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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
708
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/15(土) 00:41:54 ID:4gPfspic
8月15日はミカエル=パレオロゴスが即位した日です
>>227
で見たように、ビザンツ帝国の亡命政権ニケーア帝国のミカエル=パレオロゴスは1261年7月にコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興しました
同年8月15日にミカエル8世として即位すると、彼は自らをコンスタンティヌス大帝になぞらえ、ギリシアにおける勢力回復に奔走します
まずペラゴニアの戦いで捕虜としたアカイア公ギョームを解放する代わりにペロポネソス半島の領土を譲渡させ、翌年にはブルガリアにも勝利し黒海沿岸に領土を獲得したのです
しかしそのミカエルの前に強大な敵が出現します
それが
>>504
などで見たシチリア王シャルル=ダンジューでした
シャルルは娘をラテン帝国最後の皇帝ボードゥアン2世の息子に嫁がせてラテン帝国の相続権を得、またイェルサレム王国の相続権も得て東地中海に大帝国を築く野望を抱いていました
1267年にはアカイア公ギョームと同盟し、コンスタンティノープル遠征計画を立てましたが、これはホーエンシュタウフェン家のコンラーディンのイタリア侵入によって中止されます
シャルルは
>>332
のタリアコッツォの戦いでコンラーディンに勝利し、1270年、再びコンスタンティノープル遠征を企てました
しかし今度は
>>576
で見た、兄であるフランス王ルイ9世の十字軍を支援するため、またもやコンスタンティノープル遠征は延期することとなります
またシャルルと敵対するジェノヴァの行動も活発となり、その対応のため新たなコンスタンティノープル遠征を計画することができなくなったのです
この間ミカエルは東西教会の合同を持ちかけ、1274年のリヨン公会議で教会合同が実現、シャルルのコンスタンティノープル遠征に大義を失わせることに成功しました
ミカエルはさらにジェノヴァとの同盟を強化し、ジェノヴァを通じてカスティーリャとも連携、さらに1275年のデメトリアスの海戦でエーゲ海の制海権を握った後はヴェネツィアとの条約も結び、ギリシアでの勢力を確保しつつありました
しかし東西教会の合同に関しては国内で反対派が多く、その実現は不透明なままでした
やがてローマ教会では1281年、シャルルと親密なマルティヌス4世が即位し、シャルルの要請もあって教会合同の交渉を打ち切り、またラテン帝国復活を目指すシャルルのコンスタンティノープル遠征にお墨付きを与えたのです
ミカエルは窮地に陥りました
ヴェネツィアもまたシャルルの遠征に参加し、ギリシアのラテン人、バルカン半島のスラヴ諸国やビザンツ亡命政権もまた攻撃の機会をうかがっていたのです
この状況でミカエルが頼みとしていたのはアラゴンの艦隊でした
ミカエルはアラゴンの宰相ジョヴァンニ=ダ=プロチダと連絡を取り、反シャルル勢力間の同盟に成功していました
またシチリア住民のシャルルの統治への不満を煽り、資金援助も行って反乱を起こす下地も整えていました
そうしていわゆるシチリアの晩鐘事件が起こったのは
>>632
でも見た通りです
このシチリアの晩鐘とその後のアラゴンとの抗争、いわゆる晩鐘戦争によってシャルルのコンスタンティノープル遠征は以後計画されず、ミカエルはバルカン半島と小アジアに専念する余裕を得ました
このように彼はコンスタンティノープルを奪回して帝国を再建し、その敵対勢力を封じ込めて帝国に安定をもたらすという功績を挙げ、その治世を終えたのでした
本日はパレオロゴス朝初代皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
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