてのではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての恐れ。家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れからどのようにして自由になるのか。恐れは良心から生じるか。良心は、条件付けにより形成される、から良心は、知っているものの結果。知識は、観念、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における継続性の感覚を持つこと。観念は、記憶であり、経験の結果。それは挑戦に対する応答。私は知っているもの、人々やものごとや観念を失うこと、あるがままの自分を発見すること、途方に暮れること、失ってしまったり、獲得しなかったり、楽しみを得られないとき生じる苦痛を恐れている。
身体的苦痛は神経的応答。心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じる。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるから。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれる。私は蓄積物、経験の束。それらが、動揺を防いでくれる。そして動揺したくない。ゆえに誰でもそれら蓄積物を動揺させる者を、恐れる。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにある。知識もまた苦痛を防ぐのを助ける。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助ける。そういうわけで自分の信念を失うことを恐れる。自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれない。なぜなら自身の経験が、強さ、確信、理解を与えてくれるから。しかし、習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じもの。苦痛をかわす手段。
(´・(ェ)・`)

128 鬼和尚 :2020/07/26(日) 00:14:43 ID:1d4drIFg0
死の恐れとは家族や資産などを失う恐れというのじゃ。
誰もが死を忘れて死に無知になっているからのう。
その恐れからの逃避として知識や信念にすがるというのじゃ。
それは金や薬や酒や権力に執りつかれるのと同じなのじゃ。

129 避難民のマジレスさん :2020/07/26(日) 00:18:08 ID:b/R.LjPg0
      _| ̄|_| ̄|  | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄|   | ̄|_| ̄|_| ̄|
      |_  _||  | ̄    |  |     |  | ̄   |  |     ̄|
       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
      〈 〈]  ゚,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´  キチガイだろwwww  
          :ヽ   :i |:     
             :/  :⊂ノ|:     wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

130 避難民のマジレスさん :2020/07/26(日) 18:45:17 ID:6kL7WP160
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 2

  恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在しています-それ[蓄積 ] が、失うことへの恐れを造り出すのです。ゆえに知らないものへの恐れはほんとうは、蓄積された知っているものを失うことについての恐れです。蓄積はまちがいなく恐れを意味します―それ [ 恐れ]が今度は苦痛を意味します。それで「私は失ってはならない」と言った瞬間、恐れがあるのです。蓄積における私の意図は、苦痛をかわすことですが、苦痛は蓄積の過程において本来的にあるのです。まさに私の持っているものごとが、恐れを造り出すのです-それが苦痛です。
 防御の種が攻撃をもたらすのです。私は物理的[・身体的]な安全が欲しい。こうして私は主権[独立]政府を造り出します-それは武装した軍隊を必要とします-それは戦争を意味し、それは安全を破壊します。自己保護への願望があるところはどこでも、恐れがあります。安全を要求することの虚偽がわかるとき、私はもはや蓄積しません。それはわかるが、蓄積せざるを得ないと、あなたが言うなら、それは、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないからです。
  恐れは蓄積の過程に存在しています。そして何かへの信念は蓄積過程の一部です。私の息子が死にます。すると私は心理的にこれ以上の苦痛を持つのを防ぐために、輪廻転生を信じます。しかし、まさに信じる過程こそに、疑いがあるのです。外に向かって私は物を蓄積して戦争をもたらします。内に向かって私は信念を蓄積して苦痛をもたらします。私が安全でありたい、銀行預金、楽しみなどを持ちたいと思うかぎり、生理的または心理的に何ものかになりたいと思うかぎり、苦通があるにちがいありません。まさに私が苦痛をかわすためにしていることこそが、私に恐れ、苦痛をもたらすのです。
  恐れは、私が特定の様式のなかにいたいと願望するとき、生じます。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味です。私が特定の生き方を要求するとき、それ自体が恐れの源です。私の困難は、一定の枠のなかで生きたいという願望です。私はその枠を壊せないでしょうか。私は、真理 [がわかるとき] -枠が原因として恐れを引き起こしているということ、この恐れが枠を強めているということ-がわかるときだけ、そうできるのです。私は恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけです-それは [原因として] さらなる恐れを引き起こすでしょう。枠を壊したいという願望に基づいた私の方のどんな行動も、もう一つの様式を [造り出し] 、ゆえに恐れを造り出すだけでしょう。恐れを引き起こすことなく、すなわちそれ [枠] に関する私の方の意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきでしょうか。これは、私が行動してはならない、枠を壊すためのどんな動きもしてはならない、という意味です。私が枠について何もせずに単にそれを見ているとき、私に何が起きるでしょうか。精神自体が、枠、様式であることがわかるのです-それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きているのです。ゆえに精神自体が恐れです。精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行くのです。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味です。
(´・(ェ)・`)つ

131 避難民のマジレスさん :2020/07/26(日) 18:49:48 ID:6kL7WP160
くまめも10-2
恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在する。蓄積が、失うことへの恐れを造り出す。蓄積における意図は、苦痛をかわすことだが、苦痛は蓄積の過程において本来的にある。防御の種が攻撃をもたらす。物理的・身体的な安全が欲しい。自己保護への願望があるところは、恐れがある。安全を要求することの虚偽がわかるとき、もはや蓄積しない。それはわかるが蓄積せざるを得ないと言うなら、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないから。
  恐れは蓄積の過程に存在する。何かへの信念は蓄積過程の一部。外に向かって物を蓄積して戦争をもたらし、内に向かって信念を蓄積して苦痛をもたらす。苦痛をかわすためにしていることが、恐れ、苦痛をもたらす。
恐れは、特定の様式(枠)のなかにいたいと願望するとき、生じる。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味。枠が原因として恐れを引き起こし、この恐れが枠を強めているという真理がわかるときだけ、枠を壊せる。恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけ。それはさらなる恐れを引き起こす。枠を壊したいという願望に基づいた行動も、もう一つの様式を造り出し、恐れを造り出すだけ。恐れを引き起こすことなく、すなわち枠に関する意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきか。枠について何もせずに単にそれを見ているとき、精神自体が、枠、様式であることがわかる。それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きている。ゆえに精神自体が恐れ.精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行く。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味。
(´・(ェ)・`)

132 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/26(日) 22:24:32 ID:1d4drIFg0
蓄積したものを失うことが恐れになるというのじゃ。
金でも知識でも蓄積してきたものを失うのが恐れになるのじゃ。
そもそも金とか知識も恐れからの逃避として蓄積してきたものなのじゃ。
恐れからの逃避として蓄積すれば、今度はそれが恐れを生む悪循環になるのじゃ。

133 避難民のマジレスさん :2020/07/27(月) 10:27:58 ID:s99CdGwQ0
和尚様
井上義衍の縁者の松本自證老師は悟られているのでしょうか?
認識に問題があることを分かっている気がします。

http://zenmasterjinen.blog.jp/archives/19341423.html

134 避難民のマジレスさん :2020/07/27(月) 21:34:00 ID:hdQ2/nGg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 3

恐れは様々な逃避を見つけます。普通の種類は同一化なのではないでしょうか-国との、社会との、観念との同一化です。あなたは軍隊の行進や宗教的行列など、行進[・行列]を見るとき、または祖国が侵略される危機にあるとき、自分がどのように反応するかに気づいたことはないでしょうか。あなたはそのとき祖国と、或る存在[神・人]と、イデオロギーと自分自身を同一化します。あなたは自分の子供、自分の妻、特定の形の行動や無行動と自分自身を同一化する他の時があります。同一化は[忘我の・]自分を忘れる過程です。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがあることを知っています。しかし何かもっと偉大なもの、何か価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避があるのではないでしょうか。私は「祖国」について話をするなら、一時的に自分自身を忘れるのではないでしょうか。私は神について何かを言えるなら、自分自身を忘れるのです。私が自分の家族、集団、特定の党派、一定のイデオロギーと自分自身を同一化できるなら、そのとき一時的な逃避があるのです。
 ゆえに 同一化は、一つの形の自己からの逃避です―まさに美徳が一つの形の自己からの逃避であるように、です。美徳を追求する人は、自己から逃避しているのです。彼は狭い精神を持っているのです。それは美徳のある精神ではありません。というのは美徳は、何か追求できないものであるからです。あなたは美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に、「私」に強さを与えるのです。恐れは、私たちのほとんどにとって、形は違っても共通していますが、いつも代用物を見つけるにちがいないし、ゆえに私たちの格闘を増加させるにちがいないのです。あなたは代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなるのです―あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができているのです。なぜならその裏には恐れがあるからです。
私たちは今、恐れとは何かを知っているでしょうか。それは、あるがままを受け入れないことではないでしょうか。私たちは「受け入れる」という言葉を理解しなければなりません。私はその言葉を、受け入れるために為される努力という意味で使っているわけではありません。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはありません。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込みます。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないことです。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私はどうして[それらを]越えてゆけるでしょうか。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるでしょうか。障害がないとき、なんととてつもない喜びがあるかを、私たちは知っています。あなたは、身体が完ぺきに健康であるとき、一定の喜び、幸福があることを知らないでしょうか。精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、一定の喜びを経験することを、知らないでしょうか。自己が不在であるとき、この状態を経験したことがないでしょうか。確かに私たちは皆 [経験したことが] あるのです。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめられるときだけ、理解と、自己からの自由があるのです。そして私は、願望-すなわちまさに思考の表現そのもの-から生まれた活動すべての過程全体を理解するときだけ、それができるのです-正当化せず、非難せず、抑圧せずに、です。というのは、思考は願望と異ならないからです。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の [諸々の] 制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知るでしょう。  
(´・(ェ)・`)つ

135 避難民のマジレスさん :2020/07/27(月) 21:40:20 ID:hdQ2/nGg0
くまめも10-3
恐れは様々な逃避を見つける。国、社会、観念との同一化。同一化は忘我の過程。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがある。しかし何かもっと偉大なもの、価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避がある。ゆえに 同一化は、自己からの逃避。しかし、たとえば、美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に強さを与える。恐れは、いつも代用物を見つける。ゆえに格闘を増加させる。代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなる。あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができている。なぜならその裏には恐れがあるから。
恐れとは、あるがままを受け入れないこと。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはない。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込む。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないこと。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私は、それらを越えてゆけない。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるか。障害がないとき、精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、とてつもない喜びがある。自己が不在であるとき、この状態を経験する。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめるときだけ、理解と、自己からの自由がある。そして私は、願望から生まれた活動すべての過程全体を、正当化、非難、抑圧せずに理解するときだけ、それができる。というのは、思考は願望と異ならないから。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知る。
(´・(ェ)・`)

136 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/27(月) 23:08:57 ID:1d4drIFg0
>>133 悟っていないのじゃ。
 ハッキリしただけじゃな。
 それは悟りではないのじゃ。

137 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/27(月) 23:26:41 ID:1d4drIFg0
恐れから人は国家や組織と同一化するというのじゃ。
それは一時的に恐れを忘れさせてくれるが、更なる悲惨をもたらすものじゃ。
私という認識の主体がなければ喜びと、幸福が在るのじゃ。
それは自己からの認識全体が観られるとき、起こるものじゃ。

138 避難民のマジレスさん :2020/07/28(火) 21:40:28 ID:9Bjm15Z60
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)1

 私は、単純さとは何であるかを議論したいと思います。するとおそらくそこから、感受性の発見にたどり着くでしょう。私たちは、単純さとはたんに外側の表現、退くことであると考えるように、見えます-わずかの所有物しかもたないこと、腰布を着けること、家を持たないこと、わずかの服しか身につけないこと、少ない銀行預金を持つこと [であると] 。確かにそれは単純さではありません。それはたんに外側の表示であるだけです。単純さは本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。しかし単純さは、私たちが自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうるのです。
 単純さは、たんに様式への適応だけではありません。単純であって、たとえどんなに外的に価値があっても、たんに特定の様式に順応しないことは、たいへんな智恵を必要とします。不幸にも私たちのほとんどは、外側のものごとにおいて外的に単純であることより始めます。わずかのものしか持たないこととわずかなもので満足することは、比較的にたやすいのです-ほんの少しで満足することと、おそらくそのほんの少しを他の人たちと分け合うことは、です。しかし、ものごと、所有物における単純さというたんなる外側の表現は、確かに内側の存在の単純さという意味を含んでいません。なぜなら、世界が現在そうであるように、外側から、外的にますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているからです。生はますます複雑になりつつあります。それから逃避するために、私たちは断念したり、ものごとから無執着であろうとします-車から、家から、組織から、映画から、そして外側から私たちに押しつけてくる無数の境遇から。私たちは退くことにより単純であるだろうと、考えます。非常に多くの聖者たち、非常に多くの教師たちは世界 [・世間] を放棄してきました。そして私たちの誰に関しても、そういう放棄は問題を解決しないように、私には見えます。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけです。そこから外側の表現があるのです。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題です。なぜなら、その単純さは [人を] ますます敏感にするからです。敏感な精神、敏感な心は本質的 [・不可欠] です。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるからです。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているのですが、それらを理解することによってだけ、確かに、内側で単純でありえます。しかし私たちのほとんどは囚われることが好きなのです-人々により、所有物により、観念により。私たちは囚人であることが好きなのです。私たちは外側ではとても単純であるように見えるけれども、内側では囚人です。内側では、私たちは自分たちの願望、欲、理想、無数の動機づけの囚人です。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられません。ゆえに、それは外側でではなく、内側で始まらなければなりません。
 信念の過程全体を [理解する] 、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由があります。信念からの自由があるとき、単純さがあります。しかしその単純さは智恵を必要とします。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければなりません。気づくには、思考や行動のどんな特定の溝、どんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければなりません。結局、内側で何であるかが、外的なものに影響を及ぼすのです。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影です。そして内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がありません。それは一定の改善、一定の適応をもたらすかもしれません。しかし内側で何であるかが、いつも外的なものに打ち勝つのです。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒するのです。
(´・(ェ)・`)つ

139 避難民のマジレスさん :2020/07/28(火) 21:46:13 ID:9Bjm15Z60
くまめも11-1
単純さとはたんに外側の表現、退くことではない。単純さは不可欠。単純さは、自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうる。
単純さは、たんに様式への適応だけではない。たんなる外側の表現は、内側の存在の単純さという意味を含んでいない。なぜなら、外側から、ますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているから。生はますます複雑になりつつある。それから逃避するために、断念したり、無執着であろうとする。私たちは退くことにより単純であろうとする。そういう放棄は問題を解決しない。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけ。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題。なぜなら、単純さはますます敏感にするから。敏感な精神、心は不可欠。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるから。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているが、それらを理解することによってだけ、内側で単純でありえる。しかし私たちは人々、所有物、観念により、囚われることを好む。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられない。ゆえに、それは内側で始まらなければならない。
信念の過程全体を、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由がある。信念からの自由があるとき、単純さがある。その単純さは智恵を必要とする。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければならない。気づくには、思考や行動のどんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければならない。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影。内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がない。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒する。
(´・(ェ)・`)

140 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/29(水) 00:06:49 ID:1d4drIFg0
心の内側で単純であることは知覚を鋭敏にしてくれるというのじゃ。
執着や恐れを理解すれば単純にありえるというのじゃ。
信念への執着を理解する時、自由で単純になれるのじゃ。
そのようにして内側で変容することで真の改革はなされるのじゃ。

141 避難民のマジレスさん :2020/07/29(水) 21:57:47 ID:IdZpVTSU0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)2

 ゆえに、中で始めなければなりません-排他的にではなく、外的なものを拒絶するのではありません。あなたは、外的なものを理解することにより、どうして外側に抗争、格闘、苦痛が存在するのかを見出すことにより、確かに、内的なものに至ります。それをますます究明するにつれて、自然に、外側の抗争と悲惨を生み出すところの心理状態に入るのです。外側の表現は、ただ私たちの内側の状態の表示であるだけです。しかし内側の状態を理解するには、外的なものをとおして接近しなければなりません。私たちのほとんどはそうします。内的なものを理解するなかで-排他的にではなく、外的なものを拒絶することによってではなく、外的なものを理解し、そして内的なものに思いがけず出会うことによって-私たちは、自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になるということを、見つけるでしょう。かくも本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さです。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すからです。敏感でなく、鋭敏でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もありません。私たち自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にするのです。政府により、自分自身により、達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つにちがいありません。外側では、あなたは順応して、とても多くの宗教的な人たちがするように単純さの外観を装うかもしれません。彼らは色んな修練を実践し、色んな組織に加入し、特定の流儀で瞑想をする、などです-すべてが単純さの外観を装っています。しかしそういう順応は単純さに役立ちません。どんな種類の強制も決して単純さに導けません。反対に、あなたは抑圧すればするほど、代用するほど、昇華するほど、ますます単純でなくなるのです。しかしあなたは昇華、抑圧、代用の過程を理解すればするほど、ますます単純である可能性が大きくなるのです。
 私たちはとてつもなく博識で利口になることによってではなく、単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑なのです。単純な人は、複雑な人よりはるかにもっと直接的に見えて、もっと直接的な経験をします。私たちの精神は、事実について、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、私たちは単純である [能力] 、私たち自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまったのです。これらの問題は、新しい接近法を要求します。そしてそれらは、私たちが単純で [あり] 、内側で本当に単純であるときだけ、そのように接近できるのです。その単純さは、ただ自己認識をとおし、私たち自身を理解することをとおしてだけ、訪れるのです。私たちの考え [方]と感じ方、私たちの思考の動き、私たちの応答 [を理解する] 。いかに私たちが恐れをとおして世論に、他の人たちが言うことに、ブッダやキリストや偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示しています- [を理解することをとおして、です] 。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはないのです。
(´・(ェ)・`)つ

142 避難民のマジレスさん :2020/07/29(水) 22:01:47 ID:IdZpVTSU0
くまめも11-2
外側に抗争、格闘、苦痛が存在するわけを見出すことにより、内的なものに至る。自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になる。本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さ。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すから。敏感でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もない。自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にする。達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つ。抑圧、代用、昇華するほど、ますます単純でなくなる。しかし、昇華、抑圧、代用の過程を理解するほど、ますます単純である可能性が大きくなる。
私たちは単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑。私たちの精神は、事実、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、単純である [能力] 、自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまった。単純さは、ただ自己認識をとおしてだけ、訪れる。いかに私たちが恐れをとおして、世論に、他の人たちが言うことに、偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示している − を理解することをとおして。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはない。
(´・(ェ)・`)

143 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/29(水) 23:02:09 ID:1d4drIFg0
外側での抗争、格闘、苦痛が何故起こるのか探求すれば必然的に心の内側に原因があるとわかるというのじゃ。
外で起こることは全て心の内側の表現に過ぎないのじゃ。
全ては心で作られるのであるからのう。
仏陀やキリストの言葉でさえただ従うだけでは安心を求める欲から起こる行いというのじゃ。
自分を観ることでのみ問題は解決できるのじゃ。

144 避難民のマジレスさん :2020/07/30(木) 22:25:52 ID:UDC2l2O20
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)3

 単純であることなしに、敏感でありえません-木々に、鳥たちに、山々に、風に、世界で私たちのまわりで起きていることすべてに対して。単純でなければ、ものごとの内側の暗示に対して敏感でありえません。私たちのほとんどは、意識の上のほうの水準で、あまりに表面的に生きています。そこでは私たちは思慮深くあろう、または智恵を持とうとします-それは宗教的であることと同義です。そこでは私たちは強制をとおし、修練をとおして、自分たちの精神を単純にしようとします。しかしそれは単純さではありません。私たちが上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしないのです。私たちの意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難です。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、私たちの存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないからです-それは、あらゆるほのめかし、あらゆる暗示に目覚めている、という意味です-私たちの恐れ、希望に気づいて、 [それらを] 究明し、それらからますます自由になる [という意味です] 。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、私たちは自分たちが直面する多くの問題を解決することができるのです。
 知識は私たちの問題を解決しそうにありません。あなたは、例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれません。あなたは知っているかもしれません-あなたは知っていると、私は言いません。またはあなたはそれを確信しているかもしれません。しかし、それは問題を解決しません。死は、あなたの理論により、情報により、または確信によって棚上げできません。それ [死] は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的です。
 これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければなりません。なぜなら、私たちの問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけであるからです。そして直接の経験をするには、単純さがなければなりません-それは敏感さがなければならない、という意味です。精神は、知識の重みにより鈍らされます。精神は、過去により、未来により鈍らされます。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、私たちの環境が常に私たちに加えてくる強力な影響と圧力に対処できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

145 避難民のマジレスさん :2020/07/30(木) 22:34:29 ID:UDC2l2O20
くまめも11-3 
世界でまわりで起きていることすべてに対して、ものごとの内側の暗示に対して、単純であることなしに、敏感でありえない。意識の上のほうの水準で、表面的に生きている。そこで、思慮深くあろう、智恵を持とうとする。そこで強制、修練をとおして、精神を単純にしようとする。しかしそれは単純さではない。上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしない。意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないから。それは、あらゆる暗示に目覚めている、という意味。恐れ、希望に気づいて、究明し、それらからますます自由になるという意味。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、自分たちが直面する多くの問題を解決できる。
知識は問題を解決しない。例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれない、それを確信しているかもしれない。しかし、それは問題を解決しない。死は、理論により、情報により、確信により棚上げできない。死は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的。
これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければならない。なぜなら、問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけ。そして直接の経験をするには、単純さ、敏感さがなければならない、という意味。精神は、知識の重みにより、過去により、未来により鈍らされる。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、環境が常に加えてくる強力な影響と圧力に対処できる。
(´・(ェ)・`)

146 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/30(木) 22:57:00 ID:1d4drIFg0
世間でも断捨離という片づけが流行っているのじゃ。
身辺から物が無くなればすっきりして心身もよくなるのじゃ。
心から考えを捨てて単純に成れば敏感にもなるのじゃ。 
それには自らの存在を探求する熱意が必要というのじゃ。

147 避難民のマジレスさん :2020/07/31(金) 20:47:17 ID:D8qZy99Q0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)4

 こうして、宗教的な人は、ほんとうはロ-ブ [聖職者の長い礼服] や腰巻きを着けたり、一日一食で生きたり、これであるべきで、あれであるべきでないという無数の誓いをたててきた人ではなくて、内側で単純である [人] 、何ものにもなろうとしていない人です。そういう精神は、とてつもない受容性の能力があります。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないからです。ゆえにそれは、恵み、神、真理または何であれ、受け取る能力があるのです。しかし真実を追求している精神は、単純な精神ではありません。捜し出し、探求し、手探りし、扇動されている精神は、単純な精神ではありません。内側でも外側でも、どんな権威の様式にも順応する精神は、敏感でありえません。そして精神が本当に敏感で、鋭敏で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやなろうとしていない [とき] 、もはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力があるのです。幸せがありうるのは、そのときだけです。というのは、幸せは [終わりの] 目的ではないからです-それは真実の結果です。精神と心が単純に [なって] ゆえに敏感になったとき-どんな形の強制、指令、または賦課をとおしてでもなく-そのとき私たちは、自分たちの問題にとても単純に取り組めることが、わかるでしょう。私たちの問題がたとえどんなに複雑でも、私たちはそれらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができるでしょう。それが、現在の時代に求められているものです-この外側の混乱、騒乱、敵対に、左翼のであれ右翼のであれ、理論でも定式でもってでもなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、です。あなたは単純でなければ、それに新たに出会えません。

 問題は、私たちがこのように接近するときだけ、解決されうるのです。私たちは、宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できません。ですから私たちは、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければなりません。そういうわけで、気づくこと、私たち自身の考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、これほど重要なのです。そこから、単純さが訪れます。美徳や実践ではない謙虚さが訪れます。獲得される謙虚さは、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではありません。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけです-育成された謙虚さではありません。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないからです。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができるのです。
(´・(ェ)・`)つ

148 避難民のマジレスさん :2020/07/31(金) 20:53:54 ID:D8qZy99Q0
くまめも11-4
宗教的な人は、ほんとうは、内側で単純である 人、何ものにもなろうとしていない人。そういう精神は、とてつもない受容性の能力がある。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないから。ゆえにそれは、真理を受け取る能力がある。しかし真実を追求している精神、扇動されている精神は、単純な精神ではない。権威の様式に順応する精神は、敏感でない。そして精神が本当に敏感で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力がある。幸せがありうるのは、そのときだけ。というのは、幸せは 終わりの目的ではないから。それは真実の結果。精神と心が単純、敏感になったとき-どんな形の強制、指令、賦課をとおしてでもなく-そのとき自分たちの問題にとても単純に取り組める。問題がたとえどんなに複雑でも、それらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができる。この外側の混乱、騒乱、敵対に、理論、定式でもってでなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、現在の時代に求められている。宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できない。だから、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければならない。そういうわけで、気づくこと、考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、重要。そこから、単純さが訪れる。美徳や実践ではない謙虚さが訪れる。獲得される謙虚さは、謙虚でなくなる。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではない。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけ。育成された謙虚さではない。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないから。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができる。
(´・(ェ)・`)

149 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/31(金) 22:54:02 ID:1d4drIFg0
外見を飾るのではなく内面で単純な者にはとてつもない受容性があるというのじゃ。
しかしそれは順応することではないというのじゃ。
権威や伝統に順応すればそれは鈍感になるからのう。
すべてをありのままに見る精神が単純なのじや。

150 避難民のマジレスさん :2020/08/01(土) 20:25:52 ID:Cm90o6.Y0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 1

 自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味です-観念と人々の世界とだけでなく、また自然と [の関係] 、私たちが所有するものごととの関係を、です。それが私たちの生です-生は全体との関係です。その関係を理解することは専門化を要求するでしょうか。明白に [要求] しません。それが要求するものは、全体としての生に出会うための気づきです。どのようにして気づくべきでしょうか。それが私たちの問題です。どのようにしてその気づきを持つべきでしょうか-私がこの [気づきという] 言葉を、専門化という意味を持たせずに使ってよければ。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきでしょうか-それは、あなたの隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との [関係] 、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの [関係]、 という意味です。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきでしょうか。確かにそれが私たちの生なのではないでしょうか。関係なしに生はありません。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではありません。反対にそれは、関係の総合過程 [について] の充分な認識や気づきを要求します。
 どのようにして気づくべきでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。あなたはどのように人との関係に気づくのでしょうか。あなたはどのように木々に、鳥の鳴き声に気づくのでしょうか。あなたは新聞を読むとき、どのように自分の反応に気づくのでしょうか。私たちは内的な応答とともに精神の表面的な応答にも気づいているでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。初めに私たちは刺激に対する応答に気づくのではないでしょうか-それは明白な事実です。私は木々を見ます。すると応答があります。それから感覚、接触、同一化、欲望 [があります] 。それは普通の過程なのではないでしょうか。私たちはどんな書物も研究せずに、現実に起きることを観察できます。
 それで同一化をとおして、あなたは楽しみと苦痛を持ちます。そして私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避なのではないでしょうか。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれるなら、即時に「能力」があるのです。即時に、その事実への気づきがあるのです。そしてそれが苦痛であるなら、「能力」はそれを避けるために開発させられます。私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗するだろうと、私は思います。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないからです。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術ではありません。この自分自身への気づきは、確かに関係の行動 [・作用] において試せるのです。それは私たちの話し方、ふるまい方において試せるのです。どんな同一化もなく、どんな比較もなく、どんな非難もなく、あなた自身を見守ってください。ただ見守ってください。するとあなたはとてつもないことが起きていることが、わかるでしょう。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく-なぜなら、私たちの活動のほとんどは無意識的であるから-あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づくのです。
(´・(ェ)・`)つ

151 避難民のマジレスさん :2020/08/01(土) 20:30:47 ID:Cm90o6.Y0
くまめも12-1
自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味。観念と人々の世界、自然、所有するものごととの関係。生は全体との関係。その関係を理解することは、全体としての生に出会うための気づきを要求する。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきか-それは、隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの 関係。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきか。関係なしに生はない。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではない。反対にそれは、関係の総合過程の充分な認識や気づきを要求する。
どのように何かに気づくのか。初めに刺激に対する応答に気づく。木々を見る→応答がある→感覚、接触、同一化、欲望がある。→楽しみと苦痛を持つ。
私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれる→即時に「能力」がある。即時に、その事実への気づきがある。それが苦痛である→「能力」はそれを避けるために開発される。
私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗する。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないから。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術でない。この自分自身への気づきは、関係の行動・作用、話し方、ふるまい方において試せる。どんな同一化、比較、非難もなく、あなた自身をただ見守れ。するととてつもないことが起きていることがわかる。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく、あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づく。
(´・(ェ)・`)

152 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/02(日) 00:32:02 ID:1d4drIFg0
自分と自分にまつわる観念について全体として気づくことが自分自身を知ると言っているのじゃ。
全体を知らなければ自分自身を知ったことにはならないのじゃ。
知ることは本を読んだりして知識を蓄積することではないのじゃ。
現実に起きていることを観察してできることなのじゃ。

153 避難民のマジレスさん :2020/08/02(日) 18:20:31 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 2

 あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかります。しかしそれは、非難がないときだけ起こりうるのです。私は何かを非難するとき、それを理解しません。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方です。私たちのほとんどは意図的にそうすると、私は思います。私たちは即時に非難します。そして私たちは理解したと思うのです。私たちはそれを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始めるのです。これを実験してみてください。するとあなたは自分自身でわかるでしょう。ただ気づいてください-どんな正当化の感覚もなしに-それはむしろ否定的に見えるかもしれませんが、否定的ではありません。反対にそれは、直接的行動である受動性の性質を持っています。そしてあなたはそれを実験してみるなら、これを発見するでしょう。
 結局、あなたは何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならないのではないでしょうか。あなたはそれについて考え [続け] 、それについて憶測し・思索し [続け] 、それを問い続けられません。あなたはそれの内容を受け取るほど充分に敏感でなければなりません。それは敏感な・高感度の写真の感光板と似ています。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければなりません。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめます。確かにそれは能力や専門化の問題ではありません。その過程において、私たちは自分自身を-私たちの意識の表面的な層だけではなくて、より深い [層] 、すなわちはるかにもっと重要であるものを-理解しはじめるのです。なぜなら、そこに、私たちの動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるからです。外側では、私たちはそれらをすべて制御しているかもしれませんが、内側では、それらは沸き立っているのです。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、明白に自由はありえません。幸せはありえません。智恵はありません。
 智恵は専門化の事柄でしょうか-智恵は私たちの過程への総合的気づきです。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものでしょうか。なぜなら、それが起きていることであるからではないでしょうか。司祭、医者、技師、産業経営者、事業家、大学教授-私たちはその専門化すべての精神性を持っています。
 最高の形の智恵-すなわち真理、神、叙述できないもの-を悟るには、それを悟るには、私たちは自分たち自身を専門家にしなければならないと、思うのです。私たちは研究します。私たちは手探りします。私たちは探し出します。そして私たちは能力-すなわち自分たちの葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究するのです。
(´・(ェ)・`)つ

154 避難民のマジレスさん :2020/08/02(日) 18:29:39 ID:Cu43pdJw0
くまめも12-2
あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかる。それは、非難がないときだけ起こりうる。私は何かを非難するとき、それを理解しない。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方。私たちは意図的にそうする。即時に非難する。そして理解したと思う。それを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始める。ただ気づけ。どんな正当化の感覚もなしに-それは否定的ではない。それは、直接的行動である受動性の性質を持つ。実験してみれば、これを発見する。
 何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならない。それについて考え、憶測し・思索し、それを問い続けられない。それの内容を受け取るほど充分に敏感でなければならない。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければならない。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめる。それは能力や専門化の問題ではない。その過程において、自分自身を-意識の表面的な層だけではなくて、より深い、もっと重要であるものを-理解しはじめる。なぜなら、そこに、動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるから。外側では、それらをすべて制御しているが、内側では、それらは沸き立っている。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、自由は、幸せは、智恵はない。
 智恵は私たちの過程への総合的気づき。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものはない。なぜなら、それが起きていることであるから。私たちはその専門化の精神性を持っている。
 最高の形の智恵-真理、神、叙述できないもの-を悟るには、自分自身を専門家にしなければならない。私たちは研究し、手探りし、探し出す。そして能力-すなわち葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究する。
(´・(ェ)・`)

155 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/02(日) 22:28:49 ID:1d4drIFg0
気付きは非難が無い時に起こると言うのじゃ。
西洋人はものごとを観る時に批判的な精神で見るようにと教育されるからのう。
そのような条件付けされた見方では気付きは起こらないのじゃ。
自分自身を非難も肯定もせずに、見るのじゃ。
自分自身を研究するのじゃ。

156 避難民のマジレスさん :2020/08/03(月) 21:24:20 ID:hkn8ohjE0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 3

 そもそも私たちが気づいているとするなら、私たちの問題は、私たちの日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されうるのかどうか、 [ということ] です。それらが [解決] されえないなら、私たちがそれらに取り組むことは、どのようにして可能なのでしょうか。問題を理解するには、明白に一定の智恵を必要とします。その智恵は専門化から引き出したり、[専門化]をとおして育成したりできません。それは、私たちが自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じるのです-それは、選択なく、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくことです。あなたは受動的に気づくとき、その受動性-それは無為・何もしないことではなく、眠りではなくて、極度の鋭敏さです-の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかるでしょう。それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味です。あなたが常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうるのです。それが困難です。なぜなら、私たちのほとんどは受動的に気づく [能力] 、私たちが解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないからです。私たちはどのように問題を冷静に見るべきかを知らないのです。私たちは不幸にもその能力がないのです。なぜなら、私たちは問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているからです。または私たちは自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようとします。または私たちは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っているのです。ゆえに私たちは問題-すなわちいつも新しいもの-に、古い様式をもって接近するのです。挑戦はいつも新しいものですが、私たちの応答はいつも古いものです。そして私たちの困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うことです。問題はいつも関係の問題です-ものごととの、人々との、観念との [関係です] 。他に問題はありません。関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく出会うには、それに適切に出会うには-受動的に気づかなければなりません。この受動性は決意、意志、修練の問題ではありません。私たちが受動的でないことに気づくことが、始まりです。私たちが特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-確かにそれが始まりです。問題との関係のなかで私たち自身を知ること、私たちが問題をどのように扱うのか [を知ること] です。そのとき私たちは問題との関係のなかで自分自身を-その問題に出会うなかで私たちがどう応答するのか、私たちの様々な先入観、要求、追求が何であるのかを-知りはじめるにつれて、この気づきが、私たち自身の考える [過程] 、私たち自身の内部の本性の過程を開示するでしょう。そこに解放があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

157 避難民のマジレスさん :2020/08/03(月) 21:28:31 ID:hkn8ohjE0
くまめも12-3
そもそも私たちが気づいているとするなら、問題は、日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されえないなら、それらに取り組むことは、どのようにして可能か。問題を理解するには、一定の智恵が必要。その智恵は自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じる。それは、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくこと。受動的に気づくとき、その受動性の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかる、それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味。常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうる。それが困難。なぜなら、受動的に気づく、解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないから。どのように問題を冷静に見るべきかを知らない。その能力がない。なぜなら、問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているから。または自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようするまたは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っている。ゆえに新しい問題に、古い様式をもって接近する。挑戦はいつも新しいが、応答はいつも古いもの。そして困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うこと。問題はいつも関係の問題 − ものごととの、人々との、観念との関係。他に問題はない。
関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく、適切に出会うには-受動的に気づかなければならない。この受動性は決意、意志、修練の問題ではない。受動的でないことに気づくことが、始まり。特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-それが始まり。問題との関係のなかで自身を知ること、問題をどのように扱うのかを知ること。そのとき問題との関係のなかで自分自身を知りはじめるにつれて、この気づきが、自身の考える過程、内部の本性の過程を開示する。そこに解放がある。
(´・(ェ)・`)

158 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/03(月) 23:59:53 ID:1d4drIFg0
問題の解決には自分を知ることが大事だというのじゃ。
自分に気付けば問題との自己同一化がなくなり、解決できるようになるというのじゃ。
それが智慧というものじゃ。
自分自身に気付くことで解放も在るのじゃ。

159 避難民のマジレスさん :2020/08/04(火) 22:37:35 ID:fO1sW.K20
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 4

 重要であることは、選択なしに気づくことです。なぜなら、選択は葛藤をもたらすからです。選択する者は混乱 [の状態] にあります。ゆえに彼は選択するのです。彼が混乱 [の状態] にないなら、選択はないのです。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択するのです。明晰で単純である人は選択をしません。あるがまま、です。観念に基づいた行動が、明白に選択の行動です。そういう行動は解放しません。反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけです。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくことです。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくからです。すなわちあなたの気づきは、あなたの蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがあるのです。翻訳があるところ、選択があります。そして選択は葛藤を造り出します。葛藤には、理解はありえません。
 生は関係の事柄です。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき [がなければならない] 、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければなりません。私が言いましたように、この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ないのです。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくことです-目覚めているときだけではありません。というのは私たちは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるでしょうから。こうして私たちは隠れたものへの扉を開くのです-それ [隠れたもの] は知られるものになるのです。しかし知られていないものを見つけるには、私たちは扉を越えてゆかなければなりません-確かにそれが私たちの困難です。真実は、精神が知ることのできるものではありません。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるからです。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければなりません。そのときだけ、知られないものがあることが可能なのです。
(´・(ェ)・`)つ

160 避難民のマジレスさん :2020/08/04(火) 22:43:55 ID:fO1sW.K20
くまめも12-4
重要なのは、選択なしに気づくこと。なぜなら、選択は葛藤をもたらすから。選択する者は混乱にある。ゆえに彼は選択する。彼が混乱にないなら、選択はない。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択する。明晰で単純である人は選択をしない。あるがまま。観念に基づいた行動が、選択の行動。そういう行動は解放しない、反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけ。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくこと。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくから。すなわち気づきは、蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがある、翻訳があるところ、選択がある。そして選択は葛藤を造り出す。葛藤には、理解はない。
 生は関係の事柄。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければならない。この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ない。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくこと− 目覚めているときだけではない。というのは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるから。こうして隠れたものへの扉を開く-隠れたものは知られるものになる。しかし知られていないものを見つけるには、扉を越えてゆかなければならない-それが困難。真実は、精神が知ることのできるものではない。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるから。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければならない。そのときだけ、知られないものがあることが可能。
(´・(ェ)・`)

161 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/04(火) 23:30:46 ID:1d4drIFg0
気付くことには選択すらも妨げになるのじゃ。
それは分別をしていることになるからのう。
今ここに在るものごとをありのままに見るのじゃ。
選択すらも無く見る事が出来たならばそれが気付きなのじや。

162 避難民のマジレスさん :2020/08/05(水) 22:27:49 ID:88HzfH7Q0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 1

 私たちのほとんどにとって、欲望は実に問題です-財産、地位、力、慰め [安楽・快適さ] 、不死、継続 [存続] への欲望、愛されたい [という欲望] 、何か永久的な [もの]、 満足させ持続するもの、何か時間を超えているものを持ちたいという欲望です。では欲望とは何でしょうか。私たちを駆り立て強制しているこのものは何でしょうか。私たちは持っているものやあるがままの私たちに満足すべきであると、私は提唱しているのではありません-それはたんに私たちが欲しいものの対極であるだけです。私たちは欲望とは何であるのかを見ようとしています。私たちは仮に、ためらいがちにそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの欲望の対象を用いるだけではない変容をもたらすであろうと、私は思います。これが一般に私たちのいう「変化」という意味なのではないでしょうか。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、私たちはその代用物を見つけます。私たちは、一つの欲望の対象から、私たちがより高くより高尚でより洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いているのです。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望です。そしてこの欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤があるのです。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか。欲望とは何でしょうか。それは象徴とその感動 ・感覚ではないでしょうか。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚です。象徴とその感動を伴わない欲望があるでしょうか。明白に、ありません。象徴は、私に感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念であるかもしれません-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせるのです。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまるのです。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変えるのです。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈してしまいます。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求めます。私は古い感動を拒絶して、新しいものを採り入れます-新しい言葉、新しい意義、新しい経験をもったもの、です。私は古いものに抵抗して、より高くより高尚でより満足させてくれると考える新しいものに屈します。こうして欲望には、抵抗と屈することがあります-それには誘惑が関与しています。そしてもちろん、欲望の特定の象徴に屈することには、いつも挫折への恐れがあるのです。
 私は自分自身の欲望の過程全体を観察するなら、いつも対象 [がある] -私の精神が、さらなる感動のためにそれに向けられているもの-があるということ、そしてこの過程には抵抗、誘惑、修練が関与しているということが、わかります。知覚、感覚、接触、欲望があります。そして精神はこの過程の機械的な道具になります-そこでは象徴、言葉、対象が中心です-そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれるのです。その中心が「私」です。私はその欲望の中心を解消できるでしょうか-一つの特定の欲望、一つの特定の欲望や渇望ではなくて、欲望、あこがれ、希望-そこにはいつも挫折の恐れがあります-の構造全体を、です。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまいます。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がありますし、それがまた・さらに中心を強めるのです。そして革命は、その中心においてだけ可能です-表面にではありません-それはたんに逸脱・散漫の過程 [であり] 、有害な行動につながる表面的変化であるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

163 避難民のマジレスさん :2020/08/05(水) 22:28:49 ID:88HzfH7Q0
くまめも13-1
 欲望とは何か。私たちを駆り立て強制しているこのものは何か。私たちはそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの対象を用いるだけではない変容をもたらす。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、その代用物を見つける。一つの欲望の対象から、より高く、高尚で洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いている。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望。この欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤がある。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要。欲望とは何か。それは象徴とその感動 ・感覚。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚。象徴は、感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせる。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまる。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変える。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈する。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求める。
 欲望の過程全体を観察。精神が、さらなる感動のためにそれに向けられている対象がある。この過程には抵抗、誘惑、修練が関与している。知覚、感覚、接触、欲望がある。精神はこの過程の機械的な道具になる − そこでは象徴、言葉、対象が中心 − そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれる。その中心が「私」。その構造全体を解消できるか。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまう。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がある。それがまた・さらに中心を強める。そして革命は、その中心においてだけ可能 − 表面にではない − それはたんに逸脱・散漫の過程、有害な行動につながる表面的変化であるだけ。
(´・(ェ)・`)

164 避難民のマジレスさん :2020/08/06(木) 20:02:54 ID:24iU9Zco0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 2

 私はこの欲望の構造全体に気づくとき、いかに私の精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかります。私は、一つの欲望に疲れてしまうと、自動的にもう一つ [の欲望] において自己を充足させたいと思います。私の精神はいつも感動という見地に立って経験しています-それは感動の道具です。特定の感動に退屈すると、私は新しい感動を求めます-それは神の悟り・実現と呼ぶものであるかもしれません-しかし、それもやはり感動です。私はこの世・世界とその苦労はもうたくさん(うんざり)なので、平和が、永続する平和が欲しいのです。それで私は瞑想し、制御します-その平和を経験するために、自分の精神を形造ります。その平和を経験することも、やはり感動です。それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心です-そこ [中心] から私は行動し考えるのです。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影です-それ [精神]は、そこ [象徴] から感動を引き出してくるのです。「神」という言葉、「愛」という言葉、「共産主義」という言葉、「民主主義」という言葉、「国家 [・民族] 主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴です。ゆえに精神はそれらにすがりつくのです。あなたと私が知っているように、あらゆる感動は終わりになります。それで私たちは、一つの感動からもう一つへ進むのです。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強めます。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけです。その過程に、私たちは捕らわれるのです。精神はさらなる経験を求めているかぎり、感動という見地に立って考えられるだけです。そして自発的で創造的で命がけの・生き生きして心を打つほど・打ちのめすほど新しいかもしれないどんな経験でも、それ [精神] は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求します-そのときそれは記憶になるのです。ゆえに経験は死んでいます。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけです。
 もしも私たちがとにかくそれに深く入って行ったなら、この過程に慣れ親しんでいるのです。そして私たちは [この過程を] 越えてゆく能力はないように見えます。私たちは越えてゆきたいのです。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているからです。それで精神は、真理の、神の観念を投影します。それは命がけの変化を [夢見] 、その変化において第一の役割・主役を演じること、などなどを夢見ます。ゆえに決して創造的状態がありません。私は、私自身にこの欲望の過程が続いていることが、わかります-それは機械的、反復的です-それは精神を日課の過程に拘束して 、[そこに] 創造的自発性のない過去の死んだ中心にするのです。また突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動 [のもの] や欲望のものでもないものの [瞬間]- があります。
 ゆえに、私たちの問題は、欲望を理解することです-それはどこまでゆくのだろうかとか、どこで終わりになるのだろうか、ではなく、欲望の過程全体を-渇望、あこがれ、燃えたつ・燃えさかる欲求を、理解することです。私たちのほとんどは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると、考えます。それで、なんと私たちは、わずかなものしか持たない人たちを崇拝するのでしょう!腰布、ロ-ブは、欲望から自由でありたいという私たちの欲望を象徴しています。しかし、それもまたとても表面的な反動 [・反応] です。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのでしょうか。確かに、革命が起こらなければならないのは、そこで、です-どれぐらい所有するかや、どんな服を着るかや、どれぐらい食事を摂るかに、ではないのです。しかし私たちの精神はとても表面的であるから、私たちはこれらのものごとに印象づけられ(感銘を受け)るのです。
(´・(ェ)・`)つ

165 避難民のマジレスさん :2020/08/06(木) 22:10:38 ID:24iU9Zco0
くまめも13-2
欲望の構造全体に気づくとき、いかに精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかる。私の精神はいつも感動という見地に立って経験してる。
永続する平和が欲しい。それで私は瞑想し、制御する− そのために、自分の精神を形造る。その平和を経験することも、やはり感動.それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心− そこから私は行動し考える。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影− 精神は、象徴から感動を引き出してくる。「神」、「愛」、「民主主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴。ゆえに精神はそれらにすがりつく。あらゆる感動は終わりになる。一つの感動からもう一つへ進む。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強める。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけ。どんな経験でも、精神は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求する− そのときそれは記憶になる。ゆえに経験は死んでいる。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけ。
私たちは越えてゆきたい。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているから。それで精神は、真理の、神の観念を投影する。その変化において主役を演じることを夢見る。ゆえに決して創造的状態がない。突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動や欲望のものでもないものの瞬間 − がある。
 ゆえに、問題は、欲望を理解することではなく、欲望の過程全体を理解すること。私たちは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると考える。しかし、それもまたとても表面的な反動・反応。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのか。精神はとても表面的であるから、これらのものごとに印象づけられ感銘を受ける。
(´・(ェ)・`)

166 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/06(木) 23:15:29 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティも瞑想するというのじゃ。
もっともそれは自己を忘れるサマーディにまで達しなければ瞑想とは言われないというがのう。
瞑想の全てを否定しているのではないのじゃ。
瞑想に拠って精神から感動を引き出してくるという洞察も可能になるのじゃ。

167 避難民のマジレスさん :2020/08/07(金) 21:30:15 ID:nELsQgfM0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 3

 あなたの問題と私の問題は、精神がいったい欲望から、感覚から自由でありうるかどうかが、わかることです。確かに、創造は、感動とは何の関わりもありません。真実、神、何であれ、 [それらは] 感動として経験されうる状態ではありません。あなたが経験をするとき、何が起きるでしょうか。それはあなたに一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらしたのです。当然、あなたは憂鬱の状態を避けよう、脇へ置こうとします。しかしそれが喜び、得意の気分であるなら、あなたはそれを追求します。あなたの経験は楽しい感動を生み出しました。そしてあなたはそれをもっと(多く)欲しいと思います。もっと(多く)は、精神の死んだ中心を強めます-それ [中心] は常にさらなる経験を渇望しています。ゆえに精神は何も新しいものを経験できません。それは何も新しいものを経験する能力がありません。なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるからです。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造、真実ではありません。そういう精神は真実を経験できません。それは感動を経験できるだけです。そして創造は感動ではありません。それは、瞬間瞬間、何か永続的に新しいものです。
 そこで(今)私は自分自身の精神の状態を悟ります。それは感動と欲望の道具であること、というよりむしろ感動と欲望であること、それは決まった日課に機械的に捕らわれているということが、わかります。そういう精神は決して新しいものを受け取ったり、打診する・感じ尽くす能力がありません。というのは、新しいものは明白に何か感動を越えたものであるにちがいないからです-それ [感動] はいつも古いものです。それで、この機械的過程とともにその感動は、終わりにならなければならない、のではないでしょうか。もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければなりません。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能です-そこ [創造性の状態] に、新しいものがいつも生じうるのです。あなたは、言葉により、習慣により、観念によって催眠術をかけられることなく理解して、新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解するでしょう。そのときあなたは、本当に求めている人にとって、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめるだろうと、私は思います。明白に、一定の身体 [・物質] 的必要はあります-衣・食・住とその他すべてです。しかしそれらは決して心理的欲求に[なりません]- 精神が欲望の中心としてそれ自体を築き上げるものに-なりません。物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への [欲望も] -心理的過程になります。それ [心理的過程] によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強めます。
あなたはこの過程がわかるとき、反対なく、誘惑の感動なく、抵抗なく、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見するでしょう。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえません。それは 、[そこに] 招待なく、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態です-それが真実です。
(´・(ェ)・`)つ

168 避難民のマジレスさん :2020/08/07(金) 21:45:20 ID:nELsQgfM0
くまめも13-3
 問題は、精神が欲望から、感覚から自由でありうるか。創造は、感動として経験されうる状態ではない。経験をするとき、一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらした。当然、憂鬱の状態を避けようとする。しかしそれが喜びの気分であるなら、それを追求する。経験は楽しい感動を生み出した。そしてそれをもっと欲しいと思う。もっとは、精神の死んだ中心を強める− 中心は常にさらなる経験を渇望する。ゆえに精神は何も新しいものを経験できない、なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるから。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造ではない。そういう精神は真実を経験できない。それは感動を経験できるだけ。創造は感動ではない。瞬間瞬間、何か永続的に新しいもの。
感動はいつも古いもの。それで、この機械的過程とともにその感動、もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければならない。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能。新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解する。そのとき、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめる。
物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への欲望も− 心理的過程になる。心理的過程によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強める。
あなたはこの過程がわかるとき、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見する。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえない。それは 、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態 − それが真実。
(´・(ェ)・`)

169 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/08(土) 00:00:18 ID:1d4drIFg0
記憶を通して認識されたものは真理、創造、真実ではないというのじゃ。
クリシュナムルティも認識が記憶に依存していると観念の世界に陥ると理解していたのじゃ。
記憶への依存が無くなれば認識は真実を知る器官になるのじゃ。
そのような記憶に依存した認識が無い時、存在の状態が真実と成るのじゃ。

170 避難民のマジレスさん :2020/08/08(土) 21:38:37 ID:QIfaqeEk0
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 1

  生は経験-関係における経験-です。孤立 [の状態] において生きられません。ですから生は関係ですし、関係は作用 [・行動] です。それでどうすれば関係すなわち生を理解するためのその能力を持てるのでしょうか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 [でもあるの] ではないでしょうか。生は関係です-それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現されます。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つでしょう。ですから私たちの問題は能力ではなくて―というのは、能力は関係から独立していない(関係に依存していないわけではない)からです―むしろ関係[について]の理解です-それ[理解]が自然に、すばやい柔軟性、すばやい適応、すばやい応答のための能力を生み出すでしょう。
 関係は確かに、あなたが [そこに] 自分自身を発見する鏡です。関係なくして、あなたはありません。有る[・生きる]ことは関係することです-関係することが存在です。あなたは関係においてだけ存在しているのです。そうでないとあなたは存在していません-存在は意味がありません。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではありません。あなたは関係しているから存在しているのです。それで葛藤を引き起こす [原因になる] のは、関係[について]の理解の欠如です。
今、関係[について]の理解はありません。なぜなら私たちは関係を、たんに達成を促進し、変容を促進し、なりゆきを促進する手段としてだけ使うからです。しかし、関係は自己発見の手段です、なぜなら関係は有る[・生きる]ことであるからです。それが存在です。関係なくして、私はありません。私自を理解するには、私は関係を理解しなければなりません。関係は、[そこに] 私自身が見える鏡です。その鏡は歪んでいることもあるし、有るものを映し出して「あるがまま」であることもあります。しかし私たちのほとんどは、関係のなかに、その鏡のなかに、むしろ見たいと思うものごとが、見えるのです。私たちはあるがままが見えないのです。私たちはむしろ理想化し、逃避したいのです-その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

171 避難民のマジレスさん :2020/08/08(土) 21:56:19 ID:QIfaqeEk0
くまめも14-1
生は関係における経験。孤立の状態において生きられない。生は関係、関係は作用・行動。どうすれば関係すなわち生を理解できるか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 。生は関係。それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現される。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つ。だから私たちの問題は能力ではなくむしろ関係についての理解−理解が自然に、すばやい柔軟性、適応、応答のための能力を生み出す。
 関係は確かに、あなたがそこに自分自身を発見する鏡。関係なくして、あなたはない。有る・生きることは関係すること。関係することが存在。あなたは関係においてだけ存在している。存在は意味がない。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではない。あなたは関係しているから存在している。それで葛藤を引き起こす原因になるのは、関係についての理解の欠如。
今、関係についての理解はない。なぜなら関係を、たんに達成を、変容を、なりゆきを促進する手段としてだけ使うから。しかし、関係は自己発見の手段、なぜなら関係は有る・生きることであるから。それが存在。私自を理解するには、関係を理解しなければならない。関係は、そこに私自身が見える鏡。その鏡は歪んでいることもある。私たちはあるがままが見えない。私たちはむしろ理想化し、逃避したい − その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたい。
(´・(ェ)・`)

172 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/08(土) 22:56:41 ID:1d4drIFg0
関係とはつきつめれば自分と他人との関係なのじゃ。
自分がいるという認識は自分とは別の他人が居るという関係から起こるからなのじゃ。
自他の区別から自我も起こるのじゃ。
それを理解できれば自分の認識も理解できるのじゃ。

173 避難民のマジレスさん :2020/08/09(日) 21:41:44 ID:HMHJI/pY0
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 2

 そこで私たちは自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることが、わかるでしょう。私たちはほんとうは他の人に関心がないのです。私たちはそれについて大いに話すけれども、現実には関心がないのです。その関係が私たちを喜ばせて[満足させて]くれる限り、避難所を与えてくれる限り、満足させてくれる限りにおいてだけ、私たちは誰かと関係しているのです。しかし関係に動揺があった瞬間―それ [動揺] が私たち自身に不愉快さを生み出します―私たちはその関係を切り捨てます。言い換えれば、私たちが喜んでいる限りにおいてだけ、関係があるのです。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれません。しかし、あなたはほんとうに自分の生をとてもきっちりと・しっかりと検討するなら、それが事実であると、わかるでしょう。そして事実を避けることは無知において生きることですし、それは決して正しい関係を産み出せません。私たちは自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかります- [その壁越しに] 他の人を見て観察するのです。しかし、私たちはいつもその壁を保持・確保してその裏にとどまります―それが心理的な壁、物質的な壁、経済的な壁や国家[・民族]主義的な壁であっても。私たちは壁の裏で孤立 [の状態] において生きる限り、他の人との関係はありません。そして私たちは閉じこもって・閉鎖的に生きています。なぜならそのほうがもっと喜びがあるからです-私たちはそのほうがもっと安全であると思うのです。世界がこんなに引き裂かれ[分裂し]、こんなに多くの悲しみ、こんなに多くの苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため私たちは私たち自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思うのです。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立(化)の過程です。そして明白にそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築きます。それがまさしく世界中で起きていることです。あなたは自分の孤立にとどまって、壁越しに手を伸ばし、それを国家[・民族]主義、同胞愛、などと呼びます。しかし現実には独立政権、軍隊が継続[存続]するのです。あなたはやはり[なお・依然として]自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思うのです―それは不可能です。あなたが境界を持っているかぎり―国家[・民族]的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実です。
(´・(ェ)・`)つ

174 避難民のマジレスさん :2020/08/09(日) 21:42:42 ID:HMHJI/pY0
くまめも14-2
自分たちの生を、他の人と私たちの関係を検討するなら、それが孤立(化)の過程であることがわかる。私たちはほんとうは他の人に関心がない。その関係が私たちを喜ばせて満足させてくれる限り、避難所を与えてくれる限りにおいてだけ、誰かと関係している。しかし関係に動揺があった瞬間―動揺が自身に不愉快さを生み出し− その関係を切り捨てる。言い換えれば、喜んでいる限りにおいてだけ、関係がある。これはきびしく・不快に聞こえるかもしれない。しかし、ほんとうに自分の生をしっかりと検討するなら、それが事実であるとわかる。そして事実を避けることは無知において生きることだし、それは決して正しい関係を産み出さない。自分たちの生を覗いてみて関係を観察するなら、それが、他の人に対して抵抗を築く過程、壁であることがわかる−その壁越しに他の人を見て観察する。しかし、いつもその壁を保持・確保してその裏にとどまりまる。壁の裏で孤立の状態において生きる限り、他の人との関係はない。そして閉じこもって・閉鎖的に生きている。なぜならそのほうがもっと喜びがあり、安全であると思うから。世界がこんなに分裂し、こんなに多くの悲しみ、苦痛、戦争、破壊、悲惨があるので、そのため自身の心理的存在の安全の壁の中に逃避して生きたいと思う。ですから関係は、私たちのほとんどにとって、現実に孤立化の過程。そしてそういう関係は、これまた孤立してゆく社会を築く。あなたは自分自身の制限にすがり付きながらも、世界統一、世界平和を造り出せると思う−それは不可能。境界を持っているかぎり―国家・民族的でも経済的でも宗教的でも社会的でも-世界に平和はありえないということは明白な事実。
(´・(ェ)・`)

175 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/09(日) 22:58:44 ID:1d4drIFg0
他人とは別の自分があるという観念から孤独が生まれるのじゃ。
他人の中に一人の自分が居るという観念が心細さとか恐れを生むのじゃ。
それが孤独なのじゃ。
孤独から逃れようとして争いも起こるのじゃ。

176 避難民のマジレスさん :2020/08/10(月) 22:47:30 ID:2/995q.60
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 3

  孤立(化)の過程は力への探求の過程です-個人的に力を求めていようと、人種的、国家[・民族]的集団のため [に力を求めて] であろうと、孤立(化)があるにちがいありません。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるからです。結局それが、各自が欲しいものなのではないでしょうか。 [人は、そこで] 自分が支配できる強力な地位が欲しいのです―家庭でも、事務所・職場でも、官僚制度[体制・機構]でも。各自が力を求めています。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立するでしょう-それもまた明白です。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつあるのではないでしょうか。これを理解することがとても重要であると、私は思います。なぜなら、平和な世界 [が欲しい] 、戦争のない、ぞっとするような破壊のない、測り知れない規模の壊滅的な悲惨のない世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから、ではないでしょうか。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていません。ゆえにそういう人はどんな国籍・国家[民族]、どんな旗にも縛られていません。彼は旗を持ちません。
 孤立 [の状態] において生きているようなものはありません―どんな国も、どんな人も、どんな個人も孤立 [の状態]において 生きられません。けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てるのです。国家[・民族]主義者は災い・呪われた者です。なぜなら、彼はまさに自分の国家[・民族]主義的 [精神] 、愛国精神そのものをとおして、孤立の壁を造り出しているからです。彼は他の国に対して壁を築くほど、あまりに祖国と同一化しているのです。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるでしょうか。その何かが常にあなたの壁を叩いているのです。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争 [状態] にあるということを、表示しています。ですから国家[・民族]主義は孤立の過程であり、力への探求から出てきたものですが、 [それは] 世界に平和をもたらせません。国家[・民族]主義者であって同胞愛について話をする人は、嘘をついているのです。彼は矛盾の状態に生きているのです。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界 [・世間] で生きられるでしょうか。明白にできます。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうします。何かもっと偉大なもの―党派、国、人種、宗教、神―とのこの同一化が、力への探求です。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいのです。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したいというその欲望が、力への欲望です。
  関係は自己を露呈する過程です。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がありません。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解することです。そのとき関係は孤立(化)の過程 [になるの] ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになるのです。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まりです。
(´・(ェ)・`)つ

177 避難民のマジレスさん :2020/08/10(月) 22:48:55 ID:2/995q.60
くまめも14-3
孤立(化)の過程は力への探求の過程。なぜならまさに力、地位への欲望こそが分離主義であるから。人は、そこで自分が支配できる強力な地位が欲しい−家庭、事務所・職場、官僚制度体制・機構。各自が力を求めている。そして力を求めるなかで、彼は、軍事的、産業的、経済的などの力に基づいた社会を確立する-それもまた明白。力への欲望は、まさにその本性そのものにおいて、孤立しつつある。これを理解することがとても重要。なぜなら、平和な世界が欲しいと思う人は、この根本的問題・疑問を理解しなければならないから。愛情のある、親切な人は力の感覚・意識を持っていない。ゆえにそういう人はどんな旗にも縛られていない。
孤立の状態において生きているようなものはない。孤立の状態において 生きられない、けれどもあなたはあまりに多くの違った仕方で力を求めているから、孤立を生み育てる。あなたが何かに対して壁を築くとき、何が起きるか。その何かが常にあなたの壁を叩いている。あなたが何かに抵抗するとき、その抵抗こそが、あなたが他のものと抗争状態にあるということを、表示している。
力への、地位への、権威への欲望をもたずに、世界・世間で生きられるか。明白にできる。自分自身を何かもっと偉大なものと同一化しないとき、そうする。何かもっと偉大なものとのこの同一化が、力への探求。あなた自身が空っぽで鈍くて弱いから、あなたは自分自身を何かもっと偉大なものと同一化したい。それが力への欲望。
  関係は自己を露呈する過程。そして自分自身を、自分自身の精神と心の道筋を知ることなく、たんに外側の秩序、体制、ずるがしこい定式を確立するだけでは、ほとんど意味がない。重要であることは、他のものとの関係において自分自身を理解すること。そのとき関係は孤立(化)の過程ではなく、あなたが自分自身の動機、思考、追求を発見する動きになる。そしてまさにその発見こそが、解放の始まり、変容の始まり。
(´・(ェ)・`)

178 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/11(火) 00:26:14 ID:1d4drIFg0
個我であるという観念は他のものとの競争や闘争に拠って強化されるのじゃ。
それがまた孤独を強めるのじゃ。
自らを追求することでそれも滅することが出来るのじゃ。
それが解放であり、変容なのじゃ。

179 避難民のマジレスさん :2020/08/11(火) 22:03:17 ID:PGnztOo20
最初と最後の自由  第一部
  第十五章 思考者と思考 1

 私たちの経験すべてには、いつも経験者、観察者がいます-それ [経験者、観察者]が 自分自身のためにもっともっと多くのものを集めたり、自分自身を否定したりしています。それはまちがった過程ではないでしょうか。そしてそれは創造的状態をもたらさない追求ではないでしょうか。それがまちがった過程であるなら、私たちはそれを完全に一掃して、脇へ置くことができないでしょうか。それは、私が経験するときだけ [生じうる]-思考者として経験するのではなく-私が偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうるのです。
 私が経験をしているかぎり、私が [何かに] なろうとしているかぎり、この二元的行動 [・作用] があるにちがいありません。思考者と思考が [ある] 、二つの分離した過程が働いているにちがいありません。統合はありません。集団的に、個人的に、国家的になど、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもあるのです。普遍的に、これが過程です。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落があるにちがいありません。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけです。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っています。二つの違った状態があります。私たちの努力は、二つのものに橋を架けることです。
 行動の意志はいつも二元的です。分離的であるこの意志を乗り越えて、 [そこに] この二元的行動 [・作用] のない状態を発見することは、可能でしょうか。それは、[そこに] 思考者が思考である状態を、私たちが直接的に経験するとき、見つけられるだけです。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考えます。しかしそうなのでしょうか。私たちはそうであると考えたいように思うのです。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるからです。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなることです。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因があるのです。私たちは、真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求しています。
 思考者と思考の間に分割はあるのでしょうか。それらが分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費され [ムダになり] ます。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求しています。思考者は自分の思考から分離していると、私たちは考えます。私たちは、自分が貪欲・欲張りで、所有欲が強く、残忍・野蛮であることを見つけるとき、このすべてであるべきでないと考えます。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとします。ゆえに努力をして「なろう」とします。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある [ところの] 偽りの幻影を追求します。ところが、ただ一つの過程だけがあるのです。そこに、退廃・堕落の根本的要因があると、私は思います。
(´・(ェ)・`)つ

180 避難民のマジレスさん :2020/08/11(火) 22:07:55 ID:PGnztOo20
くまめも15-1
経験すべてには、いつも経験者、観察者がいる。それはまちがった過程。そうなら、それを一掃できないか。それは、経験するときだけ生じる。偽りの過程に気づいて、思考者が思考である状態だけがあるということがわかるとき、生じうる。
私が経験をしているかぎり、私がなろうとしているかぎり、この二元的行動がある。思考者と思考が、二つの分離した過程が働いている。集団的に、個人的に、あろうとする、またはあるまいとする行動の意志をとおして作動している中心が、いつもある。努力が、経験者と経験に分割されているかぎり、退廃・堕落がある。統合は、思考者がもはや観察者でないとき、可能であるだけ。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを、知っている。二つの違った状態がある。私たちの努力は、二つのものに橋を架けること。
行動の意志はいつも二元的。分離的であるこの意志を乗り越えて、 この二元的行動のない状態を発見することは、可能か。それは、思考者が思考である状態を、直接的に経験するとき、見つけられる。私たちは今、思考は思考者から分離している、と考える。しかしそうなのか。私たちはそうであると考えたいように思う。なぜなら、そのとき思考者は、自分の思考をとおして事柄・事態を説明できるから。思考者の努力は、もっと多くなる、またはもっと少なくなること。ゆえにその格闘、その意志の行動、「なること」には、いつも退廃・堕落する要因がある。真の過程ではなく、いつも偽りの過程を追求している。
思考者と思考の間が分離し分割されているかぎり、私たちの努力は浪費される。私たちは、破壊的であり退廃・堕落する要因である偽りの過程を追求している。私たちは、自分が貪欲で、残忍であることを見つけるとき、そうあるべきでないと考える。思考者はそのとき、自分の思考を改めようとする。ゆえに努力をして「なろう」とする。その努力の過程において彼は、二つの分離した過程がある 偽りの幻影を追求する。ところが、ただ一つの過程だけがある。そこに、退廃・堕落の根本的要因がある。
(´・(ェ)・`)

181 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/11(火) 22:38:15 ID:1d4drIFg0
経験者や観察者は本当は居ないのじゃ。
居ると認識しているのが悟っていない者なのじゃ。
それが無いと知れば無我になるのじゃ。
更にそれを生み出す観念さえも無ければ大悟徹底なのじゃ。

182 避難民のマジレスさん :2020/08/12(水) 19:07:12 ID:2Vk6aJ6Y0
最初と最後の自由  第一部
  第十五章 思考者と思考 2

 一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときのその状態を経験することは、可能でしょうか。そのときおそらく私たちは、創造的であることがどんなことであるのか、人がどんな関係にあっても、どんなときにも [そこに] 退廃・堕落のない状態がどんなものであるのかを、見出すでしょう。
 私は貪欲です。私と貪欲は二つの違った状態ではありません。ただ一つのものだけがあるのです-すなわち貪欲です。私は、自分が貪欲であることに気づくなら、何が起きるでしょうか。私は社会的な理由のため、または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力をします。その努力はいつも小さな制限された環・循環のなかにあるでしょう。私はその環を拡大するかもしれませんが、それはいつも制限されています。ゆえに退廃・堕落する要因が(そこに)あるのです。しかし私はもう少し深く厳密に・きっちりと見るとき、努力の作り手(努力をする者)が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることが、わかるのです。そしてまた「私」と貪欲は分離して存在していないこと、ただ貪欲だけがあることが、わかるのです。私は、自分が貪欲であること、貪欲である観察者はなく、私自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき私たちの疑問全体は全く違ってくるのです。それに対する私たちの応答は全く違ってくるのです。そのとき私たちの努力は破壊的ではありません。
 あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたがするどんな行動も貪欲であるとき、あなたはどうするでしょうか。不幸にも私たちはそういう線に沿って考えません。「私」、上位の実体、制御し支配している兵士・戦士がいるのです。私にとって、その過程は破壊的です。それは幻影です。私たちはなぜそうするのかを知っています。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割します。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではなく、私が全く貪欲であるなら、そのとき何が起きるでしょうか。確かにそのとき全く違った過程が働いています-違った問題が生じています。創造的であるのは、その問題です-[そこには] 肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がないのです。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければなりません。その状態には、努力の作り手・努力をする者がいません。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではありません。あなたはそのようにしてそれに取りかかるなら、見失うでしょう-決して見つけないでしょう。重要であることは、努力の作り手と、彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかることです。それは、途方もなく大きな理解力、見守りを必要とします。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るにはです-高いものは安全 [であり] 、永久の実体です-しかし [それは] やはり思考 [の過程] とゆえに時間の過程にとどまっています。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

183 避難民のマジレスさん :2020/08/12(水) 19:15:55 ID:2Vk6aJ6Y0
くまめも15-2
一つの実体だけがあって、二つの分離した過程-経験者と経験-のないときの状態を経験することは、可能。そのとき、創造的であることがどんなことか、人がどんなときにも退廃・堕落のない状態がどんなものかを、見出す。私と貪欲は二つの違った状態ではない。ただ一つのものすなわち貪欲だけがある。
私は、自分が貪欲であることに気づくなら、私は社会的または宗教的な理由のために、貪欲でないように努力する。その努力はいつも小さな制限された環のなかにある。ゆえに退廃・堕落する要因がある。
しかしもう少し厳密に見るとき、努力をする者が貪欲の原因であること、彼が貪欲自体であることがわかる。ただ貪欲だけがあることがわかる。自身が貪欲であることを悟るなら、そのとき疑問全体、それに対する応答は全く違ってくる。そのとき私たちの努力は破壊的ではない。
あなたの存在全体が貪欲であるとき、あなたはどうするか。「私」、上位の実体、制御し支配している戦士がいる。私にとって、その過程は破壊的。それは幻影。私たちはなぜそうするのかを知っている。私は存続・継続するために、自分自身を高い者と低い者に分割する。完全に貪欲だけがあるなら、私が貪欲を操作しているのではない。そこには肯定的にも否定的にも支配し、なろうとしている「私」という感覚がない。私たちは創造的であろうとするなら、その状態に至らなければならない。それは言葉に表したり、その状態が何であるのかを見出そうとしたりする事柄ではない。重要であることは、努力する者と彼がそれに向かって努力をしている対象とが、同じものであるということが、わかること。いかに精神がそれ自身を高いものと低いものに分割するのかを見るには途方もなく大きな理解力、見守りを必要とする。しかしそれはやはり思考の過程、時間の過程にとどまっている。私たちはこれを直接の経験として理解できるなら、そのときあなたは、全く違った要因が生じることがわかる。
(´・(ェ)・`)

184 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/12(水) 22:50:56 ID:1d4drIFg0
ただ一つの意識がある時創造的であり、退廃や堕落が無い状態を知れるのじゃ。
それは気付くことで得ることが出来るのじゃ。
そこには私という感覚も無いというのじゃ。
努力する主体がないと気付く時にそこに至るのじゃ。

185 避難民のマジレスさん :2020/08/13(木) 19:32:38 ID:.8tmwG3Y0
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 1

 思考は私たちの問題を解決してきませんでしたし、いつか [解決] するだろうとは、私は思いません。私たちは、自分たちの複雑さからの抜け出し方を示してもらうために、知性に頼ってきました。知性がずるがしこく、恐ろしく大きく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなるのです。そして観念は私たち人間の問題のどれも解決しないのです。それらは [これまで] 決して [解決] してこなかったし、これからも決して [解決] しないでしょう。精神は解決法ではありません。思考のやり方は明白に、私たちの困難からの抜け出し方ではありません。私たちは初めに、この考える過程を理解するべきであるように、私には見えます。するとおそらく越えてゆくことができるでしょう-というのは、思考が止むとき、おそらく私たちは、自分たちの問題-個人的なものだけでなく、集団的なもの-を解決するのを助けてくれるであろう道を、見つけることができるでしょうから。
 考えることは私たちの問題を解決してきませんでした。利口な人たち、哲学者、学者、政治的指導者は、私たち人間の問題-それは、あなたともう一人との、あなたと私自身との間の関係です-のどれも、ほんとうに解決したことがありません。これまで私たちは、問題を究明するのを助けるために、精神、知性を使ってきました。それにより解決を見つけたいと願っているのです。思考はいったい私たちの問題を解消できるのでしょうか。思考は、実験室のなかや製図板の上でないかぎり、いつも自己を保護し、自己を永続させ、条件づけられていないでしょうか。その活動は自己中心的ではないでしょうか。そしてそういう思考は、思考自体が造り出した問題のどれかを、いったい解決できるのでしょうか。精神-すなわち問題を造り出したものは、それ自体が生み出したそれらのものごとを、解決できるのでしょうか。
 確かに、考えることは反応です。私があなたに質問をするなら、あなたはそれに応答します-あなたは、あなたの記憶、先入観、しつけ、気候・風土、あなたの条件づけの背景全体に応じて、応答します。あなたはそれらに応じて返答します。あなたはそれらに応じて考えます。この背景の中心が、行動の過程における「私」です。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになるのです。どんな種類の解決も-たとえどんなに利口でも、どんなによく考え抜かれても-人と人との間、あなたと私の間の葛藤・抗争を、決して終わりにすることができないのです。これを悟り、思考がどのように [発生し] 、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのです。
(´・(ェ)・`)つ

186 避難民のマジレスさん :2020/08/13(木) 19:34:23 ID:.8tmwG3Y0
くまめも16-1
思考は私たちの問題を解決してこなかった。知性がずるがしこく、巧妙であればあるほど、体系、理論、観念の多様性が大きくなる。そして観念は人間の問題のどれも解決しない。私たちは初めに、この考える過程を理解するべき。思考が止むとき、自分たちの問題を解決するのを助けてくれる道を、見つけることができるだろうから。
 考えることは反応。質問に対して、記憶、先入観、しつけ、気候・風土、条件づけの背景全体に応じて、応答する。この背景の中心が、行動の過程における「私」。その背景が理解されないかぎり、その思考過程、問題を造り出すその自己が理解されて終わりにされないかぎり、私たちは内と外に、思考に、情動に、行動に、必ず葛藤を持つことになる。これを悟り、思考がどのように、どんな源から発生するのかに気づくと、そのとき私たちは「思考はいったい終わりうるのか」と訊くのだ。
(´・(ェ)・`)

187 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/13(木) 22:52:59 ID:1d4drIFg0
思考は感情に左右されるから正確な判断はできないのじゃ。
感情を正当化するだけなのじゃ。
思考が止まった時だけ問題を解決する知恵が湧くのじゃ。
思考の発生を理解した時に思考は止まるのじゃ。

188 避難民のマジレスさん :2020/08/14(金) 22:16:02 ID:87zFCRkc0
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 2

 それが問題の一つなのではないでしょうか。思考は私たちの問題を解決できるでしょうか。問題をよく考えることによって、あなたはそれを解決したことがあるでしょうか。経済的、社会的、宗教的などんな種類の問題でも、考えることによって今までほんとうに解決されたことがあるでしょうか。あなたが日常の生で、一つの問題について考えれば考えるほど、それはますます複雑に、優柔不断に、不確実になるのです。そうではないでしょうか-私たちの現実の、日常の生では。あなたは問題の一定の面を考え抜くなかで、他の人の視点がもっと明確に見えるかもしれません。しかし思考は問題の完全性と充足が見えないのです-それは部分的に見えるだけです。部分的な答えは完全な答えではありません。ゆえにそれは解決ではないのです。
 私たちは問題をよく考えれば考えるほど、究明し、分析し、議論すればするほど、それはますます複雑になるのです。それで問題を包括的に、全体的に見ることは可能でしょうか。どのようにしてこれは可能でしょうか。なぜなら、それが私たちの主要な困難であるように、私には見えるからです。私たちの問題は増加しつつあります-差し迫った・一触即発の戦争の危険があります。私たちの関係には、あらゆる種類の動揺があります-どのようにして私たちはそのすべてを、全体として包括的に理解できるのでしょうか。明白にそれは、私たちが全体として-区画・区分においてではなく、分割してではなく-それを見られるときだけ、解決できるのです。それはいつ(どんなとき)可能でしょうか。確かにそれは、考える過程が終わってしまったとき、可能であるだけです-その [考える過程の] 源は、「私」、自己に [ある] 、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にあるのです。私たちはこの自己を理解できるでしょうか-分析することによってではなく、あるがままのものごと見ること [により] 、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって [理解できるでしょうか] -結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって [理解できるでしょうか] 。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、私たちはそれを見つめられるでしょうか。それが問題なのではないでしょうか。私たちの各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わるでしょう!
 自己は思考が解決できない問題です。思考のものではない答えがあるにちがいありません。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分です。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にあるのです。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、私たちはやはり思考の領域の中にあります-すなわち「私me」、「私I」、自我の、何であれ [それの] 領域の中にあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

189 避難民のマジレスさん :2020/08/14(金) 22:17:06 ID:87zFCRkc0
くまめも16-2
問題について考えるほど、ますます複雑になる。思考は問題の完全性と充足が見えない。部分的に見えるだけ。部分的な答えは完全な答えではない。ゆえにそれは解決ではない。
どうやって問題を全体として包括的に理解するか。それは、全体として見られるときだけ、解決できる。それは、考える過程が終わったとき、可能。考える過程の源は、「私」、自己に、伝統、条件づけ、先入観、希望、絶望の背景にある。この自己を、分析することによってではなく、あるがままのものごと見ることにより、理論としてではなく事実としてそれに気づくことによって理解できるか。結果を達成するために自己を解消しようと求めるのではなく、常に行動において自己、「私」の活動を見ることによって理解できるか。破壊したり助長・促進したりするどんな動きもなしに、それを見つめられるか。それが問題。各自に、「私」という中心が、その力、地位、権威、継続、自己保存への欲望とともに存在していないなら、確かに私たちの問題は終わる!
自己は思考が解決できない問題。思考のものではない答えがある。非難や正当化なしに自己の活動に気づくこと-ただ気づくことで十分。あなたがどのようにして問題を解決すべきかを見出すため、それを、変容させるため、結果を産み出すために気づくなら、そのとき、それはやはり自己、「私」の領域の中にある。分析をとおし、気づきをとおし、あらゆる思考の常なる検討をとおして結果を求めているかぎり、やはり思考の領域の中にある。すなわち「私me」、自我の領域の中にある。
(´・(ェ)・`)

190 避難民のマジレスさん :2020/08/15(土) 21:23:53 ID:dnNbHAY60
最初と最後の自由  第一部

第十六章 考えることは私たちの問題を解決できるでしょうか 3

 精神の活動が存在しているかぎり、確かに愛はありえません。愛があるとき、私たちはどんな社会的問題も持たないでしょう。しかし愛は何か取得されるものではありません。精神は、新しい思考、新しい道具・装置、新しい考え方 [を取得するの]と同じように、それを取得しようと求めることはできます。しかし思考が愛を取得しようとしているかぎり、精神は愛の状態にありえません。精神が無欲の状態であろうと求めているかぎり、確かにそれはやはり貪欲なのではないでしょうか。同様に精神が、[そこに] 愛のある状態にあるために、願い、願望し、実践するかぎり、確かにそれはその状態を否定するのではないでしょうか。
 この問題、この複雑な生きることの問題が見えて、私たち自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき-私たちが深くそれを悟るとき、そのとき確かに、個人的でも集団的でもない智恵の状態があるのです。そのとき個人と社会、個人と共同体、個人と真実との関係の問題は止むのです。なぜなら、そのとき智恵だけがあるからです-それは個人的・人格的でも非個人的・非人格的でもないのです。私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみであると、私は感じます。それは結果ではありえません。それは、私たちがこの考えることの過程全体、総体を-意識的な水準においてだけでなく、また意識のより深い隠れた水準においても-理解するときだけ、生じるのです。
 これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静かな精神、とても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければなりません。それが私たちの困難の一つです-なぜなら思考は散漫になってしまったからです。私は何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいいのです-私はそれを見つめるのです。私はそれについて考え [始め] 、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ているのです。それで思考は、あなたが問題を持つとき、散漫になるのです-思考は観念、意見、判断、比較です-それは、私たちが問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げるのです。不幸にも私たちのほとんどにとって、思考はあまりに重要になってしまったのです。あなたは「どのようにして私は考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして私は空白の精神を持てるのか」と、あなたは言います。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいることです。あなたの本能的反応はそれを拒絶することです。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神、開けた精神は、とても直接的に、とても単純に、問題を見つめられるのです。それでただ一つの解決であるのは、私たちの問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力です。そのためには、静かな精神、平静な精神がなくてはなりません。
 そういう精神は、実践、瞑想、制御の結果ではありません。最終産物・成果ではありません。それは、「私」の、思考のどんな努力もなく、どんな形の修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じるのです。それは、私が考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じるのです。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛があるのです。そして私たち人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)つ

191 避難民のマジレスさん :2020/08/15(土) 22:03:29 ID:dnNbHAY60
くまメモ16-3複雑な生きることの問題が見えて、自身の考える過程に気づいて、それが現実にはどこへもつながらないことを悟るとき、智恵の状態がある。そのとき個人と社会、個人と真実との関係の問題は止む。なぜなら、そのとき智恵だけがあるから。それは私たちの計り知れない問題を解決できるのは、この智恵のみである。それは結果ではありえない。それは、この考えることの過程全体、総体を理解するときだけ、生じる。これらのどんな問題を理解するにも、私たちはとても静寂な精神を持ち、そのため精神が観念や理論を介入させずに、どんな逸脱・散漫もなしに問題を見つめられるようにしなければならない。それが私たちの困難の一つ。なぜなら思考は散漫になってしまったから。何かを理解したい、見つめたいと思うとき、それについて考えなくてもいい。それを見つめる。それについて考え、観念、意見を持ち始めた瞬間、すでに散漫の状態にあって、理解しなければならないものから離れて見ている。それで思考は、問題を持つとき、散漫になる。思考は観念、意見、判断、比較。それは、問題を見つめ、よって理解し、解決するのを妨げる。どのようにして考えることなしに存在し、有りうるのか。どのようにして空白の精神を持てるのかと、あなたは言う。空白の精神を持つことは、無感覚、白痴、などの状態にいること。本能的反応はそれを拒絶する。しかし確かに、とても静かである精神、それ自身の思考により散漫になっていない精神は、とても直接的に、単純に、問題を見つめられる。それでただ一つの解決であるのは、問題をどんな散漫もなしに見つめられるこの能力。そのためには、平静な精神がなくてはならない。そういう精神は、思考のどんな努力も、修練や強制や昇華をとおしてでもなく、生じる。それは、考える過程全体を理解するとき-どんな散漫もなく事実が見えるとき、生じる。ほんとうに静寂である精神の平静のその状態に、愛がある。そして人間の問題すべてを解決できるのは、愛のみです。
(´・(ェ)・`)

192 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/16(日) 00:22:12 ID:1d4drIFg0
精神とはオショーがマインドとよぶものじゃな。
思考とか感情などの心の働きなのじゃ。
それは常に自我の制約を受けているから現実には役に立たないのじゃ。
それを理解する時、気付きがあるのじゃ。
そして智慧が起こるのじゃ。

193 避難民のマジレスさん :2020/08/16(日) 21:56:59 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 1

 あなたは自分自身の精神を観察するとき、いわゆる精神の上の(ほうの)水準だけではなくて、また無意識をも見守っているのです。あなたは、精神が現実に何をするのかを見ているのではないでしょうか。それが、あなたが究明できる唯一の仕方です。それが何をするべきか、それがどのように考えたり行動したりするべきか、などを重ね合わせないでください。それは(結果的に)たんなる発言をすることになるでしょう。すなわち、あなたは、精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまうのです。または、あなたは何か高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまうのではないでしょうか。あなたがブッダやキリストやXYZを引用するなら、追求すべて、考えることすべて、究明すべてに終わりがあるのです。ですからそれに対して用心し・警戒しなければなりません。あなたは私と一緒にこの自己の問題を究明しようとするなら、これらすべての精神の微妙さを、脇へ置かなければなりません。
 精神の機能とは何でしょうか。それを見出すには、あなたは、精神が現実に何をしているのかを知らなければなりません。あなたの精神は何をするのでしょうか。それはすべて考える過程なのではないでしょうか。そうでないと、精神はないのです。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はありません。私たちは、日常の生で用いる精神、また私たちのほとんどが意識していない精神が、私たちの問題に関して何をするのかを、見出さなければなりません。私たちは、あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければなりません。
 では、あるがままの精神はどんな機能をしているでしょうか。それは現実には孤立(化)の過程なのではないでしょうか。根本的に、それが思考の過程なるものです。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なままです。あなたは自分自身の考えを観察するなら、それが孤立した断片的な過程であるのが、わかるでしょう。あなたは、あなたの反応に応じて考えています-あなたの記憶、経験、知識、信念の反応、です。あなたはそのすべてに反応しているのではないでしょうか。根本的革命がなければならないと、私が言うなら、あなたは即時に反応します。あなたは、霊的 [・精神的] にしろそうでないにしろ、有利な投資を持っているなら、その「革命」という言葉に反対するでしょう。それであなたの反応は、あなたの知識、信念、経験に依存しているのです。それは明白な事実です。色んな形の反応があります。「私は兄弟のように(親しく)しなければならない」、「私は協力しなければならない」、「私は仲良くしなければいけない」、「私は親切でなければならない」、など。これらは何でしょうか。これらはすべて反応です。しかし、考えることの根本的反応は、孤立(化)の過程です。あなたは、あなたたち各自は、自分自身の精神の過程を見守っているのです-それは、あなた自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味です。これらすべては安全を与えてくれるのではないでしょうか。それらは安全を与え、考える過程に強さを与えてくれるのです。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけです-その自己を高いと [呼ぼうと] 低いと呼ぼうと、です。私たちの宗教すべて、私たちの社会的認可すべて、私たちの法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにあるのです。そしてその反対に、全体主義的国家があるのです。あなたが無意識の中にもっと深く入ってゆくなら、そこでもまた、働いているのは同じ過程です。そこでは私たちは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体なのです。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

194 避難民のマジレスさん :2020/08/16(日) 22:00:48 ID:8a63LH/E0
くまめも17-1
精神が現実に何をするのかを見る。それが、自己の問題を究明できる唯一の仕方。
精神はこれであるべきだとか、あれであるべきでないとか言うなら、そのとき究明すべてと考えることすべてを止めてしまう。
高い権威を引用するなら、そのとき等しく考えることを止めてしまう。
精神の機能とは何か。それはすべて考える過程。精神が意識的、無意識的に考えていないかぎり、意識はない。あるべきようにではなく、あるがままの精神を見つめなければならない。
あるがままの精神はどんな機能をしているか。それは孤立化の過程。根本的に、それが思考の過程。それは孤立した形で考えているけれども、依然として集団的なまま。
反応に応じて考えている−記憶、経験、知識、信念の反応。
反応は、知識、信念、経験に依存している。
考えることの根本的反応は、孤立化の過程。各自は、自分自身の精神の過程を見守っている−それは、自身の行動、信念、知識を見守っている、という意味。これらすべては安全を与え、考える過程に強さを与えてくれる。その過程は「私」、精神、自己を強めるだけ。宗教、社会的認可、法律すべては、個人、個人的自己、分離的行動の支え・支持のためにある。そしてその反対に、全体主義的国家がある。無意識の中でもまた、働いているのは同じ過程。そこでは、環境、気候・風土、社会、父、母、祖父によって影響された集合体。そこでもまた、個人として、「私」として主張したい、支配したいという願望がある。
(´・(ェ)・`)

195 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/16(日) 22:17:54 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティはほぼ考えを精神と言っているようじゃ。
社会や親などによって条件付けされた精神は自己を支えるためにあるというのじゃ。
利己主義なのじゃ。
自分という観念を補強するだけの志向性を持っているのじゃ。

196 避難民のマジレスさん :2020/08/17(月) 22:02:28 ID:1yezVXyg0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 2

 精神の機能は、私たちが知っているように、日常機能しているように、孤立(化)の過程ではないでしょうか。あなたは個人的な救いを求めていないでしょうか。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしています。またはまさにこの生・世において、あなたは偉大な人、偉大な作家であろうとしています。私たちの傾向全体は分離することです。精神はそれ以外に何かできるでしょうか。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、可能でしょうか。それは不可能です。それで私たちは精神を崇拝するのです。精神はとてつもなく重要です。あなたは、自分がほんの少しずるがしこく、ほんの少し鋭敏で、蓄積した情報と知識を少し持った瞬間、自分がどんなに社会で重要になるのかを、知らないでしょうか。知的にすぐれている人たち、法律家・弁護士、大学教授、演説者、偉大な作家、説明家、解説者を、あなたがどんなに崇拝するか、知っているでしょう!あなたは知性と精神を育成してきたのです。
 精神の機能は分離することです。そうでないと、あなたの精神はないのです。私たちは幾世紀の間この過程を育成してきたので、私たちは協力できないことがわかるのです。私たちは、経済的でも宗教的でも権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけです。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、どのようにして協力がありうるでしょうか。どのようにして何かをするために智恵が集まりうるでしょうか。それはほとんど不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いるのです。私たちが集まりたい、一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなるのです。
 この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たないでしょう。私たちは常なる抗争と戦争を持つでしょう。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか、です。思考は言葉に表す [過程] と反応の過程ですが、それはいったい自己を破壊できるのでしょうか。思考は反応以外の何ものでもありません。思考は創造的ではありません。そういう思考はそれ自体を終わりにできるでしょうか。それが、私たちが見出そうとしていることです。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練しているのです。それは孤立(化)の過程ではないでしょうか。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではないのです-それ [智恵] からのみ、協力がありうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

197 避難民のマジレスさん :2020/08/17(月) 22:11:05 ID:1yezVXyg0
くまめも17-2
精神の機能は、孤立化の過程。
あなたは個人的な救いを求めている。あなたは未来においてひとかどの者であろうとしている。精神が自己閉鎖的な方法で、断片的に、分離的に考えないことは、不可能。それで私たちは精神を崇拝する。
精神の機能は分離すること。私たちは協力できない。権威、恐れにより迫られ、強制され、駆り立てられるだけ。それが、意識的にだけでなくまたもっと深い水準でも、私たちの動機、意図、追求における現実の状態であるなら、協力、何かをするために智恵が集めることは不可能なので、宗教と組織化された社会的団体・党派は、個人に一定の形の規律を強いる。私たちが一緒にものごとがしたいなら、そのとき規律が避けられなくなる。
この分離的な考え-集団的な形でも個人的な形でも-「私」と「私の」を強調するこの過程を、どう超越するかを理解するまでは、私たちは平和を持たない。私たちは常なる抗争と戦争を持つ。私たちの問題は、どのようにして思考の分離的過程に終わりをもたらすのか。思考は言葉に表す過程と反応の過程だが、それはいったい自己を破壊できるか。思考は反応。思考は創造的ではない。そういう思考はそれ自体を終わりにできるか。それが、私たちが見出そうとしていること。私がこれらの線に沿って-「私は修練しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」-考えるとき、思考は何かであるよう、または何かでないように、それ自体を強制し、それ自体を駆り立て、それ自体を修練している。それは孤立(化)の過程。ゆえにそれは、全体として機能するあの統合された智恵ではない。智恵からのみ、協力がありうる。
(´・(ェ)・`)

198 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/17(月) 23:36:56 ID:1d4drIFg0
思考はものごとを分類して記憶する機能が在るのじゃ。
草の種類とか動物の種族とかにどんどん分類していくのじゃ。
それが自己をも分類するのじゃ。
どこの国の者とかどこの地域のものとかのう。
それが争いを生み自己を破壊していくのじゃ。

199 避難民のマジレスさん :2020/08/18(火) 20:19:02 ID:cj1chvzQ0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 3

 あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
 あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
 私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
 協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
(´・(ェ)・`)つ

200 避難民のマジレスさん :2020/08/18(火) 20:22:29 ID:cj1chvzQ0
最初と最後の自由  第一部

第十七章 精神の機能(作用・役割) 3

 あなたはどのようにして思考の終わりに至るのでしょうか。というよりむしろ、思考-すなわち孤立して、断片的で、部分的であるもの-は、どのようにして終わるのでしょうか。あなたはどのようにしてそれに取りかかるのでしょうか。あなたのいわゆる修練はそれを破壊するでしょうか。明白に、あなたはこれらすべての長い年月、成功してこなかったのです。そうでないと、あなたはここにいないでしょう。どうか修練する過程を検討してください-それはひとえに思考過程です。そこには昇華、抑圧、制御、支配があります-すべてが無意識へ影響を及ぼしています。それ [無意識] は、あなたが年を取るにつれて、後でそれ自体を主張するのです。あなたはそんなに長い間試してみても成果・効果がないとき、修練が明白に自己を破壊する過程ではないことを、見つけたにちがいありません。自己は修練をとおして破壊できません。なぜなら、修練は自己を強める過程であるからです。けれどもあなたたちの宗教すべてはそれを支持します。あなたたちの瞑想、あなたたちの主張すべては、これに基づいているのです。知識は自己を破壊するでしょうか。信念はそれを破壊するでしょうか。言い換えれば、私たちが何か現在していること、自己の根に達する [根源をきわめる] ために現在携わっている活動のうちどれか、そのうちのどれかが成功するでしょうか。このすべては、孤立(化)、反応の過程である思考過程の根本的浪費・ムダではないでしょうか。あなたは、思考はそれ自体を終わらせられないことを、根本的にまたは深く悟るとき、どうするのでしょうか。何が起きるでしょうか。あなた自身を見守ってください。あなたがこの事実に充分に気づくとき、何が起きるでしょうか。あなたは、どんな反応も条件づけられていること、条件づけをとおして、初めにも終わりにも自由はありえないことを理解します-自由はいつも初めにあって終わりにはないのです。
 あなたは、どんな反応も一つの形の条件づけであるし、ゆえに違った仕方で自己に継続性を与えることを悟るとき、現実に何が起きるでしょうか。あなたはこの事においてとても明晰でなければなりません。信念、知識、修練、経験、結果や目的を達成する過程全体、野心、この生(世)や来生(来世)で何(もの)かになること-これらすべてが孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程です-そこからの逃避は、集団的行動をとおしては、ないのです-たとえどんなにあなたが強制収容所とその他すべてをもって脅されるとしても、です。あなたはその事実に気づいているでしょうか。「そのとおりです」、「それは私の問題です」、「それがまさしく私のいるところです」、「私は、知識と修練にできること、野心がすることがわかります」と言う精神の状態は何でしょうか。確かに、あなたはそのすべてがわかるなら、すでに違った過程が働いているのです。
 私たちは知性の道はわかりますが、愛の道はわからないのです。愛の道は知性をとおして見つけられるべきものではありません。知性とともにそのすべての分岐・枝分かれ、そのすべての欲望、野心、追求は、愛が生まれる・存在するためには終わらなければなりません。あなたは愛しているとき、協力する [ということ]、自分自身について考えていないということを、知らないでしょうか。それが最高の形の智恵です-あなたが優位の・上位の実体として愛しているときや、良い・有利な地位にいるときではありません-それは恐れ以外の何ものでもありません。あなたの既得権・特権があるとき、愛はありえません。恐れから生まれた搾取・利用の過程だけがあるのです。それで愛は、精神がないときだけ生じうるのです。ゆえに、あなたは精神の過程全体を、精神の機能を理解しなければなりません。
 協力がありうるのは、智恵ある機能、どんな問題についても一緒に集まることがありうるのは、私たちが互いにどう愛し合うのかを知るときだけです。そのときだけ、神が何であるか、真理が何であるかを見出すことが可能なのです。いま私たちは知性をとおし、模倣をとおして真理を見つけようとしています-それは偶像崇拝です。あなたが理解をとおして、自己の構造全体を完全に切り捨てるときだけ、永遠で、時間のない、測ることのできないものが生じうるのです。あなたはそこへ行けません。それはあなたに来るの(訪れる)です。
(´・(ェ)・`)

201 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/18(火) 22:51:37 ID:1d4drIFg0
思考の終わりを目指すには修練ではいかんというのじゃ。
それは更なる自己強化に繋がるからなのじゃ。
思考の過程自体を理解できれば思考は終わるというのじゃ。
それは自分が行くのではなく、訪れるものというのじゃ。

202 避難民のマジレスさん :2020/08/19(水) 23:18:06 ID:227hnK8M0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞 1

 私は、自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自体と他のものに課す・賦課する欺き・妄想・惑わしを-議論したり考慮したりしたいように思います。それはとても深刻な事柄です-特に世界が向き合っている種類の危機においては。しかし、この自己欺瞞の問題全体を理解するためには、私たちはたんに言葉の水準においてだけでなくて、本来的に、根本的に、深く、それに付いていかなければなりません。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎています。私たちは世間ずれして賢いのです。世慣れているので、わたしたちにできることは、何かが起きることを願うことばかりです。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかります。無数の歴史家、神学者、宗教的な人たちが、戦争とそれがどのようにして生じるのかを説明していますが、戦争はやはりつづきます-おそらく今までよりもっと破壊的でしょう。私たちのうちでほんとうに熱意のある人たちは、戦争を乗り越えなければなりません。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければなりません。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済です。
 同様に、私たちはこの種の自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきであると、私は思います。私は提案してよければ、私たちはたんに話し手に聴くだけではなく、私たちが日常の生において知っているような問題に付いていくべきです。すなわち、私たちは考えることと行動において自分たち自身を見守る [べきである]- 私たちがどのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべきです。
 自己欺瞞のための理由、基礎は何でしょうか。私たちのうちどれほど多くが、私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づいているでしょうか。私たちは「自己欺瞞とは何なのか、そしてそれはどのようにして生じるのか」という疑問に答えられる前に、私たちが自分たち自身を欺いていることに気づかなければならないのではないでしょうか。私たちは自分たち自身を欺いていることを知っているでしょうか。私たちのいうこの欺瞞とはどういう意味でしょうか。それがとても重要であると、私は思います。なぜなら、私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなるからです。というのは、それは一定の活力・生命力、一定のエネルギ-、一定の能力を与えてくれるからです- それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いるのです。それで次第に私たちは自分自身に [欺瞞を課している] だけではなく、他の人たちにも欺瞞を課しているのです。それは自己欺瞞の相互に作用する過程です。私たちはこの過程に気づいているでしょうか。私たちは、自分たちはとても明晰に、目的を持って、直接的に考える能力があると、考えます。私たちは、この考える過程に自己欺瞞があることに、気づいているでしょうか。
 思考自体が、探求の過程 [であり] 、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたい(良い評判を得たい)という願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、ではないでしょうか。政治的に、宗教社会学的に、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因ではないでしょうか。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出さないでしょうか、もたらさないでしょうか。これを例に取りましょう。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持っています。私たちは年を取れば取るほど、ますます興味を持つようになるのです。私たちはそれの真理が知りたいのです。どのようにして見つけるのでしょうか。確実に、読書によってではなく、また違った説明をとおしてでもありません。
(´・(ェ)・`)つ

203 避難民のマジレスさん :2020/08/19(水) 23:19:26 ID:227hnK8M0
くまめも18-1
自己欺瞞の問題を-精神が耽り、それ自他に課す欺き・妄想・惑わしを-議論したい。それはとても深刻な事柄。私たちはあまりに安易に言葉と反・対抗言葉に満足しすぎている。私たちは世慣れているので、わたしたちにできることは、何、かが起きること利子、を願うことばかり。私たちは、戦争の説明が戦争を阻止しないことが、わかる。戦争を乗り越えなければならない。私たち自身の中に、この根本的革命を求めなければならない。それが、人類の持続的、根本的救出をもたらすことのできる唯一の救済。
 同様に、自己欺瞞を議論しているとき、どんな表面的な説明や反論・返答にも用心すべきである。どのように他の人たち・他のものに影響を及ぼすのか、どのように自分たち自身から行為に進み出すのかを、見守るべき。
 自己欺瞞のための理由、基礎は何か。私たちが自分たち自身を欺いていることに、現実に気づかなければならない。私たちが自分たち自身を欺けば欺くほど、ますます欺瞞における強さが大きくなる。というのは、それは一定の活力・生命力、エネルギ-、能力を与えてくれるから−それ[能力]は、 他の人たちに私たちの欺瞞の賦課を強いる。それで次第に私たちは自分自身にだけではなく、他人にも欺瞞を課している。それは自己欺瞞の相互に作用する過程。
 思考自体が、探求の過程、正当化、安全、自己保護を求めること、良く思われたいという願望、地位、威信、力を持ちたいという願望、このありたいという願望こそが、まさに自己欺瞞の原因。私は何か純粋に物質的な必要物以外のものが欲しいと思った瞬間、安易に受け入れる状態を産み出す。私たちの多くは、死後、何が起きるかを知ることに、興味を持つ。私たちはそれの真理が知りたい。どのようにして見つけるのか。
(´・(ェ)・`)

204 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/20(木) 23:10:46 ID:1d4drIFg0
そもそも自分があるという観念が最も大きな自己欺瞞と言えるのじゃ。
それは無いものであるからのう。
自分があるという欺瞞から思考にも我欲が起こるのじゃ。
そして自己の正当化とか安全に評判を得たいとか思うようになるのじゃ。

205 避難民のマジレスさん :2020/08/21(金) 21:05:29 ID:OIJS2RiY0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞2

 あなたはどのようにしてそれを見出すのでしょうか。初めにあなたは、道をふさいでいる(邪魔になっている)あらゆる要因を、自分の精神から完全に除かなければなりません-あらゆる希望、継続したいというあらゆる願望、あの反対側に何があるのかを見出したいというあらゆる願望を、です。なぜなら、精神は常に安全を求めているからです。それは継続したいという願望を持つし、充実の手段を、未来の存在を願うからです。そういう精神は死後の生の真理、輪廻転生やどんなのでも求めていますが、その真理を発見する能力がないのではないでしょうか。重要であることは、輪廻転生が真実であるのかないのかではなくて、いかに精神が自己欺瞞をとおして、あるかもないかもしれない事実について正当化を求めるのか、 [ということ] です。重要であることは、問題への接近方です-どんな動機、どんな衝動、どんな願望をもって、あなたがそれに近づくか、です。
 求める者はいつもこの欺瞞を自分自身に課しています。誰もそれを彼に課せません。彼自身がそうするのです。私たちは欺瞞を造り出して、その奴隷になるのです。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望です。私たちは、この世で何ものかでありたいと思うことの結果を、知っています。それは全くの混乱です-そこでは各自が互いに競争しあい、平和の名において互いに破壊しあっています。あなたは、私たちが互いに遊びあうゲ-ム全体を知っています-それはとてつもない形の自己欺瞞です。同様に、私たちはあの世での安全、地位が欲しいのです。
 それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、私たちは自分たち自身を欺きはじめるのです。精神が [それ] から自由であることはとても難しいことです。それが私たちの生の基本的問題です。この世界(世)に生きて、何ものでもないことは可能でしょうか。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由があるのです。なぜなら、そのときだけ、精神は結果を求めていないからです-精神は満足できる答えを求めていない。精神はどんな形の正当化も求めていない。精神はどんな形、どんな関係にも安全を求めていないのです。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、あらゆる形の正当化、安全を捨て去るときだけ、それは起きるのです-それは、そのとき精神が完全に何ものでもない能力がある、という意味です。それは可能でしょうか。
 私たちがどんな形でも自分たち自身を欺むくかぎり、愛はありえません。精神が妄想を造り出して、それ自体に賦課する能力があるかぎり、明白に集合的・総合的または統合的理解からそれ自体を分離するのです。それが私たちの困難の一つです。私たちはどのように協力するのかを知らないのです。私たちが知っているすべては、私たち双方が生じさせる・生み出す目的に向かって一緒に働こうとすることです。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうるのです。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能なだけである、ということです。あなたと私が何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念とその他すべてが必要になります-自己投影されたユ-トピア [・理想郷] が必要なのです。しかし、あなたと私がどんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、匿名で・名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

206 避難民のマジレスさん :2020/08/21(金) 21:17:33 ID:OIJS2RiY0
くまめも18-2
真理を見出す邪魔になる要因、あらゆる願望を、自分の精神から完全に除く。精神は常に安全を求め、継続したいという願望を持ち、充実の手段を、未来の存在を願う。そういう精神は死後の生の真理を求めているが、その真理を発見する能力がない。重要なのは、①いかに精神が自己欺瞞をとおして、ないかもしれない事実について正当化を求めるのか。②問題への接近方−どんな動機、衝動、願望をもって、それに近づくか。
求める者はこの欺瞞を自分自身に課し、その奴隷になる。自己欺瞞の根本要因は、この世と来世において何ものかでありたいというこの常なる願望。
それで、ありたい、なりたい、達成したいというこの衝動があった瞬間、自分たち自身を欺きはじめる。精神がそれから自由であることはとても難しい。この世界に生きて、何ものでもないことは可能か。そのときだけ、欺瞞すべてからの自由がある。なぜなら、そのときだけ、精神は結果、満足な答え、正当化、安全を求めていないから。精神が欺瞞の可能性と微妙さを悟り、ゆえに理解をもって、正当化、安全を捨て去るときだけ、精神が完全に何ものでもない能力がある。
私たちはどのように協力するのかを知らない。あなたと私が、思考により造り出された共通の目標を持たないときだけ、協力がありうる。悟るべき重要なことは、協力は、あなたと私が何ものかでありたいと願望しないとき可能ということ。何ものかでありたいと願望するとき、そのとき信念が必要になる−自己投影されたユ-トピアが必要。しかし、どんな自己欺瞞もなく、信念と知識のどんな障壁もなく、安全でありたいという願望もなく、名もなく造り出しているなら、そのとき真の協力がある。
(´・(ェ)・`)

207 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/21(金) 22:42:30 ID:1d4drIFg0
願望とは欲とも言えるのじゃ。
自己の安全を求める精神は欲から離れられないのじゃ。
それは不安から起こるものであるからのう。
その欲に執り付かれている精神が自我の無存在を見るはずも無いのじゃ。
それは自分が消えることであると感じてしまうからのう。

208 避難民のマジレスさん :2020/08/22(土) 20:59:33 ID:sMoqNXgI0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞3

 私たちが協力すること、私たちが目的を視野に入れずに一緒にいることは、可能でしょうか。あなたと私は、結果を求めずに一緒に働けるでしょうか。確かにそれが真の協力なのではないでしょうか。あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何でしょうか。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っています。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれません-それは欺瞞をもたらし、あなたと私の間に葛藤・抗争をもたらすのです。それは私たちの日常の生において明白で観察できる事実です。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意します。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっているのです。私は自分の満足のために結果が欲しいのです。私は支配したいのです。私はあなたと一緒に働いていると言われるけれども、自分の名前をあなたの前に置きたいのです。それで私たち二人は、その計画の創案者ですが、たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
 あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、あなたと私が協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか-私たちが表面的な水準においてだけではなくて、根本的に、ほんとうに、真に協力することができるかどうかを、です。それが私たちの最大の問題の一つ、おそらく最大のものです。私は自分自身を一つの対象と同一化しますし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化します。私たち二人がそれに興味があるのです。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図しています。確かにこの考える過程はとても表面的です。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすからです-それは私たちの日常の生においてあまりに明白です。あなたはヒンドウ-教徒で、私はキリスト教徒です。私たちは共に同胞愛を説きますし、私たちは互いの喉元にいる [互いに争っている] のです。なぜでしょうか。それが私たちの問題の一つなのではないでしょうか。無意識的に、深く、あなたはあなたの信念を持ち、私は私の [信念] を持っています。同胞愛について話しをすることにより、私たちは信念の問題全体を解決しなかったのです。私たちは理論的、知的に、これはそうであるべきだと、同意しただけです。内側で、深く、私たちは互いに敵対して・逆らっているのです。
 私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえません。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせません。
(´・(ェ)・`)つ

209 避難民のマジレスさん :2020/08/22(土) 21:10:05 ID:sMoqNXgI0
くまめも18-3
あなたと私が結果を考え出し、案出し・算定し・導きだし、立案し・計画して、その結果に向かって一緒に働いているなら、そのとき関与している過程は何か。私たちの思考、私たちの知的精神はもちろん出会っている。しかし、情動的には存在全体がそれに抵抗しているかもしれない−それは欺瞞、葛藤・抗争をもたらす。あなたと私は知的には、仕事の一定の部分をすることに同意する。しかし無意識的に、深く、あなたと私は互いに戦いあっている。私は自分の満足のために結果が欲しい、支配したい。たとえ外側では計画に関して同意するとしても、ほんとうは互いに対立しあっているのです。
 あなたと私が何ものでもないものとしてある世界で、協力し、親しく交わり、一緒に生きられるかどうかを見出すことが、重要。私は自分自身を一つの対象と同一化するし、あなたはあなた自身を同じ対象と同一化しする。私たち二人がそれに興味がある。私たち二人がそれをもたらそう・成し遂げようと意図している。この考える過程はとても表面的。なぜなら、同一化をとおして私たちは分離をもたらすから。
 私たちは、自己欺瞞であり、私たちに一定の活力・生命力を与えてくれるそれらの障壁を解消するまでは、あなたと私の間に協力はありえない。集団、特定の観念、特定の国との同一化をとおして、私たちはけっして協力をもたらせない。
(´・(ェ)・`)

210 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/22(土) 22:50:33 ID:1d4drIFg0
そもそも自分がいて他人が居るという観念から孤立が起こるのじゃ。
それを誤魔化して協力するということはできないのじゃ。
それもまた欺瞞になるからのう。
自他の区別が無い時、真の協力もありえるのじゃ。

211 避難民のマジレスさん :2020/08/23(日) 17:26:23 ID:cvVqWIyM0
最初と最後の自由  第一部

第十八章 自己欺瞞4

 信念は協力をもたらしません。反対にそれは分割します。私たちは、いかに一つの政党がもう一つに敵対・対抗して、それぞれが経済的問題を扱う一定のやり方を信じているか、それでそれらが皆互いに戦いあっているかが、わかります。それらは例えば飢餓の問題を解決するなかで解決されないのです。それらは、その問題を解決するであろう理論に、関心があるのです。それらは、現実には問題自体に [関心があるわけ] ではなくて、 [それにより] 問題が解決されるであろう方法に関心があるのです。ゆえに二つの間に争いがあるにちがいないのです。なぜなら、それらは問題にではなく、観念に関心があるからです。同様に、宗教的な人たちも、言葉では自分たちは皆一つの生命、一つの神を持っていると言うけれども、互いに敵対・対抗しているのです。あなたはそのすべてを知っています。内側で、彼らの信念、彼らの意見、彼らの経験は、彼らを破壊しているし、分離しているのです。
 経験は、私たち人間の関係において分割させる要因になります。経験は欺瞞の道です。私は何かを経験した(ことがある)なら、それにすがりつきます。私は経験する過程の問題全体に入ってゆきません。なぜなら私は経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくからです。それにより私はその経験をとおして自己欺瞞を課すのです。
私たちの困難は、私たち各自が特定の信念と [同一化し] 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、私たちの精神がそれに捕らえられ、私たちが問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということです。ゆえに私たちは自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望するのです。私たちが理解をとおして-表面的な水準でだけではなく、またもっと深いレベルでの-それらを解消するまでは、世界に平和はありえません。そういうわけで、ほんとうに真剣である人たちが、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を-表面的な水準でだけではなくて根本的に深く理解することが、重要なのです。そうでないと、世界に平和はありえません
 真理は何か獲得されるものではありません。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ません。確かにそういうものは、精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来るのです -それ[動きと信念]は、精神が 頼れるもの、 [そこから] 一定の強さを引き出してくる [ところの]もの -すなわち自己欺瞞の表示であるものです。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけです。そのときだけ精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ないのです。そのときだけ、 [そこに] どんな種類の欺瞞もない状態の可能性が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ

212 避難民のマジレスさん :2020/08/23(日) 17:31:54 ID:cvVqWIyM0
くまめも18-4
信念は協力をもたらさない。反対にそれは分割する。問題解決につき、敵対・対抗する者たちがそれぞのやり方を信じ、互いに戦いあっているが、それらは、現実には問題自体に関心があるわけではなくて、問題が解決されるであろう方法、理論(観念)に関心がある。ゆえに二つの間に争いがある。内側で、彼らの信念、意見、経験は、彼らを破壊しているし、分離している。
経験は、人間関係を分割させる要因。経験は欺瞞の道。何かを経験したなら、それにすがりつく。経験する過程の問題全体に入ってゆかない。なぜなら経験をしたし、それで十分であるし、それにすがりつくから。それによりその経験をとおして自己欺瞞を課す。
私たちの困難は、各自が特定の信念と 、幸せ、経済的適応をもたらす特定の形や方法とあまりに同一化しているために、精神がそれに捕らえられ、問題の中にもっと深く入っていく能力がない、ということ。ゆえに自分の特定のやり方、信念、経験のなかに、個人的に離れて・遠ざかっていたいと願望する。理解をとおして、それらを解消するまでは、世界に平和はありえない。そういうわけで、この問題全体を-なりたい、達成したい、獲得したいという欲望を根本的に深く理解することが、重要。そうでないと、世界に平和はありえない。
真理は獲得されるものではない。愛は、それにすがりつきたいという願望を持ったり、それと同一化したいと思う人たちのところへは、来ない。精神が求めないとき 、精神が完全に静かであり、もはや動きと信念を造り出していないとき、来る−動きと信念は、精神が 頼れるもの、 そこから一定の強さを引き出してくるもの -すなわち自己欺瞞の表示であるもの。精神が静寂でありうるのは、この願望の過程全体を理解するときだけ。そのときだけ、精神は、あろうとしたり、あるまいとする動きのなかに、ない。そのときだけ、どんな欺瞞もない状態の可能性が、ある。
(´・(ェ)・`)

213 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/23(日) 22:54:00 ID:1d4drIFg0
イデオロギーの違いに拠って人は戦争をしたりするのじゃ。
信念は争いの道具でしかなかったのじゃ。
人はそれと自己同一化している故に命までかけて戦うのじゃ。
信念が否定されれば自分の全てが否定されたと感じるからのう。
そのような自己同一化が無い時にのみ平和が在るのじゃ。

214 避難民のマジレスさん :2020/08/24(月) 20:39:32 ID:fBHCYJXA0
最初と最後の自由  第一部

第十九章 自己中心的な活動 1

 私たちのほとんどは、あらゆる形の説得、あらゆる種類の誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきたことに気づいていると、私は思います。諸宗教は、約束をとおし、地獄の恐れをとおし、あらゆる形の非難をとおして、違った仕方で、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきました。これらが失敗したあと、政治的組織が引き継ぎました。そこでもまた説得です。そこでもまた究極のユ-トピア的希望です。とても制限されたものから強制収容所を含む極端なものまで、あらゆる形の法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきました。それでも私たちは自分の自己中心的活動をそのまま続けます-それは、私たちが知っているように見えるただ一つの種類の活動です。私たちはとにかくそれについて考えるなら、修正しようとします。私たちはそれに気づくなら、その進路を変えようとします。しかし、根本的に、深く、変容はないのです。その活動の根源的停止はないのです。思慮深い人たちはこれに気づいています。彼らはまた、その中心からの活動が止むとき、そのときだけ幸せがありうることにも、気づいています。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で(当然で)ある、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然のことと思っています。そこで、誠実ではなく-なぜなら、誠実さは自己欺瞞の道であるからです-もう少し真剣で、もっと熱心である人たちは、このとてつもない自己中心的活動の総合過程に気づくと、 [それを] 越えてゆけるかどうかを、見出さなければなりません。
 自己中心的活動とは何なのかを理解するには、明白にそれを検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければなりません。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性があるのです。しかし、それに気づくには、一定の理解 [を必要とする] 、それを解釈するのではなく、修正するのではなく、非難するのではなく 、あるがままのものごとに向き合おうとする一定の意図を必要とするのです。私たちは自分たちが何をしようとしているのかに [気づかなければならない] 、その自己中心的状態から発生する活動すべてに気づかなければなりません。私たちはそれを意識しなければなりません。私たちの第一の困難の一つは、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したいのです。それで、それを直接的に見つめることがほとんどできないのです。私たちが(意識)するとき、私たちのほとんどは何をすべきなのかを知る能力がないのです。
 自己中心的活動は有害であり、破壊的であること、あらゆる形の同一化-国との、特定の集団との、特定の願望との [同一化] 、この世でもあの世・来世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範の追求、美徳の追求、などといったもの-が、本質的に自己中心的な人物の活動であることを、私たちは悟ります。自然との、人々との、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたものです。このすべてを知るとき、どうすべきなのでしょうか。そういう活動はすべて-自分で課してではなく、影響されてではなく、導かれてではなく-自発的に終わらなければなりません。
(´・(ェ)・`)つ

215 避難民のマジレスさん :2020/08/24(月) 20:45:04 ID:fBHCYJXA0
くまめも19-1
説得、誘導が、自己中心的活動に抵抗するために、私たちに提供されてきた。諸宗教は、約束.地獄の恐れ.非難をとおして、「私」という中心から生まれるこの常なる活動から、人を思いとどまらせようとしてきた。これが失敗したあと、政治的組織が引き継いだ。そこでもまた説得、法制度が用いられ、どんな形の抵抗に対しても強制されてきた。それでも私たちは自己中心的活動をそのまま続けてきた。私たちはそれについて考えるなら、修正しようとする。それに気づくなら、その進路を変えようとする。しかし、その活動の根源的停止はない。私たちのほとんどは、自己中心的活動は自然で当然である、結果として起こる行動は避けられないし、それは修正され、形造られ、制御されうるだけであることを、当然と思っている。そこで、もう少し真剣、熱心な人たちは、この自己中心的活動の総合過程に気づくと、それを越えてゆけるかを、見出さねばならない。
自己中心的活動とは何かを理解するには、検討し、見つめ、全体の過程に気づかなければならない。それに気づけるなら、そのとき、その解消の可能性がある。それに気づくには、一定の理解を必要とする、それを解釈、修正、非難するのではなく、あるがままのものごとに向き合おうとする意図を必要とする。自己中心的状態から発生する活動すべてに気づき、それを意識しなければならない。私たちの第一の困難は、私たちがその活動を意識した瞬間、それを形造りたい、制御したい、非難したい、修正したい。それで、それを直接的に見つめることができない。私たちが意識するとき、私たちは何をすべきなのかを知る能力がない。
自己中心的活動は有害、破壊的であること、
特定の集団との、特定の願望との同一化、この世でもあの世でも結果の探求、観念の讃美・称讃、模範、美徳の追求、等といったものが、本質的に自己中心的な活動であることを、私たちは悟る。自然、人々、観念との私たちの関係すべてが、その活動から出てきたもの。このすべてを知るとき、そういう活動はすべてを自発的に終わらなければならない。
(´・(ェ)・`)

216 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/24(月) 22:42:54 ID:1d4drIFg0
エゴから来る活動は欲とか保身から起こるものじゃ。
宗教や国家はそれを抑制して公共のために人を働かそうとするのじゃ。
しかし、そのような外からの強制では何も変らないのじゃ。
自らが全てであるという真の気づきからのみ人は変るのじゃ。

217 避難民のマジレスさん :2020/08/25(火) 21:54:24 ID:peDpOx2g0
最初と最後の自由  第一部

第十九章 自己中心的な活動 2

 私たちのほとんどは、この自己中心的活動が災いと混沌を造り出すことに、気づいています。しかし、私たちは一定の方向において、それに気づいているだけです。私たちは他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自分たち自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思うのです。私たちはそれを扱うことができる前に、どのようにしてこの過程が生じるのかを知らなければならないのではないでしょうか。何かを理解するためには、私たちはそれを見つめる能力がなければなりません。そして見つめるには、意識的とともに無意識的な違った水準でのその様々な活動を-意識的な指示と、また私たちの無意識的な動機と意図の自己中心的な動きをも-知らなければなりません。
 私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけなのではないでしょうか。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識するのです。そのとき抵抗 [があるし] 、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形があるのです-それ [目的]は、私に喜び、満足を与えてくれるでしょう。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づきます。確かに、意識的に美徳を追求する人は、美徳がありません。謙虚さは追求できません。それが謙虚さの美しさです。
 この自己中心的過程は、時間の結果なのではないでしょうか。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがありますし、私は、未来と結合した過去と現在を意識します。「私」の自己中心的活動は時間の過程です。中心すなわち「私」の活動に連続・継続性を与えるのは、記憶です。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の[過程] 、経験する[過程] 、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかるでしょう。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかるでしょう-それもまた精神の過程です。
 精神はこのすべてから自由でありうるでしょうか。それは希な瞬間に可能であるかもしれません。それは、私たちが意識的でない、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれません。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることはいったい可能でしょうか。それは、私たち自身に提出されるとても重要な疑問です。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるでしょうから。あなたは、この自己中心的活動の総合過程に気づき、あなたの意識の違った水準で、その活動を充分に認識するなら、そのとき確かに、その活動が終わることが可能なのかどうかを、自分自身に訊ねなければなりません。時間という見地に立って考えないこと、私は [将来] 何であるべきか、 [過去から現在まで] 何であったか、 [現在] 何であるのかという見地に立って考えないことは可能でしょうか。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の過程全体が始まるからです。またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まります-それはすべて時間の過程です。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見えるのです。
(´・(ェ)・`)つ

218 避難民のマジレスさん :2020/08/25(火) 21:59:12 ID:peDpOx2g0
くまめも19-2
自己中心的活動が災いと混沌を造り出す。他の人たちのなかにそれを観察して、自分自身の活動に無知であるか、または他の人たちとの関係において、自身の自己中心的活動に気づくと、私たちは、変容させたい、代用を見つけたい、越えてゆきたいと、思う。
私が反対しているとき、意識が妨げられるとき、「私」が結果を達成したいと望んでいるとき、私は、この「私」の活動を意識するだけ。または楽しみが終わって、私がそれをもっと持ちたいと思うとき、私はその中心を意識する。そのとき抵抗があるし、特定の目的に合わせた精神の目的的な造形がある-目的は、私に喜び、満足を与える。私は意識的に美徳を追求しているとき、私自身と私の活動に気づく。意識的に美徳を追求する人は、美徳がない。謙虚さは追求できない。それが謙虚さの美しさ。
この自己中心的過程は、時間の結果。この活動の中心が、意識的、無意識的などんな方向においても存在しているかぎり、時間の動きがあるし、私は、未来と結合した過去と現在を意識する。「私」の自己中心的活動は時間の過程。中心すなわち「私」の活動に連続性を与えるのは、記憶。あなたはあなた自身を見守って、この活動の中心に気づくなら、それが、ただ時間の、記憶の過程、経験する過程、あらゆる経験を記憶に応じて翻訳する過程でしかないことが、わかる。あなたはまた、自己の活動が認識であることも、わかる-それもまた精神の過程。
 精神はこのすべてから自由でありうるか。それは希な瞬間に可能であるかもしれない。それは、私たちが意識的、意図的でない、目的のない行為をするとき、私たちのほとんどに起きるかもしれない。しかし、精神が自己中心的な活動から完全に自由であることは可能か。それは、重要な疑問。なぜなら、まさにそれを提出するなかで、あなたは答えを見つけるから。この自己中心的活動の総合過程に気づき、その活動を充分に認識するなら、そのとき、その活動が終わること、時間という見地に立って考えないこと、私は将来何であるべきか、 過去から現在まで何であったか、現在何であるのかと見地に立って考えないことは可能か。というのは、そういう思考から、自己中心的活動の結果またそこでは、なろうとする決意、選択しよう、避けようとする決意も始まる−それはすべて時間の過程。私たちはその過程に、無際限の災い、悲惨、混乱、歪み、退廃・堕落が見える。
(´・(ェ)・`)

219 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/25(火) 22:54:28 ID:1d4drIFg0
なんらかの抵抗がある時、あるいは執着がある時、自我は主体として意識されるのじゃ。
それも記憶に基づいているのじゃ。
連続する自己があるという観念から時間の経過を恐れ、欲も起こるのじゃ。
今ここで観ることができればそれらも瞬時に消えるのじゃ。

220 避難民のマジレスさん :2020/08/26(水) 19:48:06 ID:5PNHw7hQ0
最初と最後の自由  第一部

第十九章 自己中心的な活動 3

 確かに、時間の過程は革命的ではありません。時間の過程には変容はありません。連続性だけがあって終わりはありません。認識以外に何もありません。革命、変容 [がある] 、新しいものが生じることがあるのは、あなたが、時間の過程の、自己の活動の完全な停止を持つときだけです。
 その活動における「私」の、この全体的総合的な過程に気づくとき、精神は何をするべきなのでしょうか。新しいものがあるのは-進化をとおしてではなく、「私」がなることをとおしてではなく、「私」が完全に終わることをとおしての-新生をもってだけ、革命をもってだけです。時間の過程は新しいものをもたらせません。時間は創造の道ではありません。
 あなたたちのうち誰かが創造性の瞬間を持ったことがあるかどうか、私は知りません。私は何かの幻覚・幻想を実行に移すことについて話していません。私のいうのは、認識がないときのあの創造の瞬間、という意味です。その瞬間には、 [そこに] 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった(あの)とてつもない状態があるのです。私たちは気づくなら、その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、それから同一化する経験者がいないことが、わかるでしょう。思考過程、すなわち時間の [過程] がないのです。その創造の [状態] 、新しいもの-すなわち時間のないもの-の創造性の状態には、「私」の作用 [・行動] が全くないのです。
 私たちの疑問は、確かにこうです-精神が瞬間的にではなく、希な瞬間にではなく、その状態にあることは [可能でしょうか] -私は「永遠」とか「永久」とかいう言葉をむしろ使いたくないのです。なぜなら、それは時間という意味を含んでいるからです-時間を顧慮・考慮せずに、その状態にあることは、可能でしょうか。確かにそれは、私たち各自がなすべき重要な発見です。なぜなら、それが愛への扉であるからです。他の扉はすべて自己の活動です。自己の作用 [・行動] があるところ、愛はありません。愛は時間のものではありません。あなたは愛を実践できません。あなたが [実践] するなら、そのときそれは、愛することをとおして結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動です。
 愛は時間のものではありません。あなたはどんな意識的な努力をとおしても、どんな修練をとおしても、同一化をとおしても、それに思いがけず出会えません-それはすべて時間の過程のものです。精神は時間の過程だけを知っていますが、愛を認識できません。愛が唯一の永遠に新しいものです。私たちのほとんどは、精神-すなわち時間の結果であるもの-を育成してきたから、私たちは愛が何であるかを知らないのです。私たちは愛について話しをします。私たちは人々を愛している、自分の子供たち、妻、隣人を愛している、自然を愛していると、私たちは言います。しかし、私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じたのです。ゆえにそれは愛であることを止めるのです。
 この精神の総合過程は、関係-自然との、人々との、私たち自身の投影との、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係-をとおしてだけ、理解されるべきものです。生は関係以外の何ものでもありません。私たちは関係から自分たち自身を孤立させようと試みるかもしれないとしても、それなしには存在できません。関係は苦痛であるけれども、私たちは孤立(化)の手段により、隠遁者になることなどにより、逃げ出せません。これらの方法はすべて自己の活動の表示です。どんな選択もなく、どんな決然とした目的のある意図もなく、どんな結果への欲望もなく、この映像全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、あなたは、この時間の過程が-誘導されてではなく、欲望の結果としてではなく-自発的に終わることが、わかるでしょう。愛-すなわち永遠に新しいもの-があるのは、その過程が終わるときだけです。
 私たちは真理を求めなくてもいいのです。真理は何か遠く離れたものではありません。それは精神についての真理、瞬間瞬間のその活動についての真理です。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放するのです。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨すべて、その葛藤・抗争すべて、その災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じるのです。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけです。
(´・(ェ)・`)つ

221 避難民のマジレスさん :2020/08/26(水) 19:52:11 ID:5PNHw7hQ0
くまめも19-3
時間の過程は革命的でない。認識だけがある。連続性だけがあって終わりはない。革命、変容、新しいものが生じるのは、時間の過程、自己の活動の完全な停止するときだけ。
創造の瞬間には、 認識をとおした活動としての「私」が止んでしまった状態がある。その状態には、憶えていて、翻訳し、認識し、同一化する経験者がいない。思考過程、すなわち時間の過程がない。その創造の状態、新しいもの−すなわち時間のないもの−には、「私」の作用が全くない。
精神が瞬間的にではなく、その状態にあることは、各自がなすべき重要な発見.なぜなら、それが愛への扉であるから。他の扉はすべて自己の活動。自己の作用があるところ、愛はない。あなたは愛を実践できない。実践するなら、それは、結果を獲得したいと願う「私」の自意識的な活動。
意識的な努力、修練、同一化をとおして、愛に出会えない−それはすべて時間の過程のもの。愛が唯一の永遠に新しいもの。私たちは、精神−すなわち時間の結果であるもの−を育成してきたから、愛が何であるかを知らない。私たちは愛していることを意識した瞬間、自己の活動が生じる。ゆえにそれは愛であることを止める。
この精神の総合過程は、私たちのまわりのあらゆるものごととの関係をとおしてだけ、理解される。生は関係。関係から自身を孤立させようと試みるとしても、それなしには存在できない。この方法はすべて自己の活動の表示.どんな選択も、目的のある意図も、結果への欲望もなく、この全体を見るとき、意識としての時間の過程全体に気づくとき、この時間の過程が自発的に終わる。愛−すなわち永遠に新しいもの−があるのは、その過程が終わるときだけ。
真理を求めなくてもいい。真理は遠く離れたものではない。それは精神について、瞬間瞬間のその活動についての真理。私たちがこの瞬間瞬間の真理に、この時間の過程全体に気づくなら、その気づきが、意識を、または智恵、愛であるエネルギ-を、解放する。精神が自己活動として意識を使うかぎり、時間が、その悲惨、葛藤・抗争、災いすべて、その目的のある欺瞞とともに生じる。そして愛がありうるのは、精神がこの総合過程を理解して止むときだけ。
(´・(ェ)・`)

222 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/26(水) 21:46:20 ID:1d4drIFg0
観念である時間がある限り人には変容は無いのじゃ。
時間の観念の無い瞬間の気づきが変容をもたらすのじゃ。
そこに自分は無く、記憶も、同一化もないのじゃ。
それには時間が無いから永遠で在るのじゃ。

223 避難民のマジレスさん :2020/08/27(木) 20:36:51 ID:HgpRjtdk0
最初と最後の自由  第一部

  第二十章 時間と変化 1

 私は、時間とは何であるかについて、少し話したいように思います。なぜなら、時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさと意義は、私たちが時間の過程全体を理解するときだけ経験されうると、私は思うからです。結局私たちは、各自が自分自身のやり方で、幸せの、豊かさの感覚を求めています。確かに、意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではありません。愛と同じように、そういう生は時間がないのです。時間のないものを理解するには、私たちは時間をとおしてそれに接近するのではなく、むしろ時間を理解しなければなりません。時間のないものに到達し、実現し、掴む手段として、時間を利用してはなりません。それが、私たちが自分たちの生のほとんどを費やしていることです-時間のないものを把握しようとすることに時間を費やすことです。ですから、私たちのいう時間とはどういう意味なのかを理解することが、重要です。なぜなら、時間から自由であることは可能であると、私は思うからです。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、とても重要です。
 私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味があります-年代的継起・連続の [意味] 、分、時間、日、年の意味においてではなく、心理的な記憶の意味における時間です。私たちは時間によって生きています。私たちは時間の結果です。私たちの精神は、多くの昨日の産物です。そして現在は、たんに過去から未来への通路です。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいています。時間なしには、私たちは考えられません。なぜなら、思考は時間の結果であるからです。思考は多くの昨日の産物です。記憶なしに思考はありません。記憶は時間です。というのは、二種類の時間、年代的なものと心理的なものがあるのです。時計による昨日としての [時間] と、記憶による昨日としての時間があるのです。あなたは年代的な時間を拒絶できません。それは不合理でしょう。あなたは列車に乗り遅れるでしょう。しかし、年代的な時間から離れて、いったいほんとうに何か時間があるのでしょうか。明白に、昨日としての時間はあります。しかし精神がそれについて考えるような時間はあるでしょうか。確かに、時間、心理的な時間は、精神の産物です。思考の基礎なしに、時間はありません-時間はたんに今日と結合した昨日としての記憶です-それが明日を型どるのです。すなわち、昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出しているのです-それもやはり思考の過程、精神の道です。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらします。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのでしょうか。そして私たちは、精神のものであるその時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのでしょうか。私が言いましたように、幸せは昨日のものではありません。幸せは時間の産物ではありません。幸せはいつも現在に、時間のない状態にあるのです。あなたは恍惚を[経験するとき] -創造的喜びを、一連の明るい雲が暗い雲によって取り囲まれるのを-経験するとき、その瞬間には時間がないということに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。即時の現在だけがあるのです。精神が、現在において経験した後に入ってきて、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出すのです。ですから時間はもっと多くによって造り出されます。時間は取得です。時間はまた執着です-それもやはり精神の取得です。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること-すなわち記憶-は、確かに、時間のないものを開示しません。
(´・(ェ)・`)つ

224 避難民のマジレスさん :2020/08/27(木) 20:41:20 ID:HgpRjtdk0
くまめも20-1
時間のないもの、真実であるものの豊かさ、美しさ、意義は、時間の過程全体を理解するときだけ経験されうる。意義のある生、真の幸せの豊かさは、時間のものではない。時間のないものを理解するには、時間を理解しなければならない。時間のないものに到達する手段として、時間を利用してはならない。時間から自由であることは可能。時間を、部分的にではなく全体として理解することが、重要。
私たちの生がほとんど時間に費やされているということを悟ることは、興味がある。私たちは時間によって生きている。精神は、多くの昨日の産物。そして現在は、たんに過去から未来への通路。私たちの精神、活動、存在は、時間に基づいている。思考は時間の結果であるから、時間なしには、考えられない。二種類の時間、年代的なものと心理的なものがある。時計による昨日としての時間と、記憶による昨日としての時間がある。あなたは年代的な時間を拒絶できない。それは不合理。しかし、年代的な時間から離れて、何か時間があるのか。確かに、心理的な時間は、精神の産物。思考の基礎なしに、時間はない。昨日の経験の記憶が、現在への応答において未来を造り出している。それもやはり思考の過程、精神の道。思考過程は、時間における心理的な進歩をもたらす。しかしそれは、年代的時間と同じように真実なのか。そして精神のものである時間を、永遠のもの、時間のないものを理解する手段として使えるのか。幸せは昨日のものではない。幸せは時間の産物ではない。幸せはいつも現在に、時間のない状態にある。恍惚を、創造的喜びを、経験するとき、その瞬間には時間がない。現在において経験した後に、それを憶えていて、継続させたいと願い、ひとりでにますます多くを集め、よって時間を造り出す。ですから時間はもっと多くによって造り出される。時間は取得、また執着。ゆえに、たんに精神を時間において修練すること、時間の枠組の中で思考を条件づけること−すなわち記憶−は、時間のないものを開示しない。
(´・(ェ)・`)

225 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/27(木) 22:25:50 ID:1d4drIFg0
時間とは記憶があるから起こる観念なのじゃ。
記憶とは違う今を解釈するために時間がたったという観念が作られたのじゃ。
そこから先の未来もその連続から推測され、創作された物なのじゃ。
記憶への依存が無ければ時間も無いのじゃ。

226 避難民のマジレスさん :2020/08/28(金) 20:59:18 ID:RoJ3t8Ms0
最初と最後の自由  第一部

  第二十章 時間と変化 2

 変容は時間の事柄でしょうか。私たちのほとんどは、時間は変容のために必要であると考えることに、慣れています。私は何ものかである。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。私は貪欲であるとともに、混乱、敵対、葛藤・抗争、悲惨という貪欲の結果でもあります。変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要であると、私たちは考えます。つまり時間は、何かもっと偉大なものに進化する、何ものかになる手段として考えられているのです。問題はこうです。(自分は)暴力的で、貪欲で、妬んでいて、怒っていて、不道徳で、気性が激しいのです。あるがままを変容させるには、時間が必要でしょうか。まず最初に、なぜ私たちはあるがままを変えたい、または変容をもたらしたいのでしょうか。なぜでしょうか。なぜなら、あるがままの私たちは、私たちを不満にさせるからです。それは葛藤、動揺を造り出します。そしてその状態を好まないので、私たちは何かもっとよいもの、何かもっと高尚な、もっと理想的なものが欲しいのです。ゆえに私たちは変容を願望します。なぜなら、苦痛、不快、葛藤があるからです。葛藤は時間によって打ち勝たれるでしょうか。それは時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 [の状態] にあるのです。葛藤を取り除くには、あるがままのあなたを変えるには、二十日、または二十年かかるだろうと、あなたは言うかもしれません。しかしその時間の間、あなたはやはり葛藤 [状態] にあるのです。ゆえに時間は変化をもたらさないのです。私たちは、性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけです。この点を理解することが重要であると、私は思います。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界-すなわち社会-における苦痛、動揺を引き起こす原因になります。そしてこの動揺の状態-貪欲や暴力と呼ばれるもの-を意識すると、私たちは「私は時間をかけて・そのうちそれを取り除くだろう。非暴力を実践するだろう。妬まないことを実践するだろう。平和を実践するだろう」と、私たち自身に言うのです。そこで、あなたは非暴力を実践したいのです。なぜなら、暴力は動揺、葛藤・抗争の状態であるからです。そしてあなたは時間をかけて非暴力を獲得して葛藤・抗争に打ち勝つだろうと、思うのです。何が現実に起きているでしょうか。葛藤の状態にあると、あなたは葛藤のない状態を達成したいと思います。では、その葛藤のない状態は、時間の、時の継続の結果でしょうか。明白に違います。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、あなたはやはり暴力的でありつづけるし、ゆえにやはり葛藤 [状態] にあるからです。
 私たちの問題は、葛藤、動揺は、数日であれ数年であれ幾つもの生涯であれ、時の期間において打ち勝たれうるだろうか [ということ] です。「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と、あなたが言うとき、何が起きるでしょうか。まさに実践こそが、あなたが葛藤 [状態] にあるということを、示しているのではないでしょうか。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、あなたは実践しないでしょう。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要であるし、その抵抗のために時間を持たなければならないと、あなたは言います。しかし、まさに葛藤への抵抗こそが、それ自体一つの形の葛藤です。あなたは、貪欲、妬み、暴力と呼ぶものの形での葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしています。しかしあなたの精神は、やはり葛藤 [状態] にあります。ですから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要なのです。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺-であることができるのです。
(´・(ェ)・`)つ

227 避難民のマジレスさん :2020/08/28(金) 21:03:18 ID:RoJ3t8Ms0
くまめも20-2
時間は変容のために必要であると考えることに、慣れている。あるがままの私をあるべき私に変えるには、時間を必要とする。
私は貪欲である→変容すなわち無欲をもたらすには、時間が必要。つまり時間は、偉大なものに進化する手段として考えられている。
なぜあるがままを変えたいのか→あるがままは、不満にさせるから→葛藤、動揺を造り出す→もっとよいもの、高尚な、理想的なものが欲しい→私たちは変容を願望する
葛藤は時間によって打ち勝たれるだろうと言うなら、あなたはやはり葛藤 にある。葛藤を取り除くには、あるがままを変えるには、時間がかかる。その時間の間、やはり葛藤 にある。ゆえに時間は変化をもたらさない。
性質、美徳、存在の状態を取得する手段として時間を使うとき、たんにあるがままを延期したり避けたりしているだけ。この点を理解することが重要。貪欲や暴力は、他の人と私たちの関係の世界における苦痛、動揺を引き起こす原因になる。
葛藤の状態にあると、葛藤のない状態を達成したいと思う。葛藤のない状態は、時の継続の結果ではない。なぜなら、非暴力の状態を達成しようとしている間、やはり暴力的でありつづけるし、ゆえに葛藤 状態にあるから。
「私は一定期間の間、非暴力を実践しようとしている」と言うとき、何が起きるか。まさに実践こそが、葛藤にあるということを示している。もしも葛藤に抵抗していなかったなら、実践しない。葛藤への抵抗は、葛藤に打ち勝つために必要だし、その抵抗のために時間を持たなければならないと言う。しかし、まさに葛藤への抵抗自体一つの形の葛藤。葛藤に抵抗することに、自分のエネルギ-を費やしている。しかし精神は、やはり葛藤にある。だから暴力に打ち勝つ手段として時間に頼る過程の偽りがわかり、よってその過程から自由であることが重要。そのときあなたは、あるがままのあなた-暴力それ自体である心理的動揺−であることができる。
(´・(ェ)・`)

228 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/28(金) 22:55:11 ID:1d4drIFg0
変容は覚悟があれば今すぐにでも起こるものじゃ。
自分が観られたならば瞬時に変容は起こるじゃろう。
そこに時間は無いのじゃ。
時間を必要とする変化は、やはり欲とかエゴから出たものに過ぎないのじゃ。

229 避難民のマジレスさん :2020/08/29(土) 18:28:31 ID:hDzlT5kk0
最初と最後の自由  第一部

  第二十章 時間と変化 3

 何かを、何か人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要でしょうか。何が本質的でしょうか。静かな精神なのではないでしょうか。理解することにしっかりと向けられている精神です。それは、排他的である、集中しようとしている精神ではありません-それもまた抵抗の努力です。私がほんとうに何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態があります。あなたは、愛している音楽を聴きたい、または絵を見たいとき- [それに対する] 感性を持っています-あなたの精神の状態は何でしょうか。即時に静けさがあるのではないでしょうか。あなたは音楽を聴いているとき、あなたの精神はそこいらじゅうさまよいません。あなたは聴いています。同様に、あなたは葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていません。あなたは単にあるがまま-すなわち葛藤-に直面しています。そのとき即時に静けさが、精神の静寂が訪れます。あなたはもはやあるがままを変容させる手段として時間に頼りません。なぜなら、その過程の偽りが分かるからです。そのとき、あるがままと直面しています。そしてあるがままを理解することに興味があるので、当然・自然に、静かな精神があります。その鋭敏でありながら受動的な精神の状態に、理解があるのです。精神が葛藤 [状態]にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえません。私はあなたを理解したいなら、明白に、あなたを非難してはなりません。変容をもたらすのは、その静かな精神、その静寂な精神です。精神がもはや抵抗していない [とき] 、もはやあるがままを避けていない、もはや切り捨てたり、咎めたりしていないで、単に受動的に気づいているとき、そのとき、その精神の受動性において-あなたが本当に問題に入り込むなら-変容が訪れるということを、見つけるでしょう。
 革命は、今可能なだけです-未来にではありません。革新は今日です-明日ではありません。あなたは私が言ってきたことを実験してみるなら、即時の革新、新しさ、新鮮さの質があるということを、見つけるでしょう。なぜなら、精神は興味があるとき、 [理解したいと] 願望したり、理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂であるからです。私たちのほとんどにとっての困難は、理解しようとする意図を持たないことです。なぜなら、私たちはもしも理解したなら、それが私たちの生に革命的作用 [・行動] をもたらすかもしれないということを、恐れているからです-ゆえに私たちは抵抗するのです。私たちが時間や理想を段階的・漸進的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構です。
 こうして革新は、現在において可能なだけです-未来にではなく、明日ではありません。それをとおして幸せを獲得したり、真理や神を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけです。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きています。時間は私たちの困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人、そういう人は当然、理解しようとする意図を持ちます。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静かです。精神が静寂で平静であり、何の答えも何の解決も求めていない [とき] 、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけです。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるからです。そして解放するのは真理です-自由であろうとするあなたの努力ではありません。
(´・(ェ)・`)つ

230 避難民のマジレスさん :2020/08/29(土) 18:39:18 ID:hDzlT5kk0
くまめも20-3
人間的な、または科学的な問題を理解するには、何が重要か。静かな、理解することに向けられている精神。それは、排他的で、集中しようとしている精神ではない-それもまた抵抗の努力。何かを理解したいなら、即時に精神の静かな状態がある。葛藤を理解したいとき、もはや全く時間に頼っていない。単にあるがままに直面している。そのとき即時に精神の静寂が訪れる。もはやあるがままを変容させる手段として時間に頼らない。なぜなら、その過程の偽りが分かるから。あるがままを理解することに興味があるので、自然に、静かな精神がある。その鋭敏で受動的な精神の状態に、理解がある。精神が葛藤にあって 、咎めたて、抵抗し、非難しているかぎり、理解はありえない。変容をもたらすのは、静寂な精神。
精神は興味があるとき、 理解しようとする意図を持つとき、いつも静寂。困難は、理解しようとする意図を持たないこと。なぜなら、もしも理解したなら、それが生に革命的作用をもたらすかもしれないということを、恐れているから−ゆえに抵抗する。時間や理想を段階的変容の手段として使うときに働いているのは、防御的機構。
幸せを獲得したり、真理を悟ることのできる手段として時間に頼る人は、たんに自分自身を欺いているだけ。彼は無知において、ゆえに葛藤において生きている。時間は困難から抜け出す道ではないということがわかり、ゆえに偽りから自由である人は当然、理解しようとする意図を持つ。ゆえに彼の精神は、強制なく実践なく自発的に静か。精神が静寂であり、何の答えも何の解決も求めていない、また抵抗したり避けたりしていないとき-革新がありうるのは、そのときだけ。なぜなら、そのとき精神は、何が真実であるかを知覚する能力があるから。そして解放するのは真理−自由であろうとする努力ではない。
(´・(ェ)・`)

231 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/29(土) 22:14:55 ID:1d4drIFg0
科学でも法則を認定するには観察して確かめるものじゃ。
可能な限り冷静で客観的に観察する事でそれもできるのじゃ。
それは自分を観察するのと同じ観察なのじゃ。
自らを冷静で客観的に観察しようと勤めることで、今ここで変容は可能になるのじゃ。

232 避難民のマジレスさん :2020/08/30(日) 19:00:04 ID:WWTIEegY0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 1

 私たちは、社会に、私たち自身に、私たちの個人的、集団的関係に根元的変化が必要であることが、わかります。それはどのようにしてもたらされるべきでしょうか。変化が、精神により投影された様式への順応をとおし、道理にかなったよく研究された計画をとおしてであるなら、そのとき、それはやはり精神の領域の中にあるのです。ゆえに精神が計算することは何でも目的、幻想になるのです-その [目的、幻想の] ために私たちは進んで私たち自身と他の人たち・他のものたちを犠牲にしようとしているのです。あなたがそれを支持するなら、そのとき、人間としての私たちはたんに精神の創造(物)であるということになります-それは、順応、強制、残忍さ、独裁(専制)制(政権)、強制収容所-やっかいなものごと全体-という意味を含んでいます。私たちが精神を崇拝するとき、そのすべてが含まれているのではないでしょうか。私はこれを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき私は何をするべきでしょうか。
 この問題を充分に考慮するには、私たちは意識とは何かという疑問に入らなければなりません。あなたは自分自身でそれについて考えたことがあるのか、それとも諸権威が意識について言ってきたことを、たんに引用しただけなのかどうか、と私は思います。この意識が-日常の活動と追求の意識だけでなくて、隠れた、もっと深い、もっと豊かな、はるかにもっとわかりにくい意識が-どんな意味を含んでいるのかを、あなたは、あなた自身の経験から、自分自身についてのあなた自身の研究から、どのように理解したのかは、私は知りません。私たちは、私たち自身の[根本的変化] とゆえに世界の根本的変化というこの問題を議論する [べきであるなら] 、そしてこの変化において、一定の幻想、熱狂、熱中、信仰、希望、確実性-すなわち行動のために必要な勢い・はずみを私たちに与えてくれるであろうもの-に目覚めるべきであるなら、私たちがそれを理解すべきであるなら、この意識の問題に入ることが必要ではないでしょうか。
 私たちのいう精神の表面的な水準での意識とはどういう意味なのかは、私たちはわかります。明白にそれは考える過程、思考です。思考は記憶の結果、言語化です。それは疎通 [・伝達] することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくことです。この水準には、また様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もあります。このすべてに、私たちは全く慣れ親しんでいます。私たちがもう少し深く入るとき、人種の蓄積、隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがあります-それは、知覚、接触、欲望の結果です。この総合的意識、開かれたものとともに隠れたものが、「私」という観念、自己を中心に集まっています。
 どのようにして変化をもたらすべきか [について] 議論するとき、私たちが一般的にいうのは、表面的な水準での変化、という意味なのではないでしょうか。決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、私たちは欲しいと思う [目的] 、渇望する表面的な目的に手を伸ばそうと格闘します。私たちは無意識の[助け] 、精神のもっと深い層の助けを借りて、そこに到り着きたいと願うのです。ゆえに私たちは自分自身の深みの覆いを取る・顕わにすることが必要であると、考えるのです。しかし、表面的な水準といわゆるもっと深い水準の間には、永続的な葛藤があるのです-すべての心理学者たち、自己認識を追求してきたすべての人たちは、それに充分に気づいています。
 この内的な葛藤は変化をもたらすでしょうか。それが、私たちの日常の生において最も根本的で重要な疑問ではないでしょうか-どのようにして私たち自身に根元的変化をもたらすべきか、がです。表面的な水準でのたんなる変更は、それをもたらすでしょうか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去 [の覆いを取る] 、子どもの頃から今に至るまでの様々な私的な・個人的な経験の覆いを取ること、私の父、母、祖先、人種の集団的・集合的経験を [を検討し] 、 [そこに] 私が生きている特定の社会の条件づけを私自身において検討すること-そのすべての分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

233 避難民のマジレスさん :2020/08/30(日) 19:15:17 ID:WWTIEegY0
くまめも21-1
社会に、私たち自身に、個人的、集団的関係に根元的変化が必要。変化が、精神により投影された様式への順応をとおしてであるなら、それはやはり精神の領域の中にある。人間はたんに精神の創造(物)か。それは順応、強制、残忍さ、独裁制、強制収容所という意味を含む。これを悟るなら、修練、制御の無効性がわかるなら、様々な形の抑圧が「私」と「私の」を強めるだけであることがわかるなら、そのとき何をするべきか。
自身と世界の根本的変化という問題を理解すべきであるなら、意識の問題に入るべき。
精神の表面的な水準での意識とは、考える過程、思考。思考は記憶の結果、言語化。それは疎通・伝達することができるように、名づけること、記録すること、一定の経験を蓄えておくこと。様々な抑制、制御、拘束・認可・制裁、修練もある。隠れた動機、集団的と個人的な野心、先入観すべてがある−それは、知覚、接触、欲望の結果。この総合的意識が、「私」という観念、自己を中心に集まっている。
決定・決意、結論、信念、制御、抑制をとおして、欲しいと思う、渇望する表面的な水準と、もっと深い水準の間には、永続的な葛藤がある。
この内的な葛藤、表面的な水準でのたんなる変更は、変化をもたらすか。意識の、「私」の異なった層を理解すること、過去の、私的な経験の覆いを取ること、集団的・集合的経験を、特定の社会の条件づけを検討・分析は、たんなる適応・調節ではない変化をもたらすか。
(´・(ェ)・`)

234 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/30(日) 22:01:44 ID:1d4drIFg0
苦があればそれを変えたいと思うのが人であるが、実は自分を変えたいとは思わないものじゃ。
出来れば自分は変る事無く苦がなくなればよいと思うのじゃ。
しかし、実際には自分が変らなければ苦はなくならないのじゃ。
自我が苦の根本原因であるからのう。

235 避難民のマジレスさん :2020/08/31(月) 21:45:31 ID:1yezVXyg0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 2

 自分の生に根本的変化が-たんなる反動・反応ではなく、環境的要求の圧力と緊張・重圧から出てきたものではない変化が-本質的 [・不可欠] であることを、私は感じますし、確かにあなたもまた感じるにちがいありません。どのようにしてそういう変化をもたらすべきでしょうか。私の意識は、人間の経験の総計・合計と私の現在との特定の接触を加えたものです。それは変化をもたらせるでしょうか。私自身の意識の [研究] 、私の活動の研究、私の思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にする・静めること-その過程は変化をもたらすでしょうか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるでしょうか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤、という意味を含んでいないでしょうか。葛藤は根本的変化をもたらすでしょうか。私は私自身の中で、そして社会と、常なる戦い [の状態] にあるのではないでしょうか。あるがままの私とありたいと思う私との間に、絶えざる葛藤が続いているのです。この葛藤、この格闘は変化をもたらすでしょうか。私は、変化が本質的 [・不可欠] であるのがわかります。私の意識の過程全体を検討することにより、格闘することにより、修練することにより、様々な形の抑圧を実践することにより、私はそれをもたらせるでしょうか。そういう過程は根元的変化をもたらせないと、私は感じます。それについては、完全に確かでなければなりません。そしてその過程が根本的変容、深い内側の革命をもたらせないなら、そのとき何が [そう] するのでしょうか。
 あなたはどのようにして真の革命をもたらすべきでしょうか。その革命をもたらす力、創造的エネルギ-は何でしょうか。そしてどのようにしてそれは解放されるべきでしょうか。あなたは修練を試してきました。あなたは理想と様々な思索的理論の追求を試してきました-あなたは神であること。あなたはその神であること・神性を悟ったり、ア-トマン、最高のもの、何であれ、経験したりできるなら、そのときまさにその悟りこそが、根本的変化をもたらすであろうということです。そうなるでしょうか。初めにあなたは真実があると仮定します-あなたはその一部であり、そのまわりに様々な理論、思索、信念、教義、仮定・想定を築き上げます-あなたはそれに応じて生きるのです。その様式に応じて考えることと行動することにより、あなたは根本的変化をもたらしたいと願うのです。そうでしょう。
 ほとんどの宗教的な人たちがするように、仮にあなたが、自分には根本的に、深く、真実の本質があると [仮定] します。そして美徳を育成することをとおし、様々な形の修練、制御、抑圧、否定、犠牲をとおして、あなたはその真実と接触できるなら、そのとき必要とされる変容がもたらされるであろうと、仮定します。この仮定も、やはり思考の一部ではないでしょうか。それは、条件づけられた精神、一定の様式に応じて、特定の仕方で考えるように育てられてきた精神から、出てきたものではないでしょうか。イメ-ジ、観念、理論、信念、希望を造り出しておいて、そのときあなたはこの根本的変化をもたらすために、自分の造り出したもの・創造したものに頼るのです。
 初めに、「私」の、精神のとてつもない微妙な活動が、わからなければなりません。観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければなりません。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから、ではないでしょうか。他の人たちは真実を経験したことがあるかもしれません。しかし、あなたがそれを経験したことがないなら、それについて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのでしょうか。それもやはり思考の領域の中にあります。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のものです。ゆえに、それは真実ではないのです。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

236 避難民のマジレスさん :2020/08/31(月) 21:46:27 ID:1yezVXyg0
くまめも21-2
意識は、人間の経験の総計・合計と現在との特定の接触を加えたもの。それは変化をもたらせるか。意識の研究、活動の研究、思考と感情への気づき、非難なしに観察するために精神を静寂にすること-その過程は変化をもたらすか。信念をとおし、理想と呼ばれる投影されたイメ-ジとの同一化をとおして、変化がありうるか。このすべては、あるがままの私とあるべき私との間の一定の葛藤。葛藤は根本的変化をもたらすか。意識の過程全体を検討、格闘、修練、抑圧を実践する過程は根元的変化をもたらせない。
 どのようにして真の革命をもたらすべきか。初めに、観念、信念、思索に気づいて、それらをすべて脇に置かなければならない。というのは、それらはほんとうは欺瞞であるから。真実ついて思索したり、自分が本質的に何か真実の、不死の、神のような・神聖なものであると想像したりすることが、何になるのか。それもやはり思考の領域の中にある。思考から発生するどんなものも条件づけられているし、時間の、記憶のもの。ゆえに、それは真実ではない。現実にそれを悟るなら-思索的にではなく、想像によってでも愚劣にでもなくて、精神の思索的探求、哲学的模索のどんな活動も、どんな仮定、どんな想像や希望も、ほんの自己欺瞞にすぎないという真理が、現実にわかるなら-そのとき、この根本的変容をもたらす力、エネルギ-は何か。
(´・(ェ)・`)

237 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/31(月) 22:17:27 ID:1d4drIFg0
変化が必要だからと宗教に頼れば、それがまた条件付けになるというのじゃ。
宗教もまた観念によるものであるからのう。
変容は個人の観察に拠ってのみ起こるものじゃ。
宗教は必ずしも必要ではないのじゃ。

238 避難民のマジレスさん :2020/09/01(火) 19:57:02 ID:CccXjOcY0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 3

 おそらく、この点に至るなかで、私たちは意識的精神を使ってきました。私たちは議論・論争に付いてきました。私たちはそれに反対したり受け入れたりしてきました。私たちはそれが明確に、またはぼんやりと・おぼろげにわかりました。さらに遠くへ行き、もっと深く経験するには、見出すための静かで鋭敏である精神を必要とするのではないでしょうか。それはもはや観念を追求していません。なぜなら、あなたが観念を追求するなら、言われていることに付いていく思考者がいるし、そのためあなたは即時に二元性を造り出すからです。あなたがこの根本的変化という事柄にさらに入ってゆきたいなら、活動的な精神が静かであることが必要ではないでしょうか。確かに、精神が途方もない困難 [を理解できる] 、二つの分離した過程としての思考者と思考、経験者と経験されるもの、観察者と観察されるものという複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かであるときだけです。革命- [そこに] 「私」のないこの心理的、創造的革命は、思考者と思考が一つであるとき、思考を制御している思考者といった二元性がないときだけ、訪れるのです。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみであると、私は提案します-それ [創造的エネルギ-]が今度は、 根本的革命 [をもたらし] 、心理的な「私」の粉砕をもたらすのです。
 私たちは力の道を知っています-支配をとおした力、修練をとおした力、強制をとおした力、です。政治的な力をとおして、私たちは根本的に変化させたいと願います。しかしそういう力は、さらなる暗闇、崩壊、邪悪・弊害、「私」の強化を生み育てるだけです。私たちは個人的にも、集団としても、様々な形の取得に慣れ親しんでいます。しかし私たちは愛の道を試したことがありません。それがどういう意味なのかを、知ることさえもないのです。思考者、「私」という中心があるかぎり、愛は可能ではありません。このすべてを悟ると、どうすべきなのでしょうか。
 確かに根本的変化、創造的、心理的解放をもたらせる唯一のものは、日常の見守り [です] 、意識的とともに無意識的な私たちの動機に、瞬間瞬間気づくことです。私たちは、修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考から、自分の観察から、自分の経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至らないでしょうか。思考者が自分の思考-すなわち彼が支配しようとしているもの-から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえません。「私」が観察者 [であり] 、経験を集め、経験をとおして自分自身を強める者であるかぎり、根元的変化、創造的解放はありえません。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れるのです-しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできません。どんな思索、どんな言葉による表現・言語化、どんな形の思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があるにちがいないことがわかるとき-精神がそれを悟るとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づくのです。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れるのです。その状態には努力がありません。なることがありません。変化させたいという願望がありません。その状態には、「私」はありません。というのは、精神のものではない変容があるからです。
(´・(ェ)・`)つ

239 避難民のマジレスさん :2020/09/01(火) 20:08:43 ID:CccXjOcY0
くまめも21-3
根本的変化という事柄にさらに入ってゆくには、精神が静かであることが必要。精神が、二つの分離した過程としての思考者と思考という複雑な意味合いを理解できるのは、それが静かなときだけ。創造的エネルギ-を解放するのは、この経験のみ。それが今度は、心理的な「私」の粉砕をもたらす。
根本的変化をもたらせる唯一のものは、日常の見守り、意識的、無意識的な動機に、瞬間瞬間気づくこと。修練、信念、理想は「私」を強めるだけで、ゆえに全く無効であることを悟るとき-日毎にそれに気づき、それの真理がわかるとき、思考者は自分の思考、観察、経験から、常に自分自身を分離しているときの中心点・核心に至る。思考者が思考から離れて存在しているかぎり、根本的変容はありえない。その創造的解放は、思考者が思考であるときだけ、訪れる−しかし隔たりは、どんな努力によっても橋渡しできない。どんな思索、どんな言葉による表現、思考も、「私」に強さを与えるだけであることを、精神が悟るとき、思考者が思考から離れて存在しているかぎり、制限、二元性の葛藤があることがわかるとき、そのとき、それは見守っているし、いかにそれが経験からそれ自体を分離し、それ自体を主張し、力を求めているかに永続的に気づく。その気づきにおいて、精神が目的、目標を求めずに常にもっと深く広くそれを追求するなら、思考者と思考が一つである状態が訪れる。その状態には努力、なること、変化させたいという願望がない。その状態には、「私」はない。というのは、精神のものではない変容があるから。
(´・(ェ)・`)

240 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/01(火) 22:56:38 ID:1d4drIFg0
静かな精神が必要とクリシュナムルティは言うのじゃ。
それを得るには瞑想が必要なのじゃ。
思考の無い静かな精神で今ここにある心の働きを観ることができるのじゃ。
それが得られなければ全ての観察は私を強めるばかりなのじゃ。

241 避難民のマジレスさん :2020/09/02(水) 20:10:25 ID:giq2kMYI0
最初と最後の自由  第一部
第二一章 力と悟り(実現) 4

 創造の可能性があるのは、精神が空っぽであるときだけです。しかし私がいうのは、私たちのほとんどが持っているこの表面的な空っぽ、という意味ではありません。私たちのほとんどは表面的に空っぽです。それは、散漫への願望をとおして正体を現すのです。私たちは楽しみたいのです。それで書物、ラジオに向かうのです。講義、権威へ駆けつけるのです。精神は永続的にそれ自体を充たしているのです。私は無思慮である空っぽさについて話していません。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽについて、私は話しているのです。
 経験を集めるために、自分自身を強めるために、待ち、見張り、観察している思考者がいるかぎり、創造的空っぽは可能ではありません。精神は、すべての象徴、すべての言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、いったいありうるでしょうか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能でしょうか。あなたは当然この疑問に答えることができないでしょう。それは、あなたが答えるには不可能な疑問です。なぜなら、あなたは知らないからです。あなたは今まで試してみたことがないのです。しかし私が提案してよければ、それを聴いてください。あなたに疑問を出させましょう。種を蒔かせましょう。すると、あなたがほんとうにそれを聴くなら、それに抵抗しないなら、それは実を結ぶでしょう。  
 変容させられるのは、古いものではなく、新しいものだけです。あなたが古いものの様式を追求するなら、どんな変化も、古いものの修正された連続・継続です。それには何も新しいものがありません。何も創造的なものがありません。精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうるのです。そして精神は、表面的な水準でだけではなく心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる・新しく生まれることができるのです。精神がそれ自身の活動がわかる [とき] 、それ自身の欲望、要求、衝動、追求、それ自身の権威の [創造] 、恐れの創造に気づくとき、修練により、制御により造り出された抵抗 [がわかり] 、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき-精神はこの過程全体を見通し・見抜き、気づくとき-これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうるでしょうか。あなたはそれについて意見を持たず、その創造的状態を経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出すでしょう。あなたはそれを経験したいと思うなら、するでしょう。しかしあなたが経験するものは、創造的空っぽではありません。それはただ願望の投影であるだけす。あなたは新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけです。しかし、あなた自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのようにあなた自身の過程全体を見守るなら、そのとき、あなたはますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうる [ところの] この空っぽという究極の疑問に、至るでしょう。
 真理、神-何であれ-は、何か経験されるものではありません。というのは、経験者は時間の結果、記憶の、過去の結果であるからです。経験者がいるかぎり、真実はありえません。精神が、分析者から、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実があるのです。そのときあなたは答えを見つけるでしょう。そのときあなたは、あなたが求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかるでしょう-それはあるのです。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れるのです。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

242 避難民のマジレスさん :2020/09/02(水) 20:15:06 ID:giq2kMYI0
くまめも21-4
私たちは表面的に空っぽ。それは、散漫への願望をとおして正体を現す。私たちは楽しみたい。それで書物、ラジオに向かい、講義、権威へ駆けつける。精神は永続的にそれ自体を充たしている。それは無思慮である空っぽ。反対に、精神が、幻影を造り出すそれ自身の力がわかって越えてゆくとき、とてつもない思慮深さをとおして訪れる空っぽがある。
経験を集めるために、自分自身を強めるために、思考者がいるかぎり、創造的空っぽは不可能。精神は、すべての象徴、言葉とともにそれらの感動から空っぽになって、そのため蓄積している経験者がいないことは、ありうるか。精神は、推理・推論、経験、賦課、権威すべてを完全に脇に置いて、そのため空っぽの状態にあることは、可能か。
精神自体が新しいときだけ、創造的なものが生じうる。そして精神は、心の底で、それ自身の活動すべてがわかる能力があるときだけ、新たになれる。精神がそれ自身の欲望、要求、衝動、追求、権威の創造、恐れの創造に気づくとき、修練、制御により造り出された抵抗がわかり、信念、理想を投影する希望がそれ自体においてわかるとき、これらのものごとすべてを脇に置いて、新しく、創造的に空っぽでありうる。創造的状態について意見を持たず、経験したいと思わずに実験してみてこそ、それができるかできないかを、見出す。新しいものを経験したいと願望するなら、たんに幻影に耽っているだけ。しかし、自身の活動を、日毎に、瞬間瞬間観察し、気づきはじめて、鏡のなかのように自身の過程全体を見守るなら、そのとき、ますます深く入るにつれて、それにおいてのみ新しいものがありうるところのこの空っぽという究極の疑問に、至る。
真理は、経験されるものでは無い。というのは、経験者は時間の結果、記憶、過去の結果であるから。経験者がいるかぎり、真実はありえない。精神が、分析者、経験者と経験されるものから完全に自由であるときだけ、真実がある。そのとき答えを見つける.そのとき求めることなく変化が訪れること、創造的空っぽの状態は育成されるものではないことが、わかる。それはどんな招待もなくかすかに・ぼんやりと訪れる。その状態においてだけ、新生、新しさ、革命の可能性がある。
(´・(ェ)・`)

243 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/03(木) 00:01:49 ID:1d4drIFg0
創造的な状態だけが新しい変容をもたらすものというのじゃ。
しかしそれは何もせず訪れるものというのじゃ。
悟道を待つ事と同じなのじゃ。
観察に拠って気づきがあり、それによってまた観察が可能になるというのじゃ。
なかなか難しいことじゃ。
仏陀だけができることなのじゃ。

244 避難民のマジレスさん :2020/09/03(木) 23:14:09 ID:YPlQ4tcQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答

一 現在の危機について 1

質問
 現在の危機は先例・前例がないと、あなたは言われます。どんな点で、それは例外的なのでしょうか。
クリシュナムルテイ
 明白に、世界じゅうの現在の危機は、先例がなく例外的です。歴史を通じてずっと、違った時期に、様々な類型の-社会的、国家 [・民族]的、政治的な-危機がありました。危機は来て去ります。経済的な不景気、不況が来て、修正されて、違った形で継続します。私たちはそれを知っています。私たちはその過程に慣れ親しんでいます。確かに、現在の危機は異なっているのではないでしょうか。それは初めに異なっています。なぜなら、私たちはお金でも、また触れられるもの・実体のあるもの[を扱っているの] でもなく、観念を扱っているからです。危機は例外的です。なぜなら、それは観念作用の領域にあるからです。私たちは観念のことでけんかしています。私たちは殺人を正当化しています。世界のあらゆるところで、私たちは正しい目的への手段として殺人を正当化しています-それは、それ自体が先例がありません。以前は、悪は悪であると認識されていました。殺人は殺人であると認識されていました。しかし、今や殺人は、高尚な結果を達成するための手段です。殺人は、一人の人のであろうと、人々の集団のであろうと、正当化されています。なぜなら、殺人者、または殺人者が代表する集団は、人のためになるであろう結果を達成する手段として、それを正当化するからです。 すなわち、私たちは未来のために現在を犠牲にするのです-私たちの宣言した・公然の目的が、人のためになるであろうと私たちが言う [ところの]結果を産み出すことであるかぎり、どんな手段を用いるかは、大事なことではありません。ゆえに、含まれている意味は、間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、ということです。そしてあなたは、観念作用をとおして、間違った手段を正当化するのです。以前に起きてきた様々な危機においては、論点は、ものごとや人の搾取・利用でした。それが今や観念の搾取・利用です-そのほうがもっとはるかに有害で、もっと危険です。なぜなら、観念の搾取はあまりに壊滅的で・荒廃的で、あまりに破壊的であるからです。 私たちは今や宣伝の力を学んできました。それが、起こりうる最大の災いの一つです-人を変容させるための手段として、観念を使うことが、です。それが、今日世界で起きていることです。人は重要ではないのです-体系 [・体制]、観念が重要になってしまったのです。人はもはや何の意義もありません。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できるのです。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持っています。そして確かにそれは先例がないのです。悪は悪です。それは善をもたらすことができません。戦争は平和への手段ではありません。戦争は、もっと効率的・能率的な飛行機のように、二義的な利益をもたらすかもしれません。しかし、それは人に平和をもたらさないでしょう。戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化されるのです。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ

245 避難民のマジレスさん :2020/09/03(木) 23:15:11 ID:YPlQ4tcQ0
くまめも2-1-1
現在の危機は例外的。なぜなら、それは観念作用の領域にあるから
正しい目的への手段として殺人を正当化
未来のために現在を犠牲にする
間違った手段が正しい目的を産み出すであろう、という意味を含む
観念作用をとおして、間違った手段を正当化
以前の危機における論点は、ものごとや人の搾取・利用。それが今や観念の搾取・利用−そのほうが有害で、危険。なぜなら、観念の搾取は壊滅的、荒廃的、破壊的であるから
宣伝の力が、人を変容させるための手段として、観念を使うことが、起こりうる最大の災いの一つ。
人は重要ではない−体系・体制、観念が重要になってしまった。人はもはや何の意義もない。結果を産み出して、結果が観念により正当化されるかぎり、私たちは何百万もの人々を破壊できる。私たちは、悪を正当化するための壮大な観念の構造を持った。そして確かにそれは先例がない。
戦争は、平和をもたらす手段として、知的に正当化される。知性・知能が人の生においてより優勢となるとき、それは先例のない危機をもたらす。
(´・(ェ)・`)

246 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/04(金) 23:42:54 ID:1d4drIFg0
もはや人類は地球をも破壊できる兵器をもってしまったからのう。
知性に拠ってそれを使えば全て破壊されるのじゃ。
知性は戦争を正当化してそれを使うようにするじゃろう。
それは今までになかった危機なのじゃ。

247 避難民のマジレスさん :2020/09/05(土) 23:59:48 ID:nenS2e0o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答

一 現在の危機について 2

 また、先例のない危機を表示する他の原因もあります。それらの一つが、感覚的価値に、財産に、名前に、カ-ストと国に、あなたが身につけている特定のレッテルに、人が与えているとてつもない重要性です。あなたはイスラム教徒かヒンドウ-教徒、キリスト教徒か共産主義者です。名前と財産、カ-ストと国が、支配的に・優勢的に重要になってしまったのです-それは、人が、感覚的価値 [に捕らわれ] 、精神により、手により作られたものごとの価値に捕らわれている、という意味です。私たちはそれらのために殺し、破壊し、屠殺し、粛清しあっているほどに、手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまったのです。私たちは崖っぷちに近づいているのです。あらゆる行動が、私たちをそこへ導いているのです。あらゆる政治的 [行動]、あらゆる経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした混乱させる深淵に引きずり込んでいるのです。ゆえに、危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求するのです。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要です。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうからです。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけです。危機が先例がないので、また先例のない行動がなければなりません-それは、個人の革新は、時間の過程 [をとおして]ではなく、 瞬時でなければならない、という意味です。それは明日ではなく、今起きなければなりません。というのは、明日は崩壊の過程であるからです。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招きます。私はやはり破壊の領域の中にいるのです。 今変えることは可能でしょうか。 即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能でしょうか。それは [可能]であると、私は言います。
 要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということです。そしてこの革命は、他の人をとおしても、どんな書物をとおしても、どんな組織をとおしても起こりえません。それは、私たちをとおし、私たち各自をとおして来なければなりません。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた [社会、構造] 、蓄積され、積み上げられつつあるこれらのとてつもなく破壊的な力から離れた新しい社会、新しい構造を、造り出せるのです。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

248 避難民のマジレスさん :2020/09/06(日) 00:07:48 ID:nenS2e0o0
くまめも2-1-2
先例のない危機を表示する他の原因
感覚的価値が、支配的に・優勢的に重要になってしまった。手により、精神により作られたものごとがあまりに重要になってしまった。あらゆる政治的、経済的行動が必然的に私たちを崖に連れていき、この混沌とした深淵に引きずり込んでいる。危機が先例がないので、それは先例のない行動を要求する。その危機から離れ、踏み出すには、時間のない行動、観念、体系に基づかない行動が、必要。なぜなら、体系に、観念に基づいたどんな行動も、必然的に挫折につながるであろうから。そういう行動は、たんに違った道によって私たちを深淵に連れ戻すだけ。個人の革新は、時間の過程ではなく、 瞬時でなければならない。それは明日ではなく、今起きなければならない。私は明日、自分自身を変容させようと考えるなら、混乱を招く。破壊の領域の中にいる。今変えること、即時に、今、自分自身を完全に変容させることは、可能である。
要点は、危機が例外的な性格のものなので、それに出会う・対処するには、考えることに革命がなければならない、ということ。そしてこの革命は、他の人、書物、組織をとおしても起こりえない。それは、私たち各自をとおして来なければならない。そのときだけ、私たちは、この恐怖から離れた社会、構造、蓄積され、積み上げられつつあるこれらの破壊的な力から離れた新しい社会構造を、造り出せる。そしてその変容は、個人としてのあなたが、あらゆる思考、行動、感情において自分自身に気づきはじめるときだけ、生じる。
(´・(ェ)・`)

249 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/06(日) 22:40:18 ID:1d4drIFg0
今は前例のない危機的な状況にある。
そうであるから前例の無い行動をしなければならぬというのじゃ。
それは書物とか他人とか組織では出来ないのじゃ。
自らに気付くことでのみ起こるというのじゃ。

250 避難民のマジレスさん :2020/09/07(月) 21:02:48 ID:RoJ3t8Ms0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
二 国家[・民族]主義について1

質問
 国家 [・民族]主義が去るとき、 [次に]来るのは何でしょうか。

  明白に智恵です。しかし、残念ながら、それが質問に含まれている意味ではないように、私は思います。含まれている意味は、何が国家 [・民族]主義の代用でありうるのか、です。どんな代用も、智恵をもたらさない行為です。私が一つの宗教を去って、もう一つに加わるなら、または一つの政党を去って、後に何か他のものに加わるなら、この常なる代用は、 [そこに]智恵のない状態を表示しています。
 国家 [・民族]主義はどのようにして去るのでしょうか。その充分な含意を、私たちが理解することにより、それを検討することにより、外側と内側の行動 [・作用]におけるその意義に気づくことによってだけ [去るの]です 。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらします-それは、誰でもよく観察している人にとって明白です。内側で、心理的に、もっと偉大なものとの、国との、観念とのこの同一化は、明白に一つの形の自己拡大です。小さな村や大きな町や何であろうと [そこに] 住んでいると、私は誰でもないのです。しかし私が自分自身をもっと大きなものと、国と、同一化するなら、自分自身をヒンドウ-教徒と呼ぶなら、それは私の虚栄心をくすぐるのです。それは私に満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれるのです。そしてもっと大きなものとのその同一化-それは、自己拡大が本質的 [・不可欠]であると感じる人たちにとって心理的な必要物・必需品です-はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出すのです。こうして国家 [・民族]主義は、外側の抗争 [を造り出す]だけではなくて、内側の挫折をも造り出すのです。国家 [・民族]主義を、国家 [・民族]主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまうのです。国家 [・民族]主義の理解は、国家 [・民族]主義、愛国心の過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来るのです。その検討から智恵が訪れます。そのとき国家 [・民族]主義のかわりの何か他のものの代用はないのです。あなたが国家 [・民族]主義のかわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になるのです。ゆえに、どんな形の代用も-どんなに高尚でも-一つの形の無知です。それは、人が喫煙のかわりにチュ-イングガムやビンロウジや何であれ、代用するのと似ています。ところが、喫煙、習慣、感動、心理的要求、その他すべての問題全体を、ほんとうに理解するなら、そのとき喫煙は、いつのまにかなくなるのです。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できるのです。そして智恵は、代用があるとき、機能していません。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂です。国家 [・民族]主義とともにその毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができるのです。そして智恵は、たんに試験に通ることと書物を研究することによっては、来ないのです。智恵は、私たちが問題を生じるままに理解するとき、生じるのです。異なった水準で問題の [理解があるとき] -外側の部分だけではなく、その内側の心理的な含意の理解があるとき、そのとき、その過程において、智恵が生じるのです。ですから、智恵があるとき、代用はありません。そして智恵があるとき、そのとき国家 [・民族]主義、愛国心は-それは一つの形の愚かさです-消え去るのです。
(´・(ェ)・`)つ

251 避難民のマジレスさん :2020/09/07(月) 21:03:57 ID:RoJ3t8Ms0
くまめも2-2-1
国家主義はどのようにして去るのか。その充分な含意を、理解、検討し、外側と内側の行動におけるその意義に気づくことによってだけ去る。外側で、それは人々の間の分割、分類、戦争、破壊をもたらした。内側で、心理的に、偉大なもの、国、観念との同一化は、一つの形の自己拡大。自分自身を国と、同一化するなら、それは虚栄心をくすぐる。それは満足・喜び、威信、幸福感を与えてくれる。そして大きなものとのその同一化はまた、人々の間に抗争、闘争をも造り出す。こうして国家主義は、外側の抗争だけではなくて、内側の挫折をも造り出す。国家主義の過程全体を理解するとき、それは消えてしまう。その理解は、その過程全体を気をつけて観察することにより、中を探ることにより、智恵をとおして来る。その検討から智恵が訪れる。かわりに宗教を代用するなら、宗教は自己拡大のもう一つの手段、心理的心配・懸念のもう一つの源、信念をとおして自分自身を養う手段になる。ゆえに、どんな形の代用も一つの形の無知。智恵の発達があるとき、智恵が機能しているときだけ、あなたは理解できる。そして智恵は、代用があるとき、機能していない。代用は、あなたにこれをしないよう、あれをするように誘惑する、たんに一つの形の自己賄賂。その毒、その悲惨と世界の闘争は、智恵があるときだけ、消え去ることができる。智恵は、問題を生じるままに理解するとき、生じる。問題の外側の部分だけではなく、内側の心理的な含意の理解があるとき、その過程において、智恵が生じる。だから、智恵があるとき、代用はない。智恵があるとき、そのとき国家主義、愛国心は消え去る。
(´・(ェ)・`)

252 避難民のマジレスさん :2020/09/08(火) 20:21:28 ID:1NnBepF.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 1

質問
 (導師)たちは不必要であると、あなたは言われます。しかし、(導師)だけが与えられる賢明な助けと導きなしに、どうして私は真理を見つけられるのでしょうか。

 質問は、(導師)は必要であるのか、ないのか、です。真理は、他の一人をとおして見つけられるでしょうか。或る者は、それはできると言い、或る者は、できないと言います。他の一人の意見に対比しての私の意見ではなく、私たちはこれの真理が知りたいのです。私はこの件において意見を持っていません。それはそうであるか、そうでないか、どちらかです。あなたが(導師)を持つべきか、持つべきでないかということが、本質的 [・不可欠]であるかどうかは、意見の問題ではありません。事柄の真理は、意見に依存しません-たとえどんなに奥深くて、学識があり、一般的で・評判がよくて、普遍的でも、です。事柄の真理は、事実において見出されるべきです。
 まず最初に、なぜ私たちは(導師)が欲しいのでしょうか。私たちは導師が必要です。なぜなら私たちは混乱しているし、導師 は助けになるからです、と私たちは言います。彼は真理が何であるかを指摘してくれるだろう。彼は、私たちが理解するのを助けてくれるだろう。彼は私たちよりも生についてはるかに多く知っている。彼は私たちに生を教える父として、教師としての役割を果たすだろう。彼は膨大な経験を持ち、私たちはわずかしか持っていない。彼は、より大きな・偉大な彼の経験をとおして、私たちを助けてくれるだろう、などなどです。すなわち、基本的にあなたは混乱しているから、教師のところへ行くのです。もしも明晰であったなら、あなたは導師 に近づかないでしょう。明白に、もしもあなたがとても深く幸せであったなら、もしも問題がなかったなら、もしもあなたが生を完全に理解したなら、あなたはどんな導師 のところへも行かないでしょう。あなたにこれの意義をわかって欲しいと、私は思います。あなたは混乱しているから、教師を捜し出すのです。あなたは生き方を与えてもらうため、自分自身の混乱を明らかにする・晴らすため、真理を見つけるために、彼のところへ行くのです。あなたは混乱しているし、自分が求めるものを彼が与えてくれるだろうと願うから、自分の導師 を選択するのです。すなわち、あなたは自分の要求を満足させてくれるであろう導師 を、選択するのです。彼があなたに与えてくれるであろう満足・喜びに応じて、あなたは選択するのです。それであなたの選択は、あなたの満足・喜びに依存しているのです。あなたは、「あなた自身に依存しなさい」と言う導師 を選択しません。あなたは自分の先入観に応じて彼を選択するのです。それであなたは、彼が自分に与えてくれる満足・喜びに応じて導師 を選択するから、あなたは真理を [求めているの]ではなくて、混乱からの抜け出し方を求めているのです。そして混乱からの抜け出し方が、誤って真理と呼ばれるのです。
(´・(ェ)・`)つ

253 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/08(火) 22:56:06 ID:1d4drIFg0
本当に国家や民族という観念が無ければ智慧があるのじゃ。
しかし、人はそんなことは聞きたくないじゃろう。
神とか信仰があるとか聞きたいのじゃろう。
それもまた観念による統制に過ぎないのじゃ。
本当の解放は知恵に拠ってのみあるものじゃ。

254 避難民のマジレスさん :2020/09/09(水) 20:36:30 ID:qC4HxYB20
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 2

 導師 が私たちの混乱をきれいに片づけられるというこの観念を、初めに検討しましょう。誰かが私たちの混乱をきれいに片づけられるでしょうか-混乱は私たちの応答の産物です。私たちがそれを造り出したのです。他の誰かがそれを-中と外の、存在のすべての水準におけるこの悲惨、この戦いを-造り出したと、あなたは思うのでしょうか。それは、自分たち自身についての知識の欠如の結果です。私たちが導師 のところへ行くのは-私たちがその混乱から自由であるのを、彼が助けてくれるであろうと考えるのです-私たちが自分たち自身を、自分たちの葛藤、応答、悲惨を、理解しないからです。私たちは現在との関係においてだけ、自分たち自身を理解できるのです。そして外側の誰かがではなく、その関係自体が導師 です。私がその関係を理解しないなら、たとえ導師 が何を言うとしても役立ちません。なぜなら、私が関係を-財産との、人々との、観念との私の関係を-理解しないなら、誰が私の中の葛藤を解決できるでしょうか。その葛藤を解決するには、私はそれを自分自身で理解しなければなりません-それは、私が関係において自分自身に気づかなければならない、という意味です。気づくには、どんな導師 も必要ではありません。私が自分自身を知らないなら、導師 が何の役に立つでしょうか。混乱 [状態]にあって、ゆえに彼らの選択もまた混乱している人たちにより、政治的指導者が選択されるのと同じように、私は導師 を選択するのです。私は自分の混乱に応じてだけ、彼を選択できるのです。ゆえに彼も、政治的指導者と同じように、混乱しているのです。
 重要であることは、誰が正しいのか-私が正しいのか、導師 は必要であると言う人た
ちが正しいのかどうか-ではありません。なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すことが、重要です。導師 は、様々な種類の搾取 [・利用]のために存在しています。しかしそれは関係ありません。あなたがどのように進歩しつつあるかを、誰かがあなたに言ってくれるなら、それはあなたに満足を与えてくれるのです。しかし、なぜあなたが導師 を必要とするのかを見出すこと-そこに鍵があるのです。他の人は道・やり方を指摘できます。しかしたとえあなたが導師 を持つとしても、あなたが作業すべてをやらなければなりません。 あなたはそれと向き合いたくないから、導師 に責任をなすりつけるのです。ごくわずかの自己認識があるとき、導師 は役に立たなくなるのです。どんな導師 も、どんな書物や聖典も、あなたに自己認識を与えられません。あなたが関係において自分自身に気づくとき、それは来るのです。ある [・生きる]ことは関係することです。関係を理解しないことは、悲惨、闘争です。財産とのあなたの関係に気づかないことが、混乱の原因の一つです。あなたが、財産との自分の正しい関係を知らないなら、必ず葛藤があります-それが社会に抗争を増大させるのです。あなたが自分自身と自分の妻との間の、自分自身と自分の子供との間の関係を理解しないなら、その関係から生じている葛藤を、どうして他の一人が解決できるでしょうか。観念、信念などについても同様です。人々との、財産との、観念とのあなたの関係において混乱しているので、あなたは導師 を求めるのです。彼はほんとうの導師であるなら、あなたに自分自身を理解するようにと言うでしょう。あなたがすべての誤解と混乱の源です。そして関係において自分自身を理解するときだけ、あなたはその葛藤を解決できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

255 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/09(水) 22:38:01 ID:1d4drIFg0
導師は必要とする者にのみ現われるというのじゃ。
必要としないものには現われないのじゃ。
ただ自らを理解するだけで善いのじゃ。
導師はそのためにのみ現われるのじゃ。

256 避難民のマジレスさん :2020/09/10(木) 20:28:25 ID:tQxP6Xgs0
最初と最後の自由 第二部質疑応答三 なぜ霊的教師なのか 4

 あなたは他の誰をとおしても真理を見つけられません。どうしてできるでしょうか。真
理は何か静止したものではありません。それは固定した住所を持ちません。それは目的、目標ではありません。反対に、それは生きて、動的で、鋭敏で、生き生きしているのです。どうしてそれが目的でありうるでしょうか。真理が固定点であるなら、それはもはや真理ではありません。そのとき、それはたんなる意見です。真理は知られないものです。真理を求めている精神は、決してそれを見つけないでしょう。というのは、精神は知られたものから作り上げられているからです。それは過去の結果、時間から出てきたものです-あなたはそれを自分自身で観察できます。精神は知られたものの道具です。ゆえに、それは知られないものを見つけられません。それは知られたものから知られたものへ動けるだけです。精神が真理を-書物で読んだことがある真理を-求めるとき、その「真理」は自己投影されています。というのは、そのとき精神は、たんに知られたもの-以前のものよりもっと満足できる知られたもの-を、追求しているからです。精神が真理を求めるとき、それは真理 [を求めるの] ではなく、それ自身の自己投影を求めているのです。結局、観念は自己投影されています。それは虚構で非真実です。真実であるものは、対極のものではなく、あるがままです。しかし真実を求め、神を求めている精神は、知られたものを求めているのです。あなたが神について考えるとき、あなたの神は、あなた自身の思考の投影、社会的影響の結果です。あなたは知られたものについてだけ、考えられるのです。あなたは知られないものについて考えられません。あなたは真理に集中できません。あなたが知られないものについて考えた瞬間、それはたんに自己投影された知られたものです。神や真理については考えられません。あなたがそれについて考えるなら、それは真理ではありません。真理は求められません。それはあなたに来るのです。あなたは知られているものを追いかけられるだけです。精神が知られたものにより、知られたものの影響により、拷問にかけられないとき、そのときだけ、真理が正体を現せるのです。真理はあらゆる木の葉に、あらゆる涙にあるのです。それは瞬間瞬間知られるべきものです。誰一人あなたを真理へ導けません。誰かがあなたを導くなら、それは知られたものへ [導かれる] だけです。
 真理は、知られたものが空っぽである精神に、到来しうるだけです。それは、知られたものが不在であり、機能していない状態に来るのです。精神は知られたものの倉庫、知られたものの残り滓です。精神が、[そこに] 知られないものが生じる状態にあるには、それはそれ自体に [気づく] 、意識的と共に無意識的なそれの以前の経験に、それの応答、反応、構造に、気づかなければなりません。完全な自己認識があるとき、そのとき知られたものの終わりがあります。そのとき精神は完全に、知られたものが空っぽです。真理が招かれずにあなたのところへ来るのは、そのときだけです。真理は、あなたにも私にも属していません。あなたはそれを崇拝できません。それは知られた瞬間、真実ではないのです。象徴は真実ではありません。イメ-ジは真実ではありません。しかし自己の理解が、自己の停止があるとき、そのとき永遠性が生じるのです。
(´・(ェ)・`)つ

257 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/10(木) 21:52:58 ID:1d4drIFg0
真理と呼べるものは自分を知ることでしかたどり着けないというのじゃ。
自らを知り、自らが無であると気付いた時真理は在るのじゃ。
本で読んだ知識とか、過去の記憶からは生まれないのじゃ。
自らを追及する事でのみそれはやってくるのじゃ。

258 避難民のマジレスさん :2020/09/11(金) 21:39:28 ID:sfCtiVOE0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 1

質問
 私はあなたから、学び・学問と知識は妨害であるということを、明確に推測します。それらは何に対して妨害なのでしょうか。 

 明白に、知識と学びは、新しいもの、時間のないもの、永遠のものの理解にとって妨害です。完璧な技術を発達させることは、あなたを創造的にしません。あなたはどのようにすばらしく絵を描くかを知っているかもしれません。あなたは技術を持っているかもしれません。しかし、あなたは創造的画家ではないかもしれません。あなたは、技術的にもっとも完璧な詩を、どのようにして書くかを知っているかもしれません。しかし、あなたは詩人ではないかもしれません。詩人であるとは、新しいものを受け入れる能力がある、何か新しい新鮮なものに応答するに充分敏感である、という意味を含むのではないでしょうか。私たちのほとんどにとって、知識や学びは中毒・耽溺になってしまいました。私たちは、知ることをとおして創造的であるだろうと、考えるのです。事実を、知識を詰め込んで身を固めた精神-それは、何か新しい、突然の・不意の、自発的なものを受け入れる能力があるでしょうか。あなたの精神が知られたもので詰め込まれているなら、そこには、知られないもののものである何かを受け入れる空間が、何かあるでしょうか。確かに知識はいつも知られたものについてです。そして知られたものをもって、私たちは知られないものを、何か尺度を超えたものを、理解しようとしているのです。
 私たちのほとんどに起こるごく普通のものごとを、例に取りましょう。宗教的な人たちは-さしあたり・当座は、その言葉が何を意味するとしても-神が何であるかを想像しようとしたり、神が何であるかについて考えようとしたりします。彼らは無数の書物を読んできました。彼らは様々な聖者たち、大師たち、マハトマ(偉大な魂)たちとその他すべての経験について読んできました。そして他の一人の経験が何であるかを想像しようとしたり、感じようとしたりするのです。すなわち、知られたものをもって、知られないものに接近しようとするのです。あなたはそれができるでしょうか。あなたは、何か知ることのできないものについて考えられるでしょうか。あなたは、何か自分が知っているものについて考えられるだけです。しかし現在の世界には、このとてつもない倒錯・歪曲が起きているのです。私たちはもっと多くの情報、もっと多くの書物、もっと多くの事実、もっと多くの印刷物を持つなら、理解するだろうと思うのです。
 知られたものの投影ではない何かに気づくには、理解をとおして、知られたものの過程の排除・除去がなければなりません。精神がいつも知られたものにすがりつくのは、なぜでしょうか。それは、精神が常に確実性、安全を求めているから、ではないでしょうか。まさにその本性こそが、知られたものに、時間に固定されているのです。そういう精神が-まさにその基盤・土台そのものが、過去に、時間に基づいているのですが-どうして時間のないものを経験できるでしょうか。それは知られないものを考えつき・構想し、定式化し、思い描く・描き出すかもしれません。しかしそれはすべて不合理です。知られたものが理解され、解消され、脇に置かれるときだけ、知られないものが生じうるのです。それは極めて難しいのです。なぜなら、あなたが何かについての経験をした瞬間、精神はそれを知られたものの用語に翻訳して、それを過去に還元するからです。あらゆる経験が即時に知られたものに翻訳され、名前をつけられ、一覧表にされ、記録されるということに、あなたが気づいたことがあるかどうか、私は知りません。それで知られたものの動きが知識です。明白にそういう知識、学習は障害です。
(´・(ェ)・`)つ

259 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/11(金) 23:17:14 ID:1d4drIFg0
知識と学習とは共に記憶に基づいた理解の方法なのじゃ。
記憶に拠って知識を蓄え、記憶されたことを公式とか概念として分別するのじゃ。
それらは記憶に依存している故に、新しいものこどを受け入れられないのじゃ。
過去を今ここにあてはめて解釈しているだけなのじゃ。
どんな先入観念も無い心にのみ、新しいものごとが受け入れられるのじゃ。

260 避難民のマジレスさん :2020/09/12(土) 19:02:33 ID:Guh03MSU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答四 知識について 2

 仮にあなたが、宗教的または心理学的な書物を、今まで一度も読んだことがなかった。そして生の意味、意義を見つけなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。仮に大師たちも、宗教的組織も、ブッダも、キリストもいなかった。そしてあなたは初めから始めなければならなかった、とします。あなたはどのようにそれに取りかかるのでしょうか。初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならない、のではないでしょうか-自分自身を、自分の思考を未来に投影して、あなたを喜ばせる神を造り出すのではありません-それはあまりに子供じみている・幼稚すぎるでしょう。それで初めに、あなたは自分の考える過程を理解しなければならないでしょう。それが、何か新しいものを発見する唯一の道なのではないでしょうか。
 私たちは、学習や知識は妨害、障害であると言うとき、技術的な知識-車をどう運転するのか、機械類をどう動かすのか-や、そういう知識がもたらす能率・効率は含んでいません。私たちは全く違ったことを精神に持っています・考えています-どれほどの量の知識や学習ももたらさないであろう [ところの]あの創造的幸せの感覚 [のことです] 。その言葉のもっとも真実の意味において創造的であるとは、瞬間瞬間過去から自由であることです。なぜなら、継続的に現在に影を落としているのは、過去であるからです。情報に、他の人たちの経験に、たとえどんなに偉大でも誰かが言ったことに、たんにすがりついて、自分の行動をそれに近づけようとすること-そのすべては知識なのではないでしょうか。しかし、何でも新しいものを発見するには、あなたは自分自身から始めなければなりません。あなたは、特に知識を完全に剥ぎ取られた旅に、とりかからなければなりません。なぜなら、知識と信念をとおして経験をすることは、とてもたやすいからです。しかしそれらの経験は、たんに自己投影の産物です。ゆえに全く真実ではなく、偽りです。あなたが何が新しいものなのかを自分自身で発見しようとするなら、古いものの重荷を、特に知識-たとえどんなに偉大でも他の一人の知識-を運んでいてはダメなのです。あなたは知識を、自己投影の、安全の手段として使います。そしてあなたは、ブッダやキリストやXと同じ経験をすることを、全く確信したいのです。しかし、知識をとおして常に自分自身を保護している人は、明白に真理を求める者ではありません。
 真理の発見のための道はありません。あなたは海図なき海に入ってゆかなければなりません-それは憂鬱ではありません。それは冒険好きであることではありません。あなたが何か新しいものを見つけたいとき、何でも実験しているとき、あなたの精神はとても静かでなければならない、のではないでしょうか。あなたの精神が、事実、知識で詰め込まれ、充満しているなら、それらは新しいものへの妨害として作用するのです。困難は、私たちのほとんどにとって、精神があまりに重要に、あまりに支配的に・優勢的に意義深くなってしまったこと、それが、何でも新しいかもしれないものに、何でも知られたものとともに同時に存在しているかもしれないものに、常に邪魔をしている・妨害しているということ、です。こうして知識と学習は、求めようとする人たち、時間のないものを理解してみようとする人たちにとって妨害です。
(´・(ェ)・`)つ

261 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/12(土) 23:10:45 ID:1d4drIFg0
もしも何の知識も無しに生の意味、意義を見つけなければならないとしたら、先ずは自分の思考過程を理解するところから始めるというのじゃ。
自分がどのようにしてものごとを知るのか、わからなければ全てが謬見になるからなのじゃ。
それは科学者が正確な顕微鏡を求めてちいさいものを見るのと同じなのじゃ。
観察する道具が狂っていては全てが狂うからなのじゃ。
自分の心の働きを知って全ては理解できるようになるのじゃ。

262 避難民のマジレスさん :2020/09/13(日) 16:16:00 ID:8a63LH/E0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 1

質問
すべての宗教は、人の残忍性・獣性の本能を調節する・適度にするために、何らかの種類の自己修練を、主張してきました。自己修練をとおして、聖者たちと神秘主義者・論者たちは、神性・神格に到達したと断言・主張してきました。今あなたは、そういう修練は、神の実現・悟りにとって障害であることを示唆しているように見えます。私は混乱しています。この事柄において正しいのは誰でしょうか。

 それは、この事柄において誰が正しいのか、という問題ではありません。重要であることは、私たち自身で事柄の真理を見出すことです-特定の聖者や、インドからやどこか他の所-異国的であればあるほどいいのです-から来た人物に応じて [見出すの] ではありません。
 あなたはこれら二つの間に捕らわれて・挟まれています。ある人は修練を唱えます。他の一人は無修練を唱えます。一般的に起きることは、より便利である・都合のいいもの、より満足させるものを、あなたは選択するということです。あなたは、 [その] 人、彼の容貌、彼の私的な性向、彼の私的な偏愛、その他すべてが好きなのです。そのすべてを脇に置いて、直接的にこの疑問を検討して、私たち自身で事柄の真理を見出しましょう。この疑問には、たいへん多くの意味が含まれています。私たちは用心・注意深くためらいがちに、それに接近しなければなりません。
 私たちのほとんどは、何をすべきかを私たちに教えてくれる誰か権威者が、欲しいのです。私たちは行いの指示を期待します。なぜなら、私たちの本能は、安心すること、もはや苦しまないことであるからです。誰かが幸せ、至福-何であれ-を実現したと言われています。すると私たちは、そこに到り着くために何をすべきかを、彼が私たちに教えてくれるだろうと、願うのです。それが、私たちの欲しいものです。私たちはその同じ幸せ、その同じ内側の静けさ、喜びが欲しいのです。そしてこの狂った混乱の世界で、私たちは、誰かに何をすべきかを自分たちに教えてもらいたいのです。それが、私たちのほとんどにとって、ほんとうに基本的本能です。その本能に応じて、私たちは自分たちの行動を様式化するのです。神、その最高の、名づけられない、言葉で測るべきでないもの-それは、修練をとおし、特定の行動の様式に付いていくことをとおして、偶然手に入るのでしょうか。私たちは特定の目標、特定の目的に到り着きたいのです。そして私たちは、実践により、修練により、抑圧することや解放すること、昇華することや代用することにより、自分たちが求めているものを見つけることができるだろうと、思うのです。
(´・(ェ)・`)つ

263 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/13(日) 22:44:37 ID:1d4drIFg0
人が権威に縋ろうとするのは親から条件付けされているからなのじゃ。
子供の頃に親からやるべきことやしてはいけないことを教わってきた故に、大人になってからもそのような対象を探して縋ろうとするのじゃ。
それは宗教によって最も顕著に現われるものじゃ。
神という親の代理を作り出して安心感をもたらすのじゃ。
それでは子供の頃と何も変らないのじゃ。
自ら観察して己を見出すことのみが正しい道なのじゃ。

264 避難民のマジレスさん :2020/09/14(月) 19:13:57 ID:3QLePqvQ0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 2

 修練に含まれている意味は何でしょうか。私たちは修練するとしても、なぜ自分たち自身を修練するのでしょうか。修練と智恵は共存できるのでしょうか。ほとんどの人たちは、何らかの種類の修練をとおして、私たちのなかの獣性・残忍性、醜いものを、服従させたり制御したりしなければならないと、感じています。その獣性、その醜いものは、修練をとおして、制御できるでしょうか。私たちのいう修練とは、どういう意味でしょうか。報賞を約束してくれる [ところの] 行動の進路・道筋。もしも追求したなら、私たちに欲しいもの-それは肯定的であったり否定的であったりするかもしれない-を与えてくれるであろう [ところの] 行動の進路。もしも精出して・勤勉に、丹念に、とてもとても熱烈に実践したなら、最後に私たちに欲しいものを与えてくれるであろう [ところの]行いの様式 [という意味]です。それは苦痛であるかもしれません。しかし私はそれ [欲しいもの] を得るために、進んでそれ [修練] を経てゆこうとするのです。自己は攻撃的で、利己的で、偽善的で、心配で、恐れています-あなたはそのすべてを知っています-その自己が、私たちのなかの獣性の原因です- [その自己を]私たちは変容させ、服従させ、破壊したいのです。これはどのようにしてなされるのでしょうか。それは、修練をとおして [なされるのか]、それとも自己の過去-自己とは何か、それはどのようにして生じるのか、など-についての智恵ある理解 をとおして、なされるのでしょうか。私たちは人の獣性を、強制をとおして [破壊するのでしょうか] 、それとも智恵をとおして破壊するのでしょうか。智恵は修練の事柄でしょうか。聖者たちとその他すべての人たちが言ったことは、当分は忘れましょう。まるで私たちが初めてこの問題を見つめるかのように、自分たち自身で事柄に入りましょう。そのとき私たちは、その終わりに、他の人たちが言ったことのただの引用ではなく-それはすべてあまりに空虚で役にたちません-何か創造的なものを、得るかもしれません。
 私たちには葛藤-白に対する黒、無欲に対する貪欲など-があると、私たちは初めに言います。私は貪欲です-それは苦痛を造り出します。その貪欲を取り除くには、私は自分自身を修練しなければなりません。すなわち私は、自分に苦痛を与えるどんな形の葛藤にも抵抗しなければならないのです-この場合は、それを貪欲と呼びます。そのとき私は、それは反社会的である、それは非倫理的・不道徳である、それは聖人らしくない、などなどと言います-私たちはそれに抵抗するために、様々な社会的、宗教的理由を与えます。貪欲は、強制をとおして破壊されたり、私たちから片づけられるでしょうか。初めに、抑圧、強制、それを片づけること、抵抗することに関与している過程を、検討しましょう。あなたがそうするとき、あなたが貪欲に抵抗するとき、何が起きるでしょうか。貪欲に抵抗しているものは何でしょうか。それが最初の疑問なのではないでしょうか。なぜあなたは貪欲に抵抗するのでしょうか。そして「私は貪欲から自由でなければならない」と言う実体は誰でしょうか。「私は自由でなければならない」と言う実体もまた、貪欲なのではないでしょうか。今までは、貪欲が彼に報いてきました。しかし、今やそれは苦痛です。ゆえに彼は「私はそれを取り除かなければならない」と言うのです。それを取り除こうとする動機も、やはり貪欲の過程です。なぜなら、彼は、何か自分ではないものでありたいと思っているからです。無欲は今や利益になるのです。それで私は無欲を追求しているのです。しかし、動機、意図は、やはり何ものかであること、無欲であることです-確かに、それもやはり貪欲です。それもまた、否定的な形の「私」の強調です。
(´・(ェ)・`)つ

265 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/14(月) 22:00:09 ID:1d4drIFg0
変容とは修練によってなされるのか、それとも知恵に拠って理解することできるのかというのじゃ。
そして修練は貪欲の表れでしかないというのじゃ。
無欲を目指していてもそれを望む貪欲になるのじゃ。
すると結局は変容は知恵による理解しかないということになるのじゃ。

266 避難民のマジレスさん :2020/09/15(火) 19:25:47 ID:Hg2uwcrw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 3

 私たちは、明白である様々な理由のために、貪欲であることが苦痛であることを、見つけます。私たちがそれを楽しむかぎり、貪欲であることが、私たちに報いてくれるかぎり、問題はないのです。社会は私たちを貪欲であるよう、違った仕方で励まします。宗教もまた、違った仕方で私たちを励まします。それが利益になるかぎり、それが苦痛でないかぎり、私たちはそれを追求するのです。しかしそれが苦痛になった瞬間、私たちはそれに抵抗したいのです。その抵抗が、貪欲に反して・対抗して修練と呼ばれます。しかし私たちは、抵抗をとおし、昇華をとおし、抑圧をとおして、貪欲から自由であるでしょうか。貪欲から自由でありたいと思う「私」の方のどんな行動も、やはり貪欲です。ゆえに、貪欲に関する私の方のどんな行動、どんな応答も、明白に解決ではないのです。
 まず初めに、何かを [理解するには] 、特に、何か私の知らないもの、何か私の精神が推し量れないもの-すなわち、この質問者が言う神-を理解するには、静かな精神、動揺のない精神が、なければなりません。何かを、何か錯綜した問題-生や関係の [問題]、要するに何かの問題-を理解するには、精神にとって一定の静かな深みがなければなりません。その静かな深みは、何かの形の強制をとおして偶然手に入るでしょうか。表面的な精神は、それ自体を強制し、それ自体を静かにさせるかもしれません。しかし、確かにそういう静けさは、腐敗の、死の静けさです。それは適応・順応性、柔軟性、敏感性・感受性の能力がありません。ですから抵抗は [正しい]道ではありません。
 そこで、それがわかるには、智恵を必要とするのではないでしょうか。精神は強制により鈍らされるということがわかることが、すでに智恵の始まりなのではないでしょうか-修練は、たんに恐れをとおした行動の様式への順応であることが、わかることが、です。それが、私たち自身を修練することに示唆されていることです。 私たちは欲しいものを得ないことを恐れています。あなたが精神を修練するとき、あなたが自分の存在を修練するとき、何が起きるでしょうか。それはとても堅く [なる] -柔軟でなく、すばやくなく、適応・調節できなくなるのではないでしょうか。あなたは、自分たち自身を修練してきた人たちを、知らないでしょうか-そういう人たちがいるとして、です。結果は明白に腐敗の過程です。片づけられ、隠された内側の葛藤があるのです。しかし、それはあるし、燃えているのです。
 こうして私たちは、修練、すなわち抵抗は、たんに習慣を造り出すだけであり、習慣は明白に智恵を産み出す力がありえないことが、わかるのです。習慣は決して [智恵を産み出す力がありえ]ない、実践は決して[智恵を産み出す力がありえ]ないのです。あなたは一日中ピアノを練習すること、自分の手で何かを作ることにより、指先がとても器用になるかもしれません。しかし、手に命令するには、智恵が要求されます。私たちは今、その智恵を探究しているのです。
(´・(ェ)・`)つ

267 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/15(火) 23:42:46 ID:1d4drIFg0
貪欲は最初は快楽であるがいずれは苦をもたらすものじゃ。
それを何かの修練によって除こうとすれば、それがまた貪欲を生み出すのじゃ。
その循環は止まる事が無いのじゃ。
ただありのままに見ることに拠ってのみ、それは止められるのじゃ。

268 避難民のマジレスさん :2020/09/16(水) 19:05:25 ID:5SfEipAk0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 4

 あなたは、幸せである、または悟っていると考える誰かを、見ます。彼は一定のことをします。あなたはその幸せが欲しいので、彼を模倣します。この模倣が修練と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは、他の一人が持つものを受け取るために、模倣します。私たちは幸せであるためにまねをします-彼がそう [幸せ] であると、あなたは思うのです。幸せは、修練をとおして見つかるでしょうか。一定の規則を実践することにより、一定の修練を、行いの様式を実践することにより、あなたはいったい自由でしょうか。確かに、発見のための自由がなければならない、のではないでしょうか。あなたは何かを発見しようと思うなら、内側で自由でなければなりません-それは明白です。あなたは、修練と呼ぶ特定のやり方で、自分の精神を形造ることにより、自由でしょうか。明白に、あなたは [自由では]ありません。あなたは、一定の結論に応じ、一定の行いの様式に応じて抵抗している、たんに反復的な機械であるだけです。自由は修練をとおして来ることができません。自由は、智恵をもって生じうるだけです。内側でも外側でも、どんな形の強制も、自由を否定するということがわかった瞬間、その智恵が目覚める、またはあなたはその智恵を持つのです。
 修練としてではなく、最初に必要なものは、明白に自由です。美徳だけが、その自由を与えてくれるのです。貪欲は混乱です。怒りは混乱です。苦さ・辛さは混乱です。あなたはそれがわかるとき、明白にそれらから自由です。あなたはそれらに抵抗しません。あなたは、自由においてだけ発見できること、どんな形の強制も自由ではなく、ゆえに発見はないことが、わかるのです。美徳のもたらすことは、あなたに自由を与えることです。美徳のない・不徳な人は、混乱した人です。混乱の中で、あなたはどうして何かを発見できるでしょうか。どうしてできるでしょうか。こうして美徳は、修練の最終産物・成果ではありません。美徳が自由です。美徳のない、それ自体において真実でないどんな行動をとおしても、自由は来ることができません。私たちの困難は、私たちのほとんどがあまりに多く読んできたこと、私たちのほとんどがあまりに多くの修練に表面的に付いていったこと、です-毎朝一定の時間に起きて、一定の姿勢で座り、自分たちの精神を一定の仕方に抑えようとすること-知っているでしょう、実践、実践、修練を。なぜなら、あなたは、何年間かこれらのことをするなら、その終わりに・最後に神を得るだろうと、言われてきたからです。私はそれを露骨に・ぞんざいに述べるかもしれません。しかし、それが、私たちの考えの基本です。確かに、神はそれほどたやすく来るとはかぎらないでしょう。神はたんなる市場で取り引きできるものではありません-私がこれをすると、あなたがそれを私にくれる [といったものではありません]。
(´・(ェ)・`)つ

269 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/16(水) 21:30:02 ID:1d4drIFg0
修練や規則、様式を繰り返すことはむしろ観察には不向きなのじゃ。
自らの心を観察して、新たな事実を発見することが大事なのじゃ。
修練等を繰り返すとそのような肝心な観察と発見による気づきを取り逃がしてしまうのじゃ。
観察し、発見することは記憶に拠らないものであるからのう。
記憶による修練はその妨げになるばかりなのじゃ。

270 避難民のマジレスさん :2020/09/17(木) 19:02:16 ID:7OJSsgOo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 5

 私たちのほとんどは、外部の影響により、宗教的な教義、信念により、何かに至り着きたい、何かを獲得したいという自分たち自身の内側の要求により、あまりに条件づけられているために、修練という見地に立って考えることなく、私たちがこの問題について新たに考えることは、とても難しいのです。初めに私たちは、修練が含んでいる意味が[とても明確に見えなければなりません] -それが、私たちの願望をとおし、影響とその他すべてをとおして、どんなに精神を狭めてしまい・限定し、精神を制限し、精神を特定の行動に強制するか [が見えなければなりません]-条件づけられた精神は、その条件づけがたとえどんなに「美徳がある」としても、とうてい自由でありえないし、ゆえに真実を理解できないということが、とても明確に見えなければなりません 。神、真実、何であれ-名前は大事ではありません-は、自由があるときだけ、生じうるのです。そして恐れをとおして、肯定的でも否定的でも強制があるところ、自由はありません。あなたが目的を求めているなら、自由はありません。というのは、あなたはその目的に縛られて・つながれているからです。あなたは過去から自由であるかもしれません。しかし未来があなたを拘束します・離しません。それは自由ではありません。何かを-新しい観念、新しい感情・気持ち、新しい知覚-を発見できるのは、自由においてだけです。政治的であれ宗教的であれ、強制に基づいたどんな形の修練も、その自由を否定します。そして修練、すなわち目的を視野に入れた行動への順応が、縛りつけているから、精神は決して自由でありえないのです。それは、蓄音機(レコ-ド)のように、その [修練の] 溝の中でだけ機能できるのです。
 こうして実践をとおし、習慣をとおし、様式の育成をとおして、精神は、それが視野に持つものを達成するだけです。ゆえに、それは自由ではないのです。ゆえに、それは測ることのできないものを悟れないのです。その過程全体に気づくこと-なぜあなたが世論に、一定の聖者たちに合わせて、常に自分自身を修練して・律しているのか-聖者のであれ隣人のであれ意見に順応するというやっかいなこと全体-それはすべて同じ事です- [に気づくこと]。 実践をとおし、甘受し、否定し、主張し、抑圧し、昇華するという微妙なやり方-すべてが様式への順応という意味を含んでいます-をとおした、この順応全体に気づくこと。これがすでに自由の始まりです。そこから美徳があるのです。美徳は確かに、特定の観念の育成ではありません。例えば、無欲は、もしも目的として追求されたなら、もはや美徳ではない、のではないでしょうか。すなわち、自分が無欲であることを意識しているなら、あなたは美徳があるでしょうか。それが、私たちが修練をとおしてやっていることです。
(´・(ェ)・`)つ

271 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/17(木) 21:33:32 ID:1d4drIFg0
なぜ修練がいかんのかというと、それが視野を狭めるからだというのじゃ。
修練はその目的のものしか見えなくなるから、自由な視野を失い、記憶の中だけで生きることに成るのじゃ。
修練によって達成できるのは、予め記憶された境地のみだというのじゃ。
無欲であることさえ意識して行うならばもはや美徳でもないのじゃ。
そのような修練とその結果全体に気付くことが自由の始まりなのじゃ。

272 避難民のマジレスさん :2020/09/18(金) 19:04:09 ID:vvZ4Fpoo0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 6

 修練、順応、実践は、何ものかであるという自意識に、強調を与えるだけです。精神は無欲を実践します。ゆえにそれは、無欲であるというそれ自身の意識から、自由ではないのです。ゆえにそれは、ほんとうは無欲ではないのです。それはたんに無欲と呼ぶ新しいマントを採用した・選び取っただけです。私たちはこのすべての総合過程がわかります-動機づけ、目的への願望、様式への順応、様式を追求するなかで安全でありたいという願望-このすべては、いつも精神自身の自己閉鎖的な過程の制限の中で、たんに知られたものから知られたものへ動くことです。このすべてがわかること、それに気づくことが、智恵の始まりです。そして智恵は、美徳があるのではなく、また美徳がないのでもありません。それは、美徳や不徳として様式にはめ込むことはできません。智恵は自由をもたらします-それは放蕩ではなく、無秩序ではありません。この智恵なしには、美徳はありえません。美徳は自由を与えてくれます。そして自由において、真実が生じるのです。あなたは過程全体を、完全な形で・まるごと総合的にわかるなら、そのとき葛藤がないことを見つけるでしょう。私たちが様々な形の修練、否定、適応に頼る・訴えるのは、私たちが葛藤 [の状態]にあるから、その葛藤から逃避したいから、です。何が葛藤の過程であるかがわかるとき、修練の問題はないのです。なぜなら、そのとき私たちは、葛藤の仕方を瞬間瞬間理解するからです。それは、大いなる鋭敏さ、いつのときも自分自身を見守る・見つめることを、必要とします。それが好奇心をそそる・不思議な部分は、いったん意図があれば、あなたがいつのときも見守っているわけではないとしても、記録する過程が内側で続いているということです-敏感さ、内的な敏感さが、いつのときも写真を撮り、そのためあなたが静かになった瞬間、内的なものがその写真を投影するでしょう。  
 ゆえに、それは修練の問題ではありません。敏感さは、強制をとおしては、決して生じえません。あなたは子どもに何かをするように強制し、隅に追い込むかもしれません。そして子どもは静かになるかもしれません。しかし内側で、子どもはたぶん波立ち・沸き立ち、窓の外を見、逃げようと何かをしているのです。それは、私たちもやはりしていることです。それで修練 [の問題] と、誰が正しく、誰が間違っているのかという問題は、あなた自身によってだけ、解決されうるのです。
 またあなたは、私たちは成功したいから、間違う・うまくいかないことを恐れていることも、わかります。恐れが、修練されたいという願望の底にあります。しかし、知られないものは、修練の網に捕らえられません。反対に、知られないものは、あなたの精神の様式 [を持つの]ではなく、自由を持つ・有するにちがいありません。そういうわけで、精神の平静さが本質的 [・不可欠]です。精神が平静であることを意識するとき、それはもはや平静ではありません。精神が無欲で [あること] 、貪欲から自由であることを意識するとき、それは無欲という新しいロ-ブ(礼服)を身につけたそれ自身を認識します。しかし、それは平静さではありません。そういうわけで、制御する人と制御されるものというこの疑問においても、また問題を理解しなければならないのです。それらは分離した現象ではなくて、共通の現象です。制御するものと制御されるものは一つです。
(´・(ェ)・`)つ

273 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/18(金) 21:51:03 ID:1d4drIFg0
修練は結局自我を強化するだけというのじゃ。
実際に自分が座禅をしているからと増上慢になる者も多いのじゃ。
それは逃避でしかないのじゃ。
ぶざまな自己イメージからの逃避であるから、それで自己を理解することはありえないのじゃ。

274 避難民のマジレスさん :2020/09/19(土) 17:21:12 ID:WIUog5qw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 7

質問
 私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。

 質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
あなたは今まで一人であろうとしたことがあるでしょうか。あなたはそうしようとするとき、それがどんなにとてつもなく難しいか、一人であるにはどんなにとてつもない智恵がなければならないかを、感じるでしょう。なぜなら、精神は(どうしても)私たちを一人にさせないからです。精神は落ち着かなくなります。それは逃避するのに忙しいのです。それで私たちは何をしているのでしょうか。私たちはこのとてつもない空虚を、知られたもので充たそうとしているのです。私たちは、どのように活動的であるか、どのように社交的であるかを発見します。私たちは、どのように研究するか、どのようにラジオをつけるかを、知っています。私たちは、自分たちの知らないものを、知っているもので充たしているのです。私たちは、その空っぽ [の空しさ] を、様々な種類の知識、関係やものごとで充たそうとします。そうではないでしょうか。それが私たちの過程です。それが私たちの存在です。そこであなたは、自分が何をしているかを悟るとき、それでもその空虚を充たせると思うでしょうか。あなたは、この孤独の空虚を充たすあらゆる手段を、試してきました。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。あなたは映画を試してみましたが、成功しませんでした。ゆえに自分のや書物を追いかけたり、社会的に・社交的にとても活動的になったりします。あなたはそれを充たすことに成功したでしょうか。それともたんにそれを覆い隠しただけでしょうか。たんに覆い隠しただけなら、それはやはりあります。ゆえに戻ってくるでしょう。あなたはすっかり[全く]逃避することができるなら、アシュラム [保護施設・避難所] に閉じ込められるか、とてもとても鈍感になるか、です。それが世界で起きていることです。
この空っぽ [の空しさ] 、この空虚は、充たすことができるでしょうか。できないなら、私たちはそれから逃げ出し、それから逃避できるでしょうか。一つの逃避が無価値であることを経験し、わかったなら、ゆえに、他のすべての逃避が無価値ではないでしょうか。空っぽ [の空しさ] を、これで充たすかあれで充たすかどうかは、大事なことではありません。いわゆる瞑想もまた逃避です。あなたが逃避の仕方を変えることは、あまり大事なことではありません。
(´・(ェ)・`)つ

275 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/19(土) 21:40:37 ID:1d4drIFg0
孤独からの逃避として、文明が起こったというのじゃ。
全ての芸術とか宗教までも逃避だというのじゃ。
それらは全て無価値であるのじゃ。
何も変容をもたらさず、老病死の苦からも逃れられないからなのじゃ。

276 避難民のマジレスさん :2020/09/20(日) 11:46:12 ID:Y9d16ak.0
最初と最後の自由 第二部質疑応答五 修練について 8

 ではあなたは、この孤独についてどうすべきかを、どのようにして見つけるのでしょう
か。あなたは逃避するのを止めてしまったとき、どうすべきかを見つけられるだけです。そうではないでしょうか。あなたが進んであるがままと向き合おうとするとき―それは、あなたがラジオをつけてはならないという意味です。それは、あなたが文明に背を向けなければならないという意味です―そのとき、その孤独は終わります。なぜなら、それは完全に変容しているからです。それはもはや孤独ではありません。あなたがあるがままを理解するなら、そのとき、あるがままが真実[のもの]です。精神は、あるがままを見ることを連続的に避け、逃避し、拒んでいるから、それ自身の障害を造り出すのです。私たちは、見ることを妨げているほど、あまりに多くの障害を持っているから、あるがままを理解しないのです。ゆえに真実から逃げているのです。これらすべての障害は、あるがままを見ない[ようにする]ために精神によって造り出されてきたのです。あるがままを見るには、たいへんな(行動の)能力と行動への気づきを必要とするだけでなく、またあなたが築き上げてきたあらゆるものごと―あなたの銀行預金、あなたの名前、文明と呼ばれるあらゆるものごと-に背を向ける、という意味です。あるがままを見るとき、どのように孤独が変容するかが、わかるでしょう。
(´・(ェ)・`)つ

277 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/20(日) 22:54:22 ID:1d4drIFg0
あるがままを見ることができれば、既にもう変容しているというのじゃ。
気付けば変容は直ぐに起きるからのう。
その時には逃避でしかなかった文明はもはや無力なのじゃ。
そのようにして孤独も滅することが出来るのじゃ。

278 避難民のマジレスさん :2020/09/21(月) 19:13:35 ID:9PoQw6NM0
最初と最後の自由 第二部質疑応答六 孤独[寂しさ]について 1

質問
 私は、自分がとても孤独である・寂しいということを、実感し[悟り]はじめています。どうすべきなのでしょうか。

 質問者は、なぜ自分が孤独・寂しさを感じるのかを知りたいのです。孤独とはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。そしてそれに気づいているでしょうか。それはとても疑わしいと、私は思います。なぜなら、私たちは諸々の活動、書物、関係、観念で自分たち自身を窒息させてきたからです―それらはほんとうは、私たちが孤独・寂しさに気づくのを妨げるのです。私たちのいう孤独とはどういう意味でしょうか。それは、空っぽである、何も持っていない、どこにも[固定した]停泊地がなく、とてつもなく不確実である、という感覚です。それは失望ではなく、また絶望でもなくて、空虚の感覚、空っぽの感覚、挫折の感覚です。私たちは皆、それを感じたことがあると、私は確信します―幸せな人も不幸せな人も、とてもとても活動的な人も、知識に耽っている人たちも、です。彼らは皆、これを知っています。それは、ほんとうの尽きることのない苦痛 [の感覚] 、私たちはそれを覆い隠そうとするけれども、覆い隠すことのできない苦痛の感覚です。
何が現実に起きているのかを見るため、あなたが孤独を感じるときどうするのかを見るために、もう一度この問題に接近しましょう。あなたは自分の孤独の感情・気持ちから逃避しようとします。あなたは書物と親しもう・近づこうとします。誰か指導者についてゆきます。または映画を見に行ったり、社交的に・社会的にとてもとても活動的になったり、[教会や寺院へ]行って礼拝して祈ったり、絵を描いたり、孤独について詩を書いたりします。それが現実に起きていることです。孤独、その苦痛、そのとてつもなく測り知れない・底無しの恐怖に気づくと、あなたは逃避を求めます。その逃避のほうがもっと重要になって、ゆえにあなたの活動、知識、神々、ラジオすべてが、重要になるのではないでしょうか。あなたが二義的な価値に重要性を与えるとき、それらはあなたを悲惨と混沌に導きます。二義的な価値は、必然的に感覚的な価値です。これらに基づいた現代文明は、あなたにこの逃避を与えます―あなたの仕事、家族、名前、研究をとおし、絵を描くこと等をとおした逃避を、です。私たちの文化すべてが、その逃避に基づいています。私たちの文明はその基礎の上に建てられています。それは事実です。
(´・(ェ)・`)つ

279 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/21(月) 22:48:20 ID:1d4drIFg0
二日前に見た気がするのう。
疲れているのかもしれん。
或いは孤独に囚われがあるのかもしれん。
心を見るのじゃ。

280 避難民のマジレスさん :2020/09/22(火) 00:45:49 ID:9v3JJ83c0
>>279
鬼和尚、ご指摘ありがとうであります。
『五 修練について』は >>272まででした。
>>274『六 孤独[寂しさ]について 1』
>>276『六 孤独[寂しさ]について 2』
>>278 ご指摘どおり重複でありました。
(´・(ェ)・`)

281 避難民のマジレスさん :2020/09/22(火) 00:55:35 ID:9v3JJ83c0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 1

質問
 苦痛と苦しみの意義は何でしょうか。

 あなたが苦しむとき、苦痛があるとき、その意義は何でしょうか。身体的苦痛には一つの意義がありますが、たぶん私たちのいうのは、心理的苦痛と苦しみという意味です―それは違った水準で、全く違った意義があるのです。苦しみの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦しみの意義を見つけたいのでしょうか。それには意義がないということではありません―私たちは見出そうとしているのです。しかし、なぜあなたはそれを見つけたいのでしょうか。、自分がなぜ苦しむのかを、なぜあなたは見つけたいのでしょうか。あなたは「なぜ私は苦しむのか」というその疑問を自分自身に出して、苦しみの原因を探しているとき、苦しみから逃避していないでしょうか。私は苦しみの意義を求めるとき、それを避け、回避し、それから逃げ出していないでしょうか。事実は私が苦しんでいるのです。しかしそれを操作[処置]するために精神を持ち込んで「では、なぜ」と言った瞬間、すでに苦しみの強烈さを薄めてしまったのです。言い換えれば、私たちは苦しみを薄め、軽減し、片づけ、説明してしまいたいのです。確かにそれは、苦しみについての理解をもたらしません。それから逃げ出したいというその願望から自由であるなら、そのとき私は、何が苦しみの内容[中身]であるかを、理解しはじめるのです。
苦しみとは何でしょうか。動揺なのではないでしょうか。違った水準での [動揺] ―身体的水準での、そして潜在意識の違った水準での [動揺]、です 。それは、私が好きでない鋭い形の動揺です。私の息子が死にました。私は彼のまわりに自分の希望のすべてを築いてきました―または自分の娘や夫や何でもあなたの望むもののまわりに。私は彼にそうあって欲しいと思うものすべてとともに彼を祭って・秘蔵してきました。そして彼を連れ合いとしてきました―ご存知でしょう、その種のことすべてを。突然、彼は逝ってしまいました。それで動揺があるのではないでしょうか。その動揺を、私は苦しみと呼ぶのです。
私はその苦しみを好きでないなら、そのとき「なぜ私は苦しんでいるのか」、「私は彼をたいへん愛していた」、「彼はこうだった」、「私はそれを持っていた」と言います。私たちのほとんどがするように、私は言葉に、レッテルに、信念に逃避しようとします。それらは麻酔剤・麻薬として作用するのです。私がそうしないなら、何が起きるでしょうか。私は単に苦しみに気づいています。それを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。そのとき私はその動きに付いていけるのではないでしょうか。そのときそれが意味するものの内容・中身全体に付いていけるのです―何かを理解しようとする、という意味において「私は付いていく」のです。
(´・(ェ)・`)つ

282 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/22(火) 21:44:18 ID:1d4drIFg0
苦しみは愛する者を失ったりすると起こるというのじゃ。
愛別離苦じゃな。
その苦から信念への逃避も起こると言うのじゃ。
非難も正当化もせずにそれを見守る時、それは消えるというのじゃ。

283 避難民のマジレスさん :2020/09/23(水) 20:36:58 ID:wrd1GIiU0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 2

 それはどういう意味でしょうか。苦しんでいるのは何でしょうか。なぜ苦しみがあるのかではなく、何が苦しみの原因なのかではなく、何が現実に起きているのでしょうか。あなたにその違いがわかるかどうか、私は知りません。そのとき私は単に苦しみに気づいています―私から離れたものとして[の苦しみに気づくの]ではなく、苦しみを見張っている観察者として [の私が気づくの] ではなく-それは私の一部です。すなわち私の全体が苦しんでいるのです。そのとき私はその動きに付いていく [ことができ] 、それがどこにつながるのかを、見ることができます。確かに、私がそうするなら、それは [扉を] 開くのではないでしょうか。そのとき私は、「私」を強調していたことがわかります-自分の愛している人物を [強調していたの] ではありません。彼はただ私を、私の悲惨から、孤独から、不幸から覆い隠す・かばう作用をしただけです。私は何ものでもないので、彼にそうあって欲しいと願ったのです。それは消えてしまいました。私は取り残[置き去りに]されます。私は途方に暮れます・路頭に迷います。私は孤独です。彼なしには、私は無です。それで私は泣きます。それは、彼が逝ってしまったということではなく、私が取り残されたということです。私は一人です。その地点に至る[そこまで来る]ことは、とても難しいのではないでしょうか。それを本当に認識して、たんに、「私は一人だ。どのようにして、その孤独を取り除くべきなのか」と言うだけではなく―それももう一つの形の逃避です-それを意識すること、それと共にとどまること、その動きを見ることは、難しいのです。私はこれを一つの実例・一例として取り上げているだけです。徐々に・次第に、それが展開し、[扉を]開くのを許す・それが開くのにまかせるなら、私は、自分が途方に暮れている・路頭に迷っているから苦しんでいるということが、わかるのです。私は、何か進んで見ようとしないものに自分の注意を向けるよう、呼びかけられているのです―何か見ること、理解することに気がすすまないものが、私に押し付けられ・強いられているのです。私が逃避するのを助けてくれる無数の人たちがいます―信念、教義、希望、幻想を持った、何千ものいわゆる宗教的な人たちです。「それはです。それは神の意志です」―ご存知でしょう、すべてが私に抜け出し方を与えてくれるのです。しかし、それを私から片づけるのではなく、制限し・境界線を引いたり否定したりしようとするのではなく、私がそれと共にとどまることができるなら、そのとき何が起きるでしょうか。精神がこうして苦しみの動きに付いてゆきつつあるとき、私の精神の状態は何でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

284 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/23(水) 21:56:08 ID:1d4drIFg0
単に苦しみに気付いていることこそ大事だというのじゃ。
己の全体として苦しんでいると観る時、その心の働きに付いていき、どのように起こるのか見ることができるというのじゃ。
その時、苦からの逃避があったことをも気付くのじゃ。
苦だけではなく、苦からの逃避があったと全体に気付いた時に観察は完全になるのじゃ。

285 避難民のマジレスさん :2020/09/24(木) 21:07:05 ID:ur8PhUy20
最初と最後の自由 第二部質疑応答
七 苦しみについて 3

苦しみはたんに言葉でしょうか、それとも現実でしょうか。それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は今や意味がありません。それでたんに強烈な苦痛の感情だけがあるのです。何に関して[の苦痛]でしょうか。イメ-ジに、経験に、何かあなたが持っていたり持っていなかったりするものに関して [の苦痛]です 。あなたはそれを持っているなら、楽しみと呼びます。持っていないなら、それは苦痛です。ゆえに苦痛、悲しみは、何かとの関係においてあるのです。その何かは、たんに言語作用・言語表現でしょうか、それとも現実でしょうか。すなわち悲しみが存在しているとき、それは、何かとの関係においてだけ、存在しているのです。それはそれ自体では存在できません-ちょうど恐れがそれ自体では [存在でき]なくて 、何かとの関係においてだけ存在できるように-個人との、出来事との、感情との[関係において]。今やあなたは苦しみに充分に気づいています。その苦しみは、あなたから離れているでしょうか。ゆえにあなたは、たんに苦しみを知覚する観察者でしょうか、それともその苦しみがあなたでしょうか。わわ
苦しんでいる観察者がいないとき、苦しみはあなたと異なっているのでしょうか。あなたが苦しみである、のではないでしょうか。あなたは苦痛から離れていません―あなたが苦痛です。何が起きるでしょうか。レッテル貼りはありません。それに名前を付けること [はありません] 、よって払いのける・はねのけることはありません―あなたはたんにその苦痛、その感情、その苦悶の感覚です。あなたがそれであるとき、何が起きるでしょうか。あなたがそれを名づけないとき、それに関して恐れがないとき、中心はそれと関係しているでしょうか。中心がそれと関係しているなら、そのとき、それ [中心] はそれ[苦しみ]を恐れています。そのとき、それは行動して、それ[苦しみ]について何かをしなければなりません。しかし、中心がそれ[苦しみ]であるなら、そのときあなたはどうするでしょうか。なすべきことは何もないのではないでしょうか。あなたがそれであって、それを受け入れず、それにレッテルを貼らず、脇へのけていないなら-あなたがそのものであるなら、何が起きるでしょうか。そのとき、あなたは苦しい・苦しんでいると言うでしょうか。確かに、根本的変容が起きたのです。そのときもはや「私は苦しい・苦しんでいる」 [ということ] はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心が苦しむのです。なぜなら私たちは、中心が何であるかを決して検討したことがないからです。私たちはただ言葉から言葉へ、反応から反応へと生きる・生きていくだけです。「苦しむそのもの[苦しんでいるそのもの]が何であるのか見てみよう」とは、私たちは決して言いません。強制により、修練によっては、見ることはできません。興味を持って、自発的な了解を持って見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼ばれるもの、私たちが避けるもの、修練、すべてが消えてしまったことが、わかるでしょう。私が自分の外側としてのものごとと関係を持たないかぎり、問題はないのです。私が自分の外側のそれと関係を確立した瞬間、問題があるのです。私が苦しみを何か外側のものとして扱う限り―私は兄弟を亡くしたから、お金がないから、あれこれのために、苦しむのです―それとの関係を確立します。その関係は虚構[架空]です。しかし私がそのものであるなら、事実を見るなら、そのとき、ものごと全体が変容するのです。そのすべてが違った意味を持ちます。そのとき充分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られるものは理解され、解消します。そのため恐れはないし、ゆえに「悲しみ」という言葉は存在していないのです。
(´・(ェ)・`)

286 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/24(木) 21:23:40 ID:1d4drIFg0
苦しみは言葉ではないというのじゃ。
苦しみは自分そのものであるというのじゃ。
自己同一化しているのじゃ。
それが見られたならば苦しみは即座に停止するのじゃ。

287 避難民のマジレスさん :2020/09/25(金) 23:06:34 ID:aUlu60.o0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 1

質問
 気づきと内省の間の違いは何でしょうか。そして気づきにおいて、気づくのは誰でしょうか。

 初めに、私たちのいう内省とはどういう意味なのかを、検討しましょう。私たちのいう内省とは、自分自身の中を見る、自分自身を検討する、という意味です。なぜ自分自身を検討するのでしょうか。改善する・向上させるため、変えるため、修正するため、です。あなたは何ものかになるために内省します。そうでないと内省に耽らないでしょう。もしも修正したい、変えたい、あるがままのあなたより他の何ものかになりたいという願望がなかったなら、あなたは自分自身を検討しないでしょう。それが、内省のための明白な理由です。私は怒ります。すると怒りを取り除いたり、怒りを修正したり変えるために、私は自分自身を内省し、検討します。内省-それは、自己の応答、反応を修正したり変えたいという願望です-があるところ、いつも視野に目的があるのです。その目的が達成されないとき、不機嫌さ、憂鬱さがあるのです。ゆえに内省は必ず憂鬱さを伴います。あなたは内省するとき、自分自身を変えるために自分自身の中を見るとき、いつも憂鬱の波があるということに、気づいたことがあるかどうか、私は知りません。あなたが [それと] 戦わなければならない不機嫌な波が、いつもあるのです。あなたはその気分などに打ち勝つために、再び自分自身を検討しなければならないのです。内省は [そこに]解放のない過程です。なぜならそれは、あるがままを何かそうではないものに変容させる過程であるからです。 私たちが内省するとき、その特定の行動に耽るとき、明白に、それがまさに起きていることです。その行動にはいつも蓄積過程 [があり] 、それを変えるために何かを検討している「私」があり、そのためいつも二元的葛藤 [があり、]ゆえに挫折の過程があるのです。決して解放はありません。そしてその挫折を悟ると、憂鬱さがあるのです。
 気づきは全く異なっています。気づきは非難なき観察です。気づきは理解をもたらします。なぜなら、非難も同一化もなくて、静寂な観察があるからです。私は何かを理解したいなら、観察しなければなりません。批判してはなりません。非難してはなりません。楽しみとしてそれを追求したり、楽しみでないとしてそれを避けたりしてはなりません。たんに事実についての静寂な観察があるだけでなければなりません。視野に目的がなくて、生じるままにあらゆるものごとへの気づきがあります。非難、同一化、正当化があるとき、その観察と、その観察の理解は止みます。内省は自己改善です。ゆえに内省は自己中心性です。気づきは自己改善ではありません。反対にそれは、そのすべての奇妙な性向、記憶、要求、追求を持った自己の、「私」の終わりです。内省には、同一化と非難があります。気づきには、非難も同一化もありません。ゆえに自己改善はありません。二つの間には広大な違いがあります。
(´・(ェ)・`)つ

288 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/26(土) 22:47:36 ID:1d4drIFg0
内省と気付きは違うものというのじゃ。
内省にはまだ目的があり、自己同一化や分別も在るのじゃ。
気付きは目的は無く、自己同一化がなく分別もないと言うのじゃ。
静寂な観察に拠って気付きは起こるのじゃ。
それは自己の終わりをもたらすものというのじゃ。

289 避難民のマジレスさん :2020/09/27(日) 17:40:09 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由 第二部質疑応答
八 気づきについて 2

 自分自身を改善したいと思う人は、決して気づけません。なぜなら改善は、非難と結果の達成という意味を含んでいるからです。ところが気づきには、非難のない、否定も受け入れもない観察があります。その気づきは外側のものごとから始まります-気づくこと、対象と、自然と接触することです。初めに、自分のまわりのものごとへの気づきがあります-対象に、自然に、それから人々に敏感であることです-それは関係という意味です。それから観念への気づきがあります。この気づき-ものごとに、自然に、人々に、観念に敏感であることは、分離した過程から作り上げられているのではなく、一つの単一の・統一された過程です。それはあらゆるものごとの [観察]、自分自身の中に生じるままのあらゆる思考、感情、行動の常なる観察です。気づきは非難的ではないので、蓄積がありません。あなたは規範を持つときだけ、非難するのです-それは蓄積が [ある]、ゆえに自己の改善がある、という意味です。気づきは、人々との、観念との、ものごととの関係における自己、「私」の活動を、理解することです。その気づきは瞬間瞬間です。ゆえにそれは実践できません。あなたが一つの事を実践するとき、それは習慣になります。気づきは習慣ではありません。習慣的である精神は鈍感・無感覚です。特定の行動の溝・轍の中で機能している精神は、鈍く、柔軟でありません。ところが気づきは常なる柔軟性、鋭敏さを要求します。これは難しくありません。あなたが何かに興味があるとき、あなたが自分の子供、妻、植物・草木、木々、鳥たちを見つめることに興味があるとき、それが、あなたが現実にすることです。あなたは非難なく、同一化なく観察します。ゆえにその観察には、完全な親交があります。観察者と観察されるものは、完全に親交 [の状態]にあります。これは、あなたが深く、奥深く何かに興味があるとき、現実に起きるのです。
 こうして気づきと、内省の自己拡大的な改善の間には、広大な違いがあるのです。内省は挫折に、さらなるもっと大きな葛藤につながります。ところが気づきは、自己の行動からの解放の過程です。それは、あなたの日常の動きに、あなたの思考に、あなたの行動に気づくこと、そして他の人に気づくこと、彼を観察することです。あなたは誰かを愛しているとき、何かに深く興味があるときだけ、それができるのです。私が自分自身を、自分の存在全体を、たった一つか二つの層ではなく自分自身の内容全体を知りたいとき、そのとき明白に、非難はないにちがいありません・あってはなりません。そのとき私は、あらゆる思考に、あらゆる感情に、気分すべてに、抑圧すべてに対して [扉を] 開いていなければなりません。そしてますます拡大する気づきがあるにつれて、隠れた思考の動き、動機、追求すべてからのますます大きな自由があるのです。気づきは自由です。それは自由をもたらします。それは自由を生み出します。ところが内省は葛藤を、自己閉鎖の過程を育成します。ゆえに、それにはいつも挫折と恐れがあるのです。
(´・(ェ)・`)つ

290 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/09/27(日) 21:58:52 ID:1d4drIFg0
内省は自分を改善しようという意志があるから気づきはないのじゃ。
分別があり、観念による目的達成の遊戯になるからなのじゃ。
気づきには否定も肯定も無い観察が在るのじゃ。
そこに分別は無く、観念の遊戯も無いのじゃ。
それでこそ真の変容が在るのじゃ。


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