[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
722
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/29(土) 00:42:39 ID:fbOJ5x0Y
8月29日はプロイセンがザクセンに侵攻した日です
>>319
のアーヘンの和約によってプロイセンのシュレジエン領有が国際的に認められましたが、オーストリアはシュレジエン奪回を最優先事項としてその準備を整えていきました
その一環としてフランスとの同盟が成立しましたが、これは驚くべき事件でした
というのもオーストリアとフランスは15世紀以来、宿敵といえる関係にあったからです
発端は
>>545
でも登場したブルゴーニュ公領を巡る争いに遡り、神聖ローマ皇帝選挙でオーストリア・ハプスブルク家のカール5世とフランス・ヴァロワ朝のフランソワ1世が対立、両者はイタリア戦争においても火花を散らしました
その対抗意識は、オーストリアを打倒するためオスマン帝国と同盟するほどのものだったのです
ブルボン朝となって以降も三十年戦争においても
>>305
で見たように宗教対立の壁を超えて反ハプスブルクの立場から参戦し、ルイ14世は
>>280
で見たようにまたもオスマン帝国と同盟し再びのウィーン包囲が実現したのです
このようなフランスとの宿敵関係でしたが、オーストリアはシュレジエン奪回のために外交政策を大転換しました
主導したのはオーストリア宰相カウニッツ、当時ヨーロッパで最も冷静な頭脳を持つと称された政治家でした
こうしてフランスとの同盟、いわゆる外交革命が1756年に実現し、すでに成立していたロシアとの同盟と合わせ、シュレジエン奪回の準備が整えられたのです
一方のプロイセンはイギリス・ハノーファーと協定を結んだのみで、イギリスは植民地戦争に注力していたこともあってほぼ単独でオーストリア・フランス・ロシアという大国の大同盟軍と戦わざるをえない状況でしたが、1756年8月29日、プロイセン王フリードリヒ2世は先手をとってザクセンへと侵攻、ここに七年戦争が勃発したのでした
本日は七年戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板