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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

409Republica de Venexia:2015/01/02(金) 02:09:01 ID:???
そういえば新しいガンダムはレコンギスタって名前でしたねー
レコンキスタと関係あるのかな...?

410それが世界の選択か…:2015/01/02(金) 02:15:04 ID:???
>>409
再征服とか回帰って意味だから金星人が地球に侵攻するんじゃないスか?(適当)

411Republica de Venexia:2015/01/02(金) 02:26:28 ID:???
>>410
なるほど、異星人との征服再征服の物語なんですね
物語が進むにつれてその意味が明らかになってきそうで、なんだか面白そうです

412Republica de Venexia:2015/01/03(土) 01:02:25 ID:???
1月3日はルターが破門された日です

>>334で見たように、ルターは1517年10月に『九十五箇条の論題』を発表し、これがきっかけとなって宗教改革が始まりました
ローマ=カトリック教会はこれに反論し、1518年8月にローマに出頭するようルターに命令しますが、彼はこれを拒否します

ルターは1520年以降積極的に教会批判の著作を書き、『ローマ教皇論』では現実の教会の権威を否定し、『ドイツのキリスト教貴族に与える書』では君主・貴族がキリスト教を改善するよう主張し、教会のバビロン捕囚について』ではキリスト教会の7つの秘跡のうち洗礼と聖体の秘跡のみを残すよう要求し、『キリスト者の自由』ではキリスト者は自由に福音に近づけるものと訴えました

これに対しローマ教皇レオ10世は当然反発し、1521年1月3日、ルターを破門します
次いで神聖ローマ皇帝カール5世も4月にルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、彼に自説の撤回を求めますが、結果的にルター派の弾圧を決定することとなりました
しかしルターは>>380でも登場したザクセン公フリードリヒ賢公の拠城ヴァルトブルク城に匿われ、ここで新約聖書のドイツ語訳を行うなど、宗教改革を進めていくのでした


本日はルターへの破門宣告日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

413Republica de Venexia:2015/01/04(日) 00:45:30 ID:???
1月4日は露仏同盟が結ばれた日です

>>325で見たように、ドイツ帝国宰相ビスマルクは巧みな外交戦略を駆使してフランスの孤立化を図り、ビスマルク体制と呼ばれる国際体制を作り上げました
しかし1873年にドイツ・オーストリア・ロシア間で締結された三帝同盟は、バルカン半島を巡るオーストリア・ロシアの対立で揺らぎ、81年に新三帝同盟として復活するものの87年には更新されず、崩壊してしまいます

これに対しビスマルクはロシアと再保障条約を結んでロシアとの関係を維持し、フランスへの接近を防ぎました
オーストリアとはイタリアとともに三国同盟を形成し、こちらとの関係も保つことに成功します
しかし88年にドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世はビスマルクとは異なる外交方針を打ち出したのです
そのため2人は対立し、90年にはビスマルクが更迭されヴィルヘルムによる親政が開始されます
ヴィルヘルムはロシアよりもオーストリアとの関係を重視し、オーストリアと対立するロシアとの再保障条約更新を拒否、さらに同じくロシアと対立するイギリスへの接近を試みたのです

これはロシア・フランス双方にとって僥倖でした
ロシアはドイツに代わる新たな同盟国を欲し、またシベリア鉄道建設など国内の近代化促進のため外国資本導入が必要だったのです
一方フランスもビスマルク体制による孤立状態からの脱却するため、ロシアと結ぶことは渡りに船といえるものでした
その結果1894年1月4日、露仏同盟が成立し両国の関係が強化され、後の英仏露三国協商へと発展していくのでした


本日は露仏同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

414Republica de Venexia:2015/01/05(月) 00:08:36 ID:???
1月5日はナンシーの戦いが行われた日です

>>278で見たように、ブルゴーニュ公国はフィリップ善良公の下で最盛期を迎え、フランス王権に匹敵するほどの勢力を誇るようになります
公領には最高裁判所も設置され、そこでの決定はフランス王権でさえ干渉を受けなかったのです
1467年にフィリップ善良公の後を継いだシャルル突進公は、そのあだ名が示すように勇猛果敢な人物で、ブルゴーニュ公国のさらなる拡大を目指します
当時のブルゴーニュ公国はディジョンを中心とするブルゴーニュ地方とブリュッセルを中心とするフランドル地方に大きく分かれ、それらを統合しようと目論んだのです

しかしこのシャルルの征服活動に対し、その対象となった領主たちは当然反発し、低地連合を結成してシャルルに対抗します
また
>>278で見た通り神聖ローマ帝国諸侯でもあったシャルルは皇帝フリードリヒ3世に「ローマ人の王」の称号を要求するなど皇帝に挑戦するような行為も行い、帝国諸侯から一定の支持を得たものの、フリードリヒはこれを黙殺し、逆に低地連合に加わってコンスタンス連合を結成、シャルルに対抗しました
シャルルは各方面に敵を抱え、戦争は泥沼化していきます

一方、フランスはといえば、百年戦争を終結させたシャルル7世の下で中央集権化が進んでおり、彼の後を継いで1461年に即位したルイ11世はその事業をさらに発展させます
そして王権拡大のためには大諸侯の存在は邪魔そのものであり、特にフランス王権を脅かしていたブルゴーニュ公は真っ先に排除したい存在でありました
ルイはブルゴーニュ公シャルルに対抗する勢力を煽動し、同盟を結び、巧みにシャルルと渡り合いました
一時はシャルルによって捕虜となったものの、その際に結ばされた条約も三部会を味方につけてあっさり破棄し、シャルルは孤立していくのです

ルイはさらにスイス諸州と同盟を結び、スイス傭兵を引き入れることに成功します
当時強力無比な軍隊として恐れられていたスイス傭兵隊はシャルルの軍を度々破り、シャルルは追い詰められていきました
そして1477年1月5日、シャルルはロレーヌ公レネ・スイス傭兵隊の連合軍とナンシーをめぐって激突しますがこれに大敗し戦死してしまいます
これによりブルゴーニュ公国は崩壊、ルイ11世はこれを見てブルゴーニュ公国の併合に乗り出し、後にアラスの和約でブルゴーニュはフランス王領となるのでした


本日はブルゴーニュ公国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・佐藤賢一『フランス王朝史2ヴァロワ朝』講談社、2014年

415Republica de Venexia:2015/01/06(火) 00:29:34 ID:???
1月5日はベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝に戴冠した日です

>>332で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死後、シチリアでは騒乱が起こりホーエンシュタウフェン朝が断絶したことを見ました
ドイツでも同様の混乱が起こり、コンラート4世の死によりこちらでもホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、その対立王ホラント伯ヴィルヘルムも死去し、帝国に大空位時代が到来しました
1257年に始まるこの時代は、1273年の選挙でハプスブルク伯ルドルフがドイツ王に即位したことによりひとまず終結します

しかしその後も王位は安定せず、様々な家系から次々と選出され、対立王も出現することになり、跳躍選挙時代とも呼ばれました
そのような状況で単独王となったルートヴィヒ4世に対し、ローマ教皇ヨハネス22世は彼の即位の非合法性を主張し国王選挙のやり直しを要求しました
これに対し選帝侯たちは反発し、国王選挙法を発布します
その内容は国王選出は選帝侯によるものとし、教皇の同意を必要としないというものでした

このような状況で1355年1月5日、皇帝に即位したのが>>95でも登場したカール4世でした
カールは先の国王選挙法を強化した金印勅書を発布します
まず国王選出議会に際しては選帝侯の過半数の賛成で全会一致と見なされ、国王選挙が安定するようになりました
また選出された国王は自動的に皇帝になるものとされ、この選挙だけで皇帝が決定する仕組みが整えられました
そして選帝侯に大幅な特権が認められ、いわゆる領邦君主としての側面が強くなることになりました
カールは強大化する諸侯を抑えつけるのではなく、譲歩することでその見返りに皇帝即位を認めさせ、皇帝位の安定化を図ったのでした
このようにカールの時代に皇帝権は大きく変化し、神聖ローマ帝国は新たな展開を迎えることとなったのでした


本日は神聖ローマ皇帝カール4世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

416Republica de Venexia:2015/01/07(水) 00:07:32 ID:???
1月7日はフランスがカレーを奪還した日です

>>388で見たように、フランスのアンジュー伯であったアンリがイングランド王となったことで、フランスに広大な領土を持ったアンジュー帝国が成立することとなります
一方、当時のフランス王朝はカペー朝、>>151で見た通り当初は弱体でしたが次第に王権拡大が進み、アンジュー帝国の領土を併合をする機会を伺っていました
12世紀後半のフィリップ尊厳王の時代になると、>>229で見たようにイングランド王ジョンからイングランド大陸領の多くを奪ったのです

14世紀から始まった百年戦争ではイングランド大陸領はほぼ全てが失われ、わずかに>>237で獲得したカレーが残るのみでした
そしてカレーがフランスに渡る契機となったのがイタリア戦争です
イタリア戦争は>>93で見たように、イタリアをめぐるフランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世との対立で始まった戦争でした

イタリア戦争におけるイングランド・フランス関係は、スペインとの関わりが大きなものとなります
オーストリアとスペインのハプスブルク領を統合していたカール5世ですが、その相続に際しスペインは長子フェリペに譲り、フェリペ2世として即位しました
そしてフェリペは父の遺志を受け継ぎ、フランスとの戦いを継続するのです
このフェリペがイングランド女王メアリと結婚し、イングランドとスペインが同盟関係になったのは>>354で見た通りです
イングランドはこの同盟関係により1557年6月、スペインと敵対しているフランスに宣戦しました

ところがこの対フランス戦争、イングランドにとってほぼ益の無いものとなってしまいます
フランスはギーズ公フランソワが南イタリアでスペイン軍に連勝しており、その間にスペイン側のサヴォイア公エマヌエーレ=フィリベールによって1557年8月、王都パリに程近いサン=カンタンを奪われましたが、急ぎ北上してきたギーズ公がサヴォイア公を撤退させました
ギーズ公は北方の障害を取り除くため、そのまま北上しイングランド領のカレーを包囲します
そして1558年1月7日、ギーズ公フランソワによってカレーは陥落し、百年戦争で失ってから約200年ぶりにフランス領に復帰することとなったのでした


本日はイングランド領カレーの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

417Republica de Venexia:2015/01/08(木) 00:12:57 ID:???
1月8日はインノケンティウス3世がローマ教皇に即位した日です

>>294で聖職叙任権闘争がひとまずの終息をみて以降、教皇権は皇帝権に対してやや劣勢が続いていました
というのも、神聖ローマ皇帝となったホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ=バルバロッサが皇帝権からの独立を図り、「神聖帝国」という名称を用いるなど、皇帝がキリスト教世界を支配するという姿勢を前面に出していたからでした
バルバロッサは第3回十字軍で急死するものの、その後を継いだハインリヒ6世がその政策を受け継ぎ、強力な皇帝権を打ち立てようとしたのは>>395で見た通りです

ところがこのハインリヒも急死し、後に残されたのはわずか2歳のフリードリヒ2世でした
1198年1月8日、ローマ教皇インノケンティウス3世が即位したのはこのような状況においてでした
インノケンティウスはその在位中、教皇権の新たな方向づけを行います
彼はローマ教会の書記局を再編成、優秀な教会法学者をブレーンとして教皇権による集権的な統治を実現します
西欧世界に対しても、混乱が続く神聖ローマ帝国を尻目に教皇の至高権に基づく支配を進め、各地の教会に対し教皇君主政と称される支配体制を確立させたのです

インノケンティウスはその在位中、フランス王フィリップ尊厳王やイングランド王ジョン欠地王に対抗し、特にジョンに対して破門を行い、赦免の引き換えにイングランドを封土として差し出させるなどの強権を発揮しました
また12世紀において皇帝が主導していた十字軍ですが、インノケンティウスは教皇の名の下で第4回十字軍を実現させ、異端のカタリ派に対するアルビジョワ十字軍も行いました
そんなインノケンティウスのハイライトは1215年に開かれた第4回ラテラノ公会議で、彼は一千人以上の司教、修道院長などの聖職者、その他俗人の代表者の前で「教皇は太陽、皇帝は月」という演説を行い、教皇権の絶対性を示したのでした


本日は教皇権絶頂期の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・堀越孝一編『新書ヨーロッパ史 中世篇』講談社、2003年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

418名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/08(木) 02:01:19 ID:zP0.YDBk
分裂するわ俗権と張り合うわ十字軍やるわイタリア統一で不利益被るわ

これら乗り越えて未だ存在し続けるから教皇ってすげーわ
やっぱカール大帝への戴冠って英断だったんだな

419Republica de Venexia:2015/01/08(木) 10:08:38 ID:???
教皇にとってはしてやったりの出来事ですよね、カールの戴冠
コンスタンティヌスの寄進状をでっちあげて教皇権を正当化したりと、本当に強かに渡り合ってきた印象があります

420名前なんか必要ねぇんだよ!qwerty2014:2015/01/08(木) 11:39:19 ID:???
趣味系スレの数少ない生き残りですね

421名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/08(木) 12:03:28 ID:nc4ELsTQ
こんな良スレがあったとは
読みますよ〜読む読む

422Republica de Venexia:2015/01/09(金) 01:41:03 ID:???
1月9日は靖康の変が起こった日です

>>249で見たように、唐では玄宗末期からその支配に揺らぎが生じ、安史の乱はウイグルの援軍などもあって鎮圧したものの、支配領域は縮小しウイグルや吐蕃の圧迫を受けることとなります
こうして9世紀のユーラシアの東部は唐、ウイグル、吐蕃の三国鼎立となりましたが、やがてウイグル・吐蕃が滅び唐も大規模な反乱にあって滅亡します

この三国滅亡後の空白地帯は、北方ではトルコ系、モンゴル系の諸民族が興亡し、南方でも漢民族を中心に王朝が興亡する五代十国時代となります
この混乱を収め、960年に南北統一を果たしたのが宋でした
宋は貴族や武人勢力を排除し、官僚制度を整備して皇帝専制体制を強化し、周辺異民族に対しては遼と西夏に歳賜を送って平和を得るするなど、それまでの朝貢・冊封とは異なった関係が生まれました

しかし大規模な官僚制の維持や周辺異民族に対する防衛費などに莫大な費用がかかったため、宋は次第に財政難に陥っていきます
そのため新法による改革が試みられましたが反対派の抵抗も強く、国内は分裂することとなります
対外関係に関しても新興の金と結んで遼を滅ぼしたものの、その後は約定の歳賜を払わず遼の残党と結んで金の弱体化を図るなどしたため、逆に金の攻撃を受けることになります
そして1127年1月9日、宋の都開封は金によって陥落、皇帝の欽宗と先帝の徽宗が金に連行されるという靖康の変が発生、宗は華北を奪われ南方へと逃れることとなるのです

ここまでの8〜12世紀を通じて中国では大きな変化が起こっていました
中華帝国の支配領域は中国本土を越えた領域から中国本土へと縮小し、遊牧民の支配地域は中国とはほぼ切り離されることになります
経済の中心も南方に移行し、政治を担う勢力は貴族から官僚へと移るなど、「唐宗変革」と称される大きな変革期となったのでした


本日は北宋の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・中島敏・周藤吉之『五代と宋の興亡』講談社、2004年
・小島毅『全集中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』講談社、2005年

423Republica de Venexia:2015/01/10(土) 01:19:24 ID:???
1月10日はカエサルがルビコン川を渡った日です

ローマではグラックス兄弟の改革のが失敗に終った後、民会を中心とする民衆派と、元老院を中心とする閥族派の対立が激化し、「内乱の一世紀」と呼ばれる時代に突入しました
まず民衆派のマリウスが軍制改革を行いローマの軍事力向上を達成しますが、皮肉にもその軍制改革により勢力を拡大した閥族派のスッラによってマリウス派は一掃され、元老院が復権されます

しかし保守的な支配を続ける元老院に対する不満が高まり、前60年には民衆派のカエサル、閥族派のポンペイウス、大富豪貴族のクラッススによる三頭政治が成立します
このうちカエサルはガリア、ポンペイウスはヒスパニア、クラッススがシリアへの軍事遠征を受け持ち、特にカエサルはガリア遠征の成功によりローマ市民の間での人気が高まっていきました

このカエサルの活躍にポンペイウスは危機感を覚え、それにつけ込んだ元老院はポンペイウスを懐柔、反カエサル派へと転向させます
また前53年にクラッススがパルティアとの戦いで戦死したことで三頭政治の均衡が崩れ、カエサルとポンペイウスの対立は激化することとなります
この間カエサルはガリア統治のためずっとローマ不在でしたが、ポンペイウスが元老院によって異例の単独執政官に就任すると2人の対立は決定的となり、カエサルはローマ帰還を決断します

当時、ルビコン川はガリア属州の南の境界であり、そこを越えればローマ領内でした
その境界線を武装解除せずに渡ることはすにわち国家反逆罪にあたるにも関わらず、カエサルは前49年1月10日、あの有名な言葉とともにルビコン川を渡り、ローマへと進撃するのでした


本日は「賽は投げられた」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

424Republica de Venexia:2015/01/11(日) 01:10:09 ID:???
1月11日は洪秀全が清に反乱を起こした日です

イギリスと戦ったアヘン戦争後の清では上海をはしめとする5港か開港され、それまで清の貿易を担当していた公行が廃止されたことで自由貿易が導入されました
イギリスは香港などを獲得し、さらに清の関税自主権を喪失させるなどの不平等条約を締結します
このような不平等条約はアメリカ、フランスとも結ばれ、清は貿易の自由化を認めさせられることとなります

その結果清では銀が流出したことで国内における銀の価格が高騰し、納税の際に銀によって支払わなければならない民衆は生活を圧迫されることになりました
このため民衆の清に対する不満が高まり、キリスト教の影響を受けて拝上帝会を組織し、土地の配分などを主張した洪秀全が民衆のなかで勢力を拡大していきます
そして1851年1月11日、洪秀全は広西省金田村で挙兵し、「滅満興漢」を掲げて清打倒の反乱を開始します
やがて反乱は>>4で見たように南京を制圧するなど大規模な運動へと発展し、清の国家体制に大きな影響を与えることとなったのでした


本日は太平天国の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』山川出版社、2003年
・井上裕正・並木頼寿『世界の歴史19 中華帝国の危機』中央公論新社、2008年

425Republica de Venexia:2015/01/12(月) 00:51:53 ID:???
1月12日は隋が陳を滅ぼした日です(旧暦)

280年、三国の呉を滅ぼして晋が中国を統一しましたが、初代皇帝司馬炎の死後八王の乱が起こるなど混乱し、五胡十六国が興亡する時代となりました
この五胡というのは、この時代中央ユーラシアから中華世界に進出してきた遊牧民で、そのうちの鮮卑は拓跋部に率いられ5世紀に華北を統一し北魏を建国します
その後も華北では鮮卑系の王朝が興亡し、これが北朝と呼ばれます

一方で華中・華南は漢人系の王朝が南方の諸民族とつながり、長江下流域の開発が進むことになりました
その過程で南海貿易も発展し、東南アジアやインド洋海域との新たな関係が生み出されていきます
こうして中国は北朝と南朝とに分裂した南北朝時代となりましたが、このうち北朝から出てきたのが隋でした

北朝では北魏が東魏と西魏に分裂し、このうち西魏に代わって成立した北周が東魏に代わった北斉を滅ぼし、その北周の外戚として権力を握った楊堅が581年に隋を建国したのです
そして589年1月12日、隋は南朝の陳を滅ぼし、晋以来の中国統一を達成します
その後隋は秦漢帝国とは異なる新たな帝国の形成を目指し、>>422で少し触れたように、中華世界を超えた広大な支配領域の実現を図っていくのでした


本日は隋による中華世界統一の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

426名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/12(月) 14:30:05 ID:c/vecSYU
煬帝「運河作るで!!」
唐「煬帝 無能 暴君 唐沢」

なお中華の国力が増大した模様

427Republica de Venexia:2015/01/12(月) 19:54:21 ID:???
後々の発展を考えると、大運河が造られたこと自体は大きな功績ですよね
性急に過ぎた感はあるとはいえ

428Republica de Venexia:2015/01/13(火) 00:47:08 ID:???
1月13日はニカの乱が起こった日です

>>100でコンスタンティヌス1世がビザンティオンを改修しローマ帝国の都に定めたコンスタンティノープルは、皇帝の直轄地となったことでそれまでの都市自治が失われました
しかし自治の精神が完全に失われたわけではなく、その伝統は脈々と受け継がれていきます
テオドシウス2世によって建設された大城壁にも都市参事会が建造や維持の責任を持ち、帝都防衛の際にも市民が軍団を編成して参加していたのです
そしてこのような都市自治を行う際の単位となったのがデーモスという集団でした

デーモスはコンスタンティノープルで行われる戦車競争の応援団やファンからなる市民集団であり、このデーモスは都市政治にも大きな役割を果たしていました
>>235で登場した皇帝ユスティニアヌス1世は市民の人気を得るためデーモスに支援を行い、即位式の際にもデーモスの歓呼によって迎えられたのです
またデーモスは皇帝の政治にも関わりをもっていました
競馬場は皇帝と市民が直接対面する場であり、そこで皇帝に対し政治的な請願や抗議が行われ、デーモスが音頭をとってそれを先導したのです
これが反乱にまで発展したのがニカの乱でした

ユスティニアヌスは>>235で見たようにかつてのローマ帝国の再建を目指し、大規模な征服戦争の準備を進めていましたが、そのためにコンスタンティノープル市民の間では不満が募り、またユスティニアヌスの方針に反発する元老院議員もデーモスを煽動していたのです
532年1月13日、競馬場ではデーモスが主導してユスティニアヌスの政策に対し抗議が繰り返され、やがて市民は「ニカ!(勝利せよ)」と叫び暴動を起こし、これがコンスタンティノープル全体に広がっていきます
ユスティニアヌスは暴動を収拾しようとするものの市民の怒りは収まらず、前々帝の甥ヒュパティウスを擁立し皇帝歓呼を行う有様となりました
ユスティニアヌスはここに至りコンスタンティノープルからの逃亡を図りますが、これは皇后テオドラによって制止され、また将軍ベリサリウスの献策により競馬場への軍団突入を決意します
18日、ベリサリウスは軍を率いて競馬場に集まっていた約30,000人の市民を虐殺し暴動を鎮圧しました
ユスティニアヌスはその治世で最大のピンチを脱し、ローマ帝国復活を目指して地中海世界への征服戦争を開始するのでした


本日はビザンツ帝国最大の市民反乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波書店、1985年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

429Republica de Venexia:2015/01/14(水) 00:45:54 ID:???
1月14日はマドリード条約が結ばれた日です

この条約の当事者、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の対立は、>>40のシチリアの晩鐘に遡ります
ホーエンシュタウフェン朝が断絶したシチリアを一旦はシャルル=ダンジューが支配するものの、アラゴン王国によって奪われたこの事件以降、フランスとスペインとの対立関係が形成され、これ>>346で見たフランス王シャルル8世のナポリ侵攻によりさらに激化することとなりました

一方スペインはというと、アラゴン王フェルナンドが娘フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップと結婚させて同盟関係となり、南北からフランスを包囲することに成功します
そしてこのフェルナンド、マクシミリアン双方の孫となり、その政策を継承することとなったのが、後の神聖ローマ皇帝カール5世だったのです

1519年、マクシミリアン1世が亡くなりカールが皇帝候補となると、フランス王フランソワ1世は危機感を覚えます
というのも、カールはすでにスペイン王カルロス1世となっており、さらに皇帝に即位するとなればスペイン・ドイツ・イタリアの連合国家が成立し、フランスは完全に包囲される形となるからでした
これを阻止するためフランソワはなんと皇帝選挙に出馬しますが、票を得られずあえなく惨敗、カールが皇帝へと即位します

フランソワは次の手として、休戦状態であったイタリア戦争を再開させます
1521年に始まったこの戦争は、カールがスペイン・イタリア・ブルゴーニュの各方面から攻勢をかけたことでフランスは劣勢に陥り、フランソワは一旦はミラノを攻略したものの1525年12月にパヴィアの戦いで大敗し捕虜となってしまいます
ここで休戦条約として結ばれたのが、1526年1月14日のマドリード条約でした
フランソワは捕虜からの解放と引き換えにイタリアやブルゴーニュなどの宗主権を放棄することを余儀なくされたのです
こうしてカールとの争いに敗れたフランソワですが、>>298で見たようにオスマン帝国のスレイマン1世と結び、再びカールに対抗するのでした


本日はイタリア戦争の一時的休戦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

430Republica de Venexia:2015/01/15(木) 00:58:49 ID:???
1月15日は日本がロンドン海軍軍縮条約から脱退した日です

>>77で見たように、1922年のワシントン海軍軍縮条約で主力艦の制限を受けた日本は、巡洋艦や航空母艦、駆逐艦など補助戦力の充実を図り、>>396の「鳳翔」や戦艦から改装した「赤城」などの空母が建造され、巡洋艦では古鷹型や妙高型などの条約型巡洋艦が誕生し、特に従来の駆逐艦の常識を覆す「吹雪」をはじめとする特型駆逐艦の登場は世界に脅威を与え、1930年にロンドン海軍軍縮条約で補助艦にも制限が加えられたのです

日本はこのような状況で、>>385見たように徹底的に個艦性能の追求に努め、条約の制限下で極限まで重武装化することに心血を注ぎました
その結果初春型駆逐艦や空母「龍驤」など、小さい船体に巨大な上部構造物と重武装を備えた、高い戦闘能力を誇る艦艇が次々と建造されていくのです
しかしこれらの艦艇は兵装過多により復元力不足が深刻な問題となり、これは1934年の友鶴事件で露呈します
事件後多くの艦艇が全面的な再設計を余儀なくされ、「龍驤」は大幅な兵装削減を行い、特III型駆逐艦や初春型駆逐艦は上部構造物縮小などの改善工事が施されました

さらに翌年には第四艦隊事件も発生し、船体の強度不足や溶接の不備が明らかになるなど、再び艦艇の再設計に迫られることとなります
このような状況下でも「蒼龍」「飛龍」などの空母、高雄型重巡洋艦、重巡の制限を避けるため当初は軽巡洋艦として開発された最上型・利根型、駆逐艦では白露型・朝潮型などが条約下で建造されていきましたがそれも限界となり、海軍内における不満は高まっていきました

そして1936年1月15日、日本はロンドン海軍軍縮条約からの脱退を宣言することになるのです
条約による制限から開放された日本は翔鶴型航空母艦や陽炎型・夕雲型などの傑作艦の開発を始め、>>385の史上最大の戦艦「大和」も建造が進められていくのでした


本日は無条約時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「歴史群像シリーズ 決定版太平洋戦争1 『日米衝突』への半世紀」学習研究社、2008年
・「丸1月別冊 連合艦隊艦艇入門」光人社、2014年
・「世界の艦船No.803 連合艦隊 太平洋戦争を振り返って」海人社、2014年

431Republica de Venexia:2015/01/16(金) 00:51:12 ID:???
1月16日はオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を贈られた日です

>>268で見たように、オクタウィアヌスはアントニウスを討伐してプトレマイオス朝も滅ぼし、内乱の一世紀を終結させ地中海世界の統一を果たしました
オクタウィアヌスはエジプトを平定した後前29年にローマに帰還し、市民によって歓呼をもって迎えられ、大規模な凱旋式も挙行されました
オクタウィアヌスは全ての敵を排除したことで実質的に独裁権力を手中に収めたものの、カエサルの二の舞いを避けるため独裁を避け、あくまでも共和政の復興を前面に押し出しつつ、権力を固めていきます

前27年1月13日、オクタウィアヌスは元老院会議にて戦争中の非常時特権を全て元老院とローマ市民に返還し、共和政を復活させることを宣言します
しかし放棄したのはあくまで非常時特権であり、執政官職にはそのまま就いており、終身職であった大神祇官の役職も保持していたのです
またオクタウィアヌスは元老院からローマの全軍団に対する最高指揮権を与えられ、「インペラトル」となります
元老院はオクタウィアヌスに対し引き続き執政官となることを要請し、護民官職権も与えます

そして同年1月16日、元老院はオクタウィアヌスに尊厳ある者を意味する「アウグストゥス」の称号を与え、実質的に君主の地位を認めることになります
当のオクタウィアヌスはあくまでも市民の第一人者であることを強調し、そのために彼の統治はプリンキパトゥス(元首政)と称されることになりますが、この時点でオクタウィアヌスはほぼ皇帝権力を手にし、ローマにとっての初代皇帝が生まれることとなったのでした


本日はローマ帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

432Republica de Venexia:2015/01/17(土) 01:35:32 ID:???
1月17日は三木城が陥落した日です(旧暦)

三木城城主別所安治は1568年、織田信長の播磨侵攻に際しこれに従い、以後別所氏は信長によって畳用されることになります
しかし中国地方の毛利が播磨へと勢力を伸ばしてくると、別所家中は次第に分裂していきます
というのも、安治の死により家督を継いだ長治はまだ若く、2人の重臣別所重棟と別所吉親が補佐していましたが、このうち重棟が織田方、吉親が毛利方として争っていたからでした
長治は当時の情勢から毛利へと接近し、さらに足利義昭による離反工作もあり、ついに1578年2月、信長から離反することを決断します

信長は羽柴秀吉に別所討伐を命じ、秀吉は約5,000の兵を率い、三木城北東の平井山に陣を置きました
しかし三木城は前方に美嚢川、後方には丘陵を擁し、周囲を崖に囲まれた台地に位置する天然の要害であり、容易に陥とせる城ではありませんでした
そこで秀吉は三木城の支城から攻め落とす作戦を採り野口城を陥としますが、ここで毛利の援軍が播磨に到着します
毛利は上月城を攻略し、秀吉は結果的にこれを見殺しにすることとなりましたが、毛利はそれ以上東進はせず、秀吉は三木城攻略に専念するようになりました

秀吉は三木城の周囲に付城を築いて長期戦の構えを整え、三木城の兵糧攻めに取り掛かります
いわゆる「三木城の干殺し」です
三木城からは兵糧攻めを阻止するため平井山の秀吉本陣に攻撃をかけますが、秀吉はこれを撃退します
同時期には荒木村重が信長から離反し、姫路の小寺政職も毛利に寝返りましたが、平井山合戦での敗北はこれらを活かす好機を失うこととなったのです
やがて備前の宇喜多直家が織田方となり、毛利の三木城への援軍も撃退されたことで三木城の劣勢は決定的となり、兵糧が枯渇していきます
1580年1月6日には三木城の最高地に位置する宮丿上砦を、11日には吉親が守る鷹尾山城も攻略し、長期にわたる兵糧攻めにより疲弊していた三木城は支え切れませんでした
ついに三木城主別所長治は降伏を申し出、1月17日、長治の切腹とともに三木城は開城、「三木城の干殺し」は幕を下ろしたのでした


本日は戦国大名別所氏の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・「歴史人 2013年5月号 戦国 城の合戦の真実」KKベストセラーズ、2013年
・「歴史人 2013年12月号 敗者の戦国史」KKベストセラーズ、2013年
・小和田哲男『戦国の城』学研パブリッシング、2013年

433Republica de Venexia:2015/01/18(日) 00:57:18 ID:???
1月18日はフリードリヒ1世、ヴィルヘルム1世が戴冠式を行った日です

>>327で見たように、「大選帝侯」と呼ばれたブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは三十年戦争以降独自の道を歩み、スウェーデンとポーランドがバルト海の覇権を巡って争った北方戦争にも関与しました
この際、大選帝侯は軍事力の提供に反対する領邦等族を押し切り、戦争終結後も動員した軍隊を常備化しようとします
当然これに対し領邦等族は猛反発しますが、大選帝侯はこれに打ち勝ち君主権の大幅な強化に成功、プロイセン絶対王政の基礎を築いたのです
この大選帝侯の後を継いだのがフリードリヒ3世で、彼は>>107でハプスブルク家を支援し、その見返りとして神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王号を名乗ることを許されました
そして1701年1月18日に戴冠式が行われ、フリードリヒ3世は「プロイセンの王」となり、フリードリヒ1世として即位したのでした


またここから時代は下り、>>221の普仏戦争においても新たな君主が誕生します
セダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となった後も、パリで樹立された国防政府の抵抗や、ドイツ側によるアルザス・ロレーヌの併合要求などもあって戦争は継続され、翌1871年にパリで休戦条約が結ばれました
この間にプロイセンは南ドイツ諸国とのドイツ統一に関する交渉が進められ、北ドイツ連邦を拡大する形での連邦国家の形成でまとまります
そして1871年1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿にて戴冠式を行い、「ドイッチャー・カイザー(ドイツ皇帝)」という称号で初代皇帝に即位したのでした


本日はプロイセン王国、ドイツ帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

434Republica de Venexia:2015/01/19(月) 00:59:42 ID:???
1月19日は咸臨丸が浦賀から出港した日です

1858年、江戸幕府の大老井伊直弼はアメリカ合衆国との間での日米修好通商条約を締結し、ハリスとともにポーハタン号上で条約に調印します
その際に条約批准書の交換はアメリカのワシントンで行うことが取り決められたため、幕府はアメリカへ使節団を派遣することになります
この万延元年遣米使節団の旗艦となったのが先のポーハタン号でしたが、その別船として選ばれたのが咸臨丸でした

咸臨丸は幕府がオランダに製造を依頼した軍艦で、1857年に完成した後日本に届けられ、以後は長崎海軍伝習所において幕府の練習艦となっていました
万延元年遣米使節団としての咸臨丸には、名目上の艦長として勝海舟、提督として木村芥舟が乗船し、福澤諭吉やジョン万次郎も乗組員として加わっていました
1860年1月19日に浦賀を出港した咸臨丸は約一ヶ月半の航海の末サンフランシスコに入港し、そこでワシントンへ向かう使節団の正使と別れ、5月5日に浦賀へと帰還します
こうして咸臨丸は太平洋の往復に成功たことになりますが、これは幕府の船としては初の快挙でした


本日は咸臨丸太平洋往復航海の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・宮永孝『万延元年の遣米使節団』講談社、2005年
・小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』中央公論新社、2006年
・井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末改革』講談社、2009年

435名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/19(月) 22:06:28 ID:O4ZrtfwA
勝海舟など旧幕臣の方々が反骨心からか新政府に与しないなか、朝敵のはずなのに逓信大臣など重臣を勤め続けた榎本武揚さん

安部公房『榎本武揚』は是非ともお読みください。
冷徹な政治家榎本武揚を面白く描いてます

436Republica de Venexia:2015/01/19(月) 22:26:19 ID:???
>>435
おすすめの本ありがとうございます!
日本史、なかでも古代や幕末には疎くて...面白く幕末の人物を知れそうでいいですね

437名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/19(月) 22:30:21 ID:.fXzr9G6
小西先生の開国と攘夷は手堅くバランスが取れてて読みやすいですね

438Republica de Venexia:2015/01/19(月) 22:37:34 ID:???
>>437
中公文庫の歴史シリーズは読みやすくて重宝してます
世界の歴史の方は読む機会が多いですが、日本史の方も良さそうですねー

439Republica de Venexia:2015/01/20(火) 00:10:31 ID:???
1月20日はシモン=ド=モンフォールが議会を招集した日です

>>172で見たようにイングランド王ジョンの代にマグナ=カルタが制定され、王権は制限されることとなりました
しかしジョンはやがてマグナ=カルタの無効を宣言したため諸侯は反発し、イングランドでは内乱が勃発します
この内乱の最中にジョンは急死し9歳のヘンリ3世が即位、ヘンリの摂政ペンブルック伯ウィリアム=マーシャルは宥和政策を採り、マグナ=カルタが再確認されたため内乱は終結しました

しかしマーシャルの死後、ヘンリはガスコーニュやポワトゥーへの遠征のための軍資金徴収などのためにマグナ=カルタを無視し、行政長官ヒューバート=ド=バーグも王権の利益を優先した統治を支持しました
これはピータ=デ=ロッシによる改革で是正されましたが、ヘンリが親政を開始したことでロッシは失脚します

親政開始後のヘンリはフランス人貴族を重用し、1242年と1253年には南フランスへの遠征を行うなど、大陸政策を重視していきます
南フランス遠征が失敗に終わった後も、>>332で見たマンフレーディと対立するローマ教皇に協力し、対立王として次子エドマンドを擁立しマンフレーディに対する十字軍への参加を表明、さらには弟のコーンウォール伯リチャードを神聖ローマ皇帝に擁立するなど、大陸政策はますます強化されていきました

この大陸政策にレスター伯シモン=ド=モンフォールを中心とするイングランド諸侯は反発し、1258年にヘンリが十字軍費用徴収のための諸侯会議を招集した際にヘンリを非難、国政改革を要求するとヘンリはこれに同意、オクスフォード条款が成立し翌年のウェストミンスター条款によって王権の制限が進みました
しかし教皇の支援もあって1261年にヘンリが勢力を回復するとシモン=ド=モンフォールは一時失脚、1263年に反国王派を糾合して再び改革を主張します
このような改革をヘンリは断固拒否し両派による武力衝突に発展、リュイスの戦いでヘンリは捕虜となりました
そして1265年1月20日、シモン=ド=モンフォールはイングランド各州の領主や市民の代表からなる議会を招集したのです
この後シモン=ド=モンフォールは戦死しヘンリが王権を回復しますが、この議会はイングランドにおける議会制度の起源とされ、受け継がれていくことになるのでした


本日はイングランド議会の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・城戸毅『マグナ・カルタの世紀 中世イギリスの政治と国制1199-1307』東京大学出版会、1980年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

440Republica de Venexia:2015/01/21(水) 00:36:52 ID:???
1月21日はフランス王シャルル5世が生誕した日です

フランス王ジャン2世の息子として産まれたシャルルは、フランス王位継承者が名乗るドーファンという称号を最初に与えられ、王太子として育てられました
1356年には>>287で見たようにジャン2世がイングランドの捕虜となったことで、シャルルは摂政としてフランスの統治を行うことになります
ジャックリーの乱、エティエンヌ=マルセルの乱に苦しめられながらもこれを鎮圧したシャルルは、フランスの財政改革に乗り出しました

ジャン2世が捕虜となったことでイングランドはシャルルに対し莫大な身代金を要求していましたが、シャルルはこれを利用し、恒常的な徴税制度の整備を図りました
というのも、当時のフランスの慣習では王が捕虜となった場合に臨時課税することが認められており、シャルルは三部会でこれを主張し税金の徴収を可能としたのです
また当時のフランスは王家の財政難により解雇された傭兵が跋扈しており、民衆の生活を脅かしていました
シャルルはこの傭兵を追い払う、諸地方の防衛という名目での徴税にも成功し、この他にも様々な名目が駆使され、次第に定期的な徴税制度が整えられていきます

こうしてシャルルが整えた諸税は後にタイユ(人頭税)、エード(消費税)、ガベル(塩税)と呼ばれるようになり、フランス革命まで続けられることになります
またシャルルは恒常的な収入を得たことで常備軍・官僚も保持するようになり、後の絶対王政の基礎固めをすることにもなったのでした


本日は「賢明王」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

441Republica de Venexia:2015/01/22(木) 01:06:31 ID:???
1月22日はスイス傭兵がローマ教皇庁に着任した日です

13世紀、スイス南部のゴットハルト峠が通行可能となると、スイスは南北ヨーロッパを結ぶ要衝の地となり、一躍各国の注目を浴びることとなります
そこでスイス出身のハプスブルク家はこの地を掌握しようとしますが、スイスの人々はこれに頑強に抵抗、スイス誓約同盟を結び、1315年のモルガルテンの戦いでハプスブルク軍の撃退に成功します
続く1386年のゼンパッハの戦いでもハプスブルク軍に勝利し、スイス兵の評判が高まりました
大きな産業が無かったスイスはこれを機に傭兵業が盛んとなり、スイス傭兵がヨーロッパ各地に出稼ぎに出るようになったのです

>>414で見たブルゴーニュをめぐる戦争においてもスイス傭兵は活躍し、ナンシーの戦いにてシャルル突進公を破る戦果をあげます
これによりスイス傭兵の需要はますます大きくなり、ローマ教皇もスイス傭兵を雇うようになりました
というのも当時のイタリアは>>429で見たように各国の利害が対立する紛争地域であり、特にイタリア戦争の勃発によりローマ教皇庁にも自衛力が求められていたからでした
1505年、ローマ教皇ユリウス2世はそれまで一時的に雇っていたスイス傭兵を常設の衛兵として起用することを決定し、スイス傭兵にこれを要請します
そして1506年1月22日、150人のスイス傭兵がローマ教皇庁に到着し、以後スイス傭兵が教皇庁防衛の中核となりました
スイス傭兵は>>93のローマ劫掠においてもローマ教皇を守り、>>308のレパントの海戦でも派遣されます
そして約500年が経った現在においても、このスイス傭兵はローマ教皇庁の衛兵として教皇を守り続けているのです


本日は教皇庁スイス衛兵の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

442名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/22(木) 23:36:31 ID:s1QnReMo
さて血を流してまで教皇の傭兵を輸出したスイス人ですが
彼らが身につける衣装を基にして01-02シーズンのASローマのユニフォームが作られました。

http://i.imgur.com/HLlL2dY.jpg


(あの頃のローマ、もといビッグセブンセリエAに)もどして

443Republica de Venexia:2015/01/22(木) 23:43:35 ID:???
>>442
ローマはエンブレムにもロムルスとレムスを採用してたりして、歴史色が強くていいですよね
バティはフィオレンティーナ時代よりも輝きが落ちた感もありますが、あの豪快なプレーは印象深いです

444名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/22(木) 23:52:05 ID:s1QnReMo
>>443
バティ「優勝したいんや!」

銅像立てられる栄誉よりもあの歓喜に勝るものなし、ですか…

445Republica de Venexia:2015/01/23(金) 00:57:50 ID:???
1月23日はユトレヒト同盟が結成された日です

スペイン領ネーデルラントではフェリペ2世がスペイン王即位して以降重税を課すようになり、またカトリック政策を掲げてカルバン派の迫害を進めました
その際にスペインから派遣されたネーデルラント総督アルバ公の弾圧は苛烈で、1568年には>>124で見たように反乱が勃発、泥沼の八十年戦争へと突入することになりました

当時スペイン領ネーデルラントには、ヨーロッパ最強の陸軍と恐れられ組織面でも近代化されたフランドル軍が駐留していました
しかしスペインは>>429で見たようにイタリアでハプスブルク家と、>>308で見たように地中海でオスマン帝国との戦争が続いており、そこにネーデルラントで反乱が勃発したため財政が破綻し、ついに1575年に破産を布告しフランドル軍への給与支払いが停止せざるを得なくなりました
一時はフランドル軍を率いたアルバ公がネーデルラントを制圧したものの、この給与支払い停止により作戦行動が取れず、反乱軍は逆襲に転じることになります

そこでスペイン融和政策に転じ、アルバ公に代わって総督となっていたパルマ公が反乱勢力の分断を図ります
これによりネーデルラントの南部10州が、スペインと同じカトリックだったこともあり、パルマ公の懐柔によってスペイン支配下に復帰することとなりました
しかし反乱を主導するホラント州
などの北部諸州は、1579年1月23日、ユトレヒト同盟を結成してスペインとの対決姿勢を堅持、独立戦争を継続することになるのでした


本日はユトレヒト同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

446Republica de Venexia:2015/01/23(金) 19:45:18 ID:???
選抜高校野球大会の21世紀枠が決まりましたね

桐蔭は>>384のように甲子園の最多得点・最多得失点差記録を打ち立て、最初に全国2連覇を達成した、甲子園草創期を代表する伝説のチーム...
松山東も松山商時代に春の第2回で優勝、夏は特に強く平成に入った第78回までに6回優勝という安定した強さのあるチーム...

ともに和歌山県、愛媛県を代表する名門校だけに、その出場は喜ばしいですね

桐蔭は53年ぶり16回目、松山東は82年ぶり2回目のセンバツ出場おめでとう!

447Republica de Venexia:2015/01/24(土) 01:18:10 ID:???
1月24日はカリグラが暗殺された日です

>>431で実質的にローマ帝国初代皇帝となったオクタウィアヌスは14年7月に死去し、代わって彼の養子であったティベリウスが皇帝となりました
ティベリウスはオクタウィアヌス時代に消費された財を回復させるため緊縮財政を行い、元老院を重視した堅実な統治を進めます
しかしその治世後半では近衛隊長官セイアヌスが勢力を拡大、やがてティベリウス一族を粛清し専横を行うようになります
一時は隠棲していたティベリウスはこれを見てセイアヌス派を粛清し事態を収拾しましたが、ティベリウスは疑心暗鬼に陥り、ローマ市民の人気を失ったまま37年に死去しました

ティベリウスの後を継ぎ、3代目の皇帝となったのが市民に人気のあったカリグラでした
彼は近衛隊長官マクロの後援を得て24歳で帝位に就き、祭典を度々開催し民衆や兵士に賜金を積極的に行い、元老院も尊重するなど、当初は良き皇帝として振る舞います
しかしカリグラは急速に専制を強めるようになります
自身を神であると宣言し、大規模な建設事業や外征を繰り返すカリグラに対し、即位後に廃止していた大逆罪も復活させたのです
このカリグラの専制に対し元老院は反発し、財産没収や処刑を恐れる勢力は彼の暗殺を画策します
そして41年1月24日、カリグラは親衛隊将校カッシウスによって暗殺されました
同日、カリグラの叔父であるクラウディウスが近衛隊によって皇帝に推戴され、ローマはティベリウス時代の緊縮財政・元老院重視の政治へと復帰するのでした


本日はローマ帝国代4代皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

448Republica de Venexia:2015/01/25(日) 00:15:13 ID:???
1月25日はハインリヒ4世がカノッサ城に到着した日です

>>294で見たように、神聖ローマ帝国はハインリヒ3世黒王のもと皇帝権が強大化しました
しかしハインリヒの時代に皇帝と教皇が協力して進められていた教会改革は、彼の死後変質していきます
1059年4月のラテラノ公会議でニコラウス2世は教皇選挙教令を発し、教皇選出の過程から皇帝を排除したのです
1071年には教皇アレクサンデル2世がドイツ国王による司教選出にも反対するなど、世俗権力の排除はますます進められました

一方の皇帝はというと、ハインリヒ3世時代の皇帝権強化に危機感を覚えた諸侯がハインリヒ4世に対して反乱を起こしており、ハインリヒは教皇の動きに反撃することができませんでした
そのうちに1073年、ローマ教会ではグレゴリウス7世が教皇となり、グレゴリウス改革を進めていくことになります
ハインリヒはここでもドイツでの戦いに忙殺され、グレゴリウスの即位を認めざるを得ませんでした

1075年3月、グレゴリウスは教皇訓令書を発し教皇権の皇帝権に対する優位を主張します
しかしドイツでの争いを収めたハインリヒはドイツの司教を招集し、教皇の廃位を決定しました
ところがグレゴリウスはこれに真っ向から挑み、1076年2月、教会会議にてハインリヒ4世の破門を宣告するのです
ハインリヒもドイツで教会会議を招集しますが、皇帝権強化に反発する諸侯の多くはこれに応じず、逆に諸侯による会議を開き教皇への服従を要求するという有り様でした
孤立したハインリヒはグレゴリウス廃位を取り消しますが事態は好転せず、直接グレゴリウスに会い破門の解除を要求するためイタリアへ向かいました

そして1077年1月25日、ハインリヒはグレゴリウスが滞在していたカノッサを訪れ、いわゆる「カノッサの屈辱」を行います
これによりハインリヒは破門を解除され、ドイツ帰還後は反対派諸侯を討伐し再びグレゴリウスに挑戦、勝利することになります
一方教会としてはこの一連の事件によりそれまでの皇帝権・教皇権の関係を覆したことになり、最終的にヴォルムス協約でグレゴリウス改革は達成されることとなるのでした


本日はカノッサの屈辱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

449名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/25(日) 06:10:47 ID:0Z3FpLR6
今から113年前の1902年1月25日は、現:北海道旭川市にて本の観測史上における最低気温である-41.0度が観測された日です。おめでとうございます。
またこの日は、かの有名な八甲田雪中行軍遭難事件の真っ只中でもありました。お悔やみ申し上げます。

450Republica de Venexia:2015/01/25(日) 12:45:55 ID:???
八甲田山の事件ってこの時期だったんですね、ご冥福を...

451Republica de Venexia:2015/01/26(月) 00:04:43 ID:???
1月26日はカルロヴィッツ条約が締結された日です

>>298で見たようにハプスブルク家のフェルディナントはハンガリー国王となり、またボヘミア王と神聖ローマ皇帝も兼ねるようになったため、ここにドナウ帝国が成立しオスマン帝国との長期にわたる戦争へと突入しました
ハプスブルク家はウィーンを都として固定し、このドナウ帝国の経営に力を注ぐようになります
これは三十年戦争終結後特に顕著となり、>>327のウェストファリア条約で神聖ローマ帝国が実質的に解体されたことで、いっそうドナウ帝国の支配を重視することになったのです

オスマン帝国との対決は>>280で見た第二次ウィーン包囲で転機を迎え、これ以後ハプスブルク家はオスマン帝国に対し攻勢に出、いわゆる大トルコ戦争が始まりました
1686年にはハンガリーの都ブダを奪還し、さらにセルビアのベオグラードも攻略しましたが、1688年になるとフランス王ルイ14世の膨張政策に対抗するファルツ継承戦争が勃発し、ハプスブルク家もこの戦争に加わったため、バルカン半島方面が手薄となりました
このうちにオスマン帝国は反撃し、ベオグラードを再征服するとセルビアの大部分を奪還します

ここでバルカン半島方面の総司令官となり、オスマン帝国に再び反撃したのが名将プリンツ・オイゲンでした
オイゲンは1697年9月、ゼンタの戦いにおいてオスマン帝国軍で決定的な勝利を収め、オスマン帝国では和平交渉の機運が高まります
西方ではファルツ継承戦争がライスワイク条約によって終結し、ハプスブルクの本隊がバルカン半島へと向かう可能性があったこともその一因でした
1698年の春には和平交渉が開始し、翌1699年1月26日にカルロヴィッツ条約が締結され、ハプスブルク家はハンガリー、トランシルヴァニアなどを獲得し、これはオスマン帝国が初めてヨーロッパに領土を割譲した事例となりました
バルカン半島ではオスマン帝国に対するハプスブルクの優位が確立し、ドナウ帝国もここに完成することとなるのでした


本日はオスマン帝国からの領土獲得の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

452名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/26(月) 00:28:41 ID:9ibLNEGM
オスマン帝国とかいうウィーンでコーヒー飲んだだけのおっさんたち

この後領土削られてる間にチューリップで御花畑ですかたしか。

453Republica de Venexia:2015/01/26(月) 00:34:58 ID:???
>>452
撤退の最中にコーヒーの袋置いてったんですよねw
さっさとウィーン捨ててどっか行った神聖ローマ皇帝もアレですけど...

チューリップ時代はなんとなくパレオロゴス=ルネサンスが思い起こされます...

454Republica de Venexia:2015/01/27(火) 00:13:43 ID:???
1月27日はハインリヒ6世とコンスタンツァが結婚した日です

>>299のように北ヨーロッパでノルマン=コンクェストが行われていた頃、南ヨーロッパでは同じくノルマン人でオートヴィル家のロベール=ギスカールが、ビザンツ帝国領の南イタリア征服を進めていました
ギスカールはイタリア半島南部を、その弟ルッジェーロ1世はシチリア島を支配し、この2つはルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世によって統一され、1154年、シチリア王国が成立しました

以後シチリア王国はオートヴィル家が支配していましたが、その代3代グリエルモ2世には嫡子が無いまま病没し、後継者争いが勃発することとなります
後継者の第一候補となったのはルッジェーロ2世の娘で、唯一のオートヴィル家直系の生まれであったコンスタンツァでした

コンスタンツァは1186年1月27日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの息子であるハインリヒ6世と結婚しており、ドイツと強い関係を持っていました
しかしこのドイツとの関係がシチリア人の反発を産み、レッチェ伯タンクレーディが新国王となります
しかし庶子であったタンクレーディに不満を持つ勢力も多く、その統治は不安定なものでした
ハインリヒ6世はこれを見て南イタリアへと侵攻、タンクレーディの病死もあり、シチリア王国を掌握します
そして>>395で見たように、地中海世界で強力な帝国の建設を目指していくのでした


本日はホーエンシュタウフェン家・オートヴィル家同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

455Republica de Venexia:2015/01/28(水) 00:35:22 ID:???
1月28日はシャルルマーニュが亡くなった日です

>>373>>394で見たようにフランク王カール1世がローマ皇帝として戴冠し、西ローマ帝国が復活しました
とはいえ、この帝国はかつてオクタウィアヌス(アウグストゥス)が建設したローマ帝国のように強固な支配体制が整った国家ではなく、帝国内の各地方にそれぞれの管区を治める伯や司教が存在し、皇帝から半ば自立した権力を持つようになりました
またシャルルマーニュは皇帝であると同時に、フランク国王でも有り続けました
これらの要素、ローマ教皇による加冠、諸侯権力の自立化、国王と皇帝の併存などは神聖ローマ帝国においても受け継がれることになるのです

そしてこの帝国の問題として、フランク王国の慣習である分割相続が挙げられます
帝国を統治するのは皇帝のみでしたが、王国は分割して相続されるという矛盾が発生したのです
これはシャルルマーニュの3人の息子のうち、長子カールと次子ピピンが早逝し、末子ルートヴィヒのみが残ったため回避されますが、後に>>187>>151で見たような王権縮小の要因となるのです
このような問題を残したまま、シャルルマーニュは814年1月28日に没し、すでに共同皇帝であったルートヴィヒが単独皇帝として帝国を治めることになるのでした


本日は単独皇帝ルートヴィヒ敬虔帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

456Republica de Venexia:2015/01/29(木) 01:04:48 ID:???
1月29日は明・朝鮮連合軍が蔚山城攻撃を開始した日です

豊臣秀吉が始めた朝鮮出兵は1593年に一時停戦し和平交渉が進められましたが、双方の要求が食い違い決裂、1597年に再び朝鮮への出兵が始まりました
この慶長の役で日本軍は朝鮮半島南部を確保するため、南部の海岸線や島に城を新築、あるいは改修し、その支配領域の強化に努めました

加藤清正が築いた蔚山城もその一つで、すでに文禄の役の頃に浅野幸長とともに築いた日本軍最大の拠点西生浦城の北西、半島南部に連なる倭城群の最東端にあたる位置で築城が始まりました
しかし1598年1月29日、完成間近となった蔚山城を明・朝鮮連合軍によって急襲されます
この時清正は西生浦城にいましたが急遽蔚山城に戻り、防衛戦を指揮します
日本軍は火縄銃を有効に使い連合軍の攻撃を必死に防ぎ、損害が増した連合軍は兵糧攻めに切り替えました
突貫工事であったため防衛体制が未完成で、兵糧にも乏しかった日本軍は苦境に立たされ、飢えと寒さに苦しめられます
しかし2週間が経ち落城寸前となった2月8日、毛利秀元らの援軍が到着、焦った連合軍は蔚山城総攻撃を行いますが清正はこれを撃退しました
退路を絶たれることを恐れた連合軍は撤退し、蔚山城は辛うじて持ちこたえることに成功したのでした


本日は蔚山城籠城戦の誕生日です


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』吉川弘文館、2007年
・中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年

457名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/29(木) 22:23:25 ID:/cdF9KkI
さて加藤清正公のお膝元だった熊本市には蔚山町があります
読み方はまんま「うるさん」
すごいですねこれ
ちなみに熊本城では再興にあたり一口城主を募りました(一口1万円)
なんとキン肉マンマリポーサが寄付してました。


熊本行ったら熊本市電に乗りいきなり団子に朝鮮飴買って、ポチョムキン『おてもやんサンバ feat.水前寺清子』、聞こう!(推奨)

458Republica de Venexia:2015/01/29(木) 22:26:21 ID:???
>>457
おお、そういう所縁があるんですね!
熊本城は一度行ったことがあるのですが、日程の都合上あまり見て回ることができませんでした...
今度行く機会があれば、城跡はもちろんのこと、その周りもじっくり散策したいです、朝鮮の役関係もいろいろありそうですね

459Republica de Venexia:2015/01/30(金) 00:38:06 ID:???
1月30日は日英同盟が締結された日です

イギリスはクリミア戦争終結後、強大な経済力と海軍力を背景に他国と同盟を結ばず孤立を保っており、その非同盟外交は「光栄ある孤立」と称されました
しかし>>413で見たようにヨーロッパではドイツを中心に三国同盟が形成され、さらにフランスとロシアとの間で露仏同盟が成立するなど、イギリスの覇権は揺らいでいきます

またイギリスはロシアの南下政策にも対抗しており、特にロシアが義和団事件後も中国東北地方に軍を駐留させたままであったことに強い危機感を覚えていました
このロシアの動きを警戒していたのは日本も同様で、利害が一致した両国は1902年1月30日、日英同盟を締結してロシアの備えとしたのです

これによってイギリスは極東に覇権していた艦隊を本国海域に再配備することができ、ヨーロッパにおける海軍力を増強が可能となりました
日本もまた日英同盟を背景に巨額の外債を発行して日露戦争を乗り切り、戦後のさらなる工業化やアジア市場への進出が可能となったのでした


本日は「光栄ある孤立」の命日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』

460名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/30(金) 22:58:11 ID:C5P6Ych2
児玉源太郎「よっしゃ!海底ケーブル作って大英帝国の情報ももろたろ!」

児玉源太郎が今の時代に至っても讃えられたる人間というのは先見の明があったというのを忘れてはいけません。
「情報戦の名の下同盟国の情報を掠め…いや共用する」という姿勢は多々学ぶべし、と思いますがいかがでしょうか。

461名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/30(金) 23:03:04 ID:C5P6Ych2
>>460は日英同盟のもと児玉ケーブルてわ大英帝国の情報をかき集めていた話がもとです。

462Republica de Venexia:2015/01/30(金) 23:03:12 ID:???
>>460
日露戦争での綿密な情報把握も、児玉さんの功績大ですよね
日本海海戦というクライマックスに向かって着々と積み上げていく感が見応えありました

463Republica de Venexia:2015/01/30(金) 23:03:38 ID:???
>>461
ありがとうございます!

464名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/30(金) 23:08:30 ID:C5P6Ych2
>>463
酔っ払いの絡み程度のものですが、日々誠実に更新されてるので豆知識程度の助太刀として…
いつも楽しんでます(*^◯^*)

465Republica de Venexia:2015/01/30(金) 23:13:54 ID:???
>>464
お恥ずかしい限りです...まだまだ要約程度のもので、自分のモノとできていないので精進せねばというところです...
興味深いお話をいつもありがとうございます!

466Republica de Venexia:2015/01/31(土) 01:24:35 ID:???
1月31日はシルウェステル1世がローマ教皇に即位した日です

>>331で見たコンスタンティヌス1世がローマ皇帝であった頃、ローマ教会では314年1月31日シルウェステル1世が即位しました
コンスタンティヌスはキリスト教を公認した皇帝として有名ですが、このコンスタンティヌスとシルウェステルが後世、キリスト教会によって利用されることになります

>>373で小ピピンがフランク王となりカロリング朝を開いたことを見ましたが、その際ローマ教皇ステファヌス3世が王位を承認してくれたことへの返礼として、いわゆる「ピピンの寄進」が行われました
これが教皇領の起源となったわけですが、これに対し東ローマ皇帝コンスタンティノス5世はその返還を要求します
>>265で見たように、西ローマ皇帝位はオドアケルによって東ローマ皇帝に返上されており、名目上はイタリアも東ローマ支配下にあったからでした
一方ローマ教皇庁では教皇領を正当化するため、「コンスタンティヌスの寄進状」が作成されます
これはコンスタンティヌス1世がシルウェステル1世によって癩病から回復し、その返礼としてシルウェステルとその後継者に帝国の西半分を譲渡したとするものでした

このコンスタンティヌスの寄進状は15世紀になって偽書と証明されますが、それまでの間、ローマ教皇は寄進状を根拠に皇帝権に対する教皇権の優越を主張しました
>>394のシャルルマーニュへの加冠や、>>454のロベール=ギスカールの南イタリア授封、>>40のアラゴン王のサルデーニャ授封の際にもコンスタンティヌスの寄進状が根拠とされ、>>294>>448で見た教会改革、叙任権闘争においても教皇権優越を示すためコンスタンティヌスの寄進状が用いられることとなるのでした


本日は第33代ローマ教皇の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年

467Republica de Venexia:2015/02/01(日) 01:31:24 ID:???
2月1日は鄭成功がゼーランディア城を攻略した日です

16世紀以降、東アジアでは中国の生糸と日本の銀との交易が大きな利益をあげるようになりましたが、中国は倭寇の影響もあって日本と直接交易しようとせず、中間交易が盛んとなります
その一大拠点となったのが台湾で、日本だけでなくポルトガル、スペイン、オランダなども訪れるようになります
その中でオランダが1624年に台湾にゼーランディア城を築いて拠点とし、中国沿岸を支配する鄭芝龍と結んだのです

鄭芝龍は明によって厦門の提督に任じられ、清が明の北京を攻略した後には息子の鄭成功とともに、唐王永歴帝を擁立し、南明政権である隆武政権を打ち立てます
清は各地の反清勢力を鎮圧するなかでこの隆武政権を滅ぼし、鄭芝龍も投降させますが、鄭成功はこれに従わず抗戦を継続しました
鄭成功の財政基盤は交易であったため、清は海禁令を強化し、さらに1661年、遷界令を発して鄭成功の孤立化を図ります

これに対し鄭成功は沿岸地域を放棄し、新たな拠点建設を目指しますが、その標的となったのが台湾でした
鄭成功は1661年に台湾に侵攻、ゼーランディア城を包囲し1662年2月1日にこれを陥としました
鄭成功自身はその翌年に病死しますが、その意志は息子の鄭経が受け継ぎ、1683年まで清に対抗することとなるのでした

鄭成功の運動は日本にも伝えられています
永歴帝を奉じた際、鄭成功は永歴帝の国姓である「朱」を賜りましたが、それに由来する「国姓爺合戦」が近松門左衛門によって人形浄瑠璃として公演され、鄭成功は和藤内として登場します
「国姓爺合戦」は大好評を博し、17ヶ月に渡って公演されることとなったのでした


本日は鄭氏台湾の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年

468Republica de Venexia:2015/02/02(月) 00:17:23 ID:???
2月2日はオットー1世が戴冠した日です

>>242>>245で見たように、ザクセン朝のオットーは「ドイツ国王」となり、レヒフェルトの戦いで「キリスト教世界」を防衛したことでローマ教皇から加冠されることになります
962年2月2日、ローマ教皇ヨハネス12世によってオットー1世として戴冠し、>>455のようにカロリング帝国期に没落していったローマ皇帝権は復興を果たすのです

このオットーの戴冠はシャルルマーニュ以来の伝統によるものであり、教皇としては>>466で見た「コンスタンティヌスの寄進状」に基づくものでもありました
これに対しオットーは「オットーの特権状」と呼ばれる特権状を発し、ピピンの寄進以来教皇庁が保持していた領土の支配権を認めたものの、それは皇帝によって保証されるものであり、皇帝が諸権利を保持することを前提としていました
また教皇の就任には皇帝に対する誠実宣誓が必要とされたのです

つまりは教皇位が帝国における司教の筆頭の地位となったも同然であり、当然ヨハネスはこれに反発、オットーと敵対するイタリア王べレンガリオ2世と結んで対抗しました
オットーは教会会議を開きヨハネス12世を廃位、オットーがイタリアから離れた隙にヨハネスは復位するものの急死し、新教皇となったベネディクトゥス5世もまたオットーによって廃位されイタリアにおける皇帝権が確立するなど、オットー期の皇帝>>448のハインリヒ4世とグレゴリウス7世の頃とは異なり強力な権力を有していたのです

このようにしてオットーの新帝国、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる帝国が成立しましたが、オットー自身は単なる「皇帝」という称号を用いましたが、次代のオットー2世はローマ帝国起源であることを強調するため「ローマ人の皇帝」を名乗りました
その後継者、古代ローマ帝国復興に燃えるオットー3世は>>466で登場したコンスタンティヌス1世に自身をなぞらえ、新教皇となったオーリヤックのジェルベールにシルウェステル1世にちなんでシルウェステル2世と名乗らせ、「ローマ人の至高なる皇帝」という称号を用いたのです
時代が下り、12世紀のホーエンシュタウフェン朝、フリードリヒ1世バルバロッサは皇帝権に聖権を付加し、帝国もまた「神聖帝国」と表記するようになります
13世紀にはオットー朝期の「ローマ帝国」と合体して「神聖ローマ帝国」となり、15世紀以降には帝国とドイツ国民との結びつきが強まり、1512年に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名称が生まれ、>>241の神聖ローマ帝国滅亡まで用いられることとなったのでした


本日は帝国(神聖ローマ帝国)の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年

469Republica de Venexia:2015/02/03(火) 00:07:39 ID:???
2月3日はムラト2世が亡くなった日です

オスマン帝国スルタン、ムラト2世は>>347で見たようにバルカン半島を再び支配下に収め、これを機に退位、まだ若き12歳の息子メフメト2世が即位しました
しかしバルカン半島は完全に平穏となったわけではなく、>>367で登場したアルバニアのスカンデルベグやハンガリーのフニャディ=ヤノシュが健在で、度々オスマン帝国領を攻撃していたのです
特にスカンデルベグはオスマン帝国軍に対し無敗を誇り、バルカン半島の情勢が懸念されたことで1446年、ムラトは復位を余儀なくされます

復位後のムラトはギリシアを制圧し、1448年には攻勢をかけてきたフニャディの軍をスカンデルベグと合流する前にコソボにて撃滅し、バルカン半島はスカンデルベグを除いて制圧されました
また小アジアにおいてもアイディン君侯国、ゲルミヤン君侯国を併合し、その他君侯国にもオスマン帝国の宗主権を認めさせたのです

こうしてオスマン帝国に平穏をもたらしたムラトは、1452年2月3日に死去します
この訃報に対し、まず安堵したのは小アジアでオスマン帝国の攻勢にさらされていたビザンツ亡命政権、トレビゾンド帝国でした
また西欧においても同様に安堵の雰囲気が広まります
というのも、神聖ローマ帝国では新皇帝となるフリードリヒ3世の支配基盤が脆弱で諸侯を抑えるのに四苦八苦しており、フランスとイングランドは長らく続いていた百年戦争の末期にあたる時期であり、スペインではレコンキスタの最終局面であったことから、バルカン半島に手を回せる状態ではなかったからでした
また新スルタンが弱冠19歳であり、その補佐を担当していた大宰相ハリル=パシャは穏健派であり、当面はキリスト教勢力への攻撃は無いと判断したからでもありました
しかしメフメトは固い意志を持ってビザンツ帝国の都コンスタンティノープル攻撃を断行し、>>146で見たようにビザンツ帝国を滅ぼし西欧に衝撃を与えることとなるのでした


本日はムラト2世の命日です、西欧の皆さんおめでとうございます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

470Republica de Venexia:2015/02/04(水) 01:21:33 ID:???
2月4日は趙匡胤が皇帝に即位した日です

>>422で見たように、唐滅亡後の中国は五代十国時代と呼ばれる混乱の時代となり、この間に貴族層は没落し藩鎮支配の下で武断政治が展開されました
この五代の最後の王朝である後周は、三武一宗の法難で知られる仏教弾圧を行った世宗が病没し、その後を弱冠7歳の恭帝が継ぎました
まだまだ戦乱が続くこの時代、幼帝が即位したことに不安を感じた軍人勢力は趙匡胤を皇帝に推し、恭帝による禅譲という形で趙匡胤が即位することになります

960年2月4日、趙匡胤が即位し国号が宋とします
趙匡胤は中国の統一を進め、また五代十国時代の武断政治を改め文治政治を展開します
軍人の勢力は削がれ、一方で科挙の整備による官僚の登用と皇帝直属の常備軍である禁軍を基盤とした皇帝専制を強化していきます
江南では農業開発が進み、茶・絹・陶磁器などの特産物の生産とともに物流が発達、各地に商業都市が生まれ、経済・文化・技術が大きく発展することとなります
また周辺の遊牧国家との間では和議を結んで歳賜を送ることで平和を維持するようになるなど、それまでの朝貢・冊封関係とは異なる関係が築かれます
このように宋代では唐代から大きな変革が進み、唐宋変革と呼ばれる変動期となるのでした


本日は宋の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・中島敏・周藤吉之『五代と宋の興亡』講談社、2004年
・小島毅『全集中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』講談社、2005年

471Republica de Venexia:2015/02/05(木) 01:38:18 ID:???
2月5日はベルナドッテがスウェーデン王となった日です

スウェーデンは大北方戦争での敗北後、>>254で見たようにグスタフ3世が絶対王政を復活させ、再びスウェーデンを強国の地位に押し上げました
しかしその後を継いだグスタフ4世は先王が築いた地位を保とうとしますが、当時ヨーロッパではフランス革命、そしてナポレオン戦争が勃発するという動乱の時代であり、スウェーデンもまたこれに巻き込まれていくこととなります

この動乱のなか、グスタフ4世は徹底した反ナポレオン政策を採り、対仏大同盟にも参加しますがナポレオンに敗れてしまいます
またナポレオンが発布した大陸封鎖令が発布を拒否し、先王の時代に同盟を結んでいたロシアと敵対することにもなり、フィンランドを奪われるなど、失政が続きました

ここに至ってスウェーデンではクーデターが起こり、1809年、グスタフ4世は廃位されて立憲君主制が復活し、彼の叔父であるカール13世が国王となります
カールはこの時すでに高齢で、また嫡男が急死したため、新たな後継者が選定されることとなりました
ここで後継者に選ばれたのがナポレオン配下の将軍ベルナドッテで、1810年にカール13世の養子となり王太子・摂政としてスウェーデンを率います
ベルナドッテはロシアと再び同盟を結んでナポレオンに対抗し、>>317で見たライプツィヒの戦いにも参加し連合軍の勝利に貢献するなど、スウェーデンをナポレオン戦争の戦勝国に導いたのです
そして1818年2月5日、スウェーデン王カール13世が没し、王太子ベルナドッテはカール14世ヨハンとして国王に即位、現在も存続するベルナドッテ王朝の祖となったのでした


本日はベルナドッテ王朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

472名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/05(木) 22:53:34 ID:ND46Aqng
ちなみに現スウェーデン国王はカール16世グスタフです。
グスタフおじさんの被り物とかポルシェ乗り回したりとか風俗疑惑とかこのハッチャケぶりなんなんですかねぇ…

473Republica de Venexia:2015/02/05(木) 23:08:21 ID:???
今の国王、グスタフなんですね
スウェーデン王にはグスタフやアドルフが多いですけど、グスタフ2世アドルフに因んでるのかな

現国王がそんなはっちゃけた方とは知りませんでしたw

474Republica de Venexia:2015/02/06(金) 00:17:05 ID:???
2月6日はミュンヘンで飛行機事故が起こった日です

サッカー界の飛行機事故としては>>91で見た「スペルガの悲劇」があり、グランデ・トリノが終焉を迎えるという痛ましい事故がありました
この「スペルガの悲劇」の約10年後、同様の悲劇が起こってしまいます

イングランド代表に多数の選手を輩出し、当時チャンピオンズカップ2連覇を成し遂げていたレアル・マドリーの対抗馬の一角として台頭してきていたチームがマンチェスター・ユナイテッドでした
マット・バスビー監督に率いられ、若きキャプテン、ダンカン・エドワーズが牽引するこのチームは1957-58シーズンのチャンピオンズカップにおいて順調に駒を進め、準々決勝ではユーゴスラヴィアのレッドスター・ベオグラードを2戦合計5-4で降しました

しかしこの翌日の1958年2月6日、彼らは悲劇に襲われます
マンチェスター・ユナイテッドの選手たちを乗せたブリティッシュ・ヨーロピアン・エアウェイズの臨時便エリザベッタン号はミュンヘン空港での離陸の際に上昇できず、墜落してしまいます
この事故でチームのレギュラーであるロジャー・バーン、マーク・ジョーンズ、リアム・ウェラン、エディ・コールマン、ジェフ・ベント、デイビッド・べッグ、トミー・テイラーを含む23人が即死し、15日後にダンカン・エドワーズも亡くなります
レイ・ウッド、アルバート・スカロン、ジョニー・ベリー、ジャッキー・ブランチフラワーは後遺症のため選手生命を絶たれ、ハリー・グレッグ、デニス・バイオレット、ビル・フォルケス、そしてボビー・チャールトンの4人のみがほぼ無事で生還するという悲惨な事故でした

この事故後、例外的措置としてブラックプールのアーニー・テイラー、アストン・ビラのスタン・クロウサー、アマチュアのトム・ヒーロンの獲得が認められ、チャンピオンズカップでの戦いを継続しますが、準決勝ではチェーザレ・マルディーニやニルス・リードホルム、フアン・アルベルト・スキアフィーノ擁するACミランに敗れてしまいます
その後のマンチェスター・ユナイテッドは翌年にバスビー監督が復帰しチームの再建を進め、10年後の1967-68シーズン、バスビ監督が育て上げたチャールトン、デニス・ロー、ジョージ・ベストら「バスビー・ベイブス」が躍動し、奇しくもイングランド・フットボールの聖地ウェンブリーにおいてエウゼビオ擁するベンフィカを破り悲願のチャンピオンズカップ制覇を達成、フットボールの母国に初の栄冠をもたらすのでした


本日はミュンヘンの悲願の誕生日です、お悔やみ申し上げます

475名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/06(金) 22:47:54 ID:/KNSBJMY
そうか、今日はミュンヘンの悲劇の日か…
ここからマンチェスターユナイテッドは強豪から、比類なき、栄光も悲劇も味わい尽くしたレジェンドになっていったのですね。

あ、そうだ(唐突)
飛行機事故といえばコメット号墜落事故のドキュメンタリーオススメです
リベット(ネタバレ)

476Republica de Venexia:2015/02/07(土) 00:15:02 ID:???
この事故から立ち直って優勝まで上り詰めたことは本当に心に響きます...

コメット号連続墜落事故というのがあるんですね
なんとなくサンダーバードのファイアフラッシュ号が連想されました

477Republica de Venexia:2015/02/07(土) 00:36:45 ID:???
2月7日はレオ1世が即位した日です

ローマ帝国はコンスタンティヌス時代、>>100で見たようにコンスタンティノープルが実質的な首都となり、テオドシウス1世死後の395年に最終的に東西に分裂しました
次代のアルカディウスから始まる東ローマ帝国テオドシウス朝は、「テオドシウスの城壁」を建設したテオドシウス2世、>>309で見たカルケドン公会議を招集したマルキアヌスと続き、マルキアヌスの死によって断絶します

457年2月7日、新たに即位することになったのがレオ1世でした
レオはコンスタンティノープル郊外のヘブドモン練兵場で即位式を行い、その際にローマ皇帝の伝統となっていた、元老院・民衆・軍隊の歓呼によって迎えられます
レオ1世はレオ朝の体制を整え、その後この王朝は>>265で登場したゼノンなどを経て、>>235で見たアナスタシウス1世まで存続することとなるのでした


本日はレオ朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

478Republica de Venexia:2015/02/08(日) 01:20:24 ID:???
2月8日はコンスタンティノス=パレオロゴスが産まれた日です

ビザンツ帝国は>>227で見たようにミカエル=パレオロゴスが十字軍に奪われたコンスタンティノープルを奪回し、パレオロゴス朝が成立しましたがもはや往時の面影は無く、>>69で見たセルビア王国や、度々取り上げてきたオスマン帝国の進出もあり、国家の命運は風前の灯となっていました

それでも1402年に>>222で見たアンカラの戦いによってオスマン帝国が一時中断したことでビザンツ帝国が延命することになります
コンスタンティノス=パレオロゴスはちょうどこの時代、1405年2月8日に産まれます
当時の皇帝はマヌエル2世で、オスマン帝国のスルタンを巡る争いに干渉し休戦協定を結ぶことに成功しますが、オスマン帝国に対し反撃するほどの力はすでに残されていませんでした
やがてオスマン帝国は>>347のようにムラト2世が帝国を再建し、再び攻勢に出ます
マヌエルはオスマン帝国によるコンスタンティノープル包囲を撃退、また文化面でもパレオロゴス=ルネサンスの最盛期を実現しますが、1425年に死去しました

後を継いだヨハネス8世は対オスマン帝国強硬策を打ち出し、西欧との協力によってヴァルナ、コソボの十字軍を実現しますが、これらは>>347>>469で見たように失敗、失意のうちに1448年に死去しました
この後を継いだのがコンスタンティノス=パレオロゴスで、>>376で見たように東西教会統一を進め西欧からの援助を得ようとしますが実現せず、>>146のコンスタンティノープル陥落に至るのでした


本日はビザンツ帝国最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

479Republica de Venexia:2015/02/09(月) 19:34:02 ID:???
2月9日は足利義昭が征夷大将軍を辞した日です

室町幕府は嘉吉の乱や応仁の乱を経て衰退し、13代将軍足利義輝の時代に復活の兆しが見られたものの、松永久秀や三好三人衆によって暗殺されてしまいました
14代将軍としては足利義栄が三好三人衆によって擁立されたものの、三好三人衆と松永久秀との対立もあって京に入ることすらできないという有様でした

しかし1568年、足利義昭が織田信長とともに上洛、信長は三好三人衆を駆逐し、義栄は後ろ盾を失い阿波への逃れます
こうして義昭は朝廷より将軍宣下を受けて15代将軍に就任し、幕府の再興を図りました
ところが義昭は将軍権力を制限しようとする信長と対立し敗れ、1573年には京を追放されることになります

義昭は毛利支配下であった備後の鞆に逃れ、ここを拠点に反信長運動を展開しました
その最中の1582年、信長が本能寺の変で倒れると毛利輝元に上洛を呼びかけますが、毛利が羽柴秀吉に臣従したためこれは失敗に終わります
やがて義昭は京へと戻り、1588年2月9日、征夷大将軍を辞しました
以後の義昭は秀吉に厚遇され、1597年に死去することになるのでした


本日は足利将軍の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年
・谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中央公論新社、2014年

480名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/10(火) 00:28:39 ID:3wqk/MQY
将軍も殺される可能性が十分ある時代に結構運のいい一生を送ったと思う

481Republica de Venexia:2015/02/10(火) 00:31:25 ID:???
信長に追放されてからもけっこう粘ってますよね
鞆にもいろんな人々が訪れて小さな幕府のようになってたそうですし...
調べていくうちにイメージが変わった人物でした

482Republica de Venexia:2015/02/10(火) 01:24:56 ID:???
2月10日はバグダードが陥落した日です

>>282で見たようにユーラシアに大ネットワークを築き繁栄したアッバース朝ですが、9世紀後半には早くも衰退の兆しが現れ、10世紀になるとエジプトのファーティマ朝とイベリア半島の後ウマイヤ朝がカリフを称し、三カリフ鼎立状態となりました
またイランで成立したブワイフ朝が946年にバグダードを占領し大アミールを称し、1055年には中央アジアのセルジューク朝がブワイフ朝を倒してバグダードを占領し、スルタンの称号を得て世俗支配権を握るなど、アッバース朝は名目のみの存在となっていました

このセルジューク朝のような遊牧国家は中央ユーラシア型国家と呼ばれ、騎馬軍団による軍事力を背景に、小人口ながら南方の大人口を抱える農耕国家を統治するという新しいタイプの国家でした
>>422で見た遼や西夏、金もこれにあたり、ユーラシアの東西で大規模な変革が起こっていたのです
>>470で成立した宋も遊牧国家の進出に直面しますが、そのなかで宋の海洋ネットワークと遼などの北方遊牧民ネットワークが結びつき、これがバグダードを中心とする西アジアのネットワークともつながっていたのです

そしてこれらのネットワークを統合したのがモンゴルでした
モンゴルはその強大な軍事力で内陸アジアを統一し、1206年に大ハーンに即位したチンギス=ハーンは西夏やイランのホラズム朝などを滅ぼし中央ユーラシアのネットワークを掌握します
2代オゴタイ=ハーンも征服を進め、駅伝制を整備してネットワークをさらに効率的なものとします
そして4代モンケ=ハーンの時代にはフレグが西アジアに向けて大規模な征西を行い、1258年2月10日、バグダードは陥落しアッバース朝のネットワークがモンゴルに組み入れられ、ユーラシアにまたがる大ネットワークが統合されたのでした


本日はアッバース朝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた全界』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

483Republica de Venexia:2015/02/11(水) 00:39:35 ID:???
2月11日はラテラノ協定が結ばれた日です

>>466で見たようにピピンの寄進によって成立し、コンスタンティヌスの寄進状によって正当化された教皇領は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世やフリードリヒ2世との対立によって危機に瀕しながらも、巧みな外交戦略によってその領土を保ってきました
その後>>288の教皇のバビロン捕囚によって教皇領支配が弱まるものの、イタリア戦争期には教皇アレクサンデル6世とその息子チェーザレ=ボルジアによって教皇領の拡大が図られます

しかし1796年、フランス総裁政府によってイタリア方面軍司令官となったナポレオンが教皇領を併合、一時独立を回復したものの1808年に再びフランス領となります
これは1814年のウィーン会議、その正統主義基づき撤回され、教皇領は再び復興しました
しかしやがてナショナリズムが勃興、イタリアにおいてもリソルジメント(イタリア統一運動)が始められ、>>329で見たようにサルデーニャ王国がイタリア統一を進めていきます
当時教皇領を守っていたのはフランスでしたが、>>221の普仏戦争でフランスが敗北したため、1870年にサルデーニャ王国改めイタリア王国がローマを占領したのです

このローマ併合はイタリア王国とローマ教皇庁の関係を決定的に悪化させ、双方は国交断絶状態となってしまいます
この状況を改善したのがムッソリーニで、ローマ教皇庁に対して友好的に対応した彼は1929年2月11日、ラテラノ協定を結びます
この協定により両者は和解し、ローマ教皇はここで初めてイタリア王国を承認しました
これに対しイタリア王国は教皇が主権を持つ国家、バチカン市国の成立を承認し、現在に至るのでした


本日はバチカン市国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

484名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/11(水) 10:31:17 ID:SdpIJhLY
建国記念の日は、日本の初代天皇とされる神武天皇が即位した日を日本の紀元として祝う日らしいです
2015年で紀元2675年になるそうです

485Republica de Venexia:2015/02/11(水) 10:37:07 ID:???
皇紀...ってやつですかね
零戦が開発されてからもう75年経つんですね

486Republica de Venexia:2015/02/12(木) 01:01:53 ID:???
2月12日はマリア=テレジアとフランツ=シュテファンが結婚した日です

神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、嫡男が夭折したことで長女のマリア=テレジアを相続者とするため、プラグマティッシェ=ザンクツィオンを定めたのは>>323で見た通りです
しかしこれはあくまでハプスブルク世襲領に適用されるものであり、神聖ローマ皇帝位をマリア=テレジアが継ぐということはできませんでした

そこでマリア=テレジアの婿が誰になるかが争点となり、将軍プリンツ=オイゲンはバイエルンとの、皇帝側近のバルテンシュタインはプロイセン王子、後のフリードリヒ2世との縁組を主張します
しかしマリア=テレジアはロートリンゲン公子フランツ=シュテファンに恋心を抱いており、先の2人には見向きもしませんでした
カール6世もフランツのことを気に入っていたため、2人の結婚が認められることとなります
1736年2月12日、当時としては稀な恋愛結婚によってマリア=テレジアとフランツ=シュテファンは結ばれたのです
ここにハプスブルク家とロートリンゲン家が結びつき、2人の子供の代にはハプスブルク=ロートリンゲン家が成立することとなります

こうして神聖ローマ皇帝位はフランツが継承者となったわけですが、これに周辺諸国が反発し、1740年のカール6世の死後、オーストリア継承戦争が起こったのは
>>319で見た通りです
この戦争の間にバイエルン選帝侯がカール7世として戴冠しましたが、マリア=テレジアはこれを破り、1745年に正式にフランツが戴冠、神聖ローマ皇帝フランツ1世としてハプスブルク=ロートリンゲン朝を開くのでした


本日はハプスブルク家・ロートリンゲン家同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家ね女たち』講談社、1993年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年

487Republica de Venexia:2015/02/13(金) 01:27:53 ID:???
2月13日はオラニエ公ウィレムがイングランド王に即位した日です

>>124のオランダ独立戦争を戦い、>>327のウェストファリア条約で独立を正式に認められたオランダは目覚ましい商業発展を続け、ヨーロッパ経済をリードする存在となりました
イングランドもまた、オランダと同じく商業によって発展しようとしましたが、オランダの後塵を拝す状況が続きます
これを打開しようとしたのがクロムウェルで、彼は1651年に航海法を発布しオランダ排除を図ると、反発したオランダが翌年イングランドに宣戦布告し、英蘭戦争が勃発します

この英蘭戦争は1670年代になると様相が異なり、フランス王ルイ14世と結んだチャールズ2世がルイの侵略戦争を支援する形となります
ルイは1672年にオランダ侵略戦争を開始し、オランダは沿岸部を残して征服されるという危機に直面しました
しかしオランダ独立戦争で主導的役割を担ったオラニエ家、そのオランダ侵略戦争当時の当主であるウィレムが連邦最高司令官に就任すると、粘り強く防衛戦を展開、ついにはフランスを撃退することに成功します

オランダはその後復興するものの、ルイは再び侵略戦争を開始、ファルツ継承戦争が勃発します
大同盟戦争とも呼ばれるこの戦争はフランスに対し周辺諸国が同盟を結んで対抗した戦争で、フランスの脅威に直面するオランダはその先頭に立っていました
ここでオラニエ公ウィレムは一計を案じます
ルイがドイツ方面に進軍している間に、イングランドに侵攻しフランスとの分断を図ったのです
イングランドでは>>193で見たようにチャールズ2世と議会が対立し、侵攻する好機でもありました
1688年11月、ウィレムは大艦隊を編成しイングランドへと出撃、イングランド王ジェームズ2世は軍にも見放され防戦すらできず、追放されてしまいます
そして1689年2月13日、ウィレムは議会を押し切って妻のメアリとともに国王に即位、これに伴い反フランスに転じたイングランドはアウクスブルク同盟に参加し、フランスのルイ14世と戦うことになるのでした
ウィレムがイングランドに侵攻し、無血で体制を変えたこの事件は、イングランドでは名誉革命と呼ばれています


本日はイングランド王ウィリアム3世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

488Republica de Venexia:2015/02/14(土) 00:41:49 ID:???
2月14日はルートヴィヒドイツ人王とシャルル禿頭王が同盟を結んだ日です

西ローマ皇帝シャルルマーニュの死後、後継者となったルートヴィヒ敬虔帝は817年、帝国整序令を発布します
これは敬虔帝の長男ロタール1世を共同皇帝、そして帝国の相続人とし、次男のピピン1世と三男ルートヴィヒ2世を分国の国王とし、2人は皇帝の権威に従うものとする、という内容でした
しかしこのうちピピンが急死し、4男にも分国を与えようとするとロタールらは反発し、領土を巡る争いが勃発しました
そして840年に敬虔帝が急死し、単独皇帝となったロタールがイタリアから北上し、これに反発したルートヴィヒとシャルルとの間でフォントノワの戦いが行われたのは>>187で見た通りです

この戦いに勝利したルートヴィヒとシャルルはロタールをさらに追い詰めるため、お互いにロタールと独断で交渉はせず、協力してロタールに対抗するという誓約をストラスブールにて取り交わしました
その後ルートヴィヒとシャルルはロタールを廃位させ、帝国を2人で分割しようとしましたが有力貴族たちがこれに反対し、平和的な手段での解決が模索されました
そして843年にヴェルダン条約が結ばれ、帝国はロタールの中部フランク王国、ルートヴィヒの東フランク王国、シャルルの西フランク王国に分割されるのでした


本日はストラスブールの誓約の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

489Republica de Venexia:2015/02/15(日) 01:01:06 ID:???
2月15日はフベルトゥスブルク条約が締結された日です

>>323の神聖ローマ皇帝位継承問題をきっかけに勃発したオーストリア継承は、>>319で見たようにオーストリアが帝位を確保したものの、大工業地帯であるシュレジエンをプロイセンに奪われることとなりました
この後オーストリアは改革を進め、常備軍の設置、議会権限の縮小、中央政府の支配域拡大などが図られます
とりわけ大きな改革となったのは外交面で、なんとフランスと同盟を結びます
>>298>>280で見たように、フランソワ1世やルイ14世らがオスマン帝国と同盟を結ぶほどハプスブルク家に対抗心を燃やしていたフランスが、オーストリアと同盟を結んだのです
1756年のこの同盟は外交革命と呼ばれます

すでに1750年にロシアとも同盟を結んでいたオーストリアはプロイセン包囲を進めていきます
これに対しプロイセンのフリードリヒ2世が先制攻撃を仕掛けて七年戦争が始まり、プロイセンは>>341のロスバッハの戦い、>>374のロイテンの戦いに勝利し緒戦は優勢に進めました
しかしプロイセンはオーストリア・フランス・ロシアの大同盟にスウェーデン、ドイツ帝国諸侯も敵に回して劣勢となり、1759年にはクーネルスドルフの戦いに敗れ、1760年には首都ベルリンが占領されます

しかしこの好機に同盟軍の足並みは揃わず、この間にプロイセンは態勢を挽回するというブランデンブルクの奇蹟が起こります
さらに1762年にはフリードリヒを崇拝するピョートル3世がロシア皇帝となり、同盟を離脱してしまいます
またフランスも激化していたイギリスとの植民地戦争、北米でのフレンチ=インディアン戦争やインドでのプラッシーの戦いの方に注力し、プロイセンへの圧力が弱まりました
プロイセンがプルカースドルフの戦いでオーストリアを破るとドイツ帝国諸侯も手を引き、スウェーデンもプロイセンと講和します
こうして単独で戦うこととなったオーストリアも戦費が嵩んで戦争続行が不可能となり、同じく限界に達していたプロイセンと和平交渉が進められました
そして1763年2月15日、フベルトゥスブルク条約が締結されて戦争は終結、プロイセンのシュレジエン領有が確定されたのでした


本日は七年戦争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

490Republica de Venexia:2015/02/16(月) 00:01:33 ID:???
2月16日はフリードリヒ=ヴィルヘルムが産まれた日です

1620年2月16日、フリードリヒ=ヴィルヘルムはブランデンブルク選帝侯ゲオルク=ヴィルヘルムの嫡男として産まれました
その当時ドイツは三十年戦争の真っ只中であり、特に主戦場となった北ドイツに位置するブランデンブルクは人口の半分が失われたともされるほど、大きな被害を受けていました
そのためフリードリヒはドイツを逃れ、オランダへと留学することとなります
1640年、フリードリヒは父の死去により選帝侯位を相続者し、戦争からの中立を宣言しました
ウェストファリアの条約交渉においてはポンメルンの継承権確保に努めましたが、バルト帝国建設を目指し同じくポンメルンを狙っていたスウェーデンと利害が衝突することとなります
結局、戦争勝利の立役者であるスウェーデンの主張が優先され、バルト海の良港シュテッティンを含む西ポンメルンをスウェーデンが獲得し、ブランデンブルクは資源に乏しい東ポンメルンを領有するに留まりました

このためブランデンブルクではスウェーデンに対抗するために軍事力強化が進められ、その過程で君主権力の強化も行われたのは>>433で見た通りです
またブランデンブルクではこれらの改革が比較的順調に進みましたが、プロイセン公国においては難航します
というのも、プロイセンはポーランドの宗主権下にあり、プロイセン貴族はポーランド王を後見として事実上の自治を行っていたからでした

フリードリヒはプロイセンを治めるため、スウェーデンのポーランド侵攻によって始まった北方戦争に介入します
最初はスウェーデン側についてポーランドと対峙し、スウェーデンが不利となるやポーランドを支援するなど巧みに動き、戦後プロイセンに対する宗主権を獲得するのです
またフリードリヒはフランス王ルイ14世がフォンテーヌブロー勅令によって追放したユグノーを積極的に受け入れ、プロイセン産業を発展させることにも成功します
このようにフリードリヒによって強大化された国家は、やがてドイツ帝国へと至り、近代ドイツ形成の礎となるのでした


本日は「大選帝侯」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

491名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/16(月) 23:42:57 ID:XA7lITvs
中世ポーランドの高度な民主制はすごいですね
強力な王権がないから周りの王国から分割されるというのは、政治制度の良し悪しと言うのを端的に語る良い例ですかね…

492Republica de Venexia:2015/02/16(月) 23:50:40 ID:???
16世紀にすでに民主制の基礎が形成されていたのは凄いですよね
中世を通じてヨーロッパの強国であり続けましたし...だからこそ余計にポーランド分割が悲しく思えてきてしまいます

493Republica de Venexia:2015/02/17(火) 00:02:52 ID:???
2月17日はトラックを米機動部隊が空襲した日です

トラックは直径30海里の一大環礁で、環礁は水深も深く大艦隊を収容することが可能で、また島々には航空施設や補給施設も設けられており、中部南西太平洋方面の航空作戦や艦隊作戦の重要基地となる、聯合艦隊の一大根拠地でした
そのためアメリカはマーシャル諸島を制圧した後、このトラックを攻撃目標としたのです

1944年始の段階では、トラックには聯合艦隊旗艦「武蔵」をはじめ多数の艦艇が停泊していましたが、い号作戦、ろ号作戦を経て聯合艦隊の航空戦力は壊滅的な打撃を受けており、襲来する米機動部隊を迎撃するのは困難と判断、主力艦隊の撤退が命じられました
1月31日には戦艦「長門」「扶桑」重巡「熊野」「鈴谷」「利根」駆逐艦「浦風」「磯風」「秋月」がリンガ泊地へと出港、2月10日には古賀峯一聯合艦隊司令長官座乗の戦艦「武蔵」、軽巡「大淀」駆逐艦「白露」「満潮」が横須賀へ向かい、重巡「愛宕」「鳥海」「妙高」「羽黒」がパラオ方面へと退避しました

一方アメリカはスプルーアンス中将直率の第50任務部隊第2群とミッチャー中将率いる第58任務部隊第3群を派遣し、空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」戦艦「ニュージャージー」「アイオワ」をはじめ大型空母5隻、小型空母4隻、戦艦6隻、重巡5隻、軽巡5隻、駆逐艦28隻の大部隊をもってトラックへと進撃しつつありました

そして1944年2月17日早朝、トラック空襲部隊が発進し、トラックへと次々と襲来します
トラックに残存していた日本側の戦力は軽巡「那珂」他少数の駆逐艦と多数の輸送船、そして航空隊でした
米艦載機に対し航空隊が迎撃しますが、戦闘可能だったのはわずか40機のみで、圧倒的な米軍機の前に次々と撃墜されていきます
このため米軍はトラックの施設、艦艇に思うまま攻撃を行い、航空施設、補給施設は甚大な被害を受け、糧食2,000トン、燃料17,000トンが失われました
艦艇では軽巡「那珂」練習巡洋艦「香取」駆逐艦「舞風」など11隻が沈没し、水上機母艦「秋津洲」工作艦「明石」駆逐艦「時雨」など11隻が損傷します
さらに輸送船も30隻193,500トンが撃沈されるという深刻な被害を受けたのです

このように聯合艦隊の一大根拠地であったトラックは壊滅したことで日本の防衛線は大きく後退し、多数の輸送船を失ったことで以後の作戦遂行にも重大な支障が生じるという大敗北を喫したのでした


本日は聯合艦隊根拠地トラックの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦3 決戦篇』講談社、1988年
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争6 ソロモン/ニューギニア作戦II マーシャル/ギルバート作戦』光人社、1995年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年

494Republica de Venexia:2015/02/18(水) 00:01:53 ID:???
2月18日はフリードリヒ2世とアル=カーミルが休戦協定を結んだ日です

>>266で見たように、アイユーブ朝は内部分裂によって苦しんでおり、聖地の十字軍勢力や西欧との和平を図っていました
その頃のフリードリヒ2世はというと、1215年に戴冠式を挙行し、十字軍への参加も表明していました
また1222年にはイェルサレム王ジャン=ド=ブリエンヌが西欧に来訪し、その娘イサベルの夫にフリードリヒを選び1225年に両者は結婚します
ここでフリードリヒはイェルサレム王を称し、聖地遠征への準備を整えます

同年、フリードリヒはローマ教皇ホノリウス3世とサン=ジェルマノ協定を結び、2年後の1227年に十字軍を行うことを誓約しましたが、悪いことに疫病が流行してフリードリヒも感染し、中止となってしまいます
これに対し、ホノリウスの後を継いだ教皇グレゴリウス9世は十字軍中止を誓約違反とし、フリードリヒを破門しました
こうしてフリードリヒは1228年6月、破門のまま十字軍遠征に出立することになります

しかし出立が1年延期となったことで前年に派遣した先遣隊の多くは帰還しており、また破門の身であったことでフリードリヒは十分な支援を受けることができませんでした
また教皇との対立も続いており、長期間帝国を留守にできないという事情もありました
一方のアル=カーミルも内紛を抱えており、十字軍との本格的な戦闘は避けたい状況だったのです
この2人はかねてより書簡のやり取りによって親交があり、お互いの利害が一致したことで休戦交渉が進められることとなりました
そして1229年2月18日、ヤッファにて休戦協定が結ばれ、イェルサレムはフリードリヒの統治下、そして岩のドームやアクサー・モスクを含むハラム=アッシャリーフ地区はイスラームの管理下に置かれることが取り決められます
こうして一時的ながら、イェルサレムがキリスト教徒の手に戻ることとなったのでした


本日はヤッファ協定の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

495Republica de Venexia:2015/02/19(木) 00:01:26 ID:???
2月19日はウェストミンスター条約が締結された日です

>>487で見たように、イングランドはクロムウェル指導の下航海法の発布によってオランダに対抗し、断続的に英蘭戦争が行われました
その第二次戦争がイングランドの劣勢で終わりかけていた頃、フランスではルイ14世が対外侵略戦争を開始し、ネーデルラント継承戦争が勃発します
スペイン領南ネーデルラント継承を巡って争われたこの戦争はオランダがフランスに対抗したため、ルイは成果をあげることができませんでした

ここでオランダに煮え湯を飲まされたイングランドとフランスが手を結ぶこととなります
イングランド王チャールズ2世はピューリタン革命の際にフランスへと亡命しており、同じカトリックということもあって親交がありました
1670年、ドーヴァーの密約が結ばれ、イングランドとフランスは同盟を結びます
ルイはスウェーデンとも同盟を結んでオランダの孤立化を図り、戦争準備を整えました

そして1672年、フランスはオランダ侵略戦争を開始、それに呼応してイングランドもオランダに宣戦布告し、第三次英蘭戦争となります
>>487で見たようにオランダはフランスの侵攻に苦戦しますが、イングランドに対しては海戦で連戦連勝、チャールズは議会の反発を抑えるためオランダと講和を結ぶことになります
1674年2月19日、ウェストミンスター条約が結ばれ両国は講和し、オランダはフランスへの対抗に専念できるようになりました
総督オラニエ公ウィレムはフランスを撃退し、その後イングランドの混乱をついてイングランド王に即位、事態を好転させることに成功するのでした


本日は第三次英蘭戦争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

496Republica de Venexia:2015/02/20(金) 00:16:17 ID:???
2月20日は伊東マンショらがヨーロッパへ出発した日です

>>334で見たようにルターによって拡大された宗教改革ですが、これに対しローマ教会はカトリック改革をさらに発展させて対抗します
その中心となったのがイエズス会で、日本にもフランシスコ=ザビエル、ルイス=フロイスら宣教師が派遣されカトリック布教を進めました
なかでもアレッサンドロ=ヴァリニャーノは日本文化の理解によって宣教師を日本社会に適応させるという手段をとり、また日本人司祭の教育を進めるため各地にセミナリオ、コレジオ、ノビシャドを設立しました

これらの努力により日本におけるカトリック布教はさらなる進展が見られ、ヴァリニャーノはその成果をヨーロッパに伝え、また日本人にヨーロッパのキリスト教文化を直に体験させるため、使節の派遣を計画します
この使節にはセミナリオで学ぶ少年から選ばれ、キリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信、大村純忠と縁がある伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人が使節として派遣されることとなりました
そして1582年2月20日、4人の使節、その他随行員らが長崎を出港し、ヨーロッパの各地を巡ることとなるのでした


本日は天正遣欧少年使節の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・松田毅一『天正遣欧使節』講談社、1991年
・岡部牧夫『海を渡った日本人』山川出版社、2002年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年

497Republica de Venexia:2015/02/21(土) 00:49:37 ID:???
2月21日はミハイル=ロマノフが即位した日です

ロシアでは>>375でも登場したバトゥが建国したキプチャク=ハン国の下、「タタールのくびき」と称される受難の時代が続いていました
これから脱却したのが15世紀、モスクワ大公イヴァン3世の時代で、彼は
>>478のコンスタンティノス=パレオロゴスの姪であるソフィアと結婚したことでローマ帝国の後継者であると自称し、モスクワを第3のローマ、自身をツァーリと称しました
これをさらに発展させたのがイヴァン4世雷帝で、彼はツァーリを公式な称号とし専制政治を展開、王権の強化に努めました

1584年にイヴァン4世が死去し恐怖政治が終結すると息子のフョードル1世がツァーリとなりますが、彼は病弱であったため新興貴族のボリス=ゴドゥノフが実権を握ります
ゴドゥノフは1598年にツァーリに選出されますが、1601年に始まった未曾有の大飢饉に見舞われ、ロシアは混乱の時代となりました
また先帝フョードルの弟であり、ツァーリの正当な後継者であるドミトリーを僭称する「偽ドミトリー」がポーランドの支持を得てモスクワに侵攻してくるという事態となります
ゴドゥノフはこの大混乱の最中に急死しその息子も殺害され、偽ドミトリーが即位することとなりました

しかし偽ドミトリーとポーランド人による政権はモスクワの人々の支持を得られず、わずか1年で瓦解してしまいます
続いてツァーリとなったヴァシーリー=シュイスキーも不人気で大反乱が勃発し、これが鎮圧された後にはまたもポーランドから偽ドミトリー2世が出現するなど、ツァーリが度々交代する「動乱時代」が続きました
この動乱は1612年10月にようやく収められ、モスクワが奪還されました
そして1613年2月21日、全国会議によってリューリク朝に近い血筋であるロマノフ家のミハイル=ロマノフがツァーリに選出され、以後300年以上続くロマノフ朝が成立したのでした


本日はロマノフ朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

498Republica de Venexia:2015/02/22(日) 01:01:54 ID:???
2月22日はロバート2世がスコットランド王に即位した日です

>>279で見たように、スコットランドでは13〜14世紀にかけて独立戦争が展開されました
ウォレスの死後も「ジョン王のスコットランドの守護官」を継承したロバート1世が独立戦争を継続し、1314年のバノックバーンの戦いでイングランドに大勝し、スコットランドの大部分を奪還します
1320年にはアーブロース宣言を発して独立を宣言し、これがローマ教皇にも認められたのです

しかしロバート1世が死去した後わずか5歳のデイヴィッド2世が王位を継承すると、イングランド王エドワード3世の支援を受けたエドワード=ベイリアルがスコットランドへと侵攻、デイヴィッドは追放されベイリアルがスコットランド王となりました
ベイリアルはスコットランド南部をイングランドに割譲しここを支配地としましたが、スコットランドの人々はこれを認めなかったため国内は分裂し、デイヴィッドがフランスに逃れていたため、ロバート=スチュアートが摂政としてスコットランドを統治することとなります

やがて英仏百年戦争が勃発すると、フランスはイングランドを北から攻撃させるため、デイヴィッドをスコットランドに帰させます
しかし1346年のネヴィルズ・クロスの戦いに敗れたデイヴィッドはイングランドに捉えられてしまいます
1357年にデイヴィッドは身代金支払いを条件として解放されますが、その額はスコットランドにとって莫大なものであり、デイヴィッドはスコットランド王位をエドワード3世に譲るという密約を結びました
これに対しスコットランド議会が反発、密約を拒否し、デイヴィッドの死後摂政のロバート=スチュアートを国王に選出することを決定します
そして1371年2月22日、ロバート=スチュアートはロバート2世としてスコットランド王に即位、スチュアート朝が創始され>>226のイングランド・スチュアート朝の成立へと至るのでした


本日はスコットランド・スチュアート朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ナイジェル・トランター、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』岩波書店、2004年

499名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/22(日) 23:07:45 ID:etdlLp1.
そういや去年のスコットランド人は本気で独立国家でやっていけると思ったんですかね…
もし独立して最近の石油価格暴落受けたらいきなり暗雲立ち込めたと思いますがそれは

500Republica de Venexia:2015/02/22(日) 23:23:09 ID:???
イングランドへの対抗意識は凄いですもんね、ある程度はポーズという部分はあったのかも?スコットランドはいざとなったらここまでするぞ、って
今年には自治権拡大法案が成立する予定なんでしたっけ、今後のスコットランドや他地域の独立運動がどうなるか気になります...

501Republica de Venexia:2015/02/23(月) 00:02:21 ID:???
2月23日はアンボイナ事件が起こった日です

>>124で見たオランダ独立戦争を経てスペインから独立したオランダは、17世紀前半には海上交易で繁栄しヨーロッパ市場と対外交易を支配する存在までに成長しました
またアジア進出にも積極的に乗り出し、1602年には世界初の株式会社とされるオランダ東インド会社を設立しました
オランダ東インド会社はインドネシアのバタヴィアを拠点にまたたく間にアジア地域での交易活動を拡大し、ポルトガルやスペインなど他のヨーロッパ勢力を圧倒するようになります

これに対抗したのがイギリスでした
オランダと同じく商業国家としての発展を目指していたイギリスは東南アジアへも進出し、オランダと抗争を繰り広げます
その舞台となったのが香辛料の産出地として重要なモルッカ諸島で、武力衝突が繰り返されることになります
そして1623年2月23日、モルッカ諸島のアンボイナ島にてイギリス商館員が捕らえられるというアンボイナ事件が起こりました
商館員は拷問によりイギリスがオランダの砦を攻撃しようとしていることを自白させられ、後に処刑されてしまいます
この事件を機にイギリスはインドネシアから撤退してインド経営に専念し、オランダはモルッカ諸島、そして東南アジアでの支配権を確立するのでした


本日はイギリス香辛料貿易の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

502Republica de Venexia:2015/02/24(火) 00:07:26 ID:???
2月24日はマクシミリアン1世の孫シャルルが産まれた日です

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代、ハプスブルク家は「戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と表現される婚姻政策を展開します
まず彼自身が>>414で登場したブルゴーニュ公シャルルの娘であるマリーと結婚しました
このシャルル突進公はブルゴーニュ戦争において戦死し、ネーデルラントをマリーが相続した後、彼女の急死によって同地はマクシミリアンのものとなります
ここに旧ブルゴーニュ公領を巡るフランスとの争いが勃発し、イタリアにおける権益争いも含め、ハプスブルク家とフランスとの対立がますます深まることとなりました

このような状況で、同じくイタリアにおいてフランスに対抗するスペインがハプスブルク家に縁談を持ちかけてきます
マクシミリアンとマリーの間は一男一女を設けましたが、これに対しスペインは二重結婚を提案し、マクシミリアンはこれを承諾しました
ここにマクシミリアンの長男フィリップ美公とスペイン王女フアナ、マクシミリアンの長女マルガレーテとスペイン王子フアンが結婚し、相互相続契約が結ばれたのです

このうちフィリップとフアナとの間で1500年2月24日に産まれたのが、ブルゴーニュ公シャルルの名にちなんで命名されたシャルルでした
やがてスペインではカスティーリャ女王イサベルが死去し、その唯一の直系であるフアナの夫であるフィリップ美公がスペイン王フェリペ1世として即位します
ところがこのフェリペが急死し、シャルルがカルロス1世としてスペイン王位に就くことになるのです
シャルルはこの他にも広大なハプスブルク家領、そしてその婚姻関係にある領土を継承し、ヨーロッパの広大な範囲に影響を及ぼすこととなるのでした


本日は後の「カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年

503Republica de Venexia:2015/02/25(水) 00:01:46 ID:???
2月25日はヴァレンシュタインが暗殺された日です

1618年、ボヘミアでの宗教反乱をきっかけに始まった三十年戦争ですが、この戦争では様々な傭兵隊長が活躍しました
ボヘミア出身のヴァレンシュタインもその一人で、>>345で見た白山の戦いを含むボヘミア反乱の際には神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に傭兵を提供し、反乱鎮圧に貢献しました
その後も皇帝に資金や傭兵の提供を続け、1623年には北ボヘミアのフリースラント侯に任じられます

ヴァレンシュタイン軍に特徴的だったのが軍税の有効活用で、彼は占領地に軍税をかけ、徴収した税金をその場で兵士に分配しました
つまりヴァレンシュタインの下に集まった傭兵たちはヴァレンシュタインに直接雇われていることとなり、その効果的な軍税制度活用もあって、ヴァレンシュタインの私兵となった大軍勢が編成されたのです
ヴァレンシュタインはこの大軍勢を背景に1625年、皇帝軍総司令官となり、デンマーク王クリスティアン4世を撃退します

これを機に、フェルディナントは回復令を発布します
皇帝権の絶対化を目指したこの法令に帝国諸侯は反発しましたが、フェルディナントはヴァレンシュタインの大軍勢をちらつかせ、法令の強行を図ります
諸侯はここでヴァレンシュタイン罷免を要求し、認められなければ嫡男フェルディナントのローマ王選出を拒否すると決議します
ヴァレンシュタインが皇帝の意向を無視して専横を進めていたこともあって、フェルディナントは1630年、ヴァレンシュタイン罷免を決定しました

ヴァレンシュタインが復帰したのは>>285>>68で見たブライテンフェルトの戦い、レヒ川の戦いで皇帝軍が敗北した後でした
スウェーデン軍に押された皇帝はヴァレンシュタインを復帰させ、スウェーデン王グスタフ=アドルフに対抗します
>>353のリュッツェンの戦いで皇帝軍は敗れたもののグスタフ=アドルフが戦死し、スウェーデンの攻勢は一時中断しました
しかしヴァレンシュタインはかつてのように強大な権力を得ることができませんでした
というのも、彼自身が確立した軍税制度を皇帝も活用し、皇帝直属の大軍勢が組織され、ヴァレンシュタインはその一指揮官に過ぎなかったからです
またヴァレンシュタインはスウェーデンやフランスと秘密裏に交渉を行っていたことが露見し、また皇帝最大の脅威であったグスタフ=アドルフが戦死したこともあって、獅子身中の虫になりかねないヴァレンシュタインを抱える意義がなくなり、1634年2月25日、ヴァレンシュタインはあえなく暗殺されたのでした


本日は最大の傭兵隊長の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

504Republica de Venexia:2015/02/26(木) 00:04:00 ID:???
2月26日はベネヴェントの戦いが行われた日です

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死後、帝国とシチリア王国はコンラート4世が継承しました
コンラートはまだ若かったため、その支配が確立するまでマンフレーディが全イタリアの行政長官に任命されました
やがてコンラートが1254年に急死するとマンフレーディは南イタリアでの勢力を確立させ、中部イタリアもその支配下に収めます
1258年にはシチリア王に即位し、1260年には娘コンスタンツァをアラゴン王国のペドロと結婚させ、これがシチリアの晩鐘後シチリアをアラゴン王国が支配する布石となりました

マンフレーディがイタリアで勢力を伸ばし、教皇権に対抗する動きを見せたことで、教皇はシチリア王国の統治を自身の支持者にさせるため、1263年、フランス王ルイ9世聖王の弟シャルル=ダンジューを授封します
この動きをみたマンフレーディは中部イタリアの支配権を強化し、教皇領の包囲にかかりました
一方シャルル=ダンジューは1265年にローマに入城し、教皇とローマ市民に歓喜をもって迎えられます

マンフレーディはローマを攻撃しますがこれは失敗に終わり、一時撤退を余儀なくされます
シャルル=ダンジューもマンフレーディを追撃すほどの軍勢は持っておらず、本国から援軍を呼び寄せました
この援軍が1266年1月にローマに到着し、シャルル=ダンジューは全兵力を率いてすぐさまローマを出撃、マンフレーディの王国攻撃に向かいました
春を待たないこの迅速な進撃にマンフレーディは裏をかかれ、カプア要塞を出てシャルル=ダンジュー軍を追撃します
そして1266年2月26日、ベネヴェントの地にて両軍は激突し、決着を焦ったマンフレーディはシャルル=ダンジューに敗れ、戦死してしまいます
この戦いによってホーエンシュタウフェン朝の支配は崩壊し、代わってシャルル=ダンジューがシチリア王国を統治することとなったのでした


本日はホーエンシュタウフェン朝シチリア王国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩�偃 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年

505Republica de Venexia:2015/02/27(金) 00:22:04 ID:???
2月27日は碧蹄館の戦いが行われた日です

1592年に豊臣秀吉によって始まった朝鮮出兵は、当初日本軍が快進撃を見せていたものの、明の参戦により劣勢を余儀なくされます
1593年2月、李如松率いる明軍が日本軍の小西行長、宗義智らが拠っていた平壌城を陥としたのです
これに対し宇喜多秀家は平壌と漢城との間に展開していた諸将を招集し、緊急の軍議を開きました

軍議の結果、日本軍は立花宗茂を先鋒として迎撃することを決し、宗茂は先備に小野鎮幸、立花三左衛門、中備に十時伝右衛門、内田忠兵衛、本陣に宗茂、高橋統増という陣立で碧蹄館へと進出しました
そして1593年2月27日早朝、立花勢は明軍の先鋒に突撃、これを蹴散らし追撃します
しかし連合軍も態勢を立て直し逆襲、十時伝右衛門が討ち取られましたが宗茂の本隊が突入し連合軍を撃退、立花勢は小丸山に移り一時戦場から離脱します

やがて日本軍は小早川隆景、毛利元康・秀包、宇喜多秀家らが進出し、明軍と激突します
日本軍は明軍の勢いに押されますが、宗茂は頃合いを見て明軍を奇襲、大混乱に陥った明軍は退却し、昼頃には日本軍の勝利で大勢は決したのです
この敗戦によって明軍の勢いは衰え、日本との交渉に応じる姿勢を見せるようになったのでした


本日は文禄の役における明に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
・「歴史街道2009年9月号 立花宗茂」PHP研究所、2009年

506Republica de Venexia:2015/02/28(土) 01:24:25 ID:???
2月28日は劉邦が皇帝に即位した日です

前8世紀、周が犬戎の攻撃や王室の内紛によって都を東方に移した後は王権が衰え、中華世界は名目的な周王の下で各国が分裂して相争う春秋・戦国時代となりました
この戦国時代には鉄製農具の普及によって耕地開発が行われ、手工業や交易も発達します
その結果、世襲的な身分制度や氏族単位のまとまりが崩れ、家族単位で農耕を営む小農民が国家の基盤となったのです
また個人の能力が重視されるようになり、諸子百家が出現しました

このような変革が進むなかで前3世紀末に中国を統一したのが秦で、始皇帝によって中央集権化が進められます
しかし急速な改革は反発を招き、陳勝・呉広の乱をはじめとする農民反乱が広がりました
これを機に勢力を拡大したのが項羽と劉邦で、項羽は楚王、劉邦は漢王となって対立します
この楚漢抗争は垓下の戦いにおいて劉邦の勝利で決着し、前202年2月28日、劉邦は皇帝に即位しました
これによって成立した漢は一時中断はあったものの約400年間存続し、その間に官僚制・法制の整備によって中央集権化が進められ、天命思想や易姓革命、中華思想が形成され、また中華思想に基づく朝貢・冊封体制が確立するなど、中華帝国の基礎が築かれていくのでした


本日は漢の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)』講談社、2004年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年

507Republica de Venexia:2015/03/01(日) 00:07:02 ID:???
3月1日はディオクレティアヌスがガレリウス、コンスタンティウスを副帝に任じた日です

ローマ帝国の最盛期とされる五賢帝時代の最後、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの死後、その息子コンモドゥスは暴政を行い帝国は乱れることとなります
コンモドゥスが暗殺された後は帝位争いによる内乱が勃発し、セプティミウス=セウェルスの即位によって事態は一時収拾されました

しかしセウェルス朝が断絶し、軍隊が擁立したマクシミヌスが即位して以降のいわゆる軍人皇帝時代では、26人の皇帝が乱立し自然死を迎えられたのがわずか4人という混迷の時代となりました
五賢帝時代に人類史上最も幸福な時代と称されたローマ帝国、三世紀の危機と呼ばれる時代に一変したのです

284年に即位したディオクレティアヌスは帝国の広大な領土を皇帝一人で統治することは困難であると判断し、286年、マクシミヌスを共同皇帝として帝国西方の統治を任せました
さらに293年3月1日、ディオクレティアヌスはガレリウスを帝国東方、コンスタンティウスを帝国西方の副帝に任じ、4人の皇帝で統治を分担することにより帝国を安定させることに成功したのでした


本日はテトラルキア(四分統治)の誕生日です、、おめでとうございます


参考文献
・クリス・スカー、青柳正規監、月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』創元社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

508Republica de Venexia:2015/03/02(月) 00:59:30 ID:???
3月2日はルイ5世が即位した日です

カロリング帝国がルートヴィヒ敬虔帝の死後、分割相続に基づいて3人の息子に相続され、そのために領土争いが勃発し843年のヴェルダン条約で分割が確定したことは>>488で見ました
このうち中部フランクのロタール2世が庶子だけを残して死去したため再び領土争いが起こり、870年のメルセン条約で中部フランクが分割され今日のドイツ・フランス・イタリアの原型が成立することとなります

フランスの元となった西フランクではシャルル禿頭王の死後、ルイ3世とカルロマン2世が相続しましたが2人とも急死し、ノルマン人の侵入もあって国内は混乱を極めました
ここで新国王となったのが東フランクのシャルル肥満王で、一時的に東西フランクが統一されることとなりましたがこの王もすぐに亡くなり、889年、カロリング家でないロベール家のパリ伯ウードが即位します

しかしウードは嫡子無く没し、王位は再びカロリング家のシャルル単純王のものとなりました
しかし単純王は失政を繰り返し、ウードの弟ロベールが単純王を追放し、再び王位はロベール家が保持することとなるのです
ところがこのロベールがソワソンの戦いで戦死し、その息子ラウルが嫡子を持てずに死去したため、またもカロリング家が王位に復帰します
936年に復活したこのカロリング朝はルイ4世、ロテールと続きますが、この間ロベール家も大ユーグのもと勢力を蓄えていきます
そして986年3月2日、カロリング家のルイ5世が即位した頃にはロベール家の勢力は王権を凌ぐほどに成長し、翌年ルイが急死したことで>>151で見たようにロベール家のユーグ=カペーが即位しカペー朝が成立するのでした


本日はカロリング家最後の王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年

509Republica de Venexia:2015/03/03(火) 01:37:34 ID:???
3月3日はムスタファ=ケマルがカリフ制を廃止した日です

イスラームではムハンマド死後の指導者としてカリフが選出され、アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと4代続く正統カリフ時代となりました
しかし>>311で見たようにイスラームはシーア派とスンナ派に分裂し、カリフはスンナ派のみが認める存在となりました
カリフを称しウマイヤ朝を開いたムアーウィヤは世襲カリフ制を採り、これはアッバース朝にも受け継がれます

アッバース朝は>>282で登場した第5代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎え、カリフの権力も絶頂にありましたが、>>482で見たように9世紀には衰退を始め後ウマイヤ朝、ファーティマ朝もカリフを称し、また大アミールやスルタンが事実上の指導者となるなどカリフの権威も衰退し、1258年にはモンゴルによって滅ぼされてしまいます

この際に亡命したカリフを迎えたのがエジプトのマムルーク朝で、>>269で見たマムルーク朝スルタン、バイバルスはカリフを擁立しマムルーク朝の権威を確立させました
このマムルーク朝も>>264で見たようにオスマン帝国スルタン、セリム1世によって滅ぼされ、この時点でカリフは滅亡することとなります
しかし時代は下って18世紀末、ロシアの南下に苦しむオスマン帝国は、帝国外のムスリムに対し影響力を残すため、スルタンはカリフでもあると主張するようになります
これはセリムがマムルーク朝を滅ぼした際に、アッバース家のカリフ位がセリムに禅譲されたものであるとするもので、スルタンがカリフの権威をも兼ねるということから、スルタン=カリフ制と称されます

しかしこのオスマン帝国も>>337で見たようにムスタファ=ケマルによって滅亡に追い込まれます
そして1924年3月3日、すでに廃止されていたスルタン制に続きカリフ制も廃止され、カリフの伝統は完全に途絶えることとなったのでした


本日はカリフの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

510名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/03/03(火) 23:20:09 ID:HkmeMXxc
二項対立ではないですが、かつて西洋と対する存在であったイスラム勢の息の根が完全に絶たれたという出来事ですね。

それより百年弱。
今のイスラム原理主義者はそのことから飛躍しすぎて、もとの出来事を思い返せないまでになってしまってはいませんか。

511Republica de Venexia:2015/03/03(火) 23:47:59 ID:???
この時期のオスマン帝国の衰勢はなんとも物悲しいですよね
ヨーロッパを恐怖に陥れて、ヴェネツィア共和国の最大の敵でもあったあの超大国が

そういえば今の自称イスラーム国もカリフを自称してるんでしたっけ
スンナ派法学者はアッバース朝滅亡時点でカリフは滅亡したとしていますが、未だに影響力は強いものなんですね

512Republica de Venexia:2015/03/04(水) 00:32:26 ID:???
3月4日はシュヴァーベン大公フリードリヒが皇帝に即位した日です

>>294で見たように神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は諸侯の反乱に悩まされ続けてきましたが、そのなかでハインリヒに味方し続けたのがホーエンシュタウフェン家でした
ハインリヒは対立王であったシュヴァーベン公ルドルフの死後、その領土を娘婿のフリードリヒに与えます
このフリードリヒには息子が2人おり、長男フリードリヒ独眼公がシュヴァーベン公を、次男コンラートがフランケン公を相続しました

やがて皇帝ハインリヒ4世が死去がし、皇帝となった息子ハインリヒ5世は嗣子に恵まれなかったため、ホーエンシュタウ
フェン家に帝位を譲ろうとします
しかし諸侯は強力なホーエンシュタウフェン家が帝位につくことに反発し、ザクセン公がロタールを皇帝に選出しました
このロタールの死後、その娘婿でヴェルフェン家のハインリヒ傲岸公が帝位につこうとしますが、傲岸公はバイエルン公のみならずロタールからザクセン公も相続していたため、その強権を恐れた諸侯は今度はホーエンシュタウフェン家のコンラートを皇帝に選出します

1138年、こうしてホーエンシュタウフェン朝が開かれましたが、傲岸公はこれに従わず、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の争いが勃発しました
ヴェルフェン家は教皇と結んで皇帝に対抗し、ここからウィーベリン(皇帝派)とヴェルフ(教皇派)の対立へと発展します
ヴェルフェン家は傲岸公が死去した後もハインリヒ獅子公がホーエンシュタウフェン家に対抗し、両家の対立は帝国を混乱に陥れるものとなりました

この両家の争いを鎮めるため、コンラートが皇帝に指名したのが、ホーエンシュタウフェン家出身であり、ヴェルフェン家の血もひくシュヴァーベン大公フリードリヒでした
1152年3月4日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世として即位した彼は、帝国の安定化に努めます
まずハインリヒ獅子公と和解し、帝国諸侯に一定の特権を認めて帝国秩序を整えました
また「神聖帝国」として教皇権に対抗してイタリア諸都市にも皇帝権を認めさせるなど、その治世で神聖ローマ帝国の威信は大いに高まったのです
フリードリヒ自身は第3回十字軍中に志半ばで急死しますが、その理念は>>395で見たように息子のハインリヒ6世のもとで「世界支配計画」「世襲帝国計画」として受け継がれていくのでした


本日は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

513名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/03/04(水) 10:58:18 ID:rU4K8Drw
あっ、おい待てい(江戸っ子)まだ肝心な誕生日祝い忘れてるゾ

514IW26一生ボンバーヘッドダイビングタバコの火を消すブルースリー:2015/03/04(水) 11:22:15 ID:???
日本で初めて馬券に絡んだ白毛馬、シラユキヒメのお誕生日です。
産駒のブチコはクラシック出走も狙える白毛馬なので応援しましょう。

515名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/03/04(水) 11:23:41 ID:rTpuMSrQ
世界史を振り返れるスレ

516名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/03/04(水) 20:29:49 ID:5UYRAoT.
今日はNaNじぇい(したらば掲示板)の誕生日です
おめでとうございます
もう一年経つんですね

517Republica de Venexia:2015/03/04(水) 22:03:12 ID:???
今日で一周年なんですね、早いような遅いような...感慨深いですね

518Republica de Venexia:2015/03/05(木) 00:32:53 ID:???
3月5日はチャーチルがミズーリ州で演説を行った日です

第二次世界大戦はアメリカとソ連の2超大国により、連合国優位で進められるようになりました
しかしヨーロッパにおける戦争が連合国側の勝利で終結する目処がたった頃から、アメリカとソ連との間で戦後国際秩序の再構築を巡って対立が生じるようになります

東欧諸国には大戦中ソ連によって解放された国が多く、ソ連は自国の安全保障確保のため、それらの国での親ソ政権の樹立を支援、東欧の大部分がソ連の勢力圏となります
フランス、イタリアでも共産党が勢力を拡大し、このような動きにアメリカは警戒心を抱いていました
そんな折、イギリスの元首相チャーチルがアメリカ大統領トルーマンに招かれてアメリカを訪問します
そして1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州ウェストミンスター大学にて演説を行い、その中でソ連はバルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンを降ろしたと批判したのです

この演説は米ソの対立表すものとして頻繁に用いられ、チャーチルが懸念した通り米ソの緊張状態はさらに高まっていきます
アメリカはヨーロッパの経済危機が共産主義勢力拡大が一因だとし、対ソ・対共産主義の封じ込め政策を開始しました
またアメリカを中心とする西側諸国は北大西洋条約機構を結成、これに対し東側諸国はワルシャワ条約機構を結成するなど東西両陣営の対立はますます激化し、冷戦と呼ばれる緊張状態に突入するのでした


本日は「鉄のカーテン」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・松戸清裕『世界史リブレット92 歴史のなかのソ連』山川出版社、2005年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
・猪木武徳・高橋進『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』中央公論新社、2010年

519名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/03/05(木) 13:18:28 ID:JTefUlFo
今日は大洋ホエールズの名ショート、山下大輔さんの誕生日です

520今の私は日本の高1で最強のつもりや:2015/03/05(木) 13:32:37 ID:???
このスレすごいっすね、勉強になります
本出せるレベル

521Republica de Venexia:2015/03/06(金) 01:26:04 ID:???
3月6日はアル=カーミルが死去した日です

アイユーブ朝は>>266で見たように英雄サラディンの死後分裂し、アル=アーディルとその息子アル=カーミルによって再統一が進められました
しかしカーミルの即位に反発する者も多く、特にカーミルの弟でダマスカスを支配していたアル=ムアッザムとの対立は頭を悩ませる問題でした
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が十字軍を起こしたのはこの時期にあたり、カーミルとしてはイェルサレムを支配するムアッザムを打倒するためにフリードリヒと協力したという側面もあります

>>494で見たように1229年2月18日、カーミルはフリードリヒにイェルサレムを譲渡するヤッファ協定を締結しましたが、その前年にムアッザムは死去し、ダマスカスはその息子のアル=ナーシルが後を継いでいました
ナーシルは父と同じくカーミルに抵抗し、聖地イェルサレム譲渡に反発する勢力の後押しもありましたが、十字軍勢力との休戦に成功し反乱鎮圧に集中できるようになったカーミルはナーシルを破ってダマスカスを手に入れ、アイユーブ朝の再統一に成功しました

カーミルはその後内政に力を入れ、特にエジプトでの灌漑事業が成功を収めるなど、国内の経済政策に多くの実績をあげ、エジプトは発展していくこととなります
しかし1238年3月6日、カーミルが死去すると情勢は再び不穏なものとなりました
アイユーブ朝の領土はカーミルの息子であるアル=サーリフとアル=アーディルによって分割され、両者はエジプト支配を巡って争いを始めたのです
またナーシルがこの隙をついて十字軍との休戦協定期間が過ぎた1239年11月にイェルサレムを奪いました
このようにアイユーブ朝は再び混乱の時代を迎え、その中でサーリフが戦力増強のために雇ったマムルークがやがてアイユーブ朝を乗っ取りマムルーク朝を開くこととなるのでした


本日はアイユーブ朝衰退の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

522Republica de Venexia:2015/03/07(土) 00:02:39 ID:???
3月7日はマルクス=アウレリウス=アントニヌスが皇帝に即位した日です

ローマ帝国は>>286のネルウァが皇帝となった後、>>281で見たようにトラヤヌスが最大版図を実現、ハドリアヌスによって帝国の安定化が図られました
ハドリアヌスには実子がおらず、ケイオニウス=コンモドゥスを養子としましたが、このケイオニウスが急死し、既に51歳となっていたtティトゥス=アウレリウス=アントニヌスが養子となりました
このアントニヌスにも実子がいなかったため、ハドリアヌスはケイオニウスの遺児ルキウス=ウェルス、そしてアントニヌスの妻の甥であるマルクス=アンニウス=ウェルスを養子とするよう命じました

こうしてハドリアヌスの次代、その次代の帝位継承を定めてハドリアヌスは死去し、アントニヌスが皇帝となります
アントニヌスはハドリアヌスの政策を継承して大幅な改革はせず、反乱や戦争も外交によって解決するなど、帝国は平和な時代を過ごすこととなったのです
アントニヌスはハドリアヌスと対立していた元老院を説き伏せてハドリアヌスをしています神として祭るために誠意を尽くし、「ピウス」の称号を贈られました

アントニヌス=ピウスは23年間の治世を平穏のうちに終え、次代をマルクスに託します
そして161年3月7日、五賢帝最後の皇帝となるマルクス=アウレリウス=アントニヌスが即位しました
マルクスは即位後すぐに同じくアントニヌスの養子となっていたルキウスに自分と同等の権限を与え、共同皇帝となったのです
こうして2人の治世が始まりましたが、この時代になると帝国周辺で不穏な動きが目立つようになります
北方ではゲルマン人が、東方ではパルティアとの戦いが展開され、マルクスが北方を、ルキウスが東方の防衛を担当しました
やがてルキウスが病没した後はマルクスが全ローマ軍を率い、帝国に侵入するゲルマン人との戦いに明け暮れることとなります
この戦いの陣中で書かれた自分自身との対話の記録が『自省録』で、ストア哲学の名著として知られています

マルクスは180年にゲルマン人との戦闘中の陣中で没し、帝国は>>507で見たような混迷の時代へと突入していくこととなるのでした


本日は「哲人皇帝」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

523名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/03/07(土) 22:08:36 ID:LuTlSZAY
高校の頃五賢帝暗記させられたけどテストにすら出ず無駄な労力だったのを思い出した

524Republica de Venexia:2015/03/07(土) 22:11:34 ID:???
暗記しましたねー、七選帝侯とかも
トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクスは問題にしやすそうだけど、ネルウァと特にアントニヌスは問題作るの難しそう

525名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/03/07(土) 22:16:42 ID:LuTlSZAY
七選帝候、必死で記憶をたどってるけど本気でもう一人も思い出せないゾ…(池沼)

526Republica de Venexia:2015/03/08(日) 00:14:46 ID:???
3月8日はペトログラード蜂起が起こった日です

>>191で始まった第一次世界大戦ですが、戦争はおおむねの予想に反して長期化することとなりました
また経済大恐慌も起こり、この非常事態を乗り切るため反対政党も加えて政府を支える挙国一致体制が取られる国もありました
全国民が軍需物資の生産に動員される戦時体制となり、植民地の住民も兵士や労働者として動員されるなど、大戦は国民のあらゆる力と技術を投入する総力戦となったのです

このような戦争の長期化と国力疲弊のなかで生活物資は不足するようになり、ロシアでは民衆の不満が高まっていきました
そして1917年3月8日(ロシア暦2月23日)、ロシアの首都ペトログラードで戦争の重圧に耐えかねた労働者の大規模なストライキが起こります
これをきっかけに、ロシアでは「戦争反対」「専制打倒」をスローガンにしたデモやストライキが全土に広がるようになり、これに運動鎮圧を拒否した兵士も合流して革命へと発展したのです

この革命のなかでロシア各地に労働者・兵士のソヴィエト(評議会)が結成され、その支持を得てブルジョワジーを中心とした臨時政府が組織されました
ロシア皇帝のニコライ2世は退位を余儀なくされ、ここに>>497以来約300年続いたロマノフ朝が滅亡することとなります
この段階では臨時政府とソヴィエトが並立する、いわゆる二重権力状態でしたが、やがて>>343で見たようにレーニンが登場し、ソビエト社会主義共和国連邦の建国へと至ることになるのでした


本日はロシア二月革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・ニコラ・ヴェルト、石井規衛監『ロシア革命』創元社、2004年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

527Republica de Venexia:2015/03/09(月) 00:13:17 ID:???
3月9日はストルボヴァの和約が結ばれた日です

>>497で見たロシアの動乱時代、偽ドミトリー1世に代わってツァーリとなったヴァシーリー=シュイスキーですが、ポーランドが支援する偽ドミトリー2世が出現し、苦境に立たされることとなりました
シュイスキーは偽ドミトリー2世に対抗するため、スウェーデンのカール9世に支援を求めます
カールはリヴォニアの割譲、ポーランドに対する共闘を条件にこれを承諾し、ロシアへの介入に成功したのです

しかしこのロシア・スウェーデン同盟に脅威を感じたポーランドはロシアへの直接介入を決定、ロシア=ポーランド戦争が勃発することとなります
ポーランドは1610年4月のクルシノの戦いでロシア・スウェーデン連合軍に勝利しシュイスキーは退位、偽ドミトリー2世がツァーリとなりました
この後ポーランドはロシアへの影響力をさらに強めるため、国王ジグムント3世の長男ヴワディスワフのツァーリ選出を画策します

もちろんこれには反発も多く、ロシアでは反ポーランド運動が高まります
またポーランドの影響力を排除するため、今度はスウェーデンがカール9世の息子カール=フィリップをイングリアにてツァーリに擁立しロシアに宣戦布告、イングリア戦争が勃発しました
こうしてロシアはスウェーデン・ポーランドの介入に遭い、動乱時代は頂点を迎えることになります

やがてモスクワではポーランドを追放してミハイル=ロマノフをツァーリに選出、ロマノフ朝が創始されます
1617年3月9日にはようやくスウェーデンとの講和が成立し、ストルボヴァの和約が結ばれました
スウェーデンはノヴゴロドとカール=フィリップのツァーリ位を放棄する代わりにイングリアを獲得しました
この当時スウェーデン国王はカール9世からグスタフ2世アドルフに代わっており、バルト海沿岸地域であるイングリア獲得は、後に彼が確立させることになるバルト帝国の第一歩となったのでした


本日はバルト帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

528Republica de Venexia:2015/03/10(火) 00:12:14 ID:???
3月10日はアエガステスの海戦が行われた日です

前3世紀後半、ローマはイタリアの大部分を支配するようになり、ギリシア都市救援に来たエペイロス王ピュロスも撃退し、前272年にはタレントゥムを攻略しイタリア半島の統一を達成します
軍事的天才として知られたピュロスに勝利したことでローマの軍事力は地中海世界に知れ渡ることとなりました
その頃、シチリア島ではシラクサがカルタゴ支配に抵抗していましたが、シラクサの傭兵となったマルメティニがメッサナを占領、これに対してシラクサの僭主ヒエロンがカルタゴと結んでマルメティニを攻撃、マルメティニはローマに救援を求めました

ローマ元老院には慎重派が多く民会に決定が委ねられましたが、ここでコンスルのアッピウス=クラウディウス=カウデクスが護民官に働きかけて開戦を主張、前264年、第一次ポエニ戦争が始まったのです
ローマには当初海軍は存在せず、前261年に初めて軍船が建造されるという有様でした
これでは伝統的な海軍国であるカルタゴには敵わないため、ローマはカラスと呼ばれる接舷タラップを考案します
先に鉤が取り付けられたこのカラスを敵船に打ち込んで自船と固定し、カラスを渡って敵船に乗り込むことで海上での白兵戦を可能としたのです

ローマはカラスを有効的に活用し、前260年にミュラエの海戦でカルタゴ海軍に勝利を収めました
しかしカルタゴもハンニバルの父ハミルカル=バルカが陸戦で反撃し、シチリアのほぼ全土を支配することに成功しました
しかし海戦ではローマが連戦連勝で、ドゥレパナの海戦を除く全ての海戦で勝利を収めたので
そして前241年3月10日、アエガステスの海戦に勝利したことでローマは制海権を完全に握り、補給の望みが絶たれたハミルカルも降伏を余儀なくされ、カルタゴの敗北で終わったのです
戦争に勝利したローマは1,200タラントの賠償金を得、シラクサを除く全シチリア都市を獲得、初めて海外領土を得ることとなったのでした


本日は第一次ポエニ戦争におけるローマ決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・松谷健二『カルタゴ興亡史 ─ ある国家の一生』中央公論新社、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

529Republica de Venexia:2015/03/11(水) 01:24:30 ID:???
3月11日はジョヴァンニ=デ=メディチが教皇に即位した日です

ジョヴァンニ=デ=メディチは、メディチ家によるフィレンツェ支配の絶頂期を現出したロレンツォ=デ=メディチの次男として産まれました
メディチ家は>>288で見た大シスマの際に対立教皇ヨハネス23世を擁立、続くマルティヌス5世を支援したこともあってローマ教皇庁との関係が深く、ジョヴァンニも枢機卿に就任することとなりました

やがてフィレンツェでは>>346で見たようにメディチ家が追放されますが、ジョヴァンニは教皇ユリウス2世とスペインの支援を得、フィレンツェに復帰することに成功します
そしてユリウス2世が死去した後の1513年3月11日、ジョヴァンニはレオ10世として教皇に即位したのです
当時の教皇庁はフランス・ヴァロワ家と神聖ローマ帝国・ハプスブルク家が抗争するイタリア戦争の最中にあり、フランス王フランソワ1世が侵攻してくるとレオはフランス王に聖職叙任権の一部を与えることで休戦に持ち込みます

なおレオ10世はルネサンスを保護したことでも知られ、ミケランジェロやラファエロを支援し、ローマにおけるルネサンス文化繁栄をもたらしました
この時期にはレオナルド=ダ=ヴィンチも活躍しており、先のレオ10世とフランソワ1世との会談にも招かれていました
ダ=ヴィンチはその後フランソワに招かれ、フランスにルネサンス文化をもたらすこととなります
またレオとフランソワは協力して神聖ローマ帝国に対抗し、>>429で見た神聖ローマ皇帝選挙の際にもフランソワの皇帝選出を支援しますが、皇帝にはカール5世が即位し失敗に終わりました

しかしレオはやがてカールとも協力関係を結びます
>>334で見たように、ドイツで贖宥状販売への反発をきっかけとする宗教改革が起こったからでした
ルネサンス文化を保護したレオでしたが、サン=ピエトロ大聖堂再建のためには莫大な費用がかかり、レオはこれを贖宥状販売によって賄っていたのです
このようにローマ教皇レオ10世はルネサンス文化の隆盛と宗教改革の発端、この時代のヨーロッパを大きく動かす出来事の真っ只中に位置する存在となったのでした


本日はメディチ家出身教皇の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

530Republica de Venexia:2015/03/12(木) 00:02:25 ID:???
3月12日は「友鶴」が転覆した日です

>>77のロンドン海軍軍縮条約では駆逐艦の保有にも制限が加えられ、排水量が1500トン以上の駆逐艦は補助艦艇全体の16%に制限されることとなりました
日本海軍ではこの保有枠は特型駆逐艦で使い切ってしまっていたため、1400トン以下で特型駆逐艦と同等の戦力を有する駆逐艦の建造に着手します

こうして建造された駆逐艦が初春型で、1400トンの船体に12.7cm砲6門、61cm魚雷発射管9射線を備える駆逐艦として誕生しました
また駆逐艦の保有枠を1400トン型に絞るため、1000トン型の駆逐艦を条約制限外の600トン型水雷艇に変更し、こちらも初春型と同じく小さい船体に重武装というコンセプトで建造されました
この水雷艇が「友鶴」の属する千鳥型となります

これらの船体に見合わない重武装な艦艇はもちろん設計に無理があり、重心の高いいわゆるトップヘビーな艦艇となりました
これを補うため初春型や千鳥型にはバルジが取り付けられ、復原性能の向上が図られます
しかし1934年3月12日、佐世保港外で夜間演習を行っていた「友鶴」が転覆するという事件が発生していまいます
原因は波浪で、「友鶴」は初期復原性は十分に持っていたものの動的復原性、特に復原性範囲角度、同最大復原性が極めて不足しており、波浪に耐え切れなかったのです

海軍では事件を受けて直ちに臨時艦艇調査委員会が設置され、その報告に基づき復原性能改善工事が進められます
初春型は前方の単装砲が後方に移され、巨大な艦橋は縮小されることになりました
後部魚雷発射管も次発装填装置とともに撤去され、他の魚雷発射管・煙突・缶室給気口・マスト・探照灯台も縮小あるいは低い位置に再装備するなどの低重心化が図られたのです

このように「友鶴」の転覆事故は艦艇設計に大きな見直しを迫り、翌年に発生する第四艦隊事件とともに、日本の艦艇設計の転機となったのでした


本日は友鶴事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・吉村昭『空白の戦記』新潮社、1981年
・福井静夫『福井静夫著作集5 日本駆逐艦物語』光人社、2008年
・雑誌「丸」編集部「丸8月別冊 日本の駆逐艦オール大百科」光人社、2014年

531Republica de Venexia:2015/03/13(金) 00:03:55 ID:???
3月13日はグスタフ4世アドルフが廃位された日です

>>471で見たように、スウェーデン王グスタフ4世アドルフは先王グスタフ3世の絶対王政を引き継ぎ、スウェーデンの国際的地位を保とうとしますが、ナポレオン戦争に巻き込まれその際反ナポレオン政策を貫いたため窮地に陥ることとなりました
特にロシアと対立することになったのは痛く、フィンランドを巡ってロシア=スウェーデン戦争が勃発しました

スウェーデンは>>327で見たように三十年戦争でバルト帝国を確立させヨーロッパの強国の地位についたものの、>>205の大北方戦争でロシアに敗れたことでバルト帝国は崩壊に向かい、>>254のグスタフ3世時代にその復権に尽力したものの、グスタフ4世が引き起こしたロシア=スウェーデン戦争の敗北によってフィンランドが奪われたことでバルト帝国復権の夢は完全に潰えることになったのでした

すでに農業・経済・財政等の危機に対して有効な対策を打ち出せず、外交政策も完全に裏目に出て国民の信望を失っていたグスタフ4世は、このロシア=スウェーデン戦争の敗北によってその威信失墜は決定的となりました
そして1809年3月13日、スウェーデンの軍人・貴族らはクーデターを起こしグスタフ4世は廃位されることになります
スウェーデンは立憲君主制に改められ、グスタフ4世の叔父カール13世が即位、そして>>471で見たようにベルナドッテ王朝の誕生へと至るのでした


本日はスウェーデン絶対王政の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

532Republica de Venexia:2015/03/14(土) 01:01:43 ID:???
3月14日は毛利元就が産まれた日です(旧暦)

毛利氏の系図は鎌倉時代、源頼朝の重臣大江広元まで遡ります
広元の4男季光が相模国毛利荘を与えられ、その地名から毛利の姓が誕生したのです
そして季光の子である経光が安芸国吉田荘の地頭となり、経光の子である時親の代に安芸国を本拠地としたのでした
それ以降毛利氏は吉田郡山城を拠城として勢力を拡大していきましたが、元就の父弘元の代では一国人領主にすぎなくなっていました
1497年3月14日、毛利元就が産まれた頃はこのような情勢でした

やがて弘元が没し、元就の兄にあたる興元が後を継ぎますが、興元は25歳で急死し、その子幸松丸も9歳で夭折したため、元就が家督を継承することとなりました
ここから元就による毛利氏の戦国大名化が始まります
当時、戦国大名になるには大きく3つの形がありました
1つめは守護大名がそのまま戦国大名になるパターン、2つめは守護代が下剋上により戦国大名となるパターン、そして3つめが国人一揆から戦国大名になるパターンで、元就はこの3つめの典型的な例でした

安芸国には守護大名武田氏がおり、その下にいる30ほどの国人領主による連合体によって支配されていました
この連合体が国人一揆で、元就はその国人の1人でしたが、元就は娘を国人の1人である宍戸隆家に嫁がせ、次男元春には国人の熊谷信直の娘を迎え、三男の隆景を国人の小早川家に、元春は国人の吉川家に養子として送り込み勢力を拡大、国人一揆の盟主としてのし上がったのです

その後も元就は武略・計略・調略を駆使して勢力を広げていき、1555年の厳島の戦いでは大内氏重臣陶晴賢を破り、大内氏の領土の大部分を征服します
>>358で見たように尼子氏をも滅ぼし、元就は一代にして毛利氏を中国地方の覇者にまでのし上げたのでした


本日は「謀神」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年

533Republica de Venexia:2015/03/15(日) 00:01:54 ID:???
3月15日はカエサルが暗殺された日です

>>423で見たように、カエサルは保守化した元老院に反発してポンペイウス、クラッススとともに第一回三頭政治を行いましたが、クラッスス死後にはポンペイウスとの対立が表面化することとなりました
ルビコン川を渡りローマに進軍したカエサルに対し、ポンペイウスは対抗しようとするもののローマにはカエサル支持派が多く、ポンペイウスはカエサルとの対立を避けて支持勢力の多いギリシアへと逃れます

こうして空白地帯となったローマにカエサルが入り、独裁体制の確立が図られました
前49年にディクタトルに就任し、前48年のコンスル選挙を主宰して当選、ポンペイウスとの対決の際には一時ディクタトルを辞しコンスルとして臨みました
そして>>244のファルサルスの戦いでポンペイウスを破り、しばらくエジプトに滞在した後の前47年にローマへと帰還します

カエサルは前46年のコンスル選挙で再びコンスルとなり、敵対勢力であったポンペイウス派や小カトーをアフリカで破り、その権限はますます強化されていきます
前45年には再びコンスルに就任するとともに10年間のディクタトルにもなり、前44年にはついに終身ディクタトルとなり、カエサルの独裁権は絶頂を迎えることとなりました

しかしこの急激な独裁化に対し元老院閥族派は危機感を覚え、ローマ市民もまた、カエサルがまるで君主であるかのように振る舞うことに冷淡な姿勢を見せるようになりました
そして前44年3月15日、カッシウスやブルートゥスらが決起し、カエサルは暗殺されることとなったのでした


本日は「ブルートゥス、お前もか!」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

534Republica de Venexia:2015/03/16(月) 00:52:32 ID:???
今日はヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄した日です

第一次世界大戦に敗れたドイツは戦争責任を問われ、屈辱的といえるヴェルサイユ条約を結ぶこととなりました
まずアフリカや中国、太平洋に持っていた植民地を全て放棄させられ、エルザス・ロートリンゲン地方をフランスに、オイペン=マルメディ地方をベルギー、ポンメルン地方をポーランドに割譲しました
これは開戦前の領土の13%、農業生産地の15%、工業地帯の20%、人口の10%の喪失となります
また賠償金として1320億金マルクを課せられ、徴兵制の禁止、陸軍10万人、海軍1万5千人の制限、戦車・潜水艦・航空母艦・航空機の開発・保有が禁止とされたのです

しかしドイツは当時世界的に孤立していたソ連と秘密協定を結び、ソ連領内にてドイツ軍人に戦車・潜水艦・航空機の技術を学ばせ、またドイツの息がかかった会社を設立し戦車・潜水艦・航空機の水面下での研究開発にあたったのです
その他艦艇においても条約で認められる範囲で水雷艇、軽巡洋艦、装甲艦などを建造し、巡洋戦艦や戦艦も極秘で研究開発が進められました

そして1935年、ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し再軍備を宣言した際には、それまで水面下で極秘裡に進められていた兵器が国内で大々的に建造されるようになり、周到に準備されていたこともあってドイツの軍備は急速に整備されていきます
1939年の時点ではすでにイギリス・フランスに対抗し得る戦力を備え、第二次世界大戦へと突き進むこととなるのでした


本日は「再軍備宣言」の誕生日です


参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

535Republica de Venexia:2015/03/17(火) 00:10:52 ID:???
3月17日はエドワード黒太子がコーンウォール公となった日です

13世紀以前、イギリス議会では軍事力や所領の大きさによって自然と諸侯とみなされた人々が議会貴族身分と呼ばれていました
しかし14世紀以降にはそれにとらわれず、個人宛令状によって議会に召集された諸侯が議会貴族身分とみなされるようになります
その先鞭をつけたのがイングランド王エドワード3世で、彼は自身の子どもたちを諸侯の子女と結婚させ、王族関係者とすることで家系づくりを進めたのです

その代表的な例が、>>287でも登場したエドワード黒太子へのコーンウォール公授与でした
1337年3月17日、エドワード3世は議会で6つの伯家を創設し、イングランド最初の公爵となるコーンウォール公に長男のエドワード黒太子を叙したのです
1385年には侯爵、87年には男爵、1440年には子爵が王によって授与されるようになり、議会貴族身分は国王権限によって作り出されるものという伝統が形成されることとなりますが、その最初の例をエドワード3世がつくったのでした

コーンウォール公はその後も連綿と受け継がれていき、現在はイングランド女王エリザベス2世の長男チャールズ王太子が保持しています


本日はイングランド公爵位の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年

536Republica de Venexia:2015/03/18(水) 00:30:26 ID:???
3月18日はフリードリヒ2世がイェルサレムで戴冠した日です

>>494で見たように、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は十字軍への参加を表明し、ジャン=ド=ブリエンヌの娘でありイェルサレム王国の相続人とみなされていたイザベルと結婚したことで、イェルサレム奪還の準備を整えていました
そして彼はアイユーブ朝スルタンのアル=カーミルと交渉することによってイェルサレム奪還を図り、カーミルとの間にヤッファ協定を締結することでその目標を達成したのです

1229年3月17日にフリードリヒ2世はイェルサレムに入城し、翌18日、聖墳墓教会にてイェルサレム王として戴冠式を挙行しました
しかしフリードリヒは教皇インノケンティウス3世から破門された身であったため司祭はフリードリヒの戴冠に難色を示し、十字軍諸侯の反応も冷淡なものでした
そこでフリードリヒは教会の祭壇から王冠を取り、自らの手でイェルサレム王として戴冠することになものでした


本日はイェルサレム王フリードリヒの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

537Republica de Venexia:2015/03/19(木) 00:31:03 ID:???
3月19日は李自成が北京を占領した日です

16世紀、中国の明では海外貿易が拡大し、中国産の生糸が輸出され日本やアメリカから銀が流入するようになりました
この銀が江南の生糸・絹織物産業をさらに活性化させ、輸出量が増え、銀の流入も加速させるという循環を生み出したのです
しかしその一方で農村は貧困化していきます
というのも、明に流入した銀は内地に向かわずに辺境地域へと流れ、銀不足となった内地では銀で納税することが困難となり、農民が窮乏していったからでした

この銀が辺境へと流れていった要因として、「北虜南倭」が挙げられます
明の北方ではモンゴルの侵攻が激化し、南方では倭寇の活動が活発化していたのです
モンゴルの侵攻に対抗するため明の軍事費は増大し、ますます内地の銀不足が進行、すると今度は海外との密貿易によって銀を入手しようと倭寇の活動が活発化するというように、こちらでは悪循環が生じるようになりました

こうして明は内外に問題を抱えその統治体制は揺らぐことになっていきますが、その中で台頭してきたのが後金、そして李自成の反乱軍でした
銀が辺境に集中するようになったことで辺境では周辺民族との交易も行われるようになりますが、中央権力の統制が届きにくい辺境の地では武力による富の争奪戦が繰り広げられ、その競争を勝ち抜いた女真族が後金を建て、明との直接対決に臨んだのです

この脅威に対抗するため明の主力軍は北方へと移動し、その隙をつく形で農民反乱が拡大していきました
その首領となったのが李自成と張献忠で、陝西省出身のこの2人は1630年代を通じて山西、河南、湖広、安徽、四川へと活動範囲を広げ、李自成は長江以北、張献忠は長江以南で反乱を指導しました
李自成の反乱軍は1643年には湖北の襄陽に進出し、44年には西安を攻略し大順国を建国します
そして1644年3月19日、李自成の反乱軍は北京を占領、明最後の皇帝崇禎帝は自害し、明の歴史は幕を閉じることとなったのでした


本日は明の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年

538Republica de Venexia:2015/03/20(金) 01:14:09 ID:???
3月20日はナポレオンがフランス皇帝に復位した日です

>>317で見たように、1813年10月16日から行われたライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンはフランスへと撤退を余儀なくされ、勢いづいた同盟諸国は各方面からフランスへと侵攻し翌1814年3月にはパリへの入城を果たしました
ナポレオンは退位させられ、地中海の島エルバ島へと流されることになります

ナポレオンに勝った同盟諸国はオーストリア外相メッテルニヒ主導の下でウィーン会議を開き、フランス首相タレーランが主張した正統主義の原則に基づいて進められました
しかし領土問題を巡って参加諸国の利害が対立したことで審議は遅難航し「会議は踊る、されど進まず」と揶揄される状態となります

この隙をつく形でナポレオンはエルバ島から脱出し、フランスへの帰還を果たします
フランス国民も英雄の帰還を歓迎し、王政復古によって復活していたブルボン朝のルイ18世は追放されました
そして1814年3月20日、パリに入城したナポレオンはフランス皇帝への復位を宣言したのです
ここから>>175で見た1814年6月18日までの約100日間、ナポレオンは再び皇帝として君臨することとなるのでした


本日は「百日天下」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年
・上垣豊『ナポレオン 英雄か独裁者か』山川出版社、2013年

539Republica de Venexia:2015/03/21(土) 01:14:43 ID:???
3月21日はアイルトン・セナが産まれた日です

1960年3月21日にブラジル・サンパウロで誕生したセナは幼少の頃からレースの世界に身を投じ、カートレース、ジュニア・フォーミュラ、F3を経て1984年にF1に参戦することとなりました
最初の1年はトールマンに所属し、翌年ロータスへと移籍、ロータスの3年目ではホンダエンジンのマシンを駆り3位という好成績を収めました

そして1988年からは85年・86年に連覇を成し遂げていたアラン・プロストが所属するマクラーレンへの移籍に至ります
この年からホンダエンジンを積んだマクラーレンマシンで2人は思う存分走り回り、開幕から連戦連勝、最急的にセナは初めてのドライバーズタイトルを獲得したのです
89年はタイトルをプロストに譲り2位で終わったものの、90年にはフェラーリに移籍したプロストを抑え王座を奪還しました

91年には躍進するウィリアムズ・ルノー、マンセルとの接戦を制し2連覇を達成しますが、92年はウィリアムズに敗れ4位に終わります
とはいえこの年のモナコグランプリでは首位にたったセナがマンセルを抑え切り優勝を成し遂げました
三宅アナウンサーの「ここはモナコモンテカルロ、絶対に抜けない!」は印象的なシーンでしょう
この優勝でセナはこの時点でモナコグランプリ4連覇、通算5勝となりグラハム・ヒルに並ぶ記録となります
翌93年もマクラーレンで走り、モナコグランプリ5連覇、通算6勝をあげたものの惜しくも2位に終わりました
その後は>>66で見たようにサンマリノグランプリで事故死をするまでドライバーズタイトル3回、優勝41回、ポールポジション65回という大記録を残したのでした


本日は「音速の貴公子」の誕生日です、おめでとうございます

540Republica de Venexia:2015/03/22(日) 00:17:48 ID:???
3月22日はマクシミリアンが産まれた日です

>>415で見たカール4世が1376年に死去した後、神聖ローマ皇帝はその息子のヴェンツェルが継承しました
その頃ローマ教会は>>288で見たように1378年から大シスマの時代に突入しており、これが1417年まで続くこととなります
この間に皇帝となっていたジギスムントはコンスタンツ公会議を開き、大シスマを解消して帝国の一体化を図ろうとしました
ジギスムントは>>296で見たようにニコポリスの戦いでオスマン帝国に大敗しており、その進攻に対抗するため帝国をまとめる必要があったのです

1437年、ジギスムントはエーガー帝国議会で平和令を発し、諸侯もまた翌年にフランクフルトでラント平和を決議し、同じ年にニュルンベルクでも選帝侯が帝国の平和に関する法案が提案されたというように、帝国の解体を危惧し一体化を進めようとする動きが見られます
>>468で取り上げた、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名称が見られるのもこの頃からでした

しかしジギスムントの後を継いだハプスブルク家のアルブレヒト2世は諸侯権力の強大化を恐れて改革案に修正を加え、これに諸侯が反発します
アルブレヒトが急死したため皇帝となったフリードリヒ3世も諸侯の要求をのらりくらりのかわし、ハプスブルク家の帝位世襲を確立したものの、帝国改革にはほぼ手付かずでした
このフリードリヒ3世の長男として1459年3月22日に産まれたのがマクシミリアンでした

1477年に神聖ローマ皇帝となったマクシミリアン1世ですが、フリードリヒの治世でオスマン帝国の脅威が増大し帝国内の亀裂がますます深まり、またコンスタンティノープルが陥落したことで西欧に衝撃が走っており、帝国の一体化は急務という状況でした
マクシミリアンは1495年、ヴォルムス帝国議会において具体的な帝国改革案を提示します
それは永久ラント平和令の制定、帝国最高法院の設置、一般帝国税、帝国議会の整備で、これにより皇帝と帝国が分離し法と秩序によって帝国が支配される体制の端緒となったのです
またカール4世の時代に進んでいた皇帝権と教皇権の分離もマクシミリアンの時代で決定的となり、神聖ローマ帝国の在り方が大きく変わる治世となったのでした


本日は「中世最後の騎士」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

541Republica de Venexia:2015/03/23(月) 00:53:57 ID:???
3月23日はパーヴェル1世が暗殺された日です

ロシア皇帝ピョートル3世と女帝エカチェリーナ2世との間に産まれたパーヴェルですが、彼は父と同じくプロイセン王フリードリヒ2世を信奉していました
これにエカチェリーナが反発することになります
というのも、ピョートル3世は>>489で見たようにフリードリヒを信奉していたことで七年戦争での勝機を逸するという大失態を犯していたからでした

ピョートル3世に対する不満が高まったロシアでは、皇后エカチェリーナがクーデターによってピョートルを追放しエカチェリーナ2世として即位、啓蒙専制君主として国家を強力に主導し>>239で見たポーランド分割やオスマン帝国との戦争を通じてロシアの強大化に成功したのでした
そんなエカチェリーナも1796年に死去し、その後を息子のパーヴェルが継ぐこととなります

しかしこのパーヴェル、先に見たようにエカチェリーナとは対立しており、その治世はエカチェリーナの政策を否定するものに終始しました
これにロシア国民の不満が高まり、父と同じくクーデターに遭うこととなります
1801年3月23日、パーヴェルは近衛将校によるクーデタによって暗殺され、同日にその息子で祖母エカチェリーナの寵愛を受けていたアレクサンドルが即位しました
このアレクサンドルが>>531のロシア=スウェーデン戦争でフィンランドを獲得し、>>317のナポレオンによるロシア遠征を撃退、>>164のウィーン会議を主導し、ウィーン体制にてロシアを「ヨーロッパの憲兵」たらしめたアレクサンドル1世なのです


本日はロマノフ朝第10代皇帝アレクサンドル1世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

542Republica de Venexia:2015/03/24(火) 00:00:14 ID:???
3月24日は徳川家康が征夷大将軍に任命された日です

>>283の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、戦後の論功行賞で豊臣氏の勢力を削り、自身の所領も400万石に増加、要地に家臣や徳川側の大名を配してその支配体制を固めます
その仕上げとして1603年3月24日、征夷大将軍に就任し武家の棟梁としての地位を確立したのです

その後家康は1605年に将軍職を辞して息子の秀忠に譲り、将軍職は徳川家が世襲するといえ意思を示しました
1615年には>>130の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川による支配を確立したのでした


本日は江戸幕府の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原大合戦と大坂の陣』吉川弘文館、2007年
・池上裕子『織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15』講談社、2009年

543Republica de Venexia:2015/03/25(水) 00:07:20 ID:???
3月25日はベラルーシが独立を宣言した日です

ベラルーシの始まりはキエフ大公国から分かれたポロツク公国であり、ルーシによって支配されていましたが、>>375で見たモンゴルのバトゥによるヨーロッパ遠征の過程でモンゴル支配下となります
その後ベラルーシ人はモンゴル支配に抵抗し、>>217でも取り上げたドイツ騎士団の東方植民にも対抗してベラルーシとしての民族意識が高まっていきました

やがてベラルーシはリトアニア大公国が併合し、そのリトアニアが1385年のクレヴォ合同と>>196のルブリン合同によってポーランドと一体となると、ベラルーシもまたポーランド支配下となりポーランド化が進むこととなりました
しかし>>364で見たように3度のポーランド分割によってポーランドが消滅すると、ベラルーシは今度はロシアの支配下となったのです

ロシア支配下のベラルーシ人はポーランド時代の復活を図って度々ロシアに対する蜂起を行いましたが、これによってロシアの弾圧が激化しベラルーシ人の多くは亡命、ロシア化が進められました
ベラルーシはその後第一次世界大戦においてドイツの占領下に置かれますが、その間に独立することとなります
1918年3月25日、ベラルーシ人はベラルーシ人民共和国と称し建国を宣言、ベラルーシの新たな時代が始まりました
もっともこの国家は早くも翌年にソ連の侵攻を受け消滅、ベラルーシには白ロシア=ソビエト社会主義共和国が成立します
その後ベラルーシはソ連崩壊の際に再び独立を宣言し、ベラルーシ共和国となって現在に至るのでした


本日はベラルーシにおける独立国家の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

544Republica de Venexia:2015/03/26(木) 01:02:34 ID:???
3月26日はコンラート2世が即位した日です

神聖ローマ帝国ではザクセン朝のオットー3世がローマ教皇シルウェステル2世と協力し、ローマ帝国の復興を目指しました
しかしオットーは22歳で急死したためこの構想は頓挫し、新たに皇帝となったハインリヒ2世はオットーとは異なりフランク王国の復興を掲げ、ドイツ王国とのつながりを強調します
とはいえオットーが進めていたイタリア支配の強化は継続し、イヴレア辺境伯アルドゥインを破りドイツ王とイタリア王との統合に成功しました
イタリアが独自の王を持つようになるのは1861年のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世まで待つことになります

ハインリヒは帝国の支配強化にも乗り出し、大司教や司教を任命して統治を行う、いわゆる帝国教会政策を推進しました
帝国教会に寄進を行う代わりに帝国の宗教・政治・軍事への協力を求めたこの政策は、大司教や司教が世襲ではなく皇帝の任命によって決められるため、皇帝に協力的な人物を据えることができるというメリットがあったのです

やがてハインリヒは子を残さずに死去しザクセン朝は断絶、1024年、ザリエル家のコンラートがドイツ王に選出されました
コンラートは1027年3月26日に皇帝として戴冠し、コンラート2世となります
しかし王朝は断絶したものの、ハインリヒが打ち出した政策はコンラートが継承し、次代のハインリヒ3世も継承発展したのは>>294でも見た通りです
コンラートはまた相続によってブルグント王国を獲得し、ここにドイツ・イタリア・ブルグントの3王国が帝国を構成するようになりました
この頃から帝国では「ローマ帝国」の名称が広く普及するようになり、帝国はこれら3王国を結びつけるものとされ、以後の神聖ローマ帝国の領域の基礎となったのでした


本日は神聖ローマ帝国ザリエル朝初代皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

545Republica de Venexia:2015/03/27(金) 23:17:21 ID:???
3月27日はマリー=ド=ブルゴーニュが亡くなった日です

ブルゴーニュ公国は>>414で見たように、シャルル突進公がナンシーの戦いで戦死したことで崩壊、フランス王ルイ11世の侵攻に遭い各地でブルゴーニュ家に対する反乱が勃発しました
シャルルの後を継いだマリーは>>502で見たようにハプスブルク家のマクシミリアンと結婚し、その協力を得てルイを撃退、ブルゴーニュは奪われたものの、フランドルを守ることには成功しました

マクシミリアンとの間にはフィリップとマルグリットが産まれ、この2人は後にスペインの王女王子と結婚、ハプスブルク家にスペイン領をもたらすこととなります
マリーは1482年3月27日に落馬が原因で急死することになりますが、ヴァロワ=ブルゴーニュ家はハプスブルク=ブルゴーニュ家として継承され、やがてカール5世による大ハプスブルク帝国の成立に至るのでした


本日はヴァロワ=ブルゴーニュ家の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・ジョセフ・カルメット、田辺保訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年

546Republica de Venexia:2015/03/28(土) 00:12:27 ID:???
3月28日はスヴェン=ヘディンが桜蘭を発見した日です

紀元前1世紀頃、タリム盆地タクラマカン砂漠の北東部にはロプ=ノールといわれる広大な湖が存在していました
この湖の西岸に位置し、シルクロードの要地となって交易によって繁栄したのが桜蘭でした
中国においてはこの地域は西域と称され、特に武帝の時代に西域へと大きく勢力を拡大し、桜蘭もその支配下に入り、漢の東西交易の恩恵を受けておおいに栄えます

しかし漢は王莽のクーデターに遭い代わって新が成立、その新を倒した後漢ですが西域統治には手が回らず、西域諸国家は分立状態となりました
この時桜蘭は周辺諸国を併合して勢力を広げ、以後西域の一大国家としての繁栄が続きます
ところが4世紀にはロプ=ノールが干上がってしまい、豊富な水源を失った桜蘭は急速に衰退、廃墟となった桜蘭は歴史の表舞台から姿を消しました

桜蘭の名がが再び知られるようになったのは、スウェーデンの探検家スヴェン=ヘディンの中央アジア探検によってでした
ヘディンは大学でシルクロードという言葉の生みの親リヒトホーフェンの指導を受け、シルクロード地域の探検に乗り出していたのです
1900年3月28日、ヘディンはタリム盆地の探検中に桜蘭の遺跡を発見しました
また、ヘディンは桜蘭の近辺で干上がった川床も発見します
ヘディンはこれをロプ=ノールの跡で、かつてタリム川の水がここに流れ込んでいたと考えます
タリム川は堆積・侵食作用によって定期的に流路を変え、それに伴ってロプ=ノールも各地を彷徨っていたとの仮説を立てたのです
後の1934年、ヘディンは再び同地を訪れ、干上がっていた川が流れており、その先でロプ=ノールが復活していたのを確認、ロプ=ノールが移動していたとの説有力説の1つとなったのでした


本日は「彷徨える湖」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・長澤和俊『シルクロード』講談社、1993年
・赤松明彦『桜蘭王国 ロプ・ノール河畔の四千年』中央公論新社、2005年
・岩村忍『文明の十字路 中央アジアの歴史』講談社、2007年

547Republica de Venexia:2015/03/29(日) 00:36:50 ID:???
3月29日はスウェーデン王グスタフ4世が廃位された日です

>>38では1792年3月29日グスタフ4世の即位について書きましたが、ほぼグスタフ3世にしか触れていなかったので今度はグスタフ4世を、また>>531はグスタフ4世幽閉の間違いでした

>>471>>531で見たように、グスタフ4世は先王グスタフ3世時代のスウェーデン継続を図りましたが、ナポレオン戦争での対応を誤りバルト帝国の夢が潰えることとなりました
1809年3月13日には軍部のクーデターにより幽閉され、叔父のカール=ヨハンが摂政となります
スウェーデンでは臨時政府が発足し、グスタフ3世・グスタフ4世時代の絶対王政は否定され立憲君主制への移行が図られました
そして同年3月29日にグスタフ4世の廃位が決定され、やがて追放の憂き目に遭うのでした


本日はスウェーデン・ホルシュタイン=ゴットルプ王朝第三代国王の誕生日にして命日です


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

548Republica de Venexia:2015/03/30(月) 00:25:32 ID:???
3月30日はクリミア戦争が終結した日です

「トルコの脅威」として怖れられたオスマン帝国は18世紀になると弱体化し、近代的な国家の整備が進むヨーロッパ諸国との力関係が逆転するようになりました
なかでもロシアはエカチェリーナ2世がクリミア・タタールを追放して以来、オスマン帝国の圧政を受けるスラヴ民族解放という名目で南下政策を進め、1828年に始まる露土戦争でボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由通行権を得、黒海における通商権も獲得しました

しかしこのようなロシアの南下政策は中東やバルカン半島に影響力を得ようとしていたヨーロッパ列強の反発を招き、特にイギリスとフランスはオスマン帝国を支援してロシアへの対抗を図ったのです
そして1853年6月、ロシアは聖地イェルサレムにおける正教徒の保護を名目にオスマン帝国領に軍を派遣し、オスマン帝国はイギリス・フランスの支援を背景に宣戦布告、クリミア戦争が勃発しました

ロシアは緒戦には勝利したものの、産業革命を経て近代化したイギリス・フランスの軍隊に押され、鉄道網の未整備による補給の停滞もあって次第に劣勢となり、1855年8月にはクリミア半島の要塞セヴァストーポリが陥落します
そして1856年3月30日、オーストリア・プロイセンの仲介によってパリ条約が締結され、クリミア戦争はロシアの敗北によって終結しました
こうしてロシアの南下政策は阻止されたものの、以後ヨーロッパ列強の対立が表面化することとなります
勢力均衡によって大国間の戦争を防ごうとしていたウィーン体制はここで完全に崩壊することとなったのでした


本日はウィーン体制の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

549Republica de Venexia:2015/03/31(火) 00:14:23 ID:???
3月31日はヴィルヘルム2世がモロッコを訪問した日です

昨日のクリミア戦争終結の後、ヨーロッパ列強は先を競って世界各国へと進出していきました
1870年代半ばから20世紀初頭にかけて、列強は海外に工業製品の市場や原料供給地、資本の輸出先などを求め、武力によって植民地を広げていく帝国主義の時代となったのです
その急先鋒となったのがイギリスで、最重要植民地のインドを中心に据え、カルカッタ・カイロ・ケープタウンを結ぶ3C政策を推進します
また1882年のエジプト占領はアフリカ分割競争のきっかけとなり、イギリスはエジプトから南下して南アフリカとつなごうとするアフリカ縦断政策が進められました

一方イギリスに負けじとフランスもアフリカの植民地化に乗り出し、西アフリカ・サハラ地域から東のジブチをつなごうとするアフリカ横断政策を進めます
この英仏のアフリカ分割はスーダンで衝突しファショダ事件となりましたが、これがきっかけとなって1904年に英仏協商が結ばれたのは>>57で見た通りです

この2国に遅れをとったのがドイツでした
>>433で見たようにドイツが統一されたのは1871年のことであり、ドイツ皇帝がビスマルクを罷免して親政を開始し、世界政策を掲げたのは1890年代に入ってからだったのです
ドイツはオスマン帝国の小アジアからペルシア湾へとバグダード鉄道を建設して中東への進出を図る3B政策を進め、イギリスの3C政策と対立します
アフリカにおいても南西アフリカと東アフリカを領有し、さらなる拡大を図りました
ここでドイツはモロッコへ進出しようとしますが、上で見た英仏協商でイギリスがフランスのモロッコにおける優越権を認めたことに反発します
そして1905年年3月31日、ヴィルヘルム2世はモロッコのタンジールを訪問し、モロッコのスルタンと会見してフランス進出に反対する旨を表明したのです
このため独仏両国の間に緊張が走りますが、翌年にアルヘシラス会議が開かれ、ドイツの目論見は阻止されフランスのモロッコ進出が黙認されることとなったのでした


本日は第一次モロッコ事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

550Republica de Venexia:2015/04/01(水) 00:01:43 ID:???
4月1日はオットー=フォン=ビスマルクが産まれた日です

1815年、それはプロイセンが新たなスタートをきった年でした
この年の6月にウィーン会議が閉会し、領土拡大に成功したプロイセンはヨーロッパ五大国としての地位に復帰したのです
しかしザクセン王国併合が叶わなかったことでプロイセンの領土は東西に分断されたままであり、またプロイセンが属するドイツ連邦は同じく五大国の1つであるオーストリアをも抱えるという複雑な組織となったのです

オットー=フォン=ビスマルクが産まれたのは、そんな1815年の4月1日でした
ビスマルク家はユンカーの家系で、父親のフェルディナントもユンカーとして農場経営にあたっていましたが、母親のヴィルへルミネは市民身分の出身であり、彼女はオットーにユンカーではなく官僚への道を歩ませます
そしてその通り、オットーは1836年に21歳でアーヘン県庁で試補として官僚への第一歩を踏み出しますが早々に挫折し、ユンカーの世界に戻ることとなりました

その後オットーは1847年に生涯の伴侶ヨハンナを得、またプロイセン領ザクセン州の連合州議会に出席して政界との関わりを持つようになります
やがてドイツでは1848年の三月革命へと至る政治体制の変動が沸き起こりますが、そのなかでオットーは一貫して保守的な立場を取り続け、ゲルラッハ兄弟を中心とする側近党へと接近、高官への道を切り開いたのです
オットーは>>368の「オルミュッツの屈辱」後に外交官に就き、1862年にはプロイセンの首相兼外相に就任、ドイツ統一への邁進するのでした


本日は後の「鉄血宰相」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

551Republica de Venexia:2015/04/02(木) 00:56:31 ID:???
4月2日は張角が挙兵した日です

>>506で成立した漢(前漢)は武帝の時代に最盛期を迎えますが、8年、外戚の王莽が帝位を簒奪し、新が建てられました
王莽は復古主義政策を採りますがこれは失敗に終わり、赤眉の乱が起こるなか25年、前漢の皇族劉秀が新を倒し漢を再興します(後漢)

劉秀光武帝は赤眉の乱を平定し豪族連合政権を樹立、支配体制を整えます
しかし2世紀になると勢力を拡大してきた豪族や官僚、宦官が内紛を起こすようになり、また幼くして即位する皇帝が相次いだこともあって政治的混乱が続きました
この混乱は160年代の党錮の禁で宦官勢力が完了を弾圧するとますます深まっていきます

こうして漢王朝の権威が衰退し世が乱れるようになると、民間宗教が民心をとらえるようになりました
その1つである太平道を創始したのが張角で、彼は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」と、184年4月2日、華北にて挙兵します
これが後漢を揺るがす大農民反乱に発展し、後漢滅亡、三国時代へと至ることとなるのでした


本日は黄巾の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・金文京『中国の歴史4 三国志の世界(後漢 三国時代)』講談社、2005年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年

552Republica de Venexia:2015/04/03(金) 00:05:20 ID:???
4月3日はランカスター家のヘンリが産まれた日です

>>535で見たようにイングランド王エドワード3世は自らの権限で公爵位の授与を行いましたが、その中にコーンウォール公と並んで現在まで続くランカスター公がありました
この初代ランカスター公ヘンリ=オブ=グロスモントの次女ブランシュと、第2代ランカスター公ジョン=オブ=ゴーントとの間に1367年4月3日に産まれたのがヘンリ=ボリングブロク、後のヘンリ4世でした

やがてイングランドではエドワード黒太子の息子リチャード2世がイングランド王に即位しました
リチャードはいわゆる寵臣政治を展開し、2人の叔父をヨーク公、グロスター公とし、尚書部長官のマイケル=ド=ラ=ポールをサフォーク伯に、寵臣ロバート=ド=ヴィアをオクスフォード伯、そしてアイルランド侯、公として任命し、彼らは王の寵愛を受け権勢をほしいままにしました

1386年、影響力の強かったランカスター公ジョン=オブ=ゴーントがカスティーリャ王位を主張してイングランドを離れると寵臣政治に対する不満が表面化し、常設議会が設置され王権を監視するようになりました
危機感を覚えた寵臣らは挙兵しましたが1387年のラドコット・ブリッジの戦いに敗れ、寵臣政治は崩壊します
翌1388年には無慈悲議会が開かれてサフォーク伯、アイルランド公が死刑を宣告され、その他王の側近多数が逮捕、追放されました
ジョン=オブ=ゴーントが帰国したこともあって王権は抑えられ、しばらくは安定した状況が続きます

しかしリチャードは百年戦争においてフランスと休戦協定を結び国内統治に集中するようになると、無慈悲議会での決定を全て無効とし、寵臣政治を復活させました
ジョン=オブ=ゴーントの2人の息子も追放され、また1399年にジョンが死去するとランカスター公領土の没収を宣言したのです
これに対し追放中のヘンリ=ボリングブロクはイングランドに上陸し反撃、大貴族の多くがヘンリ側についたためリチャードは窮地に陥ります
同年9月にリチャードは廃位され、ヘンリはヘンリ4世として即位することとなるのでした


本日はランカスター朝創始者の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年

553Republica de Venexia:2015/04/04(土) 00:06:41 ID:???
4月4日は山本五十六が産まれた日です

五十六は1884年の今日、旧長岡藩士である高野家の6男として誕生しました
五十六は幼少より勉学に秀で、江田島海軍兵学校には次席で入学します、1901年のことでした
兵学校を卒業した1904年11月はすでに日露戦争が海戦しており、五十六も海軍少尉候補生として従軍、バルチック艦隊を破った日本海海戦にも参加します

日露戦争後、五十六は少尉、中尉、大尉、少佐と順調に昇進し、少佐時代の1916年には旧長岡藩筆頭家老山本帯刀家の養子となり、ここに「山本五十六」が誕生しました
1919年からはアメリカ留学を経験し、アメリカの圧倒的な国力を目の当たりにした五十六は石油の重要性、そして航空戦力の必要性を認識、帰国後は海軍航空隊の育成に力を注ぎました

1921年のワシントン海軍軍縮会議、1930年のロンドン海軍軍縮会議には政府随員として関与し、米英との劣勢比率を押し付けられるなかでますます航空戦力の充実に熱意を燃やすようになります
ロンドンから帰国した五十六は海軍航空本部技術部長に就任、これを2年10ヶ月務め、この時期に艦上戦闘機の整備が進められました
1934年、中将として臨んだ第2次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉は不調に終わり、帰国後五十六の冷遇が続くこととなります

しかし1935年12月に海軍航空本部長という願ってもないポストに就任、航空戦力の拡充を図りましたが、>>385で見たように海軍では無条約時代に突入し「大和」の建造に着手するなど、五十六が恐れていた建艦競争が再開されました
このような情勢で翌1936年11月には海軍次官に就任、日米関係の悪化を避けるため日独伊三国同盟交渉への反対に奔走しました

しかしこれは海軍強硬派や陸軍の反発を招き、五十六は命を狙われることとなります
ここで米内光政海相はその攻撃をかわすため、1939年8月、五十六を聯合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官に任命しました
これは緊急避難的人事でしたが、その直後にドイツがポーランド侵攻を開始、また及川古志郎海相が日独伊三国同盟に賛成、英米への対決姿勢が打ち出されるのです
こうして日本は戦争への道を突き進み、五十六は>>377で見たように真珠湾攻撃の構想に至ることとなるのでした


本日は後の聯合艦隊司令長官山本五十六の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「太平洋戦史シリーズVol.1 奇襲ハワイ作戦」学習研究社、1994年
・「丸」編集部「写真太平洋1 ハワイ作戦・南方攻略作戦」光人社、2003年
・「歴史街道2014年1月号 真珠湾と空母機動部隊」PHP研究所、2013年

554Republica de Venexia:2015/04/05(日) 00:00:18 ID:???
4月5日はウェストミンスター条約が結ばれた日です

17世紀に入り、イギリスでは商業革命と呼ばれる海外貿易構造の転換が進んでいました
北米、西インド諸島、アフリカなどに重商主義に基づく植民地帝国を建設し、また貿易商品もそれまでの毛織物から絹・綿織物やガラス、石鹸、金属製品などの生活必需品の輸出が増加し、輸入品は新大陸からの砂糖、コーヒー、タバコ、インドからの綿織物が増え、これらがヨーロッパへと再輸出されるようになっていったのです

そしてイギリスはこの貿易を安定させるため、国内産業の保護と海外市場の確保に乗り出し、植民地との輸出入をイギリス船舶のみに限定する航海条例を1651年に発布します
これに反発したのがオランダでした
航海条例がオランダ商船の締め出しを図るものであったのが明白だったからです
またオランダは公海上での経済活動は自由なものであると主張し、この海洋自由の原則の立場からも航海条例への反対を明確にします

翌1652年、オランダはイギリスに宣戦布告し、英蘭戦争が勃発しました
この戦争は>>495で見たように1674年2月にウェストミンスター条約が結ばれるまで断続的に続き、1654年4月5日、同名のウェストミンスター条約によってひとまず休戦協定が結ばれたのでした


本日は第一次英蘭戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

555Republica de Venexia:2015/04/06(月) 00:10:18 ID:???
4月6日はジョアン1世がポルトガル王となった日です

百年戦争初期の時代、カスティーリャ王国では王位を巡ってカスティーリャ継承戦争が勃発しました
王位を争う当事者はペドロ1世とエンリケ=トラスタマラで、それぞれイングランド、フランスが支援しての継承戦でした
これはペドロ1世を暗殺したエンリケの勝利に終わり、エンリケ2世として即位することとなります

これに反発したのがポルトガル王フェルナンド1世で、王位継承権を主張した彼はカスティーリャに侵攻しますが撃退されます
すると今度は>>552で見たランカスター公ジョン=オブ=ゴーントのカスティーリャ王即位を支援しカスティーリャへの対抗を図ります
ところがこちらも失敗、やがて1383年にフェルナンドは嫡子なくして没しました

フェルナンドの死後ポルトガルでは王女ベアトリスが女王となり、その夫でカスティーリャ王でもあるフアン1世がポルトガルの国政に介入するようになりました
ポルトガル国民の不満は高まり、これを背景にフェルナンド1世の弟にあたるジョアンが勢力を拡大、カスティーリャ軍の直接介入を撃退しその地位を確固たるものとします

そして1385年4月6日、ジョアンは議会で国王に選出され、ジョアン1世として即位するのです
国王となってからもカスティーリャとの抗争は続き、再びイングランドと同盟、ジョン=オブ=ゴーントの娘と結婚しウィンザー条約を結びました
この時のイングランド・ポルトガル同盟は>>170で見たように現在まで続く英葡永久同盟となるのです
やがてジョアンはカスティーリャの影響を排除し、その息子エンリケ航海王子とともに海外進出を推進、ポルトガル繁栄の基礎を築いたのでした


本日はポルトガル・アヴィス朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

556Republica de Venexia:2015/04/07(火) 00:01:13 ID:???
4月7日はフランシスコ=ザビエルがリスボンを出港した日です

>>334で見た、ルターの改革運動によって始まった宗教改革はカトリックの危機感を煽ることとなりました
カトリックはそれまでにも行われてきた改革をより具体的なものとするため、1545年、イタリアのトリエントにて公会議を招集します
1563まで断続的に開催されたこの公会議でカトリックはその基本原理を再確認し、明確化したのです
このトリエント公会議にいたるまでの教会改革、ルターらの宗教改革に対して対抗宗教改革とも呼ばれる改革の中心となったのがイエズス会でした

イエズス会は1534年にスペイン人のイグナティウス=ロヨラらが創立した修道会で、会士に軍隊式の規律と訓練を課し、ヨーロッパ各地、そして海外でも精力的な布教活動を展開しました
このうち海外布教の先がけとなったのがフランシスコ=ザビエルです
イエズス会創立者の1人でもあるザビエルは1541年4月7日、ポルトガル王ジョアン3世の依頼によってリスボンからアジア地域への布教に出発しました
ポルトガル領の各地を布教して回ったザビエルは明にも立ち寄り、1549年には日本にも至ることとなるのでした


本日はイエズス会世界宣教の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ピーター・ミルワード、松本たま訳『ザビエルの見た日本』講談社、1998年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・浅見雅一『日本史リブレット人44 フランシスコ・ザビエル 東方布教に身をささげた宣教師』山川出版社、2011年

557Republica de Venexia:2015/04/08(水) 00:38:23 ID:???
4月8日はヨハネス2世が死去した日です

>>46で見たように、ビザンツ帝国中興の祖となったアレクシオス1世は1118年8月に死去しました
彼の死後、その娘のアンナ=コムネナは自身の夫であるニケフォロス=ブリュエンニオスを次期皇帝にと画策します
これを未然に防ぎ、新たに皇帝となったのがヨハネス2世コムネノスだったのです
ヨハネスは父帝アレクシオスの貴族優遇政策を引き継ぎ、またトルコ人の大臣アクスークの登用に代表されるように、身分が低くとも有能な人物を取り立て、帝国の政治を安定させました

ヨハネスは軍人としてもその才能を発揮し、1133年にはコムネノス家の故郷であるカスタモンを奪回し、小アジア南部沿岸地域の回復に成功します
その領域はアンティオキアにも及び、シリア方面への遠征も行われたのです
しかし1143年、ヨハネスは遠征先で狩りをしている最中、毒矢が指に刺さるという事故に遭ってしまいます
死を悟ったヨハネスは末子のマヌエルを皇帝とするという遺言を残し、同年4月8日に死去しました
こうして即位したマヌエルが、>>235のユスティニアヌス1世以来の征服称号を名乗った皇帝で、その称号の通りユスティニアヌス時代の地中海帝国復活を目指して大規模な征服活動を行うことになるマヌエル1世なのでした


本日はマヌエル1世コムネノス「大帝」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

558Republica de Venexia:2015/04/09(木) 00:58:56 ID:???
4月9日はリーグニッツの戦いが行われた日です

モンゴル帝国代2代皇帝オゴタイは1234年に金を滅ぼし、その後新たな首都カラコルムを建設し、また駅伝制や中央行政機構を整備し国家としての基礎を整えました
そしてオゴタイはモンゴルの勢力を拡大するため、チンギス=ハーンの長子ジュチの次子バトゥに西征を命じます
ヨーロッパなどが位置する西北ユーラシアはもともとジュチに委ねられる予定であり、そのジュチが急死してしまったため、その遺志をバトゥが継ぐという意味合いもありました

またこの西征にはジュチ家の諸王の他、チャガタイ家、オゴタイ家、トゥルイ家からも長子やそれに準ずる王子も参加し、後にモンゴル帝国の皇帝となるグユク、モンケも従軍するという、まさに次代のモンゴルを担う人材が集結した大遠征だったのです
そしてこれらの若者を補佐するのが歴戦の武将、チンギス=ハーン股肱の臣である四狗の1人、スブタイでした

こうして準備が整えられた西征軍は1236年に遠征を開始し、1237年にルーシに侵攻、1240年には>>375で見たようにキエフ大公国を滅ぼすのです
ここでバトゥは軍団を大きく2つに分け、バトゥ率いる本隊はハンガリー方面へ、もう一隊はポーランド方面へと侵攻しました
ポーランド方面部隊のうち、バトゥの兄オルダが率いる一団はピアスト朝のポーランド王国に侵入し、その首都クラクフを占領します
これに続いてチャガタイの6男バイダル率いる一団もポーランドへと侵攻し1241年4月9日、リーグニッツにてポーランド・ドイツ連合軍に大勝し、ポーランドはモンゴルによって蹂躙されることとなります
バトゥ本隊もこのリーグニッツの戦いの2日後に>>63の通りモヒの戦いでハンガリーに大勝、東欧はモンゴルによって席巻されることとなったのでした


本日はワールシュタット(死体の山)の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年

559Republica de Venexia:2015/04/11(土) 00:47:40 ID:???
4月10日はモルヴィッツの戦いが行われた日です

>>323で見たように、ハプスブルク家の継承問題に端を発しオーストリア継承戦争が勃発します
1740年12月にシュレジエンに侵攻したプロイセンに対し、オーストリアも反撃しシュレジエン奪回を図ります
この両国主力が初めて激突したのが1741年4月10日に行われたモルヴィッツの戦いでした
そしてこの戦いでプロイセンの歩兵軍が大きな働きを示すこととなります

>>433で見たように、プロイセンは大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムのもとで常備軍の設置に成功、軍事力強化が図られました
そしてこれをさらに発展させたのが大選帝侯の孫にあたるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世でした
フリードリヒ=ヴィルヘルムはプロイセンの軍制改革を進め、徴兵制の実施を断行します
1733年、フリードリヒ=ヴィルヘルムは徴兵区制度を施行し、全国を500戸単位の徴兵区に分け、各徴兵区からそれぞれ指定された連隊に対して兵役義務を追わせたのです
徴兵された者は最初の1年間に基礎訓練を受け、以降は年に2回ずつ2ヶ月間の軍事訓練に服し、その勤務年限は20年とされました

フリードリヒ=ヴィルヘルムは国家歳入の約3分の2をこれらの軍事力増強政策につぎ込み、彼の治世でプロイセンの兵力は38,000人から81,000に増大し、プロイセン総人口の30分の1が軍人という軍事国家を作り上げたのです
フリードリヒ=ヴィルヘルムはこれらの功績から兵隊王と称され、そしてこの強力な軍隊が息子のフリードリヒ2世に引き継がれます

話を元に戻し、オーストリアとの決戦となったモルヴィッツの戦いは、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世時代に鍛え上げられた軍隊、特に歩兵軍の奮戦によりオーストリアに勝利することとなります
この勝利によってプロイセンは国際的な名声を得、オーストリアは一時窮地に陥りました
その後オーストリアは挽回するものの、プロイセンは強力な軍隊でこの戦争を戦い抜き、>>319のアーヘンの和約でシュレジエン領有を認められることとなるのでした


昨日はオーストリア継承戦争におけるプロイセン勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・フィリップ・ヘイソーンスウェイト、稲葉義明訳『フリードリヒ大王の歩兵 鉄の意志と不屈の陸軍』新紀元社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

560Republica de Venexia:2015/04/11(土) 01:04:52 ID:???
4月11日はゼノンが死去した日です

東ローマ皇帝ゼノンの治世では、>>265で見たように西ローマ帝国がオドアケルによって滅亡し、そのオドアケルが西ローマ皇帝位をゼノンに返上、名目上とはいえゼノンが東西ローマ帝国の皇帝となった時代でした
しかしこのオドアケルが東ローマ帝国に干渉するようになると、ゼノンは軍事長官である東ゴート族のテオドリックにオドアケル討伐を命じ、493年にはテオドリックはラヴェンナを攻略しイタリア王となります

しかしその少し前の491年4月11日、ゼノンは死去していました
この後を継いだのがアナスタシウスで、ゼノンの皇后であるアリアドネと結婚し、アナスタシウス1世として即位したのです
アナスタシウスは497年にテオドリックを正式にイタリア王とし、従属下に置くこととしました
また小アジアのイサウリア人による反乱を鎮圧し、バルカン半島を南下してきたアジア系遊牧民ブルガール人も撃退し、帝国外部の安定化に務めました

また内政においては財政改革を行い、破綻寸前にあった帝国財政を再建することに成功します
その成果は、彼の没時には32万ポンドもの金が国庫に蓄えられるまでになったことからも伺えます
>>235で見たユスティニアヌス1世の大征服戦争は、このアナスタシウス1世の財政再建があってこそと言えるでしょう


本日は東ローマ・レオ朝最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

561Republica de Venexia:2015/04/12(日) 00:00:53 ID:???
4月12日はイングランド・スコットランド連合王国の国旗が制定された日です

>>17で見たように「処女王」エリザベス1世には世継がおらず、その死によってヘンリ8世の血筋が絶えテューダー朝は断絶します
その後継者として1603年にイングランド王となったのが、テューダー朝初代ヘンリ7世の血を引く、>>226でも登場したスコットランド王ジェームズ6世でした

ジェームズはイングランド王としてはジェームズ6世となり、イングランド・スコットランド連合王国を統治することとなります
正式に連合王国となるのは1707年のアン女王時代のグレートブリテン王国成立を待ちますが、ジェームズもまた両国統一のための様々な政策を打ち出します
その1つが両国国旗統合であり、白地に赤十字のイングランド国旗セント・ジョージ・クロス、青地に白斜め十字のセント・アンドリュー・クロスを組み合わせた国旗を1606年4月12日に制定、イングランド・スコットランド統合の象徴として用いたのでした


本日はユニオンフラッグの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・青木道彦『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』講談社、2000年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

562Republica de Venexia:2015/04/13(月) 00:06:44 ID:???
4月13日はハインリヒ5世が即位した日です

>>448で見たように、ハインリヒ5世の父帝ハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世と対立し、1077年のカノッサの屈辱後も叙任権闘争は続きました
ドイツの反皇帝派はハインリヒの行動を認めようとせず、対立国王としてシュヴァーベン公ルドルフを選出します
一方のグレゴリウス7世も1080年に改めてハインリヒ4世を破門、ルドルフの即位を承認しました
ところがドイツ諸侯は教皇の介入によって自身の権益が失われることを恐れ、教皇を支持しませんでした

ハインリヒ4世はこれに乗じ再びグレゴリウスを破門し、クレメン.ス3世を教皇に選出、ここに2人の国王・2人の教皇が併存することとなったのです
この闘争をくぐり抜けたのはハインリヒ4世でした
同年のエルスターの戦いでルドルフが戦死、ハインリヒ4世はそのままローマに進軍しグレゴリウスは追放され、サレルノで客死します
ところが1088年に教皇ウルバヌス2世が即位したことで状況が一変します

>>366で見たようにウルバヌスは十字軍を主導するなど巧みな外交手腕を発揮し、ハインリヒ4世と対立関係にあるトスカーナ女伯とバイエルン公ヴェルフを結婚させ、南ドイツと北イタリアに反皇帝派の勢力圏を作り上げたのです
ハインリヒ4世も反撃しますが1090年のイタリア介入に失敗し、また長子コンラートがウルバヌス側に付き、ハインリヒ4世に反旗を翻すという事態になります
1093年にはウルバヌスがハインリヒ4世に協力していた対立教皇クレメン.ス3世を追放しますが、ハインリヒ4世は1098年に王国会議にてコンラートを廃嫡することでひとまず小康状態となります

1106年には次男のハインリヒ5世を国王に選出し、ラント平和令の発布によって事態の沈静化を図りますが状況は好転せず、逆にハインリヒ5世すらもローマ教会と和解しハインリヒ4世に反逆、ハインリヒ4世は幽閉され廃位させられました
こうして1105年4月13日、神聖ローマ皇帝としてハインリヒ5世が即位し、>>294で見たヴォルムス協約によってひとまずの妥協をみることとなるのでした


本日は神聖ローマ帝国・ザリエル朝最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

563Republica de Venexia:2015/04/13(月) 00:07:10 ID:???
NGワードに引っかかるとは思わなかった

564名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/04/13(月) 07:44:12 ID:Lb0Svd3c
>>563
長文でNG出ると大変ですよね
自分はSS書いてるとたまにありました

565Republica de Venexia:2015/04/14(火) 00:14:32 ID:???
4月14日はアドリアノープルの戦いが行われた日です

>>64の第4回十字軍でコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は一時滅亡しました
十字軍は>>110で見たようにフランドル伯ボードゥアンを皇帝に選出し、かつての東ローマ帝国のような大帝国の建設を目指して各地の征服に乗り出しました
ひとまずビザンツ帝国の旧領を全て併合しようとしたわけですが、これには大きな困難が伴いました
というのも、>>46>>557で見たように、ビザンツ皇帝アレクシオス1世やヨハネス2世が行った貴族優遇政策により、各地方で貴族が勢力を持っていたからでした

ラテン帝国が征服事業を開始した際、ビザンツ貴族の一部はラテン帝国の支配に服し、協力する者もいました
しかし大部分のビザンツ貴族はラテン帝国の支配に反発し、激しい抵抗を行いました
このためラテン帝国による統治は安定せず、その支配権は限定されたものとなります
さらに悪いことにビザンツ貴族が第二次ブルガリア帝国と結び、ブルガリア皇帝カロヤンが侵攻してきます
このカロヤン、>>133で登場した第一次ブルガリア帝国皇帝シメオン1世を模範とし、かつての帝国領の多くを回復した傑物でした

1205年4月14日、ボードゥアンのラテン帝国軍とカロヤンのブルガリア帝国軍はアドリアノープルにて激突し、ラテン帝国はブロワ伯ルイが戦死、ボードゥアンが捕虜となり後に死去するなど大敗を喫し、ビザンツ帝国旧領の征服活動は頓挫することとなります
のみならずカロヤンは余勢をかってラテン帝国各地に侵攻し、ラテン帝国の支配体制はますます弱体化しました
またビザンツ帝国亡命政権のエピロス専制侯国やトレビゾンド帝国、そして>>227で見たニケーア帝国も勢いを得、コンスタンティノープル奪回に至るのでした


本日はラテン帝国征服事業の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

566Republica de Venexia:2015/04/15(水) 00:02:48 ID:???
4月14日はバーリが陥落した日です

ビザンツ帝国の南イタリア支配は>>235で見たようにユスティニアヌス1世の大征服事業により復活しましたが、早くも5世紀末にランゴバルドがアヴァール族と同盟して南下し、ラヴェンナとローマを結ぶラインの南を辛うじて支える状態となりました
7世紀になると>>253で見たヤムルーク河畔の戦いでイスラームに大敗、シリア・メソポタミア・エジプトを奪われるという大打撃を受け、イタリアでもこれに乗じてランゴバルド王国がビザンツ領に侵攻します

ランゴバルド王国はビザンツ帝国のラヴェンナ総督領を占領し、これに危機感を覚えたローマ教皇ステファヌス3世はフランク王国のピピンを頼り、ピピンはこれに応じてランゴバルド王国を撃破、その領土をビザンツ帝国ではなくローマ教皇に献上します
これが>>466でも見たピピンの寄進、そして教皇領の始まりでした
こうしてイタリアにおける領土が南部に限定されるようになったビザンツ帝国は>>306でも取り上げたテマをここでも採用し、カラブリアとプッリアにテマ長官を派遣し、この地域の維持に努めました

やがてビザンツ帝国は>>232で見たようにマケドニア朝のニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世の時代に全盛期を迎えます
その頃イタリアではプッリアでランゴバルド貴族がビザンツ帝国からの独立運動を展開しノルマン人がこれを支援しますが、バシレイオス2世が派遣したビザンツ軍は1018年のカンネーの戦いで独立派に大勝し、イタリア南部諸侯に宗主権を確認させました
しかし1021年、>>544で登場した神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がビザンツ帝国の勢力拡大を阻止するため南イタリアに遠征し、カプア侯国とサレルノ侯国を占領、ビザンツ帝国の勢力拡大は頓挫することとなります

ハインリヒ2世の死後イタリア南部の抗争は再び激化し、その中でノルマン人が台頭するようになります
その内の一人レイヌルフは1030年にアヴェルサ伯となり、このアヴェルサがノルマン人の活動拠点となりました
1035年にはノルマンディからオートヴィル家のギョーム、ドゥローゴ、オンフロワの三兄弟が南イタリアに入り、ビザンツ領のプッリアを占領したのです
その頃のビザンツ帝国はというと、>>349で見たようにゾエを中心とする宮廷抗争が展開されており、とてもノルマン人に反撃できる状況ではありませんでした

やがて南イタリアにはドゥローゴの異母弟ロベール=ギスカールが上陸しビザンツ領カラブリアに侵攻します
ロベールは1053年に反ノルマン同盟をチヴィターテの戦いで撃破し、1059年にはローマ教皇ニコラウス2世を援助した見返りとして正式にプッリア・カラブリア公に受封され、ビザンツ領征服の仕上げにかかりました
そして1071年4月15日、ロベールはビザンツ領として残っていたバーリを攻略し、ここに旧ビザンツ領の平定を完了します
ビザンツ帝国は反撃しようにも、>>261で見たようにマンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗、壊滅的な打撃を被りとても南イタリア奪回に乗り出せる状況になく、以後南イタリアにビザンツ帝国が戻ってくることはありませんでした


本日は南イタリアにおけるビザンツ帝国領の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

567Republica de Venexia:2015/04/16(木) 00:35:12 ID:???
4月16日はドイツ帝国で憲法が制定された日です

>>433で見たように、1871年1月、普仏戦争に勝利したプロイセンの国王、ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿にて皇帝に即位し、ドイツ帝国が誕生しました
そして新たな帝国の政治体制を整えるため、北ドイツ連邦憲法を元に憲法案がまとめられていきます

この北ドイツ連邦憲法はプロイセン王が元首として連邦主席を務め、ビスマルクが連邦政府を率いる連邦宰相となることを定めており、その憲法案は官僚が作成したものの、ビスマルクが出したいわゆる「プトブス口述」という指示によるところが大きいものでした
そして北ドイツ連邦憲法は憲法審議議会において、連邦元首の統治行為に対して宰相が連署することを通して責任を負うという規定が追加されるなどの修正があったものの、ビスマルクが提出した案が土台であることは変わりませんでした
つまりビスマルクがドイツ帝国の政治体制をも規定することとなったと言ってもいいでしょう

そして1871年4月16日、ドイツ帝国憲法が制定されます
この憲法の前文によれば、ドイツ帝国は北ドイツ連邦を代表するプロイセン王とバイエルン王以下、4ヶ国の君主との永続的な同盟として結成されたものであるとされました
国家元首はプロイセン王が世襲するドイツ皇帝だったものの、帝国の主権は皇帝ではなく、永続的な同盟に加わったプロイセン以下22の領邦君主と3つの都市国家の参事会が保持しており、その25の政府代表が構成する連邦参議院が帝国の主権を代表していたのです

また帝国における正式な大臣は皇帝が任命する宰相のみで、宰相の下に置かれた行政機関も宰相府のみでしたが、後に各帝国官庁が成立していきます
とはいえその帝国官庁の長官は大臣ではなく、あくまで宰相直属の部下という立場にすぎませんでした

立法機関に目を移すと、上院的な存在が先の連邦参議院とすれば、下院的な存在となったのが帝国議会です
帝国議会は満25歳以上の男子普通選挙によって選出されるという、当時のヨーロッパでは先進的なものでした
あらゆる法案は帝国議会の多数の支持を得なければ成立せず、帝国議会は立法機関として重要な位置を占めることとなります
もっとも帝国宰相は先に見たように皇帝によって任命され、帝国議会の信任を必要とはしなかったので、完全な議院内閣制にはほど遠いものでしたが、その先進的な内容は大日本帝国憲法にも影響を与えることとなったのでした


本日はドイツ帝国憲法の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

568Republica de Venexia:2015/04/17(金) 00:02:15 ID:???
4月17日はマリーノ=ファリエルが処刑された日です

第4回十字軍後、クレタ島をはじめ地中海各地に拠点を獲得し繁栄を迎えたヴェネツィア共和国ですが、13世紀末には一時後退の兆しが見え始めました
というのも、ライバルであるジェノヴァ共和国が台頭し、特に1293〜99年の抗争においてジェノヴァ艦隊に劣勢であることが明らかとなったからです
また>>227で登場した、ビザンツ帝国と敵対していたシャルル=ダンジューと同盟したことでビザンツ帝国との関係が悪化したことも挙げられます
さらに1281〜99年にはヴェネツィア最重要の植民地クレタ島で反乱が勃発したことも影響していました
そして1291年に十字軍最後の拠点アッコンが陥落したことでローマ教皇は新たな十字軍を組織することを試み、そのためヴェネツィアのエジプトとの交易を停止するよう強要するということもありました

こうしてヴェネツィアは対外関係において困難な時代となりましたが、同時に国内でも混乱が起こりました
これがヴェネツィア共和国史上最大の反政府運動とされるティエポロの反乱です
1310年、バイアモンテ=ティエポロ、マルコ=クィリーニ、バドエロ=バドエルが元首ピエトロ=グラデニーゴに対して起こした政権奪取のクーデターはしかし失敗に終わりました

これら一連の危機の対応として、ヴェネツィア共和国は2つの改革を行いました
それは大評議会のメンバーを限定することと、共和国のあらゆる危機を防衛するための十人委員会(コンシーリオ・ディ・ディエチ)の確立でした
十人委員会はティエポロの反乱後に緊急措置として作られましたが、1334年に常設機関となり、強大な権限を有し共和国における最有力組織となりました
そしてこの組織が最初に機能したのがマリーノ=ファリエルの反乱においてだったのです

1355年、元首マリーノ=ファリエルは平民の支持のもと貴族制を打倒し、独裁権力を得ようと企てました
ファリエル家はそれまで2人の元首を輩出した名門であり、マリーノ自身も大使や十人委員会のメンバーを務め、コンスタンティノープル周辺警備や黒海警備の海軍提督、またクレタ総督も経験してきた傑物でした
しかしそんなマリーノが企てた陰謀もたちどころに十人委員会に関知されることとなり、十人委員会は迅速に対処します
結果陰謀は阻止され、1355年4月17日、マリーノ=ファリエルは処刑されその他陰謀に関与した約50人が裁かれたのです
現在でもヴェネツィアで見られるパラッツォ=ドゥカーレの一室に並ぶ歴代元首の肖像画の中で、1つだけ肖像画の代わりに黒幕を描いた箇所がありますが、それがヴェネツィア共和国第55代元首マリーノ=ファリエルの箇所なのです
この事件の後十人委員会をはじめとする政府機関はますます強大化し、以後反政府運動は皆無となるのでした


本日はヴェネツィア共和国における反政府運動の命日です、おめでとうございます


参考文献
・永井三明『ヴェネツィア貴族の世界 社会と意識』刀水書房、1994年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』岩波書店、2004年
・藤内哲也『近世ヴェネツィアの権力と社会 「平穏なる共和国」の虚像と実像』昭和堂、2005年

569Republica de Venexia:2015/04/18(土) 00:02:47 ID:???
4月18日はドゥーリットル隊が日本本土を空襲した日です

>>377の1941年12月に行われた真珠湾攻撃以降、日本は南方資源地帯攻略の第一段作戦で大きな成果をあげ、1942年4月5日、さらなる勢力拡大の第二段作戦を内定しました
一方のアメリカは真珠湾攻撃以降、各地で敗退を繰り返し反撃のきっかけをつかめないまま1942年を迎えることとなりました
アメリカ大統領ルーズヴェルトは政府への非難を解消するため、宣伝的な意味合いの強い東京空襲を構想します
この構想はすぐに陸海軍に伝えられ、具体案が練られました

アメリカ合衆国艦隊司令長官キング大将と作戦参謀ロー大佐は、空母で日本近海に近づきそこから爆撃機を発進させて空襲するという計画を立案します
しかし日本の哨戒線より外から発進させるには艦上爆撃機では航続力に不安があったため、陸軍のB25ミッチェル中爆撃機を空母に搭載して遠距離から発進させるという案が提案されたのです
こうして計画がまとめられ、航空作戦参謀のダンカン大佐、陸軍航空隊総指揮官アーノルド大将、そして飛行機隊指揮官ドゥーリットル中佐のもと訓練・準備が進められました

1942年4月2日、16機のB25が空母「ホーネット」に搭載され、重巡洋艦2隻・駆逐艦4隻に護衛されて出撃しました
13日にはハルゼー中将率いる空母「エンタープライズ」以下重巡洋艦2隻・駆逐艦4隻からなる第十六機動部隊と合流し、17日には東京東方の1000マイル地点で燃料を補給、19日の攻撃に向けて進撃します
ところが日本の哨戒線外である500マイル地点での攻撃を予定していたものの、それより前の地点で哨戒艇に発見されるという誤算が起こってしまったのです
そのためドゥーリットル中佐は空襲計画を変更し直ちに発進することを提案、ハルゼー中将もこれを要れ1942年4月18日、ドゥーリットル隊は日本から623マイル地点から発進しました

ドゥーリットル隊は12時15分頃に日本本土に到達し、東京、川崎、横浜、横須賀、さらに名古屋、四日市、神戸を空襲し、そのまま中国方面へと退避していきました
日本軍も迎撃するものの一機も撃墜できず、またセイロン沖海戦から帰投中の南雲機動部隊などに米空母の追撃を命じるものの、米空母はドゥーリットル隊発進後すぐに反転退避したため捕捉することはできませんでした
こうしてドゥーリットル隊による日本本土空襲は成功し、空襲の被害自体は小さかったものの日本陸海軍の受けた衝撃は大きく、その挽回のためミッドウェー作戦が陸海軍の共同作戦として進められます
そして>>155のミッドウェー海戦に至ることとなるのでした


本日はドゥーリットル空襲の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦1 進攻篇』講談社、1988年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争3 ドーリットル空襲 珊瑚海海戦 ミッドウェー海戦』光人社、1995年
・森史朗『ミッドウェー海戦 第一部:知略と驕慢』新潮社、2012年

570Republica de Venexia:2015/04/19(日) 00:03:52 ID:???
4月19日レキシントン・コンコードの戦いが行われた日です

>>489の七年戦争、そして並行して北米で行われたフレンチ=インディアン戦争に勝利したイギリスはケベックとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得し、フランス勢力に対し優位に立つこととなりました
しかし戦争には勝利したものの、イギリスは多額の戦費を赤字国債発行によって賄っていたため、戦後巨額の負債を抱えるようになります
そしてこの負債の一部を北米植民地に負担させたのです

1765年、イギリスは印刷物全てに印紙を貼り納税を義務付けた印紙法を施行します
これに対し植民地側は「代表なくして課税なし」をスローガンに激しく反発し、印紙法は翌年撤廃されました
しかしこのままでは財政改善は望めないため、イギリスは1767年、蔵相タウンゼンド主導で茶や日常品に対する課税法案、いわゆるタウンゼンド諸法を発布します
植民地側はイギリス製品のボイコットをもってこれに応じ、本国との対立は深まっていきました

両者の対立は1773年の茶法によってますます激化します
この茶法は財政難に陥っていた東インド会社を救済するため、北米植民地への茶の輸送、独占販売権を東インド会社に与えるというものでしたが、これに対し茶貿易で利益をあげていたマサチューセッツ植民地、とりわけボストンの商人が反発し、>>98で見たボストン茶会事件が起こるのです

イギリスも報復として1774年に強圧的諸法と呼ばれる強硬策によってボストン港を封鎖しました
またマサチューセッツ植民地の特許状が取り上げられ自治権を剥奪されるという事態となり、植民地側はフィラデルフィアで大陸会議を開き本国の弾圧法の撤廃を要求、これが認められなかったため本国との通商断絶へと至りました
そして1775年4月19日、レキシントン・コンコードにおいて武力闘争に発展し、1783年に独立を勝ち取ることとなるのでした


本日はアメリカ独立革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年

571Republica de Venexia:2015/04/20(月) 00:01:23 ID:???
4月20日は顕如が石山本願寺から退去した日です

1568年、織田信長は上洛すると本願寺に対し莫大な矢銭を要求、一時はこれに妥協する姿勢を見せましたが、1570年、本願寺宗主顕如は信長に対する徹底抗戦を決断します
顕如は決起以前より各地から門徒衆を集め、さらに紀伊の雑賀衆も招聘し準備を整えていました
さらに甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、阿波の三好三人衆、安芸の毛利輝元らの大名と同盟を結び、同盟国の門徒衆も動員して信長に対抗することとなります

本願寺決起の直前、信長は京都に進軍しつつあった三好三人衆に攻撃を加えていましたが、本願寺は決起後この三好三人衆への加勢という形で織田軍に攻撃し、信長は朝倉義景と浅井長政が京都を目指して進軍してきたため撤退、緒戦は本願寺の勝利となりました
顕如はすかさず各地の門徒衆に決起を指令し、伊勢長島の門徒がこれに応じ一向一揆を結成します

信長はまずこの長島一向一揆の鎮圧を図りますが、2度にわたって失敗に終わり、顕如は浅井・朝倉との連携を強化し信長への包囲を強めました
さらに武田信玄もこれに呼応し>>391で見た三方ヶ原の戦いで徳川家康を破りますが、その後信玄が陣中で病死、さらに浅井・朝倉も信長によって滅ぼされ包囲網は瓦解します
これが1573年のことで、また翌1574年には長島一向一揆が信長によって殲滅され、1575年には越前一向一揆も制圧されました

この劣勢を挽回するため、1576年、顕如は大坂に布陣する織田軍に決戦を挑み天王寺の戦いとなります
この戦いで本願寺は塙直政を討ち取り明智光秀を孤立させますが、信長自らが陣頭指揮をとって攻め込んできたため形勢が逆転、本願寺は籠城戦を強いられるようになりました
この間本願寺は雑賀衆の鉄砲隊、また村上水軍を中核とする毛利水軍が運び入れる兵糧を頼りに防衛に努めます
特に毛利水軍は第一次木津川沖海戦で織田水軍を破り大量の兵糧を運び入れることに成功しました
しかし翌1577年、信長は雑賀衆の本拠紀州を攻撃し、膠着状態となるものの和睦を結んで雑賀衆を牽制し、1578年には第二次木津川沖海戦で鉄甲船の活躍により毛利水軍を撃破します
こうして頼みの雑賀衆・毛利の支援が思うように得られなくなった本願寺は孤立していきました
そして開戦から10年になる1580年4月20日、顕如は信長の依頼を受けた正親町天皇の勅命を受け入れ本願寺から退去、ここに決起から10年間にわたって続けられた石山合戦が終結したのでした


本日は石山合戦の命日です、おめでとうございます


参考文献
・武田鏡村『織田信長 石山合戦全史 顕如との十年戦争の真実』ベストセラーズ、2002年
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』吉川弘文館、2007年

572Republica de Venexia:2015/04/21(火) 00:35:00 ID:???
4月21日はパーニーパットの戦いが行われた日です

>>387で見たようにモンゴル帝国のフビライ=ハーンはモンゴル帝国の統合を進め、>>482で見たユーラシア大ネットワークの整備が行われました
こうしてモンゴルがユーラシアのほぼ全域を統合すると、ユーラシア規模での交易が促進され、経済・文化交流も発展していきます
やがてモンゴル帝国は瓦解し各地で新興勢力が台頭していきますが、その多くがモンゴル帝国の遺産を引き継ぐ形となったのです

15世紀以降ユーラシア各地に成立した大帝国は、モンゴル帝国が有していた柔軟かつ効率的な統治組織を備え、広大な地域を治め多様で大人口の人々を支配する術を受け継いでいました
ティムール帝国、オスマン帝国、ロシア、清などがこれにあたり、これらの多くがチンギス=ハーンの血統など、モンゴル帝国に由来する権威を利用していました
ティムールは婚姻関係を利用してモンゴルの正統に連なることでモンゴル帝国の後継者を自任し、清もその初期において全モンゴルの大ハーンを称しユーラシア東部の遊牧国家を支配下に組み込むことに成功したのです

このような例の1つにバーブルも挙げられます
バーブルはティムールの子孫にあたり、ムガル帝国建設の際にはモンゴルの正統たるティムールの血統を強く意識していました
「ムガル」がモンゴルのペルシア語であるということからもそれが伺えます
さてこのバーブル、ティムール朝サマルカンド政権の支配下であるフェルガナに産まれたものの、ウズベク族との抗争に敗れアフガニスタンのカーブルに本拠を移します
ここで勢力基盤を固めたバーブルはやがてインドへと南下し、当時インドを治めていたデリー=スルタン朝のロディー朝と対峙しました
そして1526年4月21日、バーブルはパーニーパットの戦いでロディー朝を破ったのです
ここにロディー朝は滅亡し、バーブルはムガル帝国を建国することとなるのでした


本日はムガル帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論新社、2008年
・永田雄三・羽田正『世界の歴史15 成熟のイスラーム世界』中央公論新社、2008年
・間野英二『世界史リブレット人46 バーブル ムガル帝国の創設者』山川出版社、2013

573Republica de Venexia:2015/04/22(水) 00:06:55 ID:???
4月22日はカブラルがブラジルに漂着した日です

>>555で見たポルトガル・アヴィス朝を開いたジョアン1世は海上進出を推し進め、特に息子のエンリケ航海王子はアフリカ西岸探検を進めインド航路開拓の基礎を築き、大航海時代の幕開けとなります
新航路開拓をさらに発展させたのがジョアン2世で、彼の命で探検に出たバルトロメウ=ディアスが1488年に喜望峰に到達しました
次代のマヌエル1世もまたインド航路開拓を進め、ヴァスコ=ダ=ガマが1498年にカリカットに到達するなど、ポルトガルの海上進出は着々と進められていったのです

カブラルもまたマヌエル1世の命でインド航路開拓に挑んだ航海者で、ヴァスコ=ダ=ガマに続く第2回インド遠征に臨みました
カブラルの艦隊は西に進み、やがて陸地を発見します
1500年4月22日、カブラルはブラジルに漂着し、ここをポルトガル領と宣言します
ポルトガルのブラジル領有はトルデシリャス条約に基づいて正式に認められ、以降ブラジルはポルトガルの植民地となるのでした


本日はポルトガル領ブラジルの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

574Republica de Venexia:2015/04/23(木) 00:17:15 ID:???
4月23日はオラニエ公マウリッツが亡くなった日です

>>445で見たように、オランダ独立戦争はその初期においてスペインに対し劣勢で、ユトレヒト同盟を結成したもののオラニエ公ウィレムが暗殺されるなど同盟には内部対立がありました
スペインから派遣されたパルマ公はこの分裂を利用し同盟の崩壊を図ります
これに対抗したのがホラント州の政治家オルデンバルネフェルトで、彼は同盟の分裂を防ぎつつパルマ公と対峙し、やがてスペイン王フェリペ2世がフランスのユグノー戦争に介入するため、パルマ公およびフランドル軍主力をネーデルラントから移動させたことで窮地を脱しました
しかしフェリペ2世の後を継いだフェリペ3世がフランス・イギリスと講和したことで再びフランドル軍主力がネーデルラントに集結し、ネーデルラント反乱軍は劣勢となります
オルデンバルネフェルトはスペインに停戦交渉を申し込み、1609年に休戦協定が成立、辛くも状況の打開に成功しました

この休戦期間中に権力を握ったのがオラニエ公マウリッツです
彼は1618年にオルデンバルネフェルトを処刑して最高司令官の地位を維持すると、スペインに対抗するため軍制改革に乗り出しました
マウリッツは古代ローマの軍事書を参考にその規律、組織、戦術などを学び、これによってネーデルラント軍は統制の取れた火力・機動力を備えた軍隊を作り上げたのです
またマウリッツは当時の主流だったスペインのテルシオに変わり歩兵・騎兵・砲兵の三兵戦術を確立し、これをもって休戦協定明けの1621年以降スペインに挑み、互角の勝負を展開します
マウリッツ自身は1625年4月23日に死去しますが、その軍制改革は>>285で見たようにスウェーデンのグスタフ=アドルフによって完成され、また彼が鍛え上げたネーデルラント軍も八十年戦争を戦い抜き、ついには独立を達成することとなるのでした


本日は軍事革命産みの親の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

575Republica de Venexia:2015/04/24(金) 00:02:24 ID:???
4月24日は戦列艦「ヴァーサ」が引き上げられた日です

>>527で見たようにスウェーデンはストルボヴァの和約でロシアと講和し、バルト帝国建設の第一歩を踏み出しました
スウェーデン王グスタフ=アドルフは矛先をポーランドに転じ、バルト海沿岸地域の支配を巡って対ポーランド戦争が続けられます
当初はポーランド領のリヴォニア、東プロイセンを占領するなどスウェーデン優勢で進みましたが、ポーランドはスタニスワフ=コニェツポルスキが指揮官とし反撃、敗北を重ねることとなったのです

このコニェツポルスキに対する敗北がグスタフ=アドルフに軍制改革の必要性を痛感させ、昨日>>574で見たオラニエ公マウリッツの戦術を導入するきっかけとなるのですが、ここではスウェーデン海軍に目を向けましょう
スウェーデンはバルト海の制海権
を確保するため艦隊を派遣しますが、コニェツポルスキ率いるポーランド海軍に大敗を喫し、こちらも艦隊の整備が急務となったのです

そこでグスタフ=アドルフは1626年に起工された戦列艦「ヴァーサ」の建造を急がせ、また過大な性能を要求します
元々46門の予定だった砲門を70門とさせ、当初一段式だった砲甲板を二段式に変更させたのです
こうして急ピッチで建造が進められた「ヴァーサ」は1628年、全長62m、最大幅11.7m、高さ50m、排水量1,210トン、大砲64門というスウェーデン最大、17世紀の軍艦としても最大級の戦列艦として竣工しました
この「ヴァーサ」はストックホルムにて処女航海を行いますが、砲甲板の増加、過大な砲門数により重心が高くなっており、非常に不安定な状態での航海となりました
そしてわずか3km進んだところで横風にあおられ、バランスを失って転覆、そのまま沈没してしまったのです

こうして海の藻屑となってしまった当時のスウェーデン海軍最新鋭艦「ヴァーサ」は、沈没から300年以上経った1956年4月24日に引き揚げられます
そしてこの「ヴァーサ」、沈没地点が低音地帯であったため腐食が少なく、ほとんど原型を留めた状態でした
17世紀当時の戦列艦の構造や設備を今に伝える貴重な資料として、現在はストックホルムのヴァーサ博物館に展示されているのです


本日は戦列艦「ヴァーサ」の引き揚げ日です、おめでとうございます


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年

576Republica de Venexia:2015/04/25(土) 15:36:48 ID:???
4月25日はルイ=ドゥ=ポワシィが産まれた日です

フランス王国カペー朝は>>229で見た、1214年7月のブービーヌの戦いでフィリップ2世が大勝し、その地位を確立しました
そしてちょうどこの年の4月25日、フィリップ2世の息子ルイ8世の次男として産まれたのがルイ=ドゥ=ポワシィ、後のルイ9世です
フィリップ2世は1223年に亡くなり、その後を継いだルイ8世も先王の事業を継続し征服を進めましたが、その治世わずか4年にして急死、彼の長男フィリップも夭折していたため、ルイ=ドゥ=ポワシィが1226年11月にルイ9世として即位したのです

とはいえ即位当時ルイ9世は12歳で統治はままならず、母親で先王の王妃であったブランシュ=ドゥ=カスティーユが摂政としてルイを支えることとなりました
ブランシュはルイが成人するまで王位を狙う諸侯を抑え、1234年4月25日、ルイは成人を宣言し親政を開始します

ルイ9世の治世における事業としては、まず十字軍が挙げられます
>>521で見たように神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が奪還したイェルサレムが再びイスラームの手に落ち、ルイはこれの奪還のため十字軍を起こしたのです
1248年、ルイは十字軍を率いてアイユーブ朝のエジプトを攻撃しますが、ダミエッタを占領したものの敗北、自身も捕虜となった後1254年に帰国しました

この十字軍失敗の後、ルイは以前にもまして敬虔になったといいます
国内の教会保護に尽力し、各教派に僧院を寄進、またキリスト教神学教育のためパリにソルボンヌ大学を創設したのです
またその公明正大な人物を期待され、フランス国内のみならず国外での調停を任されるようになり、イタリアでの教皇派と皇帝派との調停も頼まれました
内政においても高等法院を創設して裁判制度を整え、統一通貨トゥルノワ銀貨はヨーロッパでも権威のある貨幣となります

そして最後の事業として再び十字軍を組織、1270年に>>40などで登場した弟シャルル=ダンジューとともにチュニジアを攻めますが、その途上の1270年8月25日、あえなく陣没してしまいます
こうして志半ばで死去したルイですが、彼の孫にあたるフランス王フィリップ4世の働きかけによって1297年にフランス王として唯一列聖され、彼の命日である8月25日はカトリックの祝日となったのでした


本日は「聖王」ルイ9世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年

577名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/04/25(土) 21:37:33 ID:nlwgE/Ac
今日は早いんですね、乙です

578Republica de Venexia:2015/04/25(土) 21:43:47 ID:???
>>577
いやすみません、昨日書いておいた後、日付変わってから書き込むのを忘れてまして
聖王ルイのは今日の分ですはい

579名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/04/25(土) 21:46:14 ID:nlwgE/Ac
>>578
言われてから今日の分見た記憶がないことに気付きました・・・(池沼)
失礼しました

580Republica de Venexia:2015/04/26(日) 00:00:51 ID:???
4月26日はロンドン秘密協定が結ばれた日です

>>329で見たようにイタリアはサルデーニャ王国の下で統一が進められ、1861年にはイタリア王国が成立しました
1866年には普墺戦争でプロイセン側として参戦しヴェネツィアを併合、1870年には普仏戦争に乗じてバチカンを除く教皇領を併合しました
この教皇領併合後は国内統治に集中するため、イタリアのヨーロッパ列強への関わりは極力避けるようになります
しかしその一方で孤立化も危惧したため、ドイツとの関係が深まり、そのドイツを通じてオーストリアとの関係も生じるようになりました

しかしオーストリアはかつての敵国であり、また1870年以降もオーストリア領に留まっていたトリエステや南チロル、いわゆる「未回収のイタリア」を巡って対立しているという状態でした
1881年にフランスがチュニジアを保護国とするとイタリアはこれに反発し、翌1882年にドイツ、オーストリアとともに三国同盟を形成するものの、オーストリアとの対立により有効に機能したとは言い難いものでした

この両国の対立は第一次世界大戦においても継続し、イタリアは当初中立の立場を取ることとなりました
その間にもイタリアは未回収のイタリア譲渡をオーストリアに要求しましたが満足な回答は得られず、その結果イタリアはイギリス・フランスへと接近します
そして1915年4月26日、イタリアは三国協商側につく見返りとしてトリエステやダルマツィア獲得を約束したロンドン秘密協定を締結、三国同盟からの離脱を決定したのです

その後イタリアは連合国側としてオーストリアに宣戦布告し、>>340で見たようにイタリア戦線にて決定的な勝利を収めます
もっとも大戦後に行われたパリ講話会議ではダルマツィアやフィウメなどはイタリア領とは認めないという空気が支配的となり、イタリアは会議をボイコットする事態となります
その後サン=ジェルマン条約で旧オーストリア領のトレンティーノ、南チロル、イストリアなどを獲得するもののイタリア国民の不満は大きく、やがてファシスト党が台頭することとなるのでした


本日は連合国側イタリアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

581Republica de Venexia:2015/04/27(月) 00:02:12 ID:???
4月27日はブルゴーニュ公フィリップが亡くなった日です

>>440で見たように、フランス王シャルル5世は百年戦争におけるフランスの混乱を収拾し、イングランドに対する劣勢を挽回することに成功しました
このシャルル5世が1380年に亡くなった後に新国王となったのがシャルル6世でした
しかしシャルル6世は即位当時わずか11歳であり、シャルル5世の弟であるアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ、シャルル5世の王妃の兄であるブルボン公ルイが補佐を行うこととなります

しかしこの4人、新国王が幼いのにつけ込み政治を私物化し、その中でもブルゴーニュ公フィリップが事実上の摂政となって政権を掌握します
しかし1388年、シャルル6世が親政を宣言するとフィリップは政権の中枢から遠ざけられ、代わってシャルル6世の弟のオルレアン公ルイが重用されるようになりました

ところが王権を固めようとした矢先の1392年、シャルル6世は精神に異常をきたし、政務をとるのが困難な状況に陥ってしまいます
これを機にブルゴーニュ公フィリップは勢力を挽回し、宮廷はブルゴーニュ公フィリップを中心とするブルゴーニュ派、オルレアン公ルイを中心とするオルレアン派に分かれて政治闘争を繰り広げます
この両派はも百年戦争におけるイングランド問題で対立しており、>>288で見た教会大分裂(大シスマ)の時期でもあり、このシスマ問題でも対立、さらに神聖ローマ帝国や北イタリアね諸侯との関係による勢力争いなど、まさに一触即発の状況にありました

もっともブルゴーニュ公フィリップの存命中は表立っての抗争には発展せず、フィリップは1404年4月27日に死去します
その後を継いだのが長男のジャンであり、このジャンは無畏公の渾名が示す通り非常に好戦的な人物で、ブルゴーニュ派とオルレアン派の宮廷闘争は他国をも巻き込む武力闘争へと発展することとなるのでした


本日はフィリップ豪胆公の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『フランス王朝史2ヴァロワ朝』講談社、2014年

582Republica de Venexia:2015/04/28(火) 01:12:26 ID:???
4月28日はイスラームがイベリア半島に上陸した日です

>>311で登場したムアーウィヤによって開かれたウマイヤ朝は、第5代カリフのアブド=アルマリクの時代に最盛期を迎え、各地への征服活動を進めます
東方では将軍ハッジャージュ=ブン=ユースフがイラクを制圧後ブハラ、サマルカンドを征服し、さらにフェルガナ地方へも進出するなど、中央アジアのイスラーム化のさきがけとなりました

一方、西方へと勢力を拡大していったのが将軍ムーサー=ブン=ヌサイルでした
ムーサーはビザンツ勢力を北アフリカから駆逐し、チュニジアのカイラワーンを拠点としてさらに西へと進出します
この地域には先住民族ベルベル人が居住していましたが、ムーサーはこれを従えモロッコまで勢力を拡大しました

モロッコの制圧後、ムーサーの指揮下にあったベルベル人の将軍ターリク=ブン=ジヤードはベルベル人部隊を率い、711年4月28日、イベリア半島のジブラルタルへと上陸します
当時イベリア半島は>>259などで登場した西ゴート族が治めていましたが、グアダレーテの戦いでターリクは西ゴート王国軍に大勝し一気に首都トレドを陥れました
ムーサーも翌年自ら軍を率いてイベリア半島に上陸し、ターリクよりも西寄りで進軍しセビージャやメリダなどを制圧していきました

2人はトレドで合流し、ここでイスラーム軍は再び二手に分かれます
一方は北西方面へ、もう一方は北東方面へと進みサラゴサやバルセロナを占領、715年にはほぼイベリア半島の征服を完了したのです
以後もイスラームの進軍は続き、これが止められるのは>>373で見たトゥール・ポワティエ間の戦いでカール=マルテルに敗北するのを待つこととなります


本日はアル=アンダルスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

583Republica de Venexia:2015/04/29(水) 00:01:18 ID:???
4月29日はスペイン王国がグラン・カナリアを征服した日です

イベリア半島でのレコンキスタの進展は>>407で見ましたが、ここではその終盤、カトリック両王の治世での話となります
1469年、カスティーリャ王女イサベルとアラゴン王子フェルナンドが結婚し、いわゆるカトリック両王と称されることとなります
イサベルは1454年のエンリケ4世の死後女王となりますが、その即位に反対する勢力が存在しました
それはカスティーリャ王エンリケ4世の一人娘フアナを支持するグループで、王位継承をめぐって内戦が勃発したのです

この継承権争いによって特にガリシアとアンダルシアが無秩序状態に陥り、フアナ派はポルトガルの援助を受けイベリア半島全体を巻き込む内戦となりました
この内戦は1476年のトロの戦いでイサベル派が勝利して以降はフアナ派は支持を失い、イサベルの王位継承で決着をみることとなります

この過程で征服されたのがカナリア諸島でした
カナリア諸島周辺海域は大西洋へ進出するためには重要な地域であり、アラゴン王国にとっての地中海と同等の価値を有していました
そのためカトリック両王は当初からこの海域の確保を狙っており、同じく海上進出に積極的であったポルトガルと衝突することになります
そのポルトガルはフアナ派に味方して敗れたことでカスティーリャに対し劣勢となり、カスティーリャはそのまま1478年4月29日、カナリア諸島のグラン・カナリアを征服し、その主都ラス・パルマスに司教区と高等法院を設置します
同じくカナリア諸島に属するテネリフェ、ラ・パルマも征服され、これらの地域には多くの自治権が与えられました
このカナリア諸島領有は1479年のアルカソヴァス条約でイサベルの王位継承とともに認められ、正式にカスティーリャ領となったのでした


本日はカスティーリャ領カナリア諸島の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年

584Republica de Venexia:2015/04/30(木) 02:10:06 ID:???
4月30日はカジミェシュ3世が誕生した日です

ポーランド・ピアスト朝は長らく分裂状態にありましたが、13世紀末から統一の機運が高まっていきます
そのなかで1295年、ヴィエルコポールスカ侯プシェミスウ2世が、1079年のボレスワフ大胆王以来約200年ぶりに国王として戴冠しました
プシェミスウは翌年暗殺されボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王となるものの、1306年にヴァーツラフ2世の息子ヴァーツラフ3世が暗殺され、ボヘミア支配は長くは続きませんでした

この時台頭してきたのがクヤーヴィ侯ヴワディスワフ1世短躯王で、1320年に正式に国王として戴冠しポーランド人国王の下でのポーランド統一の必要性を訴えたのです
このヴワディスワフ短躯王の息子として1310年2015年4月30日に産まれたのがカジミェシュ3世でした
カジミェシュは>>103で見たように内外に抜群の政治的手腕を発揮し、ポーランドの国際的地位を高めることに成功します
1364年にはポーランドの都クラクフに神聖ローマ皇帝カール4世、ハンガリーの大王ラヨシュ1世ら多数の君主が招かれ、対トルコの十字軍問題について議論したことからも伺えます


本日はカジミェシュ大王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ステファン・キェニェーヴィチ編、水島孝生・加藤和一夫訳『ポーランド史』恒文社、1996年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年

585Republica de Venexia:2015/05/01(金) 00:39:41 ID:???
5月1日はイングランドとスコットランドが合同した日です

イングランドでは>>226で見たようにスコットランド王でもあったジェームズ1世が即位して以降、スコットランドとの同君連合となります
やがてイングランドは>>197の清教徒革命で一時王政が打倒されたもののチャールズ2世が王政復古を果たし、>>487で見た名誉革命を経てメアリ2世とウィリアム3世の共同統治が行われていました

このうちメアリは1694年に没し、ウィリアムも1702年に亡くなりますが、2人には子供がいなかったため、メアリの妹にあたるアンが女王となりました
しかしこれに対し、名誉革命で追放されたジェームズ2世の亡命先であるフランスのルイ14世が、ジェームズの息子であるジェームズ=フランシス=エドワードをイングランド王に擁立するなど、アンの即位に反対する運動が起こりました

これはアイルランド、スコットランドでも同様で、これらの地域ではジェームズ派を意味するジャコバイトによる反体制運動が盛んとなります
特にイングランドとスコットランドの対立は激しく、1705年の外国人法によりスコットランド人が外国人と規定された頂点に達しました
この争乱を収めるため、1706年からイングランド・スコットランド両国合同のための交渉が行われることとなります
そして1707年5月1日、両国の合同法が発効し、イングランドとスコットランドは正式に統合されたのでした


本日はグレートブリテン王国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

586Republica de Venexia:2015/05/02(土) 00:02:08 ID:???
5月2日はゾフィー=アウグステ=フリーデリケが産まれた日です

ゾフィーは1728年5月2日、後にプロイセンの元帥となるアンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン=アウグストとホルシュタイン=ゴットルプ家のヨハンナ=エリーザベトの長女として産まれました
と、このように生粋のドイツ人であった彼女ですが、やがてロシアへと旅立つ日がやってきます

その頃のロシアはという女帝エリザベータの治世でしたが彼女には子供がおらず、1741年に即位後間もなく後継者の選定を行います
ここで選ばれたのが、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール=フリードリヒと、エリザベータの姉であったアンナ女帝との息子、つまりピョートル大帝の孫であるペーター=ウルリッヒでした
なおペーターは同じく国王に子供のいないスウェーデンも後継者として迎え入れようとしていましたが、当時ロシアとスウェーデンはバルト海を巡って争っているところでした
これが実現した場合、ロシアはピョートル大帝の孫が帝国スウェーデンを率いるということになるため、いち早くロシアに迎えることとなったのです
こうして1743年、ペーターは皇太子としてロシアに入り、ピョートル=フョードロヴィチと改めてました

次に行われたのがピョートルの妻、つまり皇太子妃の選択で、これに選ばれたのがゾフィーだったのです
ホルシュタイン=ゴットルプ家を通じてピョートルのまたいとこにあたるゾフィーは1744年にロシア入りし、名をエカチェリーナ=アレクセーヴナと改めました
この2人が後のロシア皇帝ピョートル3世、女帝エカチェリーナ2世となるのですが、ピョートルのプロイセン贔屓、プロイセン王フリードリヒ2世>信奉によって夫婦仲がうまくいかず、やがてクーデターによりピョートルが廃位されエカチェリーナが女帝となったのは>541でも見た通りです


本日は後のエカチェリーナ2世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

587Republica de Venexia:2015/05/03(日) 00:08:56 ID:???
5月3日はメフメト2世が亡くなった日です

オスマン帝国スルタン、メフメト2世の若年期は>>469で、その後のコンスタンティノープル征服は>>146で見ました
ここではその後のメフメト2世について見ていくことにしましょう

メフメトはコンスタンティノープル征服後も東西に征服活動を続けていきます
まず標的となったのはバルカン半島の強国、オスマン帝国の北上にとって最大の障害となっていたハンガリーで、その玄関口にあたる拠点ベオグラードの攻略に着手しました
しかしこのベオグラードを守るのは>>469で見たようにメフメトの一時退位の原因となったフニャディ=ヤノシュで、メフメトはまたもこれに敗退し、自身も負傷して退却します

こうしてハンガリーへの攻勢は頓挫しましたがバルカン半島内部への征服は順調に進行し、1456年にはアテネ公国、59年にはセルビア、60年にはビザンツ系国家モレア専制公国、62年にはヴラド=ツェペシュ亡き後のワラキア公国、63年にボスニア、78年には>>367にも登場したスカンデルベグ亡き後のアルバニアを征服、バルカン半島のほぼ全土がオスマン帝国支配下となったのです

小アジアもまた征服が進められ、1461年にビザンツ皇帝の子孫であるコムネノス家が支配するビザンツ系最後の国家トレビゾンド帝国を滅ぼし、黒海南岸を制圧しました
66年には小アジアん陸上交易ルートを抑えるカラマン君侯国を征服し、内陸交易ネットワークの掌握にも成功します
メフメトはさらに小アジア東部へと兵を進め、ヴェネツィア共和国と同盟する白羊朝を撃破、小アジア東部にも勢力を拡大しました
その後の1475年には黒海北部沿岸に侵攻、ジェノヴァ共和国の拠点カッファを占領し、クリミア半島のクリミア=ハーン国を服属させ、黒海をも掌握したのです

メフメトの征服活動は留まることを知らず、今度はルネサンス文化が栄えるイタリアに目を向けます
第二のローマ、コンスタンティノープルを征服した彼はローマをも征服すべく一時はイタリア半島のオトラントを占領しましたが、1481年5月3日、進軍を開始していたメフメトは陣中で急死します
当時49歳、その死因や最後の遠征の目的地は明らかにはなっていませんが、一代の英傑の生涯がここで幕を下ろしたのでした


本日は「征服者」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

588名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/05/03(日) 18:28:07 ID:5Zf8EIos
>>587
信長みたいな一生ですね…

589Republica de Venexia:2015/05/03(日) 18:30:01 ID:???
>>588
征服につぐ征服ですよね
最期も暗殺という説がありますし、確かに中国遠征に出立する時の信長みたいですね

590Republica de Venexia:2015/05/04(月) 01:23:25 ID:???
5月4日は沖田畷の戦いが行われた日です

肥前の戦国大名、龍造寺隆信が頭角を現したのは1559年のことでした
もともと龍造寺氏は守護大名の少弐氏に従属する国衆でしたが、隆信の曽祖父家兼の代で一時肥前を追われその後逆襲、隆信の代で独立を果たしたのです
この龍造寺の成長を警戒したのが豊後をはじめ肥前も含む6ヶ国の守護となった大友宗麟でした
毛利が九州に侵攻し大友を攻めた際、龍造寺が毛利方についたこともあって宗麟は隆信の本拠地佐嘉城を攻撃します
圧倒的に寡兵だった隆信でしたが、鍋島直茂らの夜襲によって大友方の総大将大友親貞を討ち取り撃退に成功しました

この1570年の今山の戦いの後の龍造寺の勢力拡大は著しく、小田鎮光を謀殺、江草武種・後藤貴明の養子に隆信の息子を入れ家督を継承させ肥前支配を固めていきます
1577年には大友が耳川の戦いで島津に大敗したことで大友による支配が弱まり、龍造寺はますます伸長していくこととなります
筑後の蒲池鎮並、田尻鑑種、肥後の隈部親泰、肥前の有馬晴信、大村純忠を従属させ、隆信は「五州二島」の太守と称されるようになりました

しかし隆信は1581年に蒲池鎮並を謀殺、83年に肥後国衆の赤星統家の人質を殺害するなど残虐な行為が目立つようになり、たびたび反乱が起こるようになります
そのなかで肥前の有馬晴信は龍造寺から離反して島津と結びましたが、この晴信への対応と肥後を巡る領土争いもあって島津と直接対決に至ります
そして1584年5月4日、隆信は肥前島原の沖田畷に大軍を進め、晴信とその援軍である島津家久を攻撃しますが島津得意の「釣り野伏」に遭って大混乱に陥り、隆信自身も討ち取られるという大敗を喫したのです
隆信と有力な重臣の多くを失った龍造寺はこの後急速に衰退し島津に従属、やがて鍋島直茂が実権を握っていくこととなるのでした


本日は「肥前の熊」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「歴史読本 2013年9月号 戦国大武将の後継者」中経出版、2013年

591Republica de Venexia:2015/05/05(火) 00:24:26 ID:???
5月5日はアディスアベバが陥落した日です

>>549で見たように19世紀のアフリカはイギリスとフランスが積極的に進出し、国家統一達成が世紀後半であったドイツは植民地獲得に遅れをとっていました
これはイタリアも同様で、1895年に植民地とならずに独立を保っていたエチオピアに侵攻しますが、翌96年のアドワの戦いで大敗し断念せざるを得ませんでした

時代は降りムッソリーニ政権となっていた1935年、イタリアは再びエチオピアへと侵攻します
国際連盟はこれを非難し経済制裁を課しましたが石油の禁輸措置を取らなかったため効果は薄く、逆にムッソリーニは国民の反発を煽ってエチオピア侵略の支持を取り付けたのです
そして1936年5月5日、エチオピアの首都アディスアベバは陥落、皇帝ハイレ=セラシエ1世もイギリスに亡命しイタリア領エチオピア帝国が成立しました

やがて第二次世界大戦が勃発するとイタリア領東アフリカはイギリスの攻撃を受け、1941年4月にはアディスアベバが解放されます
亡命していたハイレ=セラシエ1世も、奇しくもアディスアベバ陥落と同日の5月5日に入城、皇帝に復位しました
その後イタリアの東アフリカ支配は崩壊し、ハイレ=セラシエの戦後は>>338で見た通りです


本日はエチオピア最後の皇帝の再誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年

592Republica de Venexia:2015/05/06(水) 00:32:53 ID:???
5月6日はハインリヒ2世が産まれた日です

オーリヤックのジェルベールをシルウェステル2世として教皇とし、ローマ帝国の復活を目指したオットー3世でしたが、志半ばの22歳という若さで急死してしまいます
このオットー3世の後継者として1002年にドイツ王となったのがハインリヒ2世でした

ハインリヒ2世は973年5月6日、ザクセン朝初代のハインリヒ1世の曾孫にあたり、オットー3世没後の後継者争いにはその血筋を根拠として正当な後継者であると主張しました
ハインリヒ2世は王権を固めるため、自身の所領であったバイエルン大公領を帝国権標にしようと努めます
その一環として1007年にバンベルク司教区を創設し、バイエルン、シュヴァーベン、ライン地方、テューリンゲン、ザクセンの国王支配領域の連結を図りました

その後皇帝となったハインリヒ2世の統治は>>544で見た通りです
彼の死によりザクセン朝は断絶しますが、彼の代で帝国権標となったバイエルン大公領は以後も重要な役割を果たすこととなります
>>512で見たバイエルン大公ハインリヒ傲岸公の強権はその一例といえるでしょう


本日はザクセン朝最後の王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

593Republica de Venexia:2015/05/07(木) 00:12:20 ID:???
5月7日はオットー1世が亡くなった日です

オットー1世による「ドイツ王国」への移行は>>242で、「キリスト教国の防衛」は>>245で、そして西欧での覇権を確立し「神聖ローマ帝国」が成立したことは>>468で見ました
ここではその後のオットー1世の統治を見ていくこととしましょう

オットーの政策は大きく4つに分類されます
まず教皇に対する皇帝の保護権確保、ついでローマと教皇領も含めたイタリア支配、さらにザクセン朝への帝位の確保、そしてビザンツ皇帝による皇帝権の承認です
このうち最初の教皇に関する政策に関しては>>468で見た通り、「オットーの特権状」で皇帝の優位性をはっきりと示しており、皇帝権の教皇権に対する優越、教皇の保護者たる存在としての皇帝を実現しました

2つ目のイタリア支配に関しては、皇帝権の理念に不可欠なものであったため、その統治は特に重要視されました
オットーは皇帝としての統治期間12年のうち10年間をイタリアで過ごし、帝国の統治にあたったのです
イタリア王を名乗っていたべレンガリオを降伏させてオットーの支配権を承認させ、またイタリア南部のビザンツ帝国領にも影響力を強め、カプア、ベネヴェント、サレルノの諸侯がオットーの宗主権を認めました
とはいえイタリアにおける皇帝権の優位はその軍事的優越に依存しており、そのためには帝国軍のイタリア遠征、そして皇帝戴冠のためのローマ遠征が必要であり、いわゆる「イタリア政策」として以後の神聖ローマ帝国にも影響を及ぼすこととなります

3つ目のザクセン朝への帝位の確保については、すでに961年に息子であるオットー2世をドイツ王に即位させ、967年にはオットー2世は教皇の手によって戴冠され、共同皇帝としたことで実現されました
こうしてオットー1世の皇帝権が確立しましたが、ビザンツ帝国のニケフォロス2世、ヨハネス1世オットーの皇帝権を認めていませんでした
しかしヨハネス1世はイタリア半島におけるオットー1世との戦闘で敗北したことで帝位の承認に傾き、972年にはヨハネスの姪テオファーヌとオットー2世との結婚により承認がなされたのです

こうしてオットー1世は帝国の威信を高め、その功績により大帝と称されることとなります
オットー大帝は973年5月7日に死去し、その政策はオットー2世に受け継がれるのでした


本日は単独皇帝オットー2世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

594Republica de Venexia:2015/05/08(金) 00:09:42 ID:???
5月8日は珊瑚海海戦が行われた日です

>>569で見たドゥーリットル空襲の後、日本海軍の第二段作戦準備はさらに加速し、その第一期としてツラギ・ポートモレスビー攻略作戦であるMO作戦が開始されました
この作戦はポートモレスビーに上陸する陸戦隊を運ぶ輸送船を中心とするMO攻略部隊、その護衛のMO主隊、この2つを掩護するMO機動部隊の3隊によるものでした

まず前哨戦としてツラギ攻略が進められ、同地のオーストラリア軍がすでに撤退していたため1942年5月3日には無血占領に成功します
同じ頃主力3隊も作戦を開始し、第五戦隊「妙高」「羽黒」に第五航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」を主力とするMO機動部隊と、第六戦隊「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」に空母「祥鳳」などのMO主隊が5月4日に合同します
米軍も「レキシントン」「ヨークタウン」を主力とする第十七任務部隊が日本海軍の進撃を阻止しようと近づきつつありました

5月7日、両軍は索敵機を発艦させともに機動部隊の発見を目指しますが、日本海軍は誤報により給油艦と駆逐艦を沈めたのみに終わりました
一方米軍も日本機動部隊は見つけられませんでしたが「祥鳳」を含むMO攻略部隊を発見し「祥鳳」を撃沈、これによってMO攻略部隊は北に退避したため、ポートモレスビー攻略は延期されることとなります
このように7日には本格的な戦闘は行われず、日没に伴い攻撃は中止となりました

そして1942年5月8日、ついに両軍機動部隊が相まみえ、史上初となる空母機動部隊同士の決戦が行われることとなります
夜明けとともに両軍の索敵機が発艦し、敵部隊発見もほぼ同時刻、攻撃機の発艦もほぼ同時という状況で決戦は開始されました
「翔鶴」飛行隊長の高橋赫一小佐率いる攻撃隊は米機動部隊に雷爆同時攻撃を行い、「レキシントン」を撃沈、「ヨークタウン」を中破という戦果を挙げますが日本側も多くの艦載機を失い、高橋小佐め戦死してしまいます
一方米艦載機もMO機動部隊の攻撃に向かいましたが、ちょうどこの時スコールが発生しており、「瑞鶴」はこれを隠れ蓑として攻撃を回避、一方「翔鶴」は集中攻撃を受けることとなりました
「翔鶴」は米艦載機の雷撃は全て回避したものの急降下爆撃によって被弾し中破、空母としての機能を喪失します

午後になるとMO機動部隊と攻略部隊の指揮をとる第四艦隊司令長官の井上成美中将は、機動部隊の損害を考慮して退避を決定しました
しかし聯合艦隊司令長官の山本五十六大将は追撃を司令、翌5月9日にMO機動部隊は再び索敵しますが、米機動部隊はすでに離脱していたため戦闘は起こりませんでした
こうして珊瑚海海戦は終わり、日本は空母「祥鳳」、駆逐艦「菊月」、掃海艇3隻が沈没し空母「翔鶴」が中破、艦載機93機を喪失、アメリカは空母「レキシントン」、給油艦「ネオショー」、駆逐艦「シムス」が沈没、空母「ヨークタウン」が中破、艦載機69機を喪失という結果に終わり、日本は戦術的には勝利したと言えるものの、作戦目標であるポートモレスビー攻略は阻止される結果となったのでした


本日は空母対空母決戦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「丸」編集部『写真太平洋戦争3 ドーリットル空襲 珊瑚海海戦 ミッドウェー海戦』光人社、1995年
・「歴史群像太平洋戦史シリーズ13 翔鶴型空母」学習研究社、1997年
・「決定版太平洋戦争4 『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」学習研究社、2009年

595Republica de Venexia:2015/05/09(土) 00:31:18 ID:???
5月9日はフリードリヒ=ヴィルヘルムが亡くなった日です

大選帝侯と称されるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは、>>490で見たようにブランデンブルク=プロイセンの国際的地位を高め、内政においてもフランス絶対王政を模範とし君主権の強化、官僚制の整備、常備軍の設置、重商主義的経済政策の推進、恒常的租税制度の導入など国家発展の基礎を築きました

この大選帝侯は1688年5月9日に没し、嫡男のフリードリヒがプロイセン公フリードリヒ3世として即位します
フリードリヒ3世は文芸を愛好し、父の時代にベルリンに多く移住してきたユグノーがもたらしたフランス文化によって、華やかな宮廷生活を送りました
一方で外交方面では>>433で見たようにスペイン継承戦争でハプスブルク家を支援し、ハプスブルク家当主で神聖ローマ皇帝でもあるレオポルト1世から王号を名乗ることを許されます
こうしてフリードリヒ1世はプロイセン公国を王国に昇格させ、プロイセン王としてはフリードリヒ1世となったのです

フリードリヒ1世は1713年に没し、王国の発展は「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世、そして「大王」フリードリヒ2世に引き継がれていくこととなるのでした


本日は「プロイセン公フリードリヒ3世」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

596Republica de Venexia:2015/05/10(日) 00:06:10 ID:???
5月9日はセポイが反乱を起こした日です

イギリスは>>501で見たアンボイナ事件の後インド経営に力を入れ、東インド会社がマドラス・ボンベイ・カルカッタの3港を拠点にそれぞれ南インド・西インド・北インドへと進出していきました
東インド会社はインド人傭兵のセポイを雇って兵力の不足を補い、同じくインドへの進出を図るフランス東インド会社と勢力争いを繰り広げます
これは1757年のプラッシーの戦いで決着がつき、フランスはインドから駆逐されました

またインドでは>>234のアウラングゼーブの死後ムガル帝国が弱体化し、シク教徒、マラーター族、マイソール王国が台頭し、イギリスはこの隙をついてインドの直接支配を広げていきます
やがてイギリス本国で産業革命が進行すると原料生産地、商品市場としてのインドの需要が高まり、より直接的な植民地支配が進められるようになりました

イギリス東インド会社はまずインド貿易独占権を、ついで商業活動を全面的に停止させられ、インド統治の機関としての役割のみを持つようになります
イギリスはインド社会を近代化(西欧化)するため積極的な介入政策を展開し、インドは原料の輸出国となって国内産業が破壊されました
またザミンダーリー制やライヤットワーリー制といった近代的な税制の導入によってインドの伝統的な村落社会が破壊され、インド社会は大きく変動することとなります

このような急進的な改革政策はインド人の反感を招き、1857年5月10日にセポイが起こした反乱をきっかけにイギリスへの不満が一気に爆発しました
反乱はインド各地に広がり、重税に苦しむ農民や綿織物業者、旧支配者層など幅広い階層も加わってイギリスのインド支配を動揺させます
反乱軍はデリーを占領しムガル皇帝を擁立しましたが、イギリス本国はインドに大軍を送り込み、反乱軍が統一を欠いていたこともあって反乱は2年で鎮圧されました
この際ムガル皇帝は廃位され、>>572の成立以来300年以上存続してしたムガル帝国は滅亡します

この反乱を機にイギリスは東インド会社を解散してインドを本国の直接統治下に置き、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国が成立することとなるのでした


本日はインド大反乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・辛島昇編『世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年
・佐藤正哲他『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』中央公論新社、2009年

597Republica de Venexia:2015/05/11(月) 00:09:06 ID:???
5月11日はフォントノワの戦いが行われた日です

>>323で見たオーストリア継承問題に端を発し、プロイセン王フリードリヒ2世のシュレジエン侵攻によりオーストリア継承戦争が勃発しました
その第一段階である第一次シュレジエン戦争において>>559で見たようにモルヴィッツの戦いでプロイセンが勝利し、これに乗じてフランスがバイエルン、プロイセン、ザクセン、スペインと同盟を結び、オーストリアは劣勢となります
これに対しフランスの勢力拡大を阻止しようとするイギリスがオーストリアを支援し、オーストリアもまたマリア=テレジアがハンガリーの支持を取り付け反撃、1742年のブレスラウ条約で一時休戦となります

しかしオーストリアはプロイセンに対しては妥協したとはいえバイエルンとフランスに対する戦いは続け、オーストリアを支援するイギリスも上陸し本格的な介入を始めました
これにフランスも応戦し、1744年にプロイセンと改めて同盟を結びオーストリア・イギリスに宣戦します
プロイセンはベーメン、メーレンへと侵攻しますが、ザクセンが今度はオーストリア側につき、またバイエルンも皇帝カール7世が死去したことで戦争目的を失いオーストリアと和睦しました
これにより孤立したプロイセンはシュレジエンに攻め込まれますが、>>154のホーエンフリートベルクの戦いでオーストリアを破り、その後オーストリアと和睦し第二次シュレジエン戦争が終結することになります

しかし戦争はこれで終わらず、当事者ではなく介入者同士であるフランスとイギリスによって継続されました
フランスの参戦にはオーストリア領ネーデルラント獲得という目的もあり、フランスの元帥モーリス=ド=サックスはブラバント侵攻を進めます
これに対しオーストリア、イギリス、ハノーファー、オランダの同盟軍も反撃し、サックスはフォントノワに布陣、同盟軍を迎え撃ちます
こうして起こった戦いが1745年5月11日のフォントノワの戦いでした
同盟軍の攻撃によって始まったこの戦いはサックスの巧みな陣地構築、采配により同盟軍の突撃が食い止められ、疲弊した同盟軍に対しサックスが予備兵力を投入し決着がつきました

こうして同盟軍は退却しましたがフランス軍も損害は大きく、追撃はできませんでした
とはいえこの戦いの後フランスは優位となり、オーストリア領ネーデルラントを制圧し戦争目的を達成することとなります
オーストリアとも帝位継承とも無関係となった戦争は>>319のアーヘンの和約で最終的に終結し、サックスはフォントノワの戦いの功績により、後にフランス大元帥に列せられることとなるのでした


本日は大元帥モーリス=ド=サックスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・B.H.リデルハート、森沢亀鶴『世界史の名将たち』原書房、2009年
・長谷川輝夫・大久保佳子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

598Republica de Venexia:2015/05/12(火) 01:02:04 ID:???
5月12日はオーリヤックのジェルベールが亡くなった日です

オーリヤックのジェルベールは945〜50年頃、アキテーヌのオーヴェルニュ地方、オーリヤックに産まれました
幼少期からサン=ジェロー修道院で養育され、976年にはオーリヤックを訪れたカタルーニャ伯ボレルに伴われ、カタルーニャで学ぶこととなります
カタルーニャはキリスト教文化圏とイスラーム文化圏の境目にあたり、当時イベリア半島では後ウマイヤ朝が最盛期を迎えており、その都コルドバは西欧最大の文化都市の1つでした

ここで3年間、最新の学問を学んだジェルベールはローマを訪れて神聖ローマ帝国のオットー大帝と出会います
この出会いはまさにシャルルマーニュとアルクィンとの出会いを連想させるもので、ジェルベールの学識に感銘を受けた大帝は息子のオットー2世の学問の師にジェルベールを任命し、その後もオットー家との関係は続くことになります

やがてジェルベールはランスに赴き、ここでランス大司教アダルベロンと出会いました
ジェルベールとアダルベロンは>>151で見たように神聖ローマ皇帝とフランス王との協調を進め、ユーグ=カペーのフランス王即位を支持、またオットー2世死後3歳だったオットー3世の王位継承に反発しちハインリヒを抑え込みます

このオットー3世がローマ帝国の復興を目指して自身をコンスタンティヌス大帝になぞらえ、ジェルベールをシルウェステル1世になぞらえ、教皇シルウェステル2世として即位させたのは>>468で見た通りです
もっともこのローマ帝国構想はオットー3世とジェルベール、そしてその周辺に限られていたためローマでは反対運動が起こり、2人は追放されます
やがてオットー3世は急死して構想は崩れ、シルウェステル2世はローマに戻った後1003年5月12日に死去したのでした


本日はローマ教皇シルウェステル2世の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

599Republica de Venexia:2015/05/13(水) 00:59:55 ID:???
5月13日はテッシェンの講和が結ばれた日です

>>319のアーヘンの和約で終結したオーストリア継承戦争、ついで>>489のフベルトゥスブルク条約で終結した七年戦争によってプロイセンはシュレジエンの領有を確定し、またヨーロッパ列強の仲間入りを果たしました
以降のヨーロッパは約100年間にわたって五列強を中心とした勢力均衡が図られるようになり、ドイツ国内でも変化が起こります

それまでドイツではウェストファリア条約によって帝国領邦が主権を得たものの、帝国が個々の領邦に分裂してしまったわけではなく、各領邦の自由を保証しつつ連邦制的にゆるやかに統合される共同体として存続していました
しかしオーストリア継承戦争、七年戦争は特にプロイセンにとって帝国よりも自国の利益を優先したものであり、これ以降のドイツはオーストリアとプロイセンの二元主義へと移行することとなります

この自国優先が顕著に現れたのが>>239で見たポーランド分割で、オーストリアとプロイセンは自国の利害をむき出しにし、オーストリアは東部へのさらなる勢力拡大を、プロイセンはブランデンブルクと東プロイセンを陸続きとすることに成功しました
またオーストリアはプロイセンに奪われたシュレジエンの埋め合わせをするべく、バイエルンへと手を伸ばします

バイエルンでは1777年にマクシミリアン3世が子を残さず死去し、これに乗じてオーストリアがバイエルンを占領したのです
これに反発したプロイセンがバイエルンを支援し、軍を派遣したことで始まったのがバイエルン継承戦争でした
もっともこれはオーストリアのヨーゼフ2世が独断で始めたものであり、戦争に反対するマリア=テレジアがプロイセンと和平交渉を行ったことで本格的な戦闘は行われませんでした
こうして1779年5月13日、テッシェンの講和が結ばれ、戦闘をほとんど行うことなくジャガイモばかりあさっていた奇妙な戦争は終結しました
とはいえドイツの諸領邦にとって危機が去ったわけではなく、これ以降もオーストリアとプロイセンによるドイツ内での勢力争いは続くこととなります


本日はジャガイモ戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

600Republica de Venexia:2015/05/14(木) 00:03:57 ID:???
5月14日はジェームズタウンが建設された日です

女王エリザベス1世の時代、イングランドでは不況が続いていました
1550年代に始まった貿易不振が彼女の代でも継続し、イングランドの毛織物の重要な市場であったアントウェルペンはスペイン領であったため、>>243で見たイングランドとスペインとの対立により貿易が阻害されたのです
アントウェルペンは>>445のユトレヒト同盟にも加わったためスペインに破壊され、その結果イングランドの毛織物産業は深刻な不況に陥り、大量の失業者が出ました
一方で16世紀を通じて人口は増大し続けたため、社会不安がますます高まっていったのです

この不況を克服するために様々な方法が模索されましたが、その一つが北米での植民地建設でした
そのさきがけとなったのがエリザベスの寵臣ウォルター=ローリーで、1584年に北米植民地を建設しますが、これは失敗に終わります
この失敗により植民地建設は莫大な資金を必要とし危険度が極めて高いことが明らかとなり、植民地事業が個人ではなく株式会社組織が主導して進められることとなりました
この会社の一つがロンドン拓商会社で、エリザベスの後を継いでイングランド王となっていたジェームズ1世の特許状を得て1607年、ジェームズの何にちなんだジェームズタウンを建設したのです
このジェームズタウンがヴァージニア植民地となり、>>390で見たピルグリム=ファーザーズ以降のニューイングランド植民地につながっていくのでした


本日はイングランドの恒久的北米植民地の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』講談社、1998年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999

601Republica de Venexia:2015/05/15(金) 08:04:28 ID:???
5月15日はフランケンハウゼンの戦いが行われた日です

>>334で見たルターによって始まった宗教改革は各地に広がり、その中には過激派も存在しました
ルターと同じくヴィッテンベルクで活動したカールシュタットもその一人で、聖画像を攻撃し幼児洗礼やミサの廃止を主張するなど、ルターと敵対するほどの過激な運動を展開します
さらに急進的だったのがツヴィカウの預言者と呼ばれた人々で、彼らは終末の到来を預言し全ての聖職者を殺せと主張したのです
そしてこのツヴィカウの預言者の一人がトマス=ミュンツァーでした

ミュンツァーはヴィッテンベルクでルターとともに改革を目指していましたが、急進化してルターと敵対し、1521年にヴィッテンベルクから追放されます
ミュンツァーはその後プラハを訪れ、そこで急進的フス派に共感し、ドイツに戻ると再洗礼派と呼ばれる急進的改革派を組織して社会改革を目指すようになりました

社会改革を目指す動きは農民の間でも広がり、1524年にシュヴァルツヴァルトでの農民蜂起をきっかけにドイツ農民戦争が勃発し、ドイツ各地に広がっていきました
ミュールハウゼンを拠点としていたミュンツァーも農民軍を率いて戦いましたが、次第に各地の農民反乱は鎮圧されていきます
そして1525年5月15日、フランケンハウゼンの戦いでミュンツァーの農民軍はシュヴァーベン同盟軍に敗れて壊滅、ミュンツァーも処刑されてドイツ農民戦争は終結することとなったのでした


本日はドイツ農民戦争の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

602Republica de Venexia:2015/05/16(土) 00:52:08 ID:???
5月16日はメディチ家がフィレンツェから追放された日です

>>346で見たようにフランス王シャルル8世のイタリア侵攻で始まったイタリア戦争のなかで、フィレンツェ市民から信望を失っていたメディチ家が追放され、サヴォナローラが共和制へと移行させました
しかしサヴォナローラはメディチ家だけでなくローマ教皇をも批判するなど急進化し、次第に支持を失っていきます
やがてサヴォナローラは処刑されますが、しばらくは共和制が維持されました

一方メディチ家は1512年にスペイン=ハプスブルク家によってフィレンツェに復帰します
さらに>>529で見たようにジョヴァンニ=デ=メディチが教皇レオ10世として即位し、メディチ家の復権がなされました
しかしジュリオ=デ=メディチが教皇クレメン.ス7世として即位した後、メディチ家は再びフィレンツェを追われることとなります
>>93で見たようにクレメン.スは対神聖ローマ帝国同盟であるコニャック同盟に参加し、その結果神聖ローマ皇帝カール5世によって1527年5月9日にローマ劫掠が引き起こされたのです
そしてローマ劫掠の直後の同年5月16日、フィレンツェからメディチ家が追放され、共和制が復活しました

その後>>298で見たようにオスマン帝国がカールの本拠地ウィーン
を包囲したこともあり、クレメン.スとカールは和約を結びます
それに伴いメディチ家のフィレンツェ復帰も許され、1532年にフィレンツェ公国、そして1569年にはトスカーナ大公国となるのでした


本日はフィレンツェ共和制の再誕日です、おめでとうございます


参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

603Republica de Venexia:2015/05/17(日) 00:22:33 ID:???
5月17日はバッキンガム公エドワードが処刑された日です

>>257で見たように、ヘンリ=テューダーはボズワースの戦いでリチャード3世を破り、ヘンリ7世として即位しテューダー朝を開きました
しかしヘンリ7世の王権は盤石ではなく、ヨーク朝復活を狙う幾度もの反乱に悩まされます
1486年のフランシス=ラヴェルの反乱はすぐに鎮圧されますが、翌年のランバート=シムネルの反乱はブルゴーニュ公妃マーガレットやリチャード3世の後継者候補であったエドワード4世も支持し、アイルランド貴族の多くが加わったことでヘンリ7世は一時危機に陥りました
もっともこの反乱を鎮圧したことでヨーク家支持派の多くが戦死し、むしろヘンリ7世の権力は増すこととなります

その後もパーキン=ウォーベックらの反乱が起こりますが、ヘンリ7世はこれらの鎮圧の過程でヨーク家系の王位継承者や有力貴族を次々と排除し、王権を確立していきます
こうしてヘンリ7世がテューダー朝の基礎を固めた後、1509年に即位したのがその息子のヘンリ8世でした
ヘンリ8世もまた王権の障害となる有力貴族の排除に努め、1510年にはリチャード=エンプソン、エドマンド=ダドリーが反逆罪で処刑されます
この2人は父王の時代から仕える重臣でしたが、そのような人物であっても王権強化のための犠牲となったのです

バッキンガム公エドワード=スタッフォードもまた、父王の時代から仕え、ヘンリ8世の戴冠役を務めるほどの重臣でした
1514年には国王軍司令官である大司馬にも任命されましたが、そんなバッキンガム公ですらヘンリ8世の王権拡大政策には抗えませんでした
1521年5月17日、反逆罪で捕らえられていた彼は処刑され、バッキンガム公位は消滅し、大司馬の権限も以後は王権に統合されることとなったのでした


本日はバッキンガム公・大司馬の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年

604Republica de Venexia:2015/05/18(月) 00:02:42 ID:???
5月18日はアンジュー伯アンリとアリエノール=ダキテーヌが結婚した日です

>>299でノルマンディー公ウィリアムがイングランド王ウィリアム1世として即位し始まったノルマン朝は、その息子ウィリアム2世が受け継ぎ、その死後は弟のヘンリ1世が統治を行いました
このヘンリ1世は嫡男を事故でなくしたため、>>562で見た神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃で、夫の死後未亡人となっていたマティルダを帰国させて後継者としました

こうしてイングランド初の女性君主となったマティルダでしたが、これに反発したのがヘンリ1世の甥であるフランスのブーローニュ伯エティエンヌ=ド=ブロワでした
彼はスティーヴンとしてイングランド王に即位しますがマティルダはこれを認めず、イングランドは内戦状態となります
やがて内戦は収められ、1153年、スティーヴンの死後はマティルダの息子アンジュー伯アンリが国王となることが取り決められたのです

さてこのアンジュー伯アンリですが、母は先のマティルダ、父はマティルダの再婚相手アンジュー伯ジョフロワでした
ジョフロワはアンジュー伯としてフランス王ルイ7世に対抗する有力諸侯でした
1144年にはルイがシャンパーニュ戦争にかかりきりなのを尻目にノルマンディーを征服し、ノルマンディー公としての地位も得ます
その息子であるアンリは父の遺領アンジュー伯領・ノルマンディー公領、そして母の遺領であるイングランド王国を受け継ぐことになるのです
それにさらなる領地を加えるのがアリエノール=ダキテーヌとの結婚でした

アリエノールの実家はアキテーヌ公家であり、その所領はアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワティエ伯領など、フランス王家すら凌駕する広大なものでした
そのアキテーヌ公ギョームが男子をもうけず死去したため、アリエノールが所領を受け継いでいたのです
そしてこのアリエノール、当初はフランス王ルイ7世の妃でした
ルイとしては広大なアキテーヌ領が王家に加わったこととなり、王権強化の絶好の機会でしたが、これが近親婚であるとして1152年3月に離婚することとなりました
そのわずか2ヶ月後の5月18日、アリエノールが再婚したのがアンジュー伯アンリだったのです
アンリはこの結婚によってアキテーヌ公位を獲得し、上の所領と合わせて広大な地域を支配、さらにイングランド王ヘンリ2世として即位しアンジュー帝国を築くこととなるのでした


本日はアキテーヌ公アンリの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年

605Republica de Venexia:2015/05/19(火) 00:02:18 ID:???
5月19日はイングランドで共和政が宣言された日です

イングランドではスチュアート朝のジェームズ1世、チャールズ1世の専制を巡って王党派と議会派が対立し内戦が勃発しました
やがて議会派は意見の相違で長老派、独立派、水平派に分裂し、このうち独立派を率いたオリヴァ=クロムウェルが鉄騎隊を率いて1644年にマーストン・ムーアの戦いで国王軍を破ったのは>>197で見た通りです
その後クロムウェルは鉄騎隊を中核としてニューモデル軍を編成し、翌年にはネーズビーの戦いで決定的勝利を収めました

その後議会での長老派と独立派の対立が激化し、平等派も人民協約を提出するも受け入れられず、議会の内部対立は深まっていきます
これを見たチャールズはスコットランド軍とともにイングランドに侵攻しましたが、独立派と平等派は一時的に和解し、1648年8月のプレストンの戦いで国王軍を撃退しました
同年12月には議会の長老派が独立派によって追放され、議会は独立派のみで構成される残部議会となります

こうして軍隊・議会を掌握した独立派はチャールズの排除に乗り出し、1649年1月、クロムウェルらが裁判官となってチャールズの処刑を決定します
3月には君主制と貴族院を廃止し、また平等派の指導者を逮捕、平等派兵士の反乱も鎮圧して独裁体制を確立していきました
そして1649年5月19日、正式に共和政が宣言され、1660年に王政復古がなされるまで国王が存在しない時代となるのでした


本日は共和政イングランドの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・岩井淳『ピューリタン革命と複合国家』山川出版社、2010年

606Republica de Venexia:2015/05/20(水) 00:35:20 ID:???
5月20日はマクデブルクが陥落した日です

三十年戦争の第二段階であるデンマーク戦争は皇帝軍総司令官となったヴァレンシュタインの働きもあり、デンマーク王クリスティアン4世を破り、皇帝側の勝利に終わりました
1629年に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は復旧勅令を発布し、皇帝による絶対主義が成立しようとしていました
これに帝国諸侯は危機感を覚え、>>503で見たようにヴァレンシュタインを罷免させます
また北方ではスウェーデン王グスタフ=アドルフが帝国の強大化によってバルト海支配が脅かされると感じ、三十年戦争への介入を決定します

こうして三十年戦争の第三段階のスウェーデン戦争が始まり、ブランデンブルク選帝侯国・ザクセン選帝侯国などが主戦場となります
ここで重要となったのが要衝の都市マクデブルクで、プロテスタント側であったこの都市を皇帝軍が攻撃します
グスタフ=アドルフはマクデブルクを救おうとしますが当時スウェーデン側につく諸侯は少なく、マクデブルクは1631年5月20日に陥落しました

悲劇はその後に訪れました
傭兵主体の皇帝軍は規律が行き届かず、占領したマクデブルクで略奪の限りを尽くしたのです
まさに>>93で見たローマ劫掠のような惨劇が展開され、マクデブルクは文字通り壊滅します
この皇帝軍の行為によってそれまで日和見していたブランデンブルク選帝侯やザクセン選帝侯はスウェーデンと同盟を結び、>>285のブライテンフェルトの戦いでプロテスタント側に初の勝利がもたらされるのでした


本日は「マクデブルクの惨劇」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

607Republica de Venexia:2015/05/21(木) 00:49:35 ID:???
5月21日はヤン=ソビエスキがポーランド王となった日です

ポーランドはスウェーデンの侵攻による大洪水時代によって荒廃し、>>490で見たように大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムに介入され、プロイセンの宗主権をブランデンブルク選帝侯に譲渡することとなります
このポーランドを立て直そうとしたのがヤン=ソビエスキでした

1674年5月21日にポーランド王ヤン3世として即位したソビエスキは、当初フランスを頼ってポーランドの勢力回復を図ろうとしましたが、フランス王ルイ14はオスマン帝国寄りの姿勢をみせていました
これに失望したソビエスキは神聖ローマ皇帝レオポルト1世に接近し、オスマン帝国と対峙することとなります
そのハイライトが>>280で見た第二次ウィーン包囲で、ソビエスキ率いるポーランド騎兵がオスマン帝国軍を撃破したのです
これによってヨーロッパは、>>298のスレイマン1世によるウィーン包囲以来約150年にわたるオスマン帝国の脅威から解放され、ソビエスキは一躍英雄となったのです

その後もソビエスキは対オスマン帝国に奮闘しますが、皮肉にもこのトルコ問題への過度な介入がポーランドに不幸な結果をもたらすことになります
ウィーン解放の翌年、ソビエスキはローマ教皇を中心に神聖ローマ帝国、ヴェネツィア共和国と神聖同盟を結成しオスマン帝国に対抗しますが、これがオスマン帝国に対する勝利による利益を分割する結果となったのです
また1686年にはロシアを神聖同盟に引き入れますが、そのためにロシアに対し大きく譲歩したため、後にロシアがポーランドに介入するきっかけを与えることとなりました

やがて1696年にソビエスキは死去し、その後継者をめぐってフランス、オーストリア、ロシアなどヨーロッパ各国が推す国王候補がそれぞれ傀儡として王位をめぐって争う状況となりました
ポーランドは次第に独立国としての地位を失っていき、>>239で見たポーランド分割へと至るのでした


本日は「ヤン3世ソビエスキ」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

608Republica de Venexia:2015/05/22(金) 01:08:14 ID:???
5月22日はグラニコス川の戦いが行われた日です

>>302で見たように、マケドニア王アレクサンドロス3世は父王フィリッポス2世の遺志を継ぎ、アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始します
その大義名分は>>246>>262で見たペルシア戦争によってギリシアの国土を踏み荒らし神々を怪我したことへの報復、そして小アジアのギリシア人をアケメネス朝支配から解放することでした

その最初の戦いが前334年5月22日に行われたグラニコス川の戦いで、この戦いでアレクサンドロス率いるマケドニア軍はアケメネス朝の騎兵軍を粉砕します
この時アケメネス朝側にはギリシア人傭兵が残されていましたが、これにもアレクサンドロスは猛攻を加えます
ギリシアのために遠征を起こしたアレクサンドロスですが、その反面アケメネス朝に味方した者に対しては裏切り者として容赦しなかったのです
約5000人のギリシア人傭兵のうち3000人が戦死し、残る2000人は捕虜となってマケドニアでの重労働に従事させられたといいます

ともあれアレクサンドロスはアケメネス朝との最初の会戦に勝利し、アケメネス朝から奪った戦利品をアテネに送ってアクロポリスのアテナ女神に捧げました
この遠征がギリシアのために行っていることを強調したのです
アレクサンドロスはその後主力を失った小アジアのアケメネス朝軍を連破し小アジアを平定、>>165で見たバビロンでの急死まで遠征に明け暮れるのでした


本日は東方遠征におけるアレクサンドロス勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年

609落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/22(金) 04:09:48 ID:???
今日は漫画「DEATH NOTE」で青山に出かけていた夜神月が弥海砂に発見されてしまった日です
一つの出会いがその後を大きく左右させるといういい例ですね

610Republica de Venexia:2015/05/22(金) 08:07:18 ID:???
>>609
おお、今日だっだんですね!
変装して月の後をつけてたんでしたっけ?
うろ覚えですけど、確かにあの出会いが1つの転換点だったような気がします、ノート保持者が複数いるなんて...というびっくりも

611Republica de Venexia:2015/05/23(土) 01:15:16 ID:???
5月23日はハインリヒ5世が死去した日です

>>562で即位した神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は、長らく続いていたローマ教皇との叙任権闘争で妥協し、>>294のヴォルムス協約を締結しました
この叙任権闘争の最中、ドイツではフェーデが頻発していましたが、これは諸侯権力を強めることとなりました
諸侯間の激しい戦いのなかで自由な農民や貴族はその生命や財産を単独では守り切れなくなり、領主に頼るようになったのです
この領主たちの下で自由人は封建化し、国王との伝統的なつながりは断ち切られていきました

この過程ので有力貴族はますます強大化していき、大公や辺境伯の地位を得、国王に対抗し得る勢力へと成長しました
その代表例として、諸侯がドイツ王ハインリヒ4世に対抗しカノッサの屈辱をもたらしたのは>>448で見た通りです
そしてこの諸侯による国王への圧力はハインリヒ5世死後も見られました

ヴォルムス協約から3年後の1125年5月23日、ハインリヒ5世は死去しました
ハインリヒには子がおらず、ここにザリエル朝は断絶しました
新国王選出の国王選挙では>>512で見たホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世が有力候補で、彼はハインリヒ5世の甥であり、相続権に基づいて立候補することができる血筋でした
しかし諸侯はフリードリヒの選挙を妨げ、血統の原理を無視し自由な国王選挙の原則強行を決定したのです
こうして混乱の最中ザクセン大公ロータル=フォン=ズプリンブルクが選挙され、同年8月にロータル3世として即位することとなったのでした


本日はザリエル朝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

612落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/23(土) 04:00:36 ID:???
今日はキスの日です
1946年の今日この日、日本初のキスシーンが登場する「はたちの青春」という映画が封切られたことからつけられたそうです
キスしたいですね

>>610
青山で偶然見かけたのが始まりだったと思います、死神の目で見て寿命が見えなかったことから興味を持ったようですね
彼女がいなければ夜神月の計画は完璧だったのかもしれません

613Republica de Venexia:2015/05/23(土) 10:39:18 ID:???
>>612
キスの日というのもあるんですね、戦後になってからだったんですねー
アメリカ文化の影響なのかな


そうだ、死神の目でわかったんでしたね!
月がナンセンスだと切り捨てていた死神の目を、海砂はあっさり手にしていたというのも驚きでした

614Republica de Venexia:2015/05/24(日) 01:20:20 ID:???
5月24日は新教同盟が解散した日です

宗教改革によって始まったプロテスタントとカトリックとの宗教対立は、1555年に発布されたアウクスブルクの宗教和議によってひとまずの妥協を見ました
しかしプロテスタントが次第に北ドイツへと勢力を拡大していったことに脅威を感じ、カトリックは>>556で見たトリエント公会議で教会刷新を行い、対抗宗教改革を開始します

しかしすでに北ドイツでは司教領のほぼ全てをプロテスタント諸侯が抑え、下ライン地方までも進出する勢いでした
カトリックもまた巻き返しを図って勢力拡大を進めたため、1570年代以降対立はさらに激化します
83年のケルン大司教職を巡ってその対立は最初の頂点を迎え、これはカトリックの勝利に終わりました

カトリックはさらにバイエルン公マクシミリアン1世がカルヴァン派の都市ドナウヴェルトを占領しカトリック化したことで、プロテスタント・カトリック両派の対立はますます激化します
1608年、プロテスタントはプファルツ選帝侯を盟主に新教同盟(ウニオン)を結成し、翌年カトリックはバイエルン公を盟主に旧教連盟(リガ)を結成、ともにヨーロッパ諸国と繋がりを持っていたため、両派の対立はヨーロッパの国際的対立へと発展するのです

この対立が三十年戦争を引き起こしたのは>>345などでも見た通りです
その第一段階のベーメン・プファルツ戦争は1620年、白山の戦いで新教同盟の盟主プファルツ選帝侯フリードリヒ5世が敗れたことでプロテスタント側の敗北に終わり、翌1621年5月24日、新教同盟は解散することとなったのでした


本日は新教同盟の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

615落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/24(日) 03:49:42 ID:???
今日は伊達巻の日です
由来は、旧暦の今日この日に伊達巻の語源であるとされる伊達政宗がなくなったからだそうです
伊達巻はなんだか薄い出汁巻き卵という印象がありますね
お正月以外では滅多にお目にかかれないイメージです

616Republica de Venexia:2015/05/24(日) 09:04:16 ID:???
>>615
今日が没日だったんですね、若年の頃のはっちゃけぶりを考えると大往生したなー、という印象です

仙台の街、そして青葉城を訪れた時も感じましたが、武の面だけでなく外交や内政、文化面でも活躍した傑物ですよね

617Republica de Venexia:2015/05/25(月) 00:05:56 ID:???
5月25日はグレゴリウス7世が死去した日です

>>448で見たカノッサの屈辱で、ローマ教皇グレゴリウス7世はいったんは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を屈服させたかに見えました
しかしその後もハインリヒおよび帝国に対して強権を発動しようとし、その際にはドイツ諸侯の反対に遭いハインリヒに反撃されたのは>>562で見た通りです
ハインリヒは1084年、ローマを開城させてラヴェンナ大司教ヴィーベルトを教皇に据えました
グレゴリウスはサンタンジェロ城に閉じ込められますが、これを救出したのがロベール=ギスカールでした

ギスカールは>>566で見たようにビザンツ領南イタリアを征服したノルマン人で、旧ビザンツ領を平定した後は教皇領にも攻撃をかけ、一時は教皇によって破門を宣告されていました
これにより教皇側にたったノルマン人諸侯はギスカールを攻撃しましたが、ギスカールはこれらを撃退し1080年には全ての反乱を鎮圧しました
ギスカールが教皇と和解したのもこの頃でした

ちょうどこの時期はグレゴリウスとハインリヒとの叙任権闘争の真っ最中であり、グレゴリウスとしては強大な軍事力を持つギスカールの支援が必要だったのです
グレゴリウスはチェプラーノにて平和条約を締結し、ギスカールが征服した土地の保有を認める代わりに、ギスカールが教皇権を尊重し教皇庁の防衛を約束させ、教皇の封臣であることを誓わせました
これは>>466で見たコンスタンティヌスの寄進状を根拠に行われたことでもあります

さて、このギスカールがサンタンジェロ城に閉じ込められたグレゴリウスを救うため、大軍を率いてローマに駆けつけ救出します
グレゴリウスはサレルノで保護されますが、翌1085年5月25日、同地で没しました
死に際してこう語ったといいます
「私は正義を愛し、不正を憎んだ。それ故私は流浪のうちに死ぬ」


本日は「聖なる悪魔」の命日です、お悔やみ申し上げます
ハインリヒ4世はおめでとうございます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

618Republica de Venexia:2015/05/26(火) 01:05:57 ID:???
5月26日はニコライ2世が戴冠した日です

ニコライ2世は1868年、ロシア皇帝アレクサンドル3世の長男として産まれ、その後継者として早くから帝王学を学んで育ちました
家庭教師は専制権力の絶対的な保持を説く保守派の宗務院長ポベドノスツェフで、その思想にニコライは大きな影響を受けることとなります

ニコライは22歳となった1890年から翌91年にかけて旅行を行い、ウィーン、ギリシア、エジプト、インドを経て日本も訪れました
ここで巡査の津田三蔵がニコライを斬りつけた事件が大津事件です
ニコライは日本旅行を打ち切り、ウラジヴォストークでシベリア横断鉄道の起工式に参加、シベリア各地を訪問して首都サンクト=ペテルブルクへと戻りました
このシベリア訪問がきっかけでニコライはシベリアに深い関心を持ち続けることになります

やがて1894年、父帝アレクサンドルが49歳で死去し、皇太子ニコライが即位しました
ニコライは父の葬儀を済ませた後、ドイツのヘッセン大公の娘で、イギリス女王ヴィクトリアの孫にもあたるアリックスと結婚します
アリックスは正教会に改宗しアレクサンドラを名乗り、新皇帝・新皇后はその後も重要な儀式をこなしていきます
そして1896年5月26日、ニコライはモスクワのウスペンスキー聖堂で戴冠式を挙行し、ロシア皇帝としての治世を開始するのでした


本日は最後のロシア皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

619落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/26(火) 04:32:28 ID:???
今日は1897年にブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』が発刊されてから丁度118年となります
今では世界中の創作物に登場するようになりましたね
ちなみにモデルとなったワラキア公ヴラド三世、通称ドラキュラ公、ヴラド・ツェペシュ(ツェペシュは串刺しにするものの意で名字ではないです)は、近年自国を侵略から守った者として再評価されています

620Republica de Venexia:2015/05/26(火) 08:55:37 ID:???
>>619
創作のドラキュラ、そんな昔だったんですね、おめでとうございます!

オスマン帝国に対抗したワラキアのヴラド=ツェペシュ、アルバニアのスカンデルベグ、ハンガリーのフニャディ=ヤノシュは郷土の英雄ですよね
ヴラドも再評価が進んでいるのは嬉しい限りです

621Republica de Venexia:2015/05/27(水) 00:07:02 ID:???
5月27日は日本海海戦が行われた日です

日露戦争海戦後、日本はロシア太平洋艦隊を旅順港に封じ込めるため、閉塞作戦を三度にわたり敢行しました
しかしこれは旅順の強力な要塞砲により失敗に終わります
そして1904年、昨日>>618にも登場したニコライ2世が第二太平洋艦隊、通称バルチック艦隊の極東派遣を決定したのは>>316でも見た通りです
両艦隊が合流すれば勝ち目がないと考えた日本は旅順艦隊へ猛攻を加え、ついに旅順艦隊を引き摺り出しました

これを聯合艦隊が追撃したのが黄海海戦でしたが、この海戦で日本は丁字戦法により旅順艦隊の撃滅を図ったものの、旅順艦隊は聯合艦隊と反対に急旋回し決定打を与えられずに逃がしてしまったのです
その間にもバルチック艦隊は日本に迫っており、日本海軍の秋山真之は丁字戦法を取りやめ、駆逐艦・水雷艇によって夜間奇襲を行い、連繋機雷を散布するという戦法を考案しました
そしてこの機雷散布を第一段階とし、二日目の主力艦隊による攻撃、駆逐艦・水雷艇の夜間雷撃、三日目の敵残存艦隊追撃戦、夜間雷撃、4日目の敵残存艦隊追撃、夜間雷撃、そしてウラジヴォストークの機雷区域に追い込み触雷を誘うという七段作戦で待ち構えるのです

しかし決戦当日の1905年5月27日、誤算が発生しました
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
第一段作戦の連繋機雷による奇襲を断念せざるを得なくなったのです
さらに誤算は続きます
聯合艦隊は黄海海戦を教訓に丁字戦法を取りやめ、バルチック艦隊より1万メートル東方で余裕をもって旋回し、同航戦に持ち込む予定のはずが、通報艦の誤報によりバルチック艦隊が正面に現れたのです

ここで聯合艦隊司令長官東郷平八郎は即座に決断し、いったん西へと進路を取り、
「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」
のZ旗が翻りました
そして東郷はなんと、東郷ターンと称される敵前大回頭を敢行したのです
当然東郷座乗の聯合艦隊旗艦「三笠」には砲撃が集中しますが「三笠」はこれを耐え抜き、全艦が回頭した聯合艦隊はバルチック艦隊の頭を抑える形で同航戦を展開します

その後バルチック艦隊が北西へ逃れる素振りを見せたため、東郷もまた北西へ回頭し抑えにかかりますが、バルチック艦隊はその逆の南東へ回頭、聯合艦隊はまたも裏をにかかれる形となりました
しかし聯合艦隊第二艦隊司令長官上村彦之丞はバルチック艦隊の先頭艦が北西に旋回したのは舵の故障だと見抜き、南東へ回頭、バルチック艦隊を捕捉したのです
やがて東郷の第一艦隊も追撃したことで挟撃する形となり、バルチック艦隊は集中攻撃を受けることとなったのでした

この日のうちにバルチック艦隊は壊滅的な打撃を受け、夜間には駆逐艦・水雷艇による雷撃により残存艦隊も次々と脱落します
翌5月28日の朝にはバルチック艦隊は降伏、ウラジヴォストークに逃れたのはわずか3隻という完勝を収めたのでした


本日は海戦史上稀な「完全勝利」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・野村実『日本海海戦の真実』講談社、1999年
・「歴史人別冊 日露戦争の真実」ベストセラーズ、2013年
・「歴史街道2015年6月号 日本海海戦と戦艦三笠 『奇跡』を起こしたものは何か」PHP研究所、2015年

622落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/27(水) 04:29:42 ID:???
今日は1986年にゲーム「ドラゴンクエスト」の一作目が発売されて丁度29年となる日です
今でも新作がたまに出るあたり、やっぱり大ヒットしたソフトは違いますね
最近ではオンラインゲーム化やARPG化など、これまでとは違った一面を見せるようになってきました
たまには押し入れにしまってあるSFCなど昔のハードを引っ張り出してするのもいいかもしれませんね

623Republica de Venexia:2015/05/27(水) 07:59:08 ID:???
>>622
ドラゴンクエストの29周年!
来年は30周年ということで何か大々的にするかもですねー
SFCというとスーパーファミコンなんですね、歴史を感じます...

624Republica de Venexia:2015/05/28(木) 00:11:34 ID:???
5月28日はパリ=コミューンが崩壊した日です

>>221などで見た普仏戦争において、1870年のセダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、第二帝政が崩壊します
パリでは戦闘継続を目指し、トロシュを首班とする国防政府が組織され第三共和政となりました
しかしプロイセンはやがてパリを包囲し、内相ガンベッタは気球で脱出して地方で国民軍を組織、抵抗を図ります

一方パリに残ったティエールら穏健派はプロイセンとの妥協を図り、71年1月にドイツに降伏しました
その後プロイセン王がヴェルサイユ宮殿にて戴冠式を行い、ドイツ帝国が成立したのは>>433で見た通りです
この屈辱にパリ市民は反発し、国民軍の武装解除を図る国防政府に対抗、世界初の市民・労働者からなる革命自治政権パリ=コミューンを結成したのです

パリ=コミューンは国民軍の支配下にあるパリ各区から選出された代議員によって構成され、行政府であり同時に立法府でもある、革命的活動の中核となる組織でした
政策としては労働者階級の利益に沿い、その解放を目指す施策を実施、ドイツ軍の支援を受けるティエールらの政府軍によく抗戦します
しかし5月21日から始まった「血の一週間」と呼ばれる政府軍の攻勢に遭い、1871年5月28日、ついに崩壊することとなったのでした


本日はパリ=コミューンの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

625Republica de Venexia:2015/05/29(金) 00:01:37 ID:???
5月29日はレニャーノの戦いが行われた日です

>>294などで見た叙任権闘争により、それまで神聖ローマ皇帝が支配権を行使してきたイタリア王国と教皇領において皇帝権が弱体化し、権力構造の転換が見られるようになります
それまでイタリアの都市を支配していたのは皇帝が任命した伯や司教またはその代官でしたが、皇帝権弱体化に伴い市民はローマ教皇が任命した伯や司教を支持するようになったのです

司教の指導力が強いロンバルディアでは特にその動きが進み、その中心都市ミラノは三重構造となり、その中でコムーネの権力が皇帝の承認無しに他の権力を侵害し始めます
そしてコムーネは、伯や司教伯に代わって都市の支配者となっていき、伯管区であるコンタードに対し服従を要求、やがてコムーネに従属する支配領域がコンタードと称されるようになったのです

さらにミラノのような強力なコムーネはコンタード領域を超え、周辺のコムーネをも従属させるようになっていきます
神聖ローマ皇帝にとっては、このようなコムーネの権力増大はレガーリア(皇帝の権利)を不法に侵害するものでもありました
また強力なコムーネの圧迫を受ける伯、司教、領主、自治集落、弱小コムーネは皇帝に救援を求めるようになり、1158年に皇帝フリードリヒ1世はロンカリア帝国議会を開き、レガーリアを明確にするというロンカリア立法を発布しました

こうして皇帝とコムーネとの対立は深まり、教皇との対立も絡んで北イタリアでは争乱が頻発するようになります
1162年、フリードリヒは教皇が支援するミラノを征服、64年にもイタリアに遠征し、その際にはヴェローナ、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴィチェンツァがヴェローナ都市同盟を結成し皇帝に対抗しました
復興したミラノも、ロンバルディア地方などの26都市を含んだロンバルディア都市同盟を結成、皇帝に反抗します
そして1176年5月29日、ロンバルディア都市同盟軍と皇帝軍はレニャーノで激突し、皇帝軍は大敗しました
その後和平交渉が進められ、1183年のコンスタンツの和約で同盟都市に事実上の主権が認められたのです
これをきっかけにコンタードでもコムーネ権力の承認が進行し、北・中部イタリアではコムーネの支配による都市国家が成立するようになるのでした


本日はコムーネ権力の皇帝権に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・齋藤寛海・山辺規子・藤内哲也編『イタリア都市社会史入門 12世紀から16世紀まで』昭和堂、2008年

626落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!:2015/05/29(金) 04:13:15 ID:???
今日はこんにゃくの日です
こ(5)んに(2)ゃく(9)の語呂合わせらしいです
コニャックの日でもいいかもしれませんね
ちなみにこんにゃくですが、主産地は群馬でほぼ90パーセントのシェアを占めています
灰汁とともに粉を茹でるなどかなり面倒な調理法だったそうですが、どうやって確立されたのでしょうか
こんにゃくイモを加工せず生でたべるとシュウ酸カルシウムのトゲのような結晶が口の粘膜を容赦なく傷つけます、山芋のとろろを素手で触った時のかゆみの強烈なものがくるらしいです
個人的には歯ごたえのあるつるつるしたのがすきですね

627Republica de Venexia:2015/05/29(金) 07:58:17 ID:???
>>626
コニャック...というとフランスの都市を思い出しますね
関係があれば面白いですけど、単に同じように読むってだけなのかな?

こんにゃくの日おめでとうございます!

628Republica de Venexia:2015/05/30(土) 00:06:20 ID:???
5月30日はジャンヌ=ダルクが処刑された日です

>>96で見たジャンヌ=ダルクの登場によってイングランドに包囲されていたオルレアンが1429年5月に解放され、百年戦争はフランス優位に転じていくようになりました
フランスはその勢いでロワール川流域を制圧し、6月にはパテーの戦いでイングランドに大勝、シャンパーニュ地方の大司教座都市ランスに到達します
ランスでは伝統的にフランス王の戴冠式が行われており、シャルル7世もここで戴冠式を挙行しました

しかしその後はジャンヌ=ダルクの快進撃も陰りを見せるようになります
ランスからパリ奪還を目指すもののイングランドの抵抗に遭い、9月には撤退を余儀なくされました
続いてロワール地方で戦うものの戦果は挙げられず、翌1430年5月にピカルディに北上するとコンピエーニュの戦いに敗れ捕虜となってしまいました

ジャンヌを捕縛したのが、>>278で見たブルゴーニュ公のフィリップ善良公の軍勢でした
フランス王権に匹敵する勢力を持ち、その対立からイングランドと同盟していたフィリップはジャンヌの身柄をイングランドに預けます
イングランドはノルマンディ公領のルーアンでジャンヌの異端審問を行い、火刑の執行を決定しました
そして1431年5月30日、ジャンヌ=ダルクは処刑されることとなるのでした


本日は後の「聖女ジャンヌ=ダルク」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年

629Republica de Venexia:2015/05/31(日) 01:03:47 ID:???
5月31日はカルカ河畔の戦いが行われた日です

1206年に大ハーンとなったチンギス=ハーンはモンゴルを平定し、その後周辺地域を征服する一方、1217には四狗の一人ジェべを西遼に遠征させました
モンゴルは瞬く間に西遼を征服し、1218年にはオトラル事件をきっかけにイランへと侵入、ホラズム朝を瓦解させます
この時ホラズム朝のアラーウッディーン=ムハンマドは西方へと逃走、チンギス=ハーンはジェべとスブタイに追討を命じました

2人はムハンマドを追跡するものの捕捉できず、1220年末にムハンマドはカスピ海の小島で死去します
このことを知らないジェべとスブタイはさらに軍勢を進め、1221年にはグルジア王国を制圧し、さらにウクライナ方面へと向かいました
ウクライナ草原はキプチャク族が支配していましたが、モンゴル軍襲来に際しルーシ諸侯に援軍を求めます
しかし諸侯は互いに対立しており、軍としての統率が取れないままモンゴル軍を迎え撃つこととなったのです

そして1222年5月31日、ジェべとスブタイ率いるモンゴル軍はカルカ河畔においてキプチャク族・ルーシ諸侯連合軍に大勝しました
その後モンゴル軍はいったん引き上げるものの、スブタイは>>558で見たようにバトゥの西征に副官として参加し、再びルーシを制圧することとなるのでした


本日は「タタールのくびき」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年

630Republica de Venexia:2015/06/01(月) 00:02:40 ID:???
6月1日は中都が陥落した日です

>>629で見た西征の直前、1211年からチンギス=ハーンは金を攻めていました
平定なったモンゴルの遊牧民を対外戦争によって団結させようとしたのです
チンギスはまず内モンゴルの契丹系遊牧民を従属させ、これを軍に加えた後に満州と華北において略奪戦を展開しました
そして金の都である中都は孤立していき、1213年には中都を包囲します

この状況で金の宣宗はモンゴルに対し講和を求め、毎年歳弊をモンゴルに貢ぐという条件でこの講和が成立しました
しかし宣宗は翌1214年、中都を離れて南方の開封に遷都したのです
これを違約とし、チンギスは再び金への攻撃を行います
そして1215年6月1日、中都は陥落し華北をほぼ放棄することとなりました
その後チンギスは金攻略を四駿筆頭のムカリに任せ、自身は>>629の西征に取り掛かるのでした


本日は金の都中都の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年

631Republica de Venexia:2015/06/02(火) 00:01:28 ID:???
6月2日はアンティオキアが陥落した日です

>>366で見たように第1回十字軍は1095年に召集され、翌96年秋に聖地へ向けて出発しました
97年4月には小アジアに渡りニケーアを攻めるものの、ここはビザンツ帝国に出し抜かれ、ニケーアを離れて小アジアを横断していきます
この後>>224のゴドフロワ=ド=ブイヨンの弟であるボードゥアン=ド=ブーローニュが別行動を取り、98年2月にエデッサを攻略、エデッサ伯国をたてました
ボードゥアンは後にゴドフロワの後を継いで正式な初代イェルサレム王となり、エデッサ伯国は>>199でザンギーに滅ぼされるまで存続します

一方十字軍本隊はアンティオキアへと向かい、97年10月から包囲を開始しました
アンティオキアはセレウコス朝シリアの都となった歴史の古い都市で、ローマ帝国時代はその第三の都市として繁栄し、キリスト教の五本山としても繁栄します
その後>>253のヘラクレイオス治世でイスラームに奪われるものの>>232でも登場したニケフォロス2世によって奪還され、>>261で見たセルジューク朝によって再びイスラーム支配下となっていました

アンティオキア包囲戦は難航し、ビザンツ帝国将軍タティキオスやエティエンヌ=ド=ブロワらが脱落するほどでしたが、ボエモンの活躍により膠着状態が打開されました
彼は>>566などで登場したノルマン人ロベール=ギスカールの息子でした
彼はイタリアでの展望が開けなかったため十字軍に参加し、東方に活路を見出していたのです
1098年6月2日、ボエモンはアンティオキア城内の内通者の手引によって城内に侵入し、ついに1098年6月2日、アンティオキア攻略に成功するのでした


本日は十字軍領アンティオキアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田廣訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

632Republica de Venexia:2015/06/03(水) 00:11:25 ID:???
6月3日はアラゴン艦隊が出港した日です

>>504で見たように、シチリア王マンフレーディはその娘コンスタンツァをアラゴン王子ペドロと婚約させ、アラゴン王国と姻戚関係となりました
やがて>>332のようにマンフレーディ、そしてコンラーディンがシャルル=ダンジューによって滅ぼされ、ホーエンシュタウフェン家の後継者はコンスタンツァに託されることとなります

アラゴンでは1276年にハイメ1世が死去、王子ペドロはペドロ3世として即位しました
79年にはアンダルシアのムーア人との問題を解消し、カスティーリャも王位を巡る内紛が起こっていたため、ペドロはイタリアに全関心を向けられる状況となります
ペドロは宰相ジョヴァンニ=ダ=プロチダを派遣し、シャルル=ダンジューと対立するイタリアの皇帝派やシチリア貴族、そしてビザンツ帝国との同盟に成功します

このビザンツ帝国については、シャルル=ダンジューがコンスタンティノープルへの遠征を計画していたこともあって、皇帝ミカエル8世はあらゆる手段を駆使してその計画を阻止しようと努めていました
シチリア人の反シャルル=ダンジュー感情を煽り、アラゴン王国の協力も取り付けたのです
もっともペドロとしてはシャルル=ダンジューがコンスタンティノープル遠征にシチリアを留守にした隙に侵入するつもりでしたが、ミカエルは先手を打ってシチリアの反乱を誘発させました
これが>>40で見た、1282年3月30日のシチリアの晩鐘です

こうしてミカエルに出し抜かれる形となったペドロでしたが、焦って行動することはありませんでした
シャルル=ダンジューはすぐさま反乱の鎮圧に乗り出し、反乱軍との間で激しい戦闘となります
この間の1282年6月3日、ペドロはアラゴン艦隊を結集しファンゴス港を出港、アフリカに渡って反乱の推移を見守っていました
やがて孤立し始めた反乱軍はホーエンシュタウフェン家の正統であるコンスタンツァとその夫ペドロを国王に迎えることに決し、ペドロに救援を求めます
同年8月にペドロはシチリアに上陸しシャルル=ダンジューを撃破、シチリア王となるのでした


本日はアラゴン王国のシチリア遠征の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年

633Republica de Venexia:2015/06/04(木) 00:02:12 ID:???
6月4日はハインリヒ3世が即位した日です

>>544のコンラート2世が死去し、その息子ハインリヒ3世が1039年6月4日、ドイツ王として即位しました
ハインリヒは父王が残した強力な帝国を受け継ぎ、その支配をさらに固めていきます
本拠地であるフランケン公領の他にシュヴァーベン公領、バイエルン公領も得、ドイツ王・イタリア王・ブルグント王・シュヴァーベン大公・バイエルン大公としての支配権を維持し、またボヘミア・ポーランド・ハンガリーに対する覇権も保ったのです

このようにハインリヒは王権の確立に成功し、また教会政策も父王の政策を踏襲し特に帝国教会にはほぼ無制限の支配権を持っていました
そしてローマ教皇にもまたハインリヒは強権を発揮します
ハインリヒか1046年にイタリアへと遠征した当時、ローマ教皇はベネディクトゥス9世、シルウェステル3世、グレゴリウス6世が鼎立していました
ハインリヒはスートリ教会会議でこのうちグレゴリウスとシルウェステルを罷免し、数日後にローマでの教会会議でベネディクトゥスをも罷免します

ローマの伝統として、教皇の選出はローマの人々によってなされるのが当然とされていました
これまでローマ人を無視し、皇帝の権威によって教皇を擁立したのは>>598などで登場したオットー3世のみでしたが、ハインリヒは再びこの皇帝理念を実現したのです
ハインリヒが教皇に選出したのはドイツ帝国教会の一員、バンベルク司教スイトガーで、これをクレメン.ス2世として教皇の地位に就けます
クレメン.スはバンベルク司教の地位も保ったままであり、ローマ教皇であり帝国司教でもあるという特別な形で皇帝に義務を負うこととなったのです

またハインリヒは1046年のクリスマスにローマにて皇帝戴冠式を挙行しました
その際にローマの人々はハインリヒを「ローマ人のパトリキウス」と歓呼します
こうしてハインリヒは「ローマ人の皇帝」として西欧で最も高い地位にある君主となりました
帝国領における無制限の支配権を望め、また反抗する貴族の領地を召し上げ直轄領の拡大に成功します
また主権者として帝国教会を支配し、司教や帝国修道院長の任命権も保持し、ローマ教会の支配者としても君臨したのです
ハインリヒの治世は、まさに皇帝権の絶頂期だったのです


本日はハインリヒ「黒王」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

634Republica de Venexia:2015/06/05(金) 00:10:46 ID:???
6月5日は後鳥羽上皇が挙兵した日です

鎌倉幕府では源頼朝の死後御家人の勢力が増大していき、中でも北条氏の台頭が顕著でした
北条氏は時政が幕府の実権を握り執権と呼ばれるようになります
時政の後を継いだ義時は1213年に和田義盛を滅ぼして執権の地位を不動のものとし、1219年には3代将軍実朝が暗殺されました
幕府には摂関家から藤原頼経が迎えられ摂家将軍となりますが、名ばかりの将軍であり実権は北条氏のもとにあったのです

一方朝廷では武士勢力の全国拡大を不満とし、特に荘園が地頭に奪われていったことで倒幕の動きが高まりつつありました
これを主導したのが後鳥羽上皇で、専制政治を進め分散していた天皇家領を手中に収め経済的基盤を強化します
そしてその土地を恩賞として軍事力を募り、畿内周辺の幕府御家人も上皇に臣従するようになったのです
上皇はこれらを北面の武士や新設の西面の武士に任じ、朝廷の軍事力は高まっていきました

そして1221年6月5日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発し、ここに承久の乱が勃発します
しかし上皇の下に畿内の武士は集まったものの、大多数は義時の下に集結しました
義時は東海道・東山道・北陸道の三方面から大軍を京都に向かわせ、劣勢の朝廷軍はわずか一ヶ月足らずで壊滅します
後鳥羽上皇は隠岐に配流され、上皇方についた武士の所領は没収、京都には六波羅探題が置かれ、幕府と北条氏の支配はますます強固なものとなっていくのでした


本日は承久の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館、2012年

635Republica de Venexia:2015/06/06(土) 00:08:14 ID:???
6月6日はクリスティーナが譲位した日です

>>353のリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフ=アドルフが戦死した時、その娘クリスティーナはわずか5歳でした
当然政務はとれないため、宰相オクセンシェルナが国政を受け持ち三十年戦争を戦ったのは>>305でも見た通りです
そしてスウェーデンは三十年戦争を戦い抜き、1645年にはヤンカウの戦いで皇帝軍に勝利し皇帝フェルディナント3世はプラハからウィーンへ逃亡、47年にはプラハが包囲され、講和条約に至るのです

戦勝の立役者となったスウェーデンは当初、ポンメルン、シュレジエン、ブレーメン、ヴェルデン、マクデブルク、ハルバーシュタット、カミン、ミンデン、オスナブリュックの各司教領、ヴィスマル港を要求しました
しかしウェストファリア条約によってスウェーデンが得た領土は前ポンメルン、ブレーメン・ヴェルデン司教領、ヴィスマル港のみでした
この大幅な譲歩を主導したのが、1644年から親政を開始したスウェーデン女王クリスティーナだったのです

クリスティーナはスウェーデン一国の利害よりも、全ヨーロッパ、全キリスト教徒の平和を優先し、オクセンシェルナを筆頭とする国内の大反対を押し切って譲歩を貫きました
その結果他国の利益が増えることとなり、>>327のウェストファリア条約が穏便に締結されたともいえるでしょう
もちろん、クリスティーナの理想はスウェーデンの国益を度外視したものであり、その理想を追求すればするほど、女王としての彼女と乖離していくことになります
そのためクリスティーナは1654年6月6日、27歳にして譲位し、従兄にあたるカール=グスタフが王位を継ぐのでした


本日はスウェーデン王カール10世グスタフの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

636Republica de Venexia:2015/06/07(日) 00:01:29 ID:???
6月7日はトルデシリャス条約が結ばれた日です

>>313で見たコロンブスによる「新大陸発見」を重要視したカトリック両王の対応は迅速でした
「発見」の翌1493年、その法的権利を得ようとローマ教皇アレクサンデル6世と交渉したのです
スペイン出身であるアレクサンデルはこれに応じ、スペインの植民地に法的保証を与えるアレクサンデル教書が与えられ、ヴェルデ岬西方560kmの西側をスペイン領とする教皇子午線が設定されました

これに抗議したのが、同じく植民地拡大を目指すポルトガルでした
カトリック両王としてもポルトガルとの関係を維持したく、ポルトガルの要求に応じ子午線を西方に移します
そして1494年6月7日改めて両国間でトルデシリャス条約が結ばれました
この条約は異例なものであり、全地球を政治的に1つのものとみなし、それをスペインとポルトガルの二国家間で分割するというのです
子午線はさらに150km西方に移され、その西側をスペイン領、東側をポルトガル領とすることが取り決められたのでした


本日は世界分割の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年

637Republica de Venexia:2015/06/08(月) 00:01:26 ID:???
6月8日はリンディスファーン修道院が襲撃された日です

イングランドでは5世紀からアングロ=サクソン人の本格的な侵入が始まり、7世紀末にはケント、エセックス、サセックス、ウェセックス、イーストアングリア、マーシア、ノーザンブリアのいわゆる七王国が分立しました
その中でキリスト教も普及していき、特に7〜8世紀に強勢を誇ったノーザンブリアではキリスト教文化が隆盛し、ベーダやアルクインなどの学僧が活躍します
ノーザンブリアでもキリスト教文化の中心地となったのがリンディスファーン修道院で、聖なる島の異名を持ち、『リンディスファーンの福音書』は現在にも残されているのです

やがて七王国は>>299で見たようにウェセックス王のエグバートによって統一されていきますが、その時期はちょうどヨーロッパの第二次民族移動期と重なっており、イングランドにもその波が押し寄せてきます
793年6月8日、リンディスファーン修道院をデーン人が襲いました
イングランドでは海岸防備が薄く、豊かな修道院は格好の獲物だったのです
以降もデーン人の侵入は繰り返され、アルフレッド大王の時代になって一時撃退することになるのでした


本日はヴァイキング時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・B.アルムグレン、蔵持不三也訳『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

638Republica de Venexia:2015/06/09(火) 21:44:36 ID:???
6月9日はピョートルが産まれた日です

1669年、ロシア皇帝アレクセイ=ミハイロヴィチは妻のマリア=ミロスラフスカヤを亡くし、その2年後にナタリア=ナルイシュキナと再婚しました
このナタリアとアレクセイとの間で1672年6月9日に産まれたのがピョートルです
そして1676年にアレクセイが死去すると、宮廷ではその後継者をめぐってミロスラフスキー家とナルイシュキン家との間で争いが起こりました

この時はミロスラフスキー家のフョードル3世が即位しましたが、彼は病弱のため治世わずか6年で跡継ぎがいないまま死去してしまいます
再び後継者争いが起こり、フョードルの弟イヴァンが候補に挙がりましたが彼もまた病弱で、10歳になって逞しく成長していたピョートルが母ナタリアを摂政とし、皇帝ピョートル1世として即位したのです

しかしミロスラフスキー派も、フョードルとイヴァンの姉であるソフィアが巻き返しを図りました
ピョートル即位の翌月、ソフィアは銃兵隊を取り込んでナルイシュキン派を襲い、イヴァンを皇帝に就け自身は摂政として政治の実権を握りました
ところがソフィアはオスマン帝国従属下のクリミア=ハン国に対する遠征に失敗すると支持を失い、ピョートル支持派は勢いを取り戻します

ミロスラフスキー派はピョートルの暗殺を計画するものの失敗し、1689年、ピョートルは政治の実権を取り戻しました
1694年には摂政である母ナタリアが死去し、ここからピョートルの親政が始まります
そしてピョートルは西欧技術導入によるロシアの近代化、強国化に努め、>>205で見たように大北方戦争に勝利し、新都サンクト=ペテルブルクを建設するなど、「大帝」としてロシアに君臨することとなるのでした


本日は後のピョートル大帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

639Republica de Venexia:2015/06/10(水) 01:17:08 ID:???
6月10日はフリードリヒ1世が水没した日です

>>512で神聖ローマ皇帝に即位したフリードリヒ1世バルバロッサはドイツにおける王権を固め、叙任権闘争以来権力を高めていた教皇権に挑み、その治世で神聖ローマ帝国の威信は大いに高まりました
フリードリヒの皇帝理念は、「神聖帝国」という名称にも表れています
彼は1157年に開かれたブザンソンにおける宮廷会議で、ローマ教皇ハドリアヌス4世がよこした、教皇の恩恵によって皇帝位を授与するという旨の手紙をはねつけます
自身の王権と皇帝権は神のみから授与されたこと、そしてその神の意思はドイツ諸侯の選挙に表現されているとしたのです
皇帝権が神に直接由来し、そのため教皇権から独立したものであるという見解、それを表現したのが「神聖帝国」という呼称でした

そんなフリードリヒにとって、十字軍への参加は皇帝が西欧キリスト教世界の頂点としての威信を高めるものであり、折しも>>199のヒッティンの戦いでサラディンによって十字軍国家が大打撃を受けたこともあって、1189年、フリードリヒは第3回十字軍を組織します
この十字軍はイングランド王リチャード1世獅子心王、フランス王フィリップ2世尊厳王も参加した大規模なものでしたが、その途上の1190年6月10日、フリードリヒは小アジアのサレフ川で水浴中に溺死してしまいます
こうしてあっけない最期を遂げたフリードリヒですが、この偉大な皇帝への追慕から、フリードリヒはキフハイザーの城に眠っていて、ドイツの危急存亡の折には必ず帰還するという伝説が生まれるのでした


本日はフリードリヒ1世バルバロッサの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

640Republica de Venexia:2015/06/11(木) 00:14:43 ID:???
6月11日はブレスラウ条約が結ばれた日です

これまでオーストリア継承は何度か取り上げてきましたが、この戦争はいくつかの段階に分かれており、その第一段階は第一次シュレジエン戦争と呼ばれます
プロイセン王フリードリヒ2世のシュレジエン奇襲によって始まったこの戦争は、>>559のモルヴィッツの戦いにプロイセンが「勝利」したことでプロイセン寄りのフランス・バイエルンが勢い付き、この3国にザクセン・スペインを加えた同盟が成立します
バイエルンは神聖ローマ皇帝位とベーメン、ザクセンがメーレン、スペインがピエモンテ、フランスがオーストリア領ブラバントとフランドルを獲得するという合意がなされました

これに基づき、1741年に連合軍はオーストリア領ベーメンに侵攻、プラハを陥落させバイエルン選帝侯カール=アルブレヒトのベーメン王即位、翌42年には神聖ローマ皇帝カール7世としての即位を宣言しました
これに対しフランスの勢力拡大を阻止すべくイギリスがオーストリア側で戦争に介入、オーストリアもマリア=テレジアがハンガリーの協力を取り付け反撃を開始します
ここでプロイセンは密かにオーストリアと密約を結び、シュレジエンの一部譲渡を条件に単独で講和します

これによってオーストリアは勢いを得、連合軍をベーメンから退却させるため、カール7世の本拠地バイエルンへと侵攻します
このために連合軍はベーメンから退却し、オーストリアはさらにプロイセンとの密約を暴露することで同盟国間の不審を煽りました
ここに至ってプロイセンは戦争から離脱できなくなり、戦争継続を決意します
しかしオーストリアはその勢いのままバイエルンの首都ミュンヘンを占領、さらにプラハも奪回し、プロイセンへと攻勢をかけますが1742年5月のコトゥジッツの戦いでプロイセンに敗北、その勢いは止まることとなりました

ここでオーストリアはプロイセンに対する再びの妥協を決定、1742年6月11日、ブレスラウにて講和条約が締結されます
その内容はプロイセンがマリア=テレジアの夫フランツの神聖ローマ皇帝への即位を認める代わりに、オーストリアがプロイセンのシュレジエン全土の領有を認めるというものでした
こうしてシュレジエンを巡るオーストリアとプロイセンとの戦争はひとまず終結を迎えましたが、>>597で見たようにフランスやバイエルンとの戦いは続いていくのでした


本日は第一次シュレジエン戦争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

641Republica de Venexia:2015/06/12(金) 00:01:25 ID:???
6月12日はアンネ=フランクが産まれた日です

アンネ=フランクは1929年6月12日、ドイツのユダヤ人の家庭に産まれました
当時のドイツでは反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が勢力を拡大しており、その党首アドルフ=ヒトラーは1933年に首相に就任します
以後国政を掌握したナチスは反ユダヤ主義政策を次々と打ち出し、ユダヤ人の国外追放を進めるのです

アンネ一家も父親のオットーが33年にオランダに移住し、アンネも翌年オランダへと移っていきます
オランダにはナチスの迫害を逃れたユダヤ人が多く移住しており、ここでアンネは教育を受ける機会を得ました
しかし1939年にヒトラー率いるドイツによって第二次世界大戦が勃発すると、翌40年にはオランダもドイツに占領され、オランダでも反ユダヤ主義政策が進められたのです

1942年6月12日、アンネが13歳の誕生日に日記帳をプレゼントされたのはそのような状況においてでした
42年の時点でヒトラーの反ユダヤ主義政策は全ヨーロッパに拡大しており、ホロコーストと呼ばれるユダヤ人の大量虐殺も繰り返されるようになります
アンネ一家は隠れ家での潜伏生活を余儀なくされ、彼女の日記には隠れ家での出来事が書き綴られています
やがて1944年にアンネ一家はナチス親衛隊に発見され、強制収容所に送られることになります
1942年6月12日〜44年8月1日まで記録されたこの日記帳は、戦後父親のオットーによって出版され、『アンネの日記』として全世界で読まれることになるのです


本日は『アンネの日記』の誕生日です


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・レイモンド・P・ジェインドリン、入江規夫訳『ユダヤ人の歴史』河出書房新社、2012年

642Republica de Venexia:2015/06/13(土) 00:53:42 ID:???
6月14日はルートヴィヒ2世が亡くなった日です

これまで度々登場し、ドイツ史において重要な役割を担ってきたバイエルンは、>>211のナポレオンによるライン同盟結成の際、王国に昇格しその加盟国となりました
>>567のドイツ帝国成立の際にも王国としての地位は保たれ、プロイセンに次ぐ第二の大邦として自立性を保持していたのです

ルートヴィヒ2世がバイエルン王となったのはドイツ帝国成立以前の1864年3月でした
しかしルートヴィヒは政務を離れて自身の趣味に没頭し、ノイシュヴァンシュタイン城やヴェルサイユ宮殿を模したヘーレンキームゼー城、トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城などを建築します
やがてルートヴィヒは精神に異常をきたし、狂人と宣告されて1886年6月12日に王位を追放され、その翌日の6月13日に謎の死を遂げたのでした


本日は「ルートヴィヒ狂王」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・須永朝彦『ルートヴィヒ2世 白鳥王の夢と真実』新書館、1995年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

643Republica de Venexia:2015/06/14(日) 00:17:29 ID:???
6月14日は岩本徹三が産まれた日です

1916年6月14日、岩本徹三は樺太で四人兄妹の三男として誕生日しました
海軍を志した岩本は1934年に呉の海兵団に入団、36年には第34期操縦練習生を卒業し、一等航空兵として佐伯海軍航空隊に勤務することとなります
その初陣は日中戦争が勃発した翌年の1938年、南昌攻撃においてで、この空戦で岩本は4機を撃墜するという華々しい戦果を挙げ、帰国するまでに14機を撃墜するというトップエースとなったのです

太平洋戦争開戦時には空母「瑞鶴」の戦闘機隊として>>377の真珠湾攻撃、>>51のセイロン沖海戦などのインド洋作戦、そして史上初の空母同士の航空戦となった>>594の珊瑚海海戦に参加し、母艦上空直掩で活躍します
珊瑚海海戦から旗艦後は航空隊教員や基地航空隊勤務を経て、1943年11月にラバウル航空隊に加わりました
「大空のサムライ」坂井三郎、「ラバウルの魔王」西澤廣義、「ラバウルのリヒトホーフェン」笹井醇一など名だたるエースも所属したこのラバウル航空隊でも岩本は実力を発揮します

岩本が得意としたのは一航過一撃戦法(一撃離脱戦法)で、敵より先に相手を発見し、敵機より高位から急降下で肉迫、射撃を加え下方に離脱するというものでした
ラバウルでも着々と戦果を挙げていくなか、着任より一ヶ月後の1943年12月、岩本らのもとに新兵器の三号爆弾が到着します
これは敵編隊の上空から投下すると時限信管によって炸裂し約200発の小型爆弾が飛び散るというものでした
岩本はこの三号爆弾を巧みに操り、一航過一撃戦法によって一度に10機以上を撃墜するということもありました

1944年にはラバウルを離れ、トラック基地などを経て内地の基地航空隊を転々、B29を単機で撃墜という活躍もありました
こうして1938年の初陣から1945年の終戦までの8年間、第一線で戦い抜いた岩本は自身の記録で202機もの敵機を撃墜し、その愛機には撃墜数を表す桜のマークが描かれ、その多さから機体後部はピンク色に見えたといいます
岩本徹三は、まさに太平洋戦争における撃墜王の一人だったのです


本日は「零戦虎徹」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・岩本徹三『零戦撃墜王』光人社、2004年
・「歴史街道2009年8月号 岩本徹三と零戦 ラバウル航空隊の誇りと不屈の闘志」PHP研究所、2009年
・「歴史人別冊 零戦の真実」KKベストセラーズ、2012年

644Republica de Venexia:2015/06/15(月) 00:16:03 ID:???
6月15日はコソヴォの戦いが行われた日です

オスマン帝国第三代スルタンのムラト1世はバルカン半島への進出を進め、ビザンツ帝国の重要都市アドリアノープルを征服しました
こうした領土の拡大に伴って支配下の部族は増大していき、オスマン帝国は従来の支配体制からの変革を迫られることになります

初代オスマン、二代オルハンの時代では行政と軍事が未分化なまま、支配下の部族長による合議が行われ、スルタンはその調停者というような役回りでしたが、宰相の制度が整備され統治組織の充実を図られたのです
ムラトは職務内容別に複数の宰相を任命し、彼らによる御前会議がオスマン帝国の政策の最高決定機関となりました
またイスラーム法に精通した知識人(ウレマー)を登用し、イスラーム法の施行に従事したことで法制度も整備されていきます
軍事においても改革が行われ、オルハンの時代には失敗した常備軍が編成されました
異教徒・異民族の人々を奴隷として入手し、訓練を施して軍人とする奴隷軍人制度が取り入れられたのです
これが後にオスマン帝国軍の中心となる常備歩兵軍団イェ二チェリの始まりでした

こうしたオスマン帝国の発展に脅威を感じたセルビアはハンガリーやボスニアなど他のバルカン諸国と結んで対抗しようとしますが、すでにセルビアは>>69のステファン=ドゥシャンの死後分裂しており、1364年のマリツァの戦いで敗れます
71年には再びセルビアがオスマン帝国に挑むもののまたもやマリツァで敗北しました
オスマン帝国はその後も85年にソフィア、86年にはニシュを攻略しバルカン半島を次々と支配下に収めていきます

これに対し1389年、バルカン諸国はセルビア王ラザールを中心にボスニア、ワラキア、アルバニアなど10万とも言われる大軍を編成し南下します
オスマン帝国も小アジアの諸君侯国や属国ビザンツ帝国やブルガリア、セルビアに敵対する諸侯の兵を糾合し迎え撃ちます
1389年6月15日、両軍はコソヴォにおいて激突しました
この戦いにオスマン帝国は勝利を収めたものの、セルビアの放った刺客にムラトは殺害されてしまいます
この危機をしのいだのがムラトの息子のバヤジット1世で、雷帝と呼ばれた彼は>>296で見たようにバルカン半島へのさらなる征服を進めていくのでした


本日はムラト1世の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

645Republica de Venexia:2015/06/16(火) 00:03:46 ID:???
6月16日はアクセル=オクセンシェルナが産まれた日です

1585年6月16日、スウェーデンに産まれたオクセンシェルナは26歳の頃の1612年、宰相に就任しました
その主君は>>285などで登場した名君グスタフ=アドルフ、炎に例えられるグスタフ=アドルフと氷に例えられるオクセンシェルナは二人三脚でスウェーデンの改革を進めていきます

軍事的才能を発揮しマウリッツの軍制改革を完成させたグスタフ=アドルフに対し、オクセンシェルナは内政でその手腕を発揮し、官僚制度、商業、工業、教育などの近代化に努めたのです

グスタフ=アドルフは>>353のリュッツェンの戦いで戦死し、スウェーデンでは幼いクリスティーナが国王となります
オクセンシェルナはスウェーデンに帰還し摂政としてクリスティーナを支え、国政を引き締めて三十年戦争の継続を図ります
オクセンシェルナはプロテスタント諸侯に呼びかけ1633年にハイルブロン同盟を結成、そしてフランスを直接参戦に踏み切らせ、>>305のヴィットストックの戦いでの勝利に導きました

そしてスウェーデンを中心とするプロテスタント陣営の優勢で戦争は進み、>>327で見たようにウェストファリア条約の実現に至りました
この条約交渉においては>>635で見たようにクリスティーナによってオクセンシェルナらの主張は退けられ、その晩年は不遇でした
しかし同時代人に、もしヨーロッパの政治家が同じ船に乗るとしたらオクセンシェルナに舵取りを任せるだろうと言われたほどのその政治手腕、間違いなく当時のヨーロッパを代表する名宰相だったといえるでしょう


本日はグスタフ=アドルフの相棒の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

646Republica de Venexia:2015/06/17(水) 00:02:24 ID:???
6月17日はボレスワフ1世が死去した日です

ポーランドではピアスト朝の創始者ミェシコ1世の時代、神聖ローマ帝国に脅かされていました
当時の皇帝は>>593などで登場したオットー大帝で、彼はマクデブルク司教座を大司教座に格上げするなど、東方への影響力を強めていたのです
キリスト教帝国の皇帝として、オットーはポーランドを自らの主導によってキリスト教化しようとしていましたが、ここでポーランドのミェシコ1世はボヘミアの仲介により966年、直接ローマ教皇から洗礼を受けます

このミェシコの後を継いだのが長男ボレスワフ1世でした
ボレスワフの治世での1000年、グニェズノにて会議が開かれます
神聖ローマ皇帝オットー3世が訪れローマ教皇特使も参加したこの会議で、従来ポズナニにしか司教座がなかったポーランドにグニェズノ大司教座とその管轄下の三司教座が置かれることとなりました
また王号の獲得を望むボレスワフをオットーは支持し、「兄弟にして帝国の協力者ならびにローマ人の友にして同志」と呼んだといいます

このような神聖ローマ帝国の親ポーランド的態度には、オットーの理念が影響していました
>>598などで見たようにオットーはローマ帝国復興を熱望しており、全キリスト教世界の連邦的体制の一員としてポーランドも重要視していたのです
このように神聖ローマ帝国との関係を築いたボレスワフは、ボヘミア征服によって一時はボヘミア公位を得、ビザンツ帝国と結んでキエフを占領するなど、ポーランドの領土拡大にも努めます
1025年にはローマ教皇によって正式に王として戴冠し、「勇敢王」と称されさのです
こうしてポーランド王国の基礎を築いたボレスワフは1025年6月17日に死去しました


本日はポーランド初代国王の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典II 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

647Republica de Venexia:2015/06/18(木) 00:06:19 ID:???
6月18日は三帝条約・再保障条約が結ばれた日です

>>325で見たように1873年、ドイツ帝国首相ビスマルク主導の下でロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との間で三帝協約が結ばれました
しかし露土戦争後のロシアの勢力拡大にイギリスとオーストリアが反発し、ビスマルクはその調停のためにベルリン会議を開き、列強間での利害を調整しました
しかしロシアはビスマルクがロシアを十分に支持しなかったと不満を感じ、ドイツ・ロシア関係が悪化してしまったのです

そこでビスマルクは1879年、以前から同盟を望んでいたオーストリア=ハンガリーと独墺同盟条約を結びました
秘密軍事条約であるこの条約はドイツの対ロシアでの共闘を定めたものの、対フランスには無力であったため、ビスマルクはその後次々と同盟条約を重ねていくことになります

ビスマルクはまた、イギリスに接近しようとしていました
イギリスと激しく対立していたロシアは再びドイツに接近し、三帝協約の復活を提案、これを受けて成立したのが1881年6月18日の三帝条約です
こちらは三帝協約とは異なり秘密条約で、第四国との戦争の際にそれぞれ中立の立場を取ることが取り決められました

翌1882年には独墺伊三国同盟条約が結ばれ、イギリスとの友好関係を前提とした上での対フランス戦争での協力が確認されます
こうして仮想敵国をロシアとする独墺同盟、ロシア-イギリス戦争でのロシア支持も盛り込んだ三帝条約、そして仮想敵国をフランスとしイギリスとの友好は維持する三国同盟、この矛盾した3つの同盟条約が成立したのです

この矛盾は戦争に発展しない間は露呈しませんでしたが、1885年からビスマルクは大きな国際危機に直面します
それがブルガリア危機とブーランジェ危機との二重危機でした
ブルガリア危機ではロシアからの自立を目指すブルガリアをイギリスとオーストリア=ハンガリーが支援し、双方の関係が悪化し三帝条約が解消されてしまったのです
またブーランジェ危機は、対ドイツ報復戦を主張するブーランジェ将軍が陸相となったことで対フランス戦争の危機が迫るというものでした
その上先のブルガリア危機ではオーストリア=ハンガリーの背後にドイツにがいるものとされたためロシアとドイツとの関係も悪化していたため、二正面作戦の危険もありました

そこでロシアとフランスの連携を防ぐため、またドイツのイギリスへの接近を阻止しようとするロシアの思惑もあって1887年6月18日、両国間で再保障条約が締結されました
この条約は対オーストリア=ハンガリー、対イギリスを想定したものであり、他の同盟条約とは矛盾するものでしたが、ここにひとまずビスマルク外交の1つの終着点をみたのでした


本日はビスマルク体制の完成日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

648Republica de Venexia:2015/06/19(金) 01:16:53 ID:???
6月19日は朝鮮が対馬を襲撃した日です

14世紀初め、朝鮮半島や中国の沿岸で倭寇と呼ばれる日本人を中心とする海賊集団が略奪を繰り返していました
これを前期倭寇といい、対馬・壱岐・肥前松浦を主な根拠地とするこの倭寇に対し、朝鮮の高麗は日本に取り締まりを要請します
しかし当時の日本は南北朝の動乱時代であり、九州も戦乱の最中であったため倭寇に対し有効な対策ができませんでした

朝鮮半島を主な標的とした倭寇の襲撃は明記されるものだけでも400件以上あり、高麗衰退の一因にもなりました
その高麗では李成桂が倭寇撃退で名を上げ、1392年、高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建国します
とはいえその後も倭寇の襲撃は続き、1419年6月19日、朝鮮は倭寇の根拠地とされた対馬を襲撃します
これを応永の外寇といい、10日間に渡るこの襲撃は対馬の宗氏が撃退に成功しました
応永の外寇によって一時は貿易が中断したものの、あくまで倭寇討伐が目的であったためすぐに再開されます
宗氏はこの日朝貿易を次第に独占するようになり、日朝の中継地点として特別な地位を占めていくことになるのでした


本日は応永の外寇の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』中央公論新社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年

649Republica de Venexia:2015/06/20(土) 00:07:31 ID:???
6月20日は第三身分が球戯場に集まった日です

>>489で見た七年戦争、それと並行した北米でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのカーナティック戦争に敗れたフランスは、イギリスに対抗するため>>570のアメリカ独立革命を積極的に支援しました
その結果北米で一時は軍事的優位に立ったものの、一方で赤字が膨張し慢性的な財政問題はさらに悪化することとなります
当時のフランスはアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれ、全人口の1割に満たない第一身分と第二身分の聖職者・貴族が特権を持ち、9割以上の第三身分である平民が重税に苦しんでいたのです

第三身分のなかでも台頭著しい商工業者や大農場経営者などのブルジョワジーが営業の自由を求め絶対王政への反発を強めるなか、フランス王ルイ16世は課税の承認を求める三部会を招集しました
1789年5月5日に開かれたこの三部会で第三身分は身分別の議決法に反発し第一・第二身分と対立、一ヶ月に渡る議論の末、第三身分は三部会を離脱し国民議会を結成します
これに対し第一・第二身分は第三身分の議場を閉鎖したため、第三身分は球戯場に集まりました
1789年6月20日、球戯場に集まった人々はシェイエスやミラボー指導の下で憲法が制定されるまで解散しないことを宣誓したのでした


本日は「球戯場の誓い」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年
・柴田三千雄、福井憲彦・近藤和彦編『フランス革命はなぜ起こったか 革命史再考』山川出版社、2012年

650Republica de Venexia:2015/06/21(日) 00:05:03 ID:???
6月21日はラウペンの戦いが行われた日です

>>441で見たように、スイスではゴットハルト峠が通行可能になって以降、ヨーロッパにおける交通の要所となりました
ハプスブルク家はこのスイスの支配確立を目指しますが、1291年にウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの三州がスイス誓約同盟を結成してこれに対抗します
これとは別に勢力を広げていた都市国家の一つがベルンでした

ベルンは1191年にツェーリンゲン大公ベルトルト5世によって築かれ、ツェーリンゲン家断絶後には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世のもとで帝国自由都市となりました
13世紀になると上で見たハプスブルク家の進出に遭い、またイタリアからはサヴォイア家も進出してきます
ベルンもまた他のスイス諸州と同じくこれに対抗し、周辺地域を支配下に組み入れ都市国家として拡大していきました

1315年にはスイス誓約同盟はモルガルテンの戦いでハプスブルク家に勝利し、ベルンもまた1339年6月21日にラウペンの戦いでハプスブルク家を撃退しました
ラウペンはベルンの中心地となり、都市国家ベルンはさらなる発展を見せることとなります
1353年にはスイス誓約同盟に加盟してその中心的存在となり、1386年のゼンパッハの戦いで再びハプスブルク家を破るのでした


本日はベルンの対ハプスブルク戦勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年

651Republica de Venexia:2015/06/22(月) 00:22:30 ID:???
6月22日はピュドナの戦いが行われた日です

アレクサンドロス帝国の後継国家の1つアンティゴノス朝マケドニアは、フィリッポス5世が>>236の第二次ポエニ戦争でハンニバルと同盟し、ローマに対抗しました
しかし二次にわたるマケドニア戦争の結果マケドニアは敗北し、以後フィリッポスは親ローマ政策を採るようになります

しかしフィリッポスの後を継いだペルセウスは再びローマに対抗し、ギリシアでの勢力を拡大しようと目論みます
ペルセウスは親ローマであったペルガモン王国に侵攻し、ペルガモン王国がローマに救援を求めたため、前171年に第三次マケドニア戦争が勃発しました
当初はマケドニア軍がローマ軍に対し優勢で、マケドニアのギリシアにおける影響力拡大に成功しますが、>>322のザマの戦いでハンニバルを破ったスキピオ=アフリカヌスの義弟、ルキウス=アエリミウス=パウルスが執政官として派遣されると戦局が変わります

前168年6月22日、パウルス率いるローマ歩兵隊とペルセウス率いるマケドニアのファランクスが激突し、数では劣るローマ軍がファランクスを翻弄し大勝をおさめたのです
敗れたペルセウスは捕虜となって廃位されアンティゴノス朝は断絶、マケドニアは4つに分割され、後にローマの属州となるのでした


本日はアンティゴノス朝マケドニアの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年

652Republica de Venexia:2015/06/23(火) 00:01:26 ID:???
6月23日はプラッシーの戦いが行われた日です

イギリス東インド会社は17世紀にマドラス、ボンベイ、カルカッタを拠点にインド経営を進めていました
一方でフランス東インド会社も勢力を拡大し、マドラス南方のポンディシェリ、カルカッタ北方のシャンデルナゴルを拠点とし、インド経営を巡ってイギリスと対立するようになります

インドでの英仏対立は、18世紀中頃からヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争、七年戦争によって本格化し、これにインド諸侯同士の争いも加わって三次にわたるカーナティック戦争が勃発しました
当初はフランスのインド総督デュプレクスの活躍によってフランスが優勢でしたが、財政難に陥っていたフランスが1754年、デュプレクスを本国に召喚し、フランスの優位は失われました
一方でイギリスはクライヴをベンガルに派遣し、イギリスに反発していたベンガル太守と対峙することとなります
イギリスと対立していたフランスはベンガル太守と結び、1757年6月23日、ベンガル太守・フランス東インド会社連合軍とクライヴ率いるイギリス東インド会社がプラッシーにて激突しました
この戦いでイギリスは大勝し、フランスはインドから駆逐されることとなります
以後イギリスはインド諸侯を武力で制圧しつつ、インド支配をさらに進めていくのでした


本日はイギリスのインド支配の確立日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・辛島昇編『世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年
・佐藤正哲他『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』中央公論新社、2009年

653Republica de Venexia:2015/06/24(水) 00:53:43 ID:???
6月24日はスロイスの海戦が行われた日です

イングランドとフランスのギュイエンヌ戦争、カペー朝断絶後のフランス王位継承権、毛織物産業地帯であるフランドルを巡る争奪戦、>>498でも見たスコットランド問題などが絡んで始まった英仏百年戦争は、まずフランドル地方で展開されました
イングランド王エドワード3世は、フランス王フィリップ6世側についたフランドル伯ルイを牽制するため、フランドルへの羊毛輸出を停止します
毛織物産業をイングランドからの羊毛輸入に依存していたフランドルは打撃を受け、フランスへの反乱が起こるようになりました

エドワードはこの反乱を支援するため1338年、自らフランドルに上陸しますが、ルイはパリへと逃亡しフランドルでの戦は小競り合いに終始したため一時イングランドに帰国しました
1340年に再びエドワードがフランドル上陸の動きを見せると、フィリップはフランス艦隊を集結させ、イングランドとフランドルの連携を断つため艦隊を北上させます
イングランド艦隊とフランス艦隊が激突したのは1340年6月24日、ブリュッへの外港スロイスにおいてでした
この海戦でイングランド艦隊は大勝し、フランス艦隊は壊滅します
エドワードはフランドルへの再上陸に成功し、以後制海権はイングランドが握ることとなるのでした


本日は百年戦争におけるイングランドの制海権奪取日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

654Republica de Venexia:2015/06/25(木) 00:34:45 ID:???
6月25日はマリア=テレジアがハンガリー王に即位した日です

ハプスブルク家では>>540で見たマクシミリアン1世以来の婚姻政策により、ラヨシュ2世の王妃としてマリアが嫁ぎました
そのラヨシュが>>264で見たモハーチの戦いで戦死したため、ハンガリー王位はマリアの兄であり、またラヨシュの妹の夫でもあるフェルディナント1世が継ぐこととなりました
しかしハプスブルク家による支配には反発も大きく、その急先鋒となったサポヤイ=ヤノシュはオスマン帝国と結びハプスブルク家に対抗したのです
以後もハンガリーでは反ハプスブルク運動が続き、ハプスブルク家が支配できたのは北方のわずかな領域のみでした

このようにハンガリー人はハプスブルク家の統治を嫌い、オーストリア人もまたオスマン帝国と結ぶハンガリーに強い不信感を抱いていました
この状況が変わったのがマリア=テレジアの時代です
プロイセンのシュレジエン侵攻で始まったオーストリア継承戦争の最中の1741年6月25日、マリア=テレジアはハンガリー女王として即位します
そして自らプレスブルクのハンガリー議会に乗り込み、オーストリアへの援助を懇願したのです
ハンガリー議会はオーストリアへの不信感から当初はその要請を受け入れませんでしたが、マリア=テレジアの約5ケ月間に渡る交渉の末ついに助力を承諾し、兵士と軍資金の提供を決定しました
これにより、>>640で見たようにオーストリアは反撃に転じることとなるのでした


本日はハンガリー女王マリア=テレジアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

655Republica de Venexia:2015/06/26(金) 00:03:03 ID:???
6月26日は六月蜂起が終結した日です

七月革命後、フランスでは産業革命が進み産業資本家が成長、労働運動や社会主義運動も盛んになりました
また七月王政下では有権者が全人口の1%にも満たなかったため選挙法改正運動が展開され、全国で改革宴会を組織します
しかしギゾー内閣は選挙法改正を拒否し改革宴会を禁止し、これに反発したパリの共和派市民や労働者、学生らが1848年2月に蜂起し第二共和政を打ち立てるという二月革命が起こりました

二月革命によって成立した臨時政府には産業資本家のラマルティーヌを中心とする共和主義者と、社会主義者のルイ=ブランを中心とする労働者・社会主義者勢力が参加しました
またルイ=ブランの提案によって国立作業場が設置されますが、彼が構想していた社会作業場とは異なり、単なる失業者救済の土木作業場となってしまいます
さらに労働者・社会主義者勢力は共和主義者と対立を深め、4月の総選挙で大敗しルイ=ブランも落選することとなりました

6月には国立作業場の閉鎖が決定され、これに対し労働者が暴動を起こし六月蜂起が勃発します
しかし6月26日、蜂起はカヴェニャック率いる政府軍によって鎮圧され、六月蜂起は終結することとなります
以後フランスではブルジョワ共和派の支配が確立し、やがてルイ=ナポレオンが台頭し第二帝政に至るのでした


本日は六月蜂起の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

656Republica de Venexia:2015/06/27(土) 00:04:23 ID:???
6月27日はポチョムキン号で水兵反乱が起こった日です

1890年代のロシアでは蔵相ヴィッテのもとで工業化が進められ、>>413で見た露仏同盟によってフランス資本が導入され、シベリア鉄道建設などの国内開発も進みました
しかし20世紀に入るとロシア経済は不況に陥り、労働者・知識人・学生らの間でツァーリ専制体制を批判する運動が活発化します

すでに1880年代にマルクス主義を掲げるプレハーノフらが社会変革運動を行い、1903年にはロンドンでロシア社会民主労働党が結党されました
しかしこれは直後にレーニンを指導者とするボリシェヴィキとマルトフを指導者とするメンシェヴィキに分裂し、プレハーノフは後者に合流します

このような社会主義運動が高まるなかで始まったのが日露戦争で、旅順要塞が陥落した直後にペテルブルクで行われた民主化や戦争中止を訴えるデモに軍隊が発砲するという血の日曜日事件が起こりました
この事件に抗議してロシア各地で労働者がストライキを行い被支配民族や農民が蜂起したのが第一次ロシア革命です
ロシアの動揺は奉天会戦や>>621の日本海海戦ての敗戦でさらに高まり、その最中の1905年6月27日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンにて水兵反乱が勃発したのです
反乱を指導したのが社会主義者の水兵で、黒海艦隊全体に反乱を拡大することはできなかったものの、革命はさらに進行することとなり、労働者の自治組織ソヴィエトが結成され、皇帝ニコライ2世はドゥーマ(国会)開設・憲法制定・内閣制採用などを公約する十月宣言を出すのでした


本日は戦艦ポチョムキンの水兵反乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

657名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/06/27(土) 09:59:35 ID:Q1JX37Wo
戦艦ポチョムキンの映画は見ました
名作ですね

658Republica de Venexia:2015/06/27(土) 10:04:53 ID:???
>>657
無声映画なんでしたっけ
あの時代のロシアはドラマティックな出来事が集まってますねー

659Republica de Venexia:2015/06/28(日) 00:33:33 ID:???
6月28日はヴェルサイユ条約が締結された日です

ヨーロッパではビスマルクの失脚後、>>549で見たようにヴィルヘルム2世が世界政策を展開し、緊張が高まっていました
また>>647で見たようなロシアとオーストリアの対立も継続し、それぞれパン=スラヴ主義、パン=ゲルマン主義を掲げてバルカン半島で火花を散らし、これに大セルビア主義も絡んで「ヨーロッパの火薬庫」状態となってサライェヴォ事件が起こり、第一次世界大戦となったのは>>191で見た通りです

ドイツはシュリーフェン・プランによる短期決戦を意図しましたが>>271のマルヌの戦いで食い止められ、ソンムの戦い、ヴェルダン要塞攻防戦も決定的なものとはならず、西部戦線は膠着状態となります
東部戦線てもタンネンベルクの戦いでドイツかロシアに大勝するもののこちらも膠着状態となり、>>343で見たようにロシア革命が勃発して>>399のソ連が誕生、ドイツと単独講和し戦線から離脱しました

このように戦争は長期化し、総力戦となっていきます
そのなかで両陣営とも中立国を味方に引き入れるため秘密外交を展開し、イギリスは>>580のロンドン秘密協定でイタリアを引き入れ、中東ではサイクス=ピコ協定、フサイン・マクマホン協定、バルフォア宣言を発し戦争を有利に進めようとしました
ドイツは戦局を打開するため無制限潜水艦作戦を開始しますが、これはアメリカの参戦を招くこととなりドイツは更なる窮地に陥ることとなります

1918年11月には>>339のキール軍港水兵反乱からドイツ革命が起こって共和国の成立を宣言、帝政は倒れ講和条約が結ばれる運びとなりました
1919年1月、パリで講和会議が開かれ、6月28日にヴェルサイユ条約が調印されます
しかしその条約内容、またその後のドイツへの対応は過酷なものでした
またドイツ国内ではドイツは戦場で敗れたわけでなく本国の社会主義者やユダヤ人の裏切りによって敗れたという「背後からの一撃」説が広まり、復讐感情が渦巻くこととなります
ともあれ大戦は終結し、ヴェルサイユ条約とそれに続く諸条約によるヴェルサイユ体制が形成されたのでした


本日はヴェルサイユ体制の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

660Republica de Venexia:2015/06/29(月) 00:07:10 ID:???
6月29日は長篠の戦いが行われた日です(ユリウス暦)

1575年5月、甲斐の武田勝頼は三河へと侵攻し、6月9日には軍事・交通の要衝である長篠城を包囲しました
徳川方の奥平信昌が拠る長篠城は頑強に抵抗し、武田による包囲を知った徳川家康は織田信長に救援を要請します
信長は即座に出陣し、26日には長篠城西方の設楽原に着陣し、野戦築城を開始しました

この時信長は設楽原の窪地を利用して兵を隠し、武田方から過小に見えるよう偽装工作を行います
信長としては武田軍をおびき寄せ、一挙に叩く算段だったのです
信長軍は連吾川西岸の河岸段丘に柵・堀・土居・切岸などの防御施設を重層的に構え、必勝の態勢を整えることとなりました

一方の勝頼は信長の偽装工作もあって織田・徳川連合軍の士気が低下していると誤認し、その撃滅を期して設楽原方面へと移動を開始します
これが決戦前夜の6月28日のことでした
すると信長は酒井忠次の別働隊を送り込み、長篠城の抑えに残っていた武田方の鳶ノ巣砦を奇襲、長篠城を救うことに成功します
武田方としてはこれによって背後にも敵を抱え、挟撃される形となりました

そして1575年6月29日、武田勝頼は陣城に籠る織田・徳川連合軍への突撃を命じました
武田軍は波状攻撃を仕掛けますが、野戦築城によって万全の態勢を整えていた連合軍は多数の鉄砲・弓をもってこれを迎撃します
設楽原の起伏に富んだ地形や水田地帯という条件も相まって武田軍は進軍に苦戦、思うように見動きの取れないところを連合軍の射撃によって次々と撃ち倒されていきました
山県昌景、馬場信春、内藤昌豊など名だたる武将が次々と討死していき、午後2時頃には総崩れとなります
撤退中にも隘路によって思うに動けない武田軍を連合軍が追撃して多数の戦死者を出し、勝頼は僅かな供回りとともに敗走したのでした


本日は長篠の戦いの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年

661Republica de Venexia:2015/06/30(火) 00:30:17 ID:???
6月30日は新田義貞が鎌倉に攻め入った日です

>>634の承久の乱の後朝廷では院政が行われていましたが、後嵯峨上皇が院政の後継者を定めずに死去し、皇統は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山上皇の流れをくむ大覚寺統に分裂します
両統は天皇の位を自統から出すために幕府に工作し、幕府は両統が交互に即位する両統迭立を勧めました

1317年には天皇即位について両統が協議し決定するという文保の和談が成立し、幕府は皇位継承に干渉しないこととなりました
そして翌年に即位したのが後醍醐天皇で、平安時代の延喜・天暦の治を理想とし親政を開始します
そのため幕府の影響力の排除を図り、御家人の不満や悪党の活動で動揺する幕府の打倒に踏み切ったのです

正中の変では倒幕計画が発覚して失敗に終わり、元弘の変では楠木正成が赤坂城で挙兵したものの天皇方についた者は少なく、赤坂城は落城し後醍醐天皇は隠岐に配流となりました
しかし倒幕の気運はますます高まるようになり、楠木正成が今度は千早城で挙兵し、肥後の菊池氏や伊予の土居・得能氏ら幕府の有力御家人も幕府に反旗を翻したのです
やがて後醍醐天皇は隠岐から脱出し、その下に多くの武士が結集するようになりました

なかでも源氏の名門足利高氏の幕府からの離反は大きな影響を与え、全国で倒幕運動が盛んとなります
足利氏と並ぶ源氏の名門の出である新田義貞も関東で挙兵し、幕府軍を次々と破りました
1333年6月30日には幕府の本拠地鎌倉に攻め寄せました
義貞は切通方面では攻めあぐねるものの、干潮を利用して稲村ケ崎を突破し鎌倉に乱入、北条氏一門や有力な御内人は次々と自害、鎌倉幕府は滅亡することとなったのでした


本日は鎌倉の戦いの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年

662Republica de Venexia:2015/07/01(水) 00:07:09 ID:???
7月1日はソンムの戦いが始まった日です

1914年9月に行われた>>271のマルヌの戦いの後、西部戦線は膠着状態となり、一進一退の塹壕戦となりました
10月にはドイツもフランスも軍需物資の平時備蓄を使い果たし、戦争はそれまでには見られなかった物量戦・消耗戦へと突入していきます

その中で新兵器も登場し、1915年4月のイープルの戦いではドイツ軍が毒ガスを投入しました
航空機の戦場に投入され偵察・爆撃などを行い、大戦中に戦闘機も開発されます
そして1916年7月に始まったソンムの戦いでも新兵器が登場するのです

ドイツ軍の進撃を塹壕戦で食い止めていた英仏両軍は1915年末に反攻作戦を計画し、翌年実行へと移されます
その攻勢地域に設定されたのがドイツ軍の拠点の1つであるソンム一帯でした
1916年7月1日、英仏両軍は攻撃をかけるもののドイツの強固な防御陣地を攻めあぐね、一進一退の攻防となります
そのような状況で9月にイギリス軍が投入した新兵器が戦車でした
しかしこれも戦局に決定的な影響は与えられず、戦いは両軍とも決定打が出ないまま11月に終結し、両軍合わせて100万人以上の死傷者を出す痛み分けとなったのでした


本日は戦車戦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

663Republica de Venexia:2015/07/02(木) 00:01:27 ID:???
7月2日はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がローマに入城した日です

>>329のテアーノの握手でガリバルディが征服した両シチリア王国を併合し、その後もイタリアの各地域をサルデーニャ王国が併合するという形でイタリア統一は進められました
1861年にはサルデーニャ王ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世が国王に選出され、イタリア王国が成立します
この時点で併合が課題となっていたのはヴェネツィアとローマでした
というのも、これらの地域はそれぞれオーストリア・フランスの影響下にあり、この二強国を相手とするには慎重を期す必要があったからでした

この両地域の併合を目指し、イタリアはまず1866年4月にプロイセンと同盟を結びます
同年6月に普墺戦争が始まるとイタリアもオーストリアとの戦争に突入し、オーストリアへの攻撃は失敗に終わるもののプロイセンがオーストリアに勝利したことでヴェネツィア併合が実現しました

1870年7月には>>221の普仏戦争が始まり、ローマに駐屯していたフランス軍が本国に引き上げます
そしてフランスがプロイセンに敗北したことでイタリアは教皇庁にローマ明け渡しを要求しますがこれは拒絶されたため、同年9月には軍事行動に踏み切りローマを占領しました
10月には旧教皇領における住民投票によってイタリア王国への併合が実現し、そして1871年7月2日、イタリア王ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世はローマに入城しここを首都と定めるのです
もっともこのローマ併合は教皇庁との決定的な対立を招き、>>483のラテラノ協定でようやく妥協をみるのでした


本日はイタリア王国首都ローマの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

664Republica de Venexia:2015/07/03(金) 00:01:47 ID:???
7月3日はゲティスバーグの戦いが終結した日です

>>570のアメリカ独立革命でイギリスからの独立を達成したアメリカ合衆国は、先住民を圧迫しながら西部開拓を進めていきます
19世紀半ばには太平洋沿岸に到達し、カリフォルニアで金鉱が発見されたことによるゴールドラッシュで西部への移民がさらに加速しました

しかしこの領土拡大の過程で連邦政府の権限や奴隷制をめぐり、北部と南部が対立するようになります
奴隷制のプランテーションによる綿花栽培を基盤とする南部は自由貿易と州の自治を主張し、商工業が発展した北部は保護貿易と自由労働、そしてそれらを推進するため中央政府の権限を強化する連邦主義を主張したのです

両者の対立は西部で新たな州が成立する度に奴隷制をめぐって激化していきます
1860年に北部を基盤とし奴隷制拡大反対を主張する共和党のリンカンが当選すると、これに反発した南部が連邦を離脱、ジェファソン=デヴィスを大統領とするアメリカ連合国が成立しました
北部はこれを抑えようとしますが失敗し、1861年に南北戦争が勃発します

当初はリー将軍率いる南部が優勢でしたが、北部は西部の支持を得る目的もあって1862年にホームステッド法を制定し、1863年1には奴隷解放宣言を発して内外に北部の正当性を訴えました
またグラント将軍が就任すると戦局も北部優勢に展開するようになり、1863年7月1日〜3日にかけてゲティスバーグの戦いが行われ、これに勝利した北部は65年に南部を降服させることとなるのでした


本日は南北戦争最大の激戦の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・明石紀雄・飯野正子『エスニック・アメリカ 多文化社会における共生の模索』有斐閣、2011年

665Republica de Venexia:2015/07/04(土) 00:03:53 ID:???
7月4日はメフメト6世が即位した日です

オスマン帝国では>>392のミドハト憲法による立憲制がわずか2年で停止されました
その後はパン=イスラーム主義を掲げ、国外のイスラーム諸民族から大きな支持を受けましたが、国内においては諸民族の離反が進みます
1908年には>>225の青年トルコ革命によってオスマン主義を掲げ、民族や宗教を問わない帝国全体としての一体化を図りましたが、次第にトルコ民族主義が強まったため、支配下のアラブ人地域ではアラブ民族主義が成長するようになりました

第一次世界大戦が始まるとオスマン帝国はドイツ側に立って参戦しますが、連合国がアラブ人の独立運動を支援したこともあってオスマン帝国はますます纏まりを欠き、敗戦することとなります
代36代スルタン、メフメト6世が即位したのは大戦末期の1918年7月4日のことでした
敗戦によって統一派政府が崩壊したのに乗じ、メフメトはスルタン専制の復活を図りますが滅亡寸前のオスマン帝国を立て直すことは叶わず、>>337で見たようにムスタファ=ケマルがトルコを指導しスルタン制は廃止、メフメトは亡命を余儀なくされオスマン帝国は滅亡することとなったのでした


本日はオスマン帝国最後のスルタンの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年

666Republica de Venexia:2015/07/05(日) 00:03:37 ID:???
7月5日はアッシジのフランチェスコが産まれた日です

>>294などで見た教会改革によりヨーロッパ社会では信仰の内面化が進み、修道士や聖職者による民衆への説教活動が積極的に行われました
その中で使徒的生活を追求して教会制度を批判する異端者集団も出現するようになります
このような異端派の最も有名なものがリヨンの商人ワルドが創始したワルド派で、13世紀には西欧各地に広がっていきました

同じく使徒的生活を追求する人々のなかで、異端とされずに正統な教会の一員として使徒的生活を行う集団も13世紀には出現します
そのうちの最大勢力の1つで、西欧における教会の発展に大きな役割を果たしたのがフランシスコ会でした

フランシスコ会の創始者であるフランチェスコは1182年7月5日、中部イタリアのアッシジで産まれました
彼は富裕な商人の息子であったにもかかわらずその生活を捨てて回心し、托鉢と福音の説教をアッシジで始めます
1209年にはフランチェスコの思想に共感する仲間が12人となり、>>417で見たローマ教皇インノケンティウス3世に面会し、「小さき兄弟たちの修道会」という名で正式な修道会として認可されます
これが元となったフランシスコ会は各地に修道院を創設し、厳格な清貧主義に基づいた説教、司教活動を行います
ローマ教会としてもそのような活動は異端を撲滅することにもなり、民衆を教化するものとして深い信頼を寄せていました
13世紀は教皇権が最盛期となる時代ですが、その中でフランシスコ会が果たした役割は非常に大きなものだったのです


本日は「アッシジの聖者」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』日本放送出版協会、2010年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年

667Republica de Venexia:2015/07/06(月) 00:23:55 ID:???
7月6日はレウクトラの戦いが行われた日です

ギリシア諸ポリスとアケメネス朝ペルシアとの間で行われたペルシア戦争は>>262のプラタイアの戦いでギリシア側が決定的な勝利を収めました
戦後ギリシアではペルシアの再攻に備えてデロス同盟を結成、その盟主となったアテネがギリシアの支配権を握ります

一方スパルタはペロポネソス同盟を強化してデロス同盟に対抗し、前431〜前404年に渡ってギリシアを二分するペロポネソス戦争に突入しました
最初アテネが優勢だったものの、その指導者ペリクレスの病死後はデマゴーゴスの扇動によって衆愚政治に陥り、アケメネス朝がスパルタを支援したこともあってペロポネソス同盟側の勝利に終わりました

こうしてスパルタが強大化したものの、これを嫌ったアケメネス朝が今度はアテネを支援し、アテネは指導力を回復します
これに対しスパルタは前386年の大王の和約でアケメネス朝と結びギリシアの支配権確保を図りました
そしてこの両ポリスか対立している間、勢力を強めていたポリスばテーベでした

テーベはエパメイノンダス指導の下で軍事力を増強し、前371年7月6日のレウクトラの戦いでは斜線陣を駆使してスパルタを破り、スパルタは没落することとなります
こうして一時はギリシア最強のポリスとなったテーベでしたが、マンティネイアの戦いでエパメイノンダスが戦死して以降は急速に衰退し、ギリシアは混迷の時代となったのです
この後ギリシアではマケドニアが台頭し、テーベの人質となっていたフィリッポス2世が斜線陣を改良してギリシアの覇権を得、>>302で見たようにアレクサンドロス大王のアケメネス朝打倒に至るのでした


本日はテーベの覇権の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

668Republica de Venexia:2015/07/07(火) 01:07:40 ID:???
7月7日はティルジットで講和条約が結ばれた日です

>>211でライン同盟が成立し神聖ローマ帝国が崩壊した後、ナポレオンの次なる敵はプロイセンとオーストリアとなりました
このうちプロイセンとは、ハノーファー支配を巡る利害の対立によって武力衝突に発展し、1806年10月にイエナ=アウエルシュタットの戦いが決戦となります
この戦いでプロイセンは大敗し、ナポレオンはベルリンに進軍し大陸封鎖令を発布しました

プロイセンは政府を東方に移したもののすでに大勢は決しており、同盟国のロシアもまたナポレオンに敗れたことで講和に至ります
1807年7月7日、ティルジットにて講和条約が締結されましたが、その内容はプロイセンにとって屈辱的なものでした
プロイセンはエルベ川以西、そしてポーランド分割で得た領土を全て放棄させられ、1億2000万フランの賠償金を課せられ、兵力は4万2000人に削減、そしてフランス軍15万人のプロイセン駐留を承認させられたのです

この講和条約締結後、プロイセンはシュタインやハルデンベルクによって自由主義的改革が進められ、シュレッターやシェーンによる農奴解放、フンボルトやシュライエルマッハーによる教育改革、シャルンホルストやグナイゼナウらによる軍制改革など、諸改革が次々と行われるようになるのでした


本日はティルジット講和条約の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年

669Republica de Venexia:2015/07/08(水) 00:03:19 ID:???
7月8日は宝治合戦が行われた日です

>>634の承久の乱の後北条義時は幕府による全国支配を固め、その没後は泰時が引き継ぎました
泰時は1225年に執権の補佐である連署を設け、また評定衆を設置し合議を重視する行政組織を整えていきます
1232年には御成敗式目を定め、執権政治を確立しました

泰時の執権政治を継承した時頼は1249年に評定衆を補佐する引付衆を設置するなど諸制度を改革する一方、北条本家である得宗家に政治の実権を集中させていきます
1246年には得宗家に近い名越家の勢力を一掃し、名越家に近かった御家人も名越派として処罰されました
残る強敵であったのが北条氏と並ぶ有力御家人であった三浦泰村で、時頼は1247年7月8日、宝治合戦にて三浦一族を滅ぼしたのです
こうして政敵を打倒したことで時頼は北条氏による統治を安定させていき、得宗専制政治が展開されていくようになるのでした


本日は三浦氏の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館、2012年

670Republica de Venexia:2015/07/09(木) 00:00:52 ID:???
7月9日はアナスタシウス1世が死去した日です

>>560で見たようにビザンツ皇帝アナスタシウス1世は周辺異民族を撃退、財政改革を行うなどして帝国を安定させました
そのアナスタシウスは518年7月9日に死去しましたが、彼には嫡子がおらず後継者を指名しなかったため、次代の皇帝選出は元老院、軍隊、市民も加わって紛糾しました

協議の末選出されたのが老将軍ユスティヌス1世でした
ユスティヌスの皇帝選出は、家柄や血統を問題にしないビザンツ皇帝の特徴をよく表しています
というのもユスティヌスは貧農の出身の無学文盲の人物であり、勅令に署名する際には「朕は読んだ(承認)」という文字をくり抜いた板を文書の上に置き、側近が手を添えて動かすという有様だったのです

そんなユスティヌスは補佐したのが甥のユスティニアヌスでした
このユスティニアヌスもまた農民の出身でしたが、若くしてコンスタンティノープルに上ったことで学問を修めており、無学な伯父を支えて実権を握るようになります
やがてユスティニアヌスはユスティヌスの養子、そして後継者となり、>>235で見たユスティニアヌス1世として即位するのでした


本日はビザンツ帝国レオ朝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

671Republica de Venexia:2015/07/10(金) 00:00:31 ID:???
7月10日はハドリアヌスが死去した日です

>>281で見たようにローマ皇帝ハドリアヌスはトラヤヌスの拡張政策から一転し、ブリタニアに長城を築くなどその領土を守ることを重視しました
またその帝国領土を自ら巡回し、特にギリシア、小アジアの属州における都市政策を重視し、均質な帝国を目指したのです

彼の行政面での施策は多岐に渡ります
行政の効率化を進めるため、彼の治世で植民市は増えませんでしたが既存の都市への介入は強まりました
また帝国全体に皇帝直轄下で様々な任務を担うプロクラートルが設置され、いわゆる官僚の役割を果たすようになります
その職務を務めたのが騎士階級で、その下で解放奴隷が下級官僚として従事しました
そしてイタリアを直轄地域とする4名の裁判官が設置され、これを元老院議員か務めることとなりました

このようにハドリアヌスの治世では皇帝直属の部下が様々な任務を担うようになり、それまで都市や市民個々に委ねていた徴税請負をはじめとする属州任務を皇帝が直轄するようになったのです
こうして帝国統治を安定させたハドリアヌスは138年7月10日に死去し、その後を養子のアントニヌス=ピウスが継ぐこととなるのでした


本日はローマ皇帝アントニヌス=ピウスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南川高志『ローマ五賢帝』講談社、1998年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

672Republica de Venexia:2015/07/11(土) 00:14:42 ID:???
7月11日は劉裕が禅譲された日です

中国では280年、>>122の三国時代を西晋が統一しましたが、初代皇帝司馬炎が死去するとその後継者を巡る八王の乱が起こり、そのなかで軍事力として活躍した遊牧民が勢力を拡大していきました
316年には遊牧民の1つ匈奴が永嘉の乱を起こし西晋を滅ぼします

西晋の王族司馬睿は建業にて皇帝に即位し東晋として復興しました
華北では匈奴をはじめとする五胡と総称される遊牧諸民族が興亡を繰り返す五胡十六国時代となり、戦乱を避けた多くの漢人が東晋へと移住し、長江中・下流域は大いに発展することとなります

しかし東晋は勢力基盤が脆弱で皇帝権力も弱く、約100年続いた王朝の末期には政治が乱れていきました
そのなかで台頭してきたのが劉裕で、華北への反攻や土断法の施行などで功績を挙げて独裁的な権力を確立するようになります
そして420年7月11日、劉裕は東晋の皇帝恭帝を禅譲させて自ら帝位につきました
こうして東晋は滅亡し、南朝最初の王朝となる宋が成立したのでした


本日は宋(南朝)の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

673Republica de Venexia:2015/07/12(日) 06:09:47 ID:???
7月12日は嘉吉の変が起こった日です

室町幕府の最盛期を築いた足利義満の後を継いだ第4代将軍義持の時代、当初は将軍と有力守護との均衡が保たれ幕政は安定していました
しかし1416年に鎌倉公方足利持氏に不満を持つ前関東管領上杉禅秀が反乱を起こすという事件も起こります

やがて義持は隠居し第5代将軍義量が将軍となりますが、1425年に義量は急死、義持も後継者を定めないまま1428年に病死しました
そして次代の将軍はくじ引きによって選ばれ、義持の弟の義教が将軍に就任、「くじ引き将軍」となったのです
義教は混乱した幕政を引き締めるため将軍権力の強化を図り、将軍に従わないものを力で抑えつける恐怖政治を展開しました

これに反発したのが鎌倉公方である足利持氏でした
幕府と鎌倉府との関係が悪化したため、義教は持氏と対立する関東管領上杉憲実支援の名目で討伐軍を派遣し、持氏を滅ぼします
また持氏の遺児を奉じた下総の結城氏朝も討伐し、幕府の権威は向上することとなります
その後も義教は専制政治を強行し、有力守護の一色義貫や土岐持頼を謀殺しましたが、このために政治不安が高まっていきました
義教は公家、武家、僧侶など多数の人々を処罰するようになり、1441年7月12日、処罰を恐れた有力守護赤松満祐が嘉吉の変を起こし、義教を暗殺するに至りました
この事件以降将軍の権威は大きく揺らぎ、代わって有力守護が実権を握るようになり、やがて応仁の乱へと発展するのでした


本日はくじ引き将軍の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・今谷明『籤引き将軍足利義教』講談社、2003年
・永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』中央公論新社、2005年
・桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』講談社、2009年

674Republica de Venexia:2015/07/13(月) 00:03:58 ID:???
7月13日はエムスから電報が届いた日です

>>82で成立した北ドイツ連邦ですが、南ドイツへの拡大にはフランスのナポレオン3世が障害となっていました
隣国に強大な統一国家が誕生することはフランスにとって大きな脅威であり、ナポレオンとしてはこれを何としても阻止したかったのです
局面打開のきっかけはスペインの王位継承問題でした

1868年9月にスペインでは革命が起こり、ブルボン家のイサベル2世が追放され王位が空席となっていました
そこで候補者として挙がったのがホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家のレオポルトでした
プロイセン王家とつながりのあるこのレオポルトの即位をプロイセン宰相ビスマルクは支持し、1870年6月には合意へと至ります
しかしレオポルトが即位する前に情報がフランスに漏れ、フランスはレオポルト即位を激しく非難、レオポルトは即位を辞退することとなりました

こうしてフランスは外交的勝利を収めましたが、それをさらに確実なものとするため、フランス大使に命じプロイセン王ヴィルヘルム1世に対し、今後ホーエンツォレルン家の一員がスペインの国王候補になることがあっても同意しないよう働きかけました
エムス温泉で行われたこの時のやりとりを知らせる電報が、1870年7月13日にビスマルクの下へと届きます

ビスマルクは長文の電報を書き換え、スペインとホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家との問題なのにフランスがヴィルヘルムに不当な要求を持ち出し、ヴィルヘルムは今後一切フランス大使と会わないと通告する文章としました
まるで国交断絶を通告するような文章であり、これがドイツでも発表されたため反フランスの気運が高まりました
そして>>221で見たようにフランスからの宣戦布告によって普仏戦争が始まることとなるのでした


本日はエムス電報事件の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

675Republica de Venexia:2015/07/14(火) 00:04:44 ID:???
7月14日はフィリップ2世が死去した日です

フランスでは>>388のアンジュー帝国成立により、国土の半分がプランタジネット朝が支配することとなり、カペー朝によるフランス統一が妨げられることとなりました
しかし尊厳王と称されたフィリップ2世の登場によってカペー家の領土は大きく広がるのです

フィリップは官僚制を整備し王領の管理に努め、都市との結びつきを強めることで諸侯を牽制、王権の強化を進めていきます
またイングランド王ジョンと戦って王領を拡大し、プランタジネット家の領土はアキテーヌに残るのみとなりました

そしてフィリップにとって最大の
快挙となったのが>>229のブービーヌの戦いでした
この戦いはイングランドだけでなく、神聖ローマ帝国とも雌雄を決する戦いでもありました
というのも、フィリップはすでに1202年にローマ教皇インノケンティウス3世から、フランス王はいかなる上位者も持たないというお墨付きを得ており、これは神聖ローマ皇帝に挑戦するようなものだったからです
ブービーヌの戦いはフィリップの勝利に終わり、これによってフランスのヨーロッパ最大勢力にまでのし上がったのです

フィリップは1223年7月14日に死去し、43年の長きに渡る治世が終わりました
後を継いで即位したのがルイ8世で、彼は王権が確立したフランスを引き継いだだけでなく、母親がカロリング家の血筋であったためカペー家とカロリング家両方の血が流れる王であったため、フランスを支配する正統王家という地位を得ることとなったのでした


本日は獅子王ルイ8世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年

676Republica de Venexia:2015/07/15(水) 00:46:36 ID:???
7月15日はロゼッタ=ストーンが発見された日です

>>73のフランス革命政府のオーストリアへの宣戦布告により、革命戦争が始まりました
これに対しイギリスは対仏大同盟を結成しフランスとの戦争状態へと突入します
一方フランスはイギリスとインドとの連絡を遮断するためナポレオン=ボナパルトをエジプトへと派遣しました

このエジプト遠征に際しナポレオンは学術調査団を同行させ、エジプトの遺跡調査も行います
これによって1799年7月15日に発見されたのがロゼッタ=ストーンでした
ロゼッタ=ストーンには神聖文字、民用文字、ギリシア文字でエジプト王プトレマイオス5世を称える文章が書かれており、ギリシア文字を基に神聖文字を解読する重要な手がかりとなったのです
そして1822年、フランス人のシャンポリオンによって神聖文字が解読されるに至るのでした


本日は神聖文字解読事業の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・D・メイヤーソン、藤井留美訳『ナポレオンと言語学者 ロゼッタストーンが導いた天才たちの運命』河出書房新社、2005年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年

677Republica de Venexia:2015/07/16(木) 00:53:01 ID:???
7月16日はナバス・デ・トローサの戦いが行われた日です

>>582のアル=アンダルス成立以降、イスラーム勢力はイベリア半島で勢力を拡大していきました
11世紀後半にはモロッコにベルベル人王朝のムラービト朝が興り、イベリア半島にも進出しますがその勢力は不安定で、キリスト教勢力が推し進めるレコンキスタを抑えることができませんでした

12世紀になると同じベルベル人王朝でイスラーム原理主義を掲げるムワッヒド朝が台頭します
ムワッヒド朝はムラービト朝に比べその勢力基盤は強固だったものの、その重心は北アフリカにありアル=アンダルスでは大幅な自治が認められていました
とはいえ1195年にはアラコルスにてカスティーリャ王アルフォンソ8世を撃破するなど、キリスト教勢力に対し優位に立てるチャンスはあったのです

しかしムワッヒド朝はこのチャンスを活かすことができませんでした
ムワッヒド朝には北アフリカとイベリア半島との連携が欠けており、勢力こそ大きかったもののその内部には分裂が見られたのです
この分裂は1212年7月16日に行われたナバス・デ・トローサの戦い後にも露呈します
この戦いでキリスト教勢力に大敗したムワッヒド朝はアル=アンダルスにて危機的状況に陥ったにも関わらず、北アフリカの人々はこれに無関心で、アル=アンダルスのムワッヒド朝は崩壊の一途を辿ることとなるのです
またこの敗戦はムワッヒド朝崩壊の引き金となっただけでなくイスラーム勢力全体にとっても決定的なものでした
一方カスティーリャにとってはイベリア半島における覇権を確立するきっかけとなり、レコンキスタをさらに進めていくこととなものでした


本日はアル=アンダルス崩壊の誕生日です、キリスト教徒の皆さんおめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年

678Republica de Venexia:2015/07/17(金) 00:03:05 ID:???
7月17日は燕王朱棣が皇帝に即位した日です

中国では紅巾の乱によって元の動揺が決定的となり、この乱の中で台頭した朱元璋が明を建国して元を駆逐、中国を統一しました
朱元璋は中書省・丞相を廃止して皇帝独裁を進め、里甲制・衛所制などを制定、賦役黄冊・魚鱗図冊を作成、六諭・明律・明令を発布するなど王朝の基礎を整えました

この朱元璋洪武帝には26人の男子がおり、長子の朱標を皇太子とし第二子を秦王に、第三子を晋王に、第四子を燕王に封じて対モンゴル防衛にあたらせ、残りの子たちも各地の重要拠点に封じられました
このうち皇太子の朱標が洪武帝の生前に死去し、皇太孫を後継者に定め、1398年に皇帝として即位したのが建文帝です

建文帝は側近の進言に従って諸王抑圧策をとり、これに対し諸王のなかでも最大勢力であった燕王の朱棣が反発しました
朱棣は建文帝を誤らせた側近を排除するという名目で「君側の奸を除いて帝室の難を靖んず」をスローガンに反乱を起こします
これが靖難の役で、朱棣は首都金陵を攻略、建文帝は自殺したとされ、1402年7月17日、朱棣は皇帝に即位するのでした


本日は永楽帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・檀上寛『永楽帝 華夷秩序の完成』講談社、2012年

679Republica de Venexia:2015/07/18(土) 00:03:21 ID:???
7月18日はジュネーヴ4巨頭会談が行われた日です

第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営が対立する冷戦の時代となりました
各陣営とも軍事同盟を結成し、アメリカのソ連封じ込め政策、ソ連の核開発、社会主義圏のアジアへの拡大などで対立は激化していきます

しかし1953年にソ連の独裁者スターリンが死去すると緊張緩和の動きが高まります
新たにソ連の共産党第一書記となったフルシチョフは平和共存路線を打ち出したのです
53年7月には朝鮮戦争の休戦協定を結び、54年にはインドシナ戦争終結のためのジュネーヴ会議に参加、55年にはユーゴスラヴィアと和解、オーストリアとの国家条約を締結、西ドイツとの国交を樹立するなど、東西協調を進めていきます

そして1955年7月18日、ソ連のブルガーニン首相、アメリカのアイゼンハウアー大統領、イギリスのイーデン首相、フランスのフォール首相との間で4巨頭会談が開かれ、ドイツ統一問題、軍縮、東西交流などが議論されました
これらの具体的な合意には至りませんでしたが、米ソの首脳が集まった会談はポツダム会談以来であり、協調気運の高まりはジュネーヴ精神として各国に歓迎されたのでした


本日は「雪どけ」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・松戸清裕『世界史リブレット92 歴史のなかのソ連』山川出版社、2005年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
・猪木武徳・高橋進『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』中央公論新社、2010年

680Republica de Venexia:2015/07/19(日) 12:22:39 ID:???
7月19日はメアリ1世が即位した日です

イングランドではヘンリ8世の死後エドワード6世が王位を継承しましたが、即位当初は幼少であったためサマセット公エドワード=シーモアが政務を取り仕切っていました
サマセット公のプロテスタント信仰のもとイングランドでは宗教改革がさらに進行します
しかしサマセット公はスコットランド政策で失敗、ウォリック伯ジョン=ダドリによって失脚に追いやられました

ウォリック伯はノーサンバランド公となり、さらなる改革路線を推し進めました
またノーサンバランド公は王位継承にも干渉するようになります
というのも、王位継承者に定められていたメアリはカトリックであったため、彼女が即位するとなると自身の失脚が明白だったからです
そこでノーサンバランド公はエドワードを説得しメアリとその妹エリザベスの王位継承権を剥奪し、自身の息子の妻であるジェーン=グレイへの王位継承を認めさせました

こうして新国王の義父として権力の確保を図ったノーサンバランド公ですが、エドワード6世の死後、肝心のメアリの身柄拘束に失敗します
1556年7月10日、ジェーンは即位を宣言したものの、メアリもまた13日に即位を宣言しその下には続々と支持者が集結しました
ノーサンバランド公は支持を失い捕らえられた後に処刑されます
そして7月19日、メアリは正式にイングランド女王となり、カトリック政策を進めていくのでした


本日は「ブラッディ・メアリ」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年

681Republica de Venexia:2015/07/20(月) 00:19:55 ID:???
7月20日はクンディナマルカ共和国が成立した日です

ラテンアメリカでは、18世紀末に起こったアメリカ独立革命やフランス革命、いわゆる大西洋革命によって自由・平等の観念が普及しました
最初に独立を達成したのがハイチで、フランス領だった同地はフランス革命の理念に共鳴し、「黒いジャコバン」と称されたトゥサン=ルーヴェルチュールの指導によって1804年に独立を勝ち取ります

これに影響を受け、特に南アメリカ植民地の本国であったスペインがナポレオンによって征服されると自立化がさらに促進され、本格的な独立運動が展開されました
南米の北部では18世紀初めにヌエバ・グラナダ副王領がペルー副王領から分離して成立し統治していましたが、その近隣のベネズエラ総督領におけるミランダによる独立戦争に触発され、ヌエバ・グラナダ副王領でも独立戦争が始まりました

そして1810年7月20日、解放軍の指導者ナリーニョが副王を追放し、ボゴタを中心としてクリオーリョによるクンディナマルカ共和国が成立、スペインからの独立を宣言したのでした
現在、この日はコロンビアの独立記念日となっています


本日は独立コロンビアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年

682それが世界の選択か…:2015/07/20(月) 00:41:39 ID:???
はえ〜すっごい・・・

683Republica de Venexia:2015/07/21(火) 00:12:48 ID:???
7月21日はクチュク=カイナルジャ条約が締結された日です

オスマン帝国は1683年、>>280の第二次ウィーン包囲失敗によって打撃を受け、オーストリアやロシアの南下に直面することとなりました
1699年に>>451のカルロヴィッツ条約、1718年には>>223のパッサロヴィッツでオーストリアやヴェネツィアに領土を割譲し、1700年のコンスタンティノープル条約ではロシアにも領土を割譲します

ロシアはこれによってアゾフを占領、アゾフ海に進出しましたが、>>205の大北方戦争中の1711年にオスマン帝国に敗れたことでアゾフ喪失を余儀なくされました
しかし南下政策の成就を目指すロシアは再び同地への圧力を強め、1736年にはクリミア半島への侵入に成功します
当時クリミア半島はオスマン帝国の宗主下でクリム=ハン国が支配していました

このクリム=ハン国が1768年、ロシア南部を襲撃したことでオスマン帝国とロシアとの第一次露土戦争が勃発します
戦争は終始ロシア優位で進み、1774年7月21日、クチュク=カイナルジャにて講和条約が締結されました
オスマン帝国はこの条約でクリム=ハン国の宗主権を放棄させられ、ロシアにアゾフ海周辺地域を割譲、さらにボスポラス・ダーダネルス両海峡の商船自由航行権を与えました
これによってロシアは黒海への出口を得、南下政策をさらに進めていくこととなるのでした


本日は第一次露土戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

684Republica de Venexia:2015/07/22(水) 00:04:15 ID:???
7月22日はシャルル7世が死去した日です

フランス王シャルル7世はジャンヌ=ダルクの活躍もあって百年戦争における劣勢を挽回し、>>219のカスティヨンの戦いで決定的な勝利を収めました
1453年10月に百年戦争は終結し、シャルルは内政の整備を進めていきます
高等法院を全国に設置し、財務総督区を設けて財務行政を整え、行政管区の再整備を行い、フランス統治の体制は盤石となったのです

しかしそんなシャルルにも後継者には頭を悩ませることとなりました
というのも、王太子ルイがシャルルに対し反抗的な態度をとっていたからです
シャルルの国制改革によって国王権力は増大していきましたが、これに諸侯や貴族が反発、そしてルイがこれに加担したのです
1440年の蜂起はすぐに鎮圧されルイの処分も軽かったものの、1446年のクーデターに加担した際にはルイは宮廷を追放され、王太子の両国ドーフィネへと逃れました

さらにルイはこのドーフィネで公然とシャルルに反抗する姿勢を見せます
領内に大学や高等法院を設置、また領民に独自に課税を行うなど半ば独立国として振る舞うようになったのです
その後も度々反逆的な態度をとるルイに対し、シャルルは軍を派遣しドーフィネを占領、ルイはまたも逃亡を余儀なくされました

ところがここでルイか逃亡先に選んだのがブルゴーニュ公国、しかも当時は>>278のフィリップ善良公が治める、フランス王権にも匹敵する権力を有していた一大勢力、ブルゴーニュ公国でした
これにはシャルルも手を出せず、遺恨を残したまま1461年7月22日に死去します
そしてルイはこれを機にフランスへと急行し、フィリップ善良公の強力な後ろ盾もあってランスでの戴冠式、パリへの入城を果たし、フランス王ルイ11世としての統治を始めることとなるのでした


本日はシャルル勝利王の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

685Republica de Venexia:2015/07/23(木) 00:04:03 ID:???
7月23日は朝鮮でクーデターが起こった日です

朝鮮は17世紀以降清の従属下にあり、19世紀には官僚間党争などによって政治的動揺が続いていました
1860年代には欧米列強が朝鮮に対し開国を要求するようになりますが、朝鮮国王高宗の父である大院君は攘夷政策をとってこれを拒絶します
開国を要求したのは欧米列強だけでなく、日本もまた朝鮮に圧力をかけ、1875年の江華島事件をきっかけに不平等条約である日朝修好条規が結ばれました

この条約の締結は朝鮮の宗主国である清の反発を招き、清は李鴻章を中心に朝鮮への干渉政策を推進、また朝鮮の政治抗争も絡んだ朝鮮における日本と清との対立が深まっていくこととなります
その最中の1882年7月23日、日本に接近して内政改革を進めていた閔妃の政府に対し、保守派である大院君が軍隊を煽動しクーデターを起こしました
これを朝鮮に対する干渉を強化する好機と判断した清は直ちに軍隊を派遣し大院君を捕縛、閔妃政権を復活させたのです
これ以後閔妃は清に接近するようになり、清は朝鮮への影響力を大きく高めることとなったのでした


本日は壬午軍乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・糟谷憲一『世界史リブレット43 朝鮮の近代』山川出版社、1996年
・岡本隆司『歴史のなかの日清韓関係史 交隣と属国、自主と独立』講談社、2008年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年

686名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/24(金) 00:19:07 ID:2sW7zDJ.
7月24日はブリアン・ケロッグ条約が結ばれた日です

>>659のパリ講和会議によって第一次世界大戦は終結し、ヴェルサイユ条約やアメリカ大統領ウィルソンが提唱した十四ヵ条による国際体制、ヴェルサイユ体制が形成されました
この体制下で国際連盟が組織され、各種の国際機関によって平和を維持しようという試みがなされます

1921〜22年にはワシントン軍縮会議で海軍軍備制限条約が結ばれ、また九ヶ国条約、四ヶ国条約からなるワシントン体制も形成され、ヴェルサイユ体制とともに国際秩序を支えることとなりました
しかしドイツへの莫大な賠償金支払い要求が国際関係を悪化させていきます
特にドイツに強く迫ったのがフランスとベルギーで、1923年にヨーロッパ有数の工業地帯、ルール地方に軍を進駐させるという強硬手段に出るほどでした

これを受けてアメリカはドーズ案を提示し賠償金支払いの一時猶予を図り、国際関係はひとまず小康状態となります
ドイツ外相のシュトレーゼマンは英仏との協調を進め、1925年にはイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコとの間で集団保障条約であるロカルノ条約が結ばれ、ドイツの国際社会復帰とヨーロッパの緊張緩和が実現されました
そして1929年7月24日、フランスのブリアン首相とアメリカの国務長官ケロッグが、国際紛争の解決手段として武力を行使しないことを宣言するブリアン・ケロッグ条約が発効され、国際協調の気運がさらに高まることとなったのでした


本日は不戦条約の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

687名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/25(土) 00:34:12 ID:NHpXUvKo
7月25日はアンリ4世がカトリックに改宗した日です

宗教改革によってフランスでカルヴァン派、ユグノーの信仰が拡大していくと、旧教徒との間で対立が深まっていきました
1559年にフランス王アンリ2世が事故死すると、後継者のフランソワ2世が若年だったこともあって王権が弱体化し、弟のシャルルとカトリック強硬派のギーズ公フランソワが実権を握ります
フランソワ2世はわずか1年の治世で急死し、弟シャルルがシャルル9世として即位しました

これに対しプロテスタント陣営もブルボン家当主アントワーヌやコンデ親王ルイ、コリニー提督が対抗し、フランス貴族はこの両派に分かれて権力闘争に加わります
さらにアンリ2世の妃カトリーヌ=ド=メディシスも権力維持を図り、三つ巴の抗争となり、これに宗教対立も巻き込んでユグノー戦争が勃発するのです

この宗教戦争は1570年、サン=ジェルマン=アン=レーの和議でユグノーが大幅な信教の自由を獲得します
そのなかでプロテスタントのコリニーの発言力が高まり、シャルル9世にネーデルラントのカルヴァン派を支援するよう迫りますが、ネーデルラントを支配するスペインとの対立を避けたいカトリーヌ=ド=メディシスはコリニー暗殺を決定します
1572年8月24日、カトリーヌの娘マルグリットとユグノーの指導者アンリ=ド=ナヴァールとの婚礼に参列したユグノーともども、コリニーは殺害されました
事件はこれに留まらず狂信者と化したカトリックの民衆がユグノーを三日間に渡って虐殺するというサン=バルテルミの虐殺へと発展しました

これにプロテスタントは激しく反発し、カルヴァン派の中心地南フランスでは南仏連合州が結成され、カトリックもまたカトリック同盟を結成して対抗します
1584年には国王アンリ3世の弟が死去し、王位継承者がプロテスタントのアンリ=ド=ナヴァールとなったことにカトリックが反発して再び戦争が勃発しました
アンリ3世はカトリック同盟のギーズ公アンリを暗殺、次いでアンリ=ド=ナヴァールと協調しますが、これに反発した狂信的なカトリック修道士に暗殺されてしまいます

アンリ3世の死によってヴァロワ朝は断絶し、アンリ=ド=ナヴァールが国王アンリ4世として即位、ここにブルボン朝が始まりました
アンリ4世は宗教対立を収めるため、1593年7月25日、カトリックへの改宗宣言を行います
これによってアンリはカトリックの支持を得ることに成功し、カトリック同盟の諸侯も次々と帰順、1598年に>>65のナントの勅令によって宗教対立は終結をみるのでした


本日は旧教徒アンリ4世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

688名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/26(日) 00:05:08 ID:xSkkhk26
7月26日はリベリアが独立した日です

アメリカでは19世紀に入るとナショナリズムが高揚し、奴隷解放によって増大していた自由黒人を国外に移住させ、白人共和国としてのアメリカ合衆国を目指す動きが高まります
そのために1816年に設立されたのがアメリカ植民協会で、リパブリカン党の意向を反映し黒人奴隷制に対処するようになりました

自由黒人のアフリカへの移住は、黒人のための祖国再建運動として1822年から開始され、ギニア湾岸西部地域へと移住が進められていきます
同地はLiberty(自由)からとったリベリアと命名され、首都名は植民開始時のアメリカ大統領モンローにちなんだモンロビアと命名されました

そして1847年7月26日、リベリアはアメリカ合衆国憲法を基にした憲法を制定、共和国としての独立を宣言します
以後独立国として歩んだリベリアは、ヨーロッパ列強による植民地化も逃れ、現在に至るのです


本日はリベリア共和国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年

689名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/27(月) 00:23:21 ID:Dzi1e5C6
7月27日はロベスピエールが逮捕された日です

1789年に始まったフランス革命はまず立憲王政派が国制改革を行い、91年憲法を制定し自由主義貴族手動の下で制限選挙制が採用されたため、第三身分の政治化に関しては遅れていました
この91年憲法体制下で1791年10月に立法議会が成立し、右翼に立憲王政派のフイヤン派、左翼に共和政派のジャコバン派が陣取りました

このジャコバン派のうちマラー、ダントン、ロベスピエールらを中心とする急進派のモンターニュ派と、穏健派のジロンド派が対立し、ジロンド派は国内外の反革命運動を絶つため対オーストリア宣戦へと動かします
しかしこの戦争は長期化し、オーストリア・プロイセン軍はパリに迫る事態となりました
ここでかねてから外国と通じているのではないかと疑われていたフランス王ルイ16世に矛先が向き、テュイルリー宮殿が襲撃されて王権は停止、国民公会が招集されます

普通選挙で招集された国民公会ではフイヤン派は姿を消し、ジロンド派が右翼、モンターニュ派が左翼となりました
民衆運動と結合して革命の成果を守ろうとするモンターニュ派は次第に勢力を拡大し、1793年6月にはジロンド派が国民公会から追放されモンターニュ派が独裁権を握ります

国民公会は1793年憲法を採択し革命政府体制を宣言、公安委員会の権限が強化され、ロベスピエールによるいわゆる恐怖政治が行われるようになりました
革命政府は反革命勢力に対する戦いとともに独走しがちな民衆運動のコントロールを図り、厳正な規律の下に政治を主導したのです
しかし94年春にダントン派、そして民衆運動に影響力を持つエベール派を粛清、さらに議会刷新を図るなど、次第に独善的となっていったロベスピエールは孤立を深めていきます
そして1793年7月27日、ロベスピエールは革命政府解消を図る右派、そしてロベスピエールの個人独裁に反発する左派によって逮捕されました
このクーデターによって恐怖政治は終わりを告げ、革命政府は解消に向かい、総裁政府が成立することとなるのでした


本日はテルミドールのクーデターの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年

690名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/28(火) 00:23:56 ID:30C.xg5g
7月28日はペルーが独立した日です

>>681のコロンビア独立の流れで見た通り、18世紀末から南米では各地で独立運動が盛んになりました
北部ではベネズエラのミランダが逮捕された後はシモン=ボリバルが独立運動を指揮し、1811年にベネズエラ・コロンビア、19年に大コロンビア共和国、25年にはボリビアと、各地域を次々と解放、独立させていきました

一方南部でもアルゼンチン出身のサン=マルティンが独立運動を指導し、1818年にチリ、1821年7月28日にペルーを解放、独立させました
しかし独立後のペルーにおいてサン=マルティンは統治に失敗し、1822年にシモン=ボリバルと会談しその協力を得ようとしますがこれも断念、失意のうちにヨーロッパへと渡ることとなったのでした


本日は独立ペルーの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年

691名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/29(水) 00:04:45 ID:YBCqMwzQ
7月29日はキスカ島撤退作戦が成功した日です

キスカ島は1942年、ミッドウェー作戦と同時に行われたアリューシャン攻略作戦で日本軍が占領し、拠点が置かれました
やがてアメリカが反攻作戦を開始すると、アメリカ本土に近い同地も攻撃にさらされるようになります
1943年5月、アメリカ軍はアリューシャン列島に本格的な上陸作戦を行いキスカ島よりも日本本土に近いアッツ島に上陸、守備隊は奮戦したものの玉砕しアメリカの支配下となりました

これでキスカ島はアッツ島とアメリカ本土に挟まれた孤立無援状態となり、キスカ島周辺の制海・制空権はアメリカ軍の手中に収まることとなったのです
この状況でアリューシャン方面の放棄が決定され、キスカ島に残る約5000人の守備隊の撤収作戦が企図されました
この撤収作戦を指揮したのが第一水雷戦隊司令官、木村昌福少将でした

木村少将は艦隊への電探配備、そしてキスカ島周辺に発生する濃霧に紛れての撤収を考えます
電探については当時の最新鋭駆逐艦で電探と逆探を備えた「島風」の配備によって解決します
そして濃霧の発生を確認するため潜水艦をキスカ島周辺に派遣し天候情報の収集を図りました
1943年6月29日、木村少将はキスカ島撤収作戦を開始、旗艦「阿武隈」に軽巡「多摩」「木曾」をはじめ十数隻の部隊でキスカ島へと出撃します

しかしこの日はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れ、木村少将は反転を決意しました
部下はキスカ島突入を主張したものの木村少将は撤退を断行、その際に「帰ろう、帰ればまた来られるからな」と言ったとされています
再び第一水雷戦隊がキスカ島へと出撃したのが同年7月28日で、この時は霧も晴れず、翌7月29日、艦隊はキスカ島へと突入し守備隊5000人の収容に成功したのです
8月1日にはアメリカ軍に見つからないまま幌筵島に到着しました
一方のアメリカ側は日本軍が撤収したことに気付かないままキスカ島への上陸作戦を実施、友軍を日本軍と誤認し同士討ちを行うという有様でした
こうして木村少将の指揮する第一水雷戦隊は、困難な撤収作戦をまさに完遂したのでした


本日は「奇跡の作戦」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社、2010年
・将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮社、2012年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年

692名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/30(木) 00:28:56 ID:xHyUWr4s
7月30日はプラハ窓外投擲事件が起こった日です

>>288の大シスマによってローマ教皇の権威失墜は決定的となり、各地で教会の世俗化や腐敗がさらに進行していきました
14世紀後半にはオックスフォード大学のウィクリフが教皇権を否定し教会が財産を蓄えることを批判、そしてイングランドの教会・国王の教皇からの独立を訴え、聖書の英語訳を進めます
このウィクリフの説に共感したのがベーメンのフスで、彼もまた教会の土地所有や世俗化を批判、また聖書のチェコ語訳を進め、民衆もこれを支持するようになりました

教皇はこれに対しフスを破門、また神聖ローマ皇帝ジギスムントは1415年、コンスタンツ公会議にてフスを焚刑に処しました
この結果ベーメンではジギスムントに対し激しい怒りが沸き起こり、より急進的なフス派の信仰が広がるようになります
そしてジギスムントがベーメン王も兼ねることになるとついにプラハ市民は決起、1419年7月30日、プラハ市庁舎を襲撃し市長と市参事会員を窓から投げ落とすというプラハ窓外投擲事件が起こります

この事件がきっかけとなって勃発したのがフス戦争です
フス派にはプラハの都市貴族・大学を中心とするウトラキスト派と、農民・職人・下層騎士を中心とするより急進的なターボル派がおり、当初両派は協力したびたび皇帝軍を撃破しました
やがて教皇がバーゼル公会議で妥協案を出し、ウトラキスト派はカトリックと結びターボル派が敗れることになります
1436年にウトラキスト派とカトリックは和約を結びフス戦争は終結しますが、宗教改革やチェコ人の民族運動の先駆として後世に影響を与えることとなるのでした


本日はフス戦争の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・薩摩秀登『物語チェコの歴史 森と高原と古城の国』中央公論新社、2006年

693名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/07/31(金) 23:08:36 ID:1wozN2uA
7月31日はブレダの和約が結ばれた日です

>>554で第一次英蘭戦争が終結し、オランダの航海法承認やオラニエ=ナッサウ家の政権中枢からの排除などが取り決められます
この時のオラニエ=ナッサウ家当主が>>487のオラニエ公ウィレムで、総督位を世襲してきたオラニエ家が遠ざけられたことでオランダの総督位が空位となりました

しかしイングランドは第一次英蘭において決定的な勝利を収めたわけではなく、オランダへの締め付けは引き続き行われます
1660・63年には、イングランド国内で台頭してきた親スペイン・反オランダ勢力やロンドン商人の支持を背景に航海法が再公布され、これに反発したオランダとの第二次英蘭戦争が勃発します

この戦争ではオランダが決定的勝利を挙げたものの、>>267のフランス王ルイ14世がネーデルラント継承戦争を起こしたことでそちらへの対応が急務となり、オランダはイングランドと妥協せざるを得ない状況となります
そして1667年7月31日、イングランドとのブレダの和約が結ばれ、第二次英蘭戦争は終結することとなるのでした


本日は第二次英蘭戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

694名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/01(土) 14:10:31 ID:n7mi3D4w
8月1日はスイス誓約同盟が結成された日です

ドイツではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の対立、12世紀末と13世紀半ばのフランスとイングランドの国王選挙介入、そして大空位時代など、分裂が進んでいきました
1273年にハプスブルク家のルドルフ1世の即位によって大空位時代は終わりを告げますが、今度は様々な家系からの国王選出、また対立王が出現する跳梁選挙時代となるなど、不安定な状況が続いていました

このハプスブルク家のルドルフは自家の領土拡大を第一としており、そのなかで出身地であるスイス地方での支配権確立も目論みます
この動きにスイスの農民や市民は抵抗し、1291年8月1日、ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が誓約同盟を結成、自由・自治を守るために相互援助を行うことを誓い合いました
この同盟にはその後も他邦が次々と加盟し、>>441>>650で見たモルガルテンの戦い、ラウペンの戦い、ゼンパッハの戦いなどハプスブルク軍を度々撃退、1499年のシュヴァーベン戦争にも勝利し、独立を勝ち取ることとなるのでした


本日はスイスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年

695名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/02(日) 00:41:29 ID:p/p7pyaE
8月2日はカイロネイアの戦いが行われた日です

>>667で見たように、ギリシアではペルシア戦争の後アテネ、ペロポネソス戦争の後スパルタが覇権を握り、ついでテーベが台頭・没落し再びアテネが勢力拡大を目指すなど、ポリス間の抗争が繰り返される混迷の時代が続きます
とはいえこの間にも、ポリス形成が遅れていた辺境の地アイトリアやアカイアで都市同盟が生まれ、成熟しつつありました
そしてそのさらに北方で台頭してきたのがマケドニアでした

マケドニアはポリス形成が遅れ、長らく未開の部族国家としてみなされていましたが、フィリッポス2世の代で国制改革がなされ、急速に勢力を拡大するようになります
マケドニアの強さの理由はフィリッポスによる軍制改革で、テーベが覇権を握っていた頃に人質として滞在していたフィリッポスはテーベの斜線陣・騎馬兵による新戦術を学び、ギリシアのファランクスにも改良を加え軍事力を増強したのです

このマケドニアの脅威に対し、アテネの弁論家デモステネスは反マケドニア同盟の結成を主張し、アテネ・テーベが同盟してマケドニアに対抗することとなります
そして前338年8月2日、マケドニアとアテネ・テーベ連合軍はカイロネイアにて激突し、新戦術を駆使したマケドニアが大勝しました
この勝利によってマケドニアはギリシアでの覇権を握り、翌年にはコリントス同盟を結成してスパルタを除く全ポリスを支配下に収めるのでした


本日はマケドニアの覇権の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年

696名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/03(月) 00:03:18 ID:h6366vJY
8月3日は『ウィリアム・テル』の初演が行われた日です

ウィリアム・テルは>>694のスイス独立運動の時代、その口火を切った人物とされています
テルはハプスブルク家が派遣した代官に反発、罰を受けることとなりましたが、息子の頭の上に乗せられたリンゴを見事撃ち抜いたことで許された...というエピソードはよく知られています
ハプスブルク家に立ち向かった英雄として、テルはスイス人の心の拠り所となったのです

テルの活躍は1804年、シラーが戯曲『ヴィルヘルム・テル』で描かれました
折しもフランス革命の思想がヨーロッパ全土へと広がっている頃...テルの伝承が人々の心に響くものがあったのでしょう
そしてイタリアのロッシーニがシラーの戯曲をオペラとして作曲し、1829年8月3日、『ウィリアム・テル』の初演がフランスの王立音楽アカデミーにて行われることとなったのでした


本日はオペラ『ウィリアム・テル』の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・宮下敬三『ウィリアム・テル伝説 ある英雄の虚実』日本放送出版協会、1979年
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年

697名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/04(火) 00:27:31 ID:9MqUOMiQ
8月4日は劉秀が漢を再興した日です

漢では武帝の代に行われた数々の外征によって財政難に陥り、社会不安が増大していきました
やがて宮廷では外戚や宦官が勢力を持つようになり、皇帝の権威が失われていきます
一方で地方では豪族が力を付けて地方政治を握るようになり、漢王朝の支配はますます揺らいでいきました

8年には外戚の王莽が実権を握って自ら皇帝となり新を建国しますが、極端な復古政策は各方面での反発を招きました
18年には農民反乱である赤眉の乱が勃発、地方豪族もそれに乗じて反乱を起こし、新はわずか15年で滅亡します
この混乱のなかで、河南省の豪族出身で漢の一族でもある劉秀が諸豪族を率いて勢力を拡大、25年8月4日、皇帝に即位し漢を再興したのでした


本日は後漢の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・金文京『中国の歴史4 三国志の世界(後漢 三国時代)』講談社、2005年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年

698名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/05(水) 00:12:49 ID:3/U7JyyM
8月5日は犬上御田鍬が唐に派遣された日です(旧暦)

中国では618年、>>425の隋に代わった唐が統一王朝を建て、律令を中心とする国家体制が整えられました
その勢力は中国のみならず周辺諸国にも広がり、唐を中心とする冊封体制が成立します
唐の都長安には各地から人や商品、文化が流入し世界的な国際都市として発展、東アジアに唐を中心した政治・文化圏が形成されたのです

唐建国当時の日本はというと聖徳太子や蘇我馬子が活躍していた時代で、隋の衰退により途絶した遣隋使に代わり、唐への使節派遣の計画が進みつつありました
622年に聖徳太子が、626年に蘇我馬子が死去すると実権は蘇我蝦夷に移り、彼が擁立した舒明天皇が遣隋使派遣を進めることとなります

そして630年8月5日、遣隋使にも参加した犬上御田鍬が唐へと派遣され、894年に菅原道真の献策による中止に至るまで十数回、遣唐使が派遣されます
この間に日本は唐の政治や文化を取り入れ、日本の国家体制や文化の形成に大きな影響を与えることとなったのでした


本日は遣唐使の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

699名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/06(木) 00:07:49 ID:MTGlx0Nk
8月6日はハインリヒ3世が死去した日です

>>512で見たように、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世とヴェルフェン家のハインリヒ傲岸公との対立が激化し、神聖ローマ帝国は混乱に陥ることとなりました
傲岸公は1139年に死去したものの、その後を継いだハインリヒ3世獅子公もまたホーエンシュタウフェン家と対立します
1142年、この両家の対立の軟化が試みられ、獅子公にザクセン大公領を授封しバイエルンも与えることでひとまずの妥協が成立しました

獅子公はこの後ドイツ北部、ポーランド北部、バルト海沿岸への十字軍、いわゆるヴェンデ十字軍を指揮し、北方へと勢力を拡大していきます
ドイツにおいても同様に北部へと手を伸ばし、1149年にはオルデンブルク・ラッツェブルク・メクレンブルクの司教区を再建し、そこにドイツ人を入植させます
これらの行動は、後に本格化する東方植民や周辺地域のドイツ化・キリスト教化・ヨーロッパ化の、まさに先駆といえる行動だったのです

獅子公がこのように勢力を拡大している最中、1152年に神聖ローマ皇帝にフリードリヒ1世バルバロッサが即位しました
獅子公をザクセン、バイエルンに授封したのもフリードリヒによる試みで、これは諸侯を帝国秩序に組み込み、その支持を背景に帝国を統治するという狙いがありました
これは一定の成果をあげ、ドイツが安定したことでイタリア方面へと進出したことは>>625でも見た通りです

しかしフリードリヒがイタリアへ遠征している間、ドイツは不穏な情勢になりつつありました
ハインリヒ獅子公がフリードリヒに反発して兵士を提供せず、帝国内で私闘を繰り返していたのです
獅子公は1180年、平和令への違反から諸侯に訴えられ、法廷への出頭を拒否したため帝国から追放されてしまいます

獅子公はイングランドへと亡命し、ザクセンとバイエルンの領邦は分割されることとなりました
やがてフリードリヒが死去しハインリヒ6世が後を継ぎ、1191年にはシチリアへの遠征を行います
この隙にハインリヒ獅子公はイングランド王リチャード1世の支持を背景にザクセンへと侵攻しますが、リチャードが第3回十字軍からの帰還中にオーストリア大公レオポルト5世に捕らえられたため、援助を受けられなくなった獅子公は勢力を失います
リチャードはハインリヒ6世に引き渡され、身代金を払ってようやく解放されました
ハインリヒ獅子公は1194年、ハインリヒ6世と和解することとなり、その翌年の1195年8月6日、波乱に満ちた生涯を閉じるのでした


本日はハインリヒ獅子公の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

700名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/07(金) 00:42:27 ID:WH6yUvno
8月7日はルイ=フィリップが即位した日です

>>175のワーテルローの戦いで敗れたナポレオンはセントヘレナ島へと流され、フランスではルイ18世によるブルボン朝が復活しました
ルイは選挙権を大きく制限するなど反動的な政治を推し進め、ルイの後を継いだシャルル10世もその路線をさらに拡大していきます
シャルルは亡命した貴族の財産を保障し、軍の統帥権を握るなどしたため国民の不満は増大し、その不満を逸らすためにアルジェリア出兵が行われました

しかし1830年7月に行われた選挙で国王反対派が多数派となり、シャルルは議会の招集前に解散、さらに選挙結果を無視し大規模な出版規制を行ったため、国民の不満はますます高まりました
7月27日、ついにパリ市民は決起し、3日間の戦闘によって国王側は敗北、新政府が誕生します
これが七月革命で、新政府では立憲王政派と共和派の対立のなか、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ=フィリップが国王に推されたのです
そして1830年8月7日、ルイ=フィリップは国王に即位し、フランスではやや緩和された制限選挙制による立憲君主政が成立したのでした


本日は七月王政の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

701名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/08(土) 00:56:50 ID:EOmHQ.TY
8月8日はメルセン条約が結ばれた日です

>>488で見たヴェルダン条約によってフランク帝国は三分割され、ロータル1世は皇帝位と中部フランクを、ルートヴィヒ2世ドイツ人王は東フランクを、シャルル2世禿頭王は西フランクを領有することとなりました
855年にロータル1世が死去すると、中部フランクはその3人の息子によって分割され、長男ルートヴィヒ2世は皇帝位とイタリア王国を、次男ロータル2世はその名にちなむロートリンゲンを、シャルルがプロヴァンスとブルグント南部を相続しました
この時点で皇帝は実質的にイタリア王に過ぎない存在となります

863年にシャルルが亡くなるとその領土は分割され、長兄のルートヴィヒ2世がプロヴァンスを、次兄のロータル2世がブルグント南部を相続しました
869年、ロータル2世が死去するとその領土は叔父にあたる西フランク王シャルル2世禿頭王にいったんは帰属しましたが、その領土配分を改めて明確としたのがメルセン条約でした

870年8月8日、西フランク王シャルル2世禿頭王と東フランク王ルートヴィヒ2世ドイツ人王との間で領土配分が行われ、ロートリンゲンがマース川・モーゼル川・ソーヌ川・ジュネーヴ湖のラインで東西フランク王国に分割され、フランク帝国の大陸部は二分されることとなったのです
これが今日に至るフランス・イタリア・ドイツの原型となるのでした


本日はフランス・イタリア・ドイツの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

702名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/09(日) 01:04:51 ID:361DLUVs
8月9日はアドリアノープルの戦いが行われた日です

ローマ帝国では3世紀の危機
のなか即位したディオクレティアヌスが>>507のように四分統治を行い属州の反乱や外敵の侵入に対処しました
ディオクレティアヌスの死後は>>331のコンスタンティヌスが統一の皇帝となったものの、基本的には東西に分かれて統治が行われていました

一方ローマ帝国の周辺異民族ですが、そのうちの1つゴート族は1〜3世紀頃にポンメルンから黒海沿岸まで南下し、3世紀半ばからはローマ帝国領の小アジアやバルカン半島へと侵入し251年には皇帝デキウスを戦死させたこともありました
しかし皇帝クラウディウス以降の軍人皇帝たちはゴート族に対し勝利を続け、この方面の脅威は無くなったかのように見えました

しかし4世紀後半、アジアから遊牧民のフン族が西進、黒海沿岸に居住していたゴート族はフン族によって壊滅的打撃を受けます
ドナウ川の北岸に居住していたゴート族もフン族の圧迫を受け、376年、東の皇帝ウァレンスの許可を得てドナウ川を渡りローマ領内に移住することとなりました
ところがこのゴート族はローマ帝国からの冷遇もあって食糧難に苦しみ、ローマ官僚の不正もあって暴徒化してしまいます

ゴート族の暴動によりトラキアの情勢は不穏なものとなり、ウァレンスはこれを鎮圧するため親征を決定しました
この際、西の皇帝となっていたグラティアヌスとウァレンティニアヌス2世は援軍を送りますが、ウァレンスはこの援軍を待つことなく単独でゴート族鎮圧に向かいます
378年8月9日、ウァレンスはアドリアノープルから出撃しゴート族に攻めかかりますが、結果はあえなく大敗、ウァレンス自身も戦死するという壊滅的敗北を喫しました
帝国東方ではこれを受けてテオドシウス1世が皇帝となり、ゴート族を同盟部族と認め、ローマへの軍事力提供と引き換えにトラキアへの定住を許可し、事態を収集することとなるのでした


本日はウァレンスの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

703名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/10(月) 00:08:01 ID:DrhEjHhU
8月10日はヴェルダン条約が結ばれた日です

フランク帝国は>>455でも見た通り、分割相続と帝国の統一維持という矛盾に直面し、シャルルマーニュの後を継いだルートヴィヒ敬虔帝は817年に帝国計画令を発しました
これに基づき、共同皇帝となっていたロータル1世はルートヴィヒ敬虔帝の死後、帝国全土を継承することとなります
その弟のピピンとルートヴィヒドイツ人王は、皇帝ロータルの宗主権下にあるという前提のもとで、それぞれアクィタニアとバイエルンを与えられました

こうして帝国計画令のもとで帝国の統一性維持の枠組みが作られ、ルートヴィヒ敬虔帝とロータルが帝国を統治、その周辺に位置する先のアクィタニア・バイエルンに加えイタリアの三王国が組み入れられたのです
ここではあくまで分割相続に則った上で帝国は全体として階層的に統一されるという構想が実現したものの、やがて頓挫することとなってしまいます

>>488で見たように、ルートヴィヒ敬虔帝は晩年、四男にも王国を与えようとしたことで兄弟間の対立が激化し、敬虔帝の死後ルートヴィヒドイツ人王とシャルル禿頭王が皇帝ロタールに挑戦するという事態に陥ったのです
843年8月10日、この3人はヴェルダン条約を結び、対立はひとまず収まりました
この条約においても名目上は帝国の統一は維持されていましたが、実質的には完全な主権を持った国家による分割であり、帝国の統一性は失われることとなったのでした


本日は中部・東・西フランク王国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

704名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/11(火) 00:14:15 ID:kv90O9q2
8月11日はヴァイマル憲法が制定された日です

ドイツでは第一次世界大戦末期、>>339で見たようにキール軍港にて水兵反乱が勃発し、これに陸軍兵士や労働者も加わって運動は急速に拡大し、各地で労働者・兵士の評議会であるレーテが成立して権力を握りました
皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、社会民主党のエーベルトは社会民主党・独立社会民主党の連立による人民委員政府を発足して事態を収拾します

その後社会主義勢力は3つに分裂して対立します
まずローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトらのスパルタクス団はドイツ共産党となり、最も急進的な改革を目指しました
独立社会民主党はレーテを存続させ、基幹産業の社会化と軍・行政機構の民主化を図りました
社会民主党は憲法制定を第一とし、革命運動は混乱を助長するものとして否定的に捉えていました

この中で優位となったのが全国的な組織を有しその支持も得ていた社会民主党で、これにより革命の阻止が進むこととなります
また、1918年12月の全国レーテ大会で議会制民主主義が支持されたこともあって翌1919年1月に国民選挙が実施され、社会民主党勢力の反革命運動に反発した独立社会民主党が人民委員政府を離脱したことで社会民主党単独の政府が成立したのです
同時期にはルクセンブルク、リープクネヒトらが暗殺され、社会民主党の勢力はますます増大していきます

こうして第一党となった社会民主党は、革命派の勢力が強いベルリンを避けてヴァイマルに国民議会を招集し、中央党・民主党との三党連立政府、ヴァイマル連合が成立しました
この議会で新しい憲法案が審議され、1919年8月11日、ヴァイマル憲法が制定されます
この憲法は国民の参政権をはじめとした公民権を保障し、生存権・労働権をも保障、青少年・家族の保護も盛り込んだ福祉国家の基本的な枠組みも備えた、当時最も民主的な憲法として評価されることとなったのでした


本日はヴァイマル共和国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治他『世界歴史大系ドイツ史3 1890年〜現在』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二他『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

705名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/12(水) 00:43:19 ID:b1VWl9Pc
8月12日はクレオパトラ7世が死去した日です

>>165でアレクサンドロス大王が亡くなった後、彼の後継者候補は互いに争い、各地に王朝を建てます
その一つプトレマイオス朝ではエジプトの伝統に則り、ファラオの神聖性を維持するために近親婚を繰り返していました
そのため庶子の産まれであるプトレマイオス12世が前80年にファラオとなった際にはその正統性の弱さから国内の支持が弱く、ローマの支援に依存するようになったのです

他国の介入を嫌ったエジプト人は前58年に反乱をお越し、プトレマイオス12世はローマへの亡命を余儀なくされました
この時ローマのポンペイウスはプトレマイオスを助け、ファラオへと復位させます
その後前51年にプトレマイオスは死去し、その娘クレオパトラ7世と息子プトレマイオス13世が共同統治という形で後を継ぐこととなります
しかしこのローマの支援を得ようとするクレオパトラと、ローマの影響力を排除しようとするプトレマイオスは激しく対立しやがてローマも巻き込んだ内戦にまで発展しました
この内戦を調停し収めたのがカエサルで、クレオパトラはカエサルの支持によってもう一人の弟プトレマイオス14世との共同統治者になることを認められます

>>533のカエサルの死後、クレオパトラはカエサルの後継者候補の一人でローマ東方を支配していたアントニウスに近付きます
クレオパトラとアントニウスとの間には3人の子が産まれ、地中海世界における覇権を目指しますが、アントニウスと同じくカエサルの後継者候補であったオクタウィアヌスはアントニウスを弾劾しプトレマイオス朝に宣戦を布告しました
こうして前31年9月に起こったのが>>268のアクティウムの海戦で、この戦いでアントニウス・プトレマイオス朝連合軍は敗れ、クレオパトラとアントニウスはエジプトへと逃れます
これを追撃したオクタウィアヌスは各地で連合軍を撃破し、前30年8月にはアントニウスが自殺しました
クレオパトラもまた、ローマに連行され晒し者となることを拒み、アントニウスの後を追うように自殺します
こうしてエジプトはオクタウィアヌスによって制圧され、クレオパトラとカエサルとの息子カエサリオン、ファラオとしてはプトレマイオス15世も殺害され、プトレマイオス朝は滅亡することとなったのでした


本日はプトレマイオス朝最後の女王の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・小川英雄・山本由美子『世界の歴史4 オリエント世界の発展』中央公論新社、2009年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

706名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/13(木) 00:34:46 ID:xehV8b4o
8月13日はブレニムの会戦が行われた日です

1665年に即位したスペイン王カルロス2世は、ハプスブルク家の度重なる近親婚により病弱で、世継ぎがいないまま1700年11月に亡くなってしまいます
彼の遺言で後継者に指名されたのはフランス王ルイ14世の孫フィリップで、フェリペ5世としてスペイン王に即位しました
しかしフランスの勢力拡大に反発する神聖ローマ皇帝レオポルト1世は息子カールのスペイン王即位を宣言し、フランスに宣戦布告します
こうして始まったのがスペイン継承戦争でした

フランスに対しては神聖ローマ帝国、イングランド、オランダが同盟の中心となり、ハノーファー選帝侯やブランデンブルク選帝侯など多くのドイツ諸侯が同盟国側につきました
フランス側にはスペイン、サヴォワ、ポルトガル、バイエルン選帝侯が味方します
フランス軍はボフルール公、ヴィラール公、ヴィルロワ公、ヴァンドーム公などが軍司令官となり、同盟国側は>>451の対オスマン帝国戦争で活躍したプリンツ=オイゲンが帝国軍を率いました
そしてイングランド軍を率いることになったのがマールバラ公ジョン=チャーチルでした

マールバラ公は1650年生まれで、若い頃はフランスの名将テュレンヌに従い、その機動戦・攻城戦・兵站などを直に学ぶ機会を得ていました
彼はイングランド王ウィリアム3世には疎まれていたものの、ウィリアムの死後女王となったアンには重用され、イングランド軍司令官に抜擢され、オランダもまた彼に軍を任せるのです

スペイン継承戦争の緒戦、フランスはドイツ方面に軍を展開、バイエルン選帝侯マクシミリアンがドナウ川沿いに軍を進めたのに呼応し、ヴィラール公はウィーンを直接攻撃する態勢を整えました
この局面を打開するため、マールバラ公はイングランド・オランダ軍を率いてバイエルンに向かい、フランス・バイエルン連合軍を撃破する大遠征作戦を行います
1704年4月、マールバラ公はイングランドを出立してオランダに向かい、そこからバイエルンに向けて約400kmという常識外れの長距離機動を開始しました
フランスのヴィルロワ公はこれを追うものの、マールバラ公の行軍ルートがフランス本国を含む複数の拠点攻撃の可能性を残していたため慎重な行動を取らざるをえず、マールバラ公は巧みにフランス軍の追撃をかわして8月上旬にはプリンツ=オイゲンの帝国軍との合流に成功したのです

こうして態勢を整えたマールバラ公は1704年8月13日、ブレニム近郊に布陣するフランス・バイエルン連合軍に対し攻撃を仕掛けます
マールバラ公はまず連合軍の両翼に攻撃をかけ、連合軍が予備兵力を両翼に投入したのを見計らって連合軍中央を突破しました
連合軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けたバイエルン軍は撤退、ブレニムの街に押し込められていたフランス軍も降伏します
この勝利によってフランス・バイエルン連合軍がウィーンを攻撃する危機は去り、バイエルン選帝侯領は神聖ローマ帝国の支配下となりました
マールバラ公はブレニムへ向かう際の欺瞞機動、ブレニムの会戦における柔軟な戦術指揮によってその判断力・決断力・創造力を高く評価されることとなったのでした


本日はマールバラ公会心の勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーファー朝誕生史』彩流社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

707名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/14(金) 00:18:50 ID:dP4Tj2/6
8月14日はアルジュバロータの戦いが行われた日です

>>555でも見たようにポルトガルではフェルナンド1世の死後、カスティーリャ王フアン1世の介入が始まり、それを嫌ったポルトガル人がジョアンを国王に選出、ジョアン1世として即位します
もちろんこれで問題が決着したわけではなく、フアンは妻でフェルナンドの娘でもあったベアトリスの王位継承を主張してポルトガルに乗り込んできました

ポルトガルはフアン派とジョアン派に分かれた内戦状態となり、ジョアンはフアンについた諸都市を攻撃し直接対決への準備を整えます
ジョアンはまた>>552のランカスター公ジョン=オブ=ゴーントの娘フィリッパとの結婚によってイングランドと同盟を結び、その援軍を得たジョアンは都リスボンの北方に位置するレイリアに布陣し防衛戦を築き待ち構えました
一方のフアンはフランスと同盟を結びその騎士軍を加えレイリアへと南下していきます
英仏百年戦争の真っ只中の時期、両軍の対決はイベリア半島における英仏の対決でもあったのです

1385年8月14日、カスティーリャ・フランス軍の突撃によってアルジュバロータの戦いは始まりました
ポルトガル・イングランド軍は数においては劣勢だったものの、防衛陣地を有効に活用し、またイングランド長弓隊の活躍もあってカスティーリャ・フランス軍に大打撃を与え、敗走させたのです
フアンは戦場から離脱し、この勝利によってポルトガルにおけるジョアンの地位は確実なものとなりました
以後も国境付近で散発的な戦闘はあったものの、ジョアンはカスティーリャの影響力を排除しポルトガルの繁栄を導くこととなるのでした


本日はジョアン1世の王位確立日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

708名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/15(土) 00:41:54 ID:4gPfspic
8月15日はミカエル=パレオロゴスが即位した日です

>>227で見たように、ビザンツ帝国の亡命政権ニケーア帝国のミカエル=パレオロゴスは1261年7月にコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興しました
同年8月15日にミカエル8世として即位すると、彼は自らをコンスタンティヌス大帝になぞらえ、ギリシアにおける勢力回復に奔走します
まずペラゴニアの戦いで捕虜としたアカイア公ギョームを解放する代わりにペロポネソス半島の領土を譲渡させ、翌年にはブルガリアにも勝利し黒海沿岸に領土を獲得したのです

しかしそのミカエルの前に強大な敵が出現します
それが>>504などで見たシチリア王シャルル=ダンジューでした
シャルルは娘をラテン帝国最後の皇帝ボードゥアン2世の息子に嫁がせてラテン帝国の相続権を得、またイェルサレム王国の相続権も得て東地中海に大帝国を築く野望を抱いていました
1267年にはアカイア公ギョームと同盟し、コンスタンティノープル遠征計画を立てましたが、これはホーエンシュタウフェン家のコンラーディンのイタリア侵入によって中止されます

シャルルは>>332のタリアコッツォの戦いでコンラーディンに勝利し、1270年、再びコンスタンティノープル遠征を企てました
しかし今度は>>576で見た、兄であるフランス王ルイ9世の十字軍を支援するため、またもやコンスタンティノープル遠征は延期することとなります
またシャルルと敵対するジェノヴァの行動も活発となり、その対応のため新たなコンスタンティノープル遠征を計画することができなくなったのです
この間ミカエルは東西教会の合同を持ちかけ、1274年のリヨン公会議で教会合同が実現、シャルルのコンスタンティノープル遠征に大義を失わせることに成功しました

ミカエルはさらにジェノヴァとの同盟を強化し、ジェノヴァを通じてカスティーリャとも連携、さらに1275年のデメトリアスの海戦でエーゲ海の制海権を握った後はヴェネツィアとの条約も結び、ギリシアでの勢力を確保しつつありました
しかし東西教会の合同に関しては国内で反対派が多く、その実現は不透明なままでした
やがてローマ教会では1281年、シャルルと親密なマルティヌス4世が即位し、シャルルの要請もあって教会合同の交渉を打ち切り、またラテン帝国復活を目指すシャルルのコンスタンティノープル遠征にお墨付きを与えたのです

ミカエルは窮地に陥りました
ヴェネツィアもまたシャルルの遠征に参加し、ギリシアのラテン人、バルカン半島のスラヴ諸国やビザンツ亡命政権もまた攻撃の機会をうかがっていたのです
この状況でミカエルが頼みとしていたのはアラゴンの艦隊でした
ミカエルはアラゴンの宰相ジョヴァンニ=ダ=プロチダと連絡を取り、反シャルル勢力間の同盟に成功していました
またシチリア住民のシャルルの統治への不満を煽り、資金援助も行って反乱を起こす下地も整えていました
そうしていわゆるシチリアの晩鐘事件が起こったのは>>632でも見た通りです

このシチリアの晩鐘とその後のアラゴンとの抗争、いわゆる晩鐘戦争によってシャルルのコンスタンティノープル遠征は以後計画されず、ミカエルはバルカン半島と小アジアに専念する余裕を得ました
このように彼はコンスタンティノープルを奪回して帝国を再建し、その敵対勢力を封じ込めて帝国に安定をもたらすという功績を挙げ、その治世を終えたのでした


本日はパレオロゴス朝初代皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年

709名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/16(日) 01:53:54 ID:z8iKiIqs
8月16日は「金剛」が竣工した日です

19世紀末、各国では艦隊決戦を想定した装甲巡洋艦の建造が進みました
20世紀に入るとこの装甲巡洋艦を圧倒る火力を持ち、かつ巡洋艦と共に行動できる速力を備えた巡洋戦艦が登場します
その先駆となったのがイギリスの「インヴィンシブル」で、この情報を入手した日本は巡洋戦艦の導入を検討しました
しかし当時の日本の技術力では新艦種である巡洋戦艦の建造は困難であったため、イギリスに建造を発注し、超弩級戦艦の建造技術を国内に移転することを図ったのです

イギリスはアームストロング社とヴィッカース社が試案を提示し、日本はそれを元に14インチ連装砲4基のB39案、同3基のB40案、12インチ連装砲3基のB41案が練られましたが、軍令部が50口径12インチ連装砲を主張したため、1910年5月に50口径12インチ連装砲4基のB46案がまとまりイギリスへと持ち込まれました
同年7月にはアームストロング社とヴィッカース社から設計書と見積書が提示され、ヴィッカース社の方が設計に優れより安価であったためヴィッカース社へ建造を依頼することとなりました

ヴィッカース社と交渉を進めるなかで、日本は同社から提案された45口径14インチ砲の採用を勧められ、これに同意しました
最終的には同年11月に建造計画がまとまり、翌1911年1月にヴィッカース社のバーロー造船所にて「伊号装甲巡洋艦」として建造が始まります
その翌年1912年5月には無事進水し名前も「金剛」と正式に命名、翌1913年8月16日、竣工するに至ったのです
こうして完成した金剛型巡洋戦艦1番艦「金剛」は当時としては世界初の14インチ砲を装備した艦であり、また世界最大の巡洋戦艦でもありました
以後ヴィッカース社の資材提供・技術移転を受けて日本国内でも姉妹艦の「比叡」「榛名」「霧島」も建造され、その就役は日本海軍の戦力増強に大きく貢献することとなったのでした


本日は帝国海軍最後の外国製戦艦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「世界の艦船 1999年6月号 特集巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる」海人社、1999年
・福井静夫『日本戦艦物語1』光人社、2008年
・「丸 2014年3月号 金剛型戦艦」光人社、2014年

710名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/17(月) 00:01:17 ID:IK9R1v2o
8月17日はトラヤヌスの門の戦いが行われた日です

>>133で見たように、ブルガリアはシメオン1世がコンスタンティノープル総主教から皇帝として加冠され、またブルガリア大主教を総主教に格上げさせてブルガリア正教会の独立を実現、第一次ブルガリア帝国の最盛期を現出しました
しかし彼の度重なる征服戦争は国力の疲弊を招き、財政は破綻することとなります
927年にシメオンが死去すると以後は積極的な行動を取れなくなったのです

シメオンの後を継いだのはペタル1世でしたが、彼の治世でブルガリアはビザンツ帝国の一従属国となり、セルビア人やマジャール人との戦いで疲弊していきます
ペタルの後を継いだボリス2世の代でもブルガリアの劣勢は続き、969年にはキエフ大公国の攻撃で壊滅的な打撃を受けました
971年にはブルガリアを併合し、ボリスはコンスタンティノープルにて退位、ブルガリア正教会も再びコンスタンティノープル総主教の管理下に置かれることとなったのです

しかし976年、ビザンツ皇帝ヨハネス1世が急死し新たにバシレイオス2世が即位すると、ビザンツ帝国では反乱が勃発します
貴族が起こしたこの反乱は約2年間に渡って続き、これに乗じてブルガリアでは地方長官の子であったサムイルが独立国家を建設、シメオン1世の後継者を自称して皇帝を名乗りました
バシレイオスはこれを鎮圧するため自ら軍を率いブルガリアに侵攻しますが、986年8月17日、トラヤヌスの門の戦いにてサムイルに大敗、コンスタンティノープルへの撤退を余儀なくされます
その後ビザンツ帝国では軍事権を掌握していた大貴族バルダス=フォーカスの反乱が起こり、これに多数の貴族が加担したためバシレイオスはその鎮圧に謀殺されました
一方サムイルはビザンツ帝国への反撃を開始、一時は旧ブルガリア帝国領の大半を回復、バルカン半島をほぼ制圧することとなったのでした


本日は第一次ブルガリア帝国復興の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年

711名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/18(火) 00:31:33 ID:RXUVJ782
8月18日は第1回全国中等学校優勝野球大会が開幕した日です

1915年7月2日、日本全国の中等学校から各地方代表を代表する学校が集まり、選手権を行うとの告知が朝日新聞の紙面上で発表されました
しかし発表が開催のわずか一ヶ月前だったためすぐに予選を始める必要があり、予選に参加できない学校がほとんどで、全国で73校のみによる予選が行われることとなります


北海道地区は当時対外試合が禁止されていたため全校不参加でした

東北地区は単独での参加を申し込んだ秋田中(現秋田高校)が無条件での参加の許可がおりなかったため、県内の3校で予選を行い、これを勝ち抜き東北代表として出場を決定します

関東地区は予選が間に合わなかったため、春の東京府大会で優勝していた早稲田実業、今大会にも出場しベスト4進出を決めている早稲田実業が代表校となりました

東海地区は愛知・岐阜・三重からそれぞれ2校ずつが参加し、これを三重の山田中(現宇治山田高校)が出場を決めます

北陸地区は8月下旬に北陸大会が開催されるため日程が合わず不参加となりました

京津地区では京都・滋賀合わせて11校が参加し、京都二中、今大会3回戦まで進んだ現鳥羽高校が代表となります

兵庫県は単独出場が認められ、7校による予選を勝ち抜いた神戸二中(現兵庫高校)が出場することとなりました

関西地区は大阪・和歌山で予選を行い、和歌山中、今年春の選抜で21世紀枠で出場した現桐蔭高校が代表権を得ます

山陰地区は鳥取・島根が戦い、鳥取中(現鳥取西高校)が出場を決めました

山陽地区は広島と岡山の間で争われ、広島中(現広島国泰寺高校)が代表となります

四国地区は香川・徳島が参加し高松中(現高松高校)が勝ち抜きました

九州地区は福岡・長崎の参加で行われ、久留米商が代表校となります


以上の出場を決めた10校の間で選手権が行われることとなり、今からちょうど100年前の1915年8月18日、大阪府の豊中グラウンドにて開幕しました
23日まで行われたこの大会で京都二中(現鳥羽高校)は決勝戦で秋田中(現秋田高校)を破って記念すべき初優勝校となったのでした


本日は「甲子園」の誕生日です、おめでとうございます

712名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/19(水) 01:42:35 ID:kvaKH/XU
8月19日はフリードリヒ3世が死去した日です

神聖ローマ帝国では>>296などで見たジギスムントが1437年に死去したことでルクセンブルク朝が断絶し、ハプスブルク家のアルブレヒト2世がドイツ王となりました
しかしアルブレヒトは正式に皇帝となることのないまま急死し、息子のラディスラウスが若年であったために、はとこのフリードリヒがラディスラウスの後見としてドイツ王となります

ハプスブルク家の宗家であったアルブレヒトに対し、フリードリヒは傍系の出にすぎませんでしたが、1457年にラディスラウスが夭折するとその遺領はフリードリヒのものとなり、オーストリアを手に入れることとなりました
やがてフリードリヒの弟アルブレヒトが元服すると、所領の分割を巡って2人は争い、フリードリヒは弟によって幽閉されます
フリードリヒは辛うじてウィーンから逃亡し、そのうちにアルブレヒトが急死したためにウィーン帰還に成功するという風に、悪運の強さを発揮するのです

フリードリヒの悪運は対外政策においても発揮されます
1452年、彼は正式に皇帝として戴冠しフリードリヒ3世となりますが、その翌1453年に>>146で見たようにビザンツ帝国が滅亡し、長年問題となっていた二帝問題が解消され、フリードリヒが単独の皇帝となったのです
またオスマン帝国の脅威に対しハンガリー王マーチャーシュ1世はオーストリアを併合して対抗することとし、実際にオーストリアに侵攻しオーストリア大公の地位を獲得、ウィーンを占領するという勢いでした
しかしこのマーチャーシュもまた急死し、フリードリヒはウィーンに帰還するのです

ブルゴーニュ公国のシャルル突進公に対しても悪運が働きました
>>414で見たように、シャルルはフリードリヒに対し「ローマ人の王」の称号を要求し帝国諸侯のなかにもこれを支持する者がいた状況で、フリードリヒはのらりくらりと名言を避け、そのうちにシャルルはナンシーの戦いで戦死したのです
そしてこのシャルルの娘マリーと、フリードリヒの息子マクシミリアンが結婚することでネーデルラントを獲得します
このマクシミリアンが>>540で見た神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世でした
フリードリヒの治世は50年以上に渡るものとなり、1493年8月19日、77歳で死去します
その間にフリードリヒの敵対勢力はことごとく力を失い、ハプスブルク家の世襲が確立することとなります
そして>>502で見たように帝位はマクシミリアン1世からカール5世へと相続され、広大なハプスブルク帝国が実現するのでした


本日は単独王マクシミリアンの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

713名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/20(木) 00:27:10 ID:VjQbeii6
8月20日はイシュトヴァーン1世が列聖された日です

>>394で見たように、ハンガリーのイシュトヴァーン1世はパンノニアにてキリスト教国家を確立し、神聖ローマ皇帝オットー3世同意の下、ローマ教皇シルウェステル2世によって1000年、ハンガリー王として戴冠しました
ここにハンガリー王国が成立し、またその王冠は「聖イシュトヴァーンの王冠」として代々ハンガリーで受け継がれ王権の象徴となり、またその領土は「聖イシュトヴァーンの王冠の地」としてハンガリーの基礎となったのです

こうしてイシュトヴァーンはハンガリーの国際的地位を高め、国内の統一を達成し、また王国全土に王城県を設置して地方長官を置くなど、以後のハンガリーの国制の基礎も築きました
イシュトヴァーンは1038年に死去し、彼の男子が皆早逝していたこともあって後継者争いが勃発します
これを収め1077年に即位したのが聖王ラースロー1世で、彼は再びハンガリーをキリスト教国家として整備した後の1083年8月20日、キリスト教国家の基礎を確立したイシュトヴァーンの功績を讃え、列聖しました
この日はハンガリーの建国記念日として祝日となっているのです


本日はハンガリーの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
・南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』河出書房新社、2012年

714名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/21(金) 00:14:57 ID:1nA5IZXA
8月21日は源頼朝が征夷大将軍に就任した日です

>>378の平治の乱の後、平清盛は平氏一門による専制政治を確立し、繁栄を謳歌していました
しかし貴族、寺社、地方武士の平氏への不満は高まり、1180年には以仁王と源頼政が園城寺や興福寺支持のもと挙兵、全国の武士へ平氏打倒の令旨を発します
2人は平清盛によって討ち取られますが、この挙兵に呼応した武士が各地で決起し、治承・寿永の内乱が始まったのです

反平氏勢力のうち特に有力だったのが伊豆で挙兵した源頼朝で、石橋山の戦いに敗れたものの盛り返し、鎌倉を本拠として東国の武士を糾合していきました
平氏は頼朝追討軍を派遣しますが富士川の戦いで大敗し、さらに1181年に平清盛が病没、西国での大飢饉も重なり大打撃を受けます
1183年には信濃で挙兵した源義仲に倶利伽羅峠の戦いに敗れ、義仲はそのまま京都に乱入し平氏は西国へと逃れることとなりました

義仲は京都を占領するもののその統治に失敗し、頼朝が派遣した源範頼・義経の軍によって滅亡します
この間平氏は福原に戻りますが一ノ谷の戦いで再び福原から追い落とされ、屋島の戦いを経て1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡するに至りました
この後、後白河法皇は頼朝の勢力拡大を危惧し、義経を取り込み頼朝追討の軍を発しますが失敗し、義経は奥州平泉に逃れたものの藤原氏ともども討ち果たされ、頼朝の地位が確立したのです

この間頼朝は鎌倉から動かず、新政権の準備を進めていました
1180年に侍所、84年に公文所、後の政所と問注所を設置し、85年には全国に守護・地頭を置き、この時点で鎌倉幕府の基礎が出来上がります
そして1192年8月21日、頼朝は征夷大将軍に就任し、ここに名実ともに鎌倉幕府が確立することとなったのでした


本日は鎌倉幕府将軍の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・高橋典幸『日本史リブレット人26 源頼朝 東国を選んだ武家の貴公子』山川出版社、2010年

715名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/22(土) 00:38:51 ID:nhOneSBg
8月22日はスティリコが処刑された日です

>>702のアドリアノープルの戦いでローマ軍が大敗し皇帝ウァレンスが戦死した後、東の皇帝となったテオドシウス1世は軍の再編を行い、ゲルマン人の兵士も数多く編入されました
ローマ軍の指揮権を握るゲルマン系将軍も現れるようになり、そのなかの1人がスティリコでした

ヴァンダル人の父とローマ人の母を持つスティリコはテオドシウスの護衛隊長として信頼を寄せられ、テオドシウスは自身の姪とスティリコを結婚させるほどでした
スティリコはテオドシウスが死去しローマ帝国が最終的に東西に分裂した後、西の皇帝となったホノリウスの後見役となります
しかしスティリコがダキア・マケドニアの帰属問題で東ローマ帝国と対立すると、これに乗じて西ゴート族のアラリックがギリシアで略奪したのは>>259でも見た通りです

スティリコはアラリック討伐に向かいますが、東ローマ帝国はスティリコを撤退させ、さらにアラリックをイリュリクムの総司令官に任じたのです
401年にはアラリックはイタリアへと侵入しますが、これはスティリコによって撃退されました
405年にもゲルマン人の混成軍がイタリアに侵入しますがこれもスティリコが撃退します
しかしこのスティリコの活躍を快く思わない人々がいました
蛮族であるヴァンダル人出身の将軍が軍事・政治の実権を握っていることを嫌う元老院、皇帝側近の人々です
彼らはホノリウスに讒言を行い、これを真に受けたホノリウスはスティリコの処刑を決定しました
408年8月22日、スティリコはラヴェンナにて処刑され、これにより配下の将軍もローマ軍から離脱、さらにゲルマン人兵士の多くもアラリックの下へ奔るなどローマ軍は大きく弱体化、>>259のローマ刧掠に至るのでした


本日は西ゴート優勢の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

716名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/23(日) 00:27:37 ID:/XOyfk82
8月23日はプラハ条約が結ばれた日です

ドイツ統一を主導するプロイセンに対しオーストリアが反発し、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が直接のきっかけとなって勃発した普墺戦争は、>>198のケーニヒグレーツの戦いでプロイセンが大勝を収めます
しかしイタリア方面ではイタリア軍を破ったオーストリア軍が態勢を立て直しつつあり、またフランス皇帝ナポレオン3世が介入しようとしていました

プロイセン国内では国王ヴィルヘルム1世をはじめウィーン入城やベーメン侵攻を主張する声が大きかったものの、プロイセン宰相ビスマルクはこれ以上の戦いは無益と判断し、停戦交渉に入ります
ケーニヒグレーツの戦い後の1866年7月26日、ニコルスブルク仮講和条約が結ばれ、これをもとに正式な講和条約交渉が進められました
そして1866年8月23日、プラハ条約が締結され、プロイセンはヴェネツィアをイタリアに割譲させた以外はオーストリアに一切の領土割譲を要求せず、ドイツ連邦の解散、オーストリアを除外したドイツ統一を受け入れさせるだけに留めたのです
これによってドイツ統一の方向性としての大ドイツ主義は最終的に断念され、プロイセンは新しい連邦として>>82の北ドイツ連邦の結成に進んでいくのでした


本日はドイツ連邦・大ドイツ主義の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

717名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/24(月) 00:34:56 ID:RlUYK1bY
8月24日はサン=バルテルミの祝日です

>>687で見たように、16世紀半ばのフランスではギーズ公フランソワを中心とするカトリック派、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌを中心とするプロテスタント派、そして摂政カトリーヌ=ド=メディシスの三つ巴の対立からユグノー戦争が勃発しました
戦いは第一次、第二次と断続的に行われ、 第三次戦争が終結することになった1570年のサン=ジェルマン=アン=レーの和議において、ユグノーは大幅な信教の自由を獲得することに成功します

ここで宮廷復帰を果たしたのがプロテスタント派の最高指導者であるコリニー提督でした
幼い頃に父親をなくしていた国王シャルル9世はこのコリニーを父親として慕い、その政策はコリニーの意向に従うようになります
1572年にはイングランドとブロワ条約を結び、ともにスペインに対抗し、スペイン支配下のネーデルラントのカルヴァン派を支援すると約束したのです

しかし母であるカトリーヌ=ド=メディシスはこれに反対しました
スペインと本格的に戦うことになれば、フランスが窮地に追い込まれることは明白だったからです
しかしコリニーを中心に宮廷で優位を確立していたプロテスタント派の声は大きく、スペインとの対決はますます進められていきました
ここに至り、カトリーヌは融和政策を放棄し、プロテスタント派の最高指導者コリニー暗殺を決定します

カトリーヌは自身の娘であるマルグリット=ド=ヴァロワを、プロテスタントの指導者の1人であるアンリ=ド=ナヴァールと結婚させ、カトリック・プロテスタント両派の和解を図っていました
しかし融和政策を捨てたことで、この2人の結婚式が利用されることとなります
プロテスタント派が結婚式への参列のためにパリに集まっていた1572年8月24日、カトリーヌと彼女と共謀したギーズ公アンリによってコリニーはじめ多くのプロテスタント派が虐殺されたのです
虐殺はパリに留まらず各地に広がり、9月初頭まで続けられた虐殺でその犠牲者は一万人以上に及びました
カトリック・プロテスタント両派の和解となるはずだった結婚式は最悪事態へと変貌し、両派の関係は決定的に悪化、ユグノー戦争はますます激化することとなったのでした


本日はサン=バルテルミの虐殺の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

718名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/25(火) 00:07:16 ID:c/94u.qg
8月25日はイヴァンが産まれた日です

「タタールのくびき」の下にあったロシアでは1472年、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪であるソフィアと、モスクワ大公イヴァン3世が結婚し、ビザンツ帝国の後継者・ギリシア正教の保護者としての地位を得ました
1480年にはモンゴルの大ハーンへの歳貢を停止し、モンゴルが派遣した軍も撃退、約250年続いた「タタールのくびき」からロシアを解放することに成功します

イヴァン3世はロシアの諸公国を併合してほぼロシア統一を達成し、全国一律の法典を整備、大公の権威を示すモマノフの冠、双頭の鷲の紋章を用い、皇帝を表すツァーリの称号を自称しました
イヴァン3世が1505年に死去した後は息子のヴァシリー3世が後を継ぎ、彼の代でモスクワが第三のローマであると主張されるようになります
「タタールのくびき」から脱したロシアは新たな道に進みつつあったのです

このヴァシリー3世の長男として1530年8月25日に産まれたのがイヴァンでした
彼は父の急死によってわずか3歳で即位し、イヴァン4世となります
1547年に正式にツァーリとなったイヴァンは全国会議を招集して中央・地方行政の整備に努め、カザン=ハーン国とアストラハン=ハーン国を併合しクリミア=ハーン国にも遠征するなど、対外的にもその権威を誇示しました
しかし1553年に重病にかかると、貴族はイヴァンの従弟であるスタリツキー公を後継者に据えようとします
父の急死後から貴族の権力争いの真っ只中にあったイヴァンはこの一件でますます貴族に対する不信感を強め、両者を仲介していた后のアナスタシアが死去すると貴族への不信は決定的なものとなりました
この頃からイヴァンはいわゆる恐怖政治を始め、専制政治を強化することとなったのでした


本日は後のイヴァン4世「雷帝」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

719名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/26(水) 01:09:41 ID:zl4obF4E
8月26日はクレシーの戦いが行われた日です

イングランド王エドワード3世は>>653のスロイスの海戦で制海権を得た後、フランドルに上陸したもののフランス王フィリップ6世の軍に度々敗れ、一時撤退を余儀なくされました
両者は休戦に同意し、1342年までの休戦協定が成立します
この間に勃発したのが>>300で見たブルターニュ継承戦争で、エドワードはこれに介入しブルターニュに上陸、1343年に教皇仲介のもとで休戦協定が結ばれ、エドワードはイングランド軍をブルターニュに駐屯させる権利を得たのです

以後エドワードはこのブルターニュを拠点とし、休戦協定明けの1346年3月から再びフランス領への進軍を開始しました
イングランド軍はブルターニュ、フランドル、アキテーヌへと展開し、エドワード自身はノルマンディーに上陸、パリ近郊まで攻め寄せます
これに対しフィリップも応戦、サンドニに兵を集めた後、イングランド軍を討つため北上しました

そして1346年8月26日、両軍はクレシー郊外にて対峙することとなったのです
イングランドの兵力は騎兵約6,000、弓兵約6,000の計約12,000の兵、一方のフランスは約6,000のジェノヴァ弩弓兵に国内外から集まった諸侯の騎兵隊の、計30,000〜40,000という大軍でした
戦いはフランス側のジェノヴァ弩弓兵の射撃で始まり、ついで騎兵隊が突撃をかけましたが、ここでイングランド長弓隊が迎撃し、高地に陣取っての射撃ということもあって絶大な威力を発揮、フランス軍は総崩れとなります
夕刻にはフランス軍は壊滅的な被害を受けて撤退、フィリップが負傷した上に多くの要人が戦死という大敗でした
一方この戦いに勝利したイングランドは戦局を優位に展開、>>237で見たようにフランスの重要拠点であるカレーを占領することとなったのでした


本日は長弓優位の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

720名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/27(木) 00:28:36 ID:DFz8zJ5c
8月27日はイギリス=ザンジバル戦争が起こった日です

1884年、>>89のコンゴ自由国成立のきっかけにもなった、アフリカ分割を話し合ったベルリン会議が終わった後、ドイツはタンザニアにドイツ領東アフリカ植民地を建てました
この際にザンジバルはドイツとイギリスによって分割されることになり、イギリス領東アフリカ植民地も成立します

やがてドイツではヴィルヘルム2世が皇帝となり、>>549で見たように新航路政策を推進するようになりました
それは対外政策や通商・関税政策でよく表され、>>647のロシアとの再保障条約の更新を拒否した一方で、イギリスとは関係改善を図ります
そのなかで締結されたのが1890年のヘルゴラント=ザンジバル協定でした
この協定でドイツはヘルゴラント島やタンザニア沿岸地域を獲得、ウィトゥランドをイギリスに譲渡し、ザンジバルに対するイギリスの行動への不干渉を認めたのです

イギリスは同年にザンジバルを保護領としましたが、1896年に親イギリス派だったトゥワイニがクーデターで倒れ、反イギリス派のバルガシュがスルタンとなりました
イギリスはバルガシュ政権を打倒するためザンジバルに艦隊を派遣し、1896年8月27日、バルガシュの立て籠もる宮殿に向けて砲撃を開始します
バルガシュはこれを支えきれずわずか40分で抵抗を諦め逃走、早々に戦争は終結しました
これは史上最短の戦争としてギネス記録となっています
一方、イギリスはこれ以後ザンジバルの実効支配を進めていくのでした


本日は40分戦争の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社、1997年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年

721名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/28(金) 00:26:38 ID:/OvT2ymk
8月28日は平沼騏一郎内閣が総辞職した日です

世界恐慌後ファシズムが台頭した日本・ドイツ・イタリアはそれぞれワシントン体制・ヴェルサイユ体制の打破を目指すようになりました
1936年にはスペイン内戦でのフランコ支援を通じてドイツ・イタリアが手を組み、ベルリン・ローマ枢軸が成立します
一方日本は>>430で見たようにワシントン海軍軍縮条約を破棄、ロンドン海軍軍縮会議から脱退し、それによって国際的孤立を深めていました
日本はドイツ・イタリアに接近し、ともに現状の打破を図るようになります

その頃ソ連ではスターリン指導の下で五カ年計画が進み、国連にも加盟してその勢力を増大させていました
これを脅威に感じた日本・ドイツは日独防共協定を結び、これにイタリアが加わって日独伊三国防共協定が成立、枢軸陣営が形成されたのです

1930年代後半になるとドイツは対外膨張政策をいっそう進めるようになり、イギリスやフランスとの対立が深まりつつありました
そのなかで日独伊三国同盟を軍事同盟に発展させようとする動きが活発化し、日本でも陸軍はこれに積極的でしたが、海軍や外務省はイギリスやアメリカと戦争になる危険を主張し、これに反対します
当時の平沼騏一郎内閣はこの両派の対立によって閣内対立が起こり、政局は混乱しました
平沼はイギリス・アメリカと交渉し、ドイツとも反共について協議を進めていましたが、そこに独ソ不可侵条約が結ばれたという知らせが届くと平沼首相は外交の方向性を見失ってしまいます
そして1939年8月28日、平沼騏一郎内閣は総辞職し、ドイツのポーランド侵攻によってヨーロッパは第二次世界大戦へと突入していくのでした


本日は「欧州情勢は複雑怪奇」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

722名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/08/29(土) 00:42:39 ID:fbOJ5x0Y
8月29日はプロイセンがザクセンに侵攻した日です

>>319のアーヘンの和約によってプロイセンのシュレジエン領有が国際的に認められましたが、オーストリアはシュレジエン奪回を最優先事項としてその準備を整えていきました
その一環としてフランスとの同盟が成立しましたが、これは驚くべき事件でした
というのもオーストリアとフランスは15世紀以来、宿敵といえる関係にあったからです

発端は>>545でも登場したブルゴーニュ公領を巡る争いに遡り、神聖ローマ皇帝選挙でオーストリア・ハプスブルク家のカール5世とフランス・ヴァロワ朝のフランソワ1世が対立、両者はイタリア戦争においても火花を散らしました
その対抗意識は、オーストリアを打倒するためオスマン帝国と同盟するほどのものだったのです
ブルボン朝となって以降も三十年戦争においても>>305で見たように宗教対立の壁を超えて反ハプスブルクの立場から参戦し、ルイ14世は>>280で見たようにまたもオスマン帝国と同盟し再びのウィーン包囲が実現したのです

このようなフランスとの宿敵関係でしたが、オーストリアはシュレジエン奪回のために外交政策を大転換しました
主導したのはオーストリア宰相カウニッツ、当時ヨーロッパで最も冷静な頭脳を持つと称された政治家でした
こうしてフランスとの同盟、いわゆる外交革命が1756年に実現し、すでに成立していたロシアとの同盟と合わせ、シュレジエン奪回の準備が整えられたのです
一方のプロイセンはイギリス・ハノーファーと協定を結んだのみで、イギリスは植民地戦争に注力していたこともあってほぼ単独でオーストリア・フランス・ロシアという大国の大同盟軍と戦わざるをえない状況でしたが、1756年8月29日、プロイセン王フリードリヒ2世は先手をとってザクセンへと侵攻、ここに七年戦争が勃発したのでした


本日は七年戦争の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

723名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/01(火) 00:18:27 ID:Eak2gcqs
9月1日はドイツがポーランドに侵攻した日です

>>534で見たように、ドイツは1933年に国際連盟を脱退後、35年にヴェルサイユ条約を破棄して徴兵制を復活、再軍備宣言を行いました
36年にはロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐するなど、ヴェルサイユ体制の打破を進めていきます
これに同調したのがイタリアで、35年にエチオピアを侵略、翌年に併合しました
これらの動きに対し国際連盟は経済制裁を加えましたが石油禁輸措置を取らなかったため効果は上がらず、イギリス・フランスはドイツ・イタリアの行動を黙認する宥和政策をとったのです

ファシズムの台頭に危機感を持った共産主義勢力はコミンテルンを結成、反ファシズム人民戦線の結成を目指し、1936年にはフランスとスペインで人民戦線政府が成立しました
しかしスペインでは人民戦線政府に対しフランコが反乱を起こして内戦が勃発、これを支援したドイツ・イタリアが連携を強めてベルリン・ローマ枢軸を結成、これに日本も接近し、日独伊三国防共協定が成立したのは>>721で見た通りです

これらファシズム三国はイギリス・フランスのような広大な植民地・勢力圏を持たない、不利な立場の「持たざる国」として、対外膨張政策を進めていきます
ドイツは1938年にオーストリアを併合、さらにチェコスロヴァキアにズデーテン地方割譲を要求し、これに対しイギリス・フランスはドイツ・イタリアとともにミュンヘン会談を開いたものの、戦争を避けるため宥和政策をとり、ドイツの要求は認められました
ところがドイツは1939年3月にチェコスロヴァキアを解体、さらに8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んで互いの勢力範囲を取り決めるのです
そして1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻してついに戦争が勃発、これに対しイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、世界大戦へと発展していくのでした


本日は第二次世界大戦の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

724名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/02(水) 01:10:21 ID:heFX6BUs
9月2日は科挙が廃止された日です

中国の官吏登用制度である科挙が始まったのは隋を建国した文帝の時代でした
それまでの官吏登用は門閥貴族形成の温床となっていた九品中正でしたが、文帝は中央集権化を進めるため、家柄や財産に関係なく有能な人材を高級官僚に登用するために科挙の実施に踏み切ったのです
科挙は唐の時代にも継承され、発展拡充しますが、この時点ではまだ貴族の勢力は強く科挙官僚の影響力は小さいままでした

転機となったのが宋の時代で、>>470で見たように唐滅亡後の五代十国の戦乱時代で貴族層が没落し、科挙官僚が重視されるようになったのです
また宋では科挙制度の変革も行われ、それまでは地方でお、行う州試と中央の尚書省礼部で行う省試の二段階だったのが、最終選考として皇帝自らが試験官となる殿試が加わり三段階となりました
これによって皇帝と官僚が直接結ばれ、皇帝中心の官僚体制が確立することとなりました

こうして整備された科挙は元の時代に一時中断はあったものの、皇帝独裁体制を支える柱として明・清時代にも継承されていきます
しかし清代末期、欧米列強や日本の中国進出によって国政改革が進行するなかで、科挙制度の見直しが進められることとなります
西欧技術導入による近代化のなかで、形式主義に陥り暗記に偏った科挙は時代にそぐわないものとなっていたのです
そして1905年9月2日、袁世凱や張之洞などの意見によって科挙の廃止が断行され、清は憲法大綱を制定するなど立憲国家への移行を図っていくのでした


本日は科挙の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・平田茂樹『世界史リブレット9 科挙と官僚制』山川出版社、1997年
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年

725名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/03(木) 00:02:04 ID:H99TyNP2
9月3日はイギリス・フランスがドイツに宣戦布告した日です

>>723で見たようにドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦への戦端が開かれましたが、イギリス・フランスのドイツへの対応は鈍いものでした
イギリス・フランスともにポーランドと協定を結んで安全保障を宣言していたにも関わらず、ドイツへの宣戦布告がポーランド侵攻から2日経った1939年9月3日にずれ込みます
宥和政策を積極的に進めていたイギリスのネヴィル=チェンバレン首相は、ここに至ってもその姿勢を覆せなかったのです

フランスもまたマジノ線に拠って攻勢には出ず、西部戦線においてはイギリス・フランスは圧倒的に有利な戦力を有しながら戦闘らしい戦闘が行われない奇妙な状態が続くこととなります
この間にポーランドはドイツとソ連によって分割占領され、ソ連はさらにフィンランドに対し冬戦争を起こし国際連盟から除名されることとなり、さらにバルト三国を併合、ルーマニアからベッサラビアを割譲させました

1940年4月にはドイツがデンマーク・ノルウェーに侵攻し、ここに至ってようやく奇妙な状態が破られました
イギリス国内では宥和政策をとっていたチェンバレンが辞任し、新たにチャーチルが首相となってドイツに対する徹底抗戦の構えを明確に示します
一方フランスは5月にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクを占領し攻勢に出るドイツ軍に圧倒され、6月にはパリを占領されてペタン政府が成立、ド=ゴールはロンドンに亡命し自由フランス政府を組織して対抗することとなるのでした


本日は「奇妙な戦争」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

726名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/04(金) 01:46:51 ID:bup9UsnI
9月4日は李世民が即位した日です

>>425で成立した隋は、>>724で見たように科挙を開始するなど中央集権化が進められましたが、文帝の後を継いだ煬帝による大運河の建設や高句麗遠征で民衆の不満が高まり、618年、農民反乱によってわずか38年で滅亡しました
この混乱の中いち早く関中を抑えたのが、山西で挙兵した李淵・李世民でした
李淵は隋最後の皇帝である恭帝から禅譲を受ける形で皇帝となり、新たに唐を建国し長安を都としました
しかしこの時点では未だ各地に群雄が割拠しており、特に河北の竇建徳や洛陽の王世充は大きな勢力を有していました

これらの群雄を従えていったのが、第二代皇帝李世民でした
李世民は皇太子であった兄の李建成を殺害し、626年9月4日、皇帝に即位します
李世民は群雄を平定し、628年には全国統一を達成します
対外的にも東突厥を討伐して西北遊牧民の首長から天河汗の称号を贈られ、また西域交易の一大拠点となっていた高昌を滅ぼし同地を直轄地としました

内政面においても李世民は整備を進め、律令体制を基本とし、科挙・均田制・租庸調制・府兵制などの諸制度を隋から継承しつつその発展拡充を図っていきます
特に三省六部はこの時代にほぼ完成され、律令体制が確立したのです
このように李世民の治世は国内外ともに充実し、中国史上においても最もよく治められた時代とも称されるものとなるのでした


本日は「貞観の治」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

727名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/05(土) 00:00:22 ID:O9qIdCwo
9月5日はポーツマス条約が締結された日です

日本はロシアと開戦するにあたって、国力が劣ることを鑑み短期決戦を想定していました
戦争期間をおよそ一年と考え、戦局を優勢に進めながら講和を仲介してくれる国を探していたのです
この方針のもと日本は1905年1月に旅順を攻略、3月には奉天会戦で勝利、そして>>621の日本海海戦で完勝した時点で講和へと動くこととなりました

外相小村寿太郎はワシントンに駐在する高平小五郎公使に打電し、開戦当初から水面下で講和の仲介役を依頼していたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに、正式に講和の仲介を申し入れます
6月9日にはアメリカ政府から日露両国に講和勧告が行われ、日本は9日に、ロシアは12日にこれを受け入れました
こうして講和会議への準備が始まり、日本は小村寿太郎を、ロシアはウィッテを全権委員とし、講和会議の開催地をポーツマスと決定し8月10日から会議が始まることになります

10回にわたる会議の中で、日本が講和条件として提示した、日本の韓国支配権に対するロシアの承認、ロシア軍の満州からの完全撤退、日本への遼東半島租借権の譲渡、日本への南満州鉄道の所有権・経営権の譲渡に関してはロシアはすんなり同意しました
しかし賠償金支払い、樺太の譲渡に関しては交渉が難航します
というのも、ロシア皇帝ニコライ2世はウィッテに対し、いかなる賠償金も領土も渡してはならないと厳命していたからでした
しかしロシアも>>656で見た第一次ロシア革命に対処するために早期講和を望んでおり、樺太の南半分を譲渡することに同意します
国力の限界に達していた日本も賠償金支払い要求を取り下げ、この両国の譲歩によって1905年9月5日、ポーツマス条約が締結され日露戦争は終結することとなったのでした


本日は日露戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大陸間戦争』中央公論新社、2005年に
・隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論新社、2006年

728名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/06(日) 01:23:00 ID:xxkkZUXs
9月6日はネルチンスク条約が結ばれた日です

明に代わって中国を統一した清は、北方民族出身ということもあって、明を苦しめ続けた北方民族の脅威とはほぼ無縁でした
清の初代であるヌルハチの時代にホルチン部と同盟を結び、第二代のホンタイジはチャハル部を服属させ内モンゴルを平定、さらに黒竜江沿岸部にも支配地を広げ、万里の長城の北方に勢力を拡大していたのです

そんな清と北方で対峙することになったのがロシアでした
ロシアは16世紀後半からシベリアへの進出を積極的に行い、17世紀前半にはオホーツク海に到達、1643年には黒竜江に進出したのです
ここに両国は衝突することになり、小規模な抗争が1680年代には本格的な軍事衝突に発展しました
清の康煕帝は鄭氏台湾を平定し、三藩の乱も鎮圧したことで北方に目を向ける余裕ができ、またジュンガル部の進出でモンゴル方面の緊張が高まったことでロシアに講和を申し入れます

1689年9月6日、ネルチンスクにて両国の境界画定の交渉が行われ、スタノヴォイ山脈とアルグン川が国境となることが取り決められ、また国境での交易も認められます
こうして清は中国東北地方の全域を確保し、ロシアの南下を防ぐことに成功したのでした


本日は中国における対等条約の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年

729名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/07(月) 01:36:34 ID:Xikyf7hg
9月7日は北京議定書が調印された日です

日清戦争での敗戦後、欧米列強は清の弱体化を見て取り、中国分割が進みました
また中国の伝統的な専制体制をあくまて維持しようとする洋務運動では限界があると判明し、専制体制の改革と立憲政治の実現を目指す変法運動が盛んとなります
これを主導したのが公羊学派の康有為や梁啓超で、光緒帝は彼らを登用して政治改革を行う戊戌の変法を進めました

しかし光緒帝の母后である西太后は1898年9月、保守派によるクーデタを起こして戊戌の変法を挫折させます
こうして西太后のもと保守派が実権を握り、排外的な傾向が強まることとなりました
折しも華北一帯では扶清滅洋を掲げる義和団が勢力を拡大しており、排外運動を進める西太后ら保守派はこれを支援します
そして1900年6月、西太后は列強に宣戦布告し、これに対し日本・ロシア・ドイツ・オーストリア・イギリス・フランス・イタリア・アメリカの8国は共同出兵を行い、8月には北京を占領して鎮圧しました
この戦後処理は翌1901年9月7日の北京議定書でなされ、清は多額の賠償金を支払い、北京周辺の軍備撤廃、外国軍隊の北京駐留権を認めさせられるなど、半植民地化がますます進むこととなるのでした


本日は義和団事件の命日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年

730名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/08(火) 02:01:00 ID:u8aMBWzw
9月8日はクリコヴォの戦いが行われた日です

13世紀末までウラジーミル大公国の辺境の町に過ぎなかったモスクワは、>>629で見たモンゴルのルーシ侵入期にノヴゴロド公だったアレクサンドル=ネフスキーの子、ダニールの治世以降発展していきました
ダニールの子ユーリーの時代にはウラジーミル大公位をめぐる争いに参加するまでに成長し、ユーリーはトヴェーリ公ミハイルと抗争を繰り広げました

これが決着したのがユーリーの弟イヴァン1世カリターで、トヴェーリの反モンゴル暴動を利用してモンゴルに取り入り、その協力を得てウラジーミル大公であったトヴェーリ公アレクサンドルを追放し自らが大公位を得たのです
イヴァン=カリターはその後もモンゴルに協力して地位を盤石なものとし、モスクワ公の優位を確立しました

やがてイヴァン=カリターの子イヴァン2世が死去すると、わずか9歳のドミトリーが即位します
これに乗じてスーズダリ・ニジェゴロド公ドミトリーとトヴェーリ公ミハイル=アレクサンドロヴィチが介入しましたが、辛うじて撃退することに成功します
ドミトリーにとって転機となったのが対モンゴルの戦いで、当時モンゴルは内紛によって分裂しており、ルーシに対し組織的な支配を行う力が失われていました
ドミトリーはこれを好機と見て「タタールのくびき」からの解放戦争を開始するのです

そして1380年9月8日、リトアニアと同盟を結んだモンゴルの武将ママイと、これを迎え撃つドミトリーがドン川沿いのクリコヴォで激突しました
激しい戦いの末モスクワ軍が勝利し、その勝利は140年にわたって「タタールのくびき」に苦しんできたルーシ諸侯に大きな影響を与えました
モスクワにとってはその威信が大きく高まり、ルーシにおける指導的地位を確立することとなったのでした


本日はドミトリー=ドンスコイ(ドン川のドミトリー)の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年

731名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/09(水) 00:46:38 ID:5jtgoVoQ
9月9日は大宝律令が成立した日です

>>726で見たように、中国では唐の時代に律令国家体制が頂点を迎えていました
そして日本が遣唐使を派遣し、唐の文化や制度を導入しようとしたのは>>698で見た通りです
本格的な律令としては668年に近江令、681年に飛鳥浄御原令が施行され、飛鳥浄御原令で庚寅年籍と合わせ律令国家体制の萌芽が見られるようになります

694年には条坊を備えた日本最初の本格的な都城である藤原京に遷都し、天皇制と官僚制を軸とする中央集権的な律令国家体制の建設へと進んでいきました
そして701年9月9日、文武天皇、持統太上天皇、藤原不比等、刑部親王によって大宝律令が完成したのです
これによって律令が整えられ、二官八省からなる官僚制が確立、ここに中央集権的律令国家体制が成立することとなったのでした


本日は日本の律令国家体制の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中央公論新社、2004年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
・渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2009年

732名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/10(木) 00:24:50 ID:rjeARyo6
9月10日はサン=ジェルマン条約が結ばれた日です

>>163で成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国は支配の重点を東欧に置くようになりました
やがてロシアがパン=スラヴ、主義を掲げバルカン半島へと進出してくると、オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にその影響が及ぶのを恐れ、パン=ゲルマン主義を掲げてロシアと対立、これに大セルビア主義が絡み第一次世界大戦へと至ったのは>>191で見た通りです

この第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリーは>>340で見たようにヴィットリオ・ヴェネトの戦いに敗れ、最終的に敗戦することとなりました
ドイツが>>659のヴェルサイユ条約を結んだ後、オーストリアもまた1919年9月10日のサン=ジェルマン条約を結びます
その内容は領内からチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、ポーランドの独立を確定し、南チロルをイタリアへ割譲、軍備の制限、ドイツとの合併の禁止などで、この条約によってオーストリアは大戦前と比べて面積・人口が1/4に減少することとなるのでした


本日はオーストリア=ハンガリー二重帝国の最終的な命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

733名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/11(金) 01:16:25 ID:pe9FpyOo
9月11日はゼンタの戦いが行われた日です

1683年、>>280で見た第二次ウィーン包囲の失敗はオスマン帝国に大きな打撃をもたらし、イスラームとヨーロッパとの力関係が逆転するきっかけとなりました
オーストリアはポーランド、ヴェネツィア共和国とともに神聖同盟を結成、後にロシアも加わりオスマン帝国との断続的な戦争へと突入します

まず総司令官ロレーヌ公シャルルはオルフェルドで戦い、ペストをはじめハンガリー北部を占領しました
1688年にはブダを奪い、さらに>>264で見たようにかつて惨敗を喫したモハーチの地でオスマン帝国軍に大勝します
これによってオーストリアはクロアチアとトランシルヴァニアからオスマン帝国を駆逐し、ベオグラードも奪う勢いを見せました
ヴェネツィア共和国もまた海からバルカン半島に攻勢をかけ、ペロポネソス半島からオスマン帝国軍を追い払うことに成功します
>>297で見たパルテノン神殿崩落はこの時に起こりました

オスマン帝国も大宰相ムスタファ=キョプリュリュのもと反撃を行い、1690年にはベオグラードを奪回、ドナウ川沿いの戦線を立て直します
神聖同盟はその提唱者であるローマ教皇インノケンティウス11世が死去したことでまとまりを失い、オスマン帝国の反撃に有効な対策ができませんでした
1695年、オスマン帝国ではムスタファ2世がスルタンとなり、本格的な反撃を開始します
彼はベオグラードからハンガリーに向けて軍を進めましたが、1697年9月11日、ゼンタの町の側でティサ川を渡っている最中、オーストリアの指揮官プリンツ=オイゲン率いるオーストリア軍の急襲に遭い、約3万人が溺死するという壊滅的敗北を喫するのです
この戦いは対オスマン帝国戦争におけるオーストリアの決定的勝利となり、プリンツ=オイゲンの名声はヨーロッパ中に広まりました
この戦いの後和平交渉が進み、>>451のカルロヴィッツ条約の締結に至るのでした


本日は名将プリンツ=オイゲンの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

734名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/12(土) 00:59:43 ID:piRSlqmE
9月12日はマラトンの戦いが行われた日です

前550年に成立したアケメネス朝ペルシアは次第に西方へと勢力を拡大し、小アジアのリディアを滅ぼして小アジア西岸のギリシア植民市、イオニア諸市を支配するようになりました

735名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/12(土) 01:07:27 ID:piRSlqmE
ア ケ メ ネ ス 朝 が フ ェ ニ キ ア 人 を 優 遇 し た こ と で イ オ ニ ア 諸 市 の 不 満 は 高 ま り 、 ま た ア ケ メ ネ ス 朝 が 僭 主 制 に し よ う と 圧 力 を か け た こ と も あ っ て 前 4 9 9 年 、 ミ レ ト ス を 中 心 に 反 乱 を 起 こ し ま す

736名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/12(土) 01:07:49 ID:piRSlqmE

この反乱はすぐに鎮圧されましたが、アケメネス朝の専制支配に対しポリスの民主政を守るため、アテネが反乱諸市に援軍を送り込んでいたことがアケメネス朝のギリシア侵攻のきっかけとなります
前492年、アケメネス朝のダレイオス1世はギリシアに侵入し、ここにペルシア戦争が勃発しました
最初の遠征は艦隊が嵐に遭ったことで失敗しますが、前490年に2回目の遠征が行われます

アケメネス朝軍はトラキア、マケドニアを征服し、アッティカ地方のマラトンに上陸、これを迎え撃つのはアテネとプラタイアのみで、スパルタは宗教祭典のため参加できませんでした
そして前490年9月12日、アケメネス朝軍とアテネ・プラタイア連合軍は激突し、連合軍の重装歩兵部隊はミルティアデスの指揮のもとアケメネス朝軍を破ったのです
この時伝令の兵士がアテネまでの約40kmを走り、勝利を告げたという逸話があります


本日はペルシア戦争におけるギリシア勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

737名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/13(日) 00:31:34 ID:ZbcZa2S6
9月13日は新羅が朝鮮半島を統一した日です(旧暦)

中国が五胡十六国の分裂状態となっていた頃、朝鮮半島でも国家形成が進んでいきました
北部では中国東北部に興った高句麗、魏によって公孫氏が滅ぼされるた後に朝鮮半島に進出し、楽浪郡を滅ぼすなど強勢を見せます
南部では馬韓・辰韓・弁韓に分かれた小国家群でそれぞれ百済・新羅・加羅諸国となり、加羅諸国はやがて百済と新羅によって支配され、これに高句麗を加えた三国が7世紀まで抗争を続ける三国時代となりました

このような状況の朝鮮半島に対し日本は進出を図り、また中国からも隋・唐が高句麗に遠征軍を送りますが、高句麗の抵抗は強く事態は進展しませんでした
そこで唐は新羅と結んで平定を図り、660年に百済、668年には高句麗を滅ぼすことに成功します
日本もまた百済復興を援助するため軍を派遣しますが663年の白村江の戦いに敗れ朝鮮半島から撤退することとなりました

こうして唐と新羅によって支配されることとなった朝鮮半島ですが、676年9月13日、新羅は唐の勢力を駆逐し朝鮮半島の統一に成功します
新羅は都を金城に置き、特権的身分制度である骨品制によって貴族支配を確立、仏国寺を建立するなど仏教を奨励し最盛期を迎えることとなるのでした


本日は統一新羅時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

738名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/14(月) 00:10:50 ID:uDFuOFNY
9月14日は薩摩藩士がイギリス人を殺傷した日です

江戸末期、>>153で見たようにアメリカのペリーが黒船で来航し、開国を要求しました
1854年には日米和親条約が結ばれ、次いでロシア・イギリス・オランダとも同様の条約を結びましたが、これらが不平等条約であったため、諸外国の排斥運動、いわゆる攘夷運動が起こるようになります
江戸幕府は安政の改革で国防の充実に努め、諸藩でも軍事力の強化が図られました

しかし1858年、大老の井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま不平等条約である日米修好通商条約を結び、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました
これは大きな反発が巻き起こしましたが、直弼は反対派を次々と弾圧する安政の大獄に踏み切ります
1860年、直弼は江戸城桜田門外にて攘夷派の水戸脱藩浪士に暗殺され、攘夷派の運動は活発化していきます

攘夷運動が盛んとなる中で外国人襲撃事件も起こり、1860年にハリスの通訳だったヒュースケンが江戸の三田で薩摩脱藩浪士によって殺害され、翌61年には高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩浪士に襲撃されました
そして1862年9月14日、神奈川宿近郊の生麦村にて、薩摩藩主島津久光の大名行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する事件が起こったのです
この報復としてイギリス艦隊が薩摩を砲撃する薩英戦争が勃発しますが両者とも被害が大きく、この戦争の講和交渉を機に薩摩とイギリスは関係を深め、やがてフランスと組む幕府討伐へと向かっていくのでした


本日は生麦事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』中央公論新社、2006年
・井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末改革』講談社、2009年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年

739名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/15(火) 01:53:20 ID:E70qRotA
9月15日はマンチェスター・リヴァプール鉄道が開業した日です

イギリスでは17世紀にニューコメンが炭坑用に開発していた蒸気機関をワットが18世紀に改良し、安定した動力が得られるようになりました
この蒸気機関は様々な機械に応用され、19世紀になるとトレヴィシックが蒸気機関を動力とする機関車、蒸気機関車を開発し、これをスティーヴンソンが改良します

まず1825年、スティーヴンソンが開発した蒸気機関車ロコモーション号がストックトン・ダーリントン間での貨車・客車牽引に成功します
そして1830年9月15日、スティーヴンソン・ロバート父子によって開発された蒸気機関車ロケット号がマンチェスター・リヴァプール間で営業を開始し、これによって交通環境の飛躍的発展が促され、交通革命に貢献することとなったのでした


本日は鉄道の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・川北稔『イギリス近代史講義』講談社、2010年

740名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/16(水) 13:03:16 ID:8geExgN.
9月16日はドロレスの演説が行われた日です

>>681>>690で見たように、ラテンアメリカでは18世紀末から独立運動が盛んとなっていました
メキシコではスペイン植民地、ヌエバ=エスパーニャが統治を行っていましたが、イベリア半島出身の白人であるペニンスラールが行政府高官や高位聖職者の地位を独占したため、植民地産まれの白人であるクリオーリョとの対立が深まっていました

イダルゴもクリオーリョの一人で、ドロレスで神父を務めていた彼もまた、ヌエバ=エスパーニャからの独立運動を計画することとなります
ちょうどその頃、スペイン本国ではナポレオン支配に対する独立戦争が起こり、これに乗じてメキシコでも独立の気運が高まるようになりました
そして1810年9月16日、イダルゴはドロレスにおいて演説を行い、ヌエバ=エスパーニャやペニンスラールに対する抵抗を訴えかけたのです
この演説はドロレスの叫びと呼ばれ人々を熱狂させ、各地で独立運動が始まりました
イダルゴはやがて捕らえられ処刑されるものの独立運動は続き、1821年に独立を達成することとなるのでした


本日はメキシコ独立革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・増田義郎・山田睦男『世界各国史25 ラテン・アメリカ史1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社、1999年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年

741名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/17(木) 00:49:47 ID:IaSaP1N.
9月17日はミュリオケファロンの戦いが行われた日です

>>557で見たように、ビザンツ帝国中興の祖アレクシオス1世、ヨハネス2世の後を継いで即位したマヌエル1世は、ユスティニアヌス1世以来の征服称号を名乗った皇帝でした
その征服事業もユスティニアヌスの再現、地中海帝国復活のための世界戦略を打ち出します
まずは1155年、イタリアへの遠征が開始されました

当時の南イタリア南はビザンツ帝国を駆逐したノルマン人、>>566などで見たロベール=ギスカールの甥であるルッジェーロ2世がシチリア王国を治めていましたがその死後に混乱が起こり、これに乗じてイタリア上陸作戦が行われたのです
しかしその後がうまくいきませんでした
>>639などで見た、ローマ皇帝権の確立を図る神聖ローマ皇帝、フリードリヒ1世バルバロッサが立ちはだかりました
フリードリヒは西欧諸勢力を結集して反ビザンツ同盟を結成し、シチリア王国はもちろん、ヴェネツィア共和国までも敵に回すこととなります
1156年、マヌエルは南イタリアのグリンディジで敗れ、イタリア方面作戦は失敗に終わりました

これ以後も神聖ローマ帝国に対抗し、イタリアへの干渉を続けますが、それによりヴェネツィア共和国との関係が決定的に悪化し、1171年にはヴェネツィアと断交、帝国内の全ヴェネツィア人を逮捕・財産没収という事態に発展します
ジェノヴァ・ピサとは条約を結んだもののイタリア方面での成果は芳しくなく、今度は小アジア方面への遠征に至ります

当時小アジアを支配していたのは>>261で見た、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国に破滅的な敗北をもたらしたセルジューク朝の後継国家、ルーム=セルジューク朝でした
マヌエルは自ら軍を率い、ルーム=セルジューク朝を討伐し小アジア奪回に向かったのです
そして1176年9月17日、ビザンツ帝国軍はミュリオケファロンにて再び惨敗し、マヌエルは辛うじて戦線離脱しコンスタンティノープルに撤退する有様でした
これによってマヌエルの世界戦略の破綻が決定的となり、ビザンツ帝国の威信は大きく失墜することとなります
この戦い以降マヌエルはふさぎ込みがちとなり、度重なる外征で国力を大きく消耗したビザンツ帝国は衰退に向かうことになるのでした


本日はマヌエルの世界戦略の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

742名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/18(金) 01:17:04 ID:GHkyEmhg
9月18日はフィリップ2世が即位した日です

フィリップ2世の治世は>>675などで見てきました
ここではフィリップ即位までを見ていくことにしましょう

フィリップは1165年、フランス王ルイ7世の嫡男として産まれました
このルイ7世の治世はフランス王権にとって大きな脅威が出現した時代でした
>>604で見たように、ルイの王妃であったアリエノール=ダキテーヌと離婚し、さらにアリエノールがアンジュー伯アンリと結婚、このアンリがイングランド王ヘンリ2世として即位したことで、広大なアンジュー帝国が成立したのです

もちろんルイもただ手をこまねいていたわけではありませんでした
カスティーリャ王女コンスタンスを王妃に迎え、さらに同じくアンジュー帝国に脅威を覚えるシャンパーニュ伯、ブロワ伯、フランドル伯を引き込み、反アンジュー帝国同盟を作り上げます
もっとも、この王妃コンスタンスとの間には嫡男は産まれず、フィリップ2世は3人目の王妃であるシャンパーニュ伯女アデルとの間に産まれました
ルイは待望の嫡男フィリップに王国を託すため、諸問題の解決に務めることとなります

イングランド王ヘンリ2世に対しては和睦を図り、時にはその要求に譲歩して平和を維持しようとしました
一方で自身の娘をヘンリ2世の長男である若ヘンリと結婚させ、アンジュー帝国の相続争いの際に若ヘンリを支持し、イングランドに内紛を起こさせます
ヘンリ2世はこの内紛をいったんは収め、ルイ7世とは1177年に和睦を結びました
そのうちにフィリップ2世は順調に成長し、1179年には父との共同王となります
そして1180年9月18日、ルイ7世の死去によってフィリップは単独王となり、その輝かしい治世が始まることとなるのでした


本日はフィリップ尊厳王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年

743名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/19(土) 00:01:35 ID:JPE88gx6
9月19日は後醍醐天皇が崩御した日です

>>661で見たように、後醍醐天皇が倒幕運動を呼びかけ、新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡します
幕府を倒した後、後醍醐天皇は醍醐・村上天皇の治世を模範とした新しい政治、建武の新政を開始します
その内容は天皇指揮下での八省や国司制度の復活など天皇中心の政治への回帰で、天皇の権限強化が進むこととなります

しかし性急な改革は各方面からの反発を招き、また新政府に参画した層が多岐に渡っていたためその方向性がまちまちで、さらに幕府の存在を否定したことは武士にとっては容認できないものだったのです
建武の新政への不満は地方武士の反乱として表面化し、特に鎌倉で起こった中先代の乱は大規模でした
しかも独断でその討伐に向かった足利尊氏が鎌倉に居座り、後醍醐天皇に反旗を翻しました

後醍醐天皇は尊氏討伐に新田義貞を派遣しますが尊氏はこれを破り京に侵入します
一時は北畠顕家に敗れ九州に逃れたものの勢力を挽回し、1336年、後醍醐天皇は尊氏によって廃位され新たに光明天皇が擁立されました
後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに朝廷を開き正統な天皇であることを主張します
しかし南朝に味方した北畠顕家や新田義貞が戦死したことで南朝の勢力は衰え、1339年9月19日、後醍醐天皇は失意のうちに死去することとなったのでした


本日は後醍醐天皇の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年
・新田一郎『日本の歴史11 太平記の時代』講談社、2009年

744名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/20(日) 00:08:32 ID:pn7AGqQ2
9月20日はライスワイク条約が結ばれた日です

>>106で即位したフランス王ルイ14世は財政改革や重商主義政策によって得た経済力を基盤に軍制の再編、軍律の強化、兵舎の増設、兵数の増強を行い、当時ヨーロッパ最強ともされる軍隊を作り上げました
そしてルイはこの軍事力を背景に、フランスの安全を固めるため戦略拠点の確保を図り、各方面への戦争を開始します

まず>>495で見たように、1667〜68年にスペイン領南ネーデルラントに侵攻した南ネーデルラント継承戦争を起こしますが、これはオランダの抵抗に遭って失敗し、次いでルイはイングランドと同盟し1672〜78年にオランダ侵略戦争を起こしますが、こちらはイングランドとオランダが講和を結び、フランスへの対応に専念できたオラニエ公ウィレムによって撃退されました

この2つの戦争はネーデルラントに対するものでしたが、その中でドイツもまたルイの標的となります
オランダ侵略戦争中の1679年にフランスとドイツの国境付近のフランシュ=コンテやアルザス・ロレーヌに侵攻し、1681年にはストラスブールを占領しました
そしてこのドイツへの侵攻は、ファルツが対象となったことでさらに本格化していくこととなります

1688年、ルイはファルツ選帝侯の継承権を主張し侵攻、ファルツの首都ハイデルベルクが破壊されました
当時、ルイの勢力拡大を危惧して1686年に神聖ローマ皇帝やドイツ諸侯、オランダ、スペイン、スウェーデンがアウクスブルク同盟を結成していましたが、ルイのファルツ侵攻に際し同盟諸国が結集して対抗します
>>487の名誉革命後はイングランドも同盟に加わり、ドイツだけでなくヨーロッパ全体を巻き込んだ大戦争へと発展したのです
さしもの軍事大国フランスも優位を保ったものの決定打をうてず、1697年9月20日、オランダのライスワイクにて講和条約が結ばれることとなりました
この条約によってフランスはファルツに対する権利を放棄し、オランダ侵略戦争以後に得た領土をほぼ変換することとなったのでした


本日はアウクスブルク同盟戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

745名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/21(月) 01:36:48 ID:DKF6SXGs
9月21日は戊戌の政変が起こった日です

中国ではアロー戦争終結後、従来の排外主義を転換し、西欧の進んだ技術を取り入れ近代産業の育成や富国強兵を図る洋務運動を始めました
その中心となったのが李鴻章・曾国藩・左宗棠ら漢人完了で、洋務運動が進んだこの期間は同治中興と称されます
しかし洋務運動は中体西用といわれるように、あくまで中国の伝統的な政体を根幹とし、西洋文化のうち利用されたのは主に軍事関係の技術であって、議会政治や立憲君主制は議論されませんでした

この洋務運動の限界が露呈し挫折に至ったきっかけが日清戦争での敗北で、敗戦後中国では近代化のために伝統的専制体制を変革し、議会政治や立憲君主制の導入が主張されるようになります
これが変法運動で、公羊学者の康有為や梁啓超らが中心となって進められたこの運動は時の皇帝光緒帝に受け入れられ、1898年6月、戊戌の変法として国家政策となり、新官庁の創設や近代学校制度と整備が発令されます

しかし戊戌の変法はあくまで知識人階層の運動に留まり、民衆の広範な支持を得ることができませんでした
また運動を主導した康有為らも民衆運動を蔑視・警戒するエリート知識人の意識を抜け出すことができずにいました
やがて宮廷では西太后を中心とする保守派が挽回し、1898年9月21日、クーデターを起こして光緒帝を幽閉、変法派を弾圧し康有為・梁啓超は日本へと亡命します
こうして変法運動はわずか3ヶ月で挫折し、以後中国は西太后指導の下保守的な政策が復活することとなるのでした


本日は変法運動の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年

746名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/22(火) 00:59:06 ID:kt1ijM5A
9月22日はセリム1世が死去した日です

>>587でオスマン帝国スルタン、メフメト2世が没した後にスルタンとなったバヤジット2世は優柔不断で軍事的才能にも乏しく、オスマン帝国を脅かした内外の危機に対抗することができませんでした
その危機とはサファヴィー朝の台頭が最大の要因でした
トルコ人騎兵キジルバシュの強大な軍事力に支えられたサファヴィー朝はシーア派を掲げており、これはスンナ派としてイスラームの正統を自認していたオスマン帝国にとって大きな衝撃だったのです
またサファヴィー朝はオスマン帝国支配下の小アジアの諸部族にシーア派を勧め、一定の成果を挙げたこともオスマン帝国の危機感につながりました

このような状況で1512年、兄であるバヤジット2世を廃して即位し、他の兄やその息子たちを抹殺して地位を確立したのがセリム1世でした
セリムはまず国内のシーア派に対し空前絶後の大粛清を行って基盤を固め、問題の大本であるサファヴィー朝の討伐に向かいます
こうして起こったのが>>258のチャルディラーンの戦いで、これに勝利したオスマン帝国は小アジアでの支配を確立しました

セリムは次いでマムルーク朝を標的に定めます
マムルーク朝はイスラームの聖都であるメッカとメディナを有し、またアッバース朝滅亡後にカリフの末裔を迎えたことでイスラーム世界の中心の1つとなっていました
同じくイスラーム世界の中心的存在として台頭するオスマン帝国にとっては打倒すべき存在だったのです
セリムはシリア方面からマムルーク朝に侵攻し、アレッポやダマスクスなど重要都市を制圧した後エジプトへと侵入、1517年にカイロを占領しマムルーク朝を滅ぼしました

マムルーク朝征服によってオスマン帝国はシリア・エジプトを通る交易ルートを確保し、紅海の交易ルートも合わせユーラシア・アフリカをつなぐ交易ルートをほぼ掌握しました
またメッカ・メディナもオスマン帝国に臣従し、セリムはメッカとメディナの二聖都の守護者の称号も獲得し、名実ともにイスラーム世界の中心に君臨することとなったのです
そして1520年9月22日、わずか8年の治世に幕を下ろしました
しかしこの8年でセリムはシーア派をはじめ反対派を次々と粛清、時には大宰相をも処刑するなど、その冷酷性を発揮します
またオスマン帝国歴代スルタンの中でも屈指の軍事的天才でもあった彼はその才能を遺憾なく発揮し、オスマン帝国の地位を確立させることとなったのでした


本日は「冷酷者」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年

747名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/23(水) 00:54:18 ID:XHK/76PY
9月23日はサウジアラビア王国が成立した日です

17〜18世紀、>>280などで見たようにオスマン帝国はヨーロッパに対し劣勢となり、その衰退は決定的でした
イスラーム世界では君主が影響力を失い、スーフィーやウラマーによる改革運動が進みます
スーフィー教団はネオ・スーフィー教団として急進化し、ウラマーもまたイスラーム復興運動の担い手となりました

その指導者の一人ムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブはサウード家の支援を受けアラビア半島で勢力を拡大、ワッハーブ王国が成立します
彼は厳格なイスラーム原理主義を掲げ、聖者崇拝、霊廟や木、石の崇拝も批判し、ムハンマドやフサインの廟をも破壊しアラビア半島を掌握、メッカやメディナを占領、ダマスクスも脅かすほどとなりました
これに対しオスマン帝国はムハンマド=アリーに討伐を命じ、1818年、ワッハーブ王国は一時滅亡します
しかしすぐさま1823年には復興し、19世紀を通じてエジプトやオスマン帝国との抗争を繰り広げました

しかしワッハーブ王国内ではサウード家の内紛が頻発し、1889年には再び滅亡することとなります
この時もワッハーブ派は粘り強く運動を続け、1902年、イブン=サウードによってかつとの首都リヤドが奪還され三度ワッハーブ派は復興します
そしてヒジャーズ=ネジド王国の建国、イギリスとのジェッダ条約による独立承認を経て、1932年9月23日、サウジアラビア王国と改称し、今日に至る国家が築かれることとなったのでした


本日はサウジアラビアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・坂本勉・鈴木董『新書イスラームの歴史 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年
・佐藤次高『世界各国史8 西アジア史1 アラブ』山川出版社、2002年
・山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論新社、2008年

748名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/24(木) 01:25:27 ID:9dzLYkgM
9月24日はルートヴィヒ4世が死去した日です

>>703のヴェルダン条約、>>701のメルセン条約を経てフランク王国は分割され、東フランク王国はルートヴィヒ2世ドイツ人王が統治することとなりました
カール3世肥満王の代では西ローマ皇帝・イタリア王・西フランク王も兼ね、帝国の守護者としての役割が期待されましたが、彼はノルマン人、マジャール人、イスラームのいずれにも対処できず、東フランク貴族によって廃位されます

新たに東フランク王に選出されたのがルートヴィヒドイツ人王の息子カールマンの庶子にあたるケルンテン公アルヌルフで、そのアルヌルフの死後王位を引き継いだのがルートヴィヒ4世幼童王でした
しかしこのルートヴィヒはその呼び名のごとく若くして死去します
911年9月24日、東フランク王ルートヴィヒ4世の死によって東フランク王国ではカロリング家の血筋が断絶しました

東フランク貴族は血統へのこだわりを放棄し、国内の有力貴族から国王を選出します
こうして東フランク王となったのがフランケン公コンラートでした
このカロリング家の断絶、そしてコンラートの国王選出は東フランクにおいて重要な転換点となりました
カロリング家の慣習であった分割相続が廃止され、王国不可分の原則が新たに登場したのです
これ以後、王国の領域は王朝という枠を越えて存続することとなり、>>242でも見たように東フランク王国からドイツ王国へと移行していくこととなったのでした


本日は東フランク王国カロリング朝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

749名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/25(金) 00:02:27 ID:zML.o0wM
9月25日はアウクスブルクで帝国議会が開かれた日です

>>334で始まったルターによる宗教改革は1521年、>>412のヴォルムス帝国議会で否定され、ルターの教義に従うことやそと著作の印刷・出版が禁止されるなどしました
しかし破門されたルターはザクセンのフリードリヒ賢公に匿われて活動を続け、またドイツ各地でも改革運動が広がっていきます
その1つが>>601で見た、ミュンツァーらによるドイツ農民戦争でしたが、これに関してはルターも否定的で、その鎮圧後はルターから離れる農民が多かったものの、改革運動は反カトリック・反皇帝派の諸侯・都市を中心に進められました

農民戦争が完全に終息した1526年、シュパイアーで帝国議会が開かれ、神聖ローマ皇帝カール5世はヴォルムスの勅令を実行するよう命じましたが反論も多く、ここでは現状維持のまま閉会します
1529年に再びシュパイアーで帝国議会が開かれ、多数派がヴォルムスの勅令を再確認したことに対し抗議が巻き起こり、ここにプロテスタントという呼称が生まれることとなりました
ところでこの1529年は、>>298で見たように神聖ローマ帝国に対抗するフランスのフランソワ1世とオスマン帝国のスレイマン1世が結び、第一次ウィーン包囲を行った年でもありました
カール5世はこの脅威に対抗するため帝国諸侯の協力が必要となり、妥協に応じることになります

1530年、アウクスブルクで帝国議会が開かれ、メランヒトンによるアウクスブルクの信仰告白やツヴィンクリの信仰箇条が示されますがカトリックの反発も大きく、この議会でもヴォルムスの勅令を確認するにとどまりました
これに対し帝国諸侯は中部ドイツにてシュマルカルデン同盟を結成しカールに対抗します
カールは先のオスマン帝国の脅威やフランスとのイタリア戦争が継続中であったため妥協を余儀なくされ、1532年にニュルンベルクで平和条約を締結しました

1544年、クレピーの和約でフランスとの講和が成立するとカールはドイツ国内に集中できるようになり、シュマルカルデン同盟の中心人物であったザクセン公モーリッツを引き入れたこともあって同盟軍を破り、シュマルカルデン戦争に勝利します
この勝利によってカールは1548年、プロテスタントに様々な制約を課すアウクスブルク仮信条協定を定め、プロテスタント諸侯にこれを強制しました
ところがこれに対し北ドイツにて反乱が勃発し、モーリッツも再びプロテスタント側に合流してカールと戦うこととなりました
カールはプロテスタント諸侯軍に敗れ、またイタリア戦争においてもフランスに敗れたため、ついに退位するに至ります

カールが引退したことでカトリック・プロテスタント両派に和解への動きが生まれ、1555年に再びアウクスブルクにて帝国議会が開かれました
そして同年9月25日、アウクスブルクの宗教和議が成立し、ルター派の公認や帝国諸侯の信仰の自由が認められたのです
もっとも個人の信仰の自由やカルヴァン派が認められなかったように、この宗教和議はあくまで妥協であり、その後>>614で見た新教同盟ウニオンと旧教連盟リガの対立、そしてその対立から発展した三十年戦争を経た>>327のウェストファリア条約で1つの解決をみることとなるのでした


本日はアウクスブルクの宗教和議の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

750名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/26(土) 09:36:08 ID:DBKgSXzQ
9月26日は小谷城が落城した日です

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は尾張を平定、さらに美濃に侵攻して齋藤龍興を破り67年には美濃も平定します
ついで近江に進出しますが、この時に同盟を結んだのが江北の浅井長政でした
その際、同じ浅井氏の同盟相手である越前朝倉氏を攻めないというのが同盟条件だったとされていますが、1570年、信長は長政への相談なしに越前へと侵攻します
このため長政は信長から離反し朝倉とともに挟撃し信長は窮地に陥りますが、辛うじて逃亡に成功しました

京に帰還した信長は反撃の準備を整え、同年中に徳川家康とともに姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を破り、浅井氏の拠城である小谷城の包囲に取り掛かります
小谷城は標高約400mの小谷山に築かれた梯郭式の山城で、尾根伝いに曲輪が並びそれらが石垣や砦で守られる戦国屈指の巨大山城でした
しかしその広大な城域に比べて浅井氏の勢力は小さく、浅井氏のみで小谷城全体を守ることは困難でした
そこで小谷城では本丸の背後に大堀切を設けて城域を分断し、一城別郭の構えとすることで対応します
さらに本丸より高所に位置する曲輪群には朝倉氏、京極氏、寺社勢力などに守備を任せ、信長に対抗することとなります

1570年から始まった小谷城籠城戦を長政は3年間耐え抜きますが、73年には武田信玄が病没、足利義昭が京から追放され、信長は本格的に小谷城の攻略を進めました
この時すでに小谷城の支城群は信長によって攻略が進められ、特に最重要支城とされる山本山城が羽柴秀吉によって調略されたことは大きな痛手となります
もはや頼みとなるのは朝倉氏のみとなっていました
そこで信長はまず朝倉氏の攻略から始め、小谷城でも朝倉軍が守っていた部分に突如として攻めかかり、意表をつかれた朝倉軍は敗走します
信長はそのまま朝倉軍を追撃し、その本国の越前にまで乱入、朝倉氏当主朝倉義景は家臣の裏切りにもあって自害し、ここに朝倉氏は滅亡します
こうして孤立無援となった小谷城ですがそれでも頑強に抵抗を続けました
ここで活躍したのが羽柴秀吉で、尾根伝いに伸びる小谷城の側面から奇襲をかけて京極丸を制圧、浅井久政と長政の分断に成功します
数多くの曲輪群で構成され、それぞれが独立して戦える小谷城ですが、劣勢が明らかとなった状態では各個撃破が容易となってしまったのです
1573年9月25日、まず浅井久政が自害に追い込まれ、そして9月26日には浅井長政も自害、さしもの堅城小谷城もここに落城することとなったのでした


本日は浅井氏の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年

751名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/27(日) 00:14:41 ID:vHz0EJrw
9月27日は日本・ドイツ・イタリアが同盟を結んだ日です

日本・ドイツ・イタリアは>>721で見たように「持たざる国」としてヴェルサイユ・ワシントン体制の打破を図り、共産主義への対抗でも一致し協力体制を築きました
もっとも日本はドイツ・イタリアとの軍事同盟に関しては、同盟締結に積極的な陸軍と消極的な海軍・外務省との間で対立があり、これが平沼騏一郎内閣の総辞職に至ります

やがて>>723でドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発し、この時阿部信行内閣は大戦への不介入を表明し、続く海軍大将の米内光政内閣もまた軍事同盟締結には消極的で大戦への不介入を続け、イギリス・アメリカとの関係改善を模索します
しかし>>725で見たようにドイツがめざましい電撃戦を展開しイギリス・フランス軍を撃破、イタリアもドイツ側で参戦し、さらにフランスがドイツに降伏すると、日本でもドイツに与する空気が高まっていきました

これに乗じて陸軍を中心にイギリス・アメリカとの戦争を覚悟してでもドイツと軍事同盟を結び、南方に進出するべきという主張が沸き起こり、19407月、陸軍の圧力によって米内内閣が倒れます
新しく内閣を組織したのが近衛文麿で、近衛内閣は外務大臣に松岡洋右、陸軍大臣に搭乗日を起用、大戦への不介入の方針を転換しドイツ・イタリアとの連携強化、南方への積極的な進出を図るようになりました
そして1940年9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で日独伊三国同盟が結ばれ、日本はヨーロッパにおけるドイツ・イタリアの、ドイツ・イタリアは東・東南アジアにおける日本の指導的地位を互いに認め合い、政治的・軍事的相互援助を約束し共同でイギリスやアメリカに対抗することとなったのでした


本日は日独伊三国同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

752名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/28(月) 00:03:44 ID:fJk6UY5I
9月28日はハインリヒ6世が死去した日です

>>639の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの死後、その後を継いだハインリヒ6世は父帝の政策を継承しました
彼は>>454で見たようにシチリア王女コンスタンツェとの結婚によってシチリア王国の継承権を得ていましたが、ノルマン貴族がシチリア王グリエルモ2世の異母弟タンクレーディを国王に擁立し対抗します
タンクレーディはイングランド王リチャード1世獅子心王と同盟しますが、>>699で見た通りリチャードは第3回十字軍からの帰還中にオーストリア大公レオポルトに捕縛され、さらにハインリヒ6世に引き渡されたためタンクレーディは同盟者を失いました
ハインリヒはリチャードから多額の身代金を獲得しシチリア遠征の軍資金とし、タンクレーディが病死したこともあって1194年シチリアを征服、シチリア王となったのです

これによってフリードリヒの時代に強化された皇帝権はさらに強大なものとなりました
アペニン半島のほとんどが皇帝権の支配下に置かれ、スポレート公領にコンラート=フォン=ウルスリンゲンを、トスカーナ公領に弟のフィリップを、アンコーナ辺境伯領・ロマーニャ公領にマルクヴァルト=フォン=アンヴァイラーを置き、帝国とシチリア王国とを結合する街道を確保します

こうして従来の皇帝の支配地域であった三王国、すなわちドイツ・イタリア・ブルグントに加えシチリア王国も加わり、ハインリヒはさらに範囲を拡大しようとしました
ムワッヒド朝にはトリポリとチュニスに対する皇帝の上級高権を承認させ、アルメニア・シリア・キプロスの各国王は皇帝のレーエンとしてその領土を受領したのです
さらにビザンツ皇帝イサキオス2世の娘イレーネがハインリヒの弟フィリップと結婚したことでホーエンシュタウフェン家にビザンツ皇帝位の相続請求権まで転がり込みました
そしてイサキオスがアレクシオス3世によって皇帝位を簒奪されたことにハインリヒは反発し、コンスタンティノープル征服のための十字軍を計画することとなります
ハインリヒの政策は古代ローマ帝国領の復活を目指しており、いわゆる世界支配計画が着々と進められていたのです

内に目を転じると、帝国とシチリア王国との関係が課題となっていました
シチリア王国は国法上は独立したままでしたが、帝国との堅い結合が望まれていたのです
この目標を達成するため、待望の嫡男が1194年に産まれます
>>395で見た、後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です
フリードリヒはホーエンシュタウフェン家・シチリア王家双方の遺産相続者であり、ハインリヒはこの遺産を確保し帝国とシチリア王国との国法上の結合を実現しようとしました
そして皇帝権を教皇権から完全に分離させ、ホーエンシュタウフェン家による世襲帝国計画を企てたのです
この世襲帝国計画は教皇や帝国諸侯の強い反発に遭いなかなか進展しませんでしたが、1196年にはフリードリヒがドイツ王に選出され、ホーエンシュタウフェン家の権力基盤は着々と固められていきます
しかし1197年9月28日、ハインリヒは十字軍計画の準備中に急死、その若すぎる死が皇帝権にとって重大な破局をもたらすこととなったのでした


本日は世界支配計画・世襲帝国計画の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

753名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/29(火) 11:18:35 ID:Qo20xywk
9月29日はポンペイウスが産まれた日です

マリウスが軍制改革を進めていた前106年9月29日に産まれたポンペイウスは、若くしてスッラのもとで軍事的才能を発揮し、マリウスとの戦いで軍功を重ねていきました
アフリカ・シチリアでマリウス派を破り、ヒスパニアでのセルトリウスの反乱も鎮圧し、スパルタクスの起こした剣奴の大反乱をも鎮圧して民衆の人気を獲得し、前70年にはクラッススとともにコンスルに当選します

前68年にローマで穀物不況が起こると、イタリアへの穀物供給を妨げるエーゲ海の海賊を討伐するためポンペイウスには地中海沿岸における属州総督の権限を3年間行使できる権限を与えられ、ポンペイウスはこれに応えすぐさま海賊討伐に成功しました
また苦戦に陥っていたミトリダテス戦争の指揮権もまたポンペイウスに与えられ、ポンペイウスはただちにミトリダテスを破り、ヘレニズム諸国を制圧、シリア・ビテュニア・ポントゥスが新しい属州となります

こうしてポンペイウスの人気が日に日に高まるなかで、クラッススもまた名声を求め、多くの政治家に融資し裁判での弁護活動で影響力を持ち、また積極的な外征を進めようとしました
カエサルもまた頭角を現し、ポンペイウスに対する軍事権付与への支持やアッピア街道への私財投入などで民衆の人気を得、民衆派のリーダーとして活躍します
この中で特に名声の高いポンペイウスと、彼をライバル視するクラッススは不仲で、カエサルが両者を仲介する形で前60年に成立したのが第1回三頭政治でした

三頭政治は前53年にクラッススが対パルティア戦争で戦死して瓦解、そしてカエサルがガリア遠征で大いに威信を高めることになると、ポンペイウスは自分の地位を脅かすものとしてカエサルを敵視するようになり、元老院と協力してカエサルを事実上の国敵としたのです
これに対しカエサルが武装解除せずにルビコン川を渡り、ローマへと進軍したのは>>423で見た通りです
ポンペイウスはギリシアに移り、持久戦によってカエサル軍を苦しめましたが、>>244のファルサロスの戦いで敗北、エジプトに逃れますが、プトレマイオス朝のファラオであるプトレマイオス13世によって暗殺されました
奇しくも誕生日と同じ9月29日、カエサルの宿敵は歴史の舞台から去ったのでした


本日はポンペイウスの誕生日にして命日です


参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

754名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/09/30(水) 23:54:05 ID:em5pI4DA
9月30日はヘンリ4世が即位した日です

>>552のヘンリ=ボリンクブロクは1399年9月30日ヘンリ4世として即位し、ランカスター朝が始まりました
当時はフランスとの百年戦争の最中で、ランカスター朝第2代のヘンリ5世はアザンクールの戦いでフランス軍に大勝するなど戦局を優位に進めます
しかし第3代ヘンリ6世はフランスに敗れて撤退し、さらに薔薇戦争が起こることとなるのでした

本日はランカスター朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年

755名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/01(木) 15:20:25 ID:zW52qkbY
10月1日は厳島の戦いが行われた日です(旧暦)

大内氏の家臣であった毛利元就と陶晴賢は郡山合戦で協力して尼子軍を撃退しましたが、その主君大内義隆が月山富田城攻めに失敗し自堕落な日々を送るようになると、晴賢は元就賛同のもと義隆を討ち取りました
これは大内家臣の大多数に支持されましたが反発したものもあり、江田氏が大内氏を離反し尼子氏に属します
1553年、元就は晴賢の要請を受け江田氏の旗返山城を制圧、三次盆地を支配するようになりました

しかし晴賢は元就の勢力が拡大するのを危険視し、江良房栄を旗返山城主とし、元就の三次盆地への進出を阻みます
同年、晴賢は自身に背いた石見の吉見氏討伐を決め元就にも出陣を要請、元就はこれを受け入れようとしますが長男の隆元は主戦論を主張し、元就はとの決戦を決意するに至ったのです

元就はまず調略を始め、江良房栄に対し密使を送りましたが房栄が広大な領地を望んだため断念します
元就はここで房栄の叛意を晴賢が知るよう工作し、晴賢は弘中隆包に命じて房栄を殺害してしまいました
この混乱に乗じ元就は旗返山城を再び占拠し勢力を広げることに成功します
1554年、晴賢は元就討伐のため3,000の兵を派遣しますが、これは元就によって撃退されました
戦力の小出しを反省した晴賢は一挙に毛利領へ侵攻することを決定、厳島を攻略して海上から侵入しようとしました

1555年9月21日、晴賢は大軍を率いて厳島に上陸し、元就も27日に出陣し厳島の対岸に布陣します
元就は厳島に上陸するため村上水軍に協力を要請し、小早川隆景率いる毛利水軍と合流、30日深夜に厳島東岸の包ヶ浦に上陸した後に山道を上り、尾根筋の博奕尾に布陣しました
そして1555年10月1日、元就は日の出前に博奕尾から一気に駆け下り、晴賢の本陣を目がけて奇襲をかけます
これに呼応して隆景は厳島正面から上陸して陶軍を挟み撃ちにし、村上水軍も陶水軍を撃破し晴賢の退路を断ちました
大混乱に陥った陶軍は総崩れとなり、晴賢は戦線離脱を試みるも陶水軍が壊滅していにことでそれも断念、自害を遂げたのです
この勝利によって元就の勢威は大いに高まり安芸を平定、さらに周防・長門に進出し中国地方の覇者へと踏み出していったのでした


本日は陶晴賢の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年

756名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/02(金) 12:35:14 ID:BfYA6JjI
10月2日は上杉氏憲が反乱を起こした日です(旧暦)

室町幕府を開いた足利尊氏は鎌倉幕府の中心であった関東を特に重視し、嫡男義詮の弟基氏を鎌倉公方とし鎌倉府を開かせました
鎌倉公方は関東8ヶ国に加え伊豆・甲斐の計10ヶ国を支配し、基氏の子孫が世襲するようになります
鎌倉公方の補佐として関東管領も設けられ、こちらには代々上杉氏が世襲しました

鎌倉公方は当初は室町将軍に従属しましたが、諸権限が移管されて幕府から半ば独立する形で関東支配を行うようになると将軍との対立が表面化していきました
関東管領もまた守護・地頭を管理し、関東武士を実質的に支配したことで鎌倉府以上の権力を持つようになり、鎌倉公方は将軍だけでなく関東管領との対立も起こすようになります

1409年、足利持氏がわずか11歳で鎌倉公方となると、関東管領の上杉氏憲がこれを補佐しました
しかし持氏は次第に氏憲を疎んじるようになり、氏憲もまた若年の持氏にかわって鎌倉府の実権を握ろうとします
この2人の対立は1415年に表面化し、氏憲が関東管領を辞任する事態となりました
そして翌1416年10月2日、氏憲は持氏の叔父である足利満隆や関東の諸将とともに持氏に対し反乱を起こします
持氏は一時鎌倉を追放され、氏憲が関東を掌握することとなりますが、翌年になって将軍が派遣した駿河の今川範政や越後の上杉房方によって鎮圧され、氏憲は討たれました
この反乱後も鎌倉公方と関東管領の対立は続き、永享の乱や結城合戦に引き継がれるのでした


本日は上杉禅秀の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年
・小国浩寿『動乱の東国史5 鎌倉府と室町幕府』吉川弘文館、2013年

757名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/03(土) 18:49:52 ID:TQ6Uy2kY
10月3日はアレシアの戦いが終結した日です

ポンペイウスとクラッススを仲介し第1回三頭政治を成立させたカエサルは、イリュリクムとガリアに対する特別命令権と4個軍団を獲得し、前58年、執政官級属州総督としてガリアに着任しました
当時のガリアは多くの部族に分裂しており、アッロブロゲス人の反乱からの復興途上にありました
そこへ現在のスイスからヘルウェティイ人が西進し、カエサルはこれを激戦の末撃退します
さらにガリア人部族の要請でガリア中部のスエビ人を討伐しローマの勢力を拡大、前57には現在のベルギーでベルガエ人諸部族を撃破しました

前56年、カエサルはポンペイウス、クラッススと協力関係を再確認・更新し、5年間の命令権の延長が認められます
やがてウェネティ人が反乱を起こすもカエサルはこれを海戦で撃破、その他諸部族の反乱も鎮圧し、つかの間の平和が訪れました
翌前55年にはライン川を渡りガリアに侵入したウシペテス人とテンクテリ人を撃退し、ウェネティ人の反乱を支援していたブリタニア諸部族の討伐を試みますが、これは不調に終わりました

前54年になるとベルギカでローマ軍が敗れ、これをきっかけに各地で反乱が起こるようになります
カエサルはガリアを転戦し鎮圧していきましたが、反乱の首謀者のセノネス人貴族アッコが処刑されると、ローマによるガリア支配への反発が一気に高まることとなりました
前52年、カエサル不在のなかケナブムでのローマ人虐殺を皮切りに再び反乱が勃発、この指導者となったのがアルウェルニ人のウェルキンゲトリクスでした

ウェルキンゲトリクスはローマに反発する諸部族をまとめて反乱を指揮し、カエサルは急遽ガリアに戻り反攻を開始しました
これに対しウェルキンゲトリクスはゲリラ戦と焦土戦術で対抗し、ローマ軍を悩ませます
しかし天然の要害であったアウァリクムは焦土戦術からは外され、カエサルはここに立て籠もるウェルキンゲトリクスを包囲しました
湿地と川で三方を囲まれたアウァリクムに対し、カエサルはローマの土木技術を活かして接城堤を築き攻城櫓を設置、約一ヶ月の包囲戦の末アウァリクムは陥落、町は破壊され住民は虐殺されました
逃れたウェルキンゲトリクスは今度は丘陵の町アレシアに立て籠もり、カエサルは再び包囲戦を開始します
カエサルはここでアウァリクム包囲戦以上の大工事を行い、高く長大な塁壁に三重の堀を設け、内側だけでなく外側対しても防御施設を建設、鉄壁の包囲陣が築きました
ガリア人は高い丘のため包囲陣が築かれなかった北西方面に援軍を送るものの突破できず、ウェルキンゲトリクスの脱出も失敗に終わりました
そして前52年10月3日、ついにアレシアは陥落しウェルキンゲトリクスは降伏、大規模な反乱はここに終わりを告げました
その後カエサルは小規模な反乱の鎮圧に努め、翌年には全ガリアを平定することとなるのでした


本日は実質的なガリア戦争の命日です、おめでとうございます


参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

758名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/04(日) 14:28:17 ID:R1Z/wUC.
10月4日はフランスで憲法が改正された日です

第二次世界大戦におけるドイツの敗北によってフランスは解放され、ド=ゴールによる臨時政府が組織された後、1946年に新憲法制定によって第四共和政が成立しました
この新憲法は女性参政権や下院の優位などが規定されていたものの、基本的には第三共和政の憲法を引き継いでおり、共産党・社会党・人民共和派という三大政党の協力の上に立つものでした

しかし冷戦が進んでいくと共産党は下野し、さらにド=ゴール率いるフランス国民連合の反発もあり、左右両派から脅かされる中道政治は不安定なものとなります
さらにインドシナ、アルジェリアでの植民地独立運動への対応に失敗したことで、第四共和政は大きく揺らぐこととなったのです
特にアルジェリアは1830年、>>700のアルジェリア出兵以来フランス植民地として長い歴史を持ち、フランスからの入植者も多く非常に重要な植民地でした

アルジェリアではフランスからの独立を目指してアルジェリア民族解放戦線の運動が活発となり、現地・本国ともにアルジェリアの独立を阻止する空気が強くなります
しかしアルジェリア問題は泥沼化し、戦争の財政的な負担もあって本国では独立の承認へと向かっていきました
しかし1958年5月、植民地放棄に反対する現地の軍部と市民が反乱を起こし、コルシカ島を占領してさらにパリへと進撃する動きを見せます
反乱軍はド=ゴールの政権復帰を要求し、政情不安のなかコティ大統領はド=ゴールに首相就任を要請せざるを得ませんでした
6月には国民議会の賛成多数でド=ゴールの組閣が承認され、ド=ゴールはアルジェリア問題解決への全権委任と憲法改正の提案権を獲得します
そして1958年10月4日、ド=ゴールの憲法改正案が国民投票の圧倒的賛成を得て承認され、ここに第五共和政が発足することとなったのでした


本日は第五共和政の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年

759名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/05(月) 21:09:55 ID:/r2Vm88s
10月5日はハインリヒ3世が死去した日です

>>633で見たように、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は強大な皇帝権を発揮し、帝国、そしてローマ教会の支配者として君臨しました
ローマ教会はザクセン朝・ザリエル朝で進められてきた帝国教会制のなかに組み入れられ、教皇という地位も単なる最高位の帝国司教に過ぎないものとなりつつありました

彼はまたイタリア王としても強権をふるい、反抗的なトスカーナ伯を抑え込みます
トスカーナ伯ボニファチオが1052年に暗殺された後、その妻ベアトリーチェはロートリンゲン公ゴドフロワと再婚し、このゴドフロワが以前にも増してハインリヒに反抗的な態度を取ったため、1055年、ハインリヒは軍を率い討伐に向かいます
これに対しゴドフロワはすぐさま逃亡し、トスカーナにはベアトリーチェと三人の幼児が残されました
この時幼児のうち2人が暗殺され、残ったマティルダがトスカーナ女伯となるのですが、このマティルダが>>448のカノッサの屈辱の際のカノッサ城主であり、一貫して親教皇・反皇帝の姿勢をとったマティルダでした

また当時の教会では>>294で見たように教会改革が進められ、ハインリヒもまたこれに協力して改革を推進しましたが、教会改革運動は世俗支配からの脱却を目指すようになり、皇帝の存在は邪魔なものとなりつつあったのです
イタリアにおけるこの諸問題は、ハインリヒが健在なうちはその強権によって抑え込まれていました
しかし1056年10月5日、ハインリヒが38歳という若さで死去すると状況は一変します
後を継いだハインリヒ4世はわずか6歳、当然政務をとれるはずもなく、>>294で見たように諸侯や教皇に翻弄され、叙任権闘争へと発展していくのでした


本日はハインリヒ黒王の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

760名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/06(火) 20:29:35 ID:edRKdRBI
10月6日はサムイルが死去した日です

>>710で見たように、ブルガリアではシメオン1世の死後衰退し、一時はビザンツ帝国に併合されたものの、ヨハネス1世急死後のバシレイオス2世の即位に対し起こった反乱に乗じ、サムイルがブルガリアの独立国家を建国、皇帝を称しました
これを鎮圧しようとするバシレイオスをトラヤヌスの門の戦いで撃破したサムイルは、貴族反乱鎮圧に謀殺されるバシレイオスを尻目に勢力を拡大、ブルガリア帝国の旧領をほぼ回復したのです

しかしバシレイオスは反乱を鎮圧、>>375で見たように自身の妹であるアンナをキエフ大公のウラジーミル1世に嫁がせてその協力を得るなどして態勢を挽回していきます
1004年までには北部ブルガリアを占領し、1014年には>>232のクレディオン峠の戦いで大敗を喫しました
この戦いでバシレイオスは1万5千人のブルガリア兵を捕虜にし、その捕虜を100人ずつの集団に分け、各集団のうち99人の両目をくり抜き、残りの1人だけは片目を残して道案内役をさせ、ブルガリアに送り返します
この凄惨な光景を目の当たりにしたブルガリア王サムイルは卒倒し、2日後の10月6日、息を引き取ったのです
サムイルの死後、ブルガリアでは二代の皇帝が続きますがもはやバシレイオスの勢いに対抗できず、サムイルの死から四年後の1018年に滅亡することとなるのでした


本日はブルガリア皇帝サムイルの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年

761名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/07(水) 21:42:57 ID:py1qjr7I
10月7日はドイツとオーストリア=ハンガリーが同盟を結んだ日です

ビスマルクによって統一が進められたドイツは1871年、普墺戦争からわずか5年でドイツ帝国成立に至り、ヨーロッパ五大国の一角として大きな力を持つようになりました
他の大国はドイツが1871年時点の国境で満足するかどうか、不信感を募らせます
ドイツとしては安全保障を確保するため、外交関係の構築に努めました
四大国のうち、フランスからはアルザス・ロレーヌを奪ったため敵対関係が固定されてしまい、残りのロシア・イギリス・オーストリア=ハンガリーを相手に安全保障を図るのです

ビスマルクは1873年にロシア・オーストリア=ハンガリーとの間に三帝協約を成立させましたが、これは三国の友好関係を宣言しただけのものであり、安全保障を約束するものではありませんでした
そして1875年にフランスが幹部法を成立させ軍事力を増強させたことは、戦争が目前に迫るものとしてドイツに大きな危機感をもたらしたのです
ビスマルクはフランスに対し脅しをかけたものの、ロシア・イギリスがフランスを支持し介入する姿勢を見せたため、ビスマルクは撤退せざるを得ませんでした

しかし当時イギリスとロシアとがヨーロッパ・アジアで対立関係にあり、イギリスとフランスも地中海・北アフリカで対立していたことがドイツにとって有利に作用します
ビスマルクはこれらの対立関係に対し、ドイツは局外中立に立つことを宣言しました
この姿勢は露土戦争後のベルリン会議で明確となります
オスマン帝国とのサン=ステファノ条約でロシアは保護下にあるブルガリアの領土を拡大させたことにイギリス・オーストリア=ハンガリーが強く反発し、戦争の危機が迫ったことでビスマルクが利害関係調整に乗り出したのです
1878年のベルリン会議でビスマルクはドイツの誠実な仲介人としての立場を宣言し、大国間の利害調整に徹してドイツの利益を求めず、これによって諸大国のドイツへの不信感は拭われました

しかしベルリン会議でロシアへの支持が不十分だったことでロシアとドイツの関係が悪化してしまいます
そこでビスマルクはオーストリア=ハンガリーと同盟を結び安全保障を図ろうとしました
1879年10月7日、秘密同盟である独墺同盟条約を結び、ロシアが戦争をしかけてきた場合に両国が共同で戦うことを約束します
しかしドイツとフランスとの戦争に関してはオーストリア=ハンガリーは中立を保つに留まり、ドイツにとっては十分な安全保障をもたらすものではありませんでした
そこでビスマルクはその後も数々の同盟条約を結び、いわゆるビスマルク外交を進めていくこととなるのでした


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

762名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/08(木) 00:24:28 ID:26YMMDgc
10月8日はビスマルクが首相に就任した日です

>>550で見たようにビスマルクはゲルラッハ兄弟を中心とする側近党に接近し、高官への道を切り開きました
当時のプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世はフランクフルト国民議会による皇帝就任要請を拒否し、オーストリア以外のドイツ諸侯と同盟しプロイセンを中心とした連邦国家の建設の目指すウニオン政策を推進しました
しかしこれはオーストリアやロシアの抵抗にあって挫折し、1850年、>>368で見たようにオルミュッツ協定が結ばれウニオン政策は放棄されます

これに伴い、議会でウニオン政策放棄を支持する演説を行っていたビスマルクが側近党に高く評価され、ドイツ連邦議会におけるプロイセン公使に任命されます
1859年にはロシアの駐在公使となり、62年にはフランスの駐在公使に任命されました
これは側近党をはじめとする保守主義陣営の後ろ盾によるものでしたが、彼らとビスマルクとは国家統一の方向性や対オーストリア・対フランス政策などで意見の違いが生じ、次第に側近党とは疎遠になっていきます

しかしフリードリヒ=ヴィルヘルム4世が精神的に病み弟のヴィルヘルムが摂政となったことで側近党の影響力が小さくなり、ビスマルクの地位は保たれました
その後>>301で見たように新王ヴィルヘルム1世のもとで1862年9月30日、暫定的に首相に任命され「鉄血演説」を行います
そして同年10月8日、正式にプロイセンの首相に就任し、ドイツ統一を進めていくのでした


本日はプロイセン首相ビスマルクの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

763名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/10(土) 15:09:14 ID:fq.TB7mM
10月10日はトゥール・ポワティエ間の戦いが行われた日です

クローヴィスによって建てられたメロヴィング朝フランク王国は分割相続制を採用し、代を経るごとに王国が分立、特にアウストラシア・ネウストリア・ブルグンドの三分王国が強力となっていきます
これらの分王国には宮宰が置かれて政治を統括し、次第に権力を掌握して副王的な存在となりました
アウストラシアの宮宰として勢力を伸ばしたのがピピン1世(大ピピン)で、ブラバント地方やナミュール地方に所領を有し、さらに妻イッタが持っていた二ヴェル地方も合わせ、広大な所領を有するようになります

大ピピンはイッタの間に産まれた長男キルデベルトをアウストラシアの分国王にしようとしますがこれは失敗しました
娘のベッガはメッス司教アルヌルフの息子アンセギゼルと結婚し、2人の間にピピン2世(中ピピン)が産まれます
中ピピンはプレクトルードを妻とし、これによりベルギーのマース川流域からトリーア・メッスの位置するモーゼル川流域におよ領域を支配するようになり、河川交易による経済基盤が整えられました
中ピピンはさらにアルパイダを側室として迎え、これによって重要な商業拠点であるマーストリヒトも得ます
そしてこのアルパイダと中ピピンとの間に産まれたのがカール=マルテルでした

714年に中ピピンが死去した後はプレクトルードが実権を握り、彼女によってカール=マルテルは幽閉されます
カールは716年に脱出して実権を奪い、当時フランク王国を牛耳っていたネウストリアの宮宰ラガンフリードを破ってフランク王国全体の宮宰となり、さらにフリーセン人やザクセン人を討伐しました
さらにテューリンゲン・アレマニエン・バイエルンの諸族を平定、プロヴァンスなど南フランスへも遠征、フランク王国における権威は高まっていきます

一方その頃、イベリア半島では>>582で見たようにイスラームが西ゴート王国を滅ぼし、やがてピレネー山脈を超えてフランク王国領内へも侵攻するようになります
これに直面したアキテーヌ公ウードは、宿敵であるカール=マルテルに救援を要請せざるを得ず、カールはこれに応え重装騎兵軍を編成しイスラーム軍を迎え撃ちました
732年10月10日、両軍はトゥールとポワティエとの間で激突し、イスラーム軍は指揮官アブド=アッラフマーンが戦死し撤退します
この勝利によってカール=マルテルの名声は大いに高まり、フランク王国における権力は絶大なものとなりました
そしてカールの息子であるピピン3世(小ピピン)の代でメロヴィング朝が廃され、カロリング朝が成立することとなるのでした


本日はカロリング家の覇権の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

764名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/12(月) 09:32:04 ID:DSXJrpZM
10月12日はドン=ペドロが皇帝に即位した日です

>>573で成立したポルトガルの植民地ブラジルは、以降開発が進んでラテンアメリカ唯一のポルトガル領として重要な位置を占めました
時代は降り19世紀に入ると、ポルトガル本国がナポレオンによって征服されるという事件が起こります
その際ポルトガル王室は亡命し、大西洋を渡ってブラジルに移動、リオデジャネイロに遷都し拠点としたのです

一方で>>681>>690で見たようにラテンアメリカではクリオーリョ指導の下で独立運動が進められており、ブラジルもまた1822年から独立運動が開始されました
この頃ポルトガル王室は本国で革命が起こったため帰還しており、王太子ドン=ペドロが残っていましたが、クリオーリョはブラジルの地位向上のためポルトガル王室の権威を必要しており、このペドロを擁立して独立運動を進めます
そして1822年10月12日、ペドロはブラジル皇帝ペドロ1世として即位、ブラジルは独立を果たすこととなるのでした


本日はブラジル帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年

765名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/14(水) 13:06:57 ID:hftCl/gg
10月14日はイエナ・アウエルシュタットの戦いが行われた日です

フランス革命に際しプロイセンはオーストリアとともにピルニッツ宣言を発して反革命の姿勢を明確にし、フランスへの干渉を進めました
もっとも両国にとってはオスマン帝国やロシアの進出に対抗する方が急務であり、>>364などで見たようなポーランド分割が行われます
一方フランスはピルニッツ宣言を脅威に感じ両国に宣戦布告、1792年のヴァルミーの戦いでの勝利後は攻勢に出、94年にはライン川左岸一帯を領有するようになります

このフランスの進出に対し、93年なはプロイセン・オーストリアにイギリスなども加わって第一回対仏大同盟が結成されますが、プロイセンは95年にフランスと単独講和を結び同盟を離脱します
これでオーストリアは事実上孤立してしまい、カンポ・フェルミオの和約でベルギーを、リュネヴィルの和約でトスカーナを放棄し、フランスのライン川左岸領有も認めさせられました
しかしその補償としてライン川以東の諸領邦を統廃合しプロイセン・オーストリアに与えられるという条項も盛り込まれていました

こうして1803年、神聖ローマ帝国の諸領邦はナポレオンによって整理され、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンなどが領土を拡大してプロイセン・オーストリアに続く第三勢力として台頭、ナポレオンの保護下に入ります
この諸領邦の統廃合の過程で>>211のライン同盟が成立し、ここに神聖ローマ帝国が解体されました

このようにナポレオンがドイツに進出し大きな影響力を持ったことは、当然プロイセンの警戒を呼び起こします
直接のきっかけとなったのがハノーファー支配を巡る両者の利害対立で、プロイセンは宣戦布告し軍を南下させます
しかし1806年10月14日、イエナ・アウエルシュタットにおいてプロイセンは大敗を喫し、ナポレオンは勢いに乗じてプロイセンの首都ベルリンまで侵攻するのです
そして翌年には>>668で見た屈辱的なティルジット条約が結ばれることとなるのでした


本日はプロイセンの決定的敗北の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

766名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/15(木) 17:01:32 ID:zKUdO05Y
10月15日はアブド=アッラフマーン3世が死去した日です

>>233で見たアッバース革命によってウマイヤ朝が滅亡した時、ウマイヤ家のアブド=アッラフマーンはイラクから逃れ、やがてイベリア半島に上陸しました
当時のイベリア半島は>>582で見たようにイスラームが支配していましたが、有力な指導者を欠いて混乱状態に陥っていました
そこにウマイヤ家出身のアブド=アッラフマーンが現れたことはアル=アンダルスのムスリムにとっては朗報であり、アブド=アッラフマーンは彼らの指導者となったのです

756年、アブド=アッラフマーンはコルドバへと進軍、同地のアミールを破って後ウマイヤ朝を開きアブド=アッラフマーン1世としてアミールの地位に就きました
しかしアッバース朝はこれを認めず後ウマイヤ朝に対し度々干渉し、またベルベル人も各地で反乱を繰り返したことで、その知世はアル=アンダルスの平定に費やされました

やがてレコンキスタが進行しイベリア半島北部のキリスト教諸勢力が次々と反乱を起こすようになり、アル=アンダルスでもイブン=ハフスーンがアグラブ朝と結んで反抗、一時はコルドバが孤立するほどまでに追い込まれます
このような状況でアミールとなったのがアブド=アッラフマーン3世でした
アブド=アッラフマーン3世は各地の反乱鎮圧に努め、917年にはイブン=ハフスーンを破り、932年にはトレドを再征服しアル=アンダルスの再統一を達成します
またアッバース朝カリフ、ファーティマ朝カリフに対抗してアブド=アッラフマーン3世もまたカリフを称し、ここにイスラーム世界は三カリフ鼎立時代を迎えました
こうして領土を回復し、イスラーム世界の指導者としての権威も大いに高めたアブド=アッラフマーン3世は後ウマイヤ朝の全盛期を築き、961年10月15日、半世紀に及ぶ治世に幕を降ろしたのでした


本日は後ウマイヤ朝初代カリフの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

767名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/19(月) 21:59:32 ID:PnPTMUN6
10月19日はイサベルとフェルナンドが結婚した日です

15世紀のスペイン、カスティーリャ王国ではフアン2世・エンリケ4世と指導力に欠ける王が続き、貴族勢力が政治を牛耳るようになりました
特にエンリケ4世の評判は悪く、その治世で貴族はますます勢力を伸ばしていきます
またエンリケには嫡男が産まれず、王位は王女のフアナあるいはエンリケの異母妹イサベルが継承することとなります

このうちフアナはラ=ベルトラネーハと呼ばれたように、エンリケの寵臣ベルトラン=デ=ラ=クエバが父親であるとされました
真偽はどうあれ、エンリケはロス=トロス=デ=ギサンド協定でフアナの王位継承権を否定し、イサベルを王位継承者としたのは事実です
エンリケに反対する勢力はこれを認めず、エンリケの異母弟アルフォンソをアルフォンソ12世として擁立しますが、アルフォンソが急死したため計画は頓挫、イサベルの王位継承が決定されました

一方アラゴン=カタルーニャ連合王国でも混乱が起こっていました
アラゴンは度々ペストに襲われたことで国土が荒廃し、また王権・貴族層・中産階級層・都市平民層・農民層など様々な勢力が対立し、分裂していたのです
これはナバラ王アルフォンソ5世の弟フアン2世がアラゴン王になったことでさらに激化します
ナバラ王国内の紛争が隣接するカタルーニャに持ち込まれ、内戦に発展しました
これを収拾するためフアンはフランス王ルイ11世に救援を求め、ピレネー山脈のフランス側のカタルーニャを譲渡する代償を払ってようやく状況を打開できたのです
この平定後の状況を固めるために行ったのが、息子フェルナンドとカスティーリャのイサベルとの結婚でした

1469年10月19日、イサベルとフェルナンドは結婚し、ここにカスティーリャとアラゴンの合同が成立します
1474年にエンリケ4世が死去したことで2人は共同でカスティーリャ王となりました
もっともこの時点ではカスティーリャとアラゴンはそれぞれの慣習が引き継がれ、国家としての連合は希薄でした
1479年にアラゴン王フアン2世が死去し、フェルナンドが王位を継承したことでカスティーリャとアラゴンは連合王国として機能するようになるのでした


本日はカスティーリャ・アラゴン連合の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年

768名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/20(火) 11:13:22 ID:UFgP4x0M
10月20日はハインリヒ10世が死去した日です

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の時代、ヴェルフェン家のヴェルフ4世はバイエルン大公国を与えられ、以後ヴェルフェン家はこの大公位を保持し帝国における権力を確立していくこととなります
もっとも、当初から全てがうまくいっていたわけではなく、ローマ教皇との叙任権闘争の過程で紆余曲折を経ます
ヴェルフ4世は最初皇帝ハインリヒ4世側につきましたが、教皇グレゴリウス7世との争いが激化すると教皇側につき、そのためにバイエルン大公位を罷免されたのです

ヴェルフ4世はその後イタリアで勢力を拡大し、息子のヴェルフ5世をトスカーナ女伯マティルダと結婚させ、その領地の相続権を得ようと図りました
しかしマティルダが財産を教会に寄進したためこの計画は頓挫し、ヴェルフ4世はハインリヒ4世と和解、バイエルン大公に復帰します
このヴェルフ4世の死後、バイエルンはヴェルフ5世が、イタリアはハインリヒ9世が継承しました
黒公と称されるハインリヒ9世は兄の死後バイエルン大公となり、またザクセン大公マグヌスの長女ヴルフヒルトとの結婚により、ヴェルフェン家はザクセンにも権力基盤を得、その勢威をますます高めることとなりました

このハインリヒ黒公とヴルフヒルトとの間に産まれたのがハインリヒ10世、の血に傲岸公と称される人物です
黒公は傲岸公をザクセン大公ロタールの長女ゲルトートと結婚させましたが、このロタールは皇帝ハインリヒ5世の強力なライバルでした
ハインリヒ5世の死後、王位は血統権に従いホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世に渡るものとされましたが、黒公はこれに反発しロタールの即位を支持します
こうして>>512でも見たようにホーエンシュタウフェン家とヴェルフェンとの長年に渡る対立が始まったのです

ロタールは即位当時すでに50歳となっとおり長期の統治は望めず、その死後ザクセン大公国がヴェルフェン家のものになることが期待されました
また傲岸公はロタールのイタリア遠征に随伴し、その際に教皇からトスカーナ辺境伯領を得ることとなりました
1137年にロタールが死去すると傲岸公はザクセン大公国を受け継ぎ、その権力は帝国諸侯のなかでも最大のものとなりました
ロタールはまた傲岸公に帝国権標を引き渡したとされ、傲岸公が次期国王になるのが有力となります
しかし傲岸公はその名のごとく高慢・尊大な性格であり、帝国内に多くの敵を作っていました
さらにその即位によって強力な皇帝が出現することを怖れた諸侯は、ホーエンシュタウフェン家のコンラートを国王に選出したのです

傲岸公はこれに従わず忠誠誓約を拒否し、またザクセンにおけるアルブレヒト熊公との継承権争いを調停するヴュルツブルク帝国会議に出頭しなかったことで、帝国から追放されてしまいます
こうしてザクセン大公国は熊公のものとなり、傲岸公はバイエルン大公国とトスカーナ辺境伯領も剥奪されました
しかし傲岸公はすぐさま反撃、1139年、ザクセンに進軍し熊公は防戦一方となり逃走、ザクセンは再び傲岸公の支配下に置かれました
傲岸公はさらにバイエルンへも進軍しようとしますが、その準備中の1139年10月20日、40歳で急死してしまいました
傲岸公の突然の死はヴェルフェン家にとって痛手でしたが、>>699のハインリヒ獅子公が傲岸公の事業を引き継ぎ、ヴェルフェン家のさらなる隆盛へと導いていくのでした


本日はハインリヒ傲岸公の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

769名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/21(水) 12:39:53 ID:M7fOJ7Ss
10月21日は民衆十字軍が壊滅した日です

>>366での教皇ウルバヌス2世の演説の後、彼自身がフランス各地を巡り、また説教師を派遣して十字軍への呼びかけを進めていきました
諸侯や貴族はこれに応え十字軍の準備を始めましたが、それには莫大な資金と多数の随員を必要とし、その間にも民衆の熱狂は高まっていきます
この民衆への説教を積極的に進めたのが隠者ピエールでした

北フランスのアミアン出身の隠修士であるピエールは、カリスマ的説教師として北フランス・西ドイツで十字軍参加を呼びかける説教を行い、十字軍への民衆の参加という要素を付け加えました
もっともウルバヌス2世としては十字軍参加者の精選を求め、条件付きでの参加を前提とし、王侯貴族や高位聖職者からなる十字軍を想定していましたが、もはや民衆の熱狂を抑えることはできない状態となっていました

民衆は隠者ピエールのもとに押し寄せ、ウルバヌスの十字軍が準備に時間がかかっている間に聖地を目指すこととなります
ピエールと民衆はケルンに集まり、1096年4月に出発、ライン・ドナウ川沿いに進みました
無秩序な集団となったこの民衆十字軍は、キリストの敵をユダヤ人にも拡大しつつ各地で虐殺・略奪を繰り返し、8月にはコンスタンティノープルに到達します
ビザンツ皇帝アレクシオス1世はこの暴徒の到来に驚き、コンスタンティノープルへの入城は拒絶しました
民衆十字軍はボスポラス海峡を渡ってヘレノポリスにて野営することになります

彼らはアレクシオス1世に正規の十字軍が到着するのを待つようにとの忠告を受けますが受け入れず、ニケーア周辺のトルコ人領を略奪して回り、ニケーアから出撃してきたトルコ軍も撃退します
この事態を重く見たルーム=セルジューク朝スルタンのクルジュ=アルスラーンは大軍を派遣し、民衆十字軍に奪われたニケーア近郊のクセリゴルドンを奪還しました
彼はさらに謀略を仕掛け、民衆十字軍の陣営に間者を派遣し、民衆十字軍の分遣隊がニケーアを陥とし戦利品を分配してるという虚報を伝えます
これを聞いた民衆は我を忘れ、欲に目が眩んだ無秩序な集団となってニケーアへと殺到しました
そして1096年10月21日、ニケーア近郊で待ち構えていたルーム=セルジューク朝軍の奇襲によって民衆十字軍は壊滅し、コンスタンティノープルへと逃げ帰ったのです
彼らは後に正規の十字軍と合流し、>>224で見た第1回十字軍によるイェルサレム攻略に参加することとなるのでした


本日は民衆十字軍の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
・池谷文夫『世界史リブレット人31 ウルバヌス2世と十字軍 教会と平和と聖戦と』山川出版社、2014年

770名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/23(金) 11:54:29 ID:a.dkhUVU
10月23日はサグラハスの戦いが行われた日です

>>766の後ウマイヤ朝カリフ、アブド=アッラフマーン3世の死後、アル=ハカム2世が後を継ぎ父が築いた繁栄をさらに発展させました
しかし次代のヒシャーム2世が12歳で即位すると、国政は母親のスブフと寵臣のアブ=アミル=ムハンマドによって牛耳られてしまいます
それでもアル=マンスール、勝利者の称号を持ったムハンマドはバルセロナを占領、ガリシアにも侵攻するなど軍事的成功をもたらします

しかしアル=マンスールの死後、王朝の分裂は決定的となります
アル=マンスールの創設した新王朝の支持者とウマイヤ朝の支持者との間で軋轢が生じたのです
王宮の支配をめぐる争い、ベルベル人軍隊の台頭、戦争によって戦利品を求める下層民など、様々な利害対立が起こり、1031年に後ウマイヤ朝は消滅しました
後ウマイヤ朝の統一はカリフを中心とする強力な中央政府に依存しており、それが消滅したことでアル=アンダルスはターイファと呼ばれる小君主の割拠状態となるのです

その頃、イベリア半島対岸の西サハラでも新たな動きが起こっていました
マーリク派の法学者イブン=ヤーシーンが神秘主義的な教説によってベルベル人のサンハージャ族を動かし、その熱狂的な宗教運動はやがて政治運動に転化、1056年にムラービト朝が興ることとなります
ムラービト朝はジハードを唱えて南下、ガーナ王国を滅ぼし、モロッコや西アルジェリアも制圧します
ユースフ=ブン=ターシュフィーンの治世の1062年にはマラケシュが建設され、1084年にはセウタを占領するなど、ムラービト朝はモロッコからアルジェに至る肥沃な農耕地帯を支配下に収めました

一方イベリア半島では1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世によってトレドが征服されました
ターイファ諸王国はユースフに救援を求め、これに応えたユースフは翌年イベリア半島へと遠征します
そして1086年10月23日、ユースフ率いるムラービト朝軍はメリダ近郊のサグラハスにてカスティーリャ軍を破りました
その後もユースフはイベリア半島への遠征を続け、二度目の遠征ではアレードの戦いに勝利しキリスト教徒の南下を阻止します
三度目の遠征ではターイファ諸王国のうちグラナダ王国、マラガ王国、セビージャ王国を滅ぼしてその直接支配を行うようになり、アル=アンダルスはムラービト朝領となるのでした


本日はムラービト朝のアル=アンダルス侵攻の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

771名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/24(土) 19:23:35 ID:Wmq8gszs
10月24日はシブヤン海海戦が行われた日です

>>326で始まったレイテ沖海戦、日本海軍の中核部隊となった第一遊撃部隊主隊、通称栗田艦隊は10月22日、ブルネイを出撃しました
「大和」「武蔵 」「長門」「金剛」「榛名」の戦艦5隻に巡洋艦10隻以上を擁するこの大部隊はパラワン水道を抜けシブヤン海に入りましたが、ここで米潜水艦の待ち伏せに遭いました
米潜水艦の雷撃で栗田長官座乗の旗艦「愛宕」は沈没し、栗田長官は「大和」に移り旗艦とします
しかしその後も米潜水艦の雷撃は続き、「摩耶」が沈没、「高雄」が大破するという被害を出したのです

大きな損害を受けつつも進撃した栗田長艦隊は24日にシブヤン海に入り、ここで「大和」「武蔵」「長門」と「金剛」「榛名」をそれぞれ中核とする部隊に分け、空襲に警戒する陣形で進むこととなります
そして予測通り午前10時に米機動部隊から発艦した艦載機の大編隊が現れ、一回あたり30〜70機、第五次に渡る空襲が午後3時まで断続的に行われ、のべ300機の艦載機が栗田艦隊を襲ったのです

この空襲で「武蔵」は約200機の米艦載機の急降下爆撃と雷撃の集中攻撃に遭い、直撃弾17発、至近弾18発、魚雷20本が命中しました
>>385で見たように大和型戦艦には日本の造船技術の粋が集められ、不沈艦と謳われましたが、この攻撃には抗すべくもなく、ついに1944年10月24日午後7時35分、沈没します
栗田艦隊では他にも「妙高」が大破、「大和 」「長門」「利根」なども損傷し、一時戦場を離脱することとなります
栗田艦隊を襲った米機動部隊はその後北上し、小沢機動部隊を襲うこととなるのでした


本日は戦艦「武蔵」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争7 マリアナ沖海戦・比島沖海戦1』光人社、1995年
・「歴史群像太平洋戦争戦史シリーズ9 レイテ沖海戦」学習研究社、1995年
・「丸 2015年11月号 レイテ沖海戦」光人社、2015年

772名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/25(日) 20:09:40 ID:UN9ZXnUo
10月25日はアザンクールの戦いが行われた日です

>>440のシャルル5世の死後、後を継いだシャルル6世は>>300でも登場したモンフォール伯ジャンと和解し、1381年に英仏間で休戦協定が結ばれました
1385年に休戦協定の期限が切れるとシャルル6世はスコットランド王と呼応しイングランドに上陸します
しかしイングランド王リチャード2世はスコットランドに遠征してこれを破り、フランス軍はイングランドからの撤退を余儀なくされました
翌1386年にもイングランド上陸が計画されるものの中止に終わり、1389年には再び英仏間での休戦協定が結ばれます
1396年にはシャルル6世の娘イザベルがリチャード2世に嫁ぐ条件で28年間の休戦協定が成立し、両国は最終的な和平への道を進もうとすることとなりました

しかし>>552で見たようにイングランドでリチャード2世が廃位されてヘンリ4世が即位、ランカスター朝が開かれると両国の関係は再び悪化していきます
ヘンリ4世はフランスに使節を送り休戦協定を確認したものの対仏強硬派であり、フランスもこれを警戒していたため相互に不信感が募り、戦争には至らなかったものの休戦協定は完全には遵守されず、間接的な衝突が見られるようになったのです
1400年にウェールズでイングランドに対する反乱が起こるとフランスはその反乱を支援するため軍を派遣し、またスコットランドにも継続的に支援を行っていました
イングランドもまた1400〜1410年にかけて断続的にノルマンディを襲撃、両国関係は悪化の一途を辿ります

シャルル6世がイングランドに対する本格的な攻撃を計画する段階になると、戦争再開の気運はますます高まっていきました
カスティーリャ王国からも軍船が派遣されて艦隊が編成され、重装兵・弓兵も招集、これらが二部隊に分かれ、カレー・ボルドーのイングランド勢力を駆逐すべく、それぞれピカルディ地方とギュイエンヌ地方に派遣されます
しかしオルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャンが率いたこの遠征は失敗に終わりました
というのもこの2人、>>581で見たようにそれぞれオルレアン派・ブルゴーニュ派を形成して対立していたのです
この対立はオルレアン公が暗殺されたことでさらに激化し、オルレアン派の主導権を握ったアルマニャック伯ベルナールによってアルマニャック派と称されるようになると、この対立がついに武力衝突に発展しました

ブルゴーニュ公はこの内戦に際しイングランドに軍事的支援を求め、その見返りとしてイングランドへフランドル諸都市やノルマンディ侵攻への支援を約束しました
イングランド王ヘンリ4世の時代ではこの内戦への介入に消極的でしたが、その後を継いだヘンリ5世は積極的な介入を開始します
1413年、ヘンリ5世はフランス宮廷を牛耳っていたアルマニャック派に対し、かつてイングランドがフランスに持っていた全ての領土の割譲という法外な要求を突きつけました
フランスとしては到底受け入れられないものでありこの要求を拒絶、ここに百年戦争が再開されたのです

1415年8月、ヘンリ5世はノルマンディに上陸、セーヌ川河口の都市アルフルールを陥とすとさらにカレーに向けて進軍します
これを追撃したフランス軍との間で1415年10月25日に行われたのがアザンクールの戦いでした
この戦いでイングランドはまたも地形を有効活用した長弓隊の活躍でフランス軍を破り、フランスは多数の犠牲者を出し貴族の多くが捕虜となる大敗を喫します
イングランドは攻勢に出てその脅威が直接パリにも及ぶようになりますが、フランス宮廷では依然としてブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が続いており、有効な対策をとれない有様でした
アルマニャック派に属する王太子シャルル、後のシャルル7世に対抗するブルゴーニュ派のフィリップ、>>278でも見たブルゴーニュ公フィリップ善良公は1420年、イングランドとトロワ条約を締結します
この条約でイングランド王ヘンリ5世が精神異常を来していたフランス王シャルル6世の摂政てなり、シャルル6世の死後はヘンリ5世がフランス王となることが取り決められたのでした


本日は百年戦争後期におけるイングランド攻勢の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

773名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/27(火) 11:14:50 ID:xQU8PqWI
10月27日はイヴァン3世が死去した日です

>>730のクリコヴォの戦いでドミトリー=ドンスコイはモンゴル軍に勝利し、「タタールのくびき」の下にあったロシアにおけるモスクワ公の威信は大いに高まることとなりました
しかしこの戦いによってすぐにモンゴル支配から脱したわけではなく、二年後にはモンゴル軍によってモスクワが一時占領されます
ドミトリーの後継者となったヴァシーリー1世時代ではモンゴル支配を受け入れ、その下で国内の統一を進める形となりました

ヴァシーリー2世の時代は内部抗争の時代でした
9歳で大公となったヴァシーリー2世は叔父であるガーリチ公ユーリー、その長子のヴァシーリー=コソイとその弟のドミトリー=シェミャーカとの間で公位継承を巡る内戦が勃発したのです
約30年に渡る内戦で国土は荒廃し、滅亡寸前の状態にまで陥りました
この抗争を収め、モスクワ大公国を強力な国家へと発展させたのがイヴァン3世でした

1426年に22歳で即位したイヴァン3世はロストフ、ヤロスラヴリ、トヴェーリなどの諸公国を併合、ロシア南西の諸公国の回復を進めます
最も大きな統一事業は1471年に始まったノヴゴロド攻撃で、1478年にはノヴゴロド併合を達成しました
また1480年には再びモンゴルの侵攻を受けるものの、迎撃に出たイヴァンの軍はモンゴル軍とウグラ川にて対峙し、モンゴル軍は攻撃を諦めて撤退したのです
これ以後モンゴル軍がモスクワへの遠征計画を立てることはなくなり、この時点でロシアは「タタールのくびき」からほぼ完全に脱することに成功しました

またイヴァンは最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世の姪であるゾエ=パレオロゴスと結婚し、ビザンツ帝国の遺産を継承する意味合いも込めて「ツァーリ」を自称します
これによってイヴァンの威信はさらに高まり、国内の諸公や大貴族はその威信に服することとなるのです
こうしてモスクワ大公国はイヴァン3世によって発展し、後のロシア帝国の基礎が築かれました
イヴァンは1505年10月27日に死去し、その事業はヴァシーリー3世、そして>>718のイヴァン4世雷帝へと引き継がれることとなるのでした


本日はイヴァン3世「大帝」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年

774名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/27(火) 11:34:49 ID:x0vwUjzg
なんやこのスレ!(歓喜)
じっくり読ませてもらうわ

775名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/28(水) 10:46:28 ID:6OSWRmRo
10月28日はマルグレーテ1世が死去した日です

北欧の3国、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーは、ヴァイキング時代を通じてキリスト教化が進み、また部族の統合も進んで国家としての形が整えられていきました
その後11〜14世紀初頭にかけて、それぞれの国内では王や貴族、聖職者の間での争いが続きます
国外からも神聖ローマ皇帝や帝国諸侯、ハンザ同盟の諸都市の圧迫を受け、13世紀にスウェーデンに併合されていたフィンランドもノヴゴロド国に攻撃されてカレリア地方の東半分を割譲するなど、外部勢力の進出によって動揺する時代が続いていました

このような状況で国内を平定し王権を高め、また積極的な外征によって失地を回復していったのが1340年にデンマーク王に即位したヴァルデマール4世でした
ヴァルデマール4世によるデンマークの強大化は周囲の警戒を招き、反デンマーク同盟が結成されます
同盟にはハンザ同盟の諸都市やシュレスヴィヒ、ホルシュタインなどの帝国諸侯だけでなくスウェーデンも加わっておりデンマークは苦境に立たされますが、1370年に講和がなされデンマークの領土は維持されました
こうしてデンマークを強国にのし上げたヴァルデマール4世が男子が産まれまいまま1375年に死去した後、その実権を握ったのがマルグレーテ1世でした

マルグレーテは王位継承問題に際し、自身の息子であるオーロフ2世をデンマーク王とすることに成功し、自らは摂政として国政の実権を握りました
またノルウェー王妃でもあったマルグレーテは夫であるノルウェー王ホーコン6世が急死すると、オーロフ2世をノルウェー王に就け、こちらではオーラヴ4世として即位します
こうして両国は同君連合となり、デンマーク=ノルウェー連合王国が成立、マルグレーテは摂政としてその事実上の支配者となったのです

このオーロフ2世は1387年に17歳で急死し王位が空位となってしまいますが、デンマーク議会はマルグレーテを王国全体の後見人とし、実質的な女王としての権限を与え、新国王選出を委ねることとなります
ここでマルグレーテが新国王に選んだのが、自身の又甥にあたるポンメルンのエーリクでした
エーリクはまずノルウェー国王エイリーク3世として即位します
また当時スウェーデンではメクレンブルク出身のアルブレクトが国王となっていましたが、貴族や聖職者との対立が続いており、マルグレーテはスウェーデン貴族の要請に応えてスウェーデンに出兵、アルブレクトは追放されました
ここで新たにスウェーデン王となったのが先にノルウェー王となっていたエーリクで、こちらではエリク13世として即します
エリクはデンマーク王エーリク7世としても即位し、ここにデンマーク・ノルウェー・スウェーデン3国による同君連合が成立したのです

この連合を確固たるものとするため1397年、マルグレーテはデンマーク優位のカルマル同盟を結成します
これによってデンマーク連合王国が成立し、北欧3国は>>159でスウェーデンが独立するまで統合されることとなったのです
マルグレーテは1412年10月28日に死去しするまで3国の摂政として事実上の支配者として君臨し、大国となったデンマークを主導したのでした


本日はマルグレーテ「女王」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・武田龍夫『物語北欧の歴史 モデル国家の生成』中央公論社、1993年
・百瀬宏・熊野聡・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・橋本淳『デンマークの歴史』創元社、1999年

776名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/29(木) 12:17:02 ID:BO0ChcZQ
10月29日はムスタファ=ケマルが大統領となった日です

>>337で見たようにムスタファ=ケマルは祖国防衛のために立ち上がり、1922年にオスマン帝国のスルタン制は廃止され帝国は滅亡しました
祖国解放戦争に勝利したケマルは1923年7月、連合国との間にローザンヌ条約を締結し、トルコのトラキア・アナトリアなどの領土回復、連合国のイスタンブールからの撤退、オスマン帝国が結んでいた不平等条約の撤廃などを勝ち取ったのです

こうしてトルコの独立を守ったケマルは1923年10月29日、共和国宣言とともに初代大統領に就任します
その後もケマルは>>509のカリフ制廃止やイスラーム教の非国教化などの政教分離、共和国憲法の制定、女性解放、文字改革などの諸改革を進め、近代国家としてのトルコの基礎が確立されていくのでした


本日はトルコ共和国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・坂本勉・鈴木董『新書イスラームの歴史 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年
・山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論新社、2008年
・新井政美『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』講談社、2013年

777名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/11/01(日) 10:39:37 ID:8zKBdLgE
11月1日はダヴィドが処刑された日です

1204年に第4回十字軍がビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを占領し、その際に黒海南岸に建てられた亡命政権のトレビゾンド帝国は、>>46のコムネノス朝の嫡流を自認し、>>146のオスマン帝国によるビザンツ帝国滅亡後も存続していました
しかし>>587で見たようにメフメト2世は各方面への侵略を進め、トレビゾンド皇帝ヨハネス4世はオスマン帝国に多額の貢納金を支払うことで辛うじて難を逃れているという状態でした

1458年にヨハネスが亡くなると、その息子アレクシオスはわずか4歳であったため、ヨハネスの弟ダヴィドが皇帝に即位します
ダヴィドはオスマン帝国がヨーロッパ方面での問題に手一杯だろうと考え、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、ローマ教皇庁からの援助を取り付け、白羊朝のウズン=ハサンを頼みにオスマン帝国に対抗しようとしました
白羊朝の最盛期を築いたウズン=ハサンは、小アジア東部でオスマン帝国に匹敵する勢力を持っていました
トルコ君侯やグルジア諸王もウズン=ハサンと連合しており、トレビゾンド皇帝ダヴィドとしても、自身の姪が妻となっているウズン=ハサンは頼みとなる存在だったのです

ダヴィドは1460年、オスマン帝国に対して貢納金支払いの免除を要求しました
当然オスマン帝国のメフメト2世は憤慨し、トレビゾンド帝国への侵攻を決定します
メフメトはまず白羊朝へと攻め入り牽制した上でトレビゾンドへと向かいました
頼みとする白羊朝の支援が絶たれたダヴィドは降伏し、1461年8月にトレビゾンド帝国は滅亡しました
ダヴィドはその後コンスタンティノープルにてオスマン帝国からの年金によって生活していました
しかし彼の友人であったゲオルギオス=アミルツェスがダヴィドがウズン=ハサンと連絡を取ろうとしているとオスマン帝国に報告したことで、ダヴィドはアドリアノープルで投獄されます
そして1463年11月1日、ダヴィドはその息子や甥ともども処刑され、ここにトレビゾンド皇族の命運は尽きたのでした


本日はトレビゾンド皇帝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年

778名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/11/02(月) 23:36:51 ID:2i3StNAc
11月2日はペドロ3世が死去した日です

アラゴン王ペドロ3世は>>632で見たようにシャルル=ダンジュー支配下のシチリアに介入し、>>708のビザンツ皇帝ミカエル=パレオロゴスの策謀もあってシチリアの晩鐘が起こりました
この事件で直ちにシチリアがアラゴンの影響下に置かれたわけではなく、ナポリ王国を拠点としたシャルル=ダンジューも反撃しシチリア晩鐘戦争が勃発します

ペドロはシャルル=ダンジューの反撃を撃退してシチリアを支配下に収めると、イタリア本土に上陸しシャルル=ダンジューとの戦いを繰り広げました
ここでもペドロはシャルル=ダンジューの息子であるサレルノ公シャルルを破り、シャルル=ダンジューのナポリからカラブリアへの遠征も退けます
しかしシチリアではアラゴン支配に対する反発も起こっており、さらにフランス王フィリップ3世がアラゴンへの十字軍を企てました

その最中の1285年1月、シャルル=ダンジューが死去し、ついでシャルル=ダンジューが教皇位につけ、常にシャルル=ダンジューに肩入れしていた教皇マルティネス4世もまた死去しました
そのためナポリ王国は大いに混乱し、2人の協力によって進められていたシチリア方面への遠征は見込めなくなりました
そのためペドロは防衛戦力を全てアラゴンに回すことができ、フランス王フィリップ3世のアラゴン十字軍をも撃退します
フィリップは同年10月に死去し、これによってアラゴン十字軍も頓挫することとなりました
その一ヶ月後の1285年11月2日、これらの勝利を見届けたうえでアラゴン王ペドロ3世は死去しました
こうしてシチリアの晩鐘の主要人物がことごとく世を去ったわけですが、戦争は彼らの後継者であるナポリ王シャルル2世、ローマ教皇ホノリウス4世、フランス王フィリップ4世、アラゴン王アルフォンソ3世らによって継続されるのでした


本日はペドロ3世大王の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年

779名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/11/03(火) 19:40:52 ID:LPlBoALQ
11月3日はヨハネス3世が死去した日です

>>64の第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落とラテン帝国建国の後、ビザンツ帝国の人々は各地に亡命政権を建てて対抗しました
まず帝都奪回に着手したのが>>777でも登場したコムネノス家のトレビゾンド帝国ですが、黒海南岸を西進したもののニケーア帝国の妨害に遭い撤退を余儀なくされました
ついでアンゲロス家のエピロス専制公国はモンフェラート侯ボニファチオのテッサロニカ王国を破ってコンスタンティノープルに迫るものの、ブルガリアとのクロコトニッツァの戦いに敗れ帝都奪回は挫折します
そのなかで力を伸ばしていったビザンツ亡命政権が、ラスカリス家のニケーア帝国でした

ニケーア帝国はビザンツ皇帝アレクシオス3世の義理の息子であったテオドロス=ラスカリスによって建てられ、1206年には「ローマ人の皇帝」を称し、1208年にはコンスタンティノープル総主教によって戴冠されその正統性を確保します
テオドロスはプロノイア制を発展させ、貴族に土地や徴税権を与える見返りとして軍事奉仕を課しました
テオドロスの後を継いだヨハネス3世はその政策を継続・発展させていきます

貴族に様々な特権を与える一方で皇帝直轄領の経営を進め、農業・牧畜・養鶏に力を入れてその収益を上げることに成功しました
対外政策においてもブルガリアを破りバルカン半島に勢力を拡大していきます
ラテン帝国はコンスタンティノープル周辺にしか領土を持たない存在に過ぎなくなり、また1246年にはテッサロニカ王国を征服、エピロス専制公国へも圧力をかけました
小アジアのトルコ人をも撃退したことでニケーア帝国の威信はますます高まり、一亡命政権からかつてのビザンツ帝国を思わせる強国へと成長させたのです
このうような成功を収めたヨハネス3世は1254年11月3日に死去しました
その功績が讃えられ、その死から50年後、ヨハネスは聖人に列せられることとなったのでした


本日はニケーア皇帝ヨハネス3世の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年

780名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/11/04(水) 11:07:18 ID:IjMWvEhk
11月4日はカヴールが首相に就任した日です

ナポレオン支配下にあったイタリアはウィーン会議によって9ヶ国に再編成されました
いずれもウィーン会議での正統主義に基づく復古を基本とし、この時期のイタリアは復古期といわれます
いずれの国でも基本的にはナポレオン時代の集権的な官僚制が維持されましたが、以前の諸特権を奪われたままの保守派貴族、ウィーン体制期にヨーロッパで広まっていた自由主義に共感する官僚・軍人の双方から不満を持たれる政治体制となっていました
このような状況でイタリアの近代化を図る動き、いわゆるリソルジメントが進められ、秘密結社カルボナリやマッツィーニ率いる青年イタリアの活動が活発となります
この青年イタリアが結成されたのと同年にサルデーニャ王に即位したのがカルロ=アルベルトでした

当時のサルデーニャ王国は行政・法組織が未熟であり、カルロ=アルベルトは法制度の整備に努めます
この時期は農業の発達によって経済発展も進み、1842年には国王認可のもとで農業協会が設立されました
この協会は農業家だけでなく商工業者や官僚も加わった組織で、さまざまな社会問題に関する議論が行われ、協会内で民主派と穏健自由主義派がうまれていきます
この穏健自由主義派のリーダーとして台頭したのが、ピエモンテの名門貴族の息子カヴールでした

カヴールはやがて政治活動に入り、サルデーニャ王国主導によるイタリア統一を主張、サルデーニャ王国の議員として活躍するようになります
この頃諸外国ではウィーン体制に反発する大きな動きがあり、フランスで1848年2月に起こった二月革命を皮切りにベルリンやウィーンでも同様の自由主義革命が勃発しました
1848年革命と称されるこの運動はイタリアにも波及し、特にイタリアにたびたび干渉していたオーストリアのメッテルニヒが失脚したことは大きな影響を与えたました

このような情勢のなかでサルデーニャ王カルロ=アルベルトはオーストリアと開戦しますが、1848年7月にクストーザの戦いに敗れます
サルデーニャ王国内ではその後政権交代がたびたび行われますが共和派が勢力を伸ばし、これにおされたカルロ=アルベルトは再びオーストリアと戦うことを決定します
しかし1839年3月のノヴァーラの戦いで決定的な敗北を喫し、カルロ=アルベルトは退位の後亡命、王位は彼の息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が継ぎました

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は穏健自由主義者のマッシモ=ダゼリオを首相に任命し、またオーストリアと休戦協定を結びます
1850年、カヴールはこのダゼリオ内閣に農商大臣として入閣しました
カヴールはイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国と通商条約を結んで輸出入の関税を引き下げ、保護貿易から自由貿易へと転換させます
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の信任を得たカヴールは1852年11月4日に首相に任命されました
中道右派に位置するカヴールは中道左派ウルバーノ=ラッタッツィと提携して議会の多数派を形成し、保守派の抵抗を排除しつつ民主派の動きも抑えこみながら自由主義改革を進め、イタリア統一運動を進めていくのでした


本日はサルデーニャ王国首相カヴールの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

781名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/11/09(月) 00:10:53 ID:fVsZyNo2


782名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/11/11(水) 11:36:41 ID:xphbT2Jc
11月11日は第4回ラテラノ公会議が開かれた日です

ローマ教会と神聖ローマ帝国との叙任権闘争は>>294のヴォルムス協約で一応の妥協が成立しましたが、問題が完全に解決されたわけではなく、その後も教権と俗権を巡る対立が続きました
教会内部でも教皇カリクストゥス2世の死後、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世が並立する教会分裂が起こります
この分裂は最終的にインノケンティウス2世の勝利によって終息し、彼の支持した枢機卿に法学の知識がある者が多かったため、これ以降教皇庁の統治機構が整備されていくこととなりました

特に教皇庁の組織が発達したのは12世紀後半、自身も法学者であった教皇アレクサンデル3世の時代で、教皇庁の司法・行政・財務などの機構が整備され、この時期から教皇から各地の教会に指示を与える教皇書簡の数が急増していきます
また各地の教会の訴訟が教皇庁に上訴される件数も増え、教皇庁の影響力はますます増大することとなりました
こうして教皇を中心とするローマ教会の体制が12世紀後半に確立しましたが、その絶頂期を現出したのが教皇インノケンティウス3世でした

1198年に即位したインノケンティウス3世もまた法学の専門知識を活かして教皇庁の統治機構を拡充発展させ、また彼は教会君主政と呼ばれる教皇による君主的な教会支配体制が確立します
教皇は12世紀中頃まではペテロの代理者と称していましたが、この頃から神から直接権力を授けられた者であることが強調され、キリストの代理者と称するようになり、教皇は神の権威を地上で代理する擬似的な君主とみなされるようになったのです
インノケンティウス3世はこれをもとに教皇領の集権的な統治を行い、教会組織の君主としてローマ教会全体への支配権を持ち、また西欧キリスト教世界の世俗君主に対しても影響力を行使しました
そしてインノケンティウスが西欧キリスト教世界の長であることを広く示したのが1215年11月11日に始まった第4回ラテラノ公会議でした

この公会議は聖俗の代表者が1000人以上、ローマのラテラノ大聖堂に集まった大規模な公会議であり、カタリ派などの異端対策、信徒の告解の義務化、ローマ教皇の首位権の確認、キリスト教からのユダヤ人の明確な区別などが行われ、インノケンティウスの「教皇は太陽、皇帝は月」という発言にも表れているように、ローマ教皇の絶対的な権威が示されることとなったのでした


本日は教皇権絶頂期の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年

783名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/11/12(木) 16:29:50 ID:Ag82K/7E
11月12日はカヌートが死去した日です

>>350で見たように、イングランドではアルフレッド大王やエドガーによって王国が統一され、デーン人とも共存を図っていたものの、エドガーの死後は再びデーン人の侵攻が開始されました
そしてエゼルレッドがデーン人を虐殺したことをきっかけにデーン人の本格的な侵入が開始され、エゼルレッドはデーン人を撃退できないまま死去し、1016年、デンマークの王子カヌートが賢人会議に認められイングランド王として即位したのです

カヌートはその後1019年にデンマーク王、1028年にノルウェー王に即位、さらにスウェーデンにも支配を広げ北海帝国を建設、イングランドもその一部に組み入れられることとなりました
カヌートはイングランドにおいては国内に存在する四つの伯領のうち3つを有力貴族に委任し、またアングロ=サクソン人とデーン人とを平等に統治する体制とします
またカヌートはキリスト教の王としてローマへの巡礼も行い、教会税を徴収し、デーン人のキリスト教改宗も支援し、イングランド社会におけるアングロ=サクソン人とデーン人との共存がますます進むこととなりました

しかしカヌートは1035年11月12日に死去し、彼自身の力量によって保たれていた北海帝国は急速に崩壊していきます
イングランドでもカヌートの後継者をめぐる争いが繰り広げられ、エゼルレッドの息子でノルマンディに亡命していたエドワードが即位してウェセックス朝が復活、デーン人の支配が終わることとなるのでした


本日は北海帝国の覇権の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・高橋博『アルフレッド大王 英国知識人の現像』朝日新聞社、1993年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年

784名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/02/05(金) 23:12:20 ID:HquIe/t6


785名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/02/26(金) 00:27:52 ID:es91wXT6
行進待ってます

786名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/02/26(金) 00:59:30 ID:dHk0XJwk
ああ、すっかり放置してしまってた...
なんか途中で一旦途切れてしまったら気が抜けてしまって
あんまり気にせずまたやっていこうかな

787名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/02/26(金) 12:26:14 ID:dHk0XJwk
2月26日はベルリン会議が終了した日です

19世紀、ヨーロッパ各地で産業革命によって工業化が進展すると、アフリカは機械の潤滑油となるヤシ油・ピーナッツ油の生産地としての需要が高まり、また工業製品市場としての役割も果たすようになりました
それまでヨーロッパによるアフリカへの進出は地中海沿岸にあたる北部と、貿易拠点となる沿岸部に限られていましたが、この時代には内地への進出が活発化し探検やキリスト教布教が行われるようになります
これらの活動はヨーロッパによるアフリカの植民地化を推し進めることにもなり、スタンリーの探検によってコンゴがベルギーの植民地となったのは>>89でも見た通りです

しかしこのベルギーの進出に対しイギリスとポルトガルが反発し、これにフランスなども絡んでコンゴをめぐる対立が深まっていきました
この対立の原因が列強による無秩序なアフリカ分割にあったため、1884年、ドイツのビスマルクが仲介に乗り出しベルリン会議が開かれます
会議にはアフリカ進出を図る14の国々が参加し、秩序だったアフリカ分割が話し合われました

そして1885年2月26日、ベルリン会議は終了し列強間での協定が取り決められました
その内容は、コンゴ自由国の権益を承認、コンゴ盆地の自由貿易と中立化、コンゴ川・ニジェール川における航行自由権、奴隷貿易の禁止などでした
また、会議ではアフリカ分割における基本原則も合意されます
1つは勢力範囲の原則で、沿岸部を占領すればその後背地の所有権も得られ、また他国の権益が無い場所を勢力圏に組み入れる際には列強に通告しさえすればよいというものでした
もう1つは実効支配の原則で、新たにアフリカの領土を併合する場合、その地域における他国の権益、通商・航行の自由を確実に保障できる実体的な支配権を確立しなければならないというものでした
このために列強は現地で行政・治安機構を整備することが必要となり、列強によるアフリカの植民地化が急速に進められることとなったのでした


参考文献
・宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社、1997年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年

788名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/02/26(金) 12:27:29 ID:bOcpNenk
とんでもねえ、待ってたんだ

789名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/02/26(金) 12:30:39 ID:pKO4PXs.
>>787
誠実な仲介人(大嘘)

790名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/02/27(土) 16:16:46 ID:NgWrvVz2
2月27日はスラバヤ沖海戦が始まった日です

>>379のマレー沖海戦をはじめとする日本の南方作戦は順調に進み、1942年1月には石油資源の確保を目的とする蘭印作戦が発動されました
このために日本海軍は強力な水上部隊を編成し、上陸作戦の支援戦力として投入することとなります
ボルネオ島、セレベス島、チモール島を占領した日本は蘭印の主島であるジャワ島攻略に乗り出し、その足がかりとしてバリ島を占領した後、上陸作戦を開始しました

このジャワ島攻略には西村祥治少将率いる軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「村雨」「五月雨」「春雨」「夕立」「朝雲」「峯雲」からなる第四水雷戦隊が護衛につき、その援護として高木武雄少将率いる重巡洋艦「那智」「羽黒」駆逐艦「潮」「漣」「山風」「江風」の第五戦隊も加わり、さらに田中頼三少将率いる軽巡洋艦「神通」駆逐艦「雪風」「時津風」「初風」「天津風」の第二水雷戦隊がチモール島攻略作戦終了とともに合流します
この聯合艦隊の諸艦艇には、日本海軍が開発した新兵器、酸素魚雷が搭載されていました
一般的な魚雷の射程が5,000メートル程度なのに対し、この酸素魚雷は最大40,000メートルに達する長大な射程を有し、しかも水に溶けやすい二酸化炭素が出るために無航跡となり、さらに燃焼効率が良くなったことで炸薬量も増加するというまさに一撃必殺の兵器であり、酸素魚雷の初陣となったこの海戦ではその運用に大きな期待が寄せられていました

一方の連合国軍はスラバヤに上陸しようとする日本船団を発見し、カレル・ドールマン少将率いるアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアの混成艦隊、通称ABDA艦隊が日本軍の上陸を阻止するために接近、これを撃滅しようすとる聯合艦隊との間で起こったのが、1942年2月27日のスラバヤ沖海戦です

海戦はまず昼間の遠距離砲撃戦から始まり、第二水雷戦隊旗艦「神通」が敵を発見すると砲撃を開始し、第五戦隊の「那智」「羽黒」も距離26,000メートルから砲撃を行いました
しかしこの長距離ではほとんど命中弾が見られず、イギリス重巡洋艦「エクゼター」に軽微な損害を与えたに過ぎませんでした
初陣となった酸素魚雷もほとんどが敵艦に到達する前に自爆するなどして効果を発揮できず、オランダ駆逐艦「コルテノール」一隻の撃沈に留まりました
その日の夜戦もまた戦果をあげられず、海戦は翌28日の昼戦に移行します
この日の戦闘では前日の砲撃戦による残弾不足から緩慢な砲撃戦に終始したものの、「那智」「羽黒」から発射された酸素魚雷がオランダ軽巡洋艦の「デ・ロイテル」「ジャワ」を撃沈し、これによって「デ・ロイテル」に座乗していたABDA艦隊司令官のドールマン少将が戦死、海戦に決着がつくこととなったのです

その後ABDA艦隊はバタヴィア方面に退避し、これを追撃した聯合艦隊とのバタヴィア沖海戦によって蘭印一帯の制海権は日本が完全に掌握することになります
こうしてスラバヤ沖海戦は蘭印作戦における一大艦隊決戦となったものの、遠距離砲撃戦でほとんど命中弾を与えられなかったことや、期待された酸素魚雷が188本のうち4本しか命中せず、様々な問題点もまた露呈した海戦となったのでした


参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦1 進攻篇』講談社、1988年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争2 中部・南部太平洋方面攻略作戦/蘭印攻略作戦/インド洋作戦』光人社、1995年
・「決定版太平洋戦争3 」南方資源と蘭印作戦」学習研究社、2009年

791名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/01(火) 18:46:08 ID:sfQE65Bs
3月1日はアドワの戦いが行われた日です

エチオピアは古代よりキリスト教王国として栄え、近代に至ってもその伝統は連綿と受け継がれていました
しかし18世紀頃から各地の豪族が独立勢力のように振る舞い、国王の権威が著しく衰退した諸公侯時代となっていました
このような状況にあって、>>787などで見たようにアフリカの植民地化を推し進めるヨーロッパ列強はエチオピアにも目を向けるようになります

この危機に際し、各地の豪族を破ってエチオピアを統一し皇帝となったテオドロス2世はヨーロッパ列強に対抗しますが、1868年のイギリスとのマグダラの戦いに敗れ戦死してしまいます
この時イギリスに協力し、新たに皇帝となったヨハネス4世もまたエジプト、フランス、イタリアの進出に対抗しますが、1889年にマフディーとの戦いで戦死しました
皇帝の相次ぐ戦死で混乱するエチオピアに対し、ヨーロッパ列強は本格的に侵攻を図るようになります
その列強の1つがイタリアでした

>>663のローマ併合以降、イタリアは国内の体制固めに集中し対外政策には消極的でしたが、ヨーロッパ列強がアフリカへと積極的に進出するようになると、イタリアもまたアフリカへの関心を強め、まずチュニジアをアフリカ進出の拠点としようと動きます
しかし1881年にフランスがチュニジアを保護国とするとイタリアの計画は頓挫してしまいました
次にイタリアが目を向けたのがエチオピアで、1889年にエチオピア皇帝位を狙うショア王メネリクとの間にウッチャッリ協定を結び、メネリクの皇帝即位を支持するのと引き換えに、紅海沿岸地域にエリトリア植民地を建設したのです

イタリアはこの協定を口実としてエチオピアの保護国化を進めようとしますが、エチオピア皇帝となったメネリク2世はこれに反発、1893年に協定を破棄しました
これに対しイタリアはエリトリア植民地を拠点としてエチオピアへと軍事侵攻を開始しますが、エチオピア軍の激しい抵抗に苦戦します
というのも、メネリクはエチオピア皇帝となって以降国家の近代化を進め、特に軍隊の近代化には力を入れており、約9万の常備軍にライフル銃、機関銃、大砲などを導入し大きく戦力を増強させていたのです
苦戦するイタリア軍に対し、エチオピア軍が決定的な勝利を収めたのが1896年3月1日のアドワの戦いでした
この戦いでイタリア軍は全軍の4割を失うという壊滅的大敗を喫し、エチオピアでの軍事行動が困難な状況に陥りました
この戦いの後、強引な植民地政策を主導していたイタリア首相のクリスピは失脚、イタリアとエチオピアとの間にアディスアベバ条約が結ばれ、エチオピアの独立は保たれることとなったのでした


参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年

792名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/01(火) 18:48:58 ID:2rCzrDJ.
乙シャス!

793名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/02(水) 22:28:03 ID:18hS/uis
3月2日はアレクサンドル2世が即位した日です

ロシア皇帝ニコライ1世の代に始まったクリミア戦争ですが、>>548で見たようにロシアは劣勢に立たされ、ニコライはその最中の1855年3月2日に没します
このニコライの後を継いで皇帝となったのがアレクサンドル2世でした
新皇帝アレクサンドルはまずクリミア戦争の敗戦処理を行い、1856年にパリ条約を結んで戦争を終結させ、ここから彼の政治が始まることとなります

先帝ニコライは保守的な政策に終始し、社会や経済は停滞、農民の不満は高まり、クリミア戦争の敗北によって他のヨーロッパ列強と比べての近代化の遅れが痛感されたことで、ロシアでは農奴制の廃止や立憲制が主張され、ツァーリ体制の打破を叫ぶ者もいました
アレクサンドルはこれに対し、上からの改革を推し進めようとし、ツァーリ体制を維持しつつその強化に努めるとともに、国力の増強を図ります

1861年の農奴解放令を皮切りに、地方・都市行政改革、司法改革、教育改革、軍制改革が行われ、工業化のために鉄道が建設され、関税や通貨、財政面でも改革が進められたのです
これらの諸改革は「大改革」と称され、アレクサンドルはツァーリ体制を整備しつつ国家の近代化を推し進めていくこととなるのでした


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

794名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/03(木) 19:50:57 ID:fulr9Cw2
3月3日はサン=ステファノ条約が結ばれた日です

>>793で見たロシア皇帝アレクサンドル2世による大改革ですが、当初から軌道に乗っていたわけではなく、国民の不満は解消されませんでした
この不満を外に逸らすためにアレクサンドルは対外進出を図り、その標的として目を向けたのがバルカン半島でした
バルカン半島ではオスマン帝国の弱体化に乗じて諸民族の独立運動が盛んであり、また普仏戦争でフランス皇帝ナポレオン3世が失脚したことでロシアはフランスに圧力をかけ、クリミア戦争の講和条約であるパリ条約を改定させることに成功、バルカン半島進出の準備を着々と進めていきます

そんな中の1875年、オスマン帝国支配下のボスニア=ヘルツェゴビナでギリシア正教徒が反乱を起こしし、これがブルガリアにも波及して1876年に四月蜂起が発生しました
またセルビア・モンテネグロがボスニア=ヘルツェゴビナの領有を主張し、オスマン帝国と開戦しましたがオスマン帝国によって撃退され休戦、四月蜂起もまたオスマン帝国によって武力で鎮圧され、多くのブルガリア人が虐殺されるという事態となりました

これを見たロシアは1877年4月、パン=スラヴ主義に基づくスラヴ人の解放、ギリシア正教徒の保護を口実としてオスマン帝国に宣戦、露土戦争が勃発しました
ロシアはシプカン峠の戦いでの勝利以降戦局を優位に進め、イスタンブールに迫ります
オスマン帝国はイギリスに支援を要請し、これに応えたイギリスがマルマラ海に軍を派遣したためロシアとイギリスとの間での戦争の危機が高まり、ロシアはオスマン帝国と講和条約を結びます
これが1878年3月3日に結ばれたサン=ステファノ条約で、この条約によってセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立が認められ、ロシア保護下でマケドニアを含むドナウ川からエーゲ海に至る大ブルガリア公国が建設されました
これによって不凍港の獲得を宿願とするロシアの南下政策が大きく前進することになりましたが、ロシアの南下を危惧するイギリスと、バルカン半島においてパン=ゲルマン主義を掲げるオーストリアが反発したため緊張が高まることにもなります
これは「誠実な仲介人」を自認するドイツ宰相ビスマルクの呼びかけによってベルリン会議が開かれ、ベルリン条約が結ばれるとともにサン=ステファノ条約は破棄され、ブルガリアは領土を縮小、ロシアの影響力も排除されることとなりました
これによってロシアの南下政策はまたも挫折し、>>761で見たようにロシアとドイツの関係は悪化、またブルガリアでもサン=ステファノ条約での大ブルガリア公国領の復活を目指す大ブルガリア主義が広まっていくこととなります


参考文献
・柴宣弘『図説バルカンの歴史』河出書房新社、2001年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

795名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/04(金) 13:00:04 ID:2x46En2M
3月4日はヴワディスワフ2世が戴冠した日です

>>584で見たポーランド王カジミェシュ3世大王が1370年に死去した後、男子のいなかった彼の後を継いだのがハンガリー王ラヨシュ1世でした
このラヨシュも男子ができないまま1382年に没すると、ポーランド貴族はラヨシュの娘であるヤドヴィガを国王に選出し、さらにヤドヴィガをリトアニア大公ヤゲウォと結婚させることにしました

当時のリトアニアはキリスト教を受容していませんでしたが、1385年、クレヴォ合同によってヤゲウォがポーランド王となり、彼とその臣民がキリスト教に改宗し、その領土がポーランドに組み入れられることなどが取り決められます
そして1386年3月4日、ヤゲウォはポーランド王ヴワディスワフ2世として戴冠し、ここにヤゲウォ朝が成立することとなったのです

このポーランド・リトアニアの連合によってヤゲウォ家は東欧において重要な地位を占め、ルクセンブルク家、ハプスブルク家と並んで覇権を競うようになりました
ヤゲウォ家、そしてポーランドの名声は>>217で見たタンネンベルクの戦いでヴワディスワフ2世率いる連合軍がドイツ騎士団に勝利したことでさらに高まり、後にボヘミア・ハンガリーでもヤゲウォ家の王朝が成立するなど、東欧での覇権を手にすることとなるのでした


参考文献
・山内進『北の十字軍』講談社、1997年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・伊藤孝之他『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年

796名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/07(月) 13:16:02 ID:7Ic1lMLs
今日はドイツがラインラントに進駐した日です

第一次世界大戦後のドイツではヒトラー率いるナチスが政権を掌握し、1933年には軍備平等権が認められないことを不満とする軍部の要請もあり、ジュネーヴ軍縮会議と国際連盟から脱退しました
その後は対外的には特に目立った行動は無く、国内体制の整備に取り組みます
まず恐慌対策、失業者削減としてアウトバーン建設などの公共事業を進め、軍備を拡大し、失業者青少年を労働奉仕組織に吸収するなどの政策が行われました
経済政策としては四ヵ年計画を始め、それまで輸入に依存していた天然のゴム・石油・繊維を、国内産出量の多い石炭などを利用した合成ゴム・合成石油・合成繊維で代用し国内自給が図られます

これらの諸政策によって国内体制が整備されると、ヒトラーはヴェルサイユ体制の打破に乗り出しました
1935年初めには住民投票によってザール地方のドイツへの帰属が決定され、同年3月には>534で見たように徴兵制の復活と再軍備宣言が行われます
これに対しイギリス・フランス・イタリアは4月、北イタリアのストレーザで会談を開きドイツへの抗議とロカルノ体制の維持などを決めストレーザ戦線を形成するものの、翌1935年イギリスがドイツと英独海軍協定を結びドイツの再軍備を事実上認めたため、ストレーザ戦線は崩壊しました

ドイツの勢力拡大に対し、フランスはソ連との間に仏ソ相互援助条約を結びますが、ヒトラーはこれをロカルノ条約に対する違反として反発しました
またイタリアがエチオピアに侵攻したことで各国の注意が地中海方面に向けられたこともあり、国際状況はドイツにとって有利に動くこととなりました
そして1936年3月7日、ヒトラーはロカルノ条約を破棄し、非武装地帯とされていたラインラントに進駐するという行動に出たのです
このドイツの行動に対し、イギリス・フランス、そして国際連盟は抗議するのみでした
これはドイツによるヴェルサイユ体制・ロカルノ体制の打破を事実上黙認するものであり、ここに両体制は崩壊することとなったのでした


参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

797名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/09(水) 20:45:16 ID:/asvTHd.
3月9日は武帝が即位した日です

>>506で建国された漢では、秦の失敗を省み急進的な中央集権化は行わず、都である長安を中心とする直轄地においては郡県制、地方においては劉氏一族や功臣を諸侯として領地を治めさせる封建制を併用する郡国制を採用します
やがて時代が降ると諸侯の勢力は強まっていき、中央政府に対し反抗的な態度を見せることが多くなっていきました

そのため中央政府では諸侯抑圧策を採るようになりますが、第6代皇帝である景帝が諸侯の領土を削減しようとしたことをきっかけに、前154年、呉王を中心とする7人の諸侯が反乱を起こす、呉楚七国の乱が勃発しました
反乱は漢を二分する大規模なものとなりましたが3ヶ月で鎮圧され、この後諸侯は都に移され、それまで諸侯が治めていた諸国は中央から派遣された官吏が治めるようになり、諸侯の勢力が弱まるとともに中央集権化が進むこととなりました

前141年3月9日、武帝が漢の皇帝に即位したのはこのような状況においてでした
武帝は推恩の令を発布、これによって嫡子のみが相続していた諸侯の領土がその子弟にも分けて相続されるようになり、その結果諸侯の領土は分割されていき、諸侯の勢力はますます弱まっていきます
また官吏任用制度として郷挙里選を採用、全国を13州に分けて各州に刺史を派遣して地方行政を監察させるなど、武帝の代で中央集権体制が確立し、漢の全盛期が現出することとなるのでした


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)』講談社、2004年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年

798名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/10(木) 19:49:59 ID:6QbuOrLw
3月10日は奉天会戦が終結した日です

1904年8月、日露戦争において両軍の主力が初めて激突した会戦である遼陽会戦で日本軍は勝利したものの、ロシア陸軍主力を撃滅、あるいは大打撃を与えるという目標は達成できず、またロシア軍以上に損耗率が高かったことで退却するロシア軍を追撃することはとても望めず、戦力回復のため10月まで作戦行動が取れない状態となりました
一方のロシア軍は初め鉄嶺まで退却する予定でしたが、日本軍の追撃が無かったことで沙河で停止し、ロシア本国からの増援による戦力回復に努めます

次に動いたのはロシア軍からで、総司令官クロパトキン大将は北上する日本軍に打撃を与えるため攻勢に出、日本軍右翼に集中攻撃をかけ遼陽方面に圧迫して後方の連絡線を遮断しようとしました
一方の日本軍はロシア軍が攻勢に出ることは察知したものの、児玉源太郎参謀長が旅順要塞攻防戦の視察に赴いていたこともあって積極的な行動が取れず、後手に回ることとなってしまいました
沙河で行われたこの会戦は両軍の痛み分けとなり、しばらくは膠着状態が続きます

日露両軍は遼陽と奉天の間で対陣に入り、越冬も兼ねて長さ50kmに及ぶ長大な防御陣地を構築して睨み合いとなりました
この間にロシア軍は本国からの増援を得て戦力を回復、日本軍も年が変わって1905年1月1日に旅順要塞を攻略し、乃木希典大将率いる第三軍をロシア軍との決戦に転用する目処がたちます
ここでロシア軍は乃木が到着する前に日本に打撃を与えるべく、黒溝台に奇襲をかけ日本軍左翼を包囲しようと動き出しました
日本軍はまたも後手にまわり、ロシア軍は攻勢を続けたものの、予定していた本格攻勢のために攻撃を打ち切り、日本軍は辛うじて窮地を脱することとなります

黒溝台会戦の後、日本軍は乃木大将の第三軍が合流して軍の再編を行い、ロシア軍も防御陣地に籠もり攻撃準備を整え、双方ともに3月10日前後を攻勢に出る日付と予定していました
しかし日本軍が攻撃開始予定日を2月25日に繰り上げたこともあって日本軍が先手を取り、ロシア軍は今度は後手に回ることとなりました
ここに日露戦争最大にして最後の会戦となる奉天会戦が始まったのです

第一・第二・第三軍、鴨緑江軍の5個軍からなる日本軍は鴨緑江軍の陽動によってロシア軍を左翼側に引き寄せ、その間に第三軍が左側面を迂回、第三軍と第二軍が側面と正面からロシア軍を同時攻撃する作戦を立てました
2月22日、作戦に基づき鴨緑江軍が動き出すと、日本軍の思惑通りにロシア軍は鴨緑江軍を抑えるために戦力を投入し、左翼を北上する第三軍も順調に進軍したことで3月1日には同時攻撃の準備が整い、日本軍は一斉攻撃に出ます
しかしロシア軍は強固な防御陣地を盾に頑強に抵抗し、唯一攻勢に出ていた第三軍もまたロシア軍の増援によって攻撃が停滞し始めました
ここで日本軍は第三軍を奉天の背後に回り込ませロシア軍の退路を断つとともに、第一軍には渾河を渡らせて撫順と奉天との間を遮断させる作戦に変更します
ロシア軍もこれを防ぐため日本軍の第三軍に攻撃を集め、両軍は互いの翼側をついて主導権を握ろうと衝突しました
この激戦の最中の3月6日、日本軍が鉄嶺に向かうという誤報がロシア軍総司令官クロパトキンに届き、ロシア軍の反撃が頓挫したこともあって、クロパトキンは防御線を短縮して前線の兵力を減らし、これを他方面に向かわせるため部隊を後退させることにしました
3月9日、クロパトキンは退却を命じ、戦局は後退するロシア軍と追撃する日本軍という構図となります
このロシア軍の転進によって日本軍の第三軍は壊滅し、ロシア軍の退路を断つことが困難となりました
児玉参謀長は追撃を諦めて奉天に残存するロシア軍を撃滅しようとし、3月10日に包囲攻撃をかけたもののすでにロシア軍の大半は脱出し、追撃する余力が無かったため、ここに奉天会戦は終結しました
日本軍はこの会戦に勝利はしたものの損害は大きく、ロシア軍の撃滅を果たせなかったことで、戦争全体の決着をつける勝利とまではいかず、勝敗の行方は>>621の日本海海戦を待つこととなるのでした


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大陸間戦争』中央公論新社、2005年に
・隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論新社、2006年

799名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/13(日) 14:54:16 ID:jQuEGPZs
3月13日はオーストリア三月革命が勃発した日です

1840年代、ドイツの諸邦では貧困問題や社会問題への対応の遅れ、農作物の不作や金融恐慌による食糧暴動や失業、多民族国家であるが故の民族問題、身分制が残存した旧態依然の政治体制などによって市民の間で不満が高まっていました
そんな中フランスで勃発した>>655の二月革命はドイツにも波及します

まずバーデン大公国のマンハイムにおいて言論・出版・集会の自由、将校の自由選挙を伴う国民の武装、イギリス式の陪審裁判制の導入、全ドイツ議会の即時設立などの要求、いわゆる三月要求を掲げた請願書が反政府民衆集会において採択されました
集会の代表団が大公国の首都カールスルーエに到着すると、そこには大公国各地から市民や学生が集結しており、その圧力のもとで彼らは三月要求に加えて封建的諸特権の廃止や責任内閣制も要求します
バーデン議会はこれを受け入れ、立憲自由主義者を入閣させた新内閣、いわゆる三月内閣がここに成立することとなりました
バーデンでの成功を受けてバイエルン、ヴュルテンベルク、ヘッセン、ザクセン、ハノーファーなどの諸邦でも民主運動が起こり、同様に要求が受け入れられ三月内閣が成立します
そしてこの三月革命はドイツ連邦の盟主であるオーストリアにも及んだのです

1848年3月13日、オーストリアの首都ウィーンでは市民、学生、手工業者らが下オーストリア州会議議事堂前に押し寄せ、三月要求の速やかな審議とメッテルニヒの退陣を要求しました
彼らは議事堂に乱入して軍隊と衝突し、これをきっかけに暴動がウィーン市街地にも広がり、軍隊との市街戦、工場の占拠や機械の破壊、商店の略奪など暴動は大規模化していきました
当時オーストリアは北イタリアでも民族革命に直面しており、皇帝と新政府は譲歩し、旧体制の象徴となっていたメッテルニヒはイギリスに亡命します
こうして要求は受け入れられ、軍隊のウィーンからの撤兵、学生軍と国民衛兵の創設、言論・出版・集会の自由が認められ、憲法制定などが約束されました
しかし他の諸邦とは異なり三月内閣は成立せず、そのために権力の空白地帯が生じたことで皇帝は反撃に転じ十月までには運動は鎮圧されることとなるのでした


参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

800名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/13(日) 19:50:57 ID:u8kPnxqY
おっ再開してる
乙シャス!

801名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/03/15(火) 20:31:55 ID:lTqDt2zc
3月15日はミズーリ協定が結ばれた日です

アメリカ合衆国では、その北部地域が19世紀に入って産業革命が本格的に進展し、イギリスとの間で工業生産の競合が生じるようになりました
そのためアメリカの工業製品を守るためにイギリス製品を排除する動きが高まり、保護貿易が主張されるようになります
そしてこれを確実に実行するため、中央政府の権限を強化する連邦主義の立場を取ることとなったのです

一方南部では黒人奴隷を使役してタバコ・米・藍・綿花などを栽培するプランテーションが行われ、産業革命が進展して以降は特に綿花の需要が高まり、プランテーションが広がっていくことになります
南部ではプランテーションによって生産した原料をイギリスに供給し、イギリスから工業製品を輸入するという相互依存関係が成立していたため、北部とは異なり外国製品に関税をかけない自由貿易が主張されました
そして中央政府の権限を縮小し州の自治を尊重する姿勢をとったため、北部と南部は経済的にも政治的にも対立するようになったのです

両地域の対立は、西部開拓が進むにつれて生まれる新しい州の争奪戦という形で激化しました
そしてその対立は1819年にミズーリ州が連邦に加入する際に、奴隷制を認めるか否かによって一気に表面化することとなります
1820年3月15日に結ばれたミズーリ協定によって、北緯36度30分以北の新州は奴隷制を認めず、以南では奴隷州とする妥協が成立しました
しかしこれは一時的なものに過ぎず、両地域の対立はやがて南北戦争へと発展するのでした


参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・紀平英作・亀井俊介『世界の歴史23 アメリカ合衆国の膨張』中央公論新社、2008年

802名前なんか必要ねぇんだよ!:2016/08/07(日) 00:18:39 ID:WAM1u5uw
このスレも放棄されたんやなって

803名前なんか必要ねぇんだよ!:2017/08/02(水) 03:36:25 ID:Wo.Fp0iA
こんなスレあったんだ

804名前なんか必要ねぇんだよ!:2017/09/21(木) 21:49:34 ID:LlSnThbk
こんなんあったんだ…
誕生日スレ検索してたらここひっかかったけど2レス前が去年とは

805名前なんか必要ねぇんだよ!:2017/11/24(金) 19:31:53 ID:MInU.mjg
とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。

いずれ誰もが直面する「死の絶望」の唯一の緩和・解決方法として。

(万人にとってプラスになる知識)
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm

806名前なんか必要ねぇんだよ!:2019/09/02(月) 20:06:57 ID:5okUStrM
9月2日が誕生日の方々おめでとうございます
巨乳先輩もニプルファックでイキすぎながら祝福

807名前なんか必要ねぇんだよ!:2019/09/02(月) 20:08:02 ID:5okUStrM
すいません誤爆しました

808名前なんか必要ねぇんだよ!:2019/09/09(月) 21:00:38 ID:WSxoGHVc
こんなスレあったんすねぇ

809名前なんか必要ねぇんだよ!:2019/09/09(月) 21:05:52 ID:7jHE.X7Y
この掲示板にずっといたけどこんなスレあったことに今さら気づきました
巨乳先輩のクソしょーもない書き込みした人に初めて感謝しました

810名前なんか必要ねぇんだよ!:2020/08/14(金) 20:49:28 ID:j40KgQ0U
したらば初期のスレなんすねぇ

811名前なんか必要ねぇんだよ!:2020/08/14(金) 20:54:48 ID:gWsZW0Hs
>>806
一生NaNじぇいの聖遺物

812名前なんか必要ねぇんだよ!:2020/11/23(月) 17:10:36 ID:Oh6br54I
スレストで誕生日スレが建てられないならこのスレに書き込めば良いじゃない!


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