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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

768名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/10/20(火) 11:13:22 ID:UFgP4x0M
10月20日はハインリヒ10世が死去した日です

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の時代、ヴェルフェン家のヴェルフ4世はバイエルン大公国を与えられ、以後ヴェルフェン家はこの大公位を保持し帝国における権力を確立していくこととなります
もっとも、当初から全てがうまくいっていたわけではなく、ローマ教皇との叙任権闘争の過程で紆余曲折を経ます
ヴェルフ4世は最初皇帝ハインリヒ4世側につきましたが、教皇グレゴリウス7世との争いが激化すると教皇側につき、そのためにバイエルン大公位を罷免されたのです

ヴェルフ4世はその後イタリアで勢力を拡大し、息子のヴェルフ5世をトスカーナ女伯マティルダと結婚させ、その領地の相続権を得ようと図りました
しかしマティルダが財産を教会に寄進したためこの計画は頓挫し、ヴェルフ4世はハインリヒ4世と和解、バイエルン大公に復帰します
このヴェルフ4世の死後、バイエルンはヴェルフ5世が、イタリアはハインリヒ9世が継承しました
黒公と称されるハインリヒ9世は兄の死後バイエルン大公となり、またザクセン大公マグヌスの長女ヴルフヒルトとの結婚により、ヴェルフェン家はザクセンにも権力基盤を得、その勢威をますます高めることとなりました

このハインリヒ黒公とヴルフヒルトとの間に産まれたのがハインリヒ10世、の血に傲岸公と称される人物です
黒公は傲岸公をザクセン大公ロタールの長女ゲルトートと結婚させましたが、このロタールは皇帝ハインリヒ5世の強力なライバルでした
ハインリヒ5世の死後、王位は血統権に従いホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世に渡るものとされましたが、黒公はこれに反発しロタールの即位を支持します
こうして>>512でも見たようにホーエンシュタウフェン家とヴェルフェンとの長年に渡る対立が始まったのです

ロタールは即位当時すでに50歳となっとおり長期の統治は望めず、その死後ザクセン大公国がヴェルフェン家のものになることが期待されました
また傲岸公はロタールのイタリア遠征に随伴し、その際に教皇からトスカーナ辺境伯領を得ることとなりました
1137年にロタールが死去すると傲岸公はザクセン大公国を受け継ぎ、その権力は帝国諸侯のなかでも最大のものとなりました
ロタールはまた傲岸公に帝国権標を引き渡したとされ、傲岸公が次期国王になるのが有力となります
しかし傲岸公はその名のごとく高慢・尊大な性格であり、帝国内に多くの敵を作っていました
さらにその即位によって強力な皇帝が出現することを怖れた諸侯は、ホーエンシュタウフェン家のコンラートを国王に選出したのです

傲岸公はこれに従わず忠誠誓約を拒否し、またザクセンにおけるアルブレヒト熊公との継承権争いを調停するヴュルツブルク帝国会議に出頭しなかったことで、帝国から追放されてしまいます
こうしてザクセン大公国は熊公のものとなり、傲岸公はバイエルン大公国とトスカーナ辺境伯領も剥奪されました
しかし傲岸公はすぐさま反撃、1139年、ザクセンに進軍し熊公は防戦一方となり逃走、ザクセンは再び傲岸公の支配下に置かれました
傲岸公はさらにバイエルンへも進軍しようとしますが、その準備中の1139年10月20日、40歳で急死してしまいました
傲岸公の突然の死はヴェルフェン家にとって痛手でしたが、>>699のハインリヒ獅子公が傲岸公の事業を引き継ぎ、ヴェルフェン家のさらなる隆盛へと導いていくのでした


本日はハインリヒ傲岸公の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年


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